こんにちは。
今回も前回の続きで、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなる故、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。
偽使徒パウロの問題発言は多いが、まずは以下を読んでみなはれ。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 十章九節、十三節(拙訳)
なぜなら、あんたの口で主イエスを信仰すると公言し、あんたの心の中で神がイエスを死者の中から復活させはったと信じるなら、救われるであろうから。(中略)
「主の名を呼ぶ者は皆、救われるだろう」からや。
十三節は、ヨエル書三章五節(口語訳以前や英語聖書では二章三十二節)からの引用であり、この「主の名を呼ぶ者」は主の教えをきちんと守り、律法も守ってる真のキリスト者であることを前提としており、口先だけで信仰があるような素振りをしながらも、律法を守らずに不法を行うにわか信者は含まへんことを知らなあかん。そないな世の自称キリスト者どもは、自分たちが「主を信じる者」と勝手に思い込んでるが、大間違いや。なぜなら、主イエスがそれを明確に否定しはったからや。
新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)
「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」
主イエスの教えは上記のとおりで、主イエスは行いを求めてはるし、不法(律法に違犯することで、それこそが罪を犯すことの意味)を行う者は「全然知らないから、離れよ」と拒絶しはってることから、不法を行わんために律法遵守を求めてはることも分かる。しかし、偽使徒パウロは、「主よ、主よ」と呼び求めさえすれば救われると預言書を悪用して持説を強化しようとしてるが、実際には間違うてることは明らか。拙者の解説が正しいことが分かるであろう。過去記事「パウロは偽使徒」で説明したとおり、偽使徒パウロは西洋かぶれの先駆者でもあり、現代人も同じように西洋かぶれして、神の律法を守らず、行いの伴わへん信仰は死んだものや。たとえ西洋人であろうとも「異教徒の文化で出来上がってる西洋らしさ」から脱却しなければ救いは無い。西洋らしさが異教由来で、反聖書的と理解してへん人が多過ぎて、拙者が突拍子もないことを言うてると思う愚民が多いであろうが、分からんとか認めへんとか思うなら、それで勝手にすればええが、滅んでもあんた方自身の責任やからな。
また、拙者が過去記事「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」で指摘したように、太陽暦(グレゴリオ暦)という暦からして間違うてるし、一日の始まりと終わりも祝日や祭日等も全然聖書に合致してへんし、服装から何まで異なるからな。悪魔崇拝者の西洋人が実質的に世界を支配してる世俗社会に従順であっては背教することになるのが分からんのやったら、滅びることになるで。
そして、上記のローマ十章九節は、主イエスの教えに基づかへんパウロ独自の教義であり、万人救済的で非常に気軽な教えで、誰にでも希望を与えるかのような話で、非常に耳触りがええが、実際は嘘であり、反キリストの教え。なぜなら、これはただ口先だけで済んでまうし、心の中で思ってるだけでええとしてるからや。その程度のことなら嘘でも言えるし、心の中で主イエスが復活したことを信じてるだけで救われるなんて思てるなら、信仰があるとは言えへんし、まったく意味を成さへんさかい。これは断じて有り得へん反キリスト教義であり、嘘や。もしこれが真理なら、現代において世界に約二十億人居るとされる自称キリスト者たちが救われることになるし、それも殆どが異邦人が占め、異邦人が大量に救われるということになるが、それは有り得へん。こちら(AFP BB News)のように、約五十九億円もする自家用飛行機を買うために募金を信者に募る米国のテレビに出演する拝金主義の牧師なんかも救われるのかってこと。有り得へんやろ。彼のような人は極端な例としても、そこまで強欲でなくても欲が少しでもあるなら同じことやで。牧師なんていう肩書きは、天からの物やのうてこの世からの物やさかい、要らんし、神の目に何の価値も無いし、拙者にとっても無価値やし、むしろそないな肩書きはキリスト者としての素養を疑問視する要因となるだけや。聖書の何処に牧師って言葉があるか。無いで。牧師とか聖書解説者等と名乗り、政府と結託してる大手報道各社によってテレビ出演を許可されて知名度を上げながら金儲けしたり、聖書解釈についての学校運営や教材を販売したりしてるような人が語る「福音」はすべて偽福音であり、嘘やさかい、信用したらあかん。実質的に金持ちは天の国に入られへんし(マタイ十九章二十三節、マルコ十章二十五節、ルカ十八章二十五節参照)、持ち物を売り払って貧しい人に施し(マタイ十九章二十一節参照)、余計な持ち物をすべて捨てへんと主イエスの弟子(キリスト者)では有り得へん(ルカ十四章三十三節参照)という主イエス教えに反するさかい。金持ちである人も、生活に不必要な物や聖書の学びや福音伝道には不必要な物をようけ持ってる人も、日々金儲けや自分たちの保身のことを考えたり、社会的地位や名誉や財産のことを考えてるような人が、なんぼ「主よ、主よ」言うても無駄や。よって、この口先だけのにわか信仰でも救われるとするパウロの教えは間違うてるのが明らかやろ。パウロが言う福音もどきは、主イエスが教えはった福音やないし、前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」で書いたとおり、使徒ペトロが語る福音とも異なる。
そもそも、聖書全体をきちんと読んで理解してるなら、そないな楽観的になれる筈がないし、脳内お花畑にもならへん。にわか信者は決まって聖書を通読しておらず、聖書全体の理解がまったくないし、世の悪にも気付かへん脳内お花畑みたいな人が多いんがその特徴。毎度、聖書から耳触りのええ部分の一部抜粋のみ。特に、偽使徒パウロの書簡からの抜粋が多い。あんたらの信じてるパウロ書簡に嘘があるっちゅうねん。拙者はそう指摘して、教えてるのに頑なに聞こうとせず、拒絶し、「パウロを偽使徒呼ばわりするなんておかしい」等と正当な理由も無くパウロを擁護し、拙者を誹謗中傷する愚か者ばかり。これはまったく理性的な反応やのうて、感情的で主観的で愚かな反応や。分からん人はいつまでも分からず、主イエスから拒絶された時に初めて分かり、泣き喚いて歯ぎしりすることになろうが、その時ではもう手遅れ。
そもそも、旧約時代から亜細亜系の血統の古代イスラエル人は、エジプトで四百年間奴隷扱いを受け、出エジプト後も荒野を四十年も彷徨って野営で暮らし、モーセも堕落し易くて言うことを中々聞かへん頑な古代イスラエル人の同胞に悩まされ続けながら、カナンの地という新しい定住の地を見れずに死んだ。このように、血統イスラエル人は神から愛されながらも多くの苦難を受け、モーセを通じて律法に基づく生活様式を徹底的に仕込むように神は人間を鍛錬し、多くの古代イスラエル人は頑なで逆らい、そのせいで出エジプトしてから四十年も荒野を彷徨い、神やモーセに逆らっては即座に打たれて殺されるといった罰を受けた。それに引き換え、神は血統イスラエル人以外の異邦人たちには目を掛けず鍛錬もしはらへんかったし、無視しはり、放置して滅ぶままにさせてた。異邦人は、長年に渡ってほんまもんの神である主を知らず、悪魔を拝んだり、偶像を拝んだり、律法も知らずに欲望の赴くままやりたい放題の野蛮人であり、ほぼ全員が滅びて行ったし、現代に至るまで同じで滅んでる人が非常に多い。十六世紀、日本の戦国時代でイエズス会やカトリック信者の葡萄牙人や西班牙人らを「南蛮人」と呼んだ。それは彼らが最初に上陸した種子島といった「南方から来た野蛮人」という意味や。南蛮貿易で、彼らからもたらされる品物に目が無い者は「南蛮かぶれ」と言われ、当時の日本人の間で嫌われた。拙者が現代人に向けて言うてる「西洋かぶれ」と同じ。未だに目を覚まさず、片仮名英語を多用したり等と日本語を大事にせず、電車や駅で最近顕著なように、日本において不要な英語、支那語、朝鮮語等が氾濫するのに対して鉄道会社のサイトや駅の窓口でも何処でも苦情は入れられるのにそれをやらずに放置し続け、洋服を着たり等と本来の日本人らしさや日本文化を蔑ろにしとる人は恥知らずの白痴や。日本中が非国民だらけで恥ずかしいよ。愚か者は、周囲と同じことをしてれば勝手に安心し、本質的なことを何も考えへん。せやから、ずっと愚かなまま。また、今までの売国の犯罪行為に加え、コロナ犯罪をも行って国民を騙して殺害してる国会に居る与野党の売国議員、霞ヶ関の官僚ども、都道府県知事や市町村長、報道各社、御用学者、御用医師等、そして彼らを操る世界経済討論会(World Economic Forum)やビル・ゲイツ、石油や製薬を牛耳るロックフェラー、世界中の中央銀行を牛耳るロスチャイルド等の支配層を各国の裁判所と阿蘭陀の国際刑事裁判所に訴えて処罰を求め、早急に改善せねば、世界各国が支配層に乗っ取られ、世界中が超共産主義の超監視管理社会になるで。国際刑事裁判所も動かへんのなら、この世全体が滅ぶべきですね。聖書では明確に主イエスの再臨によってこの世が滅ぼされる予定とあるさかい、拙者は安心してますけどね。要らんよ、こない腐った人間ばっかが幅を利かすこの世なんて。庶民も本質を理解でけへん頭の悪い人や臆病で悪い愚民ばかりで、自分たちの自由や人権を政府の嘘に騙されて放棄することも厭わず、悪に抵抗しようとせえへんしな。過去記事「全力で改憲反対してワクチンも拒否せい」で書いたように、大衆は未だにコロナが嘘で政治目的と見抜けぬ愚か者が多く、過去のナチスを真似た「緊急事態条項」をはじめとする自民党改憲案の危険性を知らず、反対運動をしてへんよね。莫迦じゃないの。改憲されたら日本人の多くが死ぬ、日本という国が滅ぶと拙者は警告してるのに、信じず、他人事で素知らぬ顔して無視してるやろ。ほんまに呆れるよ、あんたらの愚かさ、怠惰さ、間抜けさ具合に。国を相手に訴訟しろよ。何万人もの人を集めて国会や役場を取り囲んで大規模抗議活動をしろよ。ツイッターやブログ、たかが数百人規模で路上でお行儀良く抗議する等とちょろちょろ文句を言うてるだけでは阻止でけへんって言うてるやろ。いつになったら、あんたらは具体的な「行動」を起こすんかね。何も役立つことをせえへんみっともない愚民ばっか。拙者には行政に売国をやめさせる訴状案があるが、憲法訴訟故に改憲前に限る。せやから、早くする必要があり、ダラダラするか何もせんのなら、あんたらは負けて滅びます。拙者は弁護士でも思いつかへん訴状案を持ってます。本気でやる気のある人はこちら(キリスト道 お問い合わせ)から連絡ください。但し、拙者に連絡する前に、訴訟遂行のことも考え、正義感のある弁護士の確保もしてからにしてください。こちら(キリスト道 改憲問題)を理解して納得する弁護士でないと難しいことも付け加えておきます。その内容に難色を示すとかいちゃもんつけるような弁護士が多いと思われるが、そないな人は憲法を理解してへん役立たずであかん。どの弁護士が受任するつもりがあるのかも連絡時に明記ください。本件は拙者の私事ではないし、日本国民全体の益を確保するための訴訟故に、弁護士費用は無しで受任する気概のある人のみでお願いします。金のためにやる人は正義感があるとは言えまへん。もし弁護士費用が少しでも欲しいなら、原告を大人数用意して割り勘で費用負担する等しましょう。もっとも、これは大きな問題やのに原告が少人数では困ります。本来、日本人全員が原告になるべきという問題です。なぜなら、日本国民で関係無いなんて言える人は一人も居らへん問題やから。
さて、世の中は支配層や金持ちどもといった極悪人が悪事を堂々とやっても裁かれず、検察や警察が行政権に属してる関係上まったく役立たずであり、彼らの司法的機能がまったく死んだ状態であり、行政のやりたい放題でこの世が非常に悪化してる。過去記事「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」で紹介したとおり、既に支那では信用得点制度が導入され、政府に逆らえば二度と社会的信用を失って経済活動が出来なくなるような暗黒社会であり、欧米の支配層は、この制度を全世界に波及させるつもりや。これは支那といった共産主義国のみならず、こちら(メモ・独り言のblog)から分かるように、資本主義国であった筈の英国でも聖書暦二千二十一年九月末頃(太陽暦二千二十二年一月)から信用得点制度を開始予定とのこと。英国がそれでは、英国人が過去に侵略した植民地の豪州、新西蘭、米国、加奈陀等の英語圏の国々も同じようになるのは時間の問題。ワクチンを打たねば、信用得点が下がる等と悪徳政府が恣意的に決めつけるだけで善良な庶民に生きる道は無くなる。あんたらはこのまま黙り続け、無抵抗で、アホみたいに悪徳政府に盲従し、悪徳政府に徹底的に監視と管理される世の中にしたいのか。あんたらの無関心や行動せえへん怠惰さと心と頭の悪さは、強盗に対して自分の家の鍵を自ら渡して「好きにしてください」って言うてるようなもんやで。なんで以前のような生活に戻したいと思わへんのか。そないに人間らしい自由や人権が一切無く、動物の家畜のように監視及び管理される窮屈な生活をしたいのか。ほんまにこの世でジョージ・オーウェルの「1984」の世界が現実になるで。信用得点制度は一部の海外だけがやってることやないし、過去記事「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」で二千十八年時点で紹介したとおり、日本でも技術開発が進んでおり、まったく他人事ではなく、このまま日本国民がほけーっとして改憲を許し、ナチスのように緊急事態条項を悪用されて日本政府にやりたい放題させれば、日本も戦前回帰し、共謀罪(現代の治安維持法)を悪用し、反政府の思想や言論を許さず取り締まり、今までの自由や人権を制限され、正義に基づく正しい反対者を不当に弾圧し、海外諸国に追従して共産主義国になるのは確実や。そうなれば、取り返しがつかへんようになるであろう。改憲推進したり、緊急事態条項を容認する工作員が居ること、反ワクチンと正義の味方気取りの工作員が多い事実については「キリスト道」にて書いたさかい、よう読んどき。聖書ではこの世は終末に向けて悪化し、黙示録では悪魔崇拝をする支配層が悪魔の秩序や法に従わねば人々の経済活動を制限することへの言及もあるし、拙者は事態が好転することは期待してへん。現実を見てもそうで、愚かな大衆は政府に抵抗するどころか「コロナ教信者」となって恭順し、存在せえへん偽りの感染症対策のためなら自由も人権も奪われてもええなんて考えてるアホばっかやさかい。こちら(BitChute)のように、なんで日本では伊太利亜のように違憲及び違法なコロナ規制やワクチン接種について抗議せえへんのか。伊太利亜では共産主義者のドラギ独裁政権が全労働者にワクチンパスポートやPCR検査陰性証明発行義務を課した。あっこまで最低な政策が決定されてから抗議するのも遅いし、悪い芽は小さい内に摘むのが賢いのに、愚民どもは非常事態になるまで何もせえへん。大衆の無関心が引き起こす悲劇であり、自業自得とも言える。日本人のことを言うてるんですよ。改憲されて実際に地獄を見ないと動けないアホでは困るんですよ。現代日本人のアホさを見てると、改憲されても何もしなさそうですけどね。ほんま、それ位に落ちぶれてる。こちら(IT mediaビジネス)のとおり、日本でも東京都がワクチンパスポート導入を勝手に決めて、LINE(ライン)という南朝鮮企業と提携してるよね。ほんまに支那人や朝鮮人どもに日本人は殺され、国が乗っ取られるで。それもすべて現代日本人が愚かで平和ボケして脳内お花畑ばっかやから…。ワクチンパスポートなんていう差別的で共産主義的な極悪非道の考えを提唱する人も、賛成する人もどちらもゴミ屑人間や。こちら(BitChute)では、米国の地方知事たちや検事総長が憲法違反を犯すバイデン政権に反対し、訴訟を起こすと表明してるよ。彼らの対応も遅過ぎるが、やらんよりはマシや。しかし、米国以上におかしいのは日本。なんで日本の都道府県知事ども、野党議員ら、法曹(裁判官、検察官、弁護士)は一人も極左思想の自公政権と彼らとプロレスする野党全員を相手に憲法違反やと異議を唱えて戦おうとする人が皆無なのか。「キリスト道」でも、西班牙、葡萄牙、伊太利亜等の弁護士や裁判官らが政府を阿蘭陀ハーグの国際刑事裁判所に刑事告発してる旨を紹介した。日本の国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員らは憲法遵守精神が皆無で(憲法九十九条違反)、共謀してこのコロナ犯罪を犯し、与野党が共に極左思想なのに偽装対立をし、プロレスして欧米の支配層の注文のどおりに日本と日本人を売る売国奴ばっかやからやろ。彼らの改憲誘導も同じことで、日本と日本人を滅ぼすためなんや。気付けよ。ほんまに、マスク着用やワクチン接種してる愚民を見る度、外見だけ辛うじて人間の形をしてるが、その実は奴隷であり、実質的に人間辞めた家畜みたいで惨めやなって思うし、あんたらはその愚かさ、臆病さ、不信仰の結果を刈り取ることになる。即ち、地獄の業火という終わり無き苦しみをね。「神は愛やから、地獄で永遠の苦しみは無い」等と反聖書的なことをSDAやサンライズミニストリー等は言うてるようやが、ほんまにおかしい。聖書から明らかに嘘と分かるこんな嘘を信用する方がどうかしてる。主イエスに救われて永遠の命を受ける人も居る一方で、湧き続ける蛆と消えへん火という地獄があること(マルコ九章四十八節、ヤコブ三章六節、その他多数参照)も、その地獄の責め苦で「永久の恥辱と嫌悪」になることもダニエル書十二章二節の預言のとおりであり、地獄で永遠に苦しむことがないという教義は大嘘や。それを望まへんとか、信じひんとかなんぼ言うて逃げようとしてもこの真実は消えることはないし、あんたらの殆どはそうなる運命なのだ。正しい信仰生活をしてへんし、普段の行いも悪いのやから当然のこと。そうなりたないなら、真の聖書福音をきちんと理解し、実践せいと何遍も言うてきた。それでも反抗して拒絶するなら、もう手の打ちようがないし、救いようがない。拙者は救われて欲しいがために、こない熱心に言うてるんであり、貶したりしてるのではない。
主イエスが十字架で贖いを成し遂げたとしても律法に関しては変わらず残り、廃止になってへん。主イエスから悔い改めへん「不法の者」として断罪されへんためには、信仰によって神の律法、掟、戒めを守り、死ぬまで忍耐強くそう在り続ける以外に道は無い。それやのに、偽使徒パウロの教義を信じ、キリストの恵みがあるから律法は守らんでもええとか、簡単に天国に行ける等という反キリストの教えが一世紀から興り、愚かにも多くの人々がそれを信じ続けて滅んでる。四世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌスが、偽使徒パウロの教義と太陽神崇拝に基づき、「イエス・キリストの教えではないキリスト教」を国教化することを容認し、その後でローマ・カトリック教会が組織された。カトリックは、主なる神が忌み嫌う偶像(彫像やマリア等)礼拝や太陽崇拝や太陽神崇拝を行い続け、主イエス・キリストに反逆し続け、悪魔を拝むことで富と権力を集めてる。中世時代に暗黒時代と呼ばれる程にカトリックやイエズス会による悪事が極まり、反カトリック勢力を徹底的に迫害し、独裁と暴虐の限りを尽くした。ローマ教皇の権威は千七百九十八年にナポレオン軍によって一旦失墜したが、千九百二十九年に伊太利亜の独裁者ムッソリーニと締結したラテラノ条約でバチカン市国という国と国家元首の地位を得て権威を回復し、今は中世時代程に政治的権力は無いが、それを再び得ようと着々と根回し行動をしてる。ナチス独逸のヒトラーと同じく悪名高い、伊太利亜の社会主義者でファシスト党の独裁者ムッソリーニ(YouTube)によってローマ教皇はバチカン市国という国と国家元首という地位を得て権威を取り戻したという経緯を知らなあかん。せやけど、大衆はこの歴史を知らんし、この事の重大性と異常性に気付いておらず、アホみたいにローマ教皇に敬意を表し、相変わらずカトリック信者をやったり、無神論者と自称する人でもローマ教皇と聞けば権威ある人、尊敬すべき人なんて勝手に思い込む愚民が多い。中世時代が最盛期で暴虐の限りを尽くしたローマ教皇やカトリックをなんで信じたり、敬うのか、まったく理解でけへんし、信じる人がアホ過ぎやし、同類の悪人と言わざるを得ない。彼らの残虐性や悪質性は、過去のみならず、今もまったく変わってへんからね。現代までずっと裏ではイエズス会がこちら(BitChute)のとおり、世界中で暗躍し、政界、財界、教育界等のあらゆる所にはびこり、世界統一に向けて各国政府や大企業らに売国させたり、偽旗事件を起こしてわざと情勢不安を演出し、政治的権力を再び振るう機会を窺っとる。偽使徒パウロの教えを引き継いでるキリスト教業界がやってることは、反キリスト的で、反聖書的であり、嘘であり、詐欺でもある。世の諸教会は献金集めをしてるが、なんぼ金銭を彼らに貢いだり、自称聖職者どもや地上の建物に過ぎひん教会のために奉仕しても神に仕えてることにはならず、徒労に終わる。主イエスが教える永遠の命を得て神の御国に行きたいのなら、聖書と主イエスの教えのとおりに生活する必要があり、地上の諸教会に従うことではない。何故、パウロのような偽使徒の言葉が聖書の正典として入れることを神は許容しはったのか。それは拙者が言うてるように、「神による篩」として機能させるため。心が邪悪な自称キリスト者を自分らが正しくて必ず救われると浮かれさせるだけで最後には排除するためや。頑なな不信仰の者や異教徒らは最初から論外。偽使徒パウロの言葉を主イエスの御言葉や十二使徒らの言葉よりも重視して蔑ろにするのであれば、それは神への冒瀆でもある。
福音書の冒頭を読んで分かるように、主イエスや、先立って教えを説いた洗礼者ヨハネに共通したことは「悔い改めよ」ということ。悔い改めを律法主義と言うてる嘘つきも居るさかい、注意せい。そないな者どもは偽教師や。口先だけで主イエスを信じると公言するだけで救われるんやない。悔い改めとは、律法違犯をして罪を犯すことをやめ、信仰前にしとった生活様式を完全に変えて改め、ただ主イエスを模範として仰ぎ見て神の律法に従い、神の御国を目指して方向転換することや。女は創造の秩序を弁え、男と並ばず上にも立たず、外見を飾ったりせず、金銭や情欲等ばかりに気を取られず、慎ましくあることや。男女共に、世に深く馴染んでてはあかんし、西洋かぶれもあかん。キリスト者と言うなら、信仰前と同じような生活をしとったらあかんし、神の律法に基づかなあかんのや。ええ加減気付けよ。いつまでも太陽暦(グレゴリオ暦)に従い、洋服を着て、同じような背広やその他の洋服を着て安息日を蔑ろにする役所勤務、会社勤務等の仕事をしてるようでは悪魔の秩序に従うてるさかい、滅びることになる。会社勤務が一律あかんのではなく、律法を破る羽目になるような勤務形態ならあかんと言うてる。学生が進路を変えるのが面倒とか、社会人が転職するのが面倒とか意味不明な言い訳をして惰性で会社員を続けるのも問題やで。自分で起業するか、誰かと共同で事業をするか、個人事業主で仕事をしたりせえへんのでは律法を守るのは難しいであろうし、コロナ犯罪下で、政府を含めた反社会的勢力が横暴を極めてる悪い時代の今、ワクチン接種せんと解雇って欧米や豪州等でやられてることが日本でも行われたら路頭に迷うで。仕事欲しさにワクチンを打つ人はあかん。それは悪魔に魂を売るのに等しい行為である。そうやって強制される前に必死で今の内に大規模抗議をしろと言うてるんや。それやのに、言うことを聞かず、何もせず、のらりくらりし、強制される事態になるまで待ってるのが愚かなんや。このことも拙者は数年前に予期し、会社員を辞めることを過去記事で推奨してきた。太陽暦(グレゴリオ暦)に基づく間違うた世間の慣習を捨て、律法や安息日を守るため金曜日の日没から土曜日の日没までを休みとし、その他律法に規定がある祝祭日や集会の日を休みにし、日払い(日没までに報酬を要支払い)をする、洋服の制服を採用せえへんとか、房付き和服とする等と自分らで就業規則を作ればそれは問題無い。今、ユーチューブで「田舎 フリーランス」と調べると結構都会から田舎に移住した人の動画が増えてるよ。別にパソコン使う仕事やのうても、農業でもええと思うで。新規就農を募集してる地域もあるよ。商売をするにしても都会に居る必要性は無い。都会を離れて地方に行くんは非常に好ましい傾向やね。アホみたいに東京周辺に集中し、西洋かぶれし、拝金主義になってるようでは確実に滅びる。拝金主義の愚民が多いから東京周辺に集中し、地方が過疎化するんです。地元に戻るか、人が少ない所に行って、復興に力を貸せ。支那等といった外国に日本の財産を売るな。不信仰で拝金主義者どもが経営する会社なんかに従属し、派遣やバイト等といった不安定な身分に甘んじたり、安月給で長時間労働でこき使われるのでは生きてる意味が無い。現代日本人は自分自身を安く売り過ぎ。せやから、家畜扱いされるんや。一般の会社員は社畜とも言われ、会社に飼われる家畜やから社畜と言われる。月給や賞与と引き換えに、神の律法を破り、労働力と時間を搾取され、魂も安んじられへんし、後の世でも地獄で苦しむことになる。真のキリスト者が社長の会社で就業規則を神の律法に違反しないように整備しとるなら問題無く勤務出来るであろうが、現状で世界中探してもそないな所は無いであろう。もし我が社こそはそれと言う人は、それを大々的に宣伝せい。そうして世に示しなはれ。主の栄光を。
そもそも、なんで西洋かぶれの生活を日本でせなあかんのっていう疑問を持たへん日本人が多過ぎて愚かやなと思う。日本人やのに洋服着て西洋かぶれしたりすること自体が売国奴という認識を持つべきやで。西洋かぶれしてる日本人こそ真正の非国民。日本は二千年以上に渡って明治維新前までは完全和服の国やったんやからね。幕末、薩長らをはじめとする欧州と癒着した売国奴どもが進んで西洋かぶれに走り、そいつらを中心として明治政府が誕生し、今もそれが継承されてる。明治維新が日本の破滅の引き金であったことに気付け。気付いたら、もう今までの暮らし方、生き方をやめよ。脱却せい。服装から何まで明治維新前を目指せよ。完璧なのは聖書の律法に基づく生き方であると、拙者はそう教えてる。学校の教科書やテレビで御用学者どもが言う縄文や弥生なんていう概念も嘘で、支那人や朝鮮人から文化や文明が伝わった等、あれらは全部作り話の嘘でしかあらへん。古代イスラエル文化を隠すための嘘や。古代イスラエル人の末裔である純日本人と支那人や朝鮮人とは遺伝子からしてまったく異なるんは科学的にも証明されとる。ハプログループの違いで明らかやし、それは過去記事でも述べた。洋服なんて戦後以降の米国による占領統治のせいで激増しただけで、ついこないだや。洋服やら西洋の美意識を持ってそないなみっともない格好をするんが、日本人として、また血統的な真正イスラエル人としてあるまじき姿やということが、なんで分からんのかね。折角、会社員辞めて個人事業主(フリーランス)をやったり、起業して自分の会社を設立して自由に出来るようになっても、相変わらず西洋かぶれを直さへん人も多く、それは非常に残念であり、あかん点でもある。価値観そのものを変えなあかんなと感じる。そのための教育、啓蒙を拙者がやってる訳です。それに対し、正当な理由も無く反抗する者(悪魔の子、蝮の子)が多い。拙者が自分で絶対無謬等と言うたこともないし、その意図も無いし、拙者の主張に反対する者はすべて間違えてる等と独裁者的なことを意味するのでもないし、そう捉える人は狂ってる。なぜなら、それは敵対心から発生する正当な根拠が一切無い愚かな考えでしかあらへんから。拙者は聖書(律法)の教え、主イエス・キリストの教えに準拠して述べてるさかい、そこに正当性がある。それ故、反対者は聖書や主イエスの教えに反してる反キリストであることは確実やし、実質的に神に反逆してるに等しいんやでと言うてるんや。もし拙者が聖書(偽使徒パウロの書簡は除く)に反したことや主イエスの教えに反したことを言うてるなら、それを証明し、論理的に論じてみなはれ。拙者が反聖書的なことを言うてるなら、その批判は受け入れるよ。しかし、拙者は反聖書的なことを言うてへんさかい、今まで誰も拙者が言うことや信仰が反聖書的と証明でけへんし、あるのは過去記事「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」で書いて示したような狂人や、ツイッターで数人確認したが、過去記事「パウロは偽使徒」に対する主観的理由による反感を持つ異常者どもによる誹謗中傷ばっか。彼らは完全に悪霊に取り憑かれて精神を病んでるし、あっこまで堕ちたら終わりという悪い見本や。拙者は聖書の真理に則って述べてるし、肉の思いで好き勝手に言うてるのではないからや。反聖書的な悪魔の考えや教義を言うてるのは、拙者に敵対したり反対してる者どもやし、それが現実。ブログやツイッターでも拙者に敵対し、偽り者と吹聴する輩が増え出した。過去記事「パウロは偽使徒」で冒頭で予告したとおりやろ。聖句をTシャツや鞄等に印刷して販売する者が居ったり、それを買うてひけらかす人も居る。そうすることで必死に「自分は敬虔なキリスト者ですよ」って言いたいのであろう。もっとも、そないな愚行をする人は昔に居らんかったし、不要なのが分からんのかね…。まさに、外観だけ敬虔に見せようとする偽善者で、まさしく現代のファリサイ派。中身がまったく伴わへんのに、そうすることで満足してては虚しいことこの上ない。たった一言の聖句を載せてるからと言うて、「はい、信じます」っていう風にならんさかいな。せやから、まったく意味が無い。伝道はきちんと自分の言葉で説明せないかんし、聖書を本人に読んでもらう必要もある。口頭で言うだけで信じるようになるのは素直でええかもしれへんが、この嘘つきが多い時代、安易に誰かが口頭で言うことを全部鵜呑みにするんは危険や。政府やテレビ等が嘘ばっか言うてるし、それを素直に聞き入れてたら洗脳される。カルト宗教への勧誘もその類や。騙されへんためには各自が聖書を確かめる必要があり、拙者もまたそうしてるし、こうして真理を宣べ伝えてる。また、ユーチューブの動画を盲信しており、女の分際で偉そうに教えをひけらかしたり、拙者がサタンに取り憑かれてると聖霊を冒瀆し、西洋かぶれを直さん奴も多い。ああいう人たちはいつまで経っても成長せず、虚しく「主よ、主よ」言うて、後で主イエスから「あんた方のことは全然知らない」(マタイ七章二十三節拙訳)と拒絶される人や。
こないな反対者どもは、目の見えへん盲人たちや。もし見えてると言うのなら、あんた方の罪は残る(ヨハネ九章四十一節参照)。そないな盲人どもが偉そうに語り、他の盲人たちを手引きしてるさかい、彼らは両方とも穴に落ちるであろう(マタイ十五章十四節、ルカ六章三十九節参照)。まさに以下のとおりの状況に陥ってる。
旧約聖書 箴言 十四章十五節(拙訳)
単純な者はすべての言葉を信じる。思慮深い者は自分の歩みを弁えてる。
上記聖句のとおり、単純(単細胞)な人は、よう吟味もせずに(偽りも含めて)すべての言葉を信じるとはっきり書いてある。世俗の権力者やテレビ等が言うことを信じるのもそうやし、聖書に偽使徒パウロの書簡や改ざん底本や誤訳が混じってても気付かず、拙者が親切にも指摘して教えてあげてるのに拒絶し、偽り者が書いたことや決定したこと等を正しいと盲信してる。実際は「世の権威」を盲信してるだけと知らずに。反対に、思慮深く賢い人は、当然に真逆ですべての言葉を見境無く盲信することをせず、かつ、自分の歩みを弁えてる。拙者も自分の歩みを弁え、自分が言うてることも信仰もすべて弁えてる。誰からも評価を受ける必要は無い。
確かにあんた方に言うておく。そもそも、今ある「新約聖書」は、一世紀当時、またそれ以前の人にとっては「聖書ではない」と認識すべきです。なぜなら、今我等が持つ「聖書」は、十二使徒たちがこの世から居なくなった後、一世紀末以降に編纂された物に過ぎひんからや。一世紀末のヤムニア会議で旧約聖書の正典に変化があったことは明白。この一点のみで既に主イエスや十二使徒らが会堂で読み親しんだ聖書とは異なることが明白や。ヤムニア会議以後、多くのにわかキリスト者やユダヤ教団らによって正典に入るべき書物が除かれたと強く疑われる。そのことは、拙者が過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」で示したとおり。旧約聖書の内容でさえ除かれたもんがあり、新約聖書の構成は十二使徒らが決めたもんやないし、かなり時代を経た後で世俗的なにわか信仰の人らが勝手に決めたもんや。今ある聖書の中には、聖霊によらずに書かれた物が含まれ、また入るべき物が除かれてる現実がある。四福音書は主イエスについて記載したもので、それらを上回る貴重な主イエスの御言葉を掲載した資料が現状は一般に公開されておらず、今市販されてるもんしか我等は読むことがでけへん。現状は、四福音書に価値が最もあるのは他にもっと有益な資料が提供されへん限りは疑いようがあらへん。パウロ書簡が新約聖書の半数を占めるとか、明らかにその新約聖書の正典を決める会議ではパウロ派が多数居ったことは明らかであり、大いに疑問を差し挟む余地があり、過去の西洋の異邦人が殆どを占めるにわか信仰者による決定を盲信し続けるんは愚かと言わざるを得ない。ローマ帝国がユダヤ戦争によってエルサレムを壊滅させ、エルサレム神殿も壊され、エルサレム教会も壊され、ヨセフスによる伝承では、ユダヤ戦争の四年前である西暦六十二年に、エルサレム教会の監督者を務めとった主の弟ヤコブがエルサレムで殺されたとも言われてるし、ユダヤ戦争で荒廃したエルサレムでは初代教会は活動継続出来ずに散り散りになり、律法擁護派で占められた正統派の初代教会であったエルサレム教会も壊滅した後のことやし、十二使徒たちが選んだもんやないということと偽使徒パウロの書簡を大量に収録されてる事実を踏まえれば、今ある新約聖書の構成はおかしいと言わざるを得ない。上記の経緯で、ユダヤ戦争以降はエルサレム教会は事実上解散状態になり、律法擁護派のユダヤ人キリスト者たちの求心力は落ち、偽使徒パウロの教えを信奉する西欧の異邦人の教会が力を持つようになり、異邦人を中心に今の聖書の正典が決められ、現在普及する聖書が出来上がったという流れやろ。プロテスタントの信条では、今の聖書六十六巻が誤り無きものと謳ってる訳やが、それはおかしいと拙者は言うてるんや。今の聖書六十六巻に異議を唱えようものなら、悪霊に取り憑かれてるとか、悪霊に惑わされてるとか誹謗中傷をするのがキリスト教の業界や。そう言う自称キリスト者どもは、狂ってるとしか言いようがない。まるで今のコロナ規制、PCR検査、ワクチン等に異議を唱えれば、陰謀論者と決めつける状況に酷似してる。嘘つきの異常者どもが堂々と嘘をつき、大手を振って犯罪を犯してるのに、正しい者かのように装い、偽り者は毎度こないして正常者を迫害し、日和見主義で傍観者の愚民どもも嘘つきの権力者らを信じて迫害に加担する悪人や。旧約分はまだマシとしても(省かれたんがあるし、ほんまは良うないが)、新約分はパウロ書簡を全部が全部信じるに値せんし、他と矛盾をきたしたり、誤解させる元にもなるさかい、要注意なもんや。パウロ書簡こそ外典扱いでええと拙者は思う。人だけやのうて、聖書に対しても見る目が問われる。世には人を見る目の無い人が多過ぎる。嘘つきばっか信用して、追従するさかい。聖霊の導きがあって、真理を知ってるなら、惑わされへんとは思うが、出来れば選民をも惑わそうと不思議な業やしるしを行う偽メシアや偽預言者等が終末期には出現する故(マタイ二十四章二十四節、マルコ十三章二十三節参照)、注意を怠るべきではないし、聖書研究も怠るべきではない。聖書を漫然と読んでるだけ、字面を追ってるだけでは意味があらへん。過去記事「パウロは偽使徒」で拙者が完璧に論証したのにも拘らず、読もうともせず、その正しさを認めようともせずに、負け惜しみばかり言うて、パウロが使徒と自称してるに過ぎひん事実を一向に認めようとせえへんアホも手に負えへん。内容について何も反論でけへんようでは、まったく知的ではないからね。パウロが好きとか感情的になり、主観的にパウロを擁護してるだけという愚行を認めず、野次や文句しか言えへんようでは話にならん。拙者が散々宣べ伝えてきたことやが、世の権威を盲信することの危険性は聖書にも及ぶ。過去、律法擁護派のキリスト者が居なくなるか著しく少数派になった後、パウロ派の異邦人が多く占めた状態で正典を決める会議をして、パウロ書簡を新約聖書の約半数を占めさせる位にまで組み込んだ事実を忘れるな。十二使徒(ペトロやヨハネ)の書いたもんは少ないし、後ろの方に配置され、目立たなくさせられ、ヤコブの手紙もユダの手紙も最後の方に置かれとる。わざとやろ、あれ。なるべく読者の注目を引かんように、最初から通読しようとする人が、途中で挫折して辿り着かへんようにしてるようにしか思えへん。福音書が主イエスのことを重点的に載せてるさかい、最初なんは当たり前としても、パウロ書簡を中核に持ってくるあたりが、悪意を感じる。あの並べ方もね。書かれた時系列で並べてる訳でもないしな。なのに、あの並べ方をするんには理由がある筈やろ。こういうことも多くの人は考えへんのや。思考停止しとってな。それで、今ある聖書を権威あるもんとして、疑うな、疑問を差し挟むなって感じやろ、世の諸教会らは。いつまでもこないな姿勢ではあかんよ、一生。「福音の三要素を信じれば救われる。救いを失うことはない。行いも関係無い。」とずっと懲りずに寝言を言うとけ。救われへんから。携挙も艱難期前携挙説を頑なに信じ続けており、既にコロナワクチンが投入されて生死が懸かった艱難期の真っ只中やし、もう艱難期前携挙説は完全に外れたのも明らかやのにね。未だ理解せずに言うてる奴らが居るもんね。ほんま、にわか信者どもの精神状態はどないやねんって感じや。脳内ずっとお花畑で、まったく成長せずやな。不信仰の者も異教徒らも皆一緒。
世の多数派の生き方は、ただ「この世の権威」、「西洋諸国や西洋かぶれの日本政府や学校や報道各社等」の言うことや習慣に盲従してるだけやし、各自が根拠も無く「なんとなくこれが正しいと思う」的なことを好き勝手に信じ、主張し、行ってるだけやろ。実に放縦で無秩序で罪深いし、悪い性格の人間。そないな「悪魔、世の権威、著名人、多数派である不信仰の大衆、異教徒、偽預言者、偽使徒、偽教師、律法違犯をするにわかキリスト者たち」がこの悪い世、社会を作り、それに盲従せえへん「主イエス、十二使徒、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)、モーセ、エリヤ等の預言者たち、主イエスの信仰を持ち律法を守って実践する真のキリスト者たち」の側のどっちが正しいか分からんのかね。分からんのなら、その結末も各自が「永遠の破滅」という責任を取ることになるだけ。「ほんまもんの日本人(血統イスラエル人)」らしさの気概を持たへん西洋のかぶれした白痴の周囲の人間やテレビ等を見てると問題無い、悔い改める必要が無いと思わされ、洗脳されてるんですよ。支配層に操られて言いなりになってる西洋人や支那人に媚びる朝鮮系の偽日本人が牛耳る日本政府や報道各社によって洗脳されてることに気付きなはれ。売国奴だらけの政府やテレビや新聞等に従うことを美徳と考えるな。美徳やのうて、愚かで不誠実なだけやで。真のキリスト者になりたいなら、ほんまに今までの考え方や生き方をやめた方がええよ。すぐに切り替えるのが難しいとかもあろうが、今までの間違うた価値観をかなぐり捨てられへんのなら、絶対に真のキリスト者にはなられへん。もはや迷ってる時間は無い。拙者は数年前から悔い改めを説いてるが、あんたらの多くは全然聞く耳を持たへんかった。このコロナ犯罪という艱難にあっても未だ目を覚まさへんのなら、もうこの先あかんよ、そないな家畜人間は。時機を逸し、後で主イエスに祈っても断られるよ。そないな描写が「愚かなおとめ」という例え話が福音書(マタイ二十五章一節~九節)にある。もう少し様子を見て決めるなんて思う者も愚か者でしかあらへん。そないな者は優柔不断なだけで、結局は神やのうてこの世に従属することを選ぶであろうから。そして、上述で主イエスの教えを多数示したとおりであり、永遠の命に入りたいのなら、律法にある掟を守る必要がある。そうでなければ救われることはないし、狭い門、狭苦しい道やない。
新約聖書 マタイによる福音書 七章十三節~十四節(拙訳)
狭い門を通って入りなはれ。広い門と広々とゆったりした道は、破滅に至るものであり、そこを通って入る者が多いからや。 狭い門と苦しめられる道は、(永遠の)命に至り、それを見出だす者は少ないからや。
新約聖書 ルカによる福音書 十三章二十三節~三十節(拙訳)
すると、ある人が彼(イエス)に「主よ、救われる者は少ないんか」と言うた。その時、イエスは一同に言わはった。「狭い入口を通って入るように努めなはれ。あんた方に言うとくが、入るために模索して、入ることがでけへん人が多い。」家主が立ち上がって戸を閉め、あんた方が外に立ち始め戸を叩き、『主よ、主よ、開けてください』と言うても、答えて、『あんた方が何処からの者か知らん』と言うであろう。その時、あんた方は、『あんたの御前で食べたり飲んだりしたし、また、あんたは我等の通りで教えはりました』と言い始めるだろう。しかし、家主は『あんた方に言う。あんた方が何処からの者か知らん。律法違犯を行う者ども全員、我から離れよ』と言うだろう。あんた方は、アブラハム、イサク、ヤコブ、すべての預言者たちが神の王国に居るんを見るが、自分らは外に追い出されるんを見る時、そこで泣き喚きと歯ぎしりがあるだろう。そして、見よ、最も低いのが一級になる者が居るであろうし、一級の人が最も低いのになることもあろう。
このように、主イエスに認められて神の王国に入れるのは、主イエスの信仰を持ち、律法遵守する真のキリスト者のみというごく僅かな者しか居らず、広い門を通って広々とゆったりした道を歩んでる者はあかんのが明白やろ。また、時機を逃してもあかんということが明白やろ。悔い改めを先延ばしにしたらあかん。拙者の言うことが真実であり聖書に則る真理と感心しながらも、また、聖書が真実の書であり、主イエスこそが救世主と確信してても、「今は忙しい」とか「まだ世俗的な生活、娯楽、快楽等を楽しみたい」と思て、聞き従うのは後でええ等と後回しにしてるような人らもこのように主イエスから拒絶される羽目になる(ルカ十四章十五節〜二十四節参照)。なぜなら、先延ばしにするな、神の声を聞いた「今日」中に解決するように聖書(ヘブライ三章七節~八節、十三節、十五節、詩編九十五章七節~十一節参照)にあるさかい。決断するんは「今日」から出来るやろ。上記聖句の律法違犯は不義、不法という意味やが、それは律法違犯を指すのも原語の意味としてあるさかい、分かり易くするために「律法違犯」と訳した。聖書でいう不義や不法というんは、律法違犯を意味する。神の律法は神の正義を示したものやさかい。故に、律法違犯は罪であり、悔い改めて罪を犯すんをやめへんようなら、神の王国に入れへんというんは当然の理やろ。「広い門と広々とゆったりした道」というんが、まさに神の律法を無視して守ってへん世の諸教会や諸教派、その他聖書を悪用するカルト宗教のことやな。彼らはずっと偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論に騙されており、気付きもせえへん。拙者が聖書を基に分かり易く教えてるのに、無駄に反発しており、頑なに受け入れようとせえへん。そないな人は神に選ばれてへんということが明らかやろ。世の諸教会は、個人の信仰や覚悟の程を見極めようともせず、誰でも受け入れようとする。なぜなら、羊のなりをして狼のように強欲な自称聖職者はより多くの信者に通ってもらい献金目当てやし、中には姦淫目的の者も居る。たとえ金銭や性に関する不祥事が無い所であっても、主イエスの教えやのうて、偽使徒パウロの教義を盲信して絶対視してるようでは論外で、律法を無視したり、日曜礼拝、クリスマスや復活祭(イースター)等の異教カトリックの行事等をやっとる所は全部あかん。せやから、世の諸教会や他のネット教会には救いはまったく無い。牧師といった自称聖職者どもは、教会員それぞれが道を踏み外すとか信仰が薄く罪を犯す等という状況に注意をまったく払っておらず、個別指導する訳でもないし、どうなろうと知ったこっちゃないという姿勢やからね。当の牧師どもが聖書から外れた西洋の習慣に則る世俗的な生き方をし、律法違犯もしており、罪に敏感になれる筈もないから何も役立つことを教えることがでけへんのや。世の神学校等で牧師資格なんか取ってイキって偉そうに間違うた教義を説教をしてるようでは、監督者としては失格なんや。反対に、拙者は教会の監督者として、教会員一人一人に気を配ってるし、叱責も鼓舞もしてる。そこが大きく異なる。教会員の中では働きが少なくてだらけてる人も居り、拙者も悩みは尽きひん。言うておくが、教会に籍を置くだけで救われるんとちゃうからな。勘違いすなや。何処に所属してても、所属するだけで救いが保証されるのではない。各自の歩み次第、努力次第であることは忘れんでもらいたい。受験でも同じやろ。予備校や塾に通ったり、講座を多く受講して大金をつぎ込んだり、参考書代に費やしたとしても志望校に確実に合格する訳ちゃうやろ。結局は、自学自習が物を言うんです。それと一緒。信仰は、受験とは異なり、一人ぼっちでやり切ることは絶対に不可。それも過去に言うてきたとおりやが、主イエスの新しい掟を守ることがでけへんし、この悪い世の中で、一人っきりでは心が折れて最期まで歩み通せへんからね。
あと、上記引用聖句の最後の一文やけど、これも市販の聖書は誤訳が酷過ぎる。マタイ二十章十六節も同じで、後か先かなんて訳をしてるのが多いが、そないな訳では文脈的にもおかしいし、意味が通じひん。せやから、それは誤訳であり、社会的地位のことを述べてる。この世で社会的地位が低い者が神の王国では一級、英語で言えば、first rankやfirst classと言え、そして、今、社会的地位が高い者が後で最も低くなる者が出るともあるというこっちゃ。つまり、この世と後の世では立場が逆転するというこっちゃ。真逆なんや、この世と神の王国ではね。真のキリスト者は、この世では決して高い地位に就かへんし、有名になってちやほやされることもない。むしろ、神によってそうならへんようにされる。なんぼ頭が良くて能力が高くて人格者でも無理。神によってそれらに縁が無いようにされるか、周囲の人の見る目を無くし、要職に採用されたり引っ張り上げられることもないからや。この世では、愚かで無能で狡猾な金持ちが主要な社会的地位を独占し、お仲間同士を持ち上げてるのが現実やさかい。真のキリスト者の人生の目的は、この世で成功するとか多くの人間から好かれることやのうて、後の世のこと、父なる神のこと、主イエスのこと、隣人や信仰の兄弟のことを考えて行動することや。この世での社会的地位や金銭や名誉等は、どうでもええ。こないな考え方で、また生き方を実践してへん人は皆、偽り者や。更に、マタイ二十章十六節では底本違いで改ざんが明らかになってる箇所でもある。市販の聖書の多くで削除されてる文章を教えよう。「招かれた者は多いが、選ばれた者は少ないさかい。」という一文を追記しときや。それが意図的に削除されとる。これはマタイ二十二章十四節でも言われてる内容と一緒や。にわかキリスト者が勘違いしてるんは、自分らが「選ばれた」と勘違いしてる点で、「招かれた」けど、相応しくない(マタイ二十二章八節参照)が故に、後で追い出されることに全然気付いてへん。
また、主イエスは、狭い入口を通って入ろうとしても、それがでけへん人が多いとも明言しはった。なんぼ人間側が頑張っても無理なもんは無理ということ。即ち、これは神による選びを示しており、神に選ばれへん人はなんぼ真のキリスト者になろうと頑張っても無理なんや。神が選ばへん人間には惑わしの霊を送り、神御自身が人間の心を見透かし、邪な思いを持つ人間や行いが悪い人間を拒絶する。過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で示したとおり、予定説がこれを裏付ける。そらそうやろ。神が選ぶ側であることを認めず、人間が望みさえすれば永遠の命を得て天の国に入れるっていう自由意志説の考え方は、神の主権を無視して人間各自の主観と独断で無理に押し入ろうとする考え方でしかなく、非常に傲慢で、神への不敬でしかあらへん。そないな人は無理やり押し入って欲しい永遠の命を奪い取ろうと狙う強盗や。主イエスもそう言わはった(ヨハネ十章一節参照)。神の律法を無視して違犯し続けて悔い改めを拒絶することで、主イエスの教えに逆らいながらも「永遠の命をよこせ」と言わんばかりに救いを要求するにわかキリスト者どもは強盗や。もし、あんたの家に見ず知らずの人がやって来て、「あんたの家に入りたいから入れてください」って突然言われたとして、あんたは「はい、どうぞ」ってすぐに招き入れるやろか。せえへんやろ。何処の人か知らんし、何するか分からん等と不安で拒絶するであろう。それと一緒。会社の面接でも、面接担当者が応募者を吟味するのであり(応募者が面接者を試して会社を知る場でもあるが)、応募者が応募したんやから絶対に採用しろと命令したり要求することはでけへんやろ。それと一緒。人間がなんぼ頑張っても神が選ばへんのなら、絶対に無理なんや。自由意志ではどうにもならんとはこのこと。こない単純な道理も分からん愚か者が多過ぎる。人間の自由意志でどうにでもなる、主イエスを信じてれば絶対に天国に行けると教える奴らは偽教師や。神の御計画と御意志を無視し、聖書にある内容を守らず、神の律法も守らへん人なんか神の王国に入れる訳がない。偽使徒パウロの甘言に騙されるべきではない。使徒ヨハネの言葉、ヨハネ三章十五節~十六節にあるような信じる者は誰でも主イエスによって永遠の命を得ると思って引用する人も居るけど、その「信じる」の意味を理解してへんだけや。原語の意味では、その「信じる」とは、信仰にあって自分自身を捨てるという意味を持つ。捨て身の信仰であるし、自分を捨てて神に服従、神の律法に服従することを意味する。神の律法を無視して違犯し続けながらも携挙されたいと今も懲りずにしつこく言うたり、心の中でそう思ってる人らは一生無理で、妄想し続ける惑わしの霊の支配下にあることを示してる。そないな者は例外無く律法を無視して違犯する不法を行う者であり、主イエスの信仰、捨て身の精神、神への愛があるとは言えへん。彼らは、ただ死にたくないとか大艱難に遭いたないっていう臆病さと自己愛、保身のことしか頭にあらへん惨めな人たちや。
そして、世の権力者や大衆がしてることと同じことをしたり、考えたりしてるようでは、滅びに至る広い門から入り、広い道に入ってることになる。実際、主イエスの御発言のとおり、そうやって滅びる人が多いことは現実となり、世の現実と合致する。今では誰もが西洋かぶれして何とも思わへん位の白痴になってるさかい。世間の人々は神に逆らい、狂ってる。周囲の大衆、政治家、有名人、富裕層どもらと同じような格好や同じような考えを持って生活してるなら滅ぶ。周りと異なることを恐れてる者はあかん。神の評価よりも人間の評価を気にする臆病者であり、神を畏れる者、神に従順な者とは認められへんからや。普段は異教徒や不信仰の者らと同じような世俗的な生活をし、神の律法を守らず違犯し続けながら、「主イエスを救い主として信じる。」と口先でも言いさえすればええなんていう耳触りのええ偽使徒パウロの教義は、主イエスや直弟子の十二使徒や主の弟ヤコブも初代教会のエルサレム教会員たちは決して言うことがなかった。それ故、パウロは十二使徒や主の弟ヤコブやエルサレム教会員らと懇意になることがなく、むしろ対立した。パウロのように口先だけの気軽な信仰は、ほんまもんの信仰とは言えず、完全に間違いや。過去に拙者が散々紹介してきた主イエスの御言葉が突き刺さるであろう。
新約聖書 ルカによる福音書 六章四十六節(拙訳)
ところで、何故、我を『主よ、主よ』と呼んで、我が言うことを行わへんのか。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章十五節(拙訳)
もしあんた方が我を愛してるなら、我が掟を守る。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章二十三節~二十四節(拙訳)
イエスは彼に答えて言わはった。「もし誰かが我を愛するなら、その人は我が教えを守るだろう。そうすれば、我が父はその人を愛しはり、父と我はその人に行き、その人に住居を定めるだろう。我を愛さへん者は、我が教えを守らへん。あんた方が聞いてる教えは我が物やのうて、我を遣わしはった父のもんや。
上記のとおりやし、当記事上部で引用したマタイ七章二十一節~二十三節も忘れるべきではない。「主よ、主よ」と虚しく言うだけで、行いが伴わず、律法を無視して不法を行う自称キリスト者たちは最後に主イエスから「あんたのことは全然知らない」と言われるのがオチです。受肉しはって地上で生活された時においても律法を遵守し、死に至るまで神に従順で罪を犯さへんかった主イエスが、なんで神の律法を忌み嫌いって束縛のように捉えて違犯し、口先だけ「信じてる」と言うて近付いて来て、律法を故意に無視して罪の奴隷になってる汚らわしい人間たちと一緒に住むんか。そないなことがある訳ないやろ。普通に主イエスの立場で考えれば、そないな人間を求めてへんし、気持ち悪いやろ。何遍も言わせるな。主イエスは、人間が過去に罪を犯したとしても「悔い改めて罪とは決別した者」を受け入れはるが、罪とは何かを教えてる神の律法を無視し、一向に悔い改めへん口先だけの「にわかキリスト者」なんかを愛することは断じてない。世の諸教会に所属する人らや自称聖職者ども、ツイッターやブログ等で脳内お花畑なことを言うてる多くの自称キリスト者どもがこの「にわかキリスト者」に当てはまる。すべて偽使徒パウロの反キリスト教義を信じて盲目にさせられてるが故やろ。過去記事「パウロは偽使徒」に投稿する反キリストの輩どもは、見て分かるとおり、拙者の記事内容には一切触れず、意味の分からんいちゃもんを付けるだけ。ゴミなんですよ、ああいう物言いは。聖書を基に内容について議論したいなら受けて立つが、そもそも聖書を根拠に完全論破してるさかい、反論の余地も無いけどね。せやから、性根の腐った反対者どもは論点ズレで、客観的証拠も無く、極めて主観的で訳分からんことを言うしかない。真理に勝てる筈が無いからな。間違うた信仰、間違うた教義を信じてる自称キリスト者なんかが勝てる確率は皆無や。なぜなら、真理に立ってへんからや。悪魔がどうして主なる神に勝てようか。無理やろ。同じように、悪魔の子(不信仰の者、異教徒、にわかキリスト者)も神の民(真のキリスト者)に勝つことはでけへんのや。たとえ肉体的に迫害等をして勝ったかのように見せかけても無駄で、それは本質的な勝利ではないこと位、聖書を理解してるなら分かるであろう。過去のファリサイ派やローマ人のように、主イエスや十二使徒や彼らに従った神の民らを迫害し、肉体的な死に追いやってもそれで勝ちではないからな。後の世がほんまもんで永続することを聖書は教えてるやろ。この短い期間限定の仮の世が本番ではない。聖書の真理や拙者に対抗しようというのが正しい行いではないことにええ加減気付かなあかん。偽使徒パウロが十二使徒に対抗して勝てへんように、律法廃止論者の異端者が拙者に対抗しようなんて無駄なあがきやし、悪い行いや。目に見える奇跡、癒し、悪霊の追い出し等をなんぼやったかて、神の律法を無視して悔い改めてへん人らは皆、脱落してるし、主イエスに知られてへん。自分たちに信仰があるとせいぜいうわ言を言い続け、虚勢を張ってるがよい。必ずそないな者は絶望する羽目になる。真理を愛さへんかった報いであり、後で主イエスから拒絶され、絶望して、泣き喚いて歯ぎしりするであろう。更に以下の聖句も主イエスと同じ教えや。
新約聖書 ヤコブの手紙 二章十七節(拙訳)、二十六節(拙訳)
同じように、もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは信仰は死んだものや。
(中略)
それ故、霊無き肉体が死んでるように、同じように、行いを伴わへん信仰は死んでる。
上記のヤコブの発言のとおり、行いは非常に重要であり、黙示録でも使徒ヨハネが主イエスが人間各自の行いに応じて報いを与えるとも発言してはるし、福音書にも主イエスが「我が天の父の御意志を行う者が入る」(マタイ七章二十一節拙訳)と言わはり、行いを重視してるのは明らかや。それやのに、パウロは口先の信仰のみでよく、行いも律法も要らんかのように言うてるんですよね。これは明確に誤りであり、キリストの教えに反し、反キリスト発言と言える。
(続く)