こんにちは。


 

今回は、パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様を弾劾します。反キリストとは、過去記事「反キリストについて」でも書いたとおりで、それらの条件の一つでも当てはまる者は誰でも反キリストや。不信仰の者も反キリストや。現代のプロテスタント界隈は、黙示録の反キリストは一人の独裁者だとして、使徒ヨハネが示した反キリストの定義から人々の目を逸らさせ、騙してる。キリスト者と名乗る者は反キリストではないかのように思わされてる人が多いと思うが、実際はそうではない。キリスト者と自称してる者たちの中にも反キリストは大勢居るし、むしろ九割以上の自称キリスト者(パウロ教信者)は神の律法を守ってへん故に反キリストや。反キリストは、黙示録の六百六十六の数字が示す獣と形容される人間のみを指すんやのうて、上記記事で示したように反キリストとは概念や呼称であって、多くの人間に当てはまり、簡単に言えば、神と天使と神の民(神の掟を守る真のキリスト者)以外の全員(悪魔と神に不従順な人間)が反キリストであり、黙示録の獣と一緒くたにせんように。世の諸教会という多数派の偽りに騙されず、騙された人は素直になって悔い改め、道を間違え続けるのをやめてもらいたいと思い、当記事を書き上げました。

拙者は、過去記事「パウロは偽使徒」と「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」から始まり、「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」まで、偽使徒パウロの反キリスト教義について七回に分けて明確に論証した。パウロが偽使徒であることは疑いの余地が無く、未だに「パウロは使徒だ」と言うてる者は、強く洗脳された狂人、神に拒絶されて頑なにされた滅びゆく人、命の書に名が無い者と言うしかない。異邦人が確立した世の諸教会や諸教派がパウロを使徒として祀り上げて、世の権威と化し、パウロが使徒だという嘘がこれ程までに蔓延したに過ぎひん。拙者が論証したとおり、パウロは使徒を自称したに過ぎず、目に見えるしるしによって人々を惑わし、バルナバやルカといった人々のようなパウロ教信者を増やし、ローマを中心として一大勢力を築き、それがローマ・カトリック教会の礎となった。パウロ本人が自白したとおり、パウロはファリサイ派であり、イエス・キリストの名を表向きだけ使用したが、その実はイエス・キリストを否定して逆らい、神が制定しはった永遠の律法が救いに不要として否定し、大言壮語し、人々を惑わして滅びに導いてきた首謀者である。ローマ教皇はそのパウロの座であるとも拙者は述べた。これに偽りは無い。この事実を否定する者は、正当な根拠も無く否認するのみやが、否認したからというてそれが正しいのではない。パウロが偽使徒であることを頑なに認めようとせん者は、ただ世の諸教会といった世の権威が言うことを盲目的に信じてるだけに過ぎず、そないな者たちは滅びる。

さて、過去記事でも非難してきたよちよちクリスチャンという物分かりが悪い偽キリスト者のパウロ教信者の一人が拙者の主張に食って掛かってきたさかい、弾劾する。その誤りをしかと見よ。
問題の記事は「パウロは偽使徒なのか」 (note)や。この人の書き方は無意味な改行が多く、論理的でもなく、非常に読みづらい乱文やが、丁寧にその誤りを指摘してやろう。



このように、まず、使徒が二種類あると頓珍漢なことを言い出しており、狂ってる。「大使徒と使徒の二種類あるんだー。十二使徒は大使徒で、パウロは使徒なんだー」という聖書に無い主張をしており、言葉遊びに過ぎず、子供じみてる。この者がパウロ信者である故に、偽使徒パウロ自身の言葉に基づいて喚き散らしてるだけで、聖書全体を完全に無視してることも指摘せねばならん。聖書を見る限り、誰も「大使徒」なんていう用語を一切言わんかったし、聖書に書かれてもいない。なぜなら、大使徒なんてもんは存在せんからや。パウロも実際は「大使徒」なんて言うてへんのです。どういうことか。つまり、市販の翻訳された聖書には誤訳があるということや。コリント二の十一章五節の原語を拙者が確認したところ、大使徒という訳し方は不適切であり、誤訳であることが分かった。原語のλίανは副詞であり、「大きく」という意味で、副詞は動詞や形容詞を修飾する。「大きな、大きい、大いなる」という形容詞ならば名詞を修飾する故に使徒という名詞と繋げて「大使徒」と訳すのは問題無いが、ここはそうではない。この者は、「原文では、アポストロス。代表者や、メッセンジャーという意味です。」と書くのみで、大事な箇所を無視して言及してへん。原語を確認しておらず他人の受け売りで言うてることが明白である。使徒の意味なんて分かり切ったことを偉そうに言う前に、拙者が指摘したようなことを言わなあかんやろ。拙者が訳すと、「事実、我があの使徒たちよりも大きく劣るのは何も無いと思う。」(コリント二 十一章五節拙訳)であり、これはパウロが十二使徒と肩を並べる存在であると自分で彼自身を高めてる物言いであり、「自分を高めようとする者は誰でも低くされ、自分を低くする者は高められるだろう。」(マタイ二十三章十二節拙訳)という主イエスの教えに反するもので、使徒の証拠どころか、パウロが反キリストである証拠になり、拙者の弾劾によりパウロは低くされたのは主イエスの教えが正しいことの証明でもある。しかも、パウロはこの箇所のみならず、同じ手紙で繰り返しこの発言をした。それはコリント二の十二章十一節であり、まったく同じ言い方であり、これも市販の聖書は誤訳されており、正しくは拙者が訳したとおりの意味や。パウロは謙遜やのうて高慢であり、十二使徒に嫉妬して劣等感を感じてるがために嘘を言うてまで彼自身を高め、彼の言葉を他人に信じてもらいたがいために言うたのだろうと思われる。また、「〜に劣ってる」という意味の動詞のὑστερηκέναι(フーステレオ)をこの副詞が修飾してるのであり、使徒という名詞を修飾してるのではない。仮に名詞を修飾するなら形容詞の「大きな、大いなる」という意味のμέγας(メガス)等を用いる筈やからや。ちなみに、この単語は黙示録十八章で多用されてる「大いなる」に当たる単語で、福音書、使徒言行録、ヘブライ書、パウロ書簡等でも広く使われてる。他のローマへの手紙やコリントへの手紙やテモテへの手紙のようなパウロ書簡にも使われてる以上、パウロはこの単語の意味を知ってたということになり、「大使徒」と聖書出版社が訳したんは誤訳と言えよう。その誤訳を真に受けて、更に使徒には二種類ある等と強弁し、パウロを使徒扱いしたくてたまらんよちよちクリスチャンは非常に惨めなものよ。よって、この者の発言は誤りであり、こないくだらん主張をするようでは非常に程度が低い。
そもそも、主イエスは大使徒なんていう地位を作らはらへんかったさかい。主イエスが言わはらへんかったことをなんでパウロ教信者は勝手に作り出すんやろか。そこがおかしいんですよ。主イエスから直々に選ばれた使徒であるペトロが「使徒の要件」を述べ、パウロはそれに当てはまらんのやから、「パウロは使徒ではない」という当たり前の結論になるところを、この者は「偽使徒と決めつけるには早すぎます」と言うて、素直に誤りを認めようとせえへん。パウロが使徒の要件に当てはまらんと認めつつ、まだ偽使徒と断じるには早いと逃げようとしてる時点で偽使徒パウロを擁護したがってる感情が強いことは明らか。使徒ペトロの言葉を無視し、ただパウロ教祖への宗教心のみによってパウロが使徒という妄想を捨てたくないというつまらん感情に支配されてるというのに気付かんのが、どうにもならん程に洗脳されてることが分かる。律法廃止論を唱えたパウロ教祖への宗教心が異常に強い。これは反キリストの霊に支配されてる証拠でもある。使徒ヨハネが一世紀当時から「今や多くの反キリストたちが現れてる。」(ヨハネ一 二章十八節拙訳)と言うたとおりで、反キリストとは概念故に複数人に当てはまり、一世紀から既に偽使徒パウロやその取り巻きどもという反キリストたちが居ったし、現代にも多数存在する。

パウロ教信者どもは、パウロが偽使徒であると認めてしまったら、モーセの律法を守らねばいかんことになり、それが嫌やから必死にパウロを擁護してるようにしか思えへん。偽り者の心理はおよそこうである。要するに、パウロ教信者には神への愛が欠如しており、神の律法を守らへんという神への反抗を行いで示してるんや。これぞ反律法の思想を持つ自称キリスト者であるパウロ教信者どもが反キリストの証拠である。パウロが使徒の要件に当てはまらんだけで即、「パウロは使徒ではない。偽使徒や。もうパウロを信じるのはやめよう。」と言えなあかんよ。使徒の要件を満たさぬ者は、使徒たる資格を持たへんのやから。
例えば、医師と名乗るには、医師免許を所持せないかんよね。医師免許を持たぬ者は医師たる資格が無い故、医師と勝手に名乗れば医師法違反の犯罪になるさかい。運転免許も取得してへん場合(一度も免許証を交付されたことがない場合)や有効な運転免許を取得してへん場合(普通自動車運転免許しか持たぬのに大型自動車を運転する場合等)は運転してはならず、適切な運転免許が無いのに運転すれば、無免許運転という道路交通法違反の犯罪になる。他にも弁護士や薬剤師等も同じ。すべて資格が物を言うんですよ。
よって、パウロは使徒の資格が無いんやから、どうあがいてもパウロは使徒では有り得へん。このよちよちクリスチャンやその他のパウロ教信者たちは、一般常識すら無い人や。パウロが使徒を自称したように、誰でも使徒と自称し、親しい人に使徒と言わせるだけで使徒になれるのか。それなら誰でも無資格で使徒になれるし、使徒職の意味が無くなるのが分からんのかね。主イエスが直々に選んだ十二使徒や十二使徒のためだけに用意した座を無視し、使徒ペトロが述べた使徒の要件を無視し、なんで主イエスとまったく面識も無いファリサイ派のパウロなんかが使徒になれるのか。そんなことが通用すると本気で思ってるのか。そんな訳ないやろ。それでは統一教会の教祖である文鮮明を、その信者どもが「メシア(救世主)」と信じてそう言えば、そうなってしまうという論理と一緒やろ。こういう簡単な論理も理解でけへん愚か者は、ほんまに狂ってる。パウロは幻を見たとか声を聞いた等と言うだけやし、キリストの教義と合致せえへん律法無視の偽福音を吹聴するし、「精神病か」って笑われてもおかしくない存在や。パウロなんか「自称使徒」、「偽使徒」と非難されて当然なのに、四世紀に異教徒ローマ人どもによって新約聖書として採用されて権威を持った途端に問答無用で敬われるようになっただけってことに気付けよ。世の権威に騙されてるだけや。このように、パウロ教信者の心と頭の状態は、不信仰の者のそれよりも酷いことが分かる。

 

 

上図にあるとおり、この者はローマ書の冒頭を引用し、「パウロは、イエス・キリストから直接任命された使徒です。」と書いたが、そないな事実は実際には無く、パウロの自称を真に受けてるだけってことがなんで分からんのかね。拙者が過去記事で論証したとおり、ルカはパウロの側近であり、パウロを擁護して当たり前の立場の人間や。せやから、ルカがパウロを使徒と書いたからというて、そんなもんは正当な根拠や証拠にはならへん。身内は互いに擁護し合うし、かばい合うものやさかいな。バルナバもパウロに近い人であるし、ルカとも仲良しであったことは容易に想像がつくし、ルカが両者を使徒と勝手に書いたとしてもそれだけで使徒性を認める根拠にはならへん。使徒ペトロが言うた使徒の要件よりも他のルカの主観的な記述を優先することは不適切やさかい。
また、「ルカの記述を疑うなら、ルカの書いた福音書までも、信憑性のないものとすることになります。」と書いてるが、拙者が過去にも述べたとおり、一部を否定したからというて、すべてが信用に値しなくなるのではない。なんで安易に全部肯定か全部否定といった極端なことを言うのか。他の聖書箇所と比べて整合性が無いおかしな部分のみを誤りとして無視すれば良いだけやろ。こないな人は思慮が浅はか故に、いつも極端な思考になる傾向がある。むしろ、彼らが信じてることを守るために、認識を変えたくないために、こないな極端なことを大袈裟に言うて正しい主張を拒絶してるだけっていう心理は見え見えや。そもそも、ルカによる記述の全部が信用に値するものではないのは事実であり、パウロ書簡にも言えること。今ある聖書の編纂は、四世紀にローマ人という異邦人どもによってなされたとも過去に説明済みやさかい、拙者の記事を理解でけへんのなら音読して読め。黙読してええ加減に読み流してるから覚えとらんのやろ。

 


ここでは、ペトロの言葉を引用してるが、パウロにとって有利な部分のみを意図的に強調し、不利な部分を無視してる過ちを犯してる。さすがパウロ教信者。パウロ教祖に不都合な点は無視して、都合のええ部分のみを取り上げて誇張して肯定するっていう悪い行いや。ほんまにカルト宗教や。オウム真理教信者が松本智津夫(麻原彰晃)を尊師と呼んで畏敬してたんと、パウロ教信者どもがパウロを使徒と呼んで教祖の如く畏敬するんと、構図がまったく一緒。ペトロはパウロと行動を常に共にした訳でもないし、パウロの黒い部分をさほど知らんかったからこう言うたと思えるし、若しくは、ペトロの手紙はペトロ直筆ではない故にペトロ自身の言葉やのうて代筆者が「愛する兄弟」と勝手に付け加えたかのどちらかやと思う。そう考察する理由は、ペトロの背景を考えれば分かること。
まず、マタイ十六章十八節の主イエスの御言葉(ペトロという岩の上に主イエスが教会を建てる)から分かるとおり、ペトロは初代教会であるエルサレム教会の主宰者となり、ユダヤに留まってユダヤ人相手に伝道しとった故に、異邦人伝道の動向については疎かった。同時に、先の聖句から、パウロ起源のローマ・カトリック教会、正教会、プロテスタント、その他の教派すべてが主イエスが建てた教会ではないし、使徒ペトロも無関係であり、即ち、反キリストの巣窟ということが明らかや。ローマ・カトリック教会はペトロを初代教皇やと勝手に決め付けて嘘をつき、正統ぶってるが、史実ではない。ローマ・カトリック教会はペトロが建てた教会の後継と勝手に自称して自らを権威付けて正統であると人々を欺いてるだけや。騙されるな。ペトロは律法遵守の立場であり、エルサレムを拠点にし、ユダヤの敵国ローマ帝国の中心地であるローマなんかを拠点にせんかったからや。また、世の諸教会は律法無視というパウロ教に基づいてるのが明白やさかい、使徒ペトロとも主イエス・キリストとも一切無縁である。また、ペトロはユダヤに長く留まって活動し、晩年までローマに赴かへんかった故にパウロが異邦の土地を渡り歩いて異邦人相手に何を吹聴してたのかも知らんかったと思えるし、パウロ書簡のすべてを読んだ訳でもあるまい。パウロは、ガラテヤやコリント等とあちこちのユダヤから離れた土地に居る異邦人宛に手紙を書きまくったが、ペトロは異邦人宛てに書き送られたパウロの手紙の内容の一部を知ったとしても、そのすべてを把握していた訳でもない。パウロが一応はイエス・キリストの名を異邦人にも広めてることについて大目に見て一応「兄弟」としたが、ほんまに心から信頼してる間柄ではなかったと拙者が過去記事「パウロは偽使徒」で聖書上の根拠を示して述べたとおりや。
次に、ペトロはガリラヤ地方出身の漁師で、無学であり、ギリシア語という外国語をペトロには書けへんかった。現代日本人の大半が義務教育で英語を勉強したにも拘らず、英語を大して読み書きも話すこともでけへんのやから、義務教育なんか無かった一世紀当時では外国語を書くことは到底無理があることは明白やろ。聖霊の力で外国語を話したという記述は使徒言行録二章にあるが、話すことだけやからね。話すのと読み書きは大きく異なり、同じ能力ではない。話す方が書くよりも遥かに簡単である。文盲とは文字の読み書きがでけへんことを意味し、文盲でも話したり聞いたりは可能や。よって、読み書きは話したり聞くこととは異なる。話すのと聞くのは音だけ知っていれば良いが、読み書きには文字の知識が必須であるからや。ギリシア語なら、その綴りを知らねば書けへん。ペトロはガリラヤ出身でガリラヤ育ちで長くそこに住み、高等教育も受けてへんことから、ギリシア語の文字を知る由もない。現代の幼稚園児でも言葉を話したり聞いたりで意思疎通は出来るが、文字を教えへん限り読み書きがでけへんのと一緒やし、それから分かるとおり、読み書きは文字の教養が必須なのである。文盲であった使徒ペトロらを莫迦にしてるんやのうて、ただそういう背景があると摘示してるに過ぎひん。もし我等も当時の時代と場所と境遇に生まれたなら、同じように文盲であったことであろう。現代では文盲は珍しくなったが、読解力や国語力が無い人や物分かりが悪い人は大勢居る。一世紀当時既にユダヤはローマ属州の一つになっており、地方や田舎を除くローマ帝国勢力圏内の公用語はギリシア語であった。ユダヤ人でギリシア語といった外国語の文字の読み書きを学んだんは、ユダヤ以外の属州出身の人とエルサレムというユダヤの都でファリサイ派や律法学者等といった高等教育を受ける立場の人間のみであった。パウロはユダヤで生まれておらず、ローマ属州のタルソス出身で生まれながらにローマ市民権を持つ上級国民で、ユダヤ教の教師であるガマリエルや領主ヘロデとも関わりがあり、ギリシア語を話せたことは使徒言行録二十一章三十七節から分かることや。
一方、使徒であるペトロとヨハネの二人が「無学な者」と看做されてたことは使徒言行録四章十三節に書いてるとおりや。これは読み書きの教養が無い人、教育を受けてへん人という意味や。それは正しい。ペトロとヨハネはガリラヤという地方の漁師出身やさかいな。故に、ペトロは自分で手紙を書くことがでけへんかった故、シルワノといったギリシア語の読み書きが出来る他人に代筆させ、代筆者が少々何か書き換えたりしてもペトロには分からへん。そして、ペトロが述べたとおり、パウロ書簡は読者が自分に都合がええように曲解すると滅びを招くと警告してることから、パウロ書簡は滅びの原因になると言うてるんや。このよちよちクリスチャンのような無学で動じ易い人たちが読むと自分らに都合のええように曲解し、滅ぶことになると使徒ペトロの警告どおりや。
「そして注目してください。「聖書の他の箇所と同様」とあります。すなわち、パウロ書簡を聖書の一部と見なしているのです。」とも書いてるが、これも誤り。文脈を読めへん典型例。ペトロがパウロの書いた手紙を聖書と認める意図やのうて、無学で動じ易い人が曲解する対象を示したに過ぎひん。つまり、聖書の他の箇所を自分らに都合のええように曲解してる人たちは、本来聖書とは関係無いパウロ書簡も同じく自分らに都合のええように曲解して、滅びに至るということや。それに、聖書と訳された原語γραφή(グラフェー)は、厳密に言えば聖書やのうて、単に、「文書」や「記述」という意味でしかなく、福音書で主イエスの御発言でも同単語が使用されてるが、その場合は文脈から聖書という文書を指すであろうとして意訳されてるだけや。対象が聖書かパウロ書簡かのどちらであれ、曲解する、即ち、本来の意図と異なった解釈をすると、滅びに至るというこっちゃ。これが分からんのなら、国語力が無いことを証明してる。パウロ教信者どもは「パウロが使徒であって欲しい」という願望が非常に強いために、事実を蔑ろにし、かように無理な私的解釈をするのであり、それこそが曲解なんや。
「もし、パウロを偽物だと見なすなら、パウロ書簡はおろか、使徒の働き、ルカの福音書、ペテロの手紙、それらをすべて信憑性のないものとしなければなりません」と書いてるが、これもおかしい主張。なんで、パウロが偽使徒と言うことで、ペトロの手紙、使徒言行録、ルカによる福音書をも否定することに繋がるのか。狂った解釈やな。先にも述べたとおり、全部肯定、全部否定といった極端な思考はおかしい。真実の中に嘘が混ざってるという場合も有り得るのであり、全部否定とか連鎖的に他の書まで全否定するなんておかしいやろ。こないな主張を平然と行う者は厚顔無恥や。悪魔の手口とは、まさに「真実の中に嘘を混ぜる」、「正しいように見せかけて実は間違い」というものやからや。二千二十年から起こってるコロナ犯罪のような「全部が嘘」、「大き過ぎる嘘は、かえって疑われにくい」という場合も勿論あるが、それやと拙者のような人ならすぐに嘘と見抜かれ、騙すのが困難やから、真実の中に嘘を混ぜるという手法が取られるのが騙しの高等技術である。荒野で悪魔が主イエスを誘惑した際のことを学んでへん証拠や。悪魔は聖句を引用して主イエスを誘惑した。聖句引用するとあたかも正しいかのように見せかけられるからや。しかし、趣旨を間違うたり、文脈を無視したりし、誤訳を基にして勘違いして聖書を引用すれば、それは正しないんや。主イエスは他の聖句を以って悪魔の主張を退けた。パウロ教信者どもは、聖句を誤って引用したり、他の聖句を軽んじたり無視し、偽使徒パウロが書いた手紙という最も当てにならへんものを第一に信用してるから滅びる。
「つまり、新約聖書は概ね信用がならない、ということになります。とんでもないことです。これは、神様の愛を疑うことにつながります。」と書いてるが、なんでこう解釈するんかね。ほんまにパウロ教信者というカルト宗教信者の思考回路は怪奇や。パウロ書簡を否定しても別に問題無い。無くても困らんからや。現に、十二使徒たちやユダヤで使徒ペトロや主の弟ヤコブらが主宰したエルサレム教会に居った律法に熱心な幾万人のユダヤ人たちは、パウロとの接触が無くても救われたから。使徒会議に本来は部外者のパウロらも入り込んできたが、多くのユダヤ育ちのユダヤ人(異邦の土地生まれのユダヤ人はこの限りではない)は行きたがらへん異邦の土地へ異邦人伝道のために派遣という名目で追い出した。そして、パウロは律法を無視しても救われるという偽福音を吹聴する手紙を異邦人向けに多く書いたが、ユダヤ人向けにはパウロからという名義で一切書かへんかった。書ける筈がないんですよ。なぜなら、使徒ペトロや主の弟ヤコブが関わったエルサレム教会から学んだユダヤ人キリスト者たちは律法遵守(十戒に限定されへん)の立場で、惑わすことはでけへんかったからや。そして、彼らはパウロとその仲間を真の兄弟とは認めてへんかったからや。そのユダヤ人相手にパウロが使徒を自称したり、律法無視で救われるなんて手紙なんか出せる筈もないからや。それこそ自らボロを出すことになり、パウロもそれが分からん程に愚かではなかったが、使徒言行録二十一章にあるとおり、パウロがエルサレムに行った際、エルサレム教会員たちから律法を軽んじ、律法を守らんように教えてることを注意された。エルサレム教会員たちは優し過ぎたのか、こんな異端者のパウロをあまり冷遇せんかったかのようにルカは記録してるが、頭を痛める存在であったことは確かやろな。このように、エルサレム教会は熱心に律法を守るキリスト者の集まりであり、律法を守らへんパウロの分派こそが異端なのであり、パウロ書簡なんか読まなくても救われるのは事実や。むしろ、使徒と自称して律法無視の偽福音を吹聴したパウロを信じ、他の聖書箇所を無視したり逆らう人たちこそ救いが無い可能性が高い。それなのに、パウロ書簡が無いとあかんかのように言う人は、反キリストである。繰り返し言うが、新約聖書という区分も四世紀にローマ人といった異邦人どもが勝手に決め付けたものに過ぎひんのや。そんなのに縛られる意味はまったく無いし、編纂内容も間違えてる。異邦人にパウロ教信者が多過ぎるから、こうなっただけのことで、今ある聖書は本来あるべき状態ではない。旧約聖書かて例外やのうて、抜けが多いことは過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」で指摘したとおりや。こういうことも知らん無知な分際で、偉そうに感情的に物を言うな。恥ずかしいと思え。こないな叱責も初めてやないが、一向に変わらんところを見ると、パウロ教信者どもは恥を知るというのがどういうことかも分からず、恥の概念も頭に無いように思える。ほんまにどうしようもない。恥を知る者に「恥を知れ」という叱責は効果的やろが、恥を知らん人に言うても届かへんのよね…。真理を知らん人だけが、聖書は今の形で問題無いとか、六十六巻は完全で誤りが無いと平気で言い続ける。

 


またおかしな主張がダラダラと続く。パウロ書簡を引用し、「神様は、どのような人も愛しておられ、その全員が真理に至ることを望んでおられます。」と言うてるが、これも誤りである。神は最初から万人救済を目指してはらへんことは聖書から分かる真実やさかい。アダムとエバも神に逆らわなければ永遠に生きていられたであろうに。しかし、最初に女であるエバが蛇(悪魔)の「神のようになる」、「決して死ぬことはない」等という甘い言葉に負けて、神に逆ろうて堕落し、アダムもエバの味方をして共に神に逆ろうたせいで、彼らはエデンの園を追い出され、永遠の命を失い、人間は必ず死ぬ定めになった。まさに、「必ず死ぬ」(創世記二章十七節)とあらかじめ神が警告しはったとおりになったんや。決して食べるな、食べれば必ず死ぬとやってはいけないことを神から事前に警告されてたのに、蛇(悪魔)が言うた嘘を信じて、神に逆らう人間が悪いんですよ。せやから、神を恨むんは筋違いやし、神の御言葉や神の掟に逆ろうて違犯して罪を犯すと死を招くことが明らかであり、これは永遠に変わらぬ真理である。せやから、太古から神の掟を遵守せないかんのは不変で、主イエスが重ねて教えはったとおり、永遠の命を受けるには神の掟を守る必要があり、十戒に限定もされへん。そして、最初から全員が救われるというのが間違うてるのは明らかであり、滅ぶ者が非常に多いんが現実であり歴史や。神の寵愛を受けた日本人の先祖である古代イスラエル人でさえもモーセに逆ろうたり、律法違犯の罪を犯して悔い改めへん多くが滅んだ。神の律法を知りもせず、好き放題にしてる異邦人や異教徒らは以ての外で、殆どが滅ぶ。この何処が人間全員が救われるのか。ある訳ないやろ。偽使徒パウロの嘘に惑わされるな。
「パウロが偽使徒というなら、神様は聖書を守らなかったということになります。」と書いてるが、これも誤った主張や。神は聖書を守った。そのお陰で今も聖書を読める状態にある。モーセが書いて以来、三千五百年程度も聖書が受け継がれてきてるのは神の守りの賜物や。もしそれが無かったなら、とっくの昔に悪魔崇拝者の権力者によって聖書はこの世から完全に消され、歴史も改ざんされ、聖書の存在が無かったようにされ、現代人は聖書を読むことも出来ず、聖書の存在さえ知らん状態にされたであろうに。問題は、主なる神が最初から万人救済なんか目指してへんということが分かってへんのと、神は神御自身が選んだ少数の人しか救う気が無いさかい、神が選ばぬ大多数の人々は滅んで構わへんと思し召しということを理解してへん点や。もし世のすべての人間を神が救う気があるのなら、そもそも全員を信仰に招き入れて不信仰の者を発生させへん筈やし、命の書に選りすぐって名を記述した意味も無くなるし、この世の存在意義も無くなるし、人間を死に定めた意味も悪魔を未だに生かしてる意味も無くなるからや。
よって、パウロ教信者の聖書理解と主張はすべてが間違うてる。拙者が過去記事で書いたとおり、パウロ書簡は「神の篩」なんや。シモン、シモン、見よ、サタンはあんた方を小麦のようにふるうことを要求した。しかし、我はあんたの信仰が無くならへんようにあんたについて願った。せやから、あんたは立ち直ったら、あんたの兄弟たちを強めなはれ。」(ルカ二十二章三十一節〜三十二節拙訳)からも分かるとおり、サタンは十二使徒たちをふるうことを父なる神に要求し、神はそれを認めはった。ならば、一般人もふるわれて当然と思えよ。この聖句も市販の聖書は誤訳してることが分かる。「神が聞き入れた」とは原文には書かれてへんが、実際にサタンの要求が神に聞き入れられたから、主イエスはペトロの信仰が無くならんようにと父なる神に願い、後で他の使徒たちを強めるようにも指示しはったことが分かる。十二使徒たちは主イエスのために命を捨てる覚悟とまで言うてたのに、後で主イエスが逮捕された時、主イエスを見捨てて逃げ出すことになるからな。神は、多くの人間を信仰に招きはしたが、神の王国に相応しないファリサイ派という「信仰の偽装者」をふるい落とすために、神はパウロ書簡を新約聖書に組み入れてやることを許容したに過ぎひん。ほんまに、招かれた者は多いが、選ばれた者は少ない。」(マタイ二十二章十四節拙訳)と、主イエスが言わはったことを知らんのか。サタンがその配下のパウロという反キリストの手紙に権威を与えることを神に願い、それを神が許可しはったんや。なぜなら、神は大勢の人間が救われへんことを知ってはるし、選ばれた人は必ず聖霊によって真理に導かれて嘘に騙され続けずに救われるから、パウロ書簡を聖書の中に組み込んでも聖霊の導きが無い多数派の信仰の偽装者どもだけがふるい落とされるだけやから問題無いと思し召しやからや。もし神が大勢の人間に救われて欲しいと決めてたとしたら、パウロ書簡の聖書への組み入れは不許可であったろうし、主イエスも「招かれた者は選ばれた者で、その数は多い」等と言わはったであろうが、実際にはそうではない。そして、神が選んだ民には聖霊を与えはり、必ず真理に導くことを確信してはるからサタンの要求を許可したんや。

新約聖書 ヨハネによる福音書 十六章十三節(拙訳)
しかし、その方、真理の霊が来たら、あんた方をあらゆる真理に導くだろう。確かに、(聖霊は)その方自身のことを話すんやのうて、聞いたことを話すだろう。そして、彼らは今後起こることをあんた方に知らせるだろう。

この箇所も市販の日本語訳聖書は誤訳されており、ほんまもんの底本の原語から訳すと拙者の訳のとおりや。この主イエスの御言葉からはっきり分かるとおり、聖霊は父なる神から聞いたことを選ばれた人に伝え、人を真理へと導く存在や。主イエスは「我が教義は我がものやのうて、我を遣わしはった方(父なる神)のものや。」(ヨハネ七章十六節拙訳)と言わはったとおりで、聖霊も御子イエスと同じことをすることが分かる。パウロのように自分語りや独自の教義を言うのではない。このパウロの気質や行いからしても、パウロは聖霊に導かれていたとは言えへん。聖霊も御子イエスも父なる神から教えを受けて同じ教義を持っており、異なったことを言う筈がなく、それ故に「三位一体」と言われる。故に、もしパウロが聖霊を受けていたなら、主イエスの教えに反する筈がない。しかし、パウロは主イエスの教義に反する発言が多く、またパウロの律法廃止論という信じると口先だけでも言うと救われるという偽福音は特に危険なものであり、聖霊の導きでもないことは明らかで、それを信じると滅びに至るものや。これが論理的な結論や。異を唱える余地は無い。実際、主イエスから直接教育を受けた使徒ペトロやヨハネ、そしてヤコブといった他の真のキリスト者は皆、律法を擁護して守り、他人にも律法を守るように伝道しており、律法は廃止されたとか律法を守る必要は無いといった嘘を決して言わへんかったからや。偽使徒パウロとその信者のみが律法廃止論を唱えた事実は、パウロが反キリストである証拠であり、パウロを信じる者たちも反キリストであるという結論に至るのも当たり前やろ。
聖書を読んだことがない未信者の時はしゃあないとしても、キリスト者になって聖霊を受けたのなら、嘘や虚偽情報に騙され続けるのはおかしい。なぜなら、上記で主イエスの御言葉を引用したとおり、聖霊は人をあらゆる真理に導くさかいな。よって、嘘や虚偽情報等に導かれてそこから頑なに離れへん者や、頑なに世の権威を信じ続ける者は悪霊に惑わされてる反キリストであると容易に分かる。世にはびこる嘘や虚偽情報を頑なに信じ続けてる人が「聖霊を受けてる」等と言うのなら、聖霊を侮辱してることになり、絶対に赦されへん罪を犯してることにもなる。聖書の真理を理解でけへん輩もそうやけど、世のことについても嘘や虚偽情報を信じてるとか「陰謀論だー」等と頭ごなしに真相を否定したり、「パウロが偽使徒なんておかしい」等と根拠も無く、感情的に言い続ける輩も悪霊に惑わされてるのは明らかや。聖霊に導かれてる人がそないな態度を取る筈がないし、真理を受け入れへんことも有り得へんからや。「しかし、時が来る。今が真の礼拝者たちが霊と真理によって父を礼拝する時や。父は、かように父を礼拝する者を求めてはるからや。神は霊であり、神を礼拝する者は、霊と真理によって礼拝せないかん。」(ヨハネ四章二十三節〜二十四節拙訳)と主イエスは言わはり、聖霊を受けてへん者と真理を理解してへん者は、父なる神を礼拝する資格すらないってことにもなる。聖霊を受けておらず真理を知らん人たちが「祈ります」等と言うたところで、その祈りが父なる神に届くことはない。更に、パウロ教信者といった故意に神の律法を無視して違犯し、罪を犯し続ける罪の奴隷が神に祈る資格も無いし、その祈りは神に聞き入れられへん。なぜなら、「見よ、救うのに主の手が短いんやないし、聞くのに主の耳が鈍いのでもあらへん。むしろ、あんた方の邪悪さがあんた方と神の間を隔てるようになった。そして、あんた方の罪が、あんた方から聞くのに(神の)御顔を覆い隠したんや。」(イザヤ書五十九章一節〜二節拙訳)と書いてあるからや。罪とは律法違犯のことであり、律法を守らへん邪悪な者の祈りなんか神は聞きはらへんことは明らかや。真理を嫌うパウロ教信者は都合が悪くなると、議論や対話を拒絶し、自分らの過ちを顧みることもせずに「祈ります」等と捨て台詞を吐いて逃げるか、最初から「議論しません」等とツイッターで書いてるパウロ教信者も幾らか居り、こないな人らはほんまに救いようがない。
聖霊の導きが無い人は真理を知り得ず、理解も出来ず、パウロの言う耳触りのええ偽福音に惑わされて破滅する羽目になる。



この者は、「パウロを偽使徒と主張する人の証言を私も見てみましたが、大した主張でもなく、何の証拠もありませんでした。」と書いてるが、ほんまに読解力と国語力が無いことを曝け出してる。証拠も無かったと嘘を平気で言う有様…。拙者の記事で聖句をようけ挙げながら論証したのに、証拠が無いって、どういう神経でこうも大嘘を平気でつけるのか。こういう人、ほんまにきしょいわ。そして、「簡単にいえば、「自分の聖書理解と違うから、パウロのほうが間違っている」というのです。」とブーメランなことを言うてる始末。あんたらパウロ教信者こそが自分らの聖書理解が正しいと勝手に思い込み、その誤りを論理的に指摘してる真理を貶す。拙者は、聖書に基づいて論理的かつ理性的な意見を書いてるのであり、自分の聖書理解が正しいと勝手に思い込んでるからパウロが誤ってると主張してるんやない。パウロの主張の多くがイエス・キリストの御言葉と食い違ってることも明示した。それなのに、なんでパウロが正しいと言えるのかってことが、こいつらは全然理解でけへんみたいね。狂ってる。ほんまに、パウロ教はカルト宗教や。こないなカルト宗教にはまると、教祖の言うことが絶対となり、どないに筋が通らへん教えでも、新約聖書に組み込まれたから絶対に正しいなんて思ってるだけやさかい。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」でも書いた「単純な者はすべての言葉を信じる。」(箴言十四章十五節拙訳)のとおり、この類の単純な人間は、嘘でもすべて信じ込み、この世が悪い者の中にあること(ヨハネ一 五章十九節参照)を理解しておらず、肝心な真実を拒否するどうしようもない人たちや。パウロ教信者どもという反キリストは、世の権威やパウロ教祖の言うことが絶対であり、教祖を非難するなんて有り得ないと考え、教祖を擁護しながら、真実を指摘して道を誤ってる人を救おうと諭してる人をも攻撃するんや。ほんまにパウロ教信者どもは、人として終わってる。
「聖書よりも、自分のほうが正しい? これが信仰者の態度でしょうか。」って書いてるけど、嘘ばかり言うやろ。拙者がいつそう言うたか。証拠を出せよ。拙者は常に聖書的根拠を示しながら聖書の真理に基づく見解を述べてきた。聖書抜きにして拙者自身が正しいと主張したことはない。拙者が言うことが正しいのは、聖書の裏付けがあってこそである。それなのに、聖書よりも自分が正しいなんておかしな考えやし、むしろそれはパウロ教信者こそがそれに該当し、ブーメランになってる。この者がしてるように事実と異なることを言い、他人を貶すんは誹謗中傷の罪を犯してる。パウロ教信者どもは全員、こないな狂人である。聖書に書かれてることも、人の言うことも理解でけへんし、まともな会話が成立せず、自分勝手で根拠が無い妄想に支配され、正常な反対者を攻撃するんです。この人のみならず、こちら(ママンのブログ アメブロ)のような酷く西洋かぶれした関東人で、議論すれば確実に負けるのが分かっており、臆病で負け惜しみばっか言うてる敵対者も居るし、やはりパウロ教信者は悪霊に取り憑かれ、狂ってる。言うておく。パウロ教信者どもは悔い改めて、そのカルト宗教から脱却せえへんなら、絶対に救われへん。

 


実で見分けることについて書いてるが、こちらこそ実で判断した結果、あんたらパウロ教信者はキリスト者では有り得へんと聖書に基づいて断定したから弾劾してるんや。またまた、パウロ教信者どもは主イエスが一切怒らへんかのように錯覚してることを露呈してる。ほんまに聖書を知らん無知な人たちや。主イエスはファリサイ派や律法学者らと激しく対立し、「偽善者、蛇、蝮の子」等と激しく非難しはったし、神殿で商売してる人と買い物客らを見て彼ら全員を追い出し、両替商の机と鳩を売ってる席をひっくり返したり(マタイ二十一章十二節参照)等と怒りを露わにしはったよね。忘れたのか。こいつらはこの主イエスの言動を見て、批判せえへんのか。もし拙者が同じ行いをしたら、「お前は狂ってる」とか「荒々しく、キリスト者ではない」等と非難し、あんたらは良い子ぶって、寄ってたかって拙者を悪人やと罵ってくるであろう。また、主イエスは世の裁きのために再臨しはり、この世を滅ぼしはる。愛である神が怒らんと思ってるようでは完全におかしいよ。神は義でもあるからや。あんたらは義の面を疎かにし過ぎ。拙者の発言を非難するなら、主イエスの発言も非難しなければならんやろ。主イエスはペトロにサタンとも言わはった(マタイ十六章二十三節参照)。偽善者、蛇、サタン等と人に向かって言う方が愚か者と言うより遥かにきつい言葉やろ。洗礼者ヨハネも大衆を「蝮の子」と非難し、悔い改めを説いたことを忘れたか。聖書を読めば分かるが、「愚か者」と言うてるのは詩編や箴言等に多々あるよ。聖書に出てくる人は何を言うても大丈夫で、拙者はあかんってことか。どうなってるんでしょうかね、パウロ教信者どもの頭は。愚か者と言うこと自体はその動機が肉の思いから出たものやのうて、聖書の真理や神の義を擁護するためや、事実に反しないのなら、悪くないと考えられる。神の義に基づいてるからや。拙者は憎いと思うから言うてるのではない。あんたらの多くが聖書に反したことを言うたり、行ってるのを見かね、やめてもらいたいから言うてるんや。言うなれば、義憤や。もし、偽使徒パウロやパウロ教信者どもや偽預言者どもといった悪人が世に居らなんだら、拙者もこない言う必要も弾劾する必要も無かったんやから。もし、この世に正しい人ばかりだったなら、拙者は一切非難することをせず、称賛ばかりしていたであろうが、現実は真逆やろ。世の中には間違うたことを信じて吹聴する悪人が多いから、拙者が正す役目を負ってるのである。あと、翻訳の間違いも指摘しておこう。マタイ五章二十二節で使われる原語Μωρέは、愚か者という意味もあるが、邪悪な者、反逆者(裏切り者)という意味の方がここでは相応しい。正当な根拠や証拠も無く、安易に人にそう言うことを戒められてるんやろ。そもそも、拙者は、単に他人の主張が自分の主張と合致せえへんという理由で非難してるんやない。当該聖句の戒めの趣旨は、世の中には感情的な人が多い故、神の義を知りもせんくせに、考えもせんくせに、自己中心的で、自分が正しいと勝手に思い込んでる人が他者に対して愚か者、邪悪な者等と言うことがあかんのや。人間中心主義(ヒューマニズム)の悪さも過去に述べたとおりで、こういう誤った思想の人たちが世に多い以上は、聖書の真理と神の義を主張する人が必要であり、その者こそが真のキリスト者、世の光、地の塩や。律法を無視して違犯しまくって神の義を擁護せえへんパウロ教信者どもなんかではないし、彼らは毒麦でしかあらへん。明らかな反キリスト教義を唱え、使徒と自称した偽使徒パウロを擁護して信じる方が余程おかしいことを棚に上げるな。悔い改めへん限り、あんたらの罪は消えへんし、主イエスからも赦してもらえずに「全然知らない」(マタイ七章二十三節)と言われ、拒絶されるだけや。
愛と寛容は常に誤解され、間違うた理解で主張してる者が多い。人を甘やかす、相手の気を悪くせんために率直に言わず、遠回しに言うか、言うことさえも憚る場合が多いであろう。しかし、そうした結果どうなるか。悪いことをしてる人に「それは悪いことや。違法や。やめろ。」等と指摘して非難したり、諌めなければ、その人は悪事をしても問題無いと思い、改めることがないであろう。この人らの言う愛や寛容とは、罪をそのまま犯し続けてもええ、悔い改めなくてもええと罪を容認してるのであり、つまり、悪魔に寄与してることになる。律法が示す神の義を無視しており、これは「神の王国と神の義を第一に求めよ。」(マタイ六章三十三節参照)という主イエスの教えに反しており、反キリスト教義である。もし洗礼者ヨハネが現代に居たら、一世紀当時以上に怒り狂うであろう。彼は君主制の時代における為政者であったヘロデに対しても遠慮無く律法違犯を咎めたからね。聖霊に導かれた正しい人はこないな姿勢なんや。よう覚えとき。臆して何も言わん人や悪事を指摘や非難もせえへん人は臆病者であり、悪い人間や。せやろ。実際には無いが、建前だけでも民主主義になって国民が主権者と憲法に規定されてるのにそれを行使せず、政治や法に無知で無関心で、違憲行為及び違法行為を繰り返す売国奴だらけの国会議員や都道府県知事や官僚どもに何一つ抗議も非難もせえへん腰抜けどもには何も出来まい。ほんまに惨めやで、あんたらは。権力者から目を付けられるのが怖いとか、周囲の人から嫌われるのが怖い等と思てるから言われへんのやろ。せやから、その多くの臆病者は地獄行きになるんや(黙示録二十一章八節参照)。
主イエスは「我が名の故に、あんた方はすべての人に嫌われるだろうが、最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節拙訳)と言わはった。まさに拙者が世の人々から嫌われ、敵対されてるように。真理を語る者は罪人にとって耳の痛いことを言う故に世の人々から好かれることはないからや。パウロ教信者といった偽キリスト者は偽りの愛で寛容等と言い、律法違犯という罪を容認させる方向に持って行くが、主イエスの言わはったキリスト者の姿ではないことは明白。何でもかんでも愛という名の下で罪を許容してては義は失われるし、神が律法で罪と定めたことも無視されることになり、この世は益々暗黒社会になる。同性愛や性転換等の律法で罪とされることが二十一世紀になって盛んになったことも過去に批判したとおりで、コロナ犯罪も中々裁かれへんし、不法がはびこって慈愛を持つ人が極端に少ない現代は、まさしく終わりの時代の兆候と言える。律法を廃止せえへんと主イエスは宣言しはり、神が律法で罪と定めたことは永遠に変わることはなく、違法やったんが主イエスの十字架での死を機に突如法が廃止されて合法に変わることなんてあらへん。なぜなら、神は永遠に変わらへんお方やからや。イエス・キリストは永遠に変わることがないと書かれてるとおりや(ヘブライ十三章八節参照)。よって、主イエスが公生涯にて律法を廃止せえへんし、この天地が消滅するまで律法も消えへんと宣言しはった以上(マタイ五章十七節〜十八節参照)、十字架後には律法が全部廃止されるなんて有り得る訳がない。それにも拘らず、パウロ教信者、例えば、こちら(YouTube)のハーベストの中川牧師が、十字架でモーセの律法は廃止されたと偽使徒パウロの言葉のみを引用して嘘を吹聴し、「キリストの律法」とこれまた偽使徒パウロの造語を真に受け、主イエスも永遠の命を得たいなら(モーセの律法の)掟を守るように(マタイ十九章十七節等参照)と教えはった神の律法を拒絶する暴言を平気で吐く有様…。この類の動画をツイッターやブログ等でしきりに引用する牧師信仰という偶像崇拝者の狂人も多い。また、他にはこのよちよちクリスチャンやSDA等が十戒のみ有効と極めて範囲を狭めて言うパウロ教信者が居るが、それも聖書的根拠が一切無い嘘である。それはファリサイ派である偽使徒パウロとそのパウロを教祖として従うパウロ教信者どもによる嘘や。
法を定めて違法と決定したんを「時代が変わった、時代に合わせて」等と意味不明な言い訳で後で合法にする等と真逆に変えるという暴挙をしでかすんは罪深い世俗的な人間だけや。世俗の為政者も好き勝手に法改正(実際は改悪)を繰り返すし、偽使徒パウロとパウロ教信者どもはもっと酷く、神に逆ろうて神の律法を廃止されたと完全に無き物としてるからな。しかし、神の王国に入るには神の律法に違犯することは断じて許されへん。故に、主イエスは「不法(律法違犯)を行う者を全然知らない」と拒絶しはると予告しはってる(マタイ七章二十三節参照)。
この人らは偽使徒パウロの「信じるだけで救われる」と行いが不要で口先だけの信仰でいいというお手軽な偽福音や反キリスト教義に魅了及び洗脳され、主イエスが何と教えはったかを全然理解してへんよね。繰り返すが、「神の王国と神の義を第一に求めよ。」と主イエスは教えはった(マタイ六章三十三節参照)。求めるからには行動が伴わねばならぬ。頭の中だけで思ってるのでは何も得られへんからや。例えば、受験では志望校に合格するために情報を集め、熱心に勉強せないかんやろ。頭の中だけで「受かりますように」等と思ったとて、勉強しなければ受かる筈がないのと一緒や。同じように、ヤコブの手紙にもあるように、信仰も行いが伴うのが当然であり、行いが無いのならその信仰は死んでおり、まったく無意味や。ほんまにパウロ教信者どもは、頭がおかしい。当たり前のことが分からな過ぎやからね。律法に顕現してる神の義が第一であらねばならんのに、人の心を傷つけないことが重要と言う者は、神を無視してるのは明らか。主イエスは神を第一に愛することが最も重要な掟と教えはったのにね。神よりも人間を愛するのは優先順位を間違えており、過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」で指摘したとおり、偽使徒パウロは神を無視して隣人という人間を第一に愛する教えをし、それを支持する者は全員反キリストや。余計な人間的な感情を優先するなんて以ての外である。これが分からん人が非常に多い故、パウロ教信者どもは、主イエスの教えに背いてる故に反キリストであるし、こちらから見れば不信仰とも言える。偽使徒パウロを信じて神の律法を無視して違犯し続けて悔い改めを拒むと、如何におかしな人間になるか分かるであろう。
「偽りの教えを捨てて、聖書に立ち返りましょう。」と書いてたが、あんたこそパウロ教信者をやめてほんまもんの聖書(偽使徒パウロの偽福音や偽教義を除く)に立ち返る必要がある。さもなくば、希望は一切無い。拒絶するなら、このままあんたら多数派が正しいと勝手に思い込み、脳内お花畑のままで居て、裁きの場で主イエスから「全然知らない」と言われ、絶望し、歯ぎしりして泣き喚くがよい。そないなことをしても赦されへんけどね。やり直すなら今の内や。

また、こちら(YouTube)のとおり、拙者が「パウロは偽使徒」と論証してから一年経ってようやくユーチューブ上でも話題にされ始めた。SOSTVという南朝鮮人とSDAと関わりが深い人たちが語ってる。彼らは質問が来たからその動画(人の出演はなく、声のみ)を制作したとのことで、パウロ教信者の誰かが彼らに質問を投げたんでしょう。ああいう質問を他人にする時点で、その質問者自身が真理を理解してへんことが露呈してる。
どうせしょうもないことを言うのであろうと聞いてみれば、予想どおりで、彼らは聖書の真理をまったく理解してへんことが明らかやった。冒頭から「考えたこともない」と聖書を通読してへんことを示す感想から始まって「こりゃ、駄目だ…」と思いましたよ。聖書通読をすれば、明らかに「主イエスの教えとパウロの教えは異なる、矛盾が生じてる。何かおかしいぞ。」という所感を抱かねば、読解力が皆無、国語力が皆無と言わざるを得ない。どう考えても両者の教えは合致してへんさかい。彼らの主張はパウロ教の数ある分派の一つであるプロテスタントというカルト宗教の立場を表明してるだけで、正しく聖書に依拠する信仰の立場ではない。そして、彼らは聖書の中身そのものには一切触れへん。そこが終わってるんですよ。思考停止しており、今ある聖書の形は完璧なのだと洗脳されてる。拙者の過去記事から明らかなとおり、六十六巻だけやないし、パウロ書簡は正典から外されるべきである。パウロ書簡を組み入れたんはローマ人というパウロ教信者どもによる仕業でしかなく、神の業ではない。パウロ書簡を新約聖書として組み込むというサタンの申し出を神が許可してやっただけで、それが神の本意ではないんや。四世紀にローマ人どもが勝手に決めた正典化に疑問を一切挟むな、「異議を唱える者は異端者だ」等と反対者を過去にも散々罵ってきたに違いない。ローマ・カトリック教会がその姿勢やからな。今でもパウロ教信者どもによる同種の迫害があるさかい。今あることは昔もあった。そして、ヘブライ人への手紙はパウロによるものと言える根拠が無い。パウロによるものという決定的な証拠が無いし、書き方も内容も他のパウロが書いた手紙とは明らかに異なる。パウロは自己顕示欲が強く、毎度冒頭に使徒を自称してパウロという名を入れたんが特徴の一つであるし、律法を貶してるからや。
彼らは「パウロが偽物ということになれば、新約聖書の半分が信用に値しないことになって〜」とか「聖書の上に信仰を成り立たせているのであれば、信仰自体が無くなるような大きな問題」と言うてた。いやいや、パウロ書簡なんか抜かしても聖書に基づく信仰は成り立つ。四世紀に今のような形になるまで聖書はパウロ書簡抜きであり、その聖書を読んで学んで信仰を持ってたんやからね。そして、拙者もその証人の一人であるし、他にも居てるからね。何を言うてるんやろ、この人たちは…。彼らの言葉から分かるんは、彼らのパウロ教祖への宗教心が強いこととだけや。福音書、ペトロの手紙、ヨハネの手紙、ヤコブの手紙、ユダの手紙、黙示録だけでもキリスト信仰を持つことは可能や。真実を知るなら、バチカンが図書館に隠してる文書をすべて没収し、一般公開及び翻訳すべきであろうな。また、中東の偽イスラエルでもロックフェラー等が勝手に死海文書をはじめ管理してることをおかしいと思い、彼らの権限を剥奪しろよ。悪の支配層の人間どもに聖書を管理させたり触らせるな。十二使徒やエルサレム教会員たちの書簡が新約聖書としてあまり収録されてへんことこそ疑問視すべきやで。今の新約聖書の文書構成は偽使徒パウロ書簡だけが異様に多く、明らかにおかしいと思わん時点で、かなりやばい人ですよ。
最初に、パウロを使徒としたがってる彼らが挙げた箇所は、パウロの側近であったルカによる記述である使徒言行録十四章十四節や。「おいおい」って言いたくなりますよね。裁判といった審理をする際、身内の証言なんか信憑性は無いんですよ。嘘を言ってまでかばったり、肯定的なことを言うに決まってるからや。そんなことも知らんのかい…って感じです。こういう点も、不信仰の者でも学がある人から莫迦にされますよ、この程度の知能では。しかも、これで「十分な証拠」、「別枠で使徒として認められていた」とか言い切ってるしな…。情けないよ。何やねん、別枠て。有り得へん。勝手に作るな。過去記事「パウロは偽使徒」でも説明済みで、主イエスは十二使徒のために十二の座しか用意しておらず、パウロなんかのために十三番目の座は無いっちゅうねん。聖書を読めよ。パウロ教信者はパウロを教祖としてるため、何としてもパウロに使徒であって欲しいがために、無理筋でも肯定したがる。だだこねてる子供のようや。こんな偽り者たちの仲間になったら滅ぶのは自明であろう。
次に彼らが引用した聖書箇所は使徒言行録十五章二十五節〜二十七節や。これの何処がパウロの使徒性を証明するのかまったく理解不能。全然根拠になってへんのが分からん様子で、重症やな。遣わされたら使徒とかって…「えー」って叫びたくなるわ。たかがそんなことで使徒と認められるんかい。否、派遣されただけで使徒になる訳ないやろ。使徒ペトロが示した使徒の要件を無視すなよ。また、主イエスは十二人しか使徒として選ばんかったのに、他の人間たちが遣わしただけで、遣わされた人は「使徒です」と自称することが許され、他の人も使徒と看做すんですか。そうですか、へぇ〜。ってんな訳あるか。この人らは、かなりやばいな。ここで「使徒とはアポストロスで、特別な使命を持って派遣された人のことですね」と言うてることから、あぁ、上述したよちよちクリスチャンとやらは、このSOSTVの動画を見て真似て言うたのねって確信しました。記事公開日は、その動画公開日の翌日やしな。よちよちクリスチャンが過剰に十戒のみ擁護するんも、SOSTVの悪影響を受けた結果と納得しました。あかんな、この界隈は。
三番目に彼らが挙げた箇所は、使徒言行録九章十五節。しかし、これは拙者が既に弾劾済みのとおり、パウロの偽りの回心場面の一つやな。他にも二回もパウロの回心の様子が使徒言行録に書かれてるが、内容は全部不一致やからね。せやから、信憑性が無く、それが有力な根拠になる筈もない。
四番目に彼らが挙げた箇所は、使徒言行録十三章二節。これも聖霊が語ったとされてるが、そう語ったのが聖霊という証拠は何処にあるのか。無いやろ。ルカの記述を信用するしかないってなもんやろ。そして、この人らは口語訳を引用してるんやろけど、原語には「聖別する」という意味なんて無い故に、誤訳と言える。原語の単語はἈφορίσατεであり、これは「分ける」の意味で、ここでは「分けよ」という命令形である。この単語には「聖別する」という意味は無い。パウロやバルナバを肯定したいがために、こうして聞こえがええように訳したんやろ、日本聖書協会が。まったく原語に忠実ではない。「聖霊なる神様がパウロを任命してるんですね」と言うたが、この箇所は使徒と任命したとは言えへんし、任命という単語は一切無いし、嘘である。もっとも、当時は福音伝道が駆け出しの時期やし、そこまで人手に余裕があった時期ではないし、異邦人相手ならパウロでもいっか程度、または、パウロがユダヤに居っても邪魔なだけで、多くのユダヤ人からも嫌われとったさかい、ユダヤの外に追い出されたと捉えるのが妥当やろ。過去記事で説明したとおり、律法を無視するパウロとその一味は、律法を擁護して守る主の弟ヤコブやエルサレム教会の長老らとも折り合いが悪かったことも使徒言行録に記録されてるとおりやさかい。ルカはパウロ信者であったため、パウロと仲間のバルナバを持ち上げる記述をここでしただけに過ぎず、パウロが使徒であるという根拠にはならへん。
五番目に彼らが示した箇所は、ガラテヤ一章一節〜二節。おいおい。ルカの次は今度はパウロ書簡かよ。偽使徒の容疑が固まってる容疑者本人の書簡を肯定の根拠にしようとするなよ。単なる自称や、根拠にならへん。以上。
六番目に彼らが示した箇所は、コリント一の十五章八節〜十節。これもパウロ本人の自称故に証拠にならへん。もっとも、パウロに使徒の資格が無いことは当時の人は皆知ってたさかい、誰もパウロを使徒と呼んでへんから使徒と呼ばれるに相応しい筈もない。コリントの異邦人相手に使徒と勝手に自称し、謙遜してるかのように見せかけてるだけやろ。後世の人間たちがパウロ書簡のパウロの自称とルカによる偽りの称号の記述によって惑わされてるだけということでこの話は片付く。
七番目に彼らが示した箇所は、ペトロ二一の三章十五節。これもパウロ教信者ならではの意味不明なパウロを持ち上げる無理筋の主張ばかりが展開され、挙句は攻撃を受けてるとパウロの側に立って被害妄想を言う始末…。上述で論破したよちよちクリスチャンも攻撃的だのと言うたんは、やはり、この動画を見て真似て書いたんやなと分かる。「他の聖書箇所」と並列したことでパウロ書簡を聖書と認めてるとか有り得へん妄想を言うてるが、そうではないやろと。曲解の対象として挙げたに過ぎひんのであり、ペトロがパウロ書簡を聖書として認定しただなんてパウロにとって都合良く曲解し過ぎやろ。ペトロはパウロ書簡を読んだ読者が自分に都合良く曲解する(律法廃止論を信じる等)なら滅びると警告したんですよ。パウロ書簡を聖書と認めたんやないし、そんなことは一言も言われてへん。よって、この箇所もパウロが使徒であることの根拠にはならへん。
ここまでで動画の話はお終い。結論として、まったく話にならんよ、こういうパウロ教信者たちは。論理ってもんがまったく通じず、感情的過ぎるし、頭の良さもまったく垣間見えへんし、世の権威による洗脳が深過ぎて救い難いわ。あんな人たちに質問を投げた人もおかしい。誰かが質問を投げたから、彼らが回答したんでしょうよ。そうやって、他人に質問を丸投げする時点でその人自身も理解してへんっていう証拠やからな。ヤフー知恵袋にもつまらん質問を投げかけてる人たちが居り、回答者も真理をまったく分かってへん人ばかりで、愚問に愚答が溢れてるだけや。ほんまにあかん人たちや。世の諸教会やユーチューブ上の偽教師らを頼るなと言うてるやろが。なんで分からんのかね。
SOSTVの動画の方を後で見た関係上、論じるのがよちよちクリスチャンの記事の後になったが、SOSTVの動画内容を確認した上で、よちよちクリスチャンの記事を読むと真似してるだけっていうのが分かる。拙者への敵対心から、「パウロは使徒だー」とか「律法は無視して大丈夫、十戒だけで大丈夫」等と思ってるんやろ。それでは反キリストになってるっていう事実を理解せい。そないな敵対心から彼らに質問を投げて、根拠にもならへん回答を何とか得ようとしてるんやろ。見え見えなんですよ、敵対者の心理も企みも。あんたらの多数が抱くしょうもない肉の思いや欲、主観的感情を手放さずに生きてる以上は、聖霊を受けることも出来ず、滅びは免れへん。

 


賢明なる当ブログ読者と当動画視聴者は、今まで世の権威によって受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。ただ見聞きして終わるんではあかんと何遍も言うてるのに、ちょっとだけ投稿、数か月に一度等と少しだけちょっかい出す人も居るだけで、真剣さが微塵も感じられへん人が多い。当ブログ読者の多くは敵対者ということか。もし敵対せず同意するなら、なんで同じ道を共に歩もうとせえへんのかが解せん。来ないってことは仲間ではないってこと。来てもすぐに去って行く者も同じ。このことも使徒ヨハネが、ヨハネの手紙一の二章十九節で言及したとおりや。来たからというて誰でも歓迎する訳でもないがね。来たいと願う人は募集要項(キリスト道)を読んでからにしてください。真剣さが足らへん人や有益な働きが出来ずに役に立とうとせん人は不要や。拒むなんて酷いなんて思うなよ。それは主イエスのタラントンの例え話(マタイ二十五章十四節〜三十節)からも、神は無能で役立たずの人間を拒絶するというんは事実であることが明らかやさかい。残念なことに、神の掟を守ってキリスト者として最期まで正しい道を歩もうとする人がめっちゃ少ない。パウロ教信者という間違うた道を歩く者は多いがね…。一世紀当時のユダヤはローマ属州にされても律法を守る人がまだ割と居ったが、今は西洋かぶれした愚民や不信仰の者が非常に多く、聖書やキリストに興味を持ったかと思えば、偽使徒パウロの信者になる者が多数で、ほぼまともなキリスト者が居らへん状態。それ故、今の時代は史上最低最悪。まともな人が少ないのは当たり前と聖書を読んで分かったことやけど、実際にその中で生きなければならんのは非常にきつい。日々苦悩しかない。信仰があると自称する多くの人々は、途中まで主イエスに従ったが、途中で脱落して行ったのも福音書(ヨハネ六章六十六節)に書かれてる事実やからね。多数派は招かれただけで、選ばれてへん。神の民は数少ない。主イエスが「狭い門」、「狭苦しい道」と表現しはったことの意味がよう分かる。カトリック、正教会、プロテスタント等に所属したり、それらの教えを信じてるようでは滅びる。なぜなら、それらは偽使徒パウロの反キリスト教義に基づくものであり、イエス・キリストの教えに基づかへんからであり、大所帯の多数派で滅びに至ると主イエスから言われた「広い門」や「広い道」やさかい。
冒頭で書いたとおり、パウロがキリストを悪用してるだけで反キリスト教義を唱えてることについては拙者の記事を読めば、誰でも気付けるよ。ただ認めたくないっていう子供じみた反抗や、長年信じてきたものを否定したくない、自分が間違ってたことを認めたくないとつまらん誇りを持ち続け、負け惜しみを言うて真理を拒絶してるようでは永遠の破滅(第二の死)が待ってる。素直に自分が間違ってましたと認め、悔い改めて、永遠の命に入ろうとする方が賢い選択と思えへんのやろか。主イエスが警告しはったとおり、蛆が湧き、消えることがない火の池である地獄はきつい場所やで。不信仰の者やパウロ教信者はそこに入りたいと熱心に願ってるようにしか見えへんよ。自虐も大概にせい。もう素直に自分らの過ちや誤りを認め、神に立ち返りなはれ。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きなはれ。失われた羊が救われることを願ってます。

以上