こんにちは。

 

今回は、今は邪な時代であることについて書きます。

 

主イエス・キリストは、約二千年前に地上に来られて、三十歳を過ぎてから洗礼をし、宣教を開始されました。三十年弱の世俗での生活を通してのご経験を踏まえ、その三年半の宣教活動の間に当時の偽善者であったファリサイ派、サドカイ派、律法学者、祭司長らのユダヤ教徒たちと激しく対立されました。同じ聖書を読んで同じ神を信仰する者同士なのにです。聖書を読んだことがない人は、一体何故かと思われるのではないでしょうか。当時のユダヤ教徒らは旧約聖書に書かれたモーセの律法を守ることによって、自らの義を打ち立てて尊大に振る舞い、貧しい人、病人、徴税人、遊女たちを罪人と見下していました。しかし、ユダヤ教徒の信仰は主なる神に対する愛が欠けており、外形だけに拘り、内面を疎かにしていました。彼らは、外部から人の目に見える行いや人間が作った伝統、慣習を大事にしていました。食べる前に手を洗わないと汚れる、罪人と一緒にいると汚れるから一緒に食事をしてはいけない等といった人間が勝手に作った言い伝えにも拘っていました。クリスチャンの間ではファリサイ派のユダヤ教徒は悪の代名詞かのように考えられており、その本質は彼らの内心が問題であり、実際はお金や権力等に執着して、外形的に神に仕えることを装って立派に見せかけ、その実は罪の奴隷であって、彼らは神の律法、掟、戒めを守っていなかったからです。彼らは自分たちの正しさを見せびらかし、律法に従っていると自負し、モーセの弟子とまで言っていました。しかし、世の光である主イエスが地上に来られ、宣教を開始され、彼らの闇を照らし、彼らの本性を暴き出しました。彼らの律法解釈の間違いが指摘され、彼らが律法を正しく理解せず勘違いしており、むしろ律法を破っていると主イエスに指摘され、彼らの心の中の動機や悪しき企みまで読まれ、論破され、罪に定められました。彼らの敬虔の仮面は剥がれ落ち、面目を失いました。それ故、ファリサイ派の人たちは主イエスに対して敵意をむき出しにしました。そして、彼らは主イエスを殺そうと企み、主イエスの働きは悪魔の頭を使って悪霊を追い出していると誹謗中傷をしました。これらはマタイによる福音書12章に書かれています。

 

過去のユダヤ教徒らだけの問題ではありません。今、私たちが生きている時代も形を少し変えただけで本質は同じであり、今も同じように邪な時代なのです。主イエスを信じると公言する人々であっても、ほとんどのクリスチャンらは自分自身の罪と向き合うことをしません。それから逃げるために主イエスを信仰し、助けや救いを求めています。はっきり言って、主イエスの説かれたことはそういうことではありません。表向きはクリスチャンを装い、悔い改めることなく、罪を犯し続け、そのくせに偉そうに物を言い、自分が正しいとか義人だとか携挙される等と言って憚らない人がなんと多いことか。それが私が「にわかクリスチャン」と呼んでいる人たちです。私には彼ら彼女らの欺瞞が透けて見えます。口先だけで行いが伴わない偽り者です。一世紀当時のファリサイ派にも劣る人たちです。彼ら彼女らは真理を知らない人からは長い間その本性を隠すことに成功するでしょうが、私にはそんなことは通用しません。勿論、神にはもっと明確に知られており、彼ら彼女らが思うままに好き放題にさせておかれるのです。それは真理を愛そうとしなかったからで、闇の中にいることを好んだからです。ファリサイ派も闇の中にいたので、主イエスという光の方に来ようとしませんでした。「主イエスを信じていると言っているから光にいるんじゃないの」と思われるかもしれません。そうやって表向きばかりを見ているから本質が分からないのです。にわかクリスチャンは、聖書を少しばかり読みかじって真理を知った気になっているだけで、実はまったく分かっていません。彼ら彼女らは、クリスチャンという肩書きを自称し、義人の体裁を保ち、神の前に正しいと言うでしょう。しかし、実際はその心は神から遠く離れています。それが彼ら彼女ら自身では分からないのです。にわかクリスチャンは、神に対してへりくだらず、自我を否定せず、悔い改めようという意志が無いので行いで示さないし、初めに生まれた時のままで受け入れてくれるようにキリストに要求しています。主イエスは目に見える堕落を致命的な問題にしているのではありません。問題なのは、主イエスが聖書を通して教えを説いても聖書の読者が罪を悔い改めず、それどころかクリスチャンと自称することで義人を装い、信仰に入る前の生活様式や行いを変えようとしないことです。だから、主イエスは一世紀当時も今の時代も、「邪な時代」と呼ぶのです。

 

聖書では「姦淫」という言葉が頻繁に出てきます。これは文字通りの男女間の不倫のことです。それともう一つ意味があり、主なる神以外を拝むことや心を奪われることをも指します。聖書で主イエスが花婿、神の民が花嫁で、キリストが再臨する時にその花嫁たる神の民を迎えに来ると記述があります。花嫁と聞くと女性を想像するかもしれませんが、「例え」なのであって、女性を意味しているのではありません。聖書では、主イエスへの信仰を結婚の契約関係に例えられています。つまり、夫が主なる神、妻がクリスチャンです。この場合で姦淫というのは、形式上は信仰に入ることで入籍していて、人前では妻(クリスチャン)と自称してそれらしく振る舞って、主人と呼んだり敬うが、その心は夫になく、他のものに目移りにし、夫を愛していない生活を送っているということです。だから主イエスは、大衆やユダヤ教徒らの外見ばかりで神を愛していない心と行いを見抜いて、姦淫という言葉を用いられました。にわかクリスチャンが主イエスの御名を口にしながら、心を別のものに寄せ、罪を楽しむ生活をしているのがまさに姦淫状態です。

 

マタイ12:38~45で言われている邪な時代の特徴の一つとして、「しるしを欲しがる」というのが挙げられます。これは今の時代でも同じことが起きています。はっきり言って、これは主イエスへの不信です。律法学者やファリサイ派の人々は主イエスにしるしを見せるように要求しましたが、主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ12:39)と仰って、拒否されました。その後の聖句でヨナに関する話が続き、これは主イエスの十字架刑、葬り、復活を三日三晩かけて行われたしるしのことを指します。これ以外のしるしは与えられないと主イエスは仰いました。彼らは、主イエスを悪魔の頭使いと呼んだり、神を冒涜している等と誹謗中傷しておきながら、「先生」と呼んで表面上は謙遜と丁寧さを取り繕い、周りの大衆を意識して偽善の言葉を言いました。彼らは主イエスへの敵意を上手く包み隠しつつ、主イエスを追い詰めようとしていました。今のにわかクリスチャンも同じようです。表面上は丁寧な言葉遣いを心掛けてはいるが、その心は汚く、敵意や反抗から試すような質問や問いかけをする者のことです。まさにファリサイ派がやったことと同じ行いです。そのことに気付かないのは本人たちだけです。今の邪な時代に生きるにわかクリスチャンたちも同じように真のクリスチャンに対してしるしを求めるでしょう。真のクリスチャンならば、言葉だけでなく、力を見せろと言うでしょう。このような言動をする者は明らかにファリサイ派と同種の人間です。ファリサイ派の人々らは主イエスに敵対し、試そうとしたり、言葉尻を捉えようと質問を投げかけたりしました。しかし、主イエスは彼らの煽りに乗りませんでした。主イエスは全知全能の神でありながら、それをされませんでした。やろうと思えばいくらでもできたのにです。主イエスが逮捕される場面で、「お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:53)と主イエスが語っておられるとおり、できるけれども敢えてされないのです。なぜなら、邪な心を持つ人間の要求に答えることが神の御心ではないからです。十字架刑の時、祭司長、長老、律法学者らは今すぐ十字架から降りて自分自身を救ってみろ等と主イエスを侮辱すると同時にしるしを求め、また、主イエスが神の子であることを試すような発言をしました。しかし、主イエスは聖書預言を実現するために沈黙を保たれ、ひたすら神の御心を行い、神の民の救いの計画を達成することだけをお考えになっていました。主イエスは予め弟子たちに告げられたとおり、罪人の手に渡され、苦しみを受け、殺され、葬られ、復活されました。このことによってヨナの出来事はこのことの予型であったことが分かります。これをファリサイ派の人々らは理解しませんでした。彼らは事前に主イエスから言われていたのに心が頑ななのでこのしるしを信じず、復活を人々に知られてはまずいと思い、ピラトに墓に番兵を置くように依頼し、それが無駄な抵抗だったと知ると兵士たちにお金を渡して弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行ったとユダヤ人の大衆に言い広めさせました。

 

邪な時代の特徴の二つ目は、中途半端な信仰で終わることです。過去記事「生温い信仰への警告」で既に述べたように、今の時代はラオディキア教会の状態だからです。主イエス・キリストに対して興味を示し、キリストの御言葉と御業に驚き、教えの内容にも耳を傾けて納得する人々でクリスチャンとされている人の大部分が中途半端な信仰をしています。なぜなら、それは一時的なことで終わるからです。私が「にわか」と呼ぶのも、一時的という意味で言っているのです。一世紀当時の大衆の多くがそうであったように、今の時代も同じようになります。クリスチャンや主イエスの弟子と自称する人々の多くは、神の掟を守る主イエスの信仰が無いので間違っています。口先だけで行いが伴わず、根本的な悔い改めができず、心が定まらず、言葉の力を信じず、目に見えるしるしに傾き、そうやって彷徨っている内に艱難が襲って、結局は主イエスから離れて前よりも悪い状態となってしまう者たちが多く出るでしょう。悪霊の追い出しにしても、マタイ12:43~45のとおり、綺麗に掃除されても後で悪霊が戻って来て、自分よりも悪い悪霊を引き連れてやってくるので前よりも悪くなるのです。そして、主イエスは「この悪い時代の者たちもそのようになろう」(マタイ12:45)と仰っています。悪霊の追い出し、癒し、異言、奇跡をやるなと言っているのではありませんが、それらをやったからといって何になるのですか。過去記事「預言者と偽預言者の違い」で説明したとおり、「預言者以上の者」、「現れるはずのエリヤ」と主イエスから評価された洗礼者ヨハネは何のしるしも行わず、悔い改めの水による洗礼と説教をし、権力者の律法違反をとがめたり、神の義を大胆に掲げて主イエスの宣教活動をなさる前に道をまっすぐにしていただけです。しるしや力を見ないと信じないという人は洗礼者ヨハネをエリヤの働きをした人と認めることができない人です。そのような人は、今では新約聖書でそう書かれたから知っているに過ぎず、実で見分けることができません。確かに、主イエスが昇天される前に十一人の弟子達に言い残したことの中に、癒し、悪霊の追い出し等をするように書かれていますが、それは神の御業が現れて神の栄光を少しだけ現すためであり、癒された人、悪霊を追い出された人の救いを保証するものではありませんし、その行為をした人も救われるとは限りません。この点を勘違いしている人が多いです。一時的に解放されたに過ぎない人がほとんどであり、最期まで主イエスに従順な信仰を持った人は少ないです。何度も過去に引用した以下の主イエスの御言葉を忘れてはなりません。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

しるしを行う人だからといっても主イエスから全然知らないと言われることもあります。また、上述したように、たとえ悪霊を追い出したとしても、後で悪霊が戻ることがあります。結局はその人自身の信仰次第なのです。悔い改めが中途半端、主イエスへ信仰が中途半端であるとそのように悪くなるでしょう。そして、棄教という分かり易い例だけでなく、本人たちにその自覚は無いままに虚しく「主よ、主よ」と言いながら、中途半端で自己満足の信仰生活を送っていく場合もあります。前回記事「本物の愛」で述べたとおり、世の人々に臨む永遠の運命を決定する試練が来た時、ダニエル書三章のような試練、または別の掟で試練が来た時、中途半端な信仰者らは不信仰の者、異教徒らと同じ道を選ぶことになります。そして、本人たちは間違った道を選んだことに気付きません。時機を逸すると、たとえ後で気付いても手遅れです。「あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。」(ヘブライ12:17)のとおりです。人間の体は聖霊が住む所にすべき所ですが、悪霊の住処にしている人が多いです。心と体を主の霊である聖霊に支配させるのか、サタンの悪霊に支配させるのかのどちらかです。どっちつかずというのは有り得ません。キリストに固く結ばれていない人は、悪霊に支配されることになります。そして、悪霊を追い出しても、その追い出された本人がキリストに結びつかなければまた悪霊に支配されるだけなので無意味なのです。パウロたちは信仰がその人自身にあるかどうかを見極めてからやっていました。誰でもいいから手当たり次第に洗礼、奇跡、癒し等をするのではありませんでした。「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」(使徒言行録14:9)とあるとおりです。本人に相応しい信仰が無ければ、神の力は働かないからです。主イエスも誰でも相手に奇跡をなさったのではありません。マルコ6:5のとおり、故郷のナザレでは主イエスを幼い子供の頃から知っている人が多く、それ故に不信仰であり、ほとんど奇跡がおできにならなかったとあるとおりです。ですから、外に出ていって、誰でも適当に道ゆく人を捕まえて癒しをする等といった演技等に惑わされてはなりません。奇跡等の力を見ないと信じないと言う人は不信仰の者で、そのような行いをする人に傾倒する人は信仰の薄い者ですから放っておきなさい。

パウロは「“霊”の火を消してはいけません。」(テサロニケ一5:19)と述べており、逆に言えば、聖霊は消える可能性があると言えます。そうでなければこのような言い方はしないはずだからです。主イエスの御言葉どおり、十二弟子たちやパウロのようにすべてを捨ててでも主イエスに従う生活をしなければ聖霊はあなたから離れて消えてしまいます。一旦主イエスを信じれば、永遠にその人の中に聖霊が住みつくと都合良く信じている者が多いですが、実際はそうではありません。クリスチャンだからといって皆が聖霊を受けるのではないからです。自分の心をよく点検しなさい。本当に主イエスのことを第一に考えているでしょうか。主イエスのことを考えていると言いながら、二心あって地上の富、お金、地位、権力、快楽、奇跡、異言、悪霊との交わり(本人は聖霊との交わりと勘違い)等といったことに関心を向けているのではないですか。主イエスに最期まで従うと決心した時に悔い改めの洗礼をすべきです。心が真に定まっているならば、先延ばしにする意味はありません。神はそのような真摯な信仰者をお見捨てにはなりません。人間にはできないことを神はなさいます。反対に、生半可な気持ちや不純な動機を持った状態で洗礼をする者には惑わしの力を送られます。神の前にその者の心が正しくないことをご存知だからです。実際、このような生半可な気持ちでいる者がほとんどです。携挙にあずかりたい、死にたくない、地上の生活で成功したい、奇跡等を行って人々の注目を集めたい等と思うだけで、神の律法、掟、戒めを守る気持ちもなく、神への愛もなく、邪な心が隠れていると聖霊を受けるのは無理です。神は心の中を読んでご判断されます。人間が口先だけで主イエスを信じる、聖霊をくださいと言ったところで、その者の心が悪ければ、神は絶対に聖霊を与えることはありません。この世にしがみつく生き方、罪に溢れた信仰に入る前の生活から決別する心が定まらない人には無理です。パウロも「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリント二12:10)と述べています。真のクリスチャンは、この世では弱い者になります。なぜなら、財産を持たず、窮乏になり、信仰の故に少数派になるので多数派の他者から侮辱されたり、迫害されるからです。私も信仰故に神の律法、掟、戒めを守る生活をし、それ故に人々から嘲笑や侮蔑の的になっており、変人扱いを受け、心のない言葉も多く受けました。しかし、キリストにあって私は揺るぎません。人の目や評価を気にするよりも神に従うことが正しいと信じているからです。あなたにそのような信仰があるでしょうか。この世を生きるついでに主イエスを信仰するという生温い中途半端な信仰なんて無いに等しいことを覚えておきなさい。

 

主イエスはファリサイ派のような頑な心を見抜いて、二つの事件を援用されました。一つは、ニネベの人々の悔い改めで、邪悪なニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたことです。二つ目は、地の果てからソロモンの知恵を聞きに来た南の国の女王の話で、神の知恵に満ちていると言われたソロモンにはるばる遠い所から会いに行ったことです。主イエスはヨナよりもまさり、ソロモンよりもまさった神の御子、メシアでした。しかし、彼らは主イエスを目の前にしながら、その事実を受け入れずに信じませんでした。私が過去に何度か言いましたが、実際はそんなものなのです。主イエスが見た目でいかにも神の子と思えるような風貌でもなかったからであり、実で見分けなければ分からないからです。世間では勝手にヨーロッパ人の画家や彫刻家が主イエスを勝手な間違った妄想で偶像化しており、白人、長髪、ダヴインチの最後の晩餐で描かれるような赤い衣等と間違ったイエス像を作り上げています。映画も多く作られ、それも映画製作会社がハリウッドという拠点のために出演者は皆白人ばかりとなり、人々はそれを見て主イエスやユダヤ人たちが白人と洗脳されています。聖書を読み、本当の歴史を調べて理解すればそれが有り得ない嘘であることが分かります。大衆は何も分かっていません。分かっていないのに分かっていると言い、無知なのに知者ぶります。今でこそ新約聖書が整備されて、洗礼者ヨハネが終末前に来るエリヤだとか、主イエスが救い主だと確証できます。しかし、当時は新約聖書はなかったですし、旧約聖書だけでその預言内容が本当に大工の息子であったイエスに当てはまっているかどうかを判断するのは、実で見分ける必要がありましたが、それはほとんどの人々はできず、信じる人は非常に少なかったのです。偉そうに語るにわかクリスチャンたちよ、あなたがたは当時のファリサイ派と何ら変わりがないことを認めなさい。艱難期前携挙説を唱えて携挙に備えろとか、律法はすべて廃止されたので守る必要はないとか、柔らかい言葉を話さないと真のクリスチャンではない等と勝手に自分たちの中で妄想を繰り広げて真理を愛そうとせず、神の義を蔑ろにする者たちよ、悔い改めなさい。人を表面的に判断するのもやめなさい。言葉を通じて何が要点なのか、何が一番伝えたいことなのか、むしろその内容に注目するべきです。聖書についても文字通りの解釈に拘り、文字通りに解釈すべきでない箇所をも文字通りに読んで曲解することがあるように、あなたたちの目が開かれていないから真理を悟れないのです。ファリサイ派のような人が持つ敵対心も大衆のようなこの世を生きることを一番に考える中途半端な信仰もどちらも正しくありません。真心から主イエス・キリストを信じ受け入れて欲しいです。主イエスに従う生活を人生そのものとしてください。心の中にキリストを据え置き、余計な偶像を取り除いてください。主イエスよりも大事にすることは何であれ偶像です。既にクリスチャンであっても、本当にあなたの心の支配者はキリストであるかを入念に確認して欲しい。自分中心になっていないだろうか、世俗の事柄を第一に持って来ているのではないでしょうか。主イエスに従順に従うことで、言われのないことを言われ、苦しみを受けているだろうか。周囲の人からちやほやされたり、中途半端な信仰者と戯れていい気になっていないだろうか、よく考えなさい。家族と軋轢があっただけ、思い通りの人生を送れなかったことだけをもって神からの試練等と自分に都合の良い解釈をしないようにしてください。ただの怠け者、性格に難があること等でそのようになることは往々にしてあり、何ら珍しいことではないからです。自我を否定し、自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って主イエスに従っているでしょうか。自分がしたいことをせず、世のためになることよりも神のためになることをしているでしょうか。まず自分が間違っていない、正しいと思い込むことをやめなさい。それは高慢だからです。このように戒められたくない、耳の痛いことを言う人から逃げようとしないでください。そのような人から嫌われることも厭わず、真理を言う人を大事にすべきです。逃げるのは簡単です。しかし、逃げた先で何があるでしょうか。ぬるま湯に浸かって安心するだけでしょうが、そのぬるま湯は後で燃え盛る炉になるでしょう。今はぬるま湯で気持ち良いでしょう。しかし、そんな生活を続けていたら、確実にそうなります。日々緊張感を持った中で信仰生活を送るべきです。自分より優れた人と一緒にいると自分の愚かさが滲み出るから居心地が良くないと思う人は多いです。人が自分より美人と一緒にいたくない心理と一緒です。その心理とは、自分が引き立てられたい、目立ちたいと思い、自分が他人の引き立て役になりたくないというものです。このように、多くの人は、自分より劣っているか同等と思う人とつるむ傾向にあります。その方が優越感や安心感に浸れるし、精神的にも楽だからです。しかし、そういう考えの人は成長せず、必ず堕落します。ファリサイ派の人々も自分たちが神に仕える義人と思い込んでいたので、彼らの信仰と行いが真理を宣教された主イエスの御言葉に相反するので、彼らは主イエスと一緒にいることを避けました。ファリサイ派だけでなく、神の掟を守っていた金持ちの青年も財産を手放すことができずに主イエスを離れ去りましたし、ヨハネによる福音書6章後半にあるように主イエスが選ばなかった弟子たちも途中までは従って来ていましたが結局は離れ去って行きました。このように、光と闇は互いに一緒にいることはできません。光は闇を照らしその本性を明らかにするからです。だから、闇は光から離れていきます。そのように真理から逃げる者たち、中途半端にちょっかいを出す者、迫害する者も闇なのです。主イエスを信じると言うだけでは信用できませんし、安易に信用してはなりません。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ2:23〜25)のとおり、主イエスはしるしを見て信じる人間を信用なさいません。すべては心次第です。聞く耳のある者は聞きなさい。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上