こんにちは。

 

今回は、真のキリスト者の生き様について書きます。

 

私は当ブログであなたがたに真のキリスト者になるために聖書を複数回通読するように勧め、行いの重要性について何度も述べてきました。過去記事「神の御心を行う」等で書いたとおり、行いの重要性について述べ、行いの伴わない信仰は死んだようなものです。そして、ただ闇雲に何かすれば良いのではなく、神の御心に適う行いをしなければいけません。それも信仰から来る自主的な善い行いです。義務感から嫌々したり、人に見せるため、他人から称賛されて善い人だと思われたいため、自分が善い人間だと自分自身に言い聞かせるため、点数稼ぎのように善い行いをして救われたいため等、これらの動機で善行をするのでは偽善でしかありません。神は心の中も読まれておられるので、見せかけの善行は虚しい行為です。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 一章二十二節~二十三節(拙訳)

更に、御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。もし誰かが御言葉の傍聴者で、実行者でないなら、その人は鏡の中の生まれつきの顔を注意深く眺めて考える人のようやさかい。

 

複数の過去記事で引用した上記聖句のように、行いを伴うキリスト者でなければ、真のキリスト者とは言えません。地上の教会に籍を持って日曜礼拝に通って牧師の虚しい説教を聞いたり賛美歌を歌ったり献金すれば良い、律法は廃止されたから何でも許されている、信仰さえあれば行いは不要、行いによって救われるのではない等とうわ言を言っているにわかキリスト者が非常に多いです。律法廃止論の偽りについては多くの過去記事で述べてきました。信仰さえあれば行いは不要という主張もヤコブの手紙をはじめ、聖書を読めばそれが嘘であると分かります。地上の教会籍を持って通って牧師の虚しい説教を聞いたり賛美歌を歌う等の命令は聖書に一切書かれていません。そして、信仰さえあれば行いは不要というのは偽りの福音です。ただ聖書を読んで知っているだけで実生活では何もしない、聖書の教えどおりに生活しない人が多過ぎます。そんな人たちが自分たちはキリスト者だと声高に主張し、自らを偽るのと同時に周囲の人々をも騙しています。行いによって救われるのではないというのは正しい主張ですが、その意味を取り違えて、神の律法に反する行いをしたり、善い行いに励まず、神の御心を行おうとしない人は偽り者です。天地創造の神を信じている、主イエス・キリストを信じている、福音の三要素(主イエスが私たちの罪のために死なれ、葬られ、復活された)を信じている等と口先で言いさえすれば、立派なキリスト者であると勘違いしたり、洗礼を受けたから大丈夫と思い込んでいる人が多いです。これらだけを主張して行いが伴わない人は偽り者であると聖書は述べています。聖書を読んで知識を取り入れて知っているだけ、聞いたことがあるだけで終わっている人が多く、実際にそれを日常生活で行いとして示すとなったら躊躇したり、周りの目や評判を気にして行いで示せないか、世俗の誘惑に負けて主イエスの教えや神の律法を守れなかったり、臆病のために行いに踏み切れずにこの世とこの世の人々に調子を合わせて妥協している人が多いです。そのような人は聖書の真理を愛しておらず、この世を愛している世に属する人間です。たとえ主イエスの御名を公に言い表したとしても、神の律法、掟、戒めを守らず、主イエス・キリストの教えを守らない人は真理がその人の内に無く、災いでしかありません。主イエスが以下のように仰ったことを忘れてはなりません。

 

新約聖書 ルカによる福音書 6章46節

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

上記の聖句は私が過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」をはじめ、複数の過去記事で引用してきたものです。にわかキリスト者は、これらの主イエスの御言葉を無視しています。主イエスは律法そのものを廃止したのではなく、神の律法に背いて不法を働く者のことは全然知らないと仰っているのに、何故律法廃止論を唱えて不法を行うのか。また、主イエスが兄弟同士で愛し合いなさいと新しい掟をご命令をされたのに、何故主イエスの信仰の下に集まって互いに励まし合ったり高め合う努力をせずに誹謗中傷をしたり、高慢になって敵意を持って論争を仕掛けるのか。主イエスが神の御心を行う者だけが天の国に入ると明言されているのに、何故行いを否定するのか。それは、律法廃止論者や行いの重要性を否定する者たちが反キリストだからです。過去記事「反キリストについて」で反キリストの特徴をリスト化したように、それらの内容に当てはまる人は皆、反キリストなのであり、世のにわかキリスト者たちが騒ぎ立てている将来の独裁者だけが反キリストなのではありません。

 

聖書を一生懸命読んで知ろうとすることは重要なことですが、将来のことが不安で知りたくなって未来預言のことだけが気になってダニエル書やヨハネの黙示録だけを読んで間違った解釈を言い広めたり、その偽りの情報を鵜呑みにする者が少なからずいます。間違った解釈を広めることは、人を惑わす行為であり、罪であり、聖書の信頼性を貶める迷惑行為なのでやめていただきたいです。聖書は全体を何度も読まないと理解できないようにできています。また、聖霊の導きでなければ、たとえ聖書を通読しても自分に都合の良いように曲解したり、辻褄が合わない矛盾した解釈をしたりと、所謂「私的解釈」に陥ります。主イエスを信じるという信仰を口先だけで表すにわかクリスチャンでも聖書の真理が分からないのに、主イエスの信仰が無い者が聖書を読んでも何も理解できない上に間違った理解をするのは当然のことです。彼ら彼女らは聖書の字面だけ読んで知ったかぶり、無知と愚かさを自分から晒すだけです。

 

主イエス・キリストの生涯から学び、聖書の御言葉を聞くだけ、知っただけで終わっては無意味で、それを行いとして見せなければ何の意味も無いということを知るべきです。主イエスは、神の身分でありながら受肉されて人となり、人間の模範となるため、新しい契約の仲介者となって全人類の罪を贖う救世主(メシア)となるために地上に来られました。主イエスは生涯罪を犯されず、即ち、神の律法に違反せず、天の父なる神の御心に背くことをしなかったということです。避けようと思えば避けられたイザヤ書に書かれたメシアが受ける受難について、主イエスは聖書に書かれたことが神の御心であることをご存知なのでその通りにされ、ダニエル書の預言どおりに主イエスは十字架にかかられ、信仰と祈りによって人間の苦難から逃げるという弱い肉の性質に打ち勝って偉大な御業を成し遂げられました。私の伝道によって今では神の律法、掟、戒めを守ることの重要性を理解したと言う人が微増しましたが、律法の書を注意深く読まなかったり、見落としていたり、自分が実生活でできそうにない部分や実行したくない部分はやらなくて良いと自分勝手な判断で取捨選択していませんか。過去記事「自我との戦い」では「自我を捨てる第一歩として、まず、自己検証しなさい。あなたの心に抱く思い、行動、日々の生活が聖書の教えに合致しているか入念に確認しなさい。」と書きました。神の律法に従うか否かを自分の考えや世間の物差しで考えてはいけません。それでは自分を捨てていないからです。私が述べたことをすぐ忘れ去っている人が多いです。早く新しい記事が来ないかと楽しみにしてくださるのは嬉しいのですが、過去記事を適当に読み流して忘れていないでしょうか。理解できていないのに、次から次へと新しいものを欲しがるのは良くありません。それではただ理解していないものが増えるだけです。主イエスは、信仰を日々の生活において行いで示すことを身をもってお教えになられました。また、主イエスは百人隊長の信仰に感心し、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(マタイ8:10、ルカ7:9)と仰り、主イエスの御前にへりくだる信仰と姿勢を行いで示したことを評価されました。YouTube等で幻を見たと自慢したり、主イエスに会った等と述べている動画やブログがいくつかありますが、彼ら彼女らにはあの百人隊長ほどの信仰は見られません。偽りの幻や夢を見て、舞い上がるように浮かれている様子や地獄の恐ろしさを言うだけでは真のクリスチャンではありません。あの百人隊長は、主イエスが近くまでいらっしゃっているのに御足労に及ばず、主イエスを自宅に迎え入れるほどの者ではない、自ら伺うのも相応しくないとまで言ってへりくだり、ただ一言主イエスから御言葉をいただければそれで十分であると言ったのです。洗礼者ヨハネも「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(マタイ3:11)と述べています。彼らに比べ、主イエスを夢や幻で見たと言って舞い上がっているのはどういう了見なのでしょうか。また、地獄の恐ろしさを見たと言って泣いたり悲しむのは、彼ら彼女らがただ怖がっているだけで、臆病であることを示しています。地獄に行きたくなければ主イエスを信じろと言うのでは脅迫に聞こえますし、地獄が嫌だから主イエスに仕方なく従うというのは後ろ向きな姿勢で、ただの利益信仰であって、心の中まで見透される神から信仰による義人と認められることはありません。携挙については過去記事「携挙の真実」で詳細に述べたとおりで、ディスペンセーション主義者をはじめとする艱難期前携挙説のようにクリスチャンは艱難に遭わないという耳触りの良い嘘を言って改宗者を作ろうとして悪い者を量産しています。彼ら彼女らは私には偽り者にしか見えません。また、ローマ教皇や地上の諸教会の人たちはどうでしょうか。過去記事「無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度」も参考にしてください。ローマ教皇は長年に渡って神の代理人を自称して大言壮語し、十戒を勝手に変更してカトリックという異教をキリスト教と偽装して人々を騙しています。地上の諸教会の自称聖職者らは神に仕える者を装い、裏では小児虐待、性的虐待や金銭に絡む犯罪に手を染めているものも多くおり、未だ明らかになっていないだけで陰で行っている者が多くいます。キリストを表向きだけ掲げて人々を欺き、実のところは主イエスや聖書の教えに従わず、サタン崇拝をしている者たちです。このように、表向きだけ、口先だけで主イエスを信じているとか従っていると言い、主イエスに対する信仰を行いとして日常生活で示さない者は偽り者で、本人にそのつもりがなくても反キリストなのです。日常生活での行いが神の御心に適っているでしょうか。また、自分自身の心や行いを神の御心に合致させようと真剣に努力しているでしょうか。行いで示さないで聖書を読んで知っているだけでは無意味です。中途半端に聖書を知る位なら、いっその事まったく知らない方がましと言えるでしょう。ペトロも以下のように述べています。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 2章21節

義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。

 

上記のように、聖書を読んで主イエス・キリストが唯一の救いに至る道だと知っていながら、聖なる掟、即ち、神の掟のことであり、それを律法廃止論を唱えて無視するなら、いっその事、聖書と主イエスを知らない方が良いとペトロは述べています。無知故に犯す罪、故意に犯す罪、どちらが重いでしょうか。人間の法律である刑法でも故意犯と過失犯は罪の軽重が異なり、罪の成立にも影響を及ぼします。無知には色々な形態があり、聖書そのものをまったく知り得ない状況での無知、聖書の内容を知ろうと思えば知ることができたのに知ることを怠った故の無知、または聖書と主イエスを拒絶して知らない状態に自らを置いたのであればその拒絶行為がその人の罪であり、聖書や神の律法の無知だけをもって無罪ということにはなりません。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 2章12~15節

律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

 

神の律法を知らないからといって無罪ではないとは上記聖句でも明らかでしょう。ここでも神の律法を見聞きするだけでは正しくなく、律法を実行する者が義とされるとあります。血統のイスラエル人以外の異邦人も自然と律法の要求を心に記されているとあり、即ち、主イエス・キリストにあって霊的イスラエル人であれば皆、神の律法をまっとうするということです。今では聖書に成文法として神の律法が書かれており、誰でも簡単に読んで確認できるので学び易いでしょう。よって、無知は罪を犯す言い訳にならず、聖書を読んで学んで悔い改めなければ誰でも滅びます。人間の法律も無知だからという理由で無罪になる訳ではないのと同じです。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:3、5)と主イエスは述べておられ、悔い改めを行いとして日々の生活に反映させる必要があります。神を心から愛して信じているならば、神の律法、掟、戒めを守るはずです。それを言葉遊びで、血統のイスラエル人以外の異邦人には適用されない、キリストの律法は旧約聖書の律法と同一ではない、隣人愛で同性愛も認めるべきだ云々等とうわ言を言っている人は滅びへの道を突き進んでいるだけです。神の律法について、故意犯も過失犯もどちらも罪ではあるのですが、裁きの重さが違うことがあります。

 

新約聖書 ルカによる福音書 12章47~48節

主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。

 

聖書を読んで主イエスの思いを知りながら準備しなかったり、御言葉どおりに行動しないにわかクリスチャンは無知な不信仰の者以上に厳しく罰せられるでしょう。主イエスの信仰に入って、従順で良い僕は多く与えられ、多くを任され要求されます。しかし、主イエスと福音のために働かない不従順な僕は、本人が予期せぬ時に厳しい罰を受けます。このことは、タラントンのたとえ(マタイ25:14~30)でも分かり、主イエスや福音のために働かない怠惰な僕は暗闇に追い出され、泣きわめいて歯ぎしりするのです。

 

また、教師に対しての神の裁きも普通よりも厳しくなります。聖書や神学を学ぶために神学校等に通ったり、宗教関連施設で教育を受けて聖書やキリスト教に関係する職業に就いて教師として活動しておきながら、故意に真理に背くのは無知よりも厳しい神の裁きを受けることになります。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 3章1節

わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

 

世の諸教会の聖職者と呼ばれるプロテスタントでは牧師、カトリックでは助祭、司祭、司教、大司教、枢機卿、ローマ教皇、正教会では輔祭、司祭、司教、総主教等があり、加えてユダヤ教でもラビと呼ばれる者が教師と自称して活動しています。彼らはこの世の神学校や修道院、その他の組織を経て職業として教師となって金銭対価を得ています。しかし、パウロは彼らとは異なり、金銭対価を頑なに拒み、伝道の対価としてお金を受け取る位なら死んだ方がましだとまで述べました。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 9章14〜15節

同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。

 

このコリント一9章は、パウロの福音伝道に対する対価受領を拒否することについて述べられています。この紹介は過去記事「ハロウィンと罪の報酬」で既に述べました。こういう細かい所まできちんと読者は目を向けているでしょうか。

さて、パウロとは違い、世の自称聖職者らは金銭対価を必要以上に貪り、人一倍厳しい裁きを受ける覚悟をもって教師をやっているのか甚だ疑問に思います。本当に教師という立場の重みを理解して神に仕えているのでしょうか。「そうだ」と安易に答える偽り者がほとんどでしょうが、彼らは自分たちが何をしているのか分からない状態にあると私には思えます。勿論、彼らのような自称聖職者だけでなく、会場や施設を借りて大衆に向けて説教したり、YouTubeをはじめとする動画に収録して公開したり、ブログやメールマガジンを書いたり、ネット上の掲示板に書き込みをして講釈を垂れる等様々な形態で説教をする人がいて、これらも教師に該当します。人に教えるのが教師です。一部の偽教師らや偽預言者らを弾劾したことがありましたが、彼ら彼女らのように間違った聖書理解に基づいて他人に教えて同じように曲解させるというのは罪です。なぜなら、その他人の運命を決定づけることにもなるからです。生きている間は途中で間違っていたことに気付きさえすれば、やり直す機会はあります。しかし、間違った聖書理解と信仰生活をさせたままその人が死んだ時、その教師がその人の魂の責任を神から問われるでしょう。それ故、教師は他の人よりも厳しい裁きを受け、本人は間違っていないと思っている事実に関係なく、間違った信仰を基に神に仕えているつもりになっている偽善者も人一倍厳しい裁きを受けます(ルカ20:47参照)。過去記事「死後の世界」でも非難しましたが、セカンドチャンス論を唱える人は本当に愚行をしていることを弁え知るべきです。惑わす人が人一倍厳しく裁かれるのは当然ですが、惑わされる人も自力で熱心に聖書を読んで研究して真理を理解しようとせず、耳触りの良い偽りを話す偽教師に耳を傾けて盲信するという落ち度もあるので無罪ではありません。牧師等の聖職者になってその肩書きを持つ人は、世の神学校という教科書やそこの教師の教えに洗脳されていると考えるべきです。私は牧師等の聖職者ではありませんし、この世の学校といった教育機関や宗教団体で聖書を学んだこともありません。この世の小学校、中学校、高校、大学等、すべて集団洗脳機関です。学校では間違った教育が公然と行われ、出る杭は打たれ、周囲や人間が勝手に決めた一定の秩序と教えを守らせて個性を失わせ、何のために勉強しているのか目的を見失い、ひたすら試験で高得点を取るため、学校の教員から良い評価をもらうため、有名な学校に入学して卒業するため等と虚しい目標を立てて暗闇の中をもがいていることに気が付いていません。ほとんどの人々は、この世での生存競争ばかりを考え、滅びゆく人々の間で学歴、資格、財産、社会的地位等を物差しにして尊敬したり見下したりと目くそ鼻くそを笑うような状態です。学校で得た知識も社会人になってほとんど使えないものばかりです。それ故、社会では日本特有の素人である新卒者は使えない人材なのです。学んだことを自分で考えて応用して実践できて初めて意味を持ちます。水泳は水の中に入らずに陸上でいくら訓練しても上手に泳げるようにはならないでしょう。それと同様に、クリスチャンと自称する者たちも聖書から得た知識を持っているだけで、日常生活で実際に行いとして示していないのならば、神の御国に相応しい者として認められることがなく、外の暗闇に追い出される役に立たない僕です。

 

はっきり言っておきますが、主イエス・キリストを真心から信じて従うのであれば、必ず生活が信仰に入る前の生活とはまったく変わるはずです。なぜなら、過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」をはじめ、何度も私が述べたように、神に属する人間と世に属する人間は互いに相容れません。なぜなら、神に属する人間は神の律法、掟、戒めを守って主イエスに対する信仰を持っていますが、世に属する人間は神の律法、掟、戒めに従わず、主イエスを信じないか、たとえ信じると言っても口先だけで不従順だからです。よって、両者は相容れないのです。だから、次の世の行き先もはっきりと分かれるのであり、この世においても価値観がまったく異なるので共存が困難です。それ故、主イエスはこの世に分裂をもたらし、それは家族の中でも起こると仰ったのです。

 

新約聖書 ルカによる福音書 12章49~53節

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子(息子)と、子(息子)は父と、

母は娘と、娘は母と、

しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、

対立して分かれる。」

 

新約聖書 マタイによる福音書 10章34~39節

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、娘を母に、

嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 

あなたは主イエスに従うクリスチャンになると決めてから生活が大きく変わりましたか。変わらない人はまだ信仰が薄いか、信仰が無い人です。なぜなら、そのような人はこの世に迎合しており、苦難を感じないからです。主イエスの弟子の条件を忘れていないでしょうか。

 

新約聖書 ルカによる福音書 14章25~27、33節

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

(中略)

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

上記の主イエスの御言葉のとおり、主イエスの弟子になるためにはそれ相応のコストがあります。主イエスの直弟子たちや他に殉教していった人たちは、主イエスのため、福音のために自分の命さえ捨てたのです。この世を生きるついでにクリスチャンごっこをしている人たちがほとんどでしょうが、そのような人たちは皆、にわかクリスチャンであり、後で外に放り出されて泣きわめいて歯ぎしりする人たちです。真のクリスチャンは、「世は彼らにふさわしくなかった」(ヘブライ11:38)というような人です。世にふさわしくないというのは、この世は真のクリスチャンにとっては生きづらいことを意味します。神の律法、掟、戒めよりも人間の法律、慣習、言い伝え、伝統等に従い、利己心、自尊心、虚栄心に満ち、金銭欲、支配欲、名誉欲、性欲等の肉の欲が強く、愛が無くお金や共通の趣味等で繋がる薄っぺらい人間関係で満足し、下品な冗談や行いをしたり、たばこ、酒、麻薬等に依存したり、快楽に溺れたり、誹謗中傷したり、悪意や敵意から人のことを陰で評論したり詮索したりと愚かな話をするような人は、世に属する人間であることは明白です。反対に、真のクリスチャンは、この世と世にある物を愛さず(ヨハネ一2:15)、この世に調子を合わせず、この世の友となろうとせず(ヤコブ4:4)、この世では仮住まいの身であることを自覚して魂に戦いを挑む肉の欲を避け(ペトロ一2:11)、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表し(ヘブライ11:13)、主イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさに他の一切を損失とみており、キリストの故にすべてを失ってもそれらを塵あくたと見なしている(フィリピ3:8)人です。モーセも「はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。」(ヘブライ11:25)と述べたとあります。出エジプト記を読めば分かるとおり、モーセはレビ族の古代イスラエル人(ヘブライ人)であり、エジプトの王女に拾われてその子として育ちました。もし彼がそのままエジプトに従順でいれば、エジプトにおいて地位や富を得たでしょうが、それらを捨てて同胞を助けてエジプトから離れ、主なる神への信仰に生きることを選択してエジプトのファラオに敵対して神の御業を見せ、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、神の律法を授かって民を指導しながら清貧に生きました。皆が彼らの人生と同じ人生を送る訳ではなく人それぞれですが、真のクリスチャンの生活がどのようなものか想像できるでしょう。多数派の人が持つ価値観を持って、この世を愛する人や権力者に追従する生き方では決してありません。権力者や他人の評価を気にして悪いことを悪いと言えない、聖書や主イエスのことを人前で公に口にできない、神の律法、掟、戒めに反する異教の慣習を拒否できない、神の律法で罪とされる行為を容認する人は偽り者であり、真のクリスチャンではありません。主イエスと地上の富や地位を比べ、どちらがあなたにとって重要なのでしょうか。「神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:13)という主イエスの御言葉を過去記事「天に富を蓄えよ」をはじめ多くの過去記事で引用したとおり、両方とも得ようとすることが間違いであり、地上の富を追い求める人は主イエスに逆らう反キリストです。短距離走のように少しだけ走って一時的に勝利すれば良いのではなく、人生そのものの長距離走であり、最期まで主イエスを模範として従順に走り続けてこそ完全勝利となるのです。長距離と言っても平均70年から80年程度の人の一生なんて神の目から見れば短いです。この地上で生きている間に、罪を悔い改め、つまらない世の煩いも捨て、キリストの品性に近づくまで成長を重ねて神の御国という終着点を目指して走り続けなければいけません。

たまに、聖書を一部抜粋や誤訳部分を盲信して真理に反逆し続け、聖書全体の理解ができていないにわかクリスチャンの中で、本籍は天国にあると自称している者がいます。しかし、彼ら彼女らはディスペンセーション主義者であることが多く、聖書理解が間違っており、既に自分自身が救われていると勘違いし、律法廃止論を唱え、艱難期前携挙説を吹聴する等の悪い行いをやめず、自分自身を主イエスと福音のために捨てず、清い生活をしていない世に属するにわかクリスチャンです。過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」で述べたように、真のクリスチャンは真のイスラエル人でもあり、主イエス・キリストの御言葉を守り、主イエスのために自主的に喜んで犠牲を払います。その犠牲とは、主イエスと福音のためにこの世を愛さず、世間に迎合せず、地上の富を追い求めず、キリストの品性を行いで示し、神の栄光を現すことに励むことであり、それらが主への真心からの礼拝であることを知っています。信仰と勇気を持って他人の目や評価を気にすることなく、神の権威に服して神に従順で、神の御心を行い続け、常に前進して後退しません。主イエスは以下のとおり仰っています。

 

新約聖書 ルカによる福音書 9章62節

イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 

クリスチャンになったら後戻りはできないですし、もし後戻りして世俗に再び飲み込まれれば、今よりも悪くなるだけです。ペトロは以下のように述べました。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 2章20〜21節(私訳)

もしわたしたちの主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れから逃れた後で、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、最期はより悪くなるからです。義の道を知った後で、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったからです。

 

ですから、信仰を確たるものにし、不信や疑いを起こさず、勇気を持ち、主イエスを模範として生き、常に前進し続けねばなりません。聖霊という神の御力が体内で働く時、性格を改変し、以前とは異なるようになります。主イエスは以下のように仰いました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章3、5節

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

(中略)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

 

新約聖書 テトスへの手紙 3章5節

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 

つまり、聖霊によって人は新しく造り変えられなければ真のクリスチャンとなって神の御国に入ることはできないと明言されています。だから、クリスチャンになる前と後で比べて、あなたの生活、価値観、性格、行い等が変わらないなら、新しく生まれ変わっていないことになります。生まれ変わったら、生まれ変わらない周囲の人々と溝が生じてあなたから離れていく人が増えるはずです。しかし、真のクリスチャンはそんなことを気にすることはありません。聖書の真理は、傲慢な人を謙遜に、頑なな人を柔和にし、生まれつき持った罪に弱い性質を変えて肉の欲を抑制していき、闇から光へ、地から天へと心の居場所が変わります。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章12節

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

 

上記聖句のように、聖書に書かれた神の御言葉は力強く、神から憐れみを与えられた人は肉の欲という罪の誘惑を切り離し、霊の導きに自分自身を従わせ、神の律法、掟、戒めを進んで守り、主イエスを模範として神の御心を行うことを喜びとし、そのために受ける苦しみをも喜ぶようにするはずです。権力者や他人への恐れ、自分自身の怠惰によって信仰を行いで示さないのは、ペーパードライバーが運転免許証を持っている点だけを誇示しているに等しいです。にわかクリスチャンは自分には信仰があると言いますが、行いが伴わない生活をしているので名目だけになっている状態です。ペーパードライバーは免許を取った後は運転しなくなって、やがて運転経験不足により運転するのが怖くなったり、技術と経験が無いために事故を起こしたりします。事故を起こせば一層怖くなって運転から遠ざかります。にわかクリスチャンも同じで、信仰告白や洗礼をしただけで、聖書を適度に知っているが世俗に妥協して日常生活において行いで信仰を表さないし、聖霊の導きの体験ができません。そして、不安を覚え始め、艱難に遭えばたやすく背教するか、世に迎合した間違った信仰を盾に真のクリスチャンを迫害する側に回るでしょう。主イエスに従順に従うことを拒絶する人が世に属する人間であるというのは、彼ら彼女らがこの世とこの世の物を愛し、それらを犠牲にすることを嫌がるからです。悪霊に取り憑かれたガダラの人を癒す話(マタイ8:28~34)で、家畜の豚を失った人が憤って主イエスの福音を聞こうとせずに経済的損失のことばかりに目を向けて神の御子イエスと福音を拒絶しました。同じように、現代でも世俗の犠牲を厭い、主イエス・キリストに従うことと神の律法、掟、戒めに従うことを拒絶する者が非常に多いです。過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で説明したとおり、神の自由な選び、神からの一方的な憐れみと恵みをいただいてそれに応えなければ、神の民になれないということが分かります。また、神に選ばれない人がこの世の大多数を占めており、たとえ信仰に招かれてもふるいにかけられて多くが落とされます。そのため、主イエスは、狭い門(マタイ7:13)、狭い戸口(ルカ13:24)から入る人が神の民であり、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」(ルカ22:31)と仰り、神はサタンを使って神の民を厳選していることが分かります。真のクリスチャンへの道は、迫害や試練が伴う険しい道で、この地上で何不自由無い生活ができる訳でもありませんし、人間自身の力だけで必ず達成できるという性質でもありません。まず、神の御計画と御心次第という大前提があり、人間にそれらを知る術は無く、神に選ばれない人はどう頑張っても無理ですが、人間にできることとしては、神への愛ゆえに神の律法、掟、戒めを守る主イエスの信仰から聖書の真理に従って善い行いに励んで神の御心を行い、艱難や苦難にも忍耐し、自分の命さえも主イエスと福音のために差し出すことも厭わずに最期まで神に従順であり続けるのみです。これらが出来る人は真のキリスト者と言えるでしょう。サタンが支配するこの世を生き抜くために神の律法、掟、戒めに背いたり、命を粗末にしたり、聖書の真理を死守せずに世俗に妥協したり、何一つ不自由無い生活を欲したり、死を経験しない携挙に望みを置いたり、みだらな行いをしたり、偶像を拝む者が真のクリスチャンではありません。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上