こんにちは。
今回は、神の王国に相応しいように準備することについて述べます。
新約聖書 マタイによる福音書 二十二章一節〜十四節(拙訳)
また、イエスは再び話し始めはり、彼らに例えで語りはり、言わはる。
「天の王国は、その息子に婚宴を催したある王のように例えられた。さて、(王は)彼の僕たちを、婚宴に招待されてた者たちを呼ぶために遣ったが、来ることを望まへんかった。
再び別の僕たちを遣って、言う。『招待されてた者たちに語りなはれ。「見よ、我が食事は我が用意し、我が雄牛や肥えたものは屠られ、すべてが用意されてます。婚宴に来なはれ。」』
しかし、人々は無視して、出掛けた。ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に。 更に、残りの者どもは、彼の僕たちを捕まえて恥ずべき扱いをした上、殺した。そこで、王は(その事を)知った時、怒り、軍隊を送って、それらの人殺しどもを滅ぼし、それらの都市を焼き尽くした。その時、(王は)彼の僕たちに言う。
『確かに、婚宴の用意は出来てるが、招かれた者たちは相応しくなかった。 それ故、各道路の出口に行って、見かけた者たちを婚宴に招きなはれ。』
そして、それらの僕たちは各道路に行って、見かけた人は誰でも悪人も善人も皆集めた。それで、食卓で横たわる人たちの婚宴は一杯にされた。しかし、王が食卓で横たわる人たちを見るために来て、そこに婚礼の衣服を着てへんかった者を見付けた。
そして、(王は)その者に『友よ、どうして婚礼の衣服を着ずにここに来たのか。』と言う。
しかし、(その者は)口を利けなくされた。 その時、王は側近たちに指示した。
『その者の足と手を縛って、連れて行き、外の暗闇に追い出せ。そこで慟哭と歯ぎしりがあるだろう。』
招かれた者は多いが、選ばれた者は少ないさかい。」
一、天の王国は主イエスと真のキリスト者との婚宴のよう
上記聖句で「天の王国は、その息子に婚宴を催したある王のように例えられた。」と主イエスが語りはったとおりで、王は父なる神、その息子は主イエスを指し、他の聖句からも明らかなとおり、主イエスと真のキリスト者が結ばれることを結婚と例えており、これは性別は関係無い。性別があって各々の役割があるんは、この世がある限りにおいての事。主イエスと人間の関係は、あくまで神と人間との結び付きの関係を意味するのであり、肉体的にどうのということではないからや。マタイ二十二章三十節では、主イエスは、後の世での人間は、もはや娶ることや嫁ぐこともなく、天使のようになると教えはった。せやから、後の世の生き方や在り方は、この世での営みとは異なるということであり、子孫を増やすとか、そないな事も無い。しかし、この世ではきちんと男女の性差を弁え、それに則る正しい行いが必要であり、性的倒錯は許されへんし、創造の秩序を守る必要もあり、男女はそれぞれの役割があり、絶対的平等ではないことも弁えて行動せなあかん。
この世において、人間が主イエスの信仰を持ち、神の律法を守り、その他福音書に書かれてるとおりに主イエスから御命令されてる事柄を遵守し、行いで示していれば、神の民として天の王国に迎え入れられる。その際、主イエスと結び付いたとして婚宴が開かれる。これは福音書内(マタイ八章十一節)で別途書かれてる事であり、その婚宴に与ることが許されるんは、神に善人と認められた真のキリスト者のみです。反キリストである偽使徒パウロの信者や他の異教徒や不信仰者は認められへん。
二、選民は神に従うことを拒んで滅んできた
上記聖句で「さて、(王は)彼の僕たちを、婚宴に招待されてた者たちを呼ぶために遣ったが、来ることを望まへんかった。」と言われてる。即ち、神は、僕たる預言者をこの世に遣わしはり、とりわけノアの時代に生き残ったセム系のアジア人であるアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の子孫であるイスラエル十二部族という選民、即ち、婚宴に招待されてる者たちを神との契約を守る(律法を守る)ように言うて、また、律法違犯をしてることを悔い改めるように言うて、天の王国の婚宴に与るように人々に呼び掛けてきた。しかし、古代イスラエル人や古代ユダヤ人らの多数派は、紀元前の時代からずっとそれを拒絶してきた。庶民のみならず、かの有名なソロモン王も晩年に背信し、それ故に古代イスラエル王国は南北に分裂し、先に北イスラエル王国がアッシリアに攻め滅ぼされ、後で一世紀になって南ユダも主イエスを拒絶した報いでローマに攻め滅ぼされた。これは、彼らが神に逆ろうた悪行の結果やった。神が遣わしはった預言者の言葉や警告に素直に聞き従って悔い改めていれば、滅ぶことはなかっただろうに。その過去の歴史を学ばず、古代イスラエル人の末裔である日本人が、現代においても同じ過ちを繰り返して滅びようとしてる。それが拙者が太陽暦二千十七年二月から当ブログで警告してきたことや。八年半以上経った今でも、素直に聞き従う人が非常に少なく、多数の日本人が無視し、または敵対して中傷したりする者まで増えてきてる有様や。無視する者も、敵対する者と同様や。聞き従わへんという点において共通してるからや。それ故、味方せぬ者は敵や。前にも言うたとおり、不作為という何もせえへんとか、期待されてる事をせえへんというんは罪です。「何も悪い事をしていない」と多くの人が勝手に思い込んでるやろけど、それは大間違いやと何遍言わすのか。為すべき事をせえへんのも罪や。過去記事「現実逃避をやめよ」でも書いたとおり、「為すべき善を知りながら行わへんのは、その人には罪や。」(ヤコブ四章十七節拙訳)と聖書にもあるとおりで、拙者自身の勝手な意見やないし、真のキリスト者ならこの認識を持ってて当たり前や。せやから、キリスト者と自称してても、この点を疎かにしてるようなら神から認められへんであろう。
世俗社会においても同じ事が言える。日本の最高法規である日本国憲法にも「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と十二条に書いてるやろ。「国民の不断の努力」が国民に憲法によって課されており、国民は憲法上保障されてる自由及び権利を保持する義務を負ってるとはっきり明記されてる。何故、戦後にこの規定が生まれたか。それは、明治維新から敗戦までの大日本帝国では人権も自由も制限されて社会の有様が酷く、その反省から生まれたんや。敗戦の翌年の千九百四十六年に日本国憲法を公布、千九百四十七年に施行して新たに日本国となり、外国との戦争をようけ招いて多くの死傷者を出した忌まわしい大日本帝国憲法(明治憲法)を破棄して旧体制から変わり、戦争を放棄し、国民が主権を持ち、基本的人権と自由を得た。しかし、戦後の現代日本人は、まったくこの憲法上の義務を果たしてへん。なぜなら、日本国民の多くが憲法を勉強せず、無知であり、それ故に憲法を擁護して守る義務を負う国会議員、裁判官、その他の公務員らが憲法を貶したり軽んじたりして違反を繰り返してるのを見ても放置し、また憲法違反をする企業や民間人にも猛抗議や然るべき対応もせず放置し、不法行為が満ちてる現状に何もせず黙認し続け、社会を悪化させ続けてる。そして、売国奴の政治家や官僚や大企業らにやりたい放題されて苦しめられてるのは、抵抗もせずに黙って放置する国民自身の責任と自覚してへんのがそもそもの問題や。せやから、不作為も憲法違反の不法行為であると覚え、恥じて、悔い改め、実際に行動せい。行動に移さへんのなら、改心したとは言えず、神は善人とは認めはらへんからや。自分たちの不信仰と当該不法行為故に、日本人の多くが苦しんでると自覚せい。実際、その認識が無い日本人ばかりやろ。せやから、現代日本人は勉強不足で、愚かで、役立たずで、頭と心が悪く、日本全体や国民全体のことを一切考えず、目先の仕事や学業等だけに気を取られたり、娯楽や快楽等に興じてる人が多過ぎると言うてるんや。やるべき事をしてから息抜きで遊べよ。憲法で国民主権が定められている以上、国民に責任があり、政治家や官僚等と他責にばかりしていてはならん。政治家や官僚等の公務員がその地位に相応しくないと思うなら、国民自身の手で引き摺り降ろし、代わりに相応しい人を擁立せねばならんのや。言うておくが、選挙なんかではないからな。不正の温床だらけの現行選挙なんかで解決せえへんのはこの数十年で理解せねば、愚かと言わざるを得ない。やるべき事もせず、国民及び人としての義務も果たさず、かような状態で呑気に遊んで現実逃避するな。ほんまに、拙者の言う事を聞かず、無視し、逆らい、その結果どうなるか分からんのは愚か者や。既にあんたらがグズグズして何もせず、売国政府を止めへん故に増税も物価高も止まらず、不良外国人の移民が増え広がり、改憲の危機は続き、放置し続けると問題は益々増えるばかり。日本がボロボロになったり、滅亡してから、「あぁ、こんなはずじゃなかった」、「なんでこんなことになったんだろう」等と後悔したり、嘆いても遅いからな。過去の歴史、聖書を読んで、自分らの先祖が何をしてきたかもよう学び、同じ過ちを繰り返すな。
三、信仰よりも世俗を取る者は救われへん
上記聖句で「再び別の僕たちを遣って、言う。『招待されてた者たちに語りなはれ。「見よ、我が食事は我が用意し、我が雄牛や肥えたものは屠られ、すべてが用意されてます。婚宴に来なはれ。」』しかし、人々は無視して、出掛けた。ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に。」とも書かれてる。僕は預言者を指す。神はこの世に幾度も預言者を遣わし、古代イスラエル人に対して神に従うようにと説得させた。しかし、結果は聖書に書かれてるとおり、多くの人々はその呼び掛けを無視し、農業をするために出掛けたり、商売をするために出掛けたとある。つまり、世間の多数派は聖書福音に興味を示さず、悔い改めることも拒み、世俗の仕事や用事を優先した。これは昔だけの話やのうて、現代でも同じことであり、決して他人事ではない。実際、拙者は二千十七年から長期間伝道してるが、多くの人間が各自の世俗の仕事や用事を優先して無視したり、敵対して中傷したり、聞き従わぬ者が多い。それは、救われへん人間の姿勢や行いや。神は、この世に遣わしはった僕に伝道をさせるが、多くの人間がそれに耳を貸すこともなく、無視し、各自の世俗の仕事やその他の用事を優先させてるという、神に逆らう行いや有様を暗に非難してはる。
ちなみに、過去に労働については拙者は幾度も言うてきて、前回記事「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」でも、労働について警鐘を鳴らした。この聖句も多くの人間が軽く読み飛ばしており、そのせいで世俗の仕事に熱中するとか、世俗の仕事がすべてであると思う事、そないな思想信条が如何に悪い事であるかを理解してへん。日本人に限らず、異邦人も同様や。世俗の仕事を頑張る事が人生の生きがいとか、金儲けして金持ちになることが正義とか、いつまでもかように信じてる人は心と頭が悪い。なぜなら、それでは神から遠ざかるからで、それでは救われることがなく、地獄行きになるからや。
勿論、家に引きこもり、働きもせず、勉強もせず、キリスト者としての働きもせえへん自堕落な生活をすることを肯定してる訳やないで。しかし、拙者が過去に言うたとおり、一日八時間労働というんは長過ぎであり、終戦の千九百四十五年といった八十年前と比べ、これだけ現代は機械化や自動化が進んだのに、一向に労働時間が短くならず、生活が楽にならへんのでは人生の質においては進歩しておらず、むしろ忙しさが増しており、逆に昔以上に人間が苦しんでることに気付きなはれ。例えば、自動洗濯機が普及した時代において、それを使わずに桶に水を溜めて洗濯板でゴシゴシ擦ってすべての洗濯物を手洗いで洗濯する人が居ますかってことです。そうせないかんかった時代は洗濯にも多くの時間や労力を掛け、その間は他の事はせえへんかった。しかし、自動洗濯機の登場により、洗濯仕事を機械に任せたら、楽になるかと思えば別の事をして忙しくしてる。本来、機械に任せた分の仕事は無くし、その分だけ人間が余暇を持つべきではないか。そうして初めて人間の仕事を機械に代行してもろて機械化した恩恵を受けたと言える。洗濯は一例に過ぎず、洗濯以外でも昔は手作業やったのに今は機械任せに出来る事柄全般に及ぶ。欲張って機械に任せて人間の手が空いた時間に別の仕事を詰め込むから、技術が進歩しようとも一向に人間は楽にならず、むしろどんどんやる事が増えて忙しくなるのみや。パソコンも携帯電話も無かった昭和までは仕事もだいぶ楽やったやろ。今はやらずに済んで機械に任せられる手作業や力作業はあっただろうが、今のように複数の作業を同時進行することもなかったため、その分仕事の密度が薄いという意味や。今みたいにメール等のネット通信も無いし、すべてが紙によるものやし、固定電話しかなく(つまり屋内に居ないなら電話対応しなくて済んだ)、遠くに居る相手とのやり取り一つ一つに時間が掛かってたからや。移動時間は、誰からも連絡が入ることもなく、誰かに連絡を取ることもでけへんかったし、移動の待ち時間も自由が多く、その分ゆとりがあったやろ。昔の労働の質は今の労働の質と同じやなく、通信機器が発展してへんかった昔の方が格段に楽やった。しかし、今はパソコンやスマホのせいで、対応の高速化と量が求められ、会社外に居っても実質的に拘束もされ、自由が減り、精神的にも肉体的にも追い詰められ、過労死や精神病患者が増える結果になった。せやから、この点を考慮し、全業界の労働者の負担を減らすべきや。通信機器があって瞬時に連絡が取れる時代になったが、世俗の仕事において、勤務時間外や営業時間外の時には連絡しない、時間外に対応しなくても一切の不利益を受けないという当たり前の事を徹底すべきや。そして、労働時間の削減。給料額と休憩時間は減らさずに一日六時間を所定労働時間とし、八時間(時間外労働は二時間まで)を一日の労働時間の上限とすべきと拙者は提唱する。全国的に全業界がそうすべきで、こっそり長時間労働するという抜け駆けを法的に重い罰則等で規制して防止すべきや。そうすれば、何処の会社も他社に抜かれるなんていう恐れも無くなる。消費者は、「それでは店の開店時間が短くなるのではないか。それは不便だ。受け入れられない」なんて頭の悪い野次が飛んできそうやさかい、先に言うておくと、それは変形労働時間制(シフト)にすれば済むことや。皆が同じ時間から働き始めて、同じ時間に帰る必要は無いからや。朝九時から働き始める人が居る一方で、朝十時からとか、昼十二時から始業する人も配置する等と時間をずらして開店時間をある程度長くすることは可能や。コンビニといった二十四時間営業も安息日遵守の邪魔にもなってる故、廃止すべきや。そもそも、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に働いたらあかんし、夜に外をうろつく必要性が無いし、夜遅くまで店を開ける意味も無い故、そないな不健康かつ不健全な生活もやめるべきやからや。実際、昔の日本にもコンビニは存在せず、それが無くても人間は生きられるからや。そして、実際に現代の欧州でもコンビニは存在せず、食料品や衣類等の店舗の営業時間は十九時や二十時までに閉店するのが多いし、祝日も休むし、日本と比べると遥かに営業時間は短い。欧州にコンビニが無い理由は、誰も夜遅くまでとか休日に働きたくない人が多く、それは人間らしい生き方とは看做されへんからや。人生という時間は有限であり、資産でもある。世俗の仕事に人生を献げることは、自分の人生を生きてるとは言えず、しょうもない金儲けのためや他人のために消耗してるだけや。会社員なら、その会社からこき使われてるだけや。生きるために最低限必要な日銭を稼ぐ必要はあっても、自分の時間もきちんと確保し、自分がやるべき事、自分にしかでけへん事をする時間を確保すべきや。毎日残業ばかりで会社と自宅との往復しかしてへんとか、疲労困憊で帰ってから家に帰ったら何もする体力や気力が無いとか、かような状態の人は死んでるも同然やで。特に、現代日本人は、長時間労働に加え、低賃金と重税のせいで苦しんでるんやから、まずは長時間労働をやめて、資産である時間を確保せえへんようでは絶対に問題は解決せえへん。転職を見据えた自己啓発のために勉強するにしても、時間の確保や精神的な余裕が必須であり、自由な時間と精神的な余裕が無いなら、いつまでも過酷な家畜奴隷のような生活から抜け出る事は不可能や。出エジプト記を読めば分かるとおり、かつて古代イスラエル人は古代エジプトで奴隷扱いされ、重労働を課されて、日々の労働で手一杯になり、信仰どころではなくなり(不信仰になり)、神から離れた。神は古代イスラエル人たちを救おうとモーセを導き、彼らをエジプトから出るように導いて解放しはった。現代日本人も過去の古代イスラエル人と同じ状況に重なって拙者には見える。拙者はあんたらに世俗の労働ばかりに縛られて欲しくないし、そのせいで不信仰で在り続けて滅んで欲しくないから言うてるんや。拙者が長いこと伝道してるんは慈愛からであると、それを理解して欲しい。
そして、繰り返し言うとく。上記聖句で主イエスも例えを通じて言わはったとおり、神の僕の伝道を無視することや聞き従わぬことは明確に悪であり、無視せずに耳を傾けて従わねば救いは無いと肝に銘じよ。なお、世の諸教会関係者(カトリック、正教会、プロテスタント等)やユーチューブやSNS等に居る自称キリスト者のパウロ教信者は、神の僕ではない故、彼らに聞き従う必要は無いし、むしろ従うたらあかん。
四、預言者への迫害の報いは破滅
上記聖句で、「更に、残りの者どもは、彼の僕たちを捕まえて恥ずべき扱いをした上、殺した。そこで、王は(その事を)知った時、怒り、軍隊を送って、それらの人殺しどもを滅ぼし、それらの都市を焼き尽くした。」とある。預言者が聖書の福音を語ったり、神の律法を守って罪を犯すんをやめるという悔い改めを呼び掛けたのに、それを無視したのも悪いのに、それ以上に悪いんはここに記載のとおり、預言者を捕まえ、恥ずべき扱いをし、殺すことです。実際、紀元前の時代や一世紀でもそれらが行われた。そして、歴史は繰り返す故、再び起こることだろう。黙示録にもこの世の権力者が真のキリスト者を迫害するという預言があるからや。預言者に対して無礼や悪行を働いたなら、神は必ずそれに対して報復をしはる。上記聖句記載のとおり、神は僕たる預言者が迫害されたり、殺されたりしたのを知った時、お怒りになり、それらの悪行を働いた者を滅ぼし、その都市をも焼き尽くしはる。嘘やと思う人が居るやろか。すぐに報復を受けへんからとええ気になって調子に乗って悪行をすべきではない。なぜなら、一世紀当時も時間差があって実際に発生したことや。キリストの初臨前に預言者エリヤの働きをした洗礼者ヨハネが捕らえられて殺され、救い主(メシア)たる主イエスも捕らえられ、恥ずべき扱いをされ、十字架刑で殺された。それから四十年経たへん位後に、ユダヤにローマ軍が送られ、その地方に居った古代ユダヤ人は滅ぼされ、都市も焼き尽くされ、壮大やったエルサレム神殿も破壊され、今では嘆きの壁なんて呼ばれるごく一部しか残ってへん有様になってる。この事からも聖書に書かれてることは戯言やのうて、紛れもない事実やと分かるやろ。そして、これは現代でも同じように適用される。故に、預言者に対して悪行を働いた者どもは、神からの報復により滅亡を覚悟するべきや。なお、積極的な迫害行為(中傷、嘲り、暴力行為等)のみならず、消極的な迫害行為(無視や拒絶等)も悪事に含まれてることをお忘れなく。せやから、あんたら、このまま態度や行いを改めへんのなら、どうなるか分かるであろう。
五、古代ユダヤ人が見捨てられ、異邦人にも救いの機会が巡ってきた
上記聖句で「その時、(王は)彼の僕たちに言う。『確かに、婚宴の用意は出来てるが、招かれた者たちは相応しくなかった。」とあるとおり、神は天の王国で選民(アジア系の古代ユダヤ人)のために婚宴の用意をしていたが、その選民が相応しくなかったため、その分の席が空いた。「それ故、各道路の出口に行って、見かけた者たちを婚宴に招きなはれ。』」と追加で言わはり、特定の民族に限定せず、選り好みすることなく、様々な人を信仰に招くという異邦人伝道を展開した。実際、一世紀から異邦人に向けて広く伝道が開始された。それにより、主イエスの御名や聖書の存在がローマという西洋にも伝わって広まり、四世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスにより国教化され、ローマ・カトリック教会が出来、後に東西に分裂して東方に正教会が出来、中世時代にカトリック司祭やったマルティン・ルターからプロテスタントというの分派も出来て、今に至る。しかし、一応聖書や主イエスの御名が表面的に知られるのみに留まってるに過ぎひんのが実態や。なぜなら、彼らが信奉してるんは偽使徒パウロであり、主イエス・キリストではないからや。彼らは口先だけは主イエスを信じてるというが、実際の信条と行いがそれが嘘であると証明してる。律法廃止論者であったり、律法違犯を悪い事と思わず、やめへんことから簡単に分かる。彼らはキリストを建前として悪用してるだけで、その実まったく主イエスの教えに従わず、逆ろうてる。神の律法を無視して違犯し続けてるのがその証拠や。カトリックがその反キリストの筆頭や。偶像礼拝(石や金属等の偶像、マリア崇拝、罪人を聖人列聖して崇拝等)をし、暦をグレゴリオ暦という反聖書的なものに変更し、日曜日という週の第一日目の平日を安息日として休日にし、律法で定められてる現在でも有効である祝祭日(過越祭や除酵祭等)を守らず、復活祭やクリスマスやミサ等といった聖書に書かれてへん異教行事をあたかもキリストと関係あるかのように嘘をついて大々的に長年吹聴し続け、教会に階級制度を導入して権威付けたり、信者から金銭(欧州の一部では教会税がある)を巻き上げて金儲けやしょうもない建物や備品等の維持をしており、かように反聖書的な行いばかりしてるのに、庶民は彼らが悪しき存在と思わずに彼らの信者になって盲従する者が多い。その分派である正教会やプロテスタント等も同じであり、本質的にカトリックと大差無い。彼らに追従する人々は、頭がおかしい。自力で聖書を読んでおらず、理解もしてへんから安易に世の権威に騙されて追従するんやろ。聖書を複数回通読して理解してる拙者の勧めを聞かへんから、かように狂ってる状態から抜け出せへん。一世紀以後、実質的にきちんとしたキリスト者になる者は長年居らず、ほぼ救われる人は居てへん状態が二千年近くという長期間続いてる。異邦人に機会が与えられたとしても、神のお招きに正しく応じひんのなら、結局古代ユダヤ人と同じく相応しないと拒絶されて当然です。せやから、現時点では偽使徒パウロの偽福音と偽教義を信じてる者が世界で二十億人程度居ると言われてるが、彼らはモーセの律法を無視して違犯し、その他拙者がブログや動画で伝えてきた事を理解もせず、拒絶し、聞き従わぬ者ばかりや。彼らは主イエスが警告しはった広い門から入り、広い道を歩く多数派であり、それが救われへん道であるという自覚が無い様子。拙者は何年も前からやめとけと言うてるのに、いつまで経っても理解せず、言うことも聞かへんようでは、神の救いを拒絶してるも同然です。
一部の西洋人がパウロは偽使徒と言うてる者も居るが、彼らはパウロが偽使徒やと気付いていながら、何故モーセの律法を無視し続け、洋服を着続け、日曜日が休日とする世の権威に抗議もせず、太陽暦(グレゴリオ暦)がおかしく聖書暦(太陰太陽暦)を守るべきとも言わず、時計の零時で日付が変わるのではないという認識も持たず、この大地が平面である事や宇宙なんて存在せえへん事も言わへんのか。なぜなら、彼らには聖霊が居らへんからや。パウロは偽使徒であると気付くのはそれ程難しい事ではないからや。読解力があれば、誰でも自分で聖書を読んでパウロは偽使徒であると気付くことが出来る。律法を憎んで守ろうとせえへん悪い心と読解力が無い頭の悪い者だけがパウロの自称を真に受けて使徒やと狂ったように信じ込んでるだけやさかい。そして、パウロは偽使徒と主張する西洋人やその信者は、拙者だけが教えてきた重要な内容を何一つ言わず、聖書から分かる基本的事項を無視し続けるさかい、彼らもまた、パウロ教信者と同じように滅びるだろう。彼らには聖霊が居らず、あらゆる真理に導かれてへんのが原因と拙者は客観的に判断してる。真理の霊(聖霊)は、人をあらゆる真理に導くだろうとあるからや(ヨハネ十六章十三節参照)。それは主イエスの御言葉であり、拙者の言葉ではない。よって、あらゆる面で真理を悟ってへんとか、真理を理解してへん人、世の権威による嘘を頑なに信じてる人が聖霊を授かってるとは言い難く、この事実を否定する者は主イエスに反逆してる。せやから、聖書の事も世の悪を弾劾する拙者が言う事を「嘘だー」、「間違ってる」、「陰謀論だー」等と安易に莫迦にする人も同様。それは聖霊に逆らってることに他ならず、神から決して赦されへん大罪である(マタイ十二章三十二節参照)。何ら聖書的に正しい根拠を基にせず、論理的に考えず、感情的に言うたりして楯突く者は、主イエスの信仰がある者とは言えず、天国に行く者の発言や考え方とも言い難く、知能が著しく低く、己の認知を超えた事柄を理解でけへん、理解しようともせえへん故の幼稚で愚かな反応であるからや。
繰り返し言うとく。アジア系の血統ユダヤ人以外にも救いの機会は確かにあるものの、実際に救いを手にした人は長年殆ど居てへん。理由は簡単。上記で拙者が指摘したとおりで、真理を悟ってる人が居らへん事がその証明であり、真理に従わぬ者も多いやからや。真理に逆らうことは、自分で自分の救いを手放して地獄行きを選んでるってことに早よ気付き、熱心に悔い改めなはれ。
六、招かれたというだけで選ばれたと勘違いすな
上記聖句で「そして、それらの僕たちは各道路に行って、見かけた人は誰でも悪人も善人も皆集めた。それで、食卓で横たわる人たちの婚宴は一杯にされた。」とあり、前項の事を受け、異邦人にも広く救いの機会が提供され、それで多くの人々が主イエスに救われようとして集まって来た。その中には善人も悪人も混ざってると言われてる。他の聖句にもあるとおり、マタイ十三章にある麦と毒麦の例えと同じで、麦という真のキリスト者の他に毒麦というパウロ教信者や自分が正しいと勝手に思い込んでる自称キリスト者が紛れ込んでることを意味し、主イエスを信じると言う者全員が救われるのではない。拙者が過去にも言うたとおり、招かれただけで確実に自分は救われると思て、勝手に勘違いすなと言うてる。特に、世の諸教会関係者、パウロ教信者、キリスト者と自称するだけでその実が伴わへん者、つまり、拙者に正当な聖書の根拠も無いのに楯突く者どものことや。彼らは自分らが毒麦、蝮の子であると認めたくないんやろけど、単に「認めたくない」といった幼稚な言い分が神に通ると思うのは大間違いやで。ほんまに神を侮り過ぎや。神はあんたらの日々の行いもすべて知ってはるし、心の内も見透かしてはり、あんたらの口先だけの弁解なんか聞き入れはらへんよ。
そして、上記聖句で「しかし、王が食卓で横たわる人たちを見るために来て、そこに婚礼の衣服を着てへんかった者を見付けた。」とあるとおり、神は婚宴に来た人が相応しいかどうか直々に確認しはる。勿論、人間がこの世で普通に生活してる間にや。この世できちんと神を畏れ敬い、神が制定しはった律法を守ってるか、平素の行いが善いか、すべて選考対象にされてると思わなあかん。そして、この聖句にて、天の王国に相応しくない一例が分かる。それは外見からしてパッと分かる点である。衣服です。誰の目にも明らかですよね。人の本質、性格、品性を見抜くのは簡単ではないが、外見で判断するのは誰にでも瞬時に出来る。衣服に違和感があると目立つさかい、これは誰もが同意するところやろ。「そして、(王は)その者に『友よ、どうして婚礼の衣服を着ずにここに来たのか。』と言う。」との神の御言葉や。主イエスと神の民である人間が結ばれることを祝う婚宴に、それ相応の衣服を着ずに来た者を非難しはった。ここでは、その人の性格や品性を非難された訳やのうて、衣服です。何故この点を無視する自称キリスト者が多いのか。パウロ教信者は、西洋人や西洋かぶれした人に都合がええ事を言うた律法廃止論者であるパウロを尊び、洋服という律法違犯の衣服や慣習等を正当化してる。使徒ヨハネが言うたとおり律法に反する事が罪やのに、それを罪ではないとして正当化するためにパウロが偽使徒とバレては困るさかい、必死にパウロを擁護してると拙者には思える。西洋人や西洋かぶれしてるその他の人間が、西洋化が浸透した悪い現代の生き方や慣習等から離れて改めなあかん。
そして、その後、神から衣服について指摘された人間が何か弁解するのか、言い訳をするのかと思いきや、それを神は許しはらへん。「しかし、(その者は)口を利けなくされた。」とあるとおりやからや。聖書に書かれる神の言い付けに逆らう者には弁解の余地なんて無いってことがここから分かる。即ち、問答無用なんですよ。市販聖書では、「黙っていた」等とその人間本人の意志で黙秘してるかのような翻訳がなされてるが、誤ってる。もしその人間が主体的に黙秘してるのであれば能動態にすべきやが、そうではない故に市販聖書は誤訳してると言わざるを得ない。ここの原文は受動態であり、拙者が訳したのが原文の本義を反映したものや。要するに、これは人間が神に口答えしたり、弁解することが許されへんことを意味してる。この世での裁判では、裁判官たる人間は全知全能ではない故、民事では原告と被告、刑事では検察官と被告人本人や弁護人等から話を聞いたり、提出された証拠を基に時間を掛けて事実認定をし、判決を下す。しかも、現実は裁判官の判決が誤ってるとか、最初から結論ありき等と不当なものが多い。その結果、冤罪も生まれ、支配層の人間やその手下の政府関係者といった巨悪が裁かれへんという異常事態が続いてる。しかし、主なる神は人間やのうて、全知全能の存在であり、誰も何も言わずともすべて把握してはり、人間のように賄賂等に心が動いたり脅迫にも屈することもなく嘘を信じず、裁きを曲げず、常に正しく清い故、それ故にすぐに正しい判決を出す事が出来る。故に、神には余計な手続きは要らず、罪人である人間の嘘や誤った思い込みを基にした弁解や言い訳なんて聞くだけ無駄やさかい、それをしはられへん。せやから、この世で生きてる間に聖書を読まへんとか関心を持たへんとか、たとえ聖書を読んでも理解せず、行いが伴わへんとか、偽使徒パウロやその他の偽預言者や偽教師らに惑わされるとか、神の僕の伝道や悔い改めの呼び掛けを無視したり拒絶したことを以てそれだけで有罪やからや。せやから、この世で生きてる間に正しい信仰を持たず、悔い改めへんかった人間は何も言えず、永遠の破滅という死刑を受ける。
さて、聖句で明確に言われてる衣服について話を戻す。世俗の結婚式や披露宴では、あんたらは礼服を着て出席するだろう。そないな場に行く際に「服装なんて何でもいい」等と言う人は居らんやろに。世俗の場合は服装に気を遣うくせに、何故主イエスと結びつくことを望むキリスト者が、平素から雑な服装をして、「服装なんて何でもいい」とか「自分が着たい物を着る」なんて平気で言うて、そのくせ「イエス様を信じてます」等と口先で嘘を言い、律法違犯をし続け、行いで逆らうのか。大事なんは行いであり、口先だけで行いが伴わへんのなら嘘つきの大罪人であると知って、悔い改めい。世俗の人間の教えや習慣には従うのに、なんで神の教えや律法に逆らうのか。それは神に逆らう反キリスト、不信仰者やからや。そもそも、洋服を着るべき理由は一つも無く、主なる神は異邦人(異教徒)の衣服なんかを決して容認しはらへんのに、許されると勝手に思い込んでる愚か者が多過ぎる。何遍も言うてるとおり、衣服については律法に規定されており、それを守る衣服でなければならず、それを満たす衣服は既に過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」や「律法遵守は信仰の証しと復活」で紹介や説明をしたとおりや。衣服についても拙者が何年も前から教えてきたとおりで、律法にも規定がある上、預言書(ゼファニヤ書)にも異国の衣服(つまり、古代イスラエル人の服装、その末裔である日本人が長く着て来た和服以外の衣服)を着る者全員を罰すると警告されてる故、当然疎かにしてはならん。しかし、この世の人間の多くは勝手な私的解釈をし、洋服を着るという現在の生活様式を変えたくないがために、無理筋な別の意味やと言い張り、洋服をやめようとせえへんあらゆる見苦しい言い訳や屁理屈を並べて悔い改めへん者が非常に多い。勿論、聖書の言葉の一部には隠れた意味もあることもあるが、文字通りでもあるという二重であることもある。文字通りも含む場合、それを疎かにしたら、どないな結末になるか想像もしないのは非常に愚かや。そして、何遍も言うてるとおり、服装に関する掟は拙者が決めた事やのうて、少なくとも今から約三千五百年前のモーセの時代に神がお決めになったことです。これは主イエスによる新契約に更新されても廃止されてへん不変の神の掟であり、これに逆らうことは神に逆ってるのと一緒やといつ気付くんでしょうかね。以下のように未だに反抗して悔い改めへん人は、心と頭が悪い反キリストであると自ら示してる。

上図の者は、過去記事で拙者が聖書を基に正当に弾劾してきた愚か者と同様に「自分が正しい」病に罹患してる狂人の典型例や。かような蝮の子は、聖書的に正しいキリスト道をカルトと嘘を言うて信用を貶めようと中傷するパウロ教信者、ファリサイ派の反キリストや。彼のようになったり、彼のような悪行を行うなら永遠の破滅を覚悟すべきや。パウロは偽使徒であることは拙者が聖書から証明したのに、未だに現実逃避し続けて真実に向き合おうとせず、いつまでも律法を守りたくないと思う反キリストどもにとっての偶像(アイドル)、教祖パウロを崇め続けてるのは非常に見苦しい。あの「お真実といっしょ」という狂人、彼と同じように偽使徒パウロの偽教義と偽福音にすがり続けるパウロ教信者には、主イエスによる救いは絶対に無い。
また、和服が不便、機能的ではない等と色々とつまらぬ言い訳をして洋服を着続ける人が多いのは、不信仰であるか、信仰が無いに等しいか、現代の世の権威から洗脳されてるからと言える。そもそも、日本人が和服を嫌うとか着いひんのは非国民とも言える。少なくとも幕末にペリーの脅しに屈して開国するまでの日本では、すべての日本人は和服を着るのが当たり前であり、洋服なんか着てる人は一人も居らず、和服で生活するのに何も支障は無いからや。拙者自身もその証言者の一人や。しかし、西洋人と手を組んで英国の手下に成り下がった薩長らが牛耳る明治政府が愚かにも洋服を正式と勝手に定めたことで、公務員を中心に洋服着用し始める者が増えて行った。日本文化を大事にせえへん者から悪い世の権威に倣い、西洋かぶれして堕落して行った。それでも第二次世界大戦で敗戦する前までは、日本に住む日本人で和服を着てる人はそれなりに居った。しかし、戦後は激減して和装を普段着とする人をほぼ見なくなったんは、米国に敗戦したことで日本人としての誇りを失い、戦勝国である米国の文化(背広、ジーンズ、Tシャツをはじめとする洋服等)になびいてしまったのが大きい。こちら(TBS)のとおり、米国のトランプ大統領は、もし日本が第二次世界大戦に勝っていたら、ドイツ語や日本語を話していたかもしれへんと言うた。昔から敗戦国は戦勝国の支配を受けるのが常やからや。それ故、言語や文化についても戦勝国が優位に立ち、それ故に現代では戦勝国の言語が優勢になり、英語が異様に広まり、日本の義務教育にも英語が組み込まれたり、服装も洋服ばかりになったんもその悪影響やった。外国人から自国の文化や言語や服装を変えられるのは侵略行為と知り、抵抗せなあかん。しかし、愚かな現代日本人はそれに気付かず、抵抗もせずに受け入れ、今や滅亡寸前の状態になってる。戦後、それまで多くあった和服店は洋服店に客を奪われて廃業が増えて激減し、今では時代劇、落語、能、歌舞伎等とごく限られた場面でしか着られへんようになってしもた。誰が和服を廃れさせたのか。他でもない日本人自身や。戦後、多くの日本人がアホみたいに西洋かぶれして洋服を買い求めて着て、和服を買わず、和服を着なくなったせいや。もし戦後も日本人が自国の文化を大事にしていれば、現代日本のような西洋かぶれだらけの惨状にはならんかった。拙者は、買い物は投票と同じと言うた。何処に金を落とすかが重要なのであり、金が落ちる所は残り、金が落ちひん所は潰れてしまうのは当然の原理やろ。個人事業主にしろ会社にしろ、売上が立たへんとか事業主が利益を得ないことには事業として継続でけへんのが当然やからや。例えば、イズミヤがその典型例であり、元々は大正時代創業のいづみや呉服店という和服販売店やったが、戦後に西洋かぶれが進んだせいで和服販売をやめて洋服販売を含むスーパーの経営に転向した。ほんまに拙者が憤ってるのは、外国人に対してよりも日本人に対してや。衣服は自分たちの独自性を示し、かつ、何千年も長く受け継いできた尊い神の律法に由来する和服という大切な文化を廃れさせた犯人は、多数派の日本人やからや。愚かにも西洋かぶれすることが当然かのように勘違いし、本来着なくてええ洋服に金を落とし、神の律法を守る上でも日本文化を尊重する意味でも着るべき和服に金を落とさへんから、和服を事業とする人が減り、和服を買うたり着る人も減り、普段から和服を目にする機会も減り、結果として普及せえへんという悪循環に陥ってる。もし和服がこの世から消えてしもた場合、それは洋服を選んで着てる日本人の責任であり罪や。一億人以上もの人口を持ちながら、あんたらが和服に金を落とさずに和服を普段から全然着いひんせいで、和服製作技術等を次世代へに伝えず、若い人もそれを継承しようとせず、廃業を増やした責任は非常に重い。和服は値段が高いと文句を言う人が居るやろけど、それもあんたらが普段から和服を着なくなり、和服を買わなくなり、価格競争が起きづらいからや。もし和服が人気になり、競合他社が増えれば、事業者はこぞって少しでも安くして自分の店に客を集めようと必死になり、その結果、価格競争が起きて必然的に安くなるのが市場原理やからや。そして、高い店ばかり見て文句を言うのも間違いで、和服を買わへんとか和服を着いひんことを正当化しようとするしょうもない言い訳に過ぎひん。わざわざ百貨店に行く必要も無いし、高価格設定の店に行って無理に買う必要も無い。今ではネットがあるんやから、安価な所を探せば見つかる。ポリエステル等の化繊で出来たもんを買うたらあかん。化繊自体が石油由来のプラスチックであり、静電気が発生して不健康やし、吸湿性が無くて(汗を吸わず)熱がこもってそのせいで皮膚の問題を生じさせることがあるし、環境に対しても有害やからや。化繊全般は避け、綿や麻の天然繊維の和服を着るべきや。ミシン縫いのものならしっかりしており、洗濯機で洗えるし、何も不便なことはない。手縫いで脆いから洗濯でけへんとかでつまずく必要は無い。晴れ着等で拘りの物で和裁の手縫い物が良いとか、そういうんが多少あってもええやろけど、普段使いの和服は繰り返し自宅で洗濯してもほどけへんミシン縫いの物が良いであろう。
また、第二次世界大戦の戦前や戦中で悪用された「非国民」という言葉があるが、これは洋服を着てる日本人や片仮名英語を乱用したりけったいな言葉遣いや漢字間違いをしたり、日本語の文章を正しく読んで理解でけへん読解力が無い日本人に対してこそ使うべき言葉や。また、当ブログを読みもせず「長い」、「駄文」、「間違ってる」等と正当な根拠も無く狂った感情的な野次を飛ばす愚か者にも当てはまり、彼らは非国民や。敵国の英米由来の背広、ジーンズ、Tシャツ、スカート等を着て西洋かぶれして、日本人らしからぬ格好や振る舞いをし、自国の言語や文化を尊重せえへん者が、なんで愛国者とか保守と言えるのか。有り得へんやろ。対米隷属したり、支那に媚びたり、南朝鮮を贔屓して、日本の国益や国威を損なう事をする日本人は売国奴や。現状は着る物に自由があるが、その自由をどう使うかで自分らの永遠の行末を決めることになることを軽んじるべきではない。神の律法を無視して違犯し、洋服に拘って西洋かぶれし続ける日本人や洋服を着続けて拙者の伝道に耳を傾けず聞き従わへん外国人らは、そんなに神に逆ろうて地獄に行くことを切望してるんですね、って拙者は思う。
但し、注意点を言うておく。物理的な衣服は律法どおりに守るとしても、それを着ただけで天国行きが確定する訳でもない。上図のとおり、「和服を着れば救われるのか」等と挑戦的に問うたり、そう勘違いするのも愚かです。当然それだけでは不足やが、それを守ってへんようでは論外ということがなんで分からんかな。そんな簡単な事も理解でけへんから愚かなんや。洋服やその他の外国の衣服は律法に反してるから、容認すべき理由が無いし、神も律法に反したものを認めはらへん。拙者が述べたとおりに衣服を整えた上、律法の他の掟も守り、慈愛あるええ行いをしたり、正しい福音の伝道をしたり、信仰の兄弟と交流したり等をするのが聖書から分かる救いの条件や。大事なのは、行いです。衣服を整える事も行いの内です。行いを否定する偽使徒パウロやパウロ教信者どもの悪意に満ちた嘘や虚偽情報に惑わされてはならん。
結論として、聖書では明確に衣服も大事にされてるという点を無視してはならず、従わずに神に逆らう者は聖句どおりに地獄行きにされても文句言えへんということを覚えておくべきや。また、当該聖句を勝手に別の意味に捉え、和服を着なくてもええといった嘘を吹聴する輩が居ることも知ってる。そないな輩は決まってパウロ教信者(律法廃止論者)であったり、聖書の真理をまったく理解してへん自称キリスト者どもや。神が制定しはった律法、そして、主イエスが廃止せえへんと明言しはった律法に従わなくてもええと言うた偽使徒パウロを信じてる輩と、そもそも聖書や律法に関心すら持たず神に逆らう不信仰の者が多いから、かように悪い社会になってるんや。しかし、拙者は大人数が悔い改めることを期待してへん。それは、過去記事「聖書の終末預言 三」で書いたとおり、終末時代はノアの時と同じようであり、神に選ばれた人間は非常に少ないからで、反キリストが多数派であり彼らが悔い改めへんことは分かってるからや。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。
七、神に逆らう者は地獄行き
上記聖句で「その時、王は側近たちに指示した。『その者の足と手を縛って、連れて行き、外の暗闇に追い出せ。そこで慟哭と歯ぎしりがあるだろう。」と書かれてる。これは前項の続きであり、主イエスと真のキリスト者が結ばれた事を祝す婚宴に不適切な衣服を着てた者に対する処遇がここで言われてる。神の側近に居る天使たちが来て、房付きの和服以外を着てる者や行いが悪い者の足と手を縛られ、外に連れ出され、暗闇に追い出される。そして、慟哭(悲しみのために泣き叫ぶこと)と歯ぎしりすることが言われてる。暗闇というのは、神に認められへんかった者が死後に行く陰府や。地下深くにある場所や。死後に不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)が放り込まれ、地獄に行くまで待機してる場所や。世の終わりになってキリストの再臨があり、裁きの時になって地獄行きという永遠の破滅の刑罰を受ける。こうした事は聖書に書かれてる。神から有無を言わさずに陰府行きが決まった時点で絶望的な状況が確定し、それで慟哭と歯ぎしりがあると言われてる。天国に行けずに陰府行きになったら、もう何も希望は無いさかい、泣き叫んだり歯ぎしりするんは必定や。しかし、かような事をしても神の判決は覆らへんがね。死んでからどんなに後悔しても手遅れです。時間切れやさかい。拙者が何遍も手遅れになる前に悔い改めい、後回しにするな等と言うてるんは聖書にそう書かれてるからや。旧約聖書にも神に聞き従うべきやという警告が幾度も書かれ、ヘブライ三章にも詩編九十五章を引用しながら心を頑なにして反抗するなという旨が書かれてる。更に「今日(当日)」とも書かれ、罪に惑わされて頑なにならないように、神の声(聖書の御言葉)を聞くなら、その当日に受け入れるべきであり、心を頑なにして拒絶したらあかんと書かれてるやろ。「明日からでいい」、「今は忙しいから、後でいい」等と後回しにしてる人は、心を頑なにして拒絶してるのであり、そう言い続けて一向に悔い改めへんであろう。なぜなら、その人の心は既に頑なにされてしまっており、もう悔い改めが不可能になり、天国行きではない可能性が高いからや。聖書を全然読もうとせえへんとか、聖書の真理が理解でけへんとか、聖書の教えや律法を守る生活がでけへんとか、何遍も神に立ち返ろうとしても失敗するとか、世俗の仕事や用事等に手一杯にされて信仰生活が上手く行かへんのはその可能性が高い。黙示録三章三節にもあるとおり、本人は気付かへんのです。本人が知らぬ内に信仰から脱落しており、悔い改めでけへん状態で、死ぬまで「自分は大丈夫」とか「まだ時間はある」等と勝手に思い込み続け、後で絶望することになり、慟哭や歯ぎしりをする羽目になる。本人は大丈夫とか間に合うと思てたんが、実際はそうではないんやから、期待が裏切られて酷く悲しむんやろが、自業自得や。生きてる間に「自分が正しい」なんて正当な根拠も無いのに頑なに信じ続けたり、散々悔い改めの呼び掛けや正しい伝道をする者の言う事に耳を傾けず、素直に聞き従わへんかった悪い行いの報いやからや。せやから、この事を軽く見るな。熱心に神を想い、畏れ、神の律法や教えに従うべきです。神の律法に従うことを拘束と捉えるようでは不信仰者や。神の律法に従うことを神に従う事と弁え、喜んで自主的にそうせな真のキリスト者とは言えへん。そして、神に逆ろうても何もええ事は無いし、後で地獄行きで破滅するだけです。実際、拙者はこれまで多くの脱落者を見てきて実感してるから、より強くこれを主張してるんや。逆ろうた人でまともな人は一人も居てへん。
危機感を抱いて、聖書や主エイスのことを知りたいと思い、反キリストであるイエズス会の偽りの教義を正とする大学の神学部に行ったり神学校に行って牧師等のくだらない肩書きを取ろうとかせんでええし、ユーチューブや他のブログ等で世の諸教会や偽教師や偽預言者等が説教してるんも聞く必要も無い。なぜなら、そないな事は無駄であるし、有害でもあるからや。拙者が過去に説明してきたとおり、実際は神の律法遵守を基調とする主イエスの教えはまったく教えられず、ファリサイ派の反キリストである偽使徒パウロの偽福音と偽福音に洗脳され、道を間違えるからや。それでも、神に選ばれぬ人間は誤った道に行く定めでしょうが…。上記聖句で「招かれた者は多いが、選ばれた者は少ないさかい。」と言われてることが、まさにこれや。信仰に招かれて、聖書に興味を持ったり、主イエスを信じるようになったと思う人は多いし、決して珍しない。勿論、そうならへん人も多い。まったく無関係の異教に惹かれる人も居る。これらが多数派や。しかし、これらの多数派は救われへん。聖書と主イエスに興味を持って信じるようになったとしても、それは招かれた者やが、選ばれた者ではない(永遠の命に相応しい者ではない)のが多いやからや。かようにはっきりと主イエスが聖書内にて言わはったとおり、選ばれた真のキリスト者は少ないんやから、この世で二十億人程度も居ると言われる世の多数派を構成してるパウロ教信者(カトリック、正教会、プロテスタント等)が救われる筈がないし、不信仰者や他の異教徒は論外という事実を理解してへんのも選ばれた者ではない一つの証拠や。繰り返し警告しとく。道を誤るな。永遠が懸かってるや。この世での七十年から八十年程度の短い生命の話ではない。この世という目先の事ばかり見て、その先を見据えへんような愚か者にならず、賢明な判断をすることを願てる。
この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上