こんにちは。

 



今回は、聖書は六十六巻だけが正典やあらへんことについて述べます。

聖書は六十六巻が正典とされており、新共同訳や聖書協会共同訳で旧約聖書続編付きでもなければ、旧約聖書と新約聖書を合わせて六十六巻とされて出版及び販売されてる。しかし、これらは明らかに誤りであり、実際はもっとあるんや。いや、あったというのが正しい言い方や。と言うのも、他の書物はローマ・カトリック(バチカンの図書館に眠ってるかもしれへん)、ユダヤ教団、グノーシス主義者、秘密結社、ロックフェラー家といった大富豪ども(死海文書の管理にロックフェラー家が関わり、エルサレムにあるロックフェラー博物館の管理下にあるのは周知の事実)によって隠され、改ざんされ、破棄されたからや。勿論、カトリックやイエズス会も絡んでるであろう。カトリック、イエズス会、ロックフェラー等の悪魔崇拝者たちの嘘つきが本来聖書に収録されるべき書物を公開してへんし、死海文書も隠さず全部公開してるとたとえ言うたかて、信憑性がある訳ない。散々嘘をつき、世界を悪くしてきた人たちやさかい。一般公開されてるのは、彼らにとって問題無いと判断されたもののみで、不都合なものは全部隠したか、改ざんしたか、破棄したかと考えるのが妥当。こちら(BitChute)でもロックフェラー財団がロックステップ文書を二千十年に公開し、当初は二千十二年に何かする予定やったようやがそれが実際は不能で延期になり、それが二千二十年に始まったコロナ茶番に適用されてる事実からも明らかであり、ロックフェラーという米国の大富豪、財閥を信用出来るかってこと。無理やろ。彼らのことをよう知りもせんと信用すると言うのは、彼らと同じく反キリストの人間であり、権威主義、拝金主義の愚か者。
拙者は、聖書が六十六巻として正典化されて現存する書物にカトリック等が第二正典として認めてるものを加えるように言うてるんやないし、それらを擁護してるのでもない。キリスト者と自称してる人の中には、こちら(YouTube)の内容を真に受ける人も居てるが、間違いや。聖書が今広く普及してる六十六巻しかないと思い込めるのは、実際に聖書を通読したことがない、または読んでも理解してへんのであろう。もし聖書を読んだのに気付かへんのであれば、字面を追っただけで内容が頭に入ってへんのやから、読んで理解してることにはなりまへん。根拠は以下のとおり。

旧約聖書 ヨシュア記 十章十三節(拙訳)
太陽は止まり、月はじっと留まった。その民が敵たちに復讐するまで。『ヤシャルの書』にそう書かれとるやないか。太陽は丸一日、中天にじっと留まり、急いで動こうとせんかった。

ヤシャルの書は、サムエル記下一章十八節にも登場するが現在聖書の正典に入らず、広く普及してへん。おかしいよな。正典に二度も言及されてる書物でありながら、正典と認められずに外されてるのが。意図的でしかあらへん。ちなみに、当該聖句でヤシャルの書を引用しており、そこには太陽と月の動きが止まるとあり、天動説の一つの根拠であり、過去記事「地球球体説と地動説という大嘘と太陽神崇拝」でも紹介済。仮に地動説なら、この地が止まるという書き方にならなおかしいが、それは有り得へんことが証明されてる。
ヤシャルの書は英語ではあるようやが、日本語書籍では出回っておらず未確認であるが、ヨシュア記にて紹介されてるとおり、太陽や月の運行について書いてるのであろう。ちなみに、偽典とされるエチオピア語のエノク書には太陽と月の運行について書かれており、明らかに天動説を裏付け、天動説は正典とも矛盾せえへん。聖書を敵視する悪魔崇拝者である世の支配層にとって、天動説が真実であるとバレたくないがために必死に隠しており、義務教育の学校やテレビや映画等を通じて球体説や地動説、宇宙、太陽系、銀河等という大嘘を大衆に吹聴し続けとる。中世以降現代に至るまで地動説やこの地の球体説という虚偽が流布される理由は、悪魔崇拝者である支配層や大富豪らが、聖書の真実性を隠して貶めたいがため、人々が主イエス・キリストを信じひんように仕向け神から引き離したいからや。

旧約聖書 民数記 二十一章十四節(拙訳)


それで、『主の戦いの書』にはこう言われている。

※「戦いの書」というのが死海文書にあるようやが、民数記の「主の戦いの書」と同一かは未確認のため不明。上記聖句の直後の文言が死海文書の「戦いの書」にあるかどうかが一つの判断材料になるであろう。

旧約聖書 列王記上 十一章四十一節(拙訳)


ソロモンの他の事績、彼が行ったすべての事、彼の知恵は、『ソロモンの事績の書』に書かれてへんやろか。


 

旧約聖書 歴代誌上 二十九章二十九節(拙訳)


ダビデ王の事績は、初期と後期も、見よ、『先見者サムエルの言葉』、『預言者ナタンの言葉』、及び『先見者ガドの言葉』に書かれてる。

旧約聖書 歴代誌下 九章二十九節(拙訳)


ソロモンの他の事績は、初期と後期も、『預言者ナタンの言葉』、『シロの人アヒヤの預言』、『ネバトの子ヤロブアムに関する先見者イエドの幻』に書かれてる。

旧約聖書 歴代誌下 十二章十五節(拙訳)


レハブアムの事績は、初期と後期も、『預言者シェマヤと先見者イドの言葉』に系図に従うて書かれてへんか。

旧約聖書 歴代誌下 十三章二十二節(拙訳)
アビヤの他の行いと彼の事績と言葉は、『預言者イドの注釈』に書かれてる。

旧約聖書 歴代誌下 二十章三十四節(拙訳)


ヨシャファトの他の事績は、初期と後期も、見よ、『ハナニの子イエフの言葉』に書かれてる。これは『イスラエルの列王の書』で触れられてる。

※この『イスラエルの列王の書』は、今ある列王記上下を意味する可能性があるさかい、数に入れてへん。その他、『ユダとイスラエルの列王の書』も、列王記下の『ユダの王の歴代誌』等というのは重複の可能性を考慮し、逐一列挙するのを割愛してる。

旧約聖書 歴代誌下 二十四章二十七節(拙訳)
そして、ヨアシュの子ら、王への多くの託宣、また、神殿の修復については、見よ、『列王の書の注釈』に書かれてる。その子アマツヤが次の王になった。

旧約聖書 歴代誌下 三十三章十九節(拙訳)


彼の祈りと嘆願されたこと、彼のすべての罪と背信の行為、また、彼がへりくだされる前に、彼が高台を築き、アシェラ像と彫像を立てた場所は、『先見者ホザイの言葉』に書かれてる。

旧約聖書 歴代誌下 三十五章四節(拙訳)
そして、あんた方はイスラエルの王ダビデの詔書とその子ソロモンの詔書に従って、あんた方の父祖の家系毎に、区分に応じて準備をしなはれ。

※これは、イスラエル王国が北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂して、ユダ王国の王として即位したレハブアムを初代王として起算して第十六代王であったヨシヤの発言内容という文脈であり、事績の書とは異なり、別途、イスラエル王国が分裂する前の王であったダビデの詔書とソロモンの詔書があると、ここでは言及されてる。列王記の「事績の書」は、王の行いや実績が書かれた文書のことで、歴代誌の「詔書」は、王の命令が書かれた文書であり、別物。文脈上、過越祭と神殿の奉仕のことについて、ダビデやソロモンからの指令があったとみられ、有用な参考文献になるはずが、行方不明になってる。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 五章九節(拙訳)


書簡であんた方に、婚外性交する者たちと付き合ったらあかんと書いたが、

※ここで過去形で書かれてることからこのコリント一以前のものであることは明白。新約聖書ではこの書がコリント一となってるが、上記聖句で言及されたその「書簡」こそが本来コリント一となるべきもので、それは偽典として翻訳書籍が存在するが、非常に短いし、復活を否定するような偽り者を簡単に弾劾する趣旨のもので、目新しい内容は何も無い。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 三章三節(拙訳)
啓示によって神が我に知らせはった奥義や。以前少し書いたように、

※明らかにエフェソ宛に別の手紙を書いたことが分かる。もし初めて書いたのであれば、こないな書き方は有り得へん。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 四章十六節(拙訳)


また、この手紙があんた方の間で読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるようにしなはれ。また、ラオディキアからの(手紙)を、あんた方も読みなはれ。

※コロサイもラオディキアも現トルコにあり、互いの距離は約二十二キロメートルであった。関西で言えば、大阪の梅田から兵庫の芦屋までの距離。東京都内で言えば、東京駅から三鷹駅までの距離。徒歩なら五時間半程度掛かる。偽典にラオディキアの信徒への手紙があるが、非常に短いもので目新しい記述も無く、読む価値は無い。

新約聖書 ユダの手紙 十四節〜十五節(拙訳)


そして、アダムから七代目のエノクもまた、預言してそれらの者について言う。「見よ、主は数切れへん聖なる者たちと共に来はる。すべての人に裁きを執行するためと、不信心な者たちがしたすべての不信心な行いについて、及び、不信心な極めて邪悪な罪人が主に対して言うた彼らのすべての暴言について、不信心な者全員に有罪判決を下すためや。」

※上記聖句のユダの発言のとおり、明らかに一世紀当時ではエノク書は当たり前に読まれていたと解するのが相当である。今では、エチオピア語のエノク書が現存するが、これも部分的に改ざんされてると感じる記述がちらほらある。それ故、現在伝わるエノク書というのを全部正しいとして受け入れるのは危険やが、堕天使のことや太陽と月の運行として天動説について触れてる点は悪魔崇拝者の支配層がそれを隠して、嘘で世界中の人々を騙してる事実からも、それを暴くというかその洗脳から目を覚ます参考資料として少しは有益と言える。

紀元前の時代や一世紀当時には今のような聖書の誤訳、底本改ざん、隠蔽、破棄等が無かったさかい、言及があるんや。拙者が、今正典とされる聖書内だけで、聖書として収録されてへん他の書物についての言及についてざっと調べただけでこれだけ存在し、旧約聖書続編にも入ってへん文書や。これらだけで少なくとも他に十九の書が存在してることが明らかや。現在正典とされてる新約聖書内において、旧約聖書の律法や預言者の書、詩編等からの引用は多いが、何故上記に拙者が列挙した書物の数々が聖書の正典に収録されへんかったんか疑問に思うことはないんか。旧約聖書にもヤシャルの書等をはじめ載せるべき書物がまだ多くあり、旧約時代の預言者の書も他に存在することが分かる。新約聖書においては、パウロが他にも手紙を書き残したことが分かるし、ユダの手紙からはエノク書の存在を肯定出来るし、何より不自然なのは多くの十二使徒の手紙が収録されてへんという事実。十二人も使徒が居ながら、半数以上の使徒たちによる書簡は一切正典に入ってへん。そもそも書き残してへんとか、残ってへんというのなら、それまでやが。たとえ書いてても世の権力者に不都合なら隠蔽される、改ざんされる、破棄される等が行われたことも否定でけへん。幾らかが外典や偽典として存在してるのみやが、それらにはおかしな記述も多く、マリアを聖なる者扱いする等とカトリックやグノーシス主義者による作り話、改ざんが見られるんも多く、正典から除外されて然りという感じはする。
世俗社会ではエノク書を偽典扱いし、除外し、多くの人の目に触れへん。エノク書のどっかに改ざんが加えられて正典から外された可能性も無くはないが、ユダが引用してるように一世紀当時はエノク書は当たり前に読まれていたと解する。エノク書には天使、悪魔、巨人であるネフィリム(堕天使と人間の女との間に出来た子供)について創世記以上に詳しく書かれてるさかい、悪魔や悪魔崇拝者である世の支配層の人間、権力者や富裕層ども、カトリックといった偶像礼拝をするカルト宗教信者どもには不都合であり、大衆に目に見えへん存在や聖書への興味を無くさせるため、また、聖書を単なる神話や御伽噺として片付けたいがために偽典扱いにして排除したんは容易に想像出来る。それ故、はるか昔からカトリック教会をはじめ、ユダヤ教団、グノーシス主義者たち、哲学者ども等が本来聖書として収録されるべき多くの文書を改ざんしたり、破棄したり、隠蔽したりして意図的に正典から省いて、人々に広く認知させへんようにしてきたし、進化論や地動説等といった聖書に反する偽りを広めて、世俗の学校教育や娯楽で人々を洗脳して、聖書と主イエス・キリストに興味を持たせんように仕向けてるんや。

拙者が上記で列挙した聖句で言及されてる書物群は、今ある聖書に収録されず、旧約聖書続編にも無いし、日本語では入手困難なものもある。
また、主イエスの御言葉である「こう書かれてる。『メシアはこのように苦しむ必要がある。三日目に死んだ状態から復活する。また、回心と罪の赦しが、その名の下にあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」(ルカ二十四章四十六節〜四十七節拙訳)から分かるように、その御言葉が本来、旧約聖書のどっかに書かれてるはずやが、この預言は、現在旧約聖書として収録されてる書物には記述が無い。ホセア書六章二節は主語が複数人であることからも神の民の復活の預言であることは明白で、この初穂としてメシア(救世主)が最初に復活したとも受け取れなくもないが、メシアが苦しむ必要があるとか、回心と罪の赦しがメシア(主イエス)の名の下にあらゆる国民に宣べ伝えられるというくだりはその前後にも書かれてへんことから、ホセア書を意味するのではないことが分かり、他に失われた預言者の書があることを示す。上記で列挙した旧約時代の預言者の書なんか、更に別の書かは不明。福音書内での主イエスの御言葉は律法、イザヤ書をはじめとする預言者の書、詩編からの引用が確認出来る箇所が殆どで、主イエスが「こう書いてる」と言わはる箇所は実際に旧約聖書の中に存在する。荒野での悪魔による誘惑を撃退する時に引用した御言葉は申命記にあったし、公生涯でイザヤ書の預言を引用したこともあったし、昇天間際においても主イエスが嘘をつくはずもなく、この預言が書かれた箇所が今正典とされてる聖書内に存在せえへん事実からも一世紀当時は当たり前に収録されとった旧約聖書から意図的にメシアに関して預言した他の書物が後世に意図的に除かれた証拠や。主イエスは聖書に無いのに、「書いてある」とは絶対言わはらへん。どうせ主イエスが救世主である事実を否定したくてたまらへんユダヤ教団ども、グノーシス主義者ども、哲学者ども、古代ローマ帝国の権力者、カトリック教会関係者等の手によって除かれたのであろう。何故こないなことになったんか考えたことはないか。もしこないな疑問を抱かず、調べたこともなく、聖書が六十六巻しかなく、それでええと思い込んでるなら完全に思考停止してる。世の中、とりわけ世のキリスト教と名乗る諸教会や諸教派、ユダヤ教団どもが不信仰で悪さをする人たちと思わなあかん。ユダヤ教の祭司長や長老らは、多額の金を兵士らに渡して主イエスが復活したのではなく、主イエスの弟子たちが遺体を盗んだという嘘を吹聴させるような人たちやったからね(マタイ二十八章十一節〜十五節参照)。今の宗教団体も皆同じようなもんやし、キリスト教という看板を掲げててもあかん。彼らは拙者のように純粋に聖書の御言葉に依拠するキリスト者ではないさかい。彼らはいつも表向きは親切にしたり、ええ行いに熱心かのように装うかもしれへんが、その本性は大きく異なるし、金に目が無く、その他肉の欲にまみれて、公に言えへんことをしてる。バチカンといったカトリックの不祥事、欧米を中心とするプロテスタント牧師等による不祥事も挙げれば枚挙に遑がない。彼らは皆、偽り者や。ユーチューブ等で説教して人たちも、生温い信仰や間違うた神学に基づく偽福音を信じ、嘘ばっか吹聴してる。騙されたらあかん。

上記で紹介したEden Mediaが字幕を付けた動画、あないな異邦人が言うことを真に受けてるようではあかん。六十六巻を何故か六と六に分けて無理矢理に律法に当てはめることで、あたかも正しいかのようにこじつけるが、まったくの誤りや。六十六は、どう考えても六と六には分けられへんやろ。六十六を半分にすれば三十三が二つ生じるだけで、六と六にはならへん。レビ記二十四章五節から六節にあるとおり、六と六に分けられるんは、十二を半分にして六と六に分けるからや。もう一度言うで。十二を半分にして六と六にしたとレビ記に書いてるやろ。理解でけへんのか。こない簡単な割り算がでけへんのか。六十六を半分にしても六と六にはならへん。アラビア数字の66と表記するから六が二つに見えるという錯覚に陥るが、実数としてはその分け方や考え方は絶対に有り得へんし、アラビア数字の表面的な見方でしかあらへん。小学生でも分かる簡単な割り算やろ。十二を二等分して六と六になるのが律法に書かれとる内容や。六十六を二等分しても六が二つには絶対にならへん。このように、彼の説明が完全にいかさまやということが分かるやろ。アラビア数字で表記することの悪さがこのことからも分かる。本来、日本語では漢数字で数字を書くのが当然で、終戦前まではそれが当たり前やった。全部、米国の占領統治の弊害であり、戦後に急速に悪化した。特に、現代は最悪の状況を更新し続けてる。日本人たちよ、早よ改めて、西洋かぶれをやめよ。六十六という数字はフリーメーソン等の悪魔崇拝者が好きな数字や。三十三がフリーメーソンの最高階級の数字であることから彼らは三十三という数字が大好きであり、現代の報道でも三十三という数字をでっち上げてわざと誇張してんのが目立つ。また、六十六は三十三の倍数であり、他には十八(六が三つで、666を暗示するため)や十一、二十三、四十六等とこのような類の数字はフリーメーソンやイルミナティ で重視されてるため、世の支配層たちは好む。せやから、遠い昔に彼らが意図的に多くの書物を除いて正典を六十六巻にまで減らしたと考えるのが相当である。ツイッター上でそのEden Mediaの動画を拡散したり、いいねしてる人がキリスト者と自称する者にある程度居てるさかい、騙されてるにわかキリスト者が多い事実を知ってる。せやから、拙者は指摘しておく。あの異邦人が言うように、世の仕組みや陰謀を知ってもイエス・キリストを知らんかったら無意味とか、救われへんという部分は正しい。せやけど、あの異邦人の説教者本人が律法を守ってへんし、聖書を正しく知らんし、ほんまもんの福音を知らんように拙者には見える。彼は平気で嘘をついてる。上記で摘示したとおり律法の「イエスが外典から一度も引用することはなかった」というんも嘘であり、正典から外されて未だ見ぬ書物からの引用の疑いを拙者は上述で指摘したとおりや。また、「新約聖書の著者たち、使徒たちは外典から一切引用しなかった」とも言うてるが、これも嘘。上記で書いたように、ユダは「エノク書」と「モーセの昇天」を引用した(「モーセの昇天」という書籍は存在が現代では不確かなため、上記列挙に挙げへんかったが、これもユダが言及したことで正式なものと含めるなら、不足してるんは少なくとも二十に及ぶ)。彼のように、偽りを教える説教者を偽教師という。偽教師については、ペトロが手紙で警告してます(ペトロ二 二章一節参照)。あないなもっともらしい言い分を見聞きして感心して称賛する投稿をしてる人たちや同意する人たちも同じくあかん人たちで、信仰が薄い。こないなにわかキリスト者が、世にはごまんと居てる。拙者は知識に溺れてへんし、知っただけで満足する者でもない。御言葉を実践する者や。聖書の御言葉を実践してへん彼とはちゃう。聖書のほんの一部を知ってるだけとか、聖書を曲解して偽教義を盲信しとるくせに自分は立派なキリスト者と勘違いしてる者こそ、少ない知識に溺れて自己満足してる愚か者と言えよう。せやから、拙者は正しい聖書の真理の知識を得ることは重要と考えてるし、それを実践する者になりなはれ。知るだけで終わったらあかん。聖書にもそう戒めがあるやろ。知るだけではあかんし、知るべきことを知らんのは論外です。無知が罪、あかんことやと前回記事「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」でも書いたことや。あの異邦人も知識人に対して敵意を持ち、「キリストに結ばれてない」とか「神と関係を持っていない」等と繰り返し言うてる。ブーメランなんですよね。「あんた自身もそやで」と拙者からは言わざるを得ない。自分は世の悪について知るよりも、イエス・キリストが大好きでええ関係を築いてると思ってるんやろか。甘いで。こないな「自称キリスト者」はごまんと世に居る。真相論は全部無視し、世の権威を信じて律法を無視して世俗的に生きてる分際で、「主よ、主よ」と虚しく言うてるにわか信仰に安住してる奴らがどれだけ多いか知らんのか。せやけど、この人らは知識を軽んじ過ぎて、話にならへん。知識が豊かな人を見て、一種の嫉妬を抱き、「知識があっても救われない」等と負け犬の遠吠えみたいにしか聞こえへん。せやけど、知識に溺れてるだけでは確かにあかんで。限度ってものがある。拙者は真相論にのめり込まへん。実際のめり込んでへんよ。偽預言者RAPTとかその他色々な自称キリスト者の偽り者たちは、世のことについて知ろうと必死に日々調べ、日々それについて語り、聖書や主イエスのことについて殆ど語らへん。また、プロテスタントでも、ダニエル書の七十週預言を勘違いして七年の大艱難とか、エゼキエル戦争やら、艱難前に携挙される云々と嘘ばっか信じて吹聴してる。このように、拙者は彼らとはまったく違うんです。拙者は世のことなんかグダグダと話してもいないし、必要最低限に留めてるし、反聖書的な偽りの教義を言うてるのでもあらへん。
真相論をある程度知ることも重要であり、無知では悪い支配層に騙されるだけやさかい。世の悪を知らずして、どうして悪を避けることが出来ようか。悪を悪として認識することすら不可能であろう。ただ、真相論だけに夢中になって、聖書の学びや実践を怠るのがあかんということです。あの異邦人のような言い分では知識そのものを悪として看做す言い方になっており、間違うてる。他にも真相論なんて知っても意味無いんだよって莫迦にしてる人は大概、聖書の真理も理解しておらず、テレビ、新聞、学校、政府等といった嘘つきどもによる情報を盲信し、それらに反する情報を「陰謀論だー」って根拠も無く貶す愚民と行いが一緒や。そないな人たちは、無知で愚かなだけ。いずれその愚行故に破滅を見るであろう。コロナワクチンのことでも、世の悪から目を背けて現実逃避し、政府や報道機関等を盲信して従う愚かな思想と行いの責任を自分たちで取ることになってるのが分かるであろう。

新約聖書 ヤコブの手紙 一章二十二節〜二十五節(拙訳)
更に、御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。もし誰かが御言葉の傍聴者で、実行者でないなら、その人は鏡の中の生まれつきの顔を注意深く眺めて考える人のようやさかい。自分自身を眺めて注意深く考えて、離れると、自分がどのようであったか、直に忘れるからや。しかし、自由の完全な律法を慎重に調べ、これを行い続ける人は忘れっぽい傍聴者やなく、行いの実行者や。この人は、その行いによって聖になるでしょう。

この聖句から、罪深い人間のあかん所を直すための鏡の役割をする律法を日々調べ、律法を守って行う必要があるのは明白やろ。生まれつきの顔を眺めて思案してるだけなら、その人は新生しておらず、聖書を読んでもまるで理解しておらず、律法を守らん不法の者で、行いが伴わへん信仰故に神の御心に適う者やない。ツイッターやブログ等で必死に「自分は熱心なキリスト者です」と言いたげに主張しても、律法を守らへんし、「律法=十戒」と勘違いしてるし、創造の秩序を守らんと発言をしてる者が多いし、人を裁くなという御言葉を乱用してその人自身が他者から戒められたり、非難されるのを避けたり、自己愛から自分を擁護するために悪用したりする。また、十戒だけ擁護して律法にある他の数々の掟を守らんし、聖なる律法と自分自身の現状と比して直すという悔い改めの作業をしてへんのに偉そうに聖書福音について語り、論争を避けるとか言うて逃げて、自分は救われてると思い込んでるとは惨めなことこの上なし。聖書の真理や本質から外れるようなくだらん論争は勿論不要なんやが、正しい論争はこの世に偽り者や嘘つきが多いさかい、必然的に起こり得るし、拙者が論争を起こしてると世間は思うかもしれへん。それは、世間が偽りに満ちてるからや。一世紀当時のユダヤと一緒。当時もファリサイ派、祭司長、長老、律法学者たちが律法以外に彼らが付け加えた教えを広めていた。主イエスは人間の教えを教えとして教えて、神の掟を捨ててる(マルコ七章一節〜十三節参照)と指摘しはり、彼らが聖書どおりに律法を守ってへんと非難しはった。一般のユダヤ人たちの多くも全然律法を守ってへんとも主イエスから断罪されとった(ヨハネ七章十九節参照)。拙者は何遍も主イエスはモーセの律法を廃止してへんと言うてんのに、現代の自称キリスト者たちも聖書を正しく理解せず、曲解し、パウロの手紙を金科玉条のごとく振りかざし、反キリスト発言を繰り返し、そのくせに自分らは正しいと勘違いし、拙者が弾劾する内容を見なかったことにしたり、自分が言われてるのではないと勝手に看做して逃げて、自分の殻に閉じこもるようでは現実逃避で、自分の信条が正しいと思い込み、他の助言や戒めを一切拒絶するという高慢な背教者の業でもある。拙者の目にはそのように映る。神の目にもそう映ってるであろう。
当ブログ読者も拙者が作成した動画の視聴者も、まず聖書の知識が無いと話にならんということを念頭に置き、聖書を通読し、知識を得なはれ。知識を得てから実行するんや。知りもせんことをどうやって行うんやろか。無理やろ。せやから、まず知って知識を蓄えなあかん。

旧約聖書 ホセア書 四章六節(拙訳)
我が民は知識不足のために滅ぼされる。お前が知識を拒絶したさかい、我もお前を拒絶して我が祭司にはならへん。お前が神の律法を忘れたさかい、我もお前の子らを忘れよう。

上述のように、聖書の知識が足りず、神の律法を忘れる人は神にとっての祭司になることはないし、聖書の知識、律法の知識が不足して守らへんなら、その律法を守らへんという不法行為故に、主イエスから「あんた方のことは全然知らない」(マタイ七章二十三節拙訳)と拒絶され、滅ぼされることになる。繰り返すが、永遠の命に至るには神の律法の知識は必須であり、その律法を学ばず、知識不足であり、律法を知ることも行うことも拒絶するから滅ぼされるんですよ。プロテスタントで律法廃止論を唱えてる人、十戒だけ擁護してその他を無視してる人や、カトリックや正教会等といった人間の教えを信じて神の律法を破ってる人らも全滅です。
勿論、知るだけで行わずに終わるんもあかんし、実践という行いが伴うてこそ信仰は意味があるさかい、自由の完全な律法の知識を蔑ろにして守らず、正しく聖書を理解せず、律法を知らんし行わへんくせに知ったかのように偉そうに他人に教えたらあかん。また、言うだけで行わへん者や律法を無視してもええかのような偽福音を吹聴するようになったらあかん。マタイによる福音書二十三章で、主イエスもファリサイ派の行いを見習うなと教えはったとおりや。ファリサイ派の人々が言う「律法を守れ」という主張は聞き入れて、律法を守る必要がある。その部分はええが、律法を守るように言うファリサイ派の人自身が実際には律法を守っておらず、人間が勝手に決めた教えや習慣や伝統を守って神の掟を捨ててるのが実態であり、主イエスはそのことを指摘しはり、非難しはった。律法を守ることを非難しはったんやない。勘違いせんようにな。にわかキリスト者はこのことを全然分かっておらず、聖書を曲解して、律法を守ることを律法主義と勝手に同一視して誹謗中傷する。そのように言うことは反キリスト発言であり、そのことに気付いてへんのが実に愚かで見苦しい。それも全部パウロの言い分を盲信してるが故であろう。それでは既に篩にかけられて落とされとる。このことも拙者は過去に言うた。

 


さて、現在出版されてる聖書六十六巻は、明らかに遠い過去の地上の諸教会関係者や聖書として何を収録するかの会議に参加した者たちによって意図的に除外された結果や。主イエスの直弟子は十二使徒と呼ばれ、十二人も居ながら、なんで福音書も手紙もこないに少ないのか疑問に思わへんのか。少なくともアンデレ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、シモン、マティアの六人の名は現存聖書には彼らが書き残した書物が広く伝わってへん。外典や偽典扱いでは多少他にもあるものの、グノーシス主義の思想が反映したものがあり、信憑性は薄い。どうせ昔に隠蔽、改ざん、破棄等があったんでしょう。とにかく、少な過ぎて、おかしいんですよ。それだけでこの世は悪い者に支配されてるのが明白です。
元々は聖書と看做すべき書物は新旧合わせて百近くあったとされるが、結果的に六十六まで減らされ、カトリックが第二正典とする幾らかの文書が残ってそれが新共同訳や聖書協会共同訳の旧約聖書続編付きの聖書といった形で普及するに留まるのが現状や。旧約聖書続編にある書物は読まんでも特段困りまへん。なぜなら、上記のように正典とされてる聖書内において引用や紹介されてる書物は旧約聖書続編の中には一つも無いさかい。そもそも異教カトリックなんかに第二正典とされてる時点で怪しいもんがある。拙者としては、旧約聖書続編なんかにある外典なんかよりも、拙者が上述で指摘した文書群の方が余程読む価値があるように思われるが、その中の旧約聖書で言及されてる文書の殆どは残念ながら書籍化されてへんものが多く、翻訳もされてへんのやないか。あれば販売してるやろに、そないな話は聞いたこともないし、売ってる所も見たこともない。エノク書の一部だけってのは文庫本で販売があるけど、ほんまに一部だけで少ない。このように正典を意図的に除外するという神を畏れぬ悪行を実行したのは、ローマ・カトリック教会、ユダヤ教団、グノーシス主義者、哲学者等の異端者が中心であり、後世に正教会やプロテスタント等といった教派もそれを指摘して改善させる活動をせえへんのやから皆グルで悪い者や。特に、中世の宗教改革で有名になったプロテスタントの祖の一人になったマルティン・ルターは、ヤコブの手紙を「藁の書」と貶したし、ユダの手紙については「称賛するが、信仰の根拠を据えるに足る聖書の主要書中に数える必要を見ない」と軽んじ、ヨハネの黙示録も正典から外そうとした。ルターがヤコブの手紙を嫌った理由は、パウロの信仰義認の考えにそぐわないというものやった。なぜなら、ヤコブは行いを重視しており、信仰の結果行いが伴うものと論じており、行いで義とされるのではないとしたパウロと正反対の教義であり、ルターは独逸人やから異邦人であり、異邦人のための使徒と自称した(ローマ十一章十三節参照)パウロの信者であり、信仰によってのみ義とされて救われるという言い分を、「口先だけイエス・キリストを信じると言うだけで救われる」と曲解し、耳触りのええ話を盲信し、それが真理と勘違いした。また、現代プロテスタント信者たちの一部が、コリント一の十五章三節〜四節を切り取り、「福音の三要素」と命名し、これが福音で、これを信じれば救いを失うことがないなどと戯言を言うており、これもルターと同じようなパウロ信者の類でしかあらへん。プロテスタントも、カトリックと同様に別の反キリストの教派になってるだけや。プロテスタントの祖の一人であるルターは、そのため、黙示録で主イエスが人間各自の行いに応じて報いを与える(黙示録二十一章十二節参照)といった文言もあり、これらを不都合と考え、正典から外そうとしたんや。まぁ、考えられへん悪い思想やが、現代の自称キリスト者どもも同程度です。ルターのようにパウロ教の信者になって、主イエスの教えや十二使徒の教えに逆らうと堕落します。信仰のみで救われるから、行いは問われへんってアホかっていう話です。そないな矛盾しておいしい話がある訳が無い。はっきり言うて、それは欺瞞でしかあらへん。行いは相変わらず悪いのに、信仰があると口先で言いさえすれば義認なんてある訳無いでしょ。義や秩序を重んじる聖なる神が、そないな行いが悪い口先だけの悪人を喜んで受け入れ、永遠の命を与えると思う人の神経が分からへん。悪人はそう都合良く思えるんでしょうけど。そう思わんと、彼らには希望が無いからやろ。

洗礼者ヨハネも主イエスもまず最初に「悔い改めよ」と説いて回ってはった。福音書の冒頭にそうあるやろ。罪を犯すことを悪いと思ってやめるというのが悔い改めや。「罪とは法を無視して違犯することです。」(ヨハネの手紙一 三章四節拙訳)とも使徒ヨハネは書き残したし、当該聖句は拙者が何遍も多くの過去記事で引用して説明してきた。聖書を読んでキリスト者と名乗る人が、このことを知らん訳ないよね。せやけど、実際は全然知らん厚顔無恥な自称キリスト者が多い。パウロ教の信条を金科玉条のごとく振りかざし、主イエスの律法を廃止せえへんという御言葉に逆らい、モーセの律法を学ばず、自分の言動や生き方等を悔い改めず、行いが悪いままやのに、「イエスを信じてます」とか「救われた」、「携挙される」等という寝言を言えるのか、ほんまに不思議でしゃーない。嘘ばっか言うやろ。悪魔はその本性から嘘を言うし、嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節参照)とも主イエスは教えはったし、悪魔から出た子らも同じように本性から嘘を言うさかい、悪気も無く嘘をベラベラ吹聴するんや。せやから、驚くには値せえへんけどな。

正典からの除外の話に戻すが、巷ではユダヤがローマ帝国に攻められ、エルサレム神殿が崩壊したユダヤ戦争終結後の西暦九十年代にあったヤムニア会議で、ユダヤ教団の指導者たちがマソラ本文として認定する文書群を決定した会議で、今あるような正典が決められたと言われてる。当該会議で、旧約聖書続編として収録されてる文書が正典から外されたなんて言われてるが嘘でしょうね。拙者が指摘し、上記に列挙した旧約時代の文書群が一つも無いさかい、もっと多くの文書が意図的に外されたに違いない。ヤムニア会議のウィキペディアには嘘ばっか書かれてる。当時のキリスト教徒たちが七十人訳のギリシア語聖書を主要な原典にしてたなんて、よう言えたなと。一世紀当時のキリスト者がギリシア語聖書に依拠した証拠が無いし、有り得へん。そもそも、ヘブライ語をギリシア語に翻訳した時点で一回翻訳されており、更にそれを他の言語に訳せばどんどん原義から離れる可能性が高くなるし、ギリシア語訳された時にもグノーシス主義者や哲学者による誤訳や改ざんがあったさかい、七十人訳なんて信用したらあかん。七十人訳を支持するのはグノーシス主義者、哲学者、カトリック等の異端者ばかりです。主イエスはユダヤの会堂で聖書を朗読しはったし、当然そこにはヘブライ語やアラム語のものしかあらへんかった。当時のユダヤに住んでたユダヤ人たちはギリシア語なんて喋られへんかった。使徒言行録二十一章四十節に、パウロがエルサレムに居ったユダヤ人たち相手にヘブライ語で話したと書いてあるし、ユダヤ人たちは古代ヘブライ語を話していたことが明白で、古代ギリシア語を話してたんやないし、それだけでギリシア語の七十人訳聖書なんて読むはずもないのが明白。加えて、使徒言行録二十一章二十八節から三十節にあるとおり、当時のユダヤ人たちはパウロがギリシア人をエルサレム神殿に連れ込んだことで怒る位であり(それだけやのうて、パウロが十二使徒をはじめとするユダヤ人キリスト者の言うことやモーセの律法を貶すことを触れ回ったことも彼らの怒りの原因でもある)、外国人排斥意識も高く、外国語を学ぼうという意欲も当然に低くかったんは容易に想像出来る。パウロはタルソスという現トルコのローマ帝国属州の生まれであり、環境的に古代ギリシア語が話された所に身を置いてたさかい、古代ギリシア語を話せた。また、パウロはイスラエル生まれではなかったが、イスラエル十二部族の一つであるベニヤミン族出身であると自分で語っており(ローマ十一章一節参照)、ファリサイ派に属し(使徒言行録二十六章五節、フィリピ三章五節参照)、それでヘブライ語も理解し、二か国語を喋る人やった。当時ローマ帝国内ではラテン語が公用語やったが、広いローマ帝国領土内においてはラテン語が通じひん所も多く、それ故、古代ギリシア語が共通語の位置を占めた。パウロは古代ギリシア語も話せるというのは、使徒言行録二十一章三十七節でローマ人の千人隊長との会話で分かる。反対に、ユダヤ生まれでユダヤ育ちのユダヤ人はヘブライ語やアラム語しか理解せえへんかった。それ故、パウロは捕まった時、ユダヤ人たち相手にヘブライ語で語りかけたんや。
主イエスは、「律法から一点一画も消えることはない。」(マタイ五章十八節拙訳)と主張された。一点一画という言い方にヘブライ文化的な特徴があり、聖書に使用された古代ヘブライ語の文字に母音記号といった点等がある故や。既に述べたように、古代ユダヤ人(今の欧米や中東の自称ユダヤ人たちではない)は誇り高き民族故、ヘブライ語以外の言語を認めようとはせえへんかったし、翻訳すると意味が同じではなくなる懸念も知ってることから、長年受け継がれてきたヘブライ語やアラム語の聖書を差し置いて、ギリシア語という異邦人の言葉にわざわざ訳したもんを古代ユダヤ人が重用することなんて有り得へんのです。
以上のことからも一世紀当時に七十人訳といいギリシア語聖書が使われたなんていうんは大嘘やということが明白や。当時彼らにとって聖書とは、今の旧約聖書と拙者が上記で列挙したように他に言及されとった書物とエノク書やな。彼らにとってはそれが正典やった。主イエスが昇天しはった後少し経ってから、おもにパウロが欧州の異邦人に伝道する際、ヘブライ語に拘っていたら異邦人には分からず、異邦人に伝道が出来へんさかい、異邦人にも分かるように古代ギリシア語で手紙が書かれるようになったが、それらは新約聖書に収録されたものであって、旧約時代は異邦人伝道なんて有り得へんかった時代やさかい、明らかに旧約聖書として現在収録されてる文書は古代ヘブライ語と古代アラム語で書かれた聖書しかあらへんかった。ステファノが殉教する前までは異邦人に伝道してへんかったんやから、別の言語に翻訳する意味が無いし、理由も無かった。七十人訳なんていうのは後世に出来たものであり、紀元前の時代からあるとか、エジプトのファラオの命令で翻訳された等というのも全部嘘でしかあらへん。異端信仰の一部のユダヤ人どもがギリシア語に翻訳する際に改ざんし、それを広めただけのこと。
今でもバチカン図書館とバチカン秘密文書館に多くの書物を保管し、特に後者の所は自由な立ち入りを禁じ、世界中の人々の目に付かへんように隠し続けてる。なぜなら、もっと端的に分かり易く悪魔、堕天使、巨人(ネフィリム)がどういう存在なのか、悪魔崇拝者の人間がどういう奴らなのか、他にも主イエスの御言葉や業の素晴らしさ、律法の重要性を明らかに示す文書があり、キリスト者を装って聖職者と自称しつつも悪魔を崇拝する彼らにとって不都合やさかい、外部に公開したり翻訳したり出版させへんのやと推察する。それ故、地上の諸教会や諸教派は、隠蔽して嘘をつき続け、不信仰の聖書学者や神学者どもが正しい底本を改ざんして間違うた翻訳を元にした聖書を出版及び普及させた。また、世俗社会の報道機関や政府どもも同じように嘘を垂れ流し、学校教育は嘘の歴史や似非科学を人々に教え込んで騙し、聖書や主イエス・キリストから遠ざける。すべて彼らが父なる神、主イエス・キリストに従順ではなく、金銭欲、支配欲、名誉欲、性欲等の肉の欲の奴隷になり、悪魔の支配下にあるのが原因や。
当ブログ読者の中で、聖書の正典から外された経緯や有益な外典や偽典等に詳しい人、隠された書籍がある、またそれが日本語書籍で販売されてる、それらを読んだ結果有益と思われるいくらかの文章引用を踏まえながらの感想等、その他有益な情報をご存知の人が居るなら、黙って素通りせず、是非投稿をお寄せいただき、情報共有願います。ただし、投稿前に入念に調査した上でお願いいたします。ヤフー知恵袋やウィキペディア等のみを基にした真偽が疑わしいものや主観的な意見のみの情報等、根拠薄弱の出鱈目のガセ情報はお断りします。有益性をきちんと説明してください。もしそれが無く、リンクの貼り付けのみとか、「これはどうですか」等と不躾に投げつけるようなやり方、その他ええ加減なやり方やくだらん情報と拙者が判断する場合は削除します。必ず自身の考察等を交えて話をし、なるべく説得的な文章を書いてください。

前回記事「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」でも述べたが、パウロに関しては疑念が多く出てきています。使徒を自称することもそうやし、主イエスや十二使徒の教えとは異なる教えをする等と数々のキリスト者としてあるまじき言動が多く、これについて、また別途記事にします。拙者が言うたとおり、パウロの書簡は「神による篩(ふるい)」です。にわか信仰の偽り者をふるい落とすためにあります。その意味では確かに効果的ではあります。パウロの言葉を最重要視し、旧約聖書にある書物や、新約聖書にある主イエスの御言葉や十二使徒の言葉を軽んじるキリスト者は皆、ふるわれて脱落するであろう。主イエスの側近で直に教えを受けた十二使徒よりも、主イエスと会うたこともなく業も見たことがないパウロを使徒として信じて支持した当時の人らは、現代のにわかキリスト者に等しいと思います。上記でルターを非難したとおり、はっきり言うて現代プロテスタントの思想はルター等といったパウロ教信者の思想が反映した偽りの教義です。こう言うのは、カトリックや正教会等を支持するという意味でもあらへん。勘違いすなや。拙者は地上の諸教会、諸教派のすべてがあかんと言うてる。真理を擁護してる所は何処にも見当たらんさかいな。拙者が言うことが聖書的である、論理的で、間違いが無いと思われるのなら、なんで拙者のブログや動画を遠くから眺めてるだけで終わる人が居るんでしょうかね。一人で信仰を保てると思うのは間違いですよ。それでは自己満足の信仰で終わるし、高慢になるだけやし、主イエスの掟も守ってへんと過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」等でも言及した。今は勉強してるつもりでも、直に忘れるし、実際には身に付いてへんで。なぜなら、聖霊がその人に居らんさかいな。主イエスの御言葉に従わん、神の掟に従わん人には父なる神の愛も真理も無い。どうすべきか手遅れになる前によう考えて、行動しなはれ。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上