こんにちは。

今回は、前回の続きで、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなる故、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。

福音とは何か。それは世間の一部のプロテスタント牧師が勝手に命名して提唱し、その信者どもが一緒になって吹聴しとる「福音の三要素」なんかやないで。なぜなら、それは、偽使徒パウロの手紙(コリント一 十五章三節〜四節)に依拠し、後世の人間が勝手にその箇所を抜粋してるだけであり、それが主イエスや十二使徒が教えはった福音ではないからや。そもそも、主イエスが実在し、神なのに受肉しはって人間として生活され、律法に則って三十歳を過ぎてから宣教をし始め、十字架刑になって死に、三日目に復活し、その後も四十日間地上に現れて使徒や他の人たちに証しをしてから昇天しはったことも「歴史的事実」であり、その事実を知ったからというて、その認識を持ってるからというて、救われると主張するんはおかしいんですよ。歴史で誰々がいつ生まれ、何をして、いつ死んだ等と覚えてる知識と変わりないさかい。単に「歴史的事実」を知り、そう信じたからというて何も特別やあらへんし、救われる要件やない。知ってて当たり前や。せやから、パウロの手紙の一部分のみを信じてれば、行いは無関係で、絶対に救いを失うことがない等とプロテスタントが言うてるのが如何にアホらしい嘘かを理解すべきや。ツイッターを中心に「フラットアース 」、「イエズス会が悪い」、「トランプは救世主ではない」等と当たり前のことばかり連呼し続け(トランプが救世主と信じてるQアノン系は論外)、世のことばっか言うてる人が居るやろ。ああいう人たちは全部あかん。過去記事「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」で弾劾したリャンピン(ヌコ)といったどうしようもない程に知性が無く、嘘つきの迫害者の分際で、偉そうに他人を見下して毒を吐きまくり、自分が失格者なのを棚に上げて他人を評論してるだけの自称キリスト者どももあかん。大事な福音を何も理解しておらず、周知もせず、実践もしてへんさかい。懲りずに聖書の真理を拒絶し、理解しようともせえへんのなら、その者らは惑わしの霊に取り憑かれており、真理を愛さへん故に滅びるであろう。神からも「来るな」と拒絶されてるからや。
福音については、使徒ペトロは以下のように書いた。

新約聖書 ペトロの手紙一 一章二十四節〜二十五節(拙訳)
なぜなら、「すべての生ける被造物は草のようで、人間のすべての美点は草の花のようや。枯れた草とその花は散る。 せやけど、主の御言葉は永遠に残る。」さかい。そして、これがあんた方に告げられた福音の言葉や。

使徒ペトロは、主の御言葉は永遠に残り、滅びることがないとイザヤ書四十章六節〜八節を引用して、これこそが福音と断言した。主の御言葉が太古より永遠に変わらず、残り続ける神の御言葉が福音なんや。福音とは、世のにわかキリスト者が言うてる嘘やのうて、黙示録十四章十二節に凝縮されてるとおり、「神の掟を守り、主イエスの信仰を死まで持ち続け、死に至るまで神に忠実であれば、主イエス・キリストによって救われる」ということや。このことは過去記事「偽りの霊による働きへの警告 前編」でも、それを死守せいと書いたとおりや。また、それを理解してるだけやのうて、実践せな意味があらへん。繰り返し言うとく。知識として知ってるだけで終わって行いで示さへんようでは絶対に救われへん。そういうもんや。特に、現代は世界規模で西洋かぶれが酷く、国際機関、政府、教育機関、報道各社どもの嘘を盲信するまでに世の人間たちの下劣化が止まらん状態もあって、一世紀当時よりも酷く堕落してる状態故に、言うべきことが昔よりも余計に多い。ほんまはこないな叱責等はしたないんですよ。拙者がこれ程言わんでもええ位に世間の人々が聡明で素晴らしければ、拙者もこないに言う必要も無かった。でも、実際はそうやないし、世の人々は愚かで堕落し切ってるさかい、言わなあかんねん。それが拙者の役割やさかい。まるで平均的な偏差値五十位の人を八十の超人にまで引き上げてあげる教師をやってる感覚で、非常にしんどい。既に八十位に到達してる人は未だ居らんが、死ぬまでにそうなれば上出来やし、主イエスが人間に求めてはる「完全な者」(マタイ五章四十八節参照)になることを目指す必要がある。中途半端は成立せず、ふるい落とされるのみ。悔い改めや成長を怠る者は落とされる。偏差値八十は、上位0.1%や。要するに、千人に一人ということ。以下に表にしてみた。


こう見ると、救われる「真のキリスト者」は如何に少ないか分かるであろう。めっちゃ難しいと思うやろ。世俗的な価値観を捨てようとせえへん人間には難しいが、技術的には達成不可能な程に難儀ではない。神の律法、掟、戒めを守ることは難儀やないということは聖句を引用して過去記事で説明したし、後述もする。せやけど、偽使徒パウロの教義を盲信して、主イエスによって救われることがごっつ簡単かのように言うてる世俗的な自称キリスト者どもが嘘を吹聴してるせいで、お気軽とか簡単かのように思われてるが完全に誤解やし、嘘である。実際、聖書は厳しい救いの要件を提示しており、救われる人数が極めて少数と宣言してる。主イエスは「狭い入口を通って入るように努めなはれ。あんた方に言うとくが、入るために模索して、入ることがでけへん人が多い。」(ルカ十三章二十四節拙訳)と教えはった。つまり、最初の入口からして狭いのであり、入口を間違える可能性が非常に高く、正しい狭い門から入ろうと人間側が懸命に道を模索したり、願い求めたとしても、神に選ばれてへん故に大多数の人が入れへんことを示してはる。せやから、広い門で広々とした道である世の諸教会や諸教派の門を叩いて入り、そこに所属することは間違いであり、検閲と言論弾圧が異常なグーグル社のユーチューブで動画を投稿してる人たちが語る聖書や福音についても駄目なんは必然的やろ。ほんまに人々にとって役立つ情報を語る動画はユーチューブは削除するし、グーグルも検索結果を操作して有益な情報は上位に出てけえへんようにしとる。ほんまに未だにグーグルやヤフーの使用をやめず、DuckDuckGo等といったまだマシな検索サイトを使用せえへん人は情報弱者ですよ。また、大手報道各社も取り上げへんさかい、テレビや新聞等の大手報道各社らを信じ切るのも論外。
更に、過去にも聖句を紹介したとおり、コヘレトの言葉七章二十八節にあるとおり、男で救われるんは千人に一人と言う確率で、女は千人に一人も居てへん故、女は一万人に一人位やろな。冗談やなしに、ほんまにそんなもんなんですよ。上図のように、主イエスがキリスト者の人間に要求する「完全な者」とは極めて高い程度であり、何も落ち度が無い程度に達する必要がある。それも不信仰で世俗的な人や間違うた信仰を持つ自称キリスト者どもの目線や価値観で判断されることやのうて、神の目線、聖書の真理、神の律法が基準や。言うとくが、学校の勉強や受験勉強の偏差値とはちゃいますからね。政府が検閲した教科書や参考書の類を一生懸命に覚えて模試等で高い偏差値を取ったとか、難関校に受かったとか、難関国家資格を取った等は、主イエスの救いに関しては何の関係もあらへんし、むしろそれらの知識の殆どが役立たずで、嘘のものが多いさかい、目覚めるのにかえって障壁となることさえある。かと言うて、小さい頃から全然勉強せえへん人も無知で愚か過ぎてあかんけどな。例えば、過去記事「地球球体説と地動説という大嘘と太陽神崇拝」で書いたように、この地が球体とか、自転や公転してるとか、宇宙や重力があるとか、未だに信じてるようではあかん。また、日本人は単一民族、日本が完全に独立してる、明治維新が文明開化でええものやった等と盲信してるような情弱では滅びる。真理を愛さへんような気質が明白やし、その程度では聖書の真理も当然に理解でけへんさかい。
そして、世間の学業の偏差値とは決定的にちゃうのは、他人との競争ではないという点や。受験では、点数による競争であり、上位から一定の人数のみを合格とし、それ未満の点数なら不合格としてる。これなら、優秀な上位の人を除くか落とせば基準点が下がって、すぐ下に居る人が合格圏内に入り込む機会が生じるということになる(基準点から程遠い人は依然として論外)。しかし、主イエスによって救われて天の国に行けるかということについてはこないな競争は一切無いし、主イエスを唯一の救い主と信じて主イエスを模範とし、自分がきちんと神の律法、掟、戒めに向き合い、あかん箇所を悔い改めて改善するという自分との戦いが主たるもので、他人との競争やないし、むしろ助け合いが必要であり、この世の競争社会とはまったく真逆や。せやから、他人を蹴落とすとか、嫌がらせをしたり、信用を落としたり、存在を消すなどして居なくさせればその枠が空くということではない。そないな極悪で卑劣な手段に出て、代わりにその枠に他人が入ろうとしても入れへんという性質がある。せやから、他人を貶めたり蹴落そうとする行為はまったく無駄であり、むしろ、そないに他人を誹謗中傷等をして悪人扱いしたり、存在を消すという犯罪行為をするその者が救われることはない。なぜなら、そないな罪深い行為をした本人が罪を犯してるさかい、逆に自ら不合格とし、地獄行きを確定させるからや。また、聖書と主イエス・キリストに無関心な人や誤った信仰を持ってる者が大勢居るが、そないな者どもは自ら天の国に相応しくないと定めてる。
また、世には不審死、変死、自殺等と報道させたりして誤魔化す「暗殺」がはびこってるが、それは犯罪であり、たとえ命を取ることまでせんでも投獄するとか拷問するとか他に何らかの危害を加えるようなことをしてる輩は、地獄行きになるということをよう覚えとくべきや。拙者は主イエスの教えに則り、他人を引き上げることをしてるのに対し、拙者に敵対する者はまったく成長せえへんし、他人を成長させることもせえへん。せやから、まったくの役立たずであり、自分らを失格にさせてるんです。そのことをほんまに早よ自覚すべき。自分自身のことを棚に上げて他人を偉そうに評論してる人らは勘違いしており、自分との戦い、醜い自我との戦い、悪魔との戦いやというんが本質的な問題やと気付くべきです。
言うておくが、真理は正しく、不変であり不滅や。偽りを信じてる時点で、真理を知ってるとは言えへんし、真理を愛してるとも到底言えへんし、聖霊に導かれてるとも言えへん。聖霊は神の力であり、偽りを信じる筈がないし、長らく騙されたままで居る筈もない。たまに、大地平面説は救いに関係無いとか、球体と信じてても問題無い等と言うてる嘘つきが居るが、間違うてる。そない単純なことすら理解でけへん人に難解な聖書を理解することなど到底不可能やさかい、政府が検閲する教科書やテレビが主張する球体説を信じる思慮が浅い世俗的な人たちは救い難い。また、大地平面説を信じていたとしても、神の律法を蔑ろにする者も駄目で、キリスト者と自称しても自称でしかあらへんし、偽り者や。

人間はすべて生まれては死んで、死後に裁きが待ち受けてるが(ヘブライ九章二十七節参照)、主の御言葉は永遠に廃れずに残る。上記で引用した使徒ペトロの言葉は、主イエス御自身が「天地は滅びるが、我が言葉は決して滅びひん。」(マタイ二十四章三十五節、マルコ十三章三十一節、ルカ二十一章三十三節参照)と言わはったのと一致しとる。旧約時代に主が言わはった御言葉や律法も廃れることはないし、それ故、主イエス・キリストは受肉しはって直々に律法を廃止せえへんと宣言しはり、実現しに来はった。当然、その主イエスの御言葉も滅びることなく、永遠に有効や。これは時代によって変化することはないし、廃れることもない。反キリストの人間どもが主イエスや律法に敵対しており、律法を廃止したがってるに過ぎひんのや。せやから、悪魔と反キリストの人間たちは、主の御言葉を消すことを諦め、代わりに曲解したり、歪曲したりして嘘の教えで人々を騙して滅びに導いてる。悪魔は「嘘つきの父」(ヨハネ八章四十四節拙訳)と呼ばれてることからも、嘘をついて騙すんは悪魔の得意技でもある。最初の女エバを騙したんも悪魔(蛇)やったさかい。聖書と主イエスに忠実ではない異教徒であるカトリック、正教会、聖公会、プロテスタント等、その他のカルト宗教信者ども、世俗の権力者、偽預言者、偽教師、不信仰の者等といったコロコロ言うことが変わる(つまり、嘘をついてる)人間の言葉や世俗社会に迎合する人の言う言葉なんて真理やないし、信用でけへんし、使徒の資格が無いパウロの言葉もたまにええことも書いたが、全部が正しい訳やない。ペトロが述べたようにパウロの手紙を盲信するような無学で動じ易い多くのキリスト信仰に招かれた者たちに曲解させ、誤解を与え、聖書読者たちは永遠の破滅に向けて他の聖書箇所と同様に曲解してる(ペトロ二 三章十五節〜十六節参照)。使徒ペトロは、明確にパウロの手紙が躓きの原因になり、滅びを招くとも警告してくれてる。世の多くの自称キリスト者どもは、この警告を軽んじてるし、知りもせん人が多いんが現実で、パウロが書いたことを全部盲信したり、ええように曲解しとる。それでは滅びる。
なお、主イエスは、「兄弟の小さな者たちに罪を犯すように誘惑することがどえらいことで(マタイ十八章六節参照)、躓きのためにこの世の人々は悲惨であり、躓きは必要なんやが、その躓きをもたらす人は災いや。」(マタイ十八章七節参照)と言わはった。まさしく偽使徒パウロや彼の教えを継承してるキリスト教の業界全体は、その躓きの原因になってる。拙者のように地上の諸教派に所属せえへんのが正解やし、拙者と同じような形態を取ってる教会であろうとも、一匹狼でキリスト者を自称しようとも、神の律法を守らへん者は全員あかんし、律法全体やのうて十戒だけ守ればええと勝手に範囲を狭めてる人たちもあかんし、信仰の兄弟たちと交流せんのもあかん。「律法=十戒」やないし、聖書の何処にも「十戒だけ守れ」なんて書かれてへんさかい。せやから、ユーチューブにあるSOSTVやSDAのサンライズミニストリーやその他牧師が主宰する動画等を盲信してるようではあかん。彼らは宇宙信奉者であるし、球体信者やし、コロナが嘘で政治目的やとも気付いてへん。このように、世の欺瞞も見抜けぬ者は、聖書の真理も見出せへん。

主イエスの御言葉はずっと不変であり、この天地は滅びても主イエスの御言葉が滅びることはあらへん。主イエスから直々に教えを受けた十二使徒の言葉も主イエスの教えと同じ筈であり、それが福音であり真理なんや。ヘブライ人への手紙の著者(偽使徒パウロはその著者やない)も、「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に同じや。」(ヘブライ十三章八節拙訳)と述べており、主イエスは気が変わるようなお方やないと断言しており、神の律法の永続性がここからも分かる。時代毎に変わるとか、時代に合わせるなんていうのも全部悪魔と反キリストの人間たちによる嘘であり、時代によって変わるという移ろい易いものは神から出た言葉や教えやのうて、惑わしの霊に憑かれた嘘つき人間の戯言や。世俗的な人は、「時代の最先端」とか「時代に合わせた〜」等と平気で言うが、愚の骨頂。拙者が過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」で書いたことを受け入れず、現代で和服を着ることに対して今も抵抗感がある人が居るんかもしれへんけど、史上最も長く受け継がれて現存する「和服」を恥ずかしがる、または、着たがらへん日本人は「日本人(イスラエル人)失格」や。恥を知れ。日本人のくせに、敢えて和服を着いひんという選択をするっちゅうことはそういうことやろ。房付きの和服が時代遅れとか、古臭いとか、周囲とちゃうから浮くとか、着もせんと不便とかいう思い込みがあったり、試しに着ても慣れへんだけで不便と愚痴をこぼしてすぐにやめたり、利便性という人間の肉の思いを神の律法より上に置いて優先してやろうとせえへんのが多いやろ。その思い、発言、行いがすべてを示し、日本人(イスラエル人)として恥ずかしい存在であり、不信仰であることの証拠や。終戦まで和服を普段着としてる人は多かったで。過去記事「動画初投稿」でも紹介したとおり、こちら(YouTube)にわずか百年前の大正時代の日本人たちの写真がある。当時の日本人は笑顔で溢れ、現代日本人よりも幸せそうに見える。ほんまの幸せは精神的なものであり、科学技術等の進歩によってもたらされへんし、利便性を追求しても幸せにはならへんし、金銭や社会的地位があるからというても幸せやない。大衆の言い訳に「利便性」を言う者が多いが、嘘つきにも程がある。表向きはそう言うてるが、本質は「西洋かぶれ」が不幸の原因や。そもそも、和服が不便なんていうのは、ふざけた言い訳やし、利便性で着る物を選ぶんは「醜悪な我欲」に過ぎひん。利便性を追求する愚か者は「キリスト道」でも散々警告してるように、超人間主義(トランスヒューマニズム)や酸化グラフェン入りのワクチン接種してネット通信し、機械化することも厭わへんのであろう。大衆は利便性に踊らされた上で、その本心は西洋の白人に憧れており、真似しようとしてるだけやろ。肌は美白のために化粧水やらを塗りたくり、日焼け防止に熱心になって日傘やらしてるアホが居り、髪の毛を茶髪や金髪等に染め、洋服を着てんのは、西洋かぶれの証拠や。日本人であることに満足し、誇りに思うなら、髪を染めずに黒髪で居る筈やし、洋服を忌避して和服を着る筈や。何と言い訳しようとも世の大多数の人間が西洋かぶれの嘘つきである事実は変わらず、律法違犯する人は罪人であり犯罪者であり、主イエスの「悔い改めよ」(マタイ四章十七節、マルコ一章十五節参照)という教えに逆らう反キリストや。そもそも、和服は不便ちゃうで。こっちは何年も毎日着て日常生活してるさかい。あんたらは神に従うよりも、この世の滅びゆく権力者や大衆と似た格好をして安心して間接的に悪魔に従ってるんやから、それが如何に悪いことか、後で否応無く分かる日が来るよ。そん時に気付いても手遅れやけどね。主なる神は、天地創造の時から現代に至るまで、また世の終わりまで律法遵守を人間に求めてはる。なぜなら、それが神への服従を行いで示すことになるさかい。なんぼ聖書を引用したり、主を信じてると口先だけで言うたかて、行いが伴ってへんのやったらまったく無駄や。律法違犯である不法を行う者は「あんた方のことは全然知らない。」(マタイ七章二十三節参照)と主イエスから言われて神の王国に入るのを拒絶されるんは確定的や。神の律法は、異邦人も守る義務がある。神の民として当然のことで最低限のことや。そのことは過去記事「自由と律法に対する誤解」や他の記事でも既に示してきた。神を愛し、神に服従するなら律法を守って当然なのに、守る気が無いとか、守らんでもええということを強弁したりする不信仰の者、異教徒、にわかキリスト者どもは律法を拒絶し、悔い改めを拒絶してるのが明白であり、救われへん。別に服装に限ったことやのうて、安息日も同じことや。律法を守るか守らんかで神の民か悪魔の子かの区別が非常に分かり易い。しるしや奇跡を行うことが判断基準なのではない。律法を無視しておきながら、しるしや奇跡を強調することの悪さは前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」や「偽りの霊による働きへの警告 前編」等と多くの過去記事で書いてきたとおりや。律法を守らんでええかのように言うた元凶は偽使徒パウロであり、パウロの教義から生じたカトリック、正教会、聖公会、プロテスタント等といった世の諸教会や諸教派が反キリスト勢力ということでしかあらへんし、その他のカルト宗教も少数派も律法を守らんし、全部あかん。彼らは例外無く律法を軽んじ、無視して違犯することによって罪を犯し続けても何とも思わへんし、神が制定しはった律法に敵対しており(即ち、主なる神への敵対を意味する)、すべて偽り者の毒麦で、不法を行う故に主イエスから「あんた方のことは全然知らない」と言われる人たちや。

主イエスは、天地が滅びるまで、つまり、この世が滅びるまで律法の文字から一点一画消えることはないと断言しはり(マタイ五章十八節参照)、律法にある掟の中の一つも消えることはないと仰せや。どないに些細な掟一つでも廃止されたと思って破棄し、そうするように教える、即ち、律法を守る必要が無いと教えるような人は、主イエスが言わはった「最も小さい者」ということや。創造主である主なる神が制定しはった神の律法を人間という被造物ごときが生意気に否定する権利なんか無いんや。僭越にも主が制定しはった律法を廃止されたなんて大言壮語する不届き者を神が忌み嫌い、天の国に入るのを阻むんは当然やろ。これを当たり前の道理やと思えへんのは異常者やし、滅んで当然の存在。
また、主イエスは、キリスト者が過去の律法学者やファリサイ派の義よりも優れへんようでは、決して天の国に行くことはないと断言しはってる。過去記事「パウロは偽使徒」でパウロという名の意味が「小さい」という話をし、理由を後述すると書いた。ここでその理由が分かる。その過去記事で引用した聖句どおり、主イエスは、「(モーセの律法の中の)掟の最も小さなものを一つを破棄し、そうするうように人々に教えるなら、各天の国で最も小さい者と呼ばれるだろう。」と明言しはり、サウロは律法を軽んじた故に、小さい(パウロ)者になるんや。最も小さき者や。これが現実やのに、パウロ自身は僭越にも「事実、我があの使徒たちよりも大きく劣るのは何も無いと思う。」(コリント二 十一章五節拙訳)と言い、同書十二章十一節でも繰り返し述べて自己評価を高くしており、同じ手紙で二度も自分自身を十二使徒と肩を並べることを言う高慢さが見える。まったく謙虚やない。パウロは大いに高ぶっており、これでは主イエスの「但し、自分を高めようとする者は低くされ、自分を低くする者は高められるだろう。」(マタイ二十三章十二節拙訳)の教えを守ってるとは到底言えへん。そもそも、パウロは主イエスと面識はまったく無く、主イエスの公生涯、復活、昇天を目撃して証言出来るという使徒の要件を満たさず、絶対に使徒にはなられへん存在や。主イエスの御言葉どおり、パウロは分不相応に自分自身を高めた結果、低くされた。世の自称キリスト者どもはパウロを盲信し、使徒と勘違いして尊敬してるが、狂信をやめへんようなら絶望が待ってる。また、現代人で身だしなみ違反(房付きの着物を着用せえへん、男性は髭ともみあげを剃ってる、服装の男女倒錯をする等)が多いんは目に見えており、誰にでも一目で分かる。あんたら自身が律法違犯をしてるなら、その者自身は主の御言葉を守らず、神に服従してるとは言えず、不法を行ってやめへんかったが故に救われず、なんぼ「主よ、主よ」と叫ぼうとも祈ろうとも意味が無いんです。実際身だしなみについても何も難しない筈で、誰にでも出来ることやけどね。それをしてる拙者は特別なんか。決してそうではない。簡単なことやのに、世の殆どの人々が父なる神と主イエスを愛して従おうとせえへんだけのことや。要するに、神を愛しておらず、慈愛が無く、心が悪いんですよ。律法を学んで守ることで自分自身の救いにも努めつつ、隣人愛を持ち、信仰の兄弟愛を持ち、「キリスト者」に相応しいええ行いに励むべきです。

過去のファリサイ派たちはモーセの律法を守るように口先で言いつつ、実際は彼らは人間の教えや習慣や伝統等を重視してそれらを細則として勝手に作り、それを守ることを重視し、聖書にある律法の掟を蔑ろにした点があった。主イエスはその点を非難しはったが、モーセの律法を守ることについては一切非難しはらへんかったし、そのことで対立したんやない。当たり前やろ。モーセの律法は、廃止されることがないんやから。主イエスは、「律法学者とファリサイ派の人らは、モーセの座に座ってる。」(マタイ二十三章二節参照)と言わはり、律法を守ることと人々に律法を守るように指示することについて認めてはった証拠や。せやから、主イエスは、ファリサイ派の義よりも優れた人でなければ決して天国には行けへんとも言わはった(マタイ五章二十節参照)。よって、律法を無視して違犯するようでは論外なことが分かるし、律法を守るだけでも不十分なんが分かるであろう。世の自称キリスト者たちよ、律法違犯を改めへんあんたらには不信仰の者と同じように絶望しかなく、後で泣き喚いて歯ぎしりするであろう。主イエスとファリサイ派たちと安息日の論議もあったが、安息日の存亡やのうて、安息日にどう過ごすか、安息日に何をすることが許されてるかという点について認識の違いがあり、対立しただけのこと。主イエスは「安息日の主」(マタイ十二章八節、マルコ二章二十八節、ルカ六章五節参照)と宣言しはったとおり、安息日が無くなることは絶対にないと重ねて宣言しはったようなものであり、正しい安息日の過ごし方や安息日にええことをするんが許されてる(マタイ十二章十二節参照)ことを教えはった。しかし、当時のファリサイ派らは、被造物に過ぎひん人間である自分たちの先祖から口頭で言われてきた言い伝えを頑なに信じ、それを主イエスが否定しはったから、腹を立てて主イエスの命を狙う程にまで憎んだ。無駄に拙者に楯突く人と同じ構図。拙者も好き勝手に言うてるんやのうて、聖書の真理に基づいて語ってるだけやのに、世の人々の多くは頑なに信じず、むしろ敵対し、拒絶し続け、自分らが信じたいように信じ、立派なキリスト者になってると勘違いし続けてる。拙者のことを憎んで誹謗中傷し続ける人も居るし、忌々しいと思って当ブログを読もうともせえへん人もようけ居るやろし、動画を視聴しようともせえへん人も居るやろ。勿論、真理を渇望する人は熱心に読み、動画も視聴もするやろが、そうせん人は皆、道を逸れてるんもまた現実なんや。

主イエスの教えに反して律法は主イエスの十字架以後は守らんでええなんていう教えは聖書に書かれてへん上、主イエスの教えに反する「反キリストの教義」であり、世の諸教会や諸教派がそないな嘘を広め、多くの自称キリスト者たちがそれを信奉し、疑いもせえへん。それも世の自称キリスト者どもが、主イエスや十二使徒の教えに背き、偽使徒であるパウロの手紙を最重要視して従うてきた結果や。はっきり言うて、主イエスや十二使徒たちの教えを無視し、偽使徒パウロの教えを優先する人たちはパウロと同じように小さき者になるだけやし、パウロ信者に過ぎず、キリスト者やない。キリスト者なら、主イエスを師と仰ぎ、律法遵守しはった主イエスを模範として同じように律法を守り、世の権力者や大衆に倣わへん生活をし、余計な持ち物を持たず、主イエスの御言葉を信じて実践する者でなくてはあかん。聞くだけで行わへんのなら無意味やで。主イエスは、律法のどないに些細な掟も破棄せず守るなら大いなる者になり、逆に律法廃止論を唱えたり、世俗で生活するのに不都合や不便等と人間の肉の思いに基づく勝手な都合を優先し、自分に不都合な掟を守らんでもええと思て違犯し、また自分自身が違犯するのみに飽き足らず、他人にもそうするように教える者や実践する者は最も小さき者と言われると教えはり、酷い場合はファリサイ派以下となり、天の国に決して入らへんと断言してはる。せやから、律法を守らずに救われるというパウロ書簡から発生した律法廃止論を信じて吹聴してる愚かな偽キリスト者どもには絶望しかあらへん。福音書の主イエスの教えや、ヤコブの手紙、ペトロの手紙、ヨハネの手紙よりも、パウロ書簡を重視して盲信する律法廃止論者は、極めて危険ということが分かるやろ。あと、拙者が過去に言うてきたように、律法全体を否定し、十戒だけを擁護するんも不足であり、あかん。守るのは十戒だけでええんなんて聖書の何処にも書かれてへん。SDA等が律法を道徳律と礼典律に区分し、礼典律が廃止になり、道徳律のみが残り、それが十戒であるとし、それだけでええとか勝手に決めてるようやが、これは聖書に無い教えであり、主イエスもそう言わはらへんし、反キリスト教義と言える。十戒を擁護するだけ他の教派(カトリック、プロテスタント全般、正教会)よりかはマシと言えるが、主イエスの教えに反してる以上は反キリストと言わざるを得ない。パウロ書簡を真に受けて信じてるから騙される。目を覚ませ。

この世の終わりに天地が消滅することは、十二使徒の一人であるペトロも書き残し(ペトロ二 三章十節〜十三節)、主イエスが天地消滅の時まで律法が有効と明言しはったことは、上記引用聖句が示してるとおり。同じく使徒ヨハネも神の掟を守るようにと手紙で書いてるし、「我等が神を愛し、その掟を守るなら、このことによって神の子供たちを愛することを知る。これは神の掟を守ることが神の慈愛であるからであり、神の掟は難儀やないで。」(ヨハネの手紙一 五章二節〜三節拙訳)と書いてる。この聖句は過去記事や動画でも紹介済や。使徒ヨハネは、明確に神の律法、掟、戒めを守ることが神を愛することであり、神の慈愛であり、それは難儀やないと述べた。律法自体にも、掟を守ることは難儀やないし、遠く及ばへんものでもないと書かれてる(申命記三十章十一節参照)。それやのに、なんで世間の自称キリスト者どもは「人間には律法を守れへん」とか「律法を守れなくて当然」等と言うのか。それは、そないな人間は神を愛さず、神に逆らう者であり、悪魔から出た人、世から出た人であるからに他ならず、天の父なる神と主イエスを愛してへんし信じて従ってもおらず、自分の内に聖霊が居らへんと自白してるに等しい。「ありのまま」でええなんて主イエスは教えはらへんかった。それでは悔い改めてへんからや。悔い改めるとは、律法違犯の罪を嫌悪し、過去にやったように罪を犯さへんこと、そのように生活様式や行いを改めることを意味する。悔い改めの目安になるんは律法に他ならんが、偽使徒パウロはガラテヤ三章二十四節〜二十五節でそれを否定するようなことを書いた。「信仰が現れて、もはや律法という指導員の下にない」って何やねんってこと。これは明確に律法の指導は不要と宣言し、キリストを悪用し、無法者になる宣言に他ならへん。パウロが言うような「信仰」は、主イエスの初臨以降に生じたのではなく、太古の昔からや。アブラハムもモーセも主なる神を信仰してたよね。それやのに、パウロは主イエスの初臨で信仰が発生したかのように言うてるし、筋が通らへん。パウロの言うことに疑問を持たずに盲目的に信じてる聖書読者も愚かや。律法を無視してええかのようなことは主イエス御自身や十二使徒や初代教会のエルサレム教会員たち、律法に熱心やった幾万人のユダヤ人キリスト者たち(使徒言行録二十一章二十節参照)は断じて言わはらへんかった故、このパウロの発言は反キリスト発言と言えるし、パウロ書簡の中でもガラテヤ書は特に質が悪いが、自称キリスト者の反キリストたちはガラテヤ書が大好きなんですよね。この手紙を援用して律法に敵対する主張が多いさかい。ほんまににわかキリスト者はガラテヤ書から引用して逆らうことが多いし、他のパウロ書簡を盾にすることもある。共通するんは、毎度パウロ書簡から反キリスト教義が導き出されてるという事実や。
しかし、主イエスは、「あんた方に言うとくが、悔い改めへんのなら、皆同じように滅びるであろう。」(ルカ十三章三節、五節拙訳)と主イエスは二回も繰り返し言わはった。悔い改めず、ありのままでは「新生してへん」と告白してるに等しい。洗礼をして聖霊によって新生したと自称してる者が世には多いが、彼らが律法を一律無視してることで聖霊によって新生したとは到底言えず、むしろ悪霊に憑かれたと言える。律法を無視して罪を犯し続けることのおかしさにええ加減気付けよ。それでは「罪の奴隷」(ヨハネ八章三十四節参照)なんやで。主イエス御自身で選びはった十二使徒たちは誰も神の律法、掟、戒めを廃止されたとか、守らんでええとか、十戒だけでええとか、そないな嘘は言わんかった。信仰はアブラハムの時代もそうやし、もっと前のエノクの時代にもあった。エノクは神と共に歩んで神が取った(創世記五章二十四節参照)とあるし、信仰があって神の秩序である律法も守ってたことは容易に想像出来る。神が定めはった神の律法に違犯する人間を神が義と認める筈がないという事実に早よ気付いて、悔い改めよ。
また、パウロが律法を蔑ろにする考えを持ってることはガラテヤ書といった数あるパウロの手紙からも明らかや。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 五章四節(拙訳)
律法によって義とされようとする者は誰でも、キリストから離され、恩寵を失います。

この言葉は、にわかキリスト者の心の拠り所となる一節でもある。にわかキリスト者たちは、こないな偽使徒パウロの言葉を好んで引用し、主イエスと神の律法に敵対してるさかい。そもそも、このパウロの書き方が誤解を与える。実際、一世紀から二十一世紀の今に至るまで多くのにわか信者を生んできた。あの書き方では、律法が無意味どころか、守ったらあかんという風にも受け取れかねへんさかいな。しかし、その解釈は間違うてる。この点はパウロが悪いというよりかは、律法廃止やと勘違いする聖書の読者の読解力が無さ過ぎるのが悪いとしか言いようがない。ガラテヤの手紙のみならず他のパウロ書簡を誤解釈して生み出す偽りの教義である律法廃止論は、先述の主イエス・キリストの教えに真っ向から逆らう。
ところが、上記のパウロの言葉は、きちんと理解すれば、誤解することは有り得へん。注意深く読みなはれ。パウロは「律法によって義とされようとする者」と書いたのであり、律法さえ守れば義とされて救われる訳ではないという意味が本義であり、律法によって義とされないから守らなくてもええとするんは曲解やと拙者は言うてるんや。過去記事「動画五回目投稿 ほんまもんの愛と暦とは」の第五回の動画でもそのことを述べた。忘れたなら視聴し直すがよい。神の律法は、人間の法律を守るが如く、神の律法は守って当たり前ということであり、律法遵守のみで義人となるのではない。更に、主イエスが教えはった「善いサマリア人」(ルカ十章二十五節〜三十七節)の例え話のように、律法遵守は当然やってる前提で、更に平素から慈愛溢れるええ行いが求められる。頭の中だけで思ってるだけでは意味が無い。普段から神の律法を遵守し、更にそないなええ行いを重ね、福音伝道に励み、奉仕活動等もする人が神から認められる義人であり、律法を無視して違犯し続け、罪の奴隷になってる自称キリスト者なんかが義人やないし、救われることはない。世の中、こないな自称キリスト者が多く、律法違犯をやめへんにわか信者らを見て不信仰の人たちが幻滅し、「キリスト教」は邪教だと思うようになるんや。せやから、拝金主義であったり、性欲が異常やったり、西洋かぶれして、世俗的なにわかキリスト者どもが非常に迷惑な存在であり、主イエスの御顔に泥を塗って辱めてる不届き者や。
そもそも、律法に対する考え方が、にわかキリスト者どもは大きく間違うてる。律法によって義とされると考えるんは過去のファリサイ派がしたことで、主イエスを救世主(メシア)として認めへんかったユダヤ教徒たちや。律法によって義とされると考えることを律法主義と言うが、拙者はそないな考えやないし、聖書にもそう書かれてへん。ええ加減に、「律法遵守=律法主義」という誤った方程式の考え方を捨てなはれ。それ自体が間違うてるさかい。勘違いをせんようにしてもらいたいんは、律法を守るんは自分自身を義としたいからではないということ。少なくとも、拙者はそないな理由で律法を守ってる訳とちゃうで。神の律法を守るのは、人間の法律を守るんと同じように、当たり前のことやからと何遍も言うてきたとおりや。せやから、拙者は「律法を守ってるぞ、偉いやろ」等と言うたことあるか。一遍も言うたことないで。なぜなら、律法を守って当たり前やから。守らんのが異常であり、罪を犯すことになるとも教えてきたやろ。「犯罪者」というのは、字義どおりに「罪を犯す者」という意味。人間の法律を犯したら犯罪者やろ。同じように、神の律法を犯す者も犯罪者であり、聖書では罪人と表記されるが同じ意味や。信仰の有無に拘らず、神が定めた神の律法を犯す者は誰でも犯罪者、罪人なんや。「信じないから神の律法は自分には関係無い。」と、言い逃れが出来る人間は、この世に一人も居らん。よって、無視して悔い改めを拒むなら、地獄行きを免れへんってことや。それでもええと思て、不信仰の者、異教徒、にわかキリスト者どもは、神の律法を無視して違犯し続けとるんやろ。故意犯であり、重過失でもあり、同情の余地は無い。「信じひん者は既に有罪宣告を受けてる。」(ヨハネ三章十八節拙訳)と主イエスは言わはり、不信仰の者や異教徒らに天国行きの望みはまったく無い。頑なに生温い信仰で安住するとか、拙者の言うことを聞かへんにわかキリスト者にも望みは無く、後で泣き喚いて、歯ぎしりするであろう。既に主イエスから拒絶されてるさかい。この主の御言葉は予定説を裏付けてる。
過去のファリサイ派は、自分たちは律法を守ってるつもりで居ってもその実は守っておらず、主イエスにそのことで怒られ、非難されとった。ファリサイ派があかん点は、律法遵守の姿勢やのうて、律法をきちんと聖書どおりに守らんことや。つまり、神の御要求どおりに守らず、人間が勝手に付け加えた言い伝え、伝統、習慣等を優先してたことや。パウロは元ファリサイ派であり、ファリサイ派の思想は「律法を守ってる自分たちは義で、守らん奴らは罪人、病人・徴税人・遊女等も罪人で汚らわしい」という決めつけた考えで見下し、自分らはそうではないから義人やと思い、自惚れとった。実際はファリサイ派が律法を守ってると思うのは勘違いでしかなく、先祖の人間が勝手に付け加えた細則を信じて従ったことが悪かった。更に、彼らに慈愛が無かったのが致命的に悪かった。せやから、ファリサイ派のようになるなとパウロは上記の言葉で示しただけのことであって、律法そのものを悪い物かのように思ったり、守らんでもええなんて思うのは大間違いや。パウロはローマ書七章十二節でも「律法が聖で正しくええもの」と擁護したこともあるが、他方で律法を貶すようなことを書き、矛盾する内容も書いた。実際、神の律法を否定する権限は人間には無く、否定したり拒絶する者は、悪魔(堕天使)とその悪魔から出た人間だけ、つまりサタンだけや。このように解釈するのが聖書全体的にも矛盾が無く、主イエスの教えとも適合する。拙者はファリサイ派のようではなく、むしろ現代のにわかキリスト者どもが「現代のファリサイ派」であり、過去にもその旨の説明をした。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 三章二十節(拙訳)
律法の行いによっては、誰も神の前で義とされへんやろうからや。律法によっては、罪の認識やから。

現在普及する日本語訳聖書は誤訳が多く、上記のパウロの言葉も律法廃止論者にとってはその偽教義を正当化するための金科玉条のごとく振りかざすネタにされてる。これまた紛らわしい言い方や。上記のパウロの言わんとしてることは、拙者が言うたように、律法を守るのは至極当然であり、守らんのが異常という意味ならば容認出来る。律法という鏡を見て、人間は各自の罪を認識して改める必要があるが、パウロは律法と関連する「悔い改め」を伝えてへん。これが最もあかん点やな。洗礼者ヨハネも主イエスもまず初めに「悔い改めよ」と言うて回ったことを忘れてはならんし、悔い改めとは律法違犯という罪を犯すことをやめ、信仰前の間違うた世俗的な生活様式を改めることや。昔のユダヤでは有り得へんかったが、現代では反聖書的、反キリスト的な「異邦人の道」である「西洋かぶれ」をやめることも要求されてる。しかし、多くの自称キリスト者どもは律法を無視して軽んじて悔い改めてへんくせに、キリスト者と名乗るもんやから、厚顔無恥でふざけてる。拙者も自称キリスト者どもには怒りしかないし、主イエスも怒ってはるよ。それ故、最後は、他者にとって躓きになったり(律法を無視しても救われるというのがそれ)、不法を行う自称キリスト者どもは毒麦として集められて燃やされ、泣き喚いて歯ぎしりすることになる(マタイ十三章四十節〜四十二節参照)。反対に、律法を守る人は、「正しい人」であり、不法を行う者には当たらず、こないな仕打ちを受けることなく父の王国で太陽のように輝くことになる(マタイ十三章四十三節参照)。
パウロは、かつてファリサイ派に居って律法を熱心に擁護してたのに、一転して律法を軽んじる姿勢に変わった。現代のキリスト教業界における律法廃止論の元凶を辿れば、プロテスタントという十六世紀から起こった勢力なんかよりも前、四世紀にローマ帝国が国教化したおかしなカトリックよりも前の一世紀を生きた偽使徒パウロやった。現に、現代プロテスタント信者たちは偽使徒パウロの言葉を最重要視し、主イエスの御言葉や十二使徒の言葉は軽んじてることからも明らか。それではパウロ教信者でしかあらへんのですよ。「実際、我は使徒たちの中で最も小さい者で、使徒と呼ばれるに相応しくない。なぜなら、神の教会(キリスト者の集まり)を迫害したんやから。」(コリント一 十五章九節拙訳)とパウロは謙遜したかのように一旦は言うたものの、同じコリント宛に再び送った手紙で、自分は十二使徒に劣らへん(コリント二 十一章五節、十二章十一節参照)なんてでかい口を二回も叩いたのと矛盾するし、気まぐれな発言が多い。もっとも、一世紀当時はパウロは他者から「使徒」と認められたことはなかった。パウロが使徒とは、全部パウロ書簡にあるもので自称や。パウロは、ローマの信徒への手紙一章一節の書き出しから「使徒」と自称し、五節には主イエスから使徒とされたと自称し、十一章十三節では「異邦人の使徒」と自称した。自称という根拠はパウロ自ら述べてる。それはコリント一の九章二節に書いており、「他の人たちにとって我は使徒ではないとしても〜」と認めてる。然り、パウロは使徒やない。
パウロが使徒と自称したんは、高慢故や。もし主イエスの公生涯で行動を共にしてた十二使徒だけを使徒として認めると、パウロは自分自身がキリスト者の中で最上位である「使徒」にはなられへんさかいな。「そして、神は教会からある者を第一に使徒、第二に預言者、第三に教師を立てはった。その後に奇跡を行う力、その次に癒す賜物、援助、管理、言葉に似たもの(異言)。」(コリント一 十二章二十八節拙訳)とパウロが書いたように、第一の地位を彼自身が占めたかったのでしょう。もし彼が使徒でないのなら、十二使徒よりも下になるからや。既に述べたように、パウロは高慢であり、自ら使徒を自称し、十二使徒と積極的に交流することもなく、パウロ信者たちに向けて十二使徒に劣らへんと豪語し、対抗心もあったことを手紙で表明し、おそらく口頭でも異邦人に向けて同じようなことを言うてたんは想像に難くない。また、過去に書いたように、パウロが使徒になれるなら、多くの者が使徒と自称することが可能になるし、十二使徒との差も無くなる。「ペトロ、ヨハネ、ヤコブらは使徒で、自分も使徒だ」みたいなことが簡単に言えてまうやろ。それではおかしいやん。過去記事「パウロは偽使徒」で使徒ペトロの発言の聖句を示したとおり、主イエスは十二人だけを使徒とし、特別な統治者としての座を設けてるのは明らかや。よって、パウロが十二使徒と他のキリスト者が同列になることは決してない。パウロは十二使徒たちに嫉妬と対抗意識は間違いなくあった。それ故、パウロは自分が十二使徒たちと同等やと言うのに必死なのが分かります。自己主張が強過ぎて惨めでさえあります。パウロが自分で言うたように、あんまり他人から推薦されへん人やった。パウロが異邦人伝道で頑張ったんは分かるし、多くの異邦人に主イエス・キリストの名を知らしめるのには貢献したが、真理を伝えるとか、信仰の質を上げたり保つ等というのに貢献したとは言えへん。実際、その点の功績はほぼ無い。当時、皇帝崇拝やミトラ教といった太陽神崇拝をする土着宗教が盛んなローマ帝国の中心地ローマや異邦人たちに受け入れられたんは、パウロが神の律法を貶す等して教義を崩し、脱ユダヤ化した結果でしかあらへんからや。当時のローマ帝国ではユダヤ人追放令が度々出された程にローマ人は、亜細亜系のユダヤ人やユダヤ文化を嫌ってたさかい。今の西洋人が日本人を敵視し、日本文化に従おうとせえへんのと一緒の構図。パウロはより多くの人々に受け入れてもらいたいという欲が先行し、ローマ帝国の人々に受け入れてもらうには、ユダヤっぽさが障壁になると考え、自身の名であったサウロからパウロと西洋風の名に改名し、更に、律法こそがユダヤっぽさの特徴とも言えるさかい、信じると言いさえすれば救われ、律法は守っても義とされへんと吹聴し、律法遵守の必要性を否定し、結果的にローマでキリストを広めることに寄与しただけのこと。パウロは明らかに主イエスと十二使徒の教えとは異なることを教え、また、十二使徒や当時のエルサレム教会員といった律法擁護派とは対立してたんは過去記事で証拠を見せたとおりや。パウロは、ヤコブやペトロたち、またユダヤ人キリスト者たちと仲良うなかった。使徒やエルサレム教会側が、パウロが一応主イエスを信じると表明して熱心に主イエスの御名を広める布教活動をしてるということで一応「兄弟」として容認してただけで、心から信頼出来る兄弟ではなかったと拙者は考えてます。過去記事「パウロは偽使徒」で証拠を示したとおり、実際それが正しい見方であろう。

パウロが異邦人への伝道旅行の初期(キプロス宣教前)で早々に改名して西洋かぶれに走り、異邦人に受け入れられ易いように名前も西洋化し、ユダヤ人らしさを自ら捨て去り、律法も蔑ろにする姿勢になり、主イエス・キリストによって救われる故、律法を守る必要が無いと触れ回った。それはパウロがローマに取り入るためであり、そこでパウロ自身がローマで主要な地位を占めたかった、名を後世に残したかったという欲があったのであろう。パウロは主イエスの御名を唱えていたが、明らかに主イエスの教えとは反する言葉や態度が多いし、主イエスから直々に教えを受けた十二使徒や初代教会のエルサレム教会員とも仲は良うなかった。それで彼は自ら異邦人の方に行くと張り切って西方に向かい、ローマを拠点とした。使徒言行録の終わりはパウロがローマで一人暮らしするところで終わってますよね。パウロが殉教したなんていう伝承がありますが、疑わしい。パウロの姿勢は、とてもローマの権力者から殺されるようには見えへんし、権力者から睨まれるような感じが聖書から感じ取れへんからや。実際、パウロは同胞である筈のユダヤ人からは酷く嫌われたという事実はよう分かるが、ローマ人をはじめ異邦人から嫌われたことはない。パウロがユダヤ人たちから訴えられた時は、ローマ皇帝に上訴してローマの権力を借りようとしたことも分かるし、投獄されることもあったが、それは騒ぎを起こしたという名目でしかなく、その実はローマ帝国の国家権力によって保護され、身の安全を確保したと言える。当時の亜細亜系の血統ユダヤ人たちは、律法を蔑ろにするパウロを生かしておけないと思う程に憎み、パウロは身の危険を感じ、もしローマ軍に保護されたら、ユダヤ人たちは手が出せずに安全とパウロは考えたんやろな。使徒言行録二十三章二十三節〜二十四節から、パウロへの特別対応が分かる。パウロは他のユダヤ人とは異なり、タルソス(現トルコ)生まれ故にローマの市民権を持ってた国籍上のローマ人であり、領主ヘロデの人脈とも仲良しやったからや。パウロは理由無くユダヤ人から嫌われたんやない。パウロが律法を蔑ろにすることでユダヤ人たちの怒りを買って迫害されたのであり、パウロがほんまもんのキリスト信仰を持ったが故に迫害されたのではないというのが拙者の見解や。パウロは元々ファリサイ派に所属し、主イエスを信じて神の律法を守ってた聖徒たちを迫害し、縛り上げて投獄してたし、ステファノの殺害にも同意したとも聖書にある。パウロは、明らかに権力者側の人間なんです。そこから抜けたように見えても、使徒言行録十三章一節のとおり領主ヘロデの幼馴染マナエンと一緒に居って、回心後も依然として権力者と深い繋がりがあったのも事実。パウロはタルソス出身でありながら、エルサレムに留学しに行ってガマリエルというファリサイ派上層部の教師から聖書について英才教育を受けた。常人では有り得へん待遇。イスラエル生まれの人やのうて、同じユダヤ人ではあるものの、わざわざ外国生まれの人をエルサレムに呼び寄せて当時のユダヤ教指導者の立場にあったガマリエルが教えるって、普通ではなく、特別な人脈故に招かれたと考えるのが妥当や。パウロは領主ヘロデという権力者人脈を持ってた故、また、生まれながらにローマ市民権を持つローマ人であったため、ローマ十三章にあるような世の権威(一世紀当時はローマ帝国やローマ皇帝に対しての意)に服従するようにパウロは説いた。これも実は反キリストの教えや。なぜなら、主イエスは、この世の権力者に服従するようには教えはらへんかったし、ペトロと他の使徒たちは「人間よりも神に従わなあかん。」(使徒言行録五章二十九節拙訳)と言い、権力者たちに不従順な姿勢を固持したからな。しかし、反対に、パウロは権力者に従順であるように言うており、この教えは完全におかしい。パウロは世の権力者に従順であるべきと書いてることから、この手紙をローマに居る信者に宛てて書いた時点で既にパウロはローマの権力者にとって非常に都合のええ存在であり、このパウロの精神ではとてもローマで殉教したとは思えまへん。せやろ。殉教というんは、世の権力者に従わへん故に迫害され、如何なる脅しにも屈しないことで発生するからや。ダニエル書三章に書かれてるバビロンの王ネブカドネツァルと三人の敬虔なユダヤ人のことが想起されよう。彼らも世俗の王の命令に従わず、死刑宣告を受けた。真のキリスト者たる者はそないな姿勢や。しかし、権力者に抵抗せず、世の支配層の権力や命令に従うんなら殉教は起こり得ない。むしろ、偽使徒パウロは、権力者に追従する姿勢を異邦人のパウロ信者たちやその手紙の読者全員に向けて勧めており、目に見えへん霊的な獣の刻印を押させるようにしかねへん教えやと拙者には思える。無論、欧州人に唆されて明治維新という国家転覆罪の実行犯たる薩長土佐等といった反逆分子のように暴力的な反乱を起こすように言うてるんやないが、どこまでも時の権力者に従順であるというのは危険思想であり、それでは主イエスに倣う者にはなられへん。非暴力、不服従の姿勢が重要です。
主イエスは御自分の時が来たことを悟りはり、敢えて逃げもせず、抵抗もせずに逮捕され、兵士らに連行されて当時の権力者の許に連行されて初めて面会し、領主ヘロデや総督ピラトに媚びへつらうこともせず、ご機嫌取りや命乞いをしたりして釈放や死刑回避を願うこともなかった。もっとも、主イエスが沈黙を守って十字架刑に甘んじたんは、イザヤの預言やダニエルの預言を実現させるためやったが…。主イエスが、領主ヘロデや総督ピラトやユダヤ教の祭司長等に追従したり、当時ローマ帝国では皇帝崇拝が行われとったが、ローマ皇帝を褒め称えたりしたか。否やろ。有り得へんのや。世の権力者に服従して、世の友となってるようでは、神に死まで従順である精神力は無くなり、信仰を貫いて殉教する精神も無くなるであろう。ヤコブも同じように「世の友となろうとする人は誰でも神の敵です。」(ヤコブ四章四節拙訳)と戒めてる。ダニエル書三章の話も何遍もしてきたように、自分の命すら憎んで(ルカ十四章二十六節参照)、神の律法を死守する必要があり、それこそ真のキリスト者の姿勢であり信仰や。せやから、権力者の言うことや権力者が作った反キリスト的な法や秩序に従ってるようでは目に見えへん霊的な獣の刻印が押され、神による救いはあらへんと言える。

二千二十年以来今も、世界経済討論会(WEF)、ロックフェラー、ロスチャイルド、ビル・ゲイツらといった悪魔崇拝者ども、超富裕層どもがこちら(BitChute)のとおり、コロナという存在せえへん感染症危機をでっち上げて演出し、彼ら支配層にとってのみ快適な新世界秩序(NWO)、超共産主義で超監視管理社会の構築に向けて、大きな再設定(グレート・リセット)をしたがってる。そのために、各国政府に憲法を改悪させ、露西亜や支那では国家元首の任期切れを撤廃し、他の国々でも憲法やその他の法律等を無視して違反し、非人道的な犯罪を犯し続けてる。日本でも同じであり、更に支配層は自民党に命じてナチス的な思想が入った「自民党改憲草案」の内容で改憲するように圧力を掛けてる。国務大臣や国会議員らが熱心に改憲を言うことは憲法九十九条違反なのにも拘らず、それを指摘し、声高に非難してる人は殆ど居らん。テレビや新聞では絶対に言わへんし、嘘ばっかり言うてるやろ。せやから、役立たずであり、むしろ有害なんや。自分たちの自由や権利を悪い権力者どもから守ってくれる日本国憲法をまったく知らん日本国民が多く、その指摘が出来る者が法曹の中でも居てへんのが世も末や。日本に四万人以上も弁護士が居るのに、憲法が苦手とか取り扱い業務に無いなどと逃げまくり、弁護士法一条違反を犯し続ける役立たずばかり。憲法問題から逃げる弁護士は弁護士失格であり、懲戒処分に値する。日本国民の大多数が憲法の内容をまったく知らず、ぼけーっとしており、そないな愚民だらけでは日本が良くなる筈もない。支配層は、各国政府を操り、中小企業や個人事業等の弱者たちを倒産や廃業させて借金まみれにし、意図的に金融危機を起こし、ベーシック・インカムという配給制や電子通貨を導入し、支配層に逆らえば配給を停止する等して国民を脅し、家畜として大衆を飼う準備をしてる。その準備として、各国の悪徳政府がコロナ茶番を名目にした憲法違反や数々の犯罪を平気で犯す独裁体制を敷いてる。こちら(BitChute)から分かるように、ビル・ゲイツは学校の試験の成績だけが良かっただけの凡才でしかないが、銀行家一族であった母親の縁故でIBMの最高経営責任者と話をつけて自分の息子の事業の便宜を図らせた。こうして母親のおもりを受けたビル・ゲイツのマイクロソフト社は大きくなって金持ちになり、弁護士であった父親もロックフェラー家と親しくし、彼らからも色々と吹き込まれた影響もあり優生学を信奉し、世界保健機関や製薬会社に多額の出資をして彼の計画を実行させてる。ゲイツやロックフェラーがおもな出資者である製薬会社等がテレビの後援企業として多額の出資をし、御用医師や御用学者に賄賂を贈って、存在せえへんコロナの脅威を煽ってワクチンへと誘導し、ワクチンの害を言うことを許さへんという情報統制をしてる現実がある。テレビだけやのうて、情報技術系の大企業も同じく情報統制を敷き、ユーチューブやツイッター等でもコロナやワクチンについて真実を言う人の動画を削除したり、「誤解を招くツイートです」等と虚偽の規制をし、酷い場合は口座凍結をも辞さない迫害をしてる。そして、今、我等が目の当たりにしてるように、多くの政府要人や報道各社に殺人ワクチンをええ物かのように言わせて国民を騙し、誠実なワクチン否定派の意見を一切黙殺するだけやのうて「陰謀論」と中傷し、ネット上でもユーチューブやツイッター等が支配層に不都合な情報を検閲して削除するという言論弾圧を加えてる現実からも、権力者に追従することの悪さが分かるであろう。拙者の公式サイトの「コロナ問題」(キリスト道)にも書いたことをよう読みなはれ。コロナは茶番と拙者は二千二十年では言うてたが、ワクチンが展開されてからは悪質度が増し、許し難い大犯罪となってる、せやから、拙者は「コロナ犯罪」と呼び、これに協力する愚民どもも共犯者と看做す。有害無益なマスク着用をし、他人にも勧めたり強要したり、ワクチンも推奨したり強要したりする者は皆、犯罪者や。神からの厳罰を覚悟しておきなはれ。足を洗いたいなら、今すぐにやりはなれ。さもないと、罪は増すばかりやし、手遅れな程に社会が悪化した後ではあんたもその責任を負うことになる。内部事情を知ってる者は内部告発をせい。拙者宛でも構へんよ。アメブロのメッセージ機能ではアメブロ運営が見てるさかい、連絡先を書くことも憚られるでしょう。せやから、「キリスト道」の「お問い合わせ」から相談や依頼をしてください。もし内部告発してくれるなら、拙者は匿名性を守り、内容を貴殿のご要望になるべく沿う形(ブログまたは動画)で出しますよ。こちら(BitChute)では、Heavenese(ヘブニーズ)という所に報道関係者が内部告発したようやが、なんで彼らのような偽り者の所に行くんでしょうか。間違うてますよ。人を見る目の無い人がほんまにこの世には多い。彼らも他のプロテスタント牧師らと同様に聖書を悪用し、金儲けをする悪人と言える。西洋かぶれも酷いし、聖書解釈も間違えてるし、支持するに値せえへん。報告する相手、親密になる相手を間違えんようにしなはれ。悪い人付き合いは、善人であることから遠ざける。悪人と一緒に働くとか、深い関係を持つなら、その悪に加担せざるを得ないし、そのつもりがなくともそれが自然と思ってまうからや。人を騙すとか、悪い物を売りつけたりし、悪いことをして金儲けするような良心が痛む仕事をしてるなら、さっさと辞めて他のことをすべきや。金のため、生活のため等と言い訳を繰り返して辞めへんのは、その人も他の悪人と同種の人間であることを証明してるようなもんやで。内部から変えたいと思ってる人も居るかもしれへんけど、それやったら尚更黙っていつも通りに上長や会社命令に従ってるだけでは何も変わらへんことに気付きなはれ。内部の悪い事情を曝け出し、それを世間の目に触れさせ、非難を浴び、それで改善への道がようやく開けるもんや。隠してる限りは悪やで。「キリスト道」でも紹介してるとおり、米国からは内部告発が増えてるが、日本は全然居らへんよね。なんで。現代の日本人ってほんまに悪人が多いよな。この最悪のコロナ犯罪を終わらせようとせえへんねんから。早よこの悪しき状態から脱したいなら、どっかの組織の内部に居る人は、匿名でもええから内部告発をすべきです。自分でブログや動画を書く勇気が無いのは困るんやが、どうしても他の人に広めてもらいたいと思うのなら、拙者もその役割を担いますよ。このコロナ犯罪という史上最悪の人類に対する犯罪を放置しててええ筈がないやろ。このコロナ犯罪をはじめとする世の悪に対して何とも思わんアホは、もう完全に人間としての良心も愛も失くしたサタンや。人間の皮を被った悪魔や。動画なら、ツイッターやユーチューブなんて言論弾圧するような所に動画を出すんをやめて、ビットシュート(BitChute)等といった検閲が無い所に掲載せい。過去記事「動画初投稿」で書いたとおり、グーグル傘下のユーチューブなんかあかんねんって。折角告発しても、検閲されてすぐに消されたら意味無いやろ。周知の仕方にも気ぃ付けて、もっと頭を使えよ。このコロナ犯罪を見て、世界の人間どもが如何に腐ってるか、如何に邪悪であるかを思い知ったであろう。性善説という考え方を捨てなはれ。それは間違いやし、幻想に過ぎひん。聖書は、すべての人間は悪で、神に対して罪を犯し、反逆し、善を行って一生を終える者は居らんと教えてる(詩編十四編三節と五十三編四節、コヘレトの言葉七章二十節参照)。使徒ペトロが、「(神の律法を守る)正しい人が辛うじて救われるのなら、不信心な人や邪な人は何処に見られるであろうか。」(ペトロ一 四章十八節拙訳)と言うてる位やのに、神の律法を守る真のキリスト者以外の人間は話にならへんよ。神の律法を守る正しい者でも「辛うじて救われる」のであって、現代のにわかキリスト者みたいに西洋かぶれし、律法を無視し、正しい信仰生活をせず、キリスト者として正しい行いをせえへんし、神にとっても隣人にとっても役に立たんくせに、既に救われてると偽使徒パウロの書簡から出た偽福音である「福音の三要素を信じてれば大丈夫」、偽福音を信じて浮かれて「早く携挙されたい」等と寝言を言い続けてる人たちは救われへん。にわかキリスト者たちが何処に見られるかって、それは神の王国やのうて、「外の暗闇」に放り出され、泣き喚いて歯ぎしりする「燃え盛る炉」、即ち、地獄に決まってる(マタイ八章十二節、十三節四十二節、五十節、二十二章十三節、二十四章五十一節、二十五章三十節、ルカ十三章二十八節参照)。それも主イエスが予告しはったことや。無論、不信仰の者や異教徒も同じ運命や。
我等が神から出た者であることと、この世全体が嘘をつく邪悪な者に属することを我等は知ってる。」(ヨハネ一 五章十九節拙訳)と使徒ヨハネは書いた。この世の支配者である権力者や富裕層は皆、嘘つきであり邪な者たちや。それを「神から出た者」、即ち、真のキリスト者はその事実を知ってるのであり、これを知らん人やこれらを「陰謀論だー」って喚いて根拠も無く否定し、認めることを拒絶する人は神の民やない。主イエスも荒野で誘惑を受けた際、悪魔は自らこの世の権力や富の一切を任されており、望む人にそれを与えることが出来ると言うた(ルカ四章六節〜七節参照)。しかし、主イエスは、悪魔の誘惑に乗らず、律法(申命記六章十三節)を引用し、ただ父なる神である主を拝み、仕える姿勢を固持し(ルカ四章八節参照)、悪魔を拝まず、従わず、この世での権力や金銭等を得ることを拒絶したという事実が分かるやろ。主イエスは、人間も同じようにするようにと模範を見せはったんや。せやから、主なる神のみを拝んで仕え、他の偶像や悪魔等を拝まず、それらに仕えることもせんことが重要であり、悪魔や悪魔崇拝者である世の権威を持つ人たちに従順やったらあかんし、金銭やその他の財産や社会的地位や名誉等を欲してもあかん。それ故、パウロが書いたローマ十三章の内容を真に受けて権力者に恭順するなら、将来神の御前に立った時、えらい目に遭うで。
パウロの問題発言は他にもある。
(続く)