こんにちは。

 

今回は、武士道を忘れた日本人について書きます。

 

先般、「平成30年7月豪雨」が気象兵器によって人工的に起こされました。その大雨が西日本を襲い、土砂崩れ、河川が氾濫、堤防が決壊し、多くの家屋や人々を押し流し、200名以上の死者を出す結果になりました。7月5日夜、大雨洪水警報が出されている最中、安倍首相、上川法相、小野寺防衛相、岸田政調会長、竹下総務会長を含む自民党員らが浮かれ騒いで宴会を開き、その翌日にはオウム死刑囚の死刑執行を突然実施しました。オウムの死刑執行は事前に計画されていましたが、世間には発表したのが事後であったため突然という形に見えるだけです。その浮かれ宴会の模様はこちら(niftyニュース)とこちら(HUFFPOST)。統一教会と祖父の岸信介元首相の代からずっと関係が深い安倍首相や日本会議という名のカルト集団に属するその他の自民党員らは朝鮮系日本人が多く、古代イスラエル人の末裔の日本人を迫害して喜ぶいわば偽日本人です。それを受けて同じく朝鮮系日本人が牛耳るテレビ局や電通といったマスコミは、連日オウム関連ばかり報道し、その裏に隠れて国会では水道民営化が衆議院で可決されたことを報道しません。庶民にはネットでしかそれを知る手段がありません。参考までにこちら(文春オンライン)。麻生副総理兼財務相は、日本のすべての水道を民営化すると息巻いています。まさに売国政治の極みです。日本国憲法第25条で保障されたはずの日本国民の生存権を脅かしています。過去に水道を民営化した諸外国の例からしても失敗ばかりです。参考までにこちら(ゆるねとにゅーす)。水道料金は国が運営するから誰でも安く、ある程度品質が保たれた水を使えるのです。これが国の運営ではなく、民間企業の手に渡ると、企業は利益や効率重視ですから、採算が合わなければ料金の著しい値上げや最悪の場合は水道が止められることも有り得るのです。もし採算が取れないとして水道事業を誰も運営、管理しなくなったらその地域を流れる水道は無くなります。日本人の人口減少が激しい昨今、過疎地域は水道が完全に民営化されたら致命的な状態に陥る可能性が高いです。複数の過去記事でも述べたように、新世界秩序(NWO)を構築しようとする世界の動きに合わせる朝鮮系の偽日本人が占める日本政府は日本国民の人口を減らし、迫害し、殺そうとしています。水道民営化を国民に知られないように、故意にオウム死刑囚の死刑執行という話題を持ち上げたようにしか思えません。日本人よ、このまま日本という国にしがみついて、政府やマスコミに踊らされてばかりいるのでは本当に殺されてしまいます。西日本の大雨で政府の初動対応が非常に遅く、災害対策本部が設置されるまで空白の66時間と呼ばれる位、首相は動きませんでした。参考までにこちら(情報速報ドットコム)とこちら(逝きし世の面影)。そのくせに安倍首相は後で「政府として一丸となって発災以来全力で取り組んでまいりました」と虚言を言っていました。参考までにこちら(情報速報ドットコム)。また、彼は7月11日に予定していた外遊をぎりぎりまで悩んでおり、海外の方から来なくていいと言われてようやく日本に留まることを決断したのです。参考までにこちら(ゆるねとにゅーす)。先の大雨による災害で国民が死んだり、行方不明になり、被災して苦しんでいるのに安倍首相らは国民のことは考えず、自分たちのことばかり考えています。安倍首相は被災地訪問という世間体を保つために渋々行きましたが、明らかに形式的なものであり、マスコミ各社も安倍首相に忖度していかにも仕事をしていますと強調するために撮影したことが分かります。

 

私は政権批判をして楽しんでいるのではありません。むしろ、為政者が間違ったことをすれば叱責するのが当然のことです。なぜなら、首相をはじめ他の国務大臣、その他国会議員であっても主権者ではないからです。官僚やその他公務員も公僕であり、主権者ではありません。忘れないで欲しいのは、公務員は国民に仕える側なのです。それが完全に立場が逆転しており、公務員が上に立ち、国民から搾取し、締め付けています。完全に今の日本ではこの視点が蔑ろにされています。日本での主権者は日本国民です。これは日本国憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定されているとおりです。主権者が代理で政治を行わせている為政者が主権者の意図と違うことをすれば非難するのは当然です。株式会社で言えば、株主が所有者であり、取締役等の経営者は会社を経営することが仕事であって所有者なのではありません。つまり、株主が日本国民で、為政者は経営者に過ぎないのです。株主が望む経営ができない経営陣は追放されて然るべきです。

もっとも、こんなに褒めるべき点が一切無く、非難しかしようがない政権は初めてではないでしょうか。過去最悪と言っても過言ではないでしょう。本当に終わりの時代です。安倍政権は何をしても日本にとって、日本国民にとって、庶民にとってためになるような政治、立法を一つもしておらず、逆に日本国民を経済的、及び精神的に締め付けたり、搾取したりすることばかりしています。こんな政権を聖書は見事に言い当てています。

 

旧約聖書 箴言 二十八章十六節(拙訳)

指導者が知性を欠いてると、多大な圧迫がある。

 

ほんまに、為政者に知性が無いと国民は圧迫されます。安倍政権はまさにその典型例や。しかし、聖書では、為政者は天の父なる神とメシアである主イエス・キリストに逆らうと書かれてる。

 

新約聖書 使徒言行録 4章25~26節

なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、

諸国の民はむなしいことを企てるのか。

地上の王たちはこぞって立ち上がり、

指導者たちは団結して、

主とそのメシアに逆らう。

 

上記は詩編にもあります。

 

旧約聖書 詩編 2編1~2節

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち

人々はむなしく声をあげるのか。

なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して

主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか

 

地上の為政者たちは、聖書に書かれている神の預言どおり、神は神に逆らう者たちを敢えて為政者に指定されているように思えます。そうしないと終わりが来ないからです。このことを知っていれば、政治を変えようと息巻いても無駄なことが分かるはずです。どうあがいても決して良い方向には変わらず、悪い方向にしか行きません。

 

過去記事「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」でも明治維新が悪しき野望にまみれたことを説明しました。江戸幕府が完璧だったと言うつもりは一切ありません。江戸幕府ができる前から日本は徐々に崩れていました。1549年に世界征服を企むイエズス会のザビエルが日本に来て以来、すべて彼らの野望に翻弄され、歴史が彼らの都合で操られてきました。その頃から明白に外国との貿易によって利益を上げることばかり考える邪で心が腐った人間が日本で増えていきました。戦下手だった織田信長が猛者の上杉謙信と武田信玄と戦わずに済んだのも陰で毒殺した疑惑が浮上しています。参考までにこちら(YouTube)。ここで動画でも言われているようなイエズス会がキリスト教と言われている点を信じてはいけないということです。私が複数の過去記事で述べたように、イエズス会は世界のあらゆる秘密結社の頂点に立つ極悪組織であり、表面的にキリスト教を装いますが、内情はまったく異なり、聖書と主イエス・キリストとはまったく無関係ということを知っていただきたいです。バチカンにいるカトリックの頂点に立つ現ローマ教皇フランシスコは、イエズス会の出身です。これをみなさんには再度認識しておいていただきたい。イエズス会やカトリックは、聖書を正しく理解している人の目には誰でも分かる位に主イエスの教えに背き、神の律法、掟、戒めにも従わないサタン崇拝組織でしかないのです。これが理解できない、理解しようともしない愚かな自称無神論者の多神教信者や異教徒らは、キリスト教が悪だとわめくのです。こうなることがサタンの思う壺であり、イエズス会と同じく主イエス・キリストに敵対する反キリストになっているだけという事実に気付くべきです。

 

日本と日本人は幕末から欧米にいいように使われ、明治維新を契機に日本は一気に日本らしさを失い、おかしくなったのも事実です。それが前回記事「もっと気楽に生きよう」の冒頭でも述べたとおり、普段着として着物を着なくなったことがまず挙げられます。これは一種の独自性を失ったことを意味します。洋服を着ることで欧米人らと同化しているのです。着る物だけでなく、女性はつけまつげ、ピアス等をし、けばけばしい化粧をしたり、髪を染め、スカートを短くしたり露出の多い格好をしています。男性も髪を染めたり、腰パンのようなだらしない格好をする者もいます。そのように独自の服装や文化を捨て、欧米人の外見に憧れ、真似していく内に心まで影響されます。当記事で最も言いたいことはそれです。日本人の心の大きな変化です。それも悪い方向にです。武士道という言葉を聞いたことがあると思います。日本刀を携帯してむやみに振り回せと言っているのではありませんし、それが武士道なのではありません。心の在り方や行動、習慣のことです。武士道は、旧五千円札の肖像になっていた新渡戸稲造氏が本として出したものです。彼の信仰がどれ程かは知りませんが、一応クリスチャンだったそうです。武士道についてまとめると以下のとおり。

 

: 正義、道徳、義理。正しい事をやろうという武士道の支柱。損得勘定をせず、不正をせず、人として正しくあろうとする心。不正をもって勝っても称賛に値しない。自分で考え、自分で決断する。周りに流されない。

: 義を行う勇気。正しい事をする勇気で支柱の度胸を磨くことです。決断したことを実際にする行動力。

: 情け、寛容、思いやり。他人に対する思いやりです。敵でも思いやりを忘れません。

: 礼儀。他人への真心からの礼を忘れず、それが敵であっても同様です。上辺だけの礼は所作に過ぎず、礼儀ではない。

: 人や物事の本質や善悪を正しく判断する知恵。

: 理屈抜きに心から信じること。互いに信頼し、約束を守る等して信頼に応えること。

: 誠実、真実性。嘘をつかず、正しい事は曲げない「武士に二言はない」ということです。また、漢字の成り立ちのごとく、言ったことを成す、即ち、有言実行です。

名誉: 尊厳と価値観。羞恥心を持ち、恥じない行いをすることです。

: 命令に対する絶対的服従。愛する者への自発的な忠義心。自分の命を犠牲にしてまで主君に忠誠を貫く心です。無能で愚かな主君や上司に従うことは忠義ではない。

 

上記を見ると、主イエス・キリストの教えに似たところが感じられますが、違いもあるので私が詳しく説明していきます。

 

まず義について、主イエスは、神の国と神の義を第一に求めれば他のものは神から加えて与えられると説かれました(マタイ6:33参照)。ですから、クリスチャンならば、神の御国のことを常に考え、神の義を行いで示すことが必須です。しかし、正義という言葉は間違った前提に立つと悪になります。何が正義かは聖書を読まないと理解できないでしょう。反キリストに従うことが正義と思っているようでは論外です。また、損得勘定をするような人間は、義を知らず、その時の状況や人間関係等に応じて立場や考えをころころ変える卑劣な人間です。このような人を避けましょう。過去記事「自我との戦い」でも述べたとおり、折が良くても悪くても助けてくれるような人と友人関係を保つべきです。都合の良い時だけ近寄って来て自分が苦境に陥ったら離れ去る人は友ではありません。また、過去に述べたとおり、自分で考えて決断するようにならなければいけません。周りに流され、周りの顔色を窺っているようでは話になりません。

 

勇について、勇気も信仰には欠かせないものです。義を実際に行う行動力が重要です。思っているだけで実際にしないのは偽り者です。それは信仰も同じで、過去に何度も申したとおり、信仰は行いが伴います。行いが伴わないなら、口先だけの信仰であり、死んだものです(ヤコブ2:17)。また、迫害を怖がったり、他人を恐れるあまり正しい言動をしない、福音伝道をしない臆病者は第二の死(黙示録21:8)とあるとおりです。

 

仁という憐れみ、情けは人間が持つものよりも神によるものが格段にまさり、絶対に上回るものがありません。罪なき主イエスが御自身の民を引き寄せられ、神に立ち返るようにしてくださり、罪人である人間を憐れみになって罪を赦してくださり、悔い改める力を与えられます。これは人間だけの力では絶対に不可能です。しかし、人間も情けを持つべきで、困っている人を見て見ぬ振りをしてはいけません。

 

新約聖書 マタイによる福音書 5章7節

憐れみ深い人々は、幸いである、

その人たちは憐れみを受ける。

 

新約聖書 マタイによる福音書 9章13節、12章7節

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』

 

上記の主イエスの御言葉は旧約聖書の以下と一致します。

 

旧約聖書 ホセア書 6章6節

わたしが喜ぶのは

愛であっていけにえではなく

神を知ることであって

焼き尽くす献げ物ではない。 

 

上記の日本語訳は愛となっていますが、英語ではmercyとあり、憐れみの意味です。他人に憐れみをかけられない人間は、冷酷無慈悲で愛が無いと言えます。それは主なる神がいとわれる人間です。

 

礼については、人への思いやりが外部に現れたものと言えます。聖書にも以下のとおり書かれています。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章5節

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 

私が常日頃、あなた方にコメントをする時でも挨拶を欠かさず、質問をして回答を受けたら礼を忘れないように言っているのもこれが理由です。私に言われるまでもなく、当然して欲しいことなのですが、現実にできていない人が多いのです。だから、当たり前のことをわざわざ言う必要があり、この堕落しきった現代ではそれを誰かが言わないと誰も意識しないからです。もっとも、形式だけの挨拶だけしても無意味です。挨拶だけはしても他の話の内容が的外れであったり、恨みや憎しみ等の悪意に満ちているなら、礼を尽くすことにはなりません。

 

智については、聖書の知識がないといけません。聖書と正しい信仰以外から得た知恵は間違っていることが多く、特に世に多く出回る書籍や教科書では当然網羅できないことです。聖書に始まり、聖書に尽きます。

 

旧約聖書 箴言 1章7節

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 

旧約聖書 箴言 8章33節

諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。

 

旧約聖書 箴言 10章8節

知恵ある心は戒めを受け入れ

無知な唇は滅びに落とされる。

 

旧約聖書 箴言 12章15節

無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。

 

旧約聖書 箴言 15章12節

不遜な者は懲らしめられることを嫌い

知恵ある人のもとに行こうとしない。

 

旧約聖書 箴言 28章26節

自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。

 

これらの言葉に集約されていますね。主イエスを畏れ、師として敬い、模範として従順に従うことこそが唯一の正しい道であり、そのことを知ることが正しい知恵の初めです。いわば、キリスト道です。私はそう呼ぼう。自称無神論者、異教徒、にわかクリスチャンたちは諭しを侮り、反発し、陰口ばかり言っています。彼ら彼女らは、自分たちが愚かなことをしていることに気付けないからです。

 

旧約聖書 箴言 2章6節

知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。

 

正しい知恵は、神の律法、掟、戒めを守り、主イエスに従順であってこそ神から頂けるものです。そうでない者が語る内容は欺瞞に満ち、滅びに通じる広い道へと誘う。

 

旧約聖書 箴言 8章11節

知恵は真珠にまさり

どのような財宝も比べることはできない。

 

旧約聖書 箴言 17章16節

愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。

 

過去記事「天に富を蓄えよ」でも述べたとおり、地上の富なんて何の役にも立ちません。そんなものを一生懸命蓄えるために正しい道を逸れて、滅びて何の得になろうか。金持ちはすぐに財力で物事を解決しようとしますが、実際は何の解決にもなりません。そして、上記聖句のとおり、金持ちには正しい心がありません。だから、金持ちが天の国に入るのは難しいのです。神と富とに仕えることはできないので、神か富(お金)のどちらかを選ばねばなりません。たとえ金持ちでなくても、お金ですべて何とかなるという信念の者も同様です。

 

信については、まさに聖書でも最も重要なことです。それは人に対する信頼だけで終わるのではなく、天の父なる神への信頼、主イエスへの信仰です。主イエスを信じられなければ、主イエスのたとえによる教えを理解できず、神の律法、掟、戒めを守ることもないでしょう。すべては信じることから始まります。それも神に選ばれ、神から憐れみを受け、神によって引き寄せられないと結局は脱落してしまうと私は考えています。これらのことは私の過去記事をすべて読めば理解できることです。主イエスは、御自身で選ばれた弟子であるペトロにでさえ「信仰の薄い者よ」と仰っておられました。それは当時彼がまだ未熟だったからです。主イエスを疑うことなく信じ、主イエスの教えどおりに生き、神の律法、掟、戒めも守っていれば何も恐れることはありません。人を恐れず、神を畏れなさい。

 

誠についても、嘘をつかないということは神の律法にありますし、箴言にも多く書かれています。

 

旧約聖書 レビ記 19章11節

あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。

 

旧約聖書 箴言 10章18節

うそを言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。

 

旧約聖書 箴言 12章17節

忠実に発言する人は正しいことを述べ

うそをつく証人は裏切る。

 

旧約聖書 箴言 19章5節

うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。

 

旧約聖書 箴言 19章9節

うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。

 

旧約聖書 箴言 21章6節

うそをつく舌によって財宝を積む者は

吹き払われる息、死を求める者。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章8節

しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。

 

モーセの律法(レビ記)に嘘をつくなと書かれ、箴言でも嘘をつく人の特徴や行く末が書かれ、ヨハネの黙示録では第二の死であるとも言われているのです。また、上記箴言にもあるとおり、悪口を言ったりネット上に書くことも同様に愚か者の特徴であり、もとより、心の中でそのように思うことすら神の御国に入る者ではないということです。悪口というのは根拠や証拠も無く、感情的に相手を罵る言葉です。そういうことをしている人がそこら中にいます。なお、聖書を根拠に主イエスの教え、神の律法、掟、戒めに基づいて間違ったことを教える者(偽預言者、偽教師ら)を弾劾することは悪口には当たりません。誤解しないでください。

 

武士道の名誉というのは、キリストの教えにはありません。しかし、主イエスに従う者として恥ずかしくない言葉遣いや行動をすることは必須であり、何より全知全能ですべてを見通される神を畏れて日々生きるべきでしょう。畏れるというのは恐れるとは違い、びくびく怖がるという意味ではありません。愛と尊敬の気持ちから来るものです。地獄に行きたくないからという理由で無理に信じたつもりになる人は利益信仰者であり、にわかクリスチャンです。個人の名誉、社会的地位等の名誉は捨てるべきものです。それらを捨てた上で、神の律法、掟、戒めを守って人生を最期まで主イエスの信仰を持ち、従順に従い通せば神から名誉の証として永遠の命を授かります。主イエスもこの世では悪魔の子らによって偽善者、悪の中心、架空の人物等と色々言われていますが、そのような反キリストの人間たちをすぐに滅ぼされずにおられます。それ程、主イエスは寛大であられるのですが、愚かな悪魔の子は、いい気になって悪態をつき続けています。否応無く、彼ら彼女らは、この世の終わりとなるキリストの再臨前に起こる神の怒りをまともに受け、かつ、肉体的な第一の死後、最後の審判の時も断罪され、火の池に入れられて第二の死に至るだけです。

 

武士道の忠義は、人や国に対するものかと思いますが、私は当ブログ全体を通して述べているように、天の父なる神、そして唯一の仲介者である主イエス・キリストへの忠義が重要です。私はこれ以外に正しい道はないと思っています。人は自分が愛する者に従います。自分自身が大好きな人はその人自身に従い、間違いを犯し、罪を犯し、決して悔い改めることがありません。異教の神々を拝む者、律法廃止論者や偶像礼拝をするにわかクリスチャンたちは主イエスと神の民に敵対します。神を愛し、神の律法、掟、戒めを守り、主イエスのために自分の命をも捨てることができる程に信仰が厚くなければ、永遠の命を授かって神とともに生きるには相応しくないのです。

所詮、神ではなく、世に属する人間や国に忠義を尽くしたところで、神の目に正しく映ることはありません。しかし、十戒にあるとおり、父母を敬う、大事にすることは蔑ろにしてはなりません。隣人を自分のように愛することも然りです。また、主イエスを唯一の師として、主イエスに従順に従う兄弟の間で嘘、偽りなく語らい、励まし合う、支え合うことは重要なことであり、主イエスが命じられた掟でもあります。これらができない自称クリスチャンは多いです。自称無神論者の多神教信者や異教徒が論外なのは言うまでもありません。怠惰に働くことを推奨する意味ではありませんが、会社や上司に忠義を尽くしても勤務先の会社が潰れれば、公務員もその国や地方自治体が潰れれば終わりです。主なる神に忠義を尽くさずして、何も正しいことはありません。

 

以上のとおり、武士道は聖書と共通する点がいくつかあるのがお分かりいただけたと思います。もっとも、武士道よりもはるか前に聖書と主イエスの教えは存在しているのであり、武士という存在ができるよりもはるか前から聖書はあり、主イエスもおられ、この天地を創造されたのです。武士道は昔の日本人には大事にされていた考え方を明治時代に新渡戸稲造氏によって書籍化されて初めて出来た言葉でした。新渡戸氏が唱える武士道は、平安時代以後江戸時代にまで続く昔の武士のすべてを包括的に示したものでは決してありません。新渡戸氏が武士道を説いたのは江戸時代末期の武士の生き様ことです。江戸時代に入ってからは戦乱の世の中ではなくなり、刀を握りしめて戦いを生業とし、御恩という報酬目当てに奉公という主君のために戦うというような考え方では生きていけなくなりました。江戸時代以前の武士の生き方は、現代における給料というお金や領土という報酬目当てに労働力を提供する会社勤めと一緒です。ですから、戦いで生きられない江戸時代の武士は道徳を重視するようになりました。明治時代に入って失われた江戸時代の武士の有様が新渡戸氏によって呼び起こされたのです。武士道は、江戸時代以前のように武力や剣術で他者を圧倒したり自衛することではなく、自分自身の心を正しい状態に置くために戦うことです。剣術とその他の武術といった人殺しの技がどれ程上手くても尊敬には値しません。人間がどのようすれば成功するかではなく、どのように生きれば美しいかを考えるのです。これが武士道の良い点です。過去記事「自我との戦い」でも述べたとおり、自我と戦うことです。何度も言いますが、私が言っているのは心の在り方、生き様を変えなさいと言っているのです。忘れ去られた武士道を簡単に映像と音声で呼び起こすには、映画のThe Last Samurai(ラストサムライ)でも観てみると良いでしょう。映画に出てくるように仏像を拝むことを真似するのは論外で、アメリカ人が主役なのはアメリカの映画なので仕方ありませんが、着物姿の武士たる者は、お金や権力、欧米に媚びるよりも武士の信念に従って勇敢に生きる道を知るべきです。その映画で見れますが、日本人女性の控えめな態度が実に清々しいです。昔は当たり前だったのですが、今では見る影も無いのが残念でなりません。その映画自体フィクションで美化し過ぎと思うかもしれませんが、それを全部受け止めるというよりは、その中から重要な部分だけを取り入れて欲しいのです。理想論と一蹴せず、死まで侍であり続けることを死まで主イエスに従順なクリスチャンであることを置き換えて考えれば、まったく無関係とは言えないはずです。あの武士道を理想論と一蹴するなら、主イエスが私たちに「完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と言われるのも理想論と言っているに等しいです。はっきり言って、真のクリスチャンは、理想を現実のものとしなければいけない立場なのです。日々苦しい思い、葛藤等があるでしょうが、それも神からの試練と思い、耐え忍びなさい。そうすれば、必ず主イエスが私たちを完全な者となれるように助けてくださいます。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 5章10節

しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。

 

江戸時代以前の昔は今のように学校制度が整備されておらず、今と同じ教育を受けませんでしたが、心掛け、生き様を何よりも重要視していました。実際、江戸時代末期の武士たちは品性形成や道徳教育に力を入れており、数学等の知的教育はあまりなされませんでした。こうして道徳教育を叩き込まれた武士は損得勘定をせず、貧困に陥っても金銭から起こる悪徳を回避できることが多かったのです。これは人間力が最も重要視されたことの証拠です。つまり、「知性を育てるよりも品性を育て、頭脳ではなく魂を育てる」という教育方針が武士道です。現代において理数系ができない人を莫迦にする愚か者がいますが、そういう人に限って無駄な知識を蓄えて神に反逆しています。事実、科学者、物理学者、数学者等に神に従順な人はいないでしょう。科学や数学に詳しくなったところで、計算をして数字遊びをしていても何一つ得るものはありません。この世でのつまらない社会的地位、名誉、お金等を得る手段にしか過ぎないからです。万有引力の法則で有名なアイザック・ニュートンが聖書解釈をしていたことも一部の人は知っていますが、彼の聖書解釈は無謀でした。彼はダニエル書7:25の「聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期がたつ。」、12:7の「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」とヨハネの黙示録13:5「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。」の時間をともに1260年とし、教会が堕落したとニュートンが判断したローマ教皇レオ3世がカール大帝にローマ皇帝の帝冠を授けた800年を起算点とし、それから1260年後の2060年以降にこの世が終わると解釈していましたが、明らかに聖書全体から判断せずに部分的な聖句だけの解釈にとどまりバランスに欠けています。カールの戴冠が教会の堕落と判断することも合点がいきません。彼はダニエル書7:25の「聖者らは彼の手に渡され」という直前の文脈を無視し、数字だけに着目する間違いを犯しました。既に複数の過去記事で述べたとおり、聖者らである真のクリスチャンが反キリストであるローマ教皇の手に渡されて蹂躙された過去の1260年間と将来ローマ教皇が世界の支配権を確立してから三年半が経たないと世の終わりは来ないと私は考えています。ニュートンは、聖書を手にしても主イエスの信仰は無く、オカルトに傾倒していたようで、パズル感覚で聖書の解読を試みたのだと思います。このように、結局正しい信仰を持たなければ聖書の真理を読み解くことはできず、また、理科や数学よりも、国語(言語)の方が重要です。理数系が得意な人に限って国語力が無いです。長い文章を読んでもその主題や主旨を見出すことができず、比喩や例えにも疎く、語彙力もありません。こういう人たちは、聖書を読んでも文脈を無視したり、部分的に理解しても全体の理解ができません。国語力が無いのは致命的に悪いことです。複数の過去記事で申したとおり、人間は死んだら終わりなのであり、死後に持っていけるのは霊、即ち、品性だけなのです。

 

過去の武士は、名誉という部分を間違って考えたため、切腹という習慣まで生み出しました。これは自傷行為、及び自殺行為なので決して真似すべきことではありません。切腹のように武士個人の名誉を重んじると神の律法に背くことをしてしまうのです。そして、他人を斬ったり、自分の腹を切ったり、殺人をしてはいけません。これは明確に十戒にある「殺してはならない」の掟に背く行為です。しかし、現代では、過去の武士の心掛けは完全に忘れ去られてしまい、過去の武士より人間性が悪い人間が増えています。それが今の政権と国民に現れています。お金やその他の利益、地位、名誉のためには嘘をつき続け、人を欺き、人命をも蔑ろにしています。現在、多くの日本国民は、そんな政権や世界の動きを理解せず、陰謀論と決めつけてろくに調べもしないで莫迦にするだけで理解しようともせず、沈みゆく船に必死にしがみついて乗り続けて溺死しようとしています。先祖の墓参りなんて形式だけで間違った偶像礼拝なんかさっさとやめて、先祖の生き方を少しは学ぶべきでしょう。それも戸籍で遡れる程の直近の先祖ではありません。まだ聖書を読んでおらず、主イエス・キリストの教えを信じない男性は、武士という生き方を少しは学ぶために上述した映画か新渡戸稲造氏が著した武士道を読んでみると良いでしょう。そうすれば聖書の教えも身近に感じるでしょう。

女性は武士ではないので、武士道という心構えにピンとこないと思います。しかし、武士道にも書かれているとおり、武家の女性は「たとえ命を失おうとも貞操を守れ」という気概があり、これは現代の女性にも必要です。現代の女性は、お金や好奇心等の理由で簡単に貞操を捨てる人が多いです。既に十代の学生で貞操観念が無い女性も多く、大切なことを知らずに恋愛ばかりに夢中になり、彼氏作り、援助交際や出会い系バー等に出入りしているのは実際に起きていることです。はっきり言って、十代で彼氏彼女なんて要りません。そんなことに時間と労力を使うよりも、自分自身の品性を高めるのに使いなさい。昔の気高い精神は完全に消え失せています。武士がいた時代は、少女たちは成年に達すると懐剣と呼ばれる短刀を常に懐に隠し持っていました。それは自衛のためと自害するための目的でしたが、腕力が無い女性は自害することの方が多かったです。襲われて貞操を失う位なら死んだ方がマシという考えです。今でも同じことをするように言っているのではありませんが、それ位の気概が必要だと言いたいのです。お金のため、金持ちの気を引くため、酔った勢いでとか、場の雰囲気、好奇心から、ストレス発散等と軽い気持ちで貞操を汚すような人は神の御国に相応しくないでしょう。ただ男性から言い寄られることもなく、一人で居続けたから貞操観念が高い女性と言うことは一概にはできません。男性が近寄らないのにはそれ相応の理由(性格等)があるでしょう。その結果、貞操を守っていると自慢するのは間違っています。このことは男性も同じです。信仰上の理由で自分から意図的に女性と距離を置いたというなら別ですが、それ以外で女性に言い寄っても断られたとか、近寄ってこない場合はその男性自身が貞操を自発的に守ったことにはなりません。もっとも、すべての男性が無理に女性と関係を持つ必要性はありませんし、一人でいるなら、それも神の御心を行うためと思って、進んでその状況を受け入れても問題ありません。

 

 

日本人よ、男性も女性も今こそ武士道の精神を思い起こし、和服である着物を着て、武士道ならぬキリスト道を生き様として見せましょう。甲冑や刀を帯びるのではなく、真理を帯とし、正義を胸当てとし、福音を履物とし、信仰を盾とし、神の救いを兜とし、神の御言葉を刀として帯同して、常に目を覚まし、絶えず主イエスに依り頼み、祈りましょう。

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章10~18節

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は主イエス・キリストによって一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上