こんにちは。
今回は、生温い信仰への警告について書きます。
かつてファリサイ派のユダヤ教徒であったパウロは、キリスト教徒を迫害しており、ステファノの殺害にも同意し、主イエスを否定して信じていませんでしたが、ある日突然、主イエスから呼びかけられて信仰に導かれました。神に選ばれた人は神から導いてくださいます。勿論、主イエスへの信仰に入ってクリスチャンになる者が皆、最期まで主イエスに従順な神の民ではありません。ファリサイ派のように誇る意味ではありませんが、私はクリスチャンを迫害したことはなく、子供の頃から主イエスを信仰が薄いながらも信じていましたが、心の奥にしまい込んで、しばらく不従順な日々を送っていました。そして、あらゆる人生の目標を必死に見出そうと色々手を出してみましたが、私がこれだと思えるものに巡り会えず、ことごとく達成できずに終わりました。自惚れではなく不遜でもなく、今振り返れば、主なる神が私には世俗では尊ばれる道は相応しくないから、その道に行かせなかったとも思っています。仮に上手く事が運んでいたら、私は安易にその世俗の人間に尊ばれる道に進んだでしょうから。神に不従順な生き方をしている中で次第に私は人生に明るい希望を見出せなくなり、割りに合わない報酬や待遇に不満を覚え、姿を見せない変質者にも付きまとわれて心身共に疲弊し、限界に近づきました。本格的な苦しみは後で来るものと覚悟しつつ、神は私にその苦しみから一旦逃れる道をご用意してくださいました。その転機があった後しばらくして周囲は突然の豹変に思ったかもしれませんが、私の中では自然な流れで主イエスが私を呼び起こしてくださり、聖書を短期間の内に通読し終えて主イエスが真理のお方であると確信して従順に従う決心を固め、その後聖書を複数回通読し、伝道を開始しました。私から主イエス・キリストを求めたというよりは、主なる神が私を引き寄せてくださり、神に立ち返るように導いてくださいました。これは私が祈り求めたからではありません。神の御計画と御心に基づく神の自由な選びと神からの一方的な憐れみと恵みによるものです。実に、救いは人間から求めるものではない、人間の自由意志によるものではないと私の実体験からも言えます。このことは、過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で述べたとおりです。
ブログを書いて半年程度で「兄弟たちの集いの場」を設け、兄弟たちに囲まれました。今ではコメント投稿をしなくなって去って行った者もいますが、ブログでの福音伝道開始から一年半経ったのが今の状態で、今後も変化があるかもしれません。種を蒔く人のたとえ(ルカ8:4~15)にあるとおり、聖書の内容を正しく理解できる人は少数であり、ほとんどのクリスチャンは早くから悪魔に邪魔されて信仰を失ったり、聖書を曲解した内容を頑なに信じ続けて虚しく主を崇めたり、試練に遭っても耐える忍耐力がないために脱落したり、世俗に関する思い煩い、富、快楽等によって成長しない人が多いのです。離れて行った人の事情は様々でしょうが、ほとんどは良い理由ではないと思います。彼ら彼女らは、神よりも自分自身の保身、家族の保身、世俗の仕事や生活を優先した結果だと思います。大艱難に突入していない今のうちから原始的な生活をするため、または権力者から目を付けられたくないためにネット使用を断ったという人でも自分の保身だけを考える臆病者に過ぎません。いずれそういう生活をすることになる人もいるかもしれませんが、その時に向けて備えを整えておくことは良いことですが、今すぐ実行することではないと思います。耳触りの良い教えやもっともらしい嘘を言う偽教師や偽預言者らに耳を傾けて道を逸れて行った人もいるでしょうし、にわかクリスチャン同士の戯れが楽しくてそちらに移ったり、不信仰の家族や周りの人々に屈して脱落したり、地上の富や快楽等に心を奪われて棄教したと思われます。今の時代の人々は、何でも便利な物に囲まれ、少しの不便さも我慢できないで些細なことに不満を言うような短気で高慢な人で溢れています。一日中スマホを手放せず頻繁にメールの有無やSNSを確認したり空き時間にゲームしたりする等によって対人関係に関する能力を衰えさせ、電車が遅れたらイライラして駅員に怒鳴り散らしたり、店員に尊大な態度で接したり、コールセンターに些細なことですぐに苦情の電話をしたり、ネット上で悪口や陰口を書いたり、惨めな品性を持った人間が非常に増えました。そして、物質的な豊かさから満たされていると思って神を軽んじ、神に頼まなくても生きていけるから大丈夫と勘違いしている者が多いです。ヨハネの黙示録3:14~22に書かれたラオディキア教会の状態が、現代のキリスト教徒の姿です。たとえクリスチャンと名乗る人であっても、熱くもなく冷たくもない生温い信仰をしている者が多く、これが私が述べてきた世俗に妥協して、生きるついでにクリスチャンごっこをしているにわかクリスチャンです。真理である主イエス・キリストを愛していると公言しながらも、神の律法、掟、戒めを守らず、信仰から来る行いをせず、神のために主イエスを模範として奉仕や献身をせずに自分自身や家族といった身内だけを愛しています。前回記事「真のクリスチャンの生き様」でも書いたとおり、周囲の目や評価を気にしたり、周囲から隔絶されることを怖がったり、社会的地位、名誉、財産等を失うことを恐れて世俗に妥協して世の友となっているような人は真のクリスチャンではありません。にわかクリスチャンの中には携挙信仰者という利益信仰者や死への恐怖から携挙にすがってクリスチャンに形式的だけなる臆病者もいます。彼ら彼女らは悔い改めなければ絶望的で、忍耐することをまったく知らない律法廃止論者ばかりです。何度も私が申しているとおり、信仰は忍耐です。ルカ8:15、黙示録14:12等にも「忍耐」が必要とあります。迫害や艱難も忍耐が無ければ耐えられないでしょう。それも肉の思いが強い人間自身の力では決して耐えることはできません。信仰と忍耐は神の力、即ち、聖霊の力によるものであり、霊の思いで歩む真のクリスチャンだけがあらゆる迫害、艱難、苦難に立ち向かう勇気と強さを持つのです。あなたは自分自身の力を過信していないでしょうか。自分はしっかりとした信仰があるから大丈夫、聖書を何回も読んだから大丈夫、決して主イエスを裏切らないし知らないと言わない、神の律法を死守すると心の中ではそう思っていることでしょう。しかし、そのような気持ちであろうとも落とし穴になることもあります。ヨハネの黙示録のラオディキア教会の特徴として、熱くもなく冷たくもない生温いと主イエスは仰っており、その他にも一言も褒め言葉がありません。ラオディキア教会は、この最後の時代を生きるクリスチャン全員に向けられた主イエスからの御言葉です。熱いというのは、世俗に妥協したり世の友となることがなく、主イエスに対する信仰から御言葉を守り、神の律法、掟、戒めを守り、奉仕活動や福音伝道等、あらゆる神の御心を行うのに熱心な真のクリスチャンです。冷たいのは不信仰の者や異教徒たちです。生温いのは昔で言えばファリサイ派や律法学者らですが、現代では律法廃止論者、携挙信仰者、信仰を行いで示さない者等のにわかクリスチャンたちです。要するに、神の律法、掟、戒めを守らず、主イエスを「主よ、主よ」と口先だけで無意味に崇め、行いが伴わず、大艱難前に携挙されるという嘘を吹聴して自分たちは死なないと高を括った高慢な偽善者です。上述した生温い人たちは、冷たい人よりも回心することが困難です。なぜなら、生温い人たちは自分たちが義であると盲信して疑わない程に心が頑なになっているからです。勿論、頑なにキリストを認めない不信仰の者や異教徒もおり、回心の見込みがない人も大勢おり、回心の見込みがあるのは、不信仰の者や異教徒でも自分の信念に揺らぎや限界を感じている人です。今まで無神論者であったがそれではどうも説明し難いとかおかしいと思う不信仰の者、長年異教やカルトの宗教信者であって、おかしいと目が覚めて真理を渇望する人等は回心の見込みがあります。しかし、現在既にクリスチャンであり、律法廃止論の信念を持って、行いは無関係なので何をやっても良いと勘違いし、主イエスを信じると言いさえすれば良い、福音の三要素を信じた時から救われている等とうわ言を言うにわかクリスチャンらは救いようがありません。彼ら彼女らは虚しい偽りの神学に騙されていることに気が付かない哀れな人たちです。そのような生温い信仰を持つ人は、世の終わりに毒麦として炉に投げ込まれます。このような生温いにわかクリスチャンは、冷たい不信仰の者や異教徒らよりも主イエスから忌み嫌われていることがヨハネの黙示録3:15~16から分かります。熱いか冷たいかであって欲しく、生温いのは吐き出すと主イエスは仰っています。これ程に主イエスは信仰の生温い人々に嫌悪感を示されています。何故でしょうか。私が過去記事「自我との戦い」で述べたとおり、そのようなにわかクリスチャンらは現代のファリサイ派と言うべき偽善者であり、神の御国に自分たちが入らないばかりか入ろうとする人を入らせないようにし、狭い門を通るのを邪魔し、滅びに至る広い道に行かせようとする悪い者たちだからです。いっその事、彼ら彼女らは黙っていた方が良いのですが、そういう人たちは黙らずに偽りを熱心に吹聴して人々を騙す自覚も無いまま騙し続けます。今のキリスト教を見ても、地上の諸教会の堕落や不祥事といったことは神に仕えると自称するにわかクリスチャンによって引き起こされた結果です。自分たちが問題無い、立派だと思い込んで勘違いしたにわかクリスチャンたちによってもたらされた結果です。早くこの現実を直視し、悔い改めるべきです。自分が霊的に盲目で病気になっていることに気付く人は幸いですが、それに気付かないし認めようともしない高慢な人は不幸です。そんな高慢な人に塗る目薬はないからです。自分自身の症状に気付かない人は治療する余地がないからです。主イエスが人の足りない所を補填し、病んでいる所を癒されたいと望まれても、にわかクリスチャン自身がそれを拒絶しているのです。聖書で徴税人や遊女が律法学者やファリサイ派の人よりも主イエスによって救われていたのは、まさに現代でも活かされるべき教訓です。当時の徴税人や遊女らは自分たちが罪人であることを自覚していた人でしたが、律法学者やファリサイ派は自分が罪人であることを自覚しようとせず人を見かけや社会的地位で判断して分け隔てしたり、障害者や病人を生まれながらの罪人と見下す人たちでした。現代のクリスチャンの大半もクリスチャンであることに自己満足して、世俗に深く染まっている自分自身の状況に目を向けず、自己検証することなく、病気のまま、罪の奴隷に置かれたままであることに気付かないので、主イエスは手の施しようがなく、やがて捨て置かれます。神と富が相反することは過去記事「天に富を蓄えよ」等で述べたとおりで、地上の富であるお金や不動産等の財産を多く得て物質的に豊かになったとしても、そんな人がクリスチャンと自称しても信仰においては貧しい者なのです。金銭欲は諸悪の根源であると聖書に書かれてあることも多くの過去記事で説明してきました。金銭欲は他の支配欲、名誉欲、物欲、食欲、性欲といった肉の欲にも繋がるからです。物質的に満たされれば満たされる程、霊的には貧しくなる反比例の関係にあります。パウロは以下のように述べました。
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章10節
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
上記の言葉はまさに私の説明を裏付けるものです。お金が無くて貧しそうに見えても、主イエスを真心から信仰して繋がっていれば貧しくないし、弱くもないのです。富んでいる金持ちこそあらゆる醜悪な欲にまみれた霊的に貧しい人なのです。
過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」で古代イスラエル人たちが神の律法を守るという契約を結んだ後すぐに偶像礼拝に陥って罪を犯したことと、そしてそれが前例として後世の人々が学ぶべきだという話をしました。人は、知らず知らずの内に高慢に陥ります。人間は誰でも自分自身が高慢だと自負する人はおらず、概して客観的な評価です。「自分は大丈夫」という勝手な思い込みや過信は高慢です。以下の聖句のとおり、モーセの時代の古代イスラエル人たちもそのような自信過剰になって軽々しく神と契約を結びました。
旧約聖書 出エジプト記 24章7~8節
契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
古代イスラエル人たちは、神の律法を守るという今となっては”古い”契約をモーセを介して神と結びました。それは彼らが自己検証を怠って高慢になって自分たちは善人だから神の律法を守れると高を括ったのです。しかし、実際は彼らは主なる神への信仰が薄かったので神の律法を守れず、すぐ堕落して偶像礼拝を行うなどして滅びを自ら招き入れたことは聖書を読めば分かることです。そして、その時から歳月を重ねた後、主イエス・キリストが地上に来られた時も彼らと同じようなことをペトロが言いました。
新約聖書 マタイによる福音書 26章35節
ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
上記聖句は主イエスがゲツセマネで祈られる前に弟子たちに向けて事前に彼らが主イエスを見捨てて逃げてしまうことを予告された時、それに逆らった主イエスの直弟子の筆頭であるペトロや他の弟子たちの失敗からも学ぶべきです。聖霊を受ける前の主イエスの直弟子たちからも自惚れや高慢が分かります。彼らは主イエスに最期まで従順に従う気概はありました。彼らの言葉や気持ちに偽りはなかったでしょう。しかし、現実にはその通りにならず、主イエスの御言葉どおりに、主イエスがゲツセマネで逮捕された後すぐに主イエスの直弟子たちは全員逃げ去ってしまい、ペトロは距離を置いて遠くから様子を窺い、他の人々からペトロが主イエスの仲間だと指摘されれば、三度も主イエスのことを知らないと言って、そのことも事前に主イエスから予告されていたのでペトロはその御言葉を思い出して激しく泣いて後悔しました。この時、主イエスが十字架での贖いを完成させる前で古い契約の下にあり、聖霊は弟子たちに降っていなかったので、強さが不十分だったのです。これが過去に多くの人々が陥った古い契約へのつまずきです。ファリサイ派や律法学者等のユダヤ教徒は、ただ律法を文字どおり守って、またそれ以上に人間が勝手に戒めを付け加えて自虐行為さえして神への信仰と神の御言葉を蔑ろにして、彼らの行いによって救いを得ようとする自力救済が彼らの信仰となり、神ではなく律法に生きる彼ら自身に義を見出して他人を見下して正しい道を逸れました。現代のユダヤ教徒もその悪しき状態を受け継いでおり、過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」、「日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人」、「無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度」でも言及したとおり、中にはタルムードという聖書の内容とはまったく異なる偽ユダヤ人が悪魔の啓示を受けて書いたものを守って実行している者が実際にこの世の権力者や富裕層に存在しています。確かに言えることは、人間だけの力では結局神と神の律法に従順に従い得ないということです。だから、信仰を蔑ろにして律法主義という形式主義に陥って、自分は頑張っていると自分に言い聞かせて満足していても無意味で、主イエス・キリストに対する信仰という土台の上に神の律法遵守が無ければ、自己満足でしかないのです。そうならないためには、まず、自分という人間は非常に弱く、無力で、罪深いという事実を認めなければいけません。それを嫌がって、自分は賢い、善人だ、財産や地位もあるから偉い等と思い込むようでは救いはありません。これではいくら聖書に書いてあることを自力で守ろうとしても自己満足に陥り、主イエスの十字架によって成し遂げられた新しい契約を結ぶことも、その恵みにあずかることもできません。上述で引用した聖句にある発言をした頃のペトロは、漁師を辞めてすべてを捨てて主イエスに三年半の間従った実績、神の律法に従う生活、主イエスの御言葉や御業を目の前に見聞きして学び、自分の信仰や行いに自信を持っていたことでしょう。いつしか主なる神に依り頼むというよりも、そういう一見すれば上出来に見える信仰生活をする自分自身を信じて依り頼む状況に知らず知らずの内に変わってしまっていたから、あのような失態を犯したのではないでしょうか。彼は知らず知らずの内に主イエス・キリストに対する愛よりも自己陶酔に傾いていったのではないでしょうか。主イエスから鶏が鳴く前に三度知らないという予告を受けた時、仮にペトロが「そのようなことにならないように弱い私をお助けください」とへりくだって願っていたら違ったかもしれませんが、ペトロは自信のあまり高慢になって一緒に死ぬ覚悟があるとまで言って反抗しており、心が頑なになっていました。しかし、彼はその後で腐ったり、背教するようなことはしませんでした。主イエスが事前に彼の信仰がなくならないように祈られた(ルカ22:32参照)こともありましたが、彼ら自身も実際に主イエスを見捨てて逃げた後、自分たちがしたことを後悔して悔い改めたに違いありません。これも成長段階で経験することです。主イエスが十字架で死なれ、葬られ、三日後に復活されて昇天されてから聖霊が弟子たちに降りました。聖書では使徒言行録に記載があり、ペトロをはじめ直弟子たちが聖霊の力を受けて力強く主イエスの証しをし始めたのは主イエスから弟子になるようにお声掛けされてから三年半以上経った後でした。キリストに連なる者が皆、少なくとも三年半以上の信仰生活を経ないと聖霊を受けられないのかと言えばそうではありません。ヨハネ16:7の主イエスの御言葉から分かるとおり、主イエスが十字架での贖いを成し遂げて、復活して天に上げられなければ聖霊が来ないので、ペトロたちが聖霊を三年半受けられなかったのは必然でもあります。また、各人が置かれる境遇や環境も違うとおり、個人差があります。ちなみに、使徒言行録9章から分かるとおり、パウロ(ヘブライ語のユダヤ名ではサウロ)は主イエスに出会って回心し、洗礼を受けた後すぐに福音伝道、主イエスの証しをするようになり、ユダヤ教のファリサイ派であった頃のパウロとは見違えるほどで周囲を驚かせていました。実際に体験して学ぶことでしか分からないことがあります。それも正しい信仰生活から来る結果で個人的な経験であり、他人に分け与えることはできません。私自身の経験をあなたに分け与えることもできませんし、あなたの経験を私に分けることもできません。他人の経験を話として聞くことはできるでしょうが、実際に体験はできません。他人が体験できない各人の経験であり、それこそ各人がキリストとの繋がりで得られるものです。主なる神が実の子に与える試練や鍛錬も真のクリスチャンだけが経験するものです。庶子に過ぎない人々は、神から信仰を強めるかけがえのない経験をすることがありません。何の経験もないか、たとえあったとしても虚しい幻を見たり、サタンが起こす奇跡に感心して惑わされてそれを神からのものと勘違いして、ますます誤った道を進み、心が鈍くなって聖書の真理を受け入れなくなり、悔い改めることなく、赦されることがありません。今一度、振り返ってみて上述したような状態に自分自身が陥っていないか確認してみてください。本当に主イエス・キリストが仲介者となった新しい契約を結んでいるか確認してみてください。もしあなたが主イエスの新しい契約を結べば、必ず主イエスを模範として、罪を避けて罪の奴隷とならず、本来肉なる人間が従い得ない神の律法を守ろうとさせ、それが神の御心であることを知り、聖霊の手助けを得て成長していくでしょう。この体験は多くの人ができるものではありません。不法を行うことを容認、推奨する律法廃止論者のにわかクリスチャンを避けなさい。そのような人の内に真理はありません。新しい契約では「我が律法を彼らの内側に置き、彼らの心にそれを書き記す。我は彼らの神となり、彼らは我が民となる。」(エレミヤ書三十一章三十三節拙訳)と聖書にあるとおりです。神の律法が心に記されないで守らない者は、神の民ではないということが聖書から分かります。このことは既に過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」、「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」、「真のクリスチャンの生き様」でも述べたとおりです。神の律法は、神が人間に要求する本来の姿や品性であることを理解する必要があり、古い契約から新しい契約になっても廃止になることなく引き継がれ、それも初めに生まれた状態の肉なる人間には従い得ない聖なるものです。神の一方的な憐れみと恵みによって信仰に招かれて真に心から悔い改めて主イエスに従い、キリストの品性に近づけるように内面を聖霊によって新しく造り変える助けを受けながら成長していかねばなりません。そのためには、キリストと結ばれないで人間自らでは何もできない存在であると認める謙虚さが無ければいけません。自分自身を過信せず、霊の思いを拒んで頑なに自分の欲求を押し通さず、自我を否定してキリストの御前に心を砕いてひれ伏し、罪の赦しを請い、常に神の御国と神の義を求めなければなりません。そして、前回記事「真のクリスチャンの生き様」で述べたとおり、人間を恐れずに神を畏れて生活し、聖化していくと必ず周囲の人間と価値観が合わなくなり、歩調を合わせることが難しくなります。それこそキリストの再臨に備えた準備と言えるでしょう。いつまでもキリストに従わない周囲の人間や社会、政府、マスコミ、会社等の言いなりになっているようではいけません。
あなたの人生の目的は何でしょうか。過去に何度も申してきましたが、世俗の多くの人々は、お金を求めて何不自由ない豪勢な生活がしたいと願っている者が多いです。お金のためなら手段を選ばず、盗んだり、人を裏切ったり、騙したり、嘘をついたり、他人に媚びへつらったり、体や心を売り渡したり、最悪の場合は人命を奪うことさえし、罪を重ねていないでしょうか。多くの過去記事で述べたことですが、このように金銭欲は諸悪の根源(テモテ一6:10参照)です。この地上で贅沢をすることや少しでも多くの財産等を得ることを目的に生きている人は人生の真の目的を見失っています。サタンは、人々に金銭欲をたきつけて低賃金を補うために残業代を稼ぐために長時間働かせたり、仮想通貨、FX、株等の取引に夢中にさせたりし、神に心を向けたり祈る時間や気力を奪って、ストレス発散と称して快楽、酒宴、娯楽に人の注意や関心を向けさせます。また、サタンは人々にテレビ、スポーツ、映画、音楽、服装の流行、漫画、アニメ、快楽、酒宴、薄っぺらい人間関係等で誘惑して神の律法を守らせないようにしたり、時間の浪費をさせ、人間の外見や物質だけに目を向けさせ内面の霊については無関心にさせて、霊的成長を阻害しています。だから、そのような何の益にもならないことをしている余裕は本来無いはずです。このままの人生ではダメだと思っている人、一からやり直すには年を取り過ぎた等と諦める必要はありません。聖書を読んで主イエス・キリストを知ってください。そうすれば、人生が変わります。それも良い方向にです。この悪い世の中に固執せず、世から救われてください。
聖書を通して主イエス・キリストが教えてくださっているのは、神の民が聖なる者、完全なる者となることであり、罪を忌み嫌う高潔、正直、謙遜、素直、純潔、柔和、節制、親切、誠実、愛で、簡潔に言えば、キリストの品性に近づくことです。悪魔から出る金銭欲、支配欲、名誉欲、不自然な性欲等の醜悪な肉の欲を持っていれば、このようなキリストの品性を持つことは不可能であり、常に自分のことばかり考えて自己中心的になって他人や弱者を思いやることができず、自尊心が強くなり、自惚れ、高慢、放縦、強欲、敵意、悪意、誹謗中傷、争い、怒り、殺意、ねたみ、意地悪、ひねくれ、偽り、アルコールやたばこ等に依存、好色、姦淫、同性愛、性転換等の罪の中でこの地上を生きることになります。神の品性を持つ者と悪魔の品性を持つ者のどちらが良いか誰の目にも明らかではありませんか。それを教えてくれる聖書を手にとって読んで学ぶことを拒否したり、罪の内に死んでいるすべての人間を唯一お救いになることができる主イエス・キリストを拒絶する人は、自分自身が善人だと思い込む勘違いした惨めな高慢な人です。使徒言行録13:46からも分かるとおり、神の御言葉、真の聖書福音を拒絶する者は、自分自身を永遠の命を得るに値しない者としており、自らの身に速やかな滅びを招いています。
人生で最も有意義なことは奉仕です。主イエスが罪深い人間のために奉仕する者となられたのと同じように、私たちも他人に奉仕することをせねばなりません。私が十代の頃に聖書を読んだ時に一番心に残った箇所は、「善いサマリア人」(ルカ10:25~37)でした。子供ながらに強烈にその箇所が印象に残りました。現代において、果たしてその善いサマリア人のように振る舞える人がどれ程いるでしょうか。神は完全で聖なるお方であり、本来は罪に汚れきった人間は神から見捨てられても不思議ではありませんが、しかし、天の父なる神は愛に溢れ、慈悲深くも人間をお見捨てにならず、主イエス・キリストを通して和解した者を神の御国に招き入れてくださるのです。主イエス・キリストは、天の至聖所で私たち罪人のために執り成しをしてくださる最高の奉仕者なのです。それなのにキリストに連なる者を自負している世のクリスチャンたち、何故あなたがたは自分のことばかり、または家族や身内のことばかり考えているのか。そのように分け隔てする者がキリストに連なる者と思ってはならない。人は皆、一度限りの人生をこの地上で送ります。つまらない欲のため、悪魔のため、お金等の富のため、地位や名誉のため等に生きて悪事を尽くした結果、後で待っているのは耐え難い程の苦痛と滅びだけです。自分自身や身内のためだけに生きても何も残りませんが、主イエス・キリストのために生きることは無駄にはなりません。あなたには決してその時期が分からず、主は盗人のように思いがけない時に来られます。明日があると思ってはのんびりしていてはいけません。各人の人生もいつ終わるか分かりません。明日を保証するのは一体誰か。全員とは言いませんが、若い時はほとんどの人々は体力があって元気で死ぬことなど考えもしない人が多く、一日を無駄に過ごし、「明日やればいい」等と軽く考えています。その一部の元気な若い人でも急な事故や病気、または事件に巻き込まれて死ぬことだってあるのです。先が短いのは老人だけとは言えません。一体誰が人間の寿命を司っていると思っているのか。天地と万物を創造し、すべての生物に命を与えて、また奪うのは一体誰と思っているのか。絶対に自分自身の力と思ってはならない。
聖書を読んで主イエスの御名を使って様々な不思議なことをしたとしても、神の律法、掟、戒めを守らずに肉の思いや欲に任せて好き勝手なことをしていれば、そのような者たちは確実に蚊帳の外に置かれ、やがて捨てられます。人生の目的を見失うことなく、主に常に祈り、神の御前にあって低くあり、同じく主イエスを信じる信仰の兄弟を力づけ、また時に戒め、高め合ったり、励まし合い、悪に抵抗し、善い業に励み、奉仕すべきです。
手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上