こんにちは。

今回は、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなるさかい、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。

前回記事「パウロは偽使徒」で、パウロが主イエスの教えに従ってへんし、むしろ主イエスの教えに反した言葉を言うたり行動を取ったことについて述べた。今回はパウロの行動や教えが主イエスの教えと真逆なことを詳細に指摘すると共にパウロ信者の律法廃止論者を弾劾する。

異邦人の中に居る全ユダヤ人、つまり、ユダヤの地ではない所に住んでるユダヤ人たちに対して、パウロが「モーセ(の律法)からの離脱を教えてる」ことをエルサレム教会の長老たちから注意された(使徒言行録二十一章二十一節参照)。そのように注意するということはエルサレム教会員は律法遵守の立場であることが明白やろ。もし彼らが律法廃止論者なら、そのように注意する筈がないさかい。その長老らはファリサイ派等のユダヤ教徒やのうて、主の弟ヤコブと共に居るキリスト者であり、エルサレム教会員やった。彼らは、表向きはキリスト者と名乗って伝道する元ファリサイ派でキリスト者を迫害してきたパウロを温和に迎えたが、教義の違いに困惑してる様子がその前後の文脈から分かる。その前には、「(主イエスを)信じた幾万人のユダヤ人たちは皆律法に熱心や。」(使徒言行録二十一章二十節拙訳)と書かれてる。律法遵守をしたキリスト者が幾万人やからね。たかが数人ではない。このことからも、使徒ペトロによって設立された主の弟ヤコブが監督するエルサレム教会では、皆が主イエスの十字架後も律法が廃止されてへんことを知っており、それ故に主イエスを信じるようになったユダヤ人たちはモーセの律法を擁護して熱心に守ってたし、それがキリスト者としてあるべき姿や。なぜなら、それが福音書から分かる主イエス・キリストの教えであり、主イエスの教えを信奉する十二使徒の教えやからや。以下に詳述する使徒言行録十五章の使徒会議よりも後のこともでもあり、キリスト教の業界でなされてるあの手紙の解釈が如何に間違うてるかがこの使徒言行録二十一章からはっきりと分かる。
このことから、主イエスの十字架での死を契機に律法が廃止になったというプロテスタントの教義やディスペンセーション主義者どもの教義は嘘やということが明白や。カトリック、正教会、その他聖書やキリストを悪用するカルト宗教等も言わずもがな。

拙者は、初代教会のエルサレム教会と同じく律法を擁護し、遵守する立場や。それが理由で、拙者は、不信仰の者、異教徒、あらゆる嘘つきやパウロ教信者の偽キリスト者どもから誹謗中傷を受けてる。真のキリスト者が世間から嫌われ、迫害されると主イエスの御言葉どおりになっており、それは過去動画でも聖句を示した。せやから、世俗社会に深く馴染んで世の友になってるとか、不信仰の世間の大勢の人々から好かれてるとか、正直に言わず、嘘やお世辞を言うて上手く世渡りしたり、こちら(YouTube)やこちら(YouTube)でも分かるとおり、所謂「洛中」の京都市民のように本心を言葉で正直に言わず、遠回しの嫌味を言うて人を貶したり、その言葉通りの意味に受け取ると怒るとか不機嫌になる等とアホなことをして人を騙したり傷付ける性悪な人間になったらあかん。京都人言うても、洛中と洛外や京都市外ではまた異なるし、皆が同一とも拙者は思わへんけど、平均的に癖のある人が多い傾向にあるのは確かと言える。こちら(YouTube)でも京都府出身であっても、京都市内の人と思われたない、一緒にされたくない故に、「京都の南の地方出身」と付け加えることを欠かさへん人も居る。それ程に京都市内の人間の性格が歪んでることが分かる。そうでないと、京都市内出身やないと違いをわざわざ強調する必要性が無いさかい。
そもそも、平安京が出来て明治初期までの区分では、広義では「山城国」という名であり、狭義では洛中が京であり、洛外は京と看做されへん。北部の丹後と丹波は明治時代以後に京都府内に組み込まれただけで、本来は「京」やないということを認識すべきやな。


画像引用元: https://www.catv296.ne.jp/~sensyo/gokisichidou.htm

 

律令制の日本では、山城国は現在の京都府京都市以南や。但し、左京区広河原と右京区京北は山陰道丹波国に区分されとった所であり、現京都府のそれ以外の地域も畿内の山城国やない故、「京」やない。それにしても、洛中の京都市民の性悪さがこの事態を生んでることを京都市民は自覚し、反省して改善すべきところやのに、逆に京都市民はその悪しき慣習を当たり前に思い、誇りを持ってるやろし、頑固やし、無理やろね。あのテレビ番組は大阪人が京都人に憧れを抱いてると嘘を言うたり、京都を持ち上げる編集が意図的になされており、その点は虚偽報道や。実際、大阪人は京都人にまったく憧れてへんし、対抗意識も無いからね。奈良の平城京や京都の平安京より前の時代に大阪には難波宮があって都になってたし、堺を中心に商いが盛んで、豊臣秀吉が大坂城を築城して天下の拠点にし、江戸時代には「諸国之台所(転じて、天下の台所)」と言われるまでの巨大都市になった等と昔から大阪の方が栄えとるし、京都に憧れる点はほぼ無い。京都は先の世界大戦で米軍による空襲被害が比較的少なく、昔ながらの街並みが残ってること位がええ点で、人間については憧れる要素は皆無。また、大阪、兵庫、奈良等といった京都周辺の人で京都市民と関わったことがあってその性悪さを知っとる人は騙されへん。京都人による陰湿な人間関係での被害を受けた他府県民の証言はごまんとあるし、ネットでも対面でもようその被害を聞いたことある。実際に被害があるさかい、用心する意識は芽生えても、別に毛嫌いするとかそういう意味ちゃうからね。関東人も関東人同士の結束はあっても、上方人には敵対心を持つ人が少なないし、思てることを相手を目の前にして正直によう言わんくせに、陰で本心をぶちまけて悪口を言う性悪が多い。なんやろね、ほんまに。なんぼ綺麗事で表面的に誤魔化しても無駄やし、嘘つきである客観的事実は変わらへんさかい。このように、本心を隠して世間で上手くやろうとしたり、その他聖書を読まず信じずに不信仰で金儲けに躍起になってる人も二枚舌の嘘つきでしかあらへん。
「くだらない」の語源は、上方(京阪)から下って来た物(下り物)やない、上方から来たもんやないという意味や。例えば、酒でもそれが言われ、上方の伏見や灘からの酒は上質で、江戸の物は「下り物やない」という意味から「くだらない」となった。江戸は上方の物に比べれば劣るというんが転じて、価値の無い物という意味、へりくだりの意味を持つようになった。現代でも菓子折りか何かを渡す際、「くだらない物ですが」とか「つまらない物ですが」等と切り出し、謙遜の意味で用いられる。しかし、本来の「くだらない」の意味は、「上方からの物やない、上方のように上質な物やない」というのが真実や。こちら(菊正宗)にも似たことが書かれとる。
太陽暦二千二十一年九月二十四日にあった「やりすぎ都市伝説」で、的場浩司氏が「くだらない」の語源について、里見浩太朗氏から「百済の物は素晴らしく、百済じゃない物はくだらない」と雑学として聞いたと説明しとったが、大嘘やからな。共演者も驚いてる演技丸出しで、きしょかった。朝鮮は全然関係無いし、どっかの朝鮮人か在日が、朝鮮を持ち上げるためにでっち上げた嘘やろ。「百済ない」って、日本語的に欠陥があり、かなり無理があるし、無理やり当てはめたんが明白やろ。有り得へん嘘。あんなんをテレビでよう言うわって思う…。ほんまテレビなんか嘘まみれやさかい、信用したらあかんで。あの「やりすぎ都市伝説」では関暁夫氏が毎度嘘ばっか言うて、超人間主義(トランスヒューマニズム)への誤誘導(実際は人間ではなくし、人間以下の獣の存在、悪魔の手下へと変えさせるんが目的)、アマゾン創業者のベゾス氏が多額の投資してるとか言うて、存在せえへん宇宙へ肉体を捨てて行くとか、ザッカーバーグ氏が提唱する肉体を捨ててアバターで仮想空間への移住とか、惑わすんに必死やなと呆れました。金持ちの有名人を引用すれば正しいんとちゃうからな。こない分かり易い大嘘に騙される愚民は地獄行きです。それより、支那人や朝鮮人による上方に対する買収攻撃が危険や。こちら(SankeiBiz)にもあるとおり、京の町家といった伝統的な家屋、街並みがあいつらに買収され、ホテル等と別の物に建て替えられて壊されるで。こちら(BuzzCut)にもあるとおり、外国人に日本の不動産や資産を売るなよ、国賊どもよ。「今だけ、金だけ、自分だけ」っていう自己中、拝金主義の思いで外国人に資産を売却する厚顔無恥な国賊よ。奴らの進出を手助けする政府、官僚、その他政治に無関心で何も行動もせん一般人らは日本を潰し、ゆくゆくは奴らに乗っ取られ、他の日本人に苦しみをもたらす罪は非常に重い。この三十年以上、日本国民を困窮に陥れてる英米の傀儡になってる日本政府と官僚が最も罪深いし、それをぼけーっとして関心すら見せんと黙って放置してる日本国民も同罪や。ほんまに深刻な問題であり、放置するアホどもは万死に値する。こないなアホ国民ばっかでは日本は簡単に滅ぼされるよ。
拙者のような正直で忌憚無く言う人は世間では嫌われるけど、こう直言する人を嫌って敵対し、表面的だけ人当たりが良くて耳触りのええ嘘を言う人を好きになるようでは、惨めな末路が待ってる。嘘つきは地獄行きやで(黙示録二十一章八節参照)。よう覚えとき。

さて、以下、偽キリスト者どもに悪用される箇所について弾劾する。

新約聖書 使徒言行録十五章十九節〜二十一節(拙訳)
それ故、我は、異邦人たちの中から神に向き直る人らを悩ましたらあかんと考える。せやけど、彼らに偽りの神々の悪影響、婚外性交、絞め殺されたもの、血から離れるように書いた。太古の時代から、モーセは都市に彼(モーセ)を公に語る者たちを持ち、安息日毎に諸会堂で読まれてるからや。

偽キリスト者は、使徒言行録十五章二十節にある、新規で主イエスの信仰に入ろうとする異邦人(亜細亜系の血統上のイスラエル人以外)を悩まさへんために最低限忌避すべき内容のみを取り上げ、それさえ守れば律法全体を守ってることになると勘違いし、律法そのものは無視してええと吹聴してる。こちら(YouTube)には、デレク・プリンスという異邦人(英国人)が質疑応答で独自の見解を述べてる。その動画の二十六分四十二秒から使徒言行録十五章の話をし、二十五節から二十九節の内容を根拠に異邦人はモーセの律法は守らんでもええと言い、安息日も無視してええと言い、偶像に備えられた肉、血、絞め殺された肉、婚外性交の四つを避ければ、後は何をしてもええと信じてる有様。現代のにわかキリスト者の殆どは、こないな認識で居る人が多いやろ。言うとくが、主イエスの御言葉を無視し、使徒言行録の一部を切り取って結論を出すなんて話にならんのや。それに、ヤコブが語った使徒言行録十五章二十一節の内容を意図的に無視しとるからね。二十五節から二十九節では、二十一節の内容を勝手に省き、使徒言行録の著者が悪いとも言えるが、楽をする道を選ぼうと思って聖書を読んで曲解してる読者全員が悪い。プリンス氏も見事に聖書を曲解して騙された一人であるし、あの程度の聖書理解で人に偉そうに教えるなよって言いたくなります。間違うたことを教えるようでは偽教師でしかあらへん。彼自身は既に故人やが、ネットで「デレク・プリンス・ミニストリーズ」なんていうのを運営されてるようで、一丁前に献金を募ってんのに、運営元(会社なら会社名、社団なら団体名、そして所在地や電話番号等)の情報や連絡先を一切明記せず、はっきりとせえへん怪しい団体や。こういうのに引っ掛かったらあかんで。
また、上記の拙者の訳を市販の聖書の訳と比較してみぃや。大きく異なるのが分かるやろ。市販の聖書は誤訳だらけやし、それがあまりに酷いと、もはや嘘になってる。使徒言行録十五章二十節は、新共同訳では「偶像に供えて汚れた肉」と訳され、口語訳は「偶像に供えて汚れた物」って訳された。何これって感じですよ。そないな言葉は原語には書かれてへんからね。肉に限定する言葉も一切あらへん。拙者が訳した「偽りの神々の悪影響」とは、聖書の主なる神がほんまもんの神であり、それ以外は全部「偽の神々」にあたり、偶像もその類やし、人間崇拝も天使崇拝もそれに当たるし、太陽・月・星といった天体崇拝もあかんし、八百万の神などと自然(被造物)崇拝もけしからん。被造物を崇拝すること全般が律法で禁止される偶像礼拝や。律法に書かれてるとおり、また主イエスが教えはったように、ただ創造主の神である主に従い、礼拝せい。聖書や律法はその手引書であり、聖霊がそれを遂行する力となる。正しい信仰生活が出来てへん人はその手引書をきちんと読みもせず、聖霊が居らへんさかい、神の民としての歩みがでけへんのや。
使徒言行録の矛盾をまた見つけてもうた。さっきの使徒言行録十五章二十節と二十九節は異なる。拙者の訳や原語を見ても分かるように、二十節は「偶像に備えられた」等という文言は無いねんけど、二十九節には出てくる。何この矛盾ってこと。おかしいんですよね。二十節の偽の神々(それを偶像と言うし、木や石や金属等で造られた偶像や人間や悪魔(堕天使)も含む)と拙者が訳した原語はεἰδώλων(アイドラン)やが、二十九節の原語はεἰδωλοθύτων(アイドラテファース)で、「偶像に献げられたもの」となる。同じ言葉ではないんですよね。また、二十節の「悪影響」に当たる原語はἀλισγημάτων(アリースゲマ)で、「悪影響、汚染」という意味や。言い換えただけと強弁する人も居るかもしれへんけど、悪影響や汚染って、別に偶像に備えられるだけの場合に限らへんさかい、一緒ちゃうで。「偶像に備えられたもん」なんて、ごく限られた場合にしか適用されへんし、そもそも、偶像に備えられたかどうかなんて見てへんかったら知らんがなってことやろ。毎度何か飲食する時に、常に「これを偶像に備えましたか」って訊く人居るか。居らへんやろ。外食時に訊くアホ居るか。訊いても「知りまへん」って言われるのがオチやろ。毎日何か飲食するにつけ、「これ偶像に備えましたか」って訊くか。店で売ってる飲食物かて、訊ける相手居らんやろ。たとえ生産者に会うて訊いても、偶像に備えられたものでも「備えてません」って嘘つかれたらお終いやし、どうにもならへん。二十九節の偶像に備えられたものを避けるっていうんことに限定して禁止規定にする神経が正直分からんし、おかしい。二十節の「偽の神々の悪影響」を避けるんなら、異教に関すること全般(行事、習慣等)を避けるのは意味がありますよ。このように、複数に渡って言及されてることについて、矛盾があるもんは使徒言行録の著者の勝手な主観が混じり、所によって信憑性が疑わしいものがあるっちゅうこっちゃ。それは前回記事「パウロは偽使徒」でも書いたように、使徒言行録内でパウロの回心の場面が三回言及される点について、どれも内容がバラバラやったというのと一緒や。使徒言行録著者自身が直接見聞きした訳やないさかい、詳細を知らず、人伝に聞いた不確かなことを書いたからバラバラになってもうたんか、直接見聞きしてこの書き方をするようなら、「あんた大丈夫か」って問い詰めたくなる。使徒言行録の著者はルカ(伝承ではシリア人の医師)と巷では噂されており、パウロびいきな点(使徒言行録でパウロを取り上げることが異様に多い)も感じられることから、その線も有り得る。著者が異邦人でパウロ寄りの考えを持っとったせいで、律法を蔑ろにしてもええかのようにほんのりと匂わすかのような書き方になったかなとも思う。神の律法では、偶像(偽の神々)礼拝は禁止やし、偶像を造ることも禁止されてる。これを守ってる人々ばっかの世なら、この心配が発生せえへん。しかし、世の中は異教徒や不信仰の者が多く、大いにやりかねへんし、逐一訊いて確かめられるとも限らんし、明らかにこれは「墓参りで備えたもんや」、「仏壇に置いてあったもんや」、「神棚に置いてあったもんや」等と言われへん限り、またはそれを知ってるのではない限り、普通に食べてええと思う。
また、律法廃止論者という嘘つきどもは、ほんまに文脈無視や切り取りが得意技や。その直後の使徒言行録十五章二十一節を故意に無視するさかい。そこには何とあるか。「太古の時代から、モーセは都市に彼(モーセ)を公に語る者たちを持ち、安息日毎に諸会堂で読まれてるからや。」とあり、手紙では敢えて簡単に書くべきとした理由をヤコブが述べてる。なぜなら、これは信仰に入ろうとする初心者の異邦人向けの配慮でしかあらへん。信仰生活を続けて行く中で成長し、律法を学んで律法に服従する必要は依然としてある。また、この文意が「安息日毎に読まれてる」の対象となるんは、モーセに言及したことからモーセの律法を意味するのは当たり前であり、それが毎週安息日に読まれるっちゅう習慣が紀元前の昔からずっと行われ、一世紀当時の初代教会の時代においても変わらへん習慣やということを示してる。今でいう「新約聖書」は当時存在せえへんかったからね。つまり、パウロ書簡なんて当時のキリスト者たちは読まへんかったというこっちゃ。特に、上述したようにユダヤ人キリスト者やエルサレム教会員たちは絶対に読まへんし、従うこともなかったであろう。会堂とは集まる場所であり、今で言えば教会に相当する。当時はユダヤ人が聖書を会堂に保管し、仕事や家事等を一切せえへん安息日毎に皆が集まって朗読したり議論する場が会堂と呼ばれた。当時は今のように大量印刷する機械が無く、一人一冊聖書を気軽に持てる時代やなかった故、聖書を学ぶためには会堂に行きたくなくても行く必要があった。大量印刷技術が生まれたのは十五世紀中頃のヨハネス・グーテンベルクという独逸人が開発してからで、グーテンベルク聖書というカトリックのラテン語聖書を印刷したものが西洋初の印刷された聖書やった。千五百六十年初版のジュネーブ聖書もその大量印刷技術を利用して当時の欧州で普及した。しかし、印刷技術、活字印刷は亜細亜発祥であって欧州やない。ただ、亜細亜でも大量印刷技術は無く、木版といった手作業による印刷やったのが発端。こないな事情故、今のように一人一冊聖書を持つという贅沢が出来ず、一世紀当時は会堂に信者が集まってモーセの律法が安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に読まれてるとあるさかい、当時のキリスト者たちは会堂で律法を読み聞かされ、律法を聞いて学んで実践したということ。ここからも日曜日に教会に行く習慣というんが間違うてるし、聖書を読んで議論したり学びを深めてへんことが過ごし方としても間違うてることが明らかやろ。誰がオルガン等を買うて設置し、西洋の讃美歌を歌ったり、自称聖職者がしょうもない説教をしたり、食事等をする場にしたんや。西洋のにわかキリスト者どもであり、その習慣に他の民族が安易に従うて真似てるだけやろ。一世紀当時までは日曜日に礼拝なんていう習慣は無く、それを習慣付けたんは四世紀に入ってからやし、日曜休業令を出して礼拝日にし始めたんはローマ皇帝コンスタンティヌスで、すべてローマ(西洋)由来の悪しき習慣なんや。それは、過去記事「動画五回目投稿 ほんまもんの愛と暦とは」で発表した第五回の動画でも示したとおりや。過去に何遍も言うてきたとおり、日曜日は安息日やないし、休日でもないし、週末でもないし、週の第一日目であり、平日の労働日や。また、太陽暦の時計の零時で日付が変わるんやのうて、日没が日付の変わり目や。そのことは過去記事「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」でも説明済。毎週の安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)にユダヤ人も異邦人であっても、キリスト者なら、会堂でモーセの律法を勉強するさかい、各会堂での律法の学びに任せ、手紙ではそれ位でええっていうのが、ヤコブの主張や。ユダヤ人キリスト者たちの常識としてモーセの律法は守るべきとする意見が本筋であったが、それに猛烈に反対したパウロとバルナバがうるさくて煩わしかったのと、ペトロがイスラエル人も異邦人も、「信仰には差は無い」と言うたため、上手いことまとめる折衷案としてヤコブはその結論を出した。当該会議では、新規に主イエス・キリストを信じて従う生活をしようとする異邦人(亜細亜系の血統イスラエル人以外の人間)に対する戒めをどうするかのことが議題であったことが分かるが、日本人の約四割現存する亜細亜系の血統イスラエル人に適用されることではないし、信仰歴を重ねた異邦人にも適用されることでもない。あくまで初心者の異邦人限定やし、安息日毎に律法を学んで従って行くことが必要やからな。それを忘れてるとか、無視してるようではあかんし、間違うた信仰でしかあらへん。

使徒言行録十五章の前の文脈を辿れば、何故ヤコブがそないな決断をしたんかの経緯がよう分かる。世の自称キリスト者たちは、文脈を無視するからおかしな信仰になる。すべて拙訳の要約に基づいて説明する。あんたが持ってる聖書の内容と異なるなら、それは市販の聖書が誤訳をしてることを証明してる。
まず、ユダヤの地から来た幾人かが割礼を受けな救われへんと兄弟たちに教え(一節)、それについてパウロやバルナバと言い合いになって対立して、使徒たちと長老にこの論点について処理するためにエルサレムに行った(二節)。その道中にフェニキアとサマリアを通って、異邦人の改宗を布告して信仰の兄弟たちを喜ばせ(三節)、エルサレムの使徒たちと長老にそれを報告した(四節)。しかし、ファリサイ派から主イエスを信じるキリスト者になった幾人かが、異邦人にも割礼をしてモーセの律法を守るように命じるべきと言うた(五節)。使徒と長老はこの問題について考えるために集まり(六節)、ペトロが立ち上がって次のことを言うた。「我が口によって福音の言葉を異邦人が聞いて信じるように、昔の時から神が我等の間で選びはったことを知ってるやろと言い(七節)、心を知る神はイスラエル人にも異邦人にも聖霊を与えはり異邦人に証しをしはり(八節)、イスラエル人と異邦人の間で、異邦人の意志と性格を清め、(神は)信仰に何の区別もしはらへんかった(九節)。なんであんた方は我等の父祖も我等も耐えられへんかった軛を信者たちの首に置いて、神を試すんか(十節)。我等は主イエス・キリストの恩寵によって救われると信じ、異邦人も同じや(十一節)。」すると、群衆は沈黙し、バルナバとパウロの学び(両者によって異邦人の間で神がしはったしるしや奇跡)が述べられたんを聞いた(十二節)。二人が話を終えた後、ヤコブは答えて言うた。「聞いてください(十三節)。シメオン(ここではペトロを指す)が、どのように神が初めに気に掛けはって異邦人から人々を神の御名のために受け入れはったかを述べた(十四節)。預言者たちの言葉と一致する。こう書かれてるように(十五節)。我は戻って倒れたダビデの幕屋を立て直し、破壊されたんを立て直して回復する(十六節)。人々の残りと主なる神の名が呼ばれるすべての異邦人が主を探し求めるために。これらのことを行いはる主が言わはる(十七節)。その業は、大昔から神に知られてる(十八節)。」

上記がヤコブが決断を下す前の経緯であり文脈や。そもそもの原因がパウロとバルナバが反発したことが引き金になってることが分かるやろ。彼らが余計なことをせんかったら、その使徒会議は無かった筈。なお、ヤコブは、十六節と十七節はアモス書九章十一節から十二節までを引用してることが分かるが、間違いがある。アモス書九章十二節では「エドムの残りの者」と書いてるし、ヤコブは聖書の記載どおりに言われへんかったのか、使徒言行録の著者が書き間違えたかのどちらかであろう。そして、アモス書の預言とは趣旨が異なり、引用するには不適切やと拙者は判断する。なぜなら、アモス書九章十二節では「彼ら(イスラエル人)がエドムの残りの者と主の名を呼ぶ異邦人を所有するように」とあるさかい。しかし、ヤコブは所有のことはちぃとも触れてへん。故に、彼の聖書理解、または使徒言行録の著者の聖書理解が不完全か、使徒言行録の著者が誤って記述したかのいずれかに拙者には思える。よって、使徒言行録十五章十六節と十七節は、不適切な引用や。あのアモス書の預言は、将来的に主イエスが王として栄光の座に就きはり、十二使徒がイスラエル十二部族を統治する(マタイ十九章二十八節参照)ことになり、異邦人らはイスラエル人の配下につくということを示したものと捉えるんが拙者の解釈や。十二使徒も十二部族も亜細亜系の血統のイスラエル人やし、神の王国では異邦人が統治者になることは断じて有り得ず、それは神が定めはったこと故、変えようがない。聖書から明らかなとおり、紀元前の時代も一世紀当時もステファノの殉教前まで異邦人伝道は活発になされず、聖書や律法に基づいた生活習慣や文化も持たへん異邦人は神から愛されてへんかったことは明白やろ。そして、現代でも欧米人、支那人、朝鮮人、その他の民族には不信仰の者が多く、相変わらず神から遠く、滅んでるのが大多数やし、西洋かぶれしてる人全員が同じや。元々異邦人っていうのは神から選ばれた立場やないという事実を知り、分を弁えるべきであり、救われて当然と思うべきでもないし、偽使徒パウロらが主張するように律法を無視して楽に救われるなんて思うべきではないし、異邦人が救われても十二使徒とイスラエル人より下につく。こういうことを聖書を通して神が宣言しはってることも知らず、異邦人の分際で「頭が高い」のが多い。一世紀当時、主イエスにひれ伏し、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑から食べるからです。」(マルコ七章二十八節拙訳)と言うたあのギリシア人の女のような謙虚さが現代の異邦人に殆ど見られへん(現代に限らずそれ以前の時代も同じ)。ここで言われる「子供」とは血統イスラエル人のことで、「子犬」は異邦人や。彼女は、「食卓の下の子犬」と異邦人が低く置かれてる立場を認識し、イスラエル人と同等やないと弁えて、主イエスと話をし、主イエスはそれに感心しはり、彼女の望みを叶えはった。こないな姿勢と分の弁え方が異邦人の鏡ですよ。その本質を知って弁える人なら救われるが、それがでけへん異邦人は皆、滅びる。一般に、西洋人といった異邦人には高慢な者が多く、和服を着ることは日本人に屈したと判断する者が多い。彼らの心の底にある優生学的思想や人種差別意識が邪魔し、和服を勧めても「自分には似合わない」、「文化の盗用になる」、「不便そう」等と何やかんや言い訳をして忌避し、絶対に着ようともせえへん者が多い。文化の盗用って何って感じですけどね。ほんだら、「英米人以外が背広を着たりする欧州人やその他の外国人たちにも同じことを言えよ」って思いますけどね。英米人以外の西洋人も背広やジーンズ等を着て、自分らの文化と思うなら「文化の盗用」になるよね。西洋人同士なら許せて、背広やジーンズ等は良くて、和服は嫌って言うんは、ほんま浅はかな考えをしてること、差別的な行動をしてること、そして悔い改めの拒否をも示してる。これは西洋人による日本人(イスラエル人)への一種の差別意識やろ。彼らが亜細亜を見下してるからこういう行動を取る。また、罪を犯すんを意地でもやめへんのは逆に凄いなって拙者は思うよ。主イエスと神の律法に従うて永遠の命を得るよりも、頑なに世俗の習慣や西洋文化というどうでもええもんに執着するんやからね。日本人も戦後からGHQの洗脳教育で魂を抜かれて愚かにさせられ、急速に西洋かぶれが促進されて、本来の自分らの着物である和服を着ようともせえへんアホが多い。ほんま恥知らずばっか。
また、謙遜、へりくだりっていう概念を知らんのが西洋人や他の民族にも多いし、日本人は血統イスラエル人の末裔が居るさかい、その聖書から学んだ古い習慣が今も残ってるさかい、その違いが明白やと感じる。もっとも、現代日本人は、謙遜やへりくだりを理解してへんとか自己卑下とか自虐との区別がついてへん愚か者も多い。「分を弁える」ってことを知らん人が多過ぎる。自分らが如何に無知で破廉恥なのかを自覚してへんからね。聖書をまったく知らん分際で、拙者に偉そうに上から目線で意見したり、敵対したり、別の所で誹謗中傷等をしてるんも分を弁えへん行動や。聖書に「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節拙訳)と「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)と複数に渡って記述があるとおり、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従せん人が賢い訳がないんです。また、当該箴言から、聖書に依拠する拙者に敵対する愚か者たちが、知恵と矯正(誤りを正すこと)を酷く嫌ってるんも真実やと分かるであろう。投稿して来る者の殆どが、拙者への敵対心から来てるんが多いし、愚かな言い分を嗜めたり、しょうもない発言を削除した位で文句を言うしな。ほんま現代人は西洋かぶれが多過ぎやし、精神までやられてるあかん人が多い。非常に嘆かわしい。
古代イスラエル人の末裔である日本人であっても不信仰の者、異教徒、にわかキリスト信仰に甘んじてる者が多い故、多くが滅びる。上記のイスラエル人の下に異邦人がつくことは、それが主なる神が決めはった統治機構やし、聖書で明確にされてるさかい、拙者が思いつきで勝手に言うてることちゃうで。現代で西洋人をはじめとする異邦人が偉そうにしたり、社会的地位や富の大部分を占有して高ぶってられるんもこの腐敗した世が存続する間だけであり、それも終わりに近づいており、いずれ終わるし、永続せえへんで。キリストの再臨によって必ずこの悪い世は終わり、多くの不信仰の者、異教徒、にわかキリスト者といった悪人たちは滅ぼされる。
あと、余談で紹介しておきたいのが、信仰とは関係無いのが残念やけど、日本と和服が好きな西洋人は非常に珍しく、こちら(YouTube)で動画を出し、アメブロもやっており(最近はブログ更新が止まっており、動画に集中してる様子)、熊本に住んで普段から和服を着て、着物普及活動をしてる松永ビリー氏のような人も居る。でも、キリスト者になりたいなら、和服には房を付け、女はかぶり物をし、化粧やピアス等はやめるべきやし、着物の柄等に執拗な拘り等を見せるべきではない。それが異邦人(異教徒)が切に欲してることやさかい(マタイ六章二十九節〜三十二節、ルカ十二章二十七節〜三十節参照)、それが顕著な彼女には恐らくキリスト信仰が無いんでしょう。それにしても、情けないよね、独逸人という外国人が和服普及活動をして、日本人がしてへんのって。拙者も和服普及活動をブログと動画でやってる訳やが、それは主イエスの信仰に基づいてるし、律法に則るが故や。単に和装をすればええってもんやない。動機が重要や。もっと真剣に聖書を研究し、学んで、賢く、役に立つ活動を生きてる間に行いなはれ。人生は短いで。残された時間も短いで。拙者の再三に渡る警告を聞き入れて従わぬのなら、主の日が来て、裁きになった時、あんたらは神の御前で大いに恥じ入り、絶望することになる。過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」で引用したゼファニヤ書の聖句をよう肝に銘じるべきやで。服はたかが服やないし、何でもええのではない。服は何でもええと思たり、洋服がええと思うんは、人間の勝手な欲望に過ぎず、神より自分が偉いと思ってる証拠やし、高慢な証拠でもある。そもそも、「服は何でもええ」と言いつつ、和服は選ばず、洋服しか着ず、洋服に拘るんなら何でもええことないことになり、嘘をついてることになる。そう言う愚か者は、真っ当なことを言うてる振りして、悔い改めを拒んでる事実に気付かん愚か者や。「服は何でもええ」と言いつつ、通勤や冠婚葬祭等に背広を着たりするんやったら、何でもええってことにならへんよね。絶対に選んでるやろ。それも間違うた明治時代に作られた西洋かぶれのおかしな「世の常識」を基に。自分らの言い分のおかしさに気付きなはれ。大勢の人と同じことをしてたら安心ちゃうねんって。ええ加減にしなはれ。
拙者は言葉で言うだけでは分かりづらいと思う人のことを考えて、気を利かせて動画で見せとるんやで。それを理解せい。それでも拒絶するんなら、その者は自らを滅びに定めてる。

話が逸れたが、使徒言行録十五章の話で、使徒ペトロは「また、我等(イスラエル人)と彼ら(異邦人)の間で、彼ら(異邦人)の意志や性格を清め、(神は)信仰に何も区別をしはらへんかった。」(使徒言行録十五章九節拙訳)と発言した。このことから、信仰そのものにイスラエル人も異邦人も差は無いということが分かるが、これは正しい信仰を持てば永遠の命を得ることに差異が無いことを示す。しかし、亜細亜系の血統イスラエル人と異邦人が同じ扱いではないことは上述で主イエスと異邦人の女とのやり取りを引用して説明したとおりや。そのペトロの発言について、市販の日本語訳聖書も英語聖書も誤訳してることが分かる。「信仰によって(by faith)」と手段のように書いてるが原語の古代ギリシア語を読むと誤訳と分かる。原文には「〜によって」なんていう単語は無いさかい。
また、ペトロは「よって、なんであんた方は我等の父祖も我等も耐えられへんかった軛を信者たちの首に置いて、神を試すんか。」(使徒言行録十五章十節拙訳)と続けて言うた。これも律法廃止論の根拠にしたがる偽キリスト者が居る。しかし、この発言を「律法全体を守ること=軛」と解釈することは有り得へん。このペトロの発言の趣旨は、主なる神を長年知らず聖書も知らず、律法も知らん異邦人にとって、いきなり今日から律法を全部守り、一つも違犯するなと命じるのは酷であるという配慮であると理解出来る。それやのに、読解力も理解力も無い自称キリスト者は、その発言の部分だけを切り取り、未来永劫律法を無視してええという風に捉える。しかし、その考え方は、文脈無視から出たものでしかあらへん。聖書全体の趣旨を踏まえ、かつ、理知的及び論理的に考えれば有り得へん解釈や。ペトロは十二使徒の一人であり、主イエスの教えを受けて、律法遵守の立場やった。主イエスは、「我は優しさであり、謙虚やさかい、あんた方は我が軛を担い、我から学びなはれ。そうすれば、あんた方はあんた方の魂に安らぎを得るであろう。」(マタイ十一章二十九節拙訳)と教えはり、律法遵守する模範を見せはった主イエスから学び、その軛を担えと言わはったし、それに従えば魂に安らぎを得るともある。注意してもらいたいんは、肉体的に安らぐのではないという点。誰が肉体的、物理的に楽をすることを言うたのか。主イエスは言わはらへんかったで。そもそも、悪い者が支配するこの世で生きる上で、人間があらゆる労苦や軛を一切負わへんなんてことは有り得へんし、律法を守らずに罪を犯し続けてると魂に安らぎが得られへんのや。拙者が今までずっと宣べ伝えてきたとおり、律法は軛やないし、法は秩序維持のためにも必要であり必須なもの。人間の法律かて同じやん。法律も何も存在せえへんとか、全部廃止されて無効となれば、無秩序で無法地帯になり、誰も取り締まれず、罰を与えへられへんようになり、多くの人が悪事をやりたい放題で、悲惨な社会になるで(既に一部の権力者や金持ち等が犯罪を犯してるのに検察が故意に放置したり、不起訴にしたりして処罰を逃れてる現状があり、法治国家では無くなっとるけど)。現に、今、コロナ茶番で政府、地方行政、報道各社、医療機関、御用医師、御用学者等が殺人ワクチンを安全と嘘をつき、治験中と告知せずに推奨したり促進するという公然と犯罪を犯し(奴らの所業はニュルンベルク綱領違反で、死刑相当の凶悪犯罪)、未だに罰せられへんやろ。彼らはコロナ以外でも多くの犯罪を犯してるよ。彼らは憲法や刑法もその他の法律にも違反してるのに、捜査機関は意図的に動かへんし、共犯であることを示してる。このように、法治国家ではないと悲惨やし、社会が悪化するのみや。こちら(キリスト道)に書いたことをすべて読みなはれ。欧州では正義感を持つ裁判官や弁護士といった法曹が政府や政府を操るビル・ゲイツや世界経済討論会(WEF)の構成員等を犯罪者として刑事告訴してる。日本もそうすべきであろうが、犯罪者の仲間なのか、それとも臆病者ばっかなのか知らんけど、誰もしてへん…。ほんま現代日本人はアホやろ。言いたかないけど、言わずにはいられへんよ。あんたら、目を覚ませよ。あんたらに死んで欲しくないし、日本が滅んで欲しないから言うてるんや。この愛を理解せい。それなのに、拙者の口が悪いとか言うて拙者を中傷してる奴は精神的に重度の病気や。悪霊に取り憑かれて、善を行う気持ちがまったく無く、善を行う者や言う者に対して悪意や敵意しかないんやろね。そないな異常者ではないと言うなら、真実を知り、犯罪者たちに屈せず、立ち向かえ。こない単純で当たり前のことが分からへん人は、ほんまに人間としておかしい。このコロナ犯罪を人間が自分らで裁けへん程に正しい倫理観を失い、真のキリスト者を大迫害するに至るなら、人間がこの地を統治する資格が無いと神が思し召しはり、いよいよこの不法に満ちた世界を滅ぼすのに何の躊躇いも無くなるであろう。拙者もその神の裁きには強く同意するけどね。この異常な不法行為を裁けへんのなら、人間が法による統治行為がでけへん無能で悪であること以外に何も無く、害でしかあらへんし、存在価値が無いさかい。
よって、法は、健全な秩序維持のためにも必要であり、かつ、神の正義を示した神の律法を廃止すると主張する者は無法者であり、その律法廃止論は悪魔の教えであり、人間を罪の奴隷に繋いだまま、地獄行きを決定付ける。

ペトロが食物規定を守ってたことは「主よ、とんでもないです。粗野な物や汚れた物は一切何も食べたことはあらへん。」(使徒言行録十章十四節拙訳)と言うたことからも分かる。食べもんについての規制は主イエスの教え(マタイ十五章十七節参照)から分かるように軽減されたと判断出来るが、ペトロは生粋のユダヤ人で昔から律法を守る環境で生まれ育ったため、キリスト者になっても律法を守り続けてたことが分かる。別に食物規定を守ったとしても間違いやないし、律法を破ったら罪を犯すことになり問題やが、律法を守ってるなら罪を犯すことにはならへんさかい。主イエスが昇天しはった後でさえもペトロはこの状態であり、十二使徒になって聖霊を受けた後でも律法遵守者であることは揺るがへん。そもそも、律法廃止は有り得へんという主イエスの教えを受けた十二使徒が、主イエスの教えに逆ろうて、律法を廃止するようなことを言う筈がないし、律法違犯の行為をする筈もない。その聖句は後でペトロが粗野で汚れた食べ物が異邦人を意味する例えの幻であったことを理解し、異邦人とも話すようになった。それまではユダヤ人は無法者の異邦人と交際するなとか話すなとユダヤ人の先祖の言い伝えで拘束されとったさかい。異邦人という外国人というだけで一律に毛嫌いして関わらんようにしてたユダヤ人(ペトロを含む)への戒めに過ぎひん。先の使徒言行録十五章のくだり、ペトロもヤコブもハプログループD系統の日本人を含む亜細亜系の血統イスラエル人らは当然に律法を守るべきことには疑問が一切無く、その他の民族である異邦人についてが議題で意見を述べただけ。余計なことに、パウロとバルナバがしるしと奇跡を異邦人に見せて回心に成功したと粘って主張し、それをダシにして律法が不要かのように言う主張を繰り返したことで会議は収拾がつかず、折衷案として、信仰に入りたての異邦人を悩まさへんために、まずは「偽りの神々の悪影響、婚外性交、絞め殺されたもの、血」(使徒言行録十五章二十節拙訳)を忌避し、後は毎週の安息日で会堂に行って律法を勉強して、各自で律法の知識を身につけて守ってください(使徒言行録十五章二十一節参照)というんがヤコブの結論やった。ファリサイ派からキリスト者に転向した集団が、異邦人も割礼をして律法を守ることが必要と主張してた(使徒言行録十五章五節参照)。しかし、ペトロがモーセの律法をすべてそのまんま守る、例えば神殿や祭司制度を維持したり、生贄の動物を屠るとか男が肉にする割礼には意味が無いことを知り、それらの規定をも義務化させてもしゃあないし、信仰に入りたての異邦人にいきなり律法を全部一気に守れと命じるのはきついであろうと配慮を示す趣旨で反論したが、律法全体を完全無視することを決議したんやないし、あくまで「主イエスの信仰に入りたての異邦人が初期の段階で最低限守ること」であって、亜細亜系の血統上のイスラエル人が従来どおりに律法遵守するんは変わらんし、議論の余地も無かった。パウロとバルナバが異邦人の間で自分らが行ったしるしや奇跡ばっかを強調し(使徒言行録十五章十二節参照)、律法遵守をする必要が無いと必死に抵抗したんでしょう。せやから、拙者は、「パウロは偽使徒」やと言うてるんや。しるしや奇跡で惑わすのはどういう人間か知らんのか。主イエスは「出来れば、選ばれた人たちを惑わすために大きなしるしや奇跡を起こす。」(マタイ二十四章二十四節拙訳)と教えはった。偽キリスト者は、毎度しるしや奇跡に頼り、それを誇示し、大事なこと(例えば、神の律法)を軽視することで人を惑わす。そして、律法を無視して守らず、不法を行うのなら、なんぼ悪霊の追い出しや奇跡等を主イエスの御名を用いて活動したとしても、後で主イエスから「あんた方のことは全然知らない」(マタイ七章二十三節参照)と言われて拒絶されるのがオチやとなんで分からんのかね、って不思議に思う。パウロとバルナバのせいで折り合いがつかへんところを何とか収拾させようと、当時のキリスト者の中心であったエルサレム教会の当時の監督者であったヤコブは、少し譲歩気味にそのように言うたのであり、それでも律法への擁護も忘れへんかった。
しかし、パウロを使徒と狂信し、パウロ教を信じる世俗のキリスト教会の業界全体では、使徒言行録十五章二十一節を意図的に無視し、その前の二十節の内容のみを切り取って採用してる現状がある。中世時代に興ったプロテスタントもパウロ教信者でしかなく、一世紀から今に至るまでずっとパウロ支持者どもは皆そないな感じなんですよ。律法廃止論は、楽な広い門で広々とした道やさかいな。怠惰で楽をしたがる人間はそっちに転がり易いっちゅうこっちゃ。現代では、自称キリスト者どもは更に悪化しており、異教の冠婚葬祭の行事に参加したり、有害無益な輸血をはじめ、血が滴るような肉を食して血の摂取を容認したりして違反し、婚前性行為を容認したり、婚外性交(不倫)をする者も居てることから違反し、諸々違反だらけであの少ない戒めの手紙の内容すら守ってへん自称キリスト者が多いやろ。律法全体を無視して違犯する上、あの初心者の異邦人が信仰の初期段階から守るべき内容すら守られへん人間が「キリスト者」と自称する始末で、ほんまに恥知らずの愚か者が多い。手紙の内容はもとより、律法全体をも無視して大変罪深いし、まったく悔い改めてへん人間が多過ぎるやろ。そもそも、あの手紙の拘束力が絶対的でもないし、主イエスを信じようとする初学者の異邦人限定やし(入口は取り敢えずそれで、後で律法を学んで守る必要あり)、主イエスの御言葉どおり、律法は廃止されへんのやから、いつまでも律法を無視しとったらあかん。
現代では、服装も考え方の何から何まで一世紀当時の見る影も無い程に堕落を極め、教会では律法は廃止されたと誤った考えが信じられとるせいで、律法はちぃとも読まれへんし、律法の重要性を知らん人ばっかやし、律法を勉強もせえへんし守りもせえへん。これではキリスト者失格や。世の大多数のにわかキリスト者どものしてることが間違うてることにええ加減気付きなはれ。そもそも、牧師といった自称聖職者からして、反キリストであり、聖書を理解してへん「ド素人」が多く、むしろ聖書を悪用したり、曲解したりして主イエスに逆ろうてる人ばっかで、あかんからね。
主イエスが何と教えはったか知らんのか。

新約聖書 マタイによる福音書 五章十七節〜二十節(拙訳)
我が来たんは律法や預言者を廃止するためにやと考えたらあかん。廃止するためやのうて、実現しに来たんや。確かに、あんた方に言うとく。すべてのことが起こるまで、天地が消滅するまで、律法の文字から一点一画消えることはない。せやから、もし誰かがこれらの掟の最も小さなものを一つを破棄し、そうするうように人々に教えるなら、各天の国で最も小さい者と呼ばれるだろう。しかし、それを行って教える者は、その人は各天の国で優れた者と呼ばれるだろう。 確かに、言うとく。あんた方の義が律法学者やファリサイ派の義よりも優れてなければ、あんた方は決して各天の国に入ることがない。

新約聖書 ルカによる福音書 十六章十七節(拙訳)
しかし、律法の一画が消滅するよりは、天地が滅びる方が易しい。

新約聖書 マタイによる福音書 十九章十七節(拙訳)
もし命に入りたいなら、掟を守りなはれ。

上記が主イエスの教えや。過去にも説明したことがあるが、再度言うとく。上記の主イエスの教えから明白なように、律法は廃止されてへんし、むしろ永遠の命を得るために律法、掟を守れと教えはった。また、主イエスは律法を廃止するためにこの地に受肉して来はったんやのうて、律法を実現し、よりええものにしはった。贖罪の儀式で動物の犠牲をする代わりに、主イエスが十字架で罪無き(傷無き)神の子羊として御自身を父なる神に献げはったとおり。このように、主イエスは律法を遵守し、実現もしはった。せやけど、それでお終いで主イエスの十字架の死以後に人間が律法を守らんでようなったという記述は聖書には存在せず、律法が今も有効なんは事実や。なぜなら、主なる神は、悪魔や人間のように嘘をついたり、気が変わったりすることがないからや。主イエスは「アブラハムが存在する前から我は在る。」(ヨハネ八章五十八節拙訳)と言わはったとおり、創造主の主なる神や。受肉しはって「人の子」となったが、神や。その主なる神の御言葉は一切変わらんし、人間に対して律法を守れとずっと言うてきたのに、十字架以後は守らんでええなんてことになる訳ないやろ。主イエスは十字架以後に律法を廃止するなんて一言も言わはらへんかった。そう匂わすようなことを言うたんは偽使徒パウロとパウロ信者たちのみ。

 


確かにあんた方に言うとく。律法はモーセ以前にもあった。その証拠は創世記二十六章五節にある。新共同訳は「戒めや命令、掟や教え」としてるが誤訳であり、日本聖書協会は口語訳(千九百五十五年)と新共同訳(千九百八十七年)編纂の時は「律法」という言葉を避けて別の単語に故意に誤訳し、聖書協会共同訳(二千十八年)でようやく「律法」と訳した。実際、当該聖句の原語は、トラー(וְתוֹרֹתָֽי)であり、まさに「律法」なんや。律法をトラーってヘブライ語で言うさかい。アブラハムの時代で既に律法を守ってたことが明らかや。それやのに、アブラハムの時代より後の四百年間古代イスラエル人は奴隷としてエジプトで虐げられ、モーセが出エジプトを主導してシナイ山で神から十戒を授けられてから律法が成立したに過ぎひんと貶したり、天地創造の時から安息日が存在するのにモーセの時代からと嘘を言うたり、律法は主イエスの十字架以後は廃止されたとか、律法はイスラエル人だけに適用されるとか言うてる奴は皆、嘘つきの悪魔の子や。こないな嘘はすべて過去記事で論破済であり、反キリストの嘘つきや律法に敵対的な者は皆、滅びる。神がモーセに律法を与えたんは、神が選びはった亜細亜系の古代イスラエル人が全人類を代表として契約として正式に与えたのであって、少なくともアブラハムといった今から約四千年も前の時から既に神の律法は存在し(法という秩序が無いことは有り得ず、それ以前もあったであろう)、今も有効というのは聖書から分かることや。そうでないとモーセ以前の時代の人間は神からどう裁かれるのか。当たり前やが、ずっと太古の昔から神の律法はあったし、それに基づいて神が人間を裁く。これらを知らんと知ったかぶって聖書について嘘を言う自称キリスト者どもは反キリストや。

 

(続く)