こんにちは。

今回は、キリスト者と迎え入れる人が弁える事について述べます。

いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会が荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
また、当ブログに投稿した人に対して陰で別の場所で集まるように勧誘してる者が居り、そないな者たちは、ただ集まりさえすれば良いと勘違いして、一向に成長が見られへんさかい、解散してやめるように勧告します。誰でも入れる所、敷居が低い所にはそれなりの人しか集まらず、そないな人たちが集まったところで、何も成し遂げられず、うだつが上がらへん状態が長く続き、そない低い程度に慣れるとそこから脱却しようともしなくなり、後に信仰からも脱落してまうことが予想されます。学校や会社でも入試や選考をして人を選ぶのが当然やろ。せやから、そないな誘いにも乗らんように注意しなはれ。たとえ当教会に入るためとか、一緒に集まって励ましあうため等と言い、一見して協力してるかのように見せかけていても、その実、結果的には、こちらに入ろうとする者の邪魔をし、散らす者であるからや。遠回りや寄り道をせんと、真っ直ぐにこちらに来る努力をすべきです。別の場に集まって安心することで、こちらに来るために必死になろうとせず、何年ものらりくらりして、最悪こっちに来なくてもいいやってなるのが懸念点で、実際にそうなってる人たちが居り、そないな人たちと調子を合わせてたらあかん。理解したら、余計な事をせず、真っ直ぐにこちらに来る努力のみをしなはれ。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってる、本来ならば有料で対応して然るべき案件であるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思うなよ。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。

もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。



 

【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】


・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)


・当ブログを知った時期
・何故当ブログを読もうと思ったのか


・何を期待して相談や投稿をしたのか

 



これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。
集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。



 

拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。
ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。



 

さて、本題に入ります。今回はキリスト者と迎え入れる人が弁える事についてです。

新約聖書 マタイによる福音書 十章五節〜二十三節(拙訳)
イエスはこれら十二人を派遣し、彼らに命じ、言わはる。

「異邦人の道に行ったらあかん。また、サマリア人の町に入ったらあかん。むしろ、失われたイスラエルの子孫である羊たちの所に行きなはれ。更に、行って、『各天の国は近付いた』と言うて、公に伝道しなはれ。弱ってる人を助け、重い皮膚病を患っている人を清め、死んでる者を起き上がらせ、悪霊を追い出しなはれ。(あんた方は)無償で受けたなら、無償で与えなはれ。あんた方の帯の中に金貨も銀貨も銅貨も所持するな。旅に袋も二つの下着も履物も杖も無しや。働く者はその食べ物に相応しいさかい。しかし、都市や村に入ったら、その中で誰が相応しいかを吟味しなはれ。そして、そこで出て行くまで滞在しなはれ。せやけど、その家に入ったら、それに挨拶しなはれ。そして、もしほんまにその家が相応しいなら、あんた方の平和はそれ(その家)に来させなはれ。しかし、もしそうでないなら、あんた方の平和はあんた方に戻されよ。また、もしあんた方を受け入れもせず、あんた方の言葉に耳を傾けようともせえへん者なら、その家、またはその都市を出て行くとき、あんた方の足の埃を振るい落としなはれ。確かにあんた方に言う。裁きの日には、その都市よりもソドムやゴモラの地に(下された罰は)、より耐えられるものだろう。」
「見よ、我は、狼たちの只中の羊のようにあんた方を遣わす。それ故、蛇のように賢く、鳩のように無邪気になりなはれ。せやけど、人々に注意しなはれ。彼らはあんた方を地方法院に引き渡し、彼らの諸会堂であんた方を鞭打つだろうからや。また、更に、我がために支配者や王の前に連行されるだろう。彼らや異邦人への証言のために。せやけど、彼らがあんた方を引き渡すときは、どう、又は何を言うか心配するな。そのときに、言うべきことをあんた方に与えられるだろうからや。話してるんはあんた方やのうて、あんた方の父の霊であり、あんた方によって話してる。更にまた、兄弟は兄弟を、父は子を死へと引き渡すだろう。そして、子は親に対して反抗して彼らを殺すだろう。また、我が名のために、すべての人に嫌われるだろう。しかし、最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。せやけど、この都市で人々があんた方を迫害するときは、他んとこへ逃げなはれ。確かにあんた方に言うとく。人の子が来るまであんた方がイスラエルの都市を巡り尽くすことは決してないさかい。」


一、西洋かぶれをやめよ
過去にも複数回言うてきたとおり、早急に西洋かぶれをやめよ。拙者がかように言うんは、主イエスの教えやからに他ならへん。上記聖句のとおり、主イエスは「異邦人の道に行ったらあかん。」と教えはったからや。拙者は主イエスの教えと神の律法に従順なだけなのに、アホみたいに神と拙者に対する敵対心から「和服を着なきゃいけないなんておかしい」、「カルトだ」、「律法主義者だ」等と的外れな中傷をしてくる輩(悪魔の子)が一定数居る。主イエスの教えに逆らい、律法違犯をする罪人(犯罪者)こそおかしいし、古代イスラエルの時代から何千年も和服を着てきた日本人が明治維新(千八百六十八年)や米国に敗戦した(千九百四十五年)んを機に洋服を当たり前かのように着てることこそおかしいんですよ。歴史を学ばず、現代社会に対して違和感を感じず、世の権威に漫然と従うだけで、心が悪くて頭が狂ってる人は、その事実を理解でけへんのやろけど、分かってて聞き従わぬ者は故違犯であり、もはや救いようがない。
道とは、この仮の世の人生の旅路、即ち、生き方や行いの在り方を示す。永続せずにいずれ滅びることが決定してるこの仮の世に生まれてから死ぬまでの間、その人生の旅路において、異邦人(異教徒)の生き方や行いをしたらあかんというのが主イエスの教えであり、戒めや。拙者が過去に論証したとおり、日本は真正イスラエルやさかい、律法に規定されてる房付きの和服を着るとか聖書暦(太陰太陽暦)に従う等といった「伝統的な日本式(古代イスラエル式)」の生き方が必要不可欠で、異邦人(日本人以外)も救われたいならこれに従う必要がある。洋服を着たり太陽暦(グレゴリオ暦)に従うのは西洋かぶれであり、異邦人(異教徒)の生き方や行いであり、主イエスに逆らうことになる。十二使徒のヨハネは「キリストの教えに違反して、留まらへん者は、神を持ってへん。キリストの教えに留まっとる者、その者は御父と御子の両方を持っとる。」(ヨハネの手紙二 九節拙訳)と言うたことから、主イエス・キリストの教えに従わぬ者(律法違犯をやめぬ者)は全員、聖霊を持たぬ滅ぶ人間ということになるし、パウロを使徒と狂信するパウロ教信者どもも聖霊を持たへん滅びの子や。
英国の支配下に入った明治維新以後、特に敗戦後米国による間接植民地支配から日本人は愚かにも西洋に憧れて西洋人の猿真似ばかりし、服装を変え、習慣や考え方や言葉も変え、すべてが悪い方向に行ってることを、あんたらはまるで理解してへん。過去記事「日本人の問題点 一」から始まる連載でも、日本人の問題点を書いたが、日本人の多くは自分たちが悪いと思わず、反省もせず、行いや生き方を改めようとせえへん。聖書を読めば分かるとおり、日本人の先祖である古代イスラエル人も同じような状況で、神に逆らい、律法を守らず、その罪の故にあらゆる災いを受け、国を失い、土地を追われ、中東から日本列島に移り住んだ。これはイザヤ書の預言どおりで、すべて主なる神の御計画どおりに事が運ばれてるんが分かる。災いの元凶は、人間の不信仰、律法違犯(罪)に起因するんやと、ええ加減覚えて改善せい。せやから、聖書(パウロ書簡は除く)は真実の書であるんは疑いの余地があらへん。「聖書は支配層の計画書」だのという虚偽の噂を信じてはならんし、かような虚偽情報を言いふらしてもならぬ。そないな悪行は罪やからや。聖書を読んでもなお、拙者の言うことが理解出来ぬ者、従わぬ者は反キリストであることも疑いの余地が無く、早々に悔い改めぬのなら、神からの報復を震えて待つがよい。

二、十二使徒はおもに古代イスラエル人相手に伝道した
何故かように言えるかは、主イエスの御指示が「失われたイスラエルの子孫である羊たちの所に行きなはれ。」というものやったからや。上記聖句にあるとおりや。主イエスが受肉しはってこの世に来はった一世紀当時、かつてソロモンが王として君臨したイスラエル王国の全盛期を迎えた時代のようではなく、ソロモンが晩年に異邦人の女にたぶらかされて背教した結果、ソロモンの子の時代にイスラエル王国は南北に分裂し、北のイスラエル王国はアッシリアに攻め滅ぼされ、そこに住んでたイスラエル十二部族の内の十部族が東方に離散してからかなりの年月が経っており、旧イスラエル王国の首都であるサマリアはアッシリアという異邦人の悪影響を受け、堕落しとった。そのため、「サマリア人の町に入ったらあかん。」と主イエスから言われた。言うても、旧イスラエル王国の地域でサマリア以外に行くなという命令は無く、それらの地域に住んでる古代イスラエル人に向けて伝道するように主イエスから御指示を受けた。そして、この御命令は、主イエスの公生涯の間に限らず、主イエスが昇天しはった後も、十二使徒の行動指針となった。十二使徒のトマスがインドの方まで伝道に行った等と伝承があるとおり、十二使徒は古代イスラエル人の末裔に向けての伝道をおもに行うために、中東のイスラエルの地よりも東方に進んだことが分かる。
しかし、その主イエスの教えを知らず、たとえ知ったとしても無視して故意に反対の西方に伝道しに行き、自らの名声や権力を欲した偽使徒パウロの悪さがここからも分かる。過去記事「パウロは偽使徒」で書いたことやが、パウロは主イエスと直接会うたこともない故にその御姿も御声も知らず、公生涯時に教えを直接受けたこともないし、主イエスの十字架の死と復活を目撃しておらず、その証人になれず、その結果、使徒の資格が無いのに勝手に使徒を自称して自らを権威付け、幻で主イエスから教えを受けた等という戯言を言い、多くの人々(おもに当時聖書に無知な異邦人)を騙してきて、現代に至るまで、世の諸教会はパウロ教信者で占められ、相変わらず多くの人々を騙し続け、滅びに導いとる。また、過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」等でも書いたとおり、パウロは聖書や律法に基づくユダヤ文化とは無縁の西洋人、とりわけ当時最大の勢力を持つローマ帝国に取り入ることを目指し、西方に赴き、そこを拠点とした。
かように、主イエスから直々に選ばれた十二使徒と、そうでないパウロとでは、天地の差があり、行動も教えた内容もまったく異なる。せやから、キリストの使徒の資格が無い偽使徒パウロの反キリスト教義に従い、悔い改めず、神の律法を無視して違犯し、罪を犯し続ける生活をし、西洋かぶれをしてるようでは天国行きは不可能であろう。

三、伝道は公にせい
上記聖句のとおり、主イエスは「公に伝道しなはれ。」と戒めはった。せやのに、こそこそと人目を憚るようにしてる者が居る。特に、聖書の真理を説く拙者に賛同せぬ者、敵対する者、裏切った者等はそういう事をしてる傾向にある。しかも長続きせず、しれっと始めて、しれっと削除して終わるという者も居る。そないな中途半端な事をしてて虚しくならんのかね。かように上手く行かへん要因は、聖書の真理に反発し、主イエスに反逆した報いや。拙者が伝道を開始して以来この七年間見てきて、拙者に敵対する者や誹謗中傷する者どもは、何も正しい根拠を提示せず、こちらの主張が誤ってることを証明でけへんのに、偉そうに上から目線で戯言を言う。もし反論があるなら陰口を言わんと、堂々と聖書(パウロ書簡を除く)を基に適切に論証しに当ブログに投稿しに来なはれ。もっとも、こちらが聖書に基づく正論を述べてるんやから、そないな事はでけへんやろけどな。
いずれにしても、キリスト者と名乗るなら、きちんと誰もが見える場、つまり公の場で伝道しなはれ。拙者が無償でブログや動画を一般公開してるように。それが主イエスの教えであり、それに従わず、目立たぬように影でこそこそしたり、有料記事にしたり、会員しか見られへん等と特定の人しか見れへんように規制するんは反キリストの行いであると心得よ。そないな反キリストの場に加わる者や有料記事購読者も救われることはない。特に、過去に偽預言者RAPTを非難したとおり、預言を有料記事で売るなんてやったら絶対にあかん。主イエスが「(あんた方は)無償で受けたなら、無償で与えなはれ。」と教えてはるんやから、預言と称して有料記事なんか作る時点で金儲け目当ての反キリストであることは明白や。それが分からぬ読者も同じく問題や。

四、善い業は無償でやれ
上記聖句のとおり、主イエスは「弱ってる人を助け、重い皮膚病を患っている人を清め、死んでる者を起き上がらせ、悪霊を追い出しなはれ。(あんた方は)無償で受けたなら、無償で与えなはれ。」と指示しはった。弱き者を助ける、皮膚病の人を清める、霊的に死んでる者を信仰に導いて生き返らせる、悪霊に支配されてる人から悪霊を追い出して正気に戻す等は、すべて善い業や。ただ、伝道を含め、これらの行いをすべて無償で行うようにというのが主イエスの教えや。なぜなら、これらの業が行えるようになるんは、神のお陰であり、それも人間が神に対して対価を払た訳でもないからや。それ故、神から無償で賜りし力は、神のため、及び人々のために無償で用いなければいかん。しかし、偽り者は、その者自身の名声や金銭を求めたり、他の対価を要求したりする。なんで神から無償で力を与えられて、その人間は他の人間から対価を求めるのか。神の立場からすれば、その対価を求めようとする人間をどう思うか想像でけへんか。極めて簡単でしょう。人間に置き換えてみたら、よう分かるやろ。たとえば、誰かに無償で何か与えて、それを使て他人の病気を癒やすように言いつけた場合、その人が無償で貰たもので金儲けしたり、過度に目立って称賛を浴びて自分の功績かのように振る舞ってるんを見たら、あんたはどう思うやろか。「なんだ、こいつ。自分が無償で与えたもので金儲けしやがって。称賛も浴びてこちらのお陰とは言わず、自分の功績かのように言いやがって…」等と怒りを覚えるのではないか。それと一緒で、神から賜りし力で奇跡を起こしたとしても、それは神のお陰であって、その人間自身の力ではない。
また、律法にも「あんたは「我が力と我が体で、この富を獲得した」と内心で言う。しかし、あんたの神である主を思い出しなはれ。あんたの父祖に誓たその契約を今日のように行うために、彼(主)が富を獲得する力をあんたに与えはったからや。」(申命記八章十七節〜十八節拙訳)と書かれてるとおりや。せやから、すべて神のお陰であり、人間が神の律法を守る契約を行えるように必要な富を与えられてるだけで、富を持つ人間自身に何か特別な能力がある訳でも何でもない。高学歴を得て高収入を得るような地位に就いたとて、それがあたかもその人自身だけの力で達成したと思い込むんは傲慢であり、そないな人は不信仰で、神に認められることはない。学歴が無い人も自営業やその他の手段で金儲けに成功したら、それがあたかもその人自身だけの力で達成したと思い込むんは傲慢であり、そないな人も不信仰で、神に認められることはない。過去記事「主権は神にあり、人間にあらず」でも言及したとおり、神が主権者であり人間は脇役の媒体でしかなく、人間がこの世の中心ではないってことを覚えなあかん。但し、勘違いして欲しないんは、この世の富を獲得することは主イエスの教えから分かるとおり大きな間違いであり、それは悪魔側の人間がやってる事やからや。反対に、慈愛あるええ行いをしてること等は、天に富を積むことであり、神の目に良しとされる業や。せやかて、その媒体たる人間も重要であり、神がその人間を選んでその器にしてるという神の御意志も汲み取り、それ相応の扱いをせねばならん。また、伝道はキリスト者の義務であり、神にとっても人間にとっても善い業に入るため、これも無償でやらなあかん。但し、癒やしたり悪霊を追い出す等という奇跡の類は、過去記事「偽りの霊による働きへの警告 前編」でも注意したとおり、その者が律法を遵守してるかどうか、及び主イエスの教えを守ってるかでほんまもんのキリスト者なのか、悪霊の力で奇跡を起こしてるのかを適切に判断せないかん。要するに、癒やしたり悪霊を追い出す等という奇跡を行うからという一点だけで、真のキリスト者と断定することはでけへんし、律法を守らぬ者が奇跡を起こした場合は悪霊の力によるということや。
また、「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイ七章二十一節~二十三節拙訳)という主イエスの戒めも忘れるべきではない。この主イエスの御発言から分かるとおり、癒やしや悪霊を追い出す等という奇跡をやった者の中で、自らの正当性を主張して天国に相応しい人材かのように自己弁護をする者が居るが、神の律法を守らへん(不法を行う)故に主イエスから拒絶されることが示されてる。何故かような主張をするかは、にわかキリスト者は奇跡をすることばかりに気を取られ、律法遵守することを無視または軽視しており、その分際で悪霊の力で奇跡を行えるようになっただけで「自分は真のキリスト者だ」と勘違いしてるからや。偽使徒パウロもこれと同じであろう。律法を蔑ろにし、かつ、律法を守らんでもええと他人に教えたパウロは、悪霊の力を借りて奇跡等を行い、人々を騙して信者を多く獲得して現代に至る。しかし、主イエスの戒めのとおり、奇跡を行うだけで律法違犯をやめへん(悔い改めへん)人を「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ」と断言し、キリスト者を自称しようが律法違犯者は神とは一切関係無いし、天国に行かせへんと主イエスが拒否しはることが分かる。故に、不信仰者やパウロ教信者ども等といった不法を行う者(律法違犯をやめへん者)は天国に行けへんということや。重ねて言うが、奇跡を起こすことよりも、地道に毎日神の律法を守り、聖書暦(太陽暦ではない)に基づいて生活し、キリスト者としての義務を行う事に邁進してる方が余程重要ということを忘れるな。

五、人を見極めよ
上記聖句のとおり、主イエスは「都市や村に入ったら、その中で誰が相応しいかを吟味しなはれ。」と戒めはった。伝道の旅において、何処かの都市や村等に入ったら、その中で誰が滞在するに適してるか、理解ある人か、人としてきちんとしてる人かどうか等を見極め、「そこで出て行くまで滞在しなはれ。」との仰せ故、そないなきちんとした人の所で寝食をすべきということや。上辺だけ待遇が良いとか自分にとって都合が良い等とつまらぬ理由で決めてはならず、相手の人を吟味(念入りに調べること)せなあかん。しかし、拙者はこれを読んで、昔やから出来る事やったんやろなって思う。現代でいきなり見知らぬ人を何日も泊めてくれて食事も供与してくれる優しくて理解ある人って居るやろかって甚だ疑問に思うからや。特に、悪徳政府が意図的に悪政を行って少子高齢化を促進し、増税や物価高なのに賃金と福利厚生は諸外国より劣悪なままで可処分所得を減らし、その上、コロナ犯罪も引き起こし、他人をばい菌扱いする者が増え、人々の慈愛を冷えさせ、意図的な増税と物価高等で経済的余裕も無くさせ、ほんまに酷い人間だらけになった。かような悪い人間だらけの現代社会において、一体誰が見知らぬ人を長期泊めてくれたり、食べさせてくれようか。たとえ泊めてくれて食べさせてくれる優しい人が居たとしても、それを許してくれるんはせいぜい数日程度であろう。あまりに長居したら、その人に悪い感じもするし、気を遣うし、旅立ったら、その次の滞在先があるかの保証も無い。「あんた方の帯の中に金貨も銀貨も銅貨も所持するな。旅に袋も二つの下着も履物も杖も無しや。」という主イエスの言いつけやさかい、金銭を持たずの状態では、徒歩移動しかあらへん。電車やバス等の移動では金銭が不可欠で、金銭を持たずの状態ではそれらは利用不可やさかい。金銭を持たずでは自分で飲食の材料を調達することが出来ず、散髪や入浴等もでけへん。そして、着替え等も持たずでは、もし何日間も何処も助けてくれる人や家に巡り合わへんかったら、浮浪者のようになるのは必定。もし見た目も汚らしくなってしまうと、更に迎え入れてくれる人は減るであろうし、伝道に専念するどころではなくなり、伝道者自身の命の危険性や健康問題が発生する可能性も高まる。一世紀当時の昔のイスラエルでは、今よりもまだ聖書に関する話を聞く人が多く、伝道者を助ける精神を持つ人もわりかし居って、そないな背景があって先の主イエスの教えのとおりでも伝道の旅で困ることはなかったのであろう。しかし、現代では不信仰者が非常に多く、西洋かぶれして身なりも品性も劣悪を極め、堕落した自己中心的な悪い人間が大多数の現状では、主イエスが十二使徒に命じたのと同じように現代のキリスト者が行うんは非常に困難と言える。せやから、きちんと人を見極め、パウロ教信者等の偽キリスト者を排除し、律法を守って慈愛がある真のキリスト者を助ける人が出てくるように、真のキリスト者を迎え入れてくれることを要請します。「金が掛かる」等とせこい事を思わず、永遠の命に繋がる真の聖書福音を教えてくれる人を大事にすべきですよ。本質を捉えれば、永遠の命に繋がる機会や教えを得ることは、この世の金銭なんかとは比べものにならず、金銭のことばかり気に掛けるなら、その程度の人ってことで、神から選ばれた人間ではない。
しかし、それでも現実は真のキリスト者を手助けしてくれる人は殆ど居らへん。そないな窮地を助けるかのように、インターネットが登場した。勿論、その仕組み自体は悪人が生み出して管理してるものやが、それをキリスト者も利用し、伝道に活用出来るのも事実や。実際、あんた方は拙者の伝道をネットを通じて知った。そのお陰で、時間的制約と物理的制約に囚われずに、あんた方が読みたい時に読める。拙者が直接あんた方の前で説明せずとも真の聖書福音を知れる状態になった。伝道する側の拙者も助かってるし、見聞きする側のあんた方も助かってる。現代のように非常に悪い時代には、それなりの伝道の仕方で対応せざるを得ない。ネット上では人を見極めるのがより難しく、人の見た目や話し方や雰囲気等を直接感じることがでけへんため、画面に映る言葉やそれまでの実績等でその人を判断せねばならん。つまり、論理的で賢い人でないと、人を見極めることはでけへん。愚かな人がネットを使て人に会うと、他の愚かな人に騙されて問題を起こしたり、悪い人と会うと事件に巻き込まれたりする。もっと賢くならなあかんで。ほんまもんの人か、偽り者か、見極めるにはその人自身にそれなりの知識や論理的思考、読解力、洞察力等が求められ、それらを持ってへんと、他の悪人に騙されて破滅に至るし、ほんまもんを偽り者と誤って決め付けたり中傷しても破滅に至る。かように、愚かな悪人は人を見る目が無い故、悪人同士互いに騙し騙され、益々悪くなる。盲人が盲人を手引きして共に穴に落ちるのもこの道理や。
働く者はその食べ物に相応しいさかい。」という主イエスの教えから、たとえ無職であっても神のためや隣人のために伝道等をして働く者は食い扶持は保証されてる。せやから、真のキリスト者が無職、またはキリスト者としての活動によって金銭報酬を得ない故に職業として俗世で認められへん等という俗世の価値基準で人を莫迦にしたり、見下したりしてはならん。司教や牧師等といった偽使徒パウロの反キリスト教義の信奉者どもは聖書やキリストを悪用して金儲けや不法行為に勤しんでおり、こないな人は主イエスの教えに逆らう反キリストやさかい、聞き従うべきではない。この世で無職という弱き立場にあっても、この悪い世が滅んだ後、立場が逆転するさかい、神の律法を守らぬ不信仰者や異教徒どもは調子に乗らんようにしなはれ。愚かな人は、大したことないくせに、悪い行いを改めへんくせに、自分よりも弱い立場の人や収入が低い人を見下す傾向がある。地位や収入等といったしょうもないことでしか人を評価でけへん哀れな愚か者や。この世で社会的地位があったり、金銭や財産等を多く持ってるからとて、何も偉くもない。勘違いするな。しかし、無職でキリスト者としても働かず、遊技(ゲーム)等に没頭してるとか、テレビを見てぼーっとしてるとか、その他どうでもええ事ばっかしてるとか、悪事を行うなら、人としてどうかと思う。キリスト者と自称しながら、伝道やその他為すべき事を何もしてへん人はキリスト者を自称するんをやめてもらいたい。主イエスや他のキリスト者に恥をかかせるな。

六、聞き従わぬ者はソドムやゴモラへの罰よりも厳しい罰がある
上記聖句のとおり、主イエスは「もしあんた方を受け入れもせず、あんた方の言葉に耳を傾けようともせえへん者なら、〜確かにあんた方に言う。裁きの日には、その都市よりもソドムやゴモラの地に(下された罰は)、より耐えられるものだろう。」と言わはり、世の終わりの時、裁きの日には、十二使徒やその他の真のキリスト者の伝道に耳を傾けようとせず、受け入れもせえへん人の居る都市は、ソドムとゴモラに下された罰よりも厳しい罰が下るとされてる。これをあんた方は軽く考え過ぎです。舐めてる原因は、「そんなことにはならん」と高を括ってるんやろが、高慢な人は愚かにもそう思い込んで放縦に生き、神と真のキリスト者を愚弄し、後で厳罰に処される。創世記を読んで分かるとおり、ソドムとゴモラは、神が天から火と硫黄を降らせて滅ぼした都市やった。なぜなら、それらの都市は町としては発展していたが、性的に非常に堕落し、神の律法で定める性の秩序を守ってへんかったからや。アブラハムの甥であるロトは、都市の発展具合に惹かれてソドムに移住したが、ソドムの住人は性的倒錯したり放埒な状態で、ロトを訪ねた天使にも手を出そうとした故、神はソドムの人々を滅ぼすことを決定し、当時その町で唯一まともであったロトを救い出すために天使を送り、天使はロトとその家族にソドムから出て行くように指示し、逃れる途中で「決して後ろを振り返るな」と注意されていたのに、ロトの妻は言いつけに逆ろうて振り返って不信仰の証しとして塩の柱にされた。神が天から降らしはった火と硫黄によって今ある死海に沈んだんがソドムでその近くのゴモラは廃墟になった。それはこちら(YouTube)でその様子が分かる(但し、当該動画の最後のパウロの偽福音(ローマ十章九節)は嘘であることに要注意)。また、最近LGBTという性的倒錯を容認しろだのという悪魔崇拝者の支配層の圧力が強まり、各国政府や裁判所はこの圧力に屈して不当にも同性婚を認めたりし、報道機関もグルになって性的倒錯者を頻繁に出演させ、一般人を性的倒錯に慣れさせ、容認させて世界中をかつてのソドムのようにしようと必死の工作活動をしてる。多様性を認めろと言いつつも聖書の真理に則る真のキリスト者を容認せず、その実は反キリストの人間を増やしてるのであり、ひいては真のキリスト者への風当たりを強め、真のキリスト者を不寛容でおかしい人扱いし、聖書の教えを悪いものとする悪しき意図がある。この世の動向は非常に忌まわしい。悪魔の策略に乗るな。悪魔(堕天使)は人殺しであり、神の怒りを買わせて滅ぼそうとしてるんや。それに気付き、聖書の律法を守り、性の秩序も守れ。彼らは十二使徒や真のキリスト者の教えに聞き従わぬ者や受け入れへん者の報いは、ソドムとゴモラに対する罰よりも厳しくなるというのが主イエスの戒めや。即ち、十二使徒や真のキリスト者の教えに聞き従わぬ者や受け入れへん者は、とてつもない極悪人やというのが神の評価ということになる。聖書(パウロ書簡を除く)を無視したり莫迦にする者、拙者を中傷する者、聖書の真理に基づく説明がなされてる当ブログと当動画から学ぶことを拒否する者や逆らう者、受け入れへん者等もソドムとゴモラに対する罰よりも更に厳罰に処されるということになる。世の諸教会(カトリック、プロテスタント、正教会等)に聞き従わんでも、自称聖職者ども(ローマ教皇、司教、牧師等)を受け入れんでも問題は無い。なぜなら、それは正しい行いやからや。世の権威や諸教会らは、聖書(パウロ書簡を除く)に反した行いばかりしており、諸教会が大好きな偽使徒パウロの教えにさえ忠実でもない中途半端な多神教信者(もはやただの不信仰者)故、耳を貸す価値も無いからや。詳細は過去に説明済やし、これ以上は今回は言わへん。
なお、ソドムとゴモラについては、ユダの手紙七節やペトロの手紙二の二章六節でもすべての人に対して繰り返し過去の教訓として戒められてる。偽使徒パウロやパウロ教信者どもや自分が正しい病に冒されてる律法主義者や不信仰で傲岸不遜な者どもは、十二使徒の教えを拒絶し、拙者の諭しをも拒絶してる故、それらの者に対する罰はソドムとゴモラに対する罰よりも厳しいものになると覚悟せい。死海は海抜マイナス四百二十二メートルの低さで、それ程に天からの火と硫黄が大量に降り注ぎ、その一帯が高熱で滅ぼされ、潰れて凹んだということになる。これは凄まじい威力であり、人智では計り知れへん。繰り返すが、十二使徒や真のキリスト者の言う事を聞かぬ者は、ソドムとゴモラに対する罰よりも厳しい罰を受ける羽目になる。せやから、裁きを受ける前に、さっさと悔い改める方が身のためやとあんた方のことを想って言うてるんや。

七、賢く無邪気になれ
上記聖句のとおり、主イエスは「蛇のように賢く、鳩のように無邪気になりなはれ。」と我等に御命令しはった。「狼たちの只中の羊のようにあんた方を遣わす。」とも言わはり、世間の多くは狼のように貪欲で攻撃的で不信仰で危険な人間が殆どであり、その中に羊のようなキリスト者を遣わすと仰せや。但し、何遍も言うが、パウロ教信者はこの羊に含まれへんし、律法主義の高慢な勘違いした自称キリスト者等も含まれず、彼らは狼や。羊と狼では何が違うのかと言えば、これも何遍も拙者が言うてるとおり、主イエスの教えや神の律法を守ってるかどうかで見分けがつく。ここで羊とされる神の律法を守る者は、房付きの和服を着ており、真のキリスト者の集いに属し、他者に悪い行いをせえへんし、暴力的に傷付けることもせず、金銭欲は強くないし、性的倒錯をせずそれを認めることもせず、他人から何かを盗むこともせえへんし、嘘をつくこともせえへんし、危害を加えず、福音伝道をしたりその他ええ行いをする。まさに真のキリスト者は羊のようや。しかし、不信仰者や異教徒(パウロ教信者)等はこの限りではなく、何かしら神の律法に違犯し、かつ、それが罪であると認めようとせず、言い訳をして改善しようとせえへん。神の律法に違犯する狼たる人間の中に、羊たる神の律法を守る人間が入れば、狼は羊を攻撃する。せやから、真のキリスト者は、蛇のように賢くなり、鳩のように無邪気(素直で悪意等が一切無く、ひねくれてもいない)になるようにと主イエスは戒めはったため、それを守って体現してる筈である。すぐに他人に騙されたり、世の権威(政府、国際機関、報道機関、教育機関、金持ちや肩書きや地位ある者等)に騙されるようでは間抜けであり、賢いとは言えへん。真のキリスト者でないなら、神から知恵や洞察力を授かることもない故、賢くなることは実質的に不可能や。「蛇のように賢く」と言われてる理由を理解してるやろか。聖書(創世記や黙示録)では、蛇は悪魔(堕天使)の象徴や。悪魔は狡猾であり、この世が始まって以来五千年以上多くの人間を観察して人間の性質を熟知し、人間を騙して神から引き離して地獄に送ることに成功してることから、同じ位かそれ以上に賢くならなければ、悪魔に打ち勝つことはでけへんからや。賢さの点においては悪魔を目安にしてるが、性格や品性が悪魔のように邪悪であったり、捻くれたらあかん。「鳩のように無邪気になりなれ」という戒めがまさにそれであり、真のキリスト者は鳩のように隣人に攻撃的にならず群れで平穏に暮らすことが出来る性格でなければならんということや。後の世で永遠に平穏に暮らすことを考えれば、かような性格や品性でなければ無理なのは当然ですね。一人ぼっちが良い、他者と関わりたくない、一人が気楽等という性格の人は厳しいでしょうし、ただ単に孤独が嫌とか多数派に属したいが故に群れる等は不適切な動機であり、こないな性格の人もあかん。あくまでキリスト信仰を持ち、神の律法を守る人であるというのが前提で、それらを行う人間の集まりである必要があるからです。
世の権威が嘘ばかり言うて人々を騙し、命を奪ったり、傷害を負わせたり、洗脳して愚かにしたりしてきたことを証拠を添えて何遍も伝えてきた。せやのに、未だに信じず、言う事に聞き従わぬ者が多い。そないな者は滅びる運命なのだろうとこちらは諦めてるが、少しでも足を洗う人が出て来て欲しいと切に願う。ほんまに死後の裁きのことを考えれば、この悪い世の権威に従うことが如何に莫迦げてるか、愚かな行いかを早よ認識し、悔い改めるべきです。

八、人を簡単に信用してはならん
上記聖句のとおり、主イエスは「人々に注意しなはれ。」と戒めはったとおり、人々を簡単に信用したらあかん。なぜなら、上述のとおり、この世には悪い人間が多いからや。嘘をついたり、人を騙したり、金銭をむしり取ったり、性的搾取をしたり、その他色々悪い行いをする人間が多い。毎日のように事件や事故が発生しており、未発覚のものや不正に揉み消してる事例も数多く、それはこの世に悪い人間が多いからに他ならへん。あらゆる不法行為によって裁かれへんだけで善人ぶってる世の権威者も一般人もおかしい人が多いし、信用に値せえへん人間が多過ぎる。よって、主イエスの戒めどおり、人々に注意せないかん。そして、人を簡単に信用するべきではない理由として、主イエスは「あんた方を地方法院に引き渡し、彼らの諸会堂であんた方を鞭打つだろうからや。」という理由を言わはった。なお、鞭打つと訳したが、棒で叩く、殴る等も含む。かように、狼たる人々は、羊たる真のキリスト者を嫌って迫害する故、主イエスは真のキリスト者に向けて人々に注意するようにと言わはった。言うておくが、不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)や自分が正しい病に罹ってる律法主義者等が警戒するっていうのは、間違えてるからな。そないな人らこそが警戒される対象なんやから。
また、将来もし憲法を改悪されたら、戦前戦中のような密告社会になるやろし、余計に他人を信用しにくくなるだろうし、血縁関係にある家族や親族すらも信用でけへんようになろう。このことからも不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)等を簡単に信用すべきではなく、注意せないかん。

九、真のキリスト者が権力者や異邦人への証しをする
上記聖句のとおり、主イエスは「我がために支配者や王の前に連行されるだろう。彼らや異邦人への証言のために。」と言わはった。これは、真のキリスト者が主イエスを信じるが故に迫害され、権力者の前に引き摺り出され、権力者と異邦人のために何が真の福音なのかを証言することになると予告されてる。この主イエスの御言葉が、世間に広まってる常識が誤りであることの証明や。即ち、世の諸教会が長年誤って使徒扱いしてるパウロの偽福音が誤ってるからこそ、かような証言をする機会が必要ということなんや。今までの常識が正しいなら、既知の内容やさかい、わざわざ権力者や異邦人に向けて大々的に証言する意味は無いからや。せやから、にわかキリスト者はその場に立つことはないだろう。なぜなら、聖書の真理に基づいて生きておらず、臆病風に吹かれ、迫害されるのを怖がり、隠れてこそこそしたり、キリスト者ではないと言うたりして(後で主イエスから知らないと言われる)、保身のために脱落するであろうからや。真のキリスト者なら、保身のためにキリスト者であることを否定したりせず、その結果、反キリストである権力者からの迫害の対象になり、逮捕されたり、犯罪者かのように扱われ、酷い仕打ちを受ける。それを見て、悪い権力者と同調して真のキリスト者を嘲ったり悪く言うたりして迫害に加わる者も反キリストであり、そないな世の多数派は間違い無く滅びる。
次の「せやけど、彼らがあんた方を引き渡すときは、どう、又は何を言うか心配するな。そのときに、言うべきことをあんた方に与えられるだろうからや。話してるんはあんた方やのうて、あんた方の父の霊であり、あんた方によって話してる。更にまた、兄弟は兄弟を、父は子を死へと引き渡すだろう。そして、子は親に対して反抗して彼らを殺すだろう。また、我が名のために、すべての人に嫌われるだろう。しかし、最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。」の部分等は過去記事「聖書の終末預言 四」と重複するさかい、そちらを参照してください。

十、真のキリスト者がイスラエルの都市を巡り尽くす前に主イエスは再臨する
上記聖句のとおり、主イエスは「この都市で人々があんた方を迫害するときは、他んとこへ逃げなはれ。確かにあんた方に言うとく。人の子が来るまであんた方がイスラエルの都市を巡り尽くすことは決してないさかい。」と言わはった。これは、人々から迫害されたら、別の都市に引っ越すなり、移動すれば良いということや。一箇所に長く居続ける必要性は無い。もし迫害されずとも伝道の旅をするなら、色んな所に行くだろうが、そうして色んな都市を巡っていても、すべての都市を訪れる前に主イエスが再臨しはると明確に宣言されてる。それ程、数少ない真のキリスト者が、日本という真正イスラエルのすべての都市を巡り尽くすことは決してなく、世の終わりが先に来るということになる。千九百四十八年にロスチャイルド家や他の偽ユダヤ人どもによって建国された中東の偽イスラエル国家のことではない。せやから、日本に住む人たちが留意せないかんのは、真のキリスト者が未だ訪れへんから、対面で真の聖書福音を未だ聞かへんからという理由で、キリストの再臨は起こらへんということにはならんということや。せやから、受け身の姿勢で待ってんと、自分から能動的に正しい情報(政府やテレビ等の世の権威が垂れ流す虚偽情報ではない)を取りに行くようにすべきや。もっとも、この記事を自分で調べて辿り着いた人はそうしてる人やろけど、誰かから聞いた人も他の人に知らせて伝道の協力をすべきです。少しでも真の聖書福音に聞き従う人を増やすように努力することがキリスト者の義務やからで、それを喜びとせな、神への愛、隣人愛があるとは言えへん。
キリストの福音を伝道してた十二使徒の死後からしばらくして多くの人々が道を逸れ、不信仰者が増え、聖書の真理を宣べ伝える人が長期間途絶え、中世時代にプロテスタントという改革があってもカトリックと同じくパウロ教信者であり偽物でしかなく、現代に至るまで長きに渡り聖書の真理が隠されてきたが、現代になって初めてキリストの福音が復活したと言える。真の聖書福音を実践すると共に伝道してください。世の終わりを目前にし、なおもこの世で贅沢したいとか、この世を楽しみたい等と愚かな事に時間や労力や金銭を使うのはやめなはれ。真のキリスト者は今一度主イエスの教えを見直して実践し、真のキリスト者を迎え入れる人はきちんと上述した内容を弁え、相応の対応をしてください。あんた方の一つ一つの言葉や行動が各自の永遠の運命を左右する。

 


この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上