こんにちは。

 

今回は、多くの人々が誤解から、聖書と主イエスの教えが、あたかも嘘や出鱈目であるかのように思わされて、間違った方向(滅び)に向かっている点について書きます。

 

細かいことを挙げれば数が非常に多くなるので、よく反キリストたちが主張する代表的な以下の点について述べます。

 

一 聖書、キリスト教は、唯一神なのが、おかしい。

二 信じさえすれば救われるというのは、おかしい。

三 聖書では、神が悪魔より多くの人を殺しているから、おかしい。

四 原罪のせいで生きるのが苦であるから、おかしい。

五 歴史でもキリスト教は多くの戦争を起こし、殺人をした宗教だから、おかしい。

 

まずは、一について。

唯一神ということの何がいけないのか、まったく理解できません。逆に問いますが、なぜ神が何十人も、何百人もいると思っているのですか。そちらの方が不思議でたまりません。複数神を信じる方は、どのようにして信仰しているのでしょうか。一名ずつその名を挙げて祈るのですか。それとも面倒臭いからまとめて「神様」として括ってしまうのですか。殆どの人は後者でしょう。複数神を拝む人はそのすべての名すら知らない状態であるでしょうから。そんな状態にも拘らず、それらを信仰しているとはまったく呆れます。また、年始に神社に行ってお参り、葬式は寺から僧侶を呼んでお経、家には仏壇を設置、結婚式だけは教会で行う等とやりたい放題している日本人はどうかしています。特に、日本の「八百万の神」という考え方には、まったく共感できません。太陽、月、星、雷、風、土地、山、木、川、海、石、岩等の自然の至るところに神が存在するなどと平気で言ってのけます。要するに、物質を神と崇めているのです。また、仏教についても、仏像、大仏、仏壇等を作って、それらに向かって拝んだり、また、ただの人間に過ぎない僧侶に向かって拝んだりもしているでしょう。神道についても、神社に行っては、おみくじを引いて一喜一憂したり、賽銭箱の前に立って建物に向かって拝んでいる人が大勢います。大東亜戦争前からの洗脳が解けてへん人は、天皇を神と崇拝している者さえいることでしょう。その他の宗教もおよそ上記に当てはあまります。要するに、殆どの人々は、物質や特定の人間を崇めているのです。これがいかに愚かなことかということに何故気付かへんのか。気付かへんのは、神の敵対者であるサタンの導きに他ならない。物質や人間は神ではありません。なぜなら、いずれ滅び去って消え失せる存在やからです。自然にあるものでさえ寿命があり、いずれ死に、壊れます。建物や像等は人間の手によって修復されはするものの、津波や地震等でいとも簡単に壊れます。肉の存在である人間も永遠に存在するものではありません。消えていく存在があんた方の神なのでしょうか。

 

これらに比して、聖書のいう創造主の神は唯一であり、生きておられる方です。生きているといっても目に見える肉体的にという意味ではありません。神でありながらも人間として受肉されて(人性)この世に救い主(キリスト)として来られたのが、主イエスです。彼が事前に予告した上で、死後三日目に復活しはったんは、死に打ち勝ってその神性を示すためです。奇跡を行うのはサタン(悪魔)でも出来るのであり、奇跡を行うことが神性を示すのではありません。そして、主イエスは我々人間と同じ人性を取られたので、サタンの誘惑(四十日間の断食後の出来事)にも遭いましたが、決してそれに負けず、完璧であられました。主イエスが地上に来はった時も、神であることを鼻に掛けたり、人々に対して高慢に接することもありませんでした。常に、人間を愛し、優しく、憐れみ深く、貧しい人、病気の人、社会的弱者の味方でした。これは彼が昇天された今も同じです。主イエスと直接会うことは現在では出来ませんが、信仰と行いによって罪を悔い改め、救いを受けるということは実感出来ます。そして、聖書では、偶像礼拝を禁じています。偶像というのはあらゆる物を指します。当然、像、建築物、装飾品等人間が造るすべての物であり、それらを造ったり、それらに向かって拝んだらあかんということです。そして、キリスト教としてあんた方が誤認識しとるカトリックも偶像礼拝をしていますね。人間に過ぎひんローマ教皇やその他司祭たちに敬意を表したり、マリアを拝んだり、その他カトリックが定めた聖人とやらを崇めたり、それらの像に向かって接吻や祈りを捧げたりします。これらの偶像礼拝行為は、聖書で神が禁じた行為であり、神の律法に反する罪であることは明確です。

 

二について。

信じさえすれば救われるというのはおかしいという主張ですが、これはカトリックやプロテスタントの教義です。ですから、この点についてだけ言えば、おかしいというのはもっともです。なぜなら、聖書では、信仰した上での行い、神の掟を守って実践することが重要と書かれているからです。信じれば救われる、口先だけで信じると言いさえすれば救われるという手軽な教義は、中世時代のローマ教皇をはじめとするローマカトリックが免罪符を売り出したことでも分かるように、手軽さを売りに人々を取り込んで、彼らの政治的権力、宗教的権力を絶対的なものにするために、聖書の教えを捻じ曲げた結果なのです。カトリックが偽キリスト教だということは、拙者の過去記事「カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘」で説明済なので、そちらをお読みになってください。せやから、カトリック、正教会、プロテスタント等とキリスト教と看板を掲げる宗教団体らがキリスト教(聖書とイエスの教え)であると思わんといてください。

 

三について。

聖書では、神が悪魔より多くの人を殺しているからおかしいという主張ですが、こういう表面的なものに拘泥する人は、無意味、かつ、ただの揚げ足取りです。拙者には、この主張はサタンの主張に思えます。はっきり言っておきますが、神は創造主であり、人間は被造物です。創造主が所有権者であるのは言うまでもありません。極論を言えば、被造物をどのように扱おうが創造主の自由です。聖書の記述から言えることは、神の御言葉、御命令、掟に反して堕落し、罪を犯して決して悔い改めようとせんかった人間がそれだけ多かったということです。神の許可無しには、この世に生きるどのような生き物も死ぬことがありません。即ち、この世で死んだ人間は全員、神が殺しているのです。神は命を与え、またそれを奪います。そして、神は、神に従順な人間には肉体的死後に永遠の命を与えます。それが神という存在です。人間は神のことを完全に理解出来へんのやから、被造物の人間が、創造主の神に対して口を挟む権利はありません

 

四について。

原罪のせいで生きるのが苦であるからおかしいという主張ですが、そもそも、原罪という考えそのものが誤りなのです。これはカトリックの教義で、プロテスタントも同じように信じている所が多いです。カトリックが考え出した原罪というのは、アダムとエバが神の命令に背いたことで人に死がもたらされ、それが将来に渡って人類の生まれながらの罪とする考え方で、そのせいで人間が罪を犯すのはしゃあないという考え方です。これは、創世記のアダムとエバの話を基に、ローマ五章十二節前段のみを都合よく取り上げて、カトリックの布教に利用しただけのものです。主イエスは、人に原罪があると仰ってません。せやから、人が生まれながらに罪を負っているというのは有り得ません。ローマ五章十二節後段のとおり、すべての人は、自分の選択によって罪を犯しているのです。創世記のアダムとエバも強制的に罪を犯すように仕向けられたのではありません。唆し(誘惑)によって人間自らの選択、決断によって罪を犯したのです。念のために言っておきますが、ここでいう罪を犯すというのは、神の律法、掟、戒めに背くことであり、人間が作った法律に背くことを指しません。神の律法に反するという罪を犯したとしても、主イエスを救い主(キリスト)として信じて、自分が罪人であることを認め、神の律法に違反する罪を悔い改めて神の律法に従い、従来の生き方を変え、苦難に耐え、死まで神に従順であれば救われます。主イエスも以下のように仰いました。

 

新約聖書 マタイによる福音書 九章十節〜十三節(拙訳)

それから、イエスが彼とその家で食卓で横たわってはった時のことである。すると見よ、多くの徴税人と罪人が来て、食卓で一緒にイエスと弟子たちと共に横たわった。そして、ファリサイ派の人々は見て、彼の弟子たちに、「何故、あんた方の先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするんや」と言った。そこで、イエスは聞いて彼らに言われた。「壮健な人は医者の必要は無いが、病んでいる人はある。『我が喜ぶのは憐れみであって、生贄ではない』とは何であるか、行って学びなさい。我は、自分が正しいと思っている人を招くためではなく、罪人を悔い改めに招くために来たからや。

 

人性を取られた主イエスだからこそ、人間の弱さが分かっているのです。主イエスは、その弱さを糾弾されているのではありません。その弱さと罪を犯した事実を認め、それを悔い改めて、赦しを請い、神に従うことを望まれているのです。生まれた時の状態のまま、有りのままでは駄目です。悪魔が支配する世俗社会に洗脳されている事実に気付き、心変わりし、今までの考え方や言動が愚かで罪深い事実を認め、それを悔い改め、主イエスや神の御国に心が向くようにということです。本当にそうなってキリスト者になるならば、世俗社会に馴染まないようになるはずです。

 

最後に、五について。

歴史でもキリスト教は多くの戦争を起こし、殺人をした宗教だからおかしいという主張ですが、これもカトリックの仕業です。過去の歴史を見れば明らかです。聖書と主イエスの教えとはかけ離れて、古代ローマの土着の異教と結合した間違いだらけの偽キリスト教であるカトリックをローマ帝国の国教に据え、ローマ帝国とローマ教皇が征服した先々でこの誤った教理も広めた結果、今日のヨーロッパのカトリック勢力とカトリックと協調して堕落したプロテスタントです。このような主張もサタンの主張です。決して、聖書と主イエスの教えが、戦争をするようにと言っているのではありません。聖書には、明確に十戒(出エジプト記二十章十三節)で「殺してはならない」と書かれています。そして、主イエス御自身も、神への愛と隣人愛を説き、病気を治したり、死人を生き返らせたことはありますが、誰も殺してはいません。主イエスを侮辱したり、暴力を振るった兵士たちにも反撃することも決してありませんでした。このように、聖書と主イエスの教えを遵守する、真のキリスト者は戦争を起こすことは絶対に有り得へんのです。それどころか、逆に、真のキリスト者は迫害されて殺されているのです。過去の歴史上、ローマ帝国やローマ教皇、十字軍等によって残虐に殺され、今後も、真のキリスト者はヨハネの黙示録にあるとおり、獣の刻印を受けることを拒絶するさかい、殺されます。戦争を起こしているのは、聖書と主イエスの教えに服従している振りをしているカトリックというローマ教皇をはじめとする反キリスト集団とカトリックに同調するプロテスタント、その他すべてサタンに惑わされた人々です。戦争の火種は、いつも宗教そのものではなく、政治権力闘争、支配欲や金銭欲から来ています。これらは聖書では罪としていることで、決して推奨していることではありません。拙者の過去記事「カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘」で詳細に述べたとおり、何度も言いますが、カトリックをキリスト教と思うのは止めてください。そして、カトリックに同調するプロテスタントや正教会もです。

 

今後は、世間や権力者の言う嘘に騙されないでください。彼らは反キリストであり、真理から目を逸らさせたいのです。しかし、拙者は、真実を主張します。聖書と主イエスの教えには偽りはありません。拙者は、聖書と主イエスの教えに何ら私的解釈を施していません。以上より、聖書と主イエスの教えは嘘ではないこと、また、いかに世に誤解や嘘がはびこっているか、という事実を分かっていただければ幸甚です。そして、聖書を手に取り、実際にご自身で読んで確かめていただければ、それが確信に変わるでしょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上