こんにちは。

 



今回は、前回の続きで、聖書(偽使徒パウロの書簡は除く)を基に、聖書の終末預言の考察を述べます。長くなるさかい、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで世の諸教会や諸教派が垂れ流す嘘や欺瞞をかなぐり捨てて、正しい終末に対する認識を持ち、各自が賢く備えてることを願うてます。

マタイによる福音書の終末の兆候の続きを見てみよう。主イエスは、以下のとおり教えはった。



 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章三十二節〜四十四節(拙訳)
更に、いちじくの木の例えから学びなはれ。その枝が既に柔らかくなり、葉を出したら、夏が近いことが分かる。かように、あんた方はこれらすべてを見たなら、入口に近いと分かる。確かにあんた方に言うとく。これらすべてが起こるまで、その時代は決して滅びひん。この天と地は滅びるだろうが、我が言葉は決して滅びひん。
せやけど、その日、その時間については、我が父だけを除き、誰も知らへん。各天の天使たちも知らへん。更に、ノアの時代のように、人の子の来臨もそのようであろう。大洪水の前の日々のように、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしてるさかい。そして、大洪水が来て全員を滅ぼすまで、人々は分からへんかった。人の子の来臨もまた、そのようであろう。その時、畑に二人の男が居れば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が製粉場で挽いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。せやから、目を覚ましていなはれ。何刻、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。しかし、このことをあんた方は理解しとる。もし家主が泥棒はどの見張りに来るかを知っとったら、目を覚ましていて、自分の家に押し入らせへんやろう。せやから、あんた方も用意していなはれ。思いがけへん時に人の子は来るさかい。


一、世の情勢を知ることは必要不可欠
主イエスは、いちじくの木の成長を観察すれば季節が分かるように、この世の情勢を観察して聖書と照らせば終末の時期も分かると教えはった。せやから、聖書の知識を蓄えることと同じように世の情勢を知ることも信仰生活に必要不可欠と言える。但し、支配層の陰謀を調べるのに夢中になり過ぎて聖書研究や伝道活動が疎かになるようではあかんが、この世の動向について無知過ぎるのもあかんのや。それなのに、この世の悪について話すと、途端に嫌な顔をしたり、話を聞こうとせんかったり、「陰謀論だー」等と莫迦の一つ覚えで貶すことを言う人は神の民ではなく、滅びるべき悪人であることが分かる。そして、不信仰者やパウロ教徒にかような愚か者が非常に多い。主イエスは、「いちじくの木の例えから学びなはれ。」と御命令しはってるにも拘らず、パウロ教徒はその主イエスの御命令に逆らい、この世の情勢について学ぼうとせず、律法を守らんでええとか艱難期前に携挙される等といった虚偽の作り話を言う牧師等といった偽教師の言うことを鵜呑みにし、真実の情報を拒絶する。せやから、この点においてもパウロ教徒は主イエスに逆らう反キリストと言える。こないな愚民は、不信仰者と共に支配層の家畜となる故、支配層と同様に神から忌み嫌われる悪人や。
神から認められたヨブは、「悪を避ける」(ヨブ記一章一節、八節、二章三節参照)という姿勢であり、ヨブはこの世の悪を知ってたからこそ、悪を避ける生活をした。神の律法や戒めに反することが罪であり悪であると知らんなら、悪を避ける生活はでけへんからや。また、「この世全体が悪い者の中にある」(ヨハネ一 五章十九節拙訳)という認識が無い人は悪を避けず、それ故に悪を行ったり、悪に加担する者である。せやから、多くの人間は聖書を無視したり、たとえ聖書を読んでも理解して実践しておらず、政府等といった世の権威が悪事を隠し、根拠も無く真相を否定し、真相を暴く人の意見を検閲して削除したり等と憲法違反の言論弾圧をし、一般人も世の権威に同調して「陰謀論だー」等と莫迦の一つ覚えで言うて事実を否定し、この世が良いものとか善人が多いと思い込んでるすべての者は滅びる。現代ではこの世の悪に気付き、コロナという偽感染症騒動を契機として真相を追求する人やとんでもない悪人どもによってこの世は支配されてる事実に気付いた人は以前よりも増えたが、それでも聖書を読まず、神の律法を守らへん不信仰者が多いし、聖書を支配層の計画書と中傷する愚民も一定数居る。こないな者どもは知能に問題があると言わざるを得ない。なぜなら、聖書を知らぬのに偉そうに知ったかぶって嘘を言うてるさかい。拙者のように聖書を知る者からすれば彼らの主張は嘘と即座に分かり、非常に惨めに見えるからや。更に、聖書には悪魔とその手先となってる権力者や不信仰者たちが最後には地獄行きになって滅ぼされると明記されてるからや。悪魔崇拝者である支配層やその手先となってる国際機関や各国政府どもと、その悪人が正しいと信じて盲従する愚かな一般人も救われる訳ないやろ。せやから、聖書が支配層の計画書とは言えへんのや。誰が自分たちが永遠の破滅という刑罰を受ける結末を書くのかってことや。有り得へん。聖書(パウロ書簡を除く)を貶す者は、主イエスを貶す者であり反キリストであることは揺るがぬ事実や。

二、終末の兆候すべてを見たなら、神の王国の到来は間近
主イエスが当該聖句で言わはる終末の兆候すべてとは、過去記事「聖書の終末預言 一」から始まるマタイ二十四章で示される主イエスが予告しはった現象を指す。その文脈から、偽メシアや偽預言者が多く現れ、多数の人々を惑わし、神の律法に違犯する不法行為が横行し、人々の慈愛が冷やされ、戦争や戦争の風評を聞き、人が争い、国家間で争い、方々に飢饉と悪疫と地震が発生する。そして、それらは「産みの苦しみの始まり」と主イエスは言わはり、神の王国の到来に向けてのこの世の悪が極まり、苦しみの序章でしかなく、その後も苦難が続くことが示されてる。
黙示録では、主イエスは御自身のことを「我は、ダビデの祖先にして、その子孫、明けの輝く星や。」(黙示録二十二章十六節拙訳)と言わはった。イザヤ書十四章十二節にも同じように訳される「הֵילֵל(ヘレール)」という単語があり、そこは文脈上、悪魔となった堕天使ルシフェルの描写であり、「なんや、イエスと同じやないか」と思われるかもしれんが、同一やない。堕天使の気質を考えれば分かるやろ。何故、ルシフェル等といった一部の天使たちは、天から落とされて堕天使になったのか。それは、自分の力を過信して自惚れ、被造物の立場を弁えず、思い上がって神のようになろうとしたからやろ。せやから、悪魔は神に憧れて神のようになろうとし、神の真似をするのがその特徴で、似て非なる存在や。悪魔は、神である主イエスを真似て、善なる光の存在であるかのように人間に思わせ、礼拝や服従を求める。せやから、悪魔崇拝者である支配層とその手先である各国政府は、不正選挙で悪い国会議員や都道府県知事や市町村長を構成し、不正な公務員採用で悪い官僚を構成し、権力を持つ地位の者をすべて支配層の手先で固め、抑圧的な法律案を作って国会で強行採決で無理やり成立させ、その悪法によって庶民を強制的にでも服従させようとする。司法機関(裁判所)や弁護士等も行政の手下であり、支配層や政府等の味方をし、庶民の迫害に加担してる。
使徒言行録に書かれてる偽使徒パウロに現れたとされる光り輝いてた者、パウロに反キリスト教義を吹聴した者は主イエスを装った堕天使であろう。一般に「明けの明星」と呼ばれるんは、日の出時間が近付いて薄明の段階で一際明るく見える星のことを指す。西洋の諺で、「The darkest hour is always just before the dawn.」というのがあり、これは、「最も暗い時間は毎度夜明けの直前や。」(拙訳)という意味で、実際の天文とは異なる。なぜなら、太陽は光を発しており、太陽自体が見える前に先に太陽光が視界に入るからや。太陽が地平線に差し掛かる日の出の前から空は日の出前から徐々に明るくなり、この現象を薄明(はくめい)という。日の入りも同じで、太陽が遠ざかって地平線から見えなくなる日没の時間から完全に暗い夜になるまでには薄明かりの状態が続くのと一緒や。せやから、当該西洋の諺は現実の天文とは一致せず、むしろ、「最悪な時間はそれが終わる直前。せやから、それを耐え忍べば、後でええ事があるから頑張れ。」といった励ましの意味が込められてると解釈すべきだろう。そして、その意味において、主イエスが「明けの輝く星」と御自身を表したんは繋がる。聖書で予告される大艱難は、未だかつて無かったような大きな苦難で、それは終末時代に起こり、それを経て、主イエスが再臨しはって、この世もろとも悪人どもや悪魔も滅ぼし、主イエスが王として統治しはる真の平和な世の中になるさかい、その時まで頑張って耐え忍べということや。しかし、こちら(YouTube)で紹介されてるように、最近、一部の人が日本で二千二十五年に大災害が起こるが、その後で日本は良くなる等と吹聴してる者が居る。しかし、福音書に書かれる主イエスの予告には将来この世が好転することはまったく示されておらず、それ故に嘘と分かる。偽り者は毎度、耳触りのええことを言うて人々を油断させたり、根拠の無い安心感を与え、それで人々の支持を得ようとする。無知で愚かな不信仰の人々は、自分たちに都合のええ事にしか興味が無い悪人やからや。そないな悪人こそ、拙者の聖書に基づく福音伝道に耳を貸そうとせえへんし、拒絶したり、嘲ったり、中傷する。聖書を見る限り、旧約時代からずっと偽預言者どもといった偽り者どもは「平和だ、悪い事は起こらない」等と言うて、人々に偽りの安心感を与えて、油断させ、有事の際は人々は不意打ちを受けたようになり、当惑し、混乱し、まともな判断も行動もでけへんようになる。なぜなら、偽り者による耳触りのええ偽情報を信じて安心しきって、眠りこけ、準備してけえへんかったからや。エレミヤ書二十三章十六節〜十七節にも「平和だ、災いは来ない」等と耳触りのええことを言う偽預言者について書かれてる。また、偽預言者ハナンヤも主から託宣を受けたかのような口ぶりで人々を安心させることを言うたが、預言者エレミヤから「民を安心させようとしてるが、それは偽りや。」と指摘された(エレミヤ書二十八章参照)。耳触りのええことを言う者どもは、その実は、その人間自身の心の幻を語ってるだけで神の御意志やないし、人々に虚しい望みを抱かせるだけで終わり、結局はその期待を裏切るもんや。主なる神は、人間に対して、神を創造主として信じて畏れ敬い、神の律法、掟、戒めを守り、隣人に対して慈愛あるええ行いをするようにと要請してはるのに、神に聞き従わずにそれらを行わへん多数の人間を助けはる筈がないやろ。唯一の神を信じず、その神が要請しはることを行わへんような悪い人間を、どうして神が救おうと思うんか。有り得へんやろ。せやから、自分らにとって都合のええ情報を探し、安心出来ることを言う人の許に集まったとて意味は無く、ただの悪人の集まりに過ぎひん。先に紹介した動画投稿者は、現時点で百八十万人も登録者を持つスピ系や都市伝説系の動画を出す人で、拙者からすれば彼の何がええのか理解でけへん。おそらく支配層と何らかの関わりを持ってるから、ここまで世間に認知され、ユーチューブという違憲の検閲行為を堂々とする会社の下で金儲け出来て、多くの人から仕事を依頼されたりと優遇されてるんやろな。熱心にあないな情報を見て、真に受けて魅了されたり、惑わされてるような人たちに救いは無いだろう。真のキリスト者とそうでない人との感性はまったく異なり、不信仰者や異教徒等があないなもんを好み、真理を拒絶する。
主イエスは、終末の兆候すべてを見たら「入口に近い」と言わはった。即ち、新たな世への入口が近いということやな。これは、「新しい天と新しい地」(イザヤ書六十五章十七節、六十六章二十二節、ペトロ二 三章十三節、黙示録二十一章一節)という新たな世が来ることを意味し、この世の支配層が目指す新世界秩序(NWO)やない。前回記事「聖書の終末預言 二」で引用した聖句で携挙を示す場面がある。大艱難の後、艱難期末期に主イエス・キリストが再臨しはり、天使たちが真のキリスト者を集めて新たな世へと運ぶということや。新たな世が今の天地の世ではないことは、聖書では複数回預言されてることや。真のキリスト者は、キリストの再臨前にこの世で死しても復活してそこで暮らすことを切望してるんや。そこでは、主イエスが王として統治しはり、もはや悪を行う者や神に逆らう不届き者も居らんさかい、平和で終わりが無い永遠の世界になる。そこに入りたければ、聖書と拙者の伝道に聞き従う必要がある。世の諸教会や諸教派が信奉する偽使徒パウロの偽福音や偽教義は、主イエスが滅びに至ると警告しはった広い門であり広い道や。パウロ教徒で占められる世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント、その他すべて)に属す者、教会に属さんでも同じような信条を持つ者、また、自分自身の考えが正しいと根拠も無く思い込む高慢な律法主義者等は反キリストであり、反聖書的で神に逆らう生き方をしてるさかい、無宗教を自称する世間の大多数の不信仰者と同じように救われへんであろう。

三、終末預言がすべて実現せん限り、最後の時代は滅びひん
主イエスが言わはった「その時代」とは、この話が世の終わりが論点やさかい、世の終わりの直前の最後の時代ということになり、過去の話やない。たまに、この話が一世紀のユダヤ戦争でユダヤの滅亡のことで、過去の話で未来のことではないと嘘を言う輩が居るさかい、注意しなはれ。
今後、戦争や大災害が起こって、その被害が甚大やと、悲観して「この世の終わりだー」なんて言うたり、思う者が少なからず出て来るだろうが、それは「産みの苦しみの始まり」であって、すぐに世の終わりではないとも主イエスが明言してはるさかい、勘違いせんようにしなはれ。聖書に書かれてる終末の兆候のすべてが起こるまで最後の時代は滅びひんと主イエスが断言してはるさかい。今がその最後の時代である。もう世の終わりに差し掛かってることは薄々勘付いてる人は居るやろ。悪魔崇拝者である支配層も二千三十年までに悪の支配体制である新世界秩序(NWO)を確立するのに必死で、彼らも大体分かってるんや。せやから、彼らはこれ程までに急いで悪事を行い、司法機関(裁判所)も支配下に置いて支配層や行政に逆らわぬように無力にし、堂々と憲法や法律等も無視して違反して犯罪を犯し続け、正義がこの世で失われており、為政者は益々調子に乗って人々の人権や自由を奪い、超監視管理社会にしようとしてる。拙者が過去記事「全力で改憲反対してワクチンも拒否せい」をはじめ、何遍も警告してきた憲法改悪の危機があり、それでも多くの日本人は阻止に向けて行動せえへんさかい、憲法が改悪されるとそれに従う者が大多数なんは目に見えおり、正しい人がどんどん迫害されて消され、社会は臆病者や悪を愛する悪人だらけになるであろう。
黙示録十三章にあるとおり、悪魔の代理人たる獣に従わねば生きて行かれへんような社会にするのが悪魔と悪魔崇拝者である支配層の最終目的であり、聖書はその悪魔と支配層の悪事を前もって知らせてくれて、ローマ教皇や偽ユダヤ人どもの支配層やその傀儡である政府に従わぬようにと警告してるのであり、支配層の悪事を擁護してるのでもないし、世の権威に従うように勧めてるのでもない。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」でも拙者が言うたとおり、世の権威への服従を説いたパウロは反キリストや。世の権威に服従してるようでは、獣の刻印を受けて、地獄行きになるだろうからや。主イエスや十二使徒は、支配層や政府といった世の権威に従うようにと教えたことは一遍も無いし、拙者も教えてへん。しかし、神に逆らう大勢の人間は、その心の悪さから世の権威に服従し、獣の刻印を受け、悪魔や支配層の悪人と共に永遠の破滅という刑罰を受けるであろう。

四、この天地は滅びるだろうが、主イエスの御言葉は決して滅びひん
多くの人間は不信仰であり、今在る天地が滅びず、この先何十年、何百年と引き続き存続すると思い込んでる。しかし、主イエスはそないな大多数の人間の妄想を明確に否定してはる。拙者は、聖書に書かれてる主イエスの御言葉を信じてるさかい、世の多数派のように脳内お花畑で呑気ではないし、この世にしがみつくような生き方もせえへん。繰り返すが、主イエスはこの天地、即ち、この世は滅びるだろうと予告しはってる。せやから、いつまでもこの世にしがみつき、無駄に長生きを目指したり、健康オタクになったり、金銭を稼ぐことに没頭したり、快楽や娯楽ばかりに夢中になるとか、神の律法に違犯する行いや生き方を改めるべきや。それこそ主イエスが説きはった悔い改めや。終末時代に及んでもなお、「金が欲しい」等と思い続け、聖書を読まず、拙者の伝道を無視し、自分らが思うことを正しいと思い込み、好き勝手にやってるようでは確実に滅びるであろう。ヤコブが「あんた方の富は腐り、あんた方の衣服はぼろぼろになる。あんた方の金と銀は錆び付き、それらの錆はあんた方への証拠となり、あんた方の肉を火のように食い荒らすだろう。あんた方は終わりの日々に富を蓄えた。」(ヤコブ五章二節〜三節拙訳)と言うてるとおり、富める者は終わりの時代になってもなおこの世の虚しい金銭や金銀等を求め続けており、そないな人間は地獄行きになり、自身を焼くことになると示されてる。一部の人間だけが稼げるような利権の仕組みを作り、既得権益を守るために悪事を働き、多額の金銭を稼ぎ、金銀といった貴金属やその他の財産を溜め込むといった自己中心的で貪欲な品性の持ち主で、恵まれへん人を憐れまず助けることもなく、弱者を見下す裕福な人たちは全員、神の王国には相応しくない罪人やからや。このヤコブの言葉は、主イエスが金持ちが天国に行くことはないと言わはったのと一致してる。しかし、金持ちではないだけで天国行きになるのでもなく、弱者であろうとも不信仰であるとか品性や行いが悪いなら救いの希望は無い。そして、聖書(パウロ書簡を除く)に書かれる主イエスの御言葉は永久不滅や。「誰も二人の主人に仕えることはでけへん。一方を嫌って他方を愛するか、一方に忠誠を尽くして他方を蔑ろにするか、やさかい。神と富(の両方)に仕えられへん。」(マタイ六章二十四節拙訳)という主イエスの御言葉を肝に銘じなはれ。富に仕える者、即ち、金儲けに必死になって世俗の仕事や投資等に夢中になったり、その他の財産等を集めるのに熱心な者は、神に仕えてへんことは明らかで、地獄行きというこっちゃ。反対に、神に仕えるなら、富とは無縁になり、決して裕福になることはない。せやから、金持ちの人や、金持ちのように見せるために外見を一生懸命に飾ってるような人たちは皆、滅びゆく偽り者と分かる。

五、世の終わりの日付と時間は父なる神を除き、他は誰も知らん
当記事冒頭で話した、世の終わりの時期は大体予測可能ということは否定せえへんが、具体的な日付と時間までは分からんということを主イエスは述べはった。父なる神のみがそれを知り、天使たちも知らんということや。よって、占い師や霊媒師や降霊術等といった高次元のものと繋がるとか言うてるスピ系どもが日付を出して滅亡予言をしたとしてもすべて嘘や。実際、彼らは今まで予言を何遍も外してきた。そのことから懲りろよ。彼らに金を払たり、支援したりするなら悪事に加担して罪を犯してることを認識し、即座にやめよ。また、自称預言者の偽預言者が最近増えてるが、拙者が預言者と認めるような人は現時点では一人も居らず、偽物ばかり確認出来る。かような偽り者を信じず、主イエスの御言葉だけを信じよ。聖書預言は外すことがないさかい。

六、キリストの再臨はノアの時代のようである。大洪水の前の日々のように、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしているさかい。そして、大洪水が来て全員を滅ぼすまで、人々は分からへんかった。人の子の来臨もまた、そのようであろう。
過去にもこのことについて言うきたとおり、キリストの再臨を以って世の終わりとなる。その終末時代は創世記六章に書かれてるノアの時代のようと主イエスは警告しはった。具体的にどういうことかと言うと、ノアの時代の社会情勢は、「また、地は神の御前に堕落し、地は悪事に満ちていた。」(創世記六章十一節拙訳)状態で、それ故に、主なる神は「我が前にすべての肉なるものの終わりが来た。彼らの故に地が悪事に満ちたからや。見よ、我は地諸共彼らを滅ぼす。」(創世記六章十二節拙訳)と言わはり、堕天使と人間の女の間に生まれた巨人であるネフィリムと不信仰の人間たち諸共滅ぼすことを決めはった。地のすべての肉なるものを滅ぼし尽くさねばならぬ程に人間たちが不信仰かつ邪悪で、神の律法に違犯する悪事を多く犯し、酷く堕落した結果や。神の律法に違犯する罪を悔い改めず、好き勝手にしてる人間どもを罰しないかんと神は思し召しで、そないな酷い世界情勢が終末時代も繰り返されるということや。終末時代も、神の律法に違犯する不法(悪事)を働く人間が増え過ぎて、もうこれ以上見過ごす訳には行かず、すべてを一掃せざるを得ない状態にまで悪化するということや。まさに、現代が過去に無かった程の最悪な状況や。二千二十年から続く世界規模のコロナ犯罪がその要因の一つやと拙者は考えてる。実際、悪徳行政とそれに倣う愚民どもによる有害無益なコロナ対策や不当な規制のせいで不正に人権や自由が制限されて大変生きづらくなり、多くの人命や健康が損なわれ、生き残ってる人間たちの品性も大いに悪化し、艱難期の始まりと考えてるからや。また、精神的にも肉体的にも悪いマスク着用の強要や人間の遺伝子を組み換えるというワクチンも有害な強電磁波である5Gの推進や拡大等も赦し難き悪行であり、それも為政者と大企業が共謀して違法に促進し、反省して止める様子も責任を取る様子も無いし、庶民も莫迦ばかりで大規模な抵抗活動等をせずに同調したり、日和見主義で何もせえへん者が多いさかい。また、コロナの嘘に気付いてる人も大した活動もせず放置してるのが多い。かように、この世の人間どもはどうしようもない所まで堕ちてる。ただ、どっかに失われた羊、真のキリスト者となる人材が居て、その成長を待つためだけにこの世が辛うじて存続してるのであって、不信仰の者や異教徒どものために存続してるんやない。
ノアは伝道活動をしながら箱舟を造った。ノアの箱舟に乗り込んで助かったんは僅か八人というめっちゃ少人数であるという事実を忘れるな。過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」でも言及したヤシャルの書に記載内容について紹介しながら話を進める。ヤシャルの書によれば、主の道を歩む者の多くは、神が大洪水の災いを見るべきではないと思し召しはり、その御配慮により、大洪水が起こる前に死んだ。ノアも主の道を歩む者の一人であったが、神は、悪人どもを一掃した後の地でノアの子孫が地に増え広がるようにという御意志から、ノアとその家族は大洪水前に死ぬことはなかった。主の道を歩む者の殆どが死んだ後、神は彼らに百二十年の猶予を与えはり、ノアと義人エノクの息子であるメトシェラに悔い改めを人々に説くように御命令しはり、人々が悔い改めるなら災い(大洪水)を下さへんと言わはった。しかし、人々は頑なで、聞く耳を持たへんかった。当初、ノアは地が神によって滅ぼされることを考え、子供を作る気が無く、妻を娶ることもせんかった。しかし、神はノアに妻を娶って子供を儲けるようにと言わはり、ノアは神の御言葉に従い、そのとおりにした。ノアは五百九十五歳の時、箱舟の建造を始め、五年で完成させた。そして、メトシェラは九百六十九歳(人類史上最長寿)で死んだ後(ヤシャルの書では九百六十歳とあり創世記と九年のずれ有り)、ノアと彼の家族は箱舟に入り、全地の動物が箱舟を囲むように集結し、ノアはその一部だけを箱舟に入れた。それから、神は、全地を激しく揺るがし(地震を起こし)、太陽を暗くし、稲妻が光り、雷を轟かし、すべての水源を破壊しはった。太陽が暗くなるとか地震が起こる等は、福音書の世の終わりの兆候の記述とも重なる。神としては、人々がその災いによって神を畏れ、邪悪な道から離れるやもしれんという期待からそれらの事をしはったが、人々はそれを経験しても神に立ち返ろうとせず、神の怒りを増長させた。そして、ついに裁きの決行である大洪水の時になり、四十日も雨が降り続いた。その水害で危機感を抱いた約七十万人が箱舟に押し寄せ、「あんたの箱舟に入れてくれ」等と叫んだ。しかし、ノアは、「あんたら全員、神は居らんと言い、主に逆らったではないか。それ故、主はあんたらにこの災いをもたらしはった。あんたらを地の表面から取り除くために。このことは百二十年前にあんたらに言うたことやろ。あんたらは主の御声を聞かへんかった。それなのに今、地で生きたいと望むのか。」と返答した。人々は、「我等は主に立ち返る用意がある。ただ我等が生きて、死なないように開けてくれ。」とノアに言い、ノアは、「見よ、今あんたらは自分の魂の動揺を見て、主に立ち返ることを望む。何故、あんたらは百二十年の間に立ち返らへんかったんか。それは、定められた期間として主があんたらに与えはった。今更あんたらは我に魂の動揺故にかように言うが、主はあんたらの言うことを聞きはられへんし、耳も貸しはらへん。それ故、あんたらの望みはもう叶わへんだろう。」と言うた。すると、人々は死にたくないが故に、箱舟を壊して入ろうとした。しかし、主は、箱舟の周りに居る動物たちを遣わし、人々をその場から追い出し、人々は離れて散って行った。その後、大洪水により、地のすべての肉なるものは死に絶え、生き残ったんはノアと箱舟内に居ったものたちだけやった。かように、ヤシャルの書によれば、真の信仰者の多くは大洪水前に亡くなり、七十万人も人々が居る中でたった八名だけが救われ、百二十年もの時間がありながら人々は全然信仰を持とうとか律法を守って善を行う気が無く、好き勝手に世俗的に生活しとったということや。ただ、当時は人間の寿命が今よりも格段に長く、ノアは六百歳の時に大洪水を経験し、現代人と同じ時間感覚ではないが、それでもかなりの長期間伝道活動をし、それにも拘らず、大衆は聞く耳を持たず悔い改めへんかったことが分かる。このことから分かるんは、悔い改めへん人になんぼ猶予を与えても無駄ということやな。また、具体的に目に見える危機が迫って初めて寄って来て、その気も無いくせに「主に立ち返る用意がある」という不信仰者の嘘も聞くに堪えへん。死にたくないが故に出て来る利己的な言葉や。彼らは百二十年も悔い改めへんかったという事実が客観的証拠としてあり、それを否定することは誰にもでけへん。終末時代もノアの時と同じなんやから、ノアの伝道を聞かへんかった当時は、現代では拙者の伝道に耳を貸さへん者と重なる。そして、終末時代の現代はノアの時のようと主イエスは言わはったが、時間感覚は同じやない故、終末時代に神は百二十年も待たはらへん。当時の百二十年を現代の時間感覚に換算すると八年位や。二千二十五年がやばいとか、二千二十六年から支配層による暗黒社会の新世界秩序(NWO)が全世界で施行されるのではと言われており、残り時間はほんまに少ないで。拙者の度重なる悔い改めの伝道にも真摯に応えず悔い改めへん者、傍観者で居って主のために働かへん者、互いに助け合ったり励まし合うことをせえへん者(但し、にわか信者同士が集まっても無駄)、主イエスの信仰を持って律法を守らへん者等は、ノアの時代に滅ぼされた人々のように見苦しい言動をするだろうが、救いは無い。

 

 

また、重要なんは、「大洪水の前の日々のように、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしている」ことであり、このことから世の終わりは、穏やかな日常がある日々の最中に突然来ることが分かる。戦争中とか大災害によって避難生活してる最中ではないってことやな。もう既に戦争や地震のことは過去に言及したとおりで、それらは起こるには起こるが、それで世の終わりではないということや。世の終わりは、多くの人々が予想してへん平穏な時に突然来るというのが主イエスの予告内容や。平穏な時は、多くの人々が油断してるさかいな。自分が真のキリスト者と自負してる人でも、油断して怠けてるようなら、後で泣き喚いて歯ぎしりする羽目になろう。

七、畑に二人の男が居れば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が製粉場で挽いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。せやから、目を覚ましていなはれ。何刻、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。もし家主が泥棒はどの見張りに来るかを知っとったら、目を覚ましていて、自分の家に押し入らせへんやろう。それ故、あんた方も用意していなはれ。思いがけへん時に人の子は来るさかい。
この四十節と四十一節の「一人は連れて行かれ、一人は残される」という意味の解釈は、人によって意見が異なる。ある者は携挙のことだと考え、別の者はマタイ十三章四十節〜四十二節や旧約預言等から残される方が助かって連れて行かれるのは裁かれる者だと考える。しかし、正しい解釈や道は一本しかあらへん。拙者が何遍も言てるとおり、文脈を無視して考えたらあかん。この文脈は、主イエスによる終末預言であり、マタイ二十四章三節から始まり、世の終わりの時に天使によって集められる対象は三十一節にあるとおり、「選ばれた人たち」や。即ち、神の民が集められて連行されるということになり、残される者とは救われへん者。旧約預言(イザヤ書四章三節等)等で「残された者」、「残りの者」が助かったりええように言われてるんは、旧約時代は未だ世の終わりやないし、この天地も存続したからや。しかし、世の終わりの終末時代は「この天と地は滅びるだろう」と主イエスは明言してはり、過去の時代はこの天地が滅びずに存続する故、残された者が助かっただけのことで、この天地が滅ぼされる終末時代を過去とまったく同一に捉えるべきやない。よって、当該聖句の解釈に際し、旧約預言を根拠にするんは大間違いや。そないな穿ったことをするよりも、素直に文脈から理解すべきや。そして、「せやから、目を覚ましていなはれ。何刻(なんどき)、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。」が後の文脈であり、「キリストの再臨は未だや」と思て油断して世俗社会に深く馴染んだりして眠りこけるな、キリスト者の務めを怠けるなという警告や。また、黙示録三章三節とその前後の文脈を理解すれば分かるとおり、主イエスが来る時は人間には決して分からへんと書かれており、いつまで経っても罪(律法違犯の行為)を悔い改めず、善い行いをしてへん、伝道をしてへん等であれば、主イエスから認められず、主イエスから「こいつはもうあかんな」と見放されれば、人間自身の気付かぬ間に聖霊を取り上げられるという意味もあると思われる。これは、聖霊の火が消えることを意味し、キリスト者になった後もなお肉の欲や思いを捨てず律法に違犯し続けたり、碌に伝道活動をせんかったり、ええ行いをせんかったりして聖霊に逆ろうたり、聖霊に導かれてるキリスト者を悪霊憑き、悪魔の子、偽り者等と中傷したりすれば、聖霊を冒瀆したことになり、主イエスは聖霊を冒瀆する者はこの世でも後の世でも決して赦されへんと明言しはってることから(マタイ十二章三十二節参照)、その者は救われへんことが確定的になったことを意味する。聖霊が火であることは聖書を読めば分かり、それが消えてると神の導きを受けられる状態になく、愚かで、救われる対象からも外れるという例え話がマタイ二十五章にあるとおりや。

主なる神が何故世の終わりの日程を明確に言わへんかは、それを知ってると悪賢い人々がその直前だけええ人ぶるからや。終わりの日時が明確になってるなら、その時までは好き放題していて、直前になってからすべてを捨てて信仰者になって主イエスに従います、律法を守ります、伝道しますっていうようになるやろ。まるで怠け者の学生が試験の直前になって必死に詰め込み勉強をするように。神を舐めたらあかんで。神はそないな人間の悪い性質も心の中もすべてお見通しであり、それ故にすべてを教えはらへんのや。少しでも手掛かりを教えてもらえてるだけでもありがたく思うべきや。神の民なら、聖書の教えどおり、悔い改めを先延ばしにしたりせえへんし、いつ主が来はっても大丈夫な状態にしようと早めに準備を整えようとする。何年も成長の気配や成果が見られへんような人は危険や。何年経っても碌な働きを見せへんとか、だらだらのんびりしてるとか、世俗の仕事や娯楽等に夢中になってるとか、拙者が用意した集まりに入ろうともせず、入る努力もせず、にわか信者同士で集まるだけで安心し切ってるような人たちは厳しいであろう。自分を甘やかすような人たちは、成長せえへんし、隣人にとっても励みにもならへんし、神や隣人の役に立ってへんからや。にわか信者は、ほんまに役立たずであり、伝道もせえへんし、どういうつもりで自身をキリスト者と思い込んで生きてるのか甚だ疑問や。
ノアについては、神が直接ノアに箱舟を造るようにと命じはったり、ロトは天使に導かれてソドムから出て行った後すぐに天から火と硫黄が降って来てすべてを滅ぼした(創世記十九章、ルカ十七章二十九節参照)。かようにノアとロトの時は、神や天使といった外部の導きによって命拾いしたが、終末時代はそうではなく、各自の判断に掛かってる。「山に逃げよ」という主イエスの御警告を覚えていて、そのとおりに実行するかは各自の判断によって為されるべきことで、一世紀のユダヤも同じであった。主イエスの御警告を信じて山に逃げるという行動を自主的に取った人たちは救われ、エルサレムに残るという判断をしたり、怠惰または不信仰のせいで現住所から動こうとせずに残った者は、ローマ軍に取り囲まれて兵糧攻めにされて餓死したり、何とか生き延びても城壁を破って侵入して来たローマ軍から容赦無い殺戮の対象になったり、捕まって奴隷にされた。終末時代も聖書預言をどの程度信じてるかによって各自の判断は分かれるであろうし、聖書預言を知ってるとしても、実際に行動するか否かで命運は変わってくる。愚かな偽使徒パウロの信者どもは、艱難期前携挙という嘘を信じ、主イエスを信じた時から救われてその救いを失うことは無い、律法を守る必要は無い、行いは救いに関係無い等と豪語しており、そないな放縦な不法者、かつ、他力本願で居るような輩は、自主的に判断して行動することはない故、確実に滅びるだろう。また、キリスト者としての務めを果たしてへん自称キリスト者全員も同じことや。もし人間本人以外の外部の力によって強制的にでも救われるなら、主イエスは「目を覚ましていなはれ」及び「あんた方も用意していなはれ。」とは御警告しはらへんかったであろう。何故、かように言われてるかは、人間各自の行いが必要不可欠であり、行いによって変わるからや。主イエスは行いに応じて報いると明確に言わはり(黙示録二十二章十二節参照)、「もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは死んだものや。」(ヤコブ二章十七節拙訳)とヤコブは明言した。せやから、偽使徒パウロの信者や律法主義者や生温い自称キリスト者たちが不信仰者と共に滅びるのは確実。
神の民は終末期にどれ程居るかは不明やが、大艱難時代に激しく迫害されて、世の諸教会や諸教派に属さぬ真のキリスト者の数が減るのは黙示録から想像出来る。また、上記ヤシャルの書にあったように主の道を歩む神の民は大艱難の前に何らかの原因(病死等)で死亡して眠りについたりと色々あるだろうが(但し、ワクチンによる死者等は当てはまらへん)、終末時代に生きてる神の民が全滅せんように大艱難の期間が縮められるのも主イエスの御言葉であり、神の民がキリスト再臨前に全滅することはないだろう。しかし、「自分は大丈夫」、「自分は必ず生き残る」なんて根拠も無く思い込むのは高慢であり、神の御意志を無視し、自分勝手に思い上がってるに過ぎひんさかい、要注意や。生きて携挙されることを目標としてる人も同様で、考えを改める必要がある。そないなことは神の御裁量であって、人間が決めることではないからや。世の終わりまで生き残れへん可能性をも考えて準備しておく、いつ死んでも後悔が無いようにしておくのが賢明なキリスト者と言えよう。

(続く)