こんにちは。

今回は、前回の続きで、聖書(偽使徒パウロの書簡は除く)を基に、聖書の終末預言の考察を述べます。各自聖書研究を怠りなく行い、今まで世の諸教会や諸教派が垂れ流す嘘や欺瞞をかなぐり捨てて、正しい終末に対する認識を持ち、各自が賢く備えてることを願うてます。

今までマタイによる福音書とマルコによる福音書にある主イエスが教えはった終末の兆候について見てきた。今回は、ルカによる福音書の終末の兆候を見て、その差異を比較及び検討する。


 

新約聖書 ルカによる福音書 二十一章七節〜三十六節(拙訳)
そこで、彼らは彼(イエス)に質問して言う。「先生、それで、これらはいつになりますか。また、これらが起ころうとする時、どないな徴がありますか。」
しかし、(イエスは)言わはった。「惑わされへんように注意しなはれ。我が名において多くの人が来て、『我が(キリスト)だ』とか、『時が近付いた』と言うさかい。それ故、彼らの後に従わされるな。しかし、戦争や騒動を聞いても、怯えるな。これらは最初に起こる必要があるが、(世の)終わりはすぐやないさかい。」
それから(イエスは)彼らに言わはった。「民は民に、王国は王国に敵対して立ち上がる。方々に大きな地震と飢饉と悪疫もあり、また、恐ろしい事や天から大きな徴もあるだろう。しかし、これらすべての前に、人々はあんた方に手を掛け、迫害するだろう。諸会堂や牢屋に引き渡し、我が名のために王や支配者の許に連行される。しかし、それはあんた方に証言のためとなるだろう。それ故、弁明するために前もって熟考せえへんと、あんた方の心の中で決めなはれ。我があんた方に、すべてのあんた方の敵対者が否定も反対もでけへんであろう口と知恵を授けるだろうからや。しかし、あんた方は両親、兄弟、親族、友人によって引き渡され、中にはそないな身内があんた方を殺すこともあろう。また、我が名のために、あんた方はあらゆる人に嫌われるだろう。しかし、あんた方の頭の髪一本も決して滅びひん。忍耐によって、自分らの命を獲得しなはれ。」
「しかし、エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たら、その時、その荒廃が近付いたことを悟りなはれ。それから、ユダヤに居る人々は山に逃げなはれ。また、その(エルサレムの)中に居る人々は離れなはれ。そして、各地方に居る人々はそこ(エルサレム)に入るな。これらは、書かれたことがすべて実現される報復の日々やからや。しかし、それらの日において、身重の女と乳飲み児を持つ女は不幸や。この地には大きな災難があり、この民には(神の)激怒があるからや。人々は剣の刃に倒れ、あらゆる国々に捕虜として連行されるだろう。また、エルサレムは、異邦人の時が満了するまで異邦人に踏み付けられるだろう。」
「そして、太陽と月と星に徴があり、地には海と波のとどろきにより、諸国民の苦悩と当惑、恐怖のために人々の気絶、世界に起こることの予想があるだろう。各天の天軍が揺り動かされるだろうからや。また、その時、人の子が大いなる力と威厳に満ちて雲に乗って来るのを人々は見るだろう。せやけど、これらが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなはれ。あんた方の救済が近付いてるからや。」
そして、イエスは彼らに例えを話しはった。「いちじくの木とすべての木々を見なはれ。それらが既に発育したなら、(それらを)見れば、既に夏が近いことが自ずと分かる。せやから、かように、あんた方は、これらが起こるのを見たなら、神の王国が近いことを悟りなはれ。確かにあんた方に言うとく。すべてのことを起こすまで、その時代は決して滅びひん。この天と地は滅びるだろうが、我が言葉は決して滅びひん。」
「しかし、暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ。さもないと、その日が不意にあんた方に来る。それは、罠のように地の表に住むものすべてに来るだろうからや。せやから、起ころうとしてるこれらすべてから逃れて、人の子の前に立たされるに相応しいと看做されるように常に祈り、目覚めていなはれ。」


一、終末の徴について質問した経緯はマルコと似ており、マタイとは異なる
十二使徒の具体的な名前が挙がったんはマルコのみで、マタイとルカは具体的な名前が挙がってへん。文脈上は、一世紀当時で、未だエルサレム第二神殿が存在した頃、古代ユダヤ人たちがそれを見て感心していたところ、主イエスが神殿の倒壊を予告したくだりや。そして、世の終わりとキリストの再臨についての記述が欠けてる点がマルコと同じであるが、マタイでは明確に「あんたの再臨と世の終わりの徴」と書かれてることから、マルコのみならずルカでもこの論点を書き損じたものと思われる。

二、偽メシア以外に予言者っぽいのが出現することの予告
マタイとマルコとルカでも共通してるんは、自分自身がメシアとかキリスト(救世主)であると自称する者が出現することについて述べられてる点や。しかし、「時が近付いた」と言う者についてはマタイとマルコでは書かれず、ルカのみで書かれてることや。その発言から如何にも予言者(預言者ではない)っぽいような言い方であり、只者ではないように思わせるが、実は凡人、ポンコツの偽り者であるということや。別にその発言に限らへんと思うが、過去にも弾劾してきたとおり、勝手に日付指定で滅亡予言や災害予言をしては外す偽り者どもが多いし、占い師や自称霊能者等と嘘ばかり言う者も増加してるし、アホみたいにその偽り者どもをユーチューブや記事等で嬉々として紹介したり、動画で対談したり等と間抜けなことをしてる者が多い。偽り者同士で持ちつ持たれつになっており、共に滅びるのが分からんようや。
また、過去記事「パウロは偽使徒」や「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」からの連載内容を読むことを拒否したり、読んでも理解せず、「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」でも弾劾したのに、パウロ教徒で在り続ける愚か者もどうしようもない。パウロは偽使徒という証拠が聖書から明らかになってるのに、未だ信じるのをやめへん狂信者やからな。そして、多くの過去記事で繰り返し言い続けてるとおり、たとえ拙者の記事や動画によってパウロは偽使徒である事実を理解しても、平素から伝道もせえへんとか、主イエスの教えに逆ろうて一緒に集まろうとせえへん、神や信仰の兄弟や隣人に貢献しようとせえへん役立たずも多い。役立たず同士が集まって虚しく馴れ合ってるのも知ってるが、狂気の沙汰やで。何の意味も無いってのが分からんのやからね。ほんまに、世の中には見る目が無い凡人、奇人、変人が多い。

三、戦争についての言及の違い
マタイでは「戦争や戦争の風評を聞くだろう。動揺させられへんように注意しなはれ。すべて起こる必要があるからやが、未だ(世の)終わりやない。」で、マルコでは「戦争や戦争の風評を聞くだろうが、動揺すな。それが起こる必要があるからやが、未だ(世の)終わりやない。」で、ルカでは「戦争や騒動を聞いても、怯えるな。これらは最初に起こる必要があるが、(世の)終わりはすぐやないさかい。」であり、地味に異なってる。共通してるんは、戦争があるからとてすぐに世の終わりではないという点や。愚かな人々は、偽り者どもの嘘を真に受けて、核戦争になって人類滅亡等とアホみたいに妄想をして取り乱すし、誇張して悪く言い過ぎる傾向がある。しかし、主イエスは、戦争によってすぐに世の終わりになるのではないと明確に否定し、「動揺すな」と戒めてはるさかい、聖書読者及び当ブログ読者は戦争があるからとてすぐに世の終わりになるのではない、動揺すべきではないと思い、落ち着いて居られるであろう。
さて、異なる点は、マタイとマルコでは戦争が「起こる必要がある」とされてるのに対し、ルカのみで戦争が「最初に起こる必要がある」と序列を明確にしてる点や。世の終わりの兆候として最初に戦争や騒動が起こるとしてるのがルカ書の特徴と言える。戦争は世の終わりの兆候の始めというのはこれら三福音書共通の認識である以上、キリスト者なら、支配層による茶番戦争とはいえ、先の大戦から七十年程度続いた平和の時を経て戦争のことを聞くようになった最近、世の終わりの始めなのかと心の準備をし、今の内にキリスト者としてやるべきことをすべきと言える。しかし、平素から律法遵守や伝道等といったキリスト者としての義務を履行してへん者たちが、終末に向けて準備だけ一丁前にしようとしても無駄やで。
さて、戦争について少し言うておく。二千二十二年から続くウクライナ戦争に続き、中東の偽イスラエルとハマスの戦争が聖書暦二千二十三年七月(太陽暦二千二十三年十月)から激化し始めた。欧米諸国やその支配下にある日本は、ロシアを悪とし、ウクライナがかいわいそうな被害者と思わせるような偏向報道がなされてるが、まさか未だに政府や報道機関の言うがまま信じてるのではあるまいな。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」、「キリスト者の成長に必要なこと」、「日本人の問題点 二」等で既にウクライナの悪さ、政府や報道機関の嘘つきぶりについて非難してきたとおりや。今度は偽イスラエルとハマスについて連日テレビ等が懲りずに騒ぎ続けており、ハマスがテロ組織で危険という一点張りばかりで、偽イスラエルの悪さについては何も言わへん。これも偏向報道でしかないし、まったく核心を報道してへんのが苛つく。
まず、こちら(メモ・独り言のblog)等で、ハマスは偽イスラエルによって作られたと明かされてる。また、こちら(BitChute)では、米国のロン・ポール下院議員が、「米国がアラブ諸国と(偽)イスラエルの両方に出資や援助をする。パレスチナ人を殺すのに米国の兵器が使用され、米国の資金も使われてる。歴史的に見て、ハマスは(偽)イスラエルが推進して作ったことが分かる。ハマスはアラファト氏への対抗勢力として、米国の思惑どおりだったが予想外のこともあった。そこで、自分ら(米国人)の素晴らしい社会体制を全世界に押し付けよう、イラクを占領して民主主義や自由選挙を教えてやろうとした。パレスチナでも自由選挙を奨励してパレスチナ人はハマスを選んだ。だから、米国は(偽)イスラエルを通じてハマス設立を援助し、選挙を与え、ハマスが当選し、パレスチナ人を殺すことになった。」と証言したとおりで、すべては傲岸不遜な米国人どもが裏から中東を操作してることが分かるし、偽イスラエルがハマス設立にも加担したんやから、ガザでの両者の戦争なんて茶番以外の何物でもない。戦争の火種を増やそうという意図でしかあらへん。そして、過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」で書いたとおり、過去のフリーメーソンの最高階級者アルバート・パイクが述べたとおり、支配層は第三次世界大戦を偽ユダヤ人や欧米のシオニストどもとイスラム教徒どもとの争いから端を発して世界規模の戦争に発展させようという計画がある。実際に何処まで飛び火するかは支配層次第であり、米国と支那が共謀し、台湾を理由にしつつもほんまの狙いは日本であり、反日支配層の思惑により日本が戦争に巻き込まれる可能性もあり、他人事やない。但し、日本国憲法九条により、日本は何処の国も当たり前に持つ自衛権を除き、交戦権は否定されてるため、自衛隊を外国に派遣して戦争することは許されてへん。反日敵国である米国は、これを忌々しく思い、日本政府に圧力を掛けて改憲を迫っており、日本が合法的に戦争が出来る国にし、ついでに日本国民の主権と自由と人権も奪い、滅ぼそうとしてるんや。しかし、キリスト道や過去記事「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」でも書いてるとおり、自民党改憲草案は、憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」により、排除されるもので、自民党改憲草案のような現憲法に反する内容での改憲は決して許されへん。それでも、正論が通じるまともな人間が政府や官僚の中には居るとは思えへんさかい、断じて、改憲の発議も国民投票にかけさせてもならない。投票は選挙と同様に不正になされるからや。
そして、こちら(メモ・独り言のblog)では、中東でルーマニアの報道者が演技をするのがバレてるし、こちら(BitChute 英語)では、米国のテレビ局CNNの報道者が中東で演技したのが暴露され、こちら(BitChute 英語)では英国放送協会(BBC)が一人の役者を何役にも使い回して歪曲報道したことが指摘されてる。これだけでも如何に欧米人やテレビ局が嘘つきだらけか分かるやろ。せやから、テレビなんかを信用するなと言うてるんや。殆どのテレビ局は株式会社であり、出資する後援企業の言いなりでしかあらへん。そして、報道機関の後援企業は金持ちの支配層の所有であることが多い。故に、支配層らに不都合な真実を大手報道機関が言う訳ないって思わないかん。
また、日本放送協会(NHK)は株式会社やのうて特殊法人で、公共放送と謳ってるが嘘であり、過去記事「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」にて、ワクチンによる死について日本放送協会が放送法違反の歪曲報道したことを弾劾したとおりで、日本放送協会(NHK)は日本国民を欺くために嘘をつきまくり、こちら(SAKISIRU)でも言われてるとおり、日本国民から強制的にでも受信料を徴取する一方、支那等といった外国には無料で放送する売国犯罪組織や。なんで日本の公共放送局が日本国民から金を巻き上げて虚偽報道をしたり、外国人に無料で役務を提供するのか、「虚偽報道や外国人のために金銭を巻き上げられるのはおかしい」と日本国民が集団で猛抗議すべき案件やろ…。この体たらくで「日本放送協会」、しかも公共放送と厚かましくも自称しとるからな…。良心の呵責も無く金銭を巻き上げる日本放送協会や政府らも、その悪行に対して陰で愚痴を言うだけで見過ごして有益な抵抗活動もせず、おとなしく金を払い続ける日本国民も頭おかしい。あんたらが何もせえへんから、彼らは違法行為だろうが何だろうが好き放題するんや…。
長年、政府や司法機関や報道機関等が腐り切ってるのは分かってるやろ。彼らが悔い改めて改善してくれるのを待ったかて、動かんやろし、無駄やで。良識ある国民が正さねばならんのや。彼らの性根が腐敗し切っており、自浄作用が無く、正すにはいっそ潰すしかないであろうな。現代日本人は愚かで臆病の役立たずが多く、幕末の頃のように社会を変えようという使命感や情熱がある人はほぼ居らんへんさかい(明治維新を肯定する意味やなく、社会を良くしようと少しも行動せえへん怠惰と心の悪さを非難してるだけ)、日本の立て直しは無理やろから、神によって潰されるしかない。腐敗してるのは日本のみならず、世界中同じであり、キリストの再臨によってこの世全体が滅ぶしかないという末期的な状態と理解せい。世の終わりは聖書預言の「人手によらず切り出された石」(ダニエル書二章三十四節参照)と表現される神であらはる主イエスが、「天の神が一つの国を興し、この悪い世のすべての国々を滅ぼし、神の王国が永遠に続く」(ダニエル書二章四十四節参照)と書かれてるとおり、人手によらず、神によってこの世が滅ぼされ、正しい神が直接統治する永遠の世になると決まってるんや。真のキリスト者は、それを待ち望む。
信用してはならんのは、テレビのみならず、新聞も同じや。戦前及び戦時中は日本は自由が無い共産主義状態にあり、警察が娯楽(映画、芝居の脚本、舞台、録音盤、書籍)や郵便物ですら検閲してたし、明治以降の偽天皇や政府に不都合な情報はことごとく抹殺され、真実を暴いたり主張する人を思想犯として看做して理不尽に弾圧していた。そないな極悪社会の体制の黒歴史から、現代でも大手報道機関による虚偽報道を「大本営発表」と言われるようになった。大本営とは敗戦前まであった天皇直属の機関で、戦時中に政府と報道機関が癒着し、嘘情報を垂れ流すことからそう言われる。こちら(BuzzFeeNews)では、現代の報道機関が敗戦前の大本営発表から学ばずに政府と癒着して嘘ばっか言うという指摘があり、こちら(政治ドットコム)では、終戦直前期の新聞報道について書かれ、原爆という重大な事件なのに発表が二日後になされて遅いとか、戦意喪失を防ぐという美辞麗句の下、政府と報道機関が意図的に嘘を垂れ流したことも言われてる。現代のテレビや新聞は、戦時中とまったく同じ悪行をしており、真実を報道してへんさかい、絶対に信用すな。欧米や日本のみならず多くの国々で、大企業の大株主の金持ちの意向ばかりが主要報道機関で流され、真実は表に出てけえへんような体制を敷いてる。日本は、明治維新以来ずっと英米という極悪な嘘つきどもに支配されており、日本の政府や報道機関等すべてが嘘をつき続けてる。嘘つきで不誠実な公的機関を信用せえへん賢い人たちが、世間に出回る嘘を暴く情報を出してる。賢い人は「世の権威が言うことは正しい」と思わず、盲信もせず、自分で調べて真実を知るが、愚か者は政府や報道機関等の嘘を盲信して騙される。いつまでも政府や報道機関の嘘を信じるんをやめよ。嘘つきの世の権威を信じるな。洗脳されるな。先の大戦の虚偽報道から懲りろよ。先の大戦でも日本政府や報道機関等は日本が勝ってると虚偽情報を敗戦するまで垂れ流し続けた。明らかに米国に負け続けて劣勢になって本土空襲や機銃掃射等を受けたのに嘘ばかり言うて、偽天皇と政府と軍部が日本国民を戦争に駆り出し続けて殺すために嘘を言い、騙し続けた。ほんまに、政府や報道機関(テレビ、新聞等)は、国民に嘘をついて洗脳する存在ってことに、ええ加減気付き、信じるのをやめよ。
そもそも、テレビ局や新聞社をはじめとする多くの株式会社は、大株主(最大の出資者)の所有なのであり、取締役等の経営者の所有ではないことを覚えよ。取締役が大株主の場合もあるが、そないな会社は少ない。「所有と経営の分離」という株式会社の仕組みを学ぶべきや。多数派の愚か者は、株式会社の仕組みを知らず、「株式会社というだけで信用力がある」、「株式会社は、他の会社や個人事業主よりも信用力が高い」等と間抜けなことを平気で言う。税理士等といった資格者でさえそないな戯けたことを言う者が多い。実際には、株式会社の大企業は、悪魔崇拝者である金持ちの支配層が大株主になってることが多く、それ故、発言力を持つ大株主が選任した役員が傀儡として株式会社を動かし、下々の従業員に命令し、大株主の悪い意向に沿うような邪悪な物が販売されたり、邪悪な役務の提供がなされることが多い故、信用すべきではないし、利用すべきでもないんや。そして、合同会社や個人事業主の方が、株主という横から口を出す者が居ないお陰で経営者は自由にやりたいように出来て経営し易く、株主総会を開催する必要も無いし、株式会社の役員のような原則二年という任期切れも無いし、経営者が迅速に意思決定出来るといった利点がある。株式発行といった外部に広く資金調達を募ることはでけへんが、経営の自由度は株式会社とは比較にならへん。有名なアマゾンジャパン社(米国のアマゾン社は株式会社)、アップルジャパン社(米国のアップル社は株式会社)やグーグル社は合同会社という会社形態を取っており、株式会社ではない。ネット広告で「Google LLC」とよう目に付くが、LLCは日本の会社法で言えば合同会社に当たる。世間の多数派が大好きなイルミナティ企業のグーグル社は創業時は株式会社やったが、途中で合同会社に組織変更した。株主という外部の人間や組織から動かされたくないのなら、株式会社よりも合同会社を選ぶのであり、創業者や経営者の判断の違いでしかなく、株式会社だからというだけで他の形態の会社や個人事業主よりも優れてるということを意味せえへん。せやから、「合同会社って何。知らんから信用出来ない。」、「株式会社は知ってるから信用出来る」、「株式会社以外と取引しない。」、「株式会社に就職したい。他の会社は嫌だ。」なんて頭の悪いことを言わないように、思わんようにしなはれ。自分が知らんという無知を恥ずかしく思て勉強して賢くなるべきで、無知を棚上げして他者を悪く言うべきやない。小規模のものを除いて大企業の株式会社は、株主という外部の人間や組織から意のままに操られる可能性が高く、かえって危険と思うべきである。せやから、「有名な株式会社なら安心出来る」、「大企業を信用する」なんていう大企業信仰は非常に罪深いし、偶像崇拝の罪でもある。更に、大企業程、我々の命や健康や生活に多大な悪影響を与えてる事実も軽視すべきではない。連合国(UN)のSDGsという似非正義のカルト教義に賛同してるんも大企業に多い。こちら(メモ・独り言のblog)にあるように、マイクロソフト社の共同創業者であったビル・ゲイツといった一部の金持ち商人どもや世界経済討論会(WEF)という超共産主義及び優生思想を持つ狂人たちが、連合国(UN)や世界保健機関(WHO)や各国政府を支配及び動かしてる現実もある。金銭や利権のことしか頭に無い拝金主義の愚か者どもは気にせえへんかもしれへんが、当ブログ読者はこれを機に認識と行動を改めるように。買い物も取引先を決めるのも一種の投票であり、悪徳企業で買い物することはそこに投資して金を払て応援することになると認識せよ。嫌なら、悪徳企業で買い物をせず、取引等もするな。また、悪徳企業に就職してその配下となるなら、その仲間ということや。大手志向なんかやめて、世の悪に与せず信頼出来る中小企業や個人事業主を見つけ、そないな人たちと一緒にやって行くか、自分自身で起業する方が健全であり、正しい生き方である。ここでも見る目と良識が問われる。

四、「産みの苦しみの始まり」という言葉の欠如と恐ろしい事や天から大きな徴
マタイとマルコでは、地震と飢饉と騒動が産みの苦しみの始まりとされてるが(マタイでは悪疫もある)、ルカでは「方々に大きな地震と飢饉と悪疫」とだけあり、「産みの苦しみの始まり」という言葉が欠如してる。何故、ルカ書ではこの言葉を欠如させたのか。また、マタイとマルコとの相違点として、「恐ろしい事や天から大きな徴もあるだろう」というものや。恐ろしい事だけでは具体性が無く、何が起こるのか分かりづらい。そして、天からの大きな徴も具体性が無く、何が起こるのか分かりづらい。この抽象的な言い方では、何でも当てはまりそうやし、そのせいでこれらが何の事を示してるのか即座に分かる人はほぼ居らんやろな。この点、拙者が過去記事「聖書の終末預言 二」で警告したとおり、天からの徴と見せかけて支配層が人々を騙すために起こされる青い光線(ブルービーム)計画という人工的な偽りの徴なら有り得るのではないかと推察する。青い光線計画は、宇宙人という偽りの脅威を理由にして、創世記にあったニムロドが全人類を支配して神に逆らわせようとしたように、終末時代も支配層が扇動して全人類を一つにまとまらせ、全員を悪魔崇拝者の反キリストとなることを誓わせ、そうして獣の刻印を打たれた者のみがこの地で生きるという悪魔と支配層である悪人どもの計画であり、これはまさしく真のキリスト者にとって大艱難と言える。当該過去記事でも論述したとおり、異教徒(パウロ教徒を含む)や無宗教とか無神論者と偉そうに自称する不信仰者、嘘である球体説と地動説、及び、存在せえへん宇宙や銀河や太陽系等を信じてる愚か者は、その支配層の仕掛けにまんまと引っ掛かることになろう。最近、急に、バチカンや米国等がこぞって宇宙人や未確認飛行物体(UFO)の存在を認め始めてることから、それらは嘘ということに気付きなはれ。彼らが長年敢えて言及せず、ここにきて急に認めたんは、悪魔と悪人どもに残された時間が少なくなってきており、そろそろ最終手段を取らねばならぬと思て焦ってるからや。また、こちら(BitChute)でも言われてるとおり、支配層の最後の切り札が宇宙人騒動らしいから。それ故、絶対に宇宙や宇宙人の話を信じたらあかんし、そないな嘘情報を広めるのもあかん。

五、真のキリスト者の迫害の時期に差異あり
マタイでは、産みの苦しみの始まりとして起こる諸現象と同時期に迫害されることが書かれ、マルコでは、時期に関する語句が無く、書いた順とするならば、産みの苦しみの始まりとして起こる諸現象(大地震、悪疫、飢饉、騒動)のすぐ後に起こるとみられる。しかし、ルカでは、「これらすべての前に、人々はあんた方に手を掛け、迫害するだろう。」と書かれており、産みの苦しみの始まりの前に迫害されるということらしい。これについては、現代の現実社会に照らすと、誤りであることが分かる。戦争や戦争の風評を聞く段階にもうなってるし、支配層が意図的に起こす偽旗事件とはいえ騒動もそれなりに見聞きしてる。それやのに、真のキリスト者への迫害は未だ始まってへんからや。このことから、ルカ書の「これらすべての前に」という時期については誤りと言えよう。

六、王や支配者の許に連行される目的の差異
マタイにはこれに関する記述が終末の徴についてまとめられてる二十四章には無く、マルコには王や支配者への証言のみならず、「まず、福音があらゆる民に公に宣べ伝えられないかん。」という記載もすぐ後に続いてる。ルカでは、「それはあんた方に証言のためとなるだろう。」と書かれ、真のキリスト者へ向けた言葉になってる。この三福音書において、それぞれ記載内容が異なってる。更に、マタイでは、「王国のこの福音は、あらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられるだろう。そして、その時、終わりが来るだろう。」とあり、全世界に福音が伝わると、世の終わりが来るとされてる。これは、マルコとルカとも整合性が無い。どう捉えるべきか。
聖書に書かれてる主イエスの御言葉によれば、救われるのは狭き門を通って苦められる道を歩み、かつ、主イエスの信仰によって神の掟を守って最期まで神に忠実な者だけ故、悪魔崇拝者である支配層と世の権威に従う大多数の庶民も救われることはない。多数派の人間たちはまったく信心深くないし、広い門から入って広い道を歩き続けてるパウロ教信者どもも正道から外れており、世の権威に流され易く、政府や大手報道機関等の世の権威を盲信しており、テレビ報道等によってようやく信じるようになるようでは世の権威に感化された結果でしかなく、その人自身の自主性によるものではないと言え、人の心を見抜きはる主イエスはそないな似非信仰者やにわか信者を排除しはるであろう。それ故、真のキリスト者が迫害され、権力者どもの前に引き摺り出され、その証言を聞いてから信じる人が続出するなんてことは想像し難いし、むしろ、その時期になれば、黙示録十一章にあるように、真のキリスト者が迫害されることを喜ぶ悪魔の子だらけであろう。また、過去記事「聖書の終末預言 三」でも書いたとおり、終末時代はノアの時のようと言われてるさかい、ノアの時代と同じなら現代でも救われる人数は非常に少なく、真のキリスト者が終末時代に多くなるという事態も考えられへん。過去記事「聖書の終末預言 一」でも述べたとおり、真の聖書福音が世に広まったとて、多くの人間は信じひんし、福音を聞いた人々の反応はどうでもよく、ただ伝えられたという事実があるだけでよい。
この点、マルコの記述は、世間に広く真の聖書福音を宣べ伝えるために真のキリスト者が迫害され、捕らえられ、権力者の前に引き摺り出されるという意味や。ルカの記述には同様の意味は無く、ただ真のキリスト者が主イエスや信仰についての証言をするだけを意味する。これでは、ルカの書き方には物足りなさが滲み出ており、目的が不明確であり、あまり有意義とは言えへん書き方がなされてるという評価をせざるを得ない。これは、主イエスへの非難やのうて、パウロ教信者であったルカに対する非難である。このルカの書き方に比べれば、マルコの記述の方がまともと言える。そして、マタイにはこないな場面は二十四章には無いが、十章十六節〜二十三節にある故、こういった迫害が真のキリスト者に対して行われることは虚偽ではないことが分かる。権力者の前に連行されるような事態になれば、おそらくテレビ等といった報道機関も黙っていないだろうし、現代では一般人でも撮影やネットで情報拡散をする時代やさかい、隠し通すことはでけへんであろう。そうなると、真の聖書福音は大勢の人に広まる結果になろう。たとえ知る人が増えたとて、誹謗中傷をする者が増えても、信じて擁護する者は増えへんであろう。もっとも、そうなる頃は世の終わりに近いであろうし、その時になって信仰に入ろうとしても手遅れやろな。それがマタイ二十四章にある内容やからや。
結論として、マタイの記述を重視すべきということになる。

七、「あんた方の頭の髪一本も決して滅びひん」という言葉
マルコにはこれと同じ記述、または類似する記述は無いが、マタイには「せやけど、あんた方の頭の髪すべてが数えられてる。」(十章三十節拙訳)とあり、ルカの記述もこれと関連するものと思われる。また、ルカ十二章七節にも同様の記載があり、そこでは雀の話のくだりであり、マタイ十章三十節と同じや。文脈からして、神はすべての人間の髪の数まで細かく把握してはるということであり、雀といった動物よりも人間は価値ある存在故、不信仰(パウロ教信者を含む)で悪口を言う他人なんかを恐れず、神を信じて忠実に従い、伝道やその他神から要求されてる事を臆することなくやりなはれと主イエスは教えはった。また、換言すれば、神は人間のすべてを知り尽くしており、状態や行動もすべて知ってはり、それ故、聖書で主イエスから教えられたことや御命令されたことを守らへん、実行してへんのであれば、当然にその事も神は把握してはり、怠け者や悪事を行う者どもに対する処遇は厳しいものになるだろう。口先だけ立派な事を言うてて実際には何もしてへん人や悪い事をしてる人も同じで、そないな有言不実行でも神から裁かれるだろう。たとえ人間は誰も見てなかったとしても、神は常に見てはることを忘れるな。神を侮るな。
拙者は聖書暦二千十六年末(太陽暦二千十七年二月)から伝道活動を続けており、それでもまともに聞く耳を持つ人があまりにも少ないことに苦しみ、心身共に疲弊してきたが、それでも挫けずに継続してきた。それは拙者が人の評価や評判なんかを気にしてるからやのうて、神への愛と隣人愛を持ち、日々神を仰いで行動してるが故や。そうでなければ、他の脱落者のように、途中でやめてしまってとっくに消えていたであろう。あんたらの多くは、ここが違うんやと大いに反省し、心の中や行動を改めるべきであろう。過去にも言うたとおり、悔い改めとは二段階であり、「悔いる」と「改める」の二つ。キリスト者になろうとして挫折する者の殆どが、一旦これまでの生き方や行い等を悔いはしたが、改めることのでけへん人や。過去の言動等を悔いてるだけでは何の意味もあらへんし、ほんまに悔いたなら、改めて、繰り返さへん筈やろ。受刑者も同じことが言えるやろ。こちら(法務省)の統計から、性犯罪、窃盗、傷害、暴行、薬物で捕まって収監された者は、刑期を終えて出所したら再犯者になる確率が非常に高い。なぜなら、その人らはまったく悔いてへんからや。動物のように本能の性的欲求が強く人間らしい理性で自制でけへん者、自分が欲しいと思ったら構わず盗む者、すぐに暴力を振るう凶暴な者、薬物で脳や神経がやられてる者、こないな者は更生が難しいことを示してる。すべては不信仰と隣人愛の欠如から来る罪や。これらは神の律法でも罪とされてる事柄であり、神を畏れず、隣人に対する愛も無いから、かような行いをするし、やめようともせえへん。神を愛して神の律法を守り、更に隣人愛があって隣人を傷付けたくないと思う人なら、とてもこないな行いをせえへんさかい。また、不当に捕まってへんだけの犯罪者が世の中にはようけ居るし、政府や官僚や公務員や報道機関や医療機関や大企業経営者や従業員等の多くも罪人やし、恥知らずで偉そうな顔してよう表に出て来れるなっていう人間だらけや。全人類が真の聖書福音を聞いて悔い改めないかん。しかし、終末時代はノアの時のようやさかい、聞き従わぬ者や嘲る者が多数であり、悔い改めて救われる人はごく少数に留まることも知ってる。大多数は、不信仰で悔い改めへんが故に救われへん。その多数派に属して安心してる人は、まったく安心でけへんのに勝手に安心してるから惨めや。早々に悔い改めな、人間それぞれの髪の数まで把握し、各自の行いに応じて報いる(マタイ十六章二十七節、黙示録二十二章十二節参照)と宣言しはってる神から、あんたらの悪行の分だけ裁きが重くなることを覚悟せい。
拙者は、一人でも多く悔い改めて地獄行きを免れ救われて欲しい、少なくとも失われた羊が残らず救われて欲しいと思うから、真の聖書福音の伝道を続けてるんや。もしあんた方が、心から悔いたなら、言動と生き方を改めるであろう。しかし、それらを改めへんなら、それは実際に悔いてもいないってことを意味するし、不信仰者のままや。上述で再犯のことを言うたとおり、神の律法に違犯し続けてやめへん不法者も再犯者と同じや。神から見たら、この世には神の律法を破る罪人(犯罪者)だらけやが、ほんまに罪と決別して人間の罪深い性質に勝利した真のキリスト者だけが、辛うじて救う対象になる。
実際、改めへん人が多過ぎであり、昔と違て、服装を見るだけで容易に分かる時代や。当ブログを読んでもなお洋服を着てヘラヘラしてるような人らは皆、あかん。服装の重要性は過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」等でも散々言うてきた。しかし、和服を着てるだけでキリスト者としての務めを果たさへんとか、他の律法違犯をしてるようではあかん。悪魔崇拝者である支配層は皆、洋服を着ており、現代の庶民の多くも悪魔側の人間であることを身と心を以って表してる。なんで悪人と同じ格好をするのかな。それはその人自身も悪人やからやろ。「心は違う」なんていうくだらん言い訳なんか通用すると思うな。神に逆らう性的倒錯を喜んで実行してる支配層の脅しに屈した愚かな政府のせいで昨今問題になってるLGBT等といった性的倒錯も同じで、生まれつき男性なのに女装してるだけで「心は女」と自称して女風呂や女便所に入って性犯罪を犯す犯罪者どものように。たとえ性転換しようとも許されることではないし、女が男装することも同じく罪であることにも注意や。生まれつきの性を歪める、変えることは神への反逆行為であり罪やからや。



かように、口先だけの自称なんて正しないし、行いは嘘をつかず、行いがすべてを証明するからや。
また、同じように、「服は何でも良い」等と口先で言いながら洋服ばかり着てる者たちは、決して房付きの和服を普段着とすることがなく、明らかに和服を避けてる証拠で、実際は服が何でも良くなく、この点だけでも二つの律法違犯を犯しており、神の御前でも弁解の余地は無いし、言い逃れもでけへん。



かように、支配層の悪人や悪魔に魂を売って金銭や社会的地位や名声等を得てる大富豪たちと同じく洋服を着てる人たちもまた同じ悪人なんや。神の側に立つ人なら、そないな悪行を厭い、すぐに改めるであろうが、悪魔側の人は、悔い改めずにそのまま変わらんであろう。
また、現代人には芸能人等の真似をする者が多く、扮装(コスプレ)する者は、服装や装身具や髪型等と細部まで模倣するやろ。なんでその熱心さを正しい方向で発揮しようとせえへんのかと甚だ疑問や。それ位熱心に聖書を読み込んで神の律法を細部まで守ればええのに。しかし、それをせえへん人が大多数や。
世の多く人間は、主イエスや真のキリスト者に似た者になろうとせえへんのに、悪人(支配層や政府や官僚や芸能人等)がする格好は喜んで真似るもんな。出自が分かり易すぎる。神から出た子と世(悪魔)から出た子の二種類しかこの世には居らず、前者が希少故に価値がある。希少な金が、鉄や銅等といった他の金属よりも価値があるように、人間もまた希少な人こそ価値がある(但し、神の律法を遵守してる事が前提で、傾奇者は無価値)。多数派なんて神の目には価値が無い、多数派の中で溶け込んで安心してる場合ではないことをさっさと理解せい。さもないと、地獄で溶ける羽目になろう。

八、忍耐無くば、救い無し
ルカでは「忍耐によって、自分らの命を獲得しなはれ。」という記載があり、これは言葉を換えて他の福音書でも存在し、マタイでは「最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。」であり、マルコでは「最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。」と書かれてる。これらは皆、同じことを意味してるが、ルカ書では「最期まで」というのが欠けており、他に劣る。最期とは死に際を意味し、死ぬ時まで信仰を捨てず神の掟も守り通さねばならんという非常に大事な主イエスの御言葉やのに、ルカはこの言葉を書き損じており、劣悪と言わざるを得ない。
また、真のキリスト者は信仰によって神の律法を守るが、不信仰で律法を守らへん多数派の人間と相容れず、あらゆる人から嫌われるとも主イエスから予告されてるとおりで、嫌われ者になる故に忍耐が必要不可欠になるというこっちゃ。そして、途中で折れて世の友になる、世に溶け込んで馴染む者は忍耐が無いということであり、救いも失われる。過去記事「世の悪に抵抗しなさい」で書いたとおり、ヤコブも「あんた方神に対して姦通する者たちと背く者たちは、世の友好関係が神の憎悪であることを分かってへん。それ故、世の友となろうとする人は誰でも神の敵です。」(ヤコブ四章四節拙訳)と言うてるとおりや。神に対して姦通するとは、神に対する不忠を意味し、世の事柄に煩わされ続けたり世と世にある物を愛するとか、神の律法を守らへんとか神の教えや御命令に従わへんことを指す。世の友好関係とは、世渡り上手な嘘つき人間のように、権力者や多数派に迎合して上手くやることを指す。多くの過去記事でも日本人の問題点を弾劾してきたとおり、幼少期から嘘をつき、大人になっても嘘をついて就職や結婚したりして、嘘をついたせいで上手く行かへんようになる者が多数やろ。この世で誰にでもええ顔をしたり、媚びへつらったり、嫌われたくないが故に嘘をつきまくる八方美人ではあかんのや。嘘をつくことは律法違犯の罪(レビ記十九章十一節)であり、そないな嘘つき人間は神に嫌われて地獄行きになる(黙示録二十一章八節)。せやから、そないな世の友となる人やそうなろうとする人は神の敵やと書かれてる。せやから、途中で信仰や正しい行い(律法遵守や慈愛ある行い)をやめへんという継続性が非常に重要というのが分かるやろ。神の律法を守ることも最期までやめへんという継続が必須や。もし途中でやめて律法違犯をする不信仰者に戻るなら、以前よりももっと悪くなるとも聖書には書かれてる(ペトロ二章二十節〜二十一節)。この世での短い人生において忍耐でけへんのなら、後の永遠の世で生きるには相応しくないからや。無論、最初から信仰に入ろうとせえへん不信仰者も救われることはない。せやから、信仰に入り、死ぬまで続ける以外に道は無いというこっちゃ。鋤に手を置きながら後ろを見る者は、神の王国に相応しない。」(ルカ九章六十二節拙訳)とも書かれてるとおりや。キリスト信仰には、不退転の決意が必要や。ただ、「もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは死んだものや。」(ヤコブ二章十七節拙訳)と言われてるとおり、信仰があると言うからには行いで他者に見えるように示すことは必須であり、服装もこれに含まれる。律法を守らへんとか、何もせえへん怠惰であるとか、大した成果も出してへんのに自己満足に浸って勝手に自分には信仰があると思い込んでるようでもあかん。

九、エルサレムとその住民や大艱難に関する言及に差異
マタイとマルコには「預言者ダニエルによって述べられた〜」とあったが、ルカには無い。「預言者ダニエル」と言及することで聖書読者をダニエル書へと導き易いが、その言及をせえへんなら、ダニエル書を見ようとさせないという意図、ダニエル書に関して故意に避ける意図がルカの書き方から感じられる。これはほんまに良くない。マタイとマルコに「預言者ダニエル」と明示されてるさかい、読者はすぐにダニエル書を参照しに行くが、もしそれらが無かったら、何処の預言に関連することなのか、あれやこれやとつまらん議論の発生原因になったに違いない。マタイとマルコの福音書があるお陰でルカに惑わされずに済んだと言えよう。
また、悟らせる内容にも差異がある。ルカは「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たら、その時、その荒廃が近付いたことを悟りなはれ。」とあるが、マタイでは「預言者ダニエルによって述べられた荒廃の忌まわしいものが、聖なる場所に立つのを見たら、読者は悟りなはれ。」で、マルコは「預言者ダニエルによって述べられた荒廃の忌まわしいものが立ってはならぬ所に立つのを見たら、読者は悟りなはれ。」や。エルサレムが軍隊に囲まれたら荒廃が近いと悟れと言うてるんはルカだけであり、マタイとマルコは荒廃の忌まわしいものが立つべきでない所に立つのを見たらどういう意味か悟れとしてる。比較したら分かり易いとおり、内容が明確に異なる。エルサレムと名指しして言うてるのもルカだけでり、マタイとマルコはエルサレムの名を出してへん。「ユダヤに居る人々は山に逃げなはれ。」というのは共通してるが、エルサレムに居る人はそこから離れろとか、他の地方に居る人はエルサレムに入るなという言葉もルカだけにしかあらへん。ユダヤに居る人々に山に逃げるように言うてるんやから、エルサレムだけが特別に攻撃を受けるなんてことはおよそ考えられへん。なぜなら、エルサレムだけが攻撃されて他の地方が無事なら、山に逃げる意味なんて無いさかい。ユダヤ全土に対して降り掛かる災いならば、エルサレムだけ特別扱いする必要が無いであろう。西暦六十六年のユダヤ戦争でローマ軍と交戦した件だけを見れば、このルカの言葉は妥当であったかもしれへんが、終末時代も同じように適用されるかは疑問や。
人々は剣の刃に倒れ、あらゆる国々に捕虜として連行されるだろう。また、エルサレムは、異邦人の時が満了するまで異邦人に踏み付けられるだろう。」という箇所もルカだけにあり、これは戦争の様相を示しており、しかも戦争に負けることも分かる。捕虜になるのが負けた結果生じる事やからや。エルサレムは、一世紀に亜細亜系の古代ユダヤ人がローマ軍と戦って敗れて以来、ずっと異邦人どもに不法占領されており、現代でもパレスチナ人というアラブ系の異邦人と東欧系白人の偽ユダヤ人という異邦人との間で戦いが続いてる。どちらもユダヤ地域やエルサレムの領有権を主張する適格が無いと過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」でも書いたとおりや。千九百四十八年にイスラエル国家が出来たのは、こちら(ソルバ)の英国の三枚舌外交とロスチャイルドの支援によってであるし、フリーメーソンのアルバート・パイクは第二次世界大戦の結果、イスラエル国家を樹立させることを計画として予言してたとおりや。その歴史的事実も知らず、自称キリスト者のパウロ教徒や不信仰者どもが、その偽イスラエル国家を聖書のイスラエルと同一視してる者が少なくないが、その認識は誤っており、非常に愚かや。
また、異邦人の時が満了するまでエルサレムが異邦人に踏み付けられるんは一世紀から今に至るまでずっと続いてることであり、ルカの記述はこの点に関しては正しいと言える。
そして、マタイとマルコには大艱難とその期間が短くされる旨の記述があるのに対し、ルカには無い。「この地には大きな災難があり、この民には(神の)激怒がある」とルカは書いたものの、マタイの「その時、世の初めからこの時まで無く、将来も決して無いような大きな苦難があるだろうからや。そして、もしそれらの日々が短くされへんのなら、すべての肉なるものは救われへん。」とマルコの「その時、それらの日々は、神が造りはった創造の初めからこの時まで無く、将来も決して無いような苦難があるだろうからや。そして、もし主がそれらの日々を短くしはらへんのなら、すべての肉なるものは救われへん。しかし、(主が)選んだ者たちのために、(主は)その日々を短くする。」とは異なるし、大艱難の期間を短くすることについてはルカは言及してへん。この点の欠如についても、ルカの記述は劣悪と言わざるを得ない。

十、太陽と月と星等、携挙についての言及の差異
マタイでは「太陽は暗くされ、月はその光を出さず、星々は天から落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。」、マルコでは「太陽は暗くされ、月はその光を出さず、天の星は落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。」と書かれてるのに、ルカでは「太陽と月と星に徴があり、地には海と波のとどろきにより、諸国民の苦悩と当惑、恐怖のために人々の気絶、世界に起こることの予想があるだろう。各天の天軍が揺り動かされるだろうからや。」とあり、内容が異なる。太陽と月と星が具体的にどうなるかマタイとマルコは言及してるのに、ルカは徴があるとだけでええ加減な記載に終わってる。また、恐怖のために人々が気絶とか当惑云々も他の福音書には無い。そして、この現象はキリストの再臨間近に起こることであり、それらが起こったら主イエスが天の雲に乗って来るのを人々は見ると予告され、マタイでは「地のすべての民族は悲しみ」とあることから、散々真のキリスト者が伝道してきた内容を信じず、拒否したり莫迦にしたりしたのに、キリストがほんまに再臨しはったのを見て、「不信仰で好き放題してきた自分らは終わった…地獄行きだ…」と直感で理解し、悲しむものと思われる。不信仰であるとか、異教徒(パウロ教徒を含む)であって、聖書の真理に聞き従うんを拒否した報いが否応無しに与えられるだろう。
更に、福音書とは別に、「あんたの若い時にあんたの創造主を覚えよ。悪い日々がけえへんうちに。「その日々に我が喜びは無い」と言う歳月が近付かんうちに。太陽、光、月、星々が暗くならんうちに。雨の後に雲が戻ってけえへんうちに。」(コヘレトの言葉十二章一節〜二節拙訳)やヨエル書二章〜四章やアモス書八章等と旧約時代からも言われてる内容であることを知らぬ人は覚えておき、旧約預言を過去のもので現代と無関係と勝手に看做して無視せんようにしなはれ。
そして、携挙について、マタイは「人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果てまで四つの風から、彼の選ばれた人たちを集めるだろう。」とマルコは「(主イエスは)その天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで四つの風の中から、彼の選ばれた人たちを集めるだろう。」と言及があるのに対し、ルカでは「あんた方の救済が近付いてる」とあるだけであり、キリストの再臨ですべてが終わってようやくこの悪い世から救われるという事実はその文言から分かるが、生きたまま天に上げられるという携挙の意味はまったく無い。また、「起ころうとしてるこれらすべてから逃れて、人の子の前に立たされるに相応しいと看做されるように常に祈り」(二十一章三十六節拙訳)という記述がルカにあり、これではまるで艱難期のすべての災いから逃れて携挙されるとも受け取れるが、これは、「彼らは大きな苦難の中から来てる者で、彼らの長衣を洗い、彼らの長衣を子羊の血で白くした。」(黙示録七章十四節拙訳)等といった他の聖書の記述とも矛盾する故、ルカが書いた全面的に艱難から逃れられるかのような物言いは利益信仰を助長するものとも言え、信用でけへん。マタイやマルコでは大艱難から逃れられる記述は無いし、黙示録でも大艱難をくぐって洗練されるとか、「我が子よ、主の懲らしめを軽んじるな。懲らしめられる主によって弱くもなるな。主は愛する者を懲らしめはり、主が受け入れるすべての子を多大な苦難に遭わせるからや。」(ヘブライ十二章五節〜六節拙訳)や箴言三章十一節〜十二節等と、主が神の民を洗練する目的で、この世で神の民は懲らしめられて苦しみに遭わされる記述がようけ聖書にあるし、大艱難の期間が短くされるという主イエスの御言葉から、携挙で大艱難を逃れられるなら短くする意味が無い故、キリスト者が携挙によって大艱難から逃れられるという教義は偽りと断言出来る。この点からも艱難期前携挙説は完全に嘘やと分かる。真のキリスト者が全滅するのを防ぐために大艱難の期間は短くされる以上、生き残る真のキリスト者が一人でも居ることは考えられる。しかし、キリスト者が皆、「自分は助かる」なんて思うような人が増えても困るし、それは神の御意志ではない。殉教する覚悟の無い者はキリスト信仰に向いてへん。この世の生に執着する者は、「自分の命を得ようとする者はそれを失うだろうが、我のために命を失う者は、それを得るであろう。」(マタイ十章三十九節拙訳)という主イエスの教えに逆らう反キリストであることは明白やし、神の目に適うことはない。せやから、マタイとマルコとは異なり、ルカの携挙に関する言及が信用でけへん。それ故、ルカ書しか読んでへん人はキリストの再臨時に携挙があることを知ることがでけへん危険性がある。偽使徒パウロの書簡を読んで携挙を信じ、しかも艱難期前携挙説という大嘘を信じるようでも困る。携挙については過去記事「携挙の真実」を読めば、艱難期末期、及び、キリスト再臨時に携挙があることが理解出来る。何遍も言うてるとおり、艱難期前携挙説は、主イエスの教えに逆らう反キリストによる嘘や。

十一、すべての聖書預言が実現するまで最後の時代は滅びひんという箇所の小さい差異
マタイでは、「これらすべてが起こるまで、その時代は決して滅びひん。」で、マルコでは「これらすべてが起こるまで、その時代は決して滅びひん。」で、ルカでは、「確かにあんた方に言うとく。すべてのことを起こすまで、その時代は決して滅びひん。」と、異なった記述や。ルカでは念押しかのような言い方であり、更に、「すべてのことを起こすまで」と主イエスがこれら終末の徴となる事象を引き起こす行為主体であるかのような言い方になってることが注目すべき点と言える。市販聖書の翻訳では「すべてのことが起こるまでは、〜」という誤訳をしており、起こると起こすでは意味が異なるのがお分かりやろか。原語の古代ギリシア語では、ἂν πάντα γένηταιであり、ἂνは不変化詞、πάνταは「すべての」という意味の形容詞の対格、γένηταιは「〜になる、〜が起きる(起こる)、〜を起こす等」という意味の動詞、三人称単数、第二アオリストや。拙者が「起こす」と訳した理由は、すべてという単語が対格(〜を)という形を取ってることが決め手や。もし「〜が起こる」としたいならば、原語の「すべて」という単語が対格やのうて主格にならないかんからや。対格は目的語になっており、動作や行為が及ぶ対象やさかい、かように訳すのが原語に忠実なのであって、市販聖書の翻訳は、原語に忠実やない。過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」をはじめ、他の記事でも何遍も言うてきたとおり、市販聖書は底本からして誤ってるし、誤訳も多いさかい、原語研究をしてへん多数派は誰も真理を理解してへん。
この箇所について、マタイとマルコ、または、ルカのどちらが正しいのかという問題は、内容的に何か致命的に矛盾を起こしてる訳でもない故、ルカの書き方が特殊であるが、間違いとまでは断じることはでけへん。結局、すべては神の御計画と御意志でこの世は動いており、悪魔や支配層の悪事もその許可の範囲内によるものである故、ルカの書き方のように、神が行為主体であるとするんは誤りとは言えへん。

十二、目を覚ましているようにという注意喚起に関する差異
マタイでは、終末時代はノアの時のようという言及があるのに、マルコには一切無いし、ルカ二十一章にも無い。しかし、ルカ十七章二十二節から三十七節にかけてキリスト再臨に伴う終末の徴の記載があり、ノアとロトのことについての言及があるが、マタイとまったく同じ記載もあれば異なる内容もあるが、終末時代がノアの時のようというのはマタイとルカは共通してる。
マタイとマルコでは、いつ主が来はるのか分からんから常に目を覚ましているようにという抽象的な教訓を伝えてるが、ルカでは、「暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ」と書かれ、より具体的に戒めがなされてるのに大きな差異があると言える。暴飲暴食も酩酊もまったく体にも良くないし、人間が冷静で過ちを犯さへん状態であるためにも必要なことや。また、生活の煩いというのは、生活費という金銭の悩みであったり、家族や職場や友人等といった人間関係での悩みであったり、そういったこの世での生活に関する思い煩いを指す。あまりにもそういったことに悩まされたり、多大な労力や時間や費用を掛けさせられてると、心や時間の余裕が無くなり、落ち着いて聖書を読んだり、研究したり、伝道したりでけへんであろう。「そんな余裕が無い」っていう状態がまさしく生活の煩いを抱えてる状態と言え、それでは救われるのは難しいだろう。信仰が無い人程、そうなり易い。まず、神に選ばれてへん故に見放された結果そうなってる場合、または、人間自身に信仰が無い、または薄いせいで神から目を掛けていただけへん場合や。聖書を読んで神の御意志を理解すれば、こないな事は容易に理解出来る筈やろ。神は御自身が選んだ人間のみに救われて欲しい、後の世で共に永遠に暮らす神の民になって欲しいと考えてはり、悪魔(堕天使)も不信仰の人間も律法違犯の罪を犯すし、神に逆らう者故、神の王国には要らないし、最後に地獄で永遠の破滅という刑罰に処するということです。
マタイ、マルコ、ルカすべてで共通で言われてる「この天と地は滅びるだろうが、我が言葉は決して滅びひん。」という主イエスの御言葉を軽んじるな。この御言葉を知っていながら、この世が滅びず永続すると思てる人間は愚かやし、反キリストであることの証拠である。主イエスに言い逆らう愚か者が救われる訳がなかろう。聖書にある十二使徒のヨハネやペトロの手紙を読めば分かるとおり、この世は仮の世であり、この世は悪い者の中にあり、いずれ滅びて、新しい天と新しい地という新たな別世界が来て、そこで神に認められて救われて永遠の命を付与された人間が神の民として神と共に生きるようになる。反対に、悪魔と悪魔崇拝(異教徒はこの類)をしてる支配層や金持ちや庶民、無神論者と自称する愚か者等は、神に逆らう者であり、律法違犯をやめへん悪い不法者故に、裁かれて地獄行きになる。
律法を守り、伝道も継続的に実施し、信仰の兄弟で集まって励まし合い、その他ええ行いにも励んでるキリスト者であっても、いつ落ちるやもしれぬという危機感や緊張感も持ちつつ、油断も慢心もせずに頑張ってるなら、おそらく大丈夫であろう。しかし、この程度にまで至ってる人は、ごっつ少ない。「自分は未だ時間が必要」なんて思てるような人は、いつまでそない言い続けるつもりなのか。いつまでも無期限に神は待ってくれへんし、マタイとマルコの福音書で主イエスが言わはったように、いつ主が来るか分からぬのやから早く準備を整えておかねばならんのに、のんびり、のらりくらりしてる場合ではないのが分からんのか。何やかんや言い訳をして悔い改めを先延ばしにしてる者は、主イエスに逆らう者ということになる。
拙者が伝道し始めてから既に六年半以上も経った。それでも、全然あかん人が多いもんな。例えば、相変わらず全然こちらに来ようとせえへん者が多数であり(何もせえへん読者が悪い)、しょうもないユーチューブ動画やSNS等にはアホみたいな投稿をするくせに、当ブログや拙者の動画は見るだけでまともな投稿もよこさへん人が多いし(何も言わぬ読者が悪い)、投稿したとしても礼を失しておかしな物言いやどうでもええ事しか書かんかったり、中には最期まで頑張ると言うて来たくせに途中で脱落したり、陰で中傷したりこちらに来させへんように嫌がらせをするという裏切り行為をしたり等、色んな型の人間を見てきた。人間は基本、醜い生き物や。嘘をつくことや裏切りも平気でやる者が多いさかい。そないな多数派の人間は神から嫌われて滅ぼされると理解せい。そないな者が永遠に生きる価値がある訳がないからや。神の正しさが分かるやろ。ルカ書の「相応しいと看做され」とあるように、神から相応しい者と評価されへんなら、救われず、滅ぼされるのみです。評価されるには、神の律法、掟、戒め、御命令に従わないかんよ。それらをせず、自分がやりたい事をやってるだけとか、この悪い世の秩序や常識に囚われて世俗的に生きてるようでは天国には絶対に行かれへんよ。この悪い世俗社会の庶民や権力者から評価されたとて、それは神から認められるという意味にはならへんし、むしろ、この世の成功者は神から大いに嫌われてる。
また、キリスト信仰者と自称してるだけで何もせえへんとか、役に立つことをしてへん、その他神から言われてることを実行してへんとかなら、同じように滅びる。それでも、拙者はこの世の中に失われた羊が居ると信じて、分け隔て無く接してるし、真摯に頑張る人には機会を与えてる。しかし、その厚意や期待に応えへん人が多いことは誠に遺憾や。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上