こんにちは。

今の世相は、現在進行でこれまでの社会構造が壊され、支配層による新世界秩序構築に向けた再編の只中にあると言えます。この比類無き悪意の中、大きな再設定に向かう動乱に翻弄されず、世の悪への抵抗を当然するべきです。世の悪に抗う最善の方法は、一言で言えば、神の律法、掟、戒めを守ることです。それは同時に、真理を知ることも、信じることも、行動することも阻もうとするサタンとの熾烈な戦いの過程でもあります。今回は「終末時代の生き方」と題して、主イエスを模範とした世の悪に打ち勝つ生き方について述べて参ります。

 

  壊されゆく従来の社会

 

こちら(X)に百年前の日本を映した動画があります。投稿者も和服の良さに言及しており、動画では皆が笑顔で溢れております。返信投稿も肯定的内容が多く、むしろ当時の活気に対する羨望すら感じさせます。『貴重な映像を投稿していただき、ありがとうございます。子供からおじさん、おばあちゃんまで着物やマント、帽子の着こなしが素敵すぎて、何度も繰り返し拝見してます。(引用:X )』と言っている方もおり、同様に感じる方はきっと多いのではないかと思います。一方、『今の日本国は若者がマスクして顔を隠し暗く自ら命を絶つ国 それが今の日本国(引用:X )』と百年前の活気と現代の落差を嘆く投稿もありました。日本人に元気が無いということはコロナ犯罪以前からも聞かれていたことではありますが、追い打ちをかけるような現在の状況を見れば上記のように言いたくなるのも分かります(但し、百年前が安泰であったという訳ではなく、今よりはましという程度です)。ミカエル氏の記事でも昔の日本の画像等を紹介しており、その中の真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」の記事において『米国の指令により戦後急速にヘブライ文化を受け継ぐ日本文化が衰退させられ、異教の西洋から持ち込まれた悪魔崇拝の一種と言える。せやから、拙者は西洋かぶれするなと言うてる。不信仰で異教徒だらけで神に逆らう者が多い西洋人の真似なんかしても何一つええことはないんやから。』と指摘されていることが、事の本質です。ヘブライ文化を受け継ぐ日本文化(日本語、和服、和食、武士道に代表される生き様、その他の生活様式)が在って、それが日本人に共有されていることこそ日本であることの証しです。それが消失寸前で、異邦人の文化(外来語、洋服、その他の慣習)が主たる位置を占めるようでは、日本人全体が、「異邦人の道に行ってはならない(マタイによる福音書十章五節参照)」の主イエスの言葉に反している状況です。神に逆らって栄えるはずがありません。ましてや聖書真理に立ち返ることもない状況では申命記にあるような呪い、旧約の歴史書にある古代イスラエルの衰退が今も同じように臨むだけです。日本の衰退はここ数年の事柄だけではなく、百年前よりもっと以前から始まっております。真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」等でも言及されている通り、江戸末期の明治維新という国家転覆(約百五十年前)から急速に日本らしさが失われました。百五十年という時をどう捉えるかですが、一人の人間の人生時間に置き換えればとても長く感じられるため、ぴんと来ないかもしれません。しかし、歴史という時間軸で捉えれば近い時期に相当します。この世には六千年という時が設けられ、和服は古代イスラエルの民の服装(に近い)であることからも同等の歴史を持つはずです。それが六千年の終盤のたった百五十年の中であっという間に廃れたことを考えれば、如何に日本文化(ヘブライ文化)が急速に消え失せているかが分かります。千年を一日のように(ペトロの手紙二 三章八節参照)捉えれば六千年は六日間であり、百五十年は(一日二十四時間で計算すれば)四時間足らずです。この僅かな時で急速に廃れるのは異常です。『洋服を着てる時点で「自分は異教徒です」と主なる神への反逆を全身で表現、かつ、主張してるに等しく、売国奴でもある。知らなかった時に犯した過去の罪は、主イエスを信じて悔い改め、神の律法を守るようになれば赦される。過去がどうだったとかやのうて、現在及びこれからのことを言うてるんや。悔い改める(律法違犯をやめて遵守する)なら赦されるが、自分らの罪を認めずに悔い改めへん(律法を破り続ける)のなら赦されず地獄行き。これが単純明快な主イエス・キリストの教えや。もしこれを読んでるのが、日本人でないとしても、皆同じく改める必要がある。(真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』のご指摘の通り、高い視座で俯瞰して、今の状況を見据える必要があります。

 

日本文化の衰退のみならず、経済面では産業の破壊も深刻です。コロナ犯罪で飲食店等が特に大きな損害を受けたのは記憶に新しいと思います。当時、政府は無利子、無担保(通称、ゼロゼロ融資)を実施しました。融資の総額は二年間で総額四十二兆円にも達するそうです(参照:NHK)。中小企業の半分近くが融資を受け、そして、返済が始まりましたが実際には返済出来ず倒産する中小企業が相次いでおります。こちら(読売新聞)によると、二千二十三年上半期の企業倒産が前年比三十七パーセント増、「ゼロゼロ融資」を利用した企業の倒産件数は四十四パーセント増と底が抜けた状態になりつつあります。

また、こちら(アメブロ)では、ある自動車販売店にて『コロナ禍に入り生産ラインが止まり、新車を受注しても納期未定みたいな時期が長らく続きましたが、あれは景気の良いニュースのようで、結局お客様側に車を届けて初めてお金が動くので、実際は絵に描いた餅状態。そのせいで中古車販売は過去最高益だったらしいですが、2023年に入りピタリと売れなくなったそう。そりゃそうです、新車が流れないと状態の良い中古車も出てこなくなります。それで今は、たくさん新車の発表はしていますが、すぐに生産ラインを停止しているのが現状のようです。目標台数みたいなものを事前に決めておいて、その台数が売れた時点で生産終了』という作れない、売れない、利益も上げられない、業界全体の流通も停滞する事態が起きているようです。これでは現場の従業員のやる気も低下し、効率が下がり、生産性も下がり、ますます悪い連鎖が起きるのも当然です。一見して、何とか事業活動がされているように見えても、いつ目に見えた本格的な崩壊(それも連鎖的に)が訪れてもおかしくない状況にあると思います。

 

そして、経済や産業の動向のみならず、人口減少も深刻です。こちら(X)より、「接種前比の超過死亡数」が太陽暦二千二十三年八月時点の情報で三十八万人を超えるとの情報がありました。また、こちら(X)では、『イスラエルと豪州における年齢層別ワクチン致死率(vDFR)の分析から、ワクチン投与数をちょうど1000で割ると死亡人数の推定値が得られると示唆。』との規則性が見られるようで『2023年7月10日:日本は4億回接種達成、ワクチン接種による死亡人数の推定値が40万人となる』となるようです。先の「接種前比の超過死亡数」と概ね近い数値だと思いました。かねてよりワクチンのロットによっては有害事象が多いことは知られており、そのように割り当てられている可能性は考えられます。戦時の東京大空襲、広島、長崎の原爆の死者数よりも多く、また、何かしら日常生活に支障をきたした人々の数を加えると、恐ろしい状況になっていると思います。そして、最近、芸能人などの著名人の死亡が相次いで報道されており、ワクチンとの関連が濃厚と思われますが、超過死亡の多さも含めて全く触れない報道機関の姿勢(知らないふりを続ける不作為)はおぞましい限りです。また、それは医療機関とて同様で、これだけ死者数が増えればどんなに鈍くても気付くはずですが、それについて声を挙げたという話はほとんど見受けられません。更に、日本の十二歳から十九歳までの新型コロナワクチン接種率は、二回接種済みが約七割、三回接種済みが約四割に達しており(太陽暦二千二十三年十月時点)ます。そのため、ひどい頭痛や倦怠感のために不登校が続き、休学や退学を余儀なくされている児童がおります。こちら(アゴラ)によると、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)の臨床像を示しているそうで、当の厚労省がワクチン後遺症を認めていないことも相まって、医療機関を受診しても怪訝な顔をされるなどまともに対応されていない実態があるようです。子供たちが人生を壊され、また、未来を担う子供たちのほとんどがワクチンを接種しており、社会全体の先行きとして非常に厳しい状況です。

 

そんな中、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が『全世界に向けてパンデミック条約の制定と国際保健規則(IHR)の改正、締約国会議の創設を提言(引用:CoRoNano)』と提言しました。こちらのnoteの記事では、いわゆるパンデミック条約の危険性がまとめられておりますが、記事内の最上段の動画では、ウイルス詐欺に乗っかり畜産業を制限することや、支配層が偽と看做す情報(真実)の拡散(いわゆるインフォデミック)への対策をとること、「ソーシャルリスニング」という名の思想調査など、ろくでもない内容が並んでおりました。条約が締結されれば、検閲が強化されたり、ワクチンが強制接種されるのは目に見えております。検閲や強制等があれば、憲法に反する内容のため、締結されたとしても憲法九十八条一項により無効となる対象です。おそらく政府や与党は、合法であることを主張するためにも憲法改悪を強行すると考えられます。しかしながら、国政は国民に福利を享受させるのが役割なのであって(憲法前文が根拠)、ましてやでっち上げられた偽ウイルス対策のために人権を制限するような自民改憲案自体は、憲法前文により排除されるべき対象です。そのため、強行して改憲しても無効で、従う必要はありません。ただ、懸念されるのは、法を蔑ろにする人治主義の政府はお構いなしに改憲をごり押しして、それが合法だと振る舞う危険があるため改憲は何としても阻止するべきです(参照:真の聖書福音と預言「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」)。

 

 

また、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエルの軍事衝突が起きました。イスラムと偽ユダヤの衝突について盛んに報道されており、下図のように世界各地に飛び火しかけております。これについては、真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」の記事にあるように最終的に大規模な戦争(第三次世界大戦)となり、『その戦いの果てにイスラム教も最終的にローマ教皇に従うことで吸収されて世界統一宗教という形に収まって終わるのだろう』との流れになっていくことが考えられます。ウクライナ戦争と同様に仕組まれた戦争であるため、どちらかに肩入れしたりせず、この争いがどこに向かいつつあるのか(実際には、支配層の世界再編、新世界秩序構築に向かう)を、報道に惑わされずに見ていく必要があります。

 

 

関連して、『次は台湾です ホワイトハウスがイスラエル、ウクライナ、台湾への追加軍事支援を議会に要求(引用:X)』との情報があり、日本が台湾有事に巻き込まれるのも目前に迫っております。支那で「外国国家免除法」が成立し(参照:superred2020kiroku’s blog)、これまで成立した戦争関連の法と共に着々と支那は戦争の準備をしていると思われます。日本はこのような時期に汚染水等のことで支那と対立の火種をわざわざ作ったり、その前には麻生副総裁が台湾有事を煽るような発言をする始末です。それでいて支那から多数の移民を受け入れており、政府の対応は完全に矛盾しており、むしろ混乱を作るのが目的なのだと分かります。普通に考えれば、戦争など違憲であることから許されざることです。しかし、人治主義の政府によって改憲が強行され、無効であることも省みず人々に「軍役」を強要しようものなら、一気に台湾有事に進んで行き、戦争の最前線に日本人が立たされる懸念があります。僅かでも懸念されるなら、絶対にそのような余地を残さないように反対しなければなりません。主イエスの終末預言にある、戦争と戦争の風評が聞かれる状況が実現しつつあります。

 

 

  この世の悪に対してどう向き合うか

 

これらの世の悪に対してどう対峙するか、良からぬことが起きているとは誰の目にも明らかですが、無関心でいたり、ただ眺めているだけでも駄目です。支配層は人外な悪い計画を実行しており、それに無知であることも、ただ生き延びることを考えるのも、現実逃避するのも、いたずらに不安に駆られて揺り動かされていても宜しくありません。世の権威(連合国、世界経済討論会、各国政府、報道機関等)が扇動する政策が、明らかに人のためではなく、彼らが目論む新世界秩序の構築のためにあることをまず認識するべきです。コロナ犯罪と同様に、誘導先があって、そこに至らせるために全てがやらせとして「在りもしない問題」として起こされていること(支配層の手口)をこれまでの出来事からも十分に学べるはずです。

 

 

彼らの人外な思想や行為が悪魔崇拝に基づいており、その悪魔は聖書に記された神への反逆者です。彼らは、人々に聖書真理を知られないように進化論などの嘘や偶像たる宗教や偽福音を教え、神の律法を守らせないように仕向けます。その結果として、大勢が滅びに至ります。律法を遵守しない者たちの誘導に乗ってはいけません。彼らの誘導は聖書真理に照らして何ら実を結ぶに値することは無く、偽りに満ちていることから、彼らは聖書の黙示録に預言された悪しき存在であることが分かります。聖書預言は確実に起こるため、ヨハネの黙示録十三章にある獣の秩序が構築されるのは避けられません。新世界秩序が暗黒社会である所以は、構築の過程で大勢の命を奪うこと、その後も肉体の命と引き換えに律法違犯を強要し、第二の死に至らせることです。これらに対して、悪の実態を人々に伝え、世の権威に従わず抵抗し、聖書真理を伝え、神の律法を最期まで守ることによって抗うのみです。それが唯一の勝利条件です、逆に、世に屈服する(神を否む、神に従い通せない)ことが彼らの狙いです。たとえこの悪い世で命を失ったとしても、全ての不義を裁かれる神の正義に委ね、良き報いを得られることに希望を抱いて、最期まで神に従い通すことが終末時代の唯一の正しい生き方です。


 

主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節)」「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節)」(引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』の聖句は、何度も引用させていただいておりますが、とても重要なことであり、何度でも伝えます。主への畏れを持ち、真理を自分の基軸とし、心と行いを律しない限り、全ては無益に終わります。この世を支配する悪は最後に神に滅ぼされますが、人々を自らの奴隷にして地獄に道連れにしようとします。この世の終わり際は悪の支配が極まり、大勢が命を失いますが、その激しい精錬過程によって鍛えられるとも聖書には記されております(ゼカリヤ書十三章九節、ペトロの手紙一 一章七節等参照)。悪魔が滅ぼされるのは神の律法(善悪の基準)に違犯しているからです。悪魔のみならず、神の律法に違犯した者は皆、有罪判決を受けます。神の律法は守ろうと思って守るのではなく、神への愛の故に、また、その過程で聖霊をいただくことによって成し得ます。聖書真理を知らずに道を間違っても、偽福音を信じたり、真理を知っても何かしらの理由(怠惰、高慢、生活の煩い等)で道から逸れても駄目です。命に至る道での戦い(神を選ぶか、サタンとこの世を選ぶか)は非常に熾烈であることが終末に関わる預言から分かります。

 

狭く苦しい道である(マタイによる福音書七章十四節参照)とは決して誇張ではありません。これでは誰が救われるのかと思わなくもないです。しかし、予め主イエスがそのように予告された通りなのであって、それ以上でもそれ以下でもありません。確かに言えることは、主イエスは「自分を捨てて、我に従いなさい(マタイによる福音書十六章二十四節等参照)」と言われたのですから、それに従うことが命に至る唯一の道です。主イエスは我らの模範であり(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)、どうするべきかは主イエスの言動に倣うべきであり、また、教えてくださります。主イエスに倣うことの意義は「お前たちの師はキリスト一人である(マタイによる福音書二十三章十節参照)」とある通りです。『師(καθηγητής)』は「教師」「指導者」であり「判断基準」や「道しるべ」でもあります。まさしく主イエスは模範となられました(ヨハネによる福音書十三章十五節・ペトロの手紙一 二章二十一節参照)。主を畏れ神の知識を得ていくことや神の律法を守ることを前提に、主イエスに倣って終末時代を生きるために以下の五点に留意するべきと考えて挙げさせていただきます。

 

一、悔い改める

洗礼者ヨハネは「お前たちは悔い改めよ。各天の国は近付いた(マタイによる福音書三章二節参照)」と言いました。悔い改めの定義については過去記事でも触れてきましたが、これをきちんと理解できているかどうかが明暗を分けます。また、一度で全てを改めることは不可能と言っても過言ではなく、失敗は教訓にして、諦めずに、完全へと近付いていく必要があります。悔い改められる時(罪が赦される恩恵期間)は有限であり、限られたこの時を何にも優って大事にするべきです。主イエスも悔い改めよ(マタイによる福音書四章十七節参照)と言われ、罪人を招いて悔い改めさせるために我は来た(ルカによる福音書五章三十二節参照)、悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)とそれが超重要で不可欠であることを繰り返し言及されております。『悔い改め(μετανοέω)』には、「以後、考えを変える」「倫理的に良心の呵責を感じて考え直す」「後悔する」といった意味があります。「良心の呵責を感じる」のは、正しい善悪の基準(倫理)を知ったからであり、考えを変えれば行いも変わるのは必定です。行いの重要性は他の聖句箇所でも言われております(マタイによる福音書二十三章三節、ヨハネによる福音書十四章十五節等参照)。ところがパウロ教信者は、主イエスを信じて受け入れて、罪が赦されたから大丈夫なのだと平気で言いますが、こういった全く悔い改めない彼らの嘘(偽福音)には騙されないようにしてください。

 

マタイによる福音書十三章十四節から十五節(私訳)

イザヤの預言は彼らによって成就される。曰く、お前たちは聞くには聞くだろう。しかし、決して理解しなかった。お前たちは見ることは見るだろう。しかし、決して理解しなかった。この民の心が鈍くされ、耳にはぼんやりと聞こえ、彼らの目を閉じたからである。彼らは少しも目に見ようともせず、耳に聞こうとせず、心に理解しようとせず、改めようとせず、我も彼らを癒そうとしなかった。

 

改心する(ἐπιστρέφω)」は、新共同訳では「悔い改め」となっておりますが、意味としては「改める」と心の動きと共に行いも含まれております。また、「癒す(ἰάομαι)」には、「治す」「解決する」の他に、「完全とする(欠けが無い)」といった意味がありました。ここでは、比喩的に罪から解放される、救いをもたらすとの意味があると考えられます。ちなみに、マタイによる福音書九章三十五節から三十六節(私訳)『イエスはあらゆる街や村を行き回り、それらの会堂で教え、(神の)王国の福音を伝え、人々のあらゆる病気や病弱を癒し、更に、群衆を見た時、羊飼いが居ない羊のように力無く、散らされた彼らを憐れんだ。』の箇所にある『θεραπεύω(癒す)』の原語には「神を崇拝する」の意味があり、十三章十五節の「癒す(ἰάομαι)」にある「完全とする(欠けが無い)」、救いをもたらす等の意味から、悔い改める(改心する)ことの重要性が複合的に理解できる箇所だと思います。また、癒すからには、治された状態(解決像)があるはずで、マタイによる福音書九章三十五節『νόσος(病気)』の原語にある「肉体的な病だけでなく、善悪の判断に関する能力欠如による社会的な問題や弊害」の意味からも、聖書の真理によって、世の事柄を判断し、内容によっては忌避し、考えも、行いも改めていく必要があります。真の神を知らずにさまよった結果として、世の悪に絡め取られて、命を失ったり、心身の面でも経済の面でも弱らせられていることに通じると思います。

 

聖書の真理を知り、今の実生活全てに応用して、自らの考えのみならず、行いをも正す必要があります。かつては知らずに世に従ったとしても、悔い改めて生きる以上は、正しい行いをして、高潔な品性を持つように自らを磨き、真理の知識を深く学ぶことは不可欠です。過去記事「神に裁かれる者として」の中でも引用したのですが、『現代法学では、裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。(略)事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。(引用:ウィキペディア)』とあります。悔い改め(改心)とは、神が定めた善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に適うように自分を律することです。それは非常に高い精神の働きが求められます。この反対が、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 四」で言われている『自分で主体的に考えることがでけへんような人間、自分の良心や理性で自分自身を制御出来ずに外部から制御される人間がゾンビということや。』だと思います。勿論、知識の習得や思考の度合いにもそれぞれ差異があるので、最初から完全に自己を制御するのは難しいです。だからこそ、出来ている人に学び、兄弟で励まし合うことが不可欠です。残りの時が少なくなっておりますが、まだ恩恵期間が終わっている訳でもありません。志の有る方は急ぎ兄弟の集いから、神のイスラエル教会に入会し、学びと実践に努めましょう。

 

 

 

 

 

二、悪しき世の権威に従わない

繰り返しますが、この世全体は悪い者の支配下にあります(ヨハネによる福音書一  五章十九節参照)。だから聖書真理に基づいて社会が構成されておらず、あらゆる偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)に基づいております。世に従って生きればそれだけで神に反する生き方(世に属する)となります。マタイによる福音書四章八節から十一節にあるように、主イエスは悪魔から試みを受けました。『サタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、イエスに世界の国々の全てとそれらの壮大さを見せ、イエスに言う。「もし、我にひれ伏して崇めるならばこれら全てをお前に与えよう。」(マタイによる福音書四章八節から九節:私訳)』とのくだりです。主イエスはただ神にのみ仕えよとの聖書の言葉に従い、サタンの誘惑を拒否しました。

また、主イエスは逮捕されて、総督であるピラトから、『「あんたを十字架刑に処す権限も、釈放する権限もある」(ヨハネ十九章十節参照)と言うた言葉に対して、「天から与えられたのでないなら、あんたは我に対して何の権限も無い。それ故、我をあんたに引き渡した者は、より大きな罪や。」(ヨハネ十九章十一節拙訳)と言わはった。このように、主イエスは毅然としており、地上の権力者なんかに媚びることもなければ、その権限をも認めへんかった。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)』と、平伏することもなく実に堂々としておられました。更には、捕縛された場面でも相手が武装しているにも拘らず、自らは反撃して暴力を振るうこともありませんでした(マタイによる福音書二十六章五十節から五十四節参照)。ただ神を畏れ、神の御心を思い、非暴力不服従の姿勢を示されました。

今を生きる我らにとっての日常的なことで言えば、聖書を読み、創造の秩序からこの世と人間の始まりを知り、生きている間に真に為すべきことを知り、古代イスラエル文化に回帰して和服や和食を大切にし、日本語を重んじて西洋かぶれせず、政府や報道機関等の言う嘘を見抜き、学歴や地位や財産等を志向せずに神を一番にし、安息日等の律法を守ることです。また、巨視的には、ワクチンや戦争などの人口削減、経済や生活の破壊を通して新世界秩序の構築に向かわせる再編の動き(大きな再設定)を見抜き、それらに反対の意思を示し、置かれたところで出来る限りの行動をすること(隣人愛の実践、福音伝道等)が大事です。総じて、『獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。ワクチンを避けるのも当然必要なことであり、支配層の所有物になりたくなければ、接種は断固拒否で、ローマ教皇を頂点とするカトリック、その他世の「キリスト教」と自称する教会に所属することも従うことも忌避すべきです。(引用:キリスト道)』とあるように、身体的、精神的、社会的、霊的(真理)あらゆる面で世の悪を拒絶することです。これは世を捨て、世俗と距離を取って生きなければ為し得ません。世の友となっては決して出来得ません。そうした覚悟が求められます。

 

太陽暦二千二十三年十月十一日、人間の体内にマイクロチップを埋め込む話が報道されておりました。こちら(日経ビジネス)の通り『マイクロチップ埋め込んだ21歳 生体認証に新風』との題名で、マイクロチップを埋め込んだ手をかざしてドアを開錠するなど映画さながらな使われ方が紹介されております。そして、やはり個人番号券とマイクロチップの情報を関連付けるとの一文がありました。支那では信用得点制度によって、例えば、自動車走行時に速度違反をすると即時に違反が検知され、口座から罰金が引き落とされる仕組みが既に稼働しております。これらを日本で実用化するには個人番号券で国民を一括管理する必要があり、ましてやそれらが体内にチップで埋められれば、もはや逃げようがなく、現金も廃止されて電子通貨のみとなれば、まさにヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印であり、それがなければ買うことも売ることもできない世界が実現します。要は、そのような技術が既に確立されているので、支配層の駒である政府が、いつ理由をこじ付けて導入し強制してくるか分かったものではありません。だからそのようなものは最初から忌避するべきで、親しむべきではありません。動物へのマイクロチップ装着は既に行われており(参照:動物検疫所)、人間が家畜や飼われた動物のような扱いをされることは目に見えており、やがては支配層に恭順しないと生きられない社会になるのが目に見えております。先の記事は『新たな生体認証』という言い方から、現在使われている指紋認証や顔認証の延長として、より心理的抵抗を少なくさせて、これを世の標準とさせていく意図があると思われます。若き経営者が最新技術を駆使して、夢のような快適な生き方を提供するという心象戦略を仕掛けているように思えてなりません。また、真の聖書福音と預言「動画三回目投稿 新しい契約」「早よ行動せんのなら日本は滅びる」の記事でも紹介されているように、マイクロソフト関連会社が電子刺青の特許を既に取得しており、マイクロチップよりも侵襲性が低い(と思われる)電子刺青へと促されるようになるのではないかと、その布石としての一手なのではないかと思いました。ミカエル氏がかねてよりずっと警鐘を鳴らしてきた事柄ではありますが、いよいよ露わになってきたと感じております。マイクロチップまたは電子刺青が個人番号券や信用得点制度と一体化した時、政府が国民の生殺与奪権を持つでしょう。その時、権力者が神の律法に反する事柄を強制するようになり、従わねば黙示録にあるように殺されるようになるでしょう。mRNAワクチンでも神が創造された人間が持つ自然な遺伝子が改変されて、自覚も無いまま大罪を犯してしまうといった事象が既に起きております。無知は「善悪の判断に関する能力」の欠如に他ならず、神よりも自分の命を愛することは「善悪の判断に関する能力」の不行使です。

 

 

 

三、真実と福音を伝える

世の悪や世の真実について、自分の内にだけ留めていたのでは不十分です。ただ知識欲を満たすだけでは自己愛を強めるばかりです。大事な情報、貴重な情報は周知して共有するのが望ましいと考えます。前回記事でも触れましたが、新型コロナワクチン接種後、障害が生じて車椅子が必要となった方が、ヤフーやグーグルの検索で調べても詳細な情報が出て来ず、Xでようやく真実情報を知ることが出来たというものでした(Xの情報は玉石混交で見分けが重要ではあるが、報道よりも真実を伝えている)。以前、Xの大型口座の方が多数の真実情報の発信をしていることについて「正直、お金にもならないが、真実や世のおかしさを伝えることのほうが大事だという気持ちの方が優る」といった趣旨のことを言っておりました。その方は不信仰者でしたが、儲けを考えずに行っているその心意気は素晴らしいと思いました。間違った情報は論外ですが、真実を伝えようとする行動には「他者のため」という慈愛が根底にあると思います。また、義憤ということもあるでしょう。それも回り回って他者に還元されていく慈愛だと思います。何も知らずに、無知なまま滅ぼされて良いはずがなく、悪をのさばらせた要因として我ら一人ひとりの怠慢(無知、無関心、無慈悲等)にも要因があり、それらをも改めなければなりません。

医療従事者が悪魔の使いとなって、危険薬物を手に「ルール」と「思いやり」を免罪符に、殺戮を繰り返します。

今の多くの医療従事者の白痴ぶりはもはや病的で単なる異常信仰者ですから必ずやります。

 

改憲阻止と同時にパンデミック条約、国際保健規則の阻止ということですから非常に過酷ですが、やらなければ死ぬ可能性が高まるだけです。

 

これこそ、やるかやらないかであって、日本人を、また人間を問われているのだろうと思います。

もはや死ぬ覚悟がなければ生き残れないという状況です。

最後は運でしょうが、運を引き寄せるのも、「自分」です。

 

闘いの中に活路が見えることはよくあります。

それを「光」と呼ぶのかもしれません。

 

引用:note(知識と実践と真実と〜知行合一〜)

上記の通り、『日本人を、また人間を問われている』と手前も思います。この異常な世の実態を伝え、暗黒社会へまっしぐらとなる憲法改悪や感染爆発に関する条約等は、自分のためだけではなく、大勢の日本国民のためでもあり、止めなければなりません。この危険を認識しながら、全く何もしないということはあり得ず、その姿勢に古代イスラエルの末裔としての日本人の生き様やキリスト者としての人間性が問われていると思います。ただ、残念ながら大勢の国民が悪の実態を認識せず、「今だけ、金だけ、自分だけ」で生きてきており、更には大勢がワクチン接種をして自分で物事を考えられずゾンビ化しており、大勢が改まるのは厳しいのが現実です。何より、聖書では獣を拝まねば殺される、かつてない大艱難が預言されており、それは必ず起こります。だからこそ、希望を持つ対象は、世直しではなく、全ての不義を裁かれる主イエスの正義と死後の報い(永遠の命)でなければなりません。主イエスが世の終わりに関する預言をお与えくださった意味を考えるべきです。

上記の引用に『闘いの中に活路が見えることはよくあります。それを「光」と呼ぶのかもしれません。』と書いておりますが、「世直し」という意味での闘いでは光は見えないと思われます。暗黒社会が現実のものとなるのは間違いなく、そうなった時には絶望しかありません。絶望した時に投げ遣りになったり、悪に屈したりするかもしれません。そうなると、これまでの闘いが何であったのかの意味を失う可能性もあります。しかし、聖書真理に立てば、世における権勢や生存が勝利条件ではなく、たとえ命を失っても聖書の神に従い通すことが勝利条件であり、真のキリスト者としての証拠でもあります。命を失っても屈服を拒み、精神の自由(悪を拝まず、主イエスのみを崇拝する)を手放さない生き様は旧約の預言者や主イエスやお示しくださいました。それに倣う時と機会が間もなく訪れようとしております。

 

そして、主イエスは、御自身も福音を宣べ伝えられ、キリスト者にも福音を宣べ伝えよ(マルコによる福音書十六章十五節等参照)とも言われました。福音(罪の赦しと永遠の命を得る機会)は、現実生活と切り離された事柄ではありません。この世の、各位が生きているあらゆる場面において、残りの生涯を通じて、全身全霊で神を愛し通して、神に忠実であることを神にお示しすることになるからです。その妨げになるのが、世の悪による偽り、妨害、世への恭順や屈服です。この世の支配者(悪魔)は、支配層(悪魔崇拝者)を配下に、悪の極みの新世界秩序を構築しようとしております。彼らにとっては、反キリストが標準であり、社会の仕組みも聖書に反する仕組みであり、世の動きと福音が大いに関係することです。誰もが聞き入れ、誰もが救われる訳ではありませんが、神がお選びになった失われた羊に向けて真実と福音を伝えることがキリスト者の正しい(神の御命令に適う)務めです。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から三十節のタラントンの例えについて、福音伝道の働きと絡めて触れていきます。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から十六節(参照)

(各天の王国は)ある人が遠い国へ行くようである。彼は自分の僕を呼び、自分の財産を彼らに委ねた。ある僕には五タラントン、別の僕には二タラントン、更に別の僕には一タラントンを彼らの能力に応じて託した。そして、直ちに彼は旅立った。それから、五タラントンを受け取った者は行って、それで精を出して働いた。そして、他の五タラントンを稼いだ。

 

ここが天の王国の例えであることから、「財産」自体は天に宝を積む(マタイによる福音書六章二十節参照)の例えの通り、神の目に善しと評価されること全般を指すと思います。それは各位の行いであったり、また、それを「委ねて」いることからも真の聖書福音などの正しい聖書の知識をも指すと思います。「能力(δύναμις)」には言葉通りに、その人固有の力、内在する力、その人が発揮する力です。各タラントンを主人(「ある人」)は僕に預けました。ここでは、具体的に何をするのかの指示は見受けられません。ただ、「委ねた」「託した」とあるだけです。推測となりますが、タラントンを預けられた段階で、僕は「主人(ある人)の意図を既に理解している」ことが求められていたと思います。このことは現代の我らのキリスト信仰そのものです。我らは聖書を与えられ、聖書を正しく読むことで何をするべきかを知るでしょう。『人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。(ミカ書六章八節:私訳)』の言葉が思い起こされます。だから、その指示を誤解釈してはいけません。誤解釈の最たる例は、パウロ教徒らの「行いは不要」とする律法廃止論が挙げられます。そして、新共同訳では僕は「商売」をしたとありますが「ἐργάζομαι(精を出して働く)」には、骨を折って働くことが主たる意味です。確かに「商売」の意味もあるのですが、原語から判断するに、ただ儲ければ良いと言う訳ではなく、また、楽して稼げば良いという訳でもありません。骨を折って働くことには、真剣さも、自己研鑽も、時間をかけることも求められると思います。自分に委ねられた分だけしっかりと働くことが求められております。ここではやはり、福音伝道という働きの意味があると思います。二十四章二十四節と二十六節では「σπείρω(種を蒔く)」の言葉が用いられておりますが、種を蒔くとは『悪を蒔く者は災難を刈り取る。(箴言二十二章八節:私訳)』『義を蒔く者には真の報いがある。(箴言十一章十八節:私訳)』などの言葉からも分かるように何かしらの報いを前提とした行いの意味が窺えます。現代の我らにとって、マタイの本聖句は主イエスの宣教命令(マルコによる福音書十六章十五節等参照)が前提にあります。救われるべき失われた羊に福音が届けられ、救われることは神の御心だからです(マタイによる福音書十五章二十四節、ヨハネによる福音書十章二十八節等参照)。ただ、誰が失われた羊であるかは人間には分かりません。最期まで忠実であることが求められるため、全ては招き、選ばれた神だけがご存じです。ここでは、自分の能力に応じて、一生懸命に福音伝道をする、能力を行使しきることが求められているのだと思います。人には能力に差異があって当然です。決して出来ないことが求められている訳ではないことにも注目するべきです。誰かと比べる訳でもありません。自分の経験を踏まえてですが、人は自分の能力は過大評価しがちだと思います(正確には、正しく客観的評価が出来ないことが多い)。その割には自分に出来る事を過小評価しがちだと思います。それゆえ、怠惰に陥りやすいと思います。先には自己研鑽とも言いましたが、自らの怠惰さに負けず、自分に打ち勝つ心が最も重要です。そして、興味深いのは多くを預けられた者はきちんと稼いでいるにも拘らず、一タラントンを預かった者は「我は恐れて、行って、貴方のタラントンを地に隠しました。(マタイによる福音書二十五章二十五節参照)」と全く稼ぐことが出来ておりません。単純な物言いは危険だとは思いますが、能力が高くない者は能力の活かし方をも不得手なのかもしれません。勉強に置き換えると、偏差値の高い人ほど基本的にはよく勉強し、低い人はそうではありません。そのような傾向は確かにあると思います。手前も能力は高くない故、我が事のように感じます。また、「κρύπτω(隠した)」とは、言葉通りに「秘密にする」ことです。福音を宣べ伝えなかったどころか、敢えて知っていて隠したのは非常に宜しくない行為です。知らないよりは、知っていたにも拘らず伝えなかった不作為の方が質が悪いのは言うまでもありません。現実社会において、ただ怠惰なだけではなく、人の目を恐れることで福音を恥とする(ローマの信徒への手紙一章十六節参照)ことすら残念ながら起き得ることです。「持っている者は皆、与えられ、豊かになるであろう。しかし、持っていない者は、持っているものさえも取り上げられるだろう。(マタイによる福音書二十五章二十九節参照)」とあるため要注意です。ちなみに、知られていることですが「τάλαντον(タラントン)」は、当時の「通貨」でもあり、「才能」をも意味します。能力に応じて託されたタラントンの多寡は、そのまま才能でもあり、持ち腐れでは役に立たない僕と言われて仕方がありません。手前自身にこそ突き刺さりますが、この箇所は厳しくも、そうならないようにと注意されているのだと思います。まさしく戒めです。

 

今は世の終わりの時で、福音伝道が可能な時は少ないと思われます。マタイによる福音書二十章一節から十六節にぶどう園の労働者の例えがあります。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けから出かけました。九時、十二時、十五時、十七時とそれぞれの時刻に労働者を募り、一日一デナリオンの約束で雇いました。報酬は最後に来た者から、一デナリオンずつ払いました。朝から働いていた人は、最後に来た人より多くもらえると思いましたが同じ一デナリオンでした。「この人たちは最後の一時間を働いて、彼らを日中の暑さと負担に耐えた我らと同じに扱った。(ヨハネによる福音書二十章十二節参照)」と不平を言いました。「我が自分のものをしたいようにするのは正しくないのか。我は気前が良いから、お前の目(妬み)は悪くなっているのか。このように、最後の者が最初となり、最初の者が最後となるだろう。多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は殆どいないからである。(マタイにより福音書二十章十五節から十六節参照)」との言葉から、どんなに遅く働き手となったとしても最後まで働いていることが報酬を得られる条件となっております。早いか遅いかよりも、最後まで勤め上げることが大事だと分かります。早くに神に招かれたからと言って、遅く招かれた人よりも多くを得るのではなく、神は基準を満たす者に対して平等なのだと思います。また、罪に関して言えば「悪人が自身の犯した全ての罪から立ち返り、我が掟をすべて守り、法に適って正しいことを行うなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。(エゼキエル書十八章二十一節参照)」「しかし、正しい(法に適う)人が正しさから離れ、不法を犯し、悪人が行う全ての忌まわしい行為に従なら、彼は生きられるだろうか。 彼が行ったすべての正しさは自身の罪と不法行為の故に覚えられず、自分が犯した罪によって彼は死ぬであろう。(エゼキエル書十八章二十四節参照)」の言葉からも、信仰に入ればそれで良いという訳ではないことが分かります。先にキリスト者として、神に拠る正しさを知り、法に適う行いをしたとしても途中から堕落したら元も子もありません。また、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は殆どいないからである。(マタイにより福音書二十章十六節参照)」という一文が新共同訳では欠落しておりますが、原典には記されております。この言葉の通りに、招かれるのが早くても遅くても、最後まで忠実であることが如何に難しいかを物語っております。今は世の終わり間際で、今この時は今聖句箇所にある十七時の状態、残り一時間足らずの労働の機会が残されている状況に等しいと思います。主イエスの御命令通り、自らも律法を守り、真の聖書福音を(偽福音伝道では駄目)恐れずに伝えるべきです。

 

四、敵対者に善いことをする

マタイによる福音書五章三十三節(私訳)

しかし、我は言う。お前たちは、お前たちの敵を愛し、お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり迫害する者のために祈れ。

 

マタイによる福音書五章三十三節について、新共同訳では「お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり」の部分が欠落しております。しかし、原典では上記の一文があります。中でも「善いことをせよ」との行動部分に言及していることは重要だと思います。同じ内容に言及しているルカによる福音書六章二十七節でも欠落しておりますが、同じく「善いことをせよ」の一文があります(参照:真の聖書福音と預言「本物の愛」)。そして、「愛せよ」「祝福せよ」「善いことをせよ」「祈れ」の四つの動詞がそれぞれ「命令形」となっていることにも留意が必要です。自分を愛してくれる人を愛するのは当然であり、それは誰でも行っていることである(マタイによる福音書六章四十六節から四十七節及びルカによる福音書六章三十二節から三十四節参照)と言われている通りです。ましてや、これから過酷を極める大艱難期では、主の名のためにあらゆる民族に嫌われる(マタイによる福音書二十四章参照)のですから、真のキリスト者に肯定的な人だけを対象とするのであれば、もはや他者に対して「愛する」「祝福する」「善いことをする」「祈る」ことも出来なくなります。大艱難期は悔い改めができなくなっている時期ですが、今はまだそこに至ってはおりません。どこかで誰かが見ている可能性もあり、また、一時的に敵対しているようでも改心する可能性もあります。『お前たちは地の塩である。しかし、もし塩が塩気を無くしたら、何によって塩味を付けられるだろうか。これからは何の役にも立たず、また、外へ投げ捨てられ、人々によって踏みつけられる。お前たちは世の光である。山の上にある都は隠れられない。灯火を灯して、それを升の下に置きはしない。しかし、燭台を上に置けば家の中を全て照らす。このように、お前たちの光を人々の前に輝かせよ。お前たちの価値ある行いを見て、各天にいるお前たちの御父を崇めるようになるためである。(マタイによる福音書五章十三節から十六節:私訳))』の聖句にある通り、光で照らすべきです。

 

人々がお前たちにすることはお前たちが望むことであるように、お前たちもまた彼らに同じようにしなさい。(ルカによる福音書六章三十一節:私訳)の聖句がありますが、これは表面的に受け取れば人間的道徳にも適う事柄です。しかし、マタイによる福音書五章三十三節の原典にあるように「親切にする」のではなく「善いことをする」ことの意味を考えるべきです。「καλῶς(善い)」の原語は、「倫理的に申し分なく完全」であるとの意味です。それは神の律法、掟、戒めに適うということです。「親切」の言葉だけに着目するならば、場合によっては情を優先して、相手の心に波風立てないように、伝えるべきことを伝えない事態が起こり得ます。しかし、そんな顔色を窺うような表面的なことよりも、目を向けるべきことがあります。それは、死後の永遠を決める神の裁きであり、第二の死という有罪判決です。聖書にある火の池などの地獄の描写は実に恐ろしく、相手が誰であってもそのように滅ぶことを望まないのが普通ではないでしょうか。出来るなら有罪判決を回避して欲しいと思うと思います。また、「καταρωμένους(呪う)」の原語には、「凶運」「破滅」「(有罪の)判決」「(厳刑の)の宣告」の意味があります。「呪う者」は神が為される裁きに勝手に言及しているばかりか「訴え出るサタン(ゼカリヤ書三章一節参照)」をも想起させます。さながら人を呪う行為はサタンに倣っているようにも感じます。主イエスは、敵を愛する姿勢を説かれ、ファリサイ派の人々や律法学者を弾劾しつつも、為すべき善を伝えました。安易に相手を肯定することは敵を愛することを意味せず、改めてもらうために厳しく指摘したり、叱責することで最悪を回避出来て良い方向に向かうならば、それは善きことだと考えます(同時に、相手が応えるかどうかは相手次第であることにも留意が必要です)。

 

 

五、孤独を恐れない

過去記事でも触れましたが、ワクチン関連で親族や友人との関係に亀裂が走った方々がおります。国民の八割以上がワクチンを接種していることから、もはや世の多数とは相容れないのはやむを得ないと思います。そうかと言って、真実を知りながら何も知らなかった時のように能天気には生きられません。ワクチンの危険を認識せずに進んで受け入れる様子は、はっきりいって異常でしかなく、ワクチンに限らず政府が人口削減を促進していること(憲法を改悪して戦争を始めようとしている、日本人を抑圧しながら移民を優遇する、経済を悪化させながら増税して日本人の生活環境を悪化させる等)などを認識せずにいるのも同様です。今の日本社会において、明確に真実の立場を取る者は少数であるのは事実だと思います。身近に誰も理解者がいなければ「孤独」を感じるかもしれません。しかし、間違った大勢で群れても無意味です。また、「孤独」と聞くと、少数派でいることが悪いかのような前提が今の社会にあると思います。こちら(X)で『学校は "権威 "への反応を習慣化するために「12年間の義務教育」を設けた』とあるように、皆が同じように従順であるように「躾け」られております。「躾(しつけ)」の漢字は「身」と「美」で構成されているにも拘らず、その実態は権威に従順な機械かのようであるのは何とも皮肉です。間違いだらけの多数に従うことは無意味で、むしろ堕落です。もし、そこで「安心」を感じているのなら誤った安心感です。大勢と同じでないと寂しい、孤独を感じるというのも植え付けられた価値観である可能性もあります。間違った多数を拒絶することは正しいことであり、本来は「分別(物事の道理を判断する)出来ている」と言うべきなのだと思います。なぜなら、聖書に記された正しい生き方だからです。たとえ世が認めなくても、神の真理が絶対です。旧約の預言者は(人には都合が悪いと感じる)神からの言葉を告げた故に多数に嫌われ迫害されました。主イエスも同様です。弟子たちの多くが離れ去って、主イエスと行動を共にしなくなり、主イエスがお選びになった十二人の弟子だけが残りました(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)。このことは主イエスの終末預言にある、多くの人が信仰から脱落した(マタイによる福音書二十四章十節参照)ことにも重なります。真理よりも世の常識や自分の生活を優先すればそのようになってしまうのだと思います。また、十二人の弟子は主イエスが直接にお選びになったことから、世の終わりにも主に招かれただけで選ばれていない者は同様に脱落するのだと思います。また、『我が平和をもたらすために地上に来たのであろうと考えてはならない。我は平和ではなく剣をもたらすために来た。我は人をその父に対して、娘をその母に対して、義理の娘をその義理の母に対して不和をもたらすために来たからである。それゆえに、その家族はその者の敵となる。我よりも父もしくは母を愛する者は我がものに値しない。我よりも息子もしくは娘を愛する者は我がものに値しない。自分の十字架を受け入れない者や我が後に従わない者は我がものに値しない。(マタイによる福音書十章三十四節から三十九節:私訳)』とあることからも、皆が一緒にということは起こり得ません。主イエスがわざわざこのように警告してくださっているのですから、そのような心づもりでいるべきです。ちなみに、「μάχαιρα(剣)」には、比喩的に「争い、戦争」「司法の罰」の意味があります。そして、「διχάσαι(不和)」には「分離」「相違」の意味があります。家族間において、真に神に従うか否かが問われる時に違いが出て、神を一番としない不信仰を神は裁かれるのだと思います。神の言葉は剣であり、主イエスの口から剣が出ていることはヨハネの黙示録一章十六節、二章十六節、十九章十五節、十九章二十一節等に記されている通りです。罰を受けるような選択をする者たちと同じになっては道を逸らすだけです。大事なのは、真の聖書福音に対する信仰を分つ相手です。主イエスは信仰の兄弟で愛し合いなさい(ヨハネの手紙十三章三十四節参照)と言われました。共に神を信仰し、世に抗い、互いに励まし合える兄弟の存在は、この世において仲間や同士以上の存在です。兄弟で愛し合うことは主イエスの新しい戒めであり、これによっても決して孤独にはならないと思います。 また、「使徒たちは、自分たちが神の名のために虐待されるに値されたことを喜びながら、最高法院の前から立ち去った。(使徒言行録五章四十一節参照)」とあるように、困難を経ても尚、喜びがあります。万物の主権者である神の御心に沿うことは何よりの光栄であり、人に認められるよりも優ります。神と兄弟と信仰によって共に居ることが出来れば、尚のこと、孤独ではないと思います。

 

 

  結び

 

世の悪の実態を伝える者たちはよく「目を覚ませ」という言い回しをします。それは世の悪に無自覚で、世の権威を盲信している人たちへの警告としてです。しかしながら、世の悪や悪い仕組みにだけ言及していたのでは不十分です。その悪が、何を拠り所に活動しているのかを知れば、悪魔であることが分かります。悪魔は一時的にこの世を支配する力が与えられており、悪魔崇拝者は自らの魂を売り、刹那の繁栄を手にします。彼らは悪魔と同様に神を憎み、古代イスラエルの民の末裔のいる日本を憎み、神に選ばれた者をも惑わそうと徹底的に攻撃をしてきます。だからこそ、却って世の権威がひたすら聖書真理を隠そうとしていることや実現してきた聖書預言の数々、人となって来られた主イエス、その素晴らしき教え、首尾一貫する聖書の筋道(パウロ書簡を除く)を知れば、聖書が真理であると分かります。真の聖書福音にしか救いはありません。世の真相を知るだけでは「目を覚ます」ことを意味しません。もう一段階の高い視座(聖書真理)が不可欠です。

 

マタイによる福音書二十四章四十二節(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」

せやから、目を覚ましていなはれ。何刻、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。

 

「γρηγορέω(目を覚ませ)」には、用心深く、油断なく、起こることを待ち受けることが含まれます。何故用心するのか、油断してはならないのか、何を待ち受けるのか、総じて神が人に何を求めておられるかを知らないようでは話になりません。人には、一度死ぬことと、死後に裁きに遭うことが定められているからです。

 

戦争や戦争の噂、死亡超過、腐敗と無秩序が極まる政治を日々、目にするのは確かに気が滅入り、苦痛です。この困難の中にあって、自分が真に何を為すことについて、やり切れるかを何度も何度も試され、問われることと思います。しかし、最期まで世の悪や自己愛に打ち負かされず、自分を捨てて、神に聞き従い、信仰の兄弟と愛し合い、隣人に善い事をし、最期には罪に打ち勝てるように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。