こんにちは。

今回は、デカポリスでの悪霊追い出しについて述べます。

いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会が荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
また、当ブログに投稿した人に対して陰で別の場所で集まるように勧誘してる者が居り、そないな者たちは、ただ集まりさえすれば良いと勘違いして、一向に成長が見られへんさかい、解散してやめるように勧告します。誰でも入れる所、敷居が低い所にはそれなりの人しか集まらず、そないな人たちが集まったところで、何も成し遂げられず、うだつが上がらへん状態が長く続き、そない低い程度に慣れるとそこから脱却しようともしなくなり、後に信仰からも脱落してまうことが予想されます。学校や会社でも入試や選考をして人を選ぶのが当然やろ。せやから、そないな誘いにも乗らんように注意しなはれ。たとえ当教会に入るためとか、一緒に集まって励ましあうため等と言い、一見して協力してるかのように見せかけていても、その実、結果的には、こちらに入ろうとする者の邪魔をし、散らす者であるからや。遠回りや寄り道をせんと、真っ直ぐにこちらに来る努力をすべきです。別の場に集まって安心することで、こちらに来るために必死になろうとせず、何年ものらりくらりして、最悪こっちに来なくてもいいやってなるのが懸念点で、実際にそうなってる人たちが居り、そないな人たちと調子を合わせてたらあかん。理解したら、余計な事をせず、真っ直ぐにこちらに来る努力のみをしなはれ。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってる、本来ならば有料で対応して然るべき案件であるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思うなよ。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。

 



もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
一般的な質問は、アメブロIDを取得した上で、キリスト道の「質疑応答」にご投稿ください。
また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。

 



【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】


・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)


・当ブログを知った時期


・何故当ブログを読もうと思ったのか


・何を期待して相談や投稿をしたのか



 

これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。
集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。



 

拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。
ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。

 



さて、本題に入ります。前回記事「キリスト者の覚悟」で引用した聖句の続きです。今回はマルコによる福音書を主として扱う。マタイでは短くて詳細が無い故、この話ではマルコの方が質が良いと判断したため、それを掲載する。

新約聖書 マルコによる福音書 五章一節〜二十節(拙訳)
そして、一行は、湖の向こう側のガダラ人の地方に来た。また、彼(イエス)が舟から出て来はるとすぐに、汚れた霊に取り憑かれた人が墓場から出て来て、彼(イエス)に会うた。その人は墓場に住まいを持ってた。そして、誰も彼を鎖で縛ることがでけへんかった。なぜなら、彼はしばしば足枷や鎖で縛られても、彼によって鎖をばらばらにされ、足枷を粉々に壊され、誰も彼を抑えられへんかったからや。また、いつも、夜と日中、山や墓場で叫んだり、石で自分を傷付けていた。
しかし、イエスを遠くから見ると、走って彼(イエス)に平伏し、大声で叫んで言うた。「我と貴方に何の関係がありますか。最高位の神の子イエスよ、我を苦しめないように神である貴方に懇願します。」
(イエスが)彼に「汚れた霊、この人から出て行け。」と言わはったからや。そして、(イエスが)彼に「あんたの名は何か。」と尋ねはった。すると、答えて言う、「我が名はレギオン。我々は大勢だから。」そして、彼ら(汚れた霊ども)をその地方から追い出さへんように彼(イエス)にしきりに嘆願した。
その時、そこに近い山で豚の大群が餌を与えられてる。そして、悪霊ども全員がイエスに嘆願し、「豚の中に入れるように我々を豚に送ってください。」と言う。すると、すぐにイエスは彼ら(汚れた霊ども)に許しはり、汚れた霊どもは出て行き、豚の中に入った。そして、(豚の)群れは湖に向かって崖へと突進して、約二千匹居って、湖の中で溺死させられた。
すると、養豚家たちは逃げて、町や村で知らせた。そして、人々は何が起こってるのかを見に来た。また、彼らはイエスのところに来て、悪霊に取り憑かれてる人が座って服を着せられた状態で、レギオンを持ってた人が正気になってるのを見る。そして、彼らは恐れた。また、悪霊に取り憑かれた人にどないな事が起こったかと豚の件を見てた人たちは、人々に語った。すると、人々は彼(イエス)に彼らの地域から出て行くように嘆願し始めた。
そして、彼(イエス)の舟への乗り込み時、悪霊に取り憑かれてた人が彼(イエス)と共に居るように彼(イエス)に嘆願した。
しかし、イエスは彼に許さず、彼に言わはる。「自分の家、あんたの同胞の許に行き、主があんたを憐れみ、あんたにどないに素晴らしい事をしてくれはったかを彼らに知らせなはれ。」それから、その人は行って、イエスが自分にどないに素晴らしい事をしてくれはったかをデカポリスで言い広め始めた。そして、人々は皆、不思議に思た。


一、当時のユダヤの一部は異邦人(異教徒)の地方があった
デカポリスという地域は、市販聖書に付属の当時の地図を見るか、ネット検索等すれば分かるとおり、ガリラヤ湖の南東に広がる一帯の地域はデカポリスと呼ばれ、ダマスコ、ガダラ、ゲラサ、カナタ、ディオン、ヒッポス、ペラ、フィラデルフィア、ラファナ、スキトポリスの十の町を指し(ダマスコのみ離れたシリアに位置する)、おもに異邦人であるギリシア人(白人)やギリシア語を話す者たちが住んでた地方で、ギリシア文化圏であった地方や。ギリシア語でポリスというのが都市、町を意味する。何故、ギリシア人がユダヤ地域の一部に住み着いてたのか。過去記事「聖書の終末預言 二」でも教えたとおり、紀元前百七十五年から百六十三年の間、アンティオコス・エピファネスというシリアを拠点とするギリシア人の王が、ユダヤ地域を一時期占領し、反キリスト的なギリシア文化(西洋文化)を亜細亜人であるユダヤ人(日本人の祖先)に強要して神の律法に根差したユダヤ文化を撲滅しようとし、主なる神への信仰故に律法を遵守して異教的慣習のギリシア文化(西洋文化)を受け入れぬ正しい者を殺すといった激しい迫害をしてた時代があったためや。その時、一部のギリシア人がユダヤ地域に移住して勝手にギリシア文化の町を形成した。それ故、デカポリス地方は、いわばギリシア人による植民地状態にあった地域や。真正イスラエルである日本は、明治維新以降、西洋人の英米の植民地とされ、西洋文化や英語等に侵略されており、過去の西洋人による侵略の歴史を繰り返してる。このことも過去記事「聖書の終末預言 二」で言うたとおりで、その事実にさっさと気付き、洋服を着るのをやめ、不必要に英語等の外国語を使わず、西洋かぶれをやめなはれ。でないと、神の怒りが溜まる一方であり、悔い改めへんのなら、大きな災いが日本人を襲うことになる。
上記聖句は、それらの内の一つであるガダラの人たちが住む場所に主イエスが来はった時の話や。市販聖書ではガダラやのうてゲラサと訳されてるが、間違うてる。古代ギリシア語の原文を見ると分かる。マタイ八章二十八節と反対なんですよね。マタイの方ではゲラサなのにガダラと訳され、マルコではガダラなのにゲラサと誤って訳される。しかし、上記聖句で拙者が原文に忠実に訳してるさかい、参考にしてもらいたい。
文脈から主イエスはガリラヤ湖の北西にあるカファルナウムから、対岸である南東側のデカポリスのガダラまでやって来はったのであり、そこにも失われた羊が居るだろうということでわざわざ主イエスは出向きはった。拙者は、おもに日本人向けに書いてるところがあるが、日本人だけが関係あるのではない。内容を見れば分かるとおり、過去に複数回外国人(異邦人)であろうとも真の聖書福音と無縁ではなく、「自分には関係無い」とか「自分には適用されへん」等と言うて逃げることはでけへん。モーセの律法にも異邦人(外国人)もイスラエル人と同様に守る必要がある旨の記載があることは過去記事で書いた。もし無視して従わぬのなら、永遠の破滅の刑罰を受けることになる。もし読者が外国人であったとしても、きちんとこれに向き合い、悔い改めることを勧める。

二、レギオンの態度は愚かな人間よりマシ
上記聖句の「彼(イエス)が舟から出て来はるとすぐに、汚れた霊に取り憑かれた人が墓場から出て来て、彼(イエス)に会うた。」と「イエスを遠くから見ると、走って彼(イエス)に平伏し、大声で叫んで言うた。「我と貴方に何の関係がありますか。最高位の神の子イエスよ、我を苦しめないように神である貴方に懇願します。」 」という箇所を読むだけで、どれだけ悪霊が神である主イエスに対して敏感で敬意を持つかが分かる。主イエスが対岸からガリラヤ湖を舟で移動しはり、着岸して降り立つとすぐに見付け、遠くからなのわざわざ走ってやって来て、平伏し、懇願するんですよ。ある意味凄いと思わへんか。人間なら、殆どの人がせえへんやろ。レギオンという名の悪霊は、世の中の愚民たちよりも敏感で神の霊を察知し、見つけるやいなや一目散に走って来て平伏すというのは非常に行儀が良いし、神に対する向き合い方も態度も良い。悪霊の存在を褒めてる訳ではないし、悪霊の味方をしてるのでもないが、この聖句箇所を読むと、この世に居る多くの人間と比べると、そう感じて率直に指摘せざるを得ない。この世の多数派の人間は不信仰で、地獄に片足突っ込んでるような者のくせに、その罪深さや惨めさや鈍感さを認めようともせず、神の律法を守らず、悔い改めず、神を否定したり信じず、嘘つきの犯罪者だらけの世の権威を信じて騙されてるのを認識せず、自分が正しいと根拠も無く思い込むという傲岸不遜で、神の教えが収録されてる聖書を無視したり軽視し、主イエスと真のキリスト者を軽蔑または中傷等もする。そないな被造物の分や自分の立場を弁えへん愚かな人間たちと比べれば、この悪霊の態度は遥かにマシで、素晴らしく、神の御前で為すべき態度や。不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)、律法主義者、にわか信者たちは、かの悪霊(レギオン)以下という事実を認識し、心と態度を改めい。心が悪いから、態度も悪くなるんや。拙者に対して偉そうに上から目線でどうたらこうたら言う輩が時折居るが、キリスト者としての実績や実力が無く、何処の誰とも知らん人に偉そうに言われても全然響かへんよ。何か物申したいなら、きちんと自分が何者かを示し、論理的で説得力あることを言うてくださいね。

三、悪霊に憑依された人間は怪力
上記聖句で「彼はしばしば足枷や鎖で縛られても、彼によって鎖をばらばらにされ、足枷を粉々に壊され、誰も彼を抑えられへんかった」とあるとおり、悪霊に取り憑かれた人間は、足枷や鎖を破壊する程の並外れた力を持ってることが分かる。こちら(トカナ)でも、六十歳の女性が男性四人を投げ飛ばしたという怪力ぶりが言われてる。もし身近にそないな体格や筋肉量に見合わへん強い力を持つ人や凶暴な人が居たなら、悪霊憑きの可能性を考えてみるべきです。しかし、悪霊はそないな力を持ってたとしても、主イエスの御前では、ただ平伏すことしかでけへんのです。神を前にすれば、悪魔も人間も無力である事を知り、分を弁えた行動をすべきです。

四、悪霊に憑依された人間は大声を出し、自傷癖有り
上記聖句で「叫んだり、石で自分を傷付けていた。」とあるとおり、悪霊は取り憑いた人間に普通ではせえへんような大声で叫ぶ行為をさせたり、自傷行為をさせることもある。自殺や自殺未遂も自傷に含まれ、そないな衝動に駆られるのは、悪霊に憑かれてる可能性を考えるべきです。病院の精神科なんて行くべきではないし、頼るべきでもない。間違えた判断と行動をせんように。
また、他の聖書箇所で悪霊に取り憑かれた人は悪霊によって痙攣させられたりもし、癲癇(てんかん)と誤解されることもある。この不信仰者が多い現代、霊的な事象を頑なに認めず、何らかの疾患と決め付けたがる愚かな科学者や医師が多いが、虚偽の病名を付けて病棟に隔離等をしても何の解決にもならへんことは過去に証明されてる。過去、こちら(トカナ)のとおり、アンネリーゼ・ミシェルという若いドイツ人女性がカトリックの悪魔祓いを受けても改善せず(異教徒であるカトリック教徒なんかがやっても効果が無いのは当たり前)、悪霊に唆されて摂食を拒み続けて二十三歳で栄養失調で餓死した事例があった。彼女はカトリック教徒で、十六歳の頃に痙攣を経験し、医師から癲癇と診断され、抗癲癇薬を服用してたとのこと。彼女は薬物服用の経緯があり、そのせいで幻覚と幻聴に悩まされることとなり、状態は日に日に悪くなり、ついに悪霊憑きのせいと思われる異常な行動を取るようになったという。拒食は、自傷行為の一種や。意図的に食べずに栄養失調になって衰弱することが、体に対して危害を加えてる事を意味するさかい。食べ過ぎて肥満になって病気になったり日常生活に支障をきたすのも体に危害が加えられてる状態で自傷行為と言える。故に、拒食症や過食症の摂食障害等も異常行動であり、自傷行為で、悪霊憑きの影響で引き起こされることです。せやから、摂食障害に悩まされてる人も悪霊憑きを疑うべきです。
そして、拙者が過去に言うたとおり、精神科なんていうのは何ら医学的根拠や科学的根拠が無く、製薬会社や医師等が儲けるための工作であり、支配層とその傀儡たる政府にとって不都合な人を強制入院させたり薬を強制投与したりして人格破壊をして社会的に抹殺するためのおぞましい極悪非道な悪行と言える。彼女の事例は、まさしく薬害と悪霊憑きの事例と言え、悪い薬こそが悪霊憑きの助け、入口になったと言えよう。もし彼女が医師や薬に頼らず、入院等もせず、パウロ教である異教カトリックなんかに入信せなんだら、かように若くして死ぬ羽目にはならんかったであろうに。現代では、向精神薬のみならず、他の薬やワクチンも同じであり、それらが悪霊憑きを助長する。それに最近の悪い科学技術により、ワクチン接種した者は遺伝子組み換えが行われ、特許を持つ支配層の所有物になり、自然人ではなくなり、人権も失い、救いも失う。せやから、世の権威(支配層、国際機関、各国政府、報道機関、有名人、学校等)に騙されるなと言うてるんや。言う事を聞かず逆らう者は滅びる。

五、異邦人(異教徒)や不信仰者は悪霊の恰好の標的
上記聖句で「彼ら(汚れた霊ども)をその地方から追い出さへんように彼(イエス)にしきりに嘆願した。」とあるとおり、悪霊どもは異邦人が多く住むデカポリス地方から追放されることを恐れて嫌がり、それ故に主イエスにしきりに嘆願したことが分かる。何故、レギオンはデカポリス地方から出て行くことを嫌がったのか。理由は、悪霊にとって神に不従順な異邦人(異教徒)が多く住むデカポリス地方は居心地が良いからや。そもそも、悪霊は神に不従順で敵対してる。故に、真のキリスト者に対しても同じである。悪霊にとって、真のキリスト者が居る所は居心地が悪うてかなんなという状態やさかい、不信仰者または異教徒だらけの人が居る地域の方が居心地がええに決まってる。悪霊は、不信仰者や異教徒等に憑依して操り、神の律法に反した行いをし、他人にもそうするように仕向け、真のキリスト者を憎んで迫害する。庶民のみならず支配層や有名人等にも当然悪霊は取り憑いており、それ故に彼らは反キリストであり、嘘をつきまくり、利己主義であり、罪悪感は微塵も感じず、凄まじい悪行を繰り返すんや。キリスト者と自称して嘘をついてるパウロ教信者や律法主義者も例外ではなく、彼らも同じ。世の多数派が主イエスと真のキリスト者を嫌うんも、彼らにとって居心地が悪いからに他ならへん。主イエスが「我が名のためにすべての人に嫌われるが、最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。」(マルコ十三章十三節拙訳)と教えはったとおりで、死ぬまで主イエスの教えを忠実に守る真のキリスト者だけがこの世で嫌われ、迫害され、耐え忍ぶという苦労を経験する。神の律法や戒めを守らず、不信仰者だらけの俗世間に迎合し、世の友となって上手くやって仲間が多いのにキリスト者と自称してるなら、そないな者は主イエスの教えに反する存在であり、偽り者であるのは明白やろ。こない言われたからとて、わざと他人から嫌われようと悪態をつくのは論外で、神の律法を守って主イエスの信仰を持って普通にしてるだけやのに他人から嫌われる、避けられる、いじめられる、差別を受ける等と迫害されるであれば、その人は真のキリスト者である可能性有りです(これだけでは確定ではない)。

六、レギオンが豚の大群を溺死させた理由
当時、律法を守るユダヤ人にとっては豚を食用家畜と見ておらず、家畜として無価値な動物であったが、デカポリス地方に住んでた異邦人(異教徒)や不信仰者にとっては食用の家畜で財産的価値があった。主イエスもユダヤ人であり、豚は無価値であるとお考えで、悪霊が移る先として許可しはった。レギオンという大勢の悪霊は、何故豚に移ることの許可を主イエスに願ったのか。「悪魔は初めから人殺しであり」(ヨハネ八章四十四節拙訳)と主イエスが言わはったとおりで、悪霊は憑依した相手に加害行為をさせるという認識を持ってもらいたい。現に上記聖句でも分かるとおり、悪霊が憑依した男に自傷させてたことからも明らかである。しかし、人間には理性があり、そう簡単には自殺にまで踏み切れず、傷害という程度に止まることが多い。ところが、豚は人間のように理性的な存在ではない故、簡単に悪霊の思うがままになる。そして、悪霊の狙いは、かように大量の豚を操って殺して養豚家に損害を与え、その地域の人たちを怒らせ、主イエスに対して怒りや敵対心を抱かせ、救われへんようにしてやろうというものやった。実際にサタンのこの作戦は成功し、追い出した悪霊が豚に入って約二千頭の豚が湖になだれ込んで死んだことで、養豚家は損害を被って怒り、他の人たちもその超自然現象に恐れを抱き、主イエスを受け入れず、信じず、出て行くように嘆願した。これは悔い改めと救いの拒絶と言える。悪霊を追い出してもろて正気に戻った人のことを喜んだり、その人の話を聞いて主イエスのことを知りたいと思うんやのうて、物質主義や拝金主義から脱することがなく、財産である家畜の豚を失ったことで怒り、神に対して敵対心を抱き、悔い改めと救いを拒絶した。ただ、その悪霊を追い出された人が主イエスの証人となり、主イエスはそこの地域一帯の人がまったく知らなかったという言い訳はでけへんようにしはった。その地域の人たちが後で考えを改めて、救われる人が出る可能性も考えてのことでもあった。

 


七、超自然現象を以てしても不信仰者はほぼ悔い改めへん
上記聖句で「悪霊に取り憑かれた人にどないな事が起こったかと豚の件を見てた人たちは、人々に語った。」とあるとおり、目撃者の証言を聞いてもなお多くの人々は信じず、「人々は彼(イエス)に彼らの地域から出て行くように嘆願し始めた。」とあることから、主イエスを信じるようになるどころか、迷惑やから、邪魔やから、出て行くように頼み出したとのことで、彼らは主イエスを拒絶したことで神の民ではなかったことが分かる。また、悪霊追い出しという奇跡を起こしたところで、不信仰の人の態度や心が変わることもなかった。拙者が過去に書いたとおり、奇跡を起こすことなんて信仰においてはまったく重要やない。本件では、むしろ、かように恐れを抱くようになり、回心に導く結果には繋がらへんかった。しかし、上述したとおり、主イエスはかような事態は予期してはったやろし、無計画にしはったのではない。ただ、彼らが主イエスのことを知らんという言い訳をでけへんようにしはったことに意味がある。主イエスを拒絶した事自体が悪い行いであり、それで救われへん結果になったら拒絶して悔い改めへん人たち自身の責任になる。それは現代人も同じであり、聖書や拙者の真の聖書福音の伝道を拒絶したことで、救われへん結果になったらその拒絶者自身の責任である。
聖書は世界中に普及しており、知名度も高く、拙者のブログも太陽暦二千十七年二月以降からずっと継続的に無償公開しており、もはや知らないという言い訳はでけへん状態にある。知らんのは知ろうとする努力をせん人や関心を持とうともせえへん人が悪い。また、たとえ知っても深入りしようとせん人、裏切った人や怠惰によって脱落した人らは、言い訳の余地は一切無い。

八、伝道は重要な務め
上記聖句で「悪霊に取り憑かれてた人が彼(イエス)と共に居るように彼(イエス)に嘆願した。」とあり、レギオンに取り憑かれてた人が正気に戻った後、主イエスに付いて行く許可を願ったが「イエスは彼に許さず」と拒否され、彼は「自分の家、あんたの同胞の許に行き、主があんたを憐れみ、あんたにどないに素晴らしい事をしてくれはったかを彼らに知らせなはれ。」と主イエスからデカポリスにおいて伝道命令を受けた。デカポリス地方に居る人たちに主イエスのことを伝え広める役割を受け、彼は御命令どおりに「その人は行って、イエスが自分にどないに素晴らしい事をしてくれはったかをデカポリスで言い広め始めた。」とあり、忠実にその任務を遂行したことが分かる。かように主イエスの御命令を受けてそのとおりにする人と、そうせえへん人の二種類に分かれる。拙者が何遍もブログで言うてるのに、言う事を聞かず、無視し、まともな投稿もせず、伝道活動をせえへんような人たちはあかん。そないな体たらくで救われるなんて思うな。
主イエスは何故悪霊を追い出しはった人を自分に付き従わせることを拒否し、そこの地域の人に言い広めるように御指示しはったのか。いつもは主イエスのことを言いふらさんようにと口止めすることが多いにも拘らず。かように、主イエスは先に人間に気付きや解放を提供し、それを受けた人がその重要性に気付き、恩に報いたい、神に従いたいと思うなら、伝道をすることが求められてることが分かるだろう。せやから、拙者は伝道は重要な務めやと言うてるし、伝道せん人はキリスト者失格やと言うてるんや。

また、あんたらに言うておく事がある。先に与える事が重要やということを。与えられるよりも与える事が喜びと心から思えて行動する人はキリスト者の素質がある。拙者が実際にやって見本を見せてるとおりで、あんたら読者に無償で伝道し、情報提供したり、教会で監督したりしてる。あんたらから拙者に何かを与えてもろたことはほぼ無い。無償で読むだけ読んで何もせん人や、「長い」等と訳の分からん文句を言うて根を上げてきちんと読まへん等という人たちは他者にええものを与えることもせえへんし、ほんまに無能な恥知らずや。主イエスは父なる神の教えを伝えに来はったということは、ヨハネによる福音書でしきりに言われてることで、主イエスは福音伝道や神の教えを人間に教えることで金銭等を請求しはったことは一切無く、拙者も同じや。そして、世の多くの人々は商いばかりし、何かをするのに対価を必ずといってええ程請求する。一般に、労務を提供することは仕事であり、対価を要求すること自体は当然のことであり、間違いではない。日銭を稼がねば生活でけへんのが実態やしな。聖書にも仕事をすることで糧を得るのは当然と律法の掟に存在する。しかし、過去記事「天に富を蓄えよ」でも天に富を積むようにという主イエスの教えを伝えたとおりや。また、その富のある所がその人の心もあるとのことで、この世で金儲けに執着したり、この世で財産を蓄えてばかりの人たちは、この世に心があることになり、後の世の事は一切考えてへんという証明になる。前回記事「キリスト者の覚悟」でも米国の牧師や宣教師等が金儲けばかりしてることを非難したとおりで、金持ちはキリスト者では有り得へん。故に、どないな職業であろうとも金持ちは神が居てはる天の王国には行くことがでけへんということになり、主イエスの教えもこのとおりや。逆に、拙者のように天に富を蓄えてる人はこの世で富を蓄えず、天の王国に富を蓄えてる。天に富を蓄えるという仕事をせず、この世の生活のためのみに金儲けに勤しんだり、仕事をしてる人たちよ、悔い改めなはれ。そないな事をし続けても、死後に希望は無いで。本能の趣くままに性欲の虜になって婚外性交等をせず、神を無視して放縦な獣のような生き方をやめなはれ。時間切れになって間に合わへんかったら、ほんまに後悔してもし切れへんで。自由な時が多く残ってると思うでない。情勢を見れば、刻一刻と最悪の状況が近付いてることは分かるやろ。日本では、ナチスを真似た改憲の危険性があったり、健康保険証を廃止して個人番号券に統合したり(運転免許証まで統合の話もある)、支那のような社会信用得点制度が導入されれば超共産主義社会に早変わりやで。それらが実現したら、もはやまともな人は生きて行けへんからや。滅亡が近付いてると早よ理解し、聖書や当ブログ等で学び、賢く備えなはれ。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上