こんにちは。

今回は、キリスト者の覚悟について述べます。

 



いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会が不法行為に満ちて荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
また、当ブログに投稿した人に対して陰で別の場所で集まるように勧誘してる者が居り、そないな者たちは、ただ集まりさえすれば良いと勘違いして、一向に成長が見られへんさかい、やめるように勧告します。誰でも入れる所、敷居が低い所にはそれなりの人しか集まらず、そないな人たちが集まったところで、何も成し遂げられず、うだつが上がらへん状態が長く続き、そない程度の低いものに慣れるとそこから脱却しようともしなくなり、後に信仰からも脱落してまうことが予想されます。実際、そないな集まりに甘んじてる人はこちらに入れず仕舞いやからや。せやから、そないな誘いにも乗らんように注意しなはれ。たとえ当教会に入るためとか、一緒に集まって励まし合うため等と言い、一見して協力してるかのように見せかけていても、その実、客観的に見れば、こちらに入ろうとする者の邪魔をしてることになり、散らす者であるからや。遠回りや寄り道をせんと、真っ直ぐにこちらに来る努力をすべきです。別の場に集まって安心することで、こちらに来るために必死になろうとせず、何年ものらりくらりして、最悪こっちに来なくてもいいやってなるのが懸念点で、実際にそうなってる人たちが居り、そないな人たちと調子を合わせてたらあかん。理解したら、余計な事をせず、真っ直ぐにこちらに来る努力のみをしなはれ。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってる、本来ならば有料で対応して然るべき案件であるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思わんといてください。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。



もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
一般的な質問は、アメブロIDを取得した上で、キリスト道の「質疑応答」にご投稿ください。
また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、かつ、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。



 

【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】


・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)


・当ブログを知った時期


・何故当ブログを読もうと思ったのか


・何を期待して相談や投稿をしたのか



 

これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。
集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。

 



拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。


ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。

 



さて、本題に入ります。キリスト者の覚悟については、過去にも何遍も言及してきたことであり、新しい内容ではないが、全然理解してへん人が多過ぎる故、改めて言うておく。世の自称キリスト者の覚悟が甘過ぎるとか、勘違いし過ぎてる点について指摘し、その上で、真のキリスト者ならば、どうあらねばならへんのか、きちんと示しておく。主イエスの行動や御言葉から真のキリスト者はどう振る舞うべきなのか、どう生きて行くべきなのかを知り、実践しましょう。何遍も言うてるが、知っただけで行わへんのは不信仰です。キリスト者である、信仰者であると言うなら、行いで示しましょう。でなければ、口先だけの嘘つきであり、地獄行きが確定するで(黙示録二十一章八節)。

新約聖書 マタイによる福音書 八章十八節〜二十七節(拙訳)
さて、イエスは、御自分の周りの大群衆を見て、向こうに行くように命じはった。すると、一人の律法学者が来て、「先生、あんたが行く所なら何処でも付き従います」と彼(イエス)に言うた。そして、イエスは彼に言わはる。「狐は穴を、空の鳥は巣を持つが、人の子は頭を置く場を持たへん。」更に、彼(イエス)の弟子たちの他の一人が彼(イエス)に、「主よ、まず、我が父を葬りに行くことを許してください」と言うた。しかし、 イエスは彼に言わはった。「我に付き従いなはれ。そして、死んでる者たちに、自分たちの死者を葬らせなはれ。」
そして、彼(イエス)の舟への乗り込みに、彼(イエス)の弟子たちは彼(イエス)に付いて行った。 すると、見よ、湖に激しい嵐が起こり、それ故に舟は波に呑まれたが、彼(イエス)は眠ってはった。そして、彼の弟子たちは近寄って彼を起こして言う。「主よ、助けてください。我等は死にます。」 すると、(イエスは)彼らに言わはる。「何故怖がってるんか、信仰の薄い者たちよ。」それから、(イエスは)起こされて風と湖に叱りはった。すると、大いなる凪になった。 しかし、人々は不思議に思て言う。「彼(イエス)はどないな御方なんやろ。風や湖さえも聞き従うとは。」


一、主イエスは多数派の人間を退ける
上記聖句で「イエスは、御自分の周りの大群衆を見て、向こうに行くように命じはった。」という主イエスの行いと御言葉から明白なとおり、大群衆という多数派に「向こうに行け、あっち行け」と言うて追い払い、しかも、かように「命令した」というのは非常に手厳しいものを感じ、この主イエスの姿勢は注目に値するものです。市販の聖書では、これを弟子たちに命じたと書いてるが、古代ギリシア語の原文には「弟子たち」という言葉は無い。せやから、文脈的に大群衆が命じられた対象であることは明白である。更に、二十三節を見ても分かるとおり、主イエスの後に続いて弟子たちが舟に乗り込んだとあるさかい、もし主イエスが弟子たちに先に行くように命じたとしたら、主イエスが後に続く筈で、矛盾する。せやから、弟子たちに先に行くように命じたという事実は無く、文脈を正しく理解すれば、弟子たちは主イエスの後に付いて行くというのが事実である。よって、市販の聖書の翻訳は誤っており、意図的にこの部分を誤訳しており、主イエスが大群衆を追い払ったという事実を隠そうとしたことが分かるし、かつ、原文に存在せえへん言葉を勝手に付け加えて文意を歪曲してる。ほんまに許されざる悪い行いや。
過去に書いたとおり、この世の多数派は、不信仰者や異教徒やにわか信者の集まりであり、現世利益を欲しがる利己主義者が多く、好奇心から奇跡等を見たがるだけという野次馬の傍観者に過ぎひん人間の集団や。パウロ教信者や律法主義者たちは、キリスト信仰が無いのに口先だけで信仰があると軽々しく嘘を言い、信仰があるという事を証明する行いが伴わへんし、役に立たへん無能な愚か者である。そないな多数派の人間を救う予定も無く、それ故、神に仕えず、神や真のキリスト者の役に立たへんような人間は、主イエスから退けられる。過去記事「携挙の真実」でも書いた「イエスは群衆を追い払い」(マタイ十三章三十六節拙訳)でも同様である。主イエスは御自分の民が誰であるか明確に分かってはる故、たとえ自分の周りに集まって来ようとも神の民ではない者を救うこともないし、懇切丁寧に対応する気も無く、心の底から信じて従わへん口先だけの嘘つきや邪な事を考えてる心が悪い群衆を遠ざけるんや。

二、主イエスは心を読みはる
上記聖句で、「先生、あんたが行く所なら何処でも付き従います。」と言うた律法学者に対し、主イエスは「狐は穴を、空の鳥は巣を持つが、人の子は頭を置く場を持たへん。」と返しはった。これは、多数派である群衆に対して「向こうに行け、あっち行け」と言うて退けはった後で、律法学者は「自分は滅びるべき多数派のようではない」ということを暗に言いたかったように思える。もし、その律法学者が真摯に信仰に入りたいと考えてるか、若しくは、既に立派な信仰者ならば、主イエスは「よろしい、我に付き従いなはれ」と率直に答えはったであろうが、そうではない。主イエスは、その律法学者の言葉の直接的な答えや肯定的な事を言わはるどころか、相手の心を見透かした上で否定的な事、間接的にその律法学者が傍に居ることを拒絶するような事を言わはった。主イエスのお返事は、主イエスには定住する場所、安心して長く生活出来る家、他人を迎え入れる家を持ってへんという内容や。故に、あの律法学者は、信仰がある振りをして近付いてきたが、心の中ではそうではないということを主イエスは見抜き、暗に彼が弟子となるのを断る旨を表明しはった。主イエスがかようなお返事をしはった理由は、その律法学者が主イエスは神の子であると知り、主イエスに付き従って弟子(キリスト者)になれば、後でその律法学者が大きな現世利益を得られるかもしれへん、金持ちになれるかもとか、統治者になれるかも等といった欲望を持っていたからでしょう。せやから、主イエスはその律法学者の心を読んで、「あんたが我に従ったところで、その願望が叶うことはない」と遠回しに回答し、拒絶しはったということや。
これは、過去の話に留まらず、現代でも同じです。拙者の許に来たいと申請する人が居るけども、少し話をしたらすぐに諦めるとか引き下がることがある。これと似たようなものと言えよう。それは甘い考えで簡単にキリスト者になれるとか天国に入れると考えてるとか、覚悟が甘いからや。かように簡単に永遠の命を諦めて地獄行きを受け入れるような人や信仰を行いで示せへん人は救われへんであろう。ほんまに生半可な生き方や気持ちの状態の人や怠惰で役に立つことをせえへん人は、信仰者として失格なのは勿論のこと、この世でも何一つ偉業を成し遂げることはないであろう。

三、現世利益を欲する者はキリスト者ではない
先の話の続きで、主イエスの律法学者への回答は、狐や鳥といった動物ですら、それぞれ暮らしの拠点となる巣を持ってるのに、主イエスはそないな場を持たへんということを示しはった。実際、主イエスは公生涯においては各地を転々とする生活をしはった。この事実からも主イエスはこの世では一切の財産を持たぬ状態か分かるやろ。福音書を見て分かるとおり、主イエスは神の子でありながら、この世では大きな屋敷や大金を持たず、権力者にもならず、世の権力者や金持ち等と仲良くすることもなく、贅沢したこともなかった。
こちら(YouTube)で、米国の拝金主義者の牧師や宣教師等が、「繁栄の神学」と称してこの世での成功を夢見させて、それに惹かれるパウロ教徒どもを集めて、献金を巻き上げ、金持ちであることを隠そうともせず、開き直って貪欲さを曝け出し、悔い改める素振りすらない様子がよう分かるやろ。こんなんは氷山の一角でしかなく、世界中の宗教団体において何処でも似たようなことが行われてる。日本も同じで、多くの宗教団体が宗教法人として認可されることで税金を殆ど納めず、一般人を騙して金銭を巻き上げたり、性的搾取をしてる。また、カルト宗教信者が国会議員や官僚や司法機関等といった公務員になり、政教分離を定める憲法に違反し、強く非難したり適正に処罰する者が居らず、それ故に売国政策と不法行為が平然と行われ続けてる。
拙者が過去に何遍も聖句を引用したとおり、「あんた方に確かに言うとく。金持ちが天の王国に入ることはほぼない。重ねてあんた方に言うが、金持ちを神の王国に入れるよりも、らくだを針の穴に通す方が易しい。」(マタイ十九章二十三節〜二十四節拙訳)と主イエスが断言しはってるとおり、金持ちが天国に行くことはほぼない。せやのに、パウロ教信者の牧師や宣教師どもは自分たちが救われて天国に行けると勝手に妄想し、そないな反キリストどもに金銭を貢ぎ続けたり、性的搾取の対象になりに行く信者も同罪であり、救われることはないだろう。金儲けは、所詮この世の現世利益であり、この世が滅ぶ時、その者が死ぬ時には持ってる財産はすべて手放さざるを得ないもので、なんぼようけこの世で財産を蓄えたとて虚しい。ルカ十二章十三節〜二十一節の「愚かな金持ち」の例え話でも言われてるとおりのことや。それでも、この事が理解出来ず、一時的な快適さや快楽を得るために、魂を売り、金儲けを人生で第一に為すべき事にし、律法違犯をし続けて悔い改めず、地獄行きを確定させる人間が多い。「誰も二人の主人に仕えることはでけへん。一方を嫌って他方を愛するか、一方に忠誠を尽くして他方を蔑ろにするか、やさかい。神と富(の両方)に仕えられへん。」(マタイ六章二十四節拙訳)とも明確に主イエスによって言われてんのに、それを無視して違反してんねんから、救われることはないだろう。せやから、主イエスの生き方に倣い、主イエスの教えを守る真のキリスト者は決して金持ちではないし、金持ちになりたいとか多くの財産を得たいと思ってもいない。それ故、金銭等の富を熱心に追い求めたり、必要以上の金儲けのために世俗の仕事に多大な時間と労力を割いてる者は皆、反キリストであり、神に仕えず(神に仕えてるとかキリスト者であると自称しても行いが伴ってへんため、無意味どころか嘘であり、大変悪質)、悪魔に従う者であることを意味する。
拙者が用意してる集いの場や教会に入りたいという申請をもらうことがあるけども、幾らか問答を経たら、やっぱりやめるという旨の回答をする者が複数人居った。何なんでしょうかね。覚悟が甘い、信仰生活に自分の時間や労力を使う生き方をする気が無い(神への愛や隣人愛の欠如)、この世で生きることやこの世で楽しむことを第一にするという気持ちがあるから、後ろを振り返って逃げるとか、途中で耐え切れずに脱落するってことになるのだろう。そないな人たちは、神の王国に相応しない。それは主イエスが明言しはってることでもあるからや。拙者が勝手に決めてるのではないさかい、勘違いせんように。聖書から分かるとおり、キリスト者としての信仰生活は、裕福で贅沢出来るものではないし、権力者や多数派と仲良くする道でもない故、決して楽な道ではない。それ故に、狭い門であり、苦しめられる道なんや。主イエスの教えに明確に反してる世の諸教会といったパウロ教信者という偽り者どもや、不信仰者や異教徒で構成されるこの世の多数派が集まって楽しそうにワイワイやってても、後で地獄を見ることは確実です。そして、主イエスから教えられた事をすべてきちんと守ってへん人、伝道活動やええ行いをしてへん人、神と神の民にとって役に立つ事をしてへんのにキリスト者やと勝手に自称して自己満足してるような人たちも地獄を見ますよ。

四、ほんまもんの弟子は師である主イエスに従うことが第一
先の律法学者とは異なり、今度は弟子の一人が「主よ、まず、我が父を葬りに行くことを許してください。」と言うと、「我に付き従いなはれ。そして、死んでる者たちに、自分たちの死者を葬らせなはれ。」と主イエスは回答しはった。あんた方は、この対応の差に気が付いたやろか。主イエスから付き従うように言われてるだけ、見込み有りってことです。ただ、その後の「死んでる者たちに、自分たちの死者を葬らせなはれ。」という主イエスの御命令に従わぬのなら、見込み無しになってしまう。もしこう拙者から言われへんと気付かず、漫然と読み飛ばしてるようではまだまだやで。主イエスを師と仰ぐ弟子なら(キリスト者なら)、師である主イエスから何かするようにという御命令や戒めに対しては、「はい」以外の返答は有り得へんと思いなはれ。「でも〜」、「だって〜」等と口答えしたり、言い訳をするなら、弟子ではない。師から何かするように言われたら、「はい」と即答して行うのが良い弟子である。かように子供のように素直な人だけが救われるのである。故に、断ったり、言い訳してやらへん、返事だけはするが行わへん者は弟子ではないし、救われることはない。
この箇所では、弟子の家族に不幸があったということが分かり、普通なら、父親という近親者の葬式等となれば、「そうか、行って来てええよ」となるところや。現代で会社や学校に在籍してて、かような身内の不幸があったら欠勤や欠席が正当なものとして認められるし、誰も「父親の葬式なんかに行くな」等と止める人は居らんであろう。しかし、主イエスはそうではないんですよ。おそらくこの主イエスの御発言を見て、多くの人は「なんて心が無いんだ。酷い。」等と思うであろう。自分の父親が死んだのに、「葬式なんかに行ってる場合か。そんなのは霊的に死んでる不信仰の者たちにさせておけ。それよりも自分に付き従って、弟子(キリスト者)としての務めをしろ。」という内容の御命令なんですよね。世の人々は何も考えず感情論で物を言いがちなんやが、本質を考えてもらいたい。これは決して親を蔑ろにしろとか、そういう意味での御言葉ではない。
そもそも、基本的に人は死んだら終わりという話は過去にもしたことがあり、死後には死者はこの世と関わりを持てなくなります。これは事実です。現にあんたらは死者と意思疎通がでけへんやろ。今まで死んだ人がこの世で何かした事があったか。一切無いやろ。それで答えが出てるやないか。幽霊がどうのとか夢で会うた等と言うてる人は、聖書を知らんから勘違いしてるし、霊媒行為等も律法で禁止されてるし、悪霊との交信を死んだ人との交信と勘違いしてる。せやから、死後に死者のために何かしたところで意味は無いと理解せい。重要なんは、生きてる間です。ほんまに大事に思う相手なら、生きてる間にきちんと行いで示しなはれ。
人は誰でも、この世で生きてる時にした行いや発した言葉等によって神から裁かれる。不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)は、基本的にお先真っ暗であり、天国行きは無い。それが聖書が教える真実や。せやから、不信仰で死んでしまった人に構うことは基本的に無意味です。また、生前殆ど連絡もせず、会う時間も取らず等と大した事をせえへんという生きてる間は冷たかったくせに、死んだ途端に優しい言葉を言う等という偽善的な性格の人が現代で非常に多いと個人的に感じてます。ほんまに頭おかしいんですよ、世間の多数派の考え方や行いこそが。死んでから「良い人だった。」とか「残念です。」等と心にも無い嘘をぬけぬけと言う偽善者が多い。ほんまにそう思ってんなら、生前にもっと頻繁に交流してた筈やろ。大して面識も無いとか、会おうともせんかったとかあるやろに、それなのに訃報を聞いた途端、悲しむ素振りをする人を見ると、イライラする。死後に「ああだ、こうだ」言うても何の意味も無く、生きてる間にすべき事をすべきやと言う事が言いたいのです。生前大した事をせんかった人が、誰かの死後に綺麗事を言うても偽善でしかなく、嘘つきで、きしょいだけです。親孝行にしても、親が生きてる間にすべきであって、それをせんのに、死んでから葬式を立派にしようとか、墓を立派にしようとか、そんなんしても無駄やし、偽善なんですよ。偽善行為をしたり、偽善を支持したりせんと、ほんまもんの善人になるべきです。ほんまもんの善人は、生きてる間にきちんと言葉と行いで示す誠実な人です。せやから、主イエスは、死者に対して出来る事は何も無いんやから、「我に付き従いなはれ。」と指示しはり、不信仰者の埋葬については、同じく不信仰で霊的に死んでる人たちに処理させろと言わはったということや。キリスト者(主イエスの弟子)の覚悟は、こういうことです。聖書的価値観をきちんと持ってるかが問われます。聖書を知らぬ、または、聖書に書かれてる神の御言葉に聞き従わぬ世間の人たちに非難されたくなくて異教の習慣の葬式を行ったり、それに参加して宗教的儀式をしたりすれば、偶像礼拝の大罪を犯すことになり、真のキリスト者はそれを忌避すべきです。また、日本国憲法二十条二項に「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」とあり、如何なる人も宗教的な葬式や儀式に参列することや弔電や香典を出すことも強制されず、家族や親族と言えども強制でけへんさかい、毅然として断りましょう。ただ、当該死者を悼む気持ちがあるなら、その意を遺族に伝えるとかをするのは何ら問題は無い。しかし、どっかの場所を借りて食事会をしたり等と多大な費用を掛けて派手に葬式なんてする必要は無く、坊主を呼ぶ必要も牧師等を呼ぶ必要も無い。そないな儀式をしても残された者の自己満足でしかなく、死者はそれをありがたいと思うことも感想を言うこともでけへんし、まったく無駄な行いでしかあらへん。せやから、直葬だけで終わらせる方が費用的に安上がりやし、時短やし、適切な処理と言えます。そして、不信仰の多数派の世間に嫌われることを恐れていては、とてもではないが、キリスト者(主イエスの弟子)は務まらへん。その事を理解すべきで、理解したら、きちんと行いで示しましょう。他人の目や評判を気にして行いで示せへん人は、不信仰という判断が神からなされるのだと思いましょう。

五、臆病は不信仰の証し
ガリラヤ湖で舟に乗ってから主イエスは眠りはり、そんな中で激しい嵐に見舞われ、波に呑まれて弟子たちが「主よ、助けてください。我等は死にます。」と言うて主イエスを起こし、助けを求めた。主イエスは「おぉ、大変だ。待ってろ、すぐに何とかする。」等と言わず、まず言わはったんは、「何故怖がってるんか、信仰の薄い者たちよ。」という叱責であった。何故主イエスは弟子たちに叱責しはったか。それは、弟子たちの信仰の薄さを咎めたかったからや。主イエスが同じ舟に乗っていながら、舟が沈没して死にそうという発言と態度やったさかい、主イエスは「信仰の薄い者たちよ。」と怒りはった。主イエスが神の子、救世主とほんまに信じてるなら、同じ舟に乗ってて死ぬ訳が無い、または師である主イエスと共に死ぬのなら本望と強く思ていなければならんというこっちゃ。主イエスが近く居り、それで死ぬなんて思て怖がって慌てふためくんは、信仰が薄い、信仰が殆ど無いっていう危険な状態故に、主イエスは叱責せずにはおられへんということや。これは、神が弟子たちを試したと言えよう。嵐を起こして、弟子たちがどないな反応をするかを試したということや。「主イエスが側に居るから大丈夫や」と固く信じてるなら、慌てふためくことはなく、どっしり構えて居たであろう。しかし、実際は、「助けてー、死ぬー。」という惨めな反応であったさかい、主イエスは弟子たちを叱責しはった。あくまで当時のことであり、十二使徒たちは後に立派に成長した。主イエスの公生涯の間は、十二使徒といえども、まだまだ修行中の身であったのがよう分かるやろ。現代を生きる我等にも適用されることであり、何か艱難が襲ってきた場合、どないな反応をするかによって、神の評価が変わるということや。それをよう覚えとき。そして、怖がるのは臆病ということに他ならず、臆病者は地獄行き(黙示録二十一章八節)と書かれてるとおりで、天国行きが潰える悪い気質とされる。なぜなら、上述したとおり、臆病であるのは信仰が薄い証拠であるからで、不信仰と同等やからや。せやから、臆病であると感じてる人は、さっさと克服する必要があります。

 

 

また、「人々は不思議に思て言う。「彼(イエス)はどないな御方なんやろ。風や湖さえも聞き従うとは。」 」という箇所は、マルコやルカの福音書を見れば明らかなとおり、この「人々」とは弟子たちを指す。マタイの古代ギリシア語原文が弟子たちという単語やのうて、一般の「人々」という単語を使用してる関係上、拙者は原語どおりに訳しただけで、実際はここでは弟子たちを指す。状況的にも当然と言える。なぜなら、上記聖句の文脈で、まず主イエスは群衆を追い払い、主イエスがガリラヤ湖の舟に乗り込んで、弟子たちも後に続いて乗り、離岸してちょっとしたら嵐になったんやから、主イエスと弟子たちしかそのやり取りを知る者は居らんのやから、群衆といった一般の人々を指す訳がない。そして、弟子たちは主イエスが風と湖を叱って鎮めたことに対し、「彼(イエス)はどないな御方なんやろ。」と不思議に思ったというのであるから、この時点では十二使徒は未だ主イエスを神の子、メシアと信じ切ってへんかったということになる。それ故、先の慌てふためきようにも現れており、主イエスから信仰が薄いと怒られた。かように、臆病な状態は信仰が殆ど無い状態と言え、救われるに相応しいと神に認められる状態ではない。せやから、現代を生きる我々もこの教訓を学び、早々に臆病を克服する必要がある。
真のキリスト者になりたいなら、この悪い世俗社会で金持ちになるとか、為政者の仲間になろうとか、大勢の人から好かれる等といった野望を捨て、多くの人々から嫌われるキリスト道を歩むと潔く覚悟を決めて進むことが重要です。何年も迷いながらのらりくらりしたり、この世を楽しむ、この世で生き長らえることを目指すようでは、臆病さを克服することも救われることも難しい。拙者が聖書の主イエスの教えを引用して言うてるとおり、自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活してなければ、何かを失う恐れが出てきてしまい、臆病さを克服することは不可能やからや。社会的地位を保持したり、財産を保持したり、人脈等といったこの俗世の人間関係や交友関係を保持しようという思いが強いと、それらを失う恐れが救いの邪魔をするんや。それ故、主イエスは財産や社会的地位も余計な人間関係(人脈)も持たず、すべてを捨てるように教えはった。かように、神のためにすべてを捨ててる人は強いのです。「〜を失ったらどうしよう」等と案じてるような人はあかんし、不信仰と言えるような状態です。中途半端な姿勢や思いや生き方では、神から認められることはない故、キリスト者と自称してても何の意味も無い。

上述したとおり、拙者の所に来ようとする人がすぐに諦める傾向があるんは、覚悟が甘い、次の世の事を考えずにこの世で生き長らえようとする意志が強い、この世の娯楽や快楽から離れへん、神のためにすべてを捨てることがでけへんのが要因です。そして、誤解せんといて欲しいんは、申請の段階から既に「完全な者」であることを要求してへんということです。当教会の募集要項を見ても明らかなとおり、誰でもやろうと思えば出来ることばかりで、入る前から完全である状態を求めてへんよ。入ってからそれを目指すということでまったく問題無いのです。ただ、入っても何もせえへんとか、貢献もせずに役立たずであるのは困るさかい、そないな人は断ってるだけです。会社の採用選考も同じでしょう。継続的に真面目に働いて会社に貢献出来そうと判断された人に内定が出るのが普通やろ。貢献しなさそう、すぐに辞めそう、目指してる方向が異なる、当該会社の経営者が作り出す風紀や秩序を乱したり逆らうだろう等と思われると不採用になる。但し、世の官公庁や企業の上層部や人事部員に正しく人を評価する頭と目と心が無いのが殆どやさかい、拙者と彼らの基準や考え方は完全に同じではないことには留意すべきや。かように、拙者は至極当たり前のことしか要求しておらず、何も特別な事をあんた方に要求してるんやないで。キリスト者として最低限の事をこなし、それを自主的に継続出来るか、聖書で書かれてる主イエスの教えを実践してるか、そうして成長して行くか等といった点を見てるのです。おそらく、神もそないな基準ですべての人間を評価及び裁きはるでしょう。そないな当たり前の事がでけへん人が多いのが問題です。しかし、そないな人がこの世の多数派であり、それ故に、救われるんは狭い門なんや。過去記事「多数派に属す者は破滅に至る」や他の過去記事でも散々言うたとおり、多数派は救われへんのやから、多数派と同じような格好や言葉遣いや行動をしててはあかんのは明らかやろ。ほんまにええ加減理解し、優柔不断をやめ、潔く覚悟を決め、最期までやり抜いてください。その覚悟を決めたら、拙者の許に来なはれ。そうして互いに切磋琢磨し、成長し、主イエスに認められる者に共になれることを願うてます。
また、こちら(メモ・独り言のblog)にあるとおり、メタ社(旧フェイスブック社)の創業者マーク・ザッカーバーグ氏やペイパルの共同創業者のピーター・ティール氏といった世の大富豪たちが、この世の終わりである終末、即ち、キリストの再臨に備えて巨大な地下壕を建設してることが分かります。彼らは不信仰で金持ちであるが故に救われへん側の人たちであり、それ故に備えてるのです。しかし、聖書で示されてる事を拙者が過去に説明したとおり、この世が悪魔や悪人どもと共に滅ぶさかい、地下壕(シェルター)等の準備をしたところでまったく無駄です。キリスト信仰者なら、かようなことをする必要も無いし、彼らのような莫大な資金も無いです。かように大富豪たちがキリストの再臨に備えてることは過去記事「千年王国の真実 後編」でも書いたとおりで、拙者が二千十七年に言うたことです。それなのに、多くの人々は信じず、その時から六年以上経った今に至るまで何もせず、利己主義で、ぐうたらし、神や神の民にとって役に立つ行いをせず、政府や報道機関といった世の権威が言う嘘を信じ切って堕落し続けてる。ほんまにええ加減にせい。さっさと目を覚まし、拙者の言うことが正しいと理解したら、行動に移しなはれ。この悪い世に迎合してしがみつくとか、世の諸教会のいずれにか所属して通うとか、他の集まりに行く等と意味が無い事や無駄な事をせず、真っ直ぐにこちらに来るように。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上