こんにちは。

今回は、畏れるべき者について述べます。

 



いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会が荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
また、当ブログに投稿した人に対して陰で別の場所で集まるように勧誘してる者が居り、そないな者たちは、ただ集まりさえすれば良いと勘違いして、一向に成長が見られへんさかい、解散してやめるように勧告します。誰でも入れる所、敷居が低い所にはそれなりの人しか集まらず、そないな人たちが集まったところで、何も成し遂げられず、うだつが上がらへん状態が長く続き、そない低い程度に慣れるとそこから脱却しようともしなくなり、後に信仰からも脱落してまうことが予想されます。学校や会社でも入試や選考をして人を選ぶのが当然やろ。せやから、そないな誘いにも乗らんように注意しなはれ。たとえ当教会に入るためとか、一緒に集まって励ましあうため等と言い、一見して協力してるかのように見せかけていても、その実、結果的には、こちらに入ろうとする者の邪魔をし、散らす者であるからや。遠回りや寄り道をせんと、真っ直ぐにこちらに来る努力をすべきです。別の場に集まって安心することで、こちらに来るために必死になろうとせず、何年ものらりくらりして、最悪こっちに来なくてもいいやってなるのが懸念点で、実際にそうなってる人たちが居り、そないな人たちと調子を合わせてたらあかん。理解したら、余計な事をせず、真っ直ぐにこちらに来る努力のみをしなはれ。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってる、本来ならば有料で対応して然るべき案件であるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思うなよ。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。

もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。



 

【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】


・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)


・当ブログを知った時期
・何故当ブログを読もうと思ったのか


・何を期待して相談や投稿をしたのか



 

これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。
集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。



 

拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。
ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。



 

さて、本題に入ります。今回は畏れるべき者についてです。

新約聖書 マタイによる福音書 十章二十四節〜四十二節(拙訳)
弟子は師に優らず、僕もその主人に優らへん。弟子は師のように、僕はその主人のようになれば十分や。もし人々が家長をベルゼブルと呼ぶなら、その家の者をどれ程もっと(悪く言う)やろか。」
「それ故に人々を恐れるな。明らかにされず隠れて知られへんだろう隠されたものは何も無いからや。
暗闇であんた方に言う事を明るみで言いなはれ。(あんた方が)耳許で聞く事を屋根の上で公言しなはれ。
そして、体を殺すが魂を殺すことがでけへん者どもを恐れるな。しかし、むしろ魂と体を地獄で滅ぼすことが出来る御方を畏れなはれ。
二羽の雀が一アサリオンで売られてへんか。また、それらの一羽さえ、あんた方の父なしに、地上に落ちひんであろう。更に、あんた方の頭の毛さえすべてが数えられてる。せやから、恐れるな。あんた方は、多くの雀よりも優ってる。」
「それ故、人々の前で我によって信仰を公言する者は全員、我も各天において我が父の前で彼(父)によって(その人の事を身内と)公言するだろう。しかし、人々の前で我を否定する(拒絶する)者は、我も天の我が父の前でその者を否定する(拒絶する)だろう。」
「地上に平和をもたらすために我が来た、と考えるな。平和やのうて、剣をもたらすために来たんや。人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に対して仲違いさせるために来たからや。それ故、人の敵はその家族や。我よりも父、又は母を愛してる者は我に相応しないし、我よりも息子、又は娘を愛してる者も我に相応しない。

また、自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。自分の命を得る者は、それを失うだろうが、我がために命を失う者は、それを得るだろう。」
「あんた方を受け入れてる人は、我を受け入れ、我を受け入れてる人は、我を遣わしはった方を受け入れる。預言者の名によって預言者を受け入れてる人は、預言者の報いを受けるだろう。また、正しい者を正しい者の名によって受け入れてる人は、正しい者の報いを受けるだろう。もし、これら小さな者の一人に(主イエスの)弟子の名によってだけで冷たいのを一杯飲ませるなら、確かにあんた方に言うが、決してその報いを失わへん。」


一、キリスト者は主イエスに優らへん
上記聖句のとおり、主イエスは「弟子は師に優らず、僕もその主人に優らへん。弟子は師のように、僕はその主人のようになれば十分や。」と十二使徒、及びすべての人に向けて言わはった。十二使徒やその他のキリスト者は主イエスの弟子であり、弟子は師に優らへんと断言しはった。故に、拙者を含む多くのキリスト者も主イエスに優らへん。そもそも、主イエスという神に人間が優る筈もなく、これは至極当然のことや。ただ、弟子たるキリスト者は、師である主イエスのようになれば十分ということで、主イエスに極限まで近付きさえすればええということや。もっとも、これは物理的に近付くという意味やなく、キリスト者が慈愛溢れる品性を持ち、律法遵守をする、伝道をする等といった点において主イエスに限りなく近付くことを目指すというものや。それ故、偽使徒パウロの律法廃止論を信奉して律法違犯を続けててはあかんということや。故に、世の諸教会に属して司教や牧師等のパウロ教の教えに聞き従う者は、主イエスに近付くことは決してなく、むしろ悪魔の子であることの証拠となるだけや。主イエスは、「完全な者になりなはれ」(マタイ五章四十八節拙訳)とも教えはったとおり、主イエスが師として完全な存在であらはり、キリスト者は主イエスのように律法を遵守する(罪を犯さへん)完全な者になるべく努力が必要なのは当然のことです。それなのに、パウロ教信者どもは、律法違犯をやめず(悔い改めず)、主イエスのようになろうと一つも努力せず、その分際でキリスト者を自称し、世間に誤った「キリスト教」の印象を与え、誤解させてる。パウロ教信者どもなんかを見てても、ええ品性もしてへんし、身なりもあかんし、何一つ主イエスを感じさせる点が無いのに、彼らはキリスト者と自称するもんやから、他者に新規にキリスト信仰に入ろうと思わせられへんし、世間に対してええ見本になってへん。拙者がキリスト者になった経緯は、世の諸教会の影響ではないし、他の誰かの真似をしようとした訳でもないし、他人から誘いを受けた訳でもない。それ位、世の諸教会は何の魅力も無いし、むしろ彼らの誤った信条や行いのせいで、まともな人を遠ざけてることを認識し、悔い改めるべきや。

二、真のキリスト者は酷く中傷される
上記聖句のとおり、主イエスは「もし人々が家長をベルゼブルと呼ぶなら、その家の者をどれ程もっと(悪く言う)やろか。」と言わはった。家長とは、一家の長であり、イスラエルの十二部族を一つの家とし、その頂点に居てはるんがユダ族出身の主イエスや。救われるイスラエル十二部族に組み込まれる真のキリスト者は「その家の者」に該当し、世間の人々から主イエスに対してよりも酷く、悪く中傷されることになると言われてる。前回記事「キリスト者と迎え入れる人が弁える事」で書いたとおり、世間の多くは狼のように貪欲で攻撃的で不信仰で危険な人間が殆どで、羊たる真のキリスト者は人々から中傷をはじめとして様々な方法で攻撃される。実際、不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)による中傷を多く確認しており、陰口も含めたら相当数あるやろな。しかし、それを恐れていては真のキリスト者は務まらへん。人から嫌われるのが怖い等と思う臆病者は絶対に救われへんし、多数派に溶け込むことで安心感を得たり、金儲けのことや保身のことばかり考えて行動したり、この世でしぶとく生き延びることに執着してる人たちは、神の民ではない。

三、正しい事をしてるなら迫害を恐れるな
上記聖句のとおり、主イエスは「それ故に人々を恐れるな。明らかにされず隠れて知られへんだろう隠されたものは何も無いからや。」と言わはり、ニで書いたように人から悪く言われることを恐れる必要は無いし、他人を恐れて何も言わなくなったり、悪に手を貸すようなことをしたらあかん。その理由も言われてるとおり、悪人の悪事は必ず明らかにされることになるからで、隠されたままにはならんからや。悪事が晒されると、悪人こそが悪いと誰の目にも明らかになる。
最近、鹿児島県警の野川本部長が犯罪を揉み消したとして、鹿児島県警の生活安全部長の本田氏が内部告発した件で、内部告発者が国家公務員法違反で逮捕及び勾留された。そして、こちら(Yahooニュース)のとおり、裁判所は弁護士の準抗告を棄却して内部告発者を不当に長く勾留し続けた。キリスト道の公式サイトでも書いてるとおり、司法機関たる裁判所が役立たずであり、行政の支配下にある故、不当に行政に斟酌する傾向が長期間続いてる。これは非常に問題があり、裁判所がかような体たらくやさかい、一生懸命に司法試験の勉強して弁護士になってもやり甲斐も無い。なぜなら、裁判所が最初から行政側についており、公正に訴えても裁判官の品性や考え方がまともではない故、有り得へんおかしな不当判決や不当な判断しか出てけえへんからや。行政の違憲行為に対して違憲判決を出して行政を牽制したり、国会議員等の違憲行為を正したり、違憲法律や違憲条約の締結を無効化する等という司法として真っ当な仕事を一度もしたことがないのが日本の裁判所や。先の警察官の本田氏による内部告発は、人間として見過ごせず、保身よりも正義感が優った結果、内部告発したのであろう。もし彼に正義感が無く、安穏と凡庸なる悪として生きて行く道を選んだなら、内部告発なんて決して行わへんかったであろうからや。警察不祥事はこれだけに留まらず、仙波敏郎氏という元愛媛県警の警察官が現職警察官として内部告発し、彼以外の警察官は全員犯罪者と言うてた。なぜなら、警部補以上に出世する場合、架空の領収書を作って裏金工作をせねばならんからや。もしそれを拒絶したら、巡査部長から上に昇進させてもらえず、加えて窓際族にさせられたと言うてた。元北海道警の釧路方面本部長の原田宏二氏も裏金問題について告発した。警察は裏金以外にも犯罪ばかり犯しており、警察官が目立つ犯罪行為をしても懲戒免職ではなく停職数か月や減給等と甘い処分ばかりで、不当な依願退職(懲戒解雇ではなく自主退職扱いで退職金も貰える)も罷り通り、警察組織は腐敗を極めてる。ずっと昔から行政は不正ばかり行っており、その組織体制は何一つ変わらず、自浄作用も無い。「どうせ何も変わらんだろう」と勝手に決め込んで黙ってしまっては、それこそ悪を放置し、悪人を助けてることになるさかい、告発はもっとやるべきやし、犯罪を犯した幹部や関係者等を厳罰に処して、組織の健全化に努めないかんやろ。公務員の悪行のみならず、一般企業でも同じように形を変えて不正は日々行われており、闇(ブラック)企業はしつこくのさばり、憲法違反の人権侵害もはびこり、誰も幸せにならへん。正義を行ってこそ、人はほんまの意味で幸せになれるからや。悪を行って不当に金儲けしたり、社会的地位や権力や名声等を得てもそれは悪であり、たとえ他人には隠し通せたり、不良検察官や不良裁判官だらけでこの世で不起訴にされたり無罪にされたりして処罰されずに逃げおおせたとしても、神はすべてを把握してはるし、神によって厳罰に処されることから免れる者は誰一人居らん。せやから、悪人どもよ、調子に乗るな。神を畏れよ。そして、悔い改めよ。正しい事をするのに報復や保身を考えて躊躇するな。正しい事をする人は、神が必ず報いてくださるさかい。反対に、悪に与する人や悪事をやめへん人等は、神から厳罰に処される。
また、「暗闇であんた方に言う事を、明るみで言いなはれ。(あんた方が)耳許で聞く事を、屋根の上で公言しなはれ。」とも主イエスは言わはり、こっそりと聞いた事を公に言うべきです。特に、先のような悪事を知ったら必ず公に告発しなはれ。コロナ犯罪についても告発しなはれ。黙ることは悪の支配層や悪魔に与してる事を意味するさかい、虚偽情報を懲りずに垂れ流し続けたり、嘘を言い続けたり、保身のために告発せえへん人らは、ほんまに救いようのない極悪人です。実際、内部告発人が居ないせいで、コロナの嘘も未だに引き摺られてるんやからな。黙ってる者どもや嘘をつき続けてる者どもの罪は非常に重い。但し、一般に私事権(プライバシー)は守らねばならず、一般人の私生活や個人情報等を言いふらしたり売ったりするんは違法であり、許される事ではない。しかし、公益のため、看過でけへん悪事や犯罪等は必ず告発すべきや。また、聖書の福音についても同じで公に言い広めるべきです。正しい事とそうでない事の区別をし、正しい事を迷わず、躊躇せず、行える正しい者になりましょう。

 


四、恐れる相手を間違えるな
上記聖句のとおり、主イエスは「体を殺すが魂を殺すことがでけへん者どもを恐れるな。しかし、むしろ魂と体を地獄で滅ぼすことが出来る御方を畏れなはれ。」と言わはった。恐れるとは、本来は、危害が及ぶことを心配して怯えることを言い、相手に対する恐怖心や畏怖の念があることを示す。現代の世においては、権力者や富裕層を恐れる人が多い。権力者に目を付けられて不利益を被るか、社会的地位や名声が脅かされたり、財産が減ることに対する恐れを感じてる人が非常に多い。それが、一般人では、会社や上長に対して抱く恐れにも繋がってる。上長や同僚の評価が悪くなると、出世でけへんとか、給料が上がらへん等と恐れてるから、正直に思ってる事や本音を言えず、我慢し、波風立てへんように上からの指示や命令に従うことでやり過ごそうとする卑怯者が多い。ほんまに、これは、特に現代日本人に顕著な悪い気質や。本人の前で言いたい事を言わへんのに、本人の居ない所で隠れて悪口を言うたり、愚痴をこぼしたりしてるやろ。そないな品性では天国に行けへんで。世の多くの人間は、この世で何らかの不利益を受けることを過剰に恐れ、それ故に彼らの悪事も知ってても黙っており、多くの財産や権力を持つ者の言いなりになってる者が多いけど、それは他人を恐れてるからやろ。もし恐れてへんのなら、遠慮無く悪事を指摘したり告発したりするやろが、そうせえへんのは報復されることを恐れてるからや。上述で警察の不祥事の例を挙げたが正義感がある人は悪人に与せず、きちんと公に告発するものです。そうせずに黙ってるとか、かばってるとか、協力してるなら、その人も同じ悪人になるってことを覚えないかん。黙ったまま、嘘をついたまま、正直に悪事を認めて謝りもせず、償いもせずでは地獄行きが確定するで。後回しにしてたらあかんで。悪事を知ったら即時に告発せな意味が無い。黙ってる期間が長引けば長引く程、後で長い間黙ってた理由や責任を問われ、言いづらくなるからや。せやから、悪事は見付け次第さっさと告発するべきです。
権力者や金持ちや有名人等を恐れてはあかんのは、聖書の教えであり、黙示録でも獣の刻印を受けなければ売買でけへんようになるというのは、明らかに支配層や権力者を恐れ、保身のために獣の像を拝んで獣の刻印を受けることになるからや。かように、人間を恐れると地獄行きが確定するんや。そのことを主イエスは教えはった。そして、主イエスは、魂と体を地獄で滅ぼすことが出来る神を畏れなはれ、とも教えはった。要するに、この世での命を失うこと、即ち、肉体を失うことを恐れるなということであり、それを恐れてる限りは永遠の命を受けるに相応しい人間(神の民)にはなられへんというのが主イエスの教えなんや。何遍も言うてるが、これは拙者個人の考えではなく、主イエスの教えです。当ブログと当動画で言うてることも全部そうです。拙者が勝手に聖書を曲解して独自の教えを展開してるんやないで。せやのに、あたかもそうであるかのように嘘をついて中傷する愚か者(異教徒(パウロ教信者を含む)や不信仰者)が居る。そないな輩は、ほんまに悪魔の子や。

五、すべての生き物は神の支配下
上記聖句のとおり、主イエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られてへんか。また、それらの一羽さえ、あんた方の父なしに、地上に落ちひんであろう。更に、あんた方の頭の毛さえすべてが数えられてる。せやから、恐れるな。あんた方は、多くの雀よりも優ってる。」と言わはった。一アサリオンとは、十六分の一デナリオンや。一デナリオンは、当時の労働者の平均的日給に相当する。過去記事「日本人の問題点 二」で日本の低賃金ぶりを非難したが、日本人に分かり易いように、これを現代日本の低賃金価値観に置き換えると、時給千二百五十円(この額は太陽暦二千二十三年十月一日現在の東京都の最低賃金千百十三円よりも上で、実際の日本の最低賃金はもっと低い…)と仮定して一日八時間労働で日給一万円とし、これを一デナリオンとした場合、一アサリオンに当たる額は六百二十五円で、一羽の雀はその半分の三百十三円という計算になる。三百十三円の価値の一羽の雀でさえ、父なる神の許可なしに死ぬことはないと言われてる。また、我等は自分の髪の本数を把握してへんやろ。しかし、神は、我等の髪の本数も数えてはり、そこまで詳細に一人一人の人間のことを把握してはるということであり、神に対して隠しおおせるものは何も無いということや。そして、多くの雀よりも一人の人間の価値は高いということも言われ、創世記で神が男(女ではない)を神御自身にかたどって造りはったという経緯が書かれてることからも、人は雀より優れてて当然と言える。しかし、それに相応しい人間になる必要があり、律法違犯の悪事を行うばかりで悔い改めへんのなら、滅ぼされることになり、雀よりも価値が無いような存在になってまう。「自分は雀よりも価値があるんだ」と自惚れてないで、きちんとそれ相応に役に立つ存在にならなあかん。
そして、「せやから、恐れるな。」と繰り返し言われており、「臆病になるな、他人の目線や評判等を恐れるな」ということであり、「自分は尊い存在だ」等と変に自惚れることなく、自分自身の価値を把握し、他人を恐れず、きちんと神の御指示を守る生き方をしなはれという主イエスの御意志を理解し、行動しましょう。特に、過去記事「日本人の問題点 五」で有害無益なマスクを外そうとせえへん者どもを非難したとおり、現代日本人は周囲を見て自分の行動を決めるような人が多く、「周囲に合わせる」とか「少数派になりたくない」等と考えてる臆病な人間では神に認められることはなく、天国に行くことも有り得ず、地獄行きになるだろう。なぜなら、自分の頭で善悪等をきちんと考えておらず、堅い信条が無く、安易に世の権威の方針や周囲の人間に合わせる故に移ろい易くて信用出来ず、正しい人間ではないからや。

六、主イエスを否定する者は、主イエスから否定される
上記聖句のとおり、主イエスは「それ故、人々の前で我によって信仰を公言する者は全員、我も各天において我が父の前で彼(父)によって(その人の事を身内と)公言するだろう。しかし、人々の前で我を否定する(拒絶する)者は、我も天の我が父の前でその者を否定する(拒絶する)だろう。」と断言しはり、平素からキリスト信仰を公言せずこそこそしてたり(こんな人は伝道もしてへん)、迫害されたときにキリスト信仰を否定したり、信仰をやめるといった事を言うと、その人は主イエスから拒絶されるという戒めや。この主イエスの御言葉で注意を払わないかんのは、「それ故」と前の文脈を受けての結論的な言い方をしてることや。前の文脈では、上述のとおり、弟子であるキリスト者は、その師である主イエスのようになるように努力し、迫害されることを恐れず、他人を恐れずにキリスト者としての義務を果たすということで、それらを守った上で、何があろうとも主イエスを否定してはならんと最後の念押しです。そもそも、臆病にならへんのやったら、主イエスを否定したり、キリスト信仰を否定することはないだろう。また、人前でキリスト信仰を公言せえへんのも要注意であり、「隠れキリシタン」と言われた時代が過去にあったように、隠れて信仰してるというのでは、臆病者に他ならず、神に認められへんことが分かる。なぜなら、上記聖句のとおり、主イエスが「我が父の前で彼(父)によって(その人の事を身内と)公言するだろう。」としてる対象者は、「人々の前で我によって信仰を公言する者」であるからや。反対解釈すれば、人々の前でキリスト信仰を公言せえへん者は、主イエスが父なる神の御前で(その人の事を身内と)公言せえへん(即ち、「あんたのことは知らない」と否定される)ということになるからや。せやから、真のキリスト者なら、人前でキリスト信仰を公言する筈であり、隠れてへんということや。ネットでの伝道の重要性も過去に言うたとおりで、ネット上で真の聖書福音を伝道してへん人たちはキリスト者ではないということになります(やむを得ない事情や不可抗力でネット使用がでけへん場合を除く)。また、伝道するにしても、偽使徒パウロの偽福音や反キリスト教義を吹聴しててはあかんし、神に認められることもない。

七、主イエスは、地上に平和をもたらさず、分断の要因で、家族は敵
上記聖句のとおり、主イエスは「地上に平和をもたらすために我が来た、と考えるな。平和やのうて、剣をもたらすために来たんや。人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に対して仲違いさせるために来たからや。それ故、人の敵はその家族や。」と堂々と宣言しはった。平和をもたらさず、分断や争いをもたらし、家族間で仲違いを起こすために、一世紀の時に受肉して地上に来たと主イエスは言わはった。この御発言の意味をあんた方はきちんと理解してるやろか。また、ほんまに覚悟してるやろか。世の諸教会に所属したり、それらの教えを平然と信奉してるパウロ教信者どもを見てると、「全然聖書を理解してへんし、主イエスの教えも理解してへんし、実践もしてへんし、キリスト者とは言えへん奴らばっかや」と言わざるを得ない。なぜなら、彼らの言動が主イエスの教えに真っ向から反するからや。偽使徒パウロとシラスは、使徒言行録十六章三十一節で「主イエス・キリストを信じれば、その人自身と家族は救われるだろう」という旨の嘘を言うた。反対に、主イエスは、平和をもたらさず、剣をもたらし、家族間でも仲違いを生じさせると言わはり、「家族でみんな揃って救われる」なんていうのは有り得へんというのが主イエスの教えから理解せなあかん。この対比からも偽使徒パウロが如何に反キリスト的な事を言うてるか分かるやろ。但し、どの場面においてもこの状況が適用される訳やないで。不信仰者だらけの家族なら、主イエスと無関係で、聖霊が居らず、人間同士が「みんな仲良く」という状況が実現する可能性がある。また、不信仰者だらけの家族において、単に誰かの性格が悪いとか行いが悪い等を理由にして、家族間の仲が悪いなんてことも珍しないであろう。主イエスの御言葉は、家族の内の誰かが真のキリスト者である(パウロ教信者ではない)ことが前提であり、家族の誰かが不信仰で、その人と対立するであろうということや。上記聖句では例示として、息子と父、娘と母、嫁と姑が対立し、敵となるということや。これら三つの場合のみならず、主イエスの教えと神の律法を守る真のキリスト者は孤立し、家族の不信仰者全員が敵になることだって有り得るであろう。もし真のキリスト者が家族内で複数人居るなら、その人同士は信仰の兄弟となり、仲良くする筈やが、こないな事例はまず無いであろう。家族がパウロ教信者だらけで仲良しっていう場合は有り得るやろが、そないな人間を主イエスが認めることはない。主イエスが「人の敵はその家族や。」と断言してはるとおり、真のキリスト者にとって、家族は味方やのうて敵です。家族間で対立するんは悲しいことではあるけども、神の御言葉である以上、真実と言うしかあらへん。せやから、「家族を信用してる」なんて思うのは、真のキリスト者にとっては御法度ということになる。勘違いせんといて欲しいんは、真のキリスト者は家族を敵であるという理由で蔑ろにするんやのうて、主イエスの教えのとおりに敵をも愛さねばならんし、愛すると言うても何でも相手の言う事を受け入れたり、言う事を聞く事を意味せえへん。あくまで信仰が第一であり、律法を守る事が重要であり、律法に反する事(罪)を認めたり、自分自身もそれに加担する事は忌避すべきや。

 


八、信仰故に死を覚悟せん者はキリスト者ではない
上記聖句のとおり、主イエスは「我よりも父、又は母を愛してる者は我に相応しないし、我よりも息子、又は娘を愛してる者も我に相応しない。また、自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。自分の命を得る者は、それを失うだろうし、我がために命を失う者は、それを得るだろう。」と教えはった。既に家族が敵であるという前提もあるし、自分の父母を主イエスよりも愛する者は主イエスに相応しないとされる。また、自分の子供を主イエスよりも優先するような人も主イエスに相応しないとされる。要するに、信仰を維持するよりも、家族を優先するような人はキリスト者ではないということになる。こう言われてるからとて、家族を蔑ろにしろという意味やないさかい、そこを勘違いせんようにせないかん。律法にも「父母を敬え」という掟があるとおりで、家族は敵やから、仲が悪くて対立してるからという理由で、律法を破ってええ訳ではないからや。「父母を敬え」という掟は十戒にもある有名なモーセの律法の一部であるが、これは父母への絶対的服従を意味するのではないことにも注意や。一応、この世において自分を生んでもらい、育ててくれたということに感謝し、敬うことが必要とされるだけで、父母の言うことには何でも聞き従えとかではないし、父母が間違うなら、その間違いを指摘したりする必要はあるし、彼らの罪に加担すべきでもない。父母として尊重はするし、出来る限りのことはしてあげてええやろけど、神の律法に反する事をしてまで父母に何かせなあかん訳ではない。もし父母が不信仰者であって、自分がキリスト者の場合、不信仰者の彼らの言うことに何でも従ってたら神の教えに反したり、律法に反することも出てくるやろし、何でも言う事を聞いてる場合ではないことはあるでしょう。その辺はきちんと毅然として信仰を盾に抵抗する必要がある。また、子供を持った場合も要注意で、自分自身が信仰者で、子供が不信仰の場合、不信仰の子供のために神の教えに反することをしたり、律法違犯をしてる場合ではないだろう。子供に嫌われたくないからという理由で、子供の言う事を何でも聞くようなみっともない親になるべきではないし、高圧的に子供にあれこれ命令して自由や人権を奪うべきでもない。子供と言えども、親の所有物ではないし、部下でもないからや。この辺を勘違いしてる親が非常に多く、放置したり甘やかすか、異常に厳しいか、という両極端に振り切る人が多く居てるが、やめてもらいたい。親側からも、子供側からも、相手を別の独立した人間であることを認め、適正な距離を持ち、律法に適った適切な関係であるのが望ましい。それが分かってへん人間が非常に多く、問題を抱える家庭が多い。聖書を勉強してへん故、信仰を持ってへんが故の問題や。
また、家族の問題以外で、「自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。」と言われており、これは死を覚悟してへん者は主イエスに相応しないということや。十字架は、言わずと知れた古代ローマ帝国が使用してた残虐な死刑執行の刑具や。それを担わずに主イエスに従う者は主イエスに相応しないと言われてる。要するに、キリスト信仰故に迫害されて死刑にされる覚悟が無い者は主イエスに相応しない、即ち、真のキリスト者ではないということや。上記の六でも述べたとおりで、平素から信仰を公言せえへんとか、公に伝道せえへんとか、迫害されたときに信仰を否定すれば、主イエスから拒絶されることになると弁えるべきや。カトリック、プロテスタント、正教会等に属するパウロ教信者どもは、まったく死を覚悟してへんし、世の権力者と対立することもしてへん。パウロ教信者どもは、不信仰者と同じく平素から律法違犯(罪)を平然と犯しており、迫害されることや死を恐れてる者が多い。特に、プロテスタント信者どもの多くは、反聖書的な艱難期前携挙説を盲信しており、「もうすぐ携挙される」、「携挙はいつ起きてもおかしくない」等と強く思い込み、かように外部に吹聴してる者も居る。実に愚かな臆病者や。彼らは艱難から逃げようとしており、しかも携挙という生きたまま天に逃れられると思い込み、死を覚悟してへんし、むしろ死を怖がってると言える。こないな人間が主イエスに相応しないのは当然やろ。しかし、彼らは愚かで盲目故にその事実に気付かへんし、指摘しても聞き入れへんのよね。ほんまに救いようがない愚か者故、放置するしかあらへん。
また、主イエスは「自分の命を得る者は、それを失うだろうし、我がために命を失う者は、それを得るだろう。」と教えはり、この世で生き長らえようと努める者は永遠の命を失い、主イエスのためにこの世での命を失う(殉教する)場合、永遠の命を得られるということや。これでは「殉教しさえすれば、永遠の命が得られる」なんて思う人も出てくるかもしれへんけど、殉教に至るまでの過程も重要やということを忘れるべからず。平素から悪い行いをしていて、捕まって、有罪になって死刑になり、それで「殉教だ。天国に行ける。」等と勝手に思い込んではならん。悪い事をして捕まって有罪になる等となっても自業自得でしかあらへんからや。キリスト信仰を持ち、神の律法を守り、伝道をし、平素からええ行いをしてて、それで不当にも当局が不正な法律等を濫用し、冤罪で捕まって殺されてしまう等であれば殉教と言えるし、主イエスから認められるだろう。かように、平素の行い等を無視して判断してはならんということや。また、繰り返し言うが、迫害や死を怖がってるようでは真のキリスト者ではないし、救われへんだろう。

九、十二使徒や他の真のキリスト者を受け入れてる者は主イエスを受け入れる
上記聖句のとおり、主イエスは「あんた方を受け入れてる人は、我を受け入れ、我を受け入れてる人は、我を遣わしはった方を受け入れる。」と言わはった。これは、十二使徒や他の真のキリスト者を現在受け入れてる人は、主イエスを受け入れ、父なる神をも受け入れると言われてる。但し、世のパウロ教信者ども(カトリック、正教会、プロテスタント等に属する者)は、これに該当せえへん。なぜなら、パウロは偽使徒で偽福音を吹聴した反キリストであり、ほんまもんの使徒であるペトロやヨハネやヤコブ等を受け入れてる人なら偽使徒パウロを受け入れることはせんからや。神の律法を守る十二使徒支持者と神の律法を無視して破る偽使徒パウロ支持者は対立関係であり、相容れへん。よって、偽使徒パウロ信者どもは律法を守らへん故、神の律法を守るように教えはった主イエスを受け入れておらず、キリスト者ではないんや。パウロ教信者どもがキリスト者やと自称してても関係あらへんし、嘘でしかないからや。キリスト者なら、十二使徒を支持し、偽使徒パウロを否定し、主イエスに忠実な者であるからや。キリスト者になりたいなら、パウロ教信者や無神論者をやめることです。さもなくば、救いの可能性は一切無い。

十、真のキリスト者に対するええ行いは報われる
上記聖句のとおり、主イエスは「預言者の名によって預言者を受け入れてる人は、預言者の報いを受けるだろう。また、正しい者を正しい者の名によって受け入れてる人は、正しい者の報いを受けるだろう。もし、これら小さな者の一人に(主イエスの)弟子の名によってだけで冷たいのを一杯飲ませるなら、確かにあんた方に言うが、決してその報いを失わへん。」と言わはった。主イエスにとっては、預言者も(神の律法を守る)正しい者も「小さな者の一人」に過ぎひん事が分かる。なぜなら、この世では預言者と(神の律法を守る)正しい者は、権力を持たず、多くの財産等を持ってる訳でもないからや。もし金持ちであったり、権力者であるか権力者と密接な関係を持ってる人なら、小さな者ではなくなり、そないな者のうちの誰かが預言者と自称してもほんまもんの預言者ではないし、(神の律法を守る)正しい者でもない。拙者が過去に何遍も言うたとおり、金持ちは神の王国に入られへんさかい、権力者やその他有名人等は天国行きは有り得へん。また、不信仰であるだけでも罪であり、一般人で金持ちでもないからというだけで天国行きになるのでもない。信仰が無い人、行いや性格が悪い人、神の律法(十戒だけでは不足)を守らへん人、慈愛が無く他人に対して冷たい人に、救いは無い。
あと、勘違いせんといて欲しいんは、「これら小さな者の一人に(主イエスの)弟子の名によってだけで冷たいのを一杯飲ませるなら、確かにあんた方に言うが、決してその報いを失わへん。」と言われてる点について、主イエスの弟子、即ち、キリスト者という理由だけで何かええ事をする人にはその報いが与えられるということです。キリスト者であるというだけの理由というのが重要であり、他の理由によってではない点に注意。例えば、家族という理由、恋人や婚約者等という理由、友人という理由では、これに当てはまらへんことに注意が必要や。なぜなら、家族やその他親しい関係という理由で助けるというのは至極当たり前であり、そない多くの人々がするであろう事をしたからとて、何も特別ではないし、慈愛があるという評価にならへんからや。反対に、世間体を気にしたり外部の評価を上げようと努力して、赤の他人にのみ優しくしてええ格好をする一方で、家族に冷遇したり助けへんなんていう冷酷非道な人間は論外やが、家族等といった身内という理由で助けたりして「自分は善い人間だ」と思い込むんは神の目に適う人材とは言えへん。なぜなら、「もしあんた方を愛してる人を愛したら、あんた方はどんな報いがあるか。徴税人も同じ事をしてへんか。」(マタイ五章四十六節拙訳)と、主イエスは言わはったからや。この主イエスの御言葉は、徴税人という罪人でさえ、自分を愛する人を愛するものやと言うてはるのであり、自分を愛してる人を愛するのは、何ら特別な事やないということや。せやから、少々の事や当たり前の事をしただけで自己満足したらあかんし、赤の他人であろうとも分け隔て無く愛して助ける人こそ評価に値するんや。
過去記事で主イエスの教えを複数回言うてきたとおり、真のキリスト者はあらゆる人に嫌われるのであり、家族すらも敵になるという状況下では助けてくれる人は殆ど居らへん。真のキリスト者を助ける人は、果たして今後現れるであろうか。特に、この世の情勢が更に悪化して信教の自由等の基本的人権が奪われ、世の権威が明確に聖書やキリスト者に対して敵対を露わにし、迫害する法整備もした場合、それでも助けようとする人は今でもほぼ居らんのに、もっと居らんようになるでしょうね。正義感があるかどうか、臆病かどうか、慈愛がある人かどうかっていうのは、そういう時に否応無しに明確になるでしょう。多数派は正義感が無く臆病で慈愛を持ち合わせへん故、拙者は期待してへんが、少しでも多数派にならず、主イエスの信仰を持って神の律法を守るキリスト道を歩む人が、キリスト者として、及び人として為すべき事を為すようにと願ってます。失われた羊が、多数派になびいて地獄行きにならんように判断を間違えんようにしてもらいたいがために言うてるんです。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上