こんにちは。

今回は「真っ直ぐな道を最期まで」と題して、聖書真理によって全ての物事の捉え方が一変することや聖書真理によって首尾一貫した感覚を持って神の真っ直ぐな道を歩き、神に栄光を帰すことについてお伝えしていきます。

 

このブログは、どこかにいる失われた羊が聖書真理に出会い、聖書真理に確信を持ち、羊飼いである主イエスの声(言葉)に聞き従えるようになることを目的としております。この記事をお読みになった方は、そもそもどんな方がキリスト信仰を持つに至っているとお感じになるでしょうか。もし、何か特別な肩書きがあるとか、特別な知識があるとか、信仰のある身内がいるから等と思っているとしたらそれは大きな勘違いです。信仰を持つのに何ら社会的な条件は必要ありません。貴方が聖書をご自分で読んで、これが真理だと信じられることが全てです。読みもせず、誰かが言っているから大丈夫と考えるようでは真に信仰を持つことは出来ません。仏教の檀家のように家単位ということは決してあり得ず、また、趣味のように誰かに合わせて信仰を持つといった性質のものでもありません。こちら(真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)にあるように信仰は神からのお招きによって始まります。昨今、こちら(ウィキペディア)やこちら(NHK WEB)のように統一教会やエホバの証人などの宗教二世の問題が注目されております。そもそも親子や兄弟と言えども人格が異なるのですから、思想や信条が異なるのは当然で、強いた所で何も良いことがありません。ちなみに手前は自分の系譜を数代遡ってもキリスト信仰は手前だけです。統一教会やエホバの証人は真理に属さず、社会常識からも逸脱する考えと行いを強要するのですから、いわゆる宗教二世の方々が何かしら精神的に支障を来たしたとしてもおかしくありません。いずれにせよ、信仰は強要出来る筋合いのことではありません。その人の自発性が全てです。神の言葉に立ち、世の流れに抗ってでもキリストの教えに留まりたいと思えるのが信仰です。神への愛を説くのがキリスト信仰であり、愛は強いるものではなく自発です。実際、信仰に入った所で躓く者が多く、招かれても選ばれる者が少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)ことや主イエスも十二使徒以外が主イエスについて行くことが出来ずに離れ去った出来事(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)が聖書に記されております。それ故、従い通せるのが真の信仰と言えます。この信仰に至るには神を愛し通し、それを阻害する自己愛(神以上に大事にしようとするもの全て)を捨てることが避けられません(マタイによる福音書十六章二十四節参照)。この信仰心は人の手で作り出すことは出来ません。誰かに分けることも出来ません。信じるという意思を個人が持つ以前に、神が招いてくださったが故に、信じようとする下地が出来て神の愛に報いようとすること、聖霊の導きなどの要素によって成るからです。

 

冒頭に挙げた「失われた羊」について、羊とは神に招かれて選ばれたキリスト者です。ヨハネによる福音書八章三十一節・十章二十七節にあるように主イエスの言葉に留まり、聞き従うキリスト者です。神を愛して神の律法・掟・戒めを守るキリスト者が真の羊です。失われたとは、本来は羊飼い(主イエス)に所有(属す)されているにもかかわらず、現段階においては主イエスを知らず、繋がらず、俗世を彷徨っている未信仰の状態の者と言えます。現実としては、今は主イエスを知らなくても、救いにあずかるように神によって選ばれている状態です。主イエスは失われた羊の所に行くようにと言われ(マタイによる福音書十章六節参照)、主イエス御自身も失われた羊の所に遣わされた(マタイによる福音書同十五章二十四節参照)と明言されております。これまで挙げてきた聖句からも救われるのは少数と分かります。また、救いの対象が血統イスラエル人だけでなく異邦人にも及びましたが、狭き門であることには変わりありません(参照:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)。誰が失われた羊であるかは人には分かりません。『朝にお前の種を蒔け、晩にもお前の手を止めるな。お前は成長するのがこれか、あれか、あるいはこれら両方が同じように良いのか(結実するか)を知らないからである。(コヘレトの言葉十一章六節:私訳)』の言葉は作物のことだけでなく、福音伝道にも応用出来ると思います。だからキリスト者は主イエスが命じたように手を止めずに福音を伝えるまでです。大勢の人々に真理を伝えて行く中で、その中に紛れている失われた羊に届き、『その時にはお前たちは羊のように彷徨う者たちであった。しかし、お前たちの羊飼いと魂の監督者の所へ戻ってきた。(ペトロの手紙一 二章二十五節:私訳)』の言葉に行き着くことを期待するばかりです。

 

なぜ福音を届ける必要があるかと言えば、永遠の滅びから救うためです。神は不信心な者を罰します。何が正しいかは聖書真理が教えてくれます。しかし、我々は通常に生育、生活する過程において世の常識(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、コロナ・マスク信仰、太陽暦、洋服、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を植え付けられます。人によっては疑ったことすら無いかもしれません。しかし、これらが真実で正しいと言い切れるでしょうか。実際、これらは全て聖書に基づかない偽りでしかありません(聖書で書かれている大事な事柄に反する)。しかも、これらの考え(世の常識)に従わなければ変人かのような目で見られ、これらの考えに服している大多数の集団(社会全体と言っても良い)から締め出されて、生きていけなくなると脅しをかけられているも同然の同調圧力があるのは、コロナ犯罪を見ていれば分かることです。我らはこれらの常識に従って適応していくための存在ではありません。これらに従っていては不信心に陥り、神の罰によって滅びは免れません。昨今の異常なまでの世の悪化から、真実は何かを見出だそうとする人々が増えていると思います。このような現実の綻びに気が付いた時が聖書真理を信じる良い機会であると思います。聖書真理によってこの世を捉えると、この世の全てに対する解釈が変わります。「四十六億年前に宇宙の中に地球が誕生した」とは仮説どころか創作であり、進化論も同様に創作です(参照:真の聖書福音と預言「無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度」)。実際にはこの天と地は神が創造され、その期間は六千年と定められております(参照:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」)。聖書には、始まりを記した創世記にて人を惑わした蛇が、終わりを記したヨハネの黙示録にも悪魔やサタン且つ蛇や竜とも言われる、神に反逆する存在が書かれております。この悪魔はこの天地が存在する間、この世の支配者として君臨します。それ故、世は悪くなる一方であり、神が今の天地を滅ぼされ新しい天地を創造されるが如く、悪魔は悪魔崇拝者にとって都合の良い世界(新世界秩序)を構築しようとしております。今はその終わり際、ぎりぎりの時に位置しております。にわかには受け入れ難いと感じることもあるかもしれません。例えば、戦後の学校では、戦前から用いていた教科書のあちこちが黒塗りにされ、当時の教員達はその価値観の変わり様に非常に大きな戸惑いを覚えたそうです。今まで信じていたものが間違いだったという衝撃、信念の大転換は精神を揺るがすかつてない出来事であったと思います。聖書真理を知る時も同様かもしれません。しかしながら、聖書は創造主である神が万物の始まりと終わりを告げ、且つ神の言葉は永遠に変わらず固く立つ(イザヤ書四十章六節から八節参照)と確固としている点が世に溢れる全ての「常識」に優り比類なき点です。世俗の例えで恐縮ですが、漫画や小説やテレビ演劇において、初期段階で作品の結末が決まっていないと人の評判に左右されて物語の展開が行き当たりばったりとなり、矛盾が生じ、駄作になることがしばしばあるそうです。それに対して、良い作品は結末が最初から明確に定まっていることが多いそうです。そのような作品は素人目にも結末に至る展開に無駄や矛盾がなく、ぶれないのが分かります。これは虚構の例ではあります。しかし、この事柄を踏まえると、この世界の全てを創造して、展開の全てを結末に至るまで定めておられる神のご計画(聖書真理)は完全で論理的であると言えます。もし聖書を読んでいて矛盾を感じたら、それは解釈が間違っている可能性があります。このように『聖書の預言を読んでいてどこかで躓いたら、別の箇所に答えを求めてください。決して、思い込みで判断したり、私的解釈を施してはなりません(ペトロ二1:20参照)「引用:真の聖書福音と預言(聖書預言の正しい解釈方法)」』との注意を踏まえて、聖書内を参照して確認すると良いでしょう。また、主の書に欠けは無いと書いてあります(イザヤ書三十四章十六節参照)。ただ、偽使徒パウロの書簡のようにあからさまに主イエスの言葉に矛盾している例もあります。こちら(真の聖書福音と預言「「パウロは偽使徒」の動画」)の記事等を読んで、各位がご自分で確認することを勧めます。自分で認識することが大事だからです。世のパウロ教信者からは感情論の反発しかありませんが、ミカエル氏は『私は独自の教義を述べているのではなく、聖書の真理やキリスト道を説いているのであり、それが聖書上まったく矛盾のない信仰であると宣べ伝えているのです。真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」)』とかねてより説明しております。何より、パウロ書簡は後世に聖書に編纂されたものに過ぎません(参照:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)。手前も世の教会に行っていた時、「聖書は六十六巻で誤りなき云々…」と礼拝参加者全員で定期的に唱和した記憶があります。ある種の洗脳のように思えます。おそらく牧師も参列者もその意味を理解しておらず、ただ慣例に倣っているだけではないかと思います。自分たちの認識の無い所で、誤った考えが正しいと刷り込まれるようにサタンの業が働いていたとしか思えません。それほどまでにパウロの偽福音は致命的に主イエスの言葉に反します。聖書に依拠する振りをしながら、偽福音伝道を延々と繰り返して「地獄の子」を再生産している惨状があります。世の諸教会の中でも、外の社会全体でも、世の権威に服した大多数の教えには滅びしかありません。真の道は狭苦しい(マタイによる福音書七章十三節参照)とある通りですが、なぜか聖書を読んだ者でもそれを見落とします。大多数に埋没すると、大多数の考えが正しいと信じ切るようです。結果、キリストの教えに留まることが出来ずに逸れることになります。まさにミカエル氏が言われているように篩(ふるい)です。

 

「聖書は論理的」であることについてもう少し触れます。聖書は、全体をきちんと読んで文脈を押さえると、各書の底流にある神の秩序やご計画などの筋道が真っ直ぐに伸びているのが分かります。また、こちらの図書(「そもそも「論理的に考える」ってどうすればできるの」著者:深沢 真太郎 )によると、論理(筋道)には必ず始まりと終わりがあると説明されております。そして、聖書も終わりと始まりを明確に書いております。天地創造、今の天地の終わる時、その終わり際にかつて無い大艱難があること、また全ての人間が問われるのは神への忠実であり、それによって死後の永遠の時の過ごし方を決めるということです。但し、「救われるために信じる」のでは利益信仰です。徹頭徹尾、神を愛し通せるかが全てです。聖書と反対の、世の常識に位置付けられた進化論は虚構でしかなく、始まりも終わりも分からず、神を認めないためどこまでも偶発的です。神に似せて作られた人間がそのような偶然の産物に貶められて、自らの存在の無意味さに耐えられるでしょうか。その意味を求めたとしても、世の宗教(背後にはサタンがいる)が真理以外の教えをさらに吹き込むという悪循環です。これもある種のマッチポンプのような構図に思えます。存在の無意味さに耐えかねるように仕向け、耐えかねる者に対しては更なる嘘(宗教)が受け皿になって取り込むようにも見えるからです。天地の始まりと終わりは創造主である神でなければ定められないことです。これを考えればこの世界の捉え方と人間の一生の意味は一変するはずです。後は、個々がそれを受け入れられるがどうかです。先には「信念の大転換」と言及しましたが、生まれ変わるに等しい大変な作業なのかもしれません。鳥の例ですが、『刻印づけ(引用:コトバンク)』という、雛が初めて出会った動く物体を親と看做す特殊な学習があります。こちらのサイト(Psycho Psycho)によると『鳥のヒナが自分がどの種族に属しているかを知る、きわめて短期間の、しかもやりなおしのきかない学習』と書いてあります。しかも『一度刷り込みが成立したら、その後も残り続けること』とも書いてあります。この性質を安易に人間に置き換えることは出来ませんが、人間においても人生の初期段階で学習した内容は強く残り、影響を受けることは容易に想像がつくと思います。実際、こちら(ツイッター)の動画にあるように、『人間の認知は最初に聞いたものを正しいと思うという習性』があることからも余計に、最初に身に着けて信じてきたものを更新ないし入れ替えるのは容易ではないのかもしれません。

拙者は、世の大多数の人間にとっては、かなり耳触りの悪い話をしている。なぜなら、それは真理やさかいな。多くの人々は、真理を知らへんし、認めようともせず、ついには真理を愛そうとせずに誤った教えの虜になり、真理を説く者や信じる者を攻撃さえし、最後は地獄行きで滅びる。それも彼ら自身は無自覚にそのようにするのが大半や。ほんまにそのように真理を嫌い嘘を信じる者どもは愚かで高慢なんや。自分がこれまで世間で聞いてきたこと、教えられてきたこと、勉強してきたことが全てで、それらが絶対的に正しいと思い込んどるが、その聞いた内容、教えられた内容、勉強した内容が嘘やったら、その結果もたらされるものは何か考えたこともないやろ。とてもあんたが欲していたものやなかったと、死んだ後に気付くやろが、その時には既に遅いし、取り返しがつかへん。今、これまでの経験は全て忘れ去って、拙者が書いたことを聖書や世の動向と照らして考えてみなはれ。拙者は、聖書の真理を宣べ伝えるだけやのうて、この世の誤った情報や教えを正すことをしてる。(略) 聖書は、鳩のように無邪気で蛇のように賢くなければ(マタイ十章十六節参照)、その真理を悟ることは出来ません。最初から何処かで聞いた話や教義を前提にしてると、それらが正しい信仰の前に立ちはだかる障壁になるさかい。コンピュータで例えれば、様々な情報処理集合体(ソフトウエア)を設置(インストール)したものを使い始めるのではなく、新品で何も設置されてへん状態にし、そこから正しい知識や信仰や経験等を積み上げて行くべきや。要するに、間違うた世の偏見や学校や報道機関等による偽りの情報を全部捨てて、初めから何も無い状態から正しいものを積み上げて行くということです。聖書を通読しながら、拙者の記事過去から順番に読んでいくことを推奨する。

 

引用:真の聖書福音と預言「自己紹介(Introduction)」

非常に分かりやすい説明です。手前からもコンピュータの例えを一つさせていただきます。コンピュータにはウインドウズやマッキントッシュ、リナックスなどのOS(基本ソフト)と言われるソフトがあります。原則、一台に一ソフトです。土台が全く異なるからです。デュアルブートと言われる二つのOSを同時に入れる設定も可能なようですが、それでも実際にパソコンを稼働させる時は同時には出来ません。また、実際にそのような設定をしても片方のOSソフトが更新(それも頻繁に行われる)された途端に不整合を起こしてパソコンが起動しなくなるなどの支障が起きます(参考:かえるのほんだな)。一度やったことがありますが、やはり不具合が起きて、復旧するのに本体(ハードディスク)ごと全消去する羽目になりました。当たり前かもしれませんが、全く異なる性質のものを両立させるのは本来では無いのだと思います。真理と世の常識も同様だと思います。軸に据えられるのは一つだけ、余計な干渉を防ぐにも片方を捨てるしかありません。

 

 

上の図は騙し絵と言われる作品の一つですが、一つの絵に二つの絵が混在しております。この絵には『片方の見え方が意識に上がっているときは、もう一方の見え方が消える。2つの見え方を同時に見ることはできません。脳がスイッチを切り替えることで、同じ絵なのに、違うものに見える(引用:日経Gooday )』という性質があります。真理と偽り(常識)に適用すれば、偽り(常識)が本物だと認識されれば、もう一つ(真理)は見えなくなると例えられるかもしれません。有るにもかかわらず、無いように(認識されない)するのは、真理を隠すサタンの業に他なりません。隠すのは知られたくないからです。騙すからには悪い意図があります。それはサタンと同じように、大勢を第二の死に至らしめるためです。

 

画像引用:真の聖書福音と預言「ほんまもんの愛と暦とは」

https://www.bitchute.com/video/QGxzCKPbK8rk/

 

上記の『今まで信じてきた世のことや信念が壊れる。それに長い物には巻かれた方が楽だし、余計な事を言って嫌われたくないし、迫害されたくない。』とは、多くの人に共通する思いなのかもしれません。ましてや楽をしたい、この世を謳歌したい者には実に不都合な実態が露わになるだけです。ミカエル氏の伝える福音は題名通りに真の聖書福音で「聖書上まったく矛盾のない信仰」です。言っておられる内容を手前も聖書から確認して矛盾が無いと確認出来ました。かつて地上の教会生活で感じた消化不良な思いを全て解消してくださり、聖書を真に理解することが出来て、その時に感じた清々しさは今でもはっきりと覚えております。当時、手前も兄弟の集いに行って真のキリスト者として生きるべく学びたいと思いました。真の聖書福音を教えてくださる方から学ばずに、一人で宙ぶらりんでいて何も良いことが無いのは明らかです。しかし、真のキリスト者の高潔な生き方に対して、自分があまりにも不十分な状態であることを気にして、もう少し整ってからと先送りしたことがありました。結果として、一人では大して改善出来ませんでした。その実体験から、課題の先送りは時間を浪費するだけなので勧められません。別の経験からもそう言えます。かつて仕事で有識者からの助言(コンサルト)を受けたことがあります。その時も同様に、今が不十分すぎるため、もう少し整ってからと先送りしたいと伝えました。すると、先方から「自分たちだけでどうにもならないから今の状態に至っているのであって、だからこそ助言が必要なのだ」と指摘されました。その時と同じだと後から気付きました。自分一人で「もう少し整った状態」には成れませんでした。そして、このような思いの背景には自己愛があります。「みっともない自分を見せたくない」などの自己愛は自分の課題の中でも最も大きいものであり、今でもその戦いの最中です。必要なのは自分を気にして縮こまることではなく、見栄や虚栄心を捨てて改善のためにひたすら行動することです。それらを捨てずして、まして信仰を行いで示すことが出来ましょうか。この事をも通して、なぜ「臆病な者は第二の死(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)」と言われているかがとてもよく分かります。自己愛を克服せずして信仰を行いで表すことは不可能です。臆病なままでは、世の大多数である世の常識に抗うことなど出来ません。臆病なままでは、行動しないことを正当化するために、あらゆる理由を並べ立ててしまうでしょう。例えば、キリスト信仰の故に投獄されるような世になった時、保身を図って信仰を隠して「隠れキリシタン」となることは正しいキリスト者の有り様でしょうか。主はそのような者をお認めになりません(マタイによる福音書十章三十三節参照)。

 

聖書の真理は、現実の全ての事柄に関連します。ただの知識で終わらせたり、心の中で思っているでは意味がありません。実生活で活かすこと、そのためにも世の動きなど時を見分けることが大事です(ルカによる福音書十二章五十四節から五十六節参照)。時を見分けずして賢く備えることも、適切に現実に対応することも出来ません。それに関連して、以下の投稿を紹介します。

 

画像引用:https://twitter.com/asheldarkhards1/status/1645443584886476800?s=20

 

上記のアシュエル・ダークハルトという投稿者はこのような愚かなことを言っております。この世を悪い者が支配している以上、多種多様な悪が行われるのは当然のことです。世に属するか、神に属するかと聖書に書かれており、それを世の事柄や日常生活に適用して考えるまでです。ワクチン云々など細々としたことがもし聖書に書かれていれば支配層はそれを避けて、形を変えて別な手段で人口削減を行なうのではないでしょうか。ワクチンについて言えば、『黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編』にて薬とは魔術であり、薬を含めて医療に頼ることは偶像崇拝に当たると書かれております。聖書は悪の存在について明示しており、世の終わりの強力な反キリストの動きを言い当てております。だから、聖書と世の動きも一致しており矛盾はありません。むしろ矛盾を隠さず、新世界秩序に一直線なのは支配層(悪魔崇拝者)です。矛盾があるのは嘘があるからで、嘘があるのは本当の意図に気付かれずに事を運びたいからです。

 

 

ここで少し世の動きに触れます。WHOはワクチン接種の指針を見直し、健康な成人のワクチン追加接種を二回以降は勧めないと急に表明しました(参照:AFPBB News)。一体どういう意図があるのでしょうか。日本など一部を除いてワクチンの危険の認知はある程度になされており、こちら(メモ・独り言のblog)にあるように欧州議会の例ですが、ワクチンが失敗であったことや接種しないことで多くの命を救えたはずだと真っ当なことが言われております。こちら(ビットシュート)でも、欧州で市民がワクチンや偽りの感染対策に対して抗議しております。おそらくそれらを踏まえて、流石に新型コロナウイルスの脅威を煽り続けるのは難しいと判断したか可能性はあります。しかし、形を変えてmRNAワクチンを継続するのは間違い無いと思います。例えば、ワクチン食品(参照:メモ・独り言のblog)まで登場しており、決して支配層は手を緩めていないことが明らかです。また、アンソニー・ファウチは『すぐに別の致命的なパンデミックがあるだろう』と発言(引用:メモ・独り言のblog)していることから、(存在が証明されていないウイルス自体が虚偽ですが)別の感染爆発が起こると考えられます。正確には「予告」でしかありません。モデルナの最高経営責任者は次のmRNAワクチンを二千三十年までに順次投入すると(参照:ツイッター)言っており、歩調を合わせた発言にも聞こえます。そして、日本ではこちら(ツイッター)のように太陽暦二千二十三年四月版の小児向け予防接種予定表に「新型コロナワクチン(mRNAワクチン)」が組み込まれる有様です。まさにモレクに子どもを生贄に献げる行為(レビ記十八章二十一節等参照)でしかありません。また、こちら(ツイッター)のように注射後、数週から数ヶ月で薬剤が自動放出される技術が作られたようで、悪い意図しか感じられません。最初から個人の判断であったマスク着用ですが、個人判断が強調されるようになった太陽暦二千二十三年三月十三日から一ヶ月近く経っているにも拘らず東京駅前では着用率が八割もあり(参照:ツイッター)、何ら状況が変わりありません。また、コロナ犯罪に限らず、この間のその他の世の動きも酷いものばかりです。先日行われた統一地方選挙は相変わらずの不正選挙(参照:ツイッター)が横行しました。「投票に行こう」では何も変わりません。この悪い構造に集団で抗議しなければなりません。また、選挙が一段落するや否や消費税十四パーセント(参照:Yahoo!ニュース)と愚かなことを岸田総理は言い出しました。国民生活が悪化している中、政府がやろうとしている(やっている)ことは普通に考えて人道にももとり、憲法にも違反し、全てが本来進むべき方向性に矛盾します。彼らの道は全て新世界秩序に向かっているという点においてのみ一貫しております。

 

画像引用:https://twitter.com/nbe222/status/1645343491839635456?s=20

 

これらの悪しき存在を認識せずして、悪に抗うことなど出来ません。彼らの存在は聖書に記されており、聖書によってこの世の権力者、大多数に対する見方も一変するはずです。彼らは神に反逆し、神の律法に違犯し、真理に立ち返る余地を残さず大勢を殺し、出来れば選ばれた神の民をも惑わす存在です。この世に希望はなく、支配層が閉ざそうとする道(聖書真理・真のキリスト者の道)にこそ真の希望があります

 

聖書を読んで、ただ字面を表面的に知っただけでは無意味です。行動に反映出来なければ無意味です。手前は昔、仕事術に関する図書が好きで多数購入して読みました。書籍の帯の売り言葉に惑わされて、その時は必要な投資だと自分に言い聞かせますが、大概が無駄な出費で終わりました。眺めて満足、仕舞いにはその中身すら満足に覚えておりませんでした。本気で活かそうと思うならば、最低限に趣旨を覚え、実際に試すのだと思います。しかも、最初から上手くは行動出来ませんから、上手くいくために更に読み返して試行錯誤するはずです。普通に考えればこの時間と労力たるや相当なもので、何にでも手を出していたら、いくら時間があっても足りません。自分の性質に合っているのか、本当に習得する必要があるのかの吟味も必要です。多くの図書を読むよりも良書一冊を深く読み込んで思索することの勧めをネット上でしばしば目にしますが、個人的にはその通りだと思います。深く読み込んで思索して、試行錯誤を経て、使いこなせてようやく「体現」の段階に達したと言えます。聖書も同様だと思います。

 

ヤコブの手紙 一章二十二節から二十五節(引用:真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」

更に、御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。もし誰かが御言葉の傍聴者で、実行者でないなら、その人は鏡の中の生まれつきの顔を注意深く眺めて考える人のようやさかい。自分自身を眺めて注意深く考えて、離れると、自分がどのようであったか、直に忘れるからや。しかし、自由の完全な律法を慎重に調べ、これを行い続ける人は忘っぽい傍聴者やなく、行いの実行者や。この人は、その行いによって聖になるでしょう。

 

引用元の記事の中に、生まれつきの顔とは悔い改める前の状態、自由の完全な律法が鏡、その鏡を見て自分の間違っている点を直さないといけないとあります。聖書が求めているのはこのような反映、活かすこと(実践)です。内側にある信仰が行いとして表出されることが大事です。「御言葉の実行者」の言葉から言行一致が求められているのが分かります。また、似たような意味合いとして『訛りは国の手形』の慣用句にもその意が含まれていると思いましたのでご紹介します。この意味は出身地を言わなくても、その言葉の訛りを聞けば、どこで育ったのかすぐに分かってしまうという意味です(参照:デジタル大辞泉 小学館)。こちら(ことばのぎもん)によると、国の手形とは江戸時代の通行手形で、通行手形が発行された土地と訛りが相違しているのは、怪しい人物だと看做されるので当時の訛りは重要なものだった可能性があると書かれております。信仰と行い、手形と訛り、それぞれ表裏一体であるのが構図として似ていると思いました。訛りは再現が難しいです。映画等でも役者が自分の知っている地域の方言を話しているのを聞くと頑張って覚えたのだけれども違和感があると感じます。明らかに話している方言とその人の出身は違うのだと分かります。信仰もまた、キリスト者だからこそ実行出来る側面があり、実行がキリスト者であることを証明しうるのだと思います。キリストの教えに留まる者がキリスト者、留まらない者が反キリスト(ヨハネの手紙二 九節参照)であることから自ずとそうなるのだと思います。

 


ここからキリスト者の苦難について触れていきます。キリスト者は苦難にどう対峙するべきでしょうか。先に、救われるために信じようとするのは利益信仰であると言及しました。保身を考えるのも人の性質(自己愛)であるのも確かで、これに抗わねばなりません。キリスト者だからと言って苦難に遭わないわけでは無いからです。もし、大艱難の中で保身を求めたとして、それが叶いそうにも無いとなったら、その人は信仰を持ち続けていられるでしょうか。

人生は、良いことばかりではありません。悪いこともあるでしょう。何で自分はこんな目に遭わなければいけないのかと思うことも多くあるでしょう。そのような苦難に直面したら、あなたはすぐに肉の思いで、怒りや恨みを抱いたり、暴言を吐いたり、運命や神を呪うことさえしていないでしょうか。神の栄光は、人の目から見て良いことばかりではありません。

 

引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」

「神がいるならば何故こんなことが自分の身に起きるのか」「神がいるならばなぜこの世はこれほど理不尽なのか」と思ったことはないでしょうか。信仰前ですが手前はあります。さながら、主イエスに対して自分自身を救ってみろ(マタイによる福音書二十七章四十節参照)の暴言に等しいです。苦難と一口に言っても、この世の悪に翻弄されているのか、自らの悪い行いの結果が訪れているのか、正しいことの故に悪の世からの迫害を受けているのか、苦難の背景はさまざまです。全てを知ることは人には出来ませんが、ある程度の見分けも必要と思います。特に、聖書真理に立つが故に悪の世から迫害を受けることは避けられません。キリスト者に苦難があること、忍耐が必要とは聖書で繰り返し言われていることです。もちろん、全ての労苦をいたずらに受ければ良いというわけではありません。しかし、前もって苦難があると分かっていれば、多くのことに耐え得るはずです。逆にそれを見出ださねば、不意を突かれて不用意な行動をしたり、自己愛のままに行動してしまうでしょう。仮に、世に恭順して一時的に苦難を減らそうとしても、最終的に世に属した報いは永遠の滅びしかなく、主イエスを信じる信仰以外に真の希望はありません。

 

ところでコヘレトの言葉には世の労苦について多数書かれており、今から三千年前に書かれたとは思えないくらいに今の我らにも通じる内容ばかりです。人の本質はずっと変わらないのだと分かります。コヘレトの言葉四章四節、人間が労苦するのは仲間に対して競争心を燃やしているからだ(参照)と書いてあります。個人的に感じるのは学生時代にしろ社会人時代にしろ、常に同列の周囲を気にすることの連続だったと思います。時に競争意識を生み、嫉妬を生み、足の引っ張り合いという醜いことも起きたりします。学校や会社という閉ざされた世界では、多かれ少なかれ自分が誰かより秀でていなければ、自分に存在意義を見出だせないという歪んだ意識を作り出してしまう事があると感じます。不毛な競争に明け暮れ、一体自分は何と戦っていたのかと我に気づくのが遅くならないことを願うばかりです。出エジプト記二十章十七節に隣人のものを欲してはならない(参照)と書いております。他者に対する劣等感は嫉妬に繋がり、優越感は見下したり愛が欠如し、共に罪を犯す原因になるため要注意です。我らは、ただ神を見上げて、罪深く非力な自分を認め、自分に出来る努力を積み上げて実践すれば良いだけです。マタイによる福音書二十五章にタラントンに応じた働きについて主イエスは話されております。能力に違いがあることは事実であり、悪いことではありません。ただ能力に応じて全力を尽くすことが求められております。

コヘレトの言葉四章八節、全てを犠牲にして際限なく労苦しても虚しく不幸である(参照)と書いてあります。これも過去記事で仕事人間であったと書きましたが何も良いことがありませんでした。むしろ何も良いことがなくて幸いでした。だから引き返すことが出来ました。万が一にもそれで満ち足りてしまったならば魂の救いに目を向けることもなかったはずです。

コヘレトの言葉五章七節、不正が横行するのは社会的に立場のある者同士が庇い合うからだ(参照)とあります。今で言うところの『上級国民』が罪を犯しても対して罪に問われなかったり、司法の人事権を握った政府が違憲行為を重ねてもその影響下にある司法は何ら彼らへの正当な裁きを下さない不義がまかり通っております。こちら(真の聖書福音と預言「日本人の問題点 四」)にあるように住基ネットに正義の違憲判決を出した判事は不審死を遂げました。行政に不利な判決を出さない不当な判事が出世し、正しいことをした者が不利益を被る理不尽極まりないことを言い当てるように、善人の故に滅ぶことがある(コヘレトの言葉七章十六節から十七節参照)と書いておりますが何と曲がったことがこの世では起きるのかと思わざるを得ません。

世に属する生活をしていて「これで本当に良いのか」「何かが違うのではないか」と思うことが神に招かれた者であれば必ずやご経験がおありではないかと思います。「世に従おうにも従えない」との相反する思いもまた苦痛であろうと思います。手前にもありました。それは真のキリスト者としての出発点に立つためには不可欠なことだったと思います。この苦痛が次の展開の活力となりました。『お前たちは順境の日には喜べ、逆境の日には熟慮せよ。神はまたこの両者を造られた。人は自分の後の結末を何も見出ださないために。(コヘレトの言葉七章十四節:私訳)』 の通り、人には先のことは分かりません。上手くいっている時は状況が楽しく、自らを振り返ることは無いと思います。むしろ、上手くいかない時だから考えようとする気になり、考えざるを得なくなります。結果として熟慮の機会が訪れます。そして、後になって気が付くと思います。世に自分の居場所は見出だせず、さまよっていたのだと。無理に世に属する山羊になろうとしてもなれません。こちら(ユーチューブ)やこちら(ユーチューブ)の社会風刺の動画を見れば、世に染まった生き方がどれほどおかしいかが客観視出来て理解出来ると思います。真理に拠っていないこの世の中は曲がったことばかりです。だからこそ、聖書が教える真に真っ直ぐな生き方に意味があり、魂の平安があります。これは苦しさが無くなるという意味ではありません。世に染まった期間が長いほどに、蓄積してきた肉の欲や自己愛を優先する古い信念との熾烈な戦いがあると個人的には感じます。決して楽でもなく、油断などもってのほかです。それでも為すべき事が明確で、真っ直ぐな道なのだということがはっきり分かります。先に、世の動きと聖書を切り離して考える者を紹介しましたが、手前も最初の頃は無知故に聖書と現実を切り離して捉えておりました。しかし、今では古代イスラエルの民の歴史とその末裔たる日本の真の歴史、イエズス会の魔手、英米支配層の攻撃や間接統治の実態など、全ての文脈が繋がって理解出来ます。この文脈の中に自分という存在も位置付けられます。真理を知れば、この世の知識などがらくたに過ぎないことは実感として分かります。

 

キリスト者と苦難、真理を見出だしておれば耐え得ることについて話を戻します。苦難への忍耐について、前提として自力だけではどうにも出来ず、主イエスに繋がらなければ何も出来ないことや聖霊の助けが必要なのは言うまでも無いことです。そのためにも、神の言葉を自分の内側に取り込んで、骨や血や肉にして、神の言葉に支えられることが最低限必要です。神の言葉を取り込んで消化吸収することで『首尾一貫感覚』を持つことが出来ると手前は考えます。『首尾一貫感覚』とは、健康社会学者アントノフスキー氏が提唱した概念です。第二次世界大戦のナチスドイツの強制収容所に入れられた人たちのその後の心身の健康状態を研究した所、極限のストレスを経験しても、その後の人生で心身の健康を守れているばかりか、その経験を人間としての成長の糧にさえしている人たちがいることに気づき、その理由は首尾一貫感覚の高さにあると考えました(参照:All About)。自分の感覚を言葉で言い表すと、神の言葉に拠るとは首尾一貫感覚に近いものがあると感じます。この首尾一貫感覚は三つの要素で構成されております。以下、簡単に説明していきます。(以下、「EARTHSHIP CONSULTING」を参照)

一つ目は『把握可能感』です。把握可能感とは、自分の置かれている状況を一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であると見なす感覚のことです。聖書には預言として世の終わりの大艱難が多数記されております。死に至るまで忠実であるように、忍耐を働かせて信仰を貫くことで最期に命の栄冠を得ると前もって知らされております。同時に堕落、脱落する者がいることもです。聖書を読んで賢く備えよとはミカエル氏が繰り返し伝えてきたことでもあります。聖書によって把握可能感を得ることは出来ます。ましてや今は世の終わり際に臨んでいることから尚のことに時の状況が分かるはずです。

二つ目は『処理可能感』です。処理可能感とは、困難な状況に陥っても、それを解決し、先に進める能力が自分には備わっている、という感覚のことです。主イエスが自分を捨てて自分の十字架を背負って従うように(マタイによる福音書十六章四十四節参照)言われたこと、苦しみを受忍した足跡に続くように模範を残されたこと(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)、預言者たちを辛抱と忍耐の模範とするようにと(ヤコブの手紙五章十節参照)言われたことは、実践出来ることを前提にしております。そして、忍耐とは自らの意思、自らの権能下にあり、諦めたり打ち負かされない限り、いつでも行使出来る性質のものです。また、『あんたは我が忍耐の言葉を守ったさかい、地に住む人々を試すために全人類に来ようとする誘惑の時から、我もあんたを守るであろう。ヨハネの黙示録三章十節:引用 真の聖書福音と預言「携挙の真実」』の言葉も重要で、神が誘惑から守ってくださり、以下にあるように聖霊の助けが働くのだと思います。

新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章十五節~十七節(私訳)

「もし、あなた方がわたしを愛しているならば、あなた方はわたしの掟を守る。そうすれば、わたしは父にお願いしよう。それから、父は永遠にあなた方と一緒にいられるように別の補助者を与えてくださるだろう。この方は真理の霊であり、大多数の人は受けることができないものである。なぜなら、この霊を見ることができず、知ろうともしないからである。」

(略) 

 

主イエスへの愛 = 神の律法、掟、戒めの遵守(神への完全服従)

神から聖霊が与えられる

成長して完全な者となる

 

引用:真の聖書福音と預言「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」

三つ目は『有意味感』です。有意味感とは、今行っていることが、自分の人生にとって意味のあることであり、時間や労力など、一定の犠牲を払うに値するという感覚のことです。

ヨハネの黙示録二章十節(兄弟共同検討訳)

あなたが苦しむいかなることを恐れてはいけない。見よ、悪魔はあなたがたの何人かを牢に投げ込む。そのことであなたがたは試されるだろう。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

ヤコブの手紙一章十二節(私訳)

試み(誘惑)を忍耐する者は幸いである。主を愛する者たちに主が約束された命の栄冠が承認されて迎え入れられるようになるからである。

ペトロの手紙一 一章七節(私訳)

お前たちの信仰の試練は、朽ちる金の火による試しよりはるかに価値があり、イエス・キリストの来臨の時に称賛、名誉、栄光に至る。

これらの聖句によって、犠牲を払うに値する命の栄冠に至ることが分かります。生きているこの時は死後の永遠を決める試しの時です。いたずらな無駄死には避けるべきですが、ただ命があればそれで良いということでもありません。生きる意味を聖書真理から捉えて、艱難を乗り越える力に変えることが出来るはずです。ペトロの手紙一 一章七節では主語が「信仰の試練は」となっており、信仰の強さが試される試練自体が価値あるものとされていることにも注目するべきです。艱難によって信仰が本物になるのであって、さながら陶器となる前の土の器が窯で焼かれて完成するが如くです。ヤコブの手紙一章十二節の試み(誘惑)「πειρασμόν」は「罪への内なる誘惑」を意味し、それらを振り払うことが求められます。これらのように、前もって信仰の完成の過程が予告されていることも、首尾一貫感覚の構築に繋がると思います。そして、繰り返しますがこの真っ直ぐな歩みを邪魔するのはひとえに自己愛です。

通常の精神と健康状態では、肉体的な死(第一の死)というのは、誰もが回避したがるものです。しかし、神の御意志がそれを避けられないとした場合に、あんたは自己愛によって神に逆うて苦難や死を回避するか、それとも神の御意志に従ってあらゆる苦痛と死をも受けられるか。選択次第で運命が大きく変わる。主イエスの御言葉「自分の命を得ようとする者はそれを失うだろうが、我のために命を失う者は、それを得るであろう。」(マタイ十章三十九節拙訳)、「最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節拙訳)等を覚え、正しい選択をすることを願うてる。

 

引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」

真の聖書福音と預言 【第四回】正しい聖書の底本とは

 

 

キリスト者は、神の律法・掟・戒めを守り、神を愛し、隣人と兄弟を愛し、慈愛のある行いをし、福音を伝道し、そして、信仰が成熟して、神に栄光を帰すことが大事です。上記の動画にある炉に投げ入れられた三人はネブカドネツァルに屈せず神の律法を守り、信仰による義を行いで表しております。自分の命を投げ打ってでも神に従ったからこそ、その信仰は尊く価値があります。心の内にある信仰は行いとして反映されております。心の中は人の目には見えませんが、目に見えるように行いで表すこの両輪が全てです。過去記事でも触れましたが『正しい人はその忠誠によって生きる(ハバクク二章四節:私訳)』の『正しい人(צַדִּיק)』には「適法」の意味があり、神の律法を守る人です。そして、『忠誠(אֱמוּנָה)』には「忠実」「信仰」の意味があり律法への忠実ということです。更に、世の終わりの日である主の日、『悪人を地から滅ぼす(ゼファニヤ二章三節:私訳)』とあり、『悪人(הָרְשָׁעִים)』とは「神に対して罪を犯した」「邪悪な」の意味があります。神への忠実を捨てて自分の命を惜しむか、自分の命を差し出してでも神への忠実を選ぶか、究極の二択です。神の目に評価される信仰による義(行いを伴う)が残るか、否かです。この心意気について、こちら(ツイッター)にコロナ犯罪への抵抗を示す意図で引用された漫画「はだしのゲン」の言葉を紹介します。漫画の場面は戦争に反対し警官に迫害されるゲンの父親の言葉が記されております。『体は傷つけられても心の中まで傷つけられはせんわい』『わしらなにもない貧乏人が心の中のほこりまでとられたらなにをささえに生きるんじゃ』は真のキリスト者の生き様にも通じます。前者の言葉は、『お前たちは肉体を殺しても魂を殺すことが出来ない者たちを恐れるな。むしろ肉体と魂を地獄で滅ぼすことが出来る御方を恐れなさい。(私訳:マタイによる福音書十章二十八節)』の言葉を想起させます。後者の言葉は、世を愛さず、世に属さす、世に一時的な滞在をしているに過ぎない者が唯一拠り所に出来る信仰にも重なります。『自分が正しいとおもったことは安っぽくまげちゃいけんぞっ』の言葉も非常に重要です。実際には「曲げてしまう」事象が多いからです。招かれる者は多くても選ばれる者は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)、芽が出なかったり、枯れたり、実を結ぶほど成長出来なかった種の例え(マタイによる福音書十三章三節から七節参照)から脱落したキリスト者が示されております。始めは熱く信仰に燃えていても、時間の経過とともに徐々に熱が冷めて、妥協して世俗生活を優先してしまう者も多いです。勿論、他人事ではなく自分事です。妥協の誘惑について以下を引用します。内容はmRNAワクチンの接種者と未接種者の関係性について触れた記事です。

「息子はこないだ彼女と別れたようです。例の3回接種済みの彼女と。正直、私としてはホッとしました。息子には『あなたの選んだ人なら尊重する』と言っていましたが、同時に『あのワクチンについてしっかり調べてね』とも伝えていました。それで、あの子なりに自分で調べたんでしょうね。次世代に影響するワクチンだということが分かった。それで、別れた。

でも別の問題が出てきました。娘がいるのですが、最近彼氏ができたようです。県外で暮らしていて、すでに成人しているのだから好きなだけ恋愛すればいい。ただ、ひとつだけ聞きました。『打ってる人?』すると娘が話をそらす。そこははぐらかさないで欲しいから、しつこく聞いた。すると観念して『今どき打ってない人なんていないよ』

(略)

私が妥協する必要があるのかもしれません。未接種という、いわば家族の純血を守ることは、8割が打った今、もはやできないのかもしれません。

しかし、本当にショックでした。少し前まで娘は『接種者、気持ち悪い』って言ってたんですよ。それなのに、接種者と付き合ってる。よほどのことがあったんだなと思います。ずいぶん悩んだはずだし、強い決断があったはず。強情な子だから、私が何か言えば言うほど反発すると思う。もともと親子仲は良好だけど、あまりにも反発されて、隠し事をするようになってもつらい。だから、私はもう何も言いません。私が変わるしかないと思っています」

 

引用:ナカムラクリニック「アフターコロナに向けて」

とても悲しい現実の話です。そして、これは信仰においても似ていると思います。まさに上記の種を蒔く人の例えにあるように、世の思い煩いでキリスト者としての歩みが阻害されるからです。主イエスは『お前は、我は地上に平和をもたらすために来たであろうと考える。そうではない。我はお前たちに伝える。それどころか分裂をもたらす。(ルカによる福音書 十二章五十一節:私訳)』と言われました。上記の引用文と同様に、信仰の故に家族内に亀裂が入ることもあります。実際、心身の健康を害するだけでなく、神の設計である遺伝子を改変するmRNAワクチンであることからも忌避の一択しかあり得ません。家族や近しい人との関係がどうでもいいというわけではありません。ただ、信仰と世俗との二者択一を迫られたら信仰を選び取らねばなりません。決して取り返しがつかないことがあるという意味において、エサウを教訓にするべきだと思います。エサウは創世記に出てくるイサクの長男です。次男でイサクの弟のヤコブとは長子の権利を巡って争いがありました。エサウは空腹と疲労のあまりに長子の権利をたった一度の食事のためにヤコブに譲り渡してしまいました。『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節:私訳)』と記されております。肉の欲のために大事なものをいとも簡単に手放す様を「婚外性交する者」「冒涜する者」と言われているのが印象深いです。通常、婚外性交は偶像崇拝の意味で用いられます。肉の欲のために大事なものを安易に捨てて、浅はかにもどうでも良いものを大切にし、神を冒涜するという構図においては聖句の通りだと思います。決して取り戻せないことがあります。その時々に正しく分別出来ておれば幸いです。自分もこのようにならぬように、特に無自覚にそのようなことをしていないか厳に慎まねばなりません。また、『義の道を知った後で、彼らに伝えられた聖なる掟から後戻りするよりは義の道を知らんかった方が彼らにとって良かったやろに。義の道を理解し、彼らに伝えられた聖なる掟より元の状況に戻るくらいなら、彼らが義の道を理解しない方が良いからである。ペトロの手紙二 二章二十節:引用 真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」二十一節:私訳)』の言葉にも留意するべきです。イスカリオテのユダがそうでした。主イエスを信じて従ったかのようであっても、実際は肉の思いや肉の欲が強く、自我を捨てきれず、不正な報酬を得たり、主イエスを売り渡したりしました。最後は後悔するに至りましたが「覆水盆に返らず」です。サウルもまた同様です。『サウルは当初は油注ぎを受けて主に従ったが、主の御言葉に従順やなくなって自分勝手なことをしたため、主は見限って悪霊をサウルに送った。(引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)』ことも教訓にするべきです。『知恵は戦いの武器よりも優れている。(コヘレトの言葉九章十八節:私訳)』の言葉は真実です。知恵とは正しく判断する心の働きです。我らはその時々、大なり小なり決断を迫られます。その時に正しく判断出来れば幸いです。主イエスは確かに罪を赦してくださいます。しかし、恩恵の期間には限りがあり、悔い改めを拒否するならば悪霊を送られ罪の赦しも受けられなくなります。特に、大艱難期は恩恵期間が終了しており、一切のやり直しが出来ません。救いにあずかれなかった者たちが泣き喚いて歯ぎしりするとは福音書の至る所に書かれております。歯ぎしりには「怒りや悔しさから歯をかみしめて音を立てること。また、非常に残念がること(出典:デジタル大辞泉 小学館)」とあります。果たして、この怒りや悔しさは誰に向かってのものだろうかと思います。自分に向かってなのであれば、どんなに後悔してもしきれません。死後の永遠を決める試しの時はもう終わっているからです。この絶望感は想像するのが嫌になるほどです。もし、怒りや悔しさの向かう先が神なのであれば的外れも甚だしく論外です。そのような品性であったから追い出されるのだと思います。信仰を行いで示す場面は信仰生活において機会はたくさんあります。中でも、命が懸かった最期の場面もまた取り返しのつかない機会です。真に神に栄光を帰す場面とは、自分の最も大事なもの(生命など)を差し出す場面であり、唯一無二の場面(生涯の最期)だと思います。等価交換の視点に立てば、自分の命を差し出してでも、神の律法・掟・戒めを守ることによって、自分の命よりも大事であると示すことが出来るこれ以上にない場面です。この場面で正しく神に栄光を帰すことが出来るようになるには、常日頃の歩みがしっかりして高潔な品性にまで鍛え上げられていないと出来ないと思います。こちらに関連して以下のツイッター投稿を紹介します。

 

信仰だけで行いは不要と思っている偽福音論者は、神の律法・掟・戒めを守ることについて「律法主義」と見当違いな反論をすることがほとんどです。以下のピーターという者のツイッター投稿にもそれが感じられます。

 

画像引用:https://twitter.com/q6OtGmgiiUtSMyg/status/1639484519261814785?s=20

 

主イエスが律法学者らを批判したのは律法を守れと他者に言いながら自らは守らず、余計な言い伝えは固守し、他人を見下すなど品性が伴わず、神への愛もないために主イエスから批判されました。そして、彼らの義に優らなければ天に入れないと主イエスは言われました(マタイによる福音書五章二十節参照)。「自分は正しいって主張している」のではなく聖書にそう書いてあることをまず認識するべきです。更には、主イエスの来臨時に信仰が見られるかどうかと表面的な捉え方をしているのが実に愚かな言い方です。神は心を見るのであり、心の中までも悔い改めて罪を犯さない完全な者となれと主イエスは命じておられます。また、現在進行で審判が行われている(参照:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)のであって、その時にやり過ごせばそれで良いかのような考えは全て神に見透かされております。今この時の日々の積み重ね、悔い改めが大事です。

殉教者たちが耐え難いような拷問や刑罰を受けることができたのは、それに耐え得る聖霊の力を神がお与えになったからです。それは突然得られるものではなく、日々の信仰生活で学んで成長する過程で得られるのです。

(略)日常の些細な試練に耐えられないのに、大艱難に耐えられるはずがないのです。

(略)利益信仰というのは、この世での利益のみならず、死後の利益をも考えて信仰することも指しているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」

この言葉から学んで悔い改めるべきです。神を愛すれば神の掟を守ろうとします。主イエスとの新しい契約を結んで心に律法が刻まれ、聖霊がその遵守を助けてくださり、実行出来るようになります。ちなみにこのピーターというツイッター投稿者は口座紹介文に『(今後)昆虫食に目覚める予定。』とあり昆虫食を擁護しており、投稿内容からワクチンも擁護しております。『自然と環境を守りたいキリスト者(プロ)』とよく分からない文を書いており、世の悪を認識せずに世の悪を疑う行為すらも批判する有様です。やはり神の言葉に立たない者は必ず道を逸れるのだと分かります。世の常識、世の価値観に従えば「命あっての物種」が至上とされます。しかし、それでも先のはだしのゲンのように、あるいは武士道のように、自分の命よりも大事なものを見立てて、それを守った事例はたくさんあります。

 

結論として、聖書真理によって各位の人生と死後の永遠の関係を知れば、全ての見方や捉え方は一変します。聖書真理に拠って立つことで首尾一貫感覚を持ち、神に栄光を帰す場面の意味を認識して、正しく行動することが出来るはずです。今この時も『あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。』(マタイによる福音書六章二十一節:引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」)が問われております。神に招かれた羊であるならば、やがて滅ぶ、悪い者が闊歩するこの世に従うのではなく、神に属して死後に栄冠をいただく生き方を全うしましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。