こんにちは。

 

今回は、神の裁きは福音であることと迫害は喜びであることについて書きます。

 

今更かもしれませんが、最初に福音について言っておきます。聖書を知らない人は、福音という言葉に対しておかしな心象を持っている場合があり、摂理と同じく、本来は数ある一般名詞の一つでしかない言葉ですが、朝鮮系のカルト宗教団体がその言葉を使うせいで悪い心象を持っている人がいます。そのようなカルト宗教団体は悪なのですが、福音と摂理といった言葉そのものは何も悪くはありません。辞書で意味を調べればすぐに分かるでしょう。よって、人々は勘違いしていおり、何も分かっていないのに、分かった気になっているだけです。福音とは、英語でいうgospelであり、イエス・キリストの教え、神の御国についての喜ばしい知らせを意味する言葉なのです。特に福音という言葉は、新約聖書に非常に多く書かれています。決して変な言葉でもカルト用語でもありませんので、勘違いしないでください。福音の話をしたついでに言っておくと、福音主義やら福音派といった派閥を構成している人たちがいますが、彼らの信仰は聖書に基づく信仰と自称しながらも聖書の真理から逸脱しているので無視して関わらないでください。世の諸教会や派閥は、私とは一切関係ありません。

 

さて、キリストの再臨が世の終わりであることは既に複数の過去記事で宣べ伝えてきました。しかし、世に属する人間は、キリストの再臨がこの世の終わりで、大多数の人が滅びの運命にあることを認めようとしません。また、携挙でも虚偽の教えが蔓延しており、キリスト者は裁かれずに天国に行けるとか、艱難にも遭わないというデタラメを吹聴しているにわかクリスチャンが多く、そのようなにわかクリスチャンは、不信仰の者や異教徒にそのような甘い言葉を囁いて大艱難が来る前にクリスチャンになった方がいいと言って形式面や気軽さだけを告げて改宗させようとしています。しかし、このようなやり方でにわかクリスチャンという盲人が別の盲人を導いているのでは、両者とも穴に落ちます。現実にこのようなことが起こっています。世に広まる欺瞞を盲信し、悔い改めることなく、正しい信仰をいつまで経っても持てず、神から憐れみと導きを受けない者たちです。過去記事「預言者と偽預言者の違い」でも述べたとおり、このような者たちは放っておきなさい。神に導かれる者は、悪い行いに加わることなく、本物の光を見出すはずだからです。前回記事「聖霊の賜物について」で、律法違反が罪であり不法であるという事実を認識しようとしない律法廃止論者や文脈を無視して彼らにとって都合が良い聖句を一部抜粋して律法を守らなくてよいと主張する者が悪魔の子(反キリスト)であることを指摘し、サタンの主張内容と手口を暴露するとともに、このような敬虔なキリスト者を装った反キリストたちにとどめを刺しました。

罪についてだけでなく、艱難期前携挙説は、その甘い罠の一つです。仮にそれが真実だとしたら、キリスト者が艱難に一切遭うことなく、天国に引き上げられるというこの上ない有難い内容です。しかし、これはサタンの教えです。そんなに甘い話がある訳がありませんし、聖書はそのようなことを教えていません。もし艱難や迫害に遭わないならば、前回記事「聖霊の賜物について」の最後で引用した聖句にあるように、神の掟を守る神の民に忍耐が必要とは書かれないはずです。また、黙示録13章にあるとおり、獣の像を拝もうとしない神の民が皆殺しにされることもないはずです。携挙については過去記事「携挙の真実」を必ず読んでください。律法廃止論を唱えたり、神の律法を守らなくてよい、または守れなくても仕方がないと主張する者は、例外なく聖書から一部抜粋した内容を盾に反抗する悪霊に惑わされた反キリストです。彼らはいつも聖書を一部抜粋して正しいように見せかけ、真理に反する甘い話で釣って滅びに導きます。これは、サタンの特技です。

 

まずは、裁きについてです。

神の裁きというのは、真のキリスト者であれば、正しく知らなければならない内容であり、福音(喜ばしい知らせ)でもあります。しかし、世に属する人間であるにわかクリスチャンたちは、彼ら自身が神の裁きを受けないと誤信して高慢になっています。彼らは、そのように高を括って神を侮っているか、神の裁きを怖がって話題にすることを避け、耳触りの良い偽りの教義ばかり言い広めます。なぜなら、厳しい神の裁きは彼ら自身が受けることになる内容だからです。神の裁きという純然たる福音を頑なに信じようとせず、耳触りの良い甘い話に夢中になってうつつを抜かし、間違った信仰を正そうとしません。私は、彼らとは違い、神の裁きは素晴らしい福音と信じており、今まで宣べ伝えてきました。真のキリスト者にとっては、神の裁きは、すべての悪を滅ぼす良い知らせだからです。

愛する兄弟たち、上述のような艱難を逃れるという自己保身のことばかり考える堕落したにわかクリスチャンたちが抱くような妄想を信じたり、同調してはいけません。そして、伝道する際は、必ず、厳粛な神の裁きについても伝えなければなりません。なぜなら、それは不可避な事柄だからです。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 9章27~28節

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 

上記のように、今から2,000年程前に主イエスは福音宣教と全人類の罪の贖いのために受肉されて初臨されました。そして、二度目に来られる再臨は、神の民の救いのために地上に来られるのです。救いというのは、キリストの再臨前に真のクリスチャンとして亡くなった人たちが復活し、キリストの再臨時まで大艱難の中を生き残ったごく少数の真のクリスチャンが携挙され、大多数の不信仰の者、神に不従順なにわかクリスチャン、異教徒らは滅ぼされます。そして、その後に最後の審判が行われます。すべての人間は、一度死ぬことと神による裁きを受けることが定まっています。過去のエノクとエリヤは死を経験しないという例外があり、終末の携挙も例外ですが、その対象者は非常に少ないです。生命的な死を経験するかは例外がありますが、真のクリスチャンという生まれたままの状態から水と霊によって新生したという意味では死を経験したと言えなくもありません。しかし、神の裁きは例外がありません。終末の携挙にあたっては、生きている人間は事前に審判されるからです。そうでなければ、神は人間を携挙することができないからです。その審判は現在進行中です。裁きについては、過去記事でも引用した聖句にあるとおりです。

 

旧約聖書 コヘレトの言葉 12章14節

神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 4章5節

主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章10節

わたしたちは皆、キリストの裁きの座に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 

新約聖書 ペトロの手紙一  4章5節

彼らは、生きている者と死んでいる者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。

 

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章10節(私訳)

あなたがたを悩ます者は、だれであろうと、裁きを受けます。 

 

新約聖書 マタイによる福音書 12章36~37節(私訳)

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には説明しなければならない。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

 

上記のように、裁きについて多く書かれており、神の裁きを受けることは不可避です。にわかクリスチャンたちは、自分たちが裁かれないと思って好き勝手に語り、神の律法や掟を守らず、神と神の民をあざけり、彼ら自身の肉の欲に従って振る舞い、言動が粗悪です。まさに、悪魔の子です。彼らは悪意に満ちており、彼ら自身の舌を制御できず、言わなくてもいいことを言ったり、彼らの話す言葉も汚く、罪を犯し続けており、偽りの聖書福音を言い広めて人々を惑わして、その罪はとどまる所を知りません。神の裁きのことを考えれば、普段から何を話すのか、何を考えるのか、どのようなことを感じるかということにもっと気を遣うはずです。しかし、彼らには聖霊がいないので、そのような悪い行いを改めることができません。そして、最後の審判の時、彼らは一人で神の御前で弁明せねばならず、神から厳しい裁きがなされ、泣きわめいて歯ぎしりするでしょう。

上記聖句にあるように、主イエスは、すべての人間が話したつまらない言葉についても責任を問われると仰っています。本当に口は災いの元なのです。口だけでなく、それをネット上で表現する手、そして人の思いの根源である心が一番の問題です。悪い言葉が出る口、ネット上に悪口を書く手も、その出所は心なのです。主イエスも「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイ12:34)と仰っています。他の人間に対してだけでなく、神に対してもです。あなたが話したり、書いたりした軽率な言葉の責任は最終的にはあなた自身に返ってくるのです。また、神は外部に出ない隠れたこともすべて裁かれるのです。要するに、口でも言わず、ネット上にも書かないことである、心の中にある思いのことも裁きの対象なのです。あなたがたの心の思いは、他の人間が知り得なくても神はご存知なのです。このことは過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」や「自我との戦い」等で言及し、心の中にある思いも改めるように述べたとおりです。

 

裁きの様子は以下の聖句から分かります。

 

旧約聖書 ダニエル書 7章10節(私訳)

幾千人が彼に仕え

幾千人が御前に立った。

裁きが行われ

書物が開かれた。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 20章12節(私訳)

わたしはまた、死者たちが、小さな者も大きな者も、神の御前に立っているのを見た。そして、幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの業に応じて裁かれた。

 

旧約聖書 詩編 139編1~6、16節

主よ、あなたはわたしを究め

わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り

遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

歩くのも伏すのも見分け

わたしの道にことごとく通じておられる。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに

主よ、あなたはすべてを知っておられる。

前からも後ろからもわたしを囲み

御手をわたしの上に置いてくださる。

その驚くべき知識はわたしを超え

あまりにも高くて到達できない。

(中略)

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。

 

上記聖句のように、すべての人間の、それぞれが発した言葉、行い、心の中の思いや隠れた動機、品性等すべてが天の書物に記録されています。誰にも喋ったことがないから、自分だけが知っているからといい気にならないことです。神はあなた自身以上にあなたのことをご存知で、すべてを見通しておられます。上述したように、後で冷静になって考えれば言わなかったことも、その時の感情で発した悪口も記録され、そのような感情を持つ品性であることも記録されています。上記の詩編にもあるとおり、私たちの日々はすべて記されており、それも私たちが行動する前から主なる神はすべてご存知なのです。このように言うと、ほとんどの人々は恐怖を抱くでしょう。しかし、これは揺るがない事実です。主なる神は全知全能であり、天地創造の前から御計画を定められ、時を定め、御自分の民をはじめからご存知で、それぞれの召命にあった働きと役割を与えておられます。上記の詩編からも、神はすべての人間の人生の内容を予めご存知ということが分かります。過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で書いたように予定説を裏付けるものでもあります。神の裁きは、神の民である聖徒にとっては非常に喜ばしいものです。

 

旧約聖書 ダニエル書 7章21〜22節(私訳)

わたしが見ていたら、その同じ角は聖者らと闘って勝った。「昔からある時」が来るまで。そして、最高位の方の聖者らに裁きがなされ、聖者らが御国を所有する時が来た。

 

このように、神の裁きは主イエスに従順に従う聖徒たち(神の民)になされるのです。ですから、神の裁きを怖がって脅迫のようだという感想を抱いて福音と思えない者は、悪魔の子、世に属する人間です。彼らが神の裁きに恐怖を感じて話題にしないのは、裁きの場で厳しく断罪されることを心の底で薄々感づいているからです。若しくは、彼らは神の裁きが真実で公正と言いながらも、キリスト者なら裁かれないで天国行きが確定していると安易に言い、人々を勘違いさせて堕落させています。このような行いはサタンの働きであり、人々を安心させているのではなく油断させて惑わしているのです。このような者たちは、神から厳しい裁きがなされます。

 

聖霊は、真のキリスト者がこの世で完全な者になれるように導いてくださる方です。何度も言っているとおり、神の律法、掟、戒めを守らないで神に不従順なにわかクリスチャンは罪を犯し続ける悪魔の子なので、聖霊ではなく悪霊に導かれています。彼らは裁きの場に立った時、主イエス・キリストを唯一の救い主と信じてきましたと主張するでしょうが、聖書を曲解して信じた事実と不従順の事実と証拠を突きつけられ、一切弁明できないでしょう。さらに、主イエスは彼らのために弁護なさいません。主イエスが彼らを知らないと仰るからです。しかし、神の律法や掟を守って死まで従順な神の民は、生前の神の民が持つ主イエスの信仰とその信仰から来る従順さと行いを基に主イエスから弁護されます。そして、主イエスの執り成しによって無罪となって、神の御国へと入ることが許されるのです。真のクリスチャンの状態は、以下のようです。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章22節(私訳)

悪い意識から解放された心を持ち、体を清い水で洗われたならば、信仰の完全な確信における真心から近づきましょう。

 

洗うというのが洗礼を意味します。体を洗うのは水の洗礼で、心を洗うのは火の洗礼です。前者は目に見えることですが、後者は目には見えません。それ故、多くの人々には分からず勘違いの原因でもあります。しかし、分かる人には分かり、それは品性と行いという形で顕現し、そのことで神に栄光を帰することになります。

 

世のにわかクリスチャンは、聖書を曲解して地上のエルサレムに必要以上に注目して、聖地巡礼と称して各自の自己満足のために多大な費用を掛けてイスラエルの地に行ったり、または行きたいと思っています。また、あろうことか悪魔の巣窟であるバチカンをはじめとする世の諸教会を物珍しそうに見物したり、旅行がてらに訪ねては偶像礼拝をしています。このような者たちは、主イエスが十字架に掛かって全人類のために罪の贖いという偉大な御業を成し遂げられたのをよそに、主イエスから剥ぎ取った衣服をくじで分け合うような兵士たちに等しいです。にわかクリスチャンよ、あなたの心はどこにあるのか、よく考えるがよい。

人間は、最初の女であったエバを介して、最初の人であり男であったアダムが神の御命令に背いて罪を犯して堕落するより前の状態に戻らないと次の世の安息につくことができません。そのために、まず、罪というのがどういうことかと罪の恐ろしさを理解しなければなりません。罪を赦される働きをされる天の大祭司であられる主イエス・キリストは、各自が罪深い人間であるということを認め、唯一の救い主であるイエスを信じて、モーセの律法等を通じて罪とは何かを知り、悔い改めようとしない人間の罪を神はお赦しになることはありません。悔い改めとは、心の中の思い、品性、言動等のすべてを神の律法、掟、戒めに反しないように改めることです。ですから、神の律法、掟、戒めに従わないにわかクリスチャンは悔い改めていないのです。

日常生活で例えるならば、病気に関わることです。人が病気だといっても具体的にどこが悪いのかは診察や検査をしなければ分かりません。そして、その病気が何であるか病名を特定し、その原因に対処しなくては適切な治療ができず、治癒することがありません。心臓病なのに、目薬を使ったところで治りません。医師も患者も病気であることとその原因をきちんと把握しなければ適切な治療に取り組むことができません。なんとなく体のどこかがおかしいと思っている患者は治ることがありません。それが致命的なものにも拘らず、致命的と思わないで放置し続け、死ぬまで治療しようとしなければ、生きることがありません。

このように、各クリスチャンが自分自身を神の律法や掟、戒めと照らして各自の罪を自覚し、悔い改めて直そうとしなければ、主イエスは罪をお赦しにならず、不信仰の者や異教徒と同じように断罪されるのです。すべての人間は罪を犯した罪人です。ですから、主イエスは以下の御言葉を仰ったのです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 九章十三節(私訳)

わたしは、自分が正しいと思っている人を招くためではなく、罪人を悔い改めに招くために来たからである。

 

上記聖句で重要なのは悔い改めという箇所であり、新共同訳、口語訳、新改訳等の偽り底本を用いた日本語訳聖書はこの大事な部分が意図的に削除されています。人間という罪人は悔い改めなければ救われないからであり、人間はありのままでいいというのはサタンによる偽りの教義です。また、パウロも主イエスの御言葉を引用しています。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 1章15節

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

 

主イエスが仰る「罪人」を各自が自分自身のことだと捉えられないようではあなたに主イエスの救いはありません。人間の法を犯していないから自分は善人だと言い張る者はそのままでいるといいでしょう。後で分かります。そして、律法廃止論を唱える等して神の律法や掟を守ろうとせず、悔い改めようとしないにわかクリスチャンもそのままでいることが正しいと本気で思うなら、現状維持していればよいでしょう。すべては自己責任です。

 

新約聖書 使徒言行録 4章10~12節(私訳)

皆さんもイスラエルの民全も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に退けられたが、隅の要石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないからです。

 

上記のとおり、人間を救えるのは、主イエス・キリストだけです。これ程、明白に書かれているのに、何故、人々はマリアを崇拝したり、偶像を拝んだり、ローマ教皇に熱狂したり、神社や寺に行ったり、霊能者や占い師に尋ねたり、他の偽預言者や偽教師を信じて従うのでしょうか。それらはすべて偽りです。永遠の命に通じる道は、主イエス・キリスト以外に誰もいません。主イエスは神でありながらも、人間の形を取って地上に来られ、私たちと同じような人性がありながらも神の律法を守って罪を一度も犯さずに十字架の死まで人生を全うされました。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章30節

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

 

主イエス・キリスト以外に義はありません。神の義を追い求めるというのは、イエス・キリストを追い求めることなのです。そうするためには、キリストに近づく努力をしなければならないことが分かるでしょう。その努力の仕方については過去記事「自我との戦い」で述べたとおりです。イエスを信じるだけで神の律法、掟、戒めを無視しても良いと聖書の一部抜粋でもっともらしく見せかけて、罠を仕掛ける悪魔の子の主張に騙されてはいけません。

聖霊と聖書は人間各自の悪い所を気付かせ、義に導いてくれるのです。しかし、聖霊が働いて悪い所を教えてくれても、この世にあるもの、例えば、音楽、映画、テレビ、ゲーム、ドラマ、漫画、雑誌、小説、スマホ、コンピュータ、インターネット等と数え切れない程、人々を誘惑して惹きつける物があり、それらに夢中になって目の欲、肉の欲を満足させることばかりしていると愛の警告が心に響かないでしょう。勘違いしないでいただきたいのは、私は上記のような世にあるものを愛するべきではないと言っているだけで、すべての音楽を聴くなとかすべての映画を見るなと行動を規制している訳ではありません。ただ、それらの物に熱中し過ぎないように注意しているだけです。聖書が教える戒めに反しない範囲で適度に楽しんでいただいても問題はありません。映画も音楽もサタン崇拝者が仕掛けたサブリミナル効果や露骨な表現もあり、それらを見抜けない人はその影響を受けることがあることには注意が必要です。ただし、それらにのめり込んで信仰生活に影響を及ぼすようなら、完全に断つべきです。しかし、多くの人々は耳触りの良い偽りの教えに耳を傾けて盲信し、真理の道から外れて行くでしょう。「聖書は大体は知っているから後回しで良い。行いはどうせ救いの条件ではないからモーセの律法等はどうでもいい。福音伝道は他の人がやっているから自分はしなくていいだろう。今は○○が見たい。○○に行きたい。○○がしたい。」等と思う人は、後で悲惨なことになります。このような者が、ノアの時のように、事が起こるまで何も気付かず、突然破滅に襲われることになるのです。過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」でも述べたように、個人の恩恵期間はいつ終了するか人間には絶対に分かりませんから、時機に遅れないようにしなくてはなりません。後回しにした代償は取り返しがつかなくなる可能性もあります。この世の時は終わりが定まっており、近い将来、世に大艱難が訪れ、獣の像を拝むように強要される時には既にすべての人間の恩恵期間は終了しています。だから、過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」で述べたとおり、大艱難の時にはもはや人々は真に悔い改めることができないため、それまでにキリストに近い品性を持つように成長できていなければいけないので、早く準備を整えるようにと何度も繰り返し警告しているのです。過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」でも述べたとおり、神に属する人間と世に属する人間の2種類にはっきりと分かれる時です。当該記事で引用した聖句を再度噛み締めてください。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章7節(私訳)

神を畏れ、栄光を神に帰しなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。

 

私たちの寿命は私たち自身では知りません。それは神のみが知るところです。死んでからでは神を賛美することも祈ることも、悔い改めて人生をやり直すこともできません。死んだらすべて終わりです。それらは過去記事「死後の世界」で述べたとおりです。キリストの再臨前に死んだ人は、死後に神の裁きがあり、大艱難を経てキリストの再臨時まで生きる少数の神の民は事前審判の上で携挙され、大多数の世に属する人間たちは事前審判の結果滅ぼされます。

 

次に迫害について書きます。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章13節(私訳)

『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。と。』”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。彼らの行いが彼らに報いる。」

 

上記は、真のクリスチャンである神の民としてキリストの再臨前に死んでキリストの再臨時に復活して新しい天と新しい地で永遠の安息にあずかることができる約束について述べています。しかし、不信仰の者、異教徒、神に不従順なにわかクリスチャンは主の安息にあずかる道に行くことはできません。それは私が過去に既に述べてきたことです。真のクリスチャンにとっては、その後に安らぎが待っていると知っているのですから、死んでこの世を去ることは恐怖ではありません。しかし、世に属する人間は、この世を去ることになる死を異常に怖がります。なぜなら、次の世に希望を見出せないからです。だから、都市伝説にあるように、機械と融合するトランスヒューマニズム、仮想空間に意識や魂を移すとか、人体の冷凍保存等と訳の分からない無駄な努力をしているのです。人間がどんな手段を持って死から逃げようとしても逃げられません。上述したように、すべての人間は死と裁きを受けることが定められているからです。すべてと言っても例外はあります。旧約聖書にあるように、エノクとエリヤは死を経ずに天に上げられました。それは彼らが神に従順だったからです。長い旧約時代で死を経ないで天に上げられたのはたったの2名しかいなかったのです。これと同じことがキリストの再臨時に起こりますが、その数は極めて少ないです。レフトビハインド等を盲信する世のにわかクリスチャンは、生きたまま天に上げられることが簡単で、多くのクリスチャンが携挙されると嘘を吹聴していますが、死を経ずに天に上げられるのが簡単なことだと思ってもらっては困ります。未だかつてなかった程の苦難が起こる大艱難を生き抜くのは至難の業であり、主イエスの守りが無ければ絶対に無理で、それは大艱難前にキリストに近い品性になっていなければいけません。この守りの約束が黙示録3:10に書かれているのです。それも神の律法や掟を守らない者は、キリストに近い品性を持っていないので、主イエスからの保護は受けられません。たとえ神の民であっても、獣の像を拝まないと殺されるような激しい迫害で殉教する人は少なからず出るでしょう。それでも神の民の心は平静で喜びに満たされるはずです。携挙前に殉教することになったとしても悲しく沈んだ思いにはならないはずです。上記引用した聖句のとおり、神の民がこの世を去る時は、労苦から解かれて安らぎを得るのですから。それも主イエス・キリストを信じて死まで従順であればこその勝利の結果です。主イエス・キリストのために苦しむことは、神の民は喜ぶべきことです。

 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章29節

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

 

主イエスのために迫害されて苦しむことは恵みなのです。逆に言えば、迫害されずに迫害する側にいるクリスチャンは偽り者とも言えます。これも過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」と「預言者と偽預言者の違い」で既に私が述べたことです。私は聖書の真理という正しい根拠を基に偽り者や背教者を弾劾していますが、私に敵対する者たちは正しい根拠を一切示せず、肉の思いでしか語れず、誹謗中傷し、迫害する側にいる者です。聖書の文脈を無視した一部抜粋で反論するのは正しい根拠とは言えず、サタンのすることだと既に上述したとおりです。しかし、神の民であれば、このような迫害を受けるのは定められています。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 3章12~13節

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。

 

このように、キリストに結ばれた神の民は迫害を受けます。しかし、正しい教えをしておらず、そのために批判を書かれたからといって迫害だとわめくにわかクリスチャンも多々存在しています。彼ら、彼女らはまったく自分たちの誤りに気付いていません。正当な批判を迫害と捉え、彼ら、彼女らを逆に勇気付けてしまっている状況であり、その勘違いは改まることがなく、ますます真理の道から遠ざかっています。これも悪霊の導きです。正当な批判は誹謗中傷ではありません。誹謗中傷というのは根拠の無い悪口のことです。正しい根拠を示さずに、若しくは示せないのに言う悪口は誹謗中傷であり、正当な批判や弾劾は、正しい根拠があります。

 

主イエスも以下のように仰っています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 5章10~12節

「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたの前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

だから、兄弟たち、神の義のために発生する迫害を恐れてはいけません。もしあんたが恐れているなら、信仰が薄いです。慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。」(ヨハネ一 四章十八節拙訳)のとおりです。上記の主イエスの御言葉から旧約の預言者の書を読めば分かると思いますが、預言者エレミヤはエレミヤ書にて自身が受けた苦難と迫害を書き残しています。それは愚痴ではなく、葛藤や苦悩を表し、その中でも彼は預言者としての責務を全うしようと苦しみながらも主なる神への信仰の故に乗り越える姿が分かります。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章10節

わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

 

世に属する人間は、弱さを必死に隠して強がり、その弱さを指摘されると逆に相手を脅迫したりして黙らせようとします。彼らは高慢で批判されるのを極度に嫌い、すぐに怒り出します。そして、彼らは大抵他人を攻撃する側にいます。また、彼らは窮乏することも怖がり、金儲けのために手段を選ばなかったり、人を見た目で判断し、路上生活者のことを蔑んだ目で見ます。彼らは、路上生活になった経緯や境遇について考えることもせずに、路上生活になるような人は努力が足りないと安易に判断して見下します。また、彼らはこの世は弱肉強食だという誤った考えを自慢げに言いさえします。そのような人は公言できないような汚いことをしたり、神の目に悪とされる行いを重ねて金銭、地位、名声等を得たことを棚に上げています。世に属する人間は、何も分かっていないので、ひたすらこの世のことだけを基準に考えるため、私とは相容れません。真のクリスチャンは、不当な仕打ちを受ける弱者に寄り添う者であるべきで、地上の権力者や金持ち、著名人等に媚びず、金銭欲、名誉欲、支配欲等といった醜悪な欲を持たず、神の律法、掟、戒めを守って主イエスの信仰を保って従順であり、神の御心を行います。

 

旧約聖書 レビ記 18章4~5節

わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15節(私訳)

もしあなたがたがわたしを愛しているならば、わたしの掟を守りなさい。

 

旧約聖書 詩編 119編86、150、157、161節

あなたの戒めはすべて確かです。

人々は偽りをもってわたしを迫害します。

(中略)

悪だくみをもって迫害する者が近づきます。

彼らはあなたの律法に遠いのです。

(中略)

わたしを迫害する者、苦しめる者は多いが

わたしはあなたの定めから離れません。

(中略)

地位ある人々が理由もなく迫害しますが

わたしの心が恐れるのはあなたの御言葉だけです。 

 

私が聖書福音を伝道しているのは、兄弟たちだけのためのみならず、迫害する者に対してもです。それ故、当ブログを無料で一般公開しているのです。求める者に与えるためです。それでも悪意や敵意から私を迫害する者たちよ、あなたがたが完全に手遅れになる前に悔い改めることを祈っています。私は複数の過去記事で神の律法、掟、戒めの重要性を説いてきました。私はどんな人から迫害されようとも主イエス・キリストを信じ、神の律法、掟、戒めを守って擁護し続けます。私が畏れるのは、人間やサタンではなく、神だけだからです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 22章12節(私訳)

そして、見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの業に応じてすべての人に報いる。

 

主イエスは再臨の時、各自の行いに応じて報いられます。キリストの再臨時までに生きている人間の末路は、神に従順な者は携挙され、神に不従順な者は火と硫黄で滅ぼされるかの二者択一です。否応無く、キリストの再臨ですべてが明らかになります。キリストの再臨前に殉教して携挙にあずからなくても永遠の安息が神に従順な神の民には用意されています。悔い改めることなく神に不従順でしぶとく地上で生き残ろうとする者は携挙されることもなく、滅びしかありません。主よ、あなたの御計画どおり、御心どおりにすべてなされますように。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。


以上