こんにちは。

 

今回は、旧約聖書のヨブ記を通して、正しい信仰を考えるとともに大艱難についての話をします。

 

ヨブ記は、旧約聖書に入っているもので、義人が苦難を受ける話です。ほとんどの人々は、義人、即ち、正しい人であれば、神から祝福されて苦難なんて受けないと思い込んでいるのではないでしょうか。そのような安易な考えが誤りであるとはっきり教えてくれるのがヨブ記です。

 

神は義人を愛して信じるが故に、敢えて苦難や試練をお与えになることがあります。このことはヨブ記に限った話ではなく、イエスの弟子たち(ヨハネと自殺したユダを除く)や他のキリスト者たちも最後には殉教しました。ヨブよりも扱いが酷いようにも見えます。義人だった彼らが何故無惨に殺されなければならなかったか、一度でも真剣に考えたことがありますか。

 

あなたがたは、義人はこの世において、何でも上手くいくようになり、他人とは違う特権を受けるような立場になれると誤った義人像を思い描いて勘違いしています。そう思い込めるのは、あなたがたが間違った動機で信仰している証拠、即ち、あなたがたが、にわかクリスチャンである証拠です。

過去にも何度も言いましたとおり、偽預言者RAPTとRAPT信者もこのようです。偽預言者RAPTのように、聖書は、真のクリスチャン(義人)がこの世で成功するようになる等と教えていません。そう教えるのは悪魔崇拝のニューエイジ思想でしかないのです。これだけ言っているのに、RAPT信者はしつこく存在するようです。それだけ彼らの心は頑なになっています。もうすぐ完全に手遅れになるでしょう。

 

富(金銭等の財産)が与えられるのは、神が富を与えることがその義人にとって良いことか、その義人の周りに及ぼす影響等、様々な事情を鑑みて決定され、神からの一方的な恵みであり、人間から望んで与えられることではないのです。

しかも、神からの富の恵みは旧約時代(紀元前)で終わっています。遅くともイエスが地上に来られて以降、富は神と相反するものになっています。

神を信じることが富に直結するのではありません。聖書は、むしろ、神か富のどちらかにしか仕えることができない(ルカ16:13参照)と言っています。富を欲することは、即ち、金銭欲です。金銭欲は悪だと過去記事で述べたとおりです。富を望む者、現に富を得ている者は、世に属する人間であり、即ち、サタンに仕えている人間なのです。

 

さて、ヨブ記についての話に戻します。

ところで、苦難といえば二種類あります。

 

①自分の過ちや罪から来る苦難

自ら蒔いたものを自分で刈り取ることになる(ガラテヤ6:7)という聖書の教えのとおりのです。これは当然の報いなので、特に問題がないと思います。何が罪で、悪い行いなのか、何が善い行いなのかは、聖書をよく読まないと分からないですよ。もっとも、ポイント稼ぎのように、間違った動機で善行をすることもいけません。

 

②神が試練としてお与えになる苦難

ヨブのような義人が重い皮膚病を患ったりする場合です。勘違いしないでいただきたいのは、自分自身の過ちや罪から来るのに、すべての苦難が神からの試練だと勝手に良い方向に解釈しないことです。ヨブは無垢で正しいと神から評価されたので問題ないのですが、あなた自身が仮に何か災いに直面したときに、本当に②のパターンかよく吟味する必要があります。よく考えてみて、まったく罪を犯した心当たりが無く、②のパターンだと確信すれば、ヨブ記を通して苦難についてよく学びましょう。

 

再度言いますが、ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(ヨブ記1:8)と神が認めた人でした。

よって、上記苦難の二つのパターンのうち、②に当てはまり、この前提で話が進むことを理解してください。①と思うと誤解を生みます。

 

ヨブは神に完全服従し、神を信頼していました(ヨブ記1:4,5参照)。ヨブは神を畏れ、悪を避けて生活していました。それにも拘わらず、神はサタンから申し出を受け、神は命に手を出す以外の災いをヨブに下すことをサタンに許可されました。サタンは、ヨブが神を畏れるのは、神を信じて善行をしていれば神が恵みをくださるという利益信仰から来ると主張した(ヨブ記1:9~11)のです。神はサタンのこの主張が誤りであると証明するために、敢えてヨブに苦難を与えることを許可されたのです。これは、神が見放して災いを下したのではなく、神が保護を一時的に緩められたということを意味します。

 

最初に神の許可の下でサタンが及ぼした災いでヨブが直面した試練は、所有していた家畜を他人に略奪され、家畜の世話をしていた牧童を殺され、羊と羊飼いも殺され、ヨブの子供は家屋倒壊によって全員事故死したことです。

それでも、ヨブは「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)と言い、神を非難することなく、罪を犯さなかった(ヨブ記1:22)とあります。普通の人なら、これ程の苦難が降りかかれば、悪口を吐きたくなるのではないでしょうか。ほとんどの人々は、仇を討つとか、復讐心に燃えたり、殺意を抱く程に恨んだりする傾向が強いように思います。殺人事件の遺族が殺人犯を殺してやりたいとか、死刑になって欲しい等平気で言っているのが散見されます。この考え方は、ヨブとは大違いで、神から遠く離れている者たちの思考です。

ヨブ記で明白なとおり、サタンは霊的存在なので、直接姿を見せず、他の人間を通して働くのが分かります。その罪の行為を行った人々を恨んではいけません。サタンに利用されているだけなのです。

 

次に起こった試練は、肉体の病気です。

家畜等の財産や自分の子供たちを奪われても神を非難することがなかったヨブに対し、サタンは「命のためには全財産を差し出すものです。」(ヨブ記2:4)と正論を言い、骨や肉に災いが及べば今度こそ神を呪うに違いない(ヨブ記2:5)と神に再挑戦しました。神はそれでもヨブが罪を犯さないと信頼していたので、サタンに災いをもたらすことを許可しました。サタンは意地でも神を非難させる言葉を義人のヨブに吐かせようとしたのです。

サタンは、ヨブの頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせました(ヨブ記2:7)。健康が損なわれると精神も弱まるものです。サタンはまさしくこの点を狙いました。皮膚病にかかって、体中をかきむしったり、その惨状が他の章にも言及が多くあります。それでも、死にたくなる程の苦しみの状況について口に出すことはしましたが、神を非難したり、呪うような言葉を言うことは決してありませんでした

 

その次に起こったことは精神的な傷です。

ヨブの妻は、「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言いました(ヨブ記2:9)。しかし、これはサタンの言葉です。サタンはヨブの妻を通じて、罪を犯すように唆したのです。

一番近くにいた存在(配偶者)にまでこのようなことを言われたのです。配偶者にも敵対されたら、かなりの精神的苦痛を受けます。ヨブ記から話が逸れますが、あなた自身、あなたの周囲で、もし配偶者のことが嫌い、どうでもいい(無関心)、家に居ない方がいいと言っている夫婦関係ならば、不幸の極みでしょう。なぜ結婚したのか疑いたくなります。しかし、このような夫婦が多いのは事実ではないでしょうか。年々離婚率も上昇しており、若年だけでなく定年退職する位の年齢の熟年離婚も増えています。離婚についても聖書は戒めています。もし、これを読んだ読者が、このような境遇にあれば、早急に立て直しを図るべきです。結婚したてならば、そんな状況にならないよう、常に気を付けるべきです。

ヨブはそのような家庭ではありません。

そして、ヨブは、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ記2:10)と妻に返し、神を非難しませんでした

 

その後、三人のヨブの友人と議論があり、エリフが怒りました。ヨブは自分は正しいことしかしていないとしきりに主張し、さらには神より正しいとまで主張したからでした(ヨブ記32:2)。

ヨブと神の対話がありました。結果、ヨブは自分が絶対的に正しいと思い込み、傲慢になっていたことに気付きます。

神の全能、神の御旨の成就を妨げることは不可能、義人にも神の思惑は理解できないものであるとヨブが認め、自分を退け、悔い改め、正しくないことを語った友人のために祈った後、ヨブは元の境遇に戻され、財産を以前の二倍にされ、再度同じ数の子供をもうけました。

 

このように、ヨブ記は、あらゆる耐え難いような苦難を受けても、心の底から神を愛する気持ちがある人はサタンになびかないことを証明するために許された試練を綴ったものです。

真のクリスチャンであるためには、無垢で正しくあり、悪を避ける生活をし、何があろうと神を信頼して、非難せず、恨まず、高慢にならず、自我を放棄し、自分の利益を考えず、罪の誘惑(サタンの誘惑)に打ち勝ち、すべて神に栄光を帰するという姿勢こそが本物の信仰と呼べるものです。

イエスは主、神は全能等、当たり前のことを上辺だけ公言したところで何の意味もありません。行いでも示す必要があるのです。それこそが信仰の義です。

 

ヨブ記は信仰の義を教えてくれるだけでなく、また、昔話で終わることでもありません。これからまもなく来る世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る(マタイ24:21)という大艱難の時も同じことに直面することが予想されます。

大艱難は、真のクリスチャンが経験する苦難です。「外部の人」や、にわかクリスチャンにとっては苦難にはなりません。なぜなら、前者には信仰が無く、後者は信仰が薄いからです。不信仰の者は最初から問題にならず、信仰が薄いと簡単に離反、背教するから苦悩が無いのです。

ヨハネの黙示録13章にあるとおり、近い将来、獣の像を拝むように強要され、獣の刻印を受けないと売買等の経済活動ができず、それを拒む者(真のクリスチャン)は皆殺しとあるとおりです。これから来る大艱難は、ヨブ記で書かれた内容よりも酷いことが起きるでしょう。ヨブは神の命令によってサタンから命を取られることはありませんでしたが、私たちが経験する大艱難では、命の保証がまったく無いからです。過去記事「FEMAと言論弾圧、そして今後の動向について」を読んでみてください。共謀罪が本日、2017年5月23日、衆議院にて強行可決されました。参議院なんて役に立たないので成立するのも時間の問題です。もういよいよという感じがします。

私は、過去記事で再三、言ってきました。真のクリスチャンであれば、主イエスのために命を差し出すことも厭わないと。しかし、簡単に命を投げ出して粗末にするという意味ではありません。上述のように、信仰の下、神に対して死まで従順になることが重要です。真のクリスチャンは艱難から守られる(ヨハネの黙示録3:10)とありますが、保身ばかり考えることは臆病者にすぎないことに注意が必要です。神にすべて委ね、信頼することが必要な信仰なのです。神に対して従順というのはこのことです。

 

義人であっても神の御心ならば、苦難、試練を受けます。過去に、「携挙の真実」で書いたとおり、真のクリスチャン(義人)は艱難を経験せずに携挙されるのではなく、悪人(真のクリスチャン以外すべて)と一緒に艱難を経験すると説明しました。未だに艱難期前携挙説(秘密携挙説)が正しいと思っている人は聖書の真理を理解できない世に属する人間(ヨハネの手紙一4:5,6)です。

世俗的な欲、即ち、肉の欲に従う者は、世に属する人間であり、絶対に真のクリスチャンにはなれません。聖書の知識がいくら増えようとも無意味です。イエスも私たちと同じように人間の肉体を取って地上に来られたのです。同じように罪の誘惑と戦い、これに打ち勝たれました。この詳細は過去記事「罪について」と「主イエスの受肉」を復習してください。

 

鍛錬するために、わざと肉体的に苦痛を与えればよいという話ではありません。これは、自分の心の悪(肉の欲)と戦う苦難であり、これに勝利して罪を犯すことをやめなければ、救いはありません。

自我を放棄して神に完全服従するために正しい生活をする時に直面する苦難、利己心や世俗的な欲を捨てる時に来る苦難、神に従順に従おうとする時にサタンに迫害される苦難等、色々あります。

 

大艱難に入る前にこれらの罪を背負ったまま、克服できない状態では、確実にサタンの誘惑に負け、信仰から脱落し、獣の刻印を押されることになります。だから、私は早く悔い改めるように言っているのです。時間が本当にありません。今日悔い改めたら明日から大丈夫とかではありません。神との個人的な関係を深めるのに時間が必要と過去記事で申したとおりです。そうやって、真に悔い改めるのを先送りにしている者は、もれなく、にわかクリスチャンです。艱難期前に携挙されるという嘘を呑気に信じているのもにわかクリスチャンです。なぜなら、聖書の真理を知らず、本物の信仰を持てないので、サタンの欺瞞に騙されるからです。携挙はまだまだ先で、すぐにはありません。先に大艱難が来ます。

信仰とはどういうことか聖書と私の記事を注意深く読んで考えてください。イエスは主、唯一の救い主と軽々しく言うことが信仰ではありません。

 

最後に言っておきますが、キリスト再臨までずっと主イエス・キリストが罪を赦す働きをすると思わないでください。いつ救いの機会が終わるか分かりません。過去記事にも書きましたが、キリスト再臨時は世の終わりです。大艱難が起こる前、即ち、現在から大艱難の始まる前までの人々の様子を見て、事前に審判を下し終え、大艱難を迎えます。大艱難末期に、救うと神がお決めになった極めて少数の真のクリスチャンを携挙し、残りの人間をすべて滅ぼされるのです。天から降って来られて、その時に判断して、火と硫黄を降らせることをなさるのはではありません。携挙対象者を決めるには事前に審判をしていなくてはなりません。裁判もせずに判決文を書くことができないのと同じことです。今も、私たちに公に知らされることなく、天において審判されているのです。

 

繰り返しますが、大艱難が来る前に主イエスは罪を赦す働きを終えられ、神はサタンに大艱難を起こすことを許可されます。そして、大艱難で、世の大半のクリスチャン(その内99.99%以上が、にわかクリスチャン)を脱落させ、艱難期中に携挙する対象者(真のクリスチャン)が必然的に判明することになります。そして、大艱難を耐え抜いた真のクリスチャンが最後に携挙されるという流れになります。主イエスが罪を赦す働きを止められる時、これ以上罪を犯さなくなった人、即ち、真のクリスチャンの数が神によって決められていた救うべき数に達したということになります。定員という締切がないといつまで経ってもサタンの敗北、その後に来る「新しい天と地の世界」が来ないことになります。辛抱強い神も、永遠に待つことはされません。もう既に何千年とお待ちになっているのです。終末の様子が顕著になってきた現在、まもなくキリストによる救いの機会が終わろうとしているのです。

ですから、大艱難が来る前に、過去に犯した罪を赦され、サタンから告訴されるような隠している罪が無い状態、今後罪を犯さない境地にまで達していなければならないのです。今すぐ悔い改めてください。ネットやそこら中にいる偽預言者や偽善者、教会でにわかクリスチャンと戯れたり、世俗的なことに精を出す時間や余裕は無いのです。

 

私は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上