こんにちは。

 


今回は、前回の続きで、聖書(偽使徒パウロの書簡は除く)を基に、聖書の終末預言の考察を述べます。長くなるさかい、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで世の諸教会や諸教派が垂れ流す嘘や欺瞞をかなぐり捨てて、正しい終末に対する認識を持ち、各自が賢く備えてることを願うてます。

過去三回は、マタイによる福音書にある主イエスが教えはった終末の兆候について見てきた。今回は、マルコによる福音書の終末の兆候を見て、その差異を比較及び検討する。


 

新約聖書 マルコによる福音書 十三章三節〜三十七節(拙訳)
そして、彼(イエス)がオリーブ山で神殿に対して座ってはる時、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、私的に質問した。
「これらの事はいつになるのか、また、これらすべてが実現される前にどないな徴が起こるのか教えてください。」
そこで、イエスは彼らに答えて話し始めはる。
「誰にも惑わされへんよう、注意しなはれ。 我が名において多くの人が来て、『我(がメシア)だ』と言うて、多くの人々を惑わすだろうからや。戦争や戦争の風評を聞くだろうが、動揺すな。それが起こる必要があるからやが、未だ(世の)終わりやない。確かに、民は民に、王国は王国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉と騒動があるだろう。これらは産みの苦しみの始まりや。しかし、あんた方は自分たち自身に注意しなはれ。人々はあんた方を地方法院に引き渡し、諸会堂で打たれ、我がために支配者や王の前に立たされるだろう。彼らへの証言のために。 そして、まず、福音があらゆる民に公に宣べ伝えられないかん。更に、人々があんた方を連行して引き渡す時、何を話すかを事前に心配すな。熟考もすな。むしろ、その時にあんた方に与えられることを話しなはれ。話すんは、あんた方やのうて、聖霊やさかい。一方で、兄弟は兄弟を、父は子を死に引き渡すだろう。子は親に反抗して殺すだろう。また、我が名のためにすべての人に嫌われるが、最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。」
「更に、預言者ダニエルによって述べられた荒廃の忌まわしいものが立ってはならぬ所に立つのを見たら、読者は悟りなはれ。その時、ユダヤに居る人たちは山に逃げなはれ。しかし、屋上に居る者は家の中に降りて行ってはならず、自分の家から何かを取りに入ってもならん。また、野外に居る人は、自分の衣服を取りに戻るな。更に、それらの日々において、身重の女と乳飲み児を持つ女は不幸や。せやけど、あんた方の逃避が嵐にならんように祈りなはれ。その時、それらの日々は、神が造りはった創造の初めからこの時まで無く、将来も決して無いような苦難があるだろうからや。そして、もし主がそれらの日々を短くしはらへんのなら、すべての肉なるものは救われへん。しかし、(主が)選んだ者たちのために、(主は)その日々を短くする。その時、もし誰かがあんた方に「見よ、こちらがメシア、いや、見よ、あっこや」と言うたとしても、信じたらあかん。偽メシアたちと偽預言者たちが現れ、出来れば選民も堕落させるために、しるしと奇跡を起こすだろうからや。 しかし、あんた方は注意しなはれ。見よ、あんた方にすべてを前もって言うた。」
「それらの日々に、その苦難の後、太陽は暗くされ、月はその光を出さず、天の星は落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。また、その時、大いなる力と威厳に満ち、雲によって来る人の子を人々は見るだろう。そして、その時、(主イエスは)その天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで四つの風の中から、彼の選ばれた人たちを集めるだろう。」

「更に、いちじくの木の例えから学びなはれ。その枝が既に柔らかくなり、葉を出したら、夏が近いことが分かる。かように、あんた方はこれらが起こるのを見たなら、入口に近いと分かる。確かにあんた方に言うとく。これらすべてが起こるまで、その時代は決して滅びひん。この天と地は滅びるだろうが、我が言葉は決して滅びひん。」
「せやけど、その日、その時間については、父を除き、天に居る天使たちも子も、誰も知らへん。注意しなはれ。目覚めていなはれ。そして、祈りなはれ。その時がいつか、あんた方は分からへんのやから。自分の家を去って旅に出て、自分の僕たちに権限と自分の仕事を各人に与え、門番に見張るように命じる人のようや。せやから、目を覚ましていなはれ。いつ家の主人が来るのか、夕方か、真夜中か、雄鶏が鳴く頃(二時〜三時)か、明け方か、あんた方は知らへんさかい。(家の主人が)不意に来て、あんた方が眠ってるんを見付けることがないように。更に、あんた方に言うことは、すべての人に言うてるんや。目を覚ましていなはれ。」


一、終末の徴について質問した弟子たちの具体的な名前が挙がってる。
マタイでは「弟子たち」として具体的な名前が無かったが、マルコでは「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」の四人の名が挙げられてる。十二使徒の中でも全員やのうて、その四名が終末のことを気にしていたのだろう。この記述の差異によって、どちらかの福音書が間違いという訳やのうて、マタイが大まかに書いたのをマルコでは具体的に書かれてるという評価になる。その前の、主イエスが「神殿に対して」座りはったというのも地味にマタイとは異なった記述である。

二、キリストの再臨と世の終わりの徴が、マルコによる福音書では省略されてる
マタイでは明確に「あんたの再臨と世の終わりの徴が何なのか」と書かれてるが、マルコでは「これらすべてが実現される前にどないな徴が起こるのか」と世の終わりとキリストの再臨についての記述が略されており、この質問に至る前のやり取りが主イエスと十二使徒の間であったであろうが、その内容が書かれてへん。そのことだけを以って、これらの話が終末のことではないと言い張ることはマタイの記述がある以上、間違いと言える。

三、神の民は地方法院に引き渡され、諸会堂で打たれ、支配者や王の前に立たされる
この記述は、マタイには無いものや。地方法院とは現代で言えば、地方裁判所と言い換えることが出来る。ここでの諸会堂とは、当時はユダヤ教の会堂(シナゴーグ)のことを指す。それを現代で言い換えると、文字通りのユダヤ教の会堂を含むし、パウロ教(カトリック、正教会、プロテスタント等)の諸教会も含まれるだろう。これらはすべて神の律法を守らへん反キリスト勢力やからや。彼らは主イエスと神の民たる真のキリスト者に敵対し、天に御座す主イエスに手出しでけへん憂さ晴らしをこの地に住む神の民に対して行う。そして、真のキリスト者は世間の人々から嫌われ、拘束され、世俗社会の権力者の前に立たされ、主イエスの証しをすることになると予告されてる。それがきっかけで全世界にほんまもんの福音が公に伝わることになるのであろう。これまでの偽使徒パウロの偽福音と偽教義ではなく。

四、連行されて引き渡された時、何を話すか事前に心配も熟考も不要
この主イエスの御助言は、多くの人々にとっては関係無いものとなろう。真のキリスト者にのみ関係あることやさかい。真のキリスト者は聖霊の導きがあって話すさかい、事前にあれこれと思案したり台本を用意する必要は一切無いと示されてる。反対に、何も喋られへんような人は聖霊の導きが無いことが分かる。真のキリスト者は、平素から伝道活動をしており、迫害されて拘束されてる時でさえ話す。逆に、平素から伝道活動をしてへんような人たちは聖霊の導きが無いと言えるし、拘束されるようなことにもならへんであろう。なぜなら、キリスト者としての大事な務めの一つである伝道を行わへんのは役立たずの無能であり、臆病でもあって表立って伝道せえへんからや。ネット上でも正しい聖書福音を伝道してへん人が多数で、伝道してる人が少ないさかい、この点からも救われるのは狭き門というのは正しい。伝道するというても、世の諸教会のように偽使徒パウロの偽福音と偽教義を吹聴してるのは評価に値せず、むしろ、悪い評価になる。嘘を言い広めて他者を騙すことがええ行いではないからや。また、気まぐれでたまにしか伝道せえへんとか、または途中でやめるとかで継続的に活動せず、最悪の場合、何年経っても何もしてへん役立たずは絶対に救われへん。行いの重要性を知らぬような人は聖書を学んでへんことが明らかで、救われる見込みはほぼ無い。
また、真のキリスト者は権力者や大衆から嫌われ、迫害され、不当に拘束されることが示されてる。それを恐れてるのか、または単純にやる気が無いだけなのか、キリスト者としての活動を既に辞めてる信仰の失格者が多い。そないな輩に救いは無いのは確実やし、不信仰者や異教徒(パウロ教徒を含む)も同様。そないな世の多数派の人間は、世の富の獲得のことばかりに注力し、空き時間は快楽や娯楽にうつつを抜かし、権力者や金持ちどもに媚びへつらい、目を付けられぬように活動をせず、神に逆らうて悪魔崇拝者である支配層や政府等の命令等に忠実に従い、悪魔と支配層の意向に沿ったことをする。こないな多数派の人間は、ほんまに救いようが無い。
マタイ二十四章の終末の徴には無かったが、マタイ十章十七節〜二十三節に、人々から迫害されたり、地方法院に引き渡されたり、何を言うか心配する必要は無い、家族とも対立することが示されてる。マタイ二十四章に記載が無いから、マルコの記載が誤ってることにはならへん。単に、福音書の記述者によって書く場所が異なっただけと言える。現に、マタイ十章の方にも「人の子は来る」等とあり、再臨について言及してることから、本来二十四章にあれば良かったのに、先に書いてしまったといったところか。

五、産みの苦しみの始まりに悪疫が無いことになってる
マタイと異なる点は、マルコには悪疫の記載が無いことや。マルコでは地震、飢饉、騒動のみで、これらはマタイと共通してるが、悪疫が欠けてる。悪疫とは流行病のことを指す。過去記事「聖書の終末預言 一」で書いたとおり、マタイでも偽りの底本(改訂版)を基に訳されてる市販の聖書ではこの言葉が削除されており、悪い人間どもは、この言葉を欠落させたがってるように思える。悪疫が終末の徴の一つである事実を知られたないという悪魔崇拝者側の意図を感じる。マルコで悪疫という単語が無いのは、その筆者が書き忘れたのか、意図的に欠落させたかのどちらかであろう。
そして、存在せえへんウイルスと偽感染症騒動を理由にしたマスクとワクチンによって、多くの人間は、より不健康になり、命は縮められ、支配層から駆除され、たとえ接種者が少し生き残ったとしても遺伝子組み換えされ、自然人ではなくなり、支配層の特許によって彼らの所有物と化したことで人権は認められず、5G等の電磁波によって外部から操作され、惨めな操り人形になる。こちら(メモ・独り言のblog)のように、ワクチン接種者は5Gでゾンビ化する可能性が示唆されてる。千九百九十四年にアフリカで発生したルワンダ虐殺もそれと同じようなことである。こちら(BitChute)で、ピエール・ギルバート博士が、「ワクチンで人間を制御可能で、ワクチンに入ってる成分が脳に入り、それが電磁波の受動体となって低い周波数の電磁波を浴びると接種者は自分で考えることがでけへんゾンビになる。これは仮説ではなく、既に実施されてる。ルワンダを見てください。」と言うてる。ルワンダを見ろとは、先に述べたルワンダ虐殺のことを指す。ゾンビと言うても、映画や遊技のバイオハザードに出てくるきしょい者に見た目が変化することやのうて、自分で主体的に考えることがでけへんような人間、自分の良心や理性で自分自身を制御出来ずに外部から制御される人間がゾンビということや。更に、国際機関や各国政府や有名人や立派な肩書を持つ人間の言うことしか信じひんとか、世の権威を安易に信じる人間どもも自分の頭で思考しておらず、良心も無いさかい、ゾンビと言えよう。二千二十一年以降、すべてのワクチン接種する人間は例外無く世の権威を盲信してる人間、即ち、ソンビであり、そないな人間は神の民とは言えず、獣の刻印を受けて滅ぶであろう。

六、家族間でいがみ合い、殺害も厭わへん
兄弟は兄弟を、父は子を死に引き渡すだろう。子は親に反抗して殺すだろう。」という主イエスの予告は、かなり深刻や。兄弟間や親子間で殺害は、何らかの争いで終末時代でなくても起こることは実際にあるが、終末時代は特に思想信条の相違により深刻な対立があるということだろう。支配層とその傀儡の政府等に盲従する人たちと、それに立ち向かう人たちとに二分され、それが家族間という骨肉の争いにもなるということや。

 

 

二千二十年から続くコロナ騒動を見ても分かる。コロナが在るものとして嘘をつき続ける世の権威(政府や報道機関等)と彼らに盲従する愚かな多数派と、世の権威の嘘を見抜いて弾劾する正義感が強い人々と二分されてるように。それが家族間でも考えが異なり、対立する事例が少なくない。一家揃って世の権威に盲従して騙されてるのは多いやろけども、そないな人らは論外や。「家族やから」という理由で同じ思想信条を持つ訳ちゃうし、強い絆で結ばれるとは限らへんということや。特に、戦後の日本では核家族という西洋の間違うた思想の悪影響を受け、日本の伝統を勝手に崩し、家族意識が希薄になり、家(家族)に対する思いが変わり、より自己中心的な人間が増え、悪人が多い。そのせいで、親や年配者を敬う人が減り、年配者は年少者を適切に教育等をせず、家の一体感が無くなり、家庭崩壊し易くなり、結束も希薄になった。西洋の反キリスト的価値観に洗脳されて倫理観が悪くなり、洋服と西洋の美的価値観から脱却せず、簡単に不倫したり、少々気に食わへんことがあっただけですぐに離婚したり、その他日本人として恥ずかしいことを平気でしたり、忍耐力が無い人間が増え過ぎた。結婚せずに性交渉して子供を産むという破廉恥な行いをしたり、家を守る意識が無く、そないなおかしいことをおかしいと思わず、人として守るべき基本的な倫理観が薄い自己中心的で愚かな人間が多い。子供を持つことや養育に対する責任感が薄い莫迦親も増加しており、親が自分で子育てをせずに他者に子の面倒を見させて依存したり、子を虐待したり、子を自分の所有物として扱うたり、何でも言うことを聞く存在かのように勘違いしてる者も居る。そないな愚劣な人間は、家族間ですらいがみ合い、敵対し、殺害をも厭わへんのであろう。世の中で広く神の律法を守る聖書教育がきちんとなされていれば、決してこないなことにはならへんであろうが、現実には聖書は殆ど読まれず、律法遵守する人は殆ど居らず、そのせいでこの世の人間は悪い者ばかりであり、社会も荒んでる。世の多数派が神に逆らうことをしてるのが社会が悪くなってる根本的な原因と理解し、早々に悔い改めよ。

七、荒廃の忌まわしいものについての違い
マタイは「聖なる場所に立つのを見たら」とあるのに対し、マルコは「立ってはならぬ所に立つのを見たら」と、内容に多少の違いがある。表現はまったく同一ではないものの、意味は似たようなもので、守られるべき聖なる所が忌まわしいものが立ってはならぬ所ということや。立つと訳してるが、設定という意味合いもあり、偶像が立つというだけの意味合いではないし、物理的なものに限らへん。それにも拘らず、世の諸教会の自称聖職者やその追従者どもはこの聖句も全然理解してへんし、終末時代を意識することもなく、平素から神の律法を無視して違犯し続け、世俗的に生きてヘラヘラしてるパウロ教徒が多い。主イエスの教えである律法違犯をやめるという悔い改めをせえへんような人たちに救いの希望は無い。

八、逃避についての違い
マタイは「嵐にも安息日にもならんように祈りなはれ」とあるのに対し、マルコは「嵐にならんように祈りなはれ」という違いがある。ここは、マルコには安息日という言葉が欠けており、問題がある。これは非常に重要な言及であり、マタイの方が質が良く、当てにすべきと言える。
また、マルコ十三章三十三節において、「祈りなはれ」という言葉が改訂版底本では欠けてるが、ほんまもんの底本では存在する。市販の翻訳聖書は神に祈らせへんように仕向ける悪しき意図を感じる。

九、大艱難についての違い
マタイでは「大きな苦難」、かつ、複数形であるが、マルコでは「将来も決して無いような苦難」と苦難の原語が単数形である。この点において異なる。大艱難は、福音書にも戦争や飢饉や悪疫等と産みの苦しみの始まりだけでも色々あり、一つだけの出来事で終わるとは考えられず、複数あると考えられ、この点もマタイの記述の方が良いと言える。

十、死体と鷲についての言及の有無
マタイでは「死体がある所、そこに鷲が集められるだろう。」という記述があるが、マルコでは一切無い。これはマルコで省略されたのか、言及が忘れられてるように思える。その意味については、過去記事「聖書の終末預言 二」を参照されたし。

十一、キリストの再臨の様相の相違
マタイは、「各天の果てから果てまで四つの風から、彼の選ばれた人たちを集める」とあるのに対し、マルコは「地の果てから天の果てまで四つの風の中から、彼の選ばれた人たちを集める」とされてる。これはキリストの再臨時に発生する携挙の状況を表しており、天の果てと地の果てという点で大きく異なる。終末時代に真のキリスト者は迫害されて減って行くけども、その中で生き残る僅かの真のキリスト者が地上に居るなら、地に関する言及があって然るべきに思える。この点では、マルコの記述の方が正確と判断する。

十二、終末時代がノアの時のようという言及の有無
マタイは「ノアの時代のように、人の子の来臨もそのようであろう。」という記述があるが、マルコでは一切無い。これはマルコで省略されたのか、言及が忘れられてるように思える。終末時代の様相についてノアの時のようという例えは非常に重要、かつ、分かり易く、終末の時期を知ったり予期するのにも役立つ情報やのに、マルコではその記述が欠落してるのは遺憾や。

以上、マタイとマルコにおける差異について比較して言及した。共通してる部分については今回言及することは省いた。一方だけに情報があり、他方には無いということがあったり、片方のみが絶対的に正しく、もう一方が間違いであると勝手に決め付けるものでもないことが此度の比較検討で理解していただけるものと思う。しかし、記述内容に関しては、マルコよりマタイの方がより役立つ情報が多い。せやかて、マルコが読む価値が無いということにはならへん。筆記者が異なる以上、筆記者の表現方法が異なることがあるやろし、主イエスの御言葉を思い出して書いた内容に多少の誤差が生じるのはしゃあないと思うし、一つのみやのうて、複数あることで欠けてる部分を補う等といったことが可能になり、すべてを読んで総合的に聖書読者の理解が深まることが神の御意志と拙者は考えてる。
上述のマルコによる福音書の最後に「あんた方に言うことは、すべての人に言うてるんや。」とあり、主イエスは十二使徒のみに対して教えを伝えたんやのうて、すべての人に向けて言わはったことが分かる。故に、福音書にある主イエスの教えは全員守らねばならず、適用外の人間は一人も居らへんということや。主イエスは十二使徒に向けてのみ教えたとか、十字架前に主イエスが教えはった内容はユダヤ人のみに対して教えたからユダヤ人のみに適用されるとか、現代人に関係無い等といった嘘を言う者の言うことを信じたらあかん。また、終末の徴のみやのうて、主イエスの教えすべてが全人類に向けられたもので、一部を除いて律法が廃止されておらず、違犯せんように生活せないかんのに、偽使徒パウロの律法廃止論を信じてる者が多過ぎる。いつまでも経っても世の権威の嘘や偽りの常識を信じて従ってるようでは永遠の破滅の刑罰を免れへん。

(続く)