こんにちは。

今回は『真の勝利と問われる勇気』と題して、勝利の意味、世に屈せず神に従い通す勇気についてお話していきます。

 

  誤った希望

 

かつて無いほどの世の悪化の只中にいて、一体、人々は今、何に期待を寄せ、何に希望を抱いているのだろうかと思うことがあります。知れば知るほどに、支配層が世の権威を動員して、大勢の人々を惑わしているのが明らかです。しかし、真実を知る者は少数です。政府の言うことが正しい(おかしい所が有るとの認識はあっても、政府が不法に満ちる程に腐敗して、売国や人口削減を進めているとまでは思っていない)と思う者が多数で、この構造が変わるのは厳しい情勢です。ごく少数の支配層に、奴隷として従わねば抹殺される超監視管理、超共産主義社会(新世界秩序)が構築されようとしているとSNS(X)で言及した所、そんな社会に対して「何の楽しみも無い」との返答が寄せられたことがありました。この言葉をよく考えると、かつてのように生活に汲々とせず、豊かで、自由であることを願っているようにも聞こえ、「昔は良かった」と懐古しているだけのように感じました。かつて、バブル景気と呼ばれる時期がありました。今から三十年ほど前です。異常な好景気となり、若者が高級車を乗り回したり、就職活動で企業に出向けば交通費がもらえ、庶民がこぞって投資に精を出したと、今では信じられないようなことがあったようです。まさに拝金主義、物質主義が極まったかのような様相は、常軌を逸していると感じざるを得ません。もし「その頃が良かった」と思うのなら、そんな生き方に疑問を持てずに熱狂している様は、コロナ犯罪を認識せず、世の喧伝に酔いしれているという意味では、大して変わらない構造だと思います。故に、懐古したとて、そこには欲に塗れた偽りの平和があるだけで、そこには希望はありません。

こちら(X )で、『気付いた人』という口座名の方が『この世のカラクリ〜世界の仕組み編〜』と題した動画を作成しておりました。内容は悪魔崇拝者の支配層による世の支配構造と実態について説明しており、ざっと見たところ、個人的には複雑な話を分かり易くまとめていると思いました。ただ、決定的な誤りもいくつか散見されました。隠されている(一部分はあからさまにされているが)真実が明らかにされているのは良いのですが、やはり世の事柄だけしか伝えていないことが問題です。支配層について、悪魔崇拝者であると言及しているのは良いことですが、それが何を指すのか、何故、支配層は悪魔を崇拝するのかを伝えなければ、戦い方を間違えることになります。Xで「悪魔崇拝」に関する投稿をすると比較的閲覧数が多いと個人的には感じます。しかし、ただ神秘的、超自然的と感じて、興味本位で見る方が多いだけのように見受けます。悪魔崇拝について、ミカエル氏の真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」に詳しく書いてあるのでぜひご覧いただきたいのですが、『悪魔崇拝とは、その名のとおり、聖書や主イエスの教えにことごとく反し、神に反抗する者である悪魔と悪魔的なもの(堕天使、獣、太陽神、悪霊、あらゆる偶像、その他)を崇拝すること(引用)』です。この悪魔とは、聖書に記された、かつての天使、高慢故に神に逆らい堕落した堕天使、この世を支配する権威を持つ者、偽りを用いて人を罪に誘惑し自らの滅びに道連れにする者、第二の死が確定した者です。悪魔が悪魔たる所以は、上記引用にあるように主イエスの教えに留まらないこと、反キリストであることにあります。善と悪の基準は神の聖なる律法によって示されており、悪魔と悪魔崇拝者がしないこと(出来ないこと)は律法遵守です。彼らにとっては律法違犯が標準です。

 

律法に適う生活様式、真の世界観である聖書真理は、総じてヘブライ文化と言え、その反対、それ以外は「異邦人の道(マタイによる福音書十章五節参照)」です。古代イスラエルの末裔がいる日本においても、殆どの人々が著しく異邦人の道に陥っております。悪魔崇拝者の支配層が、自分たち以外の大勢を奴隷にする暗黒社会を築こうとしている(それは彼らにとっての楽園、そして、人々にとっては地獄)ことは確かに大問題なのですが、それだけを知っても無意味です。なぜならば、律法違犯は唯一の真の神によって裁かれ、有罪判決を受ければ滅ぼされることになるからです。先の動画の大きな間違いの最たるものとして、聖書のことを「予言書」と言ったり「(支配層の)計画書」と書いておりますが完全に間違いです。

聖書は宗教ではないし、支配層の計画書でもない。既に申したとおり、支配層も最終的には悪魔(堕天使)と共に地獄行きになることを聖書は予告してるんやから、支配層に都合のええ計画書である訳がないやろ。こないなことを言うド無知の愚か者をたまに見かけるが、彼らの思慮の浅さもかなり酷い。その者どもは、嘘で他人を惑わした罪を負う上、迷惑極まりない。前にも言うたとおり、聖書(パウロの偽福音や偽教義を除く)は人が正しく生きて行くための指導書、歴史書、預言書、言葉であるイエス・キリストそのものである。この世を支配する悪人どもが聖書の教えを宗教扱いして、人々を聖書とキリストから遠ざけてることに気付け。聖書拒絶者こそが異常であることに気付け。

 

引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」

 

 

「目覚めよ」と人に言いながら、たとえ無自覚であっても、真理から目を背けさせるのであれば、それは非常に悪い行為です。意図せずに、結果としてそうであったとしても、真実に虚実を混ぜるのは悪質です。繰り返しますが、世の動き、真相だけ伝えても不十分です。巨悪の存在に気付いても、真の善悪の基準(律法、真理)を知らなければ、無知故に罪を犯し、知らなかったことで免罪とはなりません。そして、聖書の預言は必ず実現します。獣が支配する世界が起こるのは不可避です。事実、大勢がその事実を認めておらず、流れを変えるには至りません。悪を弾劾し、不服従を貫くことは確かに必要なことです。しかしながら、『彼らの計画を阻止しましょう(動画三十七分二十七秒)』が目的となっては不十分です。真の希望は、この悪諸共に腐敗したこの天地を滅ぼし、復活し、神の裁きに適い、無罪判決を受けて、永遠の命をいただき神と共に生きることです。そこでは、死も悲しみも労苦も無く(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)、この世とは根本的に異なる平安があります。そのために求められることは、神の律法、掟、戒めを守ることです。また、律法遵守を阻む肉の弱さ、誘惑等に打ち勝つことです。ただ神にのみ従うということです。それ故に、この世(悪)に従うか、神に従うか、どちらに服従するかの戦いの過程が人生であり、人生という競技の意味です。つまりは、唯一の真の神だけを礼拝するということです。正しい世への抵抗の仕方や勝利条件を知らずして、「目覚めた」ということは有り得ません。

散々真のキリスト者が伝道してきた内容を信じず、拒否したり莫迦にしたりしたのに、キリストがほんまに再臨しはったのを見て、「不信仰で好き放題してきた自分らは終わった…地獄行きだ…」と直感で理解し、悲しむものと思われる。不信仰であるとか、異教徒(パウロ教徒を含む)であって、聖書の真理に聞き従うんを拒否した報いが否応無しに与えられるだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

上記をご覧になって、どう思われるでしょうか。手前は上記の言葉がとても現実的に感じられました。まさにこのような状態が起こるのでしょう。この世の終わりの時には、ヨハネの黙示録十三章にある獣が支配する新世界秩序が構築されている時で、殆どの者が獣に屈していると思われ、その時には絶望しかないでしょう。ミカエル氏が、『獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。(引用:キリスト道』と言われている通り、世の真相に聡い人々がしているように、終末に急速に普及する悪しき制度や体制、物理的なマイクロチップや電子刺青を避けても、一方では、西洋かぶれや聖書真理を信じない異邦人の道に従うなら(現時点で世の殆どの人がそうである)獣の刻印を押されます。「目覚める」というのなら悪しき世の真実を知るだけではなく、聖書真理に関する知識(これこそが本物の知識)を持ち、神の律法、掟、戒めを守り主の裁きを待つという霊的備えをしてこそ、本当に目覚めたと言えます。

 

 

  勝利と勇気について

 

過去記事(正しく在れば、負い目は無い)でも勝利という概念に幾らか触れましたが、今回は少し異なった切り口で考察して参ります。

 

ヨハネによる福音書十六章三十三節(私訳)

我によってお前たちが安らぎを得るためにこれらをお前たちに話した。お前たちは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。我は世に勝利した。

 

ヨハネの手紙一 四章四節(私訳)

子たちよ、お前たちは神に属している。そして、お前たちは彼ら(偽預言者ら)に打ち勝った。なぜならお前達の内に居られる方は世に居る者よりも偉大だからである。

 

ヨハネの手紙一 五章四節から五節(私訳)

神から生まれた者は世に打ち勝つからである。これは世に打ち勝つ勝利、我らの信仰である。誰が世に打つ勝つか。主イエスが神の子であると信じる者を除いては無い。

 

上記は、主イエスと使徒ヨハネの言葉です。上記で共通して用いられている『νικάω(勝利)』の原語を見ていきます。言葉通り、また、比喩的な意味も含めて原義は「征服する」「服従させる(従順にする)」「抑える」の意味です。そもそも、勝利という言葉(概念)の前提として、複数間でどれが優位に立つのかということがあり、それを意味しているのだと思います。更に、「(困難を)克服する」「(習慣を)打ち破る」「勝つ(打ち負かす)」「(努力して)獲得する」といった具体的な意味が続きます。これらを踏まえて、罪を犯す肉の欲や世からの誘惑を克服し、異邦人の習慣(外来語や洋服等の西洋かぶれ、創造の秩序に基づかない世の「常識」等)を打ち破り、聖書真理、神の律法に基づいた信念や生活様式を獲得することが必要です。

『答えは、すべての意志を神に委ねるのか、サタンに委ねるのかの違いです。即ち、神とサタンのどちらにひれ伏すかという問題です。どちらにも委ねへん、「自分の心は自分のもんや」という人はサタンや悪霊に操られます。自分で気付かへんだけ、認めたくないと勝手に思い込んどるだけで、実際はそうなんです。そういう自我の強さは傲慢さに繋がり、神に敵対しとるからです。そう仕向けることでサタンはそういう人を滅ぼせるさかい。

真の聖書福音と預言「主イエスの受肉」)』

 

律法を守ることについての論争は長年され続けており、これこそ神とサタンとの戦いでもあり、神に属する人間と世に属する人間との戦いでもあります。主なる神は、御自身がお選びになった人間とそれ以外の人間を区別するために、神と神の民の間のしるしとして安息日をはじめとする律法をお与えになり、誰がまことの神か、創造主かを人間に示してくださいました。サタンは、神の律法を守ろうとする人間を憎み、サタンに仕えたり惑わされた人間を使って神の民を迫害したり、耳触りの良い虚偽の教えで騙して仲間に取り込もうとしたりします。これは一種の神による鍛錬でもあります。それらにも屈せずに神の律法を守り通す者が神の民となるのです。

真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」

 

結局、神とサタンの間で何が争われているかというのは、神の律法と人間の心なのです。天の父なる神は、主イエス・キリストを心から信じる神の民に聖霊をお与えになります。そして、神の民は神の力によってまず心から変えられて言動も良い方向に変えられ、神の律法を心に書き付けられて守り、最終的にキリストに近い品性へと造り変えられていきます。反対に、サタンも同じように、世に属する人間たちの心を支配するようになります。サタンに心を支配された人間は、神の律法を無視して罪を犯し続けて罪の奴隷になります。悪いことをしてもやめられず、その内に罪悪感を一切感じることが無くなり、悔い改めや回心ができなくなります。

真の聖書福音と預言「音楽の功罪」

律法違犯者、且つ、人々に律法違犯を唆して永遠の滅びに道連れにしようとする悪魔に対して、また、自分自身(自我)に対して打ち勝ち、罪を犯さないようになる(罪に打ち勝つようになる)ことが勝利であると分かるはずです。そして、勝利のためには、勝利を希求するだけではなく、一番は全身全霊で神を愛すること、その思いと行いに応じて神は力をお与えになるはずです。

 

ペトロの手紙二 二章十九節(参照)

彼らに自由を約束しているが、この者たち自身は堕落の奴隷である。人は、打ち負かされたものに同様に奴隷とされるからである。

 

上記の聖句箇所は、不義な者が、信仰に入って間もない者を惑わすことに言及している箇所です。人は打ち負かされたものに奴隷とされるとは、個人的に、最初は分かりにくい箇所だと思いました。しかし、実践していく中で徐々に分かってきました。例えば、安息日より仕事を優先すれば、自身は律法違犯を選び取った、神以外に従ったと言えます。同時に、改めなければ違犯の故に有罪となり、滅びが待ち受けます。奴隷とは、ある物事に心を奪われ、そのことのためにしか行動出来なくなる状態です。これほど不自由なことはありません。肉の欲に負ければ、そのためにしか行動出来なくなります。一方、世俗の用事を優先せず、自分の欲求を自制して、安息日を守れば、神の下に在ると言えます。神に従う者は、神への奉仕者(謹んで仕える者)です。神に従うことは、流されずに明確な意思や自発性を持たなければ決して出来得ません。神に従うことも悪魔に従うことも個人の選択の結果ですが、誘惑され、罪によって滅びの縄目に陥るなら罪の奴隷です。それに対して、神に従う人には罪からの解放(自由)があります。繰り返しますが、肉の欲に負けて罪の奴隷となるか、自分を捨て神の僕となるかで明暗を分けます。『δουλόω(奴隷とされる)』には、「僕とされる」の意味もあるからです。ちなみに、ここでの『ἡττάομαι(堕落)』は「最悪の状態となる」ことであり、まさに世俗に打ち負かされては何も良いことがありません。やがて永遠の滅びが待ち受けます。

 

ヤコブの手紙四章七節(私訳)

従って、お前たちは神に服従し、悪魔に抵抗しなさい。すると、お前たちから逃げるだろう。

 

ὑποτάσσω(服従する)』とは、「従属する」「従う(守る)」「影響を受ける」「支配下にある」などの意味があります。そもそも服従と聞いてどんな思いを抱くでしょうか。「自分の好きなようにしていたい」と自我優位に思う人も少なからずいるでしょう。しかし、世には神に従うか、それ以外かの二択しかありません。知らないということは恐ろしく、何も知らなければ好きなように生きて、神の目には堕落するだけです。

 

サタンは、創世記のアダムとエバを唆した場面において、また、主イエスを荒野で誘惑した時も選択を迫っております。律法に適うか、違犯するかは常に選択の問題です。神と富の両方に仕えることは出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)や完全であれ(マタイによる福音書五章二十四節参照)といった言葉からも、完全に律法に適わなければ、半端は違犯と看做されます。我らは、誰しもが、今この時も常に、この選択をしているのだと思います。この日常生活の只中においてです。それは日常の只中が常に戦いの場であり、戦いの連続であることを意味すると思います。

 

日常生活の只中で選択について、以下の話が参考になると思います。

ルカでは、「暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ」と書かれ、より具体的に戒めがなされてるのに大きな差異があると言える。暴飲暴食も酩酊もまったく体にも良くないし、人間が冷静で過ちを犯さへん状態であるためにも必要なことや。また、生活の煩いというのは、生活費という金銭の悩みであったり、家族や職場や友人等といった人間関係での悩みであったり、そういったこの世での生活に関する思い煩いを指す。あまりにもそういったことに悩まされたり、多大な労力や時間や費用を掛けさせられてると、心や時間の余裕が無くなり、落ち着いて聖書を読んだり、研究したり、伝道したりでけへんであろう。「そんな余裕が無い」っていう状態がまさしく生活の煩いを抱えてる状態と言え、それでは救われるのは難しいだろう。信仰が無い人程、そうなり易い。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

個人的にはこの話にとても共感を覚えます。まず、「暴飲暴食や酩酊」についてです。会社勤めをしていた時(仕事人間であった時)、心身にかかる負荷があまりにも大きかった故、手前は暴飲暴食を繰り返しておりました。結果、疲労のためだけではなく、過食や飲酒による体調不要も少なからずあったと思います。食べすぎ、飲み過ぎで不調を起こし、それで薬を服用するというどうしようもない状態でした。そもそも、そんな状態に薬など無意味で、最初から飲食を節制すれば良いだけです。栄養剤の類も巷には溢れておりますが、添加物満載で糖分等がやたらと多いものを「栄養剤」と称して摂取する方が異常です。体調不良、過労時に、宣伝広告に洗脳されるがまま飲用しておりましたが、これも同様に最初から就労も含めた生活環境を本気で整えて、余計なものに頼らないようにするべきです。却って体調が悪くなる懸念もありますが、対症療法的で、問題が起こる構造がある限り、何度でも問題が起き続けます。自分から不健康になるようにしておきながら、その不健康を紛らわし緩和させる行動を取るのは矛盾でしかありません。そして、心身の負荷は単に長時間労働によるものでもなく、良くない人間関係、過剰な業務割り当て、過密労働なども背景にあります。そのような負荷にさらされ続けると抑うつ状態に陥ったり、「やっていられない」との憂さからそれを代償するために暴飲暴食、買い物、賭博等にのめり込む場合があります。それは刹那的な代償行動です。厄介なのは自覚しながらもなかなか抜け出せないことです。『μέθη(酩酊)』には、必ずしも酒で酔うこと以外にも「(狂気に近い)興奮や陶酔」「中毒」の意味もあり、まさに依存症の類も当てはまると思われます。『κραιπάλη(暴飲暴食)』にも「(酒類等で)堕落させる」の意味があるので同様だと思います。これらは、単に自制しようと立ち向かうだけでは対処しきれないと思います。なぜなら大元の過剰な負荷の発生源が無くならない限り、苦しいことに変わりはないからです。悪い代償行動に向かわないように自制することは不可欠で大事です。それでも、『自制心の強さは、筋肉と同じように変化します。個人差があるだけでなく、同じ人でも状況によって強い場合と弱い場合があるのです。鍛え上げた二頭筋でも激しく使えば疲労するように、自制心も疲労します。(引用:「やってのける」ハイディ・グラント・ハルバーソン著)』とあるように自制心も使うほどに強められるようですが「疲労する」ともあります。『最近の研究では、買いものなどのちょっとした判断や、人にいい印象を与えようとするなど、日常的な些細な行動でも、多くのエネルギーが消費されていることがわかっています。(同引用)』からも、日常の様々なことでも精神力は消費されているようなので、張り詰め過ぎずにいられる、余計な負荷がかからない環境に移行するのが最善であると思います。『生活の煩い』についても同じことが言えます。

 

関連して、こちら(ヤフーニュース)にて、大学を卒業してから働き始めたばかりの新社会人である『TikTokerブリエルさんが、「原則9時~17時の労働で頭がおかしくなりそう」と涙ながらに訴える動画が世界的に話題になり、賛否を呼んでいます。』との記事があり、個人的には興味深く拝見しました。少し昔ならば「これくらいで何を言っているんだ。甘えるな。昔は…」という説教が飛んできそうです。今でも「まだましな方だ」と思う方が多いのではないかと思います。職業、労働時間、給与や生活水準、私事や余暇の確保など、どれを優先するかはそれぞれの考え方次第です。それを踏まえた上で、キリスト者は、キリスト者としての生活の目線で考える必要があります。前回記事(主イエスを模範とした終末時代の生き方)でも触れたように、主イエスは福音を宣べ伝えよ(マルコによる福音書十六章十五節等参照)と御命令されました。世俗の仕事に最大限励めとは言っておりません。主イエスは大工の仕事をされた後、福音伝道に全てを注がれました。但し、世俗の仕事をしてはならないということではありません。福音伝道のために、あくまで自分の才能と能力を磨き、活かし、福音伝道の働きをすることを求めておられるのです。記事の話について言えば、九時から十七時までの労働は普通の会社勤めとしては短い部類に入りますが、それでも十分に心身は疲労します。それから家に入って夕食を摂り、家事をすればあっという間に寝る時間となり、ましてや疲れていれば何もする気になれず、それに対して空しさを覚えるのは何もおかしなことではないと手前は今では思います。むしろ、それに空しさを感じるだけまともで、多くはそれが当たり前と思い、それに異議を唱える者に対して「なっていない」と叱責してしまうのだと思います。実際には、生活のこともあるので、世俗の仕事を全くしないでいられるのは稀だとは思います。それでも、世俗の仕事に拘束され過ぎないように、不必要に仕事を負わないようにするに越したことはありません。その上で、最低限、食べていかれるために必要な分だけ稼ぐというやり方を考えて、余裕を作るのが最善だと思います。ヤフーコメントに『やりたいこと、労働時間・日数、勤務地、給与水準など、残念ながら世の中の大半の仕事はトレードオフの関係にあると思うから、何かを取るなら何かを捨てなければならない。昔よりは労働環境の自由度は増してると思うし、自分のスタイルに合った仕事を探せば良いと思う。もし給与もそれなりに高くて自分の好きなスタイルで働きたいなら、自分の能力・価値とアウトプットを高める努力をするしかないと思う。』という意見があり、妥当な考えだと思いました。望む環境を手に入れるには、何かを手放し、最小の労働で稼ぐには、相応の就労技能が不可欠で、それを磨く努力も不可欠です。そして、福音伝道をやってみると分かるのですが、隙間時間でやるような「間に合わせ」では決してやれません。学び、聖書研究をして、記事等を作成するには、相応の労力が必要です。時間だけでなく気持ちの余裕も、向上心も自分の課題に向き合う精神力も必要です。仕事に心身の体力全てを奪われると何も出来なくなります。詰まる所、律法遵守のことも含めて、キリスト者としての生活環境(地域、住居、就労、家計、家族関係、その他の人間関係、適切な生活水準等)の整備が、今後のキリスト者としての在り様を大きく左右すると思います。人は環境に影響されます。だから、ここでも現実的にどうやっていけるかを理性を尽くして考えることが不可欠です。言わば、キリスト者として生活していくための生活設計、戦略です。繰り返しますが、世での暮らし向きの向上を追求せず、食べていかれるための就労環境を整え、出来る限りに余裕を作り、福音伝道に全力で当たることが不可欠です。『暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ』と書かれた箇所には、とても深い教訓が込められていると思います。

 

もう一点、『心が負荷を掛けられ過ぎひんように』について、エサウのことも教訓にするべく見ていきます。エサウは空腹のあまり、たった一度の食事のために長子の権利を明け渡してしまいました。

 

創世記二十五章二十九節から三十三節(参照)

ヤコブは汁物を煮ていた。そして、エサウが野からやって来て、彼はひどく疲れていた。エサウはヤコブに言った。「どうかその赤い汁物を食べさせてくれ。我はとても疲れ切っているから。」そのため彼の名はエドム(赤)と呼ばれた。そして、ヤコブは言った。「貴方の長子の権利を今日、我に売ってください。」エサウは言った。「見よ、我は死にそうだ。この長子の権利が私に何の益があるだろうか。」そして、ヤコブは言った。「今日、我に誓約してください。」すると、エサウはヤコブに誓約し、ヤコブへ長子の権利を売り渡した。

 

エサウが浅はかにも長子の権利を売り渡した時、エサウは酷く疲れておりました。『עָיֵף(ひどく疲れる)』は、「元気の無い」「活気の無い」「弱った」「喉が渇く」などの意味があります。誰だって疲れれば、余裕が無く、自制心も低下して、普段の落ち着いている時であればしない失敗をしてしまうことは、経験があるのではないかと思います。そして、『עֵשָׂו(エサウ)』の名前の原語には、創世記二十五章二十五節にあるように「毛むくじゃら」の意味もありますが、「大雑把」「無作法」といった意味もあります。もしかすると、エサウはただ単に疲れてしまったが故の一度きりの過ちというだけで無いのかもしれません。元々がそのような性質であったのならば、もしこのことが起きていなかったとしても、違う場面で同じような別の過ちが起きていた可能性があるのではないかと個人的には思いました。ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節では『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(私訳)』と書かれております。エサウのことを婚外性交(即ち、偶像崇拝)する者、冒涜する者(不信仰)とまで形容されていることから、エサウの無分別が最悪のものであることがわかります。「エサウは長子の権利を軽視した。(創世記二十五章三十四節参照)」の『בָּזָה(軽視する)』の原語には、「侮る」「軽蔑する」「拒絶する」「するに値しないと思う」の意味があります。現代の我らにとっては、福音を聞いて、存命中に神への忠実を神に示す機会があるにも拘らず、神の律法よりも世俗を優先することに例えられるかもしれないと思いました。確かに、葛藤を覚える場面があるのは事実です。それでも、熟慮して、現実場面に神の律法を適用して判断する分別が不可欠です。自戒を込めて、「大雑把」であっては、抜けが生じるのだと思います。同じく、自戒を込めて「一時が万事」ということもあります。『わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる。一つの小さな事柄の調子が他のすべての場合に現れる。(出典:デジタル大辞泉 小学館)』の意味ですが、エサウの話にも表れていると思います。

 

ダニエル書十一章三十一節から三十二節

そして、集団が立ち上がり、彼らは力の聖域を汚す。また、彼らは永続するものを排除し、ぞっとする忌まわしいものを置く。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」

契約に違反する者を甘言によって堕落させる。自分の神を知っている民は確固として行動する。(私訳)

 

真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」にて説明されている通り、かつて起き、またこれからも起こるであろう預言です。大艱難期には、世界統一宗教と世界統一政府が構築され、そこに獣であるローマ教皇が君臨します。律法を守ろうともしない違犯者は、まさしく神との契約に違反する者であり、「信じれば救われる」などの偽福音もまさしく甘言(相手の気持ちをさそうようにうまくいう言葉。「引用:スーパー大辞林」)です。神との契約は申命記に書かれている通りに従順を条件とし、従順には祝福を、不従順には罰が下ります。そして、『甘言(חֲלַקָּה)』の原語には、「滑らか」「調子のいい」「人に取り入るような」「ごますり」という意味もあります。まさしく甘言の意味である「相手の気持ちをさそうようにうまくいう言葉(引用:スーパー大辞林)」そのものです。誘うのは堕落させるためです。故に、福音の正しい知識を持つと共に、行いへの適用は厳格でなければ、容易に惑わされて世に屈してしまうと思います。

 

ところで、現在、戦争と憲法改悪の動きがひたひたと迫っております。言うまでもなく、日本が戦争に巻き込まれれば大勢の命が奪われます。万が一にも戦地に赴くようなことがあれば、「国を守るために」と政府等の煽動者や政府に惑わされた人々は、かつての戦中のように調子の良いことを言うと思われます。しかし、その時、人を殺める行為が合法化されたとしても、間違い無く律法違犯です。これらに加担しないことも大事ですが、一番はそのような悪い動きを未然に止めたり、そのために抗うことこそ大事です。いざ事が起きれば止めるのは至難だからです。憲法が改悪されれば、国に従わないことが悪と看做され、律法違犯を強いられるようになります。仕方がないでは済まされず、今この時こそ、この世全体の悪い動きに抗い、不服従を貫かねばなりません。こちら(NHK)の報道で『「台湾有事」などの際 先島諸島の住民の避難で県に協力要請』とありました。記事によると『沖縄県の先島諸島の住民の避難先として九州・山口での受け入れを計画」「万が一の場合に備え、沖縄県の離島から12万人を避難させる手順を検討しているが、次のステップとして避難先での受け入れについて検討を進める時期に来た』とかなり具体的に、九州の各県に打診している段階となっているのが不気味です。先島諸島は確かに台湾に近い位置ですが、本来であれば、日本は当事者として関係する訳でもなく、被害を受けるなど許されざることです。但し、自らが参戦すれば話は別で、やはり日本が戦争をする前提となっているのだと思われます。このことはかなり危険な戦争の兆候と思います。それにも拘らず、(個人的な印象ですが)報道があっさりしていて、このことを懸念する声があまり聞こえないと感じました。以下、兄弟から教えていただいた情報を基に記します。こちら(NHK)によると、日本は米国の要望に従って離島や艦艇から作戦を行う長射程ミサイル部隊を創設し、支那と戦うために米軍の新たな海兵隊である部隊海兵沿岸連隊(MLR)を沖縄本島、先島諸島などの離島等に配備する計画を立てております。これらは、ここ数年で台湾に近い石垣島や与那国島などに自衛隊施設が相次いで開設された動きとも符合すると思います。そして、沖縄の島々に部隊が配備されている以上、支那の攻撃の的になるのは間違い無く、そのため並行して避難の計画が進められていると考えられます。また、こちらの記事 (現代新書) で千九百五十八年の台湾海峡危機に関する極秘報告書には『米軍が策定していた台湾有事の作戦計画「OPLAN25‐58」では、中国沿岸部の航空基地や砲台を小型核兵器で破壊しても中国が台湾への攻撃を止めない場合、中国の戦争遂行能力そのものを無力化するために、戦略核兵器で上海などの大都市を攻撃する計画でした。(引用)』とあるとおり、過去には核兵器使用を想定していたことから、今もその選択肢が残されていると考えるのが自然です。ミカエル氏が『こちら(YouTube)のとおり、日本に対する敵意をむき出しにしており、台湾問題について介入したり何か支那の軍隊に対し、たとえ兵士一人、飛行機一機、船一隻を日本が投入するだけで、支那は応戦するだけでなく、日本に対して全面的な戦争を開始し、核爆弾を使用すると堂々と言うてる。これを許可してるユーチューブ運営も反日であることは明白やろ。(引用:「キリスト道 改憲問題」)』と言及しているように、日本が米軍の計画のための道連れどころか、真っ先に標的にされる危険が大いにあります。『日本の自民党政権は、アメリカと「一蓮托生」と言わんばかりに、自ら進んで「防壁」としての役割を果たそうとしています。しかし、万が一にもアメリカと中国が戦争する事態となれば、「戦場」となるのは日本なのです。「一蓮托生」は「死ぬも生きるも一緒」という意味ですが、戦争になったときに圧倒的に死ぬのは日本人なのです。(引用:現代新書』と、恐ろしくも、しかし、現実的に起こり得る事態です。

 

 

それだけでなく、こちら (nippon.com)によると日本は電機電子製品を支那と台湾に大きく依存しており、いざ戦争が始まればこれらの供給は途絶え、経済的な損失は大きく、更には、食料等についても自給率の低い日本は大打撃を受けるのは必至です。こちら(毎日新聞)の通り、『農林水産省の有識者検討会は6日、凶作や有事、輸入の途絶などの不測の事態が起きた際の対応策をまとめた。食料供給の減少が見込まれた段階で政府が対策本部を設置し、農家や商社などに食料の確保を要請、指示する。食料安全保障の強化が狙いで、2024年の通常国会に関連法案の提出を目指す。』との情報がありました。『有事、輸入の途絶』とは、戦争しか考えられず、台湾有事のことが前提にあると思われます。海上輸送の停止が起これば、食料の供給がままならず、これこそがその事態に当てはまります。さつまいもの転作に言及していることからも戦争が想起され、実際、X投稿でも戦争を懸念する投稿が多数見受けられました。参考までにこちら(X)やこちら(X)です。政府自ら、国内農業、畜産業を破壊しておきながら、また、自ら戦争の準備を進めながら、『不測の事態』とは白々しい限りです。『それぞれの段階で計画作成の指示に従わない場合は、罰則(罰金)を設ける』の言葉からも何が何でも国民を支配しようとする悪意をひしひしと感じます。更には、支那においては、十八歳以上なら男女問わず強制的に徴兵するとの戦争動員法が既に施行されており、国内にいる大勢の支那人が日本人に対して牙を剥くことも考えられます。前後して、日本国憲法が自民改憲案通りに改悪され、徴兵から戦争へと進むことを悪徳政府や官僚らは目論んでいると考えられます。

 

 

自民党の歴代首相が憲法改悪に言及しておりますが、こちら(読売新聞)に『11月3日「文化の日」に「明治の日」併記を、超党派議連が祝日法改正案を提出へ』との報道がありました。わざわざ「明治の日」と言うからには理由が有りそうです。明治は国家転覆(明治維新)によって出来上がった時代です。偽天皇が据えられ、偽日本人が政府中枢に居座るようになり、急速に日本らしさが失われた悪しき時の始まりであり、そのような明治という時代を記念する意義は無いと思います。また、大日本帝国憲法(明治憲法)では国民は臣民(君主に支配される民)とされ、憲法改悪を目論む者たちの悪意が「明治の日」にも表れていると思います。また、杉田水脈議員がこちら(X)のように、『人権の定義に法的根拠が無い』と滅茶苦茶なことを言っており、こちら(X)では大日本帝国憲法の『「法律の留保に基づく臣民の権利」と同様』との指摘がありました。この発言と「明治の日」の報道と、衆議院憲法審査会(参照:NHK)が同時期であることから、それぞれが意図してなされているのではないかと感じた次第です。彼らは一様に周到であり、それに対して国民は何と無知で無防備なことかと思わざるを得ません。いざ事が起きて、その時に振り返って、どこからおかしくなったか、どこからだったら止められたのかを考えたら、政府の暴走が起きて違憲行為が頻発した時期、特にここ数年が岐路であったと分かるはずです。mRNAワクチンを勧める政府や報道に惑わされているように、憲法改悪や徴兵にも従えば、その先は確実な戦死であり、また、生き延びたとしても戦争に加担して殺人を犯した事実は消えません。その時の尋常ならざる肉体的かつ精神的な消耗は、真っ当な思考力を奪うことでしょう。その時、ローマ教皇を頂点とする世界統一宗教が甘言を用いて、偶像崇拝へと誘うことでしょう。故に、今出来る憲法改悪阻止や戦争の準備の阻止に全力を傾けるべきです。

 

ダニエル書十一章三十三節(私訳)

民の知識を持っている者たちは大勢を指導するがその時、剣、炎、監禁、略奪によって倒される。

 

上記の『שָׂכַל(知識を持っている)』は、新共同訳では「目覚めた」となっております。同じ原語が使われている他の聖句箇所に「我は、我に教えるあらゆる人たちよりも知識がある。なぜなら、あなたの証言が我が祈りだからだ。(詩編百十九編九十九節:参照)」「賢い者たちは天空の輝きのように照らす。 そして、永遠に星のように多くの人を義に立ち返らせる。(ダニエル書十二章三節:参照)」「大勢が清められ、白くされ、精錬される。 しかし、悪人は悪事を行い、悪人は誰も悟らない。だが、よく考える者は悟る。(ダニエル書十二章十節:参照)」などがあります。共通しているのは賢さ(知識、知恵)や熟考などの意味があることです。ここでの賢さは、『「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節拙訳)と「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)と複数に渡って記述があるとおり、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従せん人が賢い訳がない。(引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』とある通りです。真理によって、真の善悪の基準を知ることが出来、たとえ世の権力者が甘言を用いても、その嘘を見破ることが出来ます。支配層が国家を操り、為そうとしていることがどれほど危険なのかを見据え、反対して、不服従を貫かねばなりません。

 

また、戦争のことだけでなく、こちら(メモ・独り言のblog)にあるように、豪州が現金を廃止し『社会参加に必要な「デジタル・パスポート」の携帯をすべての国民に義務付ける方向で動いています。』といった国民奴隷化の動きにも警戒が必要です。SNSの利用に際して、「デジタル・パスポート」の提出が強制されるとあり、支配層の公式発表(つまり、偽り)を暴くSNSに対しては、連合国(UN)や世界経済討論会(WEF)が苦々しく思っているのは、言論弾圧まがいの施策を言い出していることからも明らかで、いよいよ言論弾圧に向けて動き出したと考えられます。そして、『2024年に現金、小切手、電話による支払いを段階的に廃止し、デジタルのみの取引に移行する』とあることから、来年から再来年にかけて激変を迎えそうです。これはオーストラリアのみならず他国も追随すると思われます。

 

他にも、過去記事でも触れましたが、感染爆発に関する条約等に関する動きがあります。動きとは、例えばこちら(さてはてメモ帳)とこちら(さてはてメモ帳)です。記事のとおり、ニュージーランドとフィリピンは国際保健規則の改正に同意しないことを世界保健機関に伝えたとあり、このように毅然とした対応が出来ていることは非常に良いことで日本とは大違いです。ニュージーランドは、前首相が支配層の手先のような人物でワクチンを義務化した人物でしたが、首相が交代したことで方針が変わったようです。こちらの情報(X)では、ある医療機関でのワクチン接種者の死亡率が三割近くもあり、凄まじい状況が起きております。日本とは違い、さすがに国民も気付いたと思われます。新しいニュージーランド政府も『国内法がいかなる国際協定よりも優先されることを再確認する』と真っ当なことを言っております(但し、妄信は出来ないので要注意)。そして、前首相が急に退陣したのが昨年末ですが、深刻な事態が表面化する前に逃亡したのではないかと思えました。

 

 

こちら(BrainDead World)では、『イタリアで、ワクチン有害情報を隠蔽したとして、元保健大臣を「殺人容疑」でローマ検察庁が捜査を開始』との情報がありました。真っ当なことで、日本でもこうあるべきですが、今の司法の状況から厳しいと思います。また、イタリアの動きも、まだ捜査段階で逮捕、起訴した訳ではないので慎重に見ていく必要があります。ガス抜きで終わる可能性が無いとは言えないからです。それでも、出来る限り、感染爆発に関する条約の締結阻止のためにも、もっと多くの国々でこのような動きが起きるべきです。イタリアでは日本とは異なり、政府の悪に気付いている人々が多いそうですが、正しいことを言わずに黙っていては、悪に屈したも同然です。

 

先の憲法改悪に関する画像の中で、戦中の特高警察によって、政府に従わない者に対する拷問の絵があります。漫画「はだしのゲン」などにも同様の場面が記されており、これは過去に現実に起きたことです。政府が戦前回帰を目指している以上、起こり得ると危機感を持つべきです。『歴史は繰り返す。まさに、「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいことは何もあらへん。」(コヘレトの言葉一章九節拙訳)のとおりや。せやから、歴史や過去の教訓から学べと言うんや。(引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)』の通りです。この状況下で世に屈せずに居るには、非常に勇気が要ることだと思います。自分を捨て、神の義を信じ、神を愛さねば、聖霊の導きがなければ、到底為し得ないことです。勇気について、以下のような説明があります。

普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに(自分の信念を貫き)向かっていく積極的で強い心意気のこと。勇ましい強い心をいう。

(略)

さまざまな勇気

一概に「勇気」と言っても様々な種類がある。例えば、正義のための勇気なら「義勇」になる。ここでは様々な勇気を紹介する。

 

義勇(正義のための勇気)

知(智)勇(知恵と勇気)

沈勇(勇気があり、落ち着いている)

蛮勇(乱暴で、向こう見ずな勇気)

武勇(武術に優れており、勇ましい)

 

引用:ウィキペディア

今の日本の社会は、偽りを信じる多数派が殆どであり、その中で悪徳政府らの言うことを批判することや従わないでいることには、勇気が要るのかもしれません。しかし、間違ったことに従うのは恥です。まさに、今、問われており、これからも大艱難において、正しさを貫けるかが問われ続けます。引用にある蛮勇、武勇はその時には不要です。義勇、知勇、沈勇が必要です。特に、「正義」に対する定義を、聖書の言葉から確信を得て、体現することが大前提です。

 

歴代誌下 十五章七節から八節(私訳)

お前たちは勇敢であれ、手を緩めるな。それはお前たちの働きに報いがあるからである。

アサはこれらの言葉と預言者オデドの預言を聞いてから、勇気を出して、ユダヤとベニヤミンの全地から、エフライムの山から奪った町々から忌まわしいものを捨て、主の(神殿の)入口の前にある主の祭壇を修繕した。

 

上記は「勇気(חָזַק)」の言葉を用いた一箇所ですが、原語には「耐える」「立ち直る」「(苦痛に耐える)精神力」などの忍耐を含む意味から「雄々しく」「強固」「強い」などの勇ましさの意味、そして、「確立」「確固」といった確かさを表す意味もあります。これらは義勇、知勇、沈勇にも通じると思います。

 

 

  結び

 

昨今、「自己肯定感」という言葉が多用されていると思います。自信を喪失し、何が正しいか、自分はどうするべきかを見失っている人々が多いためではないかと想像します。そういった需要がある故、自己肯定感を強める手段に触れたネット上の記事やSNS投稿を頻繁に見かけるようになったと感じます。一例として、こちら(プレジデントオンライン)です。自分を見失わずに、神の視点を持って、事に臨むと置き換えるならば、信仰と似ていると思いました。記事にある枠組みを活かして、真のキリスト者の心構えを記してみました。

 

一、他人からの評価ではなく神からの評価

人からどう見られるか、人からどう評価されるかを意識して振る舞うと、善悪の基準(神の律法)から逸脱して道を踏み外しかねません。神は、自分に何を望んでおられるのかを一番に考え、神の目に適えば良いのだと弁え知るべきです。

 

二、自分に与えられた能力(才能)を最大限に活かす

前回記事でも触れたタラントンの教えの通り、神は、僕の能力に応じてタラントンをお預けになりました。他人と同じような働きが出来るかどうかではなく、自分のこれまでの経験や持っている技量を活かし、磨き、それを用いて、福音伝道をすることが全てです。

 

三、成功と失敗

神と富の両方に仕えることが出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)、悪い者が支配するこの世(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)であることを踏まえると、社会的地位や名誉や富は成功を意味しません。真の成功は、世に、罪に打ち勝ち、神から無罪判決を受ける(永遠の命を受ける)ことです。世に、罪に屈することが失敗であり、その過程は決して簡単なものではありません。何度失敗してもやり直して、最後には勝利出来るようになりましょう。「涙と共に種を蒔く者は、喜びの内に刈り取る事になる(詩編百二十六編五節参照)」の過程を経ることを忘れてはなりません。

 

四、不測の事態

今は、艱難期です。世の終わりに何が起こるかは主イエスが福音書にて教えておられ、ヨハネの黙示録でもこれから必ず起こることとして、既に我らに伝えております。故に、基本的に不測の事態は無いのだと思います。むしろ、聖書の言葉と展開する現実場面の一致をたくさん目撃することになるのだと思います。「知らなかった」「聞いてない」とならないように真の聖書福音の理解、聖書研究は弛まず続ける必要があります。そして、神に付く者はごく少数ではあるが、多数派を恐れず、勇気を持って真のキリスト者の真っ直ぐな道を貫きましょう。

 

これらから、自己肯定を高めようと自我に固執するのではなく、真理という文脈に則り、自分を捨て、神の御命令に適うように振る舞えば自ずと自分を見失うことがなく、世に屈することもなく、勝利者へと近付けるのだと思います。そこに自ずと勇気を帯びていることでしょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。