こんにちは。

 



今回は、あんた方に世の中で当たり前と広く一般に認知されている常識を疑うことと悔い改めの必要性と重要性を伝えます。

本記事に限らず、拙者の過去記事はすべて今までの常識を覆すものばかりだと思います。それ故に、未だに信じられへん、受け入れられへん等と思ってる人は多いでしょう。せやから、二年前の二千十七年に比べれば二千十九年十月現在のブログ訪問者数と比較すればその数は半分以下になりました。神によるふるいが行われ、それが加速してると幾つかの過去記事で拙者が述べたことが実現した。そして、にわかキリスト者らはどんどん脱落して背教したり、耳触りの良い聖書を曲解した偽福音という作り話に逸れて行きます。最初の頃は聖書の預言に関する部分も多く記事にしてたが、神の律法をはじめとする聖書の真理に関わる部分の話をした辺りから次第に訪問者数は減少していきました。なぜなら、人々は真理を嫌うからであり、耳触りの悪い価値ある諭しを拒むからや。聖書にもそう書かれており、過去記事「偽りの霊による働きへの警告 前編」等で聖句を引用しながら説明したとおり、健全な教えに人々が耐えられへん時が来てるからであり、耳触りの良い作り話である偽福音を吹聴する偽預言者や偽教師らの集まりの方に流れるからや。それ故、つくづく聖書は真実でありほんまもんであると実感する次第です。ダニエル書やヨハネの黙示録といった聖書預言、即ち、将来の予測や展望に関わることについて興味を示す人は不信仰の者でも多い。占いの一種と看做してるからやろな。この先世界がどうなるかは気になるが、人間の罪深さを認めようとせず、現実逃避し、日々の生活はまったく変える気が無いという考えが露骨に表れてる。こないな者たちは神が厭われる。大事なのは日々の信仰生活やさかい。主イエスが言わはったとおり、罪の大小を問わず悔い改めなければ皆同じように滅びるのです。せやから、不信仰の者、異教徒、にわかキリスト者等がなんぼ聖書預言を知ったり、将来の事を知ったとしても無駄であり、滅びは免れへん。

さて、常識と言えばこの地上の形状や仕組みについて大きな欺瞞があります。地球は球体ではなく平面であると過去記事「地球球体説と地動説という嘘と太陽神崇拝」で述べた。ネット界隈である一定の支持層がいるユーチューブ投稿者のEden Mediaが今月になって急に従来の態度を変え、フラットアース、即ち、地球平面説を支持する動画を「フラットアース入門」と題して三つに分けて掲載した。しかし、上記の過去記事で拙者が本文後半で言及したとおり、二千十七年九月当時とそれ以前の段階ではEden Mediaは地球平面説を理由も無く莫迦にする動画を引用して婉曲に否定してた。ここにきて態度を変えたのはどういうことか。立場や考えをすぐに変える者は信用し難い。一部の人はこれもサタンの罠だ等と言う人もいるようや。地球平面説はイルミナティカードにあるから怪しいとか、九十九パーセントの真実と一パーセントの嘘を混ぜるのがサタンのやり方やとして、地球平面説を疑う者も幾らか居るようやが、そないな者は学校、教科書、科学者、政府、NASAらの言うとおり地球球体説や地動説が正しいと思ってるんやろな。しかし、それはまったく愚かであり、狂った思考回路や。そない疑心暗鬼を生じ、何に対しても疑いばかり呈している者は何が正しいのか分かっておらず、反発して野次を飛ばすことに快感を覚える異常者であり、厚顔無恥であり、日々世俗に流されるだけの生活をしている者や。もしキリスト者と自称しながら地動説を擁護するなら、その者は信仰の失格者と言える。上記過去記事で説明したとおり、聖書は明らかに天動説の立場を示しており、地上は自転も公転もせずに平面であることも揺るがへん事実やさかい。この話題について上記過去記事で目を覚ますのに十分な論拠を示したさかい、これ以上広げるつもりもあらへんし、この点にしつこく噛み付かへんようにしなはれ。もしそうする衝動に駆られるなら、この世の洗脳が酷いと自覚するように。

衣服については、過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」をはじめとして既に何回も述べてきました。過去記事「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」では日本が英米の植民地であると説明し、それ故、明治時代から洋服が日本に入り込んで洋服が正式と勝手に政府が決めた経緯があり、特に太平洋戦争の敗戦後、GHQによる自虐史観や欧米に対する劣等感や憧れを抱かされて日本で洋服が急速に普及した。要するに日本人から古代イスラエル人の服装に近い和服を取り上げるように巧妙に謀られているということに気付いて欲しいのです。また、気付いただけに終わらず、改めて欲しいのです。具体的に改めるとは、洋服から脱却して房付きの和服を着るということです。それこそが神に従うことになるさかい。洋服は神の律法に合致せず、異邦人、異教徒、異国の服装なのであり、日本人、ひいては選ばれた神の民である真のイスラエル人が着るべきものではないからや。たとえ古代イスラエル人の末裔ではない異邦人であってもキリストを厚く信仰するなら房付き和服を着るべきや。また、和服の形状は古代イスラエル人が過去に着ていたものと非常に近く、本来すべき服装に近いさかい。
さて、多くの人々の勘違いしている点について注意喚起をしておく。和服や着物と聞けば、人々の思い込みとして江戸装束が基本、またそれが正装と思っていることや。冠婚葬祭で和装にしても江戸装束に勝手に決められるが、間違いや。また、殆どの和服販売店は江戸装束ばかり扱っており、平安装束といった他の古い時代の装束を一般に廉価で販売する業者は稀少や。また、平安装束を販売するのは神職の装束販売店等と数少ない上に高額であり、テトロンといった化繊か正絹かの二択しかあらへんのが殆どであり、木綿や麻で仕立てようともしません。昔は麻が当たり前だったのにも拘らずです。過去の実態とかけ離れ、更に暴利を貪るような和服業界に改革を要求する。高価格設定をやめ、仕立て生地の素材を天然素材に改め、和服の普及に努めなはれ。私利私欲に走って目先の利益を追うのをやめなはれ。
この度、二千十九年十月に消費税が八パーセントから十パーセントに上がり、二十五パーセントの値上げ率や。十から八を引き算してたった二パーセントだけの値上げと思う者は計算がでへん愚か者や。例えば、百円の買い物をした時にかかる税金は二千十九年九月末までは八円で、二千十九年十月からは十円を払わねばならん。よって、10÷8=1.25=125%であり、八円という従来の税額を百パーセントという基準と比較して二十五パーセントの増税率ということや。たかが二パーセントの増税ではないし、税込表示価格をどうせ変えるならという便乗値上げも見られ、物価が総じて上がっている傾向にある。和服についても同様で、すべての店がそうだという訳ではないですが、扱う品が江戸装束と平安装束を問わず定価を釣り上げる和服販売業者も一部であります。洋服に比べて和服を扱う店はそう多くなく競合が少ないことをいいことに増税に乗じて値段を釣り上げているようにしか思えへん。益々、和服を貧困化する日本人から遠ざけようとする行為は、拙者は賛同でけへん。良心的な和服店が出てくることを切に願ってる。
さて、多くの人の思い込みについて、上述したように「和服を着ること=江戸装束を身にまとう」という方程式で考えるのもそのような社会の在り方も誤りです。和服は千三百年程度の長い歴史があり、紋付なんていう装束は江戸時代で確立されたものでしかないさかい。和服に紋があると格が上がり、正式だのと和服業界や世間で勝手に決め付けてるが、無視すべき悪しき慣習や。売国奴の徳川家の支配下の江戸時代なんて長い和服の歴史の後半で短いものですし、江戸装束に拘る理由もありませんし、正装と決めつけられる筋合いも無いものや。せやから、江戸装束が好きな人は着ればええが、平安装束が好きな人はそれを着るべきであり、服飾の歴史を調べて他の時代のものが好きならそれでも結構でしょう。むしろ、房付きの和服は平安装束に多く、時代も秦氏がエルサレムの都をイザヤ書の預言どおりに東の島々である日本において造った平安京が出来た頃の装束、またその時代に近接した装束こそが現存する最も古代イスラエル人の服装に近似してると言える。よって、和服は江戸装束に縛られる必要性は無いし、紋付といった江戸装束が唯一の礼服として従う義務も無い。また、平安装束といっても貴族の装束ばかり考える人が居るが、間違ってる。平安時代の女性全員が日常的に十二単を着ていたのではありません。そのような派手な着物を着ることができたのは貴族だけですし、毎日という訳でもなかったからや。それなのに、女性は「平安装束といえば十二単」という想像を勝手に膨らませて、男性は衣冠や束帯を思い浮かべ、かような和装は堅苦しいし、重ね着で重いし、不便だのと和装に否定的になる傾向にある。しかし、庶民や武家の人はもっと地味で簡素な服装でした。そないな格好を目指すべきであり、華やかに着飾る必要なんてあらへんし、無駄に費用を掛ける必要も無い。着飾ることの無意味さは聖書にも主イエスの御発言にあり、過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」で紹介したとおりです。人は「礼儀(マナー)」だのといって大した理由も無く拘束したがりますが、そないな人間の勝手な戒めは無視すべきです。根拠はただ聖書のみ、神の律法、掟、戒めを守ることが最重要なのであり、人間の決めたこと、しかも何ら正当な根拠や事由にも基づかない決め事に従う必要はあらへんさかい。
また、神の律法(申命記二十二章五節)に、男は女装するべからず、女は男装するべからずというものがあります。明治時代から西洋人女性が来てるドレスを真似ようとして日本人女が男物である袴を勝手に履き出し、それが女袴と呼ばれるようになって現在も一部の女が卒業式等の格好に利用されてる。しかし、これはおかしな格好であり、恥ずべきことです。男と女は明確に着る物は分けるべきであり、倒錯してはなりません。そのような倒錯行為は、主なる神にとって嫌悪だからです。過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」でもその旨を書いたとおりです。男は男らしく、女は女らしくあるべきであり、男女どちらでもない中性を目指すとかトランスジェンダー等と性転換もあかん。たとえ人間の法律等で認められようとも神は認めはらへんし、悔い改めてやめへんのなら、地獄行きになります。律法違犯には一点の落ち度もあってはならんさかい(ヤコブ二章十節)。
さて、和服を早速着ていきたいと思っても、何処で買うのかという問題に立ちはだかる。百貨店や呉服店は高額なだけやさかい、行く意味はあらへん。百貨店で何十万円もする和服を新調しても痛くも痒くもない程に地上の富を蓄えている人は、主イエスの教えに反した行動をしてるさかい、真のキリスト者やあらへん。なるべく費用を低く抑えたいというのが庶民感覚やろ。ほんだら、現在最も安く済ませられるんは、中古品を扱う店で買うことであり、店によっては通販もしてる。しかし、中古品というのは寸法に限りがあるという大きな制約がある。昔の人は小柄な人が多く、高身長の人は寸法が合わへんさかい、多くの中古品は体に合わず買えへん。しかし、中古品の中でも寸法が合うて、品質にも問題が無いのなら、ええ機会やと思う。新品がええと思う人、中古品では自分の体に合う物が無いから新品しか検討しようがないという場合は、少しでも安い和服をネット上で検索することになるでしょう。実店舗よりもネット通販の方が遥かに安いことが多いさかい。実店舗も通販サイトも持ってる所もあり、これらは高額に価格設定してる所が多いさかい、避けるべきや。長着単品や浴衣単品で十万円以上も取るような店では買わへんようにしなはれ。また、素材についてポリエステルをはじめとする化学繊維(化繊)の生地は避けなはれ。化学物質の生地は、汗を吸わへんし、肌触りもあまり良くないし、体に悪い静電気を発生させ易いさかい。また、律法にあるとおり、麻と羊毛(ウール)の混合繊維で出来た衣服やそれぞれを一緒に身にまとうことも忌避すべきです。この組み合わせは、繊維の性質上相性が悪く、静電気を発生させ易いから神が人間のことを想って禁じてる。かような混合繊維を避け、なるべく天然繊維である綿100%や麻100%の生地の着物がええ。麻はその有用性から貪欲に金儲けをするこの世の支配者から憎まれて栽培を制限され、現代では不当に高額に設定されてるが、古来日本ではありふれた植物であり珍しくもなく高くもなかった。数が減れば希少価値が高まり価格が高くなるという状況に陥っているだけや。
和服は数着持っていれば着回して洗濯物も減ります。毎日洗う必要も無いし、長着と下に着る襦袢とに分かれており、下着の襦袢を洗う場合でも長着は特段汚れなければ洗う必要は無く、洗濯頻度も減るし、洗濯によって生地を擦り減らすことを遅らせて長持ちすることにも繋がります。和服は普段着でもまったく不便なことはなく、慣れの問題にしか過ぎひん。帯を結ぶにしても一旦体で覚えれば十数秒で済み、いちいち全部脱がなくても厠で用の足し方も手際よく出来る。そないなことを教えているサイトや動画も調べれば見つけられます。マジックテープ付きの帯なんてみっともない物を買わないようにしましょう。帯は自分の手で結び、面倒くさがらんようにしなはれ。そして、何より和服が既製品のままではあかんのは過去記事で述べたとおりです。しかし、服装だけを整えるに留まらず、心と品性も整えることを忘れてはなりません。外も内も共に改めましょう。もし熱心に悔い改めることをお望みで、そのために和服について質問があればお気軽に投稿してください。

他にも間違った常識、世による洗脳について過去に多く記事にしてきたさかい、一度読まれた方でも忘れてるなら何度でも読み返して復習しなはれ。一つ忠告しておきますが、大衆は愚民です。「そんなことを言うなんて酷い」等と思う人が居るやもしれへんが、残念ながらこれが実態であり真実や。仮に世の中の多数が賢人ならば、欺瞞、嘘、不誠実な行動は見られず、犯罪は起きず、放射線物質や化学物質等で土壌汚染や海洋汚染、大気汚染も起こらず、下品で低俗な世界にもならへん筈やさかい。それ程、世の人間は利己主義で罪深いというこっちゃ。何らかの大災害や戦争で死傷者が出れば「罪もない人が犠牲に…」等とのたまう人が居るが、主なる神にとっては人間は全員罪人やさかい、かような言い分は間違うてる。大衆は学生時代しか勉強せんし、その勉強というのも間違うた学校教育や間違った教科書を基にした知識ばかりで、国家による洗脳教育であり、無価値やさかいす。これは日本に限らず世界中で同じことが言える。聖書を無視し、自分の頭で考えず、権力者の嘘を容易に信じる程に知性が落ち、受け身でテレビや新聞等の報道各社が垂れ流す虚偽情報を盲信したり、ネットで自分が興味あることを検索結果が操作されてるグーグル等で検索し、その操作された検索結果を信じていては自称知識人の厚顔無恥な高慢な者になるだけです。神学校や大学の神学部等に行って聖書を勉強したつもりになっても無価値であり、聖書の真理から外れた誤った人間が勝手に作り上げた神学に洗脳されるだけや。何故、国家や権力者は大衆を愚民にする必要があるのか。答えは簡単や。もし大衆が賢くなったならば権力者らにとって支配が難しくなるし、搾取でけへんし、思い通りに動いてくれなくなるからや。世の権威にすがらず、周囲に惑わされず、同調圧力に屈しないで、きちんと自分の頭で考えて賢く行動する人間が増えれば増える程、権力者らは管理が大変になるさかい、大衆を愚民化するのは当然であり、それがサタンの方針なのです。そして大衆はそれに気付かへんし、たとえ気付いたとしても中々改めようともせえへん。支配層や政府にとっては、広報である報道各社や学校教育を盲信してくれる愚民が増えれば扱い易いんや。当ブログの最初の方の記事でもまず目を覚ますように書きました。この世は悪い者の支配下にあるのを教えてくれているのは聖書であり、唯一ほんまもんの神、また重要な決まり事である律法、掟、戒めも教えてくれる最高の本です。聖書を読めば主イエス・キリストが真理であり、この世の悪さの原因、人間の罪深さもよう理解出来る筈や。そして、その事実を受け入れ、認め、悔い改めという行いによって改善して示し、死まで神の掟を守るという主イエスの信仰を保ち、神に従順であることでようやく救われる(後の世で永遠に生きる権利を得る)。信仰というのはそうものであり、口先だけで綺麗事を言い、口先だけで父なる神や主イエス・キリストを賛美することでもないですし、行いで示さないで良いのでもあらへん。過去に何度か紹介したとおり、行いが伴わへん信仰は死んだものであるとも聖書(ヤコブ二章十七節)に書かれてるさかい。

悔い改めというのは、過去の行いを罪であり悪い行いであることを知って悔いて、それをやめるという改める行為の二段階に分けられる。キリスト者になった人であっても悔いるだけで改めてへん人が非常に多い。そないな人は拙者が述べてきた「にわかキリスト者」なんや。また、主イエスを崇めながらも主イエスの御言葉に従うてへん自称キリスト者のなんと多いことか。「悔いる」のは不信仰の者にでも出来る。大事なのはその後の「改める」行為や。信仰を行いで示すことの重要性がまさにここに顕現してる。主イエスが律法や黙示録の啓示で偶像礼拝を地獄行きの罪として示して禁じているのに、何故偶像礼拝をやめへんのか。カトリック信者や仏教信者らよ、この事実にいつになったら向き合うのか。また、偶像礼拝は像を拝む行為に限らず、神以外のものを神と同等以上に大事にすることも偶像礼拝や。過去記事「自我との戦い」で自我を捨てるようにも説明したとおり、主イエスがかように教えはったからや。重要なのは、他人ばかり非難していないで自分自身をよく吟味し、振り返り、あかん点があるなら改善する必要があるということや。他人の欠点や至らない点ばかりを追及して、自分自身を律することを疎かにするなら、その人は神からその人が他人を裁いたのと同じ裁きが下され失格者になりかねへん。せやから、文字通りの偶像礼拝者であるカトリック信者が同じ偶像礼拝者である仏教徒を非難しても無意味で、どっちもあかん。勿論、あかんのはこの両者だけやのうて、主イエスに忠実ではない自称キリスト者、異教徒、不信仰の者全般に及ぶ。キリスト者であっても悔い改めると口癖のように軽々しく言う人は多いですが、行いが伴ってへんことが多い。プロテスタントの律法廃止論者やカトリック信者、正教会信者らといった偽キリスト者どもは律法を無視し続けて違犯する不法者やさかい、この世で生きる上で主イエスのように律法を守ることで発生する葛藤が無いし、律法違犯することに対して良心が痛むことが無いし、反省もせえへんさかい、悔い改めをせず、主イエスを模範とせず、主イエスに最期まで忠実であろうとせえへんさかい、論外です。悩み、苦しみ、時に失敗をしながらも、腐らず、自暴自棄にならず、兄弟同士で励まし合い、日々自分を否定して自我を捨てるように努め、信仰によって神の律法、掟、戒めに服従し、父なる神、主イエス、聖霊のお導きに委ねられるようにして行くべきや。そうして初めて狭い門から入って狭い道を行くようになる。これが分からへん、または拒絶する者は最初から広い門に入り、広い道を歩き続け、多数派に属して大丈夫だと浮かれてるが、後で破滅を見ることになる。主イエスからも「不法を行う者」と言われて「あんた方のことは全然知らない」と拒絶される(マタイ七章二十三節参照)。せやから、周囲の人間、即ち、世の多数派である大衆を見て安心して同じような格好をし、同じような言動をし、同じような信条を持っていて悔い改めへんようでは必ず滅びる。あんたの身近で出会える人で完璧な人は居らへんやろ。たとえほんまもんの預言者であっても完璧な人間ではあらへん。預言者ダニエルも自分の罪を主なる神に告白したとダニエル書九章四節にあるとおりで、預言者も罪人や。人間は誰一人として完璧ではあらへん。しかし、誰かが聖書の真理を基に世の誤りを指摘して正す導きをせないかん。そないな働きに召されるのが預言者であり、過去の旧約時代の預言者たちもそのような活動をしており、洗礼者ヨハネから分かるとおり、奇跡といった不思議な業を行うのが預言者の仕事ではあらへん。聖書の真理に反する言動をする、聖書を文脈無視で一部抜粋するだけで構成された偽福音や偽教義を言うものはすべて偽り者です。

誰もがこの世の虜になっているのではないか。日々仕事に追われ、休み無く働くことが美徳と勘違いし、金銭を多く稼いだり社会的地位を得ることが本分だのと言わんばかりで、娯楽や快楽に興じてる人が多いやろ。かような生活を続けていては獣に等しい。世にの権威に洗脳され、政府や会社の駒になって搾取されるだけの存在や。働くだけ働いて納税やその他散財をさせられ、後はこの世から虚しく消え去っていくだけや。早よ気付いて生き方を改めよ。特に、今の社会は、自己責任論ばかりで政府や行政は国民のためになることをしませんし、災害や戦争が起こっても国民を救助したり保護せず、年金を六十歳から支給せずに六十五歳や七十歳等と段階的に以降に引き伸ばして契約違反の詐欺行為を恥とも思わずにお年寄りが死ぬのを待ち、支給年齢引き上げによって年金支払いを実質的に拒否し、売国政府は国民に寄り添うことをせえへん。もしすべて自己責任にするなら、政府や行政や司法機関なんて要らないし、税金を納める必要性も無くなる。税金を一切納めず、その代わりに各自が貯蓄をして自分で何とかし隣人と仲良く共生する、自己責任とはそういう世界です。しかし、世の中は悪人が多いので仲良く共生できないので法やその執行機関が存在しているのです。国民に税金を納めさせる以上は本来、政府、行政、司法機関等は国民に仕える立場で低くあって奉仕すべきです。日本国憲法十五条に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と規定があります。しかし、実態は、日本国民は公務員を選べず、公務員が公務員を選んでおり、選挙の立候補に際して供託金は三百万円と諸外国に比べ異常な高額さであって庶民に立候補させへん仕組みがあり、選挙は不正がまかり通り、富裕層や外国人等といった一部の奉仕者になっており国民に奉仕してへん。日本政府は宗主国である英米に仕えて奉仕し、日本の国土や国民の健康や命を売って金儲けしたり社会的地位を保持してる。他にも政府、行政、司法機関は違憲行為を繰り返し、憲法が長年空文化してしまっている状態です。何故こんな単純な論理、危機的な状況に気付かへん人が多いのか。上述したとおり、大衆が愚かやからやろ。政府や行政は自己責任と言ってはいけないし、そうであるかのように振舞ってもいけない人たちです。彼らの違憲行為、詐欺行為にも何も言わずに従う国民が多く、それはやはり大衆が愚かであることに起因してる。こんな悪い世にも拘らずに税金を納めるのは当然、少子高齢化すれば増税は当たり前と洗脳されて、抗議も訴訟もせえへんからや。消費税を廃止して大企業への法人税を上げ、税金の無駄遣い停止、議員定数激減、公務員の昇給停止及び民間企業並みの待遇に下げ、国会の特別会計を可視化して激減させる等とやるべきことが山積みなのであり、これらをまずすべきなのです。税金が庶民のために使われず、公務員らの懐を潤したり海外に流出していても何も言わないで搾取され続けるのですから、奴隷以下の従順な家畜でしかありません。公務員らは誰の税金で暮らしているのか忘れ去っていますね。かように、日本は憲法を守らへん異常な公務員たちが支配しており、日本は国としてまともに機能してへん。かような国の在り方は沈みかけた船です。世界を見ても日本だけが異常という訳でもなく他にも異常国家は多いですが、特に日本が危機的状況だという事実は拙者の多くの過去記事で既に散々説明してきました。しかし、世界中の愚民は信じず、知ったとしても具体的行動に移さず従来どおりの家畜生活を続けており、聖書を真剣に読んで主イエス・キリストに救いを求めようとせず、一旦主イエスを信じたかのように見せかけ、少ししたら道を外れて堕落していく有様です。

 

出会いは貴重な機会であり経験や。一期一会とも言うように、二度と無い機会であることもようある。賢人はそないな機会を逃さへん。へりくだって高慢にならず、他人を敬う姿勢で人を分け隔てせず、また聡明な人なら真偽を見極めることが出来、賢人を放っておくこともないし、誹謗中傷をするなんて有り得へん。三国志を知っている人なら三顧の礼が有名やな。一度も会うたこともなく、噂でしか聞いたことがあらへん諸葛亮に劉備が三度訪ねて出仕をお願いした逸話です。劉備は皇帝の末裔という身分であっても、山奥に引きこもってた一般人の諸葛亮を軍師として迎え入れるために頭を下げ、出仕してもろた後も劉備は常に諸葛亮を尊敬し、上から目線で対応することが無かった。諸葛亮もそんな劉備の人柄に感心して終生一途に仕え、軍師として才を発揮し、蜀で劉備を皇帝の地位に就けるのに貢献した。この話からも分かるとおり、誹謗中傷する者、人を外見や経歴等だけで判断する者、相手の才能や器量を見極めようとせえへん者、見極める能力が無い者は愚か者や。

あんたらの多くが貴重な機会を安易に無視して台無しにし、つまらん人間と付き合うようになり肉の欲求を満たすだけに生きた結果、最終的には共々滅びる。今ではインターネットにより交際の幅も広がりました。インターネット登場前は出会える人に限りがあり、場所的な制約も大きかった。例えば、北海道の人が沖縄の人と知り合うことなんて普通の生活をしていれば、ほぼ無いでしょう。ましてや海外にいる人と知り合うことなんてもっと低確率やろ。しかし、今ではネットによって、国境も超え、時間差も無く瞬時にやり取り出来る状態になった。それ故、福音伝道においてもネットは大いに活用されるべき道具です。出会い系等の事件報道で思い知ってるとは思うが、その利便性故に悪人も悪用することで危険が付き物なのは周知のとおりです。世の中、善人ばかりではないので事件や犯罪に巻き込まれる可能性がある。それ故、上述したとおり、人を見極める目があるかが問われる。ネット使用についてきちんと知識を備えて対策をしつつも、未だ見ぬ救われるべき人が居るかもしれへんさかい、拙者はネットを活用してる。また、あんた方も福音伝道や兄弟同士の励まし合いはネット上を通じて対面でも出来る限りすべきや。今ではスマホやパソコンがかなり普及し、調べようと思えば簡単に情報にありつけるし、テレビや新聞等といった虚偽情報に騙されなくなった。拙者はやるべきことをしてるさかい、後は読者の方から行動することが必要や。自分で探さず、ただ待ってるとか受け身ばかりで、自発的に探す努力もせんようなら、貴重な人との出会いは無いであろうし、神との出会いも無い。主イエスも「求めなはれ。さすれば、与えられるだろう。探しなはれ。さすれば、見つかるだろう。門を叩きなはれ。さすれば、開かれるだろう。」(マタイ七章七節〜八節参照)と教えはったさかい。逆に言えば、自分で努力せえへん人は何も得られへんということであり、救いも得られへんであろう。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 



以上