前回記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」の続きです。

 

過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」でも書きましたが、男女の垣根を崩す傾向が21世紀の現代では顕著です。そのことで、もう終わりの時代であることを示しています。今では性的倒錯をする者が権力者で多くおり、またそのせいで今までこそこそと隠れていた性的倒錯者らが表に出て来るようになり、恥知らずにも声を大にして偉そうに権利主張をするまでになりました。本当に考えられない非常事態です。テレビでも性的倒錯する者が多く出ており、服装の倒錯だけに飽き足らず、性転換手術をする者もおり、それはNWO支配層が故意にその者らを擁護し、世間に悪を善かのように広める悪しき目的があるためです。ここまで来るとソドムとゴモラのようであり、世も末です。欧州では第三の性まで設ける国も出始め、日本でも立憲民主党、社民党、共産党が合同で性的倒錯者の婚姻を保護する法案を2019年6月3日に出しました。しかし、これは憲法24条の両性という男女という異なる二つの性を前提としたことに反しているので違憲で無効です。また、同性婚を認めてしまうと父と母という言い方もその存在も家庭も破壊されます。こんな簡単なことも分からないで、自分たちの異常な性癖を肯定するために正しい秩序を破壊して異常なことを合法化しようとするのは間違っていますし、はっきり言って、これは異常です。世界中で同性婚が合法化される事態の影響で、性的倒錯者やその者らを擁護する者が調子に乗って、愛がないとか寛容さがないとしてキリスト者を激しく攻撃しています。拙者もブログで攻撃コメントを受けました。また、ネット上で見ていると、そのような攻撃に耐えられず、同性愛が罪であるということを言わずに口をつぐんでしまうキリスト者もいます。はっきり言っておきますが、そういう悪に屈する者らは臆病者であり、にわかキリスト者です。臆病者や不法を行う忌まわしい者がどうなるかは黙示録21:8を読むがよいでしょう。このように、臆病者のにわかキリスト者らは迫害から逃げようとし、また自分の保身を考え、同性愛が神の律法違反なのにそれを罪なので悔い改めるべきだと言うことができないからです。にわかキリスト者も不法の者なので同類だからです。自己正当化のために自己愛から、神の義を無視して隣人愛が大事だとわめき散らすのが性的倒錯者の特徴であり、にわかキリスト者は聖書の真理に立っていないので的確に言い返せずに口をつぐみ、タチの悪い自称キリスト者は性的倒錯を容認します。そのようなにわかキリスト者らは聖霊を受けていないのが明白です。聖霊を受けている人はそのような神の律法違反をする者たちの惑わしに騙されないし、言い負かされないからです。主イエスは、神の国と神の義と第一に求めるように教えられました。神の義は神の律法に示され、罪が何であるかを規定しています。もし律法が無ければ罪は存在しないし、罪を罪と知ることさえなかったでしょう。だから、律法は主なる神が制定された聖なる掟の成文法であり、善なるものなのです。その律法で第一に守るべき掟は、全心ですべての精神と知性をもって神である主を愛することです。他のことを挟む余地はありません。そして、神を愛することは神の律法、掟、戒めを守り、キリストの教えにとどまり、その道に歩むことです。隣人を自分のように愛するという掟は二番目であり、人間は二の次です。この順序を蔑ろにし、人間を一番にしてはいけないのです。そうする者は人間のことを思い、神のことを思っておらず、人間の言うことを聞くが、神の言うことを聞かない者です。そういう者は皆、主イエスと神の御国には相応しくないのです。残念ながら、世の多くの自称キリスト者は神より人間を一番にしてしまっています。それではキリストの教えにとどまっているとは言えず、反キリストです。主イエスは、主イエスよりも肉の人間である家族を取るなら「わたしに相応しくない」とはっきり述べられています。しかし、にわかキリスト者らは主イエスよりも肉の家族といった人間を愛しています。肉の家族内で分裂は起こると主イエスは仰いました。あんたはそれを恐れるあまり信仰において妥協しているのではないですか。もしそうしていると自覚があって主イエスにどこまでも従いたいと思うなら、すぐに悔い改めてください。以下の聖句もよく心に留めておくべきです。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 2章4~6節(私訳)

「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守る人は、本当にその人の内に神の愛が完成されています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩むのは当然です。

 

神の律法、掟、戒めを守らないで日々無意味に「主よ、主よ」と言い続け、主イエスが歩まれたように歩まないで自分の肉の欲に従って生きているにわかキリスト者たちよ、悔い改めなさい。主イエスを模範として、天の父なる神を第一に愛し、神のことを考えて生きなさい。罪の贖いをしてくださった主イエス・キリストを真心から信じて従いなさい。世俗の人間たちや俗世間の仲間になろうとせず、真の兄弟が生きるように、勧めるように生きなさい。神への愛が無ければ、また聖霊の助けが無ければ神の律法、掟、戒めを自発的に喜んで守ることはできません。守らない者は偽り者で、神への愛は無いし、真理も知らない者です。このような偽兄弟らを避けなさい。

 

旧約聖書 詩編 1章1~2編(私訳)

不信心の者の助言に従って歩まず、罪人たちの道に立たず、軽蔑する者の座につかない者は祝福されている。むしろ、主の律法にあることが祝福された者の喜びであり、主の律法を昼も夜も熟考する。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 二章十二節~十三節(拙訳)

確かに律法を知らずに罪を犯した者は皆、律法の知識と関係無く滅びるであろうし、律法にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれるだろう。律法の傍聴者が神の御前で正しいんやのうて、律法の実行者が義とされるだろうからや。

 

既に複数の過去記事で、神の律法を守るように拙者は宣べ伝えてきました。パウロも同じように述べています。律法を聞くだけでなく、行う者が義とされるのです。聞いても拒絶して律法を守らない者はいくらキリスト者と自称しようが偽り者です。聖書にある神の律法を知らないという不信仰の者や異教徒らも同様に滅びます。繰り返し言いますが、律法を守ること自体が律法主義なのではありません。上述したように、神の御命令どおりの律法を守り、それも神への愛と信仰故に自発的に守ってこそ義とされるのです。律法を守るという外形だけを見たら、真のキリスト者と律法主義者の区別がつかないかもしれませんが、動機や愛といった内面の部分が大きく違うのです。だから、何をするにも愛と動機が大事なのです。ユダヤ教の指導者らが勝手に付け加えた細則やタルムード、地上の諸教会と諸教派らの言う反聖書的な教えは人間の戒めなのであり、これらが害悪なのであり無視すべきものですが、聖書に書かれている今も有効な部分の律法については真のキリスト者ならば守って当然のことです。主イエスが「律法の文字の一画がなくなるより、天地が消え失せる方が易しい」(ルカ16:17私訳)とも仰っているからです。律法すべてを廃止されたものとして主張したり、そう信じて律法廃止論を吹聴する偽善者、神への愛と信仰故に神の律法を守る者を誹謗中傷するなどして迫害する者、拙者が宣べ伝える真の聖書福音を聞いても行わなかったり逆らう者は、必ずそれらの悪い行いの報いを受けるでしょう。前述した服装についても律法にあることで、拙者が勝手に言ってることではありません。それを守る、守らないはあんた方次第、あんた方の信仰次第です。ヨハネが言うように、神の律法、掟、戒めに従うことは難しいことではありません。ただ人間自身の肉の思いや欲が邪魔をするだけです。だから、それらを捨てることが自分を否定することになり、ようやく聖霊の導きに委ねることができます。逆を言えば、神の律法、掟、戒めに従えないのは、あんたが肉の欲と肉の思いで生きて世俗を重視しており、主イエスと聖霊の導きを拒絶して逆らっているからです。こうして悔い改めを先延ばしにし、だらだらと月日を重ね、自分では気付かぬ内に恩恵期間は終わり、定められた運命に向かって進んで行くのです。悔い改めて主イエスに従順な羊は永遠の命に入り、悔い改めず主イエスに逆らう山羊は永遠に燃える火の中に入れられます。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上