こんにちは。


 

今回は、神の律法と真理に逆らう人々は滅びることについて述べます。

今まで過去記事「自由と律法に対する誤解」や「真のキリスト者の生き様」等をはじめ多くの記事にて私は律法は廃止されていないという主イエスの御言葉を基に、また、その他の多くの聖句を根拠として神は神の民となる者には主イエスの完成された部分でこの地上で行う必要が無くなった部分以外の律法は依然として守るべきであるし、神の律法に関する無知をもってしても無罪にはならないので天国には行けないし、滅びを免れないということを聖書を基にして述べてきました。しかし、過去の使徒たちや私が宣べ伝える福音とは異なる福音が世には蔓延しています。これはパウロの手紙を誤解釈することによって、地上の諸教会や偽教師、偽預言者らが偽福音として広めています。偽福音を述べる彼らについて、また、過去の偽り者についてパウロは指摘しています。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章7節(私訳)
ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を歪めようとしているのです。

上記聖句で新共同訳は「覆そう」と訳していますが、原語から考えれば「歪めよう」が正しい訳であり、原語に「〜にすぎない」という意味もありませんので削除です。覆すの意味は、上下逆さまにする、全体的に改める、滅ぼすの意味がありますが、悪意がある場合とは限らずどれも違います。しかし、歪めるには明確に悪意があり、キリストの福音を良く思わない反キリストの仕業ということです。また、正しい底本を採用せず、偽りの哲学等を反映した底本を採用し、かつ、誤訳をして広めた日本語訳の聖書の翻訳者と編纂者も反キリストです。彼らがきちんとした仕事をしていれば、私がこのような誤訳訂正作業をする必要もなく、注意喚起をする必要もなかったのですから。

さて、ガラテヤ2章冒頭あたりに割礼の話が出てきますが、割礼はもはや不要であり、肉に対して行うのではなく心に対して行われることで初めて効果があることなのです。このことは使徒言行録にも記載があります。

新約聖書 使徒言行録 7章51節
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。

上記聖句を反対解釈すれば、心に割礼を受けたならば、真の聖書福音を聞き入れるし、聖霊に逆らわないということです。耳については、当時、ネットも新約聖書も存在しないことから、使徒たちが語る言葉伝いでしか福音が伝わらないためにそう書かれているに過ぎません。今では聖書や当ブログについても耳で聴くよりは目で見て読むということに重点は移っていますが音読等をすることで耳に入れるとより記憶に残り易いでしょう。いずれにしても、共通して大事なのは心であるということです。エレミヤ書31章やヘブライ書8章と10章にもあるとおり、主イエスが仲介者の新しい契約は心に律法が記されるのです。それこそ聖霊によって心に受ける割礼です。だから、キリスト者と自称しながら律法を無視して逆らう人は、主イエスが仲介者となっている新しい契約を結んでいない滅びゆく悪魔の子でしかないのです。心に割礼がなく聖霊を受けていない以上、水の洗礼や聖餐式、建物の教会でパイプオルガン等を使って賛美歌を歌ったりといった礼拝ごっこをしたり、修道院やその他の団体に所属したり通ったりして祈祷や断食、癒しや悪霊追い出し等の業について修行する等をして自分自身を義とする邪な肉の思いを満足させる等をしたり、外見上必死にキリスト者を装っても神の律法、掟、戒めを破り、創造の秩序や集会の秩序を守らないのならば無意味です。
また、上記聖句のとおり、現代では、心が頑なで地上の諸教会から発せられるイエズス会由来の偽りの神学をはじめとする異端教義を信じる者たち、過去に私が弾劾してきたようなカルト宗教にはまって抜け出せない者たち等は心が頑なで良心に焼印を押されており、心に割礼を受けていません。それ故、世でキリスト者を自称する大多数の者たちは神の律法に敵対し、聖霊に逆らい、神にも敵対しているのです。パウロは以下のようにも述べています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 2章28〜29節(私訳)
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではないからです。むしろ、内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。

外見上のユダヤ人とは人種的な意味であり、割礼の有無がユダヤ人であるという意味ではないのです。異邦人であるギリシア人が父親、ユダヤ人が母親のテモテのように主イエスを信じていれば割礼をすることは差し支えなく(使徒言行録16:3参照)、ガラテヤ書で割礼を激しく非難していたパウロ自身が彼に割礼をしました。だから、律法どおりの割礼をやってはいけないと禁じる意図ではなく、キリストの十字架以後に肉体に割礼を施しても主イエスを信じて従わない人はその割礼は無意味であり、主イエス・キリストを救い主として受け入れることを拒み、主イエスの教えに従わず、ユダヤ教徒で留まることを意味しているに過ぎないのです。要するに、今でも主イエス・キリストを拒みながらも割礼を受ける人の大部分はユダヤ教徒に過ぎないのであって、人種的にはユダヤ人ではないのです。肉体に施す割礼ごときで人種や遺伝子が変わるはずがないからです。世界中の現代人はユダヤ人について酷く間違った認識を持っており、ユダヤ教徒とユダヤ人を混同しています。過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」でも偽物の改宗ユダヤ教徒がユダヤ人として誤解されていることについて述べました。そして、過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」では人種の垣根はとうの昔に崩れ去ったのだということも信仰による真のイスラエル人になることの意味についても述べました。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 7章19節
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。

パウロは肉に対する割礼はどうでもいいと述べつつ、神の掟を守ることが大切と述べています。これは互いに矛盾するのでしょうか。割礼は確かにモーセの律法にあり、神の掟に含有されます。神の掟を守るように言いながら、割礼はどうでもいいと言うのは矛盾だと捉える人はまだまだです。上述したように、聖霊によって心に割礼を受けていれば、割礼を受けたことになるのです。肉体に対して割礼していないと不安になる必要はないです。聖書の真理に対して心が頑なにならず、子供のように素直に受け入れるのならば、その人は心に割礼されていると言えるでしょう。勿論、死まで継続することこそが大事であり、一時的に受け入れたが後で心変わりして道を逸れるのであれば何の意味も無く、むしろ、そうなった場合、そのような人の最期は前よりも悪くなります。このことはペトロが述べているとおりです。

新約聖書 ペトロの手紙二 2章20〜21節(私訳)
もしわたしたちの主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れから逃れた後で、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、最期はより悪くなるからです。義の道を知った後で、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったからです。

当ブログによって聖書の真理を知った人は大勢いるはずですが、その多くが義の道を離れ去り、世俗の煩い等で打ち負かされ、聖なる掟、要するに神の掟を守ることができなくなり従わなくなって世俗社会になびいて信仰を失うか、反聖書的な教義を持つカルト宗教や他の耳触りの良い作り話である偽福音を吹聴する偽教師や偽預言者らの言うことを信じて正しい信仰から脱落します。そのような者は最初から何も知らなかった方が良かったとペトロは述べています。これは故意犯が過失犯よりも重罪であるという人間の刑法概念にも通じるものがあります。知らなくて罪を犯す過失犯と知っていてわざと罪を犯す故意犯のどちらが悪質かは誰の目にも明らかであり、より悪質の方が罪が重いのは当然でしょう。そういう当たり前のことをペトロは述べたに過ぎません。だから、主イエスを信じてキリスト者になったとしても、途中で辞めたり、中途半端な生温い信仰に安住すればその者の最期はより酷いものになるということです。それは神による裏切り者への制裁、不従順で怠け者への制裁です。そういう人がいてもおかしくはありませんし、実際多くいます。罪に対して弱い傾向を持つすべての人間にとってサタンが支配する罪深い世俗になびくのは簡単であり、世の大多数の人間はその道をたどります。また、主イエスの御言葉どおり、神の国に入る道は門からして狭く、その道も狭く細く険しいのでほとんどの人がその道を見出さないのですが、やっと見出したとしても、途中で耐え切れずに落ちる人もいます。私は聖書に基づくキリスト道を宣べ伝えていますが、その反対に聖書の曲解を基にした他の宗教団体らは安易な道を説き、癒しの業を中心に目に見えることで釣るのが多いです。このことは過去記事「偽りの霊による働きへの警告 前編」と「偽りの霊による働きへの警告 後編」で注意喚起したとおりです。そこでも述べたとおり、TLRという新興宗教団体に惑わされている者もおり、こういうNARの思想を持つ人たちの息がかかった偽キリスト者は上辺だけは立派なキリスト者を装いますが実際は真理に敵対していますので気を付けてください。誰が神に選ばれてようやく救われるのかは人間自身には分かりません。完全な救いの保証が欲しいと思う人もいるかもしれませんが、そんなものがある訳ないでしょう。そういう邪な要求をする人は神を信頼していないことが明らかです。神を全面的に信頼していれば、完全な救いの保証を要求しないからです。それこそ信仰と呼べるものです。「信仰とは、望んでいる事柄の確信、見えない事の根拠です。」(ヘブライ11:1私訳)とあるとおりだからです。確信していれば不安にならず、保証を求めることがないからです。冷静に考えれば分かることであり単純なことですが、私たちに明日がある保証すらないのです。誰が保証するのでしょうか。誰も保証できないのに人間は勝手に明日何をするか、明後日は何をするか、何年後にはどうなっているか等と勝手に妄想しますが、誰がそれを保証するのか。大抵、あなたがたが思うように事は運んでいないはずです。それは前回記事「主権は神にあり、人間にあらず」で述べたように、人間に主権がないからであり、人間にはすべてを知ることが許されておらず、この地上のことも天上のこともあなたがたが知らないことが多くあり、知らない所ですべて推し進められているからで、天地や万物を創造された主なる神がすべてを掌握されているからです。だから、すべての人間は神によって造られた被造物に過ぎないという分際を弁えて低くあり、神を畏れて信じ、神の律法、掟、戒めを守ることこそが人間の本分なのです。

旧約聖書 コヘレトの言葉 12章13〜14節(私訳)
すべての事柄の結論を聞きなさい。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべてだからだ。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。

新約聖書 ヤコブの手紙 2章12節
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。

上記聖句のように、創造主の主なる神を畏れ、神の律法、掟、戒めを遵守することが人間にとって重要ということが示されています。過去記事で多く聖句引用したように黙示録14:12には、聖なる者たちには忍耐があり、神の掟と主イエスの信仰を守るとあります。神の掟を守らない人間は主イエス・キリストに従順に従うことを拒否して、悪魔崇拝者の権力者、富裕層、マスコミがもてはやす有名人、自称聖職者、偽預言者、偽教師等の人間が神を無視して勝手に作った法、秩序、伝統等に従うので主イエスへの信仰から来る葛藤、悩みが無く、忍耐も必要としないです。故に、黙示録14:12のとおり、神の掟を守らない自称キリスト者は忍耐しないので、聖なる神の民ではないことが明白です。神の掟を守らない者は忍耐力が無いので自分の思い通りにならないと苛立ち、常に自分自身を中心とする利己主義であり、偽りを盲信するが真理を拒絶し、口先だけは立派なキリスト者らしく振る舞うが行いが伴わず、神への愛も隣人への愛もありません。そのような人間は、神が教える本物の愛ではなく人間の勝手な主観に基づく偽りの愛を大事にしており、頑固な不信仰の者や異教徒らも同じですが、たとえキリスト者を自称していても肉体的な第一の死後は滅びます。
そして、すべての人間は自由をもたらす神の律法によって裁かれるとも記述があります。以前過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」と「自由と律法に対する誤解」でも述べたとおり、この聖句から明らかな通り、律法は束縛ではなく自由をもたらします。主イエスを信じて模範として従って律法を守ることで罪を犯さなくなり、神の国に行く資格を持つようになるからです。律法を無視したり違反すれば、罪を犯すことになり、主イエスの御言葉である「もし命に入りたいのなら、掟を守りなさい。」(マタイ19:17私訳)に逆らうことになり、キリスト者とは言えません。主イエスに逆らい、また律法にも逆らう者は自らを地獄行きに定めているのです。
仮に律法が廃止になったとしたならば、神は何をもって罪として人間を裁くのでしょうか。律法廃止論者はこれに返答できないでしょう。だから、律法廃止論が聖書上矛盾しており、主イエスの御言葉にも反しているので、そんな偽福音を捨てて偽りの教義から脱却せねばなりません。だから、常に何を話すか、何をするかについて思慮深くあるべきなのです。礼を失したり、軽率に悪口を吐いたり、悪い行いをすれば、神はそれをすべてご存知であられ、すぐに制裁されないからといい気になっていれば死後には生前山盛りに溜めた罪をまとめて追及され厳しく断罪されるでしょう。だから、何度も私が述べているとおり、この世で生きている間に悔い改めて、真の聖書福音を知って主イエス・キリストへの信仰を持ち、神の律法に違反しないで罪を一度も犯さなかった主イエスを模範として従い、私たちは悔い改めて信仰を持ったら主イエスと同じように信仰の故に神の律法、掟、戒めを守って正しい者、聖なる者になろうとすべきなのであり、聖霊に導かれていればこのキリスト道を目指すはずです。もしそう思わない、それができないなら、あなたの自我が聖霊に逆らっているか、悪霊に支配されており、新生できていません。私が主イエスへの信仰を持って神の律法、掟、戒めを守るのは自分自身を義としたいためでもなく、自分の栄光を求めているのではなく、誇るためでもなく、律法を守らない他人を見下したり裁いたりするためでもないです。そんなことをいつ私が言いましたか。真のキリスト者は信仰によって義とされ、行いがそれを裏付けます。信仰は口先だけのものではないし、癒し、異言、その他の奇跡等の業が裏付けるのではありません。私は独自の教義を述べているのではなく、聖書の真理やキリスト道を説いているのであり、それが聖書上まったく矛盾のない信仰であると宣べ伝えているのです。それが失われた羊に届いて欲しいだけです。聞く耳を持たない者はどうでもいいです。それ故、信仰によって律法を擁護する私に対して律法主義という批判をする者は律法主義の定義すら分かっておらず、まったく見当外れです。過去の複数の記事で何度も述べたとおり、真のキリスト者になるためには、サタンが支配するこの悪い世、権力者、著名人、不信仰者や異教徒やにわかキリスト者らが大多数を占める一般大衆らの格好や言動に倣ってはいけないし、世の友にもなってはいけないのです。キリストと悪魔には何の関わりもないし、信仰者と不信仰者とも何の関わりもないし、真のキリスト者(神に属する人間)と自称キリスト者(世に属する人間)とも何の関わりもないのです。それらはまったく油と水の関係で相容れないし、装いや品性も大きく異なり、最終的な行き先(神の国か地獄)も明確に分かれるから当然のことです。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 十章二十六節〜二十九節(私訳)
もし、わたしたちが真理の知識を受けたすぐ後に、故意に罪を犯し続ければ、罪のための生贄はもはや残されていないからであり、むしろ恐怖に冒されたある程度の破滅的な裁きの予想と敵対する者たちを滅ぼす燃える憤りの激しさが残されています。モーセの律法に違反する者が、二、三人の証言に基づいて情け容赦無く死刑に処せられるなら、神の子を放置したり軽く扱い、契約の血を汚れたものと看做し、その血の贖いによって清められて、恩寵の霊を侮辱する者は、どれ程より酷い刑罰に値すると思いますか。

上記聖句の「罪のための生贄」というのは、自らを犠牲にされた主イエスが十字架で成し遂げた贖いのことを指し、ここからもディスペンセーション主義者らの主張する「一度キリストを信じたら救いを失うことがない」というのは偽教義であると証明できます。彼らは救われていないのに信者になった時点から既に救われていると勝手に勘違いして自惚れているだけです。これこそ傲慢の極みです。明確に真理の知識を得た後に律法を無視して罪を犯し続けるなら主イエスはその人間を助けず、結果、そのような者は地獄に行くと明示されているからです。だから、今まで聖書やイエス・キリストを知らずに罪を犯していた人は本気で悔い改めて主イエスを信じるならまだ救いの余地がありますが、私が宣べ伝えていることを読んでもなお逆らうのならば、永遠の破滅という罰を受けても文句は言えないでしょう。また、上記聖句から分かるとおり、過去のモーセの律法での石打ちによる死刑もありますがそれは地上でのことに過ぎず、地獄行きの刑罰に比べればまだ軽微な刑罰です。神の子イエス・キリストを拒絶して踏みにじり、聖霊を冒涜すれば絶対に赦されることがなく、もっと酷い刑罰に値する、即ち、火と硫黄の燃える池である地獄行き(第二の死)ということです。過去記事「憐れみ深い神」で引用説明したとおり、主イエスは姦通の女をモーセの律法の司法律法によってこの世で裁くことをせずに赦す代わりに罪を犯さないように諭されました。要するに、悔い改めの勧告です。姦通や婚前交渉はモーセの律法(レビ記20:10、申命記22章)によれば死刑に相当する重罪です。現代人は婚前交渉を当たり前のようにし、不倫も多いですが実は死刑に値する大罪であり、姦淫(実際の婚外性交渉に及ばなくても他人を情欲を持って見ることでも成立)も多いでしょうし、性欲がまだ無い幼子を除いたすべての人間が死刑囚のようなものです。主イエスの御言葉は、神の律法に反する不法行為が有罪ではなくなったことを意味するのではなく、実際は主イエスの温情により地上で生きている間に悔い改める機会を与え、死刑執行を猶予されただけです。したがって、もし主イエスの御言葉に逆らって悔い改めず、懲りずに何度も神の律法に反する不法行為を繰り返して改めないならば、主イエスはその者の第一の死後に裁きの場で弁護されず、第二の死に引き渡されることで死刑執行をなされるでしょう。この地上で神による制裁を受けない、罰の報いをすぐに受けないことをいいことに調子に乗って罪を犯し続けて悔い改めを拒んでいれば、必ず死後に地上で生きていた時に溜め込んだ罪の報いをまとめて受けます。クレジットカードのように後払いであり、罪を犯した直後に罪の報酬を払うとは限りませんが、後で必ず罪の代償は支払うことになります。このように、司法律法の実際の効果は実質的には消えることはなく残り、主イエスの御言葉どおりに律法は一点一画も廃ることはないのです。このことは姦淫に限ったことではありません。例えば、安息日も同様であり、安息日を守らないのは死刑に相当する重罪であると律法に記載があり、過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」でも説明したとおりです。だから、安息日が日曜日であるというカトリックの嘘、第七日目が日曜日だとする欧州のISO8601規格という偽り(この規格については過去記事「本物の愛」で説明済。)を盲信する人たち、日曜日をキリスト復活の日として礼拝すべきという聖書に書かれていない人間の戒めに従ってカトリックに歩調を合わせるプロテスタントは救いようがないです。日曜日は週の第一日目であり、平日であり、まったく神聖ではありません。主イエスが復活されたのは週の初めの日で現在の日曜日に相当することは確かですが、日曜日を神聖視し、キリストの復活の記念として礼拝日にするようには聖書には一切書かれていませんので地上の諸教会がやっている行いに従う必要はないので無視すべきで、誘われても拒否すべきです。過去に説明したとおり、日曜日を休むべきとしたり礼拝する日にすることの本質は古代ローマで行われていた太陽神崇拝の継承でしかないからです。カトリック、正教会、プロテスタント等の地上の諸教会はその習慣を適用させ、主イエスの復活を盾に誤魔化して本質を隠しているだけです。聖書に書かれている安息日は今でいう金曜日の日没から土曜日の日没までであり、その期間の安息日こそが神聖であり、神によって人間に安息日を聖別せよとの掟が定められ、この掟はモーセが神から律法として授かる前から存在し、天地創造の時からであり永遠に不変です。聖書の真理を知った後で、悔い改めを拒絶して自ら進んで神の律法に違反し続けるなら、主イエスは裁きの場では弁護してくださらなず、「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイ七章二十三節拙訳)と言われるのです。主イエスは律法を廃止しないと宣言なさったし、使徒たちも律法を擁護して遵守していましたが逐一律法について細かく語る必要はありませんでした。なぜなら、一世紀当時では「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」(使徒言行録15:21)。当時のキリスト者たちは神を礼拝するために聖書どおりの安息日(土曜日の日中)に集まって律法を学んだり議論しており、日曜日に実施したのではありません。そして、使徒たちは律法は諸会堂での学びに任せ、主イエスの復活の生き証人として主イエスの教えや生涯を宣べ伝えることに専念しただけのことであり、律法を蔑ろにしたのではありません。しかし、現代では当時と事情は大きく変わり、モーセの律法を教え広める人は地上の諸教会にはいないので、私が福音伝道の一環として律法の重要性についても宣べ伝えているのです。カトリックや正教会は律法を無視して神の律法に付け加えたり削除したりして独自の教義や行事(ミサ、聖体礼儀、イースター、クリスマス等)を勝手に作って広め、プロテスタントもクリスマスやイースター等を導入してカトリックと同じようなことをしており、特にディスペンセーション主義者らやその他の異端者はモーセの律法とキリストの律法は違うと言ったり、モーセの律法はキリストの十字架以後廃止されたと言ったり、モーセの律法が血統のイスラエル人にだけ適用される、シオニストらとロスチャイルド家が建国した現イスラエル国家が聖書のイスラエルとみなす等といった数々の反聖書的な偽りの教義を吹聴していますが、その悪い行いによって彼らは彼ら自身が偽り者であることを自ら証明しています。過去記事「自由と律法に対する誤解」でも彼らの偽りを証明したとおりです。彼らはこの世が偽りや陰謀で満ちていることを知らない世間知らずであり、彼らの得意技は間違った世間の情報を真に受け、聖句を曲解したり誤訳聖句を盲信して固執することであり、さらに国語力不足で聖書全体の理解ができずに聖書のほんの一部分を抜粋して信じて自説の根拠にしますが、都合の悪い箇所を無視する等ということを平気でするので、律法廃止論を唱え、大艱難前に携挙される等と反聖書的なことばかりを信じて周囲に吹聴します。その一例としてプロテスタントのディスペンセーション主義者があり、地上の諸教会のカトリックや正教会の異教信者やプロテスタント、カルト宗教信者(統一教会、エホバの証人、モルモン、全能神、RAPT、TLR、その他多数)等の異端者らもあらゆる点において信仰の失格者です。これらの者たちは神の律法に対して歯ぎしりしており、神が制定された律法が廃止されたものとみなしたくて仕方がなく、聖書どおりに守ろうという意識がまったく無いのです。それは彼ら彼女らが悪魔の子であることとの証明でもあります。彼ら彼女らの父であるサタンが神に反逆し、神の律法を神が御命令されたとおりに守らなくてもいいものとしたいからです。プロテスタントだけでなく、カトリックや正教会らも自称聖職者らが教会独自の規則や教義を作ってそれを守って所属の信者らにもそれを勧めるでしょうが、それらはすべて聖書に根拠が無いものばかりであり、主イエスや使徒たちが教えた内容ではなく、主イエスの教えに留まらない反キリストであることは揺るがない事実です。故に、彼らは聖書の真理とそれを述べる真のキリスト者に敵対し、神の律法に対しても歯ぎしりして従わないか、世俗の生活に差し支えない範囲だけというほんの一部だけを守っていい気になっているでしょう。私が過去記事「主イエスを模範として従う生活」や「真のクリスチャンに相応しい姿と信仰 前編」等で房付きの和服を推奨したのも肉の思いからではなく、神の律法に則った衣服であるからに他なりません。それなのに私が好き勝手に言いたいことを言っていると勘違いしているにわかクリスチャンが多いです。特に、真理を愛そうとせず、偽りの信仰を持って律法の一部だけを守っていい気になって自惚れている生温い信仰のにわかクリスチャン程、吐き気を催させる者はいません。私が過去記事「生温い信仰への警告」で警告したとおり、主イエスは生温い者を吐き出すと仰っています。不信仰の者や異教徒は勿論のこと、また、にわかクリスチャンも真に悔い改めなければ救いはありません。もし当ブログをお読みになって正常な理解力と知性があれば、納得するはずです。何一つ矛盾のあることは述べていないからです。
神は愛であり(ヨハネ一4:16)、その神が律法を人間に示して守るように御命令されたのは束縛のためでしょうか。それでは神は愛とは言えません。だから、律法を束縛のように捉えたり、今は廃止されたと虚言を言う者は悪魔の子なのであり、律法制定者である神が人間を束縛する悪者と非難しているに等しいです。神は愛だからこそ律法を制定されたのであり、「すべての律法と預言者たちはこの二つの掟(神への愛と隣人愛)にかかっている」(マタイ22:40私訳)と主イエスは仰いました。このことは既に過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」でも述べたとおりであり、だから、神の律法、掟、戒めに逆らっているすべての人間は神の愛に基づいて生きていないので滅びるのです。

ガラテヤ書3章あたりから読み進めると、かなり律法がけなされているように思えるかもしれないですが、キリスト信仰に入った異邦人のガラテヤ人らが割礼を受けることについてと割礼によってユダヤ教徒らと同化しかねないというパウロの懸念からの批判が主旨です。パウロ自身が元ファリサイ派のユダヤ教徒だったので、主イエスへの信仰抜きで律法を守ろうとすることの虚しさをよく知っていたからです。また、律法廃止論者はガラテヤ書のパウロの言葉を援用してそれを絶対視して他を蔑ろにする傾向にありますが、ガラテヤ5章後半に列挙された偶像礼拝、魔術、姦淫等が罪で神の国を受け継ぐことができない悪い行いということをパウロが勝手に決める権限があるのでしょうか。いいえ、被造物に過ぎない人間には神の律法のような裁きの基準を決める権利や権限は無く、第一これらは律法にある内容です。もし何かパウロが書き忘れたことがあったらどうするのでしょうか。彼は律法から許されないことをその時に思いつくだけで導き出したのであり、彼が勝手に新たに戒めを制定したのではありません。普通に考えて、律法を廃止しないし、永遠の命に入るために掟を守るようにと仰った主イエスの御言葉と神の律法を無視して一部のパウロの言葉のみにすべてのキリスト者が拘束されるのもおかしなことです。結論として、ガラテヤ書は元ファリサイ派のユダヤ教徒で幼い頃から聖書に親しんで律法を学んだパウロが律法の知識を援用して書いたのであり、律法そのものを廃止するために書いたのではないということです。実際、ローマ書7章から8章等を読めば、パウロが律法を聖なるもの、善であると擁護しているのは明らかであり、上述したとおりテモテにパウロ自身が律法にある割礼を施したりして律法の業をしており、ガラテヤ書やコロサイ書2章の誤訳等を根拠に律法廃止論を唱える者は偽り者です。このような者があなたがたの身近にいるなら、この真理を教えてあげなさい。もしそれでも聞き入れないなら、そこから離れてそのような人たちと関わりを持たないようにしなさい。

また、当時のユダヤ人の間には今でいう人間が制定する刑法や条例は存在せず、モーセの律法しか存在しなかったということです。この意味が分かりますか。一世紀当時のユダヤ人にとってはモーセの律法が今でいう人間の法律でもあったということです。それ故、彼らは姦通の女を捕らえて石打ちの死刑を執行しようとしていたのです。だから、当時のユダヤ人らは神への愛に基づく信仰からモーセの律法を守っていたというよりは、法律だから守らないといけないという思いと滅びたくないという利益信仰、人々に自分の業を見せつけてもてはやされたいという動機によって生活していたのです。現代の人間が法律を守る動機と一緒です。守らないと罰せられるために義務感から守っているということであり、神への愛という正しい信仰に基づくものではなかったのです。
日本は明治時代からイギリスの間接植民地となって西洋化させられたせいで、それまでは持っていなかった議会制度をはじめ、憲法、民法、刑法等を西洋のものを参考に無理矢理制定し、西洋と同じ法体系を真似して当時の日本政府の役人や議員らが制定したに過ぎません。それらもついこの間まで本来日本には無かったものなのです。実際、江戸時代の日本では不倫といった姦通については死罪であり、今の民法上の民事で慰謝料等のお金で解決できることではありませんでした。現代人は西洋由来の法律がある環境で生まれ育ったので西洋的な人間の法と聖書に書かれた神の律法と二種類の法が存在し、信仰の無い人間は西洋由来の人間の法のみに従うことであたかも自分は善人であると勘違いして高慢になっています。人間の法なんか不完全な人間が作った以上は不完全であり悪法も多いですし、今では不正選挙によって国民が選ばなかった議員が国会にはびこり、国民が望まない法律が勝手に作られたり改悪され、日本国民に不利益になったり日本の国益を損なう外国との条約(TPPや日米FTA等)を勝手に内閣が締結して国会で承認されており、権力者とその仲間らは平気で見え透いた嘘をついて逃げ、暴力団との関係も深く、多くの悪行をやめず、法を破っても司法機関もグルなので罰も受けません。特に、今の史上最悪であって国の秩序を乱す内乱罪を行う悪夢の自民党安倍政権でそれが顕著です。与野党グルになって安倍内閣が熱心に宗主国である英米に仕えて売国政治をして日本を破壊し、増税や低賃金と長時間労働、非正規雇用促進によって経済的に日本人を貧困に追いやったり、空からケムトレイルを撒いて遺伝子組換え食品や不健康な食品添加物やワクチン等を広めたり5Gといった強力な電磁波攻撃を推進して日本人の健康や命を損ない、違憲の法律や条例等を作り違憲の条約を外国と締結して日本人を迫害し、最終的に憲法改悪によってまともな日本人を殲滅予定である限り、それを実行している安倍内閣とその仲間たちはいくら犯罪を犯しても罪に問われずに英米の支援を受けて司法機関やマスコミも黙らせてやりたい放題できるのです。しかし、いずれそんな時にも終わりは来るでしょう。あなたはこのまま無関心で現実逃避しながら、滅んで終わっても良いのでしょうか。世の中の仕組み、政治、憲法や法律にも無関心で、聖書や主イエス・キリストにも無関心で、ただ世俗の仕事や生活だけに明け暮れて娯楽や快楽にうつつを抜かして何もせずに怠けたツケは必ず払うことになります。このまま安倍自民党政権による極悪政治と支配が続き、もし憲法が自民党の改憲草案どおりに改悪されれば国と大勢の日本国民が滅んで、今ある日常生活や人権もろとも消え去るのです。現世でも苦しみ、後の世においても苦しんで滅びるのです。日本人たちよ、いい加減に目を覚ましなさい。
話が逸れましたが、パウロが生きた一世紀当時ユダヤ人の間には人間の法整備がなく、古代ローマ帝国がローマ法を持っており、古代ローマ帝国の支配下に置かれていた中東のユダヤ地方は属州としての位置付けで、ガラテヤも今でいうトルコの一部の地域であって同じく古代ローマの属州でしたので、人間の法律としてはローマ法が適用されていました。しかし、古代ユダヤ人たちは表面的には宗主国のローマに納税する等の点で仕方なく従いつつも精神的には従わず、モーセの律法を強く擁護しており、余計なことに当時の祭司やファリサイ派や律法学者らが律法に勝手に細則を加えてユダヤの大衆を不当に拘束し、実効支配していました。彼らにとっては異邦人であるローマ人が制定したローマ法なんてどうでもよかったのです。安息日の時に病人を癒す等の善い業をしただけで主イエスを殺そうとまで企んだファリサイ派の律法に対する情熱は凄いものがありました。彼らはローマに従わなかった結果、後でユダヤ戦争にて国ごと完全に滅ぼされて神殿も崩れ去ったのです。このように言うことでローマ(西洋)に従うべきだという意味ではなく、むしろ主イエスを拒絶して敵対した報い、当時の中東にいたユダヤ人たちが自分たちの時を知らなかったから(ルカ19:44私訳)であって、そのことも主イエスが事前にエルサレムが軍隊に包囲され、神殿も崩されて滅びることをすべて予告なさったとおりでした。そのような神の御計画だったということであり、歴史に「もし」はありません。放射線物質による汚染が日本中で広がっているし、政治や司法も乱れ、多くの外国人が日本に流入しており、偽日本人である帰化人が国会や官僚に多く国家の中枢機関が支配され、明治時代以降の欧米化によって道徳観念も著しく低下した日本は安泰ではありません。日本人たちよ、いい加減に目を覚ましなさい。

まとめれば、神の律法、掟、戒めは守るべきものであり、キリスト者として主イエス・キリストに従うにあたって当然のことであるということです。主イエスへの信仰を保ち、神の律法、掟、戒めを守ることは真のキリスト者としてあるべき姿であり、人間の法よりも大事ということです。複数の過去記事でも既に言及済ですが、ダニエル書3章にあるように、偶像礼拝を強要する世俗の王からの命令は世俗の法であり、それに従わねば死刑とされていました。そして、大勢が死にたくないが故に偶像の前にひれ伏す中で、信仰のあった三人だけが偶像礼拝を拒否したことで死刑に定められ、燃え盛る炉に入れられたが神に助けられて無事だったという話は聖書を読んだ人なら知っているでしょう。もし彼らがその他大勢の人々と同じように権力者や死刑が怖くて世俗の権力者の法や命令に従って、神の律法で罪とされる偶像礼拝をしてしまったらこの世でほんの少し生き長らえたとしても、最終的には地獄行きだったでしょう。だから、真のキリスト者は殉教を恐れてはならないのです。主イエスも「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)と仰っているとおりだからです。主イエス・キリストや福音のために死ぬなんて莫迦げていると不信仰の者、異教徒ら、にわかクリスチャンらは思うでしょうが、それは本物の神を知らないし信じていないからです。そのような厚顔無恥な者たちが何と言おうがどうでもいいのです。将来の大艱難は、過去の記事でも説明したとおり、神の律法、掟、戒めに反することを人間の法令等によって強制されるようになるでしょう。ダニエル書3章のような信仰を試される場面は、偶像礼拝に限らず、安息日もこの候補に挙がるでしょう。もしローマ教皇が世界を支配すれば、彼は必ず日曜日を世界中の人々に神聖視させるように仕向けるでしょう。本来平日のはずの日曜日が休みにされ、それが当たり前と信じて疑わないで従う一般人の多さを見れば大衆はやはり愚かと言わざるを得ないです。天の父なる神も主イエスも信じない大衆は、信仰が無いので簡単に反キリストに従います。不信仰の者や異教徒らと偽キリスト者は日曜日を守り、聖書どおりに安息日を金曜日の日没から土曜日の日没の間守る真のキリスト者がはっきりすることになるからです。ローマ教皇がしきりにイスラム教の指導者やイスラム圏の国々、正教会の指導者、仏教信仰の国々等を訪ねて懇意になっているのはこういうことであり、ローマ教皇が彼らを取り込んで平和の使者を装って彼の支持者を増やして世界支配を目論んでいるためです。このように反キリストの人間に従うのか主なる神に従うのかは相反します。どのような試練であれ神の律法に関わるものであり、少数の神の側(真のキリスト者)か大勢の悪魔の側(真のキリスト者以外のすべて)かのどちらにつくか全ての人間が決める時は必ず来ます。そして永遠に運命を分かつのです。滅びるのは主イエス・キリストを拒み、神の律法、掟、戒めを守らず不法行為を愛し、真理の愛を受け入れず、嘘ばかり信じて間違った妄想に浸っているからです。過去記事「偽りの霊による働きへの警告 後編」で引用した聖句を再掲します。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙二 二章九節~十二節(私訳)
不法の者の到来は、サタンの働きによるもので、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを伴い、そして、あらゆる不義の欺瞞が滅ぶ人々の間にある。なぜなら、彼らが自分たちが救われる真理の愛を受け入れなかったからです。更に、このため、神は彼らが偽りを信じるよう、彼らに迷いの力を送られるでしょう。真理を信じないで不義の中にいることを喜んでいた者は皆、有罪で裁かれるためです。

さらに以下のことも覚えておきなさい。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章3〜5節(私訳)
しかし、もしわたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じない人々の心の判断力を失くし、彼らを照らす神の像であるキリストの栄光の福音の光を見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えているからであり、わたしたち自身はイエスのためにあなたがたの僕なのです。

上記聖句のとおり、真理を受け入れない人はサタンに支配されて正常な判断力や理解力が無くなり、心が鈍くなり、読んでも納得しないで反抗するだけです。その当然の結果、滅びると明示されています。何度も言ったとおり、私は自分の栄光を求めておらず私自身のことは話しておらず、聖書の真理や主イエスのことを主題に述べており、主イエスのために福音伝道をし、主のためにあなたがたに仕えているのです。聞く耳を持つ者は聞きなさい。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上