こんにちは。

今回は、断食についての問答について述べます。



 

いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会が荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
また、当ブログに投稿した人に対して陰で別の場所で集まるように勧誘してる者が居り、そないな者たちは、ただ集まりさえすれば良いと勘違いして、一向に成長が見られへんさかい、解散してやめるように勧告します。誰でも入れる所、敷居が低い所にはそれなりの人しか集まらず、そないな人たちが集まったところで、何も成し遂げられず、うだつが上がらへん状態が長く続き、そない低い程度に慣れるとそこから脱却しようともしなくなり、後に信仰からも脱落してまうことが予想されます。学校や会社でも入試や選考をして人を選ぶのが当然やろ。せやから、そないな誘いにも乗らんように注意しなはれ。たとえ当教会に入るためとか、一緒に集まって励ましあうため等と言い、一見して協力してるかのように見せかけていても、その実、結果的には、こちらに入ろうとする者の邪魔をし、散らす者であるからや。遠回りや寄り道をせんと、真っ直ぐにこちらに来る努力をすべきです。別の場に集まって安心することで、こちらに来るために必死になろうとせず、何年ものらりくらりして、最悪こっちに来なくてもいいやってなるのが懸念点で、実際にそうなってる人たちが居り、そないな人たちと調子を合わせてたらあかん。理解したら、余計な事をせず、真っ直ぐにこちらに来る努力のみをしなはれ。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってる、本来ならば有料で対応して然るべき案件であるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思うなよ。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。

もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
一般的な質問は、アメブロIDを取得した上で、キリスト道の「質疑応答」にご投稿ください。


また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。



 

【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】


・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)


・当ブログを知った時期


・何故当ブログを読もうと思ったのか


・何を期待して相談や投稿をしたのか



 

これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。


集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。

 



拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。
ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。

 



さて、本題に入ります。今回は断食についてです。

新約聖書 マルコによる福音書 二章十八節〜二十二節(拙訳)
また、ヨハネとファリサイ派の弟子たちが居って、断食してると、人々は(イエスのところに)来て彼(イエス)に言う。「ヨハネとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なんであんた方の弟子たちは断食せえへんのか。」イエスは彼らに言わはった。「花婿が一緒に居る婚礼の間(ま)の子らは断食でけへんやろ。花婿と一緒に居る時である以上、断食でけへん。せやけど、彼らから花婿が取り去られる日々が来るだろう。そして、その時、その日々に彼らは断食するだろう。誰も未縮絨の布切れの継ぎ布を古い着物に縫い付けへん。しかし、もしその継ぎ足しが古いのから新しいのを除かへんなら、破れ目はより悪くなる。また、誰も新しいぶどう酒を古い革袋に注がへん。しかし、もしそうするなら、新しいぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒はこぼされ、革袋も(捨てられる)。それらは滅びるだろうが、新しいぶどう酒を新(さら)の革袋に入れられないかん。」

一、断食は無闇にする事やない
上記は、断食についての問答であり、一般人たちが主イエスに質問をし、それに回答しはった内容です。人々は、主イエスとその弟子たちが断食せえへん理由を質問した。主イエスは、例えを用いながら回答しはった。聖書では、神と神の民(神に選ばれた人間)との関係を婚姻関係に例えられており、主イエスも同じようにお考えであり、救世主(メシア)たる主イエスが花婿であり、花嫁が神の民です。婚姻の宴はめでたい場であり、そないな状況下において断食するのは場違な行いである故に、主イエスが地上に居る間は主イエスの弟子たちが断食をするのは相応しないとして、やらんでよく、主イエスがこの地から去った後(昇天後)、主イエスの弟子たちは断食することになると言わはった。このことから分かるとおり、断食をすることが悪い行いではなく、場違いという意味でやる必要が無いとの御回答やった。
律法にあるとおり、秋の季節にある聖書暦の七月十日は贖罪日であり(太陰太陽暦の七月であって、太陽暦の夏の七月ではない)、動物の犠牲をすることは新契約になって以後もはや必要無いが、断食をすることは変わらずに義務付けられており、現代でも適用される。
また、聖書暦の四月、五月、七月、十月に断食することがゼカリヤ書八章十九節にあるが、これは律法の掟やのうて、過去にバビロンの異邦人からエルサレムを攻撃されたことを嘆いて為された断食です。かように、理性的に食を断つ行為は、悲しみを示す行為、身を低くする行為と言えます。
また、モーセは同胞のイスラエル人たちの罪の故に四十日四十夜断食し(申命記九章十八節参照)、預言者サムエルの時代にイスラエル人たちが偶像礼拝の罪を犯したことを悔いて断食したり(サムエル記上七章六節参照)、ダビデは姦淫をして出来た子供が主に打たれて衰弱した際に断食し(サムエル記下十二章十六節参照)、主イエスは公生涯に入る前に四十日四十夜も断食した(マタイ四章二節参照)。かように、断食は、飲食を断つことで発生する肉体的苦痛によって身を低くし、悔い改め、神に熱心に祈り、神に近付く行為です。但し、前回記事「デカポリスでの悪霊追い出し」で言及した摂食障害の一つである拒食症は理性的に行われてる訳やなく、通常の断食と同じでは無い故、混同せんといてください。

二、断食をして高ぶったらあかん
自分が正しい人間やと自惚れてるファリサイ派は、週二回の断食をする事やその他の行いを習慣付けて、それらをせえへん他者を見下してた(ルカ十八章十二節参照)。しかし、この週二回の断食という慣習は律法に無い不当な人間の教えであり、何人もこれに従う義務は無い。かような人間の掟を守ったかて神から正しい人間やと認められる訳ちゃうのに、大衆がせえへん事をして自分らが敬虔であると勝手に勘違いして高慢になったり、人間が作った守らんでええ掟を他人に押し付けたり、人間の勝手な掟や習慣をせえへんことで仲間外れにしたり、中傷したりするんは間違いです。しかし、ファリサイ派といった世の宗教権力者らは自分たちが正しいと勝手に決め付け、従わへん人を罪人扱いしたり、見下したりしてた。それ故に、その事を非難しはった主イエスと対立した。週二回という定期的な断食をしたとしても、それは神の律法に規定されてることではないし、他者にとって役に立つことでもない故、単に断食等をしただけで神はそないな人間を神の民として認める訳ではない。
かように、人間が勝手に作った掟は不当な束縛として非難すべき対象です。しかし、主なる神が制定しはった神の律法(所謂、モーセの律法)は、束縛ではなく、非難する対象ではなく、律法に違犯することは罪であるが故、律法を守って当然と言うべきものや。この世俗社会でも憲法や法律を守って当然なのと一緒であり、違反すれば処罰されたり、責任問題になる。それにも拘らず、その道理を理解する気も無く、悪霊に惑わされて正常な知性も無いパウロ教信者どもは反キリストであるが故に、神の律法を憎んで守らんでもええと勝手に看做し、律法違犯をしても平気で居り、悔い改めへん大罪人の分際で、死後に天国に行くとか、携挙される等と有り得へん妄想を抱いてる(自称無神論者等の不信仰者は論外)。ほんまにパウロ教信者等はファリサイ派や。拙者が何遍も言うてるとおり、世の諸教会や諸教派に属するパウロ教信者は異教徒扱いであり、不信仰に等しい分際やさかい、勝手に救われるなんて思て、高ぶるべきではない。一日でも早う神の律法を学んで守り、悔い改めを行いと生き方で示しなはれ。不信仰者も同じく、正常な知性があるなら、当ブログと聖書をきちんと読めば、その正しさが分かるであろう。分からぬのなら、もうええ。

三、断食は人に気付かれんようにすべき
マタイ六章十六節〜十八節にあるとおり、主イエスは、他人に見せびらかす行為や偽善的行為を嫌いはる故、「自分は週◯回断食してる」等と自慢することは、やったらあかん事や。断食をするとしても、自分だけが知ってて身近に居る人にも気付かれへんようにするとか、断食をしたことで苦しい顔つきをするとか、元気が無いように他人に見せて、他者に心配させるとか、「あの人は頑張ってる」等と称賛されようと思うようではあかんということや。断食するなら、他者が気付かんようにこっそりとやるべきや。また、その行いを誇り、断食してへん他者を見下すこともあかん。

四、断食は主イエスの昇天後に
主イエスは、「彼ら(主イエスの弟子たち)から花婿が取り去られる日々が来る」と公生涯の時に予告しはり、後で主イエスはファリサイ派や祭司長等の策謀によって逮捕及び処刑され、復活して昇天しはったことで、この御言葉は実現した。更に「そして、その時、その日々に彼らは断食するだろう。」とも主イエスは予告しはっており、主イエスの弟子たちは、主イエスの昇天後に花婿である主イエスと物理的に共に居ることがなくなり、断食することがあったであろう。弟子たち(偽使徒パウロやその仲間は含まへん)が断食した様子の記載は現時点で確認出来る聖書に関わる史料からは確認でけへんが、きっとそうしただろうと推察される。

五、未縮絨の布切れの継ぎ布を古い着物に縫い付けへんとは
未縮絨とは、水通しや熱を加える等といった処理をする前の生地の状態を指し、未使用の新(さら)の生地のことをいう。店頭で販売されてる生地は未縮絨であり、水通しをしたり、洗濯等をすれば、生地は縮んだりする。それ故、洗ったことがあって縮まへん古い着物に、これから縮む可能性がある布をそうでない布に縫い付けると、後で縒れたり、しわが発生したり、馴染まへん。故に、互い相容れへんということを意味する。主イエスの例えは、未縮絨の布切れが新契約を締結したキリスト者を指し、古い着物は主イエスを無視した旧契約であるユダヤ教徒等を指し、互いに相容れへんことを言い表しはった。「その継ぎ足しが古いのから新しいのを除かへんなら、破れ目はより悪くなる。」というのは、キリスト者はファリサイ派等のユダヤ教徒の集まりには合わず、そないな場から離れなければ諍いが発生するんは必定であり、状況はより悪くなる。せやから、キリスト者はユダヤ教徒等の集まりに居るべきではない、そないな場に居るならキリスト者は離れざるを得ないというこっちゃ。これは当時の話で、キリスト者とユダヤ教徒(ファリサイ派やサドカイ派等)との対比であるが、現代でも当てはまる。それは、神の律法を守る真のキリスト者と神の律法を守らへんファリサイ派のパウロ教信者や律法主義者等との対比です。まさに、現代も過去と同じような状況を繰り返してる。新契約を締結した真のキリスト者は、新契約を締結しておらず旧契約も無視してる不法者だらけの世の諸教会や諸教派といったファリサイ派(パウロ教信者や律法主義者を含む)という古いもんには馴染まへん故、そこに属することはないし、一緒に居るべきではない。よって、真のキリスト者を目指す人や主イエスによって救われる人は、パウロ教徒の集まりである世の諸教会や諸教派に属することは有り得ず、それらに所属してる人たちに救いは無いということも主イエスの教えから理解出来る。

六、新しいぶどう酒は古い革袋やのうて新の革袋に入れなあかん
主イエスは、布切れのことを繰り返し形を変えて例えで教えはった。「誰も新しいぶどう酒を古い革袋に注がへん」と言わはり、誰もそないな事をせえへんとも言われてる。故に、そうする人はあかん人間ということや。そして、「もしそうするなら、新しいぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒はこぼされ、革袋も(捨てられる)。」ということから、真のキリスト者は、旧契約の人たちと一緒に居ることは出来ず、もし一緒に居ればどちらもあかんようになるとされる。そして、「それらは滅びるだろうが、」と言われており、真のキリスト者がユダヤ教徒やファリサイ派のパウロ教信者どもの集まりに行こうものなら、問題が起こり、どちらも駄目になって滅びるだろうと言われてる。つまり、真のキリスト者は、にわか信者と決して交わってはならんということや。この教えは確かに正しい教えと拙者も同意します。中途半端な人やおかしな人が混じってると、場を汚すことになるさかい、そないな人を取り除く必要性がある。人は、悪い方向に行くんは非常に簡単やが、ええ方向に行くのは非常に難しい。一人でもおかしなのが居ると、全体に悪影響が出るさかい、集まる人を慎重に選び、また管理する必要性があることが分かる。そして実際に拙者はそうしてる。
また、「新しいぶどう酒を新(さら)の革袋に入れられないかん。」とのことやさかい、真のキリスト者は新契約を結んだ人、即ち、律法を心に書き記された人のみ(エレミヤ書三十一章三十三節参照)、律法を守る人のみで集まらないかんということや。故に、キリスト者の集まりには細心の注意を払わないかんのが当然と分かるやろ。世の諸教会のように誰でも入れる、参加出来るなんていう所、パウロ教信者という律法廃止論支持者(十戒のみ支持者も含む)は絶対的にあかんというのが主イエスの教えから理解出来る。これを理解でけへん人や、これに異議を唱える人は主イエスの教えに反する思想の持ち主であり、反キリストです。世の諸教会が門戸を広くしてるんは、信者からの献金等といった金目当てなのを理解せないかん。そして、そないな広い門と広々とした道は主イエスが「広い門と広々とゆったりした道は、破滅に至るものであり、そこを通って入る者が多い」(マタイ七章十三節拙訳)と述べはったとおり滅びに通じるのであり、いつまで経ってもその事を理解でけへ人は愚かです。

七、神が求める断食とは
断食については、イザヤ書五十八章二節〜七節も参照してもらいたい。ただ単に食を断つというだけではその人自身にだけ関することであり、他者にとっては殆ど意味が無い。主なる神が喜びはる断食は、信仰によって慈愛ある行いを他者に行うことである旨がそのイザヤ書に書かれてる。ルカ十章二十五節〜三十七節の「善いサマリア人」やマタイ二十五章三十一節〜四十六節「すべての民族を裁く」に似た内容であり、お腹を空かしてる人にパンを与えたり、家が無い人を自宅に招いたり、服が無い人に自分の服を与えるといった恵まれへん人に施しをする、困ってる人を助けること、これこそ主なる神が選ぶ断食であると書かれてる。
ところが、現代では特に殺伐としており、過去記事「聖書の終末預言 一」で紹介した主イエスの終末預言である「不法が増大することにより、多くの人の慈愛が冷やされるだろう」のとおりで、主イエスの教えを実践する人は殆ど見受けられへん。実際、他人に無関心で、冷酷無慈悲な人が増えてる。「今だけ、自分だけ、金だけ」といった自己中心的な人が多く、貧しい人のことや隣人のことさえ無関心な人が非常に多い。また、たとえ恵まれへん人だとしても性格が歪んでおり、それ故にいざ助けたとしてもその厚意を裏切るような行為をするといった悪い行いをする人も居るし、所謂「貧困ビジネス」と呼ばれる貧しい振りをして金を無心する不届き者や子供を使うといった悪徳業者や破廉恥な親も居り、中々他人を信用しにくいっていう状況でもある。せやから、この点においても、人を見る目が問われる。もし「貧困ビジネス」について知らんのなら、各自で検索し、知識を仕入れ、騙されて悪人を肥やすような事をせんように注意しなはれ。
それにしても、悪魔崇拝者である金持ちや世の権威に洗脳され、西洋かぶれして愚かなくせに、自分らがまともだとか賢い等と勝手に妄想してる人が世の中には非常に多く、うんざりする。主イエスが言わはった「不法が増大」とは、神の律法に違犯すること(不法)が増え広がる事を意味しており、その典型例としては、洋服を着て西洋かぶれしてる人たちが非常に多く、婚外性交(既婚者の不倫と独身者の婚前性交の事)をする人たちも多く、同性愛や性転換をしたり男が女装や女が男装等をしたりと性秩序を乱す人たちも昔よりも現代では格段に増え、聖書暦(太陰太陽暦)や安息日や主の祝祭日を無視してる人たちが、現代社会には異様に多く、その数々の不法行為のせいで「多くの人の慈愛が冷やされる」という結果になり、現状がまさにその預言内容に当てはまってる。反対解釈をすれば、慈愛を冷やさず、慈愛が溢れて思いやりがある人が多く、特定の人だけが既得権益を貪らず、助け合う等と暮らし易い社会にするには、キリスト信仰を持って神の律法を遵守する社会でなければならんことが分かる。しかし、聖書から分かる事は、この世ではそないな律法遵守をする真のキリスト者が激増するという理想的な状況になることはなく、権力者や多数派の庶民は神から選ばれておらず滅びる定めにある故、不信仰者や異教徒だらけという悪い状況は改善せえへんであろう。聖書に記された滅びの前兆は着々と揃いつつあり、聖書預言が全部実現したら、その時にこの世は滅びるでしょう。そうなる前に、さっさと当ブログと聖書から学び、生き方や行いを変え、死ぬまでそれを継続する必要があります。先に示したマタイ二十五章三十一節〜四十六節「すべての民族を裁く」の内容をよう読んで、ええ行いをせえへん人は地獄に行く事が分かり、行いの重要性が理解出来るやろ。ただ、勘違いせんといて欲しいんは、天国に行きたいという保身目的で無理やりええ行いをしようというのは悪い動機やさかい、評価に値せえへんことは付言しておく。神は、人間の心を読み、何を企んでるのか、何が目的でその行為をするのかもすべて把握してはり、見せかけだけの慈善行為は偽善となり得ることに注意です。純粋に他者に対する慈愛から出る行いでなければ、意味が無いです。神が求める真の断食とはかようなものではないでしょうか。

 


この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上