こんにちは。

今回は、持っている者と持っていない者の違いと題して、真のキリスト者の生き方に確信を添えるべく、マタイによる福音書十三章十節から十六節までの箇所を考察して参ります。

 

今という時は、死後の永遠を決める、残り僅かの期間に位置します。死後の永遠を決めるとは、生きている間の行いについて、全能者である神から、神の律法、掟、戒めに基づいて裁かれるということです。その結果は、神の王国に入るか(永遠の命を得る)第二の死(火の池・地獄)かのどちらかしかありません。つまり、有罪か無罪かのどちらかです。たとえあなたが神を知らなかったとしても、全能の神の理は万人に適用されます。あなたが真理に合わせる筋合いなのです。聖書は神の真理について記しているのですから、本来は他のすべてに優って興味関心を持ち、深く知りたいと思うべき事柄です。しかし、聖書は真理と教わる機会が乏しく、また、信じず、実際には世俗生活にどっぷりと浸って生きる人がほとんどだと思います。偶に聖書は真理だと見出だしても、世俗のにわかキリスト者(パウロ教徒ら)のように聖書を曲解し、真理を誤解釈して生きるにわかキリスト者がほとんどです。挙げ句には偽福音をせっせと伝える始末です。構図としては非常に不利な状況が作られております。

 

罪を犯さない人は主イエスを除いて誰もおらず、誰もが神の目には罪人です。主イエスと新しい契約を結び、これまでの罪を悔い改めて、主イエスに倣ってこれ以上、罪を犯さない生き方を全うしてこそ、救いの道が開かれます。そして、神が罪の赦しをされる恩恵期間は大艱難期への突入をもって終えられます。獣の刻印にまつわる仕組みが現実のものとなろうとしており、世の動きから暗黒社会入りは目前の状態です。残された恩恵期間はあと何年あるのだろうかという状態です。そのため尚更に今この時には、非常に大きな意味があります。決して取り戻せないからです。この時を最大限に活かして欲しいと思わずにはいられません。但し、信仰は神のお招きにより始まります(参照:真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)。誰もが信仰を持てるわけではありません。どんなに説明を尽くしても、仮に強いたとしても信仰を「持たせる」ことは出来ません。信仰を持つ、神を愛するとは自発的なものだからです。強いられたものを愛とはいえません。一方、悪魔はあらゆる手段を駆使して誘惑し、悪魔への服従に誘います。各位が、非常に大きな選択を今この時もしていることでしょう。神に招かれたかどうかは世の惑わしに屈せず、聖書真理に関心を持ち、行いを始める(即ち、知行合一)という結果でしか判断出来ません。そして、真に救われるか(神に選ばれる)は最期まで従い通せるかに懸かっております。誰が招かれ、誰が救われるかを人は知ることが出来ません。だから、最大限に福音を宣べ伝えさせていただき、聞く耳のある人に届き、より信仰を確固としてもらうことを期待するばかりです。真のキリスト者を目指す者にとっては、各位の人生において過去一番の非常に濃密な時となることでしょう。そのたった一事のために全てを注ぐのですから。

 

<持っている者と持っていない者>

世俗において、今風な言い方かもしれませんが「あなたは持っているね」という言い回しがあります。「ある物を所持した状態、または性質や能力を備えた様子などを指す表現。(引用:weblio辞書)」を指しますが、具体的には「幸運」であったり、「華やかさ」であったり、「才能」だったりと良きものを指すと思います。聖書にも「持っている者」「持っていない者」と言及している箇所があり、個人的にも気になっていた箇所でもあります。とても大切な示唆があると思われ、以下の一連の聖句を細かく見て参ります。

 

マタイによる福音書十三章十節から十六節(参照)

弟子たちはイエスに近付き、言った。「なぜ彼らにはたとえ話で語られたのですか。」イエスは答えて言った。お前たちには各天の王国の神秘を理解することが認められているが、彼らには認められていないからである。持っている者は、その者には与えられ、豊かになるだろう。しかし、持っていない者は、その者から持っているものを奪われるだろう。それ故に、彼らにはたとえによって言う。彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、理解もしないからである。イザヤの預言は彼らによって成就される。曰く、お前たちは聞くには聞くだろう。しかし、決して理解しなかった。お前たちは見ることは見るだろう。しかし、決して理解しなかった。この民の心が鈍くされ、耳にはぼんやりと聞こえ、彼らの目を閉じたからである。彼らは少しも目で見ようともせず、耳で聞こうとせず、心で理解しようとせず、改めようとしせず、我も彼らを癒やそうとしなかった。しかし、お前たちの目は見えているから幸いだ。お前たちの耳は聞こえているから幸いだ。

 

一)大群衆について

まず、この話の始まりは、マタイによる福音書十三章一節からなる「種を蒔く人のたとえ」です。十三章二節を見ると「大群衆(参照」)に対しては、主イエスはたとえを用いて語られておりました。それに対して十三章十節で、弟子たちが「なぜ彼らにはたとえ話で語られたのですか。」とその理由を尋ねております。真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」にて、同じく大群衆が登場する場面のマタイによる福音書八章十八節に対して、『この世の多数派は、不信仰者や異教徒やにわか信者の集まりであり、現世利益を欲しがる利己主義者が多く、好奇心から奇跡等を見たがるだけという野次馬の傍観者に過ぎひん人間の集団や。』『主イエスは御自分の民が誰であるか明確に分かってはる故、たとえ自分の周りに集まって来ようとも神の民ではない者を救うこともないし、懇切丁寧に対応する気も無く、心の底から信じて従わへん口先だけの嘘つきや邪な事を考えてる心が悪い群衆を遠ざけるんや。』と言われております。「群衆(ὄχλος)」の原語はマタイによる福音書八章十八節、十三章二節で共通して使われており、その原語には単に「人々(群衆)」の意味だけでなく、暗示として「野次馬」「暴徒」「騒動」の意味があり、おおよそ信仰深さとは対極にある性質です。まさしく、心から信じて従う要素が無いであろう人々に神の王国の神秘を語るのは相応しくないと思われます。豚に真珠という諺がありますがそのとおりです。また、豚に真珠の諺の基になったとされる「聖なるものを犬に与えるな。また、おまえたちの真珠を豚の前に置くな。それらを足で踏みつけ、向きを変えてお前たちを引き裂かないように。(マタイによる福音書七章六節参照)」の言葉を紐解くとその意味がよく分かります。「κύων(犬)」「心が汚い者」「χοῖρος(豚)」「下品な人」です。また、「μαργαρίτης(真珠)」「特に優れたもの」の意味でもあり、聖なるものの価値も分からない、心が汚く下品な者に、善きものを与えてもそれを踏みじることでしょう。そればかりか引き裂かれてしまいます。「引き裂く(ῥήγνυμι)」「感情のはけ口にする」の意味もあり、無分別な者はこのような恐ろしいことを平気でするのだと思います。真の聖書福音を嘲笑う不信仰者、律法を踏みじるパウロ教徒が想起されます。

 

マタイによる福音書十三章十節では「弟子たち」がこの質問をしておりますが、同じ箇所を記述したマルコによる福音書四章十節では、主イエスが一人でおられた時、弟子たちと「主イエスの近くに居た人たち」も共にここからの話を一緒に聞いていると記述されております。たとえを用いて話す理由を共に聞き、主イエスが答えられていることから、信仰心が厚かったのではないかと推測されます。この自主的な姿勢がとても大事なのだと思います。

 

二)神の王国の神秘を知ることが認められた者とそうでない者

先に挙げた大群衆の性質を見ていくと、自ずと神の王国の神秘を知ることが認められない理由が分かると思います。神の側に立って考えれば、にわか信者だったり、自分の利益を欲したり、好奇心から奇跡等を見たがる野次馬たちに、神の王国の神秘を理解させようとは思わないはずです。知ったとしても私利私欲のために悪用する可能性もあり、聖なるものを汚しかねません。大事なものを、大事なものとして丁重に扱わない者にどうして披露できましょうか。よくよく考えれば当然のことです。

 

ところで、ヨハネによる福音書六章には、主イエスが永遠の命に関わる内容の話をした際、「弟子たちの多くが離れ去り、共に歩むことはなかった(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)」という出来事が書かれております。そして、同六章には、離れ去った出来事の前、五千人に食べ物を与えた奇跡を起こされております。その奇跡の後に群衆が主イエスを追いかけて、カファルナウムに来ました(ヨハネによる福音書六章二十四節参照)。しかし、主イエスは彼らの魂胆を見抜き「お前たちが我を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて腹が満たされたからだ。(ヨハネによる福音書六章二十六節参照)」とはっきり言っております。もしかすると、また腹を満たしてくれるとでも期待したのでしょうか。何やら浅ましい動機です。その話のくだりで、彼らは主イエスから、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい(ヨハネによる福音書六章二十七節参照)」と言われております。そこから命のパンの御話が始まるのですが、その結果は散々なものでした。まともに話せばこのように理解しようともせず反発し、躓きます。もし、「これはどういう意味だろう。きちんと知りたい。」と思い、自分から見出だそうとしたら、また違ったかもしれないと手前は思いました。あれ程のしるしを見たにも拘らず、主イエスを信じずに、しかも群衆のみならず多くの弟子たち(十二弟子以外)も去るとは、最初から無いに等しい信仰心だったのではないかと思います。また、もしかすると群衆の議論(ヨハネによる福音書六章五十二節参照)に影響された可能性も無いとは限りません。神の王国の神秘を知ることが認められない者に共通する性質が、これらの箇所から窺えます。改めて、狭く苦しい道を見出だす者は少ない(マタイによる福音書七章十四節参照)のだと分かります。

 

「理解すること(γνῶναι)」の原語には、「許可する」「気付く」「確信する」の意味もあります。「確信」と聞くと信仰深さとも密接な言葉であり、聖霊から出るものとして捉えられると思います。厳密にはこの時点で実際には聖霊は降っておりませんでしたが、真のキリスト者を導いて真理をすべて悟らせる(ヨハネによる福音書十六章十三節参照)には主イエスに留まることが不可欠です。

 

三)持っている者と持っていない者

「持っている(ἔχει)」の原語は、言葉どおりに主には「所有」を表します。文脈的に、何を持っていると言えるでしょうか。ヨハネの手紙一 二章十五節(引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の成長に必要なこと」)『世を愛してはならず、世にあるものも愛してはあきません。もし誰かが世を愛するならば、御父の愛はその人の内にありません。』やマタイによる福音書六章十九節から二十一節(引用:真の聖書福音と預言「RAPTの聖書曲解とその対極にある真理である主イエスの教え」)『あんた方は地にあんた方自身のために富を蓄えたらあかん。そこでは、蛾や錆が食い尽くし、また、そこでは盗人が物色して盗む。むしろ、あんた方自身のために富を天に蓄えなさい。そこでは、蛾や錆が食い尽くさず、また、そこでは盗人が物色せず、盗むこともあらへん。あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。』などの聖句から、この世の所有や富を指すのでないことは明らかです。少なくとも物質的なものではなく、目には見えないものであるはずです。目に見えないものとしては、「能力」、「知性」、「品性」、「信仰心」といった精神的・霊的なもの、そして、上記の聖句のとおりに天に蓄える富が考えられます。この中で、「能力」について言えば、高いかどうかは論点ではないと思います。マタイによる福音書二十五章に「タラントンのたとえ」がありますが、主人は僕の能力に応じてタラントンを預けており、力に応じて精を出して働くことが求められております。また、それによって自ずと能力は知性も含めて磨かれていくのだと思います。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から十六節(参照)

(各天の王国は)ある人が遠い国へ行くようである。彼は自分の僕を呼び、自分の財産を彼らに委ねた。ある僕には五タラントン、別の僕には二タラントン、更に別の僕には一タラントンを彼らの能力に応じて託した。そして、直ちに彼は旅立った。それから、五タラントンを受け取った者は行って、それで精を出して働いた。そして、他の五タラントンを稼いだ。

 

能力が高いかどうかが問われているのではなく、自分に与えられた力で最大限を尽くしているかを問われているだと考えます。ところでタラントンの箇所では「持っている者は皆、与えられ、豊かになるであろう。しかし、持っていない者は、持っているものさえも取り上げられるだろう。(マタイによる福音書二十五章二十九節参照)」と酷似した言い回しがされております。その箇所での「持っている」の意味合いとしては、力に応じてより多くのタラントンを預けられた者程、しっかりと稼ぎ、逆に一タラントン預かった者は自ら稼ぐことをせず、主人から叱責を受け、「役に立たない僕を外の闇へ追い出せ。そこで悲嘆して歯ぎしりするであろう。(マタイによる福音書二十五章三十節参照)」の結果となりました。比喩的に、神の王国に入られなかったということです。ここの文脈から判断するに、主人の意図を理解する知性、忠実さ、その中に含まれている勤勉さなどを「持っている」と看做せると考えます。それらを一括りにすれば「行いを伴った信心深さ」とも言えると思います。あればある程に正しく生き、そこに聖霊も働き、豊かになり、品性が整っていくのは当然だと思います。しかし、より「信心深さ」がなければ正しい行動も、神の知識も不十分で、自制も出来ず、道を逸れていくのもまた当然であると思います。また、行いを伴った信心深さは「天に積んだ富」という結果を生むことに繋がり、天に富を持っている者(キリスト者の働きに励む者)として捉えれば、持っている者は更に与えられ、持っていない者(信仰心を活かさない者)は評価されないとも捉えられるのではないかと思います。

そして、マタイによる福音書十三章十二節でも二十五章二十九節でも、「持っている(ἔχει)」は同じ原語は使われております。多くの意味を包含している原語ですが、敢えて言えば原語の中に「後に続く」「一緒に行く」の意味もあり、マタイによる福音書十章三十八節(引用:真の聖書福音と預言【第四回】正しい聖書の底本とは)『自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。』、マタイによる福音書十六章二十四節(参照)「我が後に来たいのなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、我に従え。」の主イエスの言葉にも符合すると思います。

 

「持っているものを奪われるだろう」について、「奪われる(ἀρθήσεται)」の原語は、「自分のもの、または自分に託されたものを取り上げたり、力ずくで奪う」といった意味合いで用いられております。同じ原語が使用された箇所を概観すると「神の国(マタイによる福音書二十一章四十三節)」「タラントン(マタイによる福音書二十五章二十八節)」「御言葉(ルカによる福音書八章十二節)」「命(ヨハネによる福音書十章十八節)」「喜び(ヨハネによる福音書十六章二十二節)」が奪い取られたものとして書かれております。

 

「神の国」が取り上げられたとの一連の話は「ぶどう園と農夫のたとえ」のくだりです。「神の国はお前たちから取り上げられ、実を結ぶ民に与えられるだろう(参照)」の言葉とその前の文脈から、主イエスに躓くことで神の国が取り上げられていることがわかります。次に「タラントン」は、先にも挙げたとおりで、一タラントンを預かったにも拘らず何もしなかった者は、その一タラントンを取り上げられております。能力を活かすことが出来るのは生きている間、励む機会のある間だけです。機会は一度だけ、二度は与えられておりません。「御言葉」については、ルカによる福音書八章十二節(参照)「道端のものは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、信じて救われないようにその心から御言葉を奪い取る。」と書かれております。折角、御言葉を聞いても、理解しなかったり、他に気を取られ、すぐに忘れることだと思います。「命」について、ヨハネによる福音書十章十八節(参照)「誰も我から命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分で命を捨てる。 我は命を捨てる力があり、命を再び受ける力もある。この掟は我が父から受けたものである。」と書かれております。文脈的に肉体の命を指していると思われますが、「命(ψυχή)」には、それのみならず「魂」の意味もあります。「持っているものを奪われるだろう」の文脈で考えた場合には、やはり「永遠の命」を失うことに相応すると考えます。最後に「喜び」について、ヨハネによる福音書十六章二十二節(参照)「今はお前たちも悲しんでいる。しかし、我は再びお前たちと会いお前たちの心は喜ぶことになる。その喜びをお前たちから奪い去る者はいない。」と書かれております。再び主イエスがお見えになる時は、世の終わりの主イエスの来臨です。すべての労苦が報われて、これまでの行いが報われる時(ヨハネの黙示録十四章十三節参照)でもあり、もし真っ直ぐに歩み通せたのなら、喜びにあずかることが出来ます。途中で躓けば喜びにあずかる機会を失います。そして、マタイによる福音書 七章二十一節から二十三節(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」の言葉が想起されます。主に繋がっていたはずが、切り離され、知らないと言われる末路もまた、「持っているものを奪われるだろう」に相応するのではないかと思います。
必ずしもこれらに限定される訳ではないと思いますが、主イエスは福音を伝えているのであり、「奪われる(ἀρθήσεται)」の原語の関連から導き出される中身としては、大いに考えられる内容だと思います。

 

これらを手掛かりにまとめると、「持っている」「持っていない」とは、神の問い(試し)に応えるために、自分自身を用いて、神と兄弟と隣人を愛し、品性を整え、知性を磨き、能力等を活かし、時間と機会を有効に使う「行いを伴った信心深さ」であり、言わば、天に宝を積み、天において富むことであると考えます。また、「与えられる」「奪われる」のは「良き報い(神の国、永遠の命、喜び等)」であり、言わば、神との繋がりであると考えます。

四)理解と行動は一つ

「見ても見ず」「見る(βλέπω)」は、比喩的に「理解すること」を表しており、理解したふりをするが理解していないことを表します。個人的にはどきっとする思いがあり、くれぐれも注意しなければならず、聖書に照らして間違った理解や行いをしていないか点検し、素直に悔い改めたいと思いました。さながら、自分を欺いている、矛盾した状態だと思います。「聞いても聞かず」「聞く(ἀκούω)」も、同様に比喩的に「理解すること」を表しております。そして、最後の「理解する(συνίουσιν)」の原語の定義には「信心深く行動する」の意味があるのがとても印象的です。行いに反映してこそ、理解したと看做せます。イザヤの預言を引用した部分はまさしく、それらを表していると思います。「癒やす(ἰάομαι)」は言葉どおりの意味で、更には「無傷にする」の意味もあり、罪や咎から解放されて救いをもたらす意味で使われております。十四節から十五節からは、人々が律法を知りながらも、律法に適う行動をするに至らなかったために、神も罪を赦そうとしなかったという意味だと考えます。これは主イエスの御言葉とも一致します。律法は守るように(マタイによる福音書二十三章三節参照)、これ以上罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書五章十四節、八章十一節参照)、悔い改めなければ皆滅びる(ルカによる福音書十三章三節、五節参照)と言われているとおりです。

 

最後に十六節では、弟子たちに「お前たちの目は見え、耳は聞こえるから幸い」と言っております。「耳(οὖς)」も比喩的な意味で「認識する力」「理解する力」を指しております。ヨハネによる福音書十章十六節で主イエスが、羊(真のキリスト者)は羊飼い(主イエス)の声を聞き分けるとあります。神に招かれ、神に選ばれる者にはそのような力が与えられるのかもしれません(もっとも、「自分にはある」と過信せず、ただ神の言葉を確認し、最期まで忠実であるべきです)。先に挙げた、多くの弟子たちが主イエスの元を去っても十二弟子は残り、我がお前たちを選んだではないか(ヨハネによる福音書六章七十節参照)と言われたとおりです。

 

ヨハネによる福音書十五章十六節、十九節(参照)

お前たちが我を選んだのではない。そうではなく、お前たちが行って実を結び、お前たちの実があり続けるように、また、我が名によって御父に請うものがみなお前たちに授かるようにと我がお前たちを選び、任命した。

お前たちが世に属するならば世は自分のものを愛しただろう。しかし、お前たちは世に属さない。それどころか我はお前たちを世から選んだ。そのことの故に、世はお前たちを憎む。

 

この世は悪いものの支配下にある(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)ため、異邦人の道が横行し、そのままでは到底、真の聖書福音に沿って生きることは困難です。この世は不敬虔な大群衆によって構成され、聖書を知っているつもりの「キリスト教」はあっても、そのほとんどは偽福音です。普通に考えれば、堕落した多数派の勢いに押され消滅しかねない状況です。しかし、神は敢えてその中から御自分の民を選んでくださいました。

 

ヤコブの手紙二章五節(参照)

我が愛する兄弟たちよ、聞きなさい。神はこの世の貧しい人たちを選んで、信仰によって富み、御自身を愛する者たちに約束された王国の相続人とされたではないか。

 

『この世』は、悪しき者が支配する世界ですから、聖書真理に拠らない、神の律法による善悪の判断もされない腐敗した世界です。地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等の価値観に染まった世俗(世の中の習慣)の世界です。そこでは財産や快楽などがもてはやされ、欲望をかき立てられて生きる世界です。この世は、神を見出だすことよりも、この世での充足が一番とされて、神の義の障害となるものに満ち溢れております。ヨハネの手紙一 二章十五節で、世も世にあるものも愛してはならないと言われているのはそういった理由からです。多数派に倣う生き方では到底、歩き得ない道です。神の言葉だけに拠って生きることは、人の目を恐れたら絶対に出来得ません。そして、『貧しい』とは、物質的に富んでいないだけでなく、世の富では決して心が満たされず、世俗で生きることにおいて心を痛めていることでもあると思います。実際、「貧しい(πτωχοὺς)」には「心を痛める」の意味もあります。悪の世に馴染めずに、悪の世の価値観からはみ出さざるを得なかったり、進んで悪の世から離れる行為をした人々こそ「この世の貧しい人」と言えると思います。この世のものではなく、ただ神を愛し、神の義を求め、神の目に適うことが人生の全てと思って生きたのなら、復活に希望を持っていられ、信仰に富んだ状態であると思います。

 

<真の一番目>

「秩序」には「物事の正しい順序」という意味があります。意味を考えるととても興味深いと感じます。本当のこと、生きる指針は聖書真理にあります。これを一番目にするべきです。しかし、実際には世の人々のほとんどが世俗の常識(即ち、嘘)を一番目にしているがため、この世は堕落し、腐敗が改善することがありません。律法には神を愛すること、隣人を愛すること、盗むことも殺してもならない、嘘をついてはいけない、姦淫を犯してはならないなど、比類無き本物の道徳(神が定められた善悪の基準)が書いてあり、それらが一番にされなければ自ずと人々が道を逸れていくのも必然でしょう。だから世には偶像崇拝や殺人、詐欺、姦淫、あらゆる嘘が横行します。

 

こちら(In DEEP)に「狂気の社会で正気でいること」と題された記事があります。この記事の冒頭に「病んだ社会に適応する必要はない」との見出しが書いており、この言葉を見るだけで大きく頷き、同意したくなります。過去記事でも少し触れましたが「病(ἀσθενέω)」には、「(社会が)病んで堕落した」の意味があり、そのとおりの状況です。記事中では主にコロナ犯罪について言及しているのですが、ワクチン接種強要、マスク強要、飲食店営業の自粛要請、それらに疑問を呈することさえろくに許されない等、今思い返しても奇怪で自由と人権を侵害した犯罪がほんの数年前に横行しておりました。それが今尚、部分的に続いているのですから、ますます異常です。

…あるいは、あなたがたも、世界中の他の何百万人もの人々と同じように、政府が人々を家に閉じ込め、最も貧しい人々を飢えにさらすことを強制する過去 3年間の狂気を見て、私たちの社会の正気を疑問視し始めたのかもしれない。

 

そして、「公衆衛生」の名の下に何十億人もの人々に医療介入が行われた。

 

世界がいかに病んで歪んでいるかを実感することで生じるフラストレーションを感じながら、私はしばしばジッドゥ・クリシュナムルティ(インドの宗教的哲人)の有名な見解を思い出した。「深刻に病んだ社会にうまく適応することは健康の尺度ではない」

 

しかし、しばらくすると、この病んだ社会の狂気にも慣れてしまうことにも気づいた。実際、誰でもそうなり得るだろう。

 

(略)

 

「社会全体として、それを狂気だと思っていなかったことこそが、狂気」

 

引用元:In DEEP

コロナ犯罪について言えば、今でも政府はコロナ犯罪の違法性、ワクチンの危険についてまともに認めません。こちら(南日本新聞)の記事にて、二千二十二年の新型コロナウイルス「まん延防止等重点措置」適用中、鹿児島県の営業時間短縮命令に応じなかった店に対して、県が過料を科すよう経営者の住所がある各地の裁判所に通知していた件で、鹿児島県の時短命令を不合理として過料を認めないとの司法判断が下っていたようです。真っ当な判断であり、同じ記事を紹介したヤフー記事のコメント欄でも支持する意見が相次いでおりました。『この調子で憲法違反の人権侵害をやってた国を訴える企業や個人が続いてほしい』という意見がありましたがそのとおりだと思います。当時は異常な空気が支配しておりましたが、きちんと法を盾に臆せず抵抗するべきであることがこのことからも分かります。そして、如何に政府、地方自治体が法を無視するか、人々はそれらを盲信して愚かにも従ってしまうかがよく分かった出来事だと思います。だから法に則り、不法なものには抵抗すると訓にするべきです。

 

(偽)感染症全般について、前回記事で国際保健機関(WHO)の国際保健規則(IHR)の改悪により世界保健機関(WHO)事務局長の独裁と言える程の権限を持ち、ワクチンを強制する懸念があること(参照:さてはてメモ帳 Imagine & Think!)に触れました。ネット上ではこれらへの警鐘が鳴らされておりますが、当のテドロス事務局長は『ネット上では「WHOは加盟国にロックダウン(都市封鎖)やワクチン接種を命じる」といったうわさが拡散。テドロスWHO事務局長は「偽情報やうそ、陰謀論だ」と全面否定する。(引用:時事ドットコム)』と発言しております。しかし、太陽暦四月十七日に公開された国際保健規則(IHR)の最新版は、やはり危険な内容であることに変わりはないようです。故にテドロス事務局長の言い分こそ偽情報、嘘です。

今回のバージョンは、表面的な化粧を施した、羊の毛皮を被ったオオカミ、という形容が当てはまると思います。

 

誰もが一番引っ掛かる部分、すなわち”non-binding”(法的強制力を持たない)、”full respect for the dignity, human rights and fundamental freedoms of persons”(人権と尊厳の尊重)といった削除された箇所は、元に戻されましたが、non-bindingであるのは、定義上WHOの一時的および常備勧告に関することであり(第一条Definitions(用語の定義))、IHRの内容は以前にも増して強固なWHOの統治体制を構築する設計図として描かれており、全文章内で、契約文章では「xxxを義務付ける」という意味を持つshall xxxxという英語の表現が、360回以上使われています。

 

 

これは、この義務を怠った場合は、規則違反として追及されることを意味しており、WHOが公衆衛生と保健に関する緩やかな勧告を行う国際組織であるというイメージは完全に過去の遺物となり、強硬な統治機関に変貌していることが分かります。

 

引用:みのり先生の診察室

これらの動きに猛反対しなければなりません。こちら(ビットシュート)でも『WHOを世界の保健警察へと変貌させる』と警告されております。そして、しばしば「条約は憲法を優越する」との誤った見解を見かけるのですが、それは明確に誤りです。憲法九十八条一項で憲法は最高法規とされ、条約締結は「国務に関するその他の行為」に当たり、違憲であれば無効となるからです(参照:真の聖書福音と預言「早よ行動せんのなら日本は滅びる」)。もっとも、政府はそれすら踏み躙る危険があるため締結は絶対阻止すべきです。また、『万一、不服従によって不当に罰せられそうになれば、捜査機関が提示してきた処罰根拠の法規は違憲無効と抗弁し、そないな不当処罰に対しては不法行為に基づく損害賠償請求が出来ることを覚えときや。更に、当局から不当処罰を受けたら、受けた被害を大声で世間に周知しなはれ。臆するな、戦え。悪人に膝をつくなら、同じ悪人になるだけやで。(引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」)』のとおり、必要時に行動出来るよう理解を深めていきましょう。同時に、要は現行憲法です。この憲法が改悪されたら一巻の終わりです。

 

画像引用元:https://x.com/kuu331108/status/1784399921275396217

 

こちら(ユーチューブ)の動画の開始から一分三十八秒までの箇所に、戦時中、政府が戦争に負けそうだという事実を伝えず、疑問を呈したり、国に逆らう言動をすると特高警察に拷問を受ける描写がされております。当時は治安維持法という悪法があり(参照:真の聖書福音と預言「日本、戦争と破滅への道」)、政府や戦争に反対する者は不当に逮捕されたり投獄されたりしました。小林多喜二氏の獄死は有名です。言論の自由が無くなり、弾圧されるとはこういうことです。つまり、自由と人権が無くなる事態です。

 

 

 

また、こちら(Yahoo!ニュース)では感染症対策を名目に『政府が「誤情報」常時監視 6月にも閣議決定へ 感染症対策の一環で 言論統制の恐れも』との動きが報じられております。ワクチンの危険をろくに伝えもせず、ほとんどの国民に打たせて大勢の死亡者や多くの健康被害を生じさせておきながら、何を「誤情報」と判断しようというのでしょうか。こちら(FNNプライムオンライン)のように、新型コロナワクチンで国が集団提訴されたと報道され、それに対して、河野太郎氏がこちら(X)のとおり、「厚労省が承認したのだから自分には責任が無い」と訳の分からない弁明をし始めました(呆れ果てる内容です)。彼は当時、ワクチン担当大臣であった訳でそのような言い訳は通じません。イタリアのロベルト・スペランツァ元保健相が殺人罪で検察の捜査を受けておりますが(参照:Tanto Tempo)、彼もまた殺人罪で起訴されるべきです。また、ワクチン被害をろくに伝えず、ワクチンを打てとだけの偏った報道ばかりをした報道機関も放送法違反で責任を問われるべきです。

 

とかく改憲に向けた伏線と思われる人権制限に至りそうな法案や条約が現在うごめいております。併せて言及しておきたいのが「教育勅語」を礼賛して復活させようとする動きについてです。以下のように杉田水脈議員がSNSで教育勅語を批判された事を発端に、意見調査を行っておりました。要は教育勅語が良きものであることを主張したいようです。

 

 

返信投稿には「教育勅語の何が問題なのか」「当然のことしか言っていない」「批判する者は中身を読んでいないだけ」といった声が多く見られました。しかし、内容が部分的に、一見もっともらしく見えるだけなので、要注意です。真の聖書福音と預言「日本人の消滅危機と生き様について」で教育勅語の危険が分かりやすく説明されており、『教育勅語は、国のために死ぬことが名誉などと教える偽りの正義』でしかありません。教育勅語自体が天皇が臣民(支配される民)に与えたもので、国難があれば臣民は命を捨てて立ち上がれということが前提です。一見良さそうに見える道徳も、為政者が臣民を管理し、反乱を防ぐための仕掛けでしかないと思います。とかく人権を否定したくてたまらない者たちが不要な憲法改悪を推進しており、彼らには国民を従わせたい悪意があることを見抜かねばなりません。自民党改憲案では憲法九十七条の人権規定(強い人権保障)の削除を目論んでおります。「憲法十一条と重複しているから」というのが言い分のようですが、あの自民党がその程度の理由で主張するはずがありません。実際、こちら(キリスト道 改憲問題)で『最高法規の章の九十七条に人権保障を置いたことで、人権保障はそれ程重要なことであり、法律や政令や条例等の下位法によって人権侵害がなされてはならんという意味を含み、表現の自由や居住移転の自由や普通教育を受けさせる権利や納税等といった他の権利や義務とはちゃうということや。』で解説されているとおりに、憲法九十七条は非常に重要な意味を持ちます。憲法十一条だけでは単なる権利義務の保障規定であり『これだけでは強い人権保障にはならず、自民党が改憲草案に組み込んだ「緊急事態条項」といった非常事態には人権は制限され得るという例外を設けるために、強い人権保障の九十七条が邪魔になり、削除したと考えるのが相当である。』のとおり、自民党らの悪意が見え透いております。

 

 

感染爆発の条約、国際保健規則(IHR)の改悪、「誤情報」常時監視、憲法改悪、教育勅語が持ち出される等の戦前回帰の動きに共通しているのは支配層、為政者が国民を支配者の臣民として国民(被支配層)の監視を強化し続け、「管理」を徹底する方向に向かっているということです。また、その過程で、大勢の命が奪われるでしょう。これらは、即ち、獣の秩序であり、霊的刻印としての獣の刻印、突き詰めれば、従わねば殺されるヨハネの黙示録十三章の大艱難に至ります。

 

これらの監視管理社会は、自分(魂)を獣に売り渡した者にはさほど苦痛に感じないのかもしれません。しかし、真っ当な精神を持つ者にとっては生き地獄のような暗黒社会です。真のキリスト者にとっては生存が困難な程の世界です。反キリストの支配層が構築する新世界秩序では、神の律法、掟、戒めを守ることがままならなくなるでしょう(参照:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)。今の世の流れは、新世界秩序構築(獣に支配される世界)に向かっていると認識するべきです。いわば「獣の臣民」となるようなものです。自由と人権が奪われ大多数にとっても生き辛いだけでなく、最も深刻なのは、進んで律法違犯をしないと生きられなくなることです。今はまた、世の惑わしと誘惑が甚だしくても、神を愛し、律法遵守する自由があります。人権の故に、律法による悪の基準の事柄を退ける自由が保障されております。しかし、人権が損なわれれば、例えば徴兵により戦争で人殺しをさせられる、神の遺伝子を改変するワクチンを強要させられる、日曜礼拝を強要させられる等の律法違犯を強要され、拒めば殺される、かつてない程の艱難の時に突入します。

サタンの一番の目的は、神が愛する人間を主イエス・キリストから引き離して滅びに導くことです。これ以外に何もありません。主なる神は、裏切った天使たちを赦さず、天から追放して地に落とされました。落とされた堕天使たちは、サタン、悪霊となって神が寵愛する人間を神から引き離すために、あらゆる手の誘惑や奇跡を含む惑わしをして主イエスを信じさせなかったり、神の掟を守らせないようにしたり、罪を犯させて神の怒りを買わせて喜んでいるのです。サタンの神に対する復讐をあなたがたが知らずに加担させられているということを知るべきです。

 

引用:真の聖書福音と預言「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」

 

こちらの引用内容にあるように、安易に世の権威の勧める政策に同意したり無抵抗であること、それだけでなく真の聖書福音を知ろうとしないこと、偽福音の嘘を見破らずそれを喧伝することは、罪を犯させて神の怒りを買うことに繋がっていきます。無知なままではサタンに加担することになりかねません。本当の一番目を間違えてはなりません。律法違犯を強要させられる、「行いを伴った信心深さ」を行使出来ない社会環境にさせてはなりません。そのためにも人権を侵害したり、人権を保障した憲法を改悪する動きには必死に抵抗しなければなりません。

 

<結び>

聖書真理との出会い、神への愛、聖書を理解する知性、主イエスに全身全霊で倣おうとする気概を持っている者は幸いです。

悪霊は、もはや人間に聖書を読まないように仕向けるという古い手段ではなく、聖書を曲解した偽りの教義で騙すのです。聖書を読まない人間は論外で、放っておいても滅びるので蚊帳の外だから放置されます。悪霊は、救われるか救われないかの瀬戸際にいる人を特に標的として何とか真理から遠ざけたり、真理が偽りで偽りを真理だと嘘を言って騙そうとします。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」

真の聖書福音を「宗教(虚構)」と看做す偽りの世界で、地上の諸教会(偽福音)という地獄の子を大量生産する罠に陥らず、必死に励む者は幸いです。また、反キリストへの恭順を迫り、律法違犯を強いる悪しき世の動きにも抵抗していきましょう。

 

マタイによる福音書十章二十四節から二十五節(参照)

弟子は師より優らず、僕もその主人より優らない。弟子にとってその師のように、僕はその主人のようになれば十分である。

 

主イエスは、律法を更新されましたが、廃止されないと明言され、最期まで遵守する模範となられました。律法廃止、主イエスの救いは完全だなどという偽福音は、主イエスのどの言葉に照らしても根拠はありません。どこまでも主イエスに倣う必要があります。

 

ルカによる福音書六章四十節(参照)

弟子はその師の上に位置しない。しかし、誰でも完全な者は皆、その師のようになるだろう。

 

同じことを言われている箇所ですが、「完全な者(καταρτίζω)」という言葉がある所に違いがあります。しかし、マタイによる福音書五章四十八節でも完全な者となるようにと言われており、一致しております。原語の主たる意味は「完全に不足がない」であり、「修復する」「改善する」「改心する」の意味もあります。ここからは、最初から完全なのではなく、失敗しても諦めず悔い改めて、やがて欠けの無い状態へと成長していくことが窺えます。

 

真の聖書福音は行いで示してこそ、真に聞いたと言えます。行いで示せる(神の律法、掟、戒めの遵守)のは、神への愛があるからです(ヨハネの手紙一 二章五節参照)。つまりは、一番目に神への愛があるということです。行いとは実に雄弁なのだと思います。

 

神のお招きにあずかったのなら、半端な信仰しか持っていない者のようにではなく、「行いを伴った信心深さ」 を持っている者として不足のないように全う出来たら幸いです。「持っている者」と「持っていない者」との違い、明暗を分けるものは、神の問い(試し)に応えるために、自分自身を用いて、神と兄弟と隣人を愛し、品性を整え、知性を磨き、能力等を活かし、時間と機会を有効に使うことであり、言わば、天に宝を積み、天において富むことであると考えます。また、「与えられる」「奪われる」のは「良き報い(神の国、永遠の命、喜び等)」であり、言わば、神との繋がり、神と永遠に共に居させていただくことと考えます。すべてを終えた後に、喜びにあずかれたのなら幸いです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。