こんにちは。

 

今回は、自由と律法に対する誤解について書きます。

 

皆さんは、自由と聞くとどういう状況を思い浮かべますか。あなたがたが考える自由というのは、秩序や規律等が一切無く、何をしても良い、何を考えても良い、何を信じても良い、何を飲み食いしても良いということでしょうか。しかし、中には自由の中にも秩序や規律があって、それを守った範囲での自由だと考える人もいるでしょう。たとえ一定の秩序が必要だと考える人であっても、バレなければ規則を破っても構わない、少しなら破っても構わないというようないい加減な気持ちの偽善者が多いでしょう。例えば、不倫をしたり、貞操観念が無い、みだらな行いをしたり、そのような思いに耽る人は不法の者です。人間の法律の中で、不倫は民法では違法だが、刑法やその他の条例で違法にならなければいいと考えたり、若しくは違法でもバレないようにすれば何をしても良いと考えている人もいるでしょう。たとえ人間にバレなくても、神にはすべてお見通しです。聖書では、不倫という用語はないですが姦淫に該当し、配偶者以外の人と肉体関係に及ぶのは勿論ですが、たとえ現実の行為に及ばなくても情欲を持って他人を見るだけで不法行為で、既婚者だけの問題ではなく、独身者の問題でもあります。聖書が教える姦淫とは、誰にでも分かる外形の行為は勿論のこと、他の人間には分からない心の状態をも問題視しています。よって、学生同士の恋愛関係なら大丈夫だとか、独身者なら成人した他の独身者となら何人と関係しようが自由だとか、既婚者が配偶者以外の人に心の中で情欲を抱いても良いということにはなりません。たとえ人間が裁かなくても、神がお裁きになります。

 

聖書に書かれている神の律法、掟、戒めを知らない人間たち、たとえ神の律法を知っていても無視する人たちがこの世の大部分を占め、各国に憲法、法律、条例等があり、それに則って人間は生活して社会を構成しています。私が複数の過去記事で警鐘を鳴らしてきたので読者の方々はご存知のとおり、日本は法によって国家が運営される法治国家ではなく、人治国家です。日本は法整備をしてあたかも法治国家かのように偽装していますが、実際は権力者らが憲法も法律も守らず、国家権力がやりたい放題して犯罪を犯しても司法機関が動かない、身内には甘く処罰しない、政府や官僚は責任を取らず、隠蔽し、嘘をついています。マスコミは権力に屈して彼らの悪事を徹底的に追及して報道しないし、権力者の利益になって大衆に不利益になる重大なことを隠すために有名人の不祥事を事件化して大々的に報道する「スピン報道」で大衆の注意を逸らしています。国民は彼らの悪事に対して何もできずに黙って耐えるしかない、若しくは改善のために何の努力もせずに諦めており、せいぜいネット上で文句を言っているだけで終わる人がほとんどです。こんな人治国家である日本において、ゴミのように役に立たない学歴欲しさに十代の頃から塾に通い詰めて役に立たない上に偽りの知識を蓄え、政治家、官僚、法曹等になろうと一生懸命になる理由がまったく理解できません。国家公務員となって官僚になろうとする人は、国家公務員試験を受けるために勉強し、社会的地位、金銭、支配欲、名誉欲の虜になっています。その成り果てが、今よく目にする汚職の官僚たちです。財務省が特に酷いですが、他の官公庁も表に出ないだけで同じようなものです。法曹になる人は、六法を片手に司法試験の勉強をし、中には何年も司法試験に落ち続けて浪人する人もいます。彼ら彼女らは一度限りの大切な人生を無駄にしています。正義が存在しない日本の司法の実態を知ればやる気は一気に失せるはずです。それでも多大な時間と費用をかけて法曹になろうとしたり、実際にその職にしがみついている人は社会的地位やお金のために行政権力に忖度するか、世の真実を知らない哀れな人たちです。政治家はご存知のとおり、芸能人上がりで理性も教養も無い人でもなれるし、形式だけの帰化人や世襲議員をはじめとする売国精神旺盛の人だけが不正選挙で選ばれるのが常です。世の真実を知り、悪い仕組みを正そうとし、悪を憎む高潔な人が政治家になることはできません。国会議員になってから翻意して悪事を暴こうとした人々は暗殺されてきました。こんな国家や国民が繁栄するはずもなく、滅びるのは時間の問題です。実はこれはつい最近始まったことでもなく、昔からそうなのです。今はかつて無いほどに酷くなっただけです。もし憲法が改悪されれば、日本国民の主権と人権が完全に喪失し、日本は北朝鮮のようになって、政府の独裁や犯罪行為に異議を申し立てることすらできなくなり、もし異議を唱えようものなら警察が飛んで来て逮捕、拷問、最悪の場合は獄死や処刑されるという時代になりかねません。日本でそんなことになる訳がないと思っている呑気で無知な日本人は思うかもしれませんが、過去に日本ではそういう状態になりました。戦前の治安維持法と特高警察の話を過去記事「共謀罪と真のクリスチャンのあるべき姿勢」や「共謀罪、刑事手続、反キリストと新世界秩序、RAPT教というカルト」でしたとおり、日本で実際にあったことです。治安維持法の悪さを知るために必ずこちら(YouTube)をご覧ください。治安維持法という悪法を擁護する政府、自民党はこちら(YouTube)とこちら(YouTube)を参照してください。共謀罪はこの人が法務大臣の時に可決されたことを思い出して忘れないでください。こちら(YouTube)をご覧ください。共謀罪は治安維持法よりも悪化する可能性があり、弁護士らも警鐘を鳴らしています。参考までにこちら(YouTube)。その動画で内通者、密告者について語られており、あの弁護士は的確な例えができませんでしたが、私が例えるならばイスカリオテのユダですね。クリスチャンにとってはしっくりくる例えだと思います。イスカリオテのユダは主イエスの弟子を装いながら、実際は悪魔に身も心も委ねていました。同じく今の時代でもそのような人が正しい人を死に追いやるのです。過去記事「共謀罪、刑事手続、反キリストと新世界秩序、RAPT教というカルト」でも私が述べましたが、あなたがたの中からイスカリオテのユダが出ないとも限りません。そうならないように願っています。治安維持法は当初は共産主義者を取り締まるという名目で一般人には及ばないと説明されて制定されましたが、成立した後は次第に改正も重ねて拡大して共産主義者だけでなく、政府の方針に合わず、政府にとって不都合な人たちを警察が一般人を容赦無く逮捕、拘留、拷問、有罪、最悪の場合は死刑になりました。2017年7月に施行された共謀罪は改憲後にこれを繰り返すでしょう。初めはテロ対策という大嘘を掲げて無理やり成立させ、本当の対象はNWOを信奉する独裁的な政府に従わない一般人です。テロという言葉も過去記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」で説明したとおり、テロは権力者が主体であり、ある目的を遂行するために意図的に起こされるもので、一般人はテロを起こすことはできません。独裁はお隣の国だけで日本には関係無いということではないのです。共謀罪が成立して一年以上経ったけれどもまだ何もないから大丈夫と思っている日本国民が多いでしょうが、それも過去記事で話をしたとおり、共謀罪は違憲な法律だから今は直接適用できないだけのことです。だから、今のうちに違憲無効訴訟でもして廃止に追い込みたいところですが、誰もしようとしません。過去の判例から分かるとおり、裁判所は統治行為論を持ち出して「国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、司法審査の対象とはならない」等と言い訳をして行政に忖度して憲法判断をせずに逃げるのが目に見えているのでおそらく無駄でしょう。このことは過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」で私が既に述べました。裁判官の人事は内閣の行政が握っているので、司法は独立していないのが実態で、三権分立なんて建前だけの嘘です。安倍首相は何回も「立法府の長」と発言し、これは彼が行政だけでなく立法を行う国会をも支配しているという本心がさらけ出たのだと思います。ただの言い間違いではありません。仮に言い間違いなら何回も間違えません。今の内閣は、本来は違憲無効になって当然の法律を多く成立させたので憲法を改悪して事後追認、及び国民に文句を言わせないようにしたいのです。憲法を改悪し、日本国民の主権、基本的人権、平和主義を破壊し、徹底的に古代イスラエル人の末裔である日本人を迫害し、あわよくば滅亡させたいのです。朝鮮系と支那系の帰化人や在日外国人の国会議員らが対立しているように見せかけながら裏では繋がって与野党グルで日本人迫害の法律を成立させ、特に古代イスラエル人の末裔を憎む偽日本人らが首相や国務大臣になって日本政府として売国の限りを尽くし、日本の売国官僚が偽ユダヤ人が支配するアメリカと結託して日本を少しずつ潰しています。改憲に賛成する人は自分自身の人権も無くなることに気付かない愚かな人で、洗脳されています。日本では今、戦前の時代のように自由が完全に無くなる一歩手前まで来ていると私は言いたいのです。もし存在自体が違憲である現内閣と自民党の主張どおりに憲法の改悪を許したら、日本において現憲法上で保障されている表現の自由、信教の自由、思想・良心の自由、集会・結社の自由が無くなります。それは、主イエス・キリストへの信仰の故に酷く迫害され、聖書を所持していると没収され、逮捕や拘留される等、権力者から圧力が加わるということです。私はこう言うことで恐怖を煽っているのではなく、背教や棄教をしろと言っているのでもなく、ますます残された時が少なくなってきているということを示しているのです。

 

自由の話に戻りますが、自由という言葉を辞書では大体、他のものから拘束や支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいうと定義されています。この言葉の定義のまま、自由な国と言われたらどういうことを想像しますか。自由な国と聞けば、聞こえは良いかもしれませんが、決して”善い”国ではないと私は申し上げておきます。もし辞書の定義どおりの自由を徹底するならば、各自が人間の本性に従ってやりたいことをするので、自己中心的になり、誰も働かない、助けが欲しくても誰も助けてくれない、誰も他人を思いやらない、殺人、強姦、強盗等を誰かがしても誰も文句を言えないし、助けもしないことになります。要するに、辞書の定義のような自由というのは放縦で無秩序になるということです。これはすごく危険なことだと思いませんか。これが神の創造の秩序と律法に逆らうサタンの思想であり、主イエスを拒絶する不信仰の者や異教徒と表面的にクリスチャンを名乗って主イエスに従うふりをして、死にたくない欲が強く臆病故に艱難前に携挙が起こると信じて携挙に望みを置く悪魔の子も似た思想を持っています。悪魔の子という表現は複数の過去記事で使ってきた用語なので、その言葉で過去記事を検索してもらえればお分かりになると思います。悪魔の子とは、神の律法、掟、戒めを守らず、主イエスに従順に従わない反キリストたちの人間のことです。主イエスを口先だけで信じると公言するクリスチャンの中でさえも悪魔の子は大勢います。そのような悪魔の子は自由という聖書の記述について、私が上述したような自由という名を借りて罪に満ちた放縦の生活に導いているのです。悪魔の子が「自由」という甘い言葉の罠で釣って、騙して彼ら彼女らと同じような悪魔の子を釣って馴れ合い、できれば選ばれた神の民をも騙そうと日々偽りの福音を広めています。私が言いたいのは、自由の意味を勘違いして欲しくないということです。辞書の定義にあるような放縦な状態を自由とは聖書は教えていません。悪魔の子は、聖書の記述や主イエスの御言葉を引用しつつ、それを曲解して人々を惑わします。例えば、以下の主イエスの御言葉を読んでください。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章32節

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

 

悪魔の子は上記の箇所だけ切り取って、律法廃止論の根拠にしたがるのです。彼ら彼女らは真理というのは自由をもたらすのであって、クリスチャンに束縛を与えたり、規律を作るものではないと吹聴します。とても耳触りの良い話ですね。こういう類の耳触りの良い話は罠だと私はこのブログで何回も宣べ伝えてきました。あまりに多くの過去記事で述べてきたのですべてリンクを貼りませんが、例えば「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」と「プロテスタントの致命的な間違い」をお読みいただきたいです。そこで私は「悪霊に惑わされた人間は、律法を守ろうとすると罪の奴隷にいると言いますが、実際は真逆で、神の律法、掟、戒めに従わないで罪を犯し続けることこそが罪の奴隷になっているのです。」と述べました。私は多くの過去記事で罪と律法の関係についても多く説明しました。これだけ分かり易く述べているのに、まだ「なんで」と思っている人がいるかもしれません。「自由っていいじゃん」、「自由こそ喜びだ」等と考える人がいるでしょう。私はそんな放縦さを欲していませんが、にわかクリスチャンを含めて世の大半の人間は辞書の定義どおりの自由を欲していると私は思っています。なぜなら、世の中は反キリストの人間の方がはるかに数が多いですからです。上記聖句の文脈を無視してもらっては困るのです。悪魔の子の手口も何回も過去記事で申しましたが、彼ら彼女らは聖書の文脈無視、聖書全体の主旨と調和を無視、聖書の一部分だけを切り取って主張し、本来の意味を曲解するのが得意なのです。上記引用聖句のすぐ前を読みましょう。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章31節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

 

主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば」と条件を付されています。要するに、主イエスの御言葉や御命令に逆らうことを言ったり、曲解したり、付け足したり、削ったりする者は主イエスの弟子でもクリスチャンでもないのです。そして、そういう者は悪魔の子なのであり、反キリストです。反キリストについては過去記事「反キリストについて」で述べました。また、主イエスはモーセの律法を廃止していないことについて過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」や「神の律法遵守とサタンとの戦い」をはじめ、何回も繰り返し私は宣べ伝えてきました。主イエスの十字架以降は律法は廃止されたと言う者は、放縦で肉の欲を存分に発揮して罪を楽しみ、それを自由と呼んでおり、あたかも主イエスがそう言ったかのように偽装して、罪の奴隷となっている悪魔の子です。以下の聖句も多くの過去記事で引用しました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15節

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

 

上記聖句も悪魔の子らによって曲解されており、範囲を狭めていると言っても良いかもしれません。悪魔の子らの主張は、新約聖書にある主イエスの御言葉で「神への愛」と「隣人愛」に加えて新しい掟として与えられた「兄弟愛」だけだと主張し、これをキリストの律法と勝手に別のものとして定義し、モーセの律法と切り離しています。しかし、主イエスがそのように仰ったのは「最も重要な掟」を二つ挙げられただけで、それらだけに限定する意味ではありません。マタイ22:34~40をよく読みなさい。ファリサイ派の律法の専門家が「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22:36)と主イエスに質問しました。まず、ここで忘れてはならないのは「律法の中で」という前置きです。即ち、モーセの律法は有効のままであることが大前提です。主イエスもモーセの律法を否定せずに、モーセの律法の中で最も重要な掟を二つ挙げてお答えになり、「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」(マタイ22:40)とまで仰いました。主イエスはモーセの律法にある他の規定はどうでもよいと仰っていません。ここに悪魔の子の曲解と国語力の無さが表れています。もし、上記の三つだけをキリストの律法と誤解釈して盲信するなら、後で主イエスから「不法を働くあなたのことは全然知らない」と言われてしまう自称クリスチャンです。そんなにわかクリスチャンが非常に多いです。

主イエスを神の御子でメシアと信じている人でも、主イエスは今から約二千年前にお生まれになって西暦が刻まれ始めたと思っている人が多いです。しかし、主イエス・キリストの誕生日は12月25日ではないことを過去記事「クリスマスと太陽神崇拝」で述べました。また、実際は主イエスは紀元前より少し前に人間としてご誕生されています。それはヘロデ王について考えれば分かることです。ヘロデ王はメシアが誕生したことを聞いて恐れて当時の2歳以下の男子を殺すように命令を出しました。ヘロデ王は紀元前4年に死にました。ヘロデ王の没後、ヨセフとマリアが主イエスを連れて避難していたエジプトからイスラエルに戻ったことがマタイ2章を読めば分かります。このことから紀元前と紀元後の切り替わりが主イエス・キリストの誕生年ではなく、実際は紀元前4年~6年頃だということが明らかです。だから、過去記事「日本人の消滅危機と生き様について」でも主イエスが35歳位で十字架で亡くなられたと私が書いたことに気付いた人はどれ程いるでしょうか。主イエスは30歳で洗礼を受けて福音宣教をする公生涯が始まり、33歳で十字架にかかったと言っている人が多いですが間違っています。ルカ3:23に「およそ30歳」とあり、30歳丁度なんて書かれていません。たとえ31歳~33歳であっても「およそ30歳」で通用します。そもそも、紀元前よりはるか前の天地創造の時から主イエスが存在されていたことを忘れ去っている自称クリスチャンが多いです。つまり、モーセの律法というのは神がモーセを介して人間にお与えになった聖なる神の律法であり、モーセという人間が規定した掟ではなく、完全に廃止されるものではありませんし、その効力が血統のイスラエル人にだけに及ぶのでもないことは複数の過去記事で既に説明済です。モーセの律法がイスラエル人だけに適用されるというディスペンセーション主義者らが唱える偽りの教義を聖書によって打ち砕きます。

 

旧約聖書 出エジプト記 12章49節

この規定は、その土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。

 

上記の「規定」というのは誤訳で直前の部分だけを指すように聞こえて不適切です。実際、原文及び英語で確認すると規定ではなく「律法」ですので、お手許の聖書も訂正しておいてください。イスラエルの土地で生まれた者だけに限らず、他の土地で生まれた異邦人であっても一つの律法、即ち、神の律法が適用されると書かれています。

 

旧約聖書 出エジプト記 20章10節

七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

 

旧約聖書 出エジプト記 23章12節

あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。

 

上記聖句は安息日の規定です。悪魔の子は、神と神の民との間のしるしであり、神の民に残された安息日を忌み嫌います。なぜなら、悪魔の子は神の民ではないので当然のことです。彼ら彼女らの得意技の一つは文脈無視です。安息日の規定直後に、上記聖句のとおり、寄留する人々も同様とあり、つまり異邦人も同じく安息日を守らなければならないということです。安息日は異邦人である寄留者が元気を回復するためともあります。聖書を無視して律法はイスラエル人だけのものだと言っている律法廃止論者で自称クリスチャンが悪魔の子であることがお分かりいただけたと思います。

さて、最近、日本では他のアジア人の労働者に対する虐待とも言える扱いが増えています。参考までにこちら(BIGLOBEニュース)。日本人の質も特に最近酷く低下しています。日本人ばかりでなく、すべての外国人が心の清い人ばかりではないのもまた事実です。日本に侵略、搾取、不正な金儲け等の悪事を行うことを目的として来る朝鮮人や支那人、その他の外国人を除き、心から日本や日本人を尊敬して日本が好きで働きに来た寄留者を虐待したり圧迫するのは人の道に外れていますし、律法(出エジプト記22:20、レビ記19:33~34、申命記10:19、申命記24:14)違反です。聖書は、主なる神が人種で人間を分け隔てしているのではないことを証言しています。人種差別撤廃を最初に提唱したのは主なる神であり、主イエスであり、モーセが神の御言葉を預かって人々に宣べ伝えたのです。もうよく理解されたと思いますが、モーセの律法がイスラエル人だけのものではないと過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」でも述べましたが、以下の聖句も証拠になります。

 

旧約聖書 レビ記 18章26節

あなたたちはわたしの掟と法とを守り、土地に生まれた者であろうと、あなたたちのもとに寄留する者であろうと、以上に挙げたいとうべきことを一切してはならない。

 

旧約聖書 レビ記 24章22節

あなたたちに対する刑罰は寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。わたしはあなたたちの神、主である。

 

旧約聖書 民数記 15章15節

会衆は、あなたたちも寄留者も同一の規則に従う。これは代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちも寄留者も主の前には区別はない。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、同一の指示、同一の法に従わねばならない。

 

このように、至る所に繰り返しモーセの律法はイスラエル人だけでなく寄留する者、即ち、異邦人にも適用されるとあります。万が一、異邦人にモーセの律法が関係無いならば、このような指示があるはずがありません。モーセの律法はイスラエル人だけが守れば良いのではありません。イスラエル人だけでなく、異邦人も主の前に区別は無く、人種の区別も無く、旧約聖書に書かれている神の律法に従わなければならないとあります。主イエス・キリストにあって霊的イスラエル人は一つだからです。

 

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章28節

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

 

上記聖句のように、真のクリスチャンは皆、主イエスにあって一つで、人種に関係なく、神の律法、掟、戒めを守ります。新約時代の今は主イエスが仲介者となった新しい契約になりましたが、過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」や「真のクリスチャンの生き様」で説明したとおり、律法は各自の心に記されているので律法をまっとうします。これが聖書の真理です。日本人だから聖書や律法と無関係ということは有り得ず、日本人が異邦人と決めつけるのも間違いです。過去記事「日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人」で私は日本人の約4割程度が古代イスラエル人の末裔だという話をしました。日本人には霊的イスラエル人という以前に、血統イスラエル人の可能性がある人もいるのです。それなのに、聖書に書かれているイスラエルが現在のシオニストどもが建国した現イスラエル国家と人々は勘違いしており、日本はイスラエルと関係無いと騙されているために起こる誤解なのです。この欺瞞も過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」で説明しました。世界中の学校や教科書ではこの真実が隠されて嘘ばかり教えられるので信じない人や知らない人が多いだけです。大事なのは、土地ではなく人です。神の律法、掟、戒めを守りながら主イエス・キリストへの信仰に入る者、かつ、口先だけでなく行いとして信仰を示し、神の御心を行い、神の栄光を現し、神に栄光を帰す者が真のイスラエル人であるということを過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」でも述べました。

 

そして、主イエスの掟というのは旧約聖書に書かれている神の律法をも含んでいることを忘れてはいけないのです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章58節

はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』

 

上記聖句は、旧約聖書の出エジプト記3:14と同じ内容です。要するに、モーセの時代にモーセに律法、掟、戒めをお与えになった主なる神はイエス・キリストということです。主イエス・キリストが天地と万物の創造主であることは当ブログ読者の人にとっては常識だと思いますが、知らないならば当ブログと以下の聖句を読んでください。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章3節

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

前後の文脈から考えて、この「言」というのが主イエスであることは明白で、もしそう思わないのであれば、いくらクリスチャンを口先だけで自称しようが、その人はクリスチャンではないと断言できます。ヨハネ1:14にも言が肉となったと書いてあり、主イエスの受肉のことを指します。過去に説明済のとおり、主イエスが受肉された事実を否定する者は反キリストです。主イエスの復活を霊体の復活だとか言う反キリストがいるという話も過去記事「イエスの復活と偽預言者RAPTはサタンの僕である証拠」でしました。忘れた人は復習しておいてください。キリストを悪用した朝鮮系のカルト宗教(統一教会、摂理、RAPT教等)は、主イエスの肉体の復活を否定しています。また、主イエスの肉体的復活を科学で説明できないから嘘だとか信じない等と言う不信仰の者や異教徒は論外です。創造主である主イエスが御自分で律法を人間にお与えになり、しばらく時を経て地上に人となって来られ、罪なき屠られる子羊として御自身の身を犠牲にされて律法の不完全な箇所を補って完成されたのです。すべて神の御計画どおりです。

 

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 1章16~17節

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

上記聖句のように、パウロはヨハネと同じことを述べています。神の御子であるイエス・キリストが創造主です。主イエスによらずに成ったものは何一つないのですから、律法も主イエスによって成ったのです。「旧約時代の主は父なる神だけで、新約時代の主は父なる神、神の御子イエス、聖霊の三位一体であって旧約時代の体制とは異なる」という認識の自称クリスチャンが多く、勘違いしていることに気付かない人が多いです。エホバの証人のようなカルト宗教は、御子イエスを被造物と考え、父なる神と区別し、主イエスを創造主の神と信じていないのに「キリスト教」と看板を掲げる支離滅裂な団体です。エホバの証人という教団を去ってもどこかエホバの証人の教義を引きずっている「エホバの証人崩れ」と言うべき人たちも多数おり、新約聖書の記述や主イエス・キリストに異議を唱え、主イエスが磔になったのは十字架ではなく一本杭だという嘘に執拗に拘る者たちもいます。彼ら彼女らは、自分たちこそが異端者なのに何故かクリスチャン気取りをして、自分たちが神に仕えていると勘違いして自惚れています。このような偽り者たちに惑わされないでください。旧約時代も新約時代も神は変わりません。変わったのは契約内容だけであり、律法そのものは廃止されていません。過去記事「プロテスタントの致命的な間違い」でもルカ10:28の主イエスの問いかけを引用し、「主イエスはモーセの律法を守ることと、それを実行するように、即ち、行いで示せれば永遠の命が得られると仰ったのです。ここでも明確に主イエスは律法にあるとおり実行するようにと仰り、「行い」を求めておられます。」と書きました。自称クリスチャンの方々、私が書いたことを隅々まで読んでいますか。読んでいない人が多いと思いますが、読んでも神に心を頑なにされて認識を改めないにわかクリスチャンが多いでしょう。それどころか他の所で陰口を言っているのでしょうが、そういう人たちは救いようがないです。私に言いたいことがあれば、直に私のブログ記事にコメント投稿してくればいいものを、臆病で論破されるのが怖いにわかクリスチャンはこそこそ隠れて悪口を言うのが精一杯でしょう。かと言って、あまりにも稚拙な悪口や不平不満を投稿してくるようなら、ただの迷惑行為でしかないのでそういう人に対しては投稿禁止措置を取ります。読者の方々もそんな下劣な発言を読みたくないでしょうし、私も見たくありません。私は挑発している訳でもなく、裁いている訳でもなく、救いに導きたいのです。間違った信仰を正したいだけなのです。私は真の聖書福音を宣べ伝えているだけなのです。しかし、悪魔の子は精神が腐っているので敵意と悪意から真理を宣べ伝える私について詮索したり、私が述べたことについて評論したり、私が言ってもいないことを言ったことにして悪口を言ったり、言葉尻を捉えようと必死になったり、過去のファリサイ派や律法学者らと同じこと、いやそれ以上に悪いことをしているのに本人たちは神に仕える者だと思い込んでいるのですからどうしようもありません。本当に、そういう人たちは自分の品性の悪さと言動の悪さを客観視した方が良いです。いかに愚かなことをしているか、肉の思いにまみれているか、罪を犯しているか、自覚するべきです。まぁ、それができないから悔い改めようとしないのでしょうが。そんなつまらないことをする暇があるなら、罪を犯すくらいなら、もっと聖書を丁寧に読み込み、主イエスに罪の赦しを日々祈るべきです。このように私が言うのは彼ら彼女らが憎いからではなく、憐れみを持っているからであり、悔い改めて主イエス・キリストに従順に従って欲しいだけです。私に従えとは一言も言っておらず、私の主張はいつも同じであり、主イエス・キリストに従って救われて欲しいのです。こういうことも繰り返し警告しているのですが、真理を受け入れず、真理に敵対することをやめようとしない人が多いです。前回記事「生温い信仰への警告」で「自分が霊的に盲目で病気になっていることに気付く人は幸いですが、それに気付かないし認めようともしない高慢な人は不幸です。そんな高慢な人に塗る目薬はないからです。自分自身の症状に気付かない人は治療する余地がないからです。主イエスが人の足りない所を補填し、病んでいる所を癒されたいと望まれても、にわかクリスチャン自身がそれを拒絶しているのです。」と書いたとおりです。

 

さて、自由の話に戻しますが、上述したとおり、何の秩序も無く法も無いというのは放縦で罪にまみれているだけで、本当の自由ではないのです。主イエスが仰った「真理が自由にする」というのは、私が過去に述べたとおり、罪の奴隷からの解放が自由ということです。神の律法、掟、戒めを無視することは真理でもなければ自由でもありません。罪という鎖に繋がれていて不自由なのであり、律法を無視して罪を犯すのをやめないで(悔い改めないで)行き着く先は第二の死(地獄)です。主イエス・キリストという真理のお方を真心から信じる信仰を持って、神の律法、掟、戒めを守ることが自由をもたらすのです。即ち、永遠の命に繋がるのです。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章21節

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 1章25節

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 2章12節

自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。

 

上記聖句のとおり、律法が自由であるとはっきりと書かれています。英語でも「the law of liberty」(KJV, ESV共に)とあり、自由の律法という意味です。仮に律法が自由でないならばこのような表現は有り得ません。罪深い人間にとって本物の自由は、主イエスという唯一の救い主を真心から信じて、神の秩序と律法を守って神の御心を行う者に与えられるのです。アダムとエバがエデンの園という楽園から追放されたのも、神の御言葉、御命令に背いた罪の結果だということを思い出しなさい。あらゆる言い訳をして神の律法、掟、戒めを守らない者は神の御国に相応しくありません。それ故、不法を働く者たち、即ち、神の律法を守らない者たちを主イエスは知らないと仰って外に追い出されるのです。律法を無視する者は不法の者であり罪の奴隷で、受ける報酬は死です。しかし、主イエスに対する信仰故に律法を守る人は義の奴隷であり、永遠の命を受けます。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章15~16、19~23節

わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

(中略)

かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 

神の律法を無視して悔い改めることなく不法を犯し続けながら自分は救われているとうわ言を言うにわかクリスチャンは厚顔無恥な罪の奴隷です。彼ら彼女らは罪から解放されていません。律法を無視して、好き勝手に生活して、罪を犯す生活が聖なる生活と呼べるでしょうか。「イエス・キリストを信じている」と口先だけで言いさえすれば、何をしても赦されるのではありませんし、福音の三要素を信じるだけでもいけません。主イエスはそんな条件を仰いませんでした。主イエスを真心から信じているのであれば、主イエスを模範として生活するはずです。主イエスが律法を守られたのと同じようにクリスチャンも守るはずです。そういう人こそ真のクリスチャンであり、偽り者のにわかクリスチャンと区別できます。永遠の命は、主イエス・キリストを抜きにして得ることは絶対にできません。いかなる人間が主イエスの代わりになることは有り得ません。従うべきは主イエス・キリストだけです。真の聖書福音と聖霊が偽りを見抜く力を与えます。神は愛です。愛が無ければ何もかも虚しいです。主イエスも父なる神への愛故に律法を遵守して罪を犯されませんでした。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で律法は愛から成り立っているという話もしました。主イエスは「律法は束縛だから廃止しよう」等と一度も仰いませんでした。はっきり言って、そういう思いを抱いているのはサタンとサタンを父とする悪魔の子だけです。なぜなら、彼ら彼女らは本物の愛が何かを知らないし、神の愛を実践していないからです。愛とは相手のことを思いやらなければ成り立ちません。「愛している」と気軽に恋人や配偶者に口先で言いながら、粗末な扱いをしたりして愛を行いとして示せなかったり、他の異性と関係を持ったり、みだらな思いを心の中で望んだりすれば、その人間関係には愛が無いということになります。相手のことを思いやり、相手が欲するであろうことを察知して喜ばれることをするのが愛ではないでしょうか。贈り物も自分が贈りたい物を贈るのではなく、相手が欲しい物を贈るのが愛があると言えます。反対に、相手が喜ばない物を贈る人は愛がありません。嫌がらせで贈り物をするというような異常者を除き、相手のことを考えずに贈り物をする人は「贈り物をする自分って偉い、立派、親切だ」と思っている惨めな自己愛者に過ぎません。信仰についても同じことが言えます。神に口先で「神様、愛しています。」、「イエス様、愛しています」等と言うだけなく、神が欲することを行いで示せねば何の意味もありません。そんな行いの伴わない信仰は死んだようなものであり、神はあなたが神を真心から愛していると認めません。つまり、主イエスが仰ったように、神を本当に愛しているならば、主イエスの御言葉と、そして神の律法、掟、戒めを喜んで守るのです。それが神が欲していることだからです。しかし、律法を義務感から嫌々守るとか、救いが欲しくて守る、律法を守る自分自身を義としたり、自己陶酔に陥るのではいけません。それでは律法主義に陥ると過去に注意したとおりです。主イエスは「日々自分を捨てて(否定して)、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰いました。つまり、毎日私たちは自我を否定して主イエスを信じて、主イエスを模範として従い、神の律法、掟、戒めを守っていかねばならないということです。律法が束縛と思ったり、律法は自分がやりたいことを阻む障壁だと思うのは自分を捨てていないからです。悪魔の子は、サタンと同じく自分自身を神の律法よりも上に置いています。私は次に挙げるようなことを思いませんし、実際に言いませんが、悪魔の子の心境を分かり易く言うと、例えば以下のとおりです。男性は「俺は俺がやりたいことをやる。なんで神に細かく指図されたり邪魔されなきゃいけないんだよ。なんで自分がやりたいことをやっちゃいけないんだよ。律法なんて知らねえよ。律法は過去のものだし、ユダヤ人だけが守っていればいいんだよ。自分には関係無い。第一、律法は廃止されたから無視でいいんだよ。」等でしょうか。また、女性は「私は自分のやりたいことをしたい。律法は過去のものだし、血統のイスラエル人に与えられたので自分には関係ない。律法はイエスの十字架以降は廃止されたから無視しても問題ない。私は被り物をしたくないし、髪を巻いたり、エクステ付けたり、パーマかけたり、アイロンもあてたり、髪も好きな色に染めたい。男より下にいるなんて我慢ならない。男なんかに負けないし、女の方が賢いし偉いのよ。化粧をばっちりきめて可愛い服を着て、アクセサリーも沢山身に着けて可愛くなりたい、綺麗になりたい。」等と考えてその神に反逆する思想を行いとして顕現している人が多いです。彼ら彼女が実際に上述どおりに言わないとしても、このような思想を行いで表現している人が多いです。いくら口先で言い訳をしようとも行いにすべてが現れています。自分を捨てないで神の創造の秩序に服従せず、神の律法、掟、戒めに従うことを拒否する人々は主イエスに従順な弟子(真のクリスチャン)ではありません。本人たちがクリスチャンを自称しようが真理を偽装しようが問題ではありません。サタンでさえも正義を装った光の天使に偽装しますし、終わりの時である今は、偽預言者、偽教師、偽クリスチャンが多く現れますので何ら不思議ではありません。愛する兄弟たちよ、世の偽りに惑わされないようにくれぐれも気を付けてください。たとえ相手がクリスチャンと自称しても簡単に気を許さず、きちんと聖書の真理によって見極めましょう。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 2章19節

人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

 

上記聖句のとおり、あなたは誰に打ち負かされたのか考えてみるがよい。もし神に打ち負かされたならば、神を愛し、主イエス・キリストを唯一の救い主と信じて、また模範として従い、世俗から距離を置き、神の創造の秩序、神の律法、掟、戒めを守るでしょう。反対に、サタンに打ち負かされた人は、神の創造の秩序と律法を嫌い、罪を犯し続ける罪の奴隷から抜け出せず、周りの人間や権力者を怖がって世に調子を合わせ、肉の欲のまま生活し、放縦を好み、不道徳な行い等のあらゆる不法を行います。あなたはどちらでしょうか。聖書の真理に反発したり無視して自分を捨てずに我が道を行き続けると、あなたの心はますます頑なになり、正常な判断力と理解力を失い、真理を遠ざけて悔い改めることができなくなります。恩恵期間が終わらないうちに今すぐ悔い改めましょう。自分が正しいと思っていることでも間違っていることがよくあります。気を付けてください。忙しい合間にも聖書を日々読んで神の御言葉から学び、聖書を研究することを怠らないでください。

 

箴言14:12は酷い誤訳ですが良い戒めです。私訳で恐縮ですが、「人間にとって正しいと思える道があるが、その果ては死への道である。」と訂正しておいてください。聖書が教える主イエスの御言葉、神の律法、掟、戒めが永遠の命への道であり、人間が考えることはどんなに正しいように思えたとしても、どんなに多くの人が支持しようとも称賛しようとも、それは滅びへの道でしかないのです。聖書の真理を拒絶することは滅びへの道です。上述でクリスチャンと自称する悪魔の子に対する弾劾をしましたが、彼ら彼女らに欠けている致命的な点は、謙虚さと神の義を誠実に追い求める心です。彼ら彼女らは自分たちが正しいと思い込んで傲慢であり、肉の欲と肉の思いが強い事実を認めようとせず、悔い改めず、自分が実行したくないことから目を背けて、自分がやりたいことをしています。繰り返しますが、悪魔の子は神の律法を忌み嫌っています。そして、彼ら彼女ら自身が持つサタンの信条を正当化するために、聖書の一部抜粋、曲解、文脈無視等によって律法廃止論を唱え、罪を犯し続け、真理を拒絶しています。目を覚ましなさい。神の律法を守らない不法の者が、神の律法を遵守されて罪を犯さなかった主イエス・キリストと共に新しい天と新しい地の世界で永遠に生きられるはずがないことを肝に銘じなさい。私たちがこの地上で生きている間は、日々私たちは自我を捨て、神の創造の秩序、律法、掟、戒めに自らを服従させ、主イエスの御許に行けるように聖霊の導きに従い、常に主イエスに感謝し、賛美し、祈り、この生きづらい世の中で成長しなければなりません。それが普通だと思えなければ信仰が無いに等しいです。兄弟たちよ、人間ではなく神を畏れ、主イエスに固く繋がっていてください。私たちはある日急に完全になるのではありません。少しずつでも日々主イエスの信仰によって改善を続け、完全なる者になれるよう努力し続け、悪を遠ざけ、罪から離れ、聖なる者となりましょう。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 6章14~15節、7章1節

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

(中略)

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上