こんにちは。

今回は『神に裁かれる者として』と題して、聖書に一貫して書かれている神の裁きがあるという前提、神に裁きの基準に適う生き方についてお伝えいたします。

 基本的事項

 

ヘブライ人への手紙九章二十七節(私訳)

人間には一度死ぬこと、更に、後にこれについて裁きを受けることが定められているために。

 

上記の聖句には、人間には肉体の死が訪れること、死んだ後に裁きを受けることが定まっていると書かれております。この真理について、契約の民である古代イスラエル人にとっては預言者を通じて知らされており、当然のこととして理解されていたものと思います。しかし、その後、国家としてのイスラエル(及びユダヤ)は滅亡し、国家として真理の知識、神の律法・掟・戒めなどが共有されることは無くなりました。その滅亡の背景には古代イスラエル(及びユダヤ)の目を覆わんばかりの腐敗があり、予告されていた通り、民の契約違反により神の罰が臨みました。民の腐敗もさることながら、羊飼いと形容される民の指導者であるべき人々が、羊飼いであることを弁えずにそれぞれ自分の好む道に向かって自分の利益を追い求めました(イザヤ書五十六章十一節参照)。『我が民はさまよう羊だ。彼らの羊飼いは彼らを山々に逸らし迷わせた。彼らは山から丘へ歩き回り彼らの休息の場を忘れた。彼らを見つける者は皆、彼らをむさぼった。彼らの敵たちは言った。「我らに罪はなく、彼らが主、義の在り処、彼らの先祖の希望の主に罪を犯したためである。」(エレミヤ書五十章六節から七節:私訳)』と神から離れて、信仰を、在るべき生き方を見失った民の様子が記されております。神の知識を得ている民ですらこのように堕落するのですから、偽福音を知る機会はあったとしても、真の聖書福音をほとんど知らないであろう現代の人々の堕落の様は、その無知と無自覚も相まって一層酷い様相なのだと思います。

 

神を畏れることでしか得られない真の知識があります。神がおられる根拠として聖書がありますが、聖書を読むことなく、こちら(X:旧ツイッター)のように聖書を嘲笑する者が少なからずおります。神は霊であり(ヨハネによる福音書四章二十四節参照)、物質や物体では無く、 目に見えない(ヨハネによる福音書一 四章二十節参照)存在であるため不可視です。しかし、神は古代イスラエルの預言者を通じて語ってくださり、与えてくださった言葉の数々と起きた出来事を照合すれば、言葉と事実が一致すると分かります。例外として、パウロ書簡では神の言葉(旧約聖書、主イエスの言葉等)との不一致がありますが(それは「ふるい」である)、それ以外は著者も書かれた時代も異なるにも拘らず一貫しており、「お前たちは主の書を探し求めて読め。これらの者はどれも一方を欠くことは無い。我が口が命じ、主の霊が集めたものだからだ。(イザヤ書三十四章十六節参照)」と預言者を介するものの全て神が語られているが故の符合です。神の霊は、一つの大本たる父なる神の言葉を伝えているのですから矛盾などするはずがありません。言葉を介して、言葉は神を表しております。神は言葉であり(ヨハネによる福音書一章一節参照)、 見ないのに信じる者は幸い。(ヨハネによる福音書二十章二十九節参照)と言われている通りです。そして、神はご自身を「我は在る(出エジプト記三章十四節参照)」と言われました。新共同訳と新改訳では「ある」と平仮名表記、口語訳は「有る」と訳されております。『הָיָה(在る)』の意味は「存在する」「実存する」「実現する」などの意味で、ここでは存在を表していると考えられます。こちら(スッキリ)でも『「有る」は所有を表す。「在る」は存在を表す。』と言われており、ここでは「有る」ではなく、「在る」とされるべきです。主イエスは、ヨハネによる福音書八章二十四節・二十八節等でも同じように『εἰμι(在る)』と言われております。人は草が枯れて花が萎むように限りある儚い存在であっても、神の言葉は永遠である(イザヤ書四十章八節参照)ことから、創造主である神は永遠に存在するため「我は在る(存在する)者」と言い得るのだと思います。

 

神を畏れる(神を認める)ことで得られる知識があります。重要なことの一つとして、裁きに遭うということです。これは、全ての人間の前提、人生の根幹として据えられるべき事柄です。裁きの日本語的意味は、『正邪・理非の判断をすること。また、その判断。審判。(引用:スーパー大辞林)』です。この言葉だけからでも、善悪の判断の基準が存在すること、その判断を下す者がいること、この世界に対する秩序が存在することが窺えます。裁きが成立するからには、我ら人間にとっての上位者があることが明らかであり、それこそ創造主なる神、創造の秩序であり、聖書にある神の真理と言えるものです。

 

仏教(偶像崇拝の宗教)にも死後に裁きに遭い、「地獄」が在ることが書かれており、聖書を知らない方にとってはこちらの方が馴染みがあるかもしれません。しかし、聖書にある裁きは仏教由来などでは無く、逆です。聖書こそ本元です。聖書のヨハネの黙示録二十一章八節等にある「第二の死」やマルコによる福音書九章四十八節(私訳)『ここ(地獄)ではそこの蛆は死なず、火は消されることはない。』と主イエスが言及している地獄の話に酷似しております。こちら(ウィキペディア)によると初期仏教は印度(インド)で紀元前四百五十年頃に始まったとあります。イザヤ書六十六章二十四節では『彼らは出て、我に逆らって罪を犯した人々の死体を見た。実に、彼らの蛆は死なず、彼らの火は消えない。彼らは全ての肉なる者にとって嫌悪となる。(私訳)』と地獄と思われるものに言及しております。預言者イザヤが生きた時代は紀元前七百年代であることから、何かしら古代イスラエルの民から伝え聞いたものが仏教の中に取り入れられていったと捉えるのが自然です。時に、聖書を疑う者の中には「古代ペルシアや古代ローマ等にあった宗教が聖書に似ている」として、「聖書がそれを真似ている」と類似点だけを挙げて主張する者が見受けられますがとんでもない勘違いです。聖書は古代イスラエル起源で、世にあるどの宗教も時期的に聖書よりもかなり後であり、聖書にある要素を勝手に取り込んでいったと言うべきです。現代でもこちら(真の聖書福音と預言 「主権は神にあり、人間にあらず」)にあるように、聖書は遊技(ゲーム)等の題材として多く使われている実態があり、同じような構図です。不信仰者にも非常に多くの影響を与えたのは聖書です。また、改ざんされた聖書(神の言葉)、偽福音ばかりが幅を利かせ、原典に基づいた正しい日本語訳聖書や真に聖書に依拠した正しい聖書福音が希少であるのが現実です。そのため、その前提で真に正しいものは何かと真偽を見抜く姿勢と知恵が求められます。

 

「裁き」の言葉から紐解くと、裁きの前提として在るものが浮き彫りとなります。聖書真理に拠れば、裁きとは、各位の人生における神からの問い(神の律法・掟・戒めの遵守)に対する審判の時です。それは極めて厳粛です。その厳かさから、決して、人生の時を本来の目的以外に用いてはならなかったと分かるはずです。福音書にある金持ちとラザロの話にあるように、死んでからこうするべきだったと後悔することの無いように、知ることの許される、生きている時の内に神の御心に適うように在らねばなりません。死んだ者は知ることが出来ず、何の働きも出来ません(コヘレト九章五節参照)。死者はダニエル書十二章二節にあるように『地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(兄弟共同検討訳)』、『善を遂行した者は命の復活へ、悪を行った者は断罪の復活へと出てくることになるからだ。(ヨハネによる福音書五章二十九節:私訳)』と裁きの時に復活します。その時にようやく意識が生じて、やがて身に起きていることを理解していくのでしょう。この絶望感たるや筆舌に尽くしがたい時であると思います。聖書を読み、主イエスを信じた者であっても、裁きの後に『主よ、主よ』と言った所で不法(律法違犯)を働いておれば主イエスからはお前たちのことは知らない、不法を働く者は離れよ(マタイによる福音書七章二十二節から二十三節参照)と言われるだけです。以下のように、福音書で主イエスが言われた予告から、現在世に広まっている偽福音が真の福音でないことが明らかです。

十二、(神の)王国の福音があらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられた時、終わりが来る

この主イエスの予告こそが世の諸教会が吹聴する偽使徒パウロ由来の偽福音と偽教義が神の王国の福音ではない、即ち、パウロと世の主流派が信じて吹聴してる偽福音は、主イエスと十二使徒が宣べ伝えた福音ではないという証拠になってる。もし世の諸教会が吹聴するパウロ教の偽福音がそれならば、世の終わりがとうの昔に来てる筈やが、そうではないんやからね。せやから、偽使徒パウロの偽福音は、主イエスが宣べ伝えはった王国の福音やないということの証明や。また、世の終わりの直前に真の福音が全世界に広まると示されてる故、四世紀から二十一世紀の現在まで主流となってる偽使徒パウロの教えとそれを支持する諸教会や諸教派はすべて偽りと分かる。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

世の終わりが目前に迫り、ミカエル氏が神の律法、掟、戒めを守ることを、真の聖書福音を宣べ伝えてくださいました。ところが、それに大勢が反発しております。偽福音を信じる自称キリスト者や福音を聞き入れない不信仰者、または信じてもほとんど行動しない者ばかりであることから、滅びに至る道と門が広いとは事実であると分かります。マタイによる福音書八章十二節、十三章四十二節等には泣き喚いて歯ぎしりする場面があります。もう取り返しがつかない絶望感に満ちた様はまさに断末魔の叫びなのだと思います。生きている間に、神の知識を知ることが如何に重要か、悔い改める機会が如何に貴重かが分かります。「知らなかった」「ここまでとは思わなかった」と言っても通じません。その時になって「あの時、聞いておれば」「自らの中の(微かであっても)良心の声を聞いておれば」と後悔しても遅いです。今は、真の福音が宣べ伝えられている途上と思われ、今この時が最後の機会です。

 

以下に伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」と題された文を紹介します。悪い者が支配するこの世では偽りが闊歩しております。しかし、「騙されたけれども自分には非が無い」とは決して言えないこと、嘘を信じた側の責任があることがここから学べます。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

(略)

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

引用:戦争責任者の問題(伊丹万作)

伊丹万作氏は上記の戦争責任についての文章を政府ではなく一般人に向けて書かれました。一人一人の盲目的で受動的な姿勢に責任の一端があることを明確に言われております。そして、このことはコロナ犯罪にも同じように言えることであり、ミカエル氏がキリスト道で『従ってるから、終わらんのや。従うことで自分らの首を絞めてることに気付けよ。』と言っていることに重なります。また、個人的には伊丹氏が信念の欠如に言及していることが印象深く感じます。何の信念も持たなければ、誰かの強力な考えや大きな声に流され、乗っ取られることを言っているのだと思います。信念とは固く信じて疑わない心や行動の基礎となる態度であり、キリスト信仰もまた信念たり得ます。本来、聖書真理こそ信念として据えられるべきで、本物の信念(信仰)が無ければ他のものが本物に取って代わる危険があります。それが世の権威という宗教です。それ故、要注意です。誰もが、何かしらを信じて生きております。「そうでは無い」と主張しても自覚が無いためにそう思うだけです。聖書真理を知らないという状況は世の偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を信じている状況に他なりません。これらがどれほど罪深いかは聖書真理によって知ることが出来ます。無知は罪深く、無知を擁護することは出来ません。無知であったから無罪ということにはなりません。そうは言っても一人で全てを知るのが難しいのも事実です。手前もミカエル氏の伝道により、世の真実と真の聖書福音を知っただけの立場です。本来は世の大勢と大して違いはありません。違いは聞いて、調べて、神に従おうと行動に移しただけです。

この世で必死に生きようとしても虚しいことばかりです。経済的に安定しようとひたすら働いても、奴隷のような生活を送る羽目になります。遵法意識が希薄で、人を人と思わないいわゆる「ブラック」な労働環境が増え、尋常ならざる心身の負荷にさらされ、それでも稼ぎは決して多くはなく、心身を病んでいくのは当然の帰結です。今や、かつてのように普通に結婚して、家庭を持ち、少しばかりの楽しみ程度の贅沢すらも出来ない状況が起きております。自殺者も非常に多く、児童でも不登校も多く、多くの人々がこの世に希望を持てないでおります。この世自体が偽りに満ちてるからです。昨今は新世界秩序の構築に向けてワクチン等による人口削減は進められ、政府は仕事をするふりをして国民生活に害を為すことばかりに積極的です。正義感を持ち、また、隣人のためにこの悪を弾劾することも大事です。同時に、神の御計画においては世が悪くなることは避けられず、世直し自体を目的とせず、来る次の世での永遠の命に希望を持ち、この世においては悪を拒絶して神に従い通す姿勢でいることが重要です。そして、罪を犯さないために、罪を犯しやすい肉の性質があっても誘惑に負けず、自分を捨てて罪に打ち勝たねばなりません。これが最も難関だと思います。「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、それが誰にでも望むことである(コヘレトの言葉九章三節参照)」と書かれております。そのため自我との戦いが不可欠です。「純白の衣をまとい、頭に香油を絶やすな(コヘレトの言葉九章八節参照)」との言葉があります。純白は高潔な行いであり、香油とは聖霊を指します。聖霊は主イエスと新しい契約を結び神の律法を守ることで与えられ(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)、聖霊が人間を使役してくださいます(エゼキエル書三十六章二十六節から二十七節参照)。それによって正しい行いが可能となります。一方、一つの違犯は多くの善を損ない(コヘレトの言葉九章十八節参照)、正しい(律法を守る)人であっても正しい行いから離れ、不法行為をするならばこれまでの正しさは覚えられず、罪の故に死ぬ(エゼキエル書十八章二十四節参照)とあるため要注意です。

 

 

 

 『裁き』の言葉を紐解く

 

「裁き」には司法律法による民の間での裁きもありますが、主には「世の終わりの神の裁き」について言及していきます。

冒頭に挙げたヘブライ人への手紙九章二十七節にある『裁き(τοῦτοκρίσις)』の言葉を見ていきます。主たる意味は「決定」「結論」「判決」の意味で、「神の法による裁き」「正義」を含み、「告発」「有罪判決」「断罪」などの意味も窺えます。まさに世においての裁判と同じような概念がここにも見受けられます。新約聖書の原典たる古代ギリシア語で「裁き」を意味する言葉は複数ありますが、例えば同じヘブライ人への手紙の「主は御自身の民を裁かれるだろう(十章三十節参照)」の「κρίνω」の言葉では「識別する」「はっきりと認める」が主たる意味としてあり、他にも「試みる」「罰する」「判決を下す」など広い意味が見受けられました。後者では特定する、見極めるといった意味合いがあり、まさに裁判の審理を思わせるような意味があるのが個人的には印象的でした。

 

まず神の裁きにも共通する世の法や裁判の基本となる考え方を見ていきます。

罪刑法定主義

 

犯罪として処罰するためには、何を犯罪とし、これをいかに処罰するかをあらかじめ法律により明確に定めておかなければならない、という近代刑法上の基本原則。これに対し、罪刑を法執行者の専断にゆだねる考え方を罪刑専断主義という。近代刑法学の父とよばれるフォイエルバハは、この原則を「法律がなければ犯罪はなく、刑罰もない」Nullum crimen, nulla poena sine legeという標語により適確に表現している。

 

引用:コトバンク

聖書においてもこの原理が働いております。主なる神は、アダムとエバに善悪の知識の木からは食べてはならないと命じられました(創世記二章十七節参照)。それも食べたら必ず死ぬとまで事前に警告されました。則るべき事柄(法)としての神のご命令に背いた結果、エデンの園を追い出され、肉体に死が訪れるようになりました。『罪刑法定主義』の「刑」の文字の意味は『法律や規則によって科せられる罰。刑罰。(引用:スーパー大辞林)』であり、まさに違犯の結果としての罰、報いです。

また、「アブラハムが我が声に従い、我が命令、戒め、法令、律法を守ったからである。(創世記二十六章五節参照)」と書かれていることから、モーセの律法以前にアブラハムの時代で既に律法が存在して守られていたことは明らかです。そして、真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」で書かれている通りに、主イエスを仲介者とする「新しい契約」を経て、祭司律法や石打ちなどの司法律法や食物規定は守らずに良くなりましたが、あくまでこの世で死刑にしないだけであって、罪を容認してるのではなく、悔い改めずに罪を犯し続けるなら地獄行きになるため要注意です。悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)ことには変わりありません。『決して食べるな、食べれば必ず死ぬとやってはいけないことを神から事前に警告されてたのに、蛇(悪魔)が言うた嘘を信じて、神に逆らう人間が悪いんですよ。せやから、神を恨むんは筋違いやし、神の御言葉や神の掟に逆ろうて違犯して罪を犯すと死を招くことが明らかであり、これは永遠に変わらぬ真理である。せやから、太古から神の掟を遵守せないかんのは不変で、主イエスが重ねて教えはったとおり、永遠の命を受けるには神の掟を守る必要があり、十戒に限定もされへん。(引用:真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」)』とあるように神から、何を罪とするかは示されていることに留意するべきで、これが大前提です。

 

規制的機能

犯罪を規定し、それを犯した場合に刑罰が加えられると宣言することで、一般国民に対して犯罪を犯さないように警告する機能

 

法益保護機能

法益に対する侵害行為を犯罪として規定することで、国民の法益を守る機能

 

保障機能

何が犯罪かを明確に示すことで、国家権力の行使しうる範囲を限界づけ、国民の基本的人権を守る機能

 

引用:ゴリハル「罪刑法定主義って何?罪刑法定主義と4つの派生原則を解説」

上記は「罪刑法定主義による効果」について述べたものの一部の引用です。この内容も常識的に考えて理に適うもので、これによって社会秩序が保たれております。ミカエル氏は『律法は軛やないし、法は秩序維持のためにも必要であり必須なもの。人間の法律かて同じやん。法律も何も存在せえへんとか、全部廃止されて無効となれば、無秩序で無法地帯になり、誰も取り締まれず、罰を与えへられへんようになり、多くの人が悪事をやりたい放題で、悲惨な社会になる(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)』と言われていることに通じます。他にも以下も神の法にも通じる重要な事柄であると思われるため引用いたします。

慣習法の禁止

刑罰を科すには、必ず一般に公布された成文法規に根拠があることを要しており、存在が不明確な慣習法によって処罰することは許されません。

(略)

 

類推解釈の禁止

類推解釈とは、刑罰法規を、その法規に用いられている語句の可能な意味の限界を超えて解釈し、法規に規定のない事実に対して適用することをいいます。

 

引用:ゴリハル「罪刑法定主義って何?罪刑法定主義と4つの派生原則を解説」

これらも常識的に考えて当然だと思います。モーセの律法、福音書にある主イエスの言葉等は全て文字(聖書)として我らに与えられており、聖書(言葉)に依拠するものであって決して曖昧なものではありません。そして、『類推解釈の禁止』にある『その法規に用いられている語句の可能な意味の限界を超えて解釈』について、安息日は第七日目の日没から日没(すなわち金曜日の日没から土曜日の日没:レビ記二十三章三十二節参照)であるにも拘らず「日曜日」と看做すパウロ教徒の悪しき業が思い起こされました。また、安息日が「古代イスラエル人に命じられたのだから自分達には適用されない」と愚かなことを言う者がかつておりました。今や福音は異邦人にまで及んでおり、神の民に安息日が残されている(ヘブライ人への手紙四章九節参照)と書いてあるので出鱈目な解釈は大敵です。法規自体の曲解も問題ですが、「律法廃止論」「キリストの律法」といった曲解創作などの「法規の存在」自体に関わる誤解釈も大いに問題であり、それらに惑わされてはなりません。

 

次に、裁判(裁き)について見ていきます。

現代法学では、裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。

ここでいう「事実」、すなわち判決の基本となる「事実」には、不要証事実と要証事実がある。不要証事実は、裁判所の認定権が排除されているのに対し、要証事実の認定(つまり、主張されていることが本当に起きたのか起きていないのかの真偽を判断すること)は、証拠に基づいて裁判所の自由な心証判断によってなされる。

事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。

 

引用:ウィキペディア

手前は裁判や司法については特段詳しくありません。それでも順序立てて考えた場合に、「まず法が在る→(判決の基となる)事実の存在→法律の適用→判決(審判)」の順番を辿るのは当然のことであり、とても分かり易い説明だと思いました。ちなみに聖書の律法において、事実認定の際には「いかなる罪でもその人が犯した罪については一人の証人では立証されず、二人の証人の口によって、あるいは三人の証人の口によって立証される。(申命記十九章十五節参照)」とされ、新約聖書でも同様の前提に在ることが分かります。更には、偽証してはならない(申命記五章二十節参照)と厳しく戒められております。これは民の間のことですが公正といった精神が窺えます。

 

改めて、『法律の適用』について、人間の裁判とは異なり、神の裁きは正しく完全です(詩編九十八編九節等参照)。「我は真理の道を選び取った。貴方の裁きに適うように(詩編百十九編三十節参照)」と真のキリスト者として歩むのならば、人生は一度きりでやり直しが効かないのですから、人間の側から自らの行いが正しいかどうか、律法等を基に自己検証出来るようでなければなりません。この点において偽福音のパウロ教徒の律法廃止論は話になりません。『律法が廃止された』との主張は善悪の基準が廃止されたと言っているに等しく、何でもありの無秩序に陥り、普通に考えて神がそのようなことをされるはずがありません。また、実際にどの程度守られているかの結果が重要です。中には「十戒だけ守ればいい」という主張がありますが、根拠が無く無意味です。他にも、こちら(X:旧ツイッター)のように『中には事情があって全ての戒めを守る事が不可能な方もおられます愛の神がその様な方を裁かれるでしょうか?』と言う者もおります。一見、もっともらしい言葉に聞こえますが、『事情』とは何を指すのでしょうか。この人の言う『事情』が何を指すのか、具体的には言及されておりません。しかし、『愛の神がその様な方を裁かれるでしょうか』の言葉から、福音の三要素(偽福音)を信じる者たちに通じる生温さを手前は感じます。事情を言い出したらきりがありません。例えば安息日について、もし「どうしても外せない仕事があって」ということが赦されるなら、正直これほど助かることはありません。『事情』などという曖昧な言い方が通るならば、「蟻の穴から堤も崩れる」ことになりかねません。もっとも、主イエスは安息日に善い事をするのは適法であり、許されている(マタイによる福音書十二章十二節参照)と仰いました。この箇所に対して「主イエスも安息日を破ったのだから…」と主張する者を見たことがありますが、とんでもない勘違いです。主イエスは神であり律法を制定した側であり、更新する権限をもお持ちであると捉えるべきです。これらから、法をどう解釈するか、どう適用するかを考える上で聖書研究が不可欠であると思います。一箇所の字面だけではなく、関連する箇所でどのように言われているか、また、原典の意味する内容も含めて詳らかにしていくと、聖書は人間に何を為すべきかを十分に教えてくれていると思います。もちろん、容易に分かる事ばかりではありませんが、求めれば与えられ、探せば見出だす(マタイによる福音書七章七節参照)とは、その通りなのだと実感します。真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」の記事コメント「2」で『肩の力を入れる必要はありません。聖書を読み、神の律法、掟、戒めを学んで守り、主イエス・キリストを心から信じて神の御心を行う生活をすれば良いのです。また、常に主イエスのことを思い、祈り、清く正しく生きることです。そのためには、聖書を注意深く研究する必要があります。世の教会やいい加減な信仰をするにわかクリスチャンと戯れないことです。世の友になることは神の敵となることも忘れないように(ヤコブ4:4参照)。』と言われているように注意深く、神の言葉を研究する必要があると手前も深く同意いたします。そして、いい加減な信仰をするキリスト者と戯れないことも大事だと思います。「神か、世か」で深く葛藤している時に、例えば『普段から神を信じていて、その上で、事情があるのだから仕方がないよ』と言われたら、かなり強力な罪への誘惑となるでしょう。悪魔からの誘惑そのものと言えます。『使徒ペトロでさえ、聖霊を受ける前、主イエスがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されて三日目に復活することを予告した時にそれを諌めたら、「我が背後に下がれ、サタン。我が罪へと引き付ける者よ。なぜなら、あんたは神のことを考えず、それらの人間のことを考えてるからや。」マタイ十六章二十三節拙訳)と主イエスからサタンと呼ばれ、叱責を受けた。真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)』とあるように、良かれと思った言葉でも、神を思わず人間のことを考えて、律法違犯に導くことにもなりかねません。

 

エゼキエル書十八章三十節から三十二節(私訳)

それ故に、我はお前たちを裁くだろう。イスラエルの家は誰でもその道に従って。神である我が主の仰せである。お前たちの全ての罪から向きを変えて、(神に)立ち返れ。罪がお前たちの躓きとならないように。お前たちの犯した全ての罪をお前たちの許から投げ捨てよ。お前の新しい心と霊を作れ。どうしてイスラエルの家が滅んで良いだろうか。我は滅ぶ者の死を喜ばない。神である我が主の神意。お前たちは立ち返って、生きよ。

 

預言者エゼキエルの言葉は、かつて起こったことでもあり、これから起こることでもあり、来る神の裁きのことでもあります。

ここで個別に原典を見ていきます。上記三十節にある『ִּדְרָכָיו(この道に従って)』の「道」は言葉通りに道路でもありますが、比喩的には「人生の軌跡」「行動様式」の意味があります。当然ですが、行いが問われます。具体的には、善悪の判断を基に「行い」と「品性」が問われます。これは真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」でも言われているように、行いがあればそれで良いということではなく、主イエスの教えを守りつつ、品性も整っている必要があります。そもそも品性が整っていなければ神の掟を守りようがありません。אֶשְׁפֹּט(裁く)』については、「判決を下す」が主たる意味ですが「潔白を証明する、又は罰する」の意味もあります。実際には罰せられる者が殆どであるとは思いますが、無罪(潔白)が有罪(罰)のどちらかしかありません。この世にある事柄全てにおいても、神に従うか、悪に従うかの二択しかありません。中間は無く、神に従い通せないのであれば全て有罪となること(ヤコブの手紙二章十節参照)を知っておかなければなりません。余談ですが『潔白』の意味も興味深いです。『①心やおこないが正しいこと。うしろぐらいところがないこと。また、そのさま。② 清くて白いさま。(引用:スーパー大辞林)』とは、まさにヨハネの黙示録三章五節にあるように神に認められたものに着せられる白い衣を想起します。普段目にする何気ない言葉にもこのような共通点があるのは個人的に非常に興味深く感じます。また、『新しい心と霊を作れ』の『חָדָשׁ(新しい)』には「新生した」「今までとは違う」の意味があります。主イエスは悔い改めを説かれました(ルカによる福音書五章三十二節等参照)。それは主の御心に適うことであり、今までの生き方を改めて神に向かうならば、それは一新した心であり霊と言えるのではないでしょうか。神の求める犠牲は打ち砕かれた霊で打ち砕かれ悔いる心を神は侮られない(詩編五十一章十九節参照)とあることや。真の聖書福音と預言「世の悪に抵抗しなさい」のコメント欄「7」にある『神はアダムに何をして生きる者としたんか。霊を注いだんですよ。そうして初めて人は生きる者となった。肉体だけでは死んだものです。つまり、聖霊とは別に人間には霊があるということです。それが肉体に宿り、この世界で生きる者になってる。死んだら肉体を捨てて神の許に戻り、裁きを受ける。こういうことです。神は、一時的にこの世界に人間を送り込み、その霊を一時的に手放すんですよ。しかし、人間の死後にその霊が戻ってくる。せやから、神は神の民の霊を渇望してるんですよ。神の民だけは後の世で永遠に神と共に暮らすんです。最初から神に選ばれへん頑なに不信仰の者や異教徒、選ばれてると愚かにも高慢に思ってる自称キリスト者たちも永遠の破滅に至るんです。彼らは神から渇望されてるとは言えへんからね。その行いの悪さ、品性の悪さからも明らかや。』の言葉からも、新生した心と霊は神に喜ばれるのだと思います。逆に自らの行いを改めなければ神に立ち返ることは出来ません。「彼らは悪行のゆえに、神に立ち帰ることが出来ない。婚外性交の霊が彼らの中にあり主を知り得ないからだ。(ホセア書五章四節参照)」 とある通りです。まさに、神の掟を守らない、即ち、不法行為(悪行)が改められないのは、婚外性交の霊(悪霊)が影響しているのだと思います。婚外性交とは、言葉通りには姦淫の罪であり、唯一の真の神ではなく他の神(偶像)を拝むことです。まさに、神の掟を守ることで聖霊が与えられる(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)ことの逆を行く行為です。

 

ミカ書六章八節(私訳)

人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。

 

アモス書三章七節

確かに、我が主なる神はその忠告を僕である預言者らに明らかにしないでは言われた事を為されない。

 

主が為されることは預言者たちを通じて必ず伝えられており、条件が示されずに突然に罰せられる訳ではありません。かつて、ヨハネの黙示録に書かれている大艱難について、艱難前携挙を信じている者が、「これは携挙されなかった人たちの状況を書いているのだから、死に至るまでの忠実等を自分たちが問われているのでは無い」と言っているのを目にしたことがあります。『お前たちの信仰の試練は、朽ちる金の火による試しよりはるかに価値があり、イエス・キリストの来臨の時に称賛、名誉、栄光に至る。(ペトロの手紙一 一章七節:私訳)』の言葉から、試しによって信仰は本物に至るとあります。もし、大艱難を経ないのであれば、その品性も完成されず、もし、そのまま携挙されるのであれば、不完全な者と完全な者が混在する不釣り合いな状況が生じます。この者の言うことに矛盾があり嘘であることが分かりますが、ここでお伝えしたいのは、神の言葉に立ち止まって、これはどういう意味なのかとじっくりと調べることが大切です。繰り返しますが、神の言葉に拠ることがキリスト者の全てと言えるからです。

 

次に、いくらか重複しますが神の裁きを多角的を見ていきます。

いつ、神の裁きはあるか

ヨハネの黙示録十四章七節(兄弟共同検討訳)

「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。なぜなら神の裁きの時が来ているからである。そして、天と地、海と水の源を造られた方を礼拝しなさい。」

ヨハネの黙示録のこの箇所は大艱難末期と思われます。有罪か、無罪かの判決が下される時です。

罪の記録を消す、消さないの判断を審判といいます。つまり、神による審判です。私たちが真に悔い改め、生まれ変わってキリストに近い品性を持っているかの審判が行われます。これは、複数の過去記事で既に申したとおり、審判はキリストの再臨前に行われます。(略)今、審判は天において行われているのです。まだ先ですが、すべての麦が十分に育った時、即ち、真のクリスチャンが予定定員に達した時、刈り入れ時である世に終わりが来て、刈り取られます。また、毒麦のたとえから、この世の悪人たち全員がすぐに裁かれないのが分かります。麦の成長のために、毒麦も必要悪ということです。

引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)」

その上で、判決自体は、主イエスが来臨する世の終わりの時と思われますが、判決のための審議(審判過程)は上記のように現在進行していることに深く留意するべきです。まだ、その時が来ていないからと侮るようではいけません。実際、判決が下ってからは『そして、地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(ダニエル書十二章二節:兄弟共同検討訳)』と有罪か、無罪かによって、各々の報いを受けるだけの状態です。

神の律法・掟・戒めを守られるようになるには時間がかかり、完全な者たりえる品性となるにも時間がかかります。今この時の歩みが死後の永遠を決める非常に重要な時です。

 

何処で、神の裁きが行われるのか

上記の引用にあるように天において審判が行われます。また、当然ながら、裁きから逃れることは出来ません。主の裁きは全地に臨む(詩編百五編七節参照)、また、神はあらゆる行い、隠された事柄、それが善であるか悪であるかに拘らず裁かれる(コヘレトの言葉十二章四節参照)とあるからです。

 

◉誰が、裁きを行うのか

主よ、貴方は正しく、貴方の裁きは真っ直ぐです(詩編百十九編百三十七節参照)」の言葉からも言うまでも無く、裁くのは神です。また、お前たちは裁くな(マタイによる福音書七章一節参照)と主イエスは言われており、死後の永遠に関わる裁きは人が関与出来ることではありません。天使たちも主の御前に訴え出たりしない(ペトロの手紙二 二章十一節参照)とあります。一方、『大祭司ヨシュアが主の御使いの前に立ち、その右に立つサタンが彼を訴えるのを我に見せた。(ゼカリヤ書三章一節:私訳)』との言葉がありますが、『サタンはお前たちを小麦のようにふるいにかける事を神に求めた。(ルカによる福音書 二十二章三十一節:参照)』とあることから、神はサタンに人間をふるいにかけることを許した側面があります。そのため、より人を不利に陥らせるようにサタンが動いていることに留意して抵抗しなければなりません。誘惑を退け、罪に打ち勝つことで完全な信仰に至ります。

 

誰に対して(神の)裁きを行うのか

既に述べたように、全ての人が裁かれます。「神は正しい人も悪人も裁かれるだろう。あらゆる出来事と行為には時がある。(コヘレトの言葉三章十七節参照)」とある通りです。また、ここでも正しい人と悪人の二つの区分しかないことに留意するべきです。また、『正しい(צַדִּיק)』の言葉の意味には「適法」「ぴったり」の意味もあり、全ては神の法が基準です。

 

何に対する裁きを行うのか

ユダの手紙 十五節(私訳)

全ての人に裁きを執行するために、神を敬わなかった全ての不信心な者たちの不敬な行い全て、罪深く不信心な者たちが神に敵対して口にした恐れを知らない(言葉)の全てを罰するために。

 

ここまで上げてきたように、生きている間の振る舞い、品性が神の律法・掟・戒めに適うか、総じて、悔い改めたか否か(悔い改めに相応しい実を結んだか)が問われます。

 

なぜ、神の裁きを行うのか

ヘブライ人への手紙の三章から四章にかけて神の安息への言及があります。荒れ野の四十年を引き合いに、不従順に対しては安息にあずからせないと言われております。神は、今の天と地を滅ぼされ、それは同時に全ての罪を滅ぼすことでもあり。残されたのは新生して罪とは無関係になった真のキリスト者しか居ないことになります。

神は、なすべきことを六日間、即ち、六千年で今の世界の歴史を終えられることを創世記の冒頭で暗に宣言されていたのです。キリストの再臨後、最後の審判を終え、獣と偽預言者のような反キリストとサタン、悪魔や陰府も火の池(地獄)に投げ込まれ、第七の日以降から永遠に本当の安息につかれるということです。その時には、悪は完全に滅びているので、もはや神の民は罪とは無関係になり、神は人間を常に見張ったり、裁くことも考えなくてよくなるからです。この第七の日には終わりがありません。それは創世記からも明白です。天地創造の時、第一の日から始まり、第六の日が終わるまでずっと「夕べがあり、朝があった。」と繰り返していましたが、第七の日の後にはこれがありません。また、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2:2)とあり、六日で仕事を完成、即ち、この世の六千年という歴史を、最後に悪を滅ぼして、神が人類歴史を導く仕事を終えることで完成ということです。つまり、第七の日が終わることのない時、即ち、永遠の安息である、黙示録21章以降に書かれる新しい天と新しい地のことを示しているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」

全ては七日目の永遠の安息に向かうための過程として、神の裁きは不可欠なのだと思います。

 

どうやって、神の裁きが行われるのか

ヨハネの黙示録二十章十二節(兄弟検討訳、一部訂正)

また、我は死者たちや、小さな者たちや大きな者たちも、神の御前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれ、更にもう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれたこと、彼らの業に応じて裁かれた。

 

これまでの内容と重複しますが、天において、「人の心を造られた神は、あらゆる人の業を見分ける(詩編三十三編十五節参照) 」とあるように人間各位の全てが知られております。それを基に天で審判が行われ、大艱難末期の主イエスの来臨の時に判決が下ります。有罪であれば第二の死(火の地獄)、無罪であれば永遠の命を得て神の王国で神と永遠に住まわせていただけます。

 

マタイによる福音書十三章三十節(私訳)

両方とも一緒に収穫するまでそのままにしなさい。収穫の時に我は刈り入れをする者たちに言うだろう。「先ず毒麦を集めてこれらを焼き尽くすために束にして縛りなさい。しかし、小麦は我が穀倉へ集めなさい。」

 

収穫(裁き)の時まで毒麦(有罪とされる者)と麦(無罪とされる者、真のキリスト者)はそのまま一緒に置かれますが、麦は「我が穀倉(神の王国)」に集められます。

 

マタイによる福音書二十五章三十一節から三十三節(私訳)

その時、人の子がその栄光を携えて、その聖なる御使いを皆伴って来る時、その栄光の王座に着く。全ての民はその御前に集められ、山羊から羊を分けるように彼らを相互から分けるようになる。確かに、羊を右側に置くが山羊を左側に置くだろう。

 

ここでは山羊の中から羊が分けております。山羊は神に不従順で有罪とされた者であり、その中から分けているのは従わないのが大勢(ほとんど)であり、羊(真のキリスト者)は彼らに比べて少数であるのが窺えます。

 

毒麦か麦か、山羊か羊か、有罪か無罪かが、生きている時の行い(品性を含む)に応じて判決が下されます。

 

どうなるとよいか

人には罪を犯しやすい性質があり、そのままの状態で罪を犯さない人は誰一人おりません(コヘレトの言葉七章二十節参照)。神の真理(創造の秩序、律法等)を知ることで自分が死刑に値する罪人で、そのままでは滅ぼされる定めであることを弁え知り、救い主であるイエスを受け入れ、これまでこの世の支配者である悪魔によって偽りによって騙されて無知でいたことを知り、これまでの生き方、生活様式、心の中、信念まで改めて、神の律法・掟・戒めを死に至るまで守り通すことです。先に挙げたゼカリヤ書三章一節でサタンが告発する場面の話がありましたが、サタンから告発される罪を隠し持たないことが大事です。世俗の仕事において、特に会社勤めをしていると組織内部の監査、または、外部からの監査、特に法的に管轄する監督官庁からの監査といったものがあります。個人的に何度か経験しましたが毎回とても緊張します。「問われる」という立場がそうさせるのもありますが、何事も当人が最大限に努力しても、他者の目には何かしら漏れがあることが多いと個人的には感じます。また、重大なのは、平素から基準違反が無い状態であるか、基準未達があれば都度に検証を行い、それに対する対処を速やかに行なっていたかといった日々の姿勢です。律法もそうであると思います。そこで後ろめたさがあると緊張度が増します。突かれては困ることがあれば尚更です。何の後ろめたさもなくて堂々としていられるのが最善で、サタンも告発のしようがありません。また、日々、失敗があったとしても(正直、罪悪感に苛まれたり落ち込みますが)切り替えて、同じ失敗を繰り返さないように前向きになることが大事だと思います。もう駄目だと自棄になったり挫折するようであれば、サタンにとっては「してやったり」だと思います。

 

ヤコブの手紙二章十二節(私訳)

お前たちは、自由(解放)の律法によって判決を言い渡される者としてこのように語り、振る舞いなさい。

 

ποιεῖτε(振る舞いなさい)』の言葉の意味は「作る」「行う」です。その他にも「忍耐する」「守る」などの努力に関わる意味合いが見受けられるのが個人的には印象的でした。『サタンから告発される罪を隠し持たない』ことを踏まえると如何に普段の振る舞いが重要であるか、神の律法を守り、忍耐することが重要かが窺えます。律法を「束縛」と捉える偽福音論者(パウロ教徒)が多いですが律法は神によって与えられた道徳的教え、愛に関する教えです。この世においては、肉の弱さも相まって誘惑への陥りやすさがあり、そのままでは滅ぼざるを得ない束縛と悲惨さがありますが、律法を守ることによってそれらから解放(自由)される機会を得ます。また、(引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)」の記事のコメント「8」にて『誰でも苦難を乗り越えると、より強くなり、また品性も磨かれるもんや。苦難を知らず、挫折を知らんのは必ずいつか壁にぶち当たり、その崩れ方も酷くなるもんやろ。(略)子供の頃から上手く行かへんことだらけ、思うように行かへんことだらけで、忍耐を強いられた人なら、たとえ困難があろうとも人生はそういうもんやと思い、乗り越えられる。このように、主なる神は、神の民として迎え入れる人には苦難の道を与えはる。甘やかされて育つ人なんか求めはらへんし、努力や忍耐をせえへん人も要らんと思し召しやろ。主イエスも「最期まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ十章二十二節、二十四章十三節)と教えはったとおりや。』の言葉が相応しいと思います。忍耐が求められる苦しさの背景には様々な要素がありますが、大勢が堕落している中、信仰の兄弟との交わりがありつつも、基本は一人で行動しなければならず、多数の中で群れて生きてきた時間が長いほどに最初は辛く感じることがあるかもしれません。以下のようなX(旧ツイッター)の投稿を見かけました。

 

画像引用:https://twitter.com/trxprince/status/1698324312091226356?s=20

 

確かに、コロナ犯罪によって国民が分断されたと思います。分断といっても真っ二つに割れるといった比率ではなく、高接種率を考慮すると、コロナ犯罪を認識している者は非常に少数なのだと思います。家族内でもコロナ犯罪を認識しないが故に分断されるのはもはや珍しい光景ではなく、世の洗脳が酷いためにそうならざるを得ないのが実際だと思います。今やキリスト者を自称するものであってもコロナ犯罪を認識しない者がいる中で『自分の信念を曲げない』と言えるのは稀有な姿勢だと思います。自分の人生は自分で決めるとの言葉もありますが、行い(決断を含め)は全て自分の意思なのだと改めて認識させられます。悪を認識せず、盲信したり、mRNAワクチンを接種して不可逆的に神が作られた遺伝子を改変するのはこの世の悪を受け入れて従ったも同然です。どの報道機関もまともにコロナ犯罪を取り扱わず、政府や医師会等の犯罪が野放しにされて傷ましく嘆かわしい程の無秩序です。

更には、こちら(NHK)にあるように太陽暦九月一日に『内閣感染症危機管理統括庁』が発足し、感染症対策を一元的に担う司令塔として設けられました。こちら(note:知識と実践と真実と〜知行合一〜)にあるように次なる偽感染騒動が予告されております。そして、合わせるかのように、こちら(さてはてメモ帳)では連合国(UN)が『サイバー軍を立ち上げ、アジェンダ2030を積極的に推進する一方で、「偽情報」とレッテルを貼ったものはすべて弾圧する』との動きを見せております。X(旧ツイッター)の『学歴・職歴と生体情報の収集開始を予告(引用:Gigazine)』との利用規約改悪も言論弾圧を想定していると思われます。こちら(メモ・独り言のblog)では、世界経済討論会(WEF)が『我々は神です、あなた方が我々の邪魔をすれば、あなたは死ぬことになる』とヨハネの黙示録十三章の様相を想起させる主張をしております。『新たな世界統一宗教が到来し、気候科学、テクノ共産主義、優生学の祭壇に礼拝を捧げることで全人類を統一させる』と書いてある世界統一宗教の頂点に獣であるローマ教皇が予定通りに君臨することでしょう。そして、律法違犯を強要させられ、従わなければ殺されるでしょう。しかし、真に重要なのはこの世での命ではありません。先の投稿者は投稿内容からは信仰が無い方とお見受けしました。不信仰者ですらこのような矜持を見せている以上、ましてや予告済みの大艱難に対してめげている場合ではありません。やがて兄弟間の交流が不可能で一人になる状況に置かれたとしても、ただ神の言葉に拠り、主イエスへの信仰を糧に歩むべきです。

 

 

 結び

 

世の悪の実態についてすら知らない人々は、虚しい仕事に勤しみ、日々の生活に追われ、それ以外は娯楽等と戯れているのではないでしょうか。それでは無意味で世の悪に従い、世に属していることに他なりません。罪に塗れたその生き方を続けては、そう遠くない内にこの天地と共に神によって滅ぼされます。世の悪の実態を知っている者でも、真相情報ばかりに留まっていては不十分です。悪しきこの世には希望が全く無く、やがて神によって滅ぼされるだけだからです。世を支配する悪しき者が何故それを起こしているのか、彼らは何者なのか、この後どうなるのかを紐解いていけば聖書の預言通りに事が進んでいることが分かり、聖書が真理であることが認識出来ると思います。今の生き方で良いのだとは決して思わないでください。本物を知ればそれ以外が偽物であると分かるはずです。確かに、世に洗脳された期間が長い程、にわかには受け入れがたいかもしれません。それでも真の聖書福音を聴くことができる内に一刻も早くこれまでの生き方を改めるべきです。主イエスに真に従い通すことで救われること、つまりは新しい天と地で永遠の命を得て、罪とは無縁の世界にあずかることが希望です。

 

イザヤ書二十六章九節から十節(私訳)

我が心は夜に貴方を慕う。然り、我が霊は我が内で貴方を探し求める。貴方の地への裁きの時、地に住む人々は正しさを学ぶからである。悪人は慈悲を受けても正しさを学ばない。真っ直ぐな地で不正が行われ、主の荘厳さを見ようとしない。

 

ここでの『צֶדֶק(正しさ)』とは、倫理的な正しさです。倫理とは、人として守るべき道であり、善と悪の基準、つまりは神の律法・掟・戒めです。その時が来れば、伝えられた真の聖書福音を思い起こすことでしょう。その時にどの立場になっているかは貴方次第です。真のキリスト者が世に抗う唯一の方法は、悪に従わず神の律法・掟・戒めを守ることです。『子たちよ、今やお前たちは御子の内に留まりなさい。御子が現れるその時、我らが確信を持つために。御子の到来の時、御子の御前で恥じないために。(ヨハネの手紙一 二章二十八節:私訳)』と確信を持って準備出来ているように。裁かれる者として、ただただ神の目に適うように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。