こんにちは。

今は世の終わり際、今起きているこの世の異変と堕落は、これから起きることも含めて聖書の預言によって予告されております。決して「何が起きているか分からない」と慌てふためくのではなく、予告された終わりについて、備えて、対応すれば良いだけです。但し、そのためには、真の知識を得て、全てを捉え直して、生き方を改める英断を下す必要があります。これまでの常識とされた考えとは異なるため、恐れを抱くかもしれません。しかし、英断を下すことを恐れてはなりません。迷っている時間が惜しく、ぐずぐずと時間を費やしている場合ではありません。今回は「英断を恐れるな」と題して、何故、英断が必要なのか、何が英断なのか、どうして英断を恐れてはならないのかについて述べていきます。

 

 

ミカエル氏は、記事で繰り返し、現実逃避せずに、刮目して備えるように言われております。

「見たくない、聞きたくない、考えたくない」等と思て現実逃避しても、誰一人として絶対に逃げられへんし、必ず巻き込まれる。せやから、きちんとこの現実と向き合い、聖書を読むことを拒否したり、偽使徒パウロに従うて主イエスに従うことを拒否したり、神の律法を守るという主イエスの信仰を行いで示さぬ者は誰も助からんよ。誰一人「自分には関係無い」と言える人は居らんことに気付けよ。それを認めずに逃げ続ける者は、その愚かで無能故に、惨めに滅ぶのみや。現実逃避せんと、聖書と拙者が言うことに注意深く刮目し、行動せい。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」

現実逃避とは『実際問題としてやらなくてはならないことを、意図的に避けようとすること。また、その行為や心理状態。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』です。つまりは、問題を全く認識していないのではなく、ある程度は認識して、それを認めたくない状態を指します。明らかに世の中が滅茶苦茶になって、これまでは何となく描けていた(つもりの)将来も、一寸先は闇の状態です。もし、手前がまだ不信仰の状態だったら、この無秩序(混乱)の状態が不安で堪らず、何を頼りにして良いか分からず、右往左往していたかもしれません。真のキリスト者を目指す前から、コロナ犯罪が起きる前の状態でも、既に世の中は問題だらけで手の付けようがなく、どんどん悪くなってきており、崩壊に向かっていると感じておりました。そのように薄々感じた人は一定数居るのではないでしょうか。それでも手前は聖書真理を土台に考えられていなかったので、何も出来ず無力でした。手前がかつて行った現実逃避として、仕事への没頭(依存)があります。忙し過ぎると、仕事以外を考える余裕が無くなります。家に帰っても、疲れてただ眠る、または、せいぜい飲酒や娯楽で誤魔化すだけの日々でした。社畜となると目の前のことしか見えなくなります。これだけで十年単位の時間があっという間に過ぎます。実感としては「気付いたらこんな歳になっていた」です。若い人には信じられないかもしれませんが、「このままでいいのか」と思った所で、流され続けると、あっという間に三十歳、四十歳となってしまいます。特に、今は、もはやこの世が存続する時があと十年も無いかもしれないのに、不安を紛らわすために他のことに没頭している時間はありません。「普通の生活をしている」ことが既に問題です。何故なら、悪魔崇拝の支配層が、政府(国会議員や官僚等)ごと操り、大勢の日本人を滅ぼそうと人工自然災害を起こしたり、憲法を改悪して戦争を起こしたり、国民の人権を制限することを目論んでいるからです。支配層の行動の軸(思想)には悪魔崇拝があり、彼ら少数の富裕層(権力者)が、彼らの支配に適した人数となるまで人口を削減するつもりです。彼らの行為が何に基づくかとなると聖書に記された悪しき行為(反キリスト行為)です。

誰もがこの世の虜になっているのではないか。日々仕事に追われ、休み無く働くことが美徳と勘違いし、金銭を多く稼いだり社会的地位を得ることが本分だのと言わんばかりで、娯楽や快楽に興じてる人が多いやろ。かような生活を続けていては獣に等しい。世にの権威に洗脳され、政府や会社の駒になって搾取されるだけの存在や。働くだけ働いて納税やその他散財をさせられ、後はこの世から虚しく消え去っていくだけや。早よ気付いて生き方を改めよ。

 

引用:真の聖書福音と預言「常識を疑って悔い改めよ」

 

 

この世はサタンに支配されています。サタンに惑わされた人間やサタンを拝む人間が統治する世界なので、この世には反聖書的な物、思想、習慣、宗教、人間等で溢れているのです。そのような環境では、誰一人最初に生まれてから死ぬまで神に従順であり続けることは不可能です。

 

引用:真の聖書福音と預言「憐れみ深い神」

支配層は皆、超富裕層であり、それは富を愛することと神に仕えることは両立しないと言われた主イエスの言葉(マタイによる福音書六章二十四節参照)に反します。彼らが始めたコロナ犯罪はあからさまな人口削減であり、殺してはならない(出エジプト記二十章十三節参照)に反します。ましてや、mRNAワクチンは遺伝子を改変します。『遺伝子は神の設計であり、主なる神を表し、それを人間都合で勝手に変更するというのは神への反逆、サタンの業であり、それに安易に応じることもどれだけの大罪か理解でけへんのは狂人であり、地獄行きで当然である。また、これをしてもうたら、不可逆であり、二度と戻らへんことにも注意や。(引用:キリスト道)』とある通りです。一般社会では、身体に異常があれば直ぐに医療機関にかかる(頼る)というのは普通のことと思われます。しかし、その治療とやらは人体に有害な薬という魔術(参照:真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」)であったり、また、放射線検査等で被曝させられ、却って悪くなるだけです。一方、製薬会社や医療機関はそれで儲ける悪徳ぶりです。医療の全てを否定する訳ではありませんが有害なものが多いことは、こちら(真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」)をご覧いただいて知ってください。無知でいては滅ぼされるだけです。これに限らず、たくさんの嘘が横行しております。嘘を言う者は地獄行き(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)です。世に定着してしまっている地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等は、世においては正しい、当然のことと看做されますがこれらは誤りです。これらを信じたら、嘘に加担したも同然です。無知でも違犯は罪です。悪魔は嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節参照)と言われるように嘘を用います。嘘で塗り固められたこの世の仕組み(世の権威)を支配層が作ったことは、まさにそのことを言い当てております。

 

 

世の動きで気になっているものに触れます。こちら(JIJI.COM)にある「地方自治法の改正」が急に議論されました。『個別の法律が想定しないことが起こり、国民の安全確保が必要になった場合、自治法を根拠に、国が自治体の事務処理について必要な指示をできるようにするのが柱』のようです。『発動には閣議決定を必要』とありますが、自民党改憲案にある「緊急事態条項」に類似して見えてなりません。国が出す『必要な指示』が違憲であれば憲法九十八条一項により、閣議決定とそれに付随する命令等ごと無効です。やはり憲法改悪がされたら一巻の終わりで、現行憲法の維持が全てです。また、岸田総理が、こちら(TBS NEWS DIG)のように、個人番号券の「取得義務化」について『最高位の身分証として、厳格な本人確認のもとで交付する必要があり、カードに顔写真を表示するとともに対面での厳格な本人確認をするため、本人の申請によることとしていることから現段階では難しい』と国会で答弁しました。裏を返すと、将来的には取得を義務化すると予告しているようなものです。そもそも最初から任意でしかなく、このような言葉が出ること自体がおかしいです。教わった事項ですが、悪徳政府の手口は、いつも「小さく導入して後で拡大する」です。消費税はまさにそうでした。最初は三パーセントから始まり、時間を経て、あれよあれよと十パーセントまで上げられました。福祉目的と言われながら、そのような実績は確認出来ておらず、最初から増税ありきであったことが分かります。個人番号券も最初は任意と言いながら、結局は強制に向かいつつあります。個人番号券と関連付けた健康保険証の利用率は五パーセントを下回っておりますが、利用率が低くても憲法が改悪されてしまえば強制は幾らでも可能です。振り返れば、個人番号券が成立して実施された段階で、政府にとっての目的の半分は達成されたようなものであったと思います。個人番号券の取得強制は、現行憲法に反するため出来ません。しかし、改憲されてしまえばその限りではありません。それ故、改憲阻止が何にも優って重要です。

 

 

 

話を戻します。手前はミカエル氏のブログに出会うまで、聖書に終末預言があるのは知っていたものの、この世の現実と聖書の繋がりは殆ど理解出来ておりませんでした。むしろ別々に考えていたと思います。聖書とは、決して宗教(虚構)ではありません。真理とこの現実世界を説明することが出来、全人類に関係します。この書物はこの世について(この世を支配する悪も含め)、最高位の高い視座で説明する書物です。何故、最高位の視座かと言うと、神が人を通して語られた書物だからです。世を牛耳る支配層は神に敵対し、人口削減と人類奴隷化の仕組みを進めるため、我ら一人一人に全て影響します。支配層は神の御命令に反して福音を宣べ伝えず(真理を知らせない、隠す)、真理を知らない状態で各位が人生を終えるようにして、死後の神の裁きにおいて有罪判決(第二の死)を受けさせようとします。それは滅びが定められている悪魔の道連れに他なりません。だから、世の悪(支配層)に抗うとは、彼らの逆を行くことであり、彼らの悪を白日の下に晒し、真実と真理を伝え、彼らが隠そうとする真理を体現し、最期まで神に従い通すことです。決して、この世の悪に対して「世直し」で挑んでも真の問題は何ら解決出来ません。実際、ヨハネの黙示録等にあるように、彼らを滅ぼすのは神であると予告されております。故に、この世は神と、神に反するものの二極という構図です。この世が聖書(真の聖書福音)を教えないから、少数派だから従うのを躊躇うと、その末路は悲惨なものとなります。

 

更に、闇雲に神を信じるのではなく、理性を持って聖書の言葉(言葉は神である)を読み解き、首尾一貫した真っ直ぐな道を見出だし、聖書の言葉を体現出来ることが大事です。聖書の言葉の力、聖書の論理(筋道、真っ直ぐな道)の力に拠るべきです。たとえ学校の教科書や政府ら世の権威が、聖書真理を教えなかったとしても、聖書に確信を持ち、言行を体現出来たのなら、それは純度の高い信仰と言えます。それは、自ら読み、調べ、検証し、確信を持ち、行動し、躓いても立ち上がり、最期まで行動し尽くすことで、最高純度の信仰へと至ります。これを「選び取る」からこそ、価値があります。そこに明確な意思がなければ絶対に為し得ません。

 

世が教える嘘として、コロナ犯罪は最も身近な例です。コロナ犯罪によって日本だけでなく、海外でも大勢が亡くなっております。救急車出動が頻発している、訃報が多い(特に若年層)と身近に感じないでしょうか。これまでに無いことが起きている以上は、何か事が起きているはずです。それを政府も報道機関も報じないのは、意図的に「報じていない」だけです。「まさか彼らがそのようなことをするとは」との盲信からいい加減に脱却しましょう。手前も、世の悪について、初めて詳細を知った時は信じ難い気持ちでした。「話には聞いていたけれど、それが現実のこととして展開すると、頭が追いつかない」という状況です。テレビをよく見ていた時がありました。ある報道番組に対して「あの感じの良い出演者も、あれほどの肩書きのある有識者も、嘘をついている」と思うとぞっとしました。こんなことはせいぜい、映画やテレビの創作の世界の話だろうと思いました。しかし、実際はこの世全体が嘘に塗り固められておりました。受け入れ難くて現実逃避する気持ちも、分からなくはありません。嘘が大き過ぎて、嘘が「常識」と見做されるとは何の悪い冗談かと言いたくなります。しかし、騙されっ放しで、嘘を信じ続けるのが良いかと問えば、絶対にそれは間違いです。「騙されるのはもうたくさん」と思うのがまともな感覚ではないでしょうか。そして、どうやったら嘘を見抜けるのでしょうか。嘘を退ける方法は、矛盾を突くといったやり方もありますが、もっと根本的に有効なのは、「本物(真理)を知る」ことです。但し、世の諸教会の「キリスト教」では、本物を知ることは出来ません。却って道に迷うので絶対に行ってはなりません。こちら(以下)に贋作(偽物)を掴まないための四つの留意点が挙げられ、信仰にも活かせると思ったのでご紹介します。

①間違いの少ないルートから買う

②書籍や図録の掲載品の中にも贋作があることを知る

③贋作を手にした時の後悔を繰り返さない

④本物を実際に手に入れる

 

引用:note「備前鑑定の古陶磁鑑定美術館」

上記の括りを参考に、悪魔の嘘に騙されず、真理に生きることについて述べていきます。

 

一、正しい真の聖書福音を教えるキリスト者から学ぶ

信仰の無い方でも「聖書」と聞けば「キリスト教」と連想し、「教会」が思う浮かぶと思います。手前も最初はそうでした。手前にも最初、聖書を教えてくれた方が居て、聖書を碌に読みもしないまま、付き合いで地上の教会に行きました。牧師の説教は漫談も交えて面白く、すっかり虜になったのが過ちの始まりでした。だから「キリストの教えに留まる者(キリスト者)」ではなく、「教会信者」「牧師信者」でした。善悪の基準、罪の定義、悔い改めの定義、神に忠実であることの定義、神の御命令等、基本的な理解が欠けていたので、目的無き信仰に陥っておりました。正しく教わることもありませんでした。手前は、よくある「心の拠り所を欲して」地上の教会にいった口でした。「心の救済」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、利益信仰があったのは否めません。「キリスト教の教会」に行って、「(形式的)洗礼」を受けて、教会に通えば教会関係者は「よく来てくれました」と手前を肯定してくれるので、仮初の安心感を享受しておりました。神の言葉を土台とするのではなく、教会組織を土台とする生き方です。高名な組織(例えば、大企業等)に所属して、安心感を得たり自尊心を満たす行為がありますが、それと大して変わりはなく、偶像崇拝でもあったと今では思います。また、話が面白く元気になれるという口コミで新しく教会に来る方が多く、まるで「劇場」「自己啓発セミナー」のようでした。当時は、それすら「人々が元気になるなら良いこと」と世俗的価値基準で判断して、その異常さを全く認識出来ませんでした。そして、例に漏れずパウロ教の偽福音を教えるので、「信じれば救われる、律法は廃止された」と教えておりました。ただ、信じれば救われるとは教わったものの、それに全く確信は持てませんでした。それに対して、自分の信仰が浅いせいだと無駄に自分を責める思いもありました。また、その教会では繁栄の神学に基づいた考えを持っていたと思います。直接的にそのような言葉を聞いたことはありませんでしたが、言っていた中身は、後に知ったその言葉と符合します。曰く、「神を信じれば、祝福は大きい」「富めること、繁栄することは悪いことではない」、献金についても強制されなかったものの「献げた分だけ、祝福も大きい」と言っていたと思います。うろ覚えですが、手前はそのように受け取って認識しておりました。だから、毎週日曜日に礼拝に行けば(それをもって「信仰」と思っていた)、世俗の仕事に励むことも、多く稼ぐことも何ら悪いことではないと本気で思っておりました。このように聖書を通読して、真の見分けの基準を知らなければ、自分の目や感覚頼みとなり、必ずや惑わされます。木は実によって見分けられる(マタイによる福音書十二章三十三節参照)と、その教会でも頻繁に説教で語っておりました。しかし、見分けの基準が世俗的価値観なのですから、話になりません。その教会は確かに大勢が来て栄えておりました(商売繁盛と言うべきか)。しかし、だから、確かなのかと言えば、全くそうではありません。やはり、滅びに至る道は広く、そこから入る者が多いのです(マタイによる福音書七章十三節参照)。全ては神の言葉通りです。

 

聖書を知り、唯一の真の神を知ることまでは出来ました。しかし、その地上の教会が律法廃止論に基づく以上、律法に基づく善、品性の向上を説くことが出来るはずもなく、キリスト者となったけれど何も変わっていない自分がおりました。実際の生活も、世俗の仕事に忙殺され、その反動として、世俗の価値観に染まって娯楽(手前の場合は主に飲酒でした)に耽ることでしか自らを慰められませんでした。手前は、十代後半に新渡戸稲造の武士道を読み、このように高潔に生きたいと本気で思いました。しかし、実際にはそれには程遠く、自分が汚らしく思えてならず、その状態が不快でなりませんでした。「確か、聖書に大酒飲みを戒める言葉があったような...」との良心の訴えにも目を瞑り続けました。ただ「教会に通って繋がって居れば大丈夫なのだ」という根拠の無い思い込みだけに縋っていたと思います。

最初に生まれたままの状態では、人間は神を忘れて、自分のしたいこと、肉の欲、目の欲を満足させたり、生活の充実度を上げる物があるとつい釣られて、それらの虜になってしまいます。地上での人生という限りある時間をこの世の物、快楽といった肉の欲に費やしていると霊的感性が鈍くなります。

 

引用:真の聖書福音と預言「憐れみ深い神」

上記の内容は、手前の人生に十分当てはまります。世俗の価値観に従い、肉の欲、目の欲に従って生きておりました。それが普通なのだと思っておりました。ただ、世の価値観では、自分は惨めな敗者に思えてならず、自分に価値を見出だせず、苦しくて堪りませんでした。欲に耽って放縦な生き方をするほどに、自分が真に望んだ高潔さから乖離していくのが苦しくて堪りませんでした。地上の教会に行っても、自分の変化は「教会に行くようになった」「神を信じるようになった」の二つだけでした。自分の内面は、何も変わっておりません。真理の知識の習得も皆無に等しいです。自分自身は何も変わっていないのに本当に救われたのか疑問でした。ただ、それを意識したり、口にするのも怖く、ただ臆病にも黙っておりました。ヨハネの黙示録二十一章十九節には、臆病な者や嘘を言う者は第二の死と明確に書かれております。「これに抵触していると思うのだけれど」と薄々は思うのですが、それ以上考えると、全てが瓦解しそうで考えることが出来ませんでした。過去記事で触れましたが、その地上の教会では牧師の不祥事が有りました。教会内部ではそのことに全く触れられず、語られもしませんでした。そもそも不祥事があったこと自体、手前はネットを通じて初めて知りました。「外から知る」のは「内部では隠されている」からです。そこそこ長く通っていたので、激しく鼓動が高鳴り、指先が震えてくるほどの衝撃でした。そこから幾らかの期間、何かの間違いかもしれないという淡い期待を抱きながらも通いましたが、新たな不祥事情報が出るばかりでした。相変わらず、教会関係者は何事も無かったかのように、にこやかに振る舞っており、それが気色悪くてなりませんでした。何故、そのように平気でいられるのか訳が分かりませんでした。むしろ、こちらは気が狂わんばかりです。とてもではないがここには居られないと去りました。神の道に反した組織の末路はそのようなものだと思わざるを得ません。また、そのまま残っていたら手前も嘘つきの仲間となっていたことでしょう。そうなったらお終いです。ヨハネの黙示録十八章四節に地上の諸教会から離れ、その罪の行いに参加したりすべきではないと明確に警告されてる通りです。

 

地上の教会からは去りましたが、主イエスを信じる気持ちだけは残りました。もっとも、神の知識に基づく行いが無い「信じる」など無意味です。きっと、このような意気込みだけのにわかキリスト者だけは大勢いるのだと思います。「あなたは、何をもって、キリスト者だと言えますか。これについて、聖書を根拠に答えられるでしょうか。そして、実際に神に応えられておりますか。」と、かつての手前のような立ち位置にいる方に問い掛けたくなります。目を覚ますべきです。話を戻しますが、そこからネット上のキリスト者のサイトやいわゆる礼拝動画を見て回る日々が何年も続きました。その期間は端的に言うと、「放浪」と「虚しさ」の連続です。聖書に関するネット検索は頻繁にして、その時、手前はミカエル氏のブログに出会いました。完全に、聖書上、矛盾の無い聖書解釈に度肝を抜かれました。少なくとも手前が知る限り、誰も語っていない内容でした。「これは本物だ」と、確信がありました。「自分は生まれ変わらねばならない」「やり直さなければならない」「これに目を背けて生きる訳にはいかない」との思いが交差しました。「天啓(天の導き)」とは、本当にあるのだと思いました。そこから直ぐに改心して…と、なれば良かったのですが残念ながら、そうはなりませんでした。これまで世俗的生き方をずっと何十年と続けてきて、また、急に律法を守ろうと思っても、したいのだけれど、出来ませんでした。情けないのですが、これが実態です。ミカエル氏が兄弟の集いの場や教会を設立したことは知っておりました。ただ、「今の自分では到底無理」と尻込みしました。「まずは、聖書を通読して、律法を守って」ともっともらしい理由を打ち立つつも、門を叩こうとはしませんでした。いわゆる「外から見ているだけの状態」です。

わたしの若い友人に、小説家になることを夢見ながら、なかなか作品を書き上げられない人がいます。彼によると、仕事が忙しくて小説を書く時間もままならない、だから書き上げられないし、賞の応募に至らないのだそうです。しかし、はたしてそうでしょうか。実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えば書ける、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。おそらく彼は、あと5年10年もすれば「もう若くないから」とか「家庭もできたから」と別の言い訳を使いはじめるでしょう。

(略)

賞に応募して、落選するならすればいいのです。そうすればもっと成長できるかもしれないし、あるいは別の道に進むべきだと理解するかもしれない。いずれにせよ、前に進むことができます。いまのライフスタイルを変えるとは、そういうことです。応募しないままでは、どこにも進めません。

 

引用:「嫌われる勇気」、発行:ダイヤモンド社、著者:岸見 一郎、古賀 史健

上記は、行動すること、その勇気を持つことの重要性を伝えております。特に、失敗を恐れて、行動しない言い訳を作り、可能性を残したままの状態に留まる危険に言及している点が秀逸だと思います。手前もまさしくこの状態であったと思います。「聖書真理に感動した」「真のキリスト者を目指す」という状態だけを切り取れば、ある種の酔いしれた気分になれると思います。しかし、聖書が教えている通り、行動しなかったら意味がありません。そして、一人でどうにか出来る人は非常に稀だと思います。普通の人は、助けを借りながらやるしかないのです。集いと教会に進ませていただいて分かったことは、どの兄弟も弱さや課題を抱え、必死にキリスト道を歩んでいることです。その必死の姿にどれほど励まされたことか、また、学ばせていただいたことか計り知れません。この環境が成長には不可欠であると思います。

 

自分よりも進んだ人の前に出るのは勇気が要ります。出来ない自分を目の当たりにするのは正直、辛いです。手前は「お前は駄目だ」と言われることを人生で最も恐れてきたと思います。しかし、それは他者からの厳しい言葉を、全て自分への駄目の烙印と間違って解釈していただけです。正当な意見であれば受け取れば良く、そうでなければ反論すれば良く、理性的に受け取ることが大事です。叱責についても「今は、出来ていない」という状態があるだけで、それをもって「駄目」と断定する(もっと言えば断罪する、烙印を押す)のは、過度な解釈で、サタンの罠だと思います。「今は、確かに出来ていない。それで、今から、どうするのか。」と、考えるべきです。受験でもそうですが、正確な今の自分の力量を知らずして、成長は有り得ません。最初に受ける模試の結果に打ちひしがれるのは常かもしれませんが、そこは正しく受け取る必要があります。ミカエル氏は戒められることを恐れるなと記事で何度も言われております。そして、ミカエル氏の指導には「良くなるためには」の前提が必ず有ります。聖句にも「我が子よ、主の懲らしめを軽んじるな。懲らしめられる主によって弱くもなるな。主は愛する者を懲らしめはり、主が受け入れるすべての子を多大な苦難に遭わせるからや。(ヘブライ人への手紙十二章五節から六節:引用 真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」)とある通りです。肉の欲に従えば、誰だって楽をしたいし、苦しい思いは避けたいものです。手前も、常にその誘惑との戦いです。しかし、それに抗って、打ち勝って励むことで得られる成果にはとても価値があり、その精神こそ大事であると思います。やってやれない事は何もなく、当初も、今も変わらず、覚悟と行動と継続出来るかが問われ続けていると思います。これが手前の実感です。

 

昨今、「自己肯定感」という言葉が頻繁に使われるようになりました。個人的には、パウロ教徒の生温さにも似た雰囲気を感じます。こちら(ユーチューブ)の動画にて元野球選手のイチロー氏が対談で「自己肯定感」についての見解を述べており、とても大事な指摘をしていると思うのでご紹介します。前置きとして、イチロー氏は不信仰のようですが、それでもやり抜くことに関しては抜きん出た人物であると思います。これを信仰に活かせると考えました。三分二十二秒より、「自己肯定感強い人って、ストレスフリーで楽しそうに仕事しているって、そういう感じですか。(そうです、そうです)それってどうなんですかね。良いなって思うけど、人としての厚みは生まれるのだろうか。」「明らかに駄目なのに、否定されない。つまり、自分でも振り返らない。いいことしか考えない。第三者からも厳しいことは言われない。そうなったら、人間ですから、弱い生き物なので、基本、僕は堕落すると思うんですけどね。人が最悪になる時って、自分が偉いと思った人たち、(これは)最悪だと思う。魅力的じゃない状態が生まれる。周りに厳しいことを言えない状態を作られたら、どうやって自分を律するのか、そういう時間がないように思える。」等と言っております。まさしく、「信じるだけで救われる」とただ「肯定」されるだけでは、磨かれず、むしろ堕落するのだと思います。他にも「(手応えを実感しながら仕事をしていきたい、の言葉に対して)それを重ねていくと、過去にあった自分と、その時の自分と大分差があると思う。自己肯定感が強い人は、それが同じだと思う。過去の自分と今が変わらない。」とも言っており、まさしく、磨かれなければ成長など有り得ません。世の風潮もそうですが、偽福音も、人から成長の機会を奪い、人々を駄目にして、滅びに至らせていると認識するべきです。その上で、神への愛があれば、自ずと能動的になると強調しておきたいです。

「やり抜く力の半分は、粘り強さです」と説明すると、保護者たちはうなずく。ところが、「でも誰だって、自分が本当に面白いと思っていることでなければ、辛抱強く努力を続けることはできません」と言うと、保護者はうなずくのをやめたり、首をかしげたりする。

(略)

「ただ好きだからといって、上達できるとは限らない。努力をしない限り、上達するはずがないのだ。だから多くの人は、好きなことをやっていても全然うまくならない」私も本当にそう思う。自分の興味があることを掘り下げるにしても、練習に励み、研究を怠らず、つねに学ぶなど、やるべきことは山ほどある。だからこそ言っておきたいのは、好きでもないことは、なおさらうまくなれるはずがないということだ。

 

引用:「やり抜く力 GRIT」、発行:ダイヤモンド社、著者:アンジェラ・ダックワース

世の事柄の取り組みにしても、好きこそ物の上手なれ(好きな事にはおのずと熱中できるから、上達が早いものだ。(出典:デジタル大辞泉(小学館))と言います。神の民に相応しく努力を重ねることは、確かに大変です。苦労もたくさんあります。それでも渋々ではないのは、神への愛があるからです。神を愛するなら、それが可能となります。『人は自分が愛する者に従います。神を愛する者は、神の律法、掟、戒めを擁護し、喜んで従います。サタンを愛する者は、サタンと同じように神の律法、掟、戒めを嫌い、違反し続けます。(引用:真の聖書福音と預言「神の憐れみ」)』と言われている通りです。この事を忘れてはなりません。

 

本記事で、既に何度も引用している真の聖書福音と預言「神の憐れみ」の記事の中で、『聖書を手に取って読む機会があったことや、イエス・キリストを口先だけで崇めるようになることが神の憐れみではありません。』と言われている箇所があります。手前もそう思います。むしろ『放蕩息子のたとえに戻りますが、ルカ15:17で彼は我に返ったとあります。それまで肉の欲で放蕩の限りを尽くしていたけれども何一つ得るものがなく、周りの人間も金が尽きた途端離れて行き、誰からも相手にされず、食べ物に困って窮地に立った時、それまでの行いが神に敵対することだと神から悟らされた時、我に返ったのです。これは創造主の神への信仰に目覚めさせる神の導きです。それでサタンの欺瞞に騙されていたことを悟り、同時に、自分自身の愚かさと罪から来る結果が受けた苦しみだと気付いたのです。』という改心への神のお導きこそ神の憐れみだと思います。「我に返る」とは『気を失っていたのが正気づく。他に気を取られていたのが、本心に返る。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』の意味です。そして、「健全な精神に戻る」の意味もあります。本心とは良心であり、良心によって『サタンの欺瞞に騙されていたことを悟り、同時に、自分自身の愚かさと罪から来る結果が受けた苦しみだと』初めて気付けるのだと思います。手前にもそのような経験があります。正しい聖書理解が無くして、我に返ることは出来ないものと思います。

 

贋作(偽物)を掴まないための留意点の一つ目の元文は『間違いの少ないルートから買う』です。ヨハネの黙示録三章十八節には「我は、お前が裕福となるよう火で試された我が金を買うことを助言する。(参照)」という言葉があります。『金(χρυσίον)』は精錬された価値あるもので、『試された(πεπυρωμένον)』は大艱難等の試練と思われます。『裕福(πλουτέω)』には比喩的な意味として、天に宝を積んだ状態と思われます。そして、『買う(ἀγοράσαι)』には単に「買う」だけではなく、「(犠牲を払って)獲得する、手に入れる」の意味があります。これは、試練を通して神の目に適う状態となることを指していると考えられます。これらを踏まえて、世の諸教会では、犠牲を払ってようやく手に入れる程の、真のキリスト者としての成長の機会を、到底提供し得ないと断言できます。聖書が伝えているはずの「行い」を否定しているのですから当然です。よって、正しい真の聖書福音を教えるキリスト者から学ぶより他は無いのです。現状ではミカエル氏以外にそれは見当たりません。故に、これまで何度も申し上げてきた通り、集いを経て、教会にて学ぶ以外に、他により良い手段が無いと思われます。

 

 

 

二、世の「キリスト教」は間違いだらけ

この世全体の内の一部分が間違っているのなら、まだ気付きやすいです。ところがこの世全体が間違っているのですから始末が悪いです。部分的に良くない所があると言えば、人々には受け入れられやすいです。しかし、聖書に照らせば全てが間違っております。それは福音においても同様です。

 

ネット上には、パウロ教神学に毒された「説教」動画に溢れています。ある動画では、『律法は良きものです』という題名があったので試しに見てみました。ところが『律法とは、あくまで罪を示すものであるが、完全でいることを自分に要求したり、自分を縛り、律法に怯える不自由な生き方は本来ではない。そこから解放してくださったのが主イエスであり、律法を守る生き方に意味はなくなった。信じるだけで罪が赦され、聖とされる恵みの世界を生きて欲しい。』と言っておりました。律法は良いものと言いながら、見事に自身で否定しております。主イエスは『天に御座すあんた方の父が完全であらはるように、あんた方も完全になりなはれ。(マタイによる福音書五章四十八節:引用 真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』と言われたにも拘らず、なぜこうも神の言葉を否定するのか、その自己矛盾に気付かないようです。また、仮に信じて過去の罪が赦されたとして、その側から新たにどんどんと罪を犯し続けたら意味がありません。それとも、未来永劫、その人が犯す罪も帳消しになるというのでしょうか。主イエスは、悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)と言われました。旧約の預言者も、罪を犯すなら滅びる(エゼキエル書十四章十三節、ミカ書六章十三節等参照)と言われ、ヨハネの黙示録二十一章から二十二章でも同様に言われております。律法廃止論に立つということは善悪の基準を放棄したに等しく、その基準に基づく悔い改めを出来なくするも同然です。神の律法、掟、戒め(福音伝道、兄弟愛も含め)を守り、高潔となって白い衣が与えられる(ヨハネの黙示録六章十一節参照)までには相当な鍛錬、努力の積み重ねが必要です。一般社会においても、楽して得られることなど何もありません。例えば、まともな親ならば、子に対して怠惰を戒めるはずです。楽することばかりを覚えても、碌な大人にならないと分かっているからです。また、仕事においても、技術が要求されるような職種であれば特に、必死に研鑽していくのが常です。そもそも、マタイによる福音書二十五章のタラントンのたとえの箇所にて、三十節では役に立たない僕は追い出されているではありませんか。世の諸教会の教えは聖書に書かれている内容と矛盾します。只より高いものはない(ただで何かをもらうと、代わりに物事を頼まれたりお礼に費用がかかったりして、かえって高くつく。【出典:デジタル大辞泉(小学館)】)ということわざがあります。例えば、ラインは無料で利用できますが、そのやり取りの情報は提供側に見られております。無料であるからには理由があります。「律法廃止論」、「行いは不要」の偽福音の代償は、第二の死です。主イエスから、「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を働く者ども。(マタイによる福音書七章二十三節:引用 真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」)」と言われるだけです。

 

ところで、地上の教会に通っていた時「祈ってます」という言葉をよく聞きました。あたかも定型の挨拶かのように使われていました。今となって思うのは、生温く便利な言葉だと思います。本来、兄弟姉妹同士ならば互いに弛まず努力するように鼓舞したり、問題を指摘したりするような、高め合う声かけがあって然るべきだと思います。「良くなっていくために◯◯が必要だよ」などです。もっとも、行いを否定しているからそのようには決して言えないのでしょう。だから、ただ神の手が働くこと、他力本願となって「祈ってます」という言葉が出てくるのだと思います。しかし、実際には聖霊が働くにしても、神の掟を守ることが前提です(ヨハネの手紙十四章十五節から十六節参照)。また、以下のようにも言われております。

 

イザヤ書五十九章一節から二節(参照)

見よ、主の手が短くて救えないのではなく、耳が鈍くて聞こえないのでもない。

お前たちの不正がお前たちとお前たちの神との間を隔て、お前たちの罪が神の御顔をお前たちから隠し、耳を傾けることを閉ざしている。

 

罪の故に、自らを神から遠ざける結果となっております。パウロ教信者は、キリスト者としての成長の手応えを感じられているのでしょうか。何も感じられていないのではないでしょうか。少なくとも、手前は当時はそうでした。神の律法、掟、戒めを守らずにおれば、何の成長の変化が無くて当然だと思います。むしろ悪くなる一方なのではないでしょうか。恐ろしいのはその自覚が持てないことです。

 

『②書籍や図録の掲載品の中にも贋作があることを知る』にある「書籍や図録の掲載品」は、人々が信じるであろう世の権威に置き換えることが出来ると思います。そして、「贋作がある」どころか「贋作しかない」状態です。皆が盲信しているので、偽福音を喧伝している者もそれを全く認識しておりません。しかし、知らないから免罪とはなりません。かつての自分もそうですが、聖書の文脈を全く理解していない、検証もしていない、聖書よりも世の権威(神学)を上位に見ていることが露呈しているだけです。また、以下の内容も決定打であると思います。

十二、(神の)王国の福音があらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられた時、終わりが来る

 

この主イエスの予告こそが世の諸教会が吹聴する偽使徒パウロ由来の偽福音と偽教義が神の王国の福音ではない、即ち、パウロと世の主流派が信じて吹聴してる偽福音は、主イエスと十二使徒が宣べ伝えた福音ではないという証拠になってる。もし世の諸教会が吹聴するパウロ教の偽福音がそれならば、世の終わりがとうの昔に来てる筈やが、そうではないんやからね。せやから、偽使徒パウロの偽福音は、主イエスが宣べ伝えはった王国の福音やないということの証明や。また、世の終わりの直前に真の福音が全世界に広まると示されてる故、四世紀から二十一世紀の現在まで主流となってる偽使徒パウロの教えとそれを支持する諸教会や諸教派はすべて偽りと分かる。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

この中身を見て「あれ、これは確かにおかしいぞ」と気付ければ幸いです。しかしながら、実際にはそのような事例は個人的にはまだ聞いたことがありません。そして、救われる者は非常に少なく、終末はノアの時のようとの内容にも符合します。矛盾や綻びを認識出来るかはとても大事です。少なくとも世の権威(神学)を盲信していたら決して気付けないと思います。また、大雑把であったら流してしまい疑問にすら思えないでしょう。聖書の言葉は注意深く見れば見るほど多くのことを教えてくださいます。一箇所ではなく、随所に散りばめて、全体の真っ直ぐな道を構成しており、部分的に、または表面的にだけ見たら必ず見落としがあるでしょう。ところで、真の聖書福音と預言「二種類の基礎」等の記事で更新された集いや教会の入会要件が書かれておりますが、これを見落とさないようにしなければなりません。これは、神の王国に入るための要件を見落とさないことに通じると思います。聖書に神の御命令が書かれており、それを見落としたら致命傷となります。共に、書かれていることをきちんと読解しているかが問われております。

 

箴言三章七節(参照) 

自分の目に知恵があると看做すな。主を畏れ、悪から離れよ。

 

一の箇所で引用した動画の中で、イチロー氏が「やったことに常に疑問符をつける」と言っており、自分の語る内容一つにしても本当にこれで良いのか考えていると言っておりました。こういう姿勢は大事なのだと思います。その上で、知恵とは分別であり、分別とは善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に拠ります。「世の権威」、「世の教会組織」、「自分の経験や感覚」が、判断基準ではありません。「秩序」とは「物事の正しい順序(引用:スーパー大辞林)」であり、偽福音とは秩序を乱す行為に他なりません。律法を軽視するのは基準の軽視に他ならず、「善」と「悪」の定義ごと狂わせる非常に質が悪いものです。

 

箴言五章十二節から十四節(参照)

我はどれほど懲らしめを嫌い、我が心は叱責を軽蔑してきたか。我が指導者たちの声に従わず、我への教えに我が耳を傾けなかった。我はキリスト者の会衆の中で最悪の者となった。

 

律法廃止論では真の悔い改めは出来ません。そこには善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に則った懲らしめも叱責もありません。「信じれば救われる」の考えに立つのですから、その人は何も変わりません。キリスト者を自称したとしても、神の目には不法を働く者でしかなく、まさしく最悪の者となるのは当然の結果でしょう。

 

三、罪を犯して生きていた時の後悔を繰り返さない

『③贋作を手にした時の後悔を繰り返さない』の言葉がそのまま適用する位です。後悔は教訓となり、強い動機付けにもなります。

 

ヨハネの黙示録二章十六節(参照)

お前は悔い改めよ。さもなければ、私は直ぐにお前の所に行く。我が口の剣で彼らと戦おう。

 

『悔い改め(μετανοέω)』の原語には、「後悔」の意味があり、律法の善悪の基準に則り考えを改めること、良心の呵責や咎めを感じることを意味します。良心についても、世俗社会での道徳的な良心ではなく、ここでは神の基準(律法による善悪)に基づきます。にわかキリスト者時代の手前は、罪とは法を犯すこと(ヨハネの手紙一 三章四節参照)をそもそも知らなかったので悔い改めが出来ておりませんでした。「世俗の道徳基準に照らして、自分は何も悪いことはしていないし、本当は何を悔い改めたらいいのか分からないけど、神を知らずに生きてきたのは間違いない」程度のことを認めて、悔い改めと思っておりました。恥ずかしい話なのですが「とりあえず、悔い改めをしないといけない」という程度の考えでした。実に恥ずかしく、みっともなく、惨めであったと思います。信仰の入り口に立つためにも『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節)、主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節)引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」』の通りに、神を畏れる行為が不可欠です。神の厳粛さ、絶対さがあり、それは律法に表れていると思います。世俗的には普通に生きているつもりでも神の律法、掟、戒めに基づけば、どれほどの罪を犯しているか、自分が死刑に値する立場であるかと分かるはずです。律法無くして真に神を畏れることは、ままなりません。真に神を畏れなければ、真の良心も持ち得ません。洗礼とは神に正しい良心を求めること(ペトロの手紙一 三章二十一節参照)であり、神の掟を守ることで聖霊が与えられ(ヨハネの手紙十四章十五節から十六節参照)、『聖霊は人間の良心に訴えかけ、目を覚まさせ、私たちが罪深い罪人であり、救い主イエス・キリストを必要とすることを強く認識させます(引用:真の聖書福音と預言「聖霊の賜物について」』と全て繋がっております。『我が口の剣』は、まさしく神の言葉であり、別の箇所の聖句の『μάχαιρα(剣)』には「司法の罰」の意味があり、神の善悪の基準で裁かれることを意味していると思います。『お前は悔い改めよ。さもなければ、私は直ぐにお前の所に行く。』は恐ろしい言葉だと思います。罪の赦しの時(恩恵期間)を終えて、速やかに裁くと言っているからです。総じて、『悔い改め(μετανοέω)』は、心を良い方向に変えること、過去の罪を憎んで心から改めることであり、行いが伴わない信仰は役に立たない(参照:ヤコブの手紙二章二十節参照)ことを踏まえ、「悔いる(心・良心)」と「改める(行い)」が一体であることは明白です。

 

先にも述べたように、手前が真の聖書福音を知ったのは地上の教会を去ってから何年も経ってからです。迷いに迷って真の聖書福音を知ったことはとても嬉しかったのですが、実際にどうやって真のキリスト者として生きていけるかを考えると正直、気が重かったです。まだまだ、世俗の価値観に染まり、人目も気にしていたからです。ミカエル氏の記事コメントに書き込みをされた方の中には、行動することに尻込みしている様子の方がおり、昔の自分の姿に重なります。手前も通った道だからです。しかし、「世俗の価値観に軸足を置いているから腰が引けているだけ」だと申し上げたいです。軸足を真理に移すと、「何故、あんなことを気にしていたのだろうか。」と無駄に思い煩っていたと莫迦莫迦しくすら思えます。この「軸足」を「世俗」から「真理」に移すことがどうやってできたのかについて、手前の理由を簡単にお話しします。三つあります。一つは、偽福音に躓きましたが、唯一の真の神を信じ、本気で信仰に生きたいという思いは変わらなかったことが前提にあります。長かった放浪期間も相まって、律法に対する正しい認識が無かった時でも「自分は堕落している」という感覚は少なからずあり、「このままでは不味い」との焦りがありました。二つ目は、聖書の言葉に対して、これ以上、見て見ぬふりは出来ないとの思いがあったからです。まず、ミカエル氏の聖書解釈に矛盾がなく「これは本物だ」という確信がありました。放浪を経て真の聖書福音に出会った訳ですから、大きな喜びがありました。同時に「問われている」こともひしひしと感じていたのだと思います(恥ずかしい話ですが、先述の通り、それでも直ぐ行動できずにいた期間がありました。)。過去記事で何度も言ってきたことですが「これ以上、知らなかった時のように生きる訳にはいかない」に尽きます。聖書の神は、唯一の真の神です。御自身以外に、他に神はいないと繰り返し旧約聖書で言われております。神とは、絶対です。絶対とは『 他に並ぶものがないこと。何物にも比較されないこと。比較や対立を絶した存在であること。 一切他によって関与・制限されないこと。無条件。(引用:スーパー大辞林)』です。その神の言葉を前にして、「いや、ちょっと…」「人の目が怖い」「自信がない」などとは、本当は言っていられないのです。絶対者を前にすれば「然り」しかないのです。「目を背けるな」「自分の責任から逃げるな」ということです。自分の人生経験を通じても、自分の人生の課題等を突きつけられた時、逃げたり、見ないふりをしても何ら良い結果には繋がらないことは嫌という程、味わいました。三つ目は、世俗社会に絶望していたので、今更、世俗社会に希望を持つ生き方はもうしたくないと思ったからです。手前は、碌に秀でた所がなく、世の流行りにも乗れず、社交的でもなく、劣等感を持つ事が多かったです。それでも何とか活路を見出だそうと、仕事に励み、そこで自分の価値を感じたり、存在意義を得ようとしました。その末路はボロボロとなった心身及び魂でした。確かに、一時は庶民感覚的に、それなりの社会的地位や収入を得られました。しかし、不思議な程に、全く嬉しくありませんでした。充実感も大して無く、却って苦しみが増すだけでした。まさしく、「飲むほどに渇く」状態でした。もう少し、何かしら手応えがあると思ったのですが、その立場を維持するだけでもとても大変で、これまで以上に重くのしかかる負担に対して、いつ自分の力の無さが露呈するかと恐れました。努力をしても空回りするようになり、いつしか自分を見失ってしまいました。その一方で、小手先で取り繕うことばかりに長けて、自分の情けなさに自己嫌悪に陥ることもしばしばありました。あのような状況には二度と戻りたくありません。自分が本当に望んだ生き方では無かったとつくづく思います。それに比べ、全能者、絶対者である神を見て、応えようとする生き方には確固たる充実があります。世俗に価値を見出ださなくなる過程は、手前が本当の意味で前に進むために不可欠であったと思います

 

イザヤ書六十六章二節(参照)

我が顧みるのは、へりくだる人、霊の苦しんでいる人、我が言葉におののいている人。

 

へりくだるのは、神を絶対者として認め、畏れているからです。霊が苦しんでいるのは、 律法に基づいて、犯した罪や悪業などを後悔して、自責の念を抱いているからです。万物を創造し、今も生かし、やがて裁き、死後の永遠を決める権威を持つ絶対者を思えば、この神の言葉におののかずにはいられません。

 

こうした感覚は、改心して生きていくためには不可欠であると考えます。これ以上、盲目に世のとりこになり、生きているけど心も霊も死んでいるかのようなあの日々は、手前はもうたくさんです。「死んだも同然」の状態から、招かれたのですから、「精一杯、応える」の一択しか考えられません。後悔は、次に進む大事な、不可欠な段階だと思います。

 

四、本物を知る

これまでお伝えした一から三に重複しますが、「本物を知る」に尽きます。本物とは、聖書真理です。最初から拒絶したり、拒否姿勢を示す者にはどんな言葉を用いても聞く耳は持たないので、もはや仕方がないと思います。しかし、少しでも気になるのであれば、御自身で聖書を読むべきです。こちら(真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか)に、聖書を信じる意義について分かりやすく説明されているのでぜひご覧ください。信じる経緯は実に人それぞれです。腑に落ちる経験も人によって多様だと思います。手前のように、何かしら人生を生きる上での課題を抱えて聖書に行き着いた方もいらっしゃるかもしれません。また、荒れ果てた世俗社会に疑問を持って聖書に行き着いた方もいると思います。とかく、この世の仕組みは悪魔崇拝者の支配層が作った故、あらゆる偽りに満ちております。悪徳政府の政策が個人生活に生き辛さを及ぼすことや個々の問題点について、ミカエル氏が「日本人の問題点」の一から五までまとめております。目先の生活のことからこの世全体のことまで全てが連動しており、悪しき者の支配下にあることが理解出来るはずです。何故、特に日本人がここまで凋落しているのか。それは律法違犯の呪いが臨んでいるからです。何故、支配層と駒である政府がここまで出鱈目をして国民を苦しめるか。それは日本が古代イスラエルの末裔のいる国だからです。聖書には、この天地の始まりから終わりまでを一貫して書かれ、パウロ書簡を除けば内容に矛盾がありません。そして、神の言葉は真実であると、手前は日々の生活でたくさん実感させていただき、確信は深まるばかりです。確信によって、腹が据わってきます。聖書真理、すなわち、真っ直ぐな道を知れば、世の事柄は矛盾だらけで曲がった道ばかりだと嫌と言うほど認識出来るようになるでしょう。偽物に騙されない確実な方法は本物を知ること、聖書の言葉の力、聖書の論理(筋道、真っ直ぐな道)の力を知ることだと思います。

 

結び

今回は、英断を恐れるなと題してお伝えしてきました。英断とは、『思いきりよく物事をきめること。すぐれた決断。(引用:スーパー大辞林)です。何故、英断が必要なのか、何が英断なのか、どうして英断を恐れてはならないのかについて以下のようにまとめます。

日本には、古代イスラエルの名残があり、その末裔がいる日本であるにも拘らず、ずっと聖書真理(真の聖書福音)が語られず、世の嘘に騙され続けておりました。そのままの状態では、神の正しい裁きによって、人は永遠の滅び(第二の死)に至るしかありません。しかし、神の律法、掟、戒めを守り、主イエスを信じて受け入れ、主イエスと新しい契約を結ぶことで、有罪判決を免れる(神の目に適う)道が開かれます。但し、最期まで忠実であることが必要です。そして、近い将来、罪の赦しを終える(恩恵期間の終了)大艱難期に突入します。それまでに、キリスト者として完成する必要があります。悪が闊歩し、明らかに壊れつつあるこの社会にしがみ付いても滅ぶだけです。そうではなく、聖書真理こそ本物と見出だして、それに従うことこそ英断です。具体的には、これまでの常識を改め、房付き和服を来て、日本語を大切にし、日本食に親しむこと、聖書研究や福音伝道に励み、そして、世俗的な生き方(拝金主義、享楽等)をやめて神の律法、掟、戒めを守り、高潔な品性(内面)を帯びることですぐずぐず迷っている時間などありません。今すぐ改心して、行動ましょう。確かに、これまで浸ってきた世俗的生き方や常識を退けるのは大変かもしれません。しかし、大変と感じるかもしれませんが不可能ではありません。やってやれないことはなく、「やれない」と思ったら終わりです。何度失敗しても、肉の欲や自己愛に抗い続けることです。

個人的には、偽福音教会から去ったこと、ミカエル氏のブログに出会い真の聖書福音に従う決心をしたこと、集いを経て教会に入会させていただいたこと、日常生活のあらゆる悔い改めの実施(服装、安息日遵守、働き方の変更等)、聖書研究や福音伝道に励むようになったことが英断であったと思います。途中、世の価値観に引きずられたことも、葛藤も、失敗も、辛い思いもありました。しかし、諦めようと思ったことは一度もありません。逃げたらどこにも辿り着けないと思うのと、真の神を知って、知らなかった時のようにはもう生きられないからです。そうかと言って、今の自分が万全とは全く思いません。自分の不完全さは自分がよく分かります。この、等身大の自分と向き合うことを手前は恐れて、ずっと回り道をしてきました。真理を知ったことで、かつて恐れたこと(世の価値観で自分の測り、価値が無いと思い絶望した。社会や他者から評価される自分でなければならないとの嘘に苦しめられた。)はサタンの嘘であり、恐れることではないと知りました。残りの生涯は、絶対者である神に喜ばれる生き方を全うしたいと思いました。

先にも申し上げたように、神との出会いやお招きの経緯は人それぞれです。ミカエル氏は『人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。(引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」』とまで仰ってくださっております。英断を下すために助言が必要であれば、是非ともミカエル氏に相談することを勧めます。

一般的に、英断は、これまでと異なる道への選択に対して使うことが多いと思います。それ故、勇気が要ることだと思います。簡単ではないからこそ大きな意義があると考えます。「英断を恐れるな」とは、手前自身の実感であり、それを是非ともお伝えしたく記事にさせていただきました。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。