こんにちは。

今回は、洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤについて述べます。


 

新約聖書 マタイによる福音書 十一章二節〜十九節(拙訳)

ところで、ヨハネは、キリストの業を牢の中で聞いて、彼の弟子二人を遣わしていた。
(その二人のうち一人が、)彼(イエス)に言うた。「あんたが遣わされてる方か。それとも、他の方を待ちますか。」
すると、イエスは彼らに答えて言わはった。「行って、見聞きする事をヨハネに伝えなはれ。盲人は見え、跛者は歩き、重い皮膚病患者は清められ、聾者は聞こえ、死んでる者は起こされ、貧しき者は福音伝道されてる。そして、我によって気分を害されへん者は聖なる者や。」
更に、これら(ヨハネの弟子たち)が帰ると、イエスはヨハネについて群衆に話し始めはった。「あんた方は何を見に荒野に行ったのか。風で揺るがされる葦か。否、何を見に行ったのか。しなやかな服を着てた人か。見よ、しなやかなのを着てる人たちは王宮に居る。否、何を見に行ったのか。預言者か。然り。あんた方に言うとく。預言者に優る者や。
『見よ、我はあんたの出現の前に我が使者を遣わし、彼はあんたの前にあんたの道を用意するだろう』と述べられてるのは、この人やからや。確かにあんた方に言うとく。女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れへんかった。しかし、各天の王国で最も小さな者は、彼よりも偉大や。更に、洗礼者ヨハネの時から現在まで、各天の王国は押し込まれ、強盗がそれを奪い取る。
すべての預言者と律法は、ヨハネまで預言したからや。
また、もしあんた方が受け入れるなら、彼は、来ると予定してるエリヤや。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。しかし、この時代を何に例えようか。広場に座って彼らの仲間に呼び掛けている少年たちのようや。
『我々があんた方に笛を吹いたのに、踊らへんかった。我々があんた方に葬送歌を歌たのに、悲しまへんかった。』と言うてる。
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいる故に、人々は『彼は悪霊を持ってる』と言うた。人の子が来て、食べたり飲んだりしてると、人々は『見ろ、大食漢で大酒飲みの人や。徴税人や罪人の仲間や』と言う。

しかし、知恵は、その子らから正しいと証明される。」

一、洗礼者ヨハネの疑念
上記聖句から、洗礼者ヨハネは牢の中で主イエスについて疑念を抱いていたかのような様子が分かる。なぜなら、洗礼者ヨハネが彼の弟子二人を主イエスの許に派遣し、「あんたが遣わされてる方か。それとも、他の方を待ちますか。」と質問させたからや。もし洗礼者ヨハネが、主イエスを来るべき救世主(メシア)と確信してたなら、かような質問をする筈がないからや。マタイ三章では、洗礼者ヨハネは主イエスと会うて話したのに、この場面では洗礼者ヨハネは主イエスに対して疑念を抱いていたように思える行動をした。何故、洗礼者ヨハネは主イエスに対して疑念を抱いたのか。マタイ三章十二節で洗礼者ヨハネ自身が発言してたのに、それとは真逆な発言をこの時にはしてる。その理由は、おそらく、主イエスがほんまもんの救世主(メシア)であるなら、救世主がこの世の悪人どもに対して裁きを下すことに期待しており、さっさとこの世の悪人と悪魔を一掃し、神の王国を早急に樹立し、素晴らしい世の中に変えてくれるだろうと期待していたが、それが一向に行われへんかったからであろう。そうこうするうちに彼自身が不当逮捕及び不当拘留されてることで、精神的に弱ってきたからかもしれへん。また、イザヤ書六十一章一節にあるように、囚われの身のから解放されることも洗礼者ヨハネは期待していたかもしれへんが、それが洗礼者ヨハネ自身に対しては実現することがなく、彼は「神の律法を擁護し、悔い改めを説き、神のために働いたのに、牢の中で長期拘留され続けるのが報いなのか…」と思い、気持ちが揺らいできた可能性もある。主イエスからエリヤと称された洗礼者ヨハネでも不遇であることがあり、その事実だけを以って洗礼者ヨハネは大した事ないと思うべきではない。
しかし、時間に縛られず永遠に生きてはる神にとっては、千年が一日のようやさかい、数年なんてほんの一時に過ぎひん。かように、神と人間とではその時間感覚の差が大きくあるし、人間は神の御計画のすべてを知ることが許されてへん故に事情を知らず、また、人間は短い人生の中で数年でも非常に大きい故、中々事が起こらへんと「長い」と思て痺れを切らしたり、苛立ったり、あるいは落胆したり、たとえ予定されてることであっても焦りの気持ちや疑念が生じることがある。洗礼者ヨハネは人間であり、おそらくかように思い、更に彼自身も一向に釈放される兆しも感じられず不当に拘留されてる状態故、期待してた事が中々起こらず、主イエスに対して疑念が生じ始めたんでしょう。長い目で見れば短いかもしれへんけど、自由がまったく無くて狭い牢で拘束されてる状態では一日が非常に長く感じるでしょうし、牢からも救い出してくれへん主イエスに対して疑念を持ち始めるのも無理は無いでしょう。かように、聖書読者は、この洗礼者ヨハネの心情を考えないかんで。これが分からん人は、当事者の立場や気持ちになって考えず、他人事でおるから分からんのや。「神である主イエスに対して疑念を抱くとは不届き者や」等と安易に偉そうに言うべきではない。特に、律法廃止論信奉者であるパウロ教信者どもが言うなら、「偉そうに言えた立場ではない」ということになる。なぜなら、パウロ教信者どもは、不信仰に等しい程の異教徒やからや。主イエスが公生涯で直接選んだ訳でもなく、使徒になれる資格が無いのに勝手に使徒と自称して反キリスト教義を吹聴したパウロを中途半端に信奉し、主イエスの教え(律法を守れ、神を第一にしなはれ、慈愛ある行いをしなはれ、敵をも愛しなはれ、信仰の兄弟は互いに愛し合いなはれ等)には逆らってるんやからね。パウロの数々の反キリスト発言や振る舞いにも違和感を抱かへんし、信じるのをやめず、パウロの座であるローマ教皇を崇敬したり、神学校等でイエズス会の洗脳教育を受けたパウロ教信者の牧師どもにも聞き従うのをやめへんのやから、頭がおかしいとしか言いようがない。驚くことに、未だに「『パウロは偽使徒』とは何を根拠に言うのか」と間抜けな事を言うて来る人が居るんですよね。二千二十一年夏に拙者が「パウロは偽使徒」という記事にし、「「パウロは偽使徒」の動画」という動画にもして分かり易く証拠を添えて説明してんのに、アホみたいな質問をするなよ。無礼やし、能無しなのを露呈してるだけやで。既に何年も拙者が無償で一般公開してんねんから、あんたらが自分で確認し、勉強して理解に努めなはれ。それらを学んだ後でもなお何か不明点等があれば、質問すれば良いが、確認もせずに間抜けな質問なんかしても回答せえへんし、邪魔やさかい削除する。そないな莫迦げた発言に返信する暇は無いからや。
また、国語力が無い人は、聖書の真理を理解出来ず、拙者の言う事も理解する能力が無い。即ち、そないな人とはまともな会話が出来ず、日本語が通じひんのですよね。そもそも、日本人なら、義務教育の国語で散々勉強した筈やろ。長文を読んで、筆者や登場人物の心情等を読み取る問題等をやった筈や。国語のみならず、日々の人間関係においても、他者との関わりで相手への心情を言葉や振る舞いから読み取って、対応をするやろ。それらが出来ず、自分の事しか考えへんような傍若無人な人は頭がおかしいし、人の気持ちを理解しようとすらせえへん精神病質者(サイコパス)や。遺憾なことに、この世の権力者や富裕層にかような精神病質者が多く、世の権威に疑問を持たずに盲従する一般人にも多いし、それ故、この世は非常に悪く、理不尽な事や不法行為やおかしい事がまかり通り、利己主義で自分たちの利益のみを考え、聖書を読んで神のことを考えず、利害関係が無い他人への愛が無く(隣人愛の欠如)、貧しい人を蔑んだり、無収入の人や子供からも税金を取るという悪徳非道な消費税等といった廃止すべき違憲の税法を放置して容認し続け、更なる増税や、個人事業主潰しの有害なインボイス制度に抵抗運動もせずに従って導入したり、多くの企業は従業員の待遇を良くしようとせえへん(基本給が低い、低賃金、長時間労働、福利厚生無し、退職金無し、手当無し、一週間以上に亘る有給休暇を取らせない等)。かように、愛が無いのが致命的な悪であることは明白であり、神(イエス・キリスト)は慈愛が大切と教えはった事が真理であると分かるやろ。
洗礼者ヨハネには、聖書に対する勘違いがあったと思われる。勿論、囚われの身になるという大きな障害は同情の余地があり、貶す意味ではないが、聖書に対する誤解があったことは否めへんであろう。洗礼者ヨハネの誤解とは、救世主(メシア)が二度来ると思わへんかった(一度しかけえへんと考えた)点と、主イエスの初臨でいきなりこの世に裁きをもたらすと期待しており、再臨の時に裁きを下すという事を理解してへんかった点や。もっとも、当時の聖書(今でいう新約聖書は存在せず)には救世主(メシア)が二度来るとは明記されてへんさかい、無理もない。そして、他の一般のユダヤ人たちも同じ理解であり、当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれて属州に組み込まれて、ローマ人の圧政から解放してくれる政治的な活動をする救世主像を思い描いており、救世主が一度お出ましになれば、すべて解決すると思ってた。しかし、それこそが勘違いであり、聖書の真意ではない。ユダヤ人の大衆は主イエスに期待してた面もあったが、あっさりと逮捕され、鞭打たれたりしてる姿を見て、「こんな弱い人間が救世主な訳がない」と思い、その勝手な期待外れと落胆から怒り、主イエスに対して「十字架につけろ」、「イエスよりも(強盗の)バラバを解放しろ」と言いさえし、無罪なのに主イエスが強盗バラバよりも嫌われた事実がそれを物語ってる。主イエスはピラトから尋問された際、主イエスの王国はこの世からのものではないと明言しはった(ヨハネ十八章三十六節参照)ことからも、主イエスはこの世で政治的指導者になったり、王になって世直しをしようという気はまったく無かったことが分かる。しかし、この世の大衆は、この主イエスの御意向も、聖書も、神の御計画も何一つ理解しておらず、神のことを考えず、ただこの世での自分たちの幸福や繁栄等を願ってるだけの利己主義者たちであり、天国には相応しない。洗礼者ヨハネは牢に長期拘束されたことで、気が弱くなって、当初思っていた主イエスに対する期待がどんどん薄くなり、疑念を生じたのであろう。我等は、このことから学び、前以って知ったのであるから、何があろうとも主イエスに対する信仰を保ち、疑って不信仰に陥らぬようにせなあかん。

二、主イエスを疑う正当な理由は無い
上記聖句から、主イエスは「行って、見聞きする事をヨハネに伝えなはれ。盲人は見え、跛者は歩き、重い皮膚病患者は清められ、聾者は聞こえ、死んでる者は起こされ、貧しき者は福音伝道されてる。」と、洗礼者ヨハネの弟子に言わはった。その理由は、イザヤ書三十五章五節〜六節において、盲人が見えるようになり、聾者が聞こえるようになり、跛者が歩き、口が利けへん人が話すことが書かれ、メシア預言であるイザヤ書五十三章四節で病を担ったということが、まさに主イエス御自身で実現してはる事実に言及しはり、洗礼者ヨハネに対し、彼が疑って不信仰にならぬようにという意図の伝言をしはった。聖書を知る洗礼者ヨハネなら、それらの聖書預言が主イエスの御業と同じであるという事実を言うことで、主イエスこそが救世主(メシア)である事実は揺るがへんという事を理解するだろうと期待してのことや。もし聖書に無知な人なら、「それらは何の事か」、「奇跡自慢か」と思うだけで終わるが、洗礼者ヨハネはそないな聖書に無知な人と同じやのうて、一般人の不信仰者や利益信仰者やパウロ教信者ども等とは違う。
上述の一で拙者の考察を書いたとおり、人は、自分が悪い状況や環境に身を置くと、やはり精神的に沈んだ気持ちになり、自分が置かれてる状況が改善されへんなら、否定的な思いがどうしても出てきてしまう。それが人間の性でしょう。それを乗り越えられるかっていうのが問題なんです。もしそういった試みを乗り越えられへんなら、神はその者を神の王国に相応しいと思し召すかどうかと疑問に思わないかん。福音書を読み進めると分かるとおり、主イエスは神の律法に違犯せず、神と隣人のために働きはり、この世の悪い権力者や偽り者どもを弾劾し、何の罪も無いのに権力者に妬まれ憎まれ、大衆からも嫌われ、不当に逮捕され、鞭打たれ、叩かれ、嘲笑われ、挙句は十字架刑という残虐な死刑まで受忍しはった。それも神の民の救いのために。かように、神の民となる真のキリスト者ならば、師である主イエスに倣い、主イエスのように無実の罪という冤罪で死刑にされる覚悟が必要ということや。前回記事「畏れるべき者」でも十字架を背負うという意味についても言及したとおりで、死にたくないとか死が怖いと思い、この世での生に執着する臆病者は神の目に適わず、地獄行きになる(黙示録二十一章八節参照)。主イエスは何も悪い行いをせず、律法にも違犯せず、偽りを言わはらへんかったさかい、疑う点も理由も微塵も無い。聖書を読んだらよう分かるやろ。聖書を読みもせんと、主イエスを嫌ったり、愚弄してるような者や主イエスの教えに従わぬ偽使徒パウロ信者どもは、悪魔の子や。熱心に悔い改めよ。そもそも、神から選ばれへん悪い者やからこそ、信仰に招かれず、信仰に招かれたとしても途中で脱落したり、偽使徒パウロの耳触りのええ偽福音の方に逸れる羽目になる。

三、主イエスの教えに不快になる者は悪魔の子
上記聖句から、主イエスは「我によって気分を害されへん者は聖なる者や。」と言わはった。何故かような事を言わはるのか。理由はいたって単純であり、神の民か悪魔の子かを分かつ基準の一つになるからや。神に選ばれぬ悪魔の子は、主イエスを嫌い、主イエスの教えを忌々しく思い、従わへんし、聞く耳も持たへんからや。実際、世の九割九分九厘以上の人間が主イエスの教えに逆らう反キリストやし、権力者や富裕層や有名人等は言わずもがな。聖書に書かれる主イエスの教えを読んだり、聞いたりして、あんたはどう思うやろか。殆どの人が「こんなのに従ってられるか」っていう感じやろ。目に見えへん神を畏れず、自分がやりたい事を優先したり、世の権威(政府、報道機関、会社、学校等)を恐れて従い、神の律法を守ることを束縛に感じて律法を無視して違犯し、偽使徒パウロの律法廃止論の方に逸れて律法を守らずとも問題無いと自分自身を騙して納得したり、不信仰のままでおるんでしょう。しかし、そないな人たちが救われて永遠の命を得る可能性は一切無いで。世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)や諸教派に属する偽使徒パウロ信者どもは、自分らを「クリスチャン」やと自称して嘘をついてるが、彼らの嘘を信じてはならない。偽使徒パウロを信じてるか否かが、真のキリスト者か否かの判断基準の一つになってることを理解しなはれ。パウロを偽使徒と言い表さずにキリスト者(クリスチャン)と自称する者はすべからくパウロ教信者であって、キリスト者ではないからや。パウロ教信者どもは律法を嫌って守らへんのが特徴であり、すぐ見分けがつくさかい簡単や。自称無神論者どもや異教徒(パウロ教信者を含む)は、聖書を嫌い、主イエスを嫌い、神の律法を嫌い、真のキリスト者を嫌う一方で、世の悪魔的な事(偽りの暦(太陽暦)とそれに基づく行事、悪魔崇拝要素が含まれる音楽、遊技、漫画、アニメ、スポーツ等)、偶像礼拝(カトリック、正教会、プロテスタント、イスラム教、仏教、その他すべて人間が創作した宗教等)、愚かで邪悪な人間等を好む故、まさに悪魔の子と言えよう。聖書と当ブログや動画を見聞きしてもなお悔い改めぬ場合、見聞きすることも拒絶するなら、弁解の余地は無く、自らを地獄行きに定めてることを認識せい。当ブログや動画に対しても不快に思う者も、悪魔の子と言える。なぜなら、拙者は聖書に書かれてる主イエスの教えに基づいて伝道してるからであり、何も聖書に書かれる主イエスの教えと相反することは言うてへんからや。その事実を理解出来ぬ程に知能が足らへん獣のような者が何を言おうとも無駄であり、中傷するなら余計に重い罪を犯すことになり、死後の裁きをより酷くするだけや。
市販聖書の翻訳では「つまずかない者は幸い」等と書かれてるが、幸いなどと運が良いとか自己満足で済ませるような訳にすべきものではないし、それでは言葉の重みに欠け、不適切や。上記の主イエスの御言葉から、主イエスによって気分を害されへん者、即ち、主イエスの教えに納得して素直に受け入れて実践する者は聖なる神の民であるということで、必然的に主イエスの教えに合致する。当ブログや当動画の内容にも気分を害されることはない筈であり、素直に受け入れて当然や。受け入れられへん人は聖なる者ではない、神の民ではないということです。受け入れるということは、その言うことに従うことを意味し、行いが伴わへんのに「受け入れてます」と口先で言うなら嘘つきになることに要注意や。行いで示すことがでけへん人は諦めた方がええ。誰でもやれる事なのに、聖書で言われてる事を平素から行いで実践しようとせえへんのは、主イエスに対して不快になってる、気分を害されてる証拠やからや。主イエスの教えに対して不快になるのはその者が世から出た者(世に属する者)であって、神から出た者(神に属する者)ではないからや。これは神による自由な選びによるものであって、予め定められており、個人の努力ではどうにもならへんからや。無理して「不快ではない」、「気分を害されていない」等と自分自身を騙そうとしても、やっぱり不快感や違和感等は消えへんもんやろ。過去に当ブログに投稿してきても消え去った人々のように、一時的に気になっただけで続かぬ者はそれがその人の本質なんや。神に選ばれぬ人は絶対に途中で消える羽目になる。なぜなら、神は、神御自身が選んだ人だけを救う予定にしており、神が選んでへん人間を救うおつもりはないからや。

四、預言者に優る洗礼者ヨハネ
上記聖句で、主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子が帰ってから群衆に向けて洗礼者ヨハネについて話し始められ、「あんた方は何を見に荒野に行ったのか。風で揺るがされる葦か。否、何を見に行ったのか。しなやかな服を着てた人か。見よ、しなやかなのを着てる人たちは王宮に居る。否、何を見に行ったのか。預言者か。然り。あんた方に言うとく。預言者に優る者や。」と評しはった。マタイ三章を読めば分かるとおり、洗礼者ヨハネは、荒野で質素に過ごしていて人々に悔い改めを説いていた。それで人々が洗礼者ヨハネを見に荒野に行ったことについて言及しはってる。そして、風で揺るがされる葦というのは、外的要因によって心が動揺し易い、コロコロ態度や言動が変わる人を示してるように思われ、洗礼者ヨハネはそないな人間ではないと主イエスは否定しはった。せやから、このことから、外的要因によって心が動揺し易い、コロコロ態度や言動が変わる人はおかしい人、神の民ではないという認識を持たないかん。当たり前やろ。動揺したらすぐに意見や行いを変える人、相手によって態度や言動が変わる人は、人間としてまともではないから、神から忌み嫌われて滅ぼされる人間や。まともな人は、真っ直ぐでひねくれておらず、一度決めたら容易に意見を変えず、人によって態度を変えたりもせず、考えや言動等が首尾一貫してる人であり、かような人こそ嘘をつかへん人やと思えるし、信用出来るやろ。八方美人で誰からも良く思われようとし、嫌われへんように態度や意見をコロコロ変えまくり、迎合しまくるようなカメレオンみたいな人間を信用出来るか。否やろ。しかし、世間にはカメレオンみたいな人間、本心を言わずに偽りで取り繕ってばかりの人間が非常に多い。そないな事をええ加減やめへんなら、ほんまに地獄行きになるで。
更に、洗礼者ヨハネは、しなやかな服を着た人でもない、即ち、金持ちではないし、王宮に居るような権力者でもないと主イエスは否定しはった。しなやかな服とは、絹で出来た服のことで、生糸で作られて肌触りが良いが蚕の繭から作られるもの故、大量生産は出来ず、値段も高くなり、昔から絹の服を着るような人は金持ちや権力者とされており、主イエスは洗礼者ヨハネをそないな人ではないと否定しはった。
否、否と二回否定の後、預言者という件で、然りとなり、主イエスは洗礼者ヨハネを「預言者に優る者」と高く評価しはった。預言者は、神の御言葉を預かって人々に代弁する存在で、旧約聖書に預言者の記述があるとおりで、どないな人かはおおよそ想像がつくやろ。洗礼者ヨハネは、その預言者たちよりも優ってるということや。何故、洗礼者ヨハネは預言者に優るんか。それは、洗礼者ヨハネが果たした役割や働きにこそ理由があるのであって、洗礼者ヨハネの性格や気質等が他の預言者たちよりも上とか、そういう意味ではない。ただ純粋に、行いや働きの内容で評価されてるんや。神の御言葉を人々に告げる預言者も重要な役割を担う存在やが、主イエスの前に主の道、キリスト道を備える、悔い改める人々を用意するという行いの方がもっと重要な仕事なんや。それ故に、主イエスは洗礼者ヨハネの働きを評価しはり、預言者に優る者と言わはった。

五、洗礼者ヨハネは預言されてた神の使者
上記聖句で、主イエスは、「見よ、我はあんたの出現の前に我が使者を遣わし、彼はあんたの前にあんたの道を用意するだろう』と述べられてるのは、この人やからや。確かにあんた方に言うとく。女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れへんかった。しかし、各天の王国で最も小さな者は、彼よりも偉大や。」と言わはった。主イエスは、ここでマラキ書三章一節を引用しはった。「我」という一人称は神であり、「あんたの出現」とは救世主(メシア)の地上での出現を意味し、「我が使者」というのは神の使者や。ここで言われてる神の使者こそが洗礼者ヨハネであり、彼という代名詞からも男性であり、合致してる。そして、「あんたの前」とは、「救世主の前」という意味であり、即ち、主イエスの前という意味や。洗礼者ヨハネは主イエスの公生涯での宣教の前から活動し、主イエスの御前にも立った人やったさかい、これも合致してる。「あんたの道」とは、主イエスの道、キリスト道であり、洗礼者ヨハネは主イエスの前に悔い改め(律法違犯をやめる)を説いてキリスト道を用意する存在で、主イエスは明確に洗礼者ヨハネがそれやと指摘しはった。以上より、聖書にあるマラキ預言が実現し、主イエスの御説明は見事に一致してるのを確認出来る。
そして、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れへんかった。」という御言葉から、洗礼者ヨハネは、一世紀当時で過去を振り返っても他のどの人間よりも偉大であるとも主イエスから評されてる。しかし、「各天の王国で最も小さな者は、彼よりも偉大や。」という御言葉から、天国に居る者は洗礼者ヨハネよりも偉大とも言わはった。主イエスの初臨の前にキリスト道を用意した洗礼者ヨハネを預言者に優る者とまで評したものの、天国に入った者に比べると下であると言わはった。神の裁きの結果、永遠の命に相応しいと決定されて天国に居てはる人たちは、地上のどんな人よりも偉大という意味であろう。この主イエスの御言葉は、洗礼者ヨハネが地上で牢に入れられてる時のもので、偉大な洗礼者ヨハネでも未だ地上で生きてる身分であり、天国に居る人には及ばないというのはよう考えれば当然のことです。洗礼者ヨハネが死後の裁きにて、神に認められて天国行きになったら、変わってくるであろう。我等は、この事をきちんと受け止め、この悪魔と悪人が支配する悪しき世の中で生きていて、最後の審判を経ていない限りは、天国行きは確定してへん故、信仰に招かれたとて「自分は選ばれたんだ」と思い込んで傲慢に振る舞うべきではないし、「自分は確実に救われるんだ」なんて不遜にも思うべきでもない。神は、人の心の中までも読む故、心の中で密かに思ってる事もすべて筒抜けやで。言わなければ分からんのではないからな。
そして、パウロ教信者どもは特に質が悪く、律法廃止論を信奉して律法違犯をやめへんだけでなく、携挙にしても反聖書的な艱難期前携挙説を盲信しており、自分らが確実に生きたまま救われる等と豪語しており、傲岸不遜であり、天国には不適切な人間や。そんな人たちが神に認められると強く思い込んでるのがおかしいわな。悪霊に惑わされ、心を害されて、頭もおかしくなっており、何がおかしいのか客観的に彼ら自身を見詰め直して判断する能力も無い。
洗礼者ヨハネは、主イエスの初臨の前に道を備えた人であった。マラキ書の預言は、その過去の出来事で終わったことであると片付けるのは早計であり、主イエスの前に道を備えることは、主イエスの再臨の前にも道を備えることにも適用されると考えるべきである。拙者が聖書預言を過去に説明したとおり、主イエスの再臨はそう遠くないと思われ、もしマラキ預言が繰り返し二度目も起こるとなれば、主イエスの再臨の前に道を備えてるのは一体誰か、あんた方はようその事について考えるべきであろう。実際、考えもしない人が多いやろけど、そんなんやからあかんのやで。もっと真剣に聖書に向き合って、悔い改めを行いで示して、実績を積まねば、神から認められる人になられへんよ。

六、この世では真のキリスト者は嫌われ迫害される
上記聖句で、主イエスは、「洗礼者ヨハネの時から現在まで、各天の王国は押し込まれ、強盗がそれを奪い取る。」と言わはった。この意味は、迫害を示してる。洗礼者ヨハネが悔い改めを宣べ伝えた時から、不信仰者や高慢で勘違いした自称信仰者等といった反対者どもが、「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいる故に、人々は『彼は悪霊を持ってる』と言うた。」とあるとおり、大衆は洗礼者ヨハネが断食してるだけで悪霊憑きという中傷をしたんですね。ほんまに、不信仰の愚民は何も考えず、言いたい放題ですわ。昔の話だけでなく、現代でも一緒や。拙者も同じように、聖書の真理を宣べ伝えてるだけで、言われのない悪口を言われ続ける。賢い人は言葉を発する前によう考えるけど、愚か者は思慮が浅く、何も考えず、すぐにしょうもない感情的な言葉を発する。軽率に発した言葉の責任を後で神から問われると知らずにね(マタイ十二章三十六節参照)。分を弁えず、アホみたいな事を平気で言うから、愚か者なんや。
洗礼者ヨハネだけやのうて、主イエスも同じように、大衆から「人の子が来て、食べたり飲んだりしてると、人々は『見ろ、大食漢で大酒飲みの人や。徴税人や罪人の仲間や」と中傷されたと言わはった。大衆は、嫌いな相手の場合は、その人の印象を悪くするために意図的に大袈裟に誇張し(嘘が混じる)、断食せずに普通に食べてるだけで大食漢と言い、普通に飲み物を飲んでるだけで大酒飲みと言い、社会的地位等を気にせずに分け隔てなく信仰がある人と接した相手が徴税人や元遊女であったら、罪人の仲間と中傷し、その人の評価を落とそうとする。この悪事の動機は、敵対心や反感から来ている。これも昔だけの話やのうて、現代でもまったく同じや。愚民どもは、ありのままの事実やのうて、事実を歪曲し、嘘をついてまでやるから、非常に質が悪い。嘘をつく事は律法違犯であり、地獄行きになる非常に重い罪(黙示録二十一章八節)やという認識が無い愚か者が多過ぎる。嘘をつくのは重罪で地獄行きになる程の悪行と知ってれば、とてもではないがそない簡単に嘘をつけないと思うんですけどね。悪魔は嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節参照)と主イエスが言うてはるとおり、人間で嘘つきなら、悪魔と同じ所業をしてる故にその人間は悪魔の子と呼ばれるのは当然のことです。嘘をつく人間は、根っからの悪人であり、悪霊に憑かれており、本人は悪いと思わず、反省もせず、嘘をつく事をやめへん。しかし、もし人として正しく在りたいなら、地獄に行きたくないなら、神を畏れてるなら、嘘を言うのはやめましょう。嘘をつくのをやめへんなら、地獄行きは避けられへんさかい(その他の律法違犯もやめるべきです)。
洗礼者ヨハネが荒野で悔い改めを説き始めて以来、上述したとおり、多くの反対者や敵対者が中傷して評判を落としたり、投獄したりし、神の国を構成する人やその伝道を聞いて悔い改める機会を奪い、これはまるで不信仰者や自称神に仕える者どもが、神の国を強盗の如く襲って奪い取ったと言える。奪ったからとて、その強盗どもが天国に行ける訳ではないんやけどね。せやから、先の主イエスの御言葉は、神の民に対する悪魔の子らによる激しい迫害を意味する。
そして、「すべての預言者と律法は、ヨハネまで預言したからや。」と主イエスが言わはった意味について、自称キリスト者のパウロ教信者どもは、この御言葉を曲解し、「洗礼者ヨハネの時までで律法を守る信仰は終わったんだ」、「イエスが現れてからは律法を守る時代は終わった」等と、偽使徒パウロの律法廃止論を正当化するために援用してる不届き者がたまに居る。しかし、先の主イエスの御言葉は、そないな意味やないで。そもそも、市販聖書にある「ヨハネの時まで」という「時」なんていう単語は原文には無いからや。せやから、時代といった意味や期間を意味する言葉はこの御言葉には含まれてへん。「ヨハネまで」とは、洗礼者ヨハネが行った事まで、即ち、悔い改めを説いて主の道を用意する事、即ち、律法を守って罪を犯すのをやめて主の道(キリスト道)を行く準備をする事までの範囲を意味する。これは、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「悔い改め」をすべての預言者と律法が預言した、救われるのに必要な事を指南したという事や。せやから、先の聖句は、預言者と律法は過ぎ去った古い事で無視してええという意味やのうて、主イエスによって救われるのに必要な事を預言者の書や律法に書かれてるのであり、それらを守れば、洗礼者ヨハネによって言われた事、悔い改めの要件を満たし、主イエスによって救われる準備が整うという事や。せやから、主イエスの初臨や十字架刑によって律法を守る時代が終わった等という意味にはなり得ず、律法を守る事は人間が神によって創造されて以来、律法を守らなくてもよくなる期限は無く、この世が滅びるまでずっと有効や(マタイ五章十八節参照)。それ故、旧約預言が無駄という事はなく、覚えなくてもええという訳でもなく、きちんと読んで先人たちの失敗の教訓を学び、悔い改めを神や他人に示すためにもすべての人間が律法を守らねばならんのや。主イエスが律法を廃止するために来たんやない(マタイ五章十七節参照)とも教えはったんは、律法遵守が救われるには必要不可欠な事やからや。せやのに、使徒の資格が無い偽使徒パウロは律法廃止論を唱え、パウロと同じく律法を憎む(即ち、律法の制定者である神を憎んでる)悪魔の子が、律法を守る真のキリスト者に対して「律法主義者だ〜」、「パウロを偽使徒呼ばわりするのはおかしい、カルトだ〜」等と中傷する。ほんまに愚の骨頂や。不信仰者(パウロ教信者を含む)といった救われる確率が著しく低い者が、偉そうに間違った内容と理由で他人を非難するな。己の分を弁え、他人の事を言う前に、まずは自分自身を客観的に見て、悪さを認識し、悔い改めい。

七、エリヤと称される者
上記聖句で、主イエスは、「もしあんた方が受け入れるなら、彼は、来ると予定してるエリヤや。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」と言わはった。この主イエスの御言葉も誤解してる者が多い。「聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」と言われてることから、理解出来る人の数はごく少数に限られ、注意深く考え、かつ、素直で無邪気にならねば正しい理解には至らへん。せやのに、思慮の浅い邪悪な者どもが、これをマラキ書三章二十三節(口語訳以前や他言語聖書では四章五節)の預言どおりであり、洗礼者ヨハネが預言されてたエリヤなのだから、過去に実現したのだから、もうエリヤは来ない、マラキ書に書かれてるようなエリヤの働きをする者はもう現れへんと誤って思い込んでる。それがおかしいんや。上述したとおり、洗礼者ヨハネでさえ、主イエスに疑念を抱き、救世主(メシア)に関する聖書預言を正しく理解してへんかった。それ故に、主イエスに直接お会いして話もして、主イエスの働きを人伝で聞いておきながら、不当に拘留される環境に身を置いた影響もあってか、疑念を抱くに至った。あんたらも他人事ではない。何も無い平常時は考えを変えることがなくとも、洗礼者ヨハネのように投獄されても同じような事が言えるだろうか、確固たる信仰を維持出来るやろかっていう想像力を働かせてみるべきや。そして、主イエスの御言葉を正しく理解してへんのに、理解してると思い込んでる人は高慢や。
では、どないな理解であれば、この主イエスの御言葉を理解してると言えるのか。それは、主の来臨が二度あるのと同じく、エリヤの到来も二度あるという認識がある事が必要や。一度目のエリヤの到来は、洗礼者ヨハネであった。マラキ書で預言されてるエリヤは、主がいらっしゃる前に主のために道を準備する働きをする者を指す。主イエスの初臨前は洗礼者ヨハネであり、主イエスの再臨前にも彼と同じような働きをする男が居るということや。この理解が無ければ、聖書預言及び主イエスの御言葉を正しく理解してるとは言えへん。
上述したとおり、主イエスから明確に洗礼者ヨハネはエリヤだったと言われ、「受け入れるなら」と条件付きで言われてることから、その事実を受け入れへん人も居るということや。上記聖句で分かるとおり、洗礼者ヨハネは悪霊に憑かれてる等と中傷する者が居った。現代も同じなんですよね。真のキリスト者を悪魔の子、異端者、カルト、おかしい等と中傷する者が居る。かような者どもは、間違い無く聞く耳を持たへん者であり、受け入れへん者でもある。そないな人に救いの希望は無い。そないな人は聖書を信じてへん不信仰者やからや。たとえキリスト者と自称しようとも関係無く、その実体はこの世の多数派の一員であり、不信仰者や。
ちなみに、神の律法を憎む愚か者への戒めとして、エリヤについて付言しておこう。旧約聖書続編にあり、「エリヤは燃えたつ律法への熱情のゆえに、天にまで上げられた。」(マカバイ一 二章五十八節)とも書かれ、預言者エリヤは神の律法をこよなく愛して守っていたことが分かり、また、それが要因で天に上げられたと明言されてる。せやから、律法遵守をせな、天には行けへんということが分かるやろ。よって、偽使徒パウロやパウロ教信者どもなんかは反キリストであり、救われることは有り得ず、蚊帳の外であり、論外なんや。上述したキリストの再臨の前に道を備える男は、まさしくエリヤと称されるべき人で、かつ、神の律法への熱情がある男というのが特徴と言える。よって、キリストの再臨前のエリヤは、パウロ教信者である世の諸教会や諸教派の中には絶対に居らへんとも断言出来る。

 


八、主イエスと大衆との距離感
上記聖句で、主イエスが言わはった「しかし、この時代を何に例えようか。広場に座って彼らの仲間に呼び掛けている少年たちのようや。『我々があんた方に笛を吹いたのに、踊らへんかった。我々があんた方に葬送歌を歌たのに、悲しまへんかった。』と言うてる。」とは、どないな意味か。既に他の箇所で引用したとおり、その後の件である「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいる故に、人々は『彼は悪霊を持ってる』と言うた。人の子が来て、食べたり飲んだりしてると、人々は『見ろ、大食漢で大酒飲みの人や。徴税人や罪人の仲間や』と言う。」も読めば分かるが、大衆が何かするように誘ったり、何かするように仕向けようとしても、それに乗っからぬ洗礼者ヨハネと主イエスに対する不満や中傷のことや。踊ってくれると期待して笛を吹いたのに踊らず、悲しんでくれることを期待して葬送歌を歌たのに悲しまへんと、主イエスが例えはった意味は、神(主イエス)や神の民は、大衆の期待に沿う事をせえへんということや。神の民は、神を第一にし、神の律法を守る事を大切にする故、不信仰者や異教徒等が多い大衆と同じような事をせえへんからや。世の多数派からあれしよう、これしようと誘われても、それが神の律法に反する事であったり、倫理的にも良くない事等であれば、神の民はやらへん。その距離感、神から出た者(神に属する者)と世から出た者(世に属する者)の差は、如何ともし難い。それ故、世の権力者や大衆は、主イエスや真のキリスト者を面白くないと思い、敵対心を抱き、中傷するに至る。せやから、世の権威に盲従したり、多数派に属してるようでは救いは無く、天国に行くこともない。

九、神の知恵は神の民から正しいと証明される
上記聖句で、主イエスが言わはった「しかし、知恵は、その子らから正しいと証明される。」という御言葉の「その子ら」の部分は、市販聖書では「行い」や「業」というように誤訳されてる。しかし、原文にはそないな意味はまったく無い。正しい訳は、拙者が訳したとおりや。知恵に子供は居らんさかい、これはどういう意味か。これは、神である主イエスから見れば、神の民は神の子であり、聖霊をいただいた神の民は神の知恵を発揮し、正しい聖書解釈をしたり、正しい福音伝道、悪い者や悪事を非難、慈愛あるええ行い等をしたりする故、それらを行う神の子たる神の民(真のキリスト者)から(神の)知恵は正しいと証明されるという事や。パウロ教信者や不信仰者どもからではない。神がそないな者どもを当てにする筈がないさかい。
そして、世の権威である権力者やそれに盲従する大衆は、神の民をええように思わへんやろし、敵視し、悪口を言い、正しいと認めようとせえへんであろう。しかし、彼らの評価は間違えており、神はそれを正しいとは認めはらへんからや。真の裁き主と評価者は神であり、この俗悪な世の人間(政府、裁判官、学者、一般人等)ではない。そこを間違えへんようにしなはれ。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上