終末の兆候と迫害の様子

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こんにちは。

 

今回は、終末の兆候と迫害の様子について書きます。

 

この世の終末はキリストの再臨の時であり、その時にこの地上は滅び去ると聖書に書かれているとおりに今まで申してきました。そして、終末の前には聖書に書かれていることがことごとく実現します。複数の福音書や旧約聖書に書かれている終末の兆候も起こります。それらを基に話を進めていきます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章15節

預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―、

 

新約聖書 マルコによる福音書 13章14節

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。

 

新約聖書 ルカによる福音書 21章20~22節

エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。

 

上記すべてをまとめると以下のとおりです。

①預言者ダニエルが言った憎むべきもの、荒らすもの(ダニエル書9:27)が発生する。

②その時、神の民(霊的イスラエル人)は悟って山に逃げる。

③都会から離れ、田舎にいるべきである。そして、一度都会を出たら戻ってはならない。

④聖書に書かれているとおり、神の怒りが地上に注ぎ、獣の刻印を受けた反キリストたちに報復する。

 

聖書に書かれている「ユダヤにいる人」というのは、これから来る終末では霊的イスラエル人を指します。現イスラエルに住んでいる人だけの意味ではありません。霊的イスラエル人については過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」と「聖書が教える真のイスラエル人」で説明済なので忘れた人は復習してください。

 

神の民は、獣の刻印を受けた人間たちによって激しく迫害されます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章9節

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

 

新約聖書 マルコによる福音書 13章9節

あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。

 

新約聖書 ルカによる福音書 21章12〜19節

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会になる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたに授けるからである。あなたがたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。

 

上記聖句の前の文脈から、現在の中東のように、戦争の騒ぎ、戦争の噂を聞くがまだ世の終わりではなく、民と民、国と国が敵対し、世界のあちらこちらで飢饉や地震が起こりますが苦しみの始まりに過ぎません。その時、神の民は、あらゆる民、即ち、すべての国民(英語ではall nations)から主イエスの御名のために憎まれ、家族や友人といった身近の人々にも裏切られ、逮捕や投獄され、拷問を受ける等の迫害の苦しみに遭わされ、最悪の場合は殺されます。しかし、恐れてはなりません。恐れる者は臆病者で不信仰の者と同じ扱いだからです(黙示録21:8参照)。最後まで耐えなければ永遠の命を得る勝利者にはなれません。聖書が教えているのは、聖書の真理に背いてでも地上でしぶとく生き残ろうとするのが勝利者ではなく、信仰上の勝利者です。すべての国民が新世界秩序(NWO)の下で結束して迫害を実行する者は神の律法を守らない不法の者で、獣の刻印を受けていることが聖書から分かります。獣の刻印を受けた者は、神の律法や掟を守って主イエス・キリストに従順な真のクリスチャンを憎み、激しく迫害するようになります。大艱難が始まれば、人々が回心するということはもはや起きず、神の民がより信仰を厚くし練り清められ、恐れずに力強く主イエスの証しをするだけです。悔い改めることができるのは大艱難前だと前回記事「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」で述べたとおりです。携挙が近いとしきりに騒ぎ、携挙に望みを置いているにわかクリスチャンたちは、神の律法を守らない不法の者で偽り者ばかりです。彼らはすぐに悔い改めなければ手遅れになるでしょう。これから、神に属する人間(神の民)と世に属する人間(悪魔の子)に徐々に二極化してきています。そして、神に選ばれていない世に属する人間の方が圧倒的に数が多いのです。後者に含まれるにわかクリスチャンは、これからの艱難においては彼らの不従順さ故に主イエスから守られません。最近特に頻発している自然災害に見える災害は、サタン崇拝者によって人工的に引き起こされています。サタン崇拝者であるNWO支配層が、人工地震や気象操作等を行い、サタンの行いを代行しています。災害はサタンが起こすという点は、ヨブ記を思い出させます。

 

旧約聖書 ヨブ記 1章16、19節

天から神の火が降って、羊と羊飼いも焼け死んでしまいました。

(中略)

すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。

 

19節に少し訂正を入れます。英語では「and behold, a great wind came across the wilderness and struck the four corners of the house, and it fell upon the young people, and they are dead」です。これを「また、見てください、大風が荒れ野を吹きつけて家の四隅を破壊し、それが若い人々の上に崩れ落ちて彼らは死んでしまいました。」と私は訳します。新共同訳の「四方から吹きつけ」というのは、大きく間違った訳です。なお、死んだ若い人々というのは、ヨブの子供たちです。上記聖句は、神の業ではなく、文脈を読めば分かるとおり、主がサタンに許可された範囲で、サタンがしたことです。このように、サタンは火を降らせることも可能だということが分かります。これは以下と同じです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 13章13節

そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。

 

上記聖句は、文脈上、第二の獣がする行いです。第二の獣がサタンの支配下にあることが明白であり、この第二の獣が何を示すかについては過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」等で書いたとおりです。だから、散々私が注意喚起したとおり、奇跡の類や目に見える事象に安易に騙されないようにしなさい。サタンは自然災害のように見えるものだけでなく、病気の類も起こすことができるのは以下からも明白です。

 

旧約聖書 ヨブ記 2章7節

サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。

 

上記も訳が少し違い、英語では「loathsome sores」なので、「皮膚病」ではなく、「忌まわしい腫れ物」です。皮膚病ならば、skin diseaseかdermatosisを使います。腫れ物で思い出すのは、以下の聖句です。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 16章2節

そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。

 

上記聖句は、前回記事「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」で述べたとおり、すべての人間の恩恵期間が終わった時、神の怒りが地上に注がれ始めます。新共同訳は「悪性のはれ物」と意訳していますが、英語では「painful sores」なので「痛みのある腫れ物」です。腫れ物ができる災いは出エジプト記9章で主なる神がエジプトに下した災いと同じで、soreとboilという単語が使われ、腫れ物、出来物という意味です。出エジプト記9:11に魔術師が腫れ物の故にモーセの前に立てなかったとあり、痛みを伴うことが分かります。このように、獣の刻印を受けている人は痛みを伴う腫れ物ができることであぶり出されます。なぜなら、大艱難に入った後は神が獣の刻印を受けた人間たちを完全に見捨てられるからです。それは律法に記されているとおり、神の呪いのしるしでもあります。

 

旧約聖書 申命記 28章27、35節

主は、エジプトのはれ物、潰瘍、できもの、皮癬などであなたを打たれ、あなたはいやされることはない。

(中略)

主は悪いはれ物を両膝や腿に生じさせ、あなたはいやされることはない。それはあなたの足の裏から頭のてっぺんまで増え広がる。

 

上記聖句のように神の呪いを受けるのは、「あなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。」(申命記28:15~16)のとおりです。ですから、痛みを伴う腫れ物ができるのも、獣の刻印を受けるのも、神の律法、掟、戒めのすべてに従わないことに起因することが明白です。もしあなたが今まで神の律法、掟、戒めを守っていなかったのならば、悔い改める機会は今のうちです。あなたが都会にいようが田舎にいようが関係なく、どこにいても全知全能の神から隠れることはできません。神を愛して、神の律法、掟、戒めを喜んで守り、主イエスを信じて模範として従順に従い、大艱難が来る前にキリストに近い品性を築き上げておかなければ、必ずふるい落とされ、聖書の真理に反するNWOに従って獣の刻印を受けます。この警告を真剣に受け取らないで大艱難を迎える者は、以下のとおり行動するでしょう。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 16章11節

苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。

 

人々が悔い改めようとしなかったのは、聖書に書かれた神の御言葉を信じない、または軽んじて悔い改める機会があっても悔い改めない報いとして獣の刻印を受け、滅びの運命が決定しているからです。主イエスも大艱難が始まれば、もはや罪を赦す働きもされないからです。ですから、獣の刻印を受けた者は手遅れで、悔い改めることは不可能になり、神を冒涜して罪を増し加えるのです。

 

さて、上述したダニエル書に注目しましょう。

 

旧約聖書 ダニエル書 9章27節

彼は一週の間、多くの者と同盟を固め

半週でいけにえと献げ物を廃止する。

憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。

 

上記聖句を7年の大艱難と主張する偽教師らの言うことには耳を傾けないでください。この内容については既に過去記事「ダニエル書の70週預言の真実」で書いたとおりです。ダニエル書9章は「定めの70週」なのに、2,000年以上の空白期間を途中に挿入すれば、もはや70週(490年)ではなくなることを彼らは理解していません。また、彼らは、私が過去記事「ダニエル書7章の預言と反キリスト」で書いたように、ダニエル書7章の「小さな角」とヨハネの黙示録の「獣」の関連性が分からない人たちです。さて、今注目するのは、最後の一週や半週のことではなく、「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」の箇所です。これが当記事の冒頭で引用した福音書の指し示す内容と繋がっています。荒らすものと憎むべきものについては、英語では「on the wing of abominations shall come one who makes desolate」と表現され、9章だけでなく、11章と12章にもまったく同じではないですが、似た表現が書かれています。

 

旧約聖書 ダニエル書 11章31節

彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。

 

上記の「憎むべき荒廃をもたらすもの」が英語では「the abomination that makes desolate.」となっています。

 

旧約聖書 ダニエル書 12章11節

日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。

 

上記の「憎むべき荒廃をもたらすもの」が英語では「the abomination that makes desolate」です。これらの表現は同じ単語が使用されており、同じものを指していることが分かります。そして、日本語でも「もの」と訳されているとおり、英語でも人間を表す言葉ではありません。マタイ24:15とマルコ13:14の「憎むべき破壊者」は、ダニエル書と同じで、英語では「the abomination of desolation」です。よって、破壊”者”として人物を思わせる訳し方は誤訳と言えます。よって、ダニエル書と同じ表現の「憎むべき荒廃をもたらすもの」と訂正すべきでしょう。abominationは嫌悪、嫌悪感を起こさせるものという意味で、desolationは荒廃、破壊という意味です。desolateは形容詞で、荒廃した、荒れたという意味で動詞としても使用可能の単語です。これは以下の聖句も同じ単語があります。

 

新約聖書 ルカによる福音書 16章15節

人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。

 

上記聖句の英語では「For what is exalted among men is an abomination in the sight of God.」です。ここでもabominationが使用され、忌み嫌われるものという意味です。世間には「常識」として勝手に作られた人間の教えや慣習、伝統があります。それらがいくら耳触りが良くても、多くの人々が支持しても問題ではありません。もしそれらが神の律法、掟、戒めや主イエス・キリストの教え、聖書の真理に合致しなければ、神にとっては嫌悪でしかないのです。ダニエルやメシャク、アベド、ネゴの信仰もダニエル書から分かります。ダニエル書3章では、メシャク、アベド、ネゴの3人がネブカドネツァル王が造った金の偶像を拝むことを拒み、主なる神だけを礼拝する姿勢を崩さず、火が燃え盛る炉に投げ込まれましたが神に保護されて何の害も受けませんでした。ダニエル書6章では、ダニエルに敵意を抱いた同僚の大臣や総督が悪しき計略によって人間の法律によって主なる神への礼拝を禁止させました。しかし、ダニエルはその法律を無視して主なる神への祈りを欠かさず継続した結果、法律違反として捕まり、獅子の洞窟に投げ込まれましたが一切危害を受けませんでした。私が複数の過去記事で警告したとおり、これらと似たようなことが大艱難には起こるでしょう。これ程の固い信仰を真のクリスチャンは持っていなければならないのです。今まで何度も述べてきましたが、他人から犯罪者扱い、変人扱いされるのが怖い、投獄が怖い、神のことを思わず人間の評価や法律を恐れる人は真のクリスチャンではありません。多くの人々は他人の目や評判、自分の保身のために人間の法律に従って善人を装っています。しかし、彼らは神の目には善人ではありません。彼らは神の律法、掟、戒めを最初から守らないか、途中で守らなくなるでしょう。特に命がかかった場合はいとも簡単に屈するでしょう。これこそが世に属する人間の本性です。私が、にわかクリスチャンと呼んでいる人々は、このような艱難が来たら簡単に信仰を捨てる、自分の命や財産等が神の律法、掟、戒めを守ることよりも大事だと思う平和な時だけクリスチャンを装う一時的な信仰者のことです。過去に兄弟から相談を受けたことがありましたが、日本の文化や慣習、特に仏教式の葬儀等、周囲から圧力が加わる場面に直面することもあるでしょう。しかし、主イエスへの信仰を公に言い表さず、世間体を気にして周囲の圧力に屈したら、結局は異教徒や不信仰の者と何ら変わりありません。心の中ではイエス・キリストを信じているから大丈夫ではありません。心からイエス・キリストを主と信じているなら、行いで信仰を示す必要があります。神が忌み嫌う偶像礼拝をはじめとする神の律法に反する事柄は毅然と反対するべきです。それができないならば、臆病者のにわかクリスチャンです。地上の権力者や周囲の人間を恐れず、人間の法律や慣習をはじめとするどんな圧力にも屈せず、私たちの救い主である主イエス・キリストだけを崇め、礼拝しましょう。

 

さて、荒らすもの、憎むべきものの話に戻ります。ダニエル書9章を上記で取り上げ、過去記事「ダニエル書の70週預言の真実」でも言及しましたが、歴史的事実として西暦70年のエルサレム陥落で実現しました。実はこれは過去のことだけでなく、未来のことも含んでいる預言です。主イエスの「山に逃げなさい」という御言葉が実現し、主イエスの御言葉を信じて山に逃れた人たちは助かりましたが、信じずにエルサレムの都に立てこもった人々は散々な目に遭いました。

 

画像引用元: ユダヤ戦争(Wikipedia)

 

主イエスに敵対したユダヤ教徒たちは神殿に立てこもれば救われると間違った思い込みをし、彼らはローマ軍が迫って来るのを見て、人々が都から出ることを禁じました。都が封鎖され、ローマ軍に包囲されて外部に出れないし外部から入って来ることもできなくなり、食糧難に陥りました。そんな危機的状況にも拘らず、都の中で主導権争いがユダヤ教徒の間で激しくなり、暴力や恐怖で市民を監視、統制しました。この時、身重(妊娠中)の女や乳飲み子を持つ母親も大変でした。閉ざされた都に長い間いれば食糧が尽き、飢えから自分たちの子供を殺して食べるという者までいました。これも主イエスの「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。」(マタイ24:19)という預言が的中しています。食糧という問題は深刻です。食欲というのは皆が持っているものです。そして、様々な危機的状況が起こり易い都会にいるのは危険だということなのです。これは過去記事「田舎への移動と憲法改悪」でも注意喚起したとおりです。ちなみに、律法にも神の呪いの結果が預言されており、的中しています。

 

旧約聖書 申命記 28章49~53節

主は遠く地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる。その民は尊大で、老人を顧みず、幼い子を憐れまず、家畜の産むものや土地の実りを食い尽くし、ついにあなたは死に絶える。あなたのために穀物も新しいぶどう酒もオリーブ油も、牛の子も羊の子も、何一つ残さず、ついにあなたを滅ぼす。彼らはすべての町であなたを攻め囲み、あなたが全土に築いて頼みとしてきた高くて堅固な城壁をついには崩してしまう。彼らは、あなたの神、主があなたに与えられた全土のすべての町を攻め囲む。あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主が与えられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘らの肉をさえ食べるようになる。

 

上記聖句は、まさに主イエスの御言葉を信じなかった1世紀当時のユダヤ人に降りかかった破滅であるユダヤ戦争、エルサレムの都に立てこもった内部の様子、そしてエルサレム陥落の様子を示しています。当時、神はローマ軍を使って反逆の民に神の怒りを注ぎました。都会では地方から食糧が運ばれて店頭に並ばないと誰も食糧を入手できません。都会は閉鎖されれば、もはや飢えを待つしかないということを肝に命じておくべきです。紙切れと金属の塊に過ぎないお金や電子マネーをいくら貯め込んでも無意味であることをその時に痛い程思い知るでしょう。お金はいずれ使えなくなる時が来ます。その時までに自分のためばかりではなく、隣人や貧しい人に施す等、有益に使いましょう。ヨハネの黙示録13章にあるとおり、獣の刻印を受けた者でなければ経済活動ができなくなる前に備え終えておかねばなりません。何より、今のうちから食欲を節制し、主イエスへの信仰の故に肉の欲を制御できるようにしなければなりません。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章17~18節

屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。

 

上記聖句のとおり、畑ということから田舎、地方都市を思わせますが、荒らすもの、憎むべきものが立った時、そこでも安全とは限らないということです。だから、山に逃げなければいけないのです。それも上着を忘れたからといって取りに帰るなと警告されています。要するに、後ろを振り返らずに逃げなさいということです。

 

新約聖書 ルカによる福音書 17章32~33節

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。

 

旧約聖書 創世記 19章26節

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

 

画像引用元: ソドムとゴモラ(Wikipedia)

 

罪深いソドムとゴモラの町が神によって滅ぼされる前にロトたちが逃れた時の話です。それらの町の罪深さの証しとして、土地は煙が立ち上り、不信仰な魂の証拠として塩の柱が残りました。同じ不信仰の例に倣ってはいけません。主イエスの御言葉を固く信じて覚えておきましょう。いくら重要な物が家にあるからといって未練を感じて振り返ってはなりません。主なる神は、神の民の命ほど重要なものは無いと教えてくださっているのです。

 

旧約聖書 創世記 19章17節

「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」

 

人情深い人は、自分だけ逃げることはできないと言う人がいるかもしれません。でも、その考えは神の御心ではありません。ロトは親族に災いの警告を発しましたが、冗談だと思って聞き入れられませんでした(創世記19:14)。あなたの家族や友人も聖書の警告を聞き入れない場合、彼らが聞き入れないからと言って彼らとともに居残るのが神の御心でしょうか。決してそうではありません。主の御使いはロトをせきたてて、聞かない者は放置して早く逃げるように言いました(創世記19:15)。主イエス・キリストは神の民のために尊いお命を犠牲にされ、罪の代価を支払われたのです。人情を主イエスの贖いよりも上にする者は一体何者でしょうか。情に負けて、主イエスの御言葉を蔑ろにする者は神の民ではありません。アダムとエバもそうです。エバがサタンに騙され、アダムは死ぬことが分かっていながらエバだけを死なせる訳にはいかないと思って、神に食べてはならないと命じられた木の実を食べて死にました。人情は、時として最強の欺きの手段となり得ます。ですから、身近にいる人間の言葉ではなく、神の御言葉、主イエスの御言葉を固く信じ、背いてはいけません。あなたの家族や身近な人が主イエスを信じないと嘆いても意味がありません。嘆くのではなく、あなたが神を信頼し、神の律法、掟、戒めを日頃から守って神の御心を行い、主イエスに祈るべきです。それ以外にすることはありません。神の御心ならば、今は信じない人たちも大艱難前に信じるようになるかもしれません。そのためにも私たち自身が揺るがない信仰を持たねば、その祈りが神に聞き入れられることはありませんし、神の御計画外でも同様です。しかし、ロトの真似をしてはいけません。彼は神から憐れみを受けて助けられましたが、彼の行動はアブラハムほどに素直ではなく、ためらっていました(創世記19:16)。ぐずぐずせずに、早く行動する方が良いでしょう。ロトのためらいがなければ、彼の妻が振り返ることもなかったかもしれません。上述したとおり、ヨブは子供を失いましたが、神を非難することはせず、主の御名を賛美しました。

 

旧約聖書 ヨブ記 1章21節

わたしは裸で母の胎を出た。

裸でそこに帰ろう。

主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ。

 

大艱難で、神の律法、掟、戒めを守って主イエス・キリストに従順な真のクリスチャンに対する迫害の時にも支えとなるのは家族や友人といった他の人間ではなく、主イエスです。上述したとおり、逮捕されて権力者の前に引きずり出された時、証しをするのは主の霊です。主イエスが誰にも負けない弁明をさせてくださるのです。それも主イエスに従順である結果であり、神の律法、掟、戒めを守らない不従順で不法な者にはありません。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章12節

ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。

 

この聖句も過去に引用しました。これを忘れないでください。どんなに身近な人間の言うことよりも主イエスの御言葉を信頼してください。

 

ところで、聖書では「憎むべきもの」というのは「忌まわしいもの」と表現されている場合もありますが、同じ意味です。以下もそうです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 17章4節

女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。

 

上記聖句の「忌まわしいもの」というのが上記で説明した「abominations」という憎むべきものと同義です。さて、この聖句は過去記事「世の中の真相、新世界秩序(NWO)とこれからの動向」で引用し、説明したとおりです。もう何を示すか分かっていますね。続く聖句も見ましょう。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 17章5節

その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。

 

上記聖句の「忌まわしい者」というのが上記で引用した「abominations」と同じ単語が使用されています。つまり、カトリックの中心地であるバチカンこそが大バビロンということです。バチカンはこれまでに何度も性的虐待が取り上げられてきました。「バチカン 不祥事」とネット検索すれば多く出てきます。彼らは表向きには聖職者を気取っていますが、実態は悪魔の巣窟でしかありません。カトリックのローマ教皇はキリスト教の中心であるかのように振る舞い、人々はそのように盲信しています。過去記事「プロテスタントの致命的な間違い」で説明したとおり、プロテスタントも吸収しようとしています。また、過去記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」や「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」で述べたとおり、バチカンのローマ教皇はキリスト教に限らず異教徒とも手を結んで宗教多元主義を取っており、まさに「地上の忌まわしい者たちの母」と言うに相応しいです。

上記で引用したダニエル書9:27の「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。」という箇所の翼を聖書から解釈します。根拠となる箇所は以下の聖句です。

 

旧約聖書 詩編 17編8節

瞳のようにわたしを守り

あなたの翼の陰に隠してください。 

 

旧約聖書 詩編 36編8節

神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 

 

旧約聖書 詩編 57編2節

憐れんでください

神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし

災いの過ぎ去るまで

あなたの翼の陰を避けどころとします。

 

旧約聖書 詩編 61編5節

あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り

あなたの翼を避けどころとして隠れます。

 

旧約聖書 詩編 91編4節

神は羽をもってあなたを覆い

翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。

 

旧約聖書 イザヤ書 40章31節

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 

このように、翼というのは神の保護や神の力を意味します。しかし、ダニエル書9:27の「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。」というのは、「憎むべきものの翼」ですから、神の力ではなく、反キリストの権力を指し、その権力によってなされる数々の罪が荒廃をもたらします(ダニエル書8:13参照)。「そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」(ダニエル書9:27)とあるように、定められた時に神の怒りが反キリストの頭に注がれます。

 

上記ダニエル書を引用した中に、「日ごとの供え物」とありましたが、これも聖書を根拠に読み解きます。

 

旧約聖書 歴代誌下 2章3節

わたしはわが神なる主の御名のために神殿を建て、これを主のために聖別して、その御前に香草の香をたき、絶えずパンを供え、朝に夕に、安息日と新月祭、我らの神なる主の祝祭日に、焼き尽くす献げ物をささげ、この事がイスラエルにおいていつまでも守られるようにしようとしています。

 

上記聖句の絶えずパンと焼き尽くす献げ物を供えるというのが日ごとの供え物に該当します。焼き尽くす献げ物はノアの時からなされていたことですが、ダニエル書9:27とヘブライ10:12, 10:18から明らかとおり、主イエスの十字架での罪の贖いにより不要なものになりました。しかし、パンについては、詳しく律法で確認します。

 

旧約聖書 レビ記 24章8節

アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える。

 

律法では祭司が安息日ごとに供え物をしていましたが、主イエスの十字架の贖いにより、祭司制度も動物の犠牲もなくなりました。従って、残るのは安息日です。安息日は過去記事で述べてきたように、世俗的な行いから離れて、神との関係を深める時であり、神を礼拝する時です。聖書の安息日を大艱難の時に人間の法令によって罰則付きで禁止するでしょう。聖書どおりの安息日を禁止し、日曜安息を強要させる法令が出るでしょう。これこそ神の怒りを招く憎むべきものです。聖書どおりの安息日を忠実に守る神の民は、法令違反として迫害の対象になるのです。故に、現在において既に律法廃止論を唱えて安息日を無視しているプロテスタント、神の律法を教会の権威で変更したカトリックが中心となって神の民を迫害するでしょう。

 

旧約聖書 ダニエル書 11章31~35節

彼は軍隊を派遣し、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒れる。こうして倒れるこの人々を助ける者は少なく、多くの者は彼らにくみするが、実は不誠実である。これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。

 

上記聖句は、終わりの時が来る直前期の大艱難時、神の民が受ける迫害の様子です。神の民は、主イエスの御名のため、主イエスの御名が刻まれた神の刻印、即ち、聖書どおりの安息日を遵守するが故に遭う迫害です。多くの者が律法は廃止されたから守らなくてよい、主イエスさえ信じていれば大丈夫、福音の三要素だけ信じれば大丈夫等という甘言を言いますが、間違っているということは過去記事「プロテスタントの致命的な間違い」で説明したとおりです。兄弟たち、私たちを助ける者は少ないですが、恐れてはなりません。たとえ人間から見捨てられたり裏切られても、神はいつも見ていてくださり、神の律法や掟を守って主イエスに従順であれば見捨てられることはありません。主イエスの十字架の死に至るまでの従順さに倣い、私たちもその覚悟をし、備えなければいけません。人間に従うよりは神に従う(使徒言行録5:29参照)という確固たる信仰を持ちましょう。そして上記聖句からも明白なとおり、大艱難は神の民を練り清めるために必要な試練であり、これより前に携挙されると主張する艱難期前携挙説は偽りです。私が過去に何度も述べてきたとおり、艱難期前携挙説を信じて主張をする者、しきりに携挙ばかり言っている者、携挙に望みを置く携挙信仰をする者は兄弟ではありません。彼らは霊的に盲目で、自分たちが死にたくないと思うだけの臆病者です。彼らには神への愛はありませんし、兄弟愛もありません。このような者から離れ、このような者が集う教会から離れなさい。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。

 

私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上