こんにちは。

 



今回は、悔い改めへん者は罰せられることについて述べます。
 
新約聖書 マタイによる福音書 十一章二十節〜三十節(拙訳)
それから、(イエスは)彼の数多くの強大な業を行いはった都市を非難し始めはった。なぜなら、(それらの都市の人々が)悔い改めへんかったからや。
「あんたは災いや、コラジン。あんたは災いや、ベトサイダ。もし、あんた方の所で起こっていた強大な業が、ティルスやシドンで起これば、(これらの町の人々は)とうの昔に粗布と灰をまとって悔い改めただろう。それでもやはり、あんた方に言うとく。裁きの日にはティルスやシドンに(対する罰は)、あんた方(に対する罰)よりも耐えられる(もの)だろう。
そして、あんた、カファルナウム、天まで上げられ、陰府まで落とされるだろう。なぜなら、もしあんたの所で起こっていた強大な業がソドムで起こったなら、今日まで残ったからや。それでもやはり、裁きの日にはソドムの地に(対する罰は)、あんた(に対する罰)よりも耐えられる(もの)だろうという事をあんた方に言うとく。」
その時、イエスは答えながら言わはった。「天と地の主である父よ、これらを賢い者や知性が高い者から隠して、幼子にそれらを明かした事をあんたに公言します。然り、父よ、あんたの御前で御意志はそのようになったからです。すべての事は、我が父によって我に渡されました。父の他に誰も子を知らず、子と子が明かそうと望む者の他に誰も父を知りまへん。
疲れてる者や重荷を負わされてる者は全員、我が許に来なはれ。そうすれば、我があんた方を休ませるだろう。(あんた方は)あんた方に我が軛を担い、我から学びなはれ。なぜなら、我は柔和で心低いさかい、あんた方の魂に安らぎを得るであろう。
我が軛は扱い易く、我が荷は軽いからや。」


一、悔い改めへん人の天国行きは有り得へん
洗礼者ヨハネが先に悔い改めを説き始め、道を整えてから、主イエス・キリストが三十歳を過ぎてから公生涯として世間に大々的にお出ましになり、宣教しはり、同じように悔い改め(律法を遵守して罪を犯さへん事)を説いて回りはった。そして、主イエス御自身が直々に赴いて強大な業を行って、神の御業を見せはったのにも拘らず、それらを見聞きした人々は神を畏れず悔い改めへんかった。その件で、主イエスはお怒りになり、非難し始めはった。その理由は、上記聖句にあるとおり、人々が悔い改めへん(平素の行いと心が悪く、律法を遵守せんかった)かったからや。かように、神である主イエス直々の宣教や強大な業を見聞きしてもなお、軽んじて、聞き従わず、悔い改めという具体的行動によって改心することもなかったのが分かる。主イエス直々の宣教や神業を見聞きしても悔い改めへんのなら、奇跡を行わず殆ど純粋に言葉のみによって伝道してる拙者の言う事に聞き従う人は、もっと少ないし、しゃあないとも言える。神から選ばれた人はごく僅かであり、狭い門故に大勢が改心することはまったく期待してへん。元より神もその事はご承知であろうが、それでも言う事を聞かへん愚民を前にしたら、主イエスも怒りを隠せへん様子であったことも分かる。もし大衆が言う事を聞かなくても何とも思わへんのなら、非難することすらなかったであろうからや。神は全知全能であろうとも、やはり言う事を聞かず、悔い改めへん人間に怒りを感じずにはいられへんのや。
そして、主イエスは具体的に都市名を挙げて非難しはった。それは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの三都市や。これらはすべてガリラヤ地方の都市で、ガリラヤ湖周辺で、主イエスが活動しはった所やった。
まず、コラジンは、現代では廃墟となっており、人が住んでへん状態や。昔はそれなりに繁栄していた都市であったが、主イエスの逆鱗に触れて、後に衰退して廃墟となった。
次に、ベトサイダは、十二使徒に選ばれたアンデレ、ペトロ、フィリポの出身地であるが(ヨハネ一章四十四節参照)、そこの住人の多くは不信仰であり、主イエスは嘆きはり、非難もしはった。その人々の不信仰故に、十二使徒の出身地であろうとも神は容赦せず、人が住まへんような地に変えはった。彼の地も主イエスの逆鱗に触れて、後に衰退して廃墟と化し、今ではかつてそこに都市があったであろうという痕跡が僅かに確認されるという状態や。
コラジンとベトサイダは、「あんたは災いや」、「もし、あんた方の所で起こっていた強大な業が、ティルスやシドンで起これば、(これらの町の人々は)とうの昔に粗布と灰をまとって悔い改めただろう。それでもやはり、あんた方に言うとく。裁きの日にはティルスやシドンに(対する罰は)、あんた方(に対する罰)よりも耐えられる(もの)だろう。」と主イエスから非難され、当時のティルスやシドンに居った異邦人なら、強大な業を見たならさっさと悔い改めたであろうが、そこに住んでたイスラエル人は悔い改めず、それ故に、異邦人に対する罰よりも重い罰を受けると宣告された。かように、神の寵愛を受けたイスラエル人は、悔い改めへんという不信仰者であるなら、異邦人よりも重い罰が与えられる事が分かる。拙者が過去に言うたとおりで、強い愛情の裏返しは強い憎悪なんや。せやから、異邦人(血統のイスラエル人ではない者)の不信仰者と血統イスラエル人(ハプログループD系統の日本人を含む)の不信仰者では、異邦人と同等の処罰ではなく、血統イスラエル人の方がより重い罰を受ける。もっとも、異邦人という理由で助かる訳ではないし、地獄行きを免れる訳でもないが、より苦しむのは、より愛情を神から受けた血統イスラエル人であり、不信仰で、律法違犯をやめへんという神に背き続ける代償はあまりにも大き過ぎる。せやから、不信仰をやめよ、神に立ち返れ、神の律法を守れと拙者は言うてるんや。それはあんたらを助けるためであって、苦しめるためやない。
そして、最後のカファルナウムは、主イエスが幼少期から長く住みはったナザレから離れて移住した地であり(マタイ四章十三節参照)、主イエスの公生涯における伝道の拠点としはった地や。主イエスは旧約預言(ミカ書五章一節参照)どおりにベツレヘムで生まれはり(マタイ二章一節参照)、ナザレに移り住んで育ちはった(マタイ二章二十三節参照)。そして、主イエスは長く住みはったナザレを離れてカファルナウムに移住し、彼の地でも福音宣教をし、奇跡を含む強大な業を示しはった。それにも拘らず、そこの住人の多くは心の底から悔い改めることはなく、それ故に、主イエスから「あんた、カファルナウム、天まで上げられ、陰府まで落とされるだろう。なぜなら、もしあんたの所で起こっていた強大な業がソドムで起こったなら、今日まで残ったからや。それでもやはり、裁きの日にはソドムの地に(対する罰は)、あんた(に対する罰)よりも耐えられる(もの)だろうという事をあんた方に言うとく。」と滅びの宣告を受けるに至った。カファルナウムは、神である主イエスが公生涯の拠点としはった幸運の地で、地上でありながら神の近くに住めるという天まで上げられるかのような所であったが、天に上げられたような状態から陰府まで落とされると言われた。何故、カファルナウムは上げられて下げられるというような残念な結果になったのか。理由は単純であり、カファルナウムの住人が不信仰で悔い改めず、その事に対して主イエスがお怒りになったからや。当時のカファルナウムでは、主イエスを直接見ることが出来、話が出来、触れ合い、福音を告げ知らされ、奇跡といった強大な業を実際に目にしておきながら、悔い改めを行いで示すことがなかったからや。それ故に主イエスはお怒りになって、カファルナウムの地、及びそこの住人に滅びの宣告をしはった。それも、あの創世記からも分かるような性に放縦で乱れていたソドムと比較し、ソドムに対する罰よりも重い罰を与えるとの御言葉や。かように、強い愛情の裏返しは強い憎悪なんや。神から愛され、様々な恩恵を受けたのに、それを裏切るような事をする人間、神の期待に応えへん人間には強い憎悪が向けられ、通常よりも重い罰が与えられて滅びに至るんや。せやから、不信仰で、のうのうと生きてる場合やないで。不信仰である事を恥ずかしく思い、聖書と当ブログ及び動画から学び、日々の言動や心の在り方も改めい。

二、聖句欠落が疑われる箇所
上記聖句を注意深く読めば分かる人には分かるが、マタイ十一章二十四節と二十五節の間に何か別の聖句があったと拙者は考える。なぜなら、明らかに二十四節から二十五節の話には文脈的に隙間があるからや。実際、二十五節にて、市販聖書は原語に忠実やないさかい、きちんと訳せてへんのやが、拙者が訳したとおり「その時、イエスは答えながら言わはった。」というのが二十五節の前段部分であり、この「答えながら」というのが判断の鍵や。答えるからには、その前に他の誰かの発言や質問等がなければならんということや。他の聖句を読んでも、この答えるという前には必ず誰かの発言や質問等があって、それに対して主イエスが答えはるという流れになってる。よって、当該箇所においてはそれが無いため、欠落が疑われる。若しくは、この聖句を書いた筆記者が書き忘れたかのどちらかや。受け入れられた原典でも欠落状態であり、底本違いによるものではない。参考までにルカによる福音書を見てみると、おそらくその欠落を補い得る内容がある。それは、ルカ十章の内容や。上記聖句と一部重複する部分もあり、重複せえへん部分もある。重複せえへん部分がマタイ十一章二十四節と二十五節の間にあるべきやったのではないかという推測が立つ。ちなみに、ルカ十章で七十二人とある箇所は間違っており、これは底本違いの問題であり、現代の市販聖書で使われてる底本である改訂版では根拠も無く七十二人と勝手に二人増やされてるが、受け入れられた原典の底本では七十人や。もっとも、ルカによる福音書は、偽使徒パウロの仲間であったルカによる記述で、信用性に問題がある故、ルカ書の内容の正確性については疑問が残る。十二使徒の他に七十人を別途伝道役として任命されたとのことやが、この七十人は伝道以外に一体何をしたのかっていうのが不明や。その七十人は、その後もこれといった活躍の記載は無く、他の福音書にも記述が無い。その七十人は、ヨハネ六章六十六節にあるとおり、途中で脱落して共に歩まへんようになった弟子たちを指すと拙者は判断する。主イエスが十字架刑に処されるまでに残ったのは、十二使徒(但し、イスカリオテのユダは最後の晩餐後に脱落)と他には少数の人間しか居らず、その時までには七十人も居なかったと思われる。この俗世には俗悪な人間が大多数であり、世の中そんなもんなんですよ。神の民が如何に少ないか分かるやろ。せやから、世の多数派の一員であることや世の権威に盲従する事を恥ずかしく思い、やめるべきや。そして、何も考えずに漫然と聖書を読み流して分かった気になるのもあかん。きちんと誠心誠意読んで、正しい理解に努め、知識を仕入れたら、それを行いで示しなはれ。聖書を読んだだけでは無意味やで。聖書(偽使徒パウロの偽福音等を除く)の教えを行いにまで反映させて初めて信仰があると言えるからや。

三、世間的に賢いとされる人は救われへん
上記聖句にあるとおり、「天と地の主である父よ、これらを賢い者や知性が高い者から隠して、幼子にそれらを明かした事をあんたに公言します。然り、父よ、あんたの御前で御意志はそのようになったからです。すべての事は、我が父によって我に渡されました。父の他に誰も子を知らず、子と子が明かそうと望む者の他に誰も父を知りまへん。」と、主イエスは言わはった。市販聖書では「褒め称えます」という訳が多いが、原文ではそうではない。その後の文脈を読めば明らかに褒め称える理由が無いことが分かるし、誤訳と言える。その後の「すべての事は、我が父によって我に渡されました。」からも、全権は主イエスが握ってる事が分かり、主イエスが思うがままに出来るという事やさかい、主イエスが「これらを賢い者や知性が高い者から隠して、幼子にそれらを明かした事をあんたに公言します。」と、主イエス御自身が決めはって実行する事を父なる神に対して報告のように言わはったということになる。せやから、これを「褒め称えます」と訳すんは意味不明なのが理解出来るやろ。もし主イエスに決める権限が無く、父なる神が決めた事でそれが素晴らしいと判断するなら称賛するんはおかしないけど、実際はそういう意味の文脈ではない。
そして、主イエスが「これらを賢い者や知性が高い者から隠して、幼子にそれらを明かした」という行為主体であり、主イエスは明らかに世俗的に賢いとされる者や知性が高いとされる者(そないな人間には世俗の権威主義者及び不信仰者が多く、性格もひねくれて打算的で性根が悪い)にはほんまに大切な事を隠し、幼子のように高ぶらず素直で無邪気な人に大切な事を明かすという事が分かる。言い換えれば、悪魔と同じように心が悪い狡猾な者や知性が高い者には聖書に対して興味や関心を持たせへんようにし、結果として救われへんように仕向けるという事を意味する。実際そうなってるでしょう。超有名大学卒や難関資格保持者等といった人の中で聖書を読んでキリスト者になったという人を一人でも知ってるでしょうか。言うとくが、パウロ教信者(カトリック、正教会、プロテスタント等に所属の者、個人でも偽使徒パウロを使徒と誤認して狂信してる者等)はキリスト者やないさかい、含まへん。人の心の中まで見透かす主イエスにとっては人の本質を見抜いて選別する事は容易な事や。そして、ここでいう幼子は比喩であって、幼児のことを指すんやのうて、拙者が説明してるとおり、幼子のように高ぶらず素直で無邪気な人を指す。世俗社会において賢いとされる者、知性が高いとされる者は、現代で言えば、高学歴とか高知能指数の人を指す。海外の有名大学や日本の偏差値七十以上の大学を卒業した人やメンサに入れるような知能指数百四十以上の人は、神から嫌われて選ばれてへんということを意味する。金持ちが天の王国に入ることはほぼない。」(マタイ十九章二十三節拙訳)と主イエスが明言しはったとおり、明治維新以来の西洋化された現代社会においては、高学歴を得て、高収入を得る仕事に就いて、社会的地位を持つ人たちは、世間で尊敬されて持て囃されてるが、かような人間は神にとっては嫌悪であることは疑いのようのない事実や。若い頃からあらゆる事を犠牲にし、勉学に時間、金銭、労力を注ぎ込んで頑張ったのに、地獄行きになるとは残念ですね。
一般に「賢い」とか「凄い」等と言われて持て囃されてる人たちは、「人々の間で高評価なものは、神の御前では嫌悪やからや。」(ルカ十六章十五節拙訳)と書かれてるとおり、人間が高く評価する人は神の嫌悪やからや。但し、学歴や資格が無いとか大したことない、収入も大したことない中流階級や社会的弱者だとしても、不信仰で律法違犯をやめへんなら救われへんさかい、「自分は弱者だから救われる」、「自分は特段賢くもないから救われる」等と勝手に思い込むのもあかん。怠惰で無能な人はそれ自体が問題やからや。そして、忘れたらかいかんのは、人間に対してだけやのうて、物に対しても適用されるという事や。「〜は何千万円、何億円の価値がある」等と高値を付けられたり、高評価を受けたもんであったとしても、神にとっては無価値のゴミであり、嫌悪の対象でしかないんや。この世において、一等地であろうと、どんなに立派な建物を造ろうとも、どんなに立派な芸術品や便利品を創作しようとも、どんなに著名な銘柄(ブランド)であろうとも、どんなに株価が高い大企業であろうとも、どんなに大金や貴金属等と財産を持っていようが、神にとってはすべてがゴミ。なぜなら、神は天国に御座し、天にはもっと素晴らしいものがあり、この世にある物なんか使うことがないし、欲しいとも思わへんからや。そして、使徒ヨハネが、「世を愛してはならず、世にあるものも愛したらあきません。」(ヨハネ一 二章十五節拙訳)、「世と世にある欲は、消滅します。しかし、神の御意志を行う人は永遠に生きます。」(ヨハネ一 二章十七節拙訳)とも言うたとおりで、この世とこの世にある物なんかに価値は無いし、この世もこの世での欲も消滅すると言われてる。使徒ペトロも、「神の日の到来を待ち望み、また、熱望し、その日の故に各天は焼かれ滅ぼされるでしょう。そして、諸要素は燃え尽き、溶かされます。しかし、我等は主の約束に従って正義が住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(ペトロ二 三章十二節〜十三節拙訳)と言うてることから、律法(申命記十九章十五節)の二人以上の証人が必要という要件を満たしており、主イエスもその要件について言及しはっており(マタイ十八章十六節参照)、この世が滅ぶのは真実と言える。これらの発言はどちらも十二使徒からのものであり、主イエスがかように教えはったからこそ、十二使徒はかような発言をしたんや。よって、この世はいずれ滅びることは確定してる事が分かる。なぜなら、この世と世にあるものは期間限定的なもので、永続性が無く、滅びる定めにあり、この世の多数派の悪い人間が持つ欲も地獄行きで滅びることによって消滅する予定やからや。せやから、この世でなんぼ金持ちになろうが、有名になろうが、ちやほやされようともどうでもよく、価値が無い。この世の土地、その他の資産、社会的地位等もすべて無価値になる時が来るからや。上述したように、主イエスが移住しはったカファルナウムも、十二使徒のうちの三人の出身地であったベトサイダも今ではもう見る影も無い廃墟や。神も神の民もこの世を心の底からは愛しておらず、この世は一時的に存続するだけの仮の世であるという認識であり、この世の土地や物への執着は無い。不信仰の者なら、「自分が生まれた出身地、育った地元、思い入れがある都市等が消滅したら悲しい」等と思うのであろうが、そういった価値観が世俗的な人間とはまるで異なる。なお、ヨハネ三章十六節を援用して、神はこの世を愛してると言う者が居るやろが、それだけを以ってこの世が滅びひんと解釈するんは大間違いや。原語を研究すれば分かるが、この世そのものが対象やのうて、神が愛してる対象は神の民なんや。神の民と言えどもこの世の試用期間を経て天国に行くさかい、その神の民を愛して厳しく育てるため、その目的を達するためにこの世を期間限定で存続することを許してるに過ぎひんということや。それに反し、この終末時代に、高学歴や難関資格保持者や富裕層等というこの俗世間においてのみ賢いと看做されてる人が集まった連合国(UN)が中心となってカルト宗教であるSDGsを推進し、「持続可能」という言葉をしきりに用いて、この世が永続することを願ってることが分かるが、それ自体が反キリスト的思想と言える。そして、実際に彼らが良かれと思って推進してる事業こそ環境破壊及び災害を引き起こしており(彼らの利権である太陽光盤設置のために森林伐採してはげ山にする等と環境を破壊し、木々が減少して根が張らずに土砂崩れを誘発したりで災害を引き起こしてる等)、宗教的な圧力によって人々の心も蝕んでおり、偽善であることは明白であるし、この世の権力者や多数派の人間は間違ってる。かような支配層と支配層に追従する悪魔の子らが、悪霊に惑わされ、悪事を善い事だと嘘を言い、自分たちが罪を犯す犯罪者であることを棚に上げ、この世を最終的には滅ぼす神を悪者にし、悪魔(堕天使)であるルシフェルを神と信じ、この世の真相を把握して正しい事を言う真のキリスト者を憎み、迫害する。拙者が過去記事で述べたとおり、この世の存続期間は満期で六千年であり、主イエスの終末預言から最終時代の大艱難期はあまりにも酷い状態故に縮められる予定で、満期よりも若干早められることが分かる。そして、この世は最終的には滅びると十二使徒のペトロとヨハネが述べ、イザヤ書でも新しい天と新しい地が再創造されると明確に書かれてる故、それらの事実を決して忘れるべきではない。もしほんまもんの賢者ならば、聖書に書かれてる事や拙者の言うてる事が嘘ではないと理解出来るであろう。しかし、反発して中傷する、又は無視して聞き流す等するなら、愚か者である。

四、この世に疲れた人こそ主イエス・キリストを頼ろう
上記聖句で「疲れてる者や重荷を負わされてる者は全員、我が許に来なはれ。そうすれば、我があんた方を休ませるだろう。」と、主イエスは言わはった。御言葉に甘えて、主イエスに休ませていただくために、キリスト者になりましょう。但し、ただ単に楽をしたいとか、怠けたい等といった不純な動機ではあかんで。頑張り過ぎる人は、今一度、よう立ち止まってご自身の人生を振り返って見直してみて、ほんまにこの調子で大丈夫なのかよう考えてみましょう。頑張り過ぎる人は思い詰める傾向があり、精神的に病んでしまう人も増加傾向にある。特に、現代日本では、自殺者が非常に多い。以下の統計図を見て分かるとおり、二千二十一年で年間二万人以上が自殺しており、全世界約百九十六か国の中で十位以内に入る程に多い。

画像引用元: https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/sesakugaiyou.html


何故、現代日本人は、かように多くの自殺者が輩出されるのか。一番の理由は、現代日本人の一部が血統イスラエル人であるにも拘らず、戦後から急速に西洋かぶれ(異邦人の道に行く行為の一つ)という罪を犯し続ける者が多く、長年ほんまもんの神を知らず、聖書を読んで知ろうともせず、不信仰であり、神の律法違犯をやめへん(悔い改めへん)ことによって、耐える力が与えられてへんからや。聖書(箴言十四章二十九節、十五章十八節、十六章三十二節、十九章十一節、マタイ十章二十二節、二十四章十三節、ヘブライ六章十二節、十章三十六節、十二章一節・三節・七節、ヤコブ一章三節〜四節・十二節、五章七節〜八節・十節〜十一節、ペトロ一 二章二十節、ペトロ二 一章六節)では、信仰は忍耐、忍耐が無いと救われへんと書かれており、忍耐力は真っ当な人間には必要不可欠であり、忍耐力が無い人間はあかん。病気や障害を負って生きてるのが嫌になった、金が無さ過ぎてひもじくて生きてるのがつらくなった、人間関係に疲れた等もあろうが、如何なる理由であろうとも自殺はあかん。自殺理由の多くは、この世の社会、その社会を構成する人間たちがあまりに悪いためであり、生きる希望を持てず、絶望したために自死を選んだのだろう。もしこの世が善人ばかりならば、居心地が良い筈であり、自殺する理由は無いからや。最近話題の元官僚から知事になった人が職員に酷い事をしたり、違法行為をして、それを見かねて内部告発した人を自殺に追い込んだ等もあった。ほんまに腐ってるよ、この世の中は。大人のみならず、いじめ等と悪い人間どもが原因で自殺する人は十代の若者にも増えており、まさに勧善懲悪を忘れた悪い人間たちに悩んだ結果であり、その状況を見て見ぬ振りしたり、他人事に思て改善せえへん慈愛の欠片も無い悪い人間どものせいや。特に携帯電話が普及してSNSが発達した現代では、承認欲求が強い愚かな自己愛者が増え(特に、「バズる」や「映え」等と言うて写真や動画をやたら撮ってネット上に投稿する人、西洋かぶれした人、化粧や整形等をして綺麗と勘違いしてる人)、いじめがもっと陰湿になっており、仲間外れにされたり、晒し者にされたり等と心無い悪事を平気でする悪い人間が増えてる。悪い人間にとっては携帯電話やSNS等は、ほんまに悪いおもちゃや。もしこの世が素晴らしくて、ええ人だらけで、何の不満も無いなら自死する理由が無いさかい。せやから、あまりにも多くの苦しみがこの世にあって、「死んだら楽になれる」と簡単に考えたのだろうが、実際はそうではない。確かに、肉体的な死を以って、この世との関わりは無くなり、政府による圧政や重税、会社や学校での人間関係、経済的問題、病気等による肉体的苦痛等からは解放されるが、別の問題がある。それは陰府を経由して地獄に行くということや。もっとも、陰府を経由して地獄行きになる事は、自殺をせずとも多くの人間が辿り着く末路であり、自殺さえしなければ天国に行ける訳やないし、不信仰であるだけ、主イエスの教えに従わへんのなら地獄行きや。上述したとおり、聖書を知っていれば、律法を知っていれば、自殺(自分を殺すということであって一種の殺人)をせえへん筈やからや。聖書を読まず、ほんまもんの神、救い主イエス・キリストを知らず、知ろうともせず、自分勝手に取り返しのつかえへん行動に出た代償はあまりにも重いものになろう。
せやから、軽い気持ちで取り返しのつかへん愚行をせず、現実逃避をせんと、まずは聖書を手に取り、救いについて、後の世について本気で考えてみませんか。自殺する程の悩みが無くても、他人事に思わず、聖書を手に取り、救いについて、後の世について考えましょう。この世はもうそう長くは続かへんでしょうし、悪い人間どもが益々調子に乗ってやりたい放題し、司法機関も腐敗してるせいで処罰もせず野放しで、まともな正義感を持つ人にとってはこんなゴミのような世の中なんかに居ると、気が狂いそうになるからや。自殺しても根本的解決にならへんし、陰府行きを早めるだけで意味が無い上、自分を殺してるさかい、殺人の罪も負い(律法違犯)、神からの裁きが重くなるだけやから、絶対にやめてください。この世が嫌になったら、人間関係に疲れて、これ以上頑張れへんと思う位に追い詰められたら、まずは引越しするとか、職場を変えるとか、環境を変えましょう。そして、その後どうするか考えましょう。相談が必要なら相談に乗りますし、それ程までに思い詰めてる状態でなくても、お気軽に投稿しに来てください。普通の礼儀を弁えて、普通に話が出来る人なら、まったく問題無いです。

五、キリスト者は主イエスの軛を担う義務がある
上記聖句のとおり、主イエスは「(あんた方は)あんた方に我が軛を担い、我から学びなはれ。なぜなら、我は柔和で心低いさかい、あんた方の魂に安らぎを得るであろう。我が軛は扱い易く、我が荷は軽いからや。」と言わはった。軛とは、自由を束縛するものであり、それがあるのと無いのとでは、無い方が自由と言える。主イエスは、明確に「我が軛を担い、我から学びなはれ。」と御命令しており、何でもやりたい放題という訳ではなく、神の律法を守るという規制の下にある必要があることから、かように言わはったんや。それは、人として正しく在るため、神に認められ、永遠の命に相応しくなるためや。そうすれば、キリスト者は主イエスの軛を担ってるものの、「魂に安らぎを得る」のであり、苦痛には思わへんのや。その理由も言われており、「我が軛は扱い易く、我が荷は軽いからや。」ということで、神の律法を守ることや主イエスの教えを守って実行する事は、大きな負担ではないっちゅう事や。もし負担に思うなら、魂に安らぎを得てへん証拠であり、その人は嫌々律法を守ろうとしてる、義務感から伝道活動等をしてるということになり、律法遵守を苦痛に感じてる故に長続きせず、いずれ信仰から脱落してやめてしまうは目に見えてる。かような人はキリスト者には向いてへん、神の民ではないと言えよう。かように、結局は行いは嘘をつかず、必ず本性が暴かれることになる。
そして、偽使徒パウロやパウロ教信者どもは、主イエス・キリストと律法に対して敵対心を剥き出しにし(十戒だけでええと勝手に狭める行為も含む)、主イエスの軛を担おうとせえへん。この事実だけでも彼らが反キリストであることは明白やろ。主イエスの教えに反発して律法を守らへんっていうのは、神の言う事に聞き従いたくないという意志の表れであり、素直でもないし、天の邪鬼であり、神に逆ろうて堕天した悪魔と同じであり、それ故にそないな人間は悪魔の子ということや。パウロ教信者どもは、ほんまに神が制定しはった律法(モーセの律法)が嫌いなようで、律法を守るように諭しても、「律法主義者だー」、「律法は廃止されてる」等と莫迦の一つ覚えで反発するのが多い。彼らはほんまに理解力も無いし、聖書の知識が無さ過ぎる分際でキリスト者と詐称し、頭と心が悪い。何遍も言うてるとおり、拙者は聖書(偽使徒パウロの偽福音や偽教義を除く)に反した事を言うてへんからな。もし拙者が反聖書的な事、主イエスと十二使徒の教えに反してる事を言うたと言い張る者は、根拠聖句(パウロ書簡を除く)を提示しながら指摘してください。実際、敵対者どもは根拠聖句を一つも提示出来ず、正しい批判をせず、誹謗中傷(根拠が無い悪口を言う事)ばかりしてる愚かな罪人ばかりや。そもそも、拙者が聖書に則る真理を語ってる故、反論の余地は無いのであり、反発してる者どもが邪悪であり、反キリストである故、嘘をついたり、中傷をしたり等と悪魔の業ばかりしてる。そういった客観的事実がすべてを物語ってる。パウロ教信者どもが正しいとか、救われて天国に行くという事も絶対に有り得へん。



上図のように、ただ自分の醜い欲を満たすために金銭を貪欲に追い求め、高収入を得て、贅沢をしたい、快楽を享受したい等と思ってるような人は獣のような存在であり、人間らしくない生き方をしてると自覚すべきや。さっさと、かような生き方から離脱して、聖書を読んでほんまもんの神(主イエス・キリスト)に出会い、認識し、聞き従う素直で無邪気な人間になりましょう。一人だけでは絶対に無理です。主イエスがモーセの律法に加えて新しい掟として兄弟との交流を定めたとおりで、信仰を同じくする者と共に歩む、頑張らねば、救いは無いとも理解し、行いで示す必要があります。もしこれに共感して、信仰を行いで示す事が出来てるなら、それを当方にも見えるような形で示し、所定の手続きを踏んで、当教会に進むようにしてください。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上