こんにちは。

今回は「神の軛の許に」と題して、繰り返される巧妙な世の惑わし(反キリスト行為への誘い、獣の刻印を押される等)に屈せず、神の律法、掟、戒めによって自分を律して、神の王国に入る神の民として相応しくあるについて述べて参ります。

 

<自覚無き反キリスト行為>

コロナ犯罪に飽き足らず、最近はこちら(日テレNEWS)のとおり「はしか」の流行が喧伝されております。相変わらず『予防接種が最も有効な予防法』と言っておりますが、確認されている罹患者は太陽暦三月二十二日時点で十九人(参照:日テレNEWS )という状況です。一体、何を騒ぐ必要があるのか、全く理解出来ません。こちら(prettyworld)にあるとおり、「はしかウイルス」なるものは存在しません。他の「ウイルス」も同様です。「ウイルス」は詐欺であることを知っておれば、何ら恐れる必要が無いとわかるはずです。由々しきことに、『問い合わせ急増もワクチン不足(参照:東海テレビ』との報道があり、こういった煽りに今回も乗せられている方が一定数いるようです。コロナ犯罪を認識せず、学ばず、相変わらずワクチン信仰(偶像崇拝)が盛んなのは嘆かわしい限りです。彼らは、世の権威が与える情報を「正しい」と看做し、「ウイルス」を恐れ続けます。そのような状況では、これからも起こされる偽感染症騒動の度に怯え続け、揺り動かされ、誤った行動を取り続けるでしょう。

 

こちらの動画(ビットシュート)では、どんな天才的な頭脳があっても『ストレスを抱えると機能しなくなるか、多くの力を失ってしまいます。(略)私達は極度のストレスに見舞われると、落ち着いて、座って誰かと話している場合に対し、脳と神経系の機能が完全に変化します。最終的に体が試みるのは、私たちを生かし続けることです。従って、脳の最も新しい部分から資源を奪い、戦うか、逃げることができるように、脚あるいは腕のような主な筋肉群がそれらを送るのです。人々はこれを「闘争・逃避反応」として知っています』と言っております。「闘争・逃避反応」について、こちら(ウィキペディア)によると『通常は発揮できない怪力を発揮できる反面、緊急時に使用しない内臓への血流が絞られたり判断力が低下したりするため、長期的にストレスを受けると体や精神に悪影響が出る。』とあります。判断力の低下により誤った判断を下してしまうことや、精神の不安定さをもたらすのは大きな問題です。それでは支配層の手の上で転がされるだけです。また、こちら(ビットシュート)によると、各国で都市封鎖や諸々のコロナ対策等の悪影響で子供のうつ病、自殺率の増加、更にワクチン接種で心筋炎や神経障害が認められているそうです。子供を守るべき親たちが却って、子供に虐待をしていると指摘されております。『当局は、健康イデオロギーを口実にし、子供を虐待する立場に、親たちを置きました。ですから認知的不協和に陥りました。では、認知的不協和とは何なのか。簡単に言えば、精神的な分離であり、その行動に気づかずに実行する能力のことです。一種の催眠状態のようなものです。したがって、親たちに催眠術をかけ、結果として。彼らは子供を虐待しました。(略)こういうことは偶然ではできません。意図的に行われています。』との内容から、「ウイルス(嘘)」に怯え、ワクチン信仰(偶像崇拝)から、世の権威が勧めるがままに悪しき行為を無自覚に行っていることが分かります。聖書の知識に基づく善悪の判断が出来なければ、悪しき者が支配するこの世の実態を認識しなければ、容易に嘘に絡め取られ、騙されるのだと思います。全ては無自覚なまま、支配層に惑わされ、生け贄行為をし、律法違犯をしていることに問題があります。その結果の一つとして『ニュージーランド人の4人に1人が、この1年で真剣に自殺あるいは自傷行為を考えたと報告しました。我が国の若者(18歳から34歳)の40%も、やはり昨年、自殺あるいは自傷行為を真剣に検討したと述べています。』という無惨な報告があります。これからますます悪化していくでしょう。日本でもワクチン接種者が心身の不調で休暇を繰り返す人が増えてきているそうです。また、うつ症状、怒りっぽいなど、精神に影響が出始めている例も聞かれます。こちら(ビットシュート)の動画でも、ワクチン接種により、スパイクタンパク質が脳の炎症を増大させ、『精神の免疫系を機能低下させる』とのあります。こちら(アメブロ)のブログでも、話がまともに通じない人々が増えてきていると書かれております。『確実に脳に問題が起こっている 私はそう感じるのです。』とまで書いており、ブログ主の日々の業務の光景から、明らかに人々(ワクチン接種者)が壊れてきていると判断せざるを得ない状況があるのだともいます。ワクチンによって遺伝子を改変され、悪霊とも繋がる危険があることを考えれば、そのとおりのことが起きているのかもしれません。

 

 

真の聖書福音と預言「デカポリスでの悪霊追い出し」にて、悪霊が人間に取り憑き、自傷行為等を行うことについて言及しております。手前は、記事を拝読し『悪魔は初めから人殺し』であることを、憑依した相手に対する加害行為から再認識しました。『人間には理性があり、そう簡単には自殺にまで踏み切れず、傷害という程度に止まることが多い。』の言葉から、先の動画にある自殺や自傷行為を考えた人たちのことが思い起こされました。記事の中で摂食障害の女性の事例が載っておりますが、薬を服用したことで『悪い薬こそが悪霊憑きの助け、入口になったと言えよう』とあり、精神状態が低下したワクチン接種者が精神科等を受診すれば更に悪化していくことでしょう。そして、記事の「五」の箇所にて、『悪霊にとって神に不従順な異邦人(異教徒)が多く住むデカポリス地方は居心地が良い』の箇所から、手前は「割れ窓理論」(参照:ウィキペディア)を思い出しました。建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」という標となり、犯罪を起こしやすい環境を作ってしまうそうです。不従順な異邦人(異教徒)が多いデカポリスでは律法違犯(不義)が咎められることがなく、むしろ助長する環境はまさに悪霊にとって居心地が良いと思います。それは、まさしく今のこの世の有り様そのままです。一体どれほどに悪霊が闊歩していることかと思います。また、人々も聖書を読まず、知っていたとしても律法を守らず、サタンにとっては隙だらけの人間に付け入るのは非常に容易であろうと思います。ほとんどの人々は陥落させられた状態ではないかと思います。

 

ワクチンに限らず、支配層は様々な「騒動」を演出するでしょう。主イエスの終末預言にも地震や悪疫、飢饉等が予告されておりますが、そのような時、人は思考停止するのだと思います。世の真相に無知であるほどに、また、不信仰であるほどに真の備えは出来ないと思います。考えずとも動けるように(誤った行為をしないように)「染み付いた生き方」を持ち合わせることが大事なのではないかと思います。そうでなければ、支配層の考える「解決策(ワクチン接種、改憲等)」に乗せられ、滅びに至るだけです。正しく生きるためには心の律(神の律法、掟、戒め)が不可欠です。

 

<無自覚に獣の刻印を受けないように>

世の終わりが近づくほどに、神に従うか、悪に従うかのふるいが激しくなります。『神の掟や律法に反して、人間であるローマ教皇の秩序や各国の定める法律等に従う人間は、獣の刻印を押されます。(引用:真の聖書福音と預言「同性愛、同性婚と獣の刻印」)』、『なお、物質的な問題のみやのうて、獣の刻印は霊的な刻印である故、ワクチン接種を拒絶するだけや超人間主義(トランスヒューマニズム)の機械化を拒絶するだけでは不足であり、信仰が無いのなら結果的には滅びる。主イエスの信仰を持たず、神の律法、掟、戒めを死守せえへん者、自分の命さえ主イエスのためや福音のために惜しむようではあかん(マルコ八章三十五節参照)。(引用:キリスト道「コロナ問題」』とあるように、獣の刻印は、物理的なものではなく、反キリストに従うことで押される霊的な刻印です。だから、真理を知らない不信仰の状態では無自覚に押されることでしょう。また、真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」の記事では『そうやって世に合わせて神に従わない人は、いずれ獣の刻印を受けるでしょう。何故あんたは神の律法、掟、戒めよりも世俗のことを優先させようとするのか。それはあんたに神への愛が無いからです。神とサタンのどちらに従うのかと二択しかないのに、多くの人々は保身のことばかり考え、世に従うことでこの世の支配者であるサタンに間接的に従い、悪魔崇拝者の人間たちが作り上げている秩序に従うことで恩恵を受けようと思っています。』と指摘しており、これまでの生き方を改められず、臆病であっては滅びに至るだけです。中には「皆がそうしていないから」という理由で悔い改めない人もいるでしょう。そんな人は、神よりも世俗の基準や人目を上位に置いていることをまず自覚するべきです。

 

画像引用:https://x.com/BABYLONBU5TER/status/1757165866192670785

 

世俗にどっぷりと浸かると、目にするこの世界(世俗)が全てだと思うのは当然かもしれません。しかし、世俗社会の違和感を覚え、矛盾に気付き、支配層の悪行を認識するなら、聖書を読み、それらに共通する反キリストの姿があると理解するべきです。更に聖書を詳細に読めば、実際の歴史、預言と世の動きから、聖書のとおりに世の事が進んでいて、聖書が真理であると分かると思います。気付きの仕方や時機は人それぞれだと思いますが、聖書だけが真理を教えてくれます。上記の画像の投稿者は残念ながらキリスト者ではないようですが、聖書によって物事を俯瞰視する構図は同じだと思います。

 

ところで、獣の刻印の説明で先に引用した記事(「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」)では、和服の説明も詳細にされております。『衣服は支配の道具になるし、人が属している所を表している』と言われておりますが、洋服を着ているならば、ご自身の服装をまず改めるべきです。目に見えない部分だけでなく、目に見える部分も非常に重要です。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12828428142.html

 

服装について言えば、手前はマタイによる福音書二十二章の婚宴の場面が思い浮かびます。

 

マタイによる福音書二十二章十一節から十三節(参照)

王が来客に会いに来ると、そこに婚礼服を着ていない男がいるのが見えた。王は彼に言った。「友よ、どうしてあなたは婚礼服を着ないで入ってきたのか。」彼は何も言わなかった。そこで王は家臣たちに言った。「手足を縛って連れ出し、外の暗闇に放り込みなさい」。そこで泣き叫び、歯ぎしりするだろう。

 

「子羊の婚礼(ヨハネの黙示録十九章七節参照)」を例にすれば、婚礼は花婿である主イエスと花嫁である真のキリスト者が一緒になる(永遠の命を与えられる)特別な状況の比喩でもあります。真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」の記事での説明にもあるとおり、服装は実際の服装でもあり、行いでもあります。神が「異国の服を着るすべての者を罰する(ゼファニヤ書一章八節参照)」と言われているにも拘らず、また、ヨハネの黙示録六章十一節にある「白い衣」に相応しなければ放り出されるのは当然であると思います。

和服を着ることについて、恥を忍んで申し上げれば、手前も最初は「わざわざ和服を着るのは大変だ」「人から何と言われるだろうか」などと思ってしまったことがあります。自分にとって不都合だと思うと、「例外は無いのか」「実は違う解釈があるのではないか」と邪な思いが湧いてくることも経験しました。「ありのまま」の自分はかくも浅ましく、どうしようもない存在です。明確に神が聖書で示されているにも拘らず、それを人間ごときが、しかも自分に不都合という勝手極まりない考えで神の御命令に反抗してしまうことに、人間の罪深さを感じずにはいられません。「反抗しよう」の気持ちが先立つのではなく、保身が先にあって、それを貫こうとして反抗に至ります。だから、自己愛はよくよく改めなければならない性質です。これらがより小さい内に、出来るだけ早い内に打ち破るのが良いと思います。肥大した自己愛となっては手の施しようが無くなることも有り得ると思います。「あんな思いに駆られた事が恐ろしい」と思えたのなら幸いです。従わなくて良い例外を探してしまう誘惑は折々に遭うと思います。安息日一つにしても、「これだけはどうしても」と思うようなことは信仰に入ってからも起こり得ます。より誘惑に合わないためにも生活を整える必要があり、自分の内側に余計な火種(思い)と燃料(世俗の関係)を抱えないこと、つまりは自分を捨てる事が不可欠だと思います。

 

こちらの記事(BrainDead World)にて、『創業130年のオーストラリアの銀行がオンラインに移行するとして突然「全支店を閉鎖」』したとの情報がありました。記事によると各支店の毎日平均の店頭取引は十五件しか行われていないようで、全体の九割以上はネットで取引が行われているそうです。元々、こちら(GIZMODO)のように『オーストラリア、2019年7月から82万円以上は現金決済禁止』となっており、また、こちら(NICHIGO PRESS)では『オーストラリアで現金決済の割合13%まで低下』との状況があり、近い将来、現金を廃止して中央銀行電子通貨に切り替えるための布石の一環と思われます。当然ながら、唐突な支店閉鎖に多くの顧客から怒りの声が上がり、『顧客のこの圧倒的な感情は、職を失う可能性のある従業員、デジタルバンキングの使い方を知らないかもしれない高齢者への懸念、そして移行がどのように機能するかについての明確さの欠如に対する認識だった。』との内容はもっともだと思いました。日本では近年、店舗を持たないネット銀行が増え、店舗があっても「ネットバンキング」取引を推奨したり、通帳を廃止して現金札(キャッシュカード)とネット上で取引するやり方が普及してきております(参照:りそなグループ)。豪州の流れを踏まえると、日本のこれらの動きも現金廃止に向けた布石の可能性があります。電子決済もそうですが急速に普及してくるものには悪い目的があると疑ってかからないといけません。これらについてはミカエル氏が以下のように警告されているとおりです。

NWO支配層は、人間にマイクロチップ等を埋め込み、現金を廃止しようとしています。なぜなら、上記のように電子仮想通貨ですべて決済しようとしているからです。現金は自由度が高く、誰かに譲渡するのも容易ですし、店舗で買い物する場合は誰が何を買ったかの記録は残りませんし、タンス預金であれば政府や銀行なんかに個人財産を知られずに済むからです。しかし、NWO支配層はそれを嫌い、徹底的に人間の資産状況を把握して監視し、電子通貨決済、クレジットカード決済、ネット通販等の場合は誰がいつ何を買ったかをすべて記録され、彼らが認証した人間しか生きられないようにするつもりだからです。過去記事「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」で警告したとおりになりました。電子化、キャッシュレス等が彼らの方針なのです。だから、現金主義者が比較的多い日本では、政府や官僚らはこれを厭い、日本国民に現金を手放させ、電子化したキャッシュレスに無理やり移行させるために還元割引という餌や時代の最先端等と格好良い謳い文句で印象操作をして誘導しています。それにほいほい釣られているのは愚民だけです。災害時に停電となって、電子通貨なんかがまったく使い物にならなかったという知らせも記憶に新しいです。地震が多くてそれで停電した場合、日本で電子通貨のみとなったら、非常に困ることになるのは目に見えています。ですから、何でも電気製品に頼ってばかりいるのは愚かです。電子通貨は実体が無く、他人に施そうとしても譲渡出来ず、乗っ取りの被害に遭い易く、データを消されたり、不具合という建前で消えたら一瞬にして全財産が消失することも起こり得るし、電気が無いと使えない上、現金とは異なって電子通貨は現物が手元に無く自分たちに処分権が無いのが致命的な欠陥です。もし電子仮想通貨が世界統一通貨となり、新世界秩序に逆らうような行動を取ったら強制的に仮想通貨残高が減らされたり、取り上げられたり、使用停止させられるのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「コロナ茶番を契機に目覚めよ」

現金の廃止、即ち、電子通貨制は人々を支配し、奴隷化する制度でしかありません。現在、国内どこでも無人精算機が導入され、また、コンビニや食料品店のみならず、行政機関もこぞって電子決済を導入し始めている動きを警戒するべきです。全てはヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印に向かって直走っております。

 

関連して、こちら(さてはてメモ帳)に恐るべき警告記事があり以下、引用いたします

多くの銀行が債務超過の危機に瀕している。 

 

「政府と銀行カルテルが意図的に経済を破壊しようとしているのではないかと疑っているのなら、それは彼らがそうしているからであり-あるいは、少なくとも、崩壊しても気にしない。この計画は、最終的にあなたの資産が突然消失するほどの危機を引き起こし、SIPCの保険プログラムを発動させ、加盟銀行の口座を持っているすべての個人に最大50万ドルを返還させるというものだ。

 

この保険はドルでは返されない。ドルでの返還は不可能だからだ。その代わり、中央銀行のデジタル通貨という新しい通貨が発行され、保険金がかけられた貯蓄はその通貨で返還される。他の唯一の選択肢は、すべてを失うことだ。だから、どんな取引であれ、誰もがその取引に応じて列をなすと、私たちは確信できると思う。」

 

引用:さてはてメモ帳 

銀行が破綻しても『加盟銀行の口座を持っているすべての個人に最大50万ドルを返還』されるとなれば、『どんな取引であれ、誰もがその取引に応じる』事態が引き起こされるのは容易に想像がつきます。それを機に「中央銀行電子通貨に切り替える」予定でいるのは、実に狡猾なやり口だと思いました。これまでの生活を捨てるか、否かの究極の選択です。今の生活環境や社会的地位を手放したくない、家族を養わなくてはならない、負債がある等の事情により、財産を手放す決断が出来ないという思いが優り、多くの人々が躓くことになると思います。

 

更に関連して、こちら(CNET Japan)の記事で、河野大臣が個人番号券と運転免許証の一体化を二千二十四年度中に開始するとXに投稿したそうです。これまでにもそのような情報がありましたが、本格化しそうな気配です。太陽暦二千二十三年八月のこちらの記事(くるまのニュース)では、『運転免許証とマイナンバーカードを一体化した場合でも、運転免許証の返納は任意であり、運転免許証とマイナンバーカードの2枚持ちが可能になる予定です。そのため、運転免許証が全く利用できなくなるワケではありません。』と書いてありましたが、健康保険証と同様に、一方的に元の運転免許証を無効にするのが目に見えております。また、冒頭の記事には『32の国家資格や免許を順次デジタル化する』ともありますが、わざわざ「デジタル資格証」にする必然性がどこにあるのか不明確です。こちらについても、やがて紙の資格証は無効とされるのではないかと思いました。個人番号券を取得しないと、まともな社会生活を送れなくなりそうです。しかし、どのみち取得したとて、やがて信用得点制度等により不自由を強いられるのも避けられません。個人番号券に中央銀行電子通貨や健康保険、運転免許証、その他社会生活に必要な多くの「証明」の類が一本化され、それが無いと生活が出来なくなる様相は、先にも言及したとおり、ヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印そのものです。

 

ヨハネの黙示録十三章八節、十五節から十七節(兄弟共同検討訳)

そして、地上に住む者は皆、この獣を拝むであろう。彼らの名前は世の創始から屠られた子羊の命の書に記されていない。

そして、第二の獣は獣の像がものを言い、獣の像を拝まない者は誰でも殺させるために、獣の像に霊を与えることを許された。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しいにも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。さらに、もしこの刻印か、あの獣の名か、その名の数字を持たなければ、誰も買うことも売ることもできないためである。

 

「生活のためにやむを得ない」とマイクロチップ(電子刺青の可能性有り)を受け入れれば、反キリストへの恭順と看做され、獣の刻印が押されるでしょう。それが無いと売買出来なくなることから、究極の二者択一の場面です。

 

個人的な話ですが、過去に、安息日を完全に遵守するには会社勤めをやめるしか方法がありませんでした。しかし、借金も抱えていたため、容易ではなく「完全に安息日を守れなかったとしても、生活のためにはやむを得ない」との自己弁護が次から次へと湧いてきました。しかし、律法の規定に照らして合法か否かを判断すれば、間違いなく違犯です。これが更に強力な踏み絵となって迫るのが、獣の刻印を受けないと売買出来ない事態です。かつて「生活のためにやむを得ない」との誘惑を振り払った時以上の神への愛と確固たる信仰を持って、神への忠実を示す場面が間違いなくやってきます。決して臆病にならず、間違った選択をしないようにしなければなりません。臆病とは実に厄介だと思います。誰だって我が身を可愛がるのが人としての本能であると思います。しかし、真の善悪の基準を知り、神と真理を愛し、それに抗い、打ち勝つ必要があります。手前は、しばしばそんな場面が訪れた時のことを想像します。口だけなら、思い描くだけなら、何とでも言えるのですが、これを実行するとなると別問題です。

 

ところで、咄嗟に思いもしない一言を口にしたことはないでしょうか。使徒ペトロの鶏が泣くまでに主イエスを「知らない」と三度言う場面が有名です。手前も、改心してからですが、ある場面で自分でも驚くくらいの口汚い言葉が出てしまった時があり、非常に強い自己嫌悪を感じた事がありました。自己嫌悪とはかなり辛い感情です。自分で自分を許せない思いは容易に消えず、自己卑下も生じ、自暴自棄にすらなりかねません。要は、自分の品性として、まだまだ改まっていなかったと思い知りました。咄嗟に出た一言が、自分の程度を表しているのだと思います。無意識の部分も含め、骨の髄まで全てを改めなければならないのだと思いました。純度を高める過程は命懸けと言っても過言ではないと思います。自分の人生において、本気の場面を探ると幾つか思い当たる事があります。しかし、その全てを足したとしても、まだ足りないくらいの本気を費やさねばならないと感じます。平素の気構えは当然のこととして、『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。これが最も重要で大切な掟や。(マタイによる福音書二十二章三十七節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』の言葉は伊達ではありません。

 

総じて、獣の刻印をはねつけるには、無意識下においてさえも自己愛を残さないほどに、意識せずとも神にのみ従っている状態がある程の隙の無さが不可欠と考えます。品性が改まるとは、簡単なことではありません。世俗と親しんだ時以上の神との関係の深まりが不可欠だと思います。

 

<性質の改善>

神との深い関係は、洗礼に始まり、心の割礼によって展開していくと思います。

 

エレミヤ書九章二十五節から二十六節(参照)

主の託宣。見よ、時が来る。我は包皮に割礼を受けた全ての者に罰を下す。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子たち、モアブ、荒れ野に住む全ての(髭の)端を切り取られた者たちに対して。全ての民が無割礼で、イスラエルの全ての家が心に割礼の無い者たちだからだ。

 

エレミヤ書31章やヘブライ書8章と10章にもあるとおり、主イエスが仲介者の新しい契約は心に律法が記されるのです。それこそ聖霊によって心に受ける割礼です。だから、キリスト者と自称しながら律法を無視して逆らう人は、主イエスが仲介者となっている新しい契約を結んでいない滅びゆく悪魔の子でしかないのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」

引用の説明のとおり、エレミヤ書三十一章三十三節、ヘブライ人への手紙八章十節・十章十六節には心に律法を記すと書いており、それは主イエスとの新しい契約、心の割礼です。かつて議論したことのある律法廃止論者(パウロ教徒)は、ヘブライ人への手紙十章を断片的に引用して、尚も律法廃止を抗弁しておりました。しかし、十章全体を見れば分かるように、そのような捉え方は決定的に矛盾するので有り得ない解釈です。律法は制定者である神、主イエスによって更新されたのであって、主イエスの御宣言どおりに廃止されておりません。エレミヤ書九章二十六節には心に割礼が無ければ罰を下すとあるとおりです。

新約聖書 使徒言行録 五章二十九節(拙訳)

しかし、ペトロと使徒たちは答えて言うた。「人間よりも神に従わなあかん。」

 

世の自称キリスト者どもは、上記のような十二使徒たちと同じ意志は持ってへんやろ。この世に属し、政府や報道各社や不信仰の世俗的な人の指示や言うことを盲信して従い、西洋かぶれし、この世と世にあるものを愛し、自己愛が強く、自分を捨てず、隣人愛の欠片も無いやろ。なぜなら、心に割礼を受けず、主イエスとの新しい契約を結んでへんからや。神の律法を無視する信条や生き方がそれを証明しとる。口先でどうのこうの言うても無駄。行いがすべてを表す。熱心に悔い改めい。イエスの信仰を持ち、神の律法を守る生き方をしてようやく新しい契約を結んだかどうかが分かる。それも一時的にやるだけですぐにやめるとか、長続きせんとかもあかんし、死ぬまで保つ必要がある。これで分かったであろう、永遠の命に至るキリスト道が如何に狭い門で狭苦しい道かを。

 

引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」

イエスの信仰を持ち、神の律法を守る生き方をしてようやく新しい契約を結んだかどうかが分かる。』の言葉がとても重要で、自らの行いが自らの内側にあるものを表します。

その上で、「品性の向上」に繋がることが肝心です。手前自身、まだまだ途上ですが、基本に忠実にひたすら継続していくのが近道だと思っております。

したい人、10000人。

始める人、100人。

続ける人、1人。

 

引用:就活失敗した元慶應生がコンサル業界に転職した物語

上記は、ある図書の中の言葉ですが、なかなかの金言だと思いました。キリスト道も同様だと思います。「こうしたいな」と願望を口にしているだけでは現実に直面することもなく、ある意味、楽です。始めると実際には大変で、葛藤が生じます。かつて真のキリスト者を目指して歩み始めた当初の自分を振り返ると、やる気に燃えて気分が高揚していたと思います。しかし、数日、数週経つと現実との葛藤に苛まれて「辛い」と口にしていたように思います。世俗と葛藤があると分かって進んだ道なので、ある意味、順調な展開だったと思います。葛藤の度に「その上で、どうするか」の連続だったと思います。そこを通り抜けなければ変化は起きません。

心が変われば行動が変わる

行動が変われば習慣が変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

 

ウィリアム・ジェイムズ(心理学者、哲学者)

 

引用:就活失敗した元慶應生がコンサル業界に転職した物語

上記は比較的知られた格言だと思います。(部分的にではありますが)自分の経験と照らしてもそのとおりだと思います。行動、習慣、人格(品性)に連鎖して変化を及ぼしたと思います。

 

ところで、以下のような投稿を目にして、とても興味深く拝見しました。

画像引用:https://x.com/valentine_promo/status/1767536052221378597

発端となったのは、へずまさんの12日のX投稿だ。「へずまりゅうが理由で焼肉屋を出禁」になったとし、「今は誰にも迷惑を掛けていません」「せっかく更生したいのにこれなら迷惑系で嫌われた方がいいのかなって思うわ。本当に苦しい」などと嘆いていた。

 

細川さんは同日にXで、へずまさんの投稿を引用リポスト。「あたりまえや 人間が変わった瞬間から過去の悪事が、帳消しになるならば、ルールを守る必要なんてないんだよ」と糾弾し、「更生=どんな状況でも、変わった自分を永遠に見せ続けて行くだよ」(原文ママ)と述べた。

へずまさんについて、「こいつは、今の状況を自業自得と捉えられない事、悪い偏見の中でもプラスの自分を見せ続けよう!と思えない人間なのだから、他の善良市民のように扱う必要は一切ねーよね まじめに生きてる奴が、損する社会にしてたまるかよ」と改めて非難した。

 

引用:J-CASTニュース

いわゆる「迷惑系ユーチューバー」である「へずまりゅう氏」に対する「細川バレンタイン氏」の叱責です。言っている内容が至極真っ当で、正論です。「へずまりゅう氏」の泣き言も自業自得でしかなく、おそらく見ているほとんどの人は「細川バレンタイン氏」の叱責の内容に共感したため、非常に多くの人の目に触れたと思われます。手前はこの中の『どんな状況でも、変わった自分を永遠に見せ続けて行く』の言葉がキリスト者の生き方にもそのまま当てはまると思いました。罪を犯さない人は主イエス以外には誰一人おらず、キリスト者は自分の罪に絶望し、主イエスと新しい契約を結び、生きていきます。主イエスは「これ以上、罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書八章十一節参照)」「悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節、五節参照)」と言われており、まさしく『どんな状況でも、変わった自分を永遠に見せ続けて行く』ことそのものです。このことをパウロ教信者はどう考えるでしょうか。何ら悔い改めることなく、罪深いままで神の王国に入られると思うのでしょうか。神と共に永遠に過ごすに値するために、どれほど励んでいるでしょうか。ただただ、偽福音(福音の三要素)に縋り、神にとっての重荷にしかならないようでは話になりません。

画像引用:https://x.com/asaoka_akiko/status/1767892943191601206

 

こちらは岸田総理の国会答弁です。少子化対策関連法案(いわゆる「支援金制度」)、地方自治法改悪、食料・農業・農村基本法改悪、次期戦闘機の第三国輸出解禁など、ここ数ヶ月だけでも非常に重要な内容を閣議決定し、もはや独裁状態です。『国会無視であるとは考えていない』と自称した所で、やっている事が国会無視でしかありません。盗人猛々しいとはまさにこのことです。人治主義の悪徳政府が好き勝手なことを行い、腐った与野党もろくに糾弾せず、法曹関係者も国民も声を上げるでもなく、逃げ果せたように見えたとしても、この悪事は神によって必ずや裁かれます。

収賄罪の発覚した代議士が、あれは秘書のしたことでと言い抜けようとするとき、彼には外をどう言いくるめるか以外には念頭になく、自分で自分を裁く心の律などまったく作動していないことが明らかだ。そして最近とくに目立つこの、政治家や高級官僚、銀行や証券会社のトップなど、世にいわゆるエグゼクティブたちの違法行為がバレたときの言動を見ると、そこにはつねに対外的配慮ばかりがあって、ひとつとしてこれはみごとといえるものはないのは、やはりふだんからこの矜持の念が作動していないからであろう。

(略)

それがあるかないかは、人のふるまいに天と地ほどのちがいを生むのであって、美しい行動は自己に対する要求の高いところからしか生じないのだ。

 

引用:「生き方の美学」 著:中野孝次 発行:文藝春秋

二十年以上前に発行された図書からの引用ですが、今でも同じことが繰り返されております。『自分で自分を裁く心の律などまったく作動していない』とはそのとおりで、自民党の裏金議員らを見ると、まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」を地でいく、獣のような振る舞いです。真の矜持は、真っ直ぐな道(神の律法、掟、戒め)の遵守によって与えられ、律法の字の如く、神の法によって自らを律し、『美しい行動は自己に対する要求の高いところからしか生じない』と手前も思います。少なくとも、利益信仰やパウロ教徒のように主イエスにただぶら下がるだけで何もしないようでは、醜く堕落するだけです。

 

マタイによる福音書十一章二十八節から三十節(参照)(二十九節引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」

全て疲れた者たち、重荷を負う者たちは、我の許に来なさい。我はお前たちを休ませてあげよう。

我は優しさであり、謙虚やさかい、あんた方は我が軛を担い、我から学びなはれ。そうすれば、あんた方はあんた方の魂に安らぎを得るであろう。

我が軛は負い易く、我が荷は軽いからである。

 

かつて地上の教会の通い始めた時、上記の聖句に慰めを欲して、好んで読んでおりました。この世の価値観では自分が無価値に思えてならず、ずっと不安と恐れに支配されていたためです。これらから解放されたのは真のキリスト者として真の知識を得て、自分の信念が確固となってからです。真の聖書福音を知らずしては、この箇所の意味を本当の意味で知ることは出来ないと手前は思います。上記の箇所についてはミカエル氏が以下のように解説されております。

主イエスは、「我は優しさであり、謙虚やさかい、あんた方は我が軛を担い、我から学びなはれ。そうすれば、あんた方はあんた方の魂に安らぎを得るであろう。」(マタイ十一章二十九節拙訳)と教えはり、律法遵守する模範を見せはった主イエスから学び、その軛を担えと言わはったし、それに従えば魂に安らぎを得るともある。注意してもらいたいんは、肉体的に安らぐのではないという点。誰が肉体的、物理的に楽をすることを言うたのか。主イエスは言わはらへんかったで。そもそも、悪い者が支配するこの世で生きる上で、人間があらゆる労苦や軛を一切負わへんなんてことは有り得へんし、律法を守らずに罪を犯し続けてると魂に安らぎが得られへんのや。拙者が今までずっと宣べ伝えてきたとおり、律法は軛やないし、法は秩序維持のためにも必要であり必須なもの。

 

引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」

まず、地上での生涯(この世)は仮初でしかありません。この天地はやがて終わりを迎え、その時は近いです。人々は「この世で優れた者でなければならない」、そうではなくても、「世間(社会)に認められる人生を送らなければいけない」と刷り込まれます。具体的には良い学校に入り、良い所に就職して、社会的地位を得て、たくさん稼いで、結婚して、子を育て、幸せな家庭を築いて、老後も安定して・・・というようにです。その流れから外れる者は落伍者と看做されます。これら一つ一つの価値観を見ると空しさばかりが募ります。神の目には何ら評価されないからです。少しでも良い地位を得るのに報われない多くの苦痛を味わうことになります。会社勤めをしていると、会社(業界)の常識は社会の非常識とばかりに「こんなことをしていて良いのだろうか」と思うようなことがあります。しかし、皆、思考停止して機械(ロボット)にならなければ、とてもではないけれど働けません。不法まがいのことでも「組織のため」と正当化され、地位が上がるほどに給与とは不釣り合いな「苦行」が待ち構えております。多くの人が「生活のため、食っていかねばならない」「借金」があるからと、歯車の一部から離脱出来ずに苦しみます。ハムスターが回し車の中をせっせと走るのと大して変わらず、無駄な骨折りでしかありません。

真理を教わる機会がなく、そんな洗脳の中に人々は生きております。人生を終え、眠りにつき、やがて肉体を伴って意識を持って復活する時は、神の裁きを受ける時です。もしかするとその時に、人生の意味や本物の神について思い知るのかもしれません。「生きていた時に聖書について、知る機会があったのに何故、ずっと無関心でいたのか」と後悔する人がほとんどなのではないでしょうか。「キリスト者」であっても神の律法、掟、戒めを守らずにいた者は主イエスによって拒絶される(マタイによる福音書七章二十一節から二十三節参照)でしょう。また、金持ちとラザロの話(ルカによる福音書十六章十九節から三十一節参照)もそのような死後の後悔の教訓として受け止めるべきです。

 

話をマタイによる福音書十一章二十八節から三十節に戻しますが、この箇所は律法を遵守することで魂に平安が与えられるということです。手前が感じたような「この世での重荷」については、聖書真理に則って生き方を改めればある程度は解決出来るものと思います。その上で、この箇所の言わんとしていることを深く探るべく原語を見ていきます。

 

まず、マタイによる福音書十一章二十八節です。「κοπιάω(疲れた者たち)」には、「骨を折って働く」「非常に疲れる」の意味があります。この原語が使われている他の箇所を見ても、何に対しての骨折りであるかまでは限定されていないように見受けます。かつての手前のように世俗の仕事等にのめり込み、疲弊している状態も該当しうるのではないかと思います。ただ競争や利益を上げることに明け暮れて「何のためにやっているのか、意味が分からない」という状況や生活のためにと言って奴隷のように働く状況も該当するかもしれません。次に「φορτίζω(重荷を負う者たち)」は、「(問題などを)いっぱい抱えた」の意味の他、比喩的に「(根拠の無い教え等の)負担を負わせること」の意味もありました。マタイによる福音書十五章ではファリサイ派の人々、律法学者たちが守っている「昔の人の言い伝え」に対して、主イエスが叱責している場面があります。同二十三章四節ではそれらを「重荷」とも言われております。そして、「ἀναπαύω(休ませる)」には、「休息」の他に「解放する」「(情報を)更新する」の意味がありました。「解放」についてはヨハネの黙示録六章十一節、十四章十三節にて同じ原語が使われており、神への忠実によって地上で命を失っても、その忍耐が報われるといった文脈で使われております「(情報を)更新する」は、決して主だった意味ではないのですが、「お前たちは何と浅はかなのか。外から人の中へ入るものすべて、その者を汚さない事が分からないのか。(マルコによる福音書七章十八節参照)」を例に、律法の食物規定が更新されたことや、先にも挙げたように律法学者らの偽善を弾劾したことも含めて、正しい教えをお示しくださったことから、「更新する」と捉えても十分に通じると思います。

二十九節の「ζυγός(軛)」について、軛(くびき)自体は農耕用の牛馬の首にかけ連結する横木です。自由を束縛するものの意味もあります。原語を見ると「法や義務に服す」「天秤の梁(はり)」、他にも「絆」「釣り合う」といった肯定的な意味合いが見て取れます。聖書では確かに「軛」は否定的な意味合いで使われることが多いですが、『我が軛を担い、我から学びなはれ』と言われていることから、「キリストの軛」でもあり、神と釣り合う状態が何を指すかと考えれば、神の律法、掟、戒めを守り、神の目に適う状態と考えるのが自然です。詩編百十九編には律法遵守について、律法を愛する思いが綴られております。「あなたの掟全てを尊ぶ時、我は恥入ることがない。(詩編百十九編六節参照)」「若者はどこで自分の道を清められるか。 あなたの言葉に従って守ることによって。(詩編百十九編九節参照)」などからも、律法を守れと言われた(マタイによる福音書二十三章三節参照)主イエスの御言葉との調和があります。

三十節の「χρηστός(負い易い)」には「易しい」の他、「(善悪の判断について)役に立つ、有益」「人格形成に役立つ」「慈悲深い」などを意味がありました。これらの意味も一つ一つ見れば、神の律法(「我が軛」)は善悪の判断の基準であり、有益で、先に引用した詩編にあるように人格形成に役立つのも当然です。律法が与えられていることは、滅びの縄目からの解放という意味でも(神の)慈悲深さがあると思います。「φορτίον(荷)」について、原義には「請求書(送り状)」の意味がり、『我が荷』は、神が人に求めた契約の履行(神の律法、掟、戒め)を指していると考えられます。この原語には「重荷」の意味もあるのですが『我が荷は「軽い(ἐλαφρός)」』と言われており、言葉どおりに「少ない」「易しい(厳しくない)」の意味です。ヨハネの黙示録二章二十四節から二十五節(参照)『我はお前たちとこの女の教えを受け入れず、サタンの深みを知らないティアティラの残りの者たちに言う。我はお前たちにこれ以上の重荷を課さない。ただ、お前たちが(既に)持っているものは、我が来るまで固く守れ。』と主イエスは言われました。「βάρος(重荷)」と言われておりますが、原語には「困難」の意味がありながらも、文脈も踏まえて、不可能な命令を与えている訳ではないとの意味が窺えます。

ヨハネが言うように、神の律法、掟、戒めに従うことは難しいことではありません。ただ人間自身の肉の思いや欲が邪魔をするだけです。だから、それらを捨てることが自分を否定することになり、ようやく聖霊の導きに委ねることができます。逆を言えば、神の律法、掟、戒めに従えないのは、あんたが肉の欲と肉の思いで生きて世俗を重視しており、主イエスと聖霊の導きを拒絶して逆らっているからです。こうして悔い改めを先延ばしにし、だらだらと月日を重ね、自分では気付かぬ内に恩恵期間は終わり、定められた運命に向かって進んで行くのです。悔い改めて主イエスに従順な羊は永遠の命に入り、悔い改めず主イエスに逆らう山羊は永遠に燃える火の中に入れられます。

 

引用:真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 後編」

主イエスが来臨される時まで、あるいはそれ以前に命を失おうと最期まで守り通せ(ヨハネの黙示録二章十節参照)、最期まで律法を守り通した主イエスを模範として(マタイによる福音書十一章二十九節参照)ということを言われているのだと思います。つまりは、神の品性に釣り合うキリスト者であるようにということです。

 

「釣り合う(軛)」の言葉の関連を少し探っていきます。旧約で使われている「軛」の箇所の原語を見ると、概ね「重荷」の意味で使われており、マタイによる福音書十一章二十九節の原語「軛(ζυγός)」ほどに包含された意味は確認出来ませんでした。ただ、哀歌三章二十七節から二十八節(参照)「若い時に軛を負うのは人にとって良いことだ。軛を負わされたなら黙して、独り座っておれ。」の箇所は趣が異なると見受けました。「עֹל(軛)」は文脈によっては哀歌一章十四節のように「罪(違犯)」の意味があるようですが、本箇所では「苦難」を指すようです。さながらエレミヤ自身の辿った道を彷彿とさせます。個人的には、何故「沈黙する(דָּמַם)」なのかが気になりました。原語を紐解くと「物言わぬ」「立ち止まる」「自制する(慎む)」「待ち望む」などの意味がありました。これらの言葉を見ていると、やはりエレミヤの辿った道が思い出されます。エレミヤ書一章のエレミヤの召命にあるように当初は相応しくないと神に対して断りを告げましたが、神はエレミヤを召し立てました。自分の思いには反したことだったかもしれず、その後も人々にとっては都合が悪いと感じたであろう主の言葉を勇気を持って告げ続けました。自分の思いを自制し、偽預言者のように保身のために聞こえの良い言葉(嘘)は言わず、神を信じ続けた歩みであったと思います。この言葉から自分の十字架を背負うことが想起されます。

 

マタイによる福音書十章三十八節(引用:真の聖書福音と預言【第四回】正しい聖書の底本とは

自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。

 

マタイによる福音書十六章二十四節(参照)

我が後に来たいのなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、我に従え。 

 

σταυρός(十字架)」には、比喩的に「死にさらされること」「自分を否定する」の意味があり、自分の肉なる思いを捨てる、ひっくるめて「自制」「克己」が求められているのだと思います。

先の「沈黙する(דָּמַם)」の原語は詩編でも多数使われており、「おののいて罪を離れよ。横たわる時も自分の心と語り、黙しておれ。(詩編四章五節参照)」「主に向かって沈黙し、主を待ち望め。お前たちはその道で繁栄する者の故に、悪事を為す者の故に怒るな。(詩編三十七節七節)」「私の魂よ、ただ神を待ち望め。 なぜなら、我が望みは神からのものだからだ。(詩編六十二編六節参照)」など、先のとおり「自制する(慎む)」「待ち望む」の意味が見受けられます。「沈黙せよ(自制せよ、待ち望め)」と言われているのは、人は往々にして沈黙していられずに、良かれと思って余計なこと(神の意に沿わないこと)ばかりをしてしまうからではないかと思いました。

 

ところで、こちら(ライフハッカー)の記事では、フランスの数学者で哲学者のパスカルが著書『パンセ』の中で『人間の問題はすべて、部屋の中に一人で静かに座っていられないことに由来する』と語っているそうです。この記事においては、人は一人きりでじっくり物事を考えるよりは、何かしら行動したくなる傾向があり、心理学者の実験によると、十五分間を一人きりで過ごすのに耐えられなくなり、電気ショックを受ける道を選んだ人が多かったそうです。『人はただ考えるよりも行動を好む』と結論づけております。この記事自体の趣旨としては『私たち人間が情報や体験を読み解き、新たな洞察やアイデアに思い至るには、何もしない時間、空想、内省が必要』と静まり、立ち止まる重要性に言及しているのだと思います。まさに沈黙の重要性に触れており、手前も重要だと思います。外の事柄にばかり気を取られて忙しくしていては、神を思うことも、律法に照らして自己検証することも、内省も不可能だと思います。これは手前自身のキリスト者としての生活の実感とも一致します。人間が獣ではなく人間であることの証明は理性にあり、神を畏れ、自己を制御することにあると思います。放っておけば人は、自分の肉の欲の赴くままに放縦し、やがて堕落してしまうのは旧約の歴史書を見れば十分に分かると思います。自制と内観(自己検証)のためには神を思い、沈黙する時が不可欠なのだと思います。

 

<結び>

こちら(ビットシュート)の動画にて、全世界が戦争に突入しており、それは第三次世界大戦であると警告しております。日本でも憲法改悪がされようとしている寸前で、過去記事でも記したように沖縄近辺では台湾有事に備えて着々と準備が進んでおります。全ての戦争はやらせで仕組まれております。『第三次世界大戦が起これば、状況次第では数年は続き、数十億人が死ぬことになるでしょう。そして、第三次世界大戦が終結した時、世界の人々が散々な目に遭って絶望に打ちひしがれている時に救世主を装って新たな指導者として君臨するのがローマ教皇でしょう。(引用:真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」)』とあるとおり、「産みの苦しみの始まり」に現在は位置しております。自ずと主イエスが罪の赦しを終える恩恵期間の終わりも目前と分かります。

 

エレミヤ書五十一章六節(参照)

お前たちはバビロンの只中から逃げ出し、それぞれ自分の命(魂)を救い出せ。バビロンの悪業の故に黙らせられるな。今は主の復讐の時、バビロンに報いを与えるからである。

 

エレミヤ書五十一章四十五節(参照)

わが民よ、お前たちはバビロンの只中から出て行き、それぞれ自分の命(魂)を主の激しい憤怒から救い出せ。

   

「בָּבֶל(バビロン)」は、「バビロニアの首都」「悪と悪徳のはびこる都市」でもあり、秩序とは真逆の「混乱」を意味します。上記のエレミヤ書の箇所はヨハネの黙示録十八章に書かれているバビロンの滅亡と同じことを指していると思われ、特に黙示録十八章四節とほぼ同じ内容です。「Βαβυλών(バビロン)」には「最も腐敗した偶像崇拝の中心地であり、キリストの敵であるローマ」の意味があります。エレミヤ書五十一章六節『バビロンの悪業の故に黙らせられるな』の言葉は非常に意味深いと思います。例えば、こちら(さてはてメモ帳)によると国際保健機関の国際保健規則の改悪案では、世界保健機関(WHO)事務局長の独裁と言えるほどの権限を持ち、ワクチンを強制したり、検閲によって真実を伝えられなくする懸念があります。また、他にもこちら(メモ・独り言のblog)では律法、福音を伝え、主張すると有罪となる刑法改悪案がカナダでは協議されているようです。悪い者が支配するこの世なので反キリストが国家、社会体制、(地上の)教会等、日常生活のあちこちに蔓延っておりますが、よりそれらから距離を取り(世を捨て)、黙らずに福音を伝えねばなりません。「立ち直らせるには一度、罪を露わにする(哀歌二章十四節参照)」「ヤコブの家にその罪を告げよ(イザヤ書五十八章一節参照)」「イスラエルに罪を告げる(ミカ書三章八節参照)」などの言葉はそのためにあるのだと思います。

 

決して、自分の命を第一に考えるのでもなく、ただ真理を知った者として神を愛し、神に留まりたいと思うのは自然なことだと思います。自制し、神を待ち望み、神の民として釣り合いが取れるように、臆病にならずに励んで参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。