こんにちは。

 

今回は、聖書を通して初めて分かる本物の愛について書きます。

 

世の中の人々の多くは、本物の愛を知りません。一般に、聖書を知らない人たちが思う愛とは、人間同士の愛、例えば、親子間の愛、恋人間の愛、夫婦間の愛を想像すると思います。友人間で愛というのは少し変で、それは友情であって愛ではないし、赤の他人に対して愛は別に無くても良いのではないか、ましては敵に対して愛という思いは有り得ないと認識している人が多いと思います。しかし、その認識はまったくの見当違いです。聖書は、世の家庭、学校、会社等では教えてくれない本物の愛を教えてくれます。

 

不信仰の者、異教徒、にわかクリスチャンたちは、例外なく偽りの愛を信じ、自らの罪を自己愛からキリストを悪用して誤魔化して悔い改めず、自己愛しかなく隣人愛が無く、隣人愛を勘違いして罪を容認するために援用する等、偽りの愛で人々を愛した気になっていますが偽りに過ぎません。世の人々の多くは本物の愛を持たないので人間関係が長続きしないで破綻し、泥沼の争いになることもあるのです。実際、世がそのようではありませんか。例えば、ある人々は、十代で結婚前に異性と交際して性行為を行い、恋人を何人、何十人も変えているでしょう。中には、交際した人数や肉体関係を持った人数の多さを自慢する者もさえいます。そんなことを年を取ってもやめない人もいるでしょうが、大体の人は若い頃に何回も繰り返し、結婚してようやく落ち着いても配偶者に対する愛がすぐに冷めて結婚生活が上手く行かず、仲違いをするようになり、配偶者を拒絶する家庭内別居状態に陥ったり、性的欲求を抑えきれないかストレスから不倫をしたり、お金や子供のために老年期に入るまで我慢して形骸化して虚しい婚姻生活を送り、最後には離婚して財産等をめぐって泥沼の争いになります。何故こんなことになるのでしょうか。それは世の人々が本物の愛を知らないからです。日本に限らず、世界中の人々が本物の愛について知りません。多くの人は、愛と聞くと男女間の交際や肉体関係を想像しがちでしょう。そして、欧米人は日本人よりも頻繁に、かつ、堂々と公の場で接吻したり、手を繋いだり、腕を組む等の肉体的接触をしています。それらの行為がいけないと言っているのではないのですが、そのような肉体的接触を頻繁にしなければ愛が無い思うのは間違いですし、それが唯一の愛の表現でもないし、肉体的接触に拘って精神的な繋がりを蔑ろにする本物の愛から来る行動ではなく、単なる肉の欲に過ぎないということが言いたいのです。実際に、欧米人の離婚率が高いことは周知の事実です。あれほど肉体的接触を欠かさない欧米人が何故離婚率が高いのか家庭崩壊率が高いのか不思議に思ったことはありませんか。全員とは言いませんが、それは彼ら彼女らが本物の愛を知らず、自我が強く、肉の欲にまみれているからです。日本でも離婚や内縁が増えつつあり問題ですが、欧米ではあまりにも離婚が多いので、事実婚という法的婚姻関係ではない同棲という形を取っている人々が激増し、子供も未婚の非嫡出子が増え、民法の基本概念が崩れています。嫡出子は法律上の婚姻関係である男女間にできた子供を指し、非嫡出子というのは法律上の婚姻関係にない男女間から生まれた子供です。伝統的に民法では相続分で明確に差を設けており、これは婚姻関係にない男女間で子供を産ませないように道徳観に配慮して作られた差ですが、最近では子供に罪はないとか、法の下の平等だと声高に不道徳な大人たちが偉そうに叫んで法改正を求め、日本では2013年に平等の相続分に改正され、未婚の子供の増加、父親を知らない子供が増える結果になりました。これは従来の家族概念を崩壊させます。このように非常に問題がありますし、法律の枠外のことをしてその権利主張を強くする人たちに合わせる形で法改正が進んでいます。普通は逆です。人が法律を守らなければならないはずなのに守らないで、従来の法律の枠外のことをする人が増え過ぎたからという理由で法律の方が譲歩して堕落した人間に合わせて変えられているのが現代です。だから、人間の法律なんてあてにならないのです。いくらでも簡単に恣意的に悪いように変えられるからです。そして、世の人間たちの基準に合わせて法改正をしないといけない位に人類が堕落していることもはっきりと分かります。事実婚は従来の家族という概念と家庭崩壊を助長するものです。この重大性を認識していない人が多いのですが、これは非常に問題があります。結婚は神が作られた制度だからです。神の律法では結婚前に性的関係を持つことは許されていません。マタイ1:18~19から分かるとおり、主イエスを聖霊によって身ごもった処女マリアと婚約していたヨセフが密かに縁を切ろうとしていました。この理由は結婚前に性的関係を持つことが申命記22章等にあるとおり、モーセの律法に反するからです。勿論、モーセの律法を守る正しい人であったヨセフはマリアと婚前交渉をしなかったのですが、周りからそういう疑いを持たれるのを嫌がったのです。本来、婚前交渉は死刑に値する程の重罪であることを認識するべきです。当然、今の時代はキリストの恵みがあるので、司法律法は廃され、この地上で死刑にする必要はないですが、罪であることには変わりありません。婚前交渉は罪の一例に過ぎませんが、このような神の律法違反の行為をやめ、主イエスを信じて悔い改め、今後は神の律法を犯さないようにしなければ、死後の裁きで神から断罪されるでしょう。神の律法、掟、戒めを守り、主イエスに対する信仰を最期まで保たない者は主イエスから知らないと言われ、命の冠を受けることができないからです。私が過去に弾劾してきた律法廃止論者の偽りはここからも暴かれています。主イエスは「これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と姦淫の現場で捕らえられた女を赦した時に仰った御言葉がまさに私が説明している内容です。主イエスは私たちが罪を犯してもいくらでも赦して神の国に入れてあげるから大丈夫だとか、主イエスを信じると口先だけでいいから罪を犯し続けても良いとは断じて仰っていません。クリスチャン気取りの律法廃止論者たちは、悔い改めの意味をまったく分かっていませんし、悔い改めを行いで現しておらず、主イエスの御言葉に逆らっていることが明白です。律法廃止論者たちは悔い改めの意味を理解せず、十字架で律法は廃止された、主イエスがすべて罪を赦された、福音の三要素を信じた時から救いは失うことはない等と数々のうわ言を言っていますが、いつになったら真理に気が付くのでしょうか。聖書をせっかく手に取って読んで信仰に入ったと見せかけていますが、実際は信仰前と何も変わっていない上、さらに悪くなっているからです。このような人たちは、主イエスと聖書を悪用して自分たちを正当化し、義人と勘違いして自惚れているので不信仰の者たちよりも悪いです。なぜなら、新規に主イエスの信仰に入ろうとする者や選ばれた人をも惑わそうとするからです。地上の諸教会やYouTube動画等の説教を盲信して間違った信仰をするにわかクリスチャンたちは、聖霊を受けず、聖書の真理を理解できておらず、聖書を部分的に読んでも忘れ去ったり、律法を心に刻みつけていないので正しい行いができず、主イエスが神の民に要求する「完全な者」に達することがありません。行いが伴わない信仰は死んだようなものである(ヤコブ2:17)というのはこういうことでもはっきりと真理であると分かります。口先だけで行いが伴わないのは偽りでしかありません。地上の諸教会の自称聖職者らやYouTube動画で説教をする者たちが耳触りの良いことを言うでしょう。彼ら彼女らは、「神は愛である」(ヨハネ一4:8,16)という聖句をしきりに引用しますが、罪の赦しの部分だけを強調し、自分たちの汚れを誤魔化すために援用しているに過ぎません。にわかクリスチャンたちは律法が神の人間に対する愛故に制定されたものであること、主イエス・キリストへの信仰と神への愛故に喜んで神の律法、掟、戒めを守ることこそが人間から神への愛の現れであることを言わないどころか律法主義者等と決めつけて非難してくる始末です。それも彼ら彼女らが律法主義という定義も分かっていないのにです。なぜなら、地上の諸教会の自称聖職者らやその信者たちが偽り者だからです。そして、そのような教会や集会に行く信者たちも偽り者だから、プロテスタントでは牧師たちと同じようにその信者らも律法廃止論を唱え、カトリックや正教会では神の律法に逆らって改変して人間が決めた教会の規則に従っているのです。地上の諸教会や諸教派に属する人たちは、聖書に書かれた神の教えよりも人間の教えに従っている事実に気付いていませんし、その事の重大性にも気付いていません。過去に説明しましたが、主なる神がモーセを通して律法を人間に授けたのは、人間が御子イエスに似る者とするためであり、束縛するためでは決してありません。過去に何度も言いましたが、律法を束縛と捉えるのは偽りの父であるサタンであり、人間でそれを言う人はその偽りの父から出た悪魔の子です。肉なる人間は不完全で罪に弱い傾向を持ち、肉の欲を本能的に持っており、サタンの惑わしや誘惑にも簡単に騙されます。こうして、すべての人々は神の律法に違反して罪を犯し、神と遠く切り離されるのです。しかし、神は愛なので、解決策をくださいました。神は御自分が選ばれた民を愛し、その愛を感じた人間が神への愛から唯一の救い主で神の身分でありながらへりくだって人となられた御子イエスを信じる信仰によって悔い改め、神の律法、掟、戒めを生涯守り通す狭い門から入って狭い道を歩き、あらゆる苦難や艱難をくぐり抜けて洗練された人たちを神の民として神の御国に迎え入れて永遠の命をくださるのです。それができず、広い門から入って広い道を通る人は皆、神の民とは違う末路です。父なる神と主イエス・キリストの計り知れない愛を蔑ろにしたのだから当然の帰結と言えます。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章10節

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 

主イエスを地上にお遣わしになった父なる神は愛に溢れたお方ですが、義も重視なさいます。それ故、人間や天使等をも裁かれるのです。同じく主イエスも愛ですが、義でもあります。それ故、主イエスは律法を遵守されたのであり、廃止していないのです。もし律法が旧約時代だけで終わったものならば、主イエスは堂々と「私は律法を終わらせるために来た、廃止するために来た」等と発言されたでしょうが、実際は真逆です。主イエスだけが神の律法を完全に守って十字架で死なれて契約の仲介者になって、それを信じる者は律法を守る必要が無い、人間は守れなくて当然だと言うのは偽り者です。過去記事「主イエスの受肉」で説明したとおり、主イエスは、人間には神の律法を守ることができないというサタンの嘘と悪霊に惑わされた人間の言い訳を破壊するために神でありながら人となられたからです。

 

私が宣べ伝えてきたことを集約すれば、神の律法、掟、戒めを守る主イエスの信仰を最期まで守り通すことです。それを肉なる人間自身の力だけでは到底なし得ません。自我を完全に否定して自分の中にある肉の欲、目の欲、肉の思い、生活のおごり等を捨てて聖霊という神の力に自分を任せ、霊の思いで生きなければ神の律法、掟、戒めを完全には守れませんし、死を恐れず、世の権力者、他人の目や評価になびかずに毅然と立ち向かう勇気も出てきません。それは私が本物の愛を知り、体現しているからです。前回記事でも引用したとおり、「慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。」(ヨハネ一 四章十八節拙訳)のとおりで、死を怖がらないようになり、他人や権力者を怖がることも無くなります。他人の目や評価を気にして態度や言動を変えたり、自分の信仰が揺らいだり、疑いを抱くようになるようでは、真のキリスト者ではありません。ダニエル書三章の話を覚えているべきです。偶像礼拝をしないと火に投げ込まれると権力者に脅されても主なる神への愛故に偶像礼拝をしないという神の律法を守り通した結果、燃え盛る炉の中に入れられましたが一切の害を受けなかったということです。もし自分自身の命が惜しくて権力者の指示どおりに偶像の前にひれ伏して拝んでしまったら主イエスからは知らないと言われて神の御国に入ることもないでしょう。あの三人のように、行いが伴う固い信仰を持たなければなりません。過去記事「自我との戦い」でも説明したとおり、正しい信仰に必要なのは自己犠牲です。自分の体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。」(ダニエル書3:28)とあるとおりです。過去は偶像礼拝の試練でしたが、これが別の掟で試練が来たらどうでしょうか。あなたは気付くでしょうか。神の律法を知らない、または律法廃止論を信じて律法を無視している人には不可能でしょう。例えば、安息日に関する試練になった場合、権力者が安息日を守らせないように日曜日が安息日で絶対休日として土曜日は働くことを法令をもって人々に強制したとして、あなたはそれに抗えますか。プロテスタントの律法廃止論者は安息日は無効と思い込んでいるので、何の違和感も無く権力者に従うでしょう。カトリックや正教会の関係者や信者らも日曜日を神聖視しているので願ったり叶ったりでしょう。不信仰の者は、何も信念が無いし、抗う理由を持たないので権力者に従うでしょう。仏教徒等の異教徒も日曜日に対してそれ程拘りがないので問題が無く、問題があるとすれば金曜日を安息日と思っている厳格なイスラム教徒ぐらいです。彼らが聖戦だなんて言って暴力的に反発するかもしれませんが、粛清されれば終わりです。最も問題があるのは、暴力的なことをしないで神の律法、掟、戒めを主イエスの信仰の故に固く守る真のクリスチャンで、そうなれば最も過酷な時になるでしょう。そのような艱難を見据えずに、今、携挙に備えろ等としきりに口にしたり、この世から逃げることばかり考えて艱難期前携挙説を信じて騒いでいるのは、自分の身を神の栄光を現すために用いることを考えないで自分自身の保身ばかりを考える臆病者であり、自己犠牲ができない偽り者なのです。今は私が言うことを頭に入れていても、将来そのような試練に遭った時、信仰に固く立つ行動が取れるでしょうか。今すぐにそのようになれと鬼教官のように言うつもりはありませんが、日々その時に備えて成長していくことは必要不可欠です。そのために、日々のうのうと世のことばかりに労力を使い、聖書の学び、福音伝道、奉仕活動、その他善い行いをすることを怠ってはならないのです。もし、あなたが律法廃止論者と同じように、「行いで救われるのではないから、特に何もしなくても信じるだけで救われるからいいんだよ。」とうわ言を言い続け、怠惰であり、神の律法、掟、戒めを無視し、罪を犯し続けて神に逆らい続けてはいけません。これでは役に立たない僕で外に放り出されます。主イエスは神の律法違反をせず、罪も無いのに私たち人間を愛するが故に、罪人である私たちを滅びから救うために十字架刑という死刑までも受けられました。究極の愛は、主なる神と他者を愛する心からくる自己犠牲です。主イエスは以下のように仰いました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章13節

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 

 

上述で世の人々の偽りの愛について述べてきましたが、主イエスの仰る愛とは質そのものが格段に違います。まず自分本位ではないという所が大きな違いです。世の人間たちは、まず自分本位で、自分自身が一番かわいくて、その次に他人や神が来ます。これが大きな間違いです。神の律法(申命記6:5)にも規定がありますが、過去記事「自由と律法に対する誤解」で話をしたとおり、主イエスが律法の中でどれが最も重要かとファリサイ派の律法の専門家から質問された時、主イエスはモーセの律法に規定どおりに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)とお答えになりました。これが一番です。隣人愛は二番目であり、これもレビ記19:18にあり、モーセの律法にあります。律法廃止論者は、これらをキリストの律法と勝手に区分しますがモーセの律法そのままですので彼ら彼女らの主張は聖書に反しており、欺瞞であることが明白です。だから、主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17~18)と仰ったのです。上記引用聖句で、主イエスは私たちに友のために命を捨てるように弟子に言うだけでなく、御自身でそれを達成なさいました。ヨハネ15章にあるとおり、主イエスは父なる神の愛と掟にとどまり、私たちが主イエスの愛と掟にとどまって守り、兄弟で互いに愛し合い、そうすれば主イエスはもはやその神の民を僕ではなく友とお思いになってくださるということです。ですから、主イエスの十字架の死は、主イエスを信じる信仰と神への愛故に神の律法、掟、戒めを従順に最期まで守り通す神の民の救いのためです。表向きは全人類に向けてで門戸はすべての人に開かれてはいますが、実質的に聖書が教えているとおりに生活して行いで顕現できている人はほとんどいないので、結果的に世の大多数の人には無意味なものとなります。主イエスは、忠実な僕を友と見ておられ、神の栄光と友のために御自身の尊いお命を献げられ、新しい契約の仲介者となられたのです。そして、他のあらゆる異教には無い愛の教えを主イエスは仰いました。

 

新約聖書 ルカによる福音書 6章27節

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

 

上記聖句で日本語訳が間違えている箇所があるので訂正しておいてください。親切にしなさいではなく、「善いことをしなさい」が正しい訳です。親切では具体的行動が伴いませんし、英語では「do good」とあり、善い行いを求めているのが分かります。私はきつい文章を書いていると多くの人に思われているようですが、実際は神への愛、隣人愛から書いているのであり、敵意ではありません。敵意はむしろ私に対して向けられている読者の感情です。私は、私を憎む者、敵対する者に対しても分け隔てなく聖書の真理を宣べ伝えています。しかし、当ブログを読んで歯ぎしりをして怒りに任せて根拠の無い悪口を書き込んできたり、他の所で悪口を書いたり評論していることを私は知っています。そんなことをする人の品性がキリストの品性からは程遠く、悪魔の品性であることは明白です。しかし、そんな人でも私は生きている間は悔い改める機会があると思っているので一生懸命こうして時間と労力を使って書いて無償で提供しているのです。神に逆らう者にも善い行いをするのが私の師である主イエスの教えですから、私はそれを忠実に守っているだけです。この敵を愛する教え、悪に対しても悪で返さずに善で返す教えは主イエス・キリスト以外に述べた人は存在しません。聖書を悪用してそれらしく見せる偽り者ならばいくらでも存在します。それらの一部は過去に私が弾劾してきた偽り者たちです。また、兄弟を装って、恩着せがましい言い分をする人もいます。敵意に満ちた言葉、私のことが気に食わない、根拠も示せないのに嘘を言っている等と醜い肉の思いをぶつけてきて、それが趣旨なのに、「あなたのためを思って、こういうことを言うのです」等と付け加えて、あたかも心配していると見せかけて善人ぶるようなコメントも多々もらいました。憂慮している、心配している等と言いさえすれば、良いのではありません。私には彼らの悪しき魂胆が透けて見えます。このような偽善者も多くいますのでご注意ください。

 

また、愛の対象として、この世とこの世にある物を愛してはいけません。それはこの世が終わる時、すべて過ぎ去って滅び去るからです。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 2章15~17節

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 

上記の聖句をクリスチャンでありながら知らなかったり、行いとして示さない人が多過ぎます。不信仰の者や異教徒はしょうがないとしても、この世が大好き、この世にあるものが大好きと言わんばかりのにわかクリスチャンが多過ぎます。だからといって、物を粗末に扱ったり、ゴミをポイ捨てしたり、動植物を乱暴に扱ったり、他者に冷たくするのはいけません。世にある物や出来事を通じて万物の創造主である主なる神に感謝すべきです。金銭欲が強くて手段を選ばずに金持ちになって驕り高ぶったり、快楽に溺れてみだらな行いに興じたり、娯楽に夢中になったり、他者をいじめたり誹謗中傷したりするのは論外です。家庭環境やその他場合に応じて適度に娯楽を楽しむことすら禁じる意図ではありません。それらに夢中になって主イエスのことを考えなくなったり、神の律法、掟、戒めを破ったり、祈りを欠いたり、兄弟間の交わりを蔑ろにしたり、聖書の学びをしなくなるのはクリスチャンにとっては非常に問題がある行動です。そうなり易い人はそういう誘惑の種を身の回りから取り除いておくことが必要でしょう。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 3章16~18節

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 

 

上述で既に主イエスが御自身の命を私たちのために捨てられたことについて述べましたが、ここでも述べられています。つまり、私たちは信仰の兄弟たちのために命を捨てることも厭うべきではないのです。主イエスを模範として最期まで従順に従う信仰を持っていればできるはずです。できないと思うのならば、その人はキリストの弟子ではなく、愛が全うされていません。自分の命が惜しいと思う自己愛者だからです。口先で愛し合うと連呼している偽り者が多くいますが、彼ら彼女らは実際にはこれと言って何もしません。路上生活で困っている人を見かけても素通りで、憐みを持つどころか嫌悪感を抱いて避けるように離れ、新しい洋服が欲しいなとか、どこで飲食しようか、どこに遊びに行こうか等と自分たちのことばかり考えるような自己愛に満ちた偽り者たちです。また、困っている友人や信仰の兄弟を見ても放ったらかし、都合の良い時だけ、自分が暇な時や何か物申したい時だけ会話に参加したりするだけでしょう。そして、少しばかり聖書の知識を身につけ、他人や兄弟を裁くようになり、些細なことで引っ掛かって気に入らなくなったり、敵意を抱くようになったり、疑いを起こして離れて行く人もいます。実際何人もこういう人を見てきました。「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネ一4:20)、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」(ヨハネ一3:15)とあるとおりです。表面的な言葉だけでなく、心が重要です。表面的に丁寧な言葉遣いであっても心が行動に現れ、結局隠し通すことはできません。勿論、地理的に離れている、家族の拘束、旅費に使う金銭的余裕が無い等の様々な要因があるのも事実であり、何が何でもすぐに対面で信仰の兄弟に対して何かできないこともあります。しかし、できることは全力ですべきでしょう。また、たまに同性愛者が隣人愛を振りかざして容認するように言ってくる人もいますが彼らの主張はすべて自己愛から来るもので神への愛はありません。なぜなら、同性愛者は神の掟を守っていないからです。神を愛するなら神の掟を守らねばなりません(ヨハネ一5:3)。私は同性愛が神の律法で罪とされているから悔い改めなければ滅びると述べているだけです。悔い改めもせずに、罪を愛せと言わんばかりに同性愛者を隣人愛で認めるべきだとか和解すべきだ等と同じ主張ばかりを繰り返すおかしな人がいますが、こういう人たちにも気を付けてください。私はどんな人に対しても生きる価値が無いとか、人権が無い等と言ったことは一度もありません。前回記事でも述べたとおり、私は死刑囚の命すら誰も奪うべきではないと言う者です。同性愛者に生きる価値が無いと言っていません。ただ、いつまで経っても罪を罪と自覚しないで、罪を容認しろとか法的に保護しろ等と声高に叫ぶことは間違いだと言っているのです。勘違いしないでください。私は悔い改めを説いているだけです。悔い改めを拒否するのはその人自身の勝手ですし、その人自身の責任です。自由にしてください。ただし、後で神の厳しい裁きを受ける覚悟はするべきです。

 

自称クリスチャンの方々、神は愛だと聖書にある文言を一部抜粋して信じつつも、「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」」(ヨハネ8:34)、「罪を犯す者は皆、法に背くのです。罪とは、法に背くことです。」(ヨハネ一3:4)、「罪を犯す者は悪魔に属します。」(ヨハネ一3:8)、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。」(ヨハネ一3:9)、「神を愛するとは、神の掟を守ることです。」(ヨハネ一5:3)等という文言を無視して律法廃止論を信じ、神の律法に表されている愛と義を軽んじて無視する者、世と世にある物を愛する人、信仰に入る前の生活を一向に変えない人は悔い改めてください。律法廃止論という現代プロテスタントの欺瞞から離れてください。偶像礼拝やその他数々の聖書に反する教えを擁するカトリックや正教会にいる人も離れてください。あなたがたは、何のために地上の諸教会に所属しているのですか。神に仕えるためですか。神を礼拝するためですか。どちらも偽りです。神に仕えたり礼拝することが地上の教会に所属したり通うことだとどこに書いてありますか。それも日曜日にするというのがどういう意味か分かっていますか。復活の曜日を祝うという言い訳をする者が多数いますが、聖書に復活の曜日を祝う命令も掟もありません。日曜礼拝は私が過去に何度も述べたとおり、カトリックが行う太陽神崇拝です。現在でもヨーロッパではそのカトリックや古代ローマ皇帝が出した日曜休業令の影響で日曜日は飲食店を除いてはどこも営業停止し、住居も騒がしくてはいけないと意味不明な契約条項を入れている所もある位です。何故、日曜日でなければならないのか、真剣にその理由を考えれば分かるはずです。聖書には日曜日を神聖視するように一切書かれていません。むしろ、重要なのは安息日です。聖書が定める安息日は、天地創造の時から制定されている第七の日、厳密には、今の金曜日の日没から土曜日の日没までです。安息日は日曜日などと言う者は反キリストです。神に逆らって勝手に日曜日を神聖視しているのはカトリックと正教会であり、それに倣っているのがプロテスタントです。だから、地上の諸教会から離れなければなりません。悪い行いに加わってはなりません。ヨーロッパでは、人間が勝手に決めたISO8601規格により月曜日始まりで日曜日終わりのカレンダーを基準とし、欧州人の週末の観念は日曜日と洗脳されています。日本でも月曜日始まりのカレンダーが一部普及し出し、土日休みの会社員等にはこれが見やすい等と洗脳されている人が増えています。しかし、こんなイカサマは聖書が偽りであると教えてくれます。過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で説明済ですが、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までであり、この規定は永久に不変です。主イエスの十字架刑は安息日の直前に執行され、金曜日の日没後に始まる安息日までに遺体を残さないため(ヨハネ19:31)に急いで埋葬されました。なぜなら、出エジプト記12:46、民数記9:12にあるとおり神の律法に反するからでした。安息日が終わった土曜日の日没後は夜で暗くて見えないので出かけず、週の初めの日の明け方にマグダラのマリアが墓に行ったら既に主イエスはおられなかったと福音書に書かれているので、週の初めが日曜日であることが分かるでしょう。だから、土曜日が週末であるのが正しいカレンダーの在り方です。世間の仕事で週休二日といえば土日と皆が思い込んでいますが、本当は金土にすべきです。日曜日は平日であり、何ら特別な日ではないことを覚えておくべきです。”主のことを思って”、主イエス・キリストを礼拝をするなら、安息日にしなさい。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章19節

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。

 

上記のように主イエスは仰っており、叱責、試練や苦難によって鍛えられるのは当然のことであり、それらを嫌う人は真のクリスチャンではなく、自分が完璧だと思い込む高慢な者に過ぎません。また、不義を見聞きしても何も言わないし何もしないのが正しい人の在り方ではありません。なぜなら、黙って傍観して不義を容認したり、人の評価を気にし過ぎて柔らか過ぎたり遠回し過ぎる言葉を言っても相手には響かないので無意味だからです。私が繰り返し注意したり、悔い改めを説くのはあなたがたへの愛故です。しかし、世の人々はあたかも自分は立派だとか賢い等と自惚れて高慢になっており、厳しい言葉を嫌う傾向が高いです。だから、そういう高慢な人は甘言を言う人に惹かれて健全な教えに耳を傾けずに騙されるのです。こうして悪い人は互いに騙し騙されて益々悪くなるのです。そのような人は神から懲らしめを受けても、何も学ばず、肉の思いで怒って反抗するだけです。黙示録でも地上に災いが起こって人々が神を呪ったりするとあるとおりです。不完全な状態、それも聖書に明確に反した状態を見て何も言わない方がどうかしていると思いませんか。人から悪く思われたくないとか、嫌われたくない等という人間の歓心を買うために甘言を言ったり、罪を容認しているようでは偽り者になります。しかし、いつでも律法違反の事柄に対して罪と断じて手厳しく不信仰の者に必ず対応しなければならない訳ではありません。状況に応じて柔軟に考えて行動してください。例えば、あなたの家族の誰かが信仰に入らないで困っている時、忍耐をする場面が出てくるでしょう。映画やテレビが好きな家族がいて、あなたが「こんな悪魔崇拝者が作ったものを見ていたらいけない。洗脳される。」と言ってすべて強制的に撤去したり捨てれば、逆にあなたに対する反感は激しくなり家族を信仰からますます遠ざける結果になり逆効果です。しかし、ずっと黙ってばかりいるのではなく、折を見て説明してみたりして少しずつでも改善するようにしましょう。譲歩ばかりしては、相手がつけ上がるだけですのでいけません。特に、あなた自身の行いに関わることには注意が必要です。例えば、仏教式の葬式等の異教の宗教的慣習にあなた自身が参加させられそうになる時は明確に信仰を表明して説明して断る勇気は必要です。家族や親戚が犯す罪はあなた自身に影響ありません。しかし、あなた自身の行動は当然影響しますのでよく考えましょう。ただし、自分以外だったらよい、自分が罪を犯さない代わりに不信仰の誰かを使って自分の目的を遂行させようと悪意に満ちたことを考えたり、実行しないようにしてください。例えば、信仰者であるあなたが安息日に買い物に行けないからといって、他人を使って自分の欲しい物を依頼して買って来させる等です。主なる神はあなたのそんな心の中、動機もすべてご存知です。神を侮らないようにしましょう。主イエスは上記聖句のように現代のキリスト教徒の様子であるラオディキア教会に対して戒められております。叱咤激励、間違った歩みを正す声を無視したり、敵意を抱かないでください。そして、熱心に信仰を厚くするように努力して悔い改め、善い行いをしてください。また、パウロも以下のように述べています。

 

新約聖書 テトスへの手紙 1章15~16節

清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。 

 

上記のとおり、クリスチャンを自称しながらも行いが伴わない者、行いで信仰を否定している者は知性も良心も汚れており、反抗的で嫌悪すべきとパウロは述べています。このような戒めを悪口と捉えるのか叱責と捉えるかであなたの方向性が決まります。明らかに道を外れている不完全な人に対して、甘言を言う人、優しい言葉だけを言う人は柔和でも寛容でもありません。よそ見をしてドブに落ちそうなのに「危ない」と大声で教えてあげるのが善い行いではありませんか。黙ってて「ドブに落ちるのを見ていよう」と思ったり、方向を変えさせずに「その道でいいよ」、「私も一緒に行くよ」等と言ってドブの方向に行くように仕向けるのが甘言や穏やかな言葉でしばしば行われます。これを勘違いする人が多いです。実際、信仰生活の問題はドブに落ちるという軽い問題で済みません。和解や一致等と平和を装う耳触りの良いことを言って人々を取り込んでいるのはローマ教皇であることを忘れないでください。真理の諭しを軽んじて勘違いする者は、最終的に彼の偽りの愛に取り込まれるでしょう。また、例えば、駄々をこねて言うことを聞かない子供には、厳しい叱責を与えなければ言うことを聞かないでしょう。優しい言葉で甘やかしてばかりでは心に響かないからです。とことん反抗的な子供は、子供のことを想って厳しく叱責する親を恨んで根に持ち、最悪の場合は親を殺すことも実際に事件で起こっています。神の戒めや諭しを軽んじる人も、このような反抗的な子供のような者です。上記引用した黙示録の主イエスの御言葉どおり、主イエスは私たちを、また、聖書の真理に固く立つ人は必要に応じて、叱ったり、鍛えたりするのです。不信仰の者や異教徒も、週末の考え方、そして愛に対する考え方が変わったことを願っています。私は何も強制するつもりはありません。聖書の教え、主イエス・キリストの教えをそのまま宣べ伝えているだけです。信じたくなければ信じなくて結構です。ただし、私があなたがたに信仰を強制しないのと同様に、あなたがたも私の信仰や意見に対して口を挟むことは厳に慎んでください。聞く耳のある者だけが聞き入れてくだされば、それで私は満足です。私はただ聖書の真理に固く立ち、真の福音を宣べ伝えているだけです。気に入らない等のつまらない肉の思いで私に敵意を抱いたり、悪口や批判を言いたくなるのは分かりますが、それはあなたの心の中で勝手に言っていてください。いずれそのような邪な思いがあなたの心から消え去ることを願っています。私は誰の滅びも喜んだり、願ったりもしていません。しかし、一部の人は私を憎み、私の滅びや衰退を願っています。私は正しい裁きは主なる神に委ねます。私は私自身をも裁きませんし、あなたがたをも裁いていません。主なる神が裁く前に先走って裁くべきではないからです。いずれそう遠くない未来に裁きは否応なく下されるでしょう。それはあなたがたが気付かない形で来るのもありますし、気付く形で来るのもあります。気付くものが来た時は既に手遅れです。聖書に書かれているとおり、主は盗人のように予期せぬ時に来られます。主イエスは「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:44)と仰り、私たち人間には分からないのでいつでも良いように目を覚まして準備を整えているようにと仰っています。だから、私も過去に何度も早く備えよと言ってきたのです。これは個人の救いの恩恵期間のことでもあり、世の終わりのことでもあります。前者は私たちには決して分かりません。いつこの地上での寿命が終わるのかも分からないのに、何故恩恵期間のことが人間に分かるだろうか。だから、いつも備えを怠らないように、日々励むべきなのです。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 3章1~5節

しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

 

上記聖句のとおり、終わりの時代は困難な時代です。自分大好きで自分が正しいと思い込んでいる高慢な人が増え、自己犠牲ができない利己的な人が増え、金銭等の財産に目がくらんで富を集めるのに必死になったり、快楽に溺れたり、これらに当てはまるのはクリスチャンとされる人も例外ではないのです。クリスチャンと自称しながら、上記列記事項に限らず、自分自身を神の律法、掟、戒めに服従させずに自分の価値観を優先させる人、へりくだらないで頑なな人、口先だけでは立派なことを言っても行いが伴わない人、他人を祝福する言葉を送りながらも心が無く社交辞令のように言っているだけの人、人間不信になって一人で引きこもる人等は偽り者です。なぜなら、上述したように人々は本物の愛を知らないし、愛を行いで示すことができないからです。これは主イエスの御言葉どおりです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章12節

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

 

上記聖句に限らず聖書で書かれている「不法」というのは、神の律法に逆らうことであり、旧約聖書のモーセの律法に逆らうことを意味し、人間の法律のことではありません。散々私が弾劾してきた律法廃止論者のプロテスタント、神の律法に逆らうカトリックと正教会、その他のキリスト教を装うカルト宗教の関係者や信者ら、不信仰の者、異教徒です。簡単に言えば、神の律法、掟、戒めを守らない真のクリスチャン以外の大多数の人間の愛が冷えるのです。反対解釈としても、主イエスを信仰して神の律法、掟、戒めを守っている人には愛があるということになります。愛が冷える要因が不法だからです。主イエスがそう仰っているのですから、この現象は止められないでしょう。だからこそ、これから益々暗黒に包まれるこの世において、世の光となるべく私は父なる神の愛、主イエス・キリストの愛を宣べ伝えています。また私自身、言うだけに終わらず行いで示していきます。その相手がたとえ不信仰の者であっても、父なる神が悪い者にも太陽を昇らせ雨を降らしてくださるように、私もそのように神の愛を示していきます。それは世の多くの人間が認識する愛ではありません。主イエスを信じて従順であろうと日々自分を否定して、自分の十字架を背負って従う兄弟たち、あなたがたにキリストの恵みが豊かにあるように。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上