こんにちは。

今回も前回の続きで、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなる故、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。

パウロ書簡には、十二使徒や一世紀のユダヤ人キリスト者たちが信じたイエス・キリストとは別の「キリスト」と、偽福音が書かれてる。我等が広く当たり前に認識してる救い主の御名は「イエス」または「イエス・キリスト」やのに、パウロは自身の手紙内においては敢えて「キリスト・イエス」と逆さまにしたもんを多用しとることもパウロ書簡の特徴の一つや。ローマ書で十回、コリント一で七回、コリント二で一回、ガラテヤ書で七回、エフェソ書で八回、フィリピ書で十回、コロサイ書で二回、テサロニケ一で二回、テモテ一で八回、テモテ二で八回、フィレモン書で二回、合計六十五回や。多過ぎやろ。原則、他にそないな言い方をした人は居らん。ペトロ一 五章十節と十四節において「キリスト・イエス」の表記があるが、代筆者がそう書いたのか、ペトロのその時の気の迷いかは不明で、ヘブライ三章一節も例外的に一遍だけ逆の表記になってる。また、底本違いの改ざんを見つけたさかい、指摘しておく。使徒言行録二十四章二十四節で、改訂版(RV底本)に基づく新共同訳、口語訳、新改訳等では「キリスト・イエスへの信仰」やら「キリスト・イエスに対する信仰」と書かれてるが、受け入れられた原典(TR底本)では、「イエス」の御名は無く、単に「キリスト」のみや。底本を改ざんしたあの不信仰の独逸人聖書学者は敢えてここに「イエス」の御名を勝手に付け足し、あたかもパウロが主イエスの弟子、使徒かのように装わせたが、実際はそうではないことが分かる。
そして、興味深いんは、マタイ、マルコ、ヨハネの三福音書では必ず「イエス」、または「イエス・キリスト」という表記が徹底されており、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、ユダの手紙でも同じで、黙示録も同様や。しかし、使徒言行録とルカによる福音書の著者と想定されるルカは、使徒言行録における数少ない十二使徒の発言で「イエス・キリスト」とは記録したが、「キリスト・イエス」とは言わへんかったことを証明してる。また、偽使徒パウロと結託しとったルカは、ルカによる福音書内で「イエス」について書きはしたが、一度たりとも決して「イエス・キリスト」とは表記せんかったことも特徴の一つで、他の三福音書とは異なる。偽使徒パウロの悪影響を受けたルカが、まるでイエスを救世主として認めて「イエス・キリスト」と呼ぶことを憚ったかのように拙者には思える。
確かに、パウロは「イエス・キリスト」とも言うてたことがあったが、それでもなおパウロ書簡だけは敢えて逆の表記が多用されてる事実に対して疑問を持つべきや。多くの人が軽く読み流し、気にも留めへん点やが、拙者は引っ掛かり、調べるとこないなことが発覚したんや。せやから、拙者が言うてるように、世の常識を疑い、特に「世の権威」に対して懐疑的である必要がある。「疑問を持つ」という姿勢、些細なことでも違和感に対して敏感になることが大事やな。世の悪についても「陰謀論」と片付けて真相を調べるために指一本すら動かそうともせえへん自称キリスト者の愚民が、「今の聖書六十六巻が誤り無き神の言葉」と盲信していっこも調べもせんような怠惰な人は盲人であり、そないな盲人どもが他の盲人たちを教えたりして両者共に穴に落ちてる。なぜなら、そないな盲人どもが言うことは偽りに満ちてるからや。「パウロを疑うことは有り得ない」なんて言うてる愚民も多いが、こないな人らが悪魔の餌食になるし、政府やテレビや学校教育等が正しいと盲信し、過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」で述べたような偏差値五十以下の愚民。そないな人は悪い方向に成長はしても、ええ方向にはまったく成長せえへんさかい、最後には毒麦として焼かれる運命にある。前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」で、精神分裂について述べたとおり、相反する二通りやそれ以上の考えが混在した状態は完全に精神分裂病、つまり悪霊に憑かれてる一つの分かり易い証拠と言える。通常は、一貫した信念に基づく主張と行動をし、一貫した呼び名を用いる筈やし、矛盾した考えを持つことは不自然やからや。無論、神が制定しはった神の律法を嫌い、それを守らへん者は反キリストの人間であり、悪霊に惑わされてることは確かなことや。
キリスト道」の本拠でも拙者が警告してるように、支配層は「両建て」という手段を用いる。対立する両陣営に彼らの手駒を配置して、互いに争わせて疲弊させ、最終的には支配層の目的を達成する。庶民の味方ぶって善良に振る舞う人も居るけど、結局は支配層の思惑や目的を達成させるために働く工作員であることも多い。何故、支配層がそうするか考えたことがないやろ。世の支配層の人間どもは、悪魔崇拝者であり、反キリストであり、彼らは悪魔から悪知恵を貰て、そうしてるんや。その方が人々を惑わせられるし、混乱も起こせるし、誰を信用してええか分からんようにさせて真実さえも疑わせることが可能やからや。実際、コロナが嘘とかワクチンが人口削減と大衆支配のためとか、この地が球体やのうて平面であるといった真相に目覚めはしたが、不信仰の者は、与野党グルという事実や、庶民の味方をしてるようで実は支配層側の「改憲推進派の反ワクチン」という事実を知って、「もう誰を信じていいか分からない」と「疑心暗鬼を生ず」という状態になってる人が居る。これは、まんまと悪魔の罠に掛かってる状態や。そないな人らは、聖書を読もうとせず、主イエス・キリストを信じひんし、神の律法にも従わへんからそうなるんや。神の律法とイエス・キリストこそ真理やから、その真理を知らん人は常に不安で苛まれることになる。人を見る目が無いというんもあるね。実際、あんたらの多くがそうや。

 

 

世のことに限らず、聖書でも同じや。パウロは一人で二役を演じ、律法を擁護することをほんの少し言うて律法廃止論者ではないように振る舞ったが、結局は律法を全否定するのが本心で、その主張の方が多かった。このように、パウロは、一人の人間でもあっち側にもつき、こっち側にもつくようなカメレオンみたいな様変わりが激しい人で、こないな人間を信用してはならん。コリント一の九章二十節と二十一節から分かるように、偽使徒パウロはユダヤ人相手には律法を擁護するかのように装い、ギリシア人といった神の律法には縁が無かった異邦人や異教徒相手には彼らの習慣や思想に合わせるといった態度をパウロは取った。つまり、パウロは、相手に取り入って自分の方に引き込むため、相手に合わせてコロコロと変身し、確固たる信仰や信念を貫くような人ではなかったことは明白や。パウロは、「今、我は人々または神を説得してるのか。それとも、人々を喜ばせることを求めてるためか。もし、今なお人々を喜ばせようとしてるなら、絶対にキリストの僕ではない。」(ガラテヤ一章十節拙訳)と立派なことを書いたが、先のコリント九章二十節〜二十一節と比較すれば、どの口が言うって感じやろ。パウロ書簡をきちんと細部まで読めば矛盾ばかりしてることに気付けるし、ほんまにパウロは精神病質者(サイコパス)やということが分かる。分からへんという人は聖書を読んでへんし、理解もしてへんことが明白や。パウロのように、人間の歓心を買おうとする人は、現代の世俗社会でも大勢居るやろ。会社では、上長や取引先の前ではニコニコして媚びへつらって愛想良く振る舞うが、同僚や部下には無愛想または偉そうで雑な対応をする人が居るやろ。学校では、教員には評価を良くしてもらおうと媚びへつらい、同級生や後輩には無愛想または手厳しい人。赤の他人に対してという外面だけ良くて家族内や親戚内では冷酷な人。男の前だけでぶりっ子する女とか、女の前だけええ格好する男も同じ。見栄を張るような人間も醜悪である。なぜなら、嘘をついており、正直ではないからや。子供の頃からこないな品性の人間は大人になっても粗悪なままであり、子供の時からそないなことをして生きてきた人は絶望的や。神は、人によってコロコロと態度を変えたり、考えを変えたりするような様変わりの激しい人間を嫌いはる。パウロがカメレオンみたいと上述したが、カメレオンとは皆さんご存知の爬虫類であり、その居場所の色に合わせて色を変えて同化する性質がある。それは、状況に応じて、自分の目的を達成するためや身の安全を確保するためのカメレオンの処世術や。これは一見ええかのように思えるが、実は悪である。なぜなら、既に述べたように、世渡り上手ではあるが、その本質はごっつ性格が悪いことを明確に示してるからや。カメレオンは爬虫類であり、聖書で悪魔の例えで言われる蛇も爬虫類で、地を這う爬虫類、イタチまたはもぐら、ねずみ等が汚れてるということと(レビ記十一章二十九節)、フェレットやとかげやカメレオンは律法(レビ記十一章三十節)で汚れた動物として列挙されてる。このように、カメレオンは汚れた存在であり、そないに移り変わりの激しい性格や振る舞いをすることが悪であることを神は教えてくれはる。
以上より、上記のコリント一の九章二十節と二十一節から分かるパウロの言葉と態度は反キリスト的と言える。

さて、パウロが偽キリストの教義を説く際には、イエス・キリストが福音書で警告したとおり、しるしや不思議な業を行った。  主イエスが偽キリストや偽預言者が行うと言わはった「しるしと不思議な業」を偽使徒パウロが偽福音を伝道する際に行ったが、失敗例があったこともパウロ自身は告白してる。しかし、改訂版(RV底本)からの各言語への翻訳において非常に奇妙な翻訳をしてるんを見つけたさかい、それを指摘する。ローマ十五章十七節から十九節までを読んで欲しい。そこの日本語訳では、あたかもキリストがパウロを通して、パウロの言葉と行いによって異邦人を神に従わせる等といった主旨に訳されてるが、これが大きな間違いや。拙者が原語から訳すと、「それ故、神に関するそれらのことをキリスト・イエスによって我は栄光ある行いをしてる。確かに、キリストが我を通して異邦人の言葉と行いを服従させることを達成しはらへんかった人たちのことを語るのを恐れへんであろう。しるしと奇跡の力によって、神の霊の力によって。結果として、エルサレムからイリリコン州の周囲までキリストの福音を達成した。」(ローマ十五章十七節〜十九節拙訳)となる。随分と受ける印象がちゃうやろ。拙者は原文に忠実な訳をしたが、現代に普及する聖書の訳は原文に忠実やない。ここで、パウロは自分で「しるしと奇跡の力」に頼っていたことを自白してるし、それを神の霊の力と吹聴してるが、それは疑わしい。キリストの名を用いてはいるが、実のところ「我は栄光ある行いをしてる」と語り、自分が偉大かのように見せており、彼自身の行いを栄光とし、主に栄光を帰さず、彼自身に帰してるのも問題や。実際、それがパウロの狙いである。そして、パウロは自分を高めると言う高ぶりを忘れてへんけど、彼自身の失敗も認めてる。誤訳聖書には、「キリストが我を通して働かれたこと以外」等と「〜以外」という訳を採用してるのが多いけど、これが間違いや。原語は否定後の英語のnotに当たる語が当てられており、働くという動詞の前に置かれており、それを否定する訳をせねばならんが、聖書翻訳者はそれをしとらん。おそらく、パウロの行いを失敗であったと認めたくないが故にそのように意図的に歪曲したのだろう。ジュネーブ聖書は「any thing, which Christ hath not wrought by me, to make the Gentiles obedient in word and deed,」という訳で、キリストがパウロを通して働かへんかったと正しい訳をしてる。欽定訳聖書(KJV)では、十八節のところは「any of those things which Christ hath not wrought by me, to make the Gentiles obedient, by word and deed,」であり、ジュネーブ聖書の訳に近い。しかし、拙者は、ジュネーブ聖書と欽定訳聖書の「anything」も誤訳と考えてる。なぜなら、それは「もの」であるが、原語にはそれに限定せず、英語でいうところの「some」の意味もあり、物だけやのうて人にも言えるからや。拙者はsomeの意味で訳した。過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」でも非難した新国際訳聖書(NIV)では、「anything except what Christ has accomplished through me in leading the Gentiles to obey God by what I have said and done」と意味不明な訳をする始末。これを日本語訳すれば、「我が言葉と業によって異邦人を神に従わせるために、キリストが我を通して成し遂げはったこと以外の何ものでもない。」となり、あたかもパウロが異邦人を神に従わせた偉大な人かのように聞こえるが、実際はそうではなかった。

 

 

上述したパウロの言葉から分かるとおり、パウロは「しるしと奇跡」を強調した。それ故、パウロは、「しかし、もし主が望みはるなら、すぐにあんた方のところに行くであろう。そして、いい気になってる人たちの言葉やのうて、その力を知るだろう。 神の王国は言葉にあるんやのうて、力にあるんやから。」(コリント一 四章十九節〜二十節拙訳)と言うた。これは、明らかにパウロは言葉では叶わへん、言論では勝てへん相手にはしるしや奇跡を見せつけて、力を見せることが出来るパウロの方が正しいことにしたいという証拠の主張や。こないパウロは困ったら、すぐに悪霊頼みの奇跡をして、しるしや不思議な業を見せつけた者が勝ったことにするという姿勢でおったことの証明や。過去記事「今は邪な時代」やその他の記事でも散々述べてきたとおり、主イエスは、しるしを欲しがる人間のことを嘆きはった。なぜなら、不信仰な人程、しるしや奇跡を欲しがり、邪な時代と評されたからや。言葉やのうて、しるしや奇跡に頼るパウロはまさに主イエスから嘆きの対象になる人物であることになり、それでキリストの使徒と自称するなんて笑わせる。偽使徒パウロとは対照的に、拙者は言葉の力を見せている。主イエスも「言葉」やからね。ヨハネによる福音書一章冒頭で言葉が受肉した等と主イエスのことを使徒ヨハネは「言、言葉」と定義した。聖書も文字の「言葉」であり、福音も「言葉」によるものであり、しるしや奇跡といった「力」ではない。奇跡の類は悪魔でも出来るからや。また、福音書にあるとおり、主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けた時の対応も参考になる。主イエスは「律法の言葉」を以って悪魔の間違うた聖書引用を退けはった。主イエスは神の力を行使して悪魔と奇跡といった力自慢の対決をしたのか。否やろ。主イエスは悪魔に対して「律法の言葉」のみで退けた。その主イエスの姿勢からも、主イエスを信じて従う真のキリスト者は同じく、永遠の真理である神の律法を守るべきであり、嘘つきの悪魔や自称キリスト者や不信仰の者に対しては聖書(パウロ書簡を除く)や律法の「言葉」で撃退すべきなんや。悪魔がでけへんことは、神の律法を守ることや神の御言葉を正しく用いることや。それがでけへん故に、悪い不良天使は天を追放されてこの地に落とされ、堕天使となり悪魔になった。悪魔は、イエス・キリストを信じず、神の律法を守らず、主イエスに固く結び付かずに実を結ばへん人間共々最後には地獄という火の池に入れられて滅びる。すべては、神の律法を破り、神の御言葉に従わず、神と神の王国にとって役に立たへんからや。

現代にも、こちら(YouTube)のように、簡単に種が分かるような手品師の域を超えて超自然的な業を行う魔術師が現れており(種がある手品をすることは魔術とは言わへん)、彼らと同じように常人にはでけへん力を見せられると何も分かってへん愚民はコロッと騙されて魅了される。何故、魔術師はそないな力を持つのか。厳密には彼ら自身に力は無く、悪魔が奇跡を起こしてるのであり、それを彼らが行ったかのように見せられるんは彼らが悪魔と契約してるからや。普通の人は悪魔と契約せえへんもんな。悪魔と契約したという話は魔術師に限らず、芸能人にも多い。例えば、こちら(YouTube)から分かるとおり、ボブ・ディランは悪魔と契約し、その責任を果たしてると述べた。他にもこちら(YouTube)のとおり、有名歌手たちも悪魔に魂を売ったと自白してる人は多いし、自白せんと黙ってる人の方が多いが、ピラミッドや目を強調したり等と悪魔に魂を売ったことが明らかなことはその「行い」から判断出来る。
パウロは不思議な業をして自分の方が正しいと強弁することを繰り返しており、それ故、行き詰まったら「言葉やのうて、力を見せろ」等とパウロは挑発してたんや。しかし、そのパウロの言動は反キリスト的や。なぜなら、主イエスは対抗勢力であったファリサイ派や律法学者たちに向けて「あんたらが言うことが正しいと主張するなら、力を見せろ。」等といった挑発を決してせず、言葉で戦いはった。ファリサイ派や一般のユダヤ人たちは、主イエスに言論では勝てへんと思うと、非常に短気ですぐに相手に石を投げようとしたり、殺そうと画策する等と犯罪行動をした。悪魔の子らは皆、このようである。言論で勝てへん相手には、近付こうとせず、陰で誹謗中傷したり、力づくでこの世から排除しようとする。悪魔崇拝をする富裕層である世の支配層や各国政府も、彼らに洗脳されて盲従する一般大衆も同じであり、コロナ犯罪でもそれが明確になってる。キリスト道でも見せてるとおり、豪州、欧米、支那では強制収容所を建設して実際に支配層や政府の悪行に抵抗する善良な市民を感染症の診断が不可能なPCRを「検査」と偽って悪用することによってコロナ陽性とか感染者等と偽って公衆衛生上の脅威と嘘をついて収容し始めてる。病人やのうて、実際は政治犯扱いなんですよ。世の権威者とその悪人に追従する大衆こそ犯罪者なんですけどね。このように、昔も今も悪の権力者は毎度力づくで悪事を行う。悪人は善人に言論では勝てへんさかい、悪人は権力や暴力や奇跡といった「力」で解決しようとする。また、主イエスに従った十二使徒たちも福音伝道した大衆相手に、また権力者に睨まれて逮捕されたりしても、相手に「言葉やのうて、力を見せろ」等と挑発したりすることは一切無かった。それやのに、パウロは何故そないなことを言い、また行ったのか。偽使徒やからや。預言者エリヤはかつてバアルの預言者どもと火をもって答えるのがほんまもんの神やという奇跡対決をすることがあったが、たった一度の出来事であるし、頻繁に起こったことでもない故、あれを比較対象に持ち出すんは間違いや。何より、エリヤが置かれとった状況(当時、主なる神の側に立つ多くの預言者が殺されて残ったんは彼一人で、バアル崇拝者の敵が多数という危機的状況)がパウロの状況とは異なるし、時代も異なる。パウロが活動した時期は主イエスの十字架より後のことやし、新しい契約が発生した後のこと。それこそ、もはや神と人間との契約関係も旧約時代とまったく同じやない。

ここまで偽使徒パウロが、言葉やのうて、しるしと奇跡の力に頼ることの悪さについて述べた。そのことについて、主イエスは偽使徒パウロがキリスト者と自称し出すよりも前の公生涯において事前に警告しはってた。

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章二十四節〜二十五節(拙訳)
偽メシアたちや偽預言者たちが現れて、出来れば選ばれた人たちを惑わすために大きなしるしや奇跡を起こすからや。見よ、あんた方に前もって言った。

これだけイエス・キリストは明確に事前警告しはった。しるしや奇跡を起こす者に惑わされてはならへんのに、なんで惑わされる人が多いのか。非常に愚かなんですよ。目に見える現象に惑わされ、聖書(パウロ書簡を除く)の御言葉を軽んじてるから騙されるんや。言葉で理解でけへんし、理解しようともせえへんから、しるしや力に頼るんですよ。それこそ悪人である証拠。拙者もこうして言葉で教えてるのに、未だ反抗的な人が多い。まさにヨハネ三章十九節、ヨハネ十二章四十六節、ヨハネ五章四十節のとおりになってる。主イエスは世の光としてこの地に約二千年前に受肉して初臨して悔い改めを説き、福音伝道しはったが、行いが悪い人間たちは光よりも闇を好んで、主イエスの御許に来ようとせんのや。同じく、拙者の許にも来ようとせん人々や敵対する人たちも闇に属する。もっとも、来ただけで何もせえへんのもあかんけどな。主イエスの御言葉どおり、失われた羊は聞く耳を持つが、主イエスの羊ではない者は聞こうともせえへんし、信じひん(ヨハネ十章二十六節参照)。そないな者は主イエスに聞き従わへん反キリストであるのに、キリスト者を自称しており、非常にタチが悪い。こないな者は神から厳罰に処されるだろう。神の律法、掟、戒めを学ばへんし、守りもせず、イエス・キリストを知ろうとせん人や主イエスに結び付いて実を結ばへん人は皆、滅びる。 また、世間のキリスト教という名のパウロ教の信者たちの心には、イエス・キリストの警告や戒めといった厳しい御言葉は響かず、偽使徒パウロの耳触りのええ偽福音に惹かれる。なぜなら、行いが悪い人には厳しい主の御言葉が不都合やからや。せやから、にわかキリスト者は偽使徒パウロを擁護し、その偽福音にすがる。悪人にはそれしか出来ひんからや。主イエスに従い得ないからや。更に悪いことに、彼らは自分たちがキリストに結ばれて天国行きが確定してると高慢にも思ってる故、非常に惨めや。そないに「自分はもう救われてる」と思う者は誰でも反キリストであり、悪魔の子である。主イエスは「最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節拙訳)と教えはったとおり、死ぬまで救われるか確定してへんのです。その主イエスの教えに反して、偽使徒パウロの書簡から抜粋した「福音の三要素」とプロテスタントどもが勝手に命名して戯言を吹聴してるが、神の律法を無視して違犯して罪を犯し続けながら、それを信じてればええと思ってる限り、絶対に救われへん。「自分たちは神の王国に相応しくないです」と自白してるようにしか拙者には聞こえへん。高慢な品性は悪魔の品性やしな。せやろ。イザヤ書十四章十二節から十四節にあるとおりや。そのことを肝に銘じよ。

また、偽使徒パウロを狂信する自称キリスト者どもは、しきりに信仰のみを強調し、行いを否定する。それは偽使徒パウロだけが広めた独自の教義やとも知らずに。異邦人のマルティン・ルター等といった中世時代のプロテスタントども(カトリックや正教会どもも同じ)は、まさに偽使徒パウロの偽教義の狂信者たちであった。彼らの教祖である偽使徒パウロは、「恵みで信仰によってあんた方は救われたからや。そして、それはあんた方自身によるんやのうて、神の賜物や。行いによるのではない。誰も誇りに思わへんように。」(エフェソ二章八節〜九節拙訳)と主張し、その他の手紙でも同様の主張をした。前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」でパウロによる異常なまでの「恵み」の強調について非難したとおりで、彼の教えでは「行いは不要」と曲解される原因になる。世の人々はほんまに読解力が無いさかいな。これが使徒ペトロによる警告の意味するところや。そのパウロの発言はある意味正しい。人間がなんぼ神の律法を守って善行したからというても、それを鼻にかけて誇るんは間違いや。こう言うことで、神の律法を守らんでええとか善行をせんでええってことやないからな。勘違いすなよ。神の律法は守って当たり前で、守らんのが罪を犯すことになるんやから。しかし、人を救うかどうかは主イエス・キリストが罪を赦すか否か、人間それぞれがこの地で生きてきた時の悔い改めの成果や生き様で総合的に判断されるさかい。たとえ一時的に頑張ったとしても、最期まで続かへんのなら無駄に終わる。そのことはエゼキエル書十八章二十四節にもあることや。そして、主イエス・キリストは以下のように述べはった。

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)
「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

新約聖書 マタイによる福音書 十九章十七節(拙訳)
もし命に入りたいなら、掟を守りなはれ。

新約聖書 ルカによる福音書 六章四十六節(拙訳)
ところで、何故、我を『主よ、主よ』と呼んで、我が言うことを行わへんのか。

新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章十五節(拙訳)
もしあんた方が我を愛してるなら、我が掟を守る。

上記の聖句から分かるとおり、主イエスは神の民なら主イエスの御言葉どおりに神の律法、掟、戒めを守るし、父なる神の御意志を「行う」とある。つまり、信仰には行いが必要不可欠やし、神の律法、掟、戒めを守ることも必要不可欠ということや。また、使徒ヨハネにも追加で以下の内容を伝えはった。

新約聖書 ヨハネの黙示録 二十章十二節(拙訳)
また、死者たち、小さな者と大きな者が神の御前に立ってるのを見た。幾つかの書物が開かれ、一つ別の書物も開かれた。それは命の書や。死者たちは、これらの書物に書かれた彼らの行いに応じて裁かれた。

新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十二節(拙訳)
そして、見よ、直に来る。また、我が報いは我と共にあり、各自の行いに応じて与える。

新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十四節(拙訳)
主の掟を行う者は幸いや。その者たちの権限は、命の木についてと都に入る複数の門であろう。

上述の黙示録二十章十二節は改訂版(RV底本)では「玉座の前」と改ざんがあるが、受け入れられた原典(TR底本)では「神の御前」や。「神」を除いて「玉座」という言葉に置き換えた聖書改ざん者の罪は重い。小さい者は庶民、大きな者は権力者や富裕層を指すであろうが、神の御前では人間は皆同じであり、神の御前にて等しい扱いで、公平な裁きを受ける。世の権力者を敬うのであれば、それは「世の権威」を信じてるに他ならへん。主イエスは逮捕されて、ピラトという当時の権力者の前に引き摺り出され、ピラトが「あんたを十字架刑に処す権限も、釈放する権限もある」(ヨハネ十九章十節参照)と言うた言葉に対して、「天から与えられたのでないなら、あんたは我に対して何の権限も無い。それ故、我をあんたに引き渡した者は、より大きな罪や。」(ヨハネ十九章十一節拙訳)と言わはった。このように、主イエスは毅然としており、地上の権力者なんかに媚びることもなければ、その権限をも認めへんかった。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」等でも既に非難したとおり、ローマ十三章にある偽使徒パウロの「世の権威に従え」という教えは反キリストの教えや。同じように、将来、徹底的に聖書に依拠する真のキリスト者は、反キリストどもに迫害されるだろう。主イエスがそのように予告しはってるからや。しかし、覚えておきなはれ。世の支配層や政府関係者といった権力者が罪深いのは言うまでもないが、彼らに協力する者どもの罪はもっと重い。また、神は、人間の裁判官のように袖の下を受けたり、邪な感情や利害関係等といったことで裁きを曲げることは絶対にない。社会的弱者やからというだけで、神はかばいだてや容赦も無い。なぜなら、律法にも「また、争いにおいて弱い者をえこひいきしたらあかん。」(出エジプト記二十三章三節拙訳)とあるからや。弱い者であっても常に正しいとは限らへんし、悪人も多いからや。社会的弱者という分類で判断せず、個別具体的に判断され、常に公平さが求められる故や。また、「争いにおいて弱い人の裁判をあしらったらあかん。」(出エジプト記二十三章六節拙訳)ともあり、社会的強者に屈して弱い者の訴えをあしらうことも罪や。裁判所が、権力者や富裕層といった者たちの犯罪を糾弾する訴訟を却下したり、検察や警察が権力者に対する告訴を受理せんと逮捕せんかったり、不起訴処分にするんも不当であり、証拠や証言を捏造したりも日常茶飯事になってるが、すべて大罪や。支配層に与する不正な裁判官や検察官や警察官どもよ、神からの厳罰を覚悟せい。庶民の税金から飯を食わせてもらってる分際を弁え、庶民を苦しめるな。公務員として税金で飯を食い、権力を持ち、そのくせに庶民を虐げてるのでは神から重罰に処されるであろう。また、庶民の味方をせず、長い物には巻かれろ主義で、拝金主義で、犯罪行為や不正行為をする行政機関、大企業、富裕層、宗教団体に立ち向かわへん弁護士どもも大罪人や。キリスト道の「改憲問題」でも非難してるとおり、日本国民にとって害悪でしかない自民党改憲草案による改憲を肯定したり推進する者は皆、反日であり、国賊でもある。多くの者が改憲反対者が左翼と嘘をついてるが、まったくの逆であり、改憲推進者こそ日本が滅びることを望む反日左翼や。弁護士会が改憲反対の声明をネット上に掲載して終わりなんて、国民の殆どは見向きもせえへんし、存在すら知らんやろし、弁護士会として何の役にも立たへんことをするだけで終わっており、その程度で仕事をしたと思うな。その程度ではまったくの役立たずやさかい。皆、悔い改めよ。拙者は勧告しておく。もうすぐ手遅れになろうとしてる。改憲を阻止出来ねば、聖書から学んで主イエスの信仰に立ち返らねば、日本と日本人は滅びる。過去記事「全力で改憲反対してワクチンも拒否せい」やそれよりもずっと前から注意喚起してきたのに、未だに日本では大きな動きが無い。現代日本人の白痴具合、ほんまに呆れる。
それにしても、こないに主イエスの教えは明確で、行いに応じてすべての人間を裁きはる。真のキリスト者は、イエス・キリストが教えはったことを信じて行うが、自称キリスト者どもは偽使徒パウロの偽教義を信じて、悔い改めず、心も行いも悪いまま。ここに大きな違いがある。

加えて、ヤコブも以下のとおりに言うた。

新約聖書 ヤコブの手紙 二章十七節(拙訳)、二十六節(拙訳)


同じように、もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは信仰は死んだものや。
(中略)


それ故、霊無き肉体が死んでるように、同じように、行いを伴わへん信仰は死んでる。


 

これらのことは過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」や前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」でも説明済や。しかし、物分かりの悪い人が多い現代ではしつこく言う必要性を感じるさかい、再掲してる。イエス・キリストも十二使徒も初代教会のエルサレム教会員たちも「恵みによって救われるから、律法は廃止されて不要」等と主張した人は居らへん。せやけど、反キリストの偽使徒パウロは、異邦人に対して偽りの「キリスト・イエス」の偽福音を示し、「あんた方の罪は支配せえへんだろうからや。あんた方は律法の下に居るんやのうて、恵みの下に居るからや。」(ローマ六章十四節拙訳)、「我等が肉体の支配下にあった間、律法を通して罪の苦しみが我等の体の各部分に作用し、死へと実を結んだ。しかし、今や我等は律法から解放され、それに拘束されることから死んでる。それ故、我等は霊の新しさによって仕える。文字の古さにではない。」(ローマ七章五節〜六節拙訳)と言うた。これは信じ難い暴言や。パウロは明確に「律法を通して人体に作用して死へと導いた」と言い、神の律法を悪い物と非難し、聖書の文字や律法の文字に従うことを明確に拒絶しており、「霊によって仕え、文字は古いとして仕えへん」と宣言し、聖書の御言葉と神への反逆を明確にした。パウロは聖霊のつもりで言うてるかもしれへんけど、パウロが言う霊は絶対に聖霊やない。聖霊に導かれてるなら、神の律法を否定することや、聖書に書かれた文字を否定することなんて有り得へんからや。その理由は、既に上述したとおり。このように、律法廃止を唱えたんは、偽使徒パウロやということは疑いの余地が無く、パウロ狂信者の自称キリスト者は皆、主イエス・キリストの教えに留まらへん反キリストや。

皆に認識してもらいたいんは、パウロ書簡は自称キリスト者に改宗した無法者の異邦人向けに書かれたことであるということであり、正しい信仰の姿である律法に熱心なユダヤ人キリスト者に対してではないし、真のキリスト者に宛てられたもんでもない。なぜなら、パウロは十二使徒と親交を深めず、ペトロとだけ少し会うたことがある程度で、主の弟ヤコブをはじめ初代教会のエルサレム教会とも律法を守らへん故に仲が悪かった。ヤコブの手紙がパウロの主張と相反することからもそれは証明されてるし、使徒言行録でもその旨の記述を過去記事で紹介済みや。それでパウロはユダヤ地方では彼自身の立身出世の機会や場所が無いと思って離れ、西方に居場所を求めて、自身を「使徒」と僭称し、異邦人のパウロ教信者を集めて、幻覚や幻聴を悪霊から示されて惑わされ、自分の教えこそが正しいとして高ぶり、ローマに拠点を置いた。四世紀になって太陽神崇拝者であったローマ皇帝コンスタンティヌスによってそのパウロ教がキリスト教として公認され、ローマ・カトリック教会の組織化と権威付けに繋がった。それ故、パウロ書簡が心に響くと言う人は、放縦で無法者の偽キリスト者で、反キリストということや。なぜなら、偽キリスト者の心には主イエス・キリストの御言葉が届かず、反キリストであるファリサイ派の偽使徒パウロの偽福音が届くからや。過去記事「反キリストについて」で書いたとおり、また、使徒ヨハネの手紙にあるとおり、イエス・キリストの教えに従わへん者、主イエスの教えに留まらへん者は誰でも反キリストであり、サタンや。使徒ペトロでさえ、聖霊を受ける前、主イエスがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されて三日目に復活することを予告した時にそれを諌めたら、「我が背後に下がれ、サタン。我が罪へと引き付ける者よ。なぜなら、あんたは神のことを考えず、それらの人間のことを考えてるからや。」(マタイ十六章二十三節拙訳)と主イエスからサタンと呼ばれ、叱責を受けた。また、「我は愛する者たちを皆、懲らしめたり、叱責する。せやから、熱心になり、改心せい。」(黙示録三章十九節拙訳)とも言わはった。これ程、イエス・キリストというお方は厳しいんや。褒めることなんて滅多にせえへん。死んだ後に褒められれば良いと思いなはれ。生きてる間、また不完全な間は怒られ、戒められ続けても何ら不思議は無い。不完全な人間に褒める所なんて無いのが分からんのか。それやのに、現代人は特に甘やかされて育ち、批判や叱責を受けるんを異常に嫌って避ける者が多い。これでは成長は見込める筈もない。せやから、拙者の許にも来ようとせんのやろ。自己愛が強く、悔い改めを拒否してる証拠やで。不完全で劣ってるにも拘らず、何故助言を聞き入れて改善しようとせんのか。それやから愚かさが直らんのや。そないな適切な指導や叱責を嫌う者は、滅び行く愚か者や。箴言にもあろう。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」でも引用した、「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)を覚えよ。聖書(パウロ書簡を除く)の御言葉を聞き入れへん者は愚か者である。拙者は聖書の真理に基づいて書いてるだけや。よって、それに逆らうことは神に逆らってることに等しく、永遠の破滅という刑罰を受けても文句は言えへんで。主イエスは、天の父なる神の御計画と御意志を実現することを最重要視しはり、神の律法を絶対に廃止せえへんと宣言しはったし、世俗の権威にぬかずくことはせんかったし、凡庸な人間たちに媚を売ることもせんかった。神の民は、主イエスの御言葉どおり、自分の命よりも神の律法と神の御意志を大事にする。しかし、不信仰の者、異教徒、自称キリスト者どもは、聖書の御言葉を軽んじ、拙者の諭しも軽んじ、世俗の権威に従順で、嘘を愛し、世の権力者と大衆に迎合してる。太陽暦(グレゴリオ暦)に従い、洋服を着てる等というんもすべて律法違犯の罪や。それらに気付かず、拙者のお陰でそれらの情報を知ってもなお悔い改めもせず、偽りの愛ばかりを強調する脳内お花畑の自称キリスト者どもは、聖書を理解せず、実際に存在せず実現もせえへん夢を見てるに過ぎひん。神の御計画や御意志を邪魔しようとする者や主イエス・キリストに従わず、偽使徒パウロの書簡を盲信したり、反キリストの世の諸教会や自称聖職者どもを信じて追従する人、不信仰の者や異教徒等は皆、サタン(神にとっての敵対者)なんですよ。悪魔のみがサタンなのではない。その主イエスの御言葉から、真のキリスト者は神のことを第一に思う人であって、世の人間たちのことを思う人ではないということです。にわかキリスト者たちは、人間中心主義(ヒューマニズム)の思想を持ち、人間のことだけ考え、神のことを考えず、神の義や神の王国を第一にして行動してへん。もし考えてるなら、神の律法を無視する筈がないからや。未だに洋服を着て、太陽暦(グレゴリオ暦)に従い、安息日を蔑ろにし、その他多くの律法違犯や主イエスの掟を破ってるようなら、救われることはないであろう。怠けて、キリスト者としての務めを果たさん「ぶら下がり体質の者」も同様である。

ユダヤ人のベニヤミン族出身のファリサイ派であるパウロがキリスト教(パウロ教)を創始し、ローマ・カトリックの元となり、後世に正教会やプロテスタント等と分派を作ったこと、ヤコブがベニヤミンは終末には狼のようになると預言したこと、そして、羊の皮をかぶった狼、キリスト教(パウロ教)の創始者である偽使徒パウロがベニヤミン族出身というんは必然やろな。アブラハムの孫で、イスラエルと改名したヤコブの時代から言われてたことや。

旧約聖書 創世記 四十九章二十七節(拙訳)
ベニヤミンは引き裂く狼で、朝に獲物を貪り食い、晩に戦利品を分ける。

イスラエル十二部族の祖であるヤコブは上記のとおり述べた。「ベニヤミンは引き裂く狼」とあるとおり、羊(キリスト者)の群れを散らし、仲違いを起こす存在である。序盤から獲物を貪り食い、終わりには戦利品(戦いに勝ってに相手から強奪した物)を分ける。この言葉は、一世紀、偽使徒パウロが十二使徒や初代教会のエルサレム教会員といった律法を擁護する正統派と仲違いして律法を軽視するパウロ派という分派を作り、そのせいでキリスト教業界に分裂を生み出し、聖書知識がまったく無い異邦人をはじめ多くのにわか信者を自身の偽福音の虜にして(獲物として)貪り、終わりの時代に近くなるにつれて戦利品(にわかキリスト者ども)を分けたという風に捉えられる。過去にも言うたとおり、拙者は、偽使徒パウロがキリスト教気取りの異教であるローマ・カトリックの祖であると考えており、そのカトリックから派生した正教会やプロテスタントもにわか信者を分けた先でしかあらへん。前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」でも言及したとおり、世の諸教会や諸教派はすべて異教徒の文化や習慣である西洋かぶれに堕ちた偽使徒パウロの教義、偽福音、習慣を最重要視しており、ローマ・カトリック教会は「世界の全教会の母であり頂点」と自称しており、正教会やプロテスタントは娘に当たると拙者は述べた。こう考えると、ベニヤミン族出身の偽使徒パウロは、このヤコブの預言通りの言葉の活動と後世のパウロ信者が自分たちでは気付かぬ内にそのように行動したことが分かるであろう。また、福音書にあるとおり、また前回記事の画像にも示したとおり、偽預言者といった偽り者は羊のなりをした狼やと主イエスも警告しはった(マタイ七章十五節参照)。ただ、黙示録七章八節から分かるとおり、たとえそないなベニヤミン族でも救われる一般のイスラエル人(現在の中東や欧米に多く居る白人系の偽イスラエル人ではない)は居ることが分かる。現代ではもはや誰がどこの部族かは分からへんし、気にするだけ意味が無いけどね。せやけど、古代イスラエルの初代王のサウルと偽使徒パウロは聖書によって有名人になり、ただの一般人とは言えへんし、主に逆らった存在と言えるし、救われたかは甚だ疑問や。

偽使徒パウロの福音がこの世において強固なものとなったんは、西暦三百二十五年のニカイア公会議の後や。これは太陽神崇拝者であるローマ皇帝コンスタンティヌスが関与した故に、「公会議」と呼ばれる。当該会議以前は、イエス・キリストの福音と偽使徒パウロの偽福音は、三百年近くの間は一緒に並び立つことがなく、一つの書物にまとめられることがなかった。一世紀のユダヤ人やユダヤ人キリスト者にとっても、「聖書」とは古代ヘブライ語や古代アラム語で書かれたモーセ五書、詩編、預言者の書等でしかなく、異邦人の言語である古代ギリシア語で書かれたものに権威を感じひんかったし、「聖書」とは認めへんかった。今ある旧約聖書の書物群と拙者が過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」で指摘したように幾らか外された古代ヘブライ語で書かれ、他の書物の存在を言及されたものや、ユダの手紙でも軽く言及があったとおり、改ざん前のエノク書(現在市販されるエノク書は一部改ざんの疑いが濃厚ではあるが…)等といった書物がほんまもんの「聖書」として在るべき形であり、それに加えてイエス・キリストについて述べられた福音書と十二使徒の書簡に限るべきであり、十三人目という本来居る筈もない偽使徒パウロの書簡を聖書として扱うべきではないし、聖書の正典として載せるべきでもない。しかし、西暦三百二十五年にニカイア公会議において、アタナシウスという者が「御子イエスは被造物」と主張したアリウス派を退け、イエスを神と認め、ローマ皇帝コンスタンティヌスが支持し、権威を得た。西暦三百六十七年、アタナシウスは、聖書の正典化の編纂に関わり、今ある新約聖書二十七巻が正典であると大枠を固めた。そして、西暦三百九十三年のヒッポ会議で、新約聖書二十七巻を「正典」と認定し、その四年後の西暦三百九十七年に行われた第三回カルタゴ会議で、再び新約聖書「正典」を今ある二十七巻と再確認の決定をした。このように、パウロ狂信者である異邦人たちが権威付けのために聖書の正典とそれ以外の外典や偽典という区分をすることを思いついて実行した。ローマ人をはじめとする異邦人の反キリストたちは、反ユダヤ主義であり、今でいう旧約聖書を蔑ろにし、「異邦人の使徒」(ローマ十一章十三節拙訳)と自称した偽使徒パウロの偽福音を重視して信奉しており、何としても自分たちが信じる偽福音が書かれたパウロ書簡を聖書に組み込んで「聖書の正典」と権威付けし、世の中に広めようと画策した。結果、それが成功し、多くの自称キリスト者を輩出し、多くの自称キリスト者たちはパウロをキリストの使徒と誤信し、パウロ教の聖書を崇拝してる。しかし、拙者はパウロ書簡のすべてを聖書の正典から外すべきであると思ってるし、底本も受け入れられた原典(TR底本)を翻訳して普及させるべきと考える。過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」で紹介したジュネーブ聖書は正しい底本に則るが、その英訳は完璧ではない。欽定訳聖書(KJV)もジュネーブ聖書を参考に作られたが、誤訳がある。現代で普及する多くの言語の聖書はすべて改訂版(RV底本)という偽りの物に基づいて翻訳されてるさかい、盲信してはあかん。まして、パウロ書簡は信用に値せえへん。もし聖書の再編纂をするなら、拙者の意見を反映させるべきであろう。そうせえへんのなら、今後新しい翻訳の聖書を出版したとしても何の益にもならへん。今ある物も偽りの底本を基に訳され、誤訳が多いし、欠落もあるしで、まったく不十分であるからや。

救い主であるイエス・キリストの福音よりも偽使徒パウロの無律法主義の放縦な偽福音を選ぶことは、一世紀当時のユダヤ人の民衆が神の子イエスよりも強盗のバラバの釈放を選んだのと似てる。愚かにもパウロを使徒として狂信するんをやめへん人らは皆そうしてる。拙者自身、最初からパウロを疑った訳やなかった。しかし、最初から違和感はあった。イエス・キリストは確かに福音書で律法を断じて廃止せえへんと明言しはったのに、パウロは律法を守る必要は無いと言い、キリストの恵みによって義とされるから律法を守らんでも問題無いと言うてるしで、どう考えても矛盾する内容やからね。それに、主イエスがパウロを選んでへんというんも、十二使徒たちやエルサレム教会とも仲が悪かったことも、使徒の要件を満たしてへんのが、パウロを偽使徒と断定した決定打や。そのことは過去に詳述した故、本記事で繰り返しはせえへん。パウロについて詳しく知ることは、キリスト者にとって非常に不快なことやろな。もし知れば、パウロを二度と同じように見ることはでけへんやろから。せやから、多くの自称キリスト者どもは、拙者のブログや動画から逃げまくるし、内容を吟味することすら拒否する。実に愚かな現実逃避や。世の真相についても同じように拒否して逃げまくる。ほんまにアホ。逃げても解決せえへんし、滅びは免れへんのにね。
偽使徒パウロがローマに行き、ローマを拠点とし、ローマ帝国の権威にすがったことで、世界に広くキリスト教が広まったということは確かな事実であるが、もう一つの大事な事実を無視してるのが非常に大問題なんや。その大問題とは、偽使徒パウロが偽福音を説き、「虎の威を借る狐」の如く、パウロは「キリストの威厳を借る狼」であり、パウロこそがカトリックの教祖であり、カトリックが地上の諸教会の母たる位置にあり、その娘の正教会やプロテスタントどもも同じ穴の狢で、すべて神の律法を無視または軽視する「羊のなりをする貪欲な狼」であるという事実や。パウロ教から脱しなければ、即ち、地上の諸教会や諸教派から脱しなければ、イエス・キリストの真の聖書福音に従い得ず、救われることも有り得へんということや。
(続く)