こんにちは。

世の中を見ていると、数多くの偽りによって成り立っているとつくづく感じます。聖書真理によって自分たちの存在の起源を知らず、唯物的な生き方をしたり、政府や学校の教科書など世の権威が言うことは正しいと信じたり、社会は「偉い人達」が上手く回してくれていると勘違いして他力本願であったり、聖書を知っていてもパウロの偽福音を疑わずにいるといったことです。「多少の間違いや偽りがあるのかもしれない」と少しは疑ったとしても、大筋は間違っていないだろうといった甘い考えが根強く在ります。少数の騙す側と大多数の騙される側が噛み合っているが故に、一見してまとまって、もっともらしい形を成しているかのように見えます。しかし、実際はそうでは無く、まさしく偽りの仮想世界のようです。何度考えても、この世はこのようにしか形容できないと感じます。

今、コロナ犯罪や憲法改悪の動き、悪徳政府の増税政策などによって国民への抑圧が続き、おかしいと気付き始めた者達が一定数おります。感染対策のために政府の権限強化が必要、他国の危機に対して改憲が必要、少子化対策のために増税が必要などと、世の支配者たちが作り出したものに過ぎない危機が、あたかも突然襲来したかのように演出しております。それに対して、政府が提示する「解決策」を実施すれば、国民にとっては最悪の社会体制が構築されます。ごく近い将来に大自然災害や戦争が引き起こされて、その大混乱の中で人々は激しく動揺して安定を求め、それらを解決、対処する方法として、新世界秩序が構築される可能性があります。演出された危機、それに伴う不安感は支配層によって都合良く活用されます。これは、企業に利益をもたらすような社会的・経済的変革を、災害を利用して一気に行ってしまう「惨事便乗型資本主義」とも呼ばれる「ショックドクトリン」そのものです(参照:あいのーと)。『真の変革は、危機状況によってのみ可能となる(引用:あいのーと)』とまで言われております。世の権威者の言うことが最初から嘘であると気付かなければ、「今より良い社会が出来る」と間違った願望を持って期待してしまうことでしょう。目先のことばかりに囚われている場合ではありません。政府等の言うことに従った所で何の平和も築かれません。超監視管理社会によって、ただ息を吸っているだけの自由のない世界が待ち構えるだけです。この不自由な世界によって本質的に何が失われるかを考えなければなりません。今でも十分に閉ざされている聖書真理を知り、学ぶ機会、信仰を行いで示す機会、真のキリスト者として成長するための時間等です。やがて福音伝道が禁止されたり、反キリスト行為を強要されるようになるでしょう。既にそのような兆候が見られます。偽りの常識により、聖書は現実と切り離された物語かのように扱われ、果てには都市伝説の類のように思っている者も少なからずいるかもしれません。しかし、聖書は真実且つ真理です。間も無く到来する大艱難期を記したヨハネの黙示録には、この後に必ず起こることを示す(四章一節参照)と書かれ、大災難が予告されております。今、支配層が演出する危機と支配層が示す解決策の先には何の希望もありません。ルカによる福音書二十一章二十五節から二十七節(前二節:兄弟共同検討訳、後一節:私訳)にはこのように記されております。『そして、太陽と月と星に徴があるだろう。また、地上では当惑で諸国の民の苦悩と、海と波のとどろきがあるだろう。人々は、世界に差し迫っている事の予想と恐怖のために卒倒する。各天の天軍が揺り動かされるだろうからだ。その時、人の子が権威と大いなる栄光を伴い、雲に乗って来るのを見るだろう。』と、世の終わりである主イエスの来臨の様相が示されております。支配層は今でも気象操作や人工地震によって自然をある程度には操作しますが、天体を揺り動かすほどの大きな現象に人類は為す術もなく、恐ろしさのあまり気を失う程であると書いております。支配層が演出できるのは社会情勢や操作できる範囲の自然までであって、この天と地の根本を揺るがす権威があるのは神だけです。この時になって神に帰ろうとしても時すでに遅しです。世に従って生き延びた所で全ては無意味であったことを悟るでしょう。全ては支配層に対してではなく、神に対して応えられたかどうかです。今、この時に神に対して正しく在ろうとしなければ、その時になっては負い目しか残りません。前置きが長くなりましたが、今回は『正しく在れば、負い目は無い』と題して、正しく在るために心を清めること、負い目を無くすべく自分の十字架を担って主イエスに従うことについてお話ししていきます。

 

 

先ず、心を清めることについて述べます。皆さんはミカエル氏の『律法の食物規定について』の記事はご覧になられたでしょうか。今回も非常に重要な内容であるため、ぜひお読みください。こちらの記事では律法の食物規定が更新されていることを伝えた内容ですが、冒頭の言葉からして、全キリスト者が踏まえるべき事項を述べております。

拙者は過去からずっと律法を守るようにと言い続けてきたが、それは主イエスを仲介者とする「新しい契約」の範囲内においてであり、古い契約に拘泥するのではない。過越祭の守り方の変更や(復活祭は、異教(カトリック等)の祭り)、石打ちの司法律法をやらずとも良い(この世で死刑にしないだけで罪を容認してるのではなく、悔い改めずに罪を犯し続けるなら地獄行きになる)等と主イエスがこの地に来はって以来、モーセの律法を全廃にすることはせえへんが、律法の守り方には一部変更があるんは揺るがぬ事実や。拙者は大分前からその事について言及してきた。それにも拘らず、世間には、この区別が全然出来ておらず、誤った解釈をしたり、聖書を曲解し、誤った事を頑なに信じたり、嘘を言い広めてる者が多い。もしモーセの律法をそのまま旧契約のとおりに守るべきと言う自称キリスト者が居るならイエス・キリストの教えに逆らっており、新しい契約を結んでへんと言え、その者はキリスト者ではない。偽使徒パウロの律法廃止論を信じて、モーセの律法を全部無視して守らへん者もキリスト者ではないし、十戒だけ守ればええと言うてる者どももキリスト者ではない。

 

引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」

新約聖書を読めば、律法に更新された箇所があるのは明らかです。また、律法自体が廃止されていないことも主イエスの言葉から明らかです。それにも拘らず、律法廃止論者が多く、挙げ句には「それでは、お前は割礼をしているのか」「罪を犯したから石打ちにしないのか」などと、見当違いな攻撃をしてくる者もおります。先ず、主イエスとの新しい契約により律法が心に記されるため、忘れようにも忘れられなくなり、全廃はあり得ません。しかし、モーセの律法と全く同じではなく、主イエスが一部を更新して変更があるのも事実です。この前提に立てない者が多いのが問題です。例えば、こちらの『サザエのお裾分け』という者は「律法を終わらせてくださいました」という偽りをこの投稿以外にも何度も吹聴しております。『千年王国』という偽りについても同様です。毎回、もっともらしく語りますが、惑わされてはなりません。主イエスの言葉に反したことを言っております。

 

画像引用:https://twitter.com/wancupmaster/status/1650322227827703808?s=20

 

そして、食物規定の更新について以下を引用させていただきます。

創世記九章三節に「動く物すべて食べ物になる」と書かれ、四節で血を除くと但書があるのみで、モーセの律法にある汚れた動物のことは一切触れられてへん。なぜなら、ノアの時代は未だイスラエル人という選民の概念が存在せず、異邦人と分け隔てる必要性も無かったからや。モーセの律法内のレビ記二十章二十四節〜二十五節にイスラエルの民とそれ以外の諸国民(異邦人)とを区別するから清い動物と汚れた動物とを区別せないかんと食物規定の理由及び趣旨が書かれてる。よって、食物規定はノアとの契約で存在せんかったことから、永遠不変の掟ではないし、神の民とそうでない世から出た人間との区別の象徴的な意味であることは明白である。使徒言行録十章の使徒ペトロが見た幻も汚れた動物が異邦人を意味してたこととも繋がる。

(略)

食物規定については、新契約ではイスラエル人と異邦人とを分け隔てる役目を終え、異邦人にも福音を伝える機会を与えるため、ノアの契約時に戻ったと言え、血を摂取するんを避ければ良いのである。その点は不変やからや。

 

引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」

自分でも改めて聖書の当該箇所を確認して、この内容は聖書において矛盾のない完全な解釈であると思います。そして、食べ物が人を汚すのではなく、内側から出るものが人を汚すこと、だから、内側を清める必要があると主イエスが言われたことも非常に重要です。

 

マルコによる福音書七章二十節から二十三節(引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」

更に、彼は言わはった。「人の中から出て来るもの、これが人を汚す。内側から、人間の心の中から悪い考えが出る。姦通、婚外性交、殺人、盗み、貪欲、悪意、欺き、淫らさ、嫉妬、中傷、高慢、愚かさ。これらすべて悪い事が内側から出て、人を汚す。」

 

題名にも記した『正しく』はハバクク書二章四節を参照に、「義」とも言え、「義」の原語には「適法(律法を守る)」の意味もあります。しかし、律法を形式的に守っても心が伴っていなかったならば無意味です。イザヤ書五十八章三節から七節にも心が伴っていない行いが神に顧みられないことが書かれております。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々に対して内側を綺麗にするように(マタイによる福音書二十三章二十六節参照)、外側は正しく見えても内側は偽善と不法で満ちている(マタイによる福音書二十三章二十八節参照)と言われたことにも繋がります。また、ヨハネによる福音書四章三十四節にも『イエスは彼らに言う。「我が食べ物とは我を遣わされた御方の御心を為し、その業を成し遂げることである。」(私訳)』とあり、信仰や神への忠実を食べ物とも言っていることから、やはり内面が重要なのだと分かります。イザヤ書二十九章十三節(私訳)この民はその口によって(我に)近付き、その唇によって我を賛美したがその心は我から離れていた。即ち、彼らの我への畏れは人の戒めを教えられたからだ。』と形式的で心が離れていることを主は嫌っております。そして、ミカエル氏のブログ記事でも常々、死後に持っていけるのは品性であり、これを磨いていかなくてはならない、『品性が霊である(引用:真の聖書福音と預言「復活とキリストの再臨への希望」)』と言われている通りです。また、マタイによる福音書十章二十八節「お前たちは肉体を殺しても魂を殺すことができない者たちを恐れるな。むしろ肉体と魂を地獄で滅ぼすことができる御方を恐れなさい。(私訳)」とあります。世の支配者は肉体の命を脅迫材料に恭順を求めますが、真に気にするべきは魂をも滅ぼすことができる神です。世の支配者に屈したところで、魂が保障されるわけではありません。むしろ、悪に屈し、品性が整わずに罪に塗れている者は、肉体も魂も滅ぼされることを理解しなければなりません。

 

これに関連してですが、ヨハネの黙示録二十二章十五章神の国に入られない者の該当条件の一つとして、『犬』が挙げられております。何かの比喩であるのは間違いありません。「犬」が何故、忌避されているのでしょうか。『κύων(犬)』の原語を見ると、基本的な意味では動物の「犬」ですが、比喩的に「心が汚い者」「厚かましい者」の意味もあります。「厚かましい」の言葉は、「行動や態度に慎みがない出典:デジタル大辞泉(小学館))」ことであり、被造物の分を弁えず神に従わない者とも言えます。このことは先に挙げたマルコによる福音書七章二十節から二十三節にも繋がります。また、同じ『κύων(犬)』の原語はペトロの手紙二 二章二十二節でも用いられており『犬は自分自身の嘔吐物の所に戻って来るものだ。また、身を綺麗にした豚は泥の中を転げ回るものだ。(私訳)』とあります。その前節にはペトロの手紙二 二章二十節(私訳)から二十一節(引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」)『主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れを逃れても、再びこれらに巻き込まれ打ち負かされるならば最後は最初より悪くなるからである。義の道を知った後で、彼らに伝えられた聖なる掟から後戻りするよりは義の道を知らんかった方が彼らにとって良かったやろに。』とあることから、「吐いた物」とは世の汚れを指すと思われます。そして、犬が「戻って来る」のは、また食べるためでしょう。こちら(dogoo.com)にあるように、吐いた物を食べるのは犬の性質のようです。ここでは汚れた行為(律法違犯)を再び行うようになり、その状態は以前よりも酷い状態となることを指していると思われます。律法違犯を行うのは、律法よりも肉なる思いを優先するからであり、マルコによる福音書七章二十節から二十三節にあるようなものが代表格だと思います。総じて、心が汚い者は救われないということだと思います。

 

次に、『律法主義』についても触れていきます。相変わらず、律法を守ろうとすることを「律法主義」と誤った理解をする者たちが多く、また、これほどまでに律法を束縛と捉えているのは、律法を嫌悪しているに等しく、もはや忌まわしい程です。レビ記二十章八節にあるように人を清くさせることが律法の目的であって、その法を与えたのは主なる神です(イザヤ書三十三章二十二節参照)。法の意味をもっと知るべきです。古代支那の統一を果たした「秦」を描いた漫画「キングダム」においては、『法とは願い。国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ(引用:「キングダム 第四十六巻」作者:原泰久、出版社 集英社)』と、このように法を表現しております。神が人に清くなって欲しいと願った経緯に対して、よくも「義」である「適法行為」を「律法主義」と呼んで貶したものだと非難せざるを得ません。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々を叱責した場面(マタイによる福音書二十三章等)をよく読めば、律法を守ることと人々に律法を守るように言うことについては認めておられ、内側が汚れている彼らの義よりも優れていなければ決して天国には行けないと言われたことが分かるはずです。それにも拘らず、世の諸教会が律法廃止論を教え広めたが為に、この内容が目に入らぬようです。前回記事「真っ直ぐな道を最期まで」で触れた「騙し絵」さながらに、一つの見え方が意識に上がると、もう一方の見え方(の意識)が消えてしまうようです。繰り返し強調したいのは、内側が清いこと、神の目に適う品性は重要だということです。真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」の中でも触れていた『房付き和服を着ただけで内面が清くなる訳やない』との話も個人的には身に染みます。世に抗い必死になる余りに、他の律法についても「〜しなければならない」と肩に力が入っていた場面があります。その時、心が伴っていたかを問うと、遵守自体が目的になっていた側面は否定できません。この度のミカエル氏の記事によって、自分の中の「律法主義」を見直す良い機会になりました。世においても、「形から入る」「形だけでもいいから」と言うことがあります。自分のこれまでの人生の中でも何度も聞いた言葉です。形だけでは内面が伴わず、嘘に繋がります。それが無意味であるにも拘らず、ただ体裁を取り繕うのは目的を見失っているとしか思えません。「形だけ」という世俗の習慣は無自覚に人の心の中に植え付けられているかもしれず、そう言った悪いパン種を自分の中から取り除いていかねばなりません。

もし、我が子が悪事を働いて、それについて謝罪したとして、口だけ、形だけだったならば、貴方はどう思うでしょうか。当然、心から改めて欲しいと思うのではないでしょうか。悪事を働こうとした心を改め、心が清くあって欲しいとは思わないでしょうか。また、もし、自分に害をなした相手が、形式的な謝罪をして、心の中で「謝れば自分はもう大丈夫だ」と思っていたら、赦し難いと怒りを覚えるのではないでしょうか。罪(律法違犯)を悔い改められないとは、このようなことを指すと思います。神の目にはこのように映っていると認識するべきではないでしょうか。かつて、ある事柄で手前が被害者側だった時、相手と話し合いの場が設けられました。手前は、怒りを感じつつも、相手の心からの謝罪で事を収めたいとも思っておりました。自分のためにも、相手のためにも形式的な謝罪では決して終わらすまいと思っておりました。それは単に怒りに駆られただけでなく、相手が何故そのような行動をしたのか、実際にその時に何が起きたかの真実を知りたかったからです。話し合いの場では「なぜそうしたのか」「その時どう思ったのか」とその時の場面を思い返してもらいながら、相手と状況を共有しました。相手は「後悔している」と言って、「これからは◯◯のようにしていきたい」とこれからの行動にまで言及してもらって、手前は初めて心から相手を赦すことができました。もしかすると、これは神に対する悔い改めと同じではないかと思いました。形だけで心が伴っていないのは相手を侮辱する行為です。神を本気で愛するならば、心を清めて、神に喜んでいただけるようにしようと、自ずと律法を遵守する姿勢へと至るのではないでしょうか。

 

 

ここからは「清める」について、反対概念の「堕落」の側から考察します。堕落とは日本語の意味としては『1 生活がくずれ、品行がいやしくなること。節操を失うこと。身をもちくずすこと。2 物事がその本来あるべき正しい姿や価値を失うこと。3 おちぶれること。零落。4 落ちること。墜落。出典:デジタル大辞泉(小学館))』等とあります。本来、神が造られたものは極めて良かった(創世記一章三十一節参照)のですが、アダムとエバが神の言いつけに背いたことで罪を犯し、『罪への弱さを持った人間の堕落した本性と肉体的な死(第一の死)(引用:真の聖書福音と預言「罪について」)が我等に受け継がれるようになりました。ただ、我等は生まれながらに罪人なのではなく、誘惑に負けて罪を犯した時に罪人になるということであり、罪を犯さないように悔い改める必要があるということです(参照:上記引用に同じ)。

罪を犯さない状態が堕落する前の状態であることを考えると、上記の堕落の意味の真逆は、神の民に相応しい性質であることを表していると思います。「堕落」の意味を逆にすれば、品性が整っていること、神の民として正しい姿をすること、天に宝を積むこと、神に属するといった言い方ができると思います。上記の同引用記事においてミカエル氏が『罪は行為の作為、不作為という選択の結果』と言っておりますが非常に的確な表現です。

 

ところで、ツイッター上でコロナワクチンについて「未必の故意」があると指摘する投稿がありました。未必の故意とは『犯罪事実の発生を積極的には意図しないが、自分の行為からそのような事実が発生するかもしれないと思いながら、あえて実行する場合の心理状態。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』を指すそうです。以下がそれらの投稿です。

 

 

ワクチンを勧めるワクチン信者たる医師は「副作用があったとしても、政府や医師会や学会が推奨しているのだから大丈夫なのだろう」と思い込んでいると思われます。死に至らしめる意図はありませんが、何かしら副作用が(程度の差はあれ)起きるかもしれないが、「感染拡大」や「重症化を防ぐ」のだから、やむを得ないとの思いが優るが故に、敢えて推奨していると思われます。犯罪による結果の発生は確実ではないものの、結果が発生しても構わないと容認している状態と捉えられます。このような未必の故意は意図的な犯罪であることと同等に評価されるようです。害を予期し得たのか、の観点は重要であると理解できました。

そして、これを神の律法・掟・戒めに当てはめた場合、「未必の故意」と同じような違犯を犯す心理が起こり得るので注意が必要と思いました。「薄々、これは神の律法に違犯しているのではないか、しかし、世俗事情からやむを得ない」と思いたくなるような誘惑は様々あり得ます。悪い結果を明確に意識せず、「仕方がない」との考えに傾斜すれば、違犯するのはあっという間です。特に、違犯を意図しなくても、誘惑に駆られたり、自分の不注意や無知に起因するような違犯は、未熟な内は特に起こりうると思います。聖書知識の未熟さ、分別の未熟さ、浅はかさなどは、「蟻の穴から堤も崩れる(ほんの僅かな不注意や油断から大事が起こることの意味)」の通りです。これらは自分自身の失敗を踏まえての教訓でもあります。

 

話を堕落に戻します。堕落の言葉は(類似する言葉も含めて)、聖書の至る所で遣われております。参考までに以下を挙げます。

 

創世記六章十一節(引用:真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 後編」

地もまた神の御前で堕落し、暴虐で満ちていたからや。

 

詩編百六編四十三節(私訳)

主は何度も彼らを救い出したが、彼らに対する忠告に彼らは従わず、彼らの違犯行為によって堕落した。 

 

ヘブライ人への手紙四章十一節(私訳)

それゆえ、同じ不服従の例に倣ってその者が落ちないように、我らは安息へ入るために努力しましょう。 

 

ヨハネの黙示録十九章二節(私訳)

その裁きは真実で正しいからである。彼女の婚外性交によって地を堕落させた大淫婦を裁き、彼女の手によるご自分の僕たちの血に復讐されたからである。 

 

堕落(שָׁחַת)』の原語には「腐敗」「逸脱」、他にも「崩壊させる」「台無しにさせる」の意味があります。堕落のもたらすものは腐敗であって、神にあって本来は良しとされたもの(創世記一章三十一節参照)が、やがて罪によって台無しになるとはその通りです。逸脱の言葉も象徴的で、本筋や決められた範囲から逸れるとは、律法違犯そのものです。イザヤ書四十七章十五節にも自分勝手に逸れていったと、悪しき様を表しておりますが、神に拠らず自分の考えに従った結果です。詩編百六編四十三節にも、主が何度も助け出そうとしたが反抗して、自分勝手に振る舞って罪の故に堕落したと書かれております。ヘブライ人への手紙四章十一節にあるように不従順によって堕落してもなりません。また、ヨハネの黙示録十九章二節にある大淫婦はローマ・カトリックです。太陽崇拝、太陽暦、クリスマスやイースターなど異教の教えを世の常識と言えるまでに浸透させ(偶像崇拝させ)、この世において神の秩序を著しく乱したという意味では地を堕落させたと言うに相応しいです。今や偽りが世のほとんどを占め、正しいものが認識されず、まさに細い道を見出だそうとしなければ認識できないほどです。

 

堕落に相当する悪い状態について、間近に起こる大艱難を記したヨハネの黙示録から挙げてみます。

 

ヨハネの黙示録二十一章八節、二十七節(私訳)

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、殺人者、婚外性交する者、魔術師、偶像崇拝者、全ての嘘つき、彼らの運命は火と硫黄の燃える池の中、それは第二の死である。

子羊の命の書に(名を)書かれた者を除いて、汚れた者、偶像崇拝を犯す者、嘘をつく者は誰でもそこへ(神の都)決して入れない。

 

上記にある臆病な者は、大艱難の中で迫害を恐れて、神の律法・掟・戒めを守るよりも身の保全を優先して、神への忠実を曲げることが考えられます。それは現段階において、迫害と言える状況が無くても、人目を恐れてキリスト者としての行動が出来ない事柄があれば真っ先に改めるべきです。平時でそうなのであれば、ましてやあからさまに迫害が始まる中で、神に忠実でいられましょうか。

不信仰な者は、聖書真理やキリストの教えを信じない者であり、残念ながら世の大多数を占めます。聖書真理に立てないようでは論外です。

忌まわしい者は、嫌悪感を抱かせる者であり、汚さや腐敗をも含む意味合いがあることから律法違犯をする者、特に平気でそれを行う者や唆す者等を指すのではないかと思います。

殺人者は、説明するまでもありませんが世の法においても、律法においても禁忌です。問題は先にも挙げたワクチンの未必の故意のように、明確に殺人であると当事者が意識していないようなことがあるのではないかと思います。例えば、親が子どもへワクチン接種させることはモレクに生け贄を献げるに等しく(レビ記十八章二十一節参照)、当の親はそれを認識できていないのではないでしょうか。このような無自覚な違犯は痛ましくもあり、恐ろしくもあります。

婚外性交者は、そのまま姦淫の罪ですが、主イエスが言われたように情欲を抱いて女を見る者は姦淫を犯す(マタイによる福音書五章二十八節参照)とあるため、相当に内側を整えなければ適法な品性となるのは困難です。また、花婿たる主イエスと花嫁たるキリスト者の関係から偶像崇拝の意味もあります。

魔術師とは、神の忌み嫌われる行為であることは言うまでもありませんが、ミカエル氏の『黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編』等の記事にあるように薬は魔術でもあるため新型コロナウイルスのワクチンもさることながら、薬による治療が、神に頼らない行為であり要注意です。特に安易に「医者にかかる」ことが常識とされる中にあっては無自覚にこの罪に陥っている方が多いと思われます。

 

偶像崇拝者について、神ならぬ者を拝む行為は御法度であり、説明の必要は無いほどです。日本においては、仏像等が寺院や家庭の仏壇など至る所に我が物顔で鎮座しており、悪霊を拝んでいることも知らず、敬虔とは裏腹の罪深い行為です。

嘘つきは、偽りであり、原語には「欺く」「人を惑わす」の意味があり人を滅びに導く不義の業であるのは言うまでもありません。「間違った」「不正」「誤った情報に基づく」といった意味もあることも重要だと思います。意図した嘘でなくても、不正確な情報によっても人を惑わしうるため慎重さが必要であることが窺えます。自分の話したつまらない言葉もすべて、裁きの日には責任を問われる(マタイによる福音書十二章三十六節参照)とあることにも符合すると思います。

汚れた者について、原語に「神聖さを汚す」「冒涜する」「邪悪」の意味があり、ここまでに挙げてきたような律法違犯は神の秩序を乱して、損ねる行為であり、「汚れた」に相応すると思います。

(ヨハネの黙示録二十一章二十七節にある忌まわしい者と嘘を言う者は重複するため省略します。)

 

ヨハネの黙示録二十二章十五節(私訳)

犬(のような者)、魔術師、婚外性交する者、偶像崇拝者、嘘を愛して嘘をつく者全ては外にいる。

 

こちらもここまで説明してきた内容に重複しております(詳細は省略します)。これらの者に対する報いが第二の死です。また、このような者たちは都に入られない、即ち、神の王国に入ることができないと言われております。ここで改めて強調しておきたいのが、偽福音である福音の三要素の主イエスを信じれば救われるは嘘だということです。主イエスを信じるだけで、悔い改めなければその中身は何も変わっておらず、上記にあるような第二の死に至る性質を帯びていることになり、そのような者が神と共に永遠に居させていただくには値しないと思います。

主イエスは姦通の女をモーセの律法の司法律法によってこの世で裁くことをせずに赦す代わりに罪を犯さないように諭されました。要するに、悔い改めの勧告です。(略)主イエスの御言葉は、神の律法に反する不法行為が有罪ではなくなったことを意味するのではなく、実際は主イエスの温情により地上で生きている間に悔い改める機会を与え、死刑執行を猶予されただけです。したがって、もし主イエスの御言葉に逆らって悔い改めず、懲りずに何度も神の律法に反する不法行為を繰り返して改めないならば、主イエスはその者の第一の死後に裁きの場で弁護されず、第二の死に引き渡されることで死刑執行をなされるでしょう。この地上で神による制裁を受けない、罰の報いをすぐに受けないことをいいことに調子に乗って罪を犯し続けて悔い改めを拒んでいれば、必ず死後に地上で生きていた時に溜め込んだ罪の報いをまとめて受けます。クレジットカードのように後払いであり、罪を犯した直後に罪の報酬を払うとは限りませんが、後で必ず罪の代償は支払うことになります。このように、司法律法の実際の効果は実質的には消えることはなく残り、主イエスの御言葉どおりに律法は一点一画も廃ることはないのです。このことは姦淫に限ったことではありません。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」

この説明は非常にわかりやすく、全ての聖書を読む者たちはこれを心得なければならないほどに重要な事項です。悔い改めなければ滅ぶとの主イエスの言葉の真意はここにあります。

 

 

今度は、「堕落に相当する悪い状態」として挙げた、「神の国に入られない者」の対極に位置する「勝利を得る者」について触れていきます。ヨハネに黙示録には「勝利を得る者は」から始まる文が以下のように幾つも出てきます。

 

勝利の結果の約束

勝利を得る者には、神の楽園の中にある命の木の実を食べさせる(ヨハネの黙示録二章七節参照)

勝利を得る者は、第二の死から決して害を受けない(ヨハネの黙示録二章十一節参照)

勝利を得る者には、隠されていたマナ、白い小石を与える(ヨハネの黙示録二章十七節参照)

勝利を得る者には、諸国民の上に立つ権威を授ける(ヨハネの黙示録二章二十六節参照)

勝利を得る者には、明けの明星を与える(ヨハネの黙示録二章二十八節参照)

勝利を得る者は、白い衣を着せられる(ヨハネの黙示録三章五節参照)

勝利を得る者を、我が神の神殿の柱にする(ヨハネの黙示録三章十二節参照)

勝利を得る者を、我は自分の座に共に座らせる(ヨハネの黙示録三章二十一節参照)

勝利を得る者は、我がその者の神になり、その者は我が子となる(ヨハネの黙示録二十一章七節参照)

 

命の栄冠に値する白い衣や永遠の命が与えられること、神の王国で神と共に過ごすことが記されております。まさに眩いばかりの栄冠です。

 

では、勝利とは何でしょうか。キリスト者が、反キリストの圧制、誘惑と迫害に対して、死に至るまで信仰をしっかりと保持すること(ヨハネの黙示録二章十節・二十五節から二十六節、三章十節から十一節、十四章十二節等参照)です。罪を犯す誘惑に駆られながらも、罪を犯さないこと、即ち、罪に打ち勝つことです。

 

ヨハネの手紙一 五章四節から五節(私訳)

神から生まれた者は世に打ち勝つからである。これは世に打ち勝つ勝利、我らの信仰である。 

誰が世に打つ勝つか。主イエスが神の子であると信じる者を除いては無い。 

 

ヨハネの黙示録十七章十四節(私訳)

彼らは子羊と戦い、子羊は彼らに打ち勝つだろう。子羊は主の主、王の王であり、子羊と共にいるのは招かれた者たち、選ばれた者たち、忠実な者たちだからである。

 

最期まで守り通すことが全てです。ところで、エゼキエル書二十八章にはサタンの堕落について言及があります。その中のエゼキエル書二十八章十六節『お前の多くの取引の故に、お前の中に不義が満ちた。(私訳)と書いてあります。何故「取り引き」なのでしょうか。何と取引したのでしょうか。『רְכֻלָּה(取り引き)』には「不正に取り引きする」の意味もあります。また、『取り引き』の日本語には「売買」の他に「 互いの利益のために双方の主張を取り入れ合って妥協すること。(引用:スーパー大辞林)」の意味もあります。更に「妥協」とは「対立していた者の一方が他方に,あるいは双方が譲ることで意見をまとめること。(引用:スーパー大辞林)」です。何に対して妥協したか、それは自分自身(ここではサタンの)の自我ではないか思います。最高位の者になろう(イザヤ書十四章十四節参照)、高慢になった(エゼキエル書二十八章十七節参照)の言葉がそれに当たると思います。自我を優先すれば神の掟は守り得ません。主イエスが、御自分に付いて来たい者は自分を捨てて、自分の十字架を背負って従いなさい(マタイによる福音書十六章二十四節参照)と言われたことの意味がここからもよくわかります。

 

勝利のために何をすれば良いか、当然のことですが内側を整えて、且つ神の律法・掟・戒めを守ることです。その上で、耳ある者は霊が諸教会に告げることを聞くが良い(ヨハネの黙示録二章七節・十一節、十七節・二十九節、三章六節・十三節・二十二節参照)と七つの教会に対して言われた言葉の一つ一つにも留意するべきです。特にラオディキヤの教会の状態が、現代のキリスト者の姿であるため、こちら(真の聖書福音と預言「生温い信仰への警告」)を参考にして悔い改めることを勧めます。

 

備えなければなりません。神の掟を守り、主イエスの信仰を死まで持ち続ける忍耐(ヨハネの黙示録十四章十二節参照)が求められるからです。ヨハネの黙示録六章九節にも神の言葉とその者たちが保った証しの故に殺された魂について言及されており、かつての預言者のように殺される者もおります。命を惜しまずに、その時に正しい選択が必要です。

大艱難が始まった時、主イエスは罪を赦す働きを一切やめられます。その時、全人類はキリストの再臨まで、主イエス・キリストという仲介者なしに生きる必要があります。だから、クリスチャンは主イエスが罪を赦す働きをなさっている今のうちに神の律法、掟、戒めと主イエスの御言葉から学んで品性を磨いて、キリストに限りなく近い品性を持った完全な者となれなければ、ふるい落とされて不信仰の者や異教徒らと同じように獣の刻印を受けます。

 

引用:真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」

前回記事でも触れたことですが取り返しがつかない時期に突入するのが大艱難です。また、これまでに述べたように目先の小さな妥協が堕落に繋がります。故に、(日々の過ごし方の)細部には拘るべきだと思います。「このくらいは大丈夫かな」と高を括ることが命取りになります。個人的な話ですが、「粗くても良いから、まず仕上げる」という大雑把さが習慣になっていた思います。特定の高い水準や緻密さを要求される場面があれば相応に対応してきたつもりですが、基本姿勢がそのようだと他にも伝播していきます。よく「練習ですら出来ないのであれば、本番ではましてや出来ない」と言ったりします。そういう意味では、今は残り少ない練習できる期間にも例えられると思います。そうなのであれば、今は必死に失敗を分析して、確実に改善(悔い改める)ことです。

手前の恥ずかしい話ですが、手前は真のキリスト者として生きる前、狭い世界でまずまず評価されて、自己満足してきたに過ぎませんでした。真のキリスト者としての始まりは、過大評価していた自己認識を砕き、等身大の自分を見つめ直し、且つ、真のキリスト者が非常に高い水準が求められていることを認識することからでした。「井の中の蛙」の言葉は知っており、何度か実際に経験する機会もありましたが、キリスト者としても改めて経験することとなりました。不出来な自分が神の民に相応しく在るためにはどうすれば良いかを考えて、積み上げなければなりません。

これは「勉強」という分野だけに限った話ではありません。努力して何かを成し遂げる人は、往々にして「目が良い人」だと感じます。

 

僕が偏差値35だったときは、問題を間違えても、普通に「間違えちゃったなー」「気をつけなきゃ!」としか思いませんでした。しかし東大生は、そんな風に自分のミスをふわっとさせたままで終わらせることは絶対にありません。

 

「なんでここで間違えたんだろう?」と深く考えて、「これはきっと、この知識がなかったから解けなかったのだろう」「この問題形式に慣れてなかったからこういうミスをしてしまったんだろうな」などと、自分のミスを次に活かせるように分析しています。「間違いを分析する目」を普段から養う訓練をしていて、そのスキルが身についているということです。

 

引用:東洋経済オンライン

手前も引用文の通りで、『間違えちゃった、気をつけなければ』の気持ち、意気込みで終わっておりました。断言できますが、この緩い対応では絶対に改善はできません。「何故、ここで間違えたのか」を分析して「知らなかった」からなのか、「間違えた時の作業環境に問題があった」からなのか、「間違えた時の精神状態は落ち着いていたか」、「間違える要素がどこにあったのか」など、行動を分析するように細かく見ていかないと、改善という行動に反映のしようがありません。確かに、大雑把、細やかなど元々の性質の違いはあります。しかし、「自分は大雑把な性質だから」で終わらせたら、細部に拘る能力を磨かないままで終わってしまいます。上記の引用にも書いてありますが、勉強に限った話ではなく、仕事にも信仰にも応用が効くことだと思います。「間違いを分析する目」を持つことがキリスト者としても緻密に生きることに繋がると思います。

 

ところで、罪への誘惑がある時というのはどんな時でしょうか。人によって様々だと思います。手前個人の振り返りですが、欲求が昂った時、他人からの要求(社会的都合)があった時、これらに不注意さが相まった時が特に危険だと思っております。

例えば、食欲や性欲などは人間である以上は避けられないものがあります。個人的には大食の習慣がありました。これも自制しないときりがなく、大食の状態に慣れてきて、更に食を欲すという、まさに貪欲に陥ります。食欲を自制できていないと自分の心の規律を司る働きが著しく弱まるのを感じるため、食欲の自制は手前にはとても大きな事項です。今や食糧危機が演出されており、実際に食糧が手に入らない事態がそう遠くない内にやってくる可能性があります。究極的に、獣の刻印がなければ売買ができなくなった時に、食糧のために屈するのかということが問われます。エサウは空腹のあまり、たった一度の食事のために長子の権利を明け渡してしまいました。声を上げて泣いても覆りませんでした(創世記二十七章三十八節)。『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節:私訳)』と書かれており、決して取り返せない深刻さがあります。このようであってはならず、教訓にしなければなりません。また、性欲も当然に自制が必要です。数十年も前から、世の中には恋愛重視の風潮や付き合った恋人や性交渉の数を誇るような風潮が満ちておりました。コンビニに行けば、子どもも利用するにもかかわらず成人向け雑誌が平然と陳列され、まさに「3S作戦」そのままに性的放縦を推進して堕落しているのが世の実態です。ツイッター上でも性欲の自制についての苦悩を口にするキリスト信仰を持つ者の投稿を時々見かけます。かつて、上杉鷹山という人物は公娼を廃止しました。廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったそうですが鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」と主張し、実際に廃止しても何の不都合も生じなかったという逸話が残っております(参照:ウィキペディア)。自制が出来ないなどということは無く、誘惑の多い媒体の存在など、普段の生活環境(特に目にするもの)の影響が多いのだと思います。罪を犯さないためにも生活上の配慮を真剣になって図れば、多くの誘惑を排除できるはずです。

他人からの要求(社会的都合)について、最たるは人の目です。わかりやすいのは仕事などの理由で安息日を完全に守られないなどです。昨今は第一日目(日曜日)は休みであっても第七日目(土曜日)が休みではない勤務形態が多いです。交代勤務だったりすると、要求にも限りがあることでしょう。手前もかつては不定期に割り当てられる第七日目(土曜日)の業務への対処(休みの確保)には難儀しました。上司に話しても「信仰のことはわかったが、仕事なのだからやってくれ」と言われ、安息日の重要性がわからない不信仰者の理解ではらちがあきませんでした。人付き合いも不信仰の時のようにはできません。いわゆる週末は何かしら出かけたり、飲食を共にする催しが多いのも事実です。また、葬儀の場は信仰が試される場面です。信仰を理由に言うべきは言い、やってはならない行為(拝む等)は断るべきです。身近な親族だから言いにくいということもあるかもしれません。個人的にも勇気が要りましたが、引いてはならない場面です。

不注意について、言葉の通りに「うっかり」がもたらす失敗です。いろんな内容があり得ますが、例として「嘘」を挙げます。相手のためという名目で「優しい嘘」(参照:ハッピーライフ)をつくことが手前はありました。相手のためと言いながら、要は自分が本当のことを伝えるのを怖がったり、面倒なことになるのを避けたいだけだったりします。これも習慣化すると、嘘を言っている自覚が曖昧になるので危険です。言った後で、嘘に気づき、「何でこんなことをしたのか...」と思うことは何度かありました。律法の規定の字面を覚えるのも大事ですが、実際の場面と整合させる感覚をきちんと身に付けないと、違犯を犯したり、不足が生じたりします。うっかりの類の不注意が出てしまうのは、心の緩さだけでなく、根本的な性質が改まっていないために、図らずも表出するのが「不注意」なのだと思います。だから、性質が改まらないとその場の努力や対処だけではどうにもならないのだと感じております。

 

ある時、記憶に埋もれていた過去の罪を思い出しました。具体的内容の言及は避けますが、過去の出来事を急に思い出し、胸が苦しくなりました。この苦しさを取り除いていただきたいと思いました。しかし、本当にそれで良いのだろうかと思い至りました。自分が楽になりたいから罪の赦しを乞うのは、本来ではありません。卑怯にも思えました。苦しいですが、罪を犯したその状況に真っ直ぐに向き合うのが本来なのだと思いました。その時、紛れもなく、自分も違犯行為の故に死刑囚に相当する立場なのだと心から認識できました。頭の中の理解だけではなく、心の底からです。死刑囚たる自分が神に罪の赦しを乞うことすら、おこがましいのではないかとすら思いました。仮にも、ただ赦されて、それで良いのだろうかと思いました。ここに悔い改めの真髄があります。自らの生き方を改めて、自分の残りの生涯を神に献げるべく、神の御心を為すことで応えたいと心からそう思えました。そして、『過去を忘れるのではなく、囚われる(引きずる)のでもなく、教訓として持って学んだなら、最終的な勝利に近づくことができます。(引用:真の聖書福音と預言「人生の過去と主イエスに従う覚悟」)』という姿勢が大事です。こちらの記事は過去や罪にどう向き合うかについて非常に大事なことを教えてくださり、こちらもまた必読の内容ですのでぜひご覧になってください。

 

マタイによる福音書十章三十八節(引用:真の聖書福音と預言 【第四回】正しい聖書の底本とは

自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。

 

これまでに無く、強烈にこの言葉が迫ってきたように感じました。(この箇所に限らず、個別に深く認識できる機会がしばしば与えられ、とても不思議に思います。)自分が罪人であることを弁えると、とてもではないが自我を主張する気にはなれず、ただただ主に対して「然り」の気持ちが湧き、自分を消す(捨てる)ことが今までよりも、より深く理解できました。ところで、『十字架(σταυρὸν)』の原語の定義には、「死刑としての十字架」、その道具としての「棒や杭」、「キリストの贖い」の意味があります。また、改めて調べて「自己否定」「克己」「自己犠牲」の意味も確認できました。まさしく、真の聖書福音と預言「自我との戦い」で言われていることそのものです。その記事の中で言われている『自我というものを十字架につけ、自分というものを無くし、ひたすら主イエス・キリストの御心のために生きる』『自分を無にし、神の力が十分に働くことのできる環境を自分の中で整えなければなりません。自分を0にし、神を100にし、神の力が100%働くような状態を目指し』の言葉の意味がとてもよく理解できました。「せめて残りの生涯を主がお命じになられたように歩かせてください」と一言祈りました。何故急に思い出したのか、おそらくはその事柄を十分に教訓にできておらず、自分の中でくすぶっていたのかもしれません。過去のことは取り返すことはできません。しかし、『兄弟たち、過去に何があったとしても、それを負い目に感じたり、罪悪感に苛まれることのないように。繰り返し申しておきますが、これは綺麗さっぱり過去を忘れることを意味しません。「失敗は成功の元」とも言うように、過去は、勝利への過程だった、主イエスを知るきっかけだったと考え、過去の罪は教訓として忘れずに持っておきなさい。そして、それを繰り返さないと常に念頭に置き、日々生活してください。口先だけでなく、行いで示すのです。(引用:真の聖書福音と預言「人生の過去と主イエスに従う覚悟」』と受け止めて、行動するべきでしょう。主イエスは悔い改めなさいと言われました。だから、自分としてはこれまで生きてきた時間よりも、もっと短い残りの(人生)時間の中で悔い改めを体現するまでだと思います。

世に属する人間もまた神に従い得ないのです。彼らは火の池に入れられて滅びたくないという理由から無理をしてでも神に従おうとして神の律法を守ろうと試みるのですが、必ずどこかでつまずきます。そうこうするうちに、神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり、従うのをやめます。そして、これではいけないとまた無理に従おうとしてもまた同じことの繰り返しで失敗します。彼らが神の律法に従うのが完全に無理だと悟った時、神の律法を変更したカトリック、神の律法を廃止されたことにするプロテスタントという二大背教勢力のいずれかに大多数が加わり、似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚するのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」

上記をとても重要な戒めとして受け止めております。自分を捨てられなければ手前もこのようになります。過去の罪を思い出した話を挙げましたが、『このために我はお前に言う。この女の罪が多く赦されたので多くを愛したが、赦されるのが僅かな者については愛するのが僅かである。(ルカによる福音書七章四十七節:私訳)』の言葉が思い起こされます。主イエスが成して下さったことを思うと、主イエスに従わず、倣わずにはいられようかとの思いが湧いてきます。また、上記の『似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚する』は恐ろしさを感じる結末です。こうやって生温い者が集まって安心しようとする、安心できてしまうとは何たる堕落でしょうか。ヨハネの黙示録十一章十節に、終末に現れる二人の証人が神の証をして、地上の人々を苦しめたが故に、死んだ時には彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りする(参照)とあります。世に属して、獣の刻印を押されても尚、世を謳歌する汚れた人々にとって、神の義は実に居心地が悪く、神の義からかけ離れているが故に苦痛に感じるのだと思います。カトリックもプロテスタントも偽福音でしかありませんが、両信者は大元に疑問を呈することなく、律法遵守するようにとの指摘には激しく反発します。以下の図はそのことを上手く言い表していると思います。

 

画像引用:https://twitter.com/yosshiy_aki6/status/1653740074822176769?s=20

 

思えばコロナ犯罪においてもそうであったと思います。自分たちが信じている嘘・偽りに浸って、その中で「正しく」歩んでいるつもりのコロナ教信者たちに、「それが事実では無い」と言った時の反発した者たちの反応に似ております。不信仰者であっても、にわかキリスト者として歩んだ者も、神の義を突きつけられるのは疎ましさを超えて、まさに剣で貫かれるように、事実、御言葉の剣で貫かれて、非常に苦痛を感じるのだと思います。だからこそ、悔い改めて、正しく在るべきで、これ以上の負い目を生じさせるべきではありません。ヨハネの黙示録三章一節に、生きているとは名ばかりで、死んでいる(参照)と書かれた箇所があります。後の四節に衣を汚さなかったとあるので、おそらく正しい行い、整った品性を纏ったとは言えない、第二の死に相当する状態にあるキリスト者を指すのだと思います。しばしば『○○が出来なければ(なれなければ)、自分は死んだも同然だ』という言い方をすることがあります。全てに優って実現しておきたい事柄がありも、もしそれが叶わなければ、もはや生きたとは言えないとは、信仰もその通りだと思います。実際、神の要求水準に達しなければ、まさしく死んだ状態と同じです。手前も、もしこの生涯において、機会が与えられながら、神の要求に応えられなかったら死んだも同然と思います。比喩でもあり、実際のことでもあります。それは決して、救われたい、第二の死を恐れるということばかりではなく、汚れた状態に留まることが不快で堪らず、嫌悪すら感じ、心から欲する生き方や状態は神の求める高潔さに合致するという感覚があります。(口先だけだったら意味はありませんが)その到達像を思い描いた時に、『神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり』という状態は起こり得ないと思います。

 

ペトロの手紙一 一章十五節から十六節(私訳)

お前たちを召して下さった聖なる御方のように、お前たちも全ての行いにおいて高潔であれ。「お前たちは高潔であれ。我が聖なる者だからである。」と書かれているからである。

 

この使徒ペトロの言葉に尽きると思います。また、神に認めて頂けるように励みなさい(ペトロの手紙二 三章十四節参照)、御子の内にいつも留まれば御子が来られる時に御前で恥じ入るようなことが無い(ヨハネの手紙一 二章二十八節参照)、御子に望みをかけている者は皆、御子が清いように、自分自身を清める(ヨハネの手紙一 三章二節から三節参照)の言葉の一つ一つが、全て一致して同じことを言っていると思います。

 

正しく在れば、正しく悔い改めることができ、負い目は無くなると思います。負い目があるから、義に対して歪んだ恐れや不快感や怒りが生じるのだと思います。正しく在らねばならないのはその通りなのですが、その背景にある神のお招きへの感謝、死んだも同然の自分に救いの機会を与えてくれた神への感謝を前提にするべきです。肉なる自分を放棄して、新しく生まれ変わり、神のお招きに応えて参りましょう。このことが人の生涯の全てです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。