こんにちは。

今回は『裸の恥と白い衣』と題してお話しいたします。前回記事『愚かさを避ける』の中でも触れた「裸の恥」と「白い衣」の意味について考察し、裁きの時になって初めて裸の恥を自覚することのないように、神がお認めになる白い衣を着た状態へと自らを整えていく必要性をお伝えいたします。

 

 

  一、はじめに

 

 

神がお認めになるほどの白い衣を着た状態を一言で表現すれば高潔さと言えます。高潔さとは心が気高く清らかなことです。高潔さを表す生き方の一つの例として武士道があります。ミカエル氏が『武士道を忘れた日本人』と題してキリスト道に通じる武士道の高潔さを記事にしているのでぜひご覧いただきたいのですが神が求める心の有り様や行動に武士道の真髄はよく似ております。かつてあり、今の世ではほとんど見られなくなった日本人の高潔な生き方は人を惹きつけるものがあります。武士道を紹介しているこちらの動画(youtube)やミカエル氏の別記事で紹介されたもう一つの白虎隊である二本松少年隊(youtube)にある武士の生き様は圧巻です。武士道は武士の実践によって形を成したものです。遠くから眺めるものではなく実践ありきのものであり、その面では天地万物を造られた唯一真の神は聖書を通じて人が高潔に生きることを求めておられることにも通じます。神を愛すること、神の律法・掟・戒めを遵守すること、完全となること等、武士道の中で遣われている言葉との差異はあっても言わんとしていることは同じです。行き着いた先にあるのは眩いばかりの高潔さです。そしてこれこそが白い衣を着た状態と言えます。

 

聖書を読んだはずのキリスト者を名乗る者たちは主イエスを信じて受け入れれば救われると言います。彼らは人には正しいことを実行する力がないと言います。悔い改めを拒否したそのような状態で聖なる神の御前に立った時、自分の思い違いも含めてさぞかし恥ずかしい思いと後悔をするのではと懸念します。もしキリスト者自身が努力する必要がないのであれば「鍛錬」「精錬」「忍耐」「節制」「競技する人」といった言葉で聖書が成長を促している意味をどう捉えるのでしょうか。信仰とは誰かに強いられるものではなく神への愛に基づく自発的なものです。信仰は神からの招きによって始まります(使徒言行録二章三十九節参照)。真のキリスト者である羊は、羊飼いである主イエスの声を聞き分けて従います(ヨハネによる福音書十章二十七節参照)。皮肉なことに偽福音を信じる自称キリスト者は、主イエスを信じると言いながら「神の掟を守れ(ヨハネによる福音書十四章十五節参照)」の主イエスの言葉がまるでなかったかのように無視して聞き入れません。出エジプト記に書いてあるファラオ、荒れ野で反抗した民、また神に反逆し続けた古代イスラエル王朝の王や民たちのように頑なです。聖書の言葉を幼子のように心を入れ替えて素直に聞き入れること(マタイによる福音書十八章三節参照)が求められます。確かに誰しもが最初は聖書を十分に知らず知識が不十分な所から始まります。さらに人によっては世の諸教会などで誤った福音を聞いて躓いている場合もあります。しかしここに武士道で言うところの智と忠が必要です。ここでの智とは聖書を理性的に理解して善悪を分別すること、忠とは神の律法・掟・戒めを守る忠実さです。これらが実践できておれば主イエス(主君)の御前で恥じ入らずに確信を持つことができることでしょう(ヨハネの手紙一 二章二十八節参照)。

 

 

  二、裸の恥

 

 

個人的な話ですが手前は過去に手術を受けた時、全身麻酔の過程で幻覚を経験したことがあります。その内容は「自分が真っ暗い完全な闇の中に独り居る」というものです。ただでさえ手術を受ける恐怖心で満ちてるせいもあり幻覚を見ている自覚もその時にはありませんでした。暗闇の中で自分がかつて目にしてきた場面が映写幕のように映し出され、わけもわからずにいる所でその記憶は途切れております。これはただの幻覚であり現実世界に何の関係もありません。ただ「全てから隔絶されてたった一人」、「主観を認識できるだけの意識は有る」、「真っ暗闇」であることは覚えております。後年になってもしかすると『陰府にいる』とはそんな感じなのかもしれないと思うようになりました。また自分が目にしてきた場面が映写機のように再現される様子は自分の歩みの全ては神に見られていると思えました。当時の記憶とこの世に生きた全てのもの(物質的・環境的・人間関係等)からの断絶と死に対する認識が結び合わさり裸で生まれて裸で帰る(ヨブ記一章二十一節参照)とはこういうことだろうかと思いました。結果として拠り所としていた世のものと切り離されて心もとない様は「全てを失って裸でいるかのような心細さ」と表現するのが相応しいと感じます。

 

もう一つ個人的な話ですが何度目かの身内の死を経験しました。亡き骸を見ながら、ほんの数時間前までは生きていたはずなのにと思ってしまいます。しかし今はもう動かず、魂もここにはありません。『その者の霊は去ってその土に帰る。その者の思考の数々はその日に朽ちる。(詩編百四十六章四節:私訳)』の言葉は真実です。火葬を経て骨だけが残る段階になると魂が収まる肉体も魂自体もこの地上に既になくて決して交わることがないのだと思わされます。残るのは生者の中の故人に関する記憶だけです。とても呆気なく感じます。この呆気なさは生涯が一時的な滞在である(ペトロ一 二章十一節参照)、人は僅かの間だけ現れてやがて消えて行く霧にすぎない(ヤコブの手紙四章十四節参照)』のだと強く実感させられます。

 

ここで伝えたいことは死んだら世にある何物をも持って行くことができないという厳然たる事実です。人は生きている間に何かしら世にあるものを頼りに生きております。人(家族・友人・仲間等)だったり物体(家・衣服・生活に必要なあらゆるもの)だったり金銭だったり、社会的地位や社会的評価などです。しかしそれらは全て世に置いてくることとなります。あるのは魂だけです。何もない様は肉体が裸であることに近く、この世の生涯で身に纏っていた全てから隔絶された状態の中でも残るのは自分の「心」だけです。確かに生きている間は目に見える状況・環境ばかりが目に映り、「全てを失っても自分に残るものは何か」と本質的なことを考えることはほとんどないかもしれません。生活に没頭すれば生の本質を考えることもなく誤魔化すこともできます。しかしそれではやがて来る生の終わりに対してあまりにも無防備です。

人生は短いで。残された時間も短いで。拙者の再三に渡る警告を聞き入れて従わぬのなら、主の日が来て、裁きになった時、あんたらは神の御前で大いに恥じ入り、絶望することになる。

 

引用:真の聖書福音と預言(偽使徒パウロの反キリスト教義 一)

人間を含めた被造物全ては神の下に置かれております。人は全てまずこの神を知らなければなりません。神がいるという前提、神は人とどんな関係なのか、人にとって神は何であるか、これからどうなるのか等、真理は聖書だけが教えてくれます。神は人が神を愛して完全に従い通すかを問うております。神からの問いへの応答をどれだけ用意できたかが重要です。先には世の事柄から切り離されて何も持たない心もとない状態を裸のようだとも言いました。しかし、人生の意味と死後の裁きについて知って生きている間に積み上げるべきができていれば、それはもはや裸ではありません。その積み上げるべきは信仰、心、行いです。

 

◉サムエル記上 十六章七節(私訳)

主はサムエルへ言う。「お前はその者の容姿、背の高さに注目するな。我はその者を退けるからだ。人が見るのではないからだ。人は外見を見るが主は心を見るからだ。」

 

◉ヘブライ人への手紙 四章十三節(私訳)

神の御前に現れていない被造物はない。我らに関係することが神の目に全ては裸で露わにされている

 

人は見た目、雰囲気、肩書き等で人を判断しがちです。人には人の心は簡単に見えません。注意深くその人の言動を観察してもやっと見えてくる位かもしれません。だから内面が表に現れるのを確認するよりも先にその人の外見が目に飛び込んできます。また多かれ少なかれ人は取り繕い、時に印象を操作したりして内面を隠します。しかし人はそうであっても主は心を見るがゆえに一切の取り繕いは通じずに真っ直ぐに心の全てを見られます。自分の心をそのまま見られていることをどう感じるかによってその人の整い具合がわかると思います。主を仰ぎ見て励んできた積み重ねがものを言います。それでもキリスト者の歩みの最初は自分が裸であるという認識を持つことから始まると思います。最初から完全にはなれないからです。

 

◉ヨハネの黙示録 三章十七節(私訳)

お前は「我は裕福で豊かで何も不足がない。」と言う。しかしお前は惨めな者、哀れな者、貧しい者、盲目な者、裸の者であると認識していない。

 

世の事柄ばかりを考えて生涯を送り、神の言葉や神との契約を認識せず神に不従順でいるのは神の目には見苦しい姿でしかありません。これこそ裸、精神的な盲目、天に蓄えるべき富が欠乏している貧しい状態、惨めで残念な者です。これが神に従順で整った状態であれば何も良心に恥じることなく、神に対しても後ろめたいこともないでしょう。勿論、自己満足にも注意が必要です。『我が恥じ入らないために我が心は貴方の掟に誠実であれ。(詩編百十九編八十節:私訳)』と詩編でも神の掟が基準であることを示しております。

 

『その日に大勢が我に言うだろう。「主よ、主よ、我らは貴方の名によって預言し、悪霊を追い出し、たくさんの奇跡を行いました。」(マタイによる福音書七章二十二節:私訳)』の聖句から明らかなのは主イエスを知りながらも不法を働いた者たちの自身の振る舞いの自覚の無さです。これこそ精神的に盲目な者と言えるでしょう。聖書は人間という存在を神・愛・律法・サタン・罪・第一の死・裁き・救い・永遠の命・第二の死などのさまざまな切り口で説明して定義づけていると思います。そして人の行き着く最終先(永遠の命または第二の死)を明確に記しております。二者択一はとてもわかりやすい構図です。救いの条件は裏を返すと第二の死の条件でもあります。抜け目なく永遠の命の条件を聖書から見出だして行動する真の賢さが必要です。これらを見出だせていない状態が盲目な者と言えます。また貧しい者とはここでは救いに必要な積み上げるべきものが圧倒的に不足して欠乏している様を「貧しさ」と言われているのだと思います。神から認められるものを何一つ持たずにそれを認識できていないのは「惨め」と言わざるを得ず、聖なる律法を軽んじる心の様はそのまま精神的な醜さでもあり何も自身に付加価値をつけるものを持たない薄っぺらい状態は裸の恥に相当します。

 

世俗生活に没頭して表面的に立派な状態と思えても、神が求める生き方に程遠いことを主は全てご存じです。世俗に没頭するほどに神を思う心は外側に押しやられます。神を思う心が欠如するほどに自己愛や欲が強くなり自制することが困難となるからです。そのような心の状態に綺麗さは無くむしろ汚れております。それは神の掟に違犯した生き方をした結果でしかありません。また世俗に没頭している内は恥じ入る感覚すら持ち得ず、やがて肉の命と共にその後の命をも失うことでしょう。

 

 

  三、品性を纏う

 

 

神の御前で恥じ入らずに絶望しないためには聖なる神に近い品性を身につけて罪が見出だせないようになることが求められます。以下、複数に渡りますが非常に大事な解説であるため引用いたします。

 

キリストに近い品性は、誰の手によっても変えたり、奪ったりすることはできませんし、他人に分け与えることもできません。完全に不可侵で不可分であり、個人に属する性質のものです。

 

引用:真の聖書福音と預言(天に富を蓄えよ)

 

人間は死んだら終わりなのであり、死後に持っていけるのは霊、即ち、品性だけなのです。

(略)聖書を通して主イエス・キリストが教えてくださっているのは、神の民が聖なる者、完全なる者となることであり、罪を忌み嫌う高潔、正直、謙遜、素直、純潔、柔和、節制、親切、誠実、愛で、簡潔に言えば、キリストの品性に近づくことです。

 

引用:真の聖書福音と預言(生温い信仰への警告)

 

真心から罪を認識し、罪を犯したことを悔い、それをやめるという改めの行いが伴わないと生活や品性に変化は生じません。クリスチャンの多くが罪の結果である第二の死を恐れていますが、これは本当の悔い改めではありません。人間が犯す罪が神やキリストを悲しませるものだという認識が足りていない人が多過ぎます。

 

引用:真の聖書福音と預言(主イエスを模範として従う生活)

 

すべての人間の、それぞれが発した言葉、行い、心の中の思いや隠れた動機、品性等すべてが天の書物に記録されています。

 

引用:真の聖書福音と預言(神の裁きは福音であり、迫害は喜びである)

 

一つ一つがとても大事な内容です。特に「罪を犯したことを悔い、それをやめるという改めの行いが伴わないと生活や品性に変化は生じません。」は心して受け止めるべき内容です。偽福音を信じる世の自称キリスト者は罪を犯さないことは不可能だから主イエスの贖いに縋るしかない、それを否定するのは異端であると主張します。しかし行いのない状態が咎められるのは主イエスの言葉から明らかなのです。主は悔い改めを命じられているにも拘らずそれを聞き入れずに十字架の贖いを曲解して居直り、違犯を積み重ねて平気でいられる方が異常です。行いとは心の反映であり鏡のようなものです。心の内にあるもの、心の状態が言動(言葉と行動)として表に現れるのだと思います。真に悔いて違犯行為をやめるにはまず心の内が変化しなければできません。それゆえ違犯行為のない人はこれまでと心の内が変化して聖なる神の掟に適う品性がある状態と言えます。

 

引用のそれぞれにある通り、死んだ後も持っていくことができるのはその磨かれた心、品性だけです。律法主義とは救われるために戒めや掟を守ればそれで良いとすることです。ここで問題になるのは動機です。救われることだけを考えて律法を遵守するのであればそれはただの自己愛で主イエスが神への愛が無い(ルカによる福音書十一章四十二節参照)と批判された通りです。例えば道路交通法にしても警察に違反切符を切られないために速度を守るも同様であると思います。取り締まる者がいなければ(誰も見ていなければ)違犯すると公言しているようなものです。そこには同じ生活道路を使用している他者・他車への気遣いや思いやりは感じられません。神に神を畏れるのであれば神の言われることに従い、その過程で自ずと品性が身につくはずです。こういった意味で品性とは神への愛を起点にして作られるのだと思います。

 

 

  四、白い衣

 

 

裸にならないために品性を纏う必要があります。品性が備われば行いも自ずと伴い、神を愛して罪を犯さない状態は白い衣を纏っている状態です。また衣を纏うことの意味については聖書内にさまざま記されております。

 

◉詩編 七十三編六節(私訳)

それゆえに高慢は彼らの首飾り、不義は彼らを衣のように覆う。

 

衣は外見上のことだけではなく心の中の状態や結果として書かれております。また『お前たちの飾りは外見上の編んだ髪や金の飾り、(飾り)服を着ることであってはならない。ただ心の隠れた人、(即ち)朽ちない謙遜や控え目な霊よりなるこの飾りは神の御前に非常に価値あることである。(ペトロの手紙一 三章三節から四節:私訳)』の聖句も内側を疎かにして見た目を飾ることを戒めております。

 

◉ゼカリヤ書 三章三節から四節(私訳)

ヨシュアは汚れた衣を着ていて御使いの前に立ち、主はヨシュアの前に立っている者たち(御使い)へ答えて指示を言われた。「お前たちは彼から汚れた服を脱がせなさい。」そして主はヨシュアに言った。「見よ、我はお前からお前の罪を取り除いたのでお前に長衣を着させる。」

 

◉コヘレトの言葉 九章八節(私訳)

お前の衣は常に白くあれ。お前の頭の上の香油を欠くな。

 

どんな衣でも良いわけではありません。汚れた衣は罪の象徴です。罪が取り除かれて罪が認められない状態は新しい長衣が相応しいと上記のゼカリヤ書に書いてあります。また上記コヘレトの言葉にある「白」はヨハネの黙示録に書いてある白い衣に一致し、それは清さの象徴です。

 

◉ヨハネの黙示録 三章四節から五節(私訳)

サルディスに自らの衣を汚さなかった幾らかの名がある。彼らは白い衣で我と共に歩むようになる。勝利を得る者、その者は白い衣を纏い、その名を命の書から消し去らず、我はその名を我が御父の御前とその御使いの前で明言するようになる。

 

「衣を汚さなかった」とはゼカリヤ書三章三節から四節が記しているように罪がない状態です。その状態に対して白い衣を着せられており、命の書に名が記されたことから罪を見出だせずに完全となったキリスト者であると窺えます。マタイによる福音書七章二十三節では律法を遵守しない不法を行う者たちに対して主イエスは「我はお前たちを知らない」と言われております。不法を行う者は命の書に名も記されず覚えられないことに符合します。偽福音を信じる者たちは主イエスを信じて受け入れることで救いは取り消されないと主張します。しかしこの聖句の言葉はその主張とは相容れません。むしろ、招かれる者は多くても選ばれるものは少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)や福音の素晴らしさを知った後に堕落した者は立ち返ることができない(ヘブライ人への手紙六章四節から六節参照)の言葉がこれを裏付けていると思います。

 

◉ヨハネの黙示録 三章十八節(参照)

我は、お前が裕福となるよう火で試された我が金を買い、お前の裸の恥が見えないように白い衣を纏うよう助言する。そして、お前の目が見えるように目薬を塗れ。

 

精錬とは純度の高いものにすることであり、良くないものを取り除いて清めることです。「火で試された金」とは「精錬されて練り上げられたもの」です。「買う(ἀγοράζω)」の原語には、「買う」の他に「(代償を払って)手に入れる、勝ち取る」「(神が・人を・罪などから)救う」といった意味を見出だせます。原語の定義から「救いを勝ち取れ」と言われているように感じます。また「買う」行為にはそれに価値を見出だしていることが前提です。『めいめい鍛錬(懲らしめ)は実にその時は喜ばしいことではなく悲しいことのように思われる。しかし、後にそれによってお前たちに鍛えられた平和な義の実を生み出す。(ヘブライ人への手紙 十二章十一節:私訳)』の通り、神からの鍛錬を経て完成された器のキリスト者になることが求められております。この過程は価値があることです。また、ここでの目とはマタイによる福音書六章二十二節から二十三節・ヨハネの手紙一 二章十六節にあるように、目が心の指標として書かれていることから「衣」と同様に心を整えることを言われているのだと思います。白い衣に関わる事項をネット上で検索すると「主イエスを信じたその時から既に白い衣を着て聖なるものとされている」といったものが散見され本当に酷い惑わしです。鍛錬を経ないでどうやって品性が身に付くと言うのでしょうか。

 

◉ヨハネの黙示録    六章十一節(私訳)

彼らは各自に白い長衣を与えられた。そして彼らのように殺されようとする者たち、彼らの仲間の僕や兄弟(の数)が満ちるまでまだ少しの間休んでいるようにと彼らに言われた。

 

主イエスに認められた真のキリスト者に白い衣が与えられており、且つ大艱難期に殉教することを示唆しております。艱難前携挙が確実に偽りであるとわかります。それを信奉するものたちは広い道・広い門を堅持したくて仕方がないようですが仲間の僕(真のキリスト者)や兄弟の数が満ちるとあることから救われる者たちの数が定まっていることがわかります。(参照:真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)そして死に至るまでの忠実が試される激しい精錬(ヨハネの黙示録二章十節及び十二章十一節・ゼカリヤ書十三章九節参照)があることがこの聖句の背景に窺えます。

 

◉ヨハネの黙示録 七章十四節(私訳)

我は長老に「主よ、貴方は知っておられます」と言うと我に「激しい苦難の中から来る者たちで子羊の血によって彼らの長衣を洗って、彼らの長衣を白くする」と言われた。

 

◉ヨハネの黙示録    二十二章十四節(私訳)

彼らは命の木への権利を得るようになり、都への門に入るために神の掟を行う者は幸いだ。

 

「大きな苦難を通る」と「子羊の血によって彼らの長衣を洗って」について『しかし、その来る日を誰が耐えるのか。その現れる時、誰が立てるのか。彼は精錬する者の火のように、布晒しをする者の洗剤のようだからである。(マラキ書 三章二節から三節:私訳)』『我は三分の一を追い込み、銀を精錬するように彼らを精錬し、金を試すように彼らを試す。彼は我が名を呼ぶと我は答えて言う。彼は我が民。彼も言う。主は我が神。(ゼカリヤ書 十三章九節:私訳)』と世の終わりの大艱難期になされる神の試しのふるいがあることがここでも見出だせます。余談ですがマラキ書三章三節にある「布晒しの洗剤」について以下の参考情報がありました。

新約聖書《マルコによる福音書》に〈その御衣は非常に白く光り世のさらし屋ではとてもできないほどの白さであった〉とあり,布晒しをする洗濯業者がこの時代に出現してくる。この業者をフーラーfullerといい,フーラーズ・アースfuller’s earth(ケイ酸アルミナ)を使い洗濯をしていた。また毛織物の洗濯にはアンモニアを用い,そのためローマ市内の尿を集めたといわれる。

 

引用:コトバンク(世界大百科事典内のfullerの言及)

布晒しをする洗濯業者は当時の古代イスラエル人に知られた存在であったと思われます。布を洗って綺麗になる様子を「子羊の血によって彼らの長衣を洗って、彼らの長衣を白くする」と比喩されたのではないかと思いました。

 

精錬される側、洗われる側には甚大な負荷がかかるはずです。死に至るまでの忠実とは生存の本能を抑えて、神への愛に燃えて自己愛を締め出していなければ決してできない境地だと思います。神の試しの過程で信仰が磨かれて純度の高い信仰と品性が顔を覗かせるのだと思います。

 

◉ヨハネの黙示録 十六章十五節(私訳)

見よ、我は盗人のように来る。裸で歩かないように、その恥を知るように、目を覚ましている者とその衣を常備する者は幸いだ。

 

大艱難期が入る頃には罪の赦しの恩恵が終わっていることが考えられ、『ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判(真の聖書福音と預言)』に書いてあるように『現在進行で審判が行われている(上記引用)』ことや『個人で救いの恩恵期間も異なり、既に終わっている人も大勢います(上記引用)』の状況を考えれば、まだ大艱難ではないなどとは思わずに今日にも明日にも恩恵期間が終わりかねないと危機感を持って目を覚まして白い衣を身につけるべく鍛錬しなければなりません。白い衣に値する強固な信仰がある日突然に出来上がるはずがなく、日々に鍛錬を重ねた結果でしかありません。大艱難は世の終わりの最大の試し、人生における最高難易度の試験だからこそそのために何年も前から準備をするのは当然でないかと思います。

 

◉ヨハネの黙示録    十九章八節(私訳)

花嫁に清く輝く亜麻布を着ることを許された。亜麻布は聖なる者たちの義(正しい行い)だからである。

 

◉イザヤ書 六十一章十節(私訳)

我は主を大いに喜ぶ。我が魂は我が神を喜んでいる。我に救いの衣を着せて、義の長衣で我を覆ったからである。花婿のように冠を飾られ、花嫁のようにその宝石で飾った。

 

上記の黙示録にある「花嫁」は黙示録や福音書で頻出する「真のキリスト者」の譬えです。「輝く」とあるλαμπρὸνの原語は「白」でもあり「光り輝く」でもあり「白い衣」に同じであると思います。特に重要なのは「聖なる者たちの正しい行い」とあることです。真のキリスト者に行いが求められることがここにも明確に記されております。信仰が行いによって完成される(ヤコブの手紙二章二十二節参照)と書いてあるので当然です。

上記のイザヤ書にある「義の長衣」は新共同訳では「救いの衣」とされておりますが神に認められる義であればそれは救いと同義であると思います。また主イエスに近い品性を纏うまでに成長できた様は「花婿のように冠を飾られ」に相応しく、すなわち栄冠(テモテへの手紙二 二章五節参照)であると窺えます。

 

 

  五、誰にも奪われないように

 

 

◉ヨハネの黙示録 三章十一節(私訳)

見よ、我はすぐに来る。お前の持つ栄冠を誰にも奪い取られないようにしっかりと掴んでいなさい。

 

栄冠はテモテへの手紙二 四章八節やペトロの手紙一 五章四節にあるように真のキリスト者に賞として与えられる永遠の祝福(永遠の命)です。注意が必要なのは「誰にも奪い取られないように」と言われていることです。ここでも救いは決して失われることはないとする考えが誤りとわかります。奪われる場面としては神の掟以外を優先してしまう誘惑が考えられます。大艱難とはまさしくふるいです。大艱難期の試しの激しさは史上、後にも先にもないほどの苦難でその期間が縮められなければ後にも先にもないほど(マタイによる福音書二十四章二十一節から二十二節参照)でありしかも、サタンは選ばれた人たちをも惑わそうとする(同章二十四節参照)ほどです。獣の像を拝まなければ皆殺しにされる様相は『自らの命を獲得する者はそれを失い、その命を失う者は自らの故にそれを見出だすだろう。(マタイによる福音書 十章三十九節:私訳)』が実現する場面でもあります。自分がもし大艱難まで生きているならば(大艱難前であっても大事なことですが) 獣の像を拝まずに首をはねられることも恐れずに、ダニエル書三章にあるように命を差し出してでも神の掟を否まないようになることを目指さなければなりません。

 

神の掟を守るための大事な要素には聖書を理解することや神を愛することや律法遵守する意思が挙げられます。これらは個人内のことです。同時に個人外の環境・社会的な要素も重要です。悪い世において律法違犯を強制されたらば一大事です。例えばマスクもワクチンも強制ではありませんが法によって強制となる可能性がないとは限りません。これを拒否できるのは法律にある人権に関する規定、ひいては最高法規たる憲法に基本的人権の尊重があってこそです。もし憲法が改悪されて九条に国防軍が規定されたら徴兵が合法となり国防を建前に人々は戦地に送られて殺人行為を命じられるでしょう。国がそれを命じて合法と看做しても神の掟には違犯です。社会環境が神の掟を守ることを激しく妨げる可能性として最も懸念されるのが憲法改悪です。国家権力によって律法違犯を強いられる構図はダニエル書三章と同じです。個人として律法違犯を拒むことだけでなく、キリスト者全体にとって、もちろん国民全体にとっても重要な人権と自由のためにも、これらを阻む流れには必死に抵抗しなければなりません。ネット上では国民の間で緊急事態宣言と緊急事態条項の区別すらついていないのではないかと危惧する意見があります。そのような無知な状態では話になりません。個人の自由意思が保障され、神の掟を守る自由がある社会環境を守ることも大事な「奪い取られないように」する行動の一つです。既に国家や報道等による洗脳と同調圧力によりマスク装着やワクチン接種が強制であるかのように受け取られております。これを進んでそれを受け入れる者も多い始末です。これが実際に立法化されたならば間違いなく違反に対する罰則を設けられて拘束もありうるでしょう。法を駆使して国民を支配化に留めさせることが支配層の狙いであり、悪法の可決のためにテレビ・娯楽等、その他日々の生活事項に没頭させて人々がこれらに関心をもたないようにさせたり、国家間の対立を煽る・疫病の危機を煽る等の陽動を用いることを忘れてはなりません。先に挙げた徴兵について、人を殺すことはできないとして思想・信条に基づいて兵役を拒むのは良心的兵役拒否と呼ばれます。しかし、『国と時代によってはこれも「兵役逃れ」の一種として扱われる。(引用:ウィキペディア)』とあります。拒否した場合に戦前にあった兵役法では『兵役を免れるために逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなす者は3年以下の懲役、現役兵として入営すべき者が正当の事由なく入営の期日から10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮に処せられ、戦時は5日を過ぎた場合に1年以下の禁錮、正当の事由なく徴兵検査を受けない者は100円以下の罰金に処せられる(74条以下)と規定されていた。(引用:ウィキペディア)』とあり、漫画「はだしのゲン」に描かれているように地域・親戚縁者・公的機関から種々の激しい圧力にさらされることが考えられます。有害無益なマスクに対して根拠もなく目の色を変えて着用を強いる人々が今度は兵役に対しても同様の姿勢をとるであろうことは容易に想像がつきます。個人は社会から分離しているのではなく社会の中に生きているため影響を受けざるを得ません。同時に影響を受けるだけの受動的な存在とならず、主権者たる国民として個人を虐げる可能性を持つ悪法には断固として反対してこそ公民です。各々の置かれたところで自分の身を守ることのみならず真に隣人のためになる判断と行動が必要です。

 

律法遵守について適法か違犯かの択一です。一つの落ち度ですべての点で有罪となる(ヤコブの手紙二章十節参照)と曖昧さを回避する基準がここに示されております。違犯の行いに加わらないための個人・社会環境においても栄冠を誰にも奪われぬように広い視野の備えが不可欠です。

 

 

  六、結び

 

 

◉ヨハネの手紙一 四章十七節(私訳)

これによって愛が我らの内に全うされている。裁きの日に我らは自信を持つために。主がおられたように我らもこの世にいるからである。

 

裁きの時にたった一人で主と向き合う場面を手前はしばしば想像します。上記聖句の「自信(παρρησίαν)」の言葉にある複数の意味から「正々堂々」の性質が見出だせます。いたずらに怯えるでもなく、居直るでもない姿です。その時が来れば神の御前に立ちます。その時、聖書が告げていた通りと尚に確信を持つことでしょう。訳もわからずに臨むのではなくて予定されていた通りの場面で主からの問いへの答えを持ち、白い衣という神に近い品性と行いがあれば堂々としていられるのではないでしょうか。真に精錬されていれば不必要に恐れずにむしろ自信を持つのではないでしょうか。真に自信を持っておればきっとその時は救われるか否かという自己への関心ではなく、ただ神への愛だけが心にあるのではないかと想像します。裁きの日に自信を持つために裸にならず白い衣を纏えるように今この時を有効に用いるべきです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。