こんにちは。

今回は、実を結ばな滅ぶことについて述べます。

新約聖書 マルコによる福音書 十一章十二節〜二十六節(拙訳)
そして、翌日、彼らがベタニアを出た時、(イエスは)渇望しはった。
また、葉を持ったいちじくの木を遠くから見た時、それ故にそれに何かあるか見付けようと行きはって、それに到着した時、葉以外は何も見付けはらへんかった。いちじくの時期やなかったからや。
そして、イエスは答えて、それ(いちじくの木)に、「今後永久に誰もあんたの実を食べへんように。」と言わはり、彼の弟子たちは聞いてた。
それから、(彼らは)エルサレムに来た。イエスは神殿に行って、神殿内で売り買いしてる者たちを追い出し始め、両替商たちの台や鳩を売ってる者たちの腰掛けをひっくり返しはった。
また、如何なる人も神殿を通って器物を運ぶことを許しはらへんかった。
それから、彼らに教えて言わはった。

「『我が家は、あらゆる民に祈りの家と呼ばれるだろう。』と書かれてへんか。しかし、あんた方はそれを強盗の洞窟にした。」
そして、律法学者たちと祭司長たちは(これを)聞いて、彼(イエス)をどないして殺そうかと模索しとった。群衆全員が彼の教えに心打たれて驚かされとった故、彼らは彼(イエス)を恐れとったからや。それから、夕刻になった時、(イエスは)都の外に出て行きはった。


そして、朝に(弟子たちは)通り過ぎる際、根から枯らされたあのいちじくの木を見た。そこで、ペトロは想起させられて彼(イエス)に言う。

「先生、見よ、呪いはったいちじくの木が枯らされました。」
すると、イエスは答えて彼らに言わはる。

「神の信仰を持ちなはれ。
ほんまに確かにあんた方に言うとく。この山に、『移動させられて、海に投げ込まれよ』と言う者は、その心の中で疑わず、かつ、言うた事が為される信じるなら、言うた事をその者に実現するだろう。
せやから、あんた方に言うとく。求めて祈るすべてのものは受けると信じなはれ。そうすれば、あんた方に実現するだろう。
また、立って祈るとき、もし誰かに対して持ってるなら、赦しなはれ。天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦してくれはるように。しかし、もしあんた方が(他人の罪を)赦さへんなら、天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦しはらへんだろう。」

一、空腹と渇望の違い
上記聖句のとおり、「彼らがベタニアを出た時、(イエスは)渇望しはった。」と拙者は訳した。しかし、市販聖書では「イエスは空腹を覚えた」等と訳してるが、これは頓珍漢な訳と言わざるを得ない。なぜなら、ここでの話は空腹を満たすのが目的やあらへんからや。主イエスが十二使徒と行動を共にしているなら、食事も当然共にしてる筈で、十二使徒は空腹でないのに、何故主イエスだけが空腹になったのかという疑問が生じるからや。主イエスと十二使徒がベタニアを発った後、何故主イエスだけが空腹で、十二使徒は空腹ではなかったのか。まさかベタニアでの朝食で食べ足りなかったとでも言うのか。主イエスが食い意地が張ってるとでも言いたいかのような誤訳で、主イエスに対して大変失礼な訳でもある。もし彼らが朝食抜きで旅立ったのなら、十二使徒の中にも空腹を訴える人が居てもよさそうやのに居らず、実際は原文を見ると当該動詞の活用は三人称単数であることから、十二使徒ではなく主イエスのみというのが分かる。後の文脈を読んでも、その後で主イエスが食事をして満足した等というような内容は一切無い。それ故、ここで空腹という翻訳をするんは誤りと言わざるを得ない。原語には空腹になるという意味も勿論あるんやが、ここでは食べ物を欲するという空腹やのうて、別の何かを欲するという渇望するという意味と考えるのが妥当や。原語の意味には、腹が減る以外に、熱心に切望する、渇望するという意味があり、この比喩や。むしろ、本質はこれや。その意味は、以下を読み進めると分かる。決して主イエスが食い意地が張って、何でもええから食べたいなどと食べ物を欲してたのではない。

二、いちじくの木を確認した意味
上記聖句のとおり、「葉を持ったいちじくの木を遠くから見た時、それ故にそれに何かあるか見付けようと行きはって、それに到着した時、葉以外は何も見付けはらへんかった。いちじくの時期やなかったからや。」という主イエスの行動が書かれてる。主イエスは、遠くからいちじくの木が葉を付けてる様子を確認しはり、それ故に芽を出してるかを確認しはったが、葉以外には何も見付けられへんかったとのこと。多くの聖書読者は、これを読んでも「ふーん」ってなもんで、軽く読み飛ばして終わるだろう。しかし、それでは盆暗や。主イエスは何の意味も無いことをしはらへんし、それを聖書として後世まで長く語り継がせる内容である訳がない。ここには隠された意味がある。
さて、この聖句の話は、文脈から分かるとおり、主イエスが長らくエルサレムを避けていたのに、ついにろばに乗ってエルサレムに入られ、人々に迎えられた翌日の話や。そないな時期的な背景も頭に入れながら読まなあかん。主イエスは、事前に御自身の死と復活を予告しはってた。それ故、主イエスは間近に迫った死を覚悟してた状態やった。主イエスの十字架刑は過越祭及び除酵祭の時期であり、聖書暦の一月(正月、アビブの月)は、太陽暦でいう三月下旬から四月上旬頃に当たる。
ここで、いちじくの成長過程について話をしておくと、いちじくの収穫時期は聖書暦四月(太陽暦七月)から七月(太陽暦十月)であり、その実を結ぶ前兆として芽を出すのが丁度正月の時期や。いちじくの時期やなかったと書かれてるのは、いちじくの木が実を結ぶ時期ではないという意味や。まさに、主イエスがいちじくの木が葉を持ってる(即ち、枯れて死んでるのではなく生きてる)のを遠くから確認しはり、後に実を結んで収穫出来るものがあるかどうかの判断をしはるために、芽が出てるかを確認しはったんや。しかし、結果は、葉以外に何も見付けはらへんかったとのことで、主イエスは「あかんわ。芽を出してへんさかい、実を結ばへん。」と判断しはっただろう。せやから、主イエスは空腹で居ても立っても居られずにいちじくでも食べたいからいちじくの木を見に来たのではない。時期的に、いちじくの実が無いことは最初から分かりきってたからや。更に、全知全能の神である主イエスがいちじくの成長過程について無知な筈もないし、マルコ十三章二十八節から三十一節での主イエスのお話でも「いちじくの木の例えから学びなはれ」という話もしはってるし、空腹やったんやないことが分かるやろ。
そして、ここでの「いちじく」というのもその植物そのものを意味するのが本質ではない。単に、植物のいちじくの木のことばかり考えてるようでも盆暗や。これも比喩や。聖書では、いちじくはユダ(南のユダ王国の人々)を指す。ダビデの子ソロモンの時に最盛期を迎えた古代イスラエル王国は、ソロモンの晩年の背信により、主なる神はお怒りになり、滅ぼすことを決めはった。手始めに、ソロモンの子の代で北のイスラエル王国と南のユダ王国の分裂が起こり、後にイスラエル王国はアッシリアに攻め滅ぼされた。その亡国の民である古代イスラエル人の十部族がイザヤの預言どおりに日本に来て天皇制が昔のダビデ王の王座の継承というのは過去記事や動画で説明したとおりや。そして、他にも聖書に登場する「ぶどう」についても比喩であり、これはイスラエル(古代イスラエル人とその末裔たる日本人の一部)を指す。その根拠は、エレミヤ書二十四章五節にユダの民がいちじくという例えがあり、エレミヤ書六章九節にぶどうがイスラエルの者と例えがあり、更に、エレミヤ書八章十三節に、集める事を終える(収穫を終える)、ぶどうの木にぶどうの実が無い、いちじくの木にいちじくの実が無い、葉は萎れ、主が彼らに与えたものは消え去ったと書かれてることや。聖書での「ぶどう」と「いちじく」は、例えであり、それぞれイスラエルとユダを指す。そして、拙者が当ブログと動画を通じて伝えてきたとおり、日本こそがイスラエルであり、中東のやつは偽物や。せやから、聖書と最も関係が深いのは日本人や。過去から長期間、異教徒や敵どもによって、その事実が隠蔽され、長らく失われた状態になっていて、現代でも正当な根拠も無く中傷して嘲る愚か者どもによって与太話扱いされてる。しかし、この終末時代、拙者の伝道により、もはや隠し立ては不可能となり、隠されてきた事が次々に明らかにされてる。まともな知性がある者、目覚めた者、神に選ばれた者なら、拙者が言うてる事は真実であると理解してる筈や。理解せえへん者や反発して敵対する者どもは皆、反キリストや。
せやから、主イエスが確認したかったんは、ユダの人々(いちじく)に芽が出るか、実を結ぶ可能性があるかどうかを見るためであり、永遠の命を与えて後の世で生かすに値する見込みのある人間が居るかを確認しはった。また、それだけやなく、主イエスはユダから神の民がもっと出てくることを渇望してはった。せやけど、実際はユダの人々は葉を持つという外観だけ整えてるだけに過ぎず、中身が伴わず、救いに値する人になる兆候を示す芽が無かった。ユダヤ人は神の民として芽が出えへんという残念な結果やったさかい、それ故、以下のとおりになった。

三、一世紀以後永久にユダヤ人には救いの希望無し
そして、イエスは答えて、それ(いちじくの木)に、「今後永久に誰もあんたの実を食べへんように。」と言わはり、彼の弟子たちは聞いてた。」とあるが、ここで主イエスは答えて語りはったとのことから、その前に誰かの発言があったのではないかと拙者は推察するが、正しい底本にも無いさかい、現代に伝わる写本からは根こそぎ削除された疑いを持ってる。答えるからには、その前に誰かの発言があるのが普通やからや。また、誤解する愚か者が居るやろから言うとく。主イエスが「今後永久に誰もあんたの実を食べへんように。」と言わはったんを、あたかも空腹やったのに食べる物が何も無かったから腹いせに呪っただのとアホな解釈をする者が少なからず居る。先の箇所で空腹なんて訳すから、かような誤解釈も生むことになる。しかし、主イエスは腹いせにかような事を言わはったんやない。
主イエスは、いちじくの木に芽が出てへんことから、ユダヤ人には今後見込みが一切無い、期待しないと断じはり、「今後永久に」と言われてることからも神による重い判決と言えよう。神である主イエス御自身が公生涯(三年半)の間にユダヤを宣教で回ってこられ、それでもなおユダヤの人々は真剣に聞き入れて悔い改めず、実を結ばへんことが多かったさかい、その時以後彼らに一切期待せえへん、彼らの実を食べる、即ち、彼らから悪影響を受けることもないようにということや。この主イエスの御発言は、逮捕されて十字架刑になる直前期であり、それ以後永久にという意味で、主イエスの公生涯のうちに改心して悔い改めた人たちは含まれへん。実際に、ユダヤ人はこの時を境に神に見捨てられ、その後ユダヤ戦争にてローマ帝国に滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊され、中東のエルサレムはもはや重要な拠点ではなくなった。それを以て、本来のユダヤは完全に滅亡した。ロスチャイルド家といった支配層が意図的に復活させた現代の偽イスラエルは聖書的なユダヤの復活と考えたらあかん。黒づくめの格好をした偽ユダヤ教徒も含め、彼らは黙示録にあるとおり、自分らをユダヤ人と自称するサタンの集いに居る者である故、彼らに惑わされてはならん。
また、「救いはユダヤ人からやさかい。」(ヨハネ四章二十二節拙訳)という御言葉は、主イエスや十二使徒によってもたらされることを意味するのに、その御言葉も曲解され、偽ユダヤ人や偽教師どもが、救いは自分たちから、つまり、自分たちの教えから来るのであり、それ故に彼らの教えに従えというものや。しかし、言うておくが、主イエスの御言葉どおり、主イエスの公生涯末期以後、もはやユダヤ人(偽ユダヤ人を含む)からは得られるものは何も無いのであり、彼らには一切希望は無く、彼らの教えに聞き従うたらあかんのや。
更に、ヨハネ十五章のとおり、主イエスは御自身をぶどうの木と例えられ、いちじくの木とは例えはらへんかったこともその意図が含まれてる。古代ユダヤ人が絶滅して存在しないという意味やのうて、主イエスがユダヤ人を見限っており、救いに関してはもはや希望が無いからや。主イエスが十字架刑になる際、古代ユダヤ人たちは勝手に怒り、釈放に際しても主イエスよりも強盗のバラバを選び、罪も無い主イエスの血の責任を自分たちとその子孫に降り掛かってもよいと生意気にも言うた程に堕落を極めたことからも、当時のユダヤ人もその子孫も絶望的な存在と言えよう。ユダヤ人の堕落具合を主イエスは前以て予見しはり、その御言葉どおりの結果が生じたこともきちんと聖書読者は理解すべきやで。
そして、偽使徒パウロもこれに当てはまってる。なぜなら、パウロはベニヤミン民族出身であり、まさに旧南ユダ王国のユダヤ人やからや(旧北イスラエル王国の古代イスラエル人ではない)。しかも、パウロは主イエスのこの処断よりも何年も後に登場するのであり、まさに希望の無い偽使徒。せやから、偽使徒パウロの教えなんかに惑わされては救われへんのや。また、主イエスは公生涯のうちにユダヤ人の救いの恩恵期間の扉を閉じはったんやから、パウロは閉められた後で入ろうとして自分が救われると高慢にも思い込んで資格も無いのに使徒と自称し、ファリサイ派の分際でキリスト者と嘘をついて多くの人を惑わした罪深き者に過ぎひん。せやから、救いの希望が失われたユダヤ人の偽使徒パウロの教えなんかに従うことは、主イエスの御言葉に逆らうことを意味し、パウロ教信者は反キリストであるのは至極当然や。ダニエル書によれば、ステファノの殉教以後、異邦人に広く伝道がなされ、それを以て福音はユダヤ人だけのものではなくなり、選民としての特権的な扱いも失われた。ユダヤ人の救いの希望は、実際にはこの主イエスの御処断によって少し早めに喪失していた。

四、神殿の清め
上記聖句の「それから、(彼らは)エルサレムに来た。イエスは神殿に行って、神殿内で売り買いしてる者たちを追い出し始め、両替商たちの台や鳩を売ってる者たちの腰掛けをひっくり返しはった。また、如何なる人も神殿を通って器物を運ぶことを許しはらへんかった。」という主イエスの行動は何の意味か。ここでも愚か者は、「イエスは乱暴者だ。人の商売を邪魔する不届き者だ。」等と反感を抱いて勘違いしてる。主イエスは、神殿という神の宮が愚かな商人どもが自分の利益のために活動する場としてるのが許せず、それ故に彼らの商売道具をどかして、商人を追い出しはったんです。せやから、信仰は商売や金儲けとは相容れへんことがこの事からも分かるというもの。しかし、世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)や諸教派、その他偽預言者や偽教師らが金銭を無心してる者が多い。彼らは全員、主イエスの御意志を理解しておらず、むしろ主イエスの御意向に逆らう反キリストであり、災いなる存在でしかあらへん。中世時代にカトリック教会は免罪符というしょうもない物を人々に売りつけ、買いさえすれば罪が赦されるなんて神を畏れぬ不敬な悪行をし、購入した信者も同罪や。それと似たようなことで、現代日本では、神社や寺でも御守や朱印帳等をやっており、そないな物に何の意味も無いどころか、ほんまもんの神の怒りを招く悪行と知ってやめるべきや。また、神社の境内やその付近において参拝者相手に露店を出して商売してるのが多いやろ。これも同じようなもんで、非常に罪深い。商売をするなとは言わんが、場所を考えろってことです。人が多く集まるが故に、それを狙て商売しに来るんやろけど、それこそ罰当たりの愚か者である。主イエスがその場に居てはったら、神社の売店(みくじ、絵馬、御守等の販売)や食べ物等を売る露店も根こそぎひっくり返して追い出しはるやろに。神を畏れぬ者は、ほんまにやる事が滅茶苦茶で、そのくせに悪い事をしてる自覚も無いし、改善もせえへん。故に、彼らはどうしようもない。エレミヤ書七章を読みなはれ。エレミヤが生きた時代のユダの人々も現代日本と似て、非常に罪深い人の集まりで、十六節では主なる神がエレミヤにユダの人々のために祈るな、不信仰で罪深い彼らのために我を煩わすなとまで言わはった程や。そして、十一節では、神殿が強盗の巣窟と言われ、まさに「『我が家は、あらゆる民に祈りの家と呼ばれるだろう。』と書かれてへんか。しかし、あんた方はそれを強盗の洞窟にした。」と主イエスが弾劾しはったとおりで、紀元前時代の醜悪な状態を一世紀も繰り返し、現代でも繰り返してる。ほんまに歴史は何遍も繰り返しており、それだけこの世の人間の多くが醜悪で、救われ難い人間が多いことの証拠でもある。せやから、拙者が前から言うてるとおり、性善説なんて嘘であり、殆どの人間は性悪や。神が言わはるとおり、神殿で商売する不届き者の輩は強盗や。神を礼拝しに神殿に来る人から金銭を巻き上げてるんやから、そう言われてもしゃあない。主イエスは、イザヤ書五十六章七節を引用しはり、祈りの家とあらゆる民に呼ばれると言わはったが、ユダヤ戦争で破壊されて以後もはや存在しないエルサレム神殿にて礼拝する必要性は無いし、わざわざ中東に行く必要も無い。ヨハネ四章二十一節で、エルサレムでもない所で礼拝する時が来ると主イエスが言わはり、既にその時は来てるからや。せやから、建物としての神殿は一世紀以後まったく意味を持たず、祭司制度も廃れて必要無いし、不要や。それは教会も同じで、建物自体に価値は無いし、要らない。特に現代では建物という不動産を持ったり借りたりすれば、余計な費用が掛かり、苦しむ元になるだけやからや。
せやから、物質的でいずれ滅びる建物なんか無視して、むしろ、聖霊が宿る各自の体を神殿と思て大事にし、かつ、信仰の兄弟も大事にすることです。具体的には、最低限出来る限り健康に気遣い(不健康な物を避ける、暴飲暴食しない、酒や煙草をしない、化学物質の薬を乱用しない、マスク着用しない、ワクチンを打たない等)、更に、神の律法に反する行為(不法行為)をせず、信仰を同じくする兄弟同士と交流を持つことです。特に、神の律法を守るという点が非常に重要で、これを疎かにしてる、守らへん人が非常に多いから何遍も言うてるんや。先のエレミヤ七章でも書かれてるとおり、異教の偽神や偶像を信じたり、姦淫したり、その他律法に反する忌まわしい行為、即ち、不法行為をする人間を神は嫌悪してる。神の律法に反するという罪を犯す行為をし続けるなら、それは自分の体や魂を汚してるのと同義であり、そないな罪で汚れた所に清い聖霊が住む筈がないし、聖霊にとって失礼でもあるし、聖霊の居場所としても相応しくないのが分からんか。せやから、不信仰者、異教徒、パウロ教信者どもは、神の律法を無視して違犯しまくってやめへんさかい非常に汚い。せやから、神である聖霊がそないな不法者と共に住む筈がないのも自明やろ。せやから、主イエスの神殿の清め作業のように、あんたらは各自の行いを省みて、神の律法に反することをやめるという清めの作業をしなはれ。他でもない、各自が自分がやるべき作業であって、他人が代行することはでけへん。せやから、怠惰で何もせえへんかったり、反抗して聞き従わへんのなら、その責任をその者自身が負うことになる。

五、反キリストどもは神に逆らい、義人を消そうとする
上記聖句で、「そして、律法学者たちと祭司長たちは(これを)聞いて、彼(イエス)をどないして殺そうかと模索しとった。群衆全員が彼の教えに心打たれて驚かされとった故、彼らは彼(イエス)を恐れとったからや。」とあるとおり、主イエスがエルサレムに来て、群衆相手に教えはった。聞いてた全員が心打たれて驚かされとったということから、主イエスの教えはファリサイ派や律法学者どもがしてた教えとは異なったということが分かるやろ。もし同じ教えなら、真新しい事やないし、ええ内容でもない故、誰も驚くこともせえへんし、心打たれることもなかったであろう。特に、心を打たれたというのが重要で、ファリサイ派や律法学者等という当時の主流派の教えには人を感心させるような事を言う者が居らへんかったということが窺える。主イエスがファリサイ派どもにしはった非難や弾劾の内容を見れば明らかなとおり、彼らは人間の教えを神の教えかのように偽って教え、人々に自分らの宗教指導者の信条を勝手に押し付けて負担を掛け、更に人々を正しい道から逸らしてる存在やった。これは一世紀当時だけやのうて、現代も同じであり、パウロ教信者というファリサイ派ども(カトリック、正教会、プロテスタント等)が同じく信者に日曜礼拝を習慣付けたり、自主的と偽り精神的圧力を掛けて献金を迫ったり、聖書的ではない行事(復活祭やクリスマス等)を催して参加を強要したり、その他悪行の数々をしてる。これらは救いにはまったく役に立たへんどころか、やるべきではない悪い行いばかり。主イエスは、正しい神の道を教えはっただけであり、聖書に反した独自の勝手な教えをしはったんやない。それ故、真理が埋もれて隠された時代背景があり、主イエスの真理の教えを聞いて人々は心を打たれた。そして、この事態を面白くない、気に入らないと思う輩が居った。それは、聖書に記載のとおり、律法学者たちと祭司長たちであった。あろうことか、主イエスをどないして殺そうかと話し合って模索したんやから、彼らこそ反キリストであり、悪魔の子です。神の民ならば、人殺しなんてせえへんし、考えもせえへんからや。何遍も言うてるとおり、世の権威や主流派なんてのは、サタンの集まりであり、反キリストです。せやから、世の権力者に従う道を選ぶことも、多数派に属して安心することも、真のキリスト者を嫌って迫害することもすべて悪行であり、地獄行きになるさかい、救われたいならやめときや。なんぼ言うても、根っからの悪人は悪事をやめへんやろけどな。

六、空白の半日
上記聖句の「それから、夕刻になった時、(イエスは)都の外に出て行きはった。そして、朝に(弟子たちは)通り過ぎる際、根から枯らされたあのいちじくの木を見た。」という箇所、拙者は正しい底本と照らして市販聖書の誤訳に気付いた。日中はエルサレム神殿で教えをしはったが、日没頃になると、主イエスは、お一人で都の外に出て行きはったのが正しい底本。しかし、市販聖書では、主イエスは弟子たちと都の外に行ったと訳されてる。正しい底本の原文では、動詞の活用が三人称単数のため、主イエスお一人が出て行ったということになり、弟子たちが同行したという意味にはならへん。この点、改訂版底本は改ざんがなされ、三人称複数に変わっており、主イエスと弟子たちが一緒に都を出たという文になってる。せやから、これは底本違いによる相違、改訂版底本が改ざんされた数多い証拠箇所の一つや。主イエスはお一人で都を抜け出しはり、翌朝には十二使徒と合流しはった。せやから、夕刻から朝までの半日程度の時間は、主イエスは都の外でお一人で過ごしはったことが分かる。十二使徒は後を追い掛けたという記載も無いため、単独行動やった。その時に主イエスが何をしはったかは弟子の同伴が無かった故に記録が無く、不明や。他の聖句箇所にあるとおり、お一人で山に行って祈られたとかかもしれへん。
さて、ここで、前日ベタニアからエルサレムに入る前の道中で見たいちじくの木が、根から枯らされたのを十二使徒は見た。前日に見たいちじくの木が、主イエスの「今後永久に誰もあんたの実を食べへんように。」という御言葉を受けたら、葉を持って元気に生きていたのに、一日も経たずに根から枯らされた。主イエスは、神である故、その御言葉を必ず実現しはる能力があることもこの事からも理解すべきで、他の御言葉も重く受け止めなあかん。
なお、聖書を読んでも気付いてへん人が多い点について触れておく。マタイ二十一章とマルコ十一章では多少の食い違いがあるという点や。マタイ二十一章では、主イエスは十二使徒と共にエルサレムに入り、神殿にも行って商人どもを追い出しはり、神殿を清めはり、盲人と聾者を癒やしはり、祭司長や律法学者どもを叱責しはった後でエルサレムを出て、ベタニアに行きはった。翌朝、エルサレムに行く途上でいちじくの木を見て葉以外に無いのを確認しはって、今後実がならへんようにと言わはると、すぐにいちじくの木は枯れ、エルサレム神殿に入って教えをしはった。しかし、マルコ十一章は、エルサレムに入った初日は主イエスは周辺の様子を見はっただけで、夕刻になって十二使徒と共にベタニアに行きはり、翌朝、ベタニアからエルサレムへ行く途上でいちじくの木を見て葉以外に無いのを確認しはって、今後実がならへんようにと言わはり、その場ですぐに枯れず、エルサレムに行きはり、神殿に入って商人どもを追い出しはり、主イエスが群衆相手に教えをしはり、夕刻になるとお一人でエルサレムを出て行きはった。そして、その翌朝に前日に見たいちじくの木が枯れてたのを確認したという経緯や。この点、マタイ二十一章の方が現実味が薄い故、拙者はこの箇所ではマルコを基に論じた。いちじくの木が、その場ですぐに枯れるというのが普通は考えられへんからや。葉を持ってた元気な植物が即座に根から枯れるという急激に状態が変化するというのは普通は起こらず、多少焦って省略したような物言いになってるからや。現実的に考えると、植物が枯れるのは少なくとも数時間位の時間は必要だろう。かように、マタイとマルコとの間で多少のズレがあったとて、起こった事実は変わらず、嘘ということにはならへん。福音書の記述者の報告の仕方に少しの問題があったというだけのことや。
そして、誰も考えたこともないやろが、拙者はこの話とルカ十三章六節から九節の実らへんいちじくの木の例えと繋がってるように考えた。その話の内容は、ある人がぶどう園にいちじくの木が植え、実を探したが三年も見付からず、それ故に無意味に土地を塞いでることもあって不要なため切り倒すように要請があった。木を切り倒すなら、その木から実を結ばせる機会を永久に失わせ、今後そこから収穫を期待しないということを意味する。しかし、園丁はもう少し面倒を見るから来年まで待つように依頼し、来年でも実らへんのなら切り倒しに賛成するという内容や。ぶどうといちじくの例えは、上述のとおり、イスラエルとユダのことを指す。拙者が解釈するに、ぶどう園というイスラエルの中にいちじくの木のユダがあるという位置付けを前提とする。そして、ユダ(ユダ族とベニヤミン族)の人々が三年以上も実を結ばへんかったという事実がある。これは、主イエスの公生涯期間(三年半)と重なる。これも上記聖句のとおり、主イエスがいよいよ死を覚悟してエルサレムに来た時期であり、公生涯も終わる間際の時期やった。故に、三年経過したというのはこれに当てはまる。ルカ十三章の「ある人」とは、父なる神であり、「園丁」は主イエスで、父なる神と会話して、主イエス直々の宣教活動でも三年間ユダの人々は実らへんのやから、ええ加減切り捨てよという御言葉があったのだろう。しかし、主イエスは来年まであと少しだけ待つようにと猶予を申し出た。主イエスの十字架刑は、春の過越祭という聖書暦の一月(正月)にあった訳で、即ち、新年に切り替わった時期や。せやから、その前年にこの話があったというのならピッタリと合致する。上記聖句で主イエスがいちじくの木を見限った御言葉を出しはったんは、十字架刑直前期であり、四年目になっても実がなるどころか実がなる前兆となる芽すら出てへんことを確認し、約束どおりの期間が経過したため切り倒しに踏み切ったのだろう。そして、これを単なる過去の話と思い、他人事に思うでないぞ。あんた方も同じで、信仰に入って三年経っても実らへんのなら、同じようになるという危機感を抱きなはれ。いつまでも神はのんびり待たはらへんで。せやから、拙者は時間が無い、のんびりするな、後回しにするな等と口酸っぱく言うてきたのに、一向に言う事を聞かへん人が多い…。そして、ダラダラしてる者が多く、進んだと思いきや脱落したり、中々こちらに来ようとすらせえへん者が多い。せやから、拙者の言う事を聞かん者や楯突く者はあかんのや。
昨今、移民問題が日本で深刻化し、敵国人である支那人も百万人以上が日本に流れ込んでおり、在日朝鮮人も元より根深い問題であり、イスラム教徒もどんどん増え、千葉県木更津市をアフリカのナイジェリアの故郷にしようとする動きまで出てきた。日本政府と国際協力機構(JICA)もアフリカと深く絡んでおり、腹黒い売国奴集団や。そんなに日本を破壊したいか、偽日本人(血統は外国の出自で中身は外国人で、国籍という書類上だけ日本人)どもよ。また、日本国民は、犯罪を犯してる売国奴どもをなんで黙って放置し続けてるんや。あんたらが動かず、自分たちで売国奴を潰さへんからやで。いつまでも人任せにしてては永遠に事態は良くならへんで。こちら(さてはてメモ帳 Imagine & Think!)のとおり、腐敗した政府がSNS禁止という酷い言論弾圧をしたら、ネパールの若者たちを中心に立ち上がり、政府を倒したで。日本は、売国政府の悪行によって既に大きな移民爆弾を抱え、欧米の支配層の傀儡たる偽日本人の売国奴が権力を握り、賃金は上がらず増税と物価高が続く貧困化で少子高齢化が加速され、コロナという偽感染症騒動を名目にマスクとワクチンのゴリ押しにより人口削減も加速され、日本の国力が急激に衰退した。その証拠に、国内総生産(GDP)が日本よりも人口が少ないドイツに抜かれ、今後も転落の一途を辿るだろう。日本はネパール以上に酷い惨状やのに、現代日本人はなんで何もせえへのか。聖書を読まず、勉強もせず、必要な知識や教養も身に付けず、3S政策にまんまとハマって、政治や法制度等に対して関心も持たぬ有様やからやろ。不良イスラム教徒どもは欧州で暴れており、犯罪行為を行ってる輩が多く、日本でも犯罪が急増しており、日本の埼玉県川口市をはじめとしてクルド人と支那人の急増も深刻や。意図的に日本の検察は外国人犯罪者や売国公務員らを不起訴にし、野放しにして治安悪化を促進し、仕事放棄してる税金泥棒だらけで、随分前から日本は法治国家ではない。もし日本が法治国家なら、不法行為をした大勢の政治家や官僚らも逮捕及び収監されてる筈やさかい。単に自国を守る発言や行動を憎悪(ヘイト)などと不当に中傷をするゴミ屑どもも居る。不良移民を意図的に大量に日本に流入させた政府らの罪は追及せず、なんで実際に外国人から迷惑行為や犯罪行為等の実害を被った日本人を弾圧するのか。頭おかしいやろ。また、言論弾圧は違憲行為でもあり、許されへん。ほんまに忌まわしく、不法に満ちた汚らわしい世の中やわ。かような悪事を見て見ぬ振りし、黙って彼らに従うは、反キリストの悪魔崇拝者の支配層が、世界中で国境を無くし、混血を促進し、民族意識や固有の文化や言葉も崩し、世界統一支配という悪しき目的達成のために協力及び加担してるのが分からんのか。日本政府も支配層の傀儡であり、日本を破壊するためにバブル景気崩壊後から一切復活させず、内需を中心とした経済活性化をさせず、内資企業を潰して外資企業を優遇し、相次ぐ増税と物価高で日本国民を困窮化させ、子供を減らし、古代イスラエル人の末裔たる純日本人の人口を減らしていずれ滅亡させるという支配層の目標を達成するために売国に勤しんでる。日本人よ、内外に敵だらけとええ加減気付いて動けよ。拙者は聖書暦二千十六年末(太陽暦二千十七年二月)からずっと言い続けてきたのに、無視して呼応もせえへん者が殆どで、腸が煮えくり返る思いや。主イエスは、四年目で芽を出してへんのなら見限る厳しいお方や。主イエスも同胞のユダヤ人を愛して集めようと懸命に働きはったが、結局は呼応せぬユダヤ人を見限って切り捨てはった。あんたらには主イエスの気持ちがまったく分からんやろが、同じように伝道してる立場として拙者はよう分かる。現時点で八年以上になり、遥かに長く待った。しかし、あんたらの殆どは行動せず、遊び呆けたり、怠惰で何もせず、呼応せず、それどころか敵対心を抱いて中傷してくる愚か者も多かった。ほんまに行動を改めな知らんで。さっさと行動せい。さもなくば、滅びると心得よ。

七、信仰と赦しの重要性
上記聖句で、「そこで、ペトロは想起させられて彼(イエス)に言う。「先生、見よ、呪いはったいちじくの木が枯らされました。」」と、ペトロは前日見たいちじくの木が枯らされたことを主イエスに告げた。告げられるまでもなく、主イエスは結果をご存知であり、十二使徒に次のようなことを教えはった。
神の信仰を持ちなはれ。ほんまに確かにあんた方に言うとく。この山に、『移動させられて、海に投げ込まれよ』と言う者は、その心の中で疑わず、かつ、言うた事が為される信じるなら、言うた事をその者に実現するだろう。せやから、あんた方に言うとく。求めて祈るすべてのものは受けると信じなはれ。そうすれば、あんた方に実現するだろう。また、立って祈るとき、もし誰かに対して持ってるなら、赦しなはれ。天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦してくれはるように。しかし、もしあんた方が(他人の罪を)赦さへんなら、天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦しはらへんだろう。
まず、神の信仰を持つようにという御命令です。せやから、拙者は繰り返し不信仰者は論外やと言うてる。異教徒も論外であり、パウロ教信者もあかん。正しい道は一本であり、狭い門から入り、狭苦しい道を通って最期まで続ける必要がある。途中で脱落して堕落するなら、前よりも悪くなるとも聖書にあるとおりや。せやから、決して後ろを向いてはならんのや。
次に、山を海に投げ入れるという山を動かす程の信仰の深さが必要ということが言われてる。普通の常識では、「山が移動する筈もないし、山が海に投げ込まれるなんて有り得ない」と思て、嘲笑する者が多いだろう。かように世間一般では有り得へん事を絶対に間違い無いとして信じる事の重要性を言われてるのです。例えば、主イエスが聖霊によってマリアの胎に宿りはったこともそうで、不信仰者はこれを「有り得ない」と嘲笑する。しかし、そないな者は救われへん。科学なんてのは不完全であり、人間が知る範囲はごく限られた範囲のみで、何もかも知ってる訳ではない。せやのに、科学が万能かのように信じてる愚か者は偶像崇拝者であり、反キリストや。せやから、この世の常識や科学等というまったく当てにならぬ事を絶対視したり、物事を判断する際の定規としてるようでは、主イエスの求めることを満たすことは絶対にないだろう。せやから、不信仰者は論外であり、救われへんのや。ここでは山を海に投げ込む等といった超常現象をやってみせろと挑戦的な事を言うてるのではないし、そう思う人は盆暗や。そもそも、神の民たる義人は、神の御意志に反したことを祈り求めることはないことを覚えなあかんし、律法にあるとおり神を試してはならん。主イエスが荒野に行って四十日の苦行をした際、悪魔から様々な誘惑を受けたときの事を思い出しなはれ。その時、主イエスは「腹が減り過ぎて限界だ。」等と泣き言も言わはらず、言葉で命じて石をパンに変えたらどうだという誘惑には、人はパンだけで生きるものではなく、神の言葉一つ一つで生きると返し、神殿の高所に行って飛び降りたらどうだ、天使が救うだろうから問題無いだろうとも言われても、神を試してはならないとして退け、この世のあらゆる都市の繁栄振りを見せて悪魔を拝むならすべてを与えようと言われても、主なる神にのみ仕えよと、すべて律法にある掟を盾に悪魔の誘惑を退けはった。肉なる人間なら、とてもでけへん受け答えでしょうね。腹が減ればすぐに我慢出来ずに食べ物を求め、神がほんまに何でも出来るのかと試したくなって何か危険な事をしたり、この世の栄華に心を奪われてそれを手に入れたがったり、様々な醜悪な肉の欲の虜になる人間なら、悪魔の誘惑に容易に落とされるだろう。現代の権力者(政治家や官僚等)、金持ち、芸能人、その他も皆、悪魔の手下になってる。主イエスが拒否したことをすべて欲しがってる人間が多いからや。それではキリストに倣うキリスト者とは言えへん故、地獄行きになって当然です。せやから、主イエスが欲しないようなことを欲するようではキリスト者失格であり、主イエスを模範とするなら、しょうもない願い事もせえへんというこっちゃ。「求めて祈るすべてのものは受けると信じなはれ。そうすれば、あんた方に実現するだろう。」とも主イエスが言わはったが、これを受けて、「大金が欲しい、理想的な結婚相手が欲しい、志望校に合格したい、有名になってちやほやされたい、権力が欲しい、長生きしたい」等といった願い事をするようなら、それはそれで底が知れる。願う内容によって、人の程度を知ることが出来るからや。ちなみに、列王記上三章のとおり、かのソロモンは人々の訴えを正しく聞き分ける知恵を神に求めた。長寿や富や敵の命といった個人的な利益ではなく。それによって神は喜びはり、彼に多くを与えはり、比類無き君主として名を馳せた。しかし、彼は晩年に異教徒の女にたぶらかされて堕落し、主なる神を裏切ったことで地に落ちた。かように、途中まで上手く信仰生活をやっていても最期まで続かへんのなら、意味が無いんや。そして、神が何でも叶えてやると言わはっても、それで「じゃあ、何にしようかな。あれもこれも欲しい」等と考えて、自分の利益ばかり願うようではあかんで。実際にはそうしてる人が大多数やろけどね。神社に行く人、寺に行く人、教会に行く人、こないな人らは何を願ってるか。自分や自分の身内の利益ばかりやろ。そないな人では話にならんのですよ。神の立場で物を考えられへん利己主義者であることの証拠やからで、神の民ではないからや。主なる神は、人の心を見てはることを忘れるな。たとえ言葉にして言わなくても、内心でかような悪しき思いを抱いててもあかんで。
また、主イエスは「また、立って祈るとき、もし誰かに対して持ってるなら、赦しなはれ。天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦してくれはるように。」と言わはった。これは、マタイ六章十二節にて、主イエスが祈り方を教えはったのと同じ内容で、繰り返し言われてるんやさかい、非常に重要や事やで。また、立って祈るときとあることから、これは一人で落ち着いて祈る際やのうて、外に居る時や日常の作業時や移動時に祈る際のことと言える。「もし誰かに対して持ってるなら、赦しなはれ。」というのは、何を持ってるかは明示されてへんが、赦しなはれと言われてることから、否定的な内容であることは分かる。なお、市販聖書は、「恨みに思うことがあれば」等と訳してるが、原語ではそうではない。恨みという言葉が原文には無いからや。しかし、文脈から判断すれば、赦すように言われてる内容であるが故に、誰かに対して抱く恨みや不満や怒りや妬みといった否定的な内容のことを指すのは明白や。「職場の誰かがー」、「学校の誰かがー」、「客がー」等と身の回りで色々な人間関係において嫌な事を経験することは数多い。特に、かように不信仰者や異教徒だらけの邪な時代は、正常な倫理観や正義感も無く、品性が悪い人間が増えており、不満を言いたくなる相手が多い。しかし、ここで言われてるとおり、何か他人から嫌な事を言われたり、されたりしてもそれを赦しなはれという主イエスの教えで、それは悪人を野放しにするという意味やのうて、その人自身も生涯罪を犯さずに生きてきたのではないんやから、個人的に赦せないと思えるような他人の罪や過ちを赦せというものや。生涯罪を犯しはらへんかった主イエスが、かように仰せなんやから説得力があるやろ。これに「否」と言う者は、反キリストや。
そして、最後の二十六節「しかし、もしあんた方が(他人の罪を)赦さへんなら、天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦しはらへんだろう。」の箇所は、市販聖書では削除されてる。非常に重要な内容やのに、改訂版底本では削除され、忌まわしい。さて、その内容は、先に述べたとおりで、他人を赦せへん人は自分の罪を棚に上げてばかりというのが多いさかい、かような人は神から赦してもらわれへんという警告や。特に現代では気軽に「赦せない」と言うたり、強い怨念を他人に抱いてる愚か者が多い。あのね、そない言うてる人や、内心で思てる人よ、あんたらも神にとっては大罪人で死刑囚なんやから、偉そうに他人に恨みを抱いたりすんなよってことです。拙者が常々言うてるとおり、自分自身を客観視せい。主観という自分視点ばかりで考える人間が多いから、他人と激しく衝突し、場合によってはえらい事に発展するんや。「他人に迷惑を掛けるな」と意識してる人は少しは居るやろが、それでもたまには迷惑は掛けるものです。生涯で一度たりとも他人の世話になったことがない、迷惑を掛けたことがないなんていう人は居らん。本人が自覚してへんだけで、誰かの負担にはなってる筈で、それは皆がそうなんやから、お互い様で恨みっこなしです。ただ、それはなるべく他人に負担を掛けまいと意識しててもそれやから、意識もせず、遠慮もせず、ただ獣のようにやりたい放題するような無神経な輩も当然存在する。しかし、そないな人を恨んでもしゃあない。そないな人は普通の人間ではないんやと諦め、距離を置いて、そっとしてやればええ。もし重大な犯罪を犯すなら、きちんと法を以て罪を償わせればええのであり、私的制裁を加えたらあかんし、私恨を持ち続けてもあかん。それでは、その人自身に返ってくるさかい。他人の不幸を祈ったり、呪ってもならん。それは、妬みや恨み等の悪い品性から出てるからや。そないな発言や行いをする者は悔い改めなあかん。人間やから、嫌な事を言われたり、嫌な事をされると、イラッときたり、怒ったりするでしょう。しかし、なるべくそうせえへんように、感情を制御せないかん。たとえ神の民、真のキリスト者と言えども、信仰に入る前は不信仰者や異教徒等と同じような事をして生きてたんやから、その時の罪、若しくは信仰に入ってからも不完全故に犯した罪、色々ある。それを神に赦していただくには、他人を赦す度量の広さが必要なんや。それがでけへんような人、やられたらやり返したり、倍返ししたり、復讐せな気が済まんというような人は地獄行きです。なぜなら、その人自身も神の目には等しく罪人であることを棚に上げて、他者の罪ばかりを責めるからや。これでは悪魔と同じやから、神は嫌いはるんや。悪魔は嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節参照)であり、神に逆らった大罪人の分際で、人間の罪を神に告発したりする。まさしく「おまいう」(お前が言うな)なんですよね。大事なのは、まずは自分自身が、主イエスという神の信仰を持ち、神の律法を鏡のように見て、違犯してる箇所を潰していき、罪を犯さぬように努めつつ、伝道活動をしたり、慈愛ある活動を自主的にする必要がある。それこそ真のキリスト者の姿です。ローマ教皇をはじめとする自称聖職者どもや他の宗教家や政治家や不信仰の一般人のように、自分自身が悔い改めもせず、自分の罪を棚に上げて、他人を非難ばかりしてる人は、反キリストであり、悪魔の子です。
また、世の裁判官も神から見たら大罪人のくせに、他人を偉そうに上から目線で裁いて不当判決を言い渡し、時には冤罪でそうする場合もある。支配層や行政に斟酌して出した不当判決の数々によって全国民に多大な悪影響を与えて苦しめた罪を神は覚えてはるからな。ほんまもんの裁き主は、主なる神であり、この世の裁判官も死後は神から裁判を受けるからや。その時に神の御前で何と申し開きをするつもりかね。大富豪の支配層や支配層の傀儡たる政治家や官僚等の巨悪を故意に捕まえず、国民から告訴があっても不当に不起訴にして野放しにし、外国人犯罪者も不当に不起訴にしてる米国の手下である日本の検察も酷いし、金儲けや保身のことばかり考えて正義のために巨悪と戦わぬ弁護士も酷い。まともに患者と向き合わず、話を聞かず、勝手に決め付けて誤診したり、医療過誤を起こすといったヤブ医者やその命令に忠実に従い、有害無益なマスクを着用せな受診させへんとすごむような看護師や事務員も酷い。大企業から賄賂を受け取ってマスク着用やワクチン接種を強く推奨した御用学者や御用医師や政府や報道機関らも酷い。ほんまに、唯一の神を畏れぬ不信仰者たちはどうしようもない。それなりの地位や職業に就く人は、法と職業倫理をもっと頭と心に叩き込んで遵守せい。ほんまに現代人の大多数は倫理観、正義感、法令遵守意識が皆無に等しいさかい。更に、神を畏れて信仰を持てば、拙者が言う道理を理解するだろうし、聖書も理解するだろう。しかし、残念なことに、それが出来る人は殆ど居らず、聖書を無視し、神の律法を無視して違犯し(罪を犯し)、主イエスに従わぬ地獄の子が多過ぎて、この世は暗黒社会や。一人でもまともな人が出てくることを願い、まともな人の心に届く事を願てこのブログを書いてる。届いたという人は、投稿して、キリスト道を歩むべく一緒に励みましょう。主イエスというぶどうの木に繋がり、実を結んで神に収穫されるに相応しい者になれるようになりましょう。

 


この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 


以上