こんにちは。



 

今回は、主権は神にあり、人間にはないことについて述べます。


 

創世記冒頭にあるとおり、この世は主なる神によって創造されました。ビッグバンという訳の分からないことで発生したのではないし、ダーウィンが述べる進化論も偽りであり、アメーバから進化して偶然的に生物が生じていったのでもありません。そのような悪魔の嘘に惑わされるのはいい加減に卒業して、聖書に向き合って真理を学ぶべきです。進化論をはじめとする科学もどきは不当にも知識と呼ばれている反対論(テモテ一6:20)であり、これらのくだらない偽りを本当だと信じ込んでいる者は、反キリストであり、聖書を否定し、神を拒み、キリストの贖いをも拒み、真のクリスチャンの言うことも拒みます。その結果がどうなるかは死後に否応無しに分かりますが、その時では遅過ぎるのです。何度も今まで申してきたとおり、人間は死んだら終わりなのであり、この地上で生きてきた時の業に応じて神によってすべての人間は裁かれます。勿論、不信仰の者、異教徒、偽りの教義や神学を盲信するにわかクリスチャンにも希望はありませんし、それは聖書が明確に示していることです。



 

この世はすべての事柄が神の主権の下で行われ、善いことも悪いこともすべて必然です。普通の人間はすべて生まれつき罪に対して弱い傾向を持って生まれ、普通の生活をしていれば必ず罪を犯す罪人です。人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。
聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。例えば、神の律法には「嘘をついてはならない。」(レビ記19:11)と規定があり、どんな小さな嘘でも罪となります。少し位ならいいのではなく、虚偽である以上は嘘であり、たとえ人をかばうためでも嘘は良くありません。誰でも子供の時、または大人になっても見栄をはるため、誤魔化すため、やましいことを隠すため等と色々な理由があるでしょうが一生の内で一度たりとも嘘をついたことがないという人はいないでしょう。律法で規定されている罪というのは、嘘をつくことだけに限ったことではないですが、人間の法に反しない嘘であっても嘘をついたらその時からその人は神からすれば罪人なのです。このように、私を含め世の人間は罪深い者ばかりということであり、世の大半の人間が神を信じず無視して罪を犯し続けて悔い改めもしようとせず、結果的に滅んで行くのです。そして、このことは過去、現在、そして未来とこの世の終わりまで続きます。


では、人間は滅びるしかないという絶望しかないのでしょうか。いいえ、そうではありません。その滅びから救ってくださる唯一のお方がおられます。今ではその名は知らない人はほぼいないと言って良い程の有名人であるイエス・キリストです。聖書の内容は読んだことがないので知らないという人は多いでしょうが、イエス・キリストの名を知らない、聞いたことがないという人はほぼいないでしょう。新約聖書は一世紀当時の事柄が書かれ、主イエスが地上に来られて昇天された後からそれ程時が経っていなかったので、当時はイエス・キリストの御名を聞いたことがないという人は多かったのですが、当時の主イエスの直弟子やパウロ等のキリスト者らの熱心な伝道活動によって広められ、現代では聖書は世界一読まれた書物であり、最も多くの言語に翻訳され、世界中に知られて現在に至るのです。しかし、言語を問わず現代において流通している聖書の大半が誤訳や意図的な削除等によって歪められているのは過去記事「聖書に対する誤解と戦争犯罪」等で既に話したとおりです。それでも、誤訳が多い現代語訳の聖書であっても、主イエス・キリストが真理であり、聖書こそが真実の書であることを悟るには十分です。国語力があることが大前提ですが、もし矛盾やおかしいと思える箇所があれば、その時こそ誤訳等の可能性を疑い、正しい底本の原語の分析をすると良いでしょう。聖書は人間の手によって書かれたものであるし、写本の書き写し間違い等で、多少の間違いや矛盾した箇所もあります。しかし、信仰の核となる律法や福音等に偽りはなく、多少の食い違い(イスカリオテのユダの死に様の違い、福音書における預言者名の引用間違い等)等だけで聖書全体の信頼性が崩壊するものではありません。預言者の書も随分と誤訳や改変が多く、正しい預言解釈には正しい底本の原語分析が必要となるでしょう。そのような聖書研究や学びを一切せず、聖書を一度も通読したこともない不信仰の者や異教徒の戯言を愚かにも真に受けて信じてイエス・キリストや聖書に反感を持ったり、地上の諸教会の自称聖職者らの虚言や偽善を真に受けて盲信したり、ブログ、Twitter、YouTube等を駆使してネット上で耳触りの良い偽福音を言う偽預言者や偽教師らの言うことを盲信するようでは広い門から入って広い道を歩んで最後には滅びます。私もブログを使って伝道している訳ですが、対面でもする時はします。常に口を開けば聖書のこと、キリストのことだけを話すのでは勿論ありません。世に生きている以上、その他のことを話すことも当然ありますが、できるだけ世俗とは距離を置き、世俗的価値観を持つ人をけなすことも見下すこともなく愛を持って接して隣人愛を実践しています。私はまだ主イエスから要求されている「完全な者」になれているかと言えば、まだです。私もまだまだ途上であり、ローマ7章でパウロが苦悩していたのと同じように私も時折なんて私は惨めなんだろうと思うことがあります。本当に神の国、神の義は世俗とは甚だ異なりますし、普通の罪深い人間が到底入れる場所ではないと感じています。それにより慄いているかといえば、そんなことはありません。これは楽観的だからでもなく、愚かで盲目的だからでもありません。ただ確実に一歩ずつ日々悔い改めの実を結び、自我や悪の諸霊と戦うことで、師である主イエスに近づこうと頑張っているからです。この信仰と行いによって、主イエスに明るい希望を持ち続けることができ、この悪い世に飲み込まれることなく対抗できるのです。私の実体験から断言できますし、また聖書にも書かれており、過去記事「生温い信仰への警告」でも述べたことですが、信仰は忍耐です。はっきり言っておきますが、他人と自分を比較して「あの人よりはマシ」等と思っている人たちはまったく成長しません。何故、他人と比較して自分を正当化するのでしょうか。それでは単に自分は大丈夫と安心したいだけという愚かな驕りであり、また、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(ルカ18:11)と祈ったファリサイ派と同じような品性の持ち主の人間です。ファリサイ派はご存知のとおり、アブラハムの子孫であって選ばれた民イスラエル人であることを誇りとし、モーセの律法を絶対視するように見せかけながらも実際は守っておらず、自分には甘く他人に対してだけ厳しく、しかも権力者や肩書きを持つ者には媚びへつらい、自分よりも社会的に弱い人たちに対しては一層厳しい人たちの集まりでした。マタイ15章とマルコ7章から明らかなとおり、主イエスはモーセの律法を擁護され、ファリサイ派は人間の教えや伝統を守ることには一生懸命だが、神の掟を破って蔑ろにしていると非難されました。現代のユダヤ教徒、そして地上の諸教会に所属したり、偽教師らや偽預言者らに従う自称クリスチャンの人たちも同様です。多くの者がイエス・キリストを信じると口では言いつつも、神の掟を蔑ろにして、偽りを言う人間の教えには従って自己満足でしかない虚しい信仰生活をしています。だから、そのような人たちこそが現代のファリサイ派なのです。このことは過去記事「生温い信仰への警告」と「真のクリスチャンに相応しい姿と信仰 前編」でも既に述べたことです。



本当に現代社会、日本でも例外なく、強者に弱く弱者に強気に出る性格の人間が増え過ぎています。あなたがたも、身の回りの人間らもこんな人ばかりではないですか。例えば、2019年11月27日に日本政府は、75歳以上の後期高齢者の医療機関での窓口負担について、現行の原則一割から二割に引き上げる方向で最終調整に入ったとYahooネットのニュースに出ていました。そして、そのニュース記事のコメントをいくつか抜粋しますと、「高齢者の負担割合も確かに見直しが必要と思っていた。しかし、個人的には生活保護の医療費無料の方が納得いかない。」、「生活保護の方に、1割でも負担頂いたらと思います。無料だから、しょうもない事で受診する人もいます。」、「生活保護の方にも医療費負担していただきたいと切実に思います。色々な事情はあると思いますが、医療行為を受けて無料なんて、やはり不公平です。」等とありました。これが現代の日本人の考え方です。政府や地方行政の悪政には何も言わず、自分よりも弱い立場である生活保護受給者に負担増を求めています。何故、行政による支那人や朝鮮人をはじめとする在日外国人の不法な生活保護支給を糾弾せず、支那人を中心とする日本の健康保険悪用(参考までにこちら(ダイヤモンドオンライン))と支那人のビザ発給緩和によってそれを助長する日本政府を糾弾せず、日本人を締め付けて苦しめる消費税増税やその他の法整備をしたり悪行を繰り返す政府、国会、地方行政、経団連、大企業らを糾弾しないのか。売国の限りを尽くす反社会的勢力である安倍内閣とその他の怠慢で自民党や公明党等とグルになっているすべての国会議員らを糾弾しないのか。愚か者よ、目を覚ましなさい。あなたがたが強い者に弱腰で忖度して媚びへつらって何も言わず、弱い者いじめばかりしているから、日本の国力は衰退し、日本国民は貧困に陥って苦しむのです。権力者には物言わない家畜になり、何の権力も財力も持たない庶民には偉そうにする人間たちよ、恥を知りなさい。脳内がお花畑で、自分の目先の利益や暮らしのことしか考えない愚か者よ、目を覚ましなさい。そうやって、今だけ、自分だけ、お金だけしか考えていない愚かな利己主義な日本人が大勢いるから日本は外国に売られて傾き、沈みかけた船になっているのです。過去記事「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」や「日本人の消滅危機と生き様について」で述べたように、日本は侵略を受けています。先日ローマ教皇が日本に来て、難民をもっと受け入れるべきだなどと言いましたが、日本を壊したいというイエズス会の目的が露わになっていました。度を超えた難民受け入れ、移民受け入れは国を壊し、土着の文化や言語を消滅の危機に追いやり、ひいてはその国の外国人比率が高まり過ぎると現地の国民が少数派になって主権を失って外国に乗っ取られます。欧州がイスラム系難民や移民を大量に受け入れたせいで混乱していると過去記事「差別と侍の本義について」でも述べたとおりです。既に日本は支那人と朝鮮人に国家の中枢機関を乗っ取られ、明治時代より日本は英米の間接植民地状態にあり、日本人は蹂躙されています。
そのことは過去記事「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」等で既に述べました。

中世時代、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に来て侵略のための偵察をしていました。過去記事で散々忠告したとおり、イエズス会は悪魔崇拝組織であり、あらゆる秘密組織の頂点に立ち、その富や権力を使ってあらゆる政府機関や組織を動かすことができます。はっきり言って、彼らは偽善をして善人を装って愚民を騙しつつ、新世界秩序(NWO)を推進し、世界を一つにまとめて世界征服を企んでいる悪魔の代理人たちなのです。難民や移民を積極的に受け入れるのは上述したように国を潰し、国境をも潰すのが彼らの狙いだからです。何も知らない無知な愚民がローマ教皇という肩書きに騙され、偉い人、すごい人等と何も知らないくせにそのような先入観を勝手に抱いています。そのような人間たちは、天皇、皇族、政府や官僚の人間たちに対しても同じでしょう。肩書きがあればどんなに悪事を裏で働いていたとしても無条件に偉い人、敬わなければならない等と愚かな家畜思想を幼少の頃から擦り込まれ、洗脳されているからです。聖書を読んで世の洗脳から解かれなさい。聖書を読んでもなおこの悪い世に洗脳されたままのにわかクリスチャンも大勢いますが、神から選ばれる者は少ないために仕方のないことです。天の父なる神のお導き、主イエスのお導きがなければ本当の意味で目を覚ますことはないからです。少しばかり世の陰謀を知ったとしても眠ったままの人は大勢います。巷でB層などと言って大衆を見下して自分は違うんだと言わんばかりの高慢な人たちもいますが、聖書を知らない、主イエス・キリストを知らない人たちはどれ程世の情勢に詳しくなろうとも無意味です。不信仰の故、信仰の薄さの故、神の律法に背く罪を悔い改めないが故に獣の刻印を受けて第二の死に定められるならば、この世でいかなる富、地位、名声等を得ようともまったく無意味です。この世は仮の世であり、第一の死である肉体的な死後は地上にある物は何も持って行くことはできないからです。

 



最後に、神の主権についても例えを用いて述べます。

過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」において述べたことに関係しますが、すべての人向けではありますが、とりわけ神の主権を無視して人間の自由意志を最重要視するにわかクリスチャンへの言葉です。
神の主権は人間界の主従関係や会社に似ています。人間の世界では、組織を作る場合、上に立つ人間が下につく人間を選びます。師匠と弟子の関係においても、師が弟子を選びます。師が選ばなければ(採用しなければ)、いくら弟子になりたいと申し出ても、いくら頭を下げても、師が了承しなければ弟子入りは叶いません。また、会社という組織も縁故入社を除けば、通常は役員や人事担当者が会社の方針に従って応募者を書類選考し、面接し、そして入社させるかを決めます。神の国でも同様です。神の国では、神が選考し、人間は採用される側の立場です。神は万物の創造主であり、人間をも創造されました。神が全知全能であり、すべてご存知であられます。歴史は人間の視点ばかりでしか世では語られないので無駄な議論が多く偽りも多いです。しかし、何事もすべて神があらかじめ預言者を通じて予告して聖書として記させたどおりに事を運ばれます。だから、神は必ず神の御計画や御心を達成され、遂行するお力もお持ちなのであり、不可能なことは何もないのです。この世が最終的に滅び去る時も定まっており、キリストの再臨は遅れることはなく、新しい天と新しい地を主なる神は再創造されるとも聖書には書かれています。「キリストの再臨は遅れている」等と言う者は神を侮っており、神の御言葉に反したことを言う偽り者です。その次の世こそが永遠の世界なのであり、この世が存続するのは六千年程度の限られた期間なのです。過去記事「千年王国の真実 前編」と「千年王国の真実 後編」等でも既に述べたことです。だから、この世は例えて言うならば、試用期間なのです。会社で新しく採用された人は通常三か月は試用期間というものがあります。その期間に勤務態度が極めて悪い、遅刻や早退を繰り返してろくに仕事をしない等というようなことがあれば、会社が解雇権を用いて従業員を試用期間中に適正な手続きをもって解雇できます。神の国では人事権は裁き主である創造主の神にあり、主イエス・キリストにありますので、人間が望みさえすれば絶対に入れるものではなく、主なる神が神の国に入る人間を選ぶのです。主イエスはペトロやヨハネをはじめとする十二弟子を選びました。十二弟子の方から主イエスに弟子入りを求めたのではありません。主イエスが彼らに声がけして、彼らがそれに応じて弟子になったのです。主イエスは明確に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)と仰ったからです。だから、主なる神に選ばれない人はどうやっても救われないし、神の掟を守り続けて主イエスを信じて死まで従順でいれないのです。このことを忘れないように。一応洗礼は受けて教会に通っているという形骸的にクリスチャンだから天国に行けるのでもありません。主イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)と明確に仰られ、形骸的にクリスチャンであるだけで神の律法、掟、戒めを守らないで自由奔放に生きる者は神の御心を行っていないので、神の国に入ることはできません。このことも何度も言い続けてきましたが、信じるというのは行いが伴います。そうでなければ口先だけの偽り者でしかないからです。世に倣って世の友になろうとして、不信仰の者や異教徒らと同じような格好や言動をしているようでは到底真のクリスチャンとは言えないものです。過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」でも述べたように、日本は現代イスラエルであることを認識せず、日本にキリストや聖書は関係無い等と惑わされているならば、次の世ではどうなるか、それ以前にこの世でもただ苦しむだけです。この世での苦しみなんて次の世の栄光に比べれば取るに足らないです。信仰は忍耐であり、真のクリスチャンはサタンが支配するこの世の敵になるので、必ず多くの苦難や試練を経験します。それも永遠の命を受ける神の民となるのに相応しい品性、キリストに近い品性を築くためです。主イエスのために、また福音のために自分の命までも厭わない者こそが神の民になれる資格があるのです。神の国の採用条件はすべて聖書に書かれています。それなのに何故それを軽視し、人間が強く望みさえすれば大丈夫で日頃の行いや生活は無関係だと言えるのか。何故、主イエスを模範とせず、神の律法、掟、戒めを主イエスの御言葉どおりに守ろうとせず、使徒の勧めどおりに創造の秩序を守らず、不信仰の者や異教徒らとほとんど同じような衣服を身に着け、同じような言動をして彼らと大差ない生活をしておきながら救われると思い込んでいるのか。そのように言っている者たちは皆、偽り者です。このようなにわかクリスチャンを避けなさい。

 

また、神の主権について不満がある者がいるでしょうが、これも例えを交えて話しましょう。

ゲーム好きな人で知らない人はいないでしょうが、ドラゴンクエスト(以下、ドラクエという)というRPGがあります。勇者である主人公が最後の敵である魔王を倒して世界を救うという物語です。初代ドラクエの魔王は竜王で、まさに聖書(黙示録)で竜はサタンを示し、この世を支配する者という意味を反映しています。ドラクエに限らず多くのゲーム、アニメ、映画等も聖書から引用している事実は聖書に詳しくなればすぐに分かります。ドラクエのシリーズは多く出ており、主人公の勇者だけでなく仲間を引き連れ、また自由に仲間を選び、仲間の職業や装備品や持ち物についても自由に設定できます。このように、RPGで遊ぶ人が一種の創造主のようになっている訳です。自分がどう行動するか決め、仲間を誰にするか、名前は何にするか、どういう職業にして持ち物はどうするか等をすべて決められます。しかし、ゲームの中の人間にはその決定権はないです。すべてそのゲームを操作する人の手中にあるからです。ドラクエ三作目から職業が出来て遊び人なるものがおり、他の職業者に比べれば弱小設定です。遊び人がRPGをする人に「何で自分を仲間にしてくれないんだよ」等と文句を言うこともできないし、たとえできたとしてもゲームを操作する人にとって魅力的ではない場合は無視されます。ゲーム操作者の自由な選びや計画によって決められるからです。

同様に、この現実の世界も、万物を造られた創造主であり全知全能の主なる神がすべて決めておられ、被造物に過ぎない人間には何ら決定権はないのです。すべて神の主権下にあり、すべてが神の御心や御計画に基づいて起こるべくして起こっているのだということです。神の民となる人は神の自由な選びによって選ばれ、選ばれない大勢の人は頑なに不信仰のままか間違った信仰の故に滅びます。すべての人間がこの仮の世においてどのようなことをするかも定められているのです。

これで過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で述べたことがよく分かったでしょうか。人間の自由意志でこの世の生き方さえも決める権利は実際はないのです。私も今まで生きてきて、聖書と主イエスを深く知る前に考えていた進路はことごとく神によって封殺されてきて、今があり、このように主イエスの証しをしています。それは当時私が予期していなかったことです。私に能力が足りなかったということでもないです。世俗で尊ばれる道は私が歩むべき道ではなかったので、神が世俗に深入りする道を頓挫させられたのです。もし世俗世界で富や社会的地位を得るようなことがあれば、当然キリストに従順であることと両立はし得ずに神の国に入ることはできないからです。主イエスは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と仰っており、多くの過去記事で引用してきたとおりです。すべての人間は自分の将来がどうなるか、何歳まで生きるか等は確実には分かりません。ただ何となく「こうなるだろう」といった憶測か、「こうなりたい」と勝手な思いを抱くこと位しかできません。あなたがたはまだこのことが分からないのでしょうか。あなた自身が今後どうなるか、家族がどうなるかなんて正確に分からないでしょう。それは私たち人間に主権がないことの証明です。なぜなら、人間は主なる神によって造られた被造物だからです。だから、人間がこの世で最高の存在といった人間中心主義を捨てなさい。どう考えてもそれは間違いだからです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章7節(私訳)

神を畏れ、栄光を神に帰しなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上