こんにちは。
今回は、二種類の基礎について述べます。
いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会がこれ程荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。この記事に対しては決意表明でも、何でもええから、何か投稿しに来てください。おそらく、何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思うなよ。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。
もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
一般的な質問は、アメブロIDを取得した上で、キリスト道の「質疑応答」にご投稿ください。
また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。
【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】
・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)
・当ブログを知った時期
・何故当ブログを読もうと思ったのか
・何を期待して相談や投稿をしたのか
これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。
集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。
拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。
ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。
さて、本題に入ります。福音書にある主イエス・キリストの教えの一つであり、多くの者が勘違いしたり、理解してへんと思われることやさかい、きちんと読み込んで理解し、その上で、「行う者」になりましょう。過去から拙者が何遍も行動を呼び掛けてるのに、多くの人々が全然応答せえへんし、行いで信仰を示さず、人として正しい行いもしてへん。それ故、拙者ばかりが日本と日本人の行く末に危機感を感じて、伝道を続けてる。世相が悪化して最後にはこの世は主イエス・キリストが再臨しはった時に滅亡することが決まってるんやが、その時までに救われる人を一人でも増やしたいっていう思いで拙者は活動し続けてるんや。その仲間になりたいなら、上述したことをよう読んで、手続きを踏んで、来てください。神に認められる人材になれるように一緒に頑張りましょう。
しかし、肝心の多数派の日本人たちが西洋かぶれして悪い世俗的な生き方に満足し、危機感も正義感も無く、正常な知性が無いような状態やさかい、まったく生きてる世界が異なってる。不信仰こそが世の悪化に直結してることをええ加減理解しなはれ。過去記事「日本人の問題点 一」でも書いたとおり、日本がこれ程悪い状況なんは、日本人は古代イスラエル人の末裔であり、それにも拘らず不信仰者が多く、律法違犯の報い(呪い)、神との契約違反の結果やと言うてるやろ。世間の人々の多くの目が節穴で、真理を理解せず現実逃避し、悔い改めの必要性を感じてへんのやろけど、悔い改めへんのなら地獄行きになると言うたやろ。拙者が勝手に言うてるんやのうて、聖書にて主イエス・キリストが述べてはることやし、旧約時代から主なる神が一貫して教えはり、預言者たちが警告してきたことでもある。この声に聞き従わず、行いで見せへんようなら、どうなっても知らんで。
さて、マタイの福音書を拙者が訳したものを載せるさかい、よう読みなはれ。
新約聖書 マタイによる福音書 七章二十四節〜二十九節(拙訳)
それ故、これらの我が言う事を聞いて行う者、その者を岩の上に自分の家を建てた賢い男に準えるだろう。
そして、雨が降って来て、洪水が来て、風が吹き付けて、その家に打ち付けたら倒壊せんかった。岩の上に基礎を据えられてたからや。
しかし、これらの我が言う事を聞いて行わへん者は、砂の上に自分の家を建てた愚かな男に準えられるだろう。
そして、雨が降って来て、洪水が来て、風が吹き付けて、その家に打ち付けたら倒壊し、その没落は甚大やった。
また、イエスがこれらの説教を終えはった時、そうなり、群衆は彼の教えに驚いた。
それらの教えが、律法学者のようやのうて、権威を持つ者のようやったからや。
一、行いが重要
過去から何遍も言うてきたとおり、また、上記聖句に「これらの我が言う事を聞いて行う者」と主イエスが言わはったとおり、主イエスが教えはった事を行わへん人は無能であり、役立たずです。何遍言わせれば気が済むんでしょうかね、前回記事「成功するためには」でも繰り返し呼び掛けたにも拘らず、相変わらず何も言わず傍観者で在り続ける多くの読者、当ブログを読みもせえへん者、拒絶したり陰口を叩いたり、中傷してる輩どもは。自分たちが無能ってことに気付いてへんのでしょうか。それとも、「無能で結構です」と言わんばかりに開き直ってるのか。そのどちらかであろうが、その悪い態度を改めな、明るい希望は無いで。どちらにしても地獄行きは免れへんで。悔い改めて、生き方や態度や行いを改善する以外に救われることは有り得へんのやから。自分自身を勝手にキリスト者やと思い込み、拙者のブログや動画を見聞きしただけで終わって、伝道や宣伝等を行わず、こちらと一緒に集まりもせず、傍観者で居続けてる人は無能の役立たずで、反キリストやで。行わへんのやからそう看做されて当然と思いなはれ。
また、世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)や諸教派に属す者やキリスト者を自称する者でパウロを熱烈に支持してるパウロ教信者や一部の律法主義者どもは、主イエスの教えをまったく実践せずに逆らい、律法を無視して破る不法の者及び罪人で在り続け、神と神の民にとって役に立つようなことをせえへん無能や。過去記事「パウロは偽使徒」、「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」、「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」等で、拙者がパウロは偽使徒であると聖書を根拠に明らかな証拠を提示しながら論証したのに、未だにパウロは偽使徒であると認めようとせえへん惨めな狂人、パウロ大好き病の反キリストどもに救いは無い。
主イエスが、「これらの我が言う事」と言わはった内容は、文脈から考えて、マタイ五章の初めから始まって七章の終わりまでの内容を指す。これは、所謂「山上の垂訓(説教)」と呼ばれるものや。山上の垂訓(説教)は、下図のとおりや。
その主イエス・キリストの教えの内容は、地の塩及び世の光になれ(キリスト者として神にとって役に立つと認められる有益な活動を、人々が見えるようにやれ)、律法を廃止せえへんから守れ、信仰の兄弟(パウロ教信者や律法主義者等を除く)に立腹するな、姦淫するな(想像だけでもあかん)、相手に不貞行為がある場合でない限り離婚するな、離婚した者と結婚するな、誓うな、復讐するな、敵をも愛せ(敵に与したり、不法を容認することを意味しない)、完全な者になれ、称賛されたくて人前で善行をするな、人前で祈るな、祈る際は言葉数を無駄に増やしたり同じ文言を繰り返すな、断食をする際も人に気付かれへんようにしろ、天に富を積め、体の灯火は目、神と富の両方に仕えられへん、着飾ることや食べ物や明日以降の将来を無駄に思い悩むな、神の王国と神の義を第一に求めたら他のものは適宜与えられる、自分の罪を棚に上げて人を裁くな、求めれば与えられる、自分がして欲しいと望む事を他人にもせい、狭い門を通って苦しめられる道を行け、滅びに通じる広い門と広い道を行く者が多く多数派に倣うな、羊のなりをする貪欲な狼の偽預言者を警戒せい、外見や印象なんかではなく人を実(行いや成果等)で判断せい、キリスト者と自称する者全員が救われるのではなく天の父の御意志を行う者が救われ、かつ、律法を守る者が救われ、律法を守らへん不法者は神が拒絶する、という内容が教えられてる。これらすべてを守る者、行う者でなければ、キリスト者とは言えへんということや。果たして、世の諸教会でこないな主イエスの教義を教えて、それを実際に守って行ってるやろか。否やろ。世の諸教会では、主イエスや主イエスから直々に教育を受けた十二使徒の話も全然教えられてへんやろ。むしろ、反キリストであるファリサイ派の偽使徒パウロの偽福音と偽教義ばっか教えられてるやろ。それでは絶対に救われへんよ。なんでそないなことも分からず、何年も世の諸教会等に漫然と所属して安心し切ってる愚かなにわか信者で在り続けてるのってことや。そないな行為をしたことがない拙者には考えられへん。悔い改めて、正しい道を歩くなら別に過去を非難したりはせえへんけども、一向に変えようとせえへん人たちは非難されて当然と思いなはれ。一世紀当時、ファリサイ派や律法学者等といった悔い改めようとせえへん者を非難しはった主イエスなら、現代の世の諸教会の有様をご覧になれば、絶対同じように非難しはるよ。
まず、律法を守らへんという時点でもうあかんのが明白やさかい。西洋かぶれをして、洋服を着て、誤った太陽暦(グレゴリオ暦)に従い、安息日や主の祝祭日を守らず、神の目に悪とされる仕事(律法に反する仕事内容や労働条件)をしたり、神と神の民にとって有益な事をせえへんかったり、空き時間に遊んでばかりの役立たずの有様では絶対に救われへんよ。主イエスの御言葉に従わず、それを実行せえへんのに、厚かましくも「キリスト者(クリスチャン)です」等と何故言えるんでしょうか。世の殆どのパウロ教信者や中途半端なにわか信者たちは、ほんまに頭おかしいやろ。ローマ教皇、司教、神父、牧師等の自称聖職者を含めてですよ。主イエスの教えを守ってへんのに、なんでキリスト者と言うて身分を偽るのか。そして、そないな偽り者どもに簡単に騙される愚民が何故かように多いのか。頼むから、もっと賢くなってくれ。もっと役に立つ人材になってくれ。最初から一気に全部は無理でも、少しずつでもええから、主イエスの教えに従うまともな人間になろうと努力しようよ。拙者は、それを一緒にやって行こうと声を掛け、手を差し伸べてるんや。それなのに、あたかもこちらがおかしい人、変人かのように冷たい目で遠くからジロジロ見るだけ、または、見ることも近付くことも拒絶する人が多い。昔から、この世ではいつも正しい人が嫌われ、疎まれる。「この世全体が悪い者の中にある」(ヨハネ一 五章十九節拙訳)故に、そないな定めであり、まともぶってる世の多数派こそが間違うてる。キリストの再臨の時になったら大逆転し、この世の権力者や多数派こそがおかしく、永遠の嫌悪の的になり、拙者が言うてることが正しかったと否応無く分かるよ。その時に後悔しても遅いからな。それだけは忘れるな。やり直すなら今の内や。
二、主イエスの教えを基礎とする者は賢い
主イエスは、「これらの我が言う事を聞いて行う者、その者を岩の上に自分の家を建てた賢い男に準(なぞら)える」と言わはった。岩とは、主イエスを指す。旧約預言でも岩、頭石等と例えられてるもので、これはメシアたる主イエスを指す。また、主イエスは十二使徒のシモンをペトロという岩という意味の名で呼び始めはったこともこれに関係する。即ち、ここで主イエスが聖書読者に伝えてはる要点は、岩である主イエスと十二使徒の言うことに聞き従う者は賢いということや。その理由も書かれてる。「岩の上に基礎を据えられてたから」、「雨が降って来て、洪水が来て、風が吹き付けて、その家に打ち付けたら倒壊せんかった。」と言われてる。これは、如何なる艱難が来ようとも、主イエスと十二使徒の言うことを基礎に据えて信仰生活をしてる賢い者は、動じたりせえへんし、信仰から脱落せえへんということや。今まで拙者は色んな脱落者を見てきたが、彼らは主イエスの御言葉に則って生きてへんかったさかい、この主イエスの教えは身に沁みる。途中で脱落するような人は、最初から覚悟が甘いし、自分自身に甘いんや。信仰が第一と言えるまでに全振り出来てへん。世俗的な他のことに興味を持っていたり、時間や費用を掛けたりして、結果的に信仰を捨てる結果になる。主イエスは、すべてを捨てて、自分を捨てて従うようにと教えてはるよね。主イエス御自身がこの俗世で支配者になろうとせず、金持ちになろうともせず、命の危機からも逃げず、御自分のお命すら惜しまず神の民の贖罪のために罪も無いのに十字架刑も受忍しはったことで、父なる神に従うとはどないな生き様なのかという模範を見せはった。その慈愛の大きさや生き方を理解し、従わぬ者は神の民ではない。主イエスから直々に学んだ十二使徒たちは、主イエスに従うためにすべてを捨てた。この世と世にあるものを愛するなと使徒ヨハネも手紙で書いたとおりで、真のキリスト者はそないな姿勢と覚悟でなければならぬ。この世で長生きしたいとか、世俗の仕事で稼ぎたいとか繁栄したい、娯楽を存分に楽しみたい、婚外性交のような快楽を楽しみたい等と思ってるようでは、地獄行きです。そないなことをしてる人は、主イエスの教えに逆らう故、反キリストであってキリスト者ではない。もし不信仰の家族が居って、家族の付き合いでたまに世俗的なことをやる位はええかもしれへんけども、そればっかに時間や労力や費用を使うようではあかん。あくまで、信仰が第一でなければあかんことを忘れるな。特に、キリスト者にとって肝心な継続的な伝道活動を疎かにしたりやめるとか、聖書を研究するのを疎かにしたりやめるとか、兄弟との交流等を疎かにしたりやめるようでは信仰の失格者や。世俗的な事をして、主イエスの「神の王国と神の義を第一に求めなはれ。そうすれば、これらすべてがあんた方に加えられるだろう。」(マタイ六章三十三節拙訳)という教えに従わぬ故に脱落すると、ええ加減気付いて、さっさと悪習慣をやめ、主イエスの教えを守りなはれ。主イエスは偽りを言わはらへんさかい、神の王国と神の義を第一に求める生活様式にしていれば、衣食住や必要なものはすべて加えられて困ることにはならんさかい、心配無い。せやから、主イエスを信じてるなら、その御言葉に従いなはれ。従わぬうちはキリスト者ではないし、救いも無い。
三、主イエスの教えを基礎とせえへん者は愚か
上記の二と逆のことが言われてる。主イエスと十二使徒に聞き従わへん者は愚か者と明確に言われてる。例えば、偽使徒パウロやパウロ教信者どもの言うことなんかに聞き従うことも愚かや。主イエスは公生涯において一度たりとも十二使徒以外に後で別枠で使徒を追加するようなことを言うこともなく、後の世の統治の座は十二しかないと明言しはったことも過去に説明済みや。せやから、十三番目の使徒の存在、パウロを使徒と信じる奴は愚かやし、反キリストなんですよ。世間の殆どが、ファリサイ派のパウロという偽り者の自称を真に受けてるだけってのが何故理解でけへんのか。パウロの使徒性を否定する証拠を拙者が提示したのに、未だ認めようとせえへん頭が狂った愚か者が多いこと…。どんだけ事実から逃げても世間の多数派が頑固で悔い改めへん故に救われへんのは揺るがへんし、パウロ教信者どもや不信仰者がどれだけ数多く滅びようとも実際に拙者には関係無いし、ほんまはどうでもええんよ。なぜなら、あんたらの殆どが地獄行きになろうとも、拙者には関係無いさかい。しかし、拙者はそれを不憫に思い、慈愛から、厚意から、あんた方のために自分の労力や時間を無償で遣い、世間に向けて広く周知して一人でも目が覚めて救われる人が出て来て欲しいと願い、悔い改めを促してるんです。それも理解せず、拙者を「悪魔の子」等と罵る者が居ったり、拙者がおかしいと中傷しまくったパウロ教の狂信者や自称無神論者が多い。旧約時代の預言者たちや洗礼者ヨハネの気持ちが痛い程分かる。ほんまに同じ仕打ちを受けてるもんね。いつの時代も、自分が正しいと勝手に思い込んでたり、神に仕えてると勘違いしてる邪悪な蝮の子らによって、真のキリスト者は迫害される。ほんまに、「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいことは何もあらへん。」(コヘレトの言葉一章九節拙訳)という言葉は真理やなと思う。
上述の一で山上の垂訓(説教)を引用したとおり、これらの主イエスの教えをあんたらは一つも漏らさずに守ってるか。特に、キリスト者(クリスチャン)と自称してる人たちよ。実際は、山上の垂訓(説教)だけでも「完全な者」になるのは未だ不十分であり、動物の犠牲や祭司制度等と今はしなくて良くなった部分以外のモーセの律法を今も守る必要もあるが、守ってるやろか。何遍も言うてるが、現代は服装を見るだけで不信仰の者は一発で分かる。大昔は外見だけはちゃんとしてる人がある程度居って、中身で見分けないかんかったけども、現代では西洋かぶれしてる人があまりに多過ぎて、程度が低過ぎて、中身は勿論のこと外見も過去以上に悪くなってるから、外見だけでもあかん人を簡単に見分けられる。勿論、拙者は、人を外見だけで判断するんやのうて、外見を整えてる人は中身も吟味します。外見だけ整えて中身が伴わへん人も居り、そないな人もあかん。かように段階があるんやけど、外見からしてあかんようでは、何も分かってへんよねって言わざるを得ない。世俗の就活も同じやろ。アホみたいに背広姿で他の洗脳民と同じような格好から入ってるやろ。それをせず他の服装では、門前払いになると知ってるからやろ。では、なんでキリスト信仰に入ろう、神の王国に入ろうとするキリスト者であると称しておきながら、服装から整えようとせえへんのかってこと。洋服を着るといった西洋かぶれをしながら神の王国に入れると思うな。主イエスは律法を守る人間を求めてはる故、異邦人である西洋人の文化や習慣なんて一切認めはらへんからや。律法に違反する洋服なんか着てては神に門前払いされると危機感を抱いて、変えろよ。このことに気付かへん、または、認めることを頑なに拒否し、「服装は何でも良いんだよ。洋服でいいんだよ。」とか「背広が良いんだよ」と言うなら、頭がおかしいんですよ。服装は何でも良いとか異邦人の服装を着用すべきという現代のあたおかの人たちは、聖書から洋服の正当性を答えられへんやろ。異邦人に倣う生き方を許容することなんて書かれておらず、むしろ主イエスは「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と教えはり、過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」でも書いたとおり、ゼファニヤ書一章八節で神は異邦人の服を着る者を罰すると宣言しはってる故、洋服等の異邦人の服装は禁止されてることは明白で、反論の余地は無い。せやから、現代の世間の多数派は単に洋服から脱却したくない言い訳、罪を犯すのをやめへんくだらん言い訳をしてるだけやろ。そないな人は何を言おうとも無駄で、問答無用で不信仰であり、神から拒絶されるだろう。行いがすべてを証明すると言うてるんはこのこと。口先だけで何と言おうとも無駄です。拙者は服装に関して守るべき点もその理由も答えたが、パウロ教信者や不信仰者たちは聖書的根拠を一切示さへんくせに聞き従わへん。せやから、聖書に基づくことしか言わへん拙者に楯突いたり同意せえへん頭と心が悪い人は皆、主イエスの教えに逆らう反キリストってことです。西洋かぶれをやめへん人たちに救いは無い。西洋人やその他の異邦人も、古代イスラエル人の末裔である日本人が過去に守り、拙者も守ってる神の律法に従わねば、救いは無い。律法(出エジプト記十二章四十九節、民数記十五章十五節〜十六節)に書いてるやろ、神の前にイスラエル人であろうが寄留者であろうが区別は無く、異邦人も同一の掟を守らねばならぬと。元々神から選ばれてへん異邦人が、異邦人のやり方を保持し続けてるようでもあかんと気付きなはれ。日本人は、西洋かぶれをやめ、支那人や朝鮮人等といった他の異邦人にも倣うな。これらのことを守らぬ者は、主イエスの教えどおり、愚かであり、「砂の上に自分の家を建てた」が故に、「雨が降って来て、洪水が来て、風が吹き付けて、その家に打ち付けたら倒壊し、その没落は甚大やった。」という結果に終わる。つまり、信仰から脱落し、その後も散々な状態になるってことや。
四、山上の垂訓(説教)は即時施行され、今も継続中
市販の聖書の表現は異なるやろが、「イエスがこれらの説教を終えはった時、そうなり、」と拙者が訳したとおり、主イエスが山上の垂訓(説教)を話し終えた時、そうなったとは、それが即時施行されたことを意味する。よって、それに反したことをしてる人たちは反キリストであり、キリスト者と自称してても嘘でしかなく、不信仰である。何遍も言うてるとおり、パウロ教信者ばかりが集まってる世の諸教会や諸教派は、パウロ書簡から導き出された律法廃止論を信奉し、律法を廃止されたものと勝手に看做して無視して問題無いとしてる。また、十戒だけに守る範囲を勝手に狭めてる輩、律法を誤解釈して嘘を吹聴する者も居るが、いずれにしても不完全な点は共通してるし、主イエスの教えにも反してる故、反キリストであることは事実や。ヨハネによる福音書の冒頭にあるとおり、言葉は神であり、主イエスは言葉であり、神であることが書かれてる。聖書(パウロ書簡を除く)が何故文字だけ、つまり、言葉なのかと言えば、主イエスそのものであるからや。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」で書いたとおり、偽使徒パウロは、「あんた方の罪は支配せえへんだろうからや。あんた方は律法の下に居るんやのうて、恵みの下に居るからや。」(ローマ六章十四節拙訳)、「我等が肉体の支配下にあった間、律法を通して罪の苦しみが我等の体の各部分に作用し、死へと実を結んだ。しかし、今や我等は律法から解放され、それに拘束されることから死んでる。それ故、我等は霊の新しさによって仕える。文字の古さにではない。」(ローマ七章五節〜六節拙訳)と言い、神である聖書の言葉、律法の文字を貶す反キリストやと彼自身が白状した。パウロは、何遍も律法を貶しており、聖書に書かれてる文字、神の教えを貶した。これは到底看過でけへん暴言であり、こないな偽り者のファリサイ派をキリストの使徒と誤信し、そのくせにパウロ書簡を一部だけ都合良く盲信し、都合の悪い部分(特に、女は教えるな、女は教会では黙ってろ、女は被り物をしろという教えは無視する者が多い)は無視し、律法を守るように教えはった主イエスと十二使徒の教えを無視して違反してるのにキリスト者を称するなんて頭がおかしいと認識しなはれ。パウロは断じてキリスト者ではないし、使徒でもなく、反キリストのファリサイ派やからや。パウロは、使徒ペトロと話をしたことがあり、少しばかり真理を聞きかじった程度で、ペトロから教えてもろた正しい知識も少しはあろうが、主の弟ヤコブを中心とするエルサレム教会と対立して共に歩まず、パウロ独自の間違うた教義がパウロ書簡には多い故、注意が必要と言うてるんや。拙者が過去記事で論証したとおり、基本的にはパウロは主イエスの教えと異なった間違うた教えをしてることが多いから、全面的に信用出来る訳がない。
そして、繰り返すが、まずは福音書をよう読んで、主イエス御自身によって語られた御言葉と教えをよう理解し、悔い改めを実践しなはれ。そうでないと絶対に救われへんよ。

かように、主イエスの教えを基礎とする者と偽使徒パウロの教えを基礎とする者の二種類の基礎があり、主イエスは岩であり、偽使徒パウロは砂ということになる。政府、報道機関、学校、大企業、有名人等という世の権威も砂である。そして、主イエスから十二使徒に岩が継承され、偽使徒パウロからローマ教皇やその他自称聖職者どもに継承されてる。あんたはどっちに基礎を置いてるか。圧倒的に後者が多いでしょう。せやから、さっさと悔い改めい。「砂上の楼閣」という言葉があり、これは基礎がしっかりしておらず崩壊し易いことを指し、主イエスの御言葉に合致しており、聖書由来の格言と言える。偽使徒パウロの偽福音と偽教義に聞き従う世の諸教会や諸教派はすべて砂上の楼閣であり、そこに所属してもダラダラして生温く、方向性がそももそ誤っており、神への貢献も無いし、神から評価されることもなく、ある時になって崩壊し、滅びる。そして、キリストが再臨しはって、「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイ七章二十三節拙訳)と言われるんは、かような砂上の楼閣のような自称キリスト者(律法を守らへんパウロ教信者や十戒だけという中途半端者も含む)、形式だけ律法を守ってる振りをしてるが守ってへんことが多い上に中身が伴わへん律法主義者、不信仰者、異教徒が該当する。主イエスから「あんたなんか知らん」と言われたら、もう一巻の終わりで、地獄行きが確定する。
もう時間はそう多く残ってへんよ。時のしるしを見よ。この世相はどんどん悪化してるやろ。裁判官の人事権が行政権の内閣に握られ、行政機関を牽制するどころか違憲行政を追認するだけの役立たずの裁判所は、戦後からずっと長期間機能不全や。最近では、不良裁判官どもが個人番号制度は合憲と不当に決め付けた。裁判所は政府と共に国民の税金で飯食ってるくせに国民を裏切る売国奴の集まりで、税金の無駄遣いやし、存在価値が無いしで、解体されるべき無用の長物や。過去記事「日本人の問題点 四」で書いたとおり、個人番号制度の前身である住基ネットに対して私事権の侵害とする違憲判決が大阪高裁で出された事実からも明らかなとおり、今も実際には違憲である個人番号券(マイナンバーカード)制度が、政府が保険証を廃止して統合を決める等と強行的に推進してる。個人番号券が無いと困るような悪意ある政策を強引に進めて、日本国民の多くは愚かで臆病故に熱心に抗議活動をしてへんやろ。国民がそないな弱腰では、改憲したら日本政府がナチスになって権力を濫用し、反対者を無慈悲に処罰する等と強行しさえすれば、結局はみんなが恐れからその悪い奴隷家畜制度に従うんではないかと危惧してる。そして、ナチスに倣った緊急事態条項付きで軍国化するとんでもない自民党改憲草案の内容に改憲されれば、生殺与奪権を悪徳政府に与えるようなものです。後に、支那のように信用得点制度なんてものを導入したりで、このままぼさーっとして無抵抗で居続けるなら、今まであった自由と人権は完全に失われて、軍国化して平和も無くなり、私事権や人としての尊厳を保った普通の平和な生活がでけへんようになるし、命も簡単に奪われるよ。なんでそないな危機が迫ってるにも拘らず、ぼけーっとして娯楽にうつつを抜かし、嘘を言い続ける政府やテレビ等を盲信し、危機感を持たず、いつまでも自己中で、自己愛に満ち、自分さえよければええと思て金儲けや娯楽や快楽に夢中になり、神と隣人とって有益な活動をせず、聖書を読まず、読んでも理解せず、行わへんのか。拙者と話そうともせえへん人が多いのはどういうことか。何処に目を付けて、どないな脳をして、生きてるのか。ほんまに信じられへんよ。当ブログや動画に対して投稿をするのに費用なんて一切掛からへんし、当教会に入って勉強するとかにも一切費用は掛からんのよ。世のカルト宗教はすべからく他人から金銭を巻き上げるが、拙者はそないな事をしたことがない。それなのに、何も行動を起こさず、何年もぼさーっとして、役立たずの傍観者で在り続け、それでようのうのうと生きてるなって思うよ。虚しさを感じひんか。何の役にも立ってへん、何も有益な活動をしてへんのに、自分には価値があるとか、神から救われて天国に行けるとか、どないして思えるんでしょうかね。何もせえへん奴が神から評価されて救われる等と勝手に意味不明な肯定的な妄想をするな。どんだけ脳内お花畑なんや。何もしてへん奴が救われるなんてことは絶対に有り得へんからな。救われるには理由があり、主イエスの信仰を持ち、主イエスの教えを守って求めてはることを実行し、律法を守り、伝道や慈愛あるええ行いをし、信仰の兄弟で集まって互いに愛し合う(励まし合うとか何かしたら戒める等)等をすることです。かような行いをする者だけが救われるんや。逆に、そうせえへん人らは救われへんのや。また、当ブログや動画に何も投稿せえへん人が多いが、そないな人らは改善せえへんなら、役立たずの無能の駄目人間で終わる。何でも結果に至るまでの根拠を求め、論理的に考える癖を付けよ。救われるには何々が必要とか、考えれば子供でも分かるやろ。それを考えず、行わず、ただ自己愛から「自分は救われる」なんて勝手に妄想してる莫迦者が非常に多い。そないな単細胞の莫迦者は、耳触りのええことを言うたりもっともらしい嘘を言う偽り者である盲人の手引きに引っ掛かり、両方と穴に落ちるんや(マタイ十五章十四節参照)。偽使徒パウロや牧師等を安易に信じる奴らの頭と心もそないな状態です。せやから、あかんのや。
この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上
