こんにちは。
今回は、神の御心を行うことについて書きます。
この地上には、反キリストのあらゆる異教であふれかえり、キリスト教と看板を掲げる諸教会や諸教派も口先ばかりであり、心が神から離れている偽キリスト教信者であり、神の御心を行う真のクリスチャンが極めて少ないです。不信仰の者たちや異教徒がそのようなにわかクリスチャンを見て、キリスト教は悪だとか、クリスチャンは偽善者だと言っています。確かに、口先だけで行いが伴わなかったり、聖書をろくに読まなかったり、聖書を曲解したり、携挙が近いとか携挙されたいとしきりに言う携挙信仰者やこの世の成功や幸福を願う利益信仰をしているにわかクリスチャンは偽善者です。それは間違っていませんが、聖書と主イエス・キリストを一緒くたにして非難することは私は許しません。聖書と主イエスを非難する人間もまた偽善者だからです。そのことも複数の過去記事で散々述べてきたことです。にわかクリスチャンが総クリスチャン人口の99.99%以上を占めています。即ち、この世のほとんどのクリスチャンは名ばかりで、行いが伴わず、信じれば救われる、携挙されると浮かれて罪の奴隷のままになって悔い改めず新生していません。それはにわかクリスチャンたちが聖書を真剣に読まないか、聖書を曲解していることが原因で、何より一番の原因は彼ら彼女らに聖霊がいないことです。
私は散々罪について過去記事で議題に取り上げきました。罪の問題を語る上で、神の律法、掟、戒めについては避けて通れません。しかし、にわかクリスチャンはこれを避けて、ただイエス・キリストを信じさえすればよい、洗礼を受けさえすればよい、福音の三要素(主イエスが私たちの罪のために死なれ、葬られ、復活された)を信じさえすれば救われている、地上の教会に通って礼拝しさえすれば良い、十分の一献金をすれば良い、誰であっても隣人として愛すれば良い(実際はただの悪魔の子同士の馴れ合い)、律法は十字架で廃止された、安息日は日曜日、信仰さえあれば行いはどうでもよい等と偽りを言い、できれば選ばれた人をも騙そうと日々耳触りの良い虚言を吹聴して回っています。にわかクリスチャンたちは、聖書を一部だけ引用して真実を装いますが、致命的な嘘を吐くので要注意です。もう私が過去に何度も述べたとおりですが、律法廃止論が最大の欺瞞です。律法に反して罪を犯し続けて罪の奴隷となって新生せず、キリストの品性に近づけるために悔い改めようともしていない者が真のクリスチャンであるはずがありません。主イエス・キリスト以外のマリアや聖人と教会が認定する人間に過ぎない被造物を拝んで偶像礼拝をするカトリックや正教会は論外であり、偶像礼拝が罪と知っていながら十字架を象徴のように教会や身に着けるアクセサリーとして掲げたり、牧師を先生と呼んで慕い、安息日を無視するプロテスタントもまた背教者の団体です。それ以外のキリスト教を騙るカルト宗教も偽り者ばかりです。地上のどこかの教会や教派に属していないといけないと思うのをやめなさい。そんなことは聖書に一切書かれていません。地上の諸教会と諸教派に騙されるのはもうやめにしましょう。
新約聖書 ヨハネの手紙一 3章18節
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
上記のように主イエスの直弟子のヨハネは書き残しています。それは主イエスの教えにあるからです。上記のとおり、口先だけで何もしない、つまり行動が伴わないのはいけないということです。
新約聖書 ヨハネによる福音書 13章34~35節
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
新約聖書 ヨハネによる福音書 15章12節
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
新約聖書 マタイによる福音書 15章8節
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。』
地上の諸教会や諸教派に属するにわかクリスチャンは、口先だけで主イエスを虚しく崇めるために教会に足を運んでいるのです。牧師たちは聖書を曲解した説教をし、彼ら自身が悔い改めることもなく、聴衆のクリスチャンたちを彼ら自身より倍悪い者にしています。また、主イエスが新しくお与えになった旧約聖書にない掟である「互いに愛し合う」とは、ほとんどの人々が思うような男女間の恋愛感情ではありません。クリスチャン同士が互いに尊重して想い合い、主イエスを模範として互いに高め合い、この世の悪に負けないように励まし合うことを意味します。馴れ合いや傷の舐め合いは、愛し合うということにはなりません。「また罪を犯しちゃった」、「でもイエス様を信じていれば赦してくれるよ」等と呑気な会話がにわかクリスチャンの間で繰り返しなされているか、罪を犯している自覚すら失っている人が多いでしょうが、これは主イエスがお与えになった掟である互いに愛し合うことにはなりません。罪の奴隷にとどまることを容認しているだけで、悔い改めに導いていないからです。このような馴れ合いばかりする人は、まさに上記聖句のとおり、口先では主イエスを敬うが、その心は遠く離れています。他人を非難してはいけない等と偽善者は言いますが、それは間違っています。それは人間の戒めであり、神の戒めではありません。主イエスはファリサイ派や律法学者を偽善者として厳しく非難されていました。世の多くの人々は、弾劾と悪口の区別が分かっていないように思います。これも過去に何度も説明したとおりですが、感情的で正当な根拠が無い悪口といった誹謗中傷は罪であり、神の御国に入れない品性を持つ人間がすることですが、聖書の真理に基づく正当な非難や弾劾は悔い改めに導く行為で神に属する人間がする行為であり、罪ではありません。この点、聖書の真理に基づくものでなければならず、聖書の一部切り取りではありません。聖書の一部切り取りや誤訳部分を基に聖書を間違って理解し、それを他人に押し付けたり、他人を非難するのは悪魔の子の所業です。にわかクリスチャンがこの間違った行いをする者が非常に多く、感情的になって憶測や妄想を基に陰口を言っている精神が腐った者も存在しています。
新約聖書 ヤコブの手紙 3章8節
しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
思ったことをすぐに口にすることからいい加減に卒業しましょう。ネット上では書いたことがあなたが口にしたことと同じです。言いたいことを言う前に本当に口にするべきかよく考えるようにしましょう。書く前に手を止めて、本当に書くべきかよく考えて欲しい。それを怠り、感情に任せて言いたい放題すれば、罪を犯し、あなた自身の破滅と死を近くに手繰り寄せます。もっとも、神は表面に出てくる人間の言葉だけでなく、心の中も見通されていると過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」でも述べました。心の状態が一番の問題です。悪い言葉を封じ込め、もとより汚い言葉が口から出ないように心を清めるように努めましょう。他人への悪意や敵意を捨てなさい。それらの肉の思いは完全な者となることを妨げるからです。しかし、たとえ聖書の真理を知っていても、実際の行いが伴わなければ、これもまた虚しい信仰です。
新約聖書 ヤコブの手紙 2章17節
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
上記も何度も引用した聖句ですが、行いの重要性を示しています。正しい信仰があれば自然と正しい行いが伴うはずです。正しい行いができないならば、信仰が薄いか間違った信仰を持っているのです。信仰と行いは表裏一体です。このことは過去記事「復活とキリストの再臨への希望」でも述べました。口先よりも行いで判断する方が見分け易いです。いくら口先では立派なことを言っていても、普段の態度や言動からその人間の品性が分かります。もっとも、偽り者は話す言葉からすぐに偽り者だと私には分かります。有言実行(善いことを言い、そのとおりに実行する)、または不言実行(言わなくても善い行いをする)が正しい者であり、有言不実行(善いことを言うが行わない)が偽善者です。不言不実行(何も言わないし、何もしない)のは論外です。これが実で見分けることです。聖霊の力で正しい信仰を持てば、聖書の真理に則った正しい言動をするキリストに近い品性がその実としてなります。この実を熟成させるにはある程度成長期間が必要で、実のなり様も人によって異なります。そして、種が蒔かれてすぐに奪われたり、たとえ実をつけても育たなければ、枯れて捨てられるだけです。これは「種を蒔く人」のたとえ(マタイ13:1~23)を読んでください。実を豊かに実らせる人は少ないです。
地上の教会に通って満足しているクリスチャンを自称する者たち、悔い改めなさい。クリスチャンを自負しながら、何故なおも罪の中に生きようとするのか。罪の中にあっても主イエスを信じさえすれば、何をしても赦されると思っているのか。それは聖書にある主イエスの福音ではなく、サタンの福音です。主イエスを信じて模範として従順に従うなら、主イエスと同じように神の律法、掟、戒めを守るはずです。主イエスに倣わず、自分自身の肉の欲を捨てて神の律法、掟、戒めに服従させず、自我を捨てず、やりたい放題に生きて、隣人を攻撃したり、他人の悪口を言ったり、姦淫をしたり、他人を羨んだり、他人の物が持っている物を欲しがる物欲を抑えきれなかったり、偶像礼拝をしたり、安息日を蔑ろにしているのに、自分はクリスチャンなどと声高に言ってクリスチャンの品位を貶めないでもらいたい。そんな自称クリスチャンは不信仰の者や異教徒と何ら変わりないことに気付きなさい。クリスチャンは、主イエスに従う者のはずです。故に、主イエスの御言葉を知らない者、または守ろうとしない者はクリスチャンでは有り得ないのです。十戒だけでも不十分ですが、十戒に何が書かれているか問われても即答できないし、実行もしていないにわかクリスチャンのなんと多いことか。にわかクリスチャンが十戒を知らない、または実行しない言い訳として律法はもう廃止されたからとか、現イスラエル国家に住むイスラエル人だけにしか適用されない等と言う者には訓戒し、クリスチャンでありながらも聞く耳を持たないなら絶縁しなさい。そのような自称クリスチャンの反キリストと関わっていても良いことはなく、過去記事「反キリストについて」でも述べたとおり、毅然と対応せねばなりません。主イエスについて証しをする聖書(ヨハネ5:39参照)を知らないのに、主イエスに従順とはどの偽りの口から出てくるのでしょうか。主イエスや神の律法、掟、戒めを知らないなら聖書を熱心に読みなさい。だから、私は聖書の複数回通読を熱心に勧めているのです。それは苦行ではなく、神の御言葉が聖書に詰まっているので、神と神の御言葉を正しく知ろうと聖書を繰り返し読むことは当たり前の行為です。だから、聖書を複数回通読しない方がおかしいのです。ギリシアのベレアにいた1世紀当時のユダヤ人も以下のようでした。
新約聖書 使徒言行録 17章11節
ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
それに比べてあなたはどうですか。正しい言葉に耳を傾けることに熱心で、毎日聖書を読んでいるでしょうか。私が宣べ伝える内容が気にくわないと思うのは勝手ですが、聖書に反しているか吟味してみるがよい。そして、明確に反しているのならば、批判を受け入れよう。もし聖書に反していないのが分かったら、敵意や悪意といった有害な肉の思いを捨てることです。聖書の知識なしに、サタンに対抗できるはずもありません。私に敵対してもあなたに良いことは何一つありません。聖書を複数回通読せず、聖書の知識がほとんど無い自称クリスチャンは、以下のようだと主イエスは仰っています。
新約聖書 マタイによる福音書 13章20~22節
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
あなた自身に根がないと、地上の教会に通ってしばらくクリスチャンごっこをしていても、艱難や迫害が起きれば、すぐに背教するでしょう。このことは私も過去に述べてきたことです。また、富というお金やその他の財産、世俗的な思い煩いで頭が一杯になると聖書を真剣に学ばず、主イエスの福音を正しく理解できないために正しい信仰生活を送ることができずに世俗に飲み込まれて堕落していきます。耳触りの良い聖句を抜粋してはそれだけを信じ、神の律法、掟、戒め、その他厳しい神の御言葉から目を背けて無かったかのように無視する都合の良い間違った信仰をしては自己満足しているだけです。その事実にすら気付かない盲目のにわかクリスチャンが現在急増しています。主イエスに従う条件を忘れている人が多過ぎます。その条件を忘れたなら、過去記事「天に富を蓄えよ」を復習してください。地上の富を手放すことができない、または地上の富を必死に集めていて、口先だけで主イエスを信じていると言うにわかクリスチャンは偽り者です。聖書を悪用して名声や金儲け目当てでテレビ出演したり、聖書の解釈を書籍として売ったり、偽預言を売って金儲けしている人たちは偽善者や偽預言者です。このことは過去記事「無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度」でも述べました。地上の諸教会の聖職者ら、彼らに従うにわかクリスチャンたちが口先で何を言おうがまったく関係ありません。彼ら彼女らの心は闇に包まれ、主イエスは彼らの心の内まですべてご存知です。どれだけ口先で立派なこと、耳触りの良いことを言おうが無駄で、行いがすべてを物語り、善い行いに見えることでも彼ら彼女らの心の内まで神は見透かしておられ、偽善行為だということもバレています。聖書の真理を知る者にとっては、その嘘が透けて見え、隠れた悪しき意図が読めます。ローマ教皇が少しばかり洗足式をしたり、外遊をしたり、平和を訴える演説をしたからといって善い人だと思ってはなりません。彼を支持する一般人は、彼の表向きの顔しか知らないから、または彼と属性が同じだから彼を支持するのです。芸能人も同様であり、彼ら彼女らの表向きの顔しか知らず、好きになってファンになり、不祥事が出たり結婚したりした途端に嫌いになってファンをやめるということを愚民はします。それと同じです。悪しき面や期待を裏切る行為が明るみにならないとその本当の姿に気付かない人は愚かです。そのように騙され易い人は、偽善者の取り繕いを見抜く力が無いから、選別眼が無いから、後で落胆したり後悔したりするのです。聖書用語で言えば、実で見分ける力が無いということです。言葉だけでなく、立ち居振る舞いや行いにも注意を払いましょう。
新約聖書 テトスへの手紙 3章8節
この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。
上記聖句のように、創造主の主なる神イエス・キリストを唯一の救い主と真心から信じれば、善い行いに励もうと自主的に心掛けるようになるはずです。反対解釈すれば、神を信じない者は善い行いに励もうと心掛けないということです。一部のにわかクリスチャンで、「行いは無関係。信じるだけで救われている。」と行いを軽視する滅びの言葉を吹聴している者がいます。彼ら彼女らは自ら悪魔の子であると証言していることに気付いていません。しかし、真のクリスチャンは聖書の御言葉を身に着けているので騙されません。行いが伴わない信仰は無益で、虚しく、死んだようなものなのです。例えば、愛していると言われて恋人になって結婚した後、浮気されたり暴言や暴力を受けたと言って泣きわめく人がたまにいます。これが言葉と行いの不一致の身近にある代表例です。言葉という口先だけに騙され、行いに注意を払わなかった代償です。クリスチャンの兄弟間でも愛していると言っても兄弟のために何もせず、何の役にも立たない世間話をしたりする位で本当に愛しているのか疑わしいです。もっとも、声掛けすらもしない人は論外で、兄弟では有り得ないです。過去記事「武士道を忘れた日本人」でも書いたように、折が良い時だけでなく、苦しい状態に陥った時にこそ助けの手を差し伸べる人が本物です。世俗の友人関係も同様であり、友達として一緒に食事したり、外出したりする関係であっても、病気になったり、ギャンブル等の不義によらないでお金に困ったり、冤罪や陰謀等によって投獄されたりした時に会いに来たり、助けようとして訪ねて来る人が本物の友達です。冷静に考えれば、そのような本物の友達はほとんどいないのではありませんか。不義や不法がはびこるこの終わりの時代は、人々の愛が冷えきっているからです。しかし、人間は苦境に立った時にこそ、その本性が見出せます。折が良い時は立派なことを言っている人が、いざあなたが苦境に立たされた時、何もしてくれないばかりか、離れて行くのではないでしょうか。このように、言葉よりも行いを重視するべきであり、言葉と行いが一致するかどうかが重要なのです。
新約聖書 ヤコブの手紙 2章18節
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
不信仰の者や異教徒は置いておいて、クリスチャンならば、信仰は行いで見せるべきです。言うだけで行いが伴わない者は偽り者なので信用してはなりません。「救われるためには行いは不必要」と言うにわかクリスチャンは偽り者であり、言葉遊びをしているだけです。そのように言う者は、聖書の一部だけを切り取って主張しているに過ぎず、聖書の真理ではありません。律法廃止論も同じような仕組みから由来しており、サタンの福音です。確かに、行いは救いの条件ではありません。律法主義も自分の行いに頼る行為であり、これではいけません。しかし、正しい信仰の結果のしるしとして善い行いが表に出るのであり、神の律法、掟、戒めを守るのも自力救済ではなく神への愛ゆえであり、当然のこととして行うのです。これは神の栄光を現すためであり、真のクリスチャンは善行を誇らず、神に栄光を帰します。本当にあなたが主イエスに導かれて神の御国を目指すなら、罪の奴隷から解放すべく隣人を神の御国に導こうとする行いが伴うはずです。その行いは、福音伝道や奉仕活動等の善い行いが伴うはずです。もしクリスチャンを自負しながらも何もしないなら、行いが伴っていないので、正しい信仰を持っていないことになります。勘違いしてもらいたくないのですが、私がこう言うことで、福音伝道や奉仕活動を無理やり実行しないことです。真のクリスチャンは、誰からも強制されずに言われなくても、自分から進んで喜んで行い、逐一周りに報告して自慢しないはずです。何もしていないと偽り者だから何かしないといけないと思って、心の中では嫌々だったり、義務感を感じて無理に善い行いをしたり、周囲の人から善い人だと思われたくてこれ見よがしにするのは偽善者です。
新約聖書 マタイによる福音書 6章1節
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
新約聖書 マタイによる福音書 6章5節
祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
新約聖書 マタイによる福音書 6章16節
断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
上記は主イエスの御言葉で、自らの善行を他人に見てもらおうとする人は偽善者だと述べておられます。他人から受ける評価や名声を獲得することばかり考えて、神のための行いではなく、その人間自身のためにしているからです。上述で神は心の中を見透かされると述べたとおり、行いをする動機が重要なのです。見せかけの善行では神はお喜びになられません。喜んでいるのはその偽善者自身であり、自己満足に過ぎないのです。それを知らずにこれ見よがしに善行をする偽善者を称賛する人間も同程度です。人を表面的に判断するのはやめなさい。
もしあなたが福音伝道を含む善い行いをするのに熱心でなければどうなるでしょうか。主イエスは全世界に福音を宣べ伝えられた後に世に終わりが来ると仰っています。
新約聖書 マタイによる福音書 24章14節
そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
現時点で聖書そのものは広く普及していますが、偽りの福音が広まっています。真の聖書福音が全世界に宣べ伝えられないうちは世の終わりが来ませんし、キリストの再臨もありませんし、携挙もありません。福音伝道等の善い行いに熱心ではないにわかクリスチャンばかりではいつまで経ってもキリストの再臨の準備が整いません。私はキリストの再臨の準備のために働いているのです。即ち、真のクリスチャンを増やして福音伝道をし、救われるべき人に救われて欲しいのです。全員とは言いません。なぜなら、それは神の御心ではないからです。聖書の福音を聞く機会は平等に与えられますが、神から憐れみを受けず、選ばれない人はどうやっても主イエスの福音を聞き入れず、世俗の生活の方を重視するからです。万人救済論を唱えるにわかクリスチャンもいるようですが、彼らは聖書を読んで理解していないことが明白です。過去の歴史を見ても明らかです。主イエスが「山に逃げなさい」と御言葉を残されたのに、それに従わずに都に留まって破滅を味わったという話を過去記事「終末の兆候と迫害の様子」で述べたとおりです。主イエスを信じると口先だけ言っていても、主の御言葉に従うのを行いで示さない者は破滅を味わうのです。主イエス・キリストは創造主であり、唯一の救い主であり、モーセよりはるかに優れた契約の仲介者であられ、来たる次の世である新しい天と新しい地の王となられるお方が仰ることに従わないのですから、当然の帰結です。
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章8~10節
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
すべての人間は主イエスにおいて造られた被造物であり、崇められる対象では決してありません。聖人や聖母なんて存在しないのです。どんな善行をしても誇るべきではなく、救いの条件でもありません。しかし、主イエスの信仰の結果、正しい善い行いをするのは定めです。神があらかじめ神の民である真のクリスチャンが善い業に励むように用意されているので、自然とそうなるのです。私はあらゆる組織にも属さず、いかなる世の人間からの指示も受けず、ある特定の人間のために伝道しているのでもありません。ご覧のとおり、誰でも閲覧可能で無償で提供しています。私は分け隔てしていませんし、偽善者や偽預言者のように拝金主義でもありません。私の中で無意識にそのようにして主イエスのために働くように働きかける力があるからです。そのためには主イエスを模範として従順に従わなければなりません。律法廃止論を信じて神の律法、掟、戒めを蔑ろにしたり、他人の悪口を言ったり、世俗の生活に飲み込まれているようでは到底無理です。過去記事「自我との戦い」で述べたとおり、自己犠牲ができなければ神への愛は無いと言えるでしょう。主イエスは生涯罪を犯さず無実なのに御自分の命を犠牲をなさって十字架にかかり、素晴らしい救いの契約の仲介者となられました。自分の命が大事で仕方ないと思う人なら到底できないことです。自己犠牲や完全な神への服従がなければ、神を愛していることにはならず、神の御心を行うことはできません。その第一歩として聖書の複数回通読です。聖書を知らずにどうやって神を愛し、神の律法、掟、戒めを守り、主イエスを模範として従順に従うことができようか。絶対に無理です。主イエスは以下のように仰いました。
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15節
あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
上記の「掟」は、新約聖書の福音書に書かれているものだけではありません。言葉遊びが大好きで聖書全体の真理を理解しないにわかクリスチャンは、マタイ22章にある神への愛と隣人愛だけ守ることがこの掟であり、パウロが述べたキリストの律法という部分を誇張し、モーセの律法とは異なると虚言を吹聴します。その嘘については多くの過去記事で弾劾済で、当ブログを読んでいただければその疑問は解消するでしょう。彼ら彼女らは、必死に自分たちの不従順さを正当化する理由を探して聖書の一部だけを切り取ったり、言葉遊びをして律法を守らなくて良いと頑なに主張する悪魔の子です。また、モーセの律法と一般に言われていますが、実はモーセという人間が決めた律法ではありません。主なる神が人間に与えた神の律法であり、モーセはそれを神から授かった仲介者に過ぎません。主イエスは旧約時代に人間にお与えになった律法を廃止していないと明確に仰り、兄弟間で愛し合うという新しい掟を追加されました。主イエスの十字架によって、いくつかの律法については契約更新された結果守らなくてよくなっただけで、全部廃止されたと言うのは誤りです。このことは過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で述べました。主イエスを愛していると口先では言いながら、神の律法、掟、戒めを守らないのは偽り者であることは明白です。つまり、行いが伴っていないのです。過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」でも引用した以下の聖句どおりです。
新約聖書 ヨハネの手紙一 2章3節
わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
上記に当てはまるにわかクリスチャンのなんと多いことか。この聖句を知らない自称クリスチャンも多いです。地上の諸教会では主イエスを信じさえすれば行いは関係なく、律法を守らなくても救われるという欺瞞が蔓延し、行いは軽視されています。彼ら彼女らの内に真理が無いのに、自分はクリスチャンだと偽りを言ってクリスチャンの品位を貶め、挙句は聖書と主イエスをも間接的に貶めています。まさに反キリストと呼ぶに相応しいです。上述で引用したエフェソ2章の自力ではなく神の賜物というのは、神が主イエスの十字架で流された血による赦しの恵みがクリスチャンに及ぶように恵みを与えてくださったのであり、その恵みに応えるのが真のクリスチャンであり、応えることができないのがにわかクリスチャンです。そして、その恵みを拒否するのが不信仰の者や異教徒です。主イエスは、主イエスのために自己犠牲ができなければ弟子では有り得ないと述べられました。要するに、主イエスに従順に従って真のクリスチャンであるならば、自己犠牲はつきものなのです。故に、自己犠牲は主イエスへの従順の結果実った実であると言うことができます。神の律法、掟、戒めを守ることは主イエスに対する従順さの結果できた実です。主イエスが仰った「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)を実践するならば、必ず神を愛するが故に神の律法、掟、戒めを喜んで守り、自己を犠牲にし、自己を否定し、善い行いをするでしょう。また、無価値な世俗的なこと、肉の欲から来ることをしなくなるでしょう。これが自分を捨てるということです。そうして初めて神の御心を行うということになるのです。また、隣人を自分のように愛するならば、他人の物を欲しがらず、盗まず、殺意を持たず、殺さず、悪意や敵意を持たず、悪口を言わず、みだらなことをせず、嘘をついたりしなくなるはずです。神に似せて造られた人間にそのような酷いことをしようとは思わなくなるはずです。そう思えない人、それらが行いとしてできない者は、不信仰の者、異教徒、にわかクリスチャンのいずれかです。彼ら彼女らは、自分たちを正当化するあらゆる口実をつけては、神の律法、掟、戒めに逆らう者ばかりです。主イエスはこう仰っています。
新約聖書 ルカによる福音書 6章46節
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
これも口先だけの信仰を戒められている主イエスの御言葉です。世の中には口先だけ、携挙や現世利益を望む利益信仰者ばかりで、主イエスは天で嘆かれているでしょう。日々自分を捨てず、神の律法、掟、戒めに服従せず、自分のしたいことをし、好き放題しておきながら、「主よ、主よ」と虚しい祈りをするにわかクリスチャンよ、悔い改めなさい。聖書に無知で、主イエスの御言葉に無知で、たとえ聖書を知っていても知っているだけで、行いで示せない者は聖書を過失無くまったく知らない人よりも酷いです。なぜなら、知っている人は故意に違反しているので申し開きのしようがないからです。「主よ、主よ」と言いながら、日々自分の世俗的な目標や野心に向かって生き、自分自身の欲を満足させるために多くの時間とお金を費やし、自分自身の将来を気にしている人ばかりです。私は主イエスに従順に歩むと決めた時から、それまで持っていた私の人生の目標は完全に消し去りました。元々、何がしたいというのはこれといって無かったという話を過去に述べたことがありましたが、完全に世俗的な目標は消滅しました。私は神の民を目覚めさせ、主イエスに従順な真のクリスチャンになるための福音伝道をし、それに私の人生を捧げています。真実であるかは、行いや働きによって証明されるのです。それが私の証しです。
新約聖書 マタイによる福音書 10章39節
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
新約聖書 ルカによる福音書 14章26節
もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
上記の主イエスの御言葉を思い出し、常に心に留めておきなさい。人生であれもやりたい、これもやりたいと思っていると肉の欲に従い、霊に従うことができず、神の御心を行うこともできなくなります。神の御心を行うことに熱心ならば、世俗的な目標等はどうでもよくなるはずです。家族を主イエスよりも大事に思ったり扱ったりする、また主イエスよりも自分自身の命すら惜しむようでは主イエスの弟子では有り得ないと主イエスが仰っています。主イエスの直弟子のような殉教者は、まさにこれを忠実に成し遂げたと言えるでしょう。主イエスの直弟子の中ではヤコブが最初の殉教者でした(使徒言行録12:2参照)。ペトロは姑がいたことから既婚者であったことが分かります(マタイ8:14参照)。彼は漁師でしたが、主イエスに呼ばれるとすぐに網を捨てて主イエスに従い、家族のために熱心に世俗の仕事をするよりも神の御心を行う道を選びました。ペトロの家族については姑以外の記述がないので家族構成等の詳細は不明ですが、家族を完全に見放すという極端なことをはせず、たまには会って様子を見たりはしていたでしょうが、多くの人がする生活(一日の大部分を世俗の仕事に費やし、家族と常に一緒にいて神の御心を行う時間を減らす)ではなく、主イエスと他の直弟子たちと行動を共にして神の御心を行うことを最優先に生活して、主イエスの昇天後はローマ等の異邦人の地に赴いて福音伝道のために生涯を捧げたことは明白です。主イエスのためには家族や自分の命すら惜しくないと口先だけでそう言うのではなく、行いで証明できる人が真のクリスチャンです。だから、自己犠牲なしに主イエスに従順に従うことは不可能です。
新約聖書 ルカによる福音書 14章28節
あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
上記聖句は主イエスの御言葉であり、人間各自の今後のことをよく考え、主イエスに従うためにはすべてを捨てる必要があるので、その犠牲について考えてすべて捨てる決心がついたらすべての持ち物を捨てて主イエスに従うことができるのです。主イエスの弟子になることは、自分が持っているものを一切捨てることです(ルカ14:33)。主イエスよりもお金、ゲーム、快楽、その他一切のものを大事にしてはならないのです。信仰生活に不要な物はすべて売り払うか捨てることです。ネットを介して福音伝道や兄弟間で交流するためにコンピュータが必要ならば取っておかねばなりませんが、コンピュータをその他の用途(くだらない動画視聴や罪となる行為等)に使って肉の欲を満たすべきではありません。言論統制が厳しくなって検閲が徹底すれば、ネットもコンピュータもいつの日か役に立たない時が来るかもしれません。主イエスが仰る自分が持っているものを一切捨てるということは犠牲です。犠牲なくして主イエスに従順に従えませんし、神の御心を行うこともできません。にわかクリスチャンは、この世への執着や野心を捨てていない人ばかりです。この世とこの世にある物を愛してはならないと多くの過去記事でも述べたとおりです。聖書にそうあるからです。過去記事「最近の周囲の様子と大半の人々が陥る罠」でも引用しました。
新約聖書 ヨハネの手紙一 2章15節
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
上記過去記事でも述べたとおり、日本やこの世界を良くしたいと思ったりしている人が多いです。そう思う人が悪い人と言うつもりはありませんが、それは彼らがこの世を愛しているからに他なりませんので、私は賛同いたしかねます。聖書にはこの世はサタンが支配しており、NWOを構築しようとして悪化の一途を辿り、終わりに向けて人々の愛は冷えてますます悪くなり、獣の刻印がないと売買等の経済活動ができなかったり、獣の像を拝まないと皆殺しにされる程に悪の極みに達することが預言されています。なのに、何故、この世が良くなると無駄な希望を抱き、この世を良くしようと抗おうとするのか。人間ごときがどうあがいても変えられず、この世は良くなる方向には行きません。だから、私はNWO支配層や政府に暴力的に反抗するようにとは言わず、賢く備えなさいと言い続けているのです。賢く備える一番の手段は、真のクリスチャンになることです。これ以外にありません。真のクリスチャンになって神の義と神の御国を第一に求めていれば、必要なものは神から加えて与えられるからです(マタイ6:33)。そして、日本を脱出して海外に出て自身の聖化に努めながら福音伝道をするというのも良いでしょう。神の導きがあれば道は開かれるでしょう。あなたがたのほとんどが知らないことを伝えましょう。ヨーロッパへの入国についても2020年から厳しくなります。参考までにこちら(旅がしたい人生だったinドイツ)。ネット申請のみでクレジット決済しか受け付けないというのも電子マネーを強制するもので、私が過去に述べたとおりのNWO施策の一環ですね。今は日本のパスポートでヨーロッパに入国するのにビザ申請等の手続きは不要(ロシア等の一部は除く)ですが、ETIASという制度が2020年に導入されて事前審査が入ると拒否されることも起こり得るのです。もし戦争になったり、故意に朝鮮系や支那系の偽日本人による悪行で日本人の悪評が広がれば拒否される可能性があります。また、日本政府は出国税を制定しました。参考までにこちら(しーずざでい)。憲法改悪施行が2020年に予定されているのと繋がりがあるように思えます。東京五輪もあり、2020年は節目になるでしょう。朝鮮系日本人が中枢に居座る日本政府や官僚は、税金を無駄遣いした上でさらに増税するという拝金主義と日本国民への敵意むき出しで、そのお金で顔認証ゲートや顔認証の監視カメラ等のNWOに協力する設備投資に回すようです。現実に日本の空港で顔認証ゲートが導入されています。参考までにこちら(法務省)。政府は導入目的について嘘の建前を書いていますが、顔認証ゲートの本当の目的は個人情報収集と監視のためです。このように、日々もたもたしていると日本人は海外に移住すらできなくなり、これは日本人を日本に閉じ込めておく意図が感じられます。包囲網は着々と静かに進行しているのです。そのことに気付きましょう。しかし、海外移住するなら不退転の決意が必要です。後でやめておけば良かったと思わないように、下見や調査を尽くしてください。移住失敗談をネットで探して読んだりして、自分は同じ様にならないと確信できるかも重要です。移住前は分からず、実際に移住した後で分かることもあるでしょうが。
主イエスのために自分を犠牲にすることを厭わないでください。しかし、それは自分の命を粗末にすることを意味せず、主イエスのために用いるのです。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章1節
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
主イエス・キリストを礼拝するのに地上の教会に通う必要もなく、籍を置く必要もありません。神の律法、掟、戒めを守る主イエスの信仰を保ち、まことの愛で兄弟間で励まし合い、高め合い、自主的に善い行いに励んで自己犠牲をすることが真の礼拝です。こういう意味で愛と憐みからくる主イエスのお心遣いで安息日に人々を癒されたのであり、安息日を廃止したのではありません。真の礼拝をせず、この世にしがみついたり、地上の富に執着したり、地上の会社や教会等の組織や牧師等の人間にしがみつくのは真のクリスチャンではありません。聖書をろくに読まないし、神の御心を行わず、会社員として毎日のように奴隷のごとく長時間労働をし、安息日を無視し、給料や賞与という餌に釣られてお金を稼ぐことばかり考え、出世を目指して働いている人が果たして神の御心に適うでしょうか。冷静に考えれば分かるはずです。
「タラントン」のたとえ(マタイ25:14~30)もよく読んで覚えておくべきです。神の御心を行わない者がどうなるかはっきりと書かれています。自分だけ良ければいいという考えを持っている者は主イエスから「役に立たないしもべ」とみなされ、外の暗闇に追い出されて、泣きわめいて歯ぎしりすることになります。聖書の真理を知らず、神の御心を行わないのに、自分はクリスチャンだなんて軽々しく言わないことです。いかに自分自身が神の御心から外れて罪を犯していたことが分かった時、自分自身が惨めに思えて、主イエスに対して申し訳なさで一杯になるはずです。そう思えない人は、神から憐みと恵みを受けていないのでどうでもいいです。私は主イエスから導かれた人たちの心にさえ届けばそれで満足です。それが神の御心だからです。万人救済は聖書の真理から考えて有り得ないので、人間全員が救われるのではないのです。私は聖書の真理と福音を知る機会は誰でも平等に与えますが、それを聞き入れて実行するかは別問題で、あなたがた次第です。何度も言いますが、主イエスに従うには自己犠牲が伴います。アブラハムが彼の大事な息子イサクを捧げたように、神の命令で知らない土地に行けと言われたら素直に聞き入れて行動する等、自己犠牲を厭わない者でなければ真のクリスチャンにはなれないでしょう。罪に繋がる肉の欲、自分がしたい世俗的なこと、世の思い煩いの鎖に繋がれているなら、神はそのような人を神の働き手として用いないでしょう。神の立場になれば分かることです。自分に忠実でない人に大事な役目を担わせることがあるでしょうか。有り得ないでしょう。人間でも面接して採用か不採用を決めるのと一緒で、神も人間を選びます。神は人間とは違って心も見透されるので、人間の口から出る嘘やでまかせに耳を傾けることはありませんので絶対に騙されません。神に用いられる人は少ないです。
新約聖書 マタイによる福音書 9章37節
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
私は、キリストの再臨に備え、真のクリスチャンが一人でも増えて欲しく、働き手を増やしたいのです。もっと増えないと全世界に真の福音を宣べ伝えることは厳しいです。主イエスのために自分の人生を犠牲にする人が現れないと難しいので、なかなか増えないのが現状です。ほとんどの人々が主イエスのためにすべてを捨てることができず、自己中心的で、自分自身や身内のことだけを考えています。天の父なる神は、世を愛されたので口先だけで愛するのではなく御子イエスをお遣わしになるという行いで示されました。そして主イエスも私たちを愛され、30歳頃に大工という世俗の仕事に見切りをつけ、福音宣教と癒し等の奇跡を行って人々を救い、素晴らしい御言葉を残され、最期は十字架で御自身を犠牲にされ、新しい契約の仲介者となられました。また、死んで終わりではなく復活され、主イエスを信じて従順な人には同じ様に復活の希望をお与えになり、天の聖所で大祭司として贖罪と執り成しをされています。神は言うだけでなく、行いで愛を示されました。なのに、何故人間は信仰と愛を行いで示さないのでしょうか。それもクリスチャンでありながら。今すぐ悔い改めるべきです。
新約聖書 ヨハネによる福音書 17章9節
世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
主イエスはゲツセマネの園で逮捕される前に上記のように祈られました。天の父なる神がお選びになって主イエスにお与えになった人間のためと明確に仰っています。人間の目には誰が神に選ばれた人間かを確証する術がなかなか無いので、分け隔てせずに福音伝道するのです。たとえ分かったとしても分け隔てする行為は主イエスの品性ではありません。聖書は万人に読む機会があり、閉鎖的ではありません。ネットでも本屋でも容易に入手できます。聖書は手に入れようと思えば、ほとんどの人が可能なのにそれをしない人が多いです。しかし、究極的には神に選ばれた人が聖書を手にとって読んで悟ればそれで良いのです。サタンが支配するこの邪悪な世の一部になろうとせず、NWOに従わず、主イエス・キリストを信じて従順に従い、神の御心を行いましょう。
新約聖書 マタイによる福音書 7章21節
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
新約聖書 ヨハネの手紙一 2章17節
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は主イエス・キリストによって一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上