こんにちは。

 

今回は、サタンの本質と大艱難前の霊的備えについて書きます。

 

さて、みなさんは日々どのような暮らしをしているでしょうか。相変わらず、主イエスの教えと聖書の真理は二の次で、世俗の生活が中心になっている人が多いと思います。そうしている人は、早く改善しなければ、ふるい落とされるだけです。まだ大丈夫と呑気に思っている人は、今後も主イエスに従順に従うことがないでしょう。その証拠に、あなたは長きに渡り同じことを言い続けて、信仰を行いで示せないからです。過去記事「憐れみ深い神」で話したとおり、人生という時間は神から与えられた財産ですから、それを無駄にしないでください。もしあなたが真に悔い改めず、新生できずに、無為に時間が過ぎて大艱難が始まる時に獣の刻印を受けることになるでしょう。なぜなら、あなたが永遠の生死を分ける獣の刻印を拒否する程に厚い信仰を持っていないからです。若しくは、キリストに結ばれずに片思いをしたまま思いがけない時に寿命が尽きるかもしれません。もしあなたが悔い改めを実行に移せない状態ならば、あなたが主イエス・キリストのために自分を捨てることができていないということになります。過去記事「自我との戦い」と前回記事「天に富を蓄えよ」等をよく読んで、自分を捨てられているか、地上の富を貧しい人に施しているか、自分の不要な持ち物を手放しているか確認してみてください。

 

過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」をはじめとする多くの記事で強調してきたとおり、昔からずっと同じですが、これから来る終末は神の律法遵守についての争いが永遠の生死を分けることになります。神の律法を蔑ろにするカトリック、プロテスタント、正教会等の世の諸教会、諸教派では絶対に語られないことです。神の律法を守ることを教える教会があれば、語られることがあるかもしれませんが、そのような教会は非常に少ないでしょう。ほとんどの教会は、モーセの律法が主イエスの十字架以降は廃止されたとか、血統のイスラエル人だけに与えられた等の間違った言い訳をし、律法を廃止していないという主イエスの御言葉に反して背教しています。それらの間違った主張に対する弾劾も私が過去にしてきました。神の律法を変更したカトリック、律法廃止論を唱えるプロテスタントは二大背教勢力と私が過去に述べたとおり、世の大多数のクリスチャンは偽り者であり、このまま悔い改めないならば大艱難到来時に必ず獣の刻印を受けることになります。

 

サタンの本質について語りましょう。

サタンというのはルシフェルという堕天使だけを意味するのではなく、神に敵対する者という意味であり、反キリストと同じく概念的なものです。また、世のほとんどの人間は、何故ルシフェルを中心とする天使たちが天から地に落とされた堕天使となって、サタン、悪魔、悪霊と呼ばれるになったのかを理解していません。それは彼らが神の秩序である神の律法、掟、戒めを守らなかったからです。彼らが神の律法、掟、戒めという神の秩序を束縛に感じ、自分たちの自由意志こそが正しいと考え、自分たちの力を過信し自惚れて高慢になり、自らが神になって秩序を別に構築しようとしたためです。ルシフェルは以下に描写されています。

 

旧約聖書 エゼキエル書 28章2~5、11~13、14~19節

『私は神だ。わたしは海の真ん中にある神神の住みかに住まう』と。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。

(中略)

お前はあるべき姿を印章としたものであり

知恵に満ち、美しさの極みである。

お前は神の園であるエデンにいた。

(中略)

わたしはお前を翼を広げて覆うケルブとして造った。

お前は神の聖なる山にいて

火の石の間を歩いていた。

お前が創造された日から

お前の歩みは無垢であったが

ついに不正がお前の中に

見いだされるようになった。

お前の取り引きが盛んになると

お前の中に不法が満ち

罪を犯すようになった。

そこで、わたしはお前を神の山から追い出し

翼で覆うケルブであるお前を

火の石の間から滅ぼした。

お前の心は美しさのゆえに高慢となり

栄華のゆえに知恵を堕落させた。

わたしはお前を地の上に投げ落とし

王たちの前で見せ物とした。

お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って

自分の聖所を汚した。

それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ

お前を焼き尽くさせた。

わたしは見ている者すべての前で

お前を地上の灰にした。

諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆

お前のゆえにぼう然とする。

お前は人々に恐怖を引き起こし

とこしえに消え失せる。

 

上記聖句で分かるとおり、ルシフェルは神によって造られた天使の中でも美しさの極みであり、知恵もあり、エデンの園にいました。しかし、その美しさのあまりに高慢になり、知恵を悪用するようになって罪を犯し、天から投げ落とされました。これは以下と同じです。

 

旧約聖書 イザヤ書 十四章十二節(拙訳)

どうしてお前は天から落とされたか、

明けの明星、暁の子よ。

お前は地に切り倒された、

諸国民を打ち負かした者よ。

 

高慢になることの恐ろしさが分かりますか。これは天使に限った話ではなく、人間にも同じことが言えます。外見の美しさのあまり、他人を見下すようになる人は大勢います。それも女性に顕著で、化粧や整形で本来の姿を隠しているだけにも拘らず、それが本来の自分の姿と思い込んで自らの外見が変わった途端に調子に乗って他人の美醜について論じたり、他人を見下し始める人もいます。男性も外見の良さを鼻にかけて高ぶったり、複数の女性と姦淫をするようになってもいけません。地上の富を多く得て高ぶることもサタンと同じです。知恵や知識も同じく罠になります。例えば、学歴を鼻にかけて自分から言う等して自慢したり、在学中の学校名または卒業した学校名だけで人を評価したり、この世の専門知識や科学等の知識を誇る者は不幸です。彼らは何の価値も無い物を誇っているからです。人間が聖書以外からこの地上で知り得た知恵は神にとってはゴミ以下のものです。そんなくだらない知恵を蓄えて神に反逆するなら、知らない方が良いです。ルシフェルは神に嫉妬して、美しく賢い自分が神のようになって天と地を治める者になろうとしました。それ故、ねたみという感情は神の御国に入れない肉の思いであることも聖書にはあります(ローマ1:29、ガラテヤ5:21、ヤコブ3:14~16等)。サタンは、神の秩序である神の律法を束縛と捉え、善であり聖でもある神の律法と掟(ローマ7:12)を忌み嫌い、逆らう道を選んだのです。そして、彼ら自身が持つ自由意志こそが正しいと思い込み、神の律法を変えて、新たにサタンが作る秩序を確立し、それを人間に従わせることで人間から崇拝されて神である気分を味わうことに喜びを見い出すようになりました。これがローマカトリック教会やローマ教皇がしてきた律法や十戒の変更、プロテスタントの律法廃止論です。また、終わりの時代には、それだけに飽き足らず、私が今までに何度も注意喚起してきたこの地上で構築されつつある新世界秩序(NWO)というものです。残された時が少ないのを知ったサタンは、サタン崇拝者の人間を操り、サタンの秩序であるNWOをこの地上で確立させ、憲法、条約、法律等を駆使して強制的に無神論者や異教徒、にわかクリスチャンも含むすべての人間をサタンに従わせようとしているのです。それ故、以下の聖句が主イエスから教えられています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 13章16~17節

また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその数字である。

 

上記聖句は、不信仰の者でも知っている位有名ですね。しかし、大多数の人々は、これを知っていても獣の刻印を受けるのです。その理由は、神を愛するが故に神の律法、掟、戒めをすべて当たり前のように守り、主イエス・キリストに対する信仰を持ち続ける者だけが獣の刻印を拒否し、神の刻印を押されるからです。神の律法、掟、戒めをすべて守らず、主イエスに従順ではなく、キリストに近い品性を形成することができずに神の刻印を押されない者は皆、自分の命や生活が危機にさらされたら容易に獣の刻印を受けるようになるのです。

 

サタンは神の律法を忌み嫌って神に反逆したのと反対に、神の御子イエスは神でありながらも人間となって、それを恥となさいませんでした。

 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2章6~9節

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

 

上記聖句から分かるとおり、主イエス・キリストは神でありながらも人となられた謙遜なお方なので、来るべき次の世である、新しい天と新しい地の王となられるのです。だから主イエスは、「王の王、主の主」(テモテ一6:15、黙示録17:14、19:16)と呼ばれています。サタンは高慢の故に天から地に落ち、主イエスは謙遜の故に高められます。これは、主イエスの「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 」(マタイ23:12)という御言葉のとおりです。また、旧約聖書でも言われています。「高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。 」(箴言11:2)というのは真理です。社会的身分、財産、美貌、知恵、知識等を鼻にかけて偉そうに振る舞う人間は、サタンに似た者であり、神から遠い人間です。主イエスは、へりくだられたのみならず、神の律法、掟、戒めを完全に遵守され、罪を犯されませんでした。それは、モーセの律法が廃止できないためであり、その不変性を証明なさいました。故に、主イエスはモーセの律法を補完したのです。このことは過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」や「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」でも説明しました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 5章19節

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 

 

神の業を見なければ人間は自分からは何事も正しいことができないという意味です。神である主イエスが人となって、人間たちに対して模範を示し、人間が主イエスのような品性を持って信仰を行いで示せば良い、神(聖霊)の力を持ってすれば人間にもそれが不可能ではないと教えてくださっているのです。主イエスが地上に来られて模範とならなければ、救われる人間はほとんど存在しないでしょう。だから、人間だけの力で正しいことができると思ってはならないのです。無神論者にありがちな思想で、人間の力だけで正しい存在になれると思うのはただの高慢であって、他の同類の人間たちの目に正しそうに映るかもしれませんが、主なる神の目にはまったく正しく映っていません。このように、主イエスは受肉されて人間として地上におられた間、神に対する信仰の厚さ、自分を捨てて人間が神に対してどういう態度であるべきかを教えられたのです。主イエスに倣いなさい。しかし、主イエスに成り代わろうとしてはいけません。それでは偽メシアになることを欲する反キリストになってしまいます。

サタンは、ゲツセマネで主イエスに激しい誘惑の攻撃をしました。肉の思いで十字架を回避するように必死に攻撃しましたが、主イエスは祈りと信仰によって肉の思いと御自分を捨てて、聖書の預言どおり神の御心を常に行い続け、神に死まで従順に従い通され、人類の罪の贖いという偉大な御業を成し遂げられました。主イエスの十字架は、罪の贖い以外に、モーセの律法を遵守するだけという古い契約よりも素晴らしい新しい契約の仲介者となられ、モーセの律法を廃止するのではなく不完全な部分を補って完成されました。神の律法をより良いものに変えられたのです。動物の犠牲で罪を拭い去るのは人間の品性を根本から変えることができない不完全なものでしたが、このような制度を十字架によって廃止され、代わりに神の御子イエスの血によって清められることで人間を完全な状態にすることができるようになったのです。仮に主イエスが十字架を回避していたならば、この素晴らしい救いの契約が成立しなかったことになります。世の反キリストどもは、主イエスの十字架を失敗扱いしたり、十字架以外にも方法があったとか、十字架を回避して地上でもっと長く宣教していた方が良かったとか、モーセの律法を守ることは十字架を否定する等のサタンの主張を代弁しています。このような発言をする者こそが、主イエスの十字架の御業を否定する悪霊に惑わされている反キリストです。そして、十字架そのものを崇めてはいけません。これは古代ローマ帝国の残虐な死刑道具に過ぎないからです。十字架の絵や彫刻等を飾ったり、十字架のアクセサリーを身につけるのも偶像礼拝に過ぎません。ローマ教皇やカトリックの枢機卿らが首にぶらさげているのは何でしょうか。彼らの真似をしてはなりません。ただ、主イエスが成し遂げた十字架における御業に感謝すべきで、十字架という物体を掲げて崇めるべきではないのです。

 

さて、神の律法は、神の品性を反映させたものということに気付かない人間が多過ぎます。何故、神は人間に多くの決まりをお与えになったのでしょうか。それはいかに人間が不完全な存在で、神から遠いかということと、神の品性は神の律法にあるということを示すためです。だから、神は人間に神の律法を遵守することを求められるのです。神は愛であり(ヨハネ一4:8)、律法も愛から成り立っていると過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で説明したとおりです。神の律法を遵守できる人間でなければ、神の御国に入る資格が無いのです。神の律法を守らない者は神の民ではなく、サタンと同じだからです。それ故、神の律法に違反することは罪を犯すことになり、罪を犯す者は悪魔の子ということになるのです。根拠となる聖句は複数の過去記事で挙げたとおりです。何故、人々がこんなに単純明快な論理が分からないのか私には不思議でなりませんが、世に属する人間にはこの真理がどうしても理解不能で、受け入れられないようです。その理由は、サタンがこの真理を受け入れずに神に反逆したのと同じで、世に属する人間がこの偽りの父から出た者であるので神に従い得ないからです。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 7章18節

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

 

上記聖句のとおり、またパウロに言われるまでもなく、真のクリスチャンになろうとする人には分かっているはずです。肉なる人間には生まれつき神にとって善を行う力が備わっておらず、かえって神に反逆する悪い行いばかりするようになっています。それ故、過去記事「憐れみ深い神」でも引用したとおり、聖書には「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)、「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩編14:3、53:4)、「善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。」(コヘレトの言葉7:20)と書かれているのです。よって、まったく正しくないのに自分が正しい、自分しか信じられないというような自己崇拝する者は神に反逆する偶像礼拝者であり、サタンに惑わされています。主イエスが教えられたとおり、自分を捨てず、自分のことが大好きな人は主イエスに相応しくない、つまり、そのような者は神の民では有り得ないということです。

 

次に、大艱難についてです。

大艱難前にやっておくべき霊的備えは、既に多くの過去記事で述べてきました。それをすべて理解して実行することです。知っているだけで実行しないのは無意味です。信仰は行いに現れるからです。大艱難というのは、キリストの再臨の直前期というべき時期のことで、2018年現在ではありません。大艱難の始まりは、NWOに聖書の真理に反する内容、つまり、神の律法、掟、戒めに反する内容が組み込まれてすべての人間に強制されます。現在、インドで行われている顔や指紋の登録、アメリカのマイクロチップ等は後に来る獣の刻印を人々に自然に受けさせる導入段階に過ぎません。NWOの十戒であるジョージア・ガイドストーンにある世界人口5億人以下を維持とあることから、現在は支那とインドを合わせて26億人もいるので、絶滅はないでしょうが大量に人口削減されるのが目に見えています。ジョージア・ガイドストーンに書かれている8か国語の言語である英語、スペイン語、スワヒリ語、ヒンディー語、ヘブライ語、アラビア語、支那語、ロシア語は人口の多い国々です。特に、これらの国々では特に人口削減が激しく行われるでしょう。将来、神の律法、掟、戒めに反する内容が人々に強制される時、NWOに従う者は獣の刻印を押され、NWOに従うことを拒否する者は神の刻印が押されます。その時までに築いた品性がキリストに限りなく近いかで分かります。今はまだこの世で好き放題に生きたいのでキリストに従わないが、地獄には行きたくないので大艱難の始まりの時にとにかくNWOに従わなければ良いと考えるのは愚か者のすることですので、そのような狡猾な考え方はやめなさい。神はそのような心の中の悪しき企みをご存知です。今すぐ悔い改める必要があります。

さて、NWOに神の律法、掟、戒めに反する内容が組み込まれるとは何のことでしょうか。それは今も既にその不法の力が働いているように、安息日が挙げられます。安息日については多くの過去記事で言及してきましたが、例えば「安息日の重要性とモーセの律法」、「千年王国の真実 後編」等を読んでいただければその重要性が分かるはずです。今でさえ、本来は平日であるはずの日曜日が世界中で休みにされています。カレンダーも月曜日始まりで日曜日を終わりとするものまで作られています。しかし、日曜日は週末ではなく、週の始めです。そして、ドイツを中心とするヨーロッパでは日曜休業法があり、日曜日には飲食店を除くほとんどの店は閉められ、閑散としています。これは明らかに古代ローマ帝国の日曜休業令とカトリックが律法と時を変更した日曜安息、日曜礼拝の影響です。この根底は、ニムロドから派生した太陽神バアル崇拝があります。彼らはクリスチャンと自称しながら、聖書が教える金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日を無視し、人間の伝統や法を守っています。サタン崇拝者の人間が作った法や伝統に従う者は、NWOで日曜休業や日曜礼拝を強制されても何の違和感も感じないので気軽に受け入れ、獣の刻印も受けるのです。大艱難の始まりの時は、この安息日について、主なる神の権威の印である土曜日の安息日か、サタンの権威の印である日曜日の安息日のどちらかを全人類に選択を迫られるのです。すべての人間が選択し終えた時、全人類の恩恵期間は終了し、NWOに従ったすべての人々は一切悔い改めができなくなり、獣の刻印を受けた大勢の人々が少数の神の民を激しく迫害するようになります。聖書に預言されているあらゆる災害も大艱難期に起こり、彼らはその原因を神の民のせいにしたりもするでしょう。彼らは自分たちが主なる神が定めた金曜日の日没から土曜日の日没までの聖なる安息日を勝手に変更して守らず、そのことが神の怒りを招いているのにその事実を棚に上げて、日曜日を安息日として守っていない神の民のせいにするでしょう。そして、ますます日曜日を安息日、休む日として厳しくするでしょう。それは当局だけでなく、市民の間でも監視が厳しくなり、日曜日に何か作業をするのを見つけたら通報さえするようになるでしょう。しかし、兄弟たち、こんなことを恐れてはなりません。獣の刻印を押された人を恐れて屈するようでは臆病者でしかなく、彼らと同じようになり、命の書から名前が消されます。そのために今のうちから安息日を守り続ける必要があります。厳しい迫害もない今でさえ安息日を守れない者は、大艱難の時になって守れるはずがありません。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 9章27~28節

「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」

 

神の律法、掟、戒めを守り、主イエスの信仰を保って獣の刻印を拒否し、神の刻印を受けた者でさえも全員が生きたまま携挙されるとは限りません。そもそも携挙に拘る必要はありません。私は携挙されず、キリストの再臨前に主イエスのために死んでも構わないと思っています。なぜなら、携挙の対象者は人間が決めるのではなく、神がお決めになるからです。何が何でも生き延びて携挙されたいと意気込んでいたり、頻繁に携挙されたいと今も騒いでいる者ほど携挙されないと思います。黙示録13章にあるとおり、獣の像を拝むことを拒否して殺されることさえあるでしょう。それも主イエスに従順に従うが故です。主イエスの御言葉どおり、この世の終わりは、福音が全世界に伝わり、それも速やかに行われてから来ます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章14節

そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。

 

福音が全世界に宣べ伝えられるのは、今の調子では決してありません。大艱難が来る前に速やかに行われます。だから、その時までに真の福音を聞かない人はいなくなり、上述した究極の選択をする前に知らなかったという言い訳は絶対にできなくなります。真の福音を聞いた後でもNWOに従う者は、獣の刻印を故意に受けるのですから、弁解の余地がありません。そして、過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」でも述べたとおり、大艱難が始まった時、主イエスは罪を赦す働きを一切やめられます。その時、全人類はキリストの再臨まで、主イエス・キリストという仲介者なしに生きる必要があります。だから、クリスチャンは主イエスが罪を赦す働きをなさっている今のうちに神の律法、掟、戒めと主イエスの御言葉から学んで品性を磨いて、キリストに限りなく近い品性を持った完全な者となれなければ、ふるい落とされて不信仰の者や異教徒らと同じように獣の刻印を受けます。過去記事「死後の世界」で述べたように、二度目の機会はなく現世において生きている間にしなければいけないことです。そして、神の命令によって天使がこの地上に様々な災いをもたらすでしょう。それまでに聖書を熱心に研究し、神の律法、掟、戒めをすべて守って主イエスを模範として生活してキリストに近い品性を持った神の民は大丈夫ですが、それ以外の人々は神と神の民にあからさまに敵対するようになります。もはや彼らには希望がなく、神の怒りを受けるだけです。

 

旧約聖書 ゼファニヤ書 2章1~3節(私訳)

共に集まれ、集まれ

望ましくない国民よ

判決が出されぬうちに。

もみ殻のように、その日が過ぎ去る前に。

主の激しい怒りがお前たちに臨まぬうちに。

主の怒りの日がお前たちに臨まぬうちに。

主よを求めよ。地上のすべての従順な人よ、

主の裁きを行い、正義を求めよ。

従順さを求めよ。

おそらく主の怒りの日に隠される(身を守られる)であろう。

 

誤訳が多いので私訳を掲載します。上述した大艱難の開始である日曜日を安息日または休業日として強制される法令が出る前に、個人の恩恵期間が終わらないうちに、この地上での命が終わらぬうちに、主なる神を求め、正義を求め、謙遜を求め、共に集まってイエス・キリストを信じて従順に従う必要があるということです。神から運命を決する判決が出てからでは遅いのです。故に、人類の悔い改める最後の機会は、主イエスが執り成しの働きをやめる大艱難前なのです。大艱難が始まれば、神は怒りをこの地上に注がれるでしょう(黙示録16:1)。この身を守られるというのは直訳すれば、隠される、かくまわれるという意味です。これは携挙を意味するのではなく、大艱難の世にあっても保護されるということです。天に引き上げるとは一言も書かれていないからです。また、これは以下に関連しています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章10節(私訳)

なぜなら、あなたはわたしの忍耐の言葉を守っているからであり、地上に住む人々を試すため全世界にやって来る誘惑の時からわたしもあなたを守ろう。 

 

上記は大艱難の時にあっても主イエスを信頼し続け、キリストの再臨に希望を持って神の律法、掟、戒めを守っていれば、神は必ずあなたを見捨てずに御心に留めていてくださいます。神の民は、大艱難で背教に繋がる誘惑にも耐え抜くことで神の御国に入る前に練り清められ、永遠の命を受けるに相応しい人間に仕上げられるのです。神の民を教会に例えられています。

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章26~27節

キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 3章12節

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。

 

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙 3章3節

わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。

 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章29節

つまり、あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 7章14節

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。」

 

旧約聖書 イザヤ書 1章18節

たとえ、お前の罪が緋のようでも

雪のように白くなることができる。

たとえ、紅のようであっても

羊の毛のようになることができる。

 

私が何度も言ってきたとおり、教会は建物ではなく、人の集まりです。だから、人が造った建築物に過ぎない建物の教会はどうでもいいのです。キリストは、大艱難における迫害にも耐えた御自分に近い品性を持ち完全な者となった神の民を主イエスは御自身の血で洗って清めて神の御国に入ることをお許しになるのです。上記で引用した黙示録7:14からも明らかなとおり、大艱難前に携挙は有り得ません。誰もキリストの再臨前に寿命が尽きる以外に大艱難を逃れることはありません。キリストに結ばれれば迫害は不可避です。そして、迫害は喜びであることは過去記事「神の裁きは福音であり、迫害は喜びである」で述べたとおりです。ヤコブ2:10からも明らかなとおり、どこか一つでも律法に反する欠陥があると不完全な者であり、神の御国には入れません。そして、その猶予は大艱難が起こる前です。それは人間の努力というよりは、聖霊、即ち、神がそれを実現させます。

 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2章13節

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 

上記聖句は、「神の御心のためにあなたの意志と行いの両方に対してあなたの内で働いているのは神である。」と私なら訳すと過去記事「聖霊の賜物について」で引用し、説明したとおりです。主イエスに従順に従う兄弟たちよ、以下の主イエスの啓示に希望を持ちなさい。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 22章12節

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

 

神を愛し、神の律法、掟、戒めを守り、主イエスを信じて従順に従い、世に迎合せず、自分の命がかかった時にも悪に屈しないで完全な者になった者は、神の御国に入って永遠の命という報いを受け、それ以外の者は各自の行いに応じた報いが返ってきます。お金、名誉、地位、あらゆる肉の欲を追い求め、肉の思いで生きた者は、地獄を見る他ないでしょう。黙示録21:8にあるとおり、臆病者、不誠実な者、不信仰の者、偶像礼拝者、魔術や魔法を使う者、嘘をつく者、性的にみだらな行いをする者、人を殺す者、忌まわしい者(占い、霊媒、同性愛、近親相姦をはじめとするモーセの律法で禁じられたことをする者)は、火と硫黄の燃える池が報いとなるとあります。また、黙示録19:20のとおり、偽預言者も同じです。私が過去に弾劾してきた人以外にも主から預言者とされた等と戯言を言う人や夢で啓示を受けたとか言う偽り者が最近増えています。彼ら、彼女らは自ら自分たちの滅びの運命を決めており、実で見分ければすぐに偽預言者と分かる者ばかりです。過去記事「預言者と偽預言者の違い」で書いたとおり、本物の預言者は絶対に自分がそうだとは言いません。主イエスも「偽キリストや偽預言者たちが現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタイ24:24私訳)と警告されたとおり、偽キリスト、偽教師、偽預言者らが行う奇跡や偽りの言葉に惑わされないようにしなさい。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上