こんにちは。

 

今回は、偽りの霊による働きへの警告について書きます。冒頭からはっきり言っておきますが、私は聖書を基にして真理を述べているのであり、私の個人的な思いで物を言っているのではないということをご理解ください。もしそれが理解できず、曲解して、間違った誹謗中傷をする位なら当ブログを読まなくて結構です。もしあなたがそのような愚かなことを言ったり書いたりするなら、あなたがあなた自身を死に定めているようなものだからです。

 

さて、昨今、偽りの霊による現象が人々を惑わし、それが人々を聖書の真理から脱落させ、主イエスを信じると口先で言いながら、実のところは信心を否定しているのが多く散見されます。本人たちはその自覚が無く、彼ら彼女ら自身が信じていることや人たちが本物と勘違いして気付くことがありません。だから、私が気付かせます。サタンに残された時間も残りわずかになってきたので、サタンも力を振るって一人でも多くの人間を聖書の真理が示す主イエスの教えである狭い門と狭い道から落としているのが現状です。まさしくサタンは神のふるいの働きをしているのです。主イエスもペトロに「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを手中に収めようと欲し、彼はあなたがたを小麦のようにふるうだろう。」(ルカ22:31私訳)と仰っており、私の言うことがデタラメではないことが分かるでしょう。サタンは一人でも多くの人間を地獄に道連れにしようと必死です。しかし、神はこれをご存知でこれを利用し、御自分がお選びになっていないにわかクリスチャンたちを偽りの教えや目に見える奇跡等に心を奪わせるままにすることでふるい落とす一方、神は御自分がお選びになった民には正しい聖書の知識を学ばせ、必要な試練や鍛錬をお与えになり成長させます。これは目に見える奇跡の類ではありません。目で見ようが見まいが主イエス・キリストを真心から信じる者が本物のクリスチャンだからです。主イエスは以下のように仰いました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章29節

わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。

 

文脈上、上記の御言葉は、主イエス・キリストが十字架にかかって亡くなって葬られ、三日目に復活した主イエスを疑っていた十二弟子の一人であるトマスに向かって述べられました。他の弟子たちは既に復活された主イエスを見ていたのですが、トマスはその場にいなかったので直接復活された主イエスを目撃しておらず、他の弟子たちの目撃証言だけでは信じようとしなかったのです。このように、現代を生きる私たちも復活の生き証人という訳ではありませんが、自分の目で見ていないからといって信じないと言うのなら、復活を疑っていたトマスと同じ状況であり、不信仰です。その後、主イエスはトマスの前にも現れて御自身のお体に触らせてトマスを信じさせました。これは直弟子の特権でしたが、私たちに重要な伝言をしています。つまり、目で見なくても信じる必要があり、見ないで信じる人は祝福されているということです。神に選ばれた人ならば、主イエスの御言葉どおり目で見なくても信じます。だから、唯物主義で目に見えないものは信じないと言ったり、科学で証明できないものは疑わしい云々と寝言を言い続けるのはやめなさいということです。そう言う人たちは反キリストであり、聖書の預言どおりの神の怒りによる裁きを受けても文句が言えない人たちです。実際、神の怒りを受けて滅ぼされる人間がとても多く、キリストを信じると口先だけで言い続けて行いが伴わずに実を結ばない大勢のにわかクリスチャンも外に追い出されて泣きわめいて歯ぎしりすることになります。

 

さて、今まで様々な偽預言者や偽教師を聖書の真理をもって弾劾してきました。今までそういう人たちに騙されていた人たちが私の福音伝道によって回心したかと思えば、また別の偽り者に取り込まれるという有様が昨今増えていますので、今大きくなりつつある偽り者について警告しておきます。それは、The Last Reformation(以下、略してTLRと呼ぶ)という団体です。デンマーク出身のトーベン・ソンダーガード(Torben Sondergaard)氏を中心として活動し、彼らはYouTubeで動画をいくつか出しており、彼の信者は世界を股にかけて拡大しており、彼らの偽りを見抜けないで癒しの目に見える業に騙されて、彼らのとりこになっている日本人も若干ではありますが増えてきましたので、今回私が彼らの偽りについて暴いていきます。

 

まずは、彼らが見境なしに路上で人を捕まえては癒しを無理にやろうとしている点です。この行為は極めて反聖書的です。主イエスが宣教命令を出したので伝道活動をすることは問題ないのですが、彼らはその場では伝道活動をせずに癒しをやろうとします。この行いは反聖書的であり、非常に問題のある行動です。人々が自発的に求めてもいないのに、彼らは自分たちの方から相手の興味や注意を引くために癒しをやろうとします。どこか体に痛い所はないか、不調な所はないかと見境なく尋ね回っています。相手が主イエスを信じているかどうかお構いなしなのです。これはカルト宗教団体の勧誘方法に似ています。癒しという利益を餌にして相手に興味と好意を持たせて、自分たちの所に引っ張り込むという手口だからです。別に癒しに限定することではなく、人間が興味を示しそうな餌で釣るというのが狡猾な悪魔のやり方です。しかし、聖書ではそのような方法で伝道をするようには書かれていません。一世紀にローマ等の西洋人の異教徒に対する伝道に従事したパウロが人を癒す時は、以下のようにしていました。

 

新約聖書 使徒言行録 14章9節(私訳)

この人が、パウロが話すのを聞いていた。パウロはしっかりと彼を見つめ、癒される信仰があるのを認めたので、

 

このように、パウロは手当たり次第に通りすがりの人を捕まえて癒すことをしませんでした。まず福音伝道をして、それを聞いて信じた人の中で癒されるのに相応しい信仰があるのを認めてから癒すという順序です。それもただ信じると口先だけではなく、必ず相手にそれ相応の信仰があるかを見極めていました。そうでなければ上記聖句のような書き方になりません。主イエス御自身も福音宣教をして回っておられ、福音を聞いて信じた人を癒されていました。使徒言行録5:16のように、多くの人々が癒されたこともありましたが、これは人々の方から使徒たちの許に来たのであり、TLRの人たちの行動とは逆です。そして、多くの場合、相手の信仰を見極めずにしていた時もあり、それはただ憐れみによるのであり、癒された人たちは肉の癒しだけで満足して終わっただけであり、霊的に救われたという記述はありません。そのように群衆を構成していた人々で福音を聞いて信じてもいない場合は霊的に救われることは有り得ません。原則は、相手に信仰があることが欠かせません。主イエスは不信仰の者相手には奇跡を起こされなかったと聖書に記述が明確にあるからです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 13章58節(私訳)

人々が不信仰の故にそこではあまり多くの奇跡をなさらなかった。

 

上記聖句のとおり、ナザレでは主イエスを幼少の頃から知っていた人々は、主イエスをただの大工の息子としか認識せず、主イエスが神の子キリストであるとは信じようとしなかった不信仰の故に、主イエスは奇跡をあまり多くなされなかったとあります。トーベン氏はマルコ6:5を引用し、主イエスはナザレでも癒しはできたと言ったりラザロを生き返らせたのも本人は死んでいたから信仰は関係無い等と言い、奇跡と癒しが起こるかはその行為をする側の信仰次第であり受ける側の大衆に信仰があるかは関係無いと断言しています。しかし、これは間違った教えです。彼の理屈では、主イエスがナザレで癒し以外の奇跡ができなかったことで、主イエスを不信仰の者、または信仰の薄い者扱いしてバカにしています。トーベン氏は彼自身の理論で主イエスを間接的に冒涜していることに気付いていません。癒しは、悪霊の追い出しや死人を生き返らせるといった奇跡とは違う類のものです。不信仰の者を相手に奇跡をしても真心から主イエスを信じる訳ではないので無意味であるため、奇跡を行うことができないのです。大衆の興味は福音にあるのではなく、目に見える不思議な業や奇跡だけにあるからです。異教徒、不信仰の者、にわか信者らは、ただ興味本位で野次馬のように見に来たり、今の時代なら、多くの人々がスマホで写真や動画を撮ったりしてネット上に掲載し、多くの人々から注目されたり、称賛されたいと思うようになるでしょう。主なる神は、そのような人たちのためにこれ見よがしに見せるために奇跡をなさいません。無意味だからです。たとえ一部の人たちが主イエスの御名を使って奇跡や癒しをしても関係ありません。そのことだけをもって本物とは断定できないからです。マルコ9:38~40にあるとおり、ヨハネをはじめとする主イエスの本物の弟子たちに従わないが、主イエスの御名を使って悪霊を追い出す等の業を行う者は当時から今に至るまで存在しますし、大した信仰も無い人がクリスチャンを自称して主イエスの御名を使って癒しを行う者も大勢います。そして、わざわざその行いをやめさせる必要もないということです。そのことで一応主イエス・キリストの御名は広まるからであり、必ずしも全員に真心から信じてもらう必要性はないからです。滅びる者はどうしても滅びるからです。聖書が教えるキリストの贖いによる救いに至る道は、万人救済ではないのは周知の事実であり、ほとんど見出す者がいない程に狭い門なのであり狭い道です。世の自称クリスチャンのほとんどが招かれただけで選ばれていないので、広い門から入って広い道を歩きますが、それで十分なのです。主イエスの御言葉が実現するからです。勘違いして欲しくないのは、私は彼らのような人たちが主イエスの御名を使って癒し、悪霊の追い出し等の奇跡をする者にその行為をやめるように言っているのではなく、あなたがたに彼らを止めるように言っているのでもありません。ただ、彼らが癒しや奇跡をするからといってそれが真のクリスチャンであるかの証拠にはならないし、真理に立つ者でもないし、聖霊を受けている人でもないということを伝えたいだけです。以下の聖句は、過去に何度も引用しました。しかし、未だに軽視している自称クリスチャンが多いです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

上記が主イエスの御言葉です。神の御心を行わず、預言、悪霊追い出し、癒し等の奇跡ばかりを追い求め、不法を行う自称キリスト者の何と多いことか。これも何度も言ったことですが、不法とは神の律法に違反することです。信仰に入る前とほとんど変わらない生活を送り、創造の秩序、神の律法、掟、戒めを守らずに好き放題して、聖書を曲解し、主イエスの御名を使って目に見える業ができるようになったことだけをもって主イエスはそのような人たちを認めることはありませんし、全然知らないとまで仰っています。つまり、預言、悪霊追い出し、癒し等の奇跡をしたからといって真のキリスト者ではないということを主イエスは宣言されておられます。過去記事「預言者と偽預言者の違い」で説明したとおり、来るべきエリヤであり預言者以上の者と主イエスがお認めになった洗礼者ヨハネは何のしるしも行いませんでした(ヨハネ10:41参照)。だから、癒し等の行いができなければ偽り者と断じるのは誤りであり、それらができないからといって落ち込む必要性もないのです。むしろ、神の律法、掟、戒めと主イエスの信仰を守り最期まで忍耐することこそが重要なのであり、その行いをする者が真のキリスト者なのです。これは黙示録14:12でも書かれている内容であり、これこそが真のキリスト者が死守すべきことです。黙示録には癒しや奇跡をすることが必要なんて一切書かれていません。奇跡をするのは、獣、偽預言者、悪霊といったサタン側がほとんどであり、神の側についているのは二人の証人くらいのものです。はっきり言っておきますが、悪魔でもしるしや不思議な業はできますし、人の健康にも関与できるのです。目と心に覆いがかかった盲目の自称キリスト者たちよ、いい加減に目を覚まし、騙されていることに気付きなさい。TLRの行いと教えは聖書に反しており、不信仰の者を癒しで釣り、偽りの福音で信者を洗脳し、とにかく外に出て通りすがりの人々に声をかけて絡み、癒しができるできないの当たり外れのある博打を繰り返し、引っかかった者を仲間に引き入れ、組織の拡大を目指して活動範囲を広げています。このような行いをする者たちは立派なカルト宗教信者です。これは主イエスが示された狭い門ではなく、広い門であり陰府の門です。終末にはどのようなことが起こるか聖書を読んだことがないのですか。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章11節(私訳)

偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章24節(私訳)

偽キリストや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

 

現在、偽預言者や偽教師が世界中で増えています。偽り者は実で見分ければすぐに分かりますし、何より創造の秩序、神の律法、掟、戒めに従っていないのですぐに分かります。だから、病気や痛みの癒し、普通では考えられない不思議な業といった奇跡の類に惑わされてはいけません。それはサタンでもできることだからです。主イエスが「できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする」と警告されており、神の民でさえもそういう行いに心を奪われそうになるのです。しかし、真のクリスチャンであれば、完全に心を奪われて脱落することはないです。なぜなら、選ばれた人たちは主イエスに救われるからです。成長過程でちょっと道を逸れそうになったということは往々にしてありますが、一線を超えません。サタンは常に人間をふるいにかけ、選ばれないにわかクリスチャンたちを落とし、一人でも多くの人間を滅びに導こうと必死です。人間は生まれつき罪に対して弱い性質を持っている上、悪魔の力や誘惑も強いです。だから、主イエス・キリストの御言葉を守り、その通りに従わなければ必ず脱落していきます。頑固な不信仰の者と異教徒ははじめから選ばれておらず、以下のとおり、その拒絶行為が既に裁きになっているとヨハネも伝えています。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章19節(私訳)

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を愛した。これが有罪宣告である。

 

約二千年前に本物の光である主イエスが世の人々を救うために地上に来られましたが、多くの人々は自分たちの行いが悪く、改める気も無いので主イエスを信じず、聖書福音を信じず、主イエスを拒否します。過去にファリサイ派らが人間のしきたりや言い伝えを守って、人間が勝手に付け加えた戒めや規則を他人に守らせ、神の掟を無にしていました。これは現代で言えば、ユダヤ教徒、地上のキリスト教を看板に掲げる諸教会や諸教派、その他カルト宗教団体らが当てはまり、彼ら彼女らも神の掟を無にしています。彼ら彼女らはまったく聖書に忠実ではありません。彼ら彼女ら自身は「聖書に忠実だ、主イエスに忠実だ、初代教会と同じことをしている」等と言い張るでしょうが、その行いや言葉から分かるように、まったく忠実ではありません。だから、頑固な不信仰の者、異教徒であり続ける人、間違った教義を信じるにわかクリスチャンに対し、聖書の真理や主イエスの真実について話をしても良い反応が無い場合、耳を傾ける素振りもない場合は無理して伝道する必要はありません。大切なのは、相手を信仰に無理やり引き込むことではなく、周知することだけです。もっと気楽であるべきです。もっと話を聞かせて欲しい、教えて欲しい等と相手から自発的に積極的になる場合は熱心に教えるべきです。私は実際そのような姿勢です。真のクリスチャンならば、出会った人すべてを必ず回心させねばならないなんて思っていません。実際、主イエス御自身の宣教によっても、多くの大衆はただ奇跡や癒しを期待するだけで不信仰のままか信仰が薄いままでしたし、祭司長ら、ファリサイ派、律法学者、サドカイ派らは主イエスの福音を受け入れようとしませんでした。彼らを回心させられなかったことは、主イエスが力不足だったり信仰が薄いということになるのでしょうか。決してそうではありません。私が過去に何度も宣べ伝えたように、滅びる者が多数ということは定まっており、救われる人はごくわずかだからです。だから、あなたがたが伝道活動をしても回心させねばならないという無駄な気負いは無用です。聞き入れない相手が多数だということを最初から知っていれば、気が楽になるでしょう。相手が聞き入れない場合、主イエスが仰ったとおり、「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」(マタイ10:14)という対応をすれば済むことだからです。使徒言行録13:51にもこれと同じ記載があり、パウロとバルナバが迫害され、足の塵を払い落として別の町に行きました。決してしつこいセールスマンのように粘着したり、癒しやその他の不思議な業をもって人々を惹きつけようとしてはいけません。そういうことをする者は皆、偽り者です。

 

にわかクリスチャンたちは、主イエスの弟子ならば、預言、悪霊の追い出し、癒し、異言等ができるし、それらを行使しなければいけないと思い込んでおり、それらだけに注目し、肝心の聖書福音と神の律法、掟、戒めには目を向けません。彼ら彼女らは聖書よりもそういう目に見えるしるしばかりに心を奪われています。このことは過去記事「今は邪な時代」でも言及し、重要なことを述べたので読み返してください。私は悪霊の追い出しや癒し等の行いをするなと言っているのではなく、それらだけに着目し、それらができないなら本物ではないと裁く行為が間違っているし、神の律法、掟、戒めを守ることを軽視することが致命的に悪いと申しているのです。聖霊の賜物もいくらか種類があると聖書にあるとおりです。上述で引用した聖句のとおりで、いくら大きなしるしや不思議な業をしようとも、神の律法、掟、戒めを破る者であれば滅びます。また、癒しや奇跡の類の業は信仰に勧誘する手段でもないし、真のクリスチャンとしての証しでもないのです。それではただの利益信仰を生むだけだからです。私はこれを何回も非難してきました。しかし、世の人々は聞き入れませんし、認めようともしません。そんなものだと私は思っているので、落胆もしません。腰が痛い、足が痛い、腕が痛い等を言う人を必死に探し回って治したり、治されたからといって神の御国に入れる訳ではありません。それはこの世に属する事柄に過ぎません。肉は何の役にも立ちません。主イエスも述べられました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 6章63節

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 

上記のとおり、霊の言葉を疎かにして、ただ力やしるしを求める人は偽りの霊に支配されています。神の御言葉こそ悪魔に対抗できる力ある霊の剣なのであり、命に繋がるものなのです。今ある肉体は滅びゆくものであり、何の役にも立たないと主イエスも仰っています。TLRのトーベン氏は肉の癒しに重点を置いており、主イエスの御業を聖書の一部からいくつか抜粋して肉の癒しをしなければならないと義務のように言っています。これは主イエスのなされたことの主たる目的とはかけ離れた考えです。主イエスが人々を癒したのは、肉もありますが、むしろ重要なのは肉ではなく心を癒した点です。当時、病気の人、障害を持った人、貧困生活を強いられた人、徴税人や遊女等の職業の故に罪人と決めつけられて権力者や中流階級以上の大衆から蔑まれ、愛されるという感覚が分からず、愛を感じていない故に心に深い悲しみや苦しみを負っていた人々の心を主イエスが福音を知らせたことで癒したのです。肉の癒しは副次的であり、それが主たる目的ではないのです。いずれ滅びる肉だけ癒されてそれが何の得になるのか。滅びゆく品性を持ってわずかでも延命したり、肉体的に健康になって相変わらず神の律法、掟、戒めを無視した放縦な生活をして罪を重ねて何の得になろうか。肉だけ癒されたことで満足して悔い改めないし、障害や病気を持って自由がきかなかった時の鬱憤を晴らすかのように健康になった途端に罪深いことをするようでは本末転倒です。ルカ17章に、主イエスがサマリアとガリラヤの間にある村で、十人の重い皮膚病患者を癒し、一人のサマリア人だけが神に感謝するために戻って来たが残りの九人は感謝もせずに戻ってきませんでした。世に属する人間はこの九人のような者です。この現象からも世の人々の九割以上は神を忘れて滅びることを示しているかのようです。癒しだけは他の奇跡とは異なって信仰がある無しに行われることが有り得るのであり、それだけでは救いの証拠にはならないことを聖書は示しています。だから、肉体的な癒しに固執する人は偶像礼拝者です。何の役にも立たない肉を絶対視しているからです。そういう人たちは死を恐れており、愛において完全にされていません。実際そういう人が多いのです。また、勘違いしている人が多そうなので繰り返し言っておきますが、癒すことができる、また癒されたからといって天国行きが確定したのではありません。聖書のどこにそんな約束がありますか。勿論、ありません。多くの群衆が肉的に癒されましたが、彼らが霊的に救われたかは別問題です。救いは狭き門と仰る主イエスが、群衆という烏合の衆で数多き人々をまとめて天の国に入れるとは考えられません。そして、トーベン氏はペトロ一2:24にある主イエスが鞭で受けた傷によって私たちは癒されるとイザヤ書53章を引用したのをさらに引用し、私たちの罪のためだけでなく私たちの病のためにも十字架で死なれ、それ故に主イエスは病人を癒して回ったと矛盾した話を自慢げに語っています。もっともらしく聞こえるこの話が矛盾していることにお気付きでしょうか。何が矛盾しているかと言えば、主イエスが病人を癒して回ったのは、主イエスが逮捕されて鞭打ちされる前のことで、時期的に前後しているからです。まだ鞭打ちを受けていないし、十字架での贖いもしていない主イエスが宣教期間内に人々を癒したのかの説明になっていませんが、彼は説明できた気になっています。そして、イザヤ書53:5には主イエスが傷つけられ、痛めつけられたのは私たち人間の律法違反と不義のためだったと書かれ、ペトロの発言の趣旨は主イエスがお受けになった苦しみによって私たちの罪や愛に飢えるといった精神的に苦しいことを癒したことであり、肉体のことを述べたのではありませんし、キリストの十字架後のことです。また、トーベン氏は働き手が少ないので十二弟子に権威を授けて癒しをさせたと言ってますが、実際は違います。ルカ9:1のとおり、その時には働き手は少ないという話は出ませんでした。その話はルカ10:2です。また、ルカ10:1のとおり、さらに七十人(七十二人は誤訳)を任命して主イエスの代わりに働き手として増員された後、働き手が少ないと主イエスは仰いました。しかし、ヨハネ6:66にあるとおり、多くの弟子たちが離れ去ったとあるとおり、一旦キリストの弟子になったからといって安心ではないのです。神がお選びにならない人は必ずどういう形であれふるい落とされます。そして、トーベン氏は福音伝道と癒しをするように主イエスは命じられたと言いますが嘘です。マルコ16:15で主イエスが命じられたのは福音伝道のみであり、癒しをしなさいという命令はありません。ただ信仰者に伴うしるしの一つとして手を置けば癒せるというものです。癒しはしるしの一つに過ぎず、それが永遠の命に繋がるのではありませし、義務のように行使が強制されているのでもありません。ですから、癒しの行為は必須ではないのでそれに拘る必要はないのです。それなのに彼は勘違いし、癒しが主イエスの御命令であると嘘をついています。仮に癒しも福音伝道と同じ扱いで必須ならはっきりと書かれたでしょうし、様々ある聖霊の賜物の一つにならないでしょう。パウロは人によって与えられる賜物が異なると教えています。過去記事「聖霊の賜物について」を読み返してください。コリント一12:28に明確に、癒しは賜物の一つと書かれています。さらに聖霊の賜物のうち、癒しの賜物を持つ人の位置付けは五番目と低い位置にあります。癒しが賜物でないなら、パウロは嘘つきということになります。癒しは神による業とサタンによる業、どちらでも有り得るのでそれだけでは判断材料にはなりません。聖霊の賜物によって癒しではない場合は、サタンの業ということになります。肉の癒しは神の業に見せかけて人を欺くのに簡単なものなのでサタンはこれを頻繁に利用します。実際そうであり、多くの偽りの福音を信じて吹聴するにわかクリスチャンたちが癒しを売りにして目立とうとし、現実に成功しています。このようにトーベン氏の言うことは明確に聖書に反しています。彼のように、聖書を引用してもっともらしく見せかける嘘に騙されないようにしてください。聖書を熟知していない人は誰でも簡単に騙されます。彼のように肉の癒しに関わることに熱心になるよりも、むしろ霊に関わる神の御言葉が書かれた聖書、主イエスの御言葉をもっと必死になって学び、信じ、従い、そうするようにと周囲の人々に伝道することこそが重要なのです。そして、手を置くことも特に重要ではありません。直接手を触れないと聖霊が降って来ないと言いふらす人が一部でいるので用心してください。以下の現象からそれが否定できます。

 

新約聖書 使徒言行録 10章44節(私訳)

ペトロがこれらの言葉をなおも話し続けていると、その言葉を聞いた者全員に聖霊が降った。

 

手を置いた時に聖霊が降った例もありますが、上記のとおり、聖霊を受けるのに手を置く必要性は必ずしもないことが明らかです。聖霊をお与えになるのは神であり、神が送りたいとお思いになる人にだけ与え、その時期も神の裁量によるので様々であり、水の洗礼時に聖霊が来ると決めつけるのも、手を置かないと聖霊が来ないと決めつけるのも誤りです。神にできないことは何も無いのですから。勘違いしないで欲しいのは、私は手を置くことを禁じているのではなく、焦って他人に手を置く必要はないし、手を置くことが必須でもないということです。そんなことよりも、真の聖書福音を伝え、その福音を真心から信じることの方が重要なのです。信じると言うからには行いが伴わねばならず、行いが伴わずに口先だけで信じると言う者は皆、偽り者です。また、誰にでも安易に手を置くことは差し控えるようにパウロは注意しています。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 5章22節

性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。

 

TLRのトーベン氏をはじめ、多くの者が相手を見極めることなく性急に手を置いて癒しをしようとし、時に失敗し、成功した例を切り取って、これ見よがしに動画に収めて編集して本物に見せかけています。何度も失敗している時点で既に偽り者であることを示しています。こんな反聖書的な行いに騙されていてはいけません。また、彼らだけでなく、私が大バビロンと述べたバチカンを本拠地とするカトリックと繋がることを推進するトッド・ホワイト氏も多くの人を惑わし、TLRと同じく癒しを売りにして外国に飛び回って活動しています。トーベン氏とトッド氏の癒し方を見ていると同じことをし、共通点があることが分かります。TLRのトーベン氏と似た者であるトッド・ホワイト氏は、聖書を人に読むことを推奨せず、彼の言うことを聞くように吹聴して回っています。両者ともこれ見よがしに動画撮影をし、失敗例も多く、成功したとしても痛みが消えるのも一度で完治することはなかったり、何回も呪文のように唱えてくどくどと繰り返してやっとという癒し方です。これは相手に暗示をかける一種の催眠術や魔術の類です。なお、主イエスや弟子たちはそんな癒し方ではなく、一発で全快でしたし、主イエスは直接触るまでもなくマタイ8章の百人隊長の部下の例からも分かるとおり御言葉を発するだけで癒すこともおできになりました。それだけで差は歴然としています。現代において癒しや悪霊の追い出し等は、偽り者がする行いに悪用される典型的な業になっているので注意が必要です。それだけ、目に見えることに騙される人が世に多いということです。本物の見分け方や正しい在り方については私が既に述べたとおりです。ただ聖書の真理があなたを救います。焦らないでください。TLRのトーベン氏がローマカトリックが危険と過去に言ったことはありますがアメリカのテレビ番組に出演したことからも裏では権力者と繋がりがあるでしょうし、トッド・ホワイト氏とやっている行いは一緒なので、口先だけでは何とでも言えるといったところです。結局、行いがすべてを示しているのです。彼らは人々を真理から逸らすために遣わされた偽教師なのです。真理から逸らしさえすればサタンの働きは成功なので、過程は何でもいいのです。サタンも残された時が少ないので、必死に色々な手法で騙し、ふるいにかけます。私は常に聖書の真理に立って話をしており、それを抜きにして自分勝手に話をしたことはありません。私だけが正しいなんて言ったこともありません。私の言ったことを聖書と比較して入念に調べるようにも言いました。私が宣べ伝えたことで聖書と明確に反することがあったでしょうか。未だにそのような正当な批判を受けたことはありません。あるのは、ただ根拠の無い誹謗中傷や敵意や悪意からくる醜い悪口のみです。そんな人たちの言うことは歯牙にもかけません。哀れなことに彼ら彼女らは自らを死に定めています。一世紀当時の祭司長やファリサイ派らは、主イエスに敵意を抱いて悪口を言い、言葉尻を捉えようと質問したり、しるしを求めて試そうとしたり、挙句は殺そうと企み、実行しました。真の聖書福音を信じない人たちも同じ行いをしているので、彼らと同じ運命になるでしょう。そして、現代でも正しい者が主イエスの御名のために人々から嫌われて不当に迫害される一方、偽り者はもてはやされ、大勢の人が集まるようになり、人気者になります。パウロが述べたとおりです。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 4章3~4節(私訳)

人々が健全な教えに耐えられない時が来るからです。それどころか、人々は自分たちの欲望にしたがって欲望を満たす教師たちを寄せ集めます。彼らは真理から耳を背け、作り話の方に逸れて行きます。

 

大衆は健全な言葉による教えに耐えられずに拒み、肉の欲を満たす耳触りの良いことを言う偽教師らに耳を傾けようと偽教師らに頼ったり、持ち上げたりします。あなたがたのほとんどはこれに当てはまっています。どんなに話し上手、聞き上手、カリスマ性のある人であっても心を奪われることなく、聖書の一部抜粋による間違った理解ではなく、聖書の真理と比較して検証し、正しいかどうかを見極める必要があります。それができない、またはそれをせずに簡単に世俗的な利益、肉的な利益のために騙されることがないようにするべきです。TLRのトーベン氏やトッド・ホワイト氏らがやる業を実際に受けるか見聞きして、あなたがたが持つ感情や感覚なんていうのは重要ではありません。サタンはいくらでも人間の肉体や意識に関与でき、いい気分にさせることもできます。ヨブ記を思い出しなさい。サタンはヨブに手を下し、皮膚病に罹らせたり、全財産を奪ったり、周りの人をも操作できるのです。ただ何とかできないのはヨブの命のみでした。それだけは主なる神がサタンに奪うことを許可しなかったからです。サタンは主なる神の許可さえあれば、ほとんどのことできる程の力を持っていることの証拠です。悪魔を侮らないようにしなさい。主イエスに固く結ばれていないようでは悪魔に必ず負けます。悪魔に負けていないとあなた自身で思い込むのは勝手ですが、聖書の真理を知らない人や信じようとしない人は既に悪魔に負けています。たとえ主イエスを信仰する弟子だと自負していても、主イエスの御名によって癒し、または奇跡をしても平素の生活で神の律法を無視し、違反して不法を繰り返す者は、悔い改めていないので神の目に正しい者とされず、後で外に追い出されて泣きわめいて歯ぎしりするだけなのです。この事実に早く気が付きましょう。

 

(後編に続く)