こんにちは。

我らは正しい聖書真理に基づいて養育される環境にいるのでない限り、誰しもが神に従わない道、すなわち異邦人の道を歩かされていることから人生は始まっております。異邦人の道は滅びに至る道です。真理の道を知らなければ異邦人の道を当然のように歩みます。それは悪の縄目でもあります。また異邦人の道から逃れ聖書を知るようになっても偽福音という惑わしがあるため、それらをかいくぐり真理の道(キリスト道)を見出だして歩かなければなりません。そのためには最初に『正しい』とは何かを知る必要があります。神の知識に基づく真理に拠ることが正しいことであり、全てのことはそれに適うか(正しい)、または適わないか(正しくない)の二つしかありません。今は風雲急を告げる世の終わりという最終局面に臨んでおり、近いうちに(あるいは現在進行形で)神の刻印か獣の刻印のどちらかを押されることになります。今回は滅びに至る異邦人の道と悪の縄目という現実を知り、受けてはならない刻印と受けるべき刻印について述べて参ります。

 

 

 異邦人の道

 

マタイによる福音書十章五節から六節(私訳)

彼ら十二人をイエスは遣わし、彼らに命じて言われる。お前たちは異邦人の道へ行ってはならない。またサマリヤ人たちの町へ行ってはならない。むしろイスラエルの家の彷徨っている羊たちの所へ行きなさい。

 

まず言葉の意味を見ていきます。新約聖書で「異邦人」を意味する原語(ἔθνος)を見ると「人種・民族」「(ユダヤ人から見て)非ユダヤ人」「異教徒(真の神を崇拝しない異邦人)」「信じようとしない人」といった意味があります。国語辞典に載っている「異邦人」とほぼ同じです。旧約聖書での「異邦人・異教」を意味する原語(נֵכָר)では「外国人・異教」「信じようとしない人」「異質」「相容れない」といった意味があります。古代ヘブライ語の方がより差異を強調する意味が含まれていると見受けます。また日本語訳聖書では「異邦人」と「外国人」と両方が用いられ、文脈からは信仰の意味合いを強く出す時には「異邦人」「異教の」、単純に異なる国を指す時には「外国人」と遣われているように窺えます。ちなみにデジタル大辞泉(小学館)で「異邦人」の意味を調べると『自分たちは神に選ばれたすぐれた民族であるという誇りから、ユダヤ人が非ユダヤ教徒、特にキリスト教徒を呼んだ語。』と説明されておりました。「誇り」とありますが内容からは「高ぶり」が窺えてまるで福音書に登場する律法学者やファリサイ派の人々のようです。確かに古代イスラエル人は神に選ばれた契約の民(申命記七章六節参照)です。しかしあくまで神に選んでいただいた立場でしかなく、高ぶる者を主は嫌われる(イザヤ書二章十七節参照)という点も忘れてはいけません。

 

全てにおいて、万物の創造者である神は一つしかなく、天にも地にも本物の神とそれに逆らう勢力(サタン・偽の神)がいるだけです。「唯一の真の神を信じるか」、「それを信じない・知らないでいるか」の二つしかありません。後者を異邦人(の道)と言います。神は古代イスラエルの民をお選びになり、善と悪の基準を示す聖なる神の律法をお与えになりました。唯一の真の神の掟を頂いて知る機会を得たことは大いなる恵みです。申命記四章八節で主なる神は『我が今日、お前たちの面前に授けるこのすべての律法のように正しい法と掟がある大いなる国民がいるだろうか。(私訳)』とまで言われました。神はこの民をお選びになり、律法をお与えになり、それを守ることで生きる道(エゼキエル書二十章十一節参照)を示されました。それは愛するがゆえに鞭を打ち、鍛錬する過程でもありました(箴言十三章二十四節・ヘブライ人への手紙十二章六節参照)。このことの意味は以下のように説明できます。

血統イスラエル人は神から愛されながらも多くの苦難を受け、モーセを通じて律法に基づく生活様式を徹底的に仕込むように神は人間を鍛錬し、多くの古代イスラエル人は頑なで逆らい、そのせいで出エジプトしてから四十年も荒野を彷徨い、神やモーセに逆らっては即座に打たれて殺されるといった罰を受けた。それに引き換え、神は血統イスラエル人以外の異邦人たちには目を掛けず鍛錬もしはらへんかったし、無視しはり、放置して滅ぶままにさせてた。

 

引用:真の聖書福音と預言(偽使徒パウロの反キリスト教義 三)

万物を創造された主権者として中心におられるのは聖書にある神だけです。この神を知っている古代イスラエルの民とそれを知らない異邦人とではその立ち位置が根底から異なります。上述のマタイによる福音書でも主イエスは異邦人の所ではなくイスラエルの家の失われた羊の所に行きなさいと言われました。問題なのは人種的差異というよりは主なる神に基づかない異邦人の考え方や習慣等です。後にマタイによる福音書二十一章四十三節にて、主イエスは血統イスラエル人から神の国が取り上げられて神の掟を守る相応しい異邦人に与えられると仰いました。血統イスラエル人だけでなく神の掟を守る一部の異邦人も次いで霊的イスラエル人として神の御国に招かれたということです(参照:真の聖書福音と預言「聖書が教える真のイスラエル人」)。

 

大事なのは神の掟を守ることです。これは天地の始まり(創世記)から天地の終わり(ヨハネの黙示録)まで共通していることです。エレミヤ書三十一章三十三節には新しい契約として神の律法を心に書き記すとあります。それは心の割礼(申命記三十章六節参照)でもあり、心に割礼のない者はイスラエルの家の者であっても罰せられる(エレミヤ書九章二十五節参照)とあります。結論として、異邦人の道に行くということは神の掟を知らない・守らない生き方をすることであり、それに倣って同じように堕落してはならないという意味でも主イエスは言われたのだと思います。

 

また律法の素地のある古代イスラエルの民と律法の素地のない異邦人とでは出発点において差があり、異邦人が律法を理解するのは容易ではないと思います。それは古代イスラエルの民の末裔がいる国である今の日本においても同様であり、実際には異邦人のように生きてきた人がほとんどであることを思うと、真の信仰を持つのは非常に稀なのだと思います。まさに神に招かれて信仰が始まるのだと感じさせられます。

 

ところでマタイによる福音書二十章二十五節等では異邦人の間で支配者が民を支配し権力を振るっているとあります。ここでの支配(κατακυριεύουσιν)には「自分自身に服従させる」「(支配者が)主権を行使する」といった意味合いが見られます。今の日本も日本国憲法が蔑ろにされ国民主権どころか為政者が支配者のように国民の自由権や生存権を侵害しております。先日もこちら(Yahoo!ニュース)にあるように個人番号札について「いちいち国民に聞いて進めるものではない」と言った閣僚がおりましたが主権者である国民を無視して支配者であるかのような振る舞いは枚挙にいとまがないのが現状です。主イエスは仕える者になりなさいと命じており(マタイによる福音書二十三章十一節参照)、その振る舞いは真逆です。また、神の掟を知らず自制の観念に乏しい異邦人は、好色、情欲、酩酊、酒宴、大酒飲み、そして律法で禁じられた偶像崇拝に加わり(ペトロの手紙一 四章三節参照)、西洋(異邦人)の衣服を着ており、現代の日本においてもそれらが当然の如く存在しております。偶に聖書を知っていてもパウロ教徒ばかりで律法が心に刻まれておらず、神への忠誠が見当たらないこの世(ルカによる福音書十八章八節参照)は不法に満ちております(マタイによる福音書二十四章十二節参照)。詩編百四十四編七節・十一節に異邦人の手から助け出してくださいとありますがそのように叫びたくなるのが実際です。このように古代イスラエルの民の末裔がいる日本であるにも拘らず、その実態は異邦人の道のごとく堕落しております。エレミヤ書やエゼキエル書に書かれた民の堕落の様相そのままで同じことが繰り返されております。

 

 

 悪の縄目

 

詩編百十六編十六節(私訳)

ああ主よ、我は貴方の僕、我は貴方のはしための子であり貴方の僕です。貴方は我が縄目を解き放ってくださいました。 

 

詩編百二十九編四節(私訳)

主は正しい。悪人どもの束縛を切断してくださる。

 

世にどのような縄目、束縛があるでしょうか。「我等が神から出た者であることと、この世全体が嘘をつく邪悪な者に属することを我等は知ってる。」ヨハネの手紙一 五章十九節引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」)の言葉から分かるようにこの世全体が悪い者に服しております。その前提からして肉体的にも精神的にも霊的にも良い状態にならないようにこの世界は構成されております。肉体にかかわる事柄だけでもこちら(キニナル)にあるように食品添加物や有害な農薬の使用量、水道の塩素濃度、電磁波の浴びる量等が日本は世界一であり、医療面でも有害なワクチン・抗がん剤・放射線・薬剤等、枚挙にいとまがなく健康でいることが困難な状況下に置かれております。生活・社会環境においても水道資源が売られ、水源・農地が売られ、気象操作による人為的災害が起こされ、労働者は安く買い叩かれ、貧困化が進み(特にコロナ犯罪の下において顕著)、未婚率が上昇して少子化は止まらず、過度に周囲の目や世間体を気にすることで精神的苦痛も多く自殺率も高く、挙げたものを見るだけでも八方塞がりに思えます。そんな中でも人々は老後の資金やら如何に稼ぐかばかりを考えて拝金主義に陥り、奴隷のように働いて考える余裕をなくしたり、趣味や娯楽で憂さを晴らしたりと今起きている(起こされている)危機に気づかず無頓着です。今日もテレビは切迫した世の状況を伝えずに、まるで仮想現実の世界かのようにどうでも良いことばかりを伝え、偽りのコロナ対策とやらでワクチン接種を勧めております。存在証明のない新型コロナウイルスは「存在する」という前提に置かれてコロナ教という宗教と化しております。こちら(メモ・独り言のblog)に「恐怖という名のウイルス」という題名で細菌説の詐欺について説明されておりますので今一度にこの詐欺について知ることを勧めます。またこちら(In Deep)にはまさしく「医療の宗教化」と題して現代医学は悪しき宗教であると説明がされております。また、こちら(ナカムラクリニック)では「知ることのストレス」と題した記事で、目覚めた者の苦悩と葛藤が綴られております。一定数いらっしゃる目覚める経験をした方の貴重な証言であると思います。

私はこれからの世界に希望を持てなくなってしまいました。移動の自由がなくなって、定期的にワクチンを打たれて、食糧不足で人工肉とか虫を食べるしかなくて、あちこちで監視されて。世界を支配する一握りの人と大多数の奴隷。そんな社会で、いったい”健康”が何の役に立つでしょう?健康な奴隷であれ、病気持ちの奴隷であれ、奴隷は奴隷です。これから恐ろしい社会になるのなら、いっそ適当なところで病気になって死んだほうがよかったかもしれない。悲惨な世界を見ないで済むわけですから。(略)そんな社会で健康が一体何の役に立つでしょう?何も知らなければ、夫や娘との良好な関係が崩れることはなかったでしょう。お笑い番組を見て夫と一緒に声を出して笑うこともできたでしょう。でも、もう戻れません。一度知ってしまったら、もう知らない状態には戻れないんです。

 

引用:ナカムラクリニック「知ることのストレス」

また映画マトリックスでは人間が機械の奴隷にされた「現実世界」とそれに気づかれないように平穏な日常の「仮想世界」の中で眠り続けるという二つの世界が描かれております。その中に、仮想世界から救い出されて意識を取り戻したものの、現実世界の厳しさに嫌気が差して仮想世界(マトリックス)に戻ろうと画策する「サイファー」という登場人物がおります。彼は事実を知りながらも過酷な現実に嫌気が差して「知らない方が良かった」と現実逃避し、あろうことか仲間を敵に売る行為さえしてしまいます。過酷な現実に葛藤・絶望することも今の世の現実に重なり、その辛さはわからなくもありません。また恐ろしくも仲間を売る行為はワクチンの危険を知りながら支配層の手先となって勧める者たち(為政者・医療行政・御用学者ら)の姿にも重なります。いろんなものが投影された一場面であると思います。確かに世の実態はあまりに酷く、知ることによる心的負荷は相当に強く、生きる希望を見出せない辛さ、真実を理解できない周囲からの孤立、孤独を感じることはあると思います。しかし、事実を見ないふりをして生きたとしてもそれは偽りでしかありません。見ないふり、知らないふりをして生きたとしたらそれは進んで悪の世に屈したも同然です。知っていながら進んで悪の世に従うという二重の悪行を犯すことになります。

 

しかし、コロナ犯罪・詐欺が起きる前の時代、平成や昭和の時代が安泰であったわけでもありません。例えば自民党の憲法改悪案は統一教会のそれに酷似しており(参照:東京新聞)、こちら(文春オンライン)に昭和の時代から国会議員を通じて日本改悪を進めていたことが記されております。また『江戸時代までの鎖国政策で日本は内需だけで十分に生きていくことができる国でした。それが今では売国官僚、政治家、企業家、銀行家が増え過ぎて外資に依存しなければ生きられないように意図的に日本は破壊されました。金融と石油の支配下にある限り、経済的奴隷の状態からは抜け出せません。(引用:真の聖書福音と預言「差別と侍の本義について」』とあるように日本は破壊し尽くされております。もっと遡れば明治維新という薩長による国家転覆により日本らしさが急速に失われ、和服が急速に廃れ人々は洋服ばかりを着るようになりました。衣服は支配の道具でもあります(参照:真の聖書福音と預言「動画五回目投稿 ほんまもんの愛と暦とは)。ある日突然に我らの生活環境がおかしくなったのではなく、既に致命的な破壊を受けておりそれが表面化してきただけです。こちら(知識と実践と真実と〜知行合一〜)の記事の中で『「もしあなたがほんとうに真理を探究するなら、いちどは自分の人生におけるすべてのものを可能な限り疑わなければならない。」~ルネ・デカルト~』という言葉が記されておりますが、まさしく現代人にとっての生まれ育った時にあって当たり前だった環境が本来のものではなかったと長期的時間軸かつ俯瞰的視点で捉え直す必要があります。

 

世の実態と共になぜ日本がこれほど攻撃をされるのかを考えなければなりません。こちら(真の聖書福音と預言「日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人」)で説明されているように日本は古代イスラエルの民がイザヤ書二十四章十五節の通りに東に渡って行き着いた国です。日本人の四割が古代イスラエルの民の末裔とされます。この世の支配者である悪魔(サタン)は、元は神に仕える天使ケルブ(エゼキエル書二十八章十四節参照)でしたが高慢のゆえに神に反逆して天から堕とされました。悪魔は自身の滅びの定めを知っており、人を憎み、その滅びに人を引き摺り込もうと必死です。神はイスラエルの民をお選びになり申命記四章八節『我が今日お前たちの面前に授けるこのすべての律法のように正しい法と掟がある大いなる国民がいるだろうか。(私訳)』エゼキエル書十一章二十節『我が掟によって歩み、法を守り、それらを行うためである。彼らは我が民となり、我は彼らの神となる。(私訳)』とあるほどに寵愛されました。これに対してサタン(およびサタンを崇拝する支配層ら)は日本のあらゆる構造に働きかけ日本を滅亡に至らせようとします。日本人は自らの起源を知ることなく、古代イスラエルの民たらしめていた契約はおろか聖書真理も古代イスラエルの文化・習慣を忘れ(知ることなく)、挙句に自らの生活環境を悪化させ心身・社会的・霊的にも滅びに向かって突き進んでおります。知ることもなく、生きることもままならなくなっているこの構造は悪の縄目でしかありません。これにより人々は誰からも世の真実を教えられることなく無知のまま学校や会社で奴隷のように生きて、心身を蝕まれて死に絶えることになります。最も深刻なのは真理(神の律法、創造の秩序等)を知らないためにこの地上の生涯の意味を解さずに過ごし、罪に塗れた人生を送り、第二の死に至ってしまうことです。知らないということほど恐ろしいことはありません。『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。』(詩編百十一編十節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)の通りに神を知らなければ物事を正しく判断する知識と分別する力を持ち得ません。万物の中心は「世の常識」などではなく、聖書にある唯一の真の神だからです。宇宙詐欺等、聖書真理から目を背けるための偽りの説ばかりを我らは教わるがゆえに「世の常識」と聖書真理が相反してなかなか理解するに至らないこともあるのではないかと思います。それでも「キリスト教(カトリックやプロテスタントなど)」の布教、聖書にまつわる出版物、インターネット上にあるあらゆる記事を通じて聖書を知る者はおります。しかしながらその多くが偽使徒パウロの影響を受けて聖書の根底にある神の律法を蔑ろにしており、主イエスの贖いを信じるだけで救われるとの偽福音を喧伝しております。偽福音に執着するくらいならば最初から知らなかった方が良かったと思います。なぜならば偽教師や偽善者たちが人一倍厳しい裁きを受ける(マルコによる福音書十二章三十八節から四十節等参照)とあるからです。聖書を知らない無知の人々よりも聖書を手にして読む状況にあった者の責任が厳しく問われるのは当然だと思います。『自分自身の主人の意向を知っていて、その意向に基づいて用意もせず行いもしないこの僕は多く、激しく鞭打たれる。(ルカによる福音書十二章四十七節:私訳)』とも書いてあります。譬え話なので「鞭打たれる」の表現で済んでおりますが、実際には『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。(マタイによる福音書 七章二十三節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』と主イエスから言われ、その後は第二の死に引き渡されます。ヨハネによる福音書五章二十八節から二十九節(私訳)『これを驚いてはいけない。その時が来るとそのうちに、墓の中の全ては彼(キリスト)の声を聞くことになり、善を遂行した者は命の復活へ、悪を行った者は断罪の復活へと出てくることになるからだ。』、ダニエル書十二章二節(兄弟共同検討訳)『そして、地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。』とあるように裁きの時に死んだ人間は復活します。復活の意味は以下の通りです。『死んで霊が肉体を離れ、地上をさまようこともなく、生前の信仰と行いに応じ、それぞれ楽園か陰府で待機し、眠りのような状態で意識はありません。復活して再び霊と体と合わさって初めて意識が生じます。だから復活ということに意味があるのです。地獄で苦しむといっても霊のままでは苦しまず、復活してから火の池に投げ込まれるので苦痛を味わうのです。引用:真の聖書福音と預言「復活とキリストの再臨への希望」)』意識があって感覚を生じる状態となって火の池に投げ込まれる苦痛は想像を絶します。『そこ(地獄)ではそこらの蛆は死なず、火は消されない。(マルコによる福音書九章四十四節:私訳)』とは決して比喩ではなくそのままなのだと思います。イザヤ書六十六章二十四節にも同様に記された箇所があります。蛆は罰の嫌悪感を象徴していると思われ、蛆が死なない・火が消されないということは死後の罰が終わらないこと、つまりは永遠の罰(マタイによる福音書二十五章四十六節・ユダの手紙七節参照)であることがわかります。ヨハネの黙示録十三章十五節で獣の像を拝まない者は皆殺しにされるとあります。この世の支配者は肉体を滅ぼす権威があります。しかし主イエスは『お前たちは肉体を殺しても魂を殺すことができない者たちを恐れるな。むしろ肉体と魂を地獄で滅ぼすことができる御方を恐れなさい。(マタイによる福音書十章二十八節:私訳)』と言われました。マタイによる福音書十八章八節にも『もしお前の手か足がお前を罪に誘うならばそれらをお前から切り離し、投げ捨てなさい。両手か両足を保ったまま永遠の火へ放り込まれるよりは片足か片手で命へ入ることの方がお前により良い。(私訳)』と書かれております。これは肉の命を失ったとしても永遠の命を失ってはならないことを説いているのだと思います。ナチス強制収容所での収容経験を持つV.Fフランクルは『人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない引用:compass point)』 という言葉を残しました。その一つの形がダニエル書三章の場面だと思います。まさに死に至るまでの忠実(ヨハネの黙示録二章十節参照)が問われる場面です。主によって試される時でもあり、そこで主に栄光を帰する機会が与えられるとも言えます。信仰を全うするか、妥協して世の権力者に屈するか、どちらかを選択する自由があります。死に至るまでの忠実が成立しうるのは神の掟を最期まで守り通せるか否かが問われる場面があるからです。パウロ教の偽福音ではそもそも死に至るまでの忠実を問いえません。主イエスの贖いを受け入れるだけで既に救われていると看做すからです。父なる神がそう言ったわけでもなく、主イエスが言ったわけでもなく、使徒が言ったわけでもなく、ただパウロがそう言っているだけです。「聖書は六十六巻が全てでテモテへの手紙二 三章十六節を根拠に聖書の内容に間違いはない」と看做す彼らに主イエスの言葉とパウロの言葉の相反を指摘してもまるで聞く耳を持ちません。ミカエル氏が『そもそも、今ある「新約聖書」は、一世紀当時、またそれ以前の人にとっては「聖書ではない」と認識すべきです。なぜなら、今我等が持つ「聖書」は、十二使徒たちがこの世から居なくなった後、一世紀末以降に編纂された物に過ぎひんからや。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)』と言われている通りなのですが、テモテへの手紙二 三章十六節でパウロが言った言葉はあくまで旧約聖書に対して言ったと捉えるのが妥当です。ましてや自分の言葉を有益だと自画自賛するのであればそれは大いに問題があります。あるパウロ教信者と議論になった時、「救いに行いが必要なのであればルカによる福音書二十三章三十九節から四十三節はどう理解するのか」と疑問を呈されました。主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪人が主イエスから「楽園にいる」と言われた場面です。このルカによる福音書の記述には大いに問題があり、マタイによる福音書二十七章四十四節やマルコによる福音書十五章三十二節では一緒に十字架につけられた犯罪人が逆に主を罵っており、明らかにルカの当該箇所だけ記述がおかしいことがわかります。真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」等にも書いてありますがルカはパウロの側近でありルカによる記述の全部が信用に値するものではありません。兄弟の栄光氏もそれについてこちら「真理は聖書にある(偽使徒パウロ一派 ルカの書物の罠)」に記事にしているとおりです。律法を否定するパウロを援護するかのように、ルカによる福音書の当該箇所は救いに行いが必要であることを否定した記述となっております。本来、悔い改めてもいない十字架にかけられた犯罪者は、悔い改めていないために律法においても有罪であり救われる対象にはなり得ません。最終的にそのパウロ教信者の方は「信憑性がないのかは一体誰が決めるのでしょうか」と判断を棚上げしました。棚上げしたままではどのような考えを取るべきか定まらず、行いにも反映しようがないため、そのままではひたすら滅びの道を突き進むことになります。死に至るまで忠実であれと書かれたヨハネの黙示録二章十節の「忠実」の原語πιστόςの意味は「客観的に見て信頼できる」「主観的に信頼する」「忠実」「確信」等です。主観的に神を信じる(信頼)だけではなく、客観的に神を信じている(信頼)という双方の視点が入っていることに意義深さを感じます。信仰を全うしての死か、権力者に恭順しての生かの二者択一の場面で問われているのは律法遵守です。手前自身、偽福音を教える世の教会から真の聖書福音に回帰した者です。自分と同じように世の諸教会の影響下にあるにわかキリスト者たちが何とかして真の聖書福音を知って真に聖書に依拠して欲しいと思っております。その一方で以下のように主張する者もおります。

 

 

主イエスは十字架の贖いを信じればそれで良いとは言っておりません。完全な者となりなさい(マタイによる福音書五章四十八節参照)、永遠の命を得たいのなら掟を守りなさい(マタイによる福音書十九章十七節参照)、律法を行い守りなさい(マタイによる福音書二十三章三節参照)、罪を赦された後これ以上罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書八章十一節等参照)、主イエスに従いたい者は自分を捨てて我に従いなさい(マタイによる福音書十六章二十四節参照)と言われました。主イエスは人としての肉の弱さを帯びながらも罪を犯さずに歩まれ、その足跡に続くようにと模範となられました(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)。これらの言葉を無視して主イエスよりも偽使徒パウロの言葉を信じるのは不信仰でしかありません。不信仰且つキリストの教えに留まらない反キリスト行為です。世の諸教会、神学はパウロの偽福音に基づいた反キリストでしかなく、神を侮っているのはそちらの方です。手前も確かに聖書を読み始めて間もない方にはできるだけ声をかけているようにしております。それは「異端の教えを吹き込もうとする」のではなく主イエスの言葉に基づくためです。むしろ主イエスを軽んじ、使徒を軽んじ、偽使徒パウロを尊ばせる彼らが問題です。相手に聞く耳があれば御言葉に従うことでしょう。こちらにできるのは伝えることまでです。できる限りに正しい福音を聞く機会を提供して、神を愛して正しく律法遵守することが命に至る道を示すのに優る有益さはありません。数は少ないですが偶に聞く耳を持ってくださる方がいると嬉しく思います。しかしながら、実際に真のキリスト者を目指して歩みを共できるかとなるとさらにそこから数は少なくなります。また自分自身もそうですが最期まで狭く苦しい道を全うできるかは、最期のその時になってみないとわからず弛まず歩き続けるしかありません。

 

このように、この世はただでさえ真理を知る機会が閉ざされ、古代イスラエルの民の末裔がいる日本はそのゆえに悪魔崇拝の支配層らによって目をつけられ、古代イスラエルの民らしさが失われ、どうでも良い世俗の事柄にばかり目を向けさせられ、社会環境が悪化させられることで生きづらくさせられ、絶望に喘ぐ状況に押し込まれております。不可思議なまでに攻撃を受けている状況から聖書に行き着き、やっと目覚め始めたかと思いきや偽りの福音に惑わされてしまい命に至る道を見出だす者は本当に少ないのが現実です。非常に大きい滅びの縄目が張り巡らされ、その縄目に絡め取られて救いが閉ざされた状態は悪の束縛と言えます。

 

 

 二つの刻印

 

今のこの時代はこのように神の律法が顧みられないことから不法が満ちている状態です。マタイによる福音書二十四章十二節から十三節に『不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(当該箇所参照)』と終末の徴として書かれていることがその通りに実現しております。また同様にルカによる福音書十八章八節「人の子が来て、地上に忠誠を見出だすであろうか。引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)」とも書かれている通りです。不法が満ちたその状況はひとえに混沌、無秩序と言っても良い状況です。ここで言う混沌とは『すべてが入りまじって区別がつかないさま。出典:デジタル大辞泉(小学館))』です。何が正しくて、何が良くないことであるかの善悪の判断が見失われた状態、無分別の状態です。そして秩序とは『物事を行う場合の正しい順序・筋道。その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり。出典:デジタル大辞泉(小学館)』です。それが失われた状態は神の律法に立つ者にとっては耐え難き苦痛です。上記、マタイによる福音書二十四章十三節に「忍耐する」とあるのはヨハネの黙示録十三章十五節にあるように獣の像を拝む(律法違犯)ことが強要され、律法を遵守すれば殺される事態が起きるからです。律法がもし無効ならばこのような事態は決して起きえません。イザヤ書二十四章五節から六節には世の終わりの様相として『地はそこに住む者たちの下で汚された。律法に違犯し、掟を超えて永遠の契約を破ったからだ。このために地は呪いに食い尽くされた。そこに住んでいる者たちは罪を犯した。このために地に住んでいる者たちは焼き付けられて僅かの人が残された。(私訳)』と預言されており、「律法に違犯し」とある通りに律法は今も変わらずに有効です。同様に世の終わりを示した預言として、ミカ書二章十節には「地は汚れていて滅びる」とあります。汚れるの原語(טָמֵא)には「冒涜」「邪悪な」の意味もあり、その基準となるのはやはり律法です。またミカ書七章には民の腐敗が記されており、その中でもミカ書七章四節『彼らの最も善き者は茨のようであり、真っ直ぐな者は茨の垣根よりも(刺々しい)。お前を待ち受ける日であるお前の天罰の日が来て彼らに混乱が起こる。(私訳)』とは今の様相に繋がる言葉であると思います。彼らの最も善き者も茨であると書いてあり、茨は民数記三十三章五十五節やヘブライ人への手紙六章八節等にあるように体に刺さる有害で役に立たないもので呪いの象徴でもあります。さながら聖書から唯一真の神を知って人の目には良い人であっても、神の律法を守らず神の目には良しとされない「自称キリスト者」を想起させます。どんなに人の目には良く見えても不法を働けば主イエスから知らないと言われます(マタイによる福音書七章二十三節参照)。終わりのその時に彼らに混乱があるというのも今のパウロ教徒の様相から充分に想像ができます。彼らは律法が廃止されて主イエスの贖いを信じればそれで充分と信じて疑わず、艱難前に携挙が来るはずだと勝手に勘違いをしております。艱難前とまでは思ってなかったとしても何かしらの救いがあると思いきや自分が断たれる対象と知ってその時になって慌てふためくとは考えられないでしょうか。それは秩序を乱して守らなかった末路でしかありません。ちなみに旧約聖書で用いられている秩序(סֶדֶר)を表す原語には「取り決め」「(きちんと)並んだもの」「順番・順序」「命令」の意味が見出だせます。先に挙げた日本語の秩序と同義ですが敢えて言えば、神が定めた順序こそ本物の秩序です。主イエスが言っていない内容をパウロが言ったところで神が定めた取り決めを覆す理由にはなりません。突き詰めてこの世には正しい聖書真理を知って行う者とそれ以外の二種類しかおりません。その比率を図で表すとこのようになります。残念ながらほとんどいないのが実際でそれは選ばれる者は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)と書いてある通りです。

 

画像引用:真の聖書福音と預言「【第四回】正しい聖書の底本とは」

 

聖書には刻印という言葉が出てきます。神の刻印(ヨハネの黙示録七章二節参照)と獣の刻印(ヨハネの黙示録十四章九節参照)です。文字通りに刻んだ印です。 刻印とは『あとの心覚えのためや,他人に必要なことを知らせるために形や色を物に付けたり変化させたりしたもの出典:スーパー大辞林)』です。子どもの頃、よく自分の持ち物(所有物)には名前を書いたものです。名前は自分の持ち物にしか書きません。自分の持ち物以外には名を書くことはできません。原語(σφραγίς)もまさしく「印」を意味し、それによって確認され、証明され、認証される性質のものです。即ち、それは神の所有である印、悪魔の所有である印です。真の聖書福音と預言(神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣)にあるようにこれらは霊的な刻印であり、獣の刻印は獣に、すなわち悪魔、悪魔の支配下にあるこの世の体制に従うことで押されます。この世の体制に従うことのわかりやすい例にコロナ犯罪・ワクチン等が挙げられます。キリスト道(本拠)で紹介されている動画(ビットシュート:「人間の遺伝子に書かれている創造主の名前」)にあるように人間の遺伝子は神の設計であり、そこに主なる神の存在が記されております。mRNAワクチンは遺伝子を改変する恐ろしき代物で、神が造られたものを勝手に改変する大罪です。キリスト道(コロナ問題)でも『神の民は、神に所有される人間でなくてはならず、当然自然人のまま。しかし、ワクチン接種されて遺伝子組み換えされ、自然人ではなくなるなら、悪魔崇拝者の支配層の所有物になる』とある通り、コロナワクチンを接種することは神の所有から離れ、悪魔に服従したも同然です。それによって無自覚なうちに獣の刻印が多くの人々に押されつつあります。この肉体は最初から神の名が記されたものとして造られました。それを自ら所有者を悪魔に変えるとは何たる曲がった行為でしょうか。この行いを以って、精神的にも神の支配下から離れる意思表示をしたも同然です。『もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは信仰は死んだものや。(ヤコブ二章十七節引用 真の聖書福音と預言「法への無関心や無知が身を滅ぼす」)とあることから言行一致が求められ、裏を返すと行いがその人の言っていることを表すからです。同様に、今ワクチンを打っていなくても聖書真理を知らなかったり、正しい福音を理解して行いで示していなければその時点で罪を犯していることになり、恩恵期間の終わりまでに完全となっていなければ獣の刻印を押されるのも時間の問題です。「死に至るまで忠実であれ」とは「狭く苦しい道」と言われる通りです。

 

次に神の刻印についてです。「神の印」にまつわるものは数多く言及されております。

 

・古代イスラエルの民をエジプトから救い出してくださったことを除酵祭の定めと共に自分の腕と額につけて記憶の印とする(出エジプト記十三章八節から九節参照等)

・律法の言葉を心に留めて印として手に結び、覚えとして額につける(申命記六章六節から九節等参照)

・主の教えを胸に刻む(詩編四十編九節参照)

・主なる神が律法を心の中に授けて記してくださる(エレミヤ書三十一章三十三節)

・イスラエルの民の中で忌まわしいことのゆえに嘆き悲しんでうめき声をあげる者の額に印をつけよ(エゼキエル書九章四節参照)

・神の僕の額に刻印が押される(ヨハネの黙示録七章三節・九章四節・二十二章四節等)

 

上記以外にも目に見える印として民数記十五章三十八節及び申命記二十二章十二節に青い紐で衣服の隅に房をつけるように言われております。それは主のご命令を思い起こして守り、神に属する者になるため(民数記十五章三十九節から四十節参照)です。また主は異邦人の服装をしている者を罰する(ゼファニヤ書一章八節参照)とあることからも『世の悪人たちと同じ異国の服である洋服からの脱却をし、古代イスラエルの服装により近い和服(着物)に回帰引用:真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編)』するべきです。 服装(和服・房)は一目瞭然の印です。そして黙示録にあるように霊的刻印が押されるのは「額」です。黙示録の「額」を表す原語(μέτωπον)には言葉通りの意味しかありませんがエゼキエル書九章四節にある「額(מֵצַח)」の原語には「明らかに」「人目を引く」の意味があります。額は目立つ箇所であり、そのような意味が包含されていてもおかしくはないと思います。その上で『もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは信仰は死んだものや。(ヤコブ二章十七節引用 真の聖書福音と預言「法への無関心や無知が身を滅ぼす」)を踏まえれば、行いによって明らかに律法を守っていると示すことができている状態が「額に記されている」とも言えるのではないでしょうか。行いで示すことは『我等が神を愛し、その掟を守るなら、このことによって神の子供たちを愛することを知る。これは神の掟を守ることが神の慈愛であるからであり、神の掟は難儀やないで。(ヨハネの手紙一 五章二節から三節引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」)』にあるように神の掟を守ることが神を愛することです。それは神のご栄光を現していることでもあります。

 

また獣の刻印も右手か額に押されて(ヨハネの黙示録十三章十六節参照)おります。なぜ額に加えて右手もあるのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙で二章九節で「右手を出す」という場面があり、右手を出す意味について新共同訳では「一致のしるし」、口語訳では「交わり」と訳されております。この原語(κοινωνία)には「協力」「共同」の意味があり他にも「関与」「繋がる」「分類」などが見受けられます。「右手」にはこれらを認証する意味合いがあるのではないでしょうか。他にも聖書において「右」には特別な意味があると窺えます。創世記四十八章十三節以降でイスラエルが右手をエフライムにかざすことでより大きな祝福を授けたこと、神の右の手(出エジプト記十五章六節・詩編百十八編十五節・イザヤ書四十一章十節等参照)、右側の優位性(コヘレトの言葉十章二節・マタイによる福音書二十五章三十三節参照)、神の右側におられる主イエス(マタイによる福音書二十六章六十四節・マルコによる福音書十六章十九節等参照)等から「右」には「左」にはない特別な意味(祝福、力、高潔さ、聖なるもの等)があるのではないでしょうか。これらを踏まえると右手に獣の印を押されるということは悪への分類が認証される、且つ汚されてならない箇所が侵されることを意味するのではないかと考えました。そして額にしろ右手にしろ獣の刻印を押されることはこの世の悪に服すること、偶像崇拝すること(律法違犯)等の行いによって神にではなく悪に属していることがあからさまとなっている、汚れている状態ではないでしょうか。高潔と汚れを区別するものは律法です。例えばホセア書四章六節では神が律法を忘れた者たちを神もまた忘れるとあります。この場面は世の終わりにかかわる時期であり、今の時期も含む世の終わりも変わらずに律法が存続していることが明らかです。律法遵守への姿勢、すなわち神への忠実さがどちらの刻印を受けるかを決定づけます。

 

 

 結び

 

確かに人は、悪しき者が支配する世界に生きているがゆえに世の真実を知らず正しい聖書理解も知らずに滅びに至る縄目の中に生きることを余儀なくされております。それらは異邦人の道に置かれているに等しいです。古代イスラエルの民の末裔がいる日本においても正しい聖書理解があるとは到底言えず、世の終わりに近づいてミカエル氏が真の聖書福音を告げ知らせているのが現状だと思います。異邦人の道の滅びの縄目から逃れ、真のキリスト者として神に認められるためには神の律法・掟・戒めを守って行いで示すことが不可欠です。巷では相も変わらず原罪説、罪に対する無力、主イエスの贖いを信じるだけで救われるとの偽福音が横行しております。真の聖書福音と預言「罪について」で『もし、あんたが原罪を信じるならば、あんた自身が堕落した本性を持っているから罪を犯すのはしゃーないと、罪を犯す際の正当化事由になります。』と言われているように、行いを否定する反キリストの論理がまかり通っております。罪とは法に背くことであり(ヨハネの手紙一 三章四節三章参照)、罪が赦された後にそれ以上罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書五章十四節・八章十一節参照)、真理の知識を得た後も故意に罪を犯すなら罪のための贖いは残されていない(ヘブライ人への手紙十章二十六節三章参照)と書かれていることから行いは不可欠です。それを前提として人は自分の罪のゆえに死にます(申命記二十四章十六節等参照)。また正しい人であってもその正しさから離れればそのゆえに死にます(エゼキエル書三章二十節等参照)。

 

エゼキエル書三十六章三十一節(私訳)

お前たちは自分たちの悪しき道と善くない行いを思い出して、お前たちの不法行為と忌まわしいもののために、自分自身を嫌悪した。

 

ダニエル書 十二章二節(兄弟共同検討訳)

そして、地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。 

 

ダニエル書十二章二節には世の終わりの裁きの時に有罪判決を受けて第二の死に引き渡される者の末路が記されております。生きている時にしかできない「行い」があって、地上の生涯は終わってしまえば決してやり直すことはできません。生きている時の罪の結果が軽蔑と永遠の嫌悪です。エゼキエル書三十六章三十一節は捕囚の時の古代イスラエル人の様相でもあり、また来る裁きの時のことでもあるのだと思います。自分自身を嫌悪するとは相当に辛い感情であるのは想像に難くありません。取り返しがつかず自己を嫌悪して苦しむことほど辛いことはありません。だから戒めの言葉、真の聖書福音を聞いたのならば、頑なであってはいけません。

 

主イエスを愛する者は、主イエスと使徒たちの言葉に忠実であるべきです。主イエスと使徒たちの言葉に反している偽使徒パウロの偽福音を信じる理由がありません。わざわざ自ら獣の刻印を押されようとするのは愚かです。詩編百十一編十節にあるように主への畏れは知恵の始まりです。知恵とは道理を弁えて正しく判断することです。確かにこの世ではたくさんの苦難があり、悪の世の大多数に囲まれて生きる苦痛、それに抗う大変さはあります。与えられた環境で如何に振る舞うかという人間としての自由は各々の手の内にあります。神に忠実であることの意味を今一度に聖書の中から自分で確と見出だして、行動するべきです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。