こんにちは。

 


今回は、救いに値する完全な者について述べます。

新約聖書 マタイによる福音書 十九章十六節〜三十節(拙訳)
それから、見よ、ある人が近寄って来て、彼(イエス)に言うた。

「立派な先生、永遠の命を得るために、どんな善い事をすべきでしょうか。」
しかし、(イエスは)彼に言わはった。

「何故我を立派と呼ぶんか。神御一人以外誰も立派やない。せやけど、もし命に入りたいと望むなら、掟を守りなはれ。」
彼(イエス)に「どれですか」と言う。そこで、イエスは話しはった。

「これや。『殺さへんようになる、姦淫せえへんようになる、盗まへんようになる、偽証せえへんようになる、
あんたの父と母を敬え、また、あんたの隣人をあんた自身のように愛するようになる。』」


その青年は彼(イエス)に言う。

「それらすべてを我が若い時分から守りました。未だ何か不足しているでしょうか。」
イエスは彼に言わはった。

「もし完全であることを望むなら、行ってあんたの所有財産を売り払い、困窮者に与えなはれ。そうすれば、天に富を持つだろう。それから、(我が許に)来て、我に従いなはれ。」


しかし、その青年はこの言葉を聞いたら、悲しくさせられたため、立ち去った。多くの財産を持ってる状態やったからや。
更に、イエスは彼の弟子たちに語りはった。

「あんた方に確かに言うとく。金持ちが天の王国に入ることはほぼ無い。重ねてあんた方に言うが、金持ちを神の王国に入れるよりも、らくだを針の穴に通す方が易しい。」
しかし、彼の弟子たちは(これを)聞いた時、非常に驚かされて、「では、誰が救われることが可能か」と言う。
しかし、イエスは(彼らを)見て、「人間にはこれは不可能やが、神にはすべての事が可能や」と言わはった。


その時、ペトロは彼(イエス)に答えて話した。

「見よ、我はすべてを捨て、我等はあんたに従うた。それ故、我等は何になるんやろか。」


更に、イエスは彼らに語りはった。

「確かにあんた方に言うとく。あんた方は我に従って来たさかい、新生において、人の子がその威厳の王座に座った時、あんた方もイスラエルの十二部族を統治する十二の座に座るだろう。また、我が名のために、家(財産)、兄弟、姉妹、父、母、女(妻)、子供たち、農場(土地)を捨てたすべての者は、その百倍を受け、永遠の命を受け継ぐだろう。
しかし、一級の多くの者が最下級になり、最下級が一級になるだろう。」

一、律法を守ることは善い事
上記聖句のとおり、ある金持ちの青年男性が、救われるにはどうするかと聞くために主イエスに近寄って、「立派な先生、永遠の命を得るために、どんな善い事をすべきでしょうか。」と質問した。彼は、既に主イエスの事を聞いて知っており、それで立派な先生と呼んで敬意を示した。しかし、彼の心にあったのは彼が永遠の命を得るためという利益獲得が狙いであったことが明確にこの質問から分かる。主イエスはその点について咎めへんかったが、聖書読者のために永遠の命を得るための条件を率直に答えはった。それは、主イエスが「もし命に入りたいと望むなら、掟を守りなはれ。」と回答しはったことから分かる。これは明らかにモーセの律法にある数々の掟を守ることが永遠の命を得ることになるということや。これは旧約時代から一切変わってへんことや。神は、聖書にて公言しはったことを変えることはないからや。反抗して、「律法主義者だー」とか、偽使徒パウロの偽教義や偽福音を信奉して、「行いでは救われない」、「律法は廃止されたから守る必要は無い」等と、しつこく嘘を信じて吹聴するなら地獄行きになる。
そして、軽く読み飛ばして理解が浅い人が多いやろから言うておく。この金持ちの青年は、「永遠の命を得るために、どんな善い事をすべきでしょうか。」という質問をして、イエスは「もし命に入りたいと望むなら、掟を守りなはれ。」と回答しはったことから、「善い事=(モーセの律法にある数々の)掟を守る事→永遠の命を得る」という図式が成り立つ。神の律法遵守は善い事なのであり、永遠の命を得るために必要不可欠な事や。せやから、律法遵守は非難される事やないし、神との契約で人間が当然行なわないかん義務でもあるのに、主イエスに逆ろうて律法違犯をやめへん(悔い改めへん)者どもは、反キリストの悪魔の子や。

二、神である主イエスはすべての人間に悔い改めを望んではる
次に、モーセの律法にある掟と拙者が言うた理由は、ここで分かる。その金持ちの青年は主イエスに具体的にどの掟を守ると永遠の命を得るのかと質問し、主イエスは、上記聖句のとおり、「殺さへんようになる、姦淫せえへんようになる、盗まへんようになる、偽証せえへんようになる、あんたの父と母を敬え、また、あんたの隣人をあんた自身のように愛するようになる。」と回答しはった。これらは、紛れもなくモーセの律法に記載がある掟や。当然、これらだけという限定列挙ではない。十戒にある代表的なものを少しだけ列挙されただけに過ぎひん。そして、注目してもらいたいのは、拙者の翻訳や。拙者は正しい底本を用いて原語から翻訳したが、市販聖書は間違うた底本を用いて誤訳がなされてる。現在形の命令形ではないという点が大きな相違点や。市販聖書の翻訳では、上記聖句の内容について全部「〜するな」といった禁止の命令形として訳されてるが、原語ではそうではない故、誤訳と言わざるを得ない。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」でも示したとおり、「愛するようになる」といったのは現在形やのうて未来形で書かれ、しかも命令形でもない。無論、殺人や姦淫や窃盗や偽証等は現在でもしたらあかん事であり、現在もせず、将来もしないままであるのが理想や。もし過去にしたことがあるとか、現在していたとしても、自分の行いが悪かったと素直に認め、心底悔いて、心と行いを改めて、将来的に善い事をするようになる、律法に規定される禁止事項をいずれかの時点でまったくしないようになることを掟としてるのが原語から分かる。他方、「あんたの父と母を敬え」という掟は、現在形かつ命令形で書かれており、これは現在せないかんことを意味する。他の未来形で書かれてる掟については、もし現時点で違犯していたとしても、悔い改めて、将来二度と同じ罪を犯さへんようになれば、それらの掟を遵守することになる。せやから、神は今までの悪い言動等を悔い改めて、律法にある数々の掟を守るようになること、守ってる状態になるだろうということを人間に期待しはってることが分かる。冷静に考えて、「愛しなさい」という命令で言うことはおかしいからや。誰かを愛するのに、何故命令されて愛するのか。愛は強制とは相容れへんからや。他者から強制されて愛するとか、義務感を感じて無理に愛するなんて形骸的なものでしかなく、そこにほんまもんの愛は無いのは当然やろ。愛は、自主性が無ければ成立せえへんものやさかい。せやから、神も人間に神を愛するようにと強要せえへんし、隣人を自分自身のように愛することも強要してへん。しかし、もし自発的に当たり前のようにそうしてる状態になれば、律法遵守している状態になり、罪を犯さへん状態、即ち、神の民として相応しい状態になってると言える。信仰に入って、成長して、そこまでの境地に至るという過程も見えるであろう。その過程を辿って完全な者になる必要がある。もし、そうならへんようなら、救われへんということや。神を一番に愛するという状態になってる人は、極めて珍しく、かような人は神の律法を当然の如く遵守して、非の打ち所が無い状態で、主イエスが求めてはる「完全な者」と言える。その「完全な者」を目指して日々罪やその誘惑と戦い、打ち勝たねば救いを得る(永遠の命を得る)のは厳しいと思わなあかん。途中で信仰をやめてしまうという人は、やはりその人の内に神への愛が無いから続かへんのや。
これは、結婚生活も同じで、途中で破綻するのは、途中で配偶者の片方、又は双方が不法行為を犯して信頼を失うことをする(例えば姦通)とか、配偶者への愛が無い事が原因です。相手の収入や財産や地位等を気にして結婚を決めた者は、もれなく失敗してることから明らかやろ。金さえあれば良いなんて思う女が多く(金や子供さえあれば夫は居なくても良いとまで思う者も居る)、かような者は愛を知らぬ惨めな人間や。男性諸君は、結婚するなら、自分への愛と忠誠心(一途である事)がある女を相手として選ぶように。外見が好みとか、なんとなく気が合う等というふざけた理由で結婚を決めないように。女は、聖書を読んで女たる立場を弁え、信頼出来る男を選び、補助して支え、夫を主人として仕えるように。女がでしゃばるから、どんどん社会が悪化してることを自覚せい。
現代社会が過去最悪になったと言える程に悪化した大きな原因は、西洋かぶれに次いで、女性の社会進出促進によるものです。過去記事「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」でも話したとおり、女性の社会進出は、悪魔崇拝者のロックフェラー家が主導したウーマン・リヴ運動によって猛烈に促進された。永遠に実現し得ない男女平等を謳い、愚かな女たちを焚き付けて高慢にさせ、女性に家庭を放棄させ、働かせ、税収を女からも得て増やし、それらによって晩婚化及び非婚化をして子供を産ませにくくし(人口抑制)、子育てを他人任せにして愛情を希薄にさせたり、学校等で嘘の教育で子供を洗脳する等、ほんまに悪い事ばかりや。男女は、そもそも肉体の作りからして同じではないし、役割も異なる。せやから、絶対的平等なんて有り得へんし、実現不可能です。無駄な努力やし、反キリスト的な悪い行いと弁え、改めよ。
例えば、蹴球でも女の世界大会が開かれるようになり、こちら(Yahooニュース)のとおり、スイスの女子代表がスイス男子中学生に一対七で大敗する有様です。スイスの女子代表が特段弱い訳やのうて、こちら(日刊スポーツ)のとおり、日本女子代表も男子高校生に零対十二の大敗を喫し、同じような結果や。仮にもプロと呼ばれて職業としてる人らが未成年の学生素人に大敗するんやから、ほんまにみっともないし、惨めやさかい、辞めたらどうか。蹴球に限らず、水泳にしろ、短距離走にしろ、何においても女は男に勝てぬ。肉体やのうて頭脳競技である囲碁や将棋でさえ、女流等と別枠を設ける有様。女はどんなに頑張っても男に勝てへんからや。せやから、価値が無いさかい、さっさとやめよ。かような無駄な事を辞め、農業等に従事せい。
そもそも、スポーツ全般は要らない。日本の戦後の占領政策の一つ、GHQによる3S政策を知ってるか。その中にスポーツが入ってるし、大事なことから目を逸らしたり、目眩ます材料の一つや。古代ローマの「パンとサーカス」(食料と娯楽の提供)も同じで、大衆の腹を満たして娯楽を提供しさせすれば政治に無関心にさせ、為政者はやりたい出来て、庶民が抵抗せえへんようにする愚民化政策や。過去記事「律法の食物規定について」でも書いたとおり、現代日本人は政治や法制度に興味や関心を持たず、それらに係る有益な活動をせえへんのに、野球といったスポーツには関心を持つ愚民が多いやろ。政治抗議活動には参加せず、二千二十五年の東京でのMLB開幕戦には二日間で八万四千人以上も人が集まった一方で、ほぼ同時期の財務省解体抗議活動はせいぜい二千人程度しか参加せんかった。頭おかしいで、現代日本人。スポーツなんか頑張ったり、応援したりしても、神はまったく評価せず、やるだけ無駄。もしやってる人が居れば、ほんまにさっさと辞めることを推奨する。こちら(TRILL)のとおり、スイスの二十二歳の蹴球選手、シルヴァン・ヴァルナー氏は土曜日の安息日を守るために引退を決めた。未だ若く、将来有望視されてた選手やったが、その職業や多額の収入よりもキリスト信仰を大事にした例です。あんたらは彼のような決断が出来るやろか。無理と言うのなら、地獄行きを選び取ることを意味する。
他にも男女平等を謳いながら、民間企業において、女を優先的に採用するとか、レディーファースト、レディースデイ、レディースプラン等と片仮名英語を乱用して西洋かぶれして女だけを優遇して差別し、出会い系やパーティ等で女だけ無料にして差別し、重い荷物は男が持てとか言うて差別し、実は女を優遇する女尊男卑社会になっており、かつてない極悪社会になった。色々な点で差別しまくっておいて何が平等や。笑わせんな。女を優遇することこそ神に逆らう悪質な差別主義者や。江戸時代までの日本では、かような事は絶対有り得へんかったのに。せやから、幕末から欧米列強に目を付けられ、明治維新という西洋かぶれが日本の崩壊の始まりと言うたとおり。こちら(日本文化舞台支援機構)で少しだけ紹介があるとおり、女は女の役割というものを真剣に考えて分を弁えて生きるべきです。男に対抗意識を燃やして、並び立とうとか上に立とうとするような女が現代に多いから、現代社会は荒廃して崩壊しつつあることを理解し、悔い改めい。改めへんなら、その者は地獄行きや。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」で書いたとおり、聖書は昔から女は救われ難いことを示してる。創世記の冒頭で蛇(悪魔)に騙された最初の女エバが神に逆らって以来、多くの女は神の敵で在り続けてる。コヘレトの言葉七章二十八節にあるとおり、男で救われるんは千人に一人と言う確率で、女は千人に一人も居てへん。このことからも男女平等は有り得ず、女は男と並ばへんし、上に位置することもないのは明らかやろ。せやから、女は、救われたければ、江戸時代以前の古き日本慣習からも学び、でしゃばるのをやめ、おしとやかになりなはれ。現代社会で悪魔崇拝者の支配層の施策である女性の社会進出を活発化させるのは、神に逆らう反キリスト行為と知り、それに参加したり賛同してる者は皆、サタンや。
また、少子高齢化も女性の社会進出政策による弊害の結果や。女が家庭に居ることを拒否し、晩婚化や非婚化を促進し、更に自ら子育てを拒否し、保育所等に預けたり、塾や予備校等に夜まで通わせ、子育てをほぼ放棄してる状態。たとえ金があっても、こんなんでは子供は親に愛着を持たず、まともに育たへんで。親の都合によって幼少期より離れ離れさせられて、どうして愛着が湧くやろか。高学歴の人々は、幼少期より受験勉強ばかりさせられ、そのせいで神と人の気持ちを理解することもなく、慈愛も知らぬ冷酷非道な人間になる者が多い。反対に、勉強もせず遊び呆けて役立たずで在り続けたり、時には非行に走る低学歴の人間も同じで、どっちらも悪い。嘘だらけの学校の勉強や報道機関等を盲信せず、程良く勉強して過不足無い知識や教養を備えて慈愛を持ってる人間が最も良い。
ジョージア・ガイドストーンで「世界人口を五億人以下を維持する」と掲げ、不妊を招くワクチン等を促進してる欧米の支配層によって全世界で愚かな女性社会進出政策が始まって六十年以上経った今、各地で少子高齢化が促進されて既に深刻化してる。「女性の社会進出促進政策=人口削減政策」という事実に気付き、さっさと女性優遇をやめなはれ。あんたらが愚かで、悪の支配層に追従してる故、世は悪くなる一方や。せやから、必死に聖書を読み、当ブログと動画から学び、日々の行いや生き方を変え、キリスト道を歩みましょう。主イエスがすべての人間に悔い改めを望んではり、拙者も同じです。拙者自身も至らぬ点は改めつつ、共に成長して行く兄弟を募集してます。前提条件として、神への愛、主イエスへの愛が無ければあかんけどね。

三、救われるには、この世の富を手放して、困窮者を助ける慈愛が不可欠
上記から分かるとおり、律法遵守の重要性はあの金持ちの青年も理解しており、「それらすべてを我が若い時分から守りました。未だ何か不足しているでしょうか。」と言葉を返したことからも分かる。その金持ちの青年は、一応子供の頃から律法を守っていて、経済的にも豊かであったが、それでもなお永遠の命を得られるかどうかについて不安があり、主イエスに質問した。そして、その疑問は正しく、実際に不足してた故、主イエスは「もし完全であることを望むなら、行ってあんたの所有財産を売り払い、困窮者に与えなはれ。そうすれば、天に富を持つだろう。それから、(我が許に)来て、我に従いなはれ。」と回答しはった。かように、主イエスは彼に救いの手を差し伸べる助言をしはった。その御回答から分かるんは、この世の所有財産は完全な者になるのを妨げてるという事実であり、それを処分して困窮者に与えるようにと指示しはった。そうすれば、天に富を持つようになり、そうしてから主イエスに従うようにとの仰せ。順序があることに気付いたか。「律法遵守が大前提→所有財産の売却→困窮者に与える(天に富を持つ行為)→主イエスに従う→救われる」という順序や。せやから、偽使徒パウロを信じて律法を無視して違犯し続けてるパウロ教信者ども(カトリック、正教会、プロテスタント等)は、この前提が欠けており最初からあかんし、不信仰者や他の異教徒らも同じく論外。この時点で、現代の九割九分九厘以上の人間は蚊帳の外や。当ブログに投稿しに来るにしても、口先だけで行いが伴わへんとか結果を出さへん人が多く、読むだけで投稿も伝道もせえへん役立たずの傍観者も多い。かような有様の終末期は悲惨であり、まさしくノアの時代のようと言える。律法を守る生活を続けつつ、その上で所有財産を持ってるなら売却して困窮者に与える必要がある。せやから、もし売却した金銭を自分の手許に残しておくなら、意味が無い。要するに、自分の許にこの世の財産を溜め込むなということや。なお、最初から不動産や高価な物等といった所有財産が無い人は売って困窮者に分け与えるものが無い故、この過程は無視しても良い。主イエス御自身が、この世において金持ちでもないし、権力者にもならへんし権力に与することもなく、何も財産と言えるような物も持たず、清貧やったからや。十二使徒も主イエスの教えどおり、余分な財産を溜め込むなんてことはせんかった。ただイスカリオテのユダを除いて。当時、十二使徒の一人であったイスカリオテのユダが会計係を担当し、主イエスと十二使徒全員分の財布を預かる立場でありながら泥棒(横領犯)であったとヨハネによる福音書十二章四節から六節に書かれてるとおりや。公生涯に入った主イエスと十二使徒は、世俗の仕事に精を出した記録は無いことから、伝道活動によって庶民からの厚意で得た多少の金銭や援助によって生活していたと思われる。そうでないと、三年半(主イエスの公生涯の期間)も所有財産無しで、かつ、無職でまったく無収入では生きて行けへんさかい。先のヨハネ十二章の箇所からも、イスカリオテのユダが(他人から)入れられるものを持ってたと書かれてるからや。彼は、主イエスと他の使徒たちが伝道や慈愛ある行いをして働いて得た報酬を一部自分のものとしてくすねてたということや。主イエスがイスカリオテのユダを叱責して悔い改めさせようとせんかったんは、最初から主イエスが彼は救われへん者と知ってはった故に悪人には悪事をさせたままにし、敢えて言わへんかったのだろう。イスカリオテのユダが横領した理由は、いずれ主イエスの許を離れた後に経済的に困らへんために、自分だけでも貯金しておこうと密かに思てたからやろな。自分は稼がず、夫の収入を貰いながら、自分のために貯金をするために、生活費でケチるかギリギリだのと嘘をついて自分自身のためにへそくりを溜め込む悪徳主婦のように。なお、専業主婦のすべてを非難してる訳やなく、家計に関して嘘をついたり、生活費をくれた夫に収支報告もせず、自分自身のために密かに他者の金で不正に貯金するという横領行為を非難してるんや。勘違いすなよ。イスカリオテのユダは、主イエスを裏切る際にも銀貨三十枚の報酬という取引を祭司長としてたし(マタイ二十六章十四節〜十六節)、金銭欲が強かったことが窺える。金銭欲が強いのは、ファリサイ派と同じや。当時もそうやが、現代のファリサイ派であるパウロ教信者、即ち、世の諸教会や諸教派(カトリック、正教会、プロテスタント等)も同じや。何故、金銭やその他の財産を多く持つことがあかんのか。それは、過去記事「キリスト者の覚悟」や「成功するためには」等で既に説明したとおり、富に仕える者は神に仕えられへんからであり、富を多く持ったり、富を得ようと必死に努力してる者らは悪魔に仕えてる反キリストであることを意味するからや。更に、自分の手許に多くの金銭やその他の財産を持ってることは、自分の事だけ考えて恵まれぬ他者を憐れまへん利己主義者であり、自己中心的な性格や品性であることが明白やからや。せやから、神はかような人間を嫌い、救いはらへん。しかし、多くの人間は愚かで、金持ちに憧れたり、金持ちを尊敬してすり寄ろうとしたりする者も居てるであろう。ほんまに愚かやで。いつまで目先の虚しい偽りの富に目を眩まされてるのか。聖書が言うてるとおり、この世はいずれ必ず滅びるさかい、この世の富なんて持ってても何の意味も無い。せやから、主イエスや使徒ヨハネは、この世とこの世にある物を愛するな、この世の富を持つなと教えたんや。せやのに、この世を愛したり、この世の富の獲得に必死な人間が多い。主イエスの教えに逆ろうて所有財産を多く蓄えてる金持ちは皆、反キリストと言うて差し支えない。しかし、たとえ金持ちでなくても、不信仰であったり、真の聖書福音を拒絶したり、神の律法を守ろうともせえへんようでは同じく反キリストや。
せやから、反キリストである金持ちのバチカン、ローマ教皇、イエズス会、カトリックをはじめとするすべてのパウロ教信者というファリサイ派はあかんし、不信仰者やその他の異教徒も金銭欲が強い者が多く、あかんのや。律法遵守をせえへん者はあかんし、多くの所有財産を持って手放さへん者もあかんし、主イエスに従わへん者もあかんということが、よう理解出来たであろう。

四、この世の財産を諦められへんのなら救いは無い
上記聖句のとおり、「しかし、その青年はこの言葉を聞いたら、悲しくさせられたため、立ち去った。多くの財産を持ってる状態やったからや。」と書かれてる。主イエスが彼に所有財産を売却して困窮者に与えてから従うようにと助言しはったが、彼はその御言葉を聞いて、悲しくさせられたとある。つまり、彼は、この世の富を愛しており、手放せへんかったということや。多くの財産を持ってる状態とも書かれており、彼は若くして金持ちであり、それ故「おれは一生困らない。この先も人生は安泰だ」なんて思ってたのかもしれへん。しかし、主イエスは、その所有財産を手放すようにと要請しはった故、それを聞いて「せっかく頑張って築いた財産を手放すなんて…」と思い、悲しくなったんでしょう。何故、彼はそこで、「分かりました。全部売り払って、困窮者に与えてから、また来ます」と返事でけへんかったんか。主イエスに質問に来た目的は、永遠の命が欲しかったからの筈や。しかし、永遠の命を得る道筋を主イエスから教えてもろたのに、それに従わへん道を選び、立ち去った。拙者には、当ブログに来て投稿しては拙者の言葉を聞いて来なくなった人、当教会に入って最期まで頑張ると言うて来たのに途中でだらけて堕ちて行った人と重なって見えた。要は、正しい助言を受けても、それに従えず、立ち去って滅んで行くという姿が同じってことや。それは、高慢さがあるのと、素直さが足らんことが要因でしょうね。主イエスは別の箇所で人間に小さい子供のように素直になれと教えはったのは、これにも通じる。素直でなければ、正しい助言を受け入れて実行に移さへんからや。なんぼ正論やと分かってても、逆らう人は逆らう。元を辿れば、神に選ばれてへんというのがあるんやが、結局は深層心理では、助言者が言う事よりも「自分が正しい」と思てる頑固者ということです。せやろ。自分が考えてる事と他人が助言する事が異なった場合、どちらを取りますかってなって、他人の助言を受け入れず自分の考えを採用するなら、その者はその助言者よりも自分自身が正しいと思ってる証拠です。先の金持ちの青年は永遠の命が欲しくて主イエスに助言を求めたのに、その回答に従わへん道を選択した。彼は主イエスの御言葉によって悲しくさせられたとあり、ほんまは主イエスが正しい事を言うてると頭では分かってるんでしょうが、彼の心が従わず、主イエスの許から立ち去る事を選んだ。即ち、滅びる事を自ら選んだに他ならへん。これは、拙者からすればとても理解し難い選択やが、この世の多くの人間も似たようなもんで、主イエスや聖書に関心を示さずに無視したり拒絶し、この世を愛し、この世の富を得ることに向けて躍起になってる。しかし、それでは将来は地獄行きになるで。前回記事「地獄行きを甘く見るな」で書いたとおり、地獄は永遠に苦しめられる場所で、身体不自由になる方がマシと言えるような場や。短い間だけしか居られへんこの世にしがみついて、後の終わり無き世で地獄行きになって永遠に苦しむことを選ぶんか。これ以上愚かな決断を安易にせぬことを願う。

五、金持ちの天国行きはほぼ無い
上記聖句のとおり、主イエスは「あんた方に確かに言うとく。金持ちが天の王国に入ることはほぼ無い。重ねてあんた方に言うが、金持ちを神の王国に入れるよりも、らくだを針の穴に通す方が易しい。」と明確に仰せや。この聖句を市販聖書とよう見比べて、違いに気付いて欲しい。市販聖書は適切に訳せておらず、拙者の訳によって主イエスが神の視点から言うてはるのが分かるやろ。神が、金持ちの人間を神の王国に入れるのは有り得へん、金持ちは神の王国に相応しくない故に採用せえへんという言い方や。なぜなら、金持ちの人間は、主なる神を畏れず、神の律法を守らず、金儲けのために手段を選ばへん自己中心的な性格で、強欲故に自分の利権を守ったり拡大するために争い、他者を殺したり蹴落とすことも厭わず、自分と自分の身内だけが豊かであれば良いという隣人愛が欠如した人間で、恵まれへん人を顧みいひんという慈愛が欠如してる人間であり、それ故、平和で争いが無く慈愛に溢れた神の王国には相応しないからや。
しかし、その後の十二使徒の反応を見てみよう。それは、「彼の弟子たちは(これを)聞いた時、非常に驚かされて、「では、誰が救われることが可能か」と言う。」というものやった。何故、金持ちの天国行きはほぼ無いという主イエスの御言葉に十二使徒は非常に驚かされたのか。この十二使徒の反応と言葉から分かるのは、彼らはその金持ちの青年が救われることはほぼ確実と思てたからでしょう。「彼は神の律法を子供の頃から守ってきたから、特に問題無い。そのまま維持してれば救われるんじゃないか」と十二使徒は思てたからでしょう。ところが、主イエスは「金持ちを神の王国に入れへん」と明確に言わはったことで、「えっ、そうなの」と、大層驚いた。「律法を守って罪を犯さへんのなら、財産を持ってても問題無いんじゃないか」と、聖霊を受ける前の当時の十二使徒は思てた。聖霊を受けた後の十二使徒(イスカリオテのユダを除く)はその認識ではなくなったが、修行中の身であった当時は未だその認識であった。金持ちがあかん理由は拙者が述べたとおりや。それ故、神は金持ちの人間を神の王国に入れることを許可しはらへんのや。なんぼ善人を装って、優しそうな表情を見せたり、優しそうな言葉をかけたり、少しばかりの施しをしたとて、相変わらずその人自身の許に多くの財産を持ってるなら、それは見せかけの偽善ということや。過去記事「正しい者はこの世から排斥される」でも「有り余る中から少々出したとて、何も偉くはないからや。それは、聖書(マルコ十二章四十一節〜四十四節)にも書かれてるとおりや。金持ちが一般人にとっては大きい額を寄付したかて、金持ちにとっては微々たるもので、有り余る中から出しただけで彼らにとってまったく負担ではない。」と書いたとおりや。ほんまもんの善人は、唯一の主なる神を畏れて信じ、神の律法を守る生活をし、自分の許に財産を溜め込まず、困窮者に与えて助ける慈愛ある人や。それが主イエスの教えであり、主イエスは何も間違ってへんやろ。ごっつ慈愛溢れるええ行いであり、非の打ち所が無い。ルカ十九章には、徴税人の頭で金持ちでもあったザアカイの話があり、彼は主イエスを熱心に求め、主イエスが家に泊まりたいと言わはると喜んで迎え入れ、所有財産の半分を困窮者に与え、不正に取り立ててたら四倍にして返すとまで自主的に言うた。おそらく主イエスからこの世の富を持ってるのはあかんとか不正に他人を苦しめるのはあかんという旨の話を聞いたかもしれへんが、ザアカイは、所有財産の半分を困窮者に与えたり、徴税人として不正に多くの税金を取り立てたのなら、四倍にして返す補償もすぐに約束したことから、彼が悔い改めたのは明らかや。しかし、現代社会では誰も居らんやろ。徴税人の頭とは、現代日本で言えば、国税庁長官か。悪名高い国税庁長官と言えば、悪夢の安倍政権時、安倍晋三夫妻が深く関与してた森友学園に関する決裁文書を改ざんしたという公文書偽造の疑いを掛けられて話題になった佐川宣寿氏でしょうか。彼は、安倍氏と同じく虚偽答弁を繰り返し、真摯に罪に向き合わず、責任を取らず、補償もせず、逃げるようにすぐに辞任した。近畿財務局職員の赤木氏がその公文書改ざんという犯罪行為を強要された事を苦に自殺し、その遺書で佐川氏の指示でやったと書いたことからも、佐川氏の罪は明白やろ。勿論、佐川氏の独断やのうて安倍氏からの依頼も疑われ、不自然な程に安倍氏をかばい、財務官僚同士も嘘をついてかばい合ってたのも記憶してる。政治家も官僚も皆、嘘つきだらけ。佐川氏は東大経済学部卒で財務省理財局長の役職に就いてた高級官僚やったが、所詮この様です。なお、理財局長は約千九百万円も国民の税金から高額の給料を貰ってる。そんな大金に見合う仕事か、また大金を受けるに相応しい人物か。否、分不相応や。彼に限らず、他の公務員どもも。過去記事「日本人の問題点 五」でも日本の国会議員の歳費の高額さについても非難したとおりや。せやから、拙者が言うたとおり、東大卒等と学歴、官僚、国家公務員という社会的地位なんて人間性の良し悪しを判断する材料にはならんし、むしろ高学歴の輩どもや公務員らが憲法に違反する不法行為を行い、法律にも違反して犯罪を犯してるのに不当に罰せられず、日本を滅ぼそうとしてる事実にええ加減気付いて、主権者である日本国民は大勢が団結して、日本社会を変えるべく動いたらどうか。不良公務員こそが税金泥棒の最たるものや。庶民が低賃金や増税や物価高で苦しむ一方で、国民の税金を原資とし、民間企業よりも高水準の給与や賞与を貰い続ける公務員どもが贅沢をして左団扇で、悪事を働いてるのをいつまで黙って放置し続けるんか。大勢の日本国民が団結して、公僕で本来は国民より下の立場の悪徳政府や悪徳官僚等の不良公務員に対して立ち上がって動かへん限り、このまま放置では日本は滅亡する。国税庁のみならず財務省がその上に居り、現代の日本国民を貧困に苦しめてる元凶は財務省であり、財務省事務次官や国税庁長官や他の官吏どもは、ザアカイと同じような事が出来るかな。無理やろな。犯罪を犯したなら、素直に認めて償えば良い。嘘をついたり、罪を認めず、償うことからも逃げるからあかんのや。神の律法違犯も同じで、悔い改めて、繰り返さぬようにすれば良いのです。それがでけへん者は、地獄行きの悪人ってことです。悪徳役人どもは、ザアカイを見習い、同じようにせな地獄行きは免れへんと思うべきや。
所有財産の半分を手放すことを宣言した(全部やのうて半分である理由は、補償の話があったとおり、補償に充てる財源確保のためで、本人の手許に残すためではない)ザアカイとは異なり、先の金持ちの青年は所有財産を手放せへんかった。この両者の違いは何か。それは、主イエスに対する愛、神への愛があるか否かです。ザアカイは背が低く、群衆に囲まれた主イエスを見ることが出来ず、主イエスを見るためにいちじくの木に登る程に熱心やった。それに気付いた主イエスは彼に声を掛けはった。しかし、先の金持ちの青年は、特にこれといった努力は無く、単に彼が永遠の命を得るという自分の利益獲得のために質問しに来るだけやった。違いがお分かりやろか。ザアカイは主イエスに対する愛があったが、金持ちの青年には主イエスへの愛が無かったということです。主イエスは所有財産を売却して困窮者にその売却で得た金銭を与え、それから主イエスの許に来て従えば永遠の命を与える用意があると言われたのに、金持ちの青年がそれに応じひんかったんやから、彼が地獄行きになっても自業自得や。この愛の有無は、当ブログや拙者への投稿する人たちの動機も同じ事が言える。神への愛が無いにも拘らず、自分が永遠の命を得たい、地獄行きになりたないという自分の利益のためという動機で、キリスト信仰に入る事を検討してるとか、信仰してると自称するなら、嘘つきの罪やし、客観的に見ても非常に虚しい。かような感じの人は、もれなく途中で脱落する羽目になってる。神がふるい落としてるからであろう。過去に脱落した人も、未だに傍観し続けてる人も、同じ事であろうな。たとえ金持ちでなくとも同じ事であり、神への愛、主イエスへの愛が無い人、それが動機で信仰生活をしてへん人は実を結ぶこともないし、最期まで神に忠実で在り続けることもないだろう。
それにしても、この世でザアカイのようにした金持ちが居るか。残念ながら現代社会では一人も居らんと思える程、悪い人間ばかりや。金持ちは皆、「自分だけ、自分の身内だけ」っていう考えの持ち主ばかりで(金持ちでなくてもこの思考や行動の人が多い)、寄付するにしても有り余る中のわずかのみで、結婚相手も同じような金持ちばかりを選び、困窮者に対して施しどころか、自分に関係無い他人に財産を渡さへんとか相続させえへんとか強欲な思いを抱いており、税金逃れの工作をしたり、どっかの偽善団体のようにいつもアフリカの貧しい黒人の子供を宣伝に悪用して寄付をさせるようなことをして金が無い庶民から金銭を巻き上げようと必死になってるのもある。経済的に余裕が無い庶民に寄付を募らんと、金持ちに出資や寄付を依頼して、それで賄えよ。むしろ、そうした方が多額の金銭が集まるやろ。この現代では、ほんの一部の大富豪が国家予算を上回る程の財産を持ってる一方で、一日数百円以下しか使う余裕しかないなんていう困窮者が増大してる超格差社会であり、それでもなお社会的弱者や困窮者から寄付等という名目で金銭を吸い上げようと宣伝したりする偽善団体や増税を続ける悪徳政府等、ほんまにこの世は金銭欲が強い醜い人間だらけや。しかし、かような金持ちどもは、主イエスから断罪されて地獄行きになるさかい、よう覚えとき。
そして、十二使徒の上記の問いに対して、主イエスは「人間にはこれは不可能やが、神にはすべての事が可能や」と答えはった。この意味は何か。先の金持ちの青年は、子供の頃から神の律法を守っていて、頑張って金持ちになって豊かになって、多くの人間から尊敬を集めていただろう。しかし、そんな彼でも救われへん。なぜなら、主イエスは金持ちを神の王国に入れることはせえへんと拒絶しはったことから、彼で無理なら誰が救われるのかと十二使徒は自分たちも救われるのは無理なんじゃないかと心配になったのでしょう。主イエスのお答えの意図は、人間には不可能とあり、富を手放すのは人間自身(肉の思い)では無理ということです。しかし、神にはすべての事が可能で不可能は無く、人間が神から補助を受ければ可能になると主イエスは言わはった。肉なる人間は、この世で生活して行く上で困りたくないと思う人が殆どやし、可能なら贅沢したいとか、不自由しない程に財産を持って安心したいと思う人が多いからや。しかし、かような肉の思いが強い人間では、多くの財産を手にした場合、当然の如くそれを手放せと言われても、即決で手放すことはでけへん。その例が先の金持ちの青年であった。彼とザアカイとの違いは、神への愛の有無と説明したとおりで、神への愛があるかは神には分かり、神は御自分に対して愛がある人間が誰かを知ってはり、その愛に応えて神はその人を救われるように導きはるんや。そして、両者の大きな違いは、存在や名が神に知られてるか否かや。ザアカイは、ルカ十九章五節のとおり、主イエスは彼を名前で呼んだ。しかし、この金持ちの青年は名が出ず、主イエスは彼の名前を呼ぶこともなかった。要するに、主イエスから知られてへんのであり、「あんた方のことは全然知らない」(マタイ七章二十三節拙訳)と言われる対象人物に当てはまってると言える。主イエスは、救う気が無い人の名を覚えはらへんことが分かる。
金持ちや不法行為をしてきた者は、悔い改め、所有財産を処分して困窮者に与えよ。更に、ザアカイのように、不法行為や不正行為によって他人に損害を与えたなら、きちんと罪を認めて補償等をして償いなはれ。

六、真のキリスト者は主イエスのためにこの世ですべてを捨て、後の世で報酬を受ける
上記聖句のとおり、十二使徒のペトロは「見よ、我はすべてを捨て、我等はあんたに従うた。それ故、我等は何になるんやろか。」と、主イエスに問い掛けた。市販聖書はここでも誤訳をしてる。市販聖書では何もかも捨てたのは我等と一人称複数としており、あたかも十二使徒全員がすべてを捨てたかのように翻訳してるが、原語ではそうなってへん。原語では拙者が訳したとおりで、すべてを捨てたのは、当該発言者であるペトロだけや。捨てたという動詞の主語は一人称単数やからや。そして、従ったという動詞の主語は一人称複数であり、これは十二使徒全員を指す。せやから、拙者の訳のように、主語を分けて呼応する動詞に繋げて訳す必要がある。ペトロがかように言うたんは、他の使徒たちが何処まで捨てたか不明やったからやろな。しかし、一緒に主イエスに付き従う行動をしてきたのは分かってるさかい、「我等はあんたに従(したご)うた。」と言い切った。そして、市販聖書では、何がいただけるのか等と物を貰おうとしてるかのような質問に変えており、これも誤訳や。原語には物を貰うという意味は無いからや。「何になるんやろか」と言うたんは、立場や地位についての質問や。
それを受けて、主イエスは、「確かにあんた方に言うとく。あんた方は我に従って来たさかい、新生において、人の子がその威厳の王座に座った時、あんた方もイスラエルの十二部族を統治する十二の座に座るだろう。また、我が名のために、家(財産)、兄弟、姉妹、父、母、女(妻)、子供たち、農場(土地)を捨てたすべての者は、その百倍を受け、永遠の命を受け継ぐだろう。」と答えはった。十二使徒たちは、主イエスに直々に選ばれて付き従い、教えを受けた者として特別扱いを受けることが分かる。特別扱いとは、イスラエルの十二部族を統治する権力の座を得ることや。そして、これは後の世のことであって、この世のことではない。主イエスが「新生において」と前置きしはってるからで、これは世が新しく生まれる事を意味し、即ち、イザヤ書でも預言されてた新しい天と新しい地という後の世や。そこで十二使徒は、イスラエルの十二部族を統治する役目を担う。シオニスト等といった偽ユダヤ人や彼らを支持する輩どもは、中東の偽イスラエルに第三神殿を立てるとか、救世主(メシア)を迎える等と聞くに堪えへん妄言を言うてるが、全部聖書に無い無駄な事ばかり目指し、悪事ばかりしてる。彼らは莫大な富を持ち、報道機関や教育機関をも牛耳り、庶民にほんまの情報を知らせず、彼らにとって都合がええように庶民を洗脳すべく虚偽情報ばかり垂れ流してる。せやから、大手報道機関や学校といった教育機関等を信用してたら騙されるで。主イエスは、この世で神の王国を樹立しはらへん。この世を滅ぼして、後の世である新しい天と新しい地で、主イエスが王として君臨し、十二使徒が統治の座に就き、神の民を導く。神の王国は、かような世界です。そこに入れへん人は、地獄行きであり、中間地点もカトリックが創作した煉獄も無い。
この聖句において、市販聖書である語句の欠落が見られた。拙者が訳した「女(妻)」や。市販聖書でそれが欠落してる原因は底本違いによるものや。改訂版底本にはその語句が削除されてるが、正しい底本には存在する。女(妻)が捨てる対象にされてるってことは、つまり、これは明らかに男性目線で、男性に向けられてる。それがバレるのが不都合なのか、女権拡張主義者(フェミニスト)どもが反対して削除させたのか知らんけど、神の御言葉から減らしたことは事実やさかい、これは律法違犯(申命記四章二節、十三章一節に反する)でもあり、大きな罪や。神に属する者なら当たり前の認識やが、聖書には色々な箇所で男性主体である記述が多い(人口に女や子供が数えられへん、少ない元手で大勢を食べさせた際にも女や子供が数えられへん、男が父母を離れて妻と結ばれ一体となる等)。それ故、女(妻)が、男(夫、主人)を捨てるなんてことはあってはならんということや。昔から日本でも三行半(離縁状)は夫から妻に対してなされるものや。それは神が決めはった秩序で、人間如きが文句を言えるものやないし、文句を言う者は神に逆らうサタン(神の敵対者という意味)でしあらへん。しかし、扶養義務がある家族を遺棄することは不法行為やさかい、男(夫)が何をしても許される訳やなく、女(妻)を自分よりも弱い存在として認識し、不当に虐げたり姦淫等の不法行為もしてはならん。それは使徒ペトロもペトロの手紙一の三章七節にて言うてるところである。逆に、もし妻が稼いでる場合も同じで、夫を不当に遺棄するのは不法行為であり、許されへん。

七、後の世とこの世の立場は逆転する
上記聖句のとおり、六の文脈から主イエスは「しかし、一級の多くの者が最下級になり、最下級が一級になるだろう。」と言わはった。これも市販聖書とは大きく異なる。市販聖書の多くが、「先に居る多くの者が後になり、後に居る多くの者が先になる。」という意味が分からん訳をしてる。これはマタイ二十章十六節でも言われてることや。ぶどう園での労働の話で、時期的に遅く来て短い時間だけ働いた者と長く苦労して働いた者が同じ報酬だったことについて、長く働いた労働者が不満を言うた。しかし、当初の契約どおりの報酬を受け取れることには変わりないさかい、時間的に報酬を先に受け取ろうが、後で受け取ろうが何の違いがあるのか。報酬の受け取りの順番によって何も差は生じず、報酬を他人よりも先に受け取るのが有利とか得をしたという事もこの文脈から読み取れへんし、後で報酬を受け取ることが不利になることも考えられへんさかい、受け取る順番の優劣を言うてる訳ではないと拙者は判断する。故に、これは立場逆転の話と考えられる。この世において一級とされるような立場の人は、権力者や社会的地位がある人や金持ちでしょうか。最下級とは、めぼしい財産を持たへん人や無職の人やその日暮らしで飲食物や衣服を満足に買うこともでけへん人でしょうか。かような認識が普通でしょう。そして、主イエスの御言葉は、一級の多くが最下級になり、最下級の人が一級になるという逆転について言うてはる。一世紀当時の世間から見れば、主イエスは無職で、主流派のファリサイ派に対抗する新興分派の始祖と思われ、十二人の弟子たちは世俗の仕事(漁師や徴税人等)を辞めてイエスという大工の息子に追従した変わり者としか思われず、彼らは財産も名誉も社会的地位も無く、この世では最下級に身をやつした。しかし、後の世では主イエスは王となり、十二使徒はイスラエル十二部族の長になり、まさに一級になる。大きな立場の逆転です。
上述のとおり、主イエスは、御自分に従うすべての人間(真のキリスト者)に向けて財産を売却処分して、それを困窮者に与え、それから従うようにと先の金持ちの青年に助言しはった。金持ちが所有財産を全部手放して困窮者に与えたら、もはや金持ちではなくなり、転落しますよね。その転落状態になってから主イエスに従うという順序の話を上述した。つまり、金持ちのままでは真のキリスト者にはなられへんし、救われへんということや。しかし、たとえすべてを捨てたかて、絶対に救いが保証されてる訳でもない。神による選びが根底にあり、それは人間自身がどうにか出来る事ではない事情をお忘れなく。それが、「招かれた者は多いが、選ばれた者は少ないさかい。」(マタイ二十章十六節拙訳)と言われてる所以や。しかし、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるとおり、人に出来る事はやり尽くし、後は神に任せるというのがこの格言の意味。何もせえへん人が天命を待っても無駄です。他力本願ではあかんからや。例えば、神社等に行って願掛けだけする利己主義の人間や偽使徒パウロ信者のように、人間自身が神や隣人にとって有益な働き(正しい伝道や慈愛ある行い)をせえへんのに、神から恵みだけを貰おうとしてる者は厚顔無恥な者や。神への愛が無いただの肉なる人間は、これを簡単には受け入れられへんのは上述したとおり。もし金持ち徴税人であったザアカイのように、金持ちであっても所有財産を半分手放して、残りの半分で補償に充てるというまともな行為をすれば、財産を持たぬ者に転落するが、そこからようやく主イエスに従う道が見えてくる。そして、主イエスの教えに忠実に従い、主イエスの御名のために「家(財産)、兄弟、姉妹、父、母、女(妻)、子供たち、農場(土地)を捨てた」のなら、後の世において神から百倍の報酬を受け取る豊かな者に変わるということです。但し、各自が置かれた状況は異なり、それぞれもしあればの話で、自分には関係無い対象は無視して良い。そして、あくまで主イエスの御名のためという信仰が理由及び目的でなくてはならず、単純に家族への愛が無く、故意の遺棄は不法行為になるため要注意や。

 

 

以上より、この主イエスの教えは、立場逆転を意味するでしょう。この世で財産も権力も持たず取るに足らへん存在の人が、後の世では救われて上位に行き、この世で上位に位置する権力者や金持ち等の守銭奴は後で地獄行きになり、最下級に転落する。せやから、この世で金持ちではないからとか、社会的地位が無いとか、物を多く所有してへんとか、外見に自信が無いとか、かようなつまらん事で思い悩むのはやめよ。それよりも、聖書を読んで正しく理解し、誠実に神を愛して主イエスの信仰を持ち、神の律法を守り、伝道活動をし、慈愛ある行いを当たり前にする善い人間になるように努力しましょう。その方が明るい未来があるからです。この世というごく限られた悪い社会に希望を持つんやのうて、主イエスと復活して後の世での生活に希望を抱いて、この悪魔と悪人どもが支配する悪い世の中を最期まで投げ出すことなく頑張って生きましょう。
 
以上