こんにちは。
 
今回は、聖霊の働きの確証について述べます。

皆さん、信仰生活は上手く行っていますか。人によって違う感想、意見、主張があると思いますが、神の律法、掟、戒めを守らないし、信仰前の生活から一変しないにわか信者らの言う聖霊は聖霊ではないので、そのような人たちの言葉は信用に値しませんので無視すべきものです。では、どのように人は聖霊を受けていると確証できるのか。これについて考えたり、悩まれたりしたことはキリスト者なら誰しもあるはずです。

使徒言行録2章に、主イエスの直弟子たち十一人とイスカリオテのユダが自殺して欠員になった分はマティアが選ばれ、彼らが集まっていた時に聖霊が降ったことが記録されています。そして、それを機に、彼らは聖霊の力を受け、力強く主イエスの証しをし始め、伝道も活発にしていきました。この時、真心から信じて悔い改めの洗礼を受けた他の人々は聖霊を受けたり、直弟子の話を聞いている時に聖霊が降ったこともありました。主イエスを真心から信じて主イエス・キリストの御名で洗礼を受けて聖霊を求める人には無償で聖霊が与えられます(使徒言行録2:38参照)。真心というのは下心が無い正しい心です。邪なことを考えている者に聖霊は与えられません。お金が無ければいけない、地上に建てられた建物にある自称聖職者が管理する教会に属して教会に籍を持っていないといけない、自称聖職者から洗礼を受けないといけない等というのはまったくの偽りであり、むしろそのような世俗的な思い込みから無縁の純粋な人こそ間違った教義に汚染されていないのでまだ正しい道に行く可能性があります。教会はキリスト者の集まりであって建物を意味するのではないし、集会を持って信仰の兄弟同士で励まし合ったり、聖書を共に学んで高め合うことは重要ですので、キリスト者の集まりとしての教会そのものに拒絶反応を示すのは誤りであり、教会について正しく理解しておくことが肝要です。もう一度言いますが、教会は地上の建物ではありませんので、そういう所に通ってカルト宗教信者になって自己満足に浸る必要性はありません。今まで多くの過去記事において十分に説明してきたことですが、最初に重要なのは自分が罪深い者であるということを認め、そこから悔い改めの人生を送ることを決意することです。これが最初の関門なのですが、この門に入ることを拒絶する人が大勢いるのが問題なのです。自分は今まで悪いことをしていない、人間の法律に引っかかることをしていないから善人だ、殺人犯や強盗犯に比べれば自分はましだ等と思っている者は、皆同じように滅びるべき死刑囚であることを分かっていない愚か者です。何故、多くの人々がそう思うのかは高慢なのが原因です。高慢とは自分が優れている、自分が正しい、間違っていないと思い込むことです。それも何の根拠も無いのにです。過去記事「主権は神にあり、人間にあらず」でも述べたことですが、人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。そのような頑なで高慢な者は死後に神によって断罪されます。

にわかクリスチャンは頻繁に悔い改めについて口にしますが、まったくその本質を理解していないし、行いで示していないので、口先だけで終わっている偽り者なのが明白なのに本人たちはまるで他人事のように知らん顔です。こういう人たちのことを厚顔無恥な現代のファリサイ派というのです。悔い改めという言葉の意味は、過去記事「常識を疑って悔い改めよ」でも書いたとおり、悔い改めというのは、今までの行いを罪であり悪い行いであることを知って悔いて、そのような神の律法や主イエスの教えに反することをやめるという改める行為の二段階に分けられます。キリスト者になったとされる人でも悔いるだけで改めていない人が非常に多いのです。そういう人は私が述べてきたにわかクリスチャンなのです。また、主イエスを崇めながらも主イエスの御言葉に従っていない自称キリスト者のなんと多いことか。「悔いる」、要するに後悔するのは不信仰の者にでも出来、悔いるだけで終わって改めないなら不信仰であり、結果は滅びます。大事なのは悔いた後の「改める」行為です。信仰を行いで示すことの重要性がまさにここに顕現しています。その改める行為によって今までの生き方とは完全に違う方向転換をするということになります。不信仰の時に目指していた道、生き方、欲望等をすべて捨てて、この世は仮の世であることを認識し、世と世にあるものを愛さず、世の大衆に倣わず、世の友とならないために孤立することも迫害されることも厭わず、主イエスを模範として生きることを行いで実際に示すことです。そのために参考になることを多くの過去記事で宣べ伝えてきました。しかし、未だに多くの人々は当ブログを読んではいるがすぐに忘れたり、あまりにも聖書の真理は耳触りが悪いために読むのをやめてしまったり、自分には出来ないと無視したり放置したりしているのがほとんどでしょう。当ブログを読まない聖書の読者も同じで、ほとんどの自称キリスト者は聖書を読んでも耳触りの良い箇所だけ読んで信じており、耳触りの悪い箇所や悪い世俗社会に適用させるのが困難なので出来ないと思い、神とキリストよりも短くて儚い世俗の生活を優先し、目に見えないものよりも目に見えることを信じ、世俗に屈して諦めて神の御言葉を踏みにじっていながらキリスト者と自称し続けます。神にとってこんなに生温くて忌々しい者はいないでしょう。だから、黙示録にあるとおり、そういう人らはいずれ吐き出され、完全に脱落します。私は主イエス・キリストなしには正しくあることはできません。正しくあろうとする行いも主イエスへの信仰が無ければ、やりたくてもできません。主イエス・キリスト抜きで自分なりの義を立てようとしても無駄であり、独りよがりな偽善になるだけです。それは他の人々も同じことです。主イエスはぶどうの木であり、もし人間が主イエスに繋がる枝でなければ、神の目に正しいことは何もできないのです。主イエス・キリスト抜きで正しいと思う人間は悪魔の品性を持つ高慢な者でしかなく、そう思う者は誰でも第二の死へと行きます。主イエスの直弟子も過去の預言者たちも皆罪人であり、私も例外ではなく、あなたがたも同じです。罪人ではない人間はこの地上には存在しないのです。霊によって新たに生まれない肉なる人間は神の目に正しいとされることはできない性質だからです。たとえ新生したとしても、根本的な人間の本性というのは罪深いのです。罪を犯すのは選択によると過去に述べましたが、新生後にもなお選択によって罪を避けたとしても奥深い所の本性は依然として罪深さがしつこく残るというのを感じます。私自身そう思います。この悪い世俗で生きている以上、避けきれないものもあるでしょう。二つの法益が相対するとき、どちらかを取らねばならないという場面もあります。大を取って小を捨てなければならないこともあるでしょう。しかし、これは慈愛が問題になったときのみです。最も重要なのは慈愛だからです。慈愛とは憐れみの心を持った無償の愛であり、肉欲に基づく愛、恋愛、自己愛、身内愛なんかではありません。慈愛の例として、天の父なる神が御自身がお選びになった神の民以外の不信仰の者、異教徒、にわかクリスチャンらについても差別することなくこの地上で太陽を昇らせ雨を降らしてくださって養ってくださるような愛情です。神はそれらの者を生かすことによって何か見返りを得ているかといえば何も無いし、むしろ恩知らずと本当はお感じになっているでしょうが、それでも生かしてくださる優しく憐れみ深い神なのです。それも地上での短い間だけですが、神に立ち返らない報いは後で死をもって償うことになります。罪が支払う報酬は死だからです(ローマ6:23参照)。愛についての考え方を間違えるとそれは間違いの元になるので要注意です。過去記事「自由と律法に対する誤解」や「本物の愛」でも言及したとおり、主イエスがモーセの律法の中で何が最も重要な掟かをファリサイ派の律法の専門家に尋ねられた時にお答えになったのが、神を愛することと隣人を愛することだからです。天の父なる神に死まで従順であるような主イエスの信仰、そして悔い改めの強い決心が無ければ聖霊が降ることもなければ、聖霊の力が働くこともありません。強い肉の思い、肉の欲等の自我が強く、それらを捨てられない状態では無理です。あなたは変化を望んでいるでしょうか。現状の自分が罪深くどれだけ神から遠いか、主イエスから遠いか認めることができるでしょうか。今のような罪に塗れた性格、身なり、言動を改めたいと心から思っているでしょうか。それらをすべて変えるために、どんな犠牲を払ってもやり遂げたいと思っているでしょうか。どんなに時間が掛かろうともやり遂げる意志があるでしょうか。これらの内、どれか一つでも欠けている、またはやりたいと思わない、何年経っても何ら行いで示さずに変わらないならば、真のキリスト者、神の民にはなれません。人は本来善い性質を持っているのだという性善説を信じている人が多いですが、聖書に照らせば真逆の偽りです。神に結ばれていない、キリストに結ばれていない人々は悪でしかなく、世間の人々が称賛したり認めたとしてもそんなものは正しい根拠にはならないからです。善悪の基準は、万物を創造した主なる神にあるからであり、堕落している人間にはないし、悪魔にあるのでもないのです。あなたが良い人だと思う人も散々あなたの期待を裏切ってきたのではないですか。良いと思って交際した相手が良くないと後で分かって別れたり、良いと思って結婚した相手が不倫をしたり暴力を振るったり家庭を顧みなかったり、良いと思って友達になった相手が自分の陰口を言っていたことが分かったり金づるにしていたり、お気に入りの有名人が不祥事を起こしたり、悪魔崇拝をしていたり、お金のために何でもしたり、そういうことを挙げればキリが無いでしょう。このように、人間の生まれつきの本性は悪でしかないのです。良いように見える人間は良いように振舞っているだけに過ぎないのであり、それが本性ではないからです。多くの人は偽るものです。口を開けば嘘を言い、化粧や整形で顔を偽り、髪を染めて本来の髪色を隠して偽り、厚底靴を履いて身長を偽り、脱毛や性転換手術をして本来の体を偽り、男が化粧や女装で女になりすまし、女が髪を短く切って男装して男のようになったり、他にもあるでしょう。このような人間の罪深さ、自分の罪深さを真剣に考えて認め、そこから脱却したいと真心から願い、聖書福音を見聞きして主イエスこそが真理のお方であると信じた後に主イエス・キリストの御名によって洗礼をし、そこからやっと新生の開始です。そして、主イエスを模範とする生活を目指し大きく方向転換して変えていくのです。その開始地点にも立とうとしていない人が非常に多いです。もし覚悟を決めてキリスト道を歩むなら、男性は主イエスを模範として限りなく近付くように頑張り、女性は女性としての立場を弁え、創造の秩序等を守って慎ましくあって出過ぎないことです。これらのことを守って実行する人は幸いです。一方、このことを理解して実行しない人が多いでしょうが、それはその人らの勝手ですが、その者は反キリストである事実は揺るがないです。

聖霊を受けるためには創造主である主なる神を信じる信仰が必要です。これが無いと話になりません。天の父なる神と主イエスを信じない不信仰の者は例外なく第二の死に繋がると黙示録21:8にあるとおりです。聖霊を受けていると確証することについて、現代社会には多くの欺瞞や勘違いがあります。生きている中で何か超自然的な現象や奇跡が起きなければならない、または奇跡や癒しといった不思議な業を起こせないといけない等と思い込んでいる人が少なからずいます。「聖霊を受けているなら、力を見せろ」等と言うような者がいれば、典型的な偽り者、不信仰の者です。もしそう言う者がキリスト者と自称しているならファリサイ派のような人間です。一世紀当時、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」(マタイ27:42)と祭司長や律法学者、長老らが主イエスを侮辱しました。そのように目に見える奇跡の類ばかりにしか関心が無い彼らとまったく同種の人間であることは明らかです。主イエスにとっては、「邪な心を持つ者よ、あなたがたに信じてもらうためにしるしは与えられない。」といったところです。あと他にも偽り者の特徴として、心に暖かいものを感じたとか包まれた等と言う者もいます。このような感覚的なことを聖霊を受けた証拠、キリストが共にいる証拠と勝手に勘違いして盲信しています。そんなことが証拠だなんて聖書のどこにも書かれていません。そして、そんな人間の感覚はサタンや悪霊が与えることができるからです。常々、サタンは光の天使を偽装する者であることを忘れてはいけません。むしろ、このような目に見える不思議な業や現象を見る前、起こる前に信仰によって聖霊を受けていると信じることができるか、神への愛と信頼があるかどうかです。そのような心の持ち主であるかということを主なる神は見ておられます。主は人の外見や見せかけの行いで判断するお方ではなく、心を読まれるお方だからです。このことも過去に説明したとおりです。ですから、感情のような移ろい易いものであてにならないものを根拠としてはならないのです。感情が信仰そのものと思っているようでは必ず憂き目に遭います。頑ななにわかクリスチャンどもはこれに反発するでしょうが、聞き入れないならどうでもいいことです。その者らが勝手に信じたいように信じて、後でその責任を自分たちで取る羽目になります。

そして、聖霊に満たされるため、聖霊の力を発揮できるようにするためには過去に散々説明したとおり、自我を否定し捨てて、神に服従し、神の力が完全に現せるようにならなければいけません。この世で神とは無関係で世俗的なことをしたい、極めて世俗的な目標を立ててこうなりたい等といった欲望は肉なる人間の自我の成す業であり、神の御心ではないのです。よって、それは聖霊に逆らっていることになります。内心は善くないだろうと思っていながら罪を犯すというのは、聖霊に逆らっている状態です。それを変えようと思わず、むしろそういうことを喜びとしてしまうようになればもうお終いです。神は、神に従う者にだけ聖霊をお与えになるからです。古代イスラエルの初代王であったサウルのように、神に従順に従わなくなれば聖霊は取り上げられ、代わりに悪霊が送られてくるだけです。

新約聖書 使徒言行録 5章32章
わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。

上記聖句が私の言葉を裏付けています。神は神と主イエスに従う人にだけ聖霊をお与えになり、過去に説明したとおり、主イエスが仲介者の新しい契約には心に神の律法が記され、それを守るようになります。それも神への愛と信仰によって守る気を起こさせます。そうならないのならば、いくら目に見える不思議な業を起こしたとしても聖霊を受けていないと断言できますし、そのような者たちは後で主イエスから「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイ七章二十三節拙訳)と言われて、外に追い出されて泣きわめいて歯ぎしりするのです。上述したように、聖霊を受けているかは目に見える奇跡や癒しといった業が証拠ではないからです。そんなことが重要なのではなく、聖書の真理に基づいて私が宣べ伝えている事実が重要です。自称キリスト者らは、これらの真理に逆らい、彼ら彼女ら自身が間違って信じていることを根拠として、神に従っている、キリストに従っていると嘘をつくでしょう。神を愛しているなら、神の掟も守るはずです。そのことを直弟子のヨハネも書いていました。神の律法、掟、戒めを守るのは神に服従している結果なのであり、自分自身を義としたいがためではないからです。逆に、神の律法、掟、戒めを守らないのは神に従っていない証拠となり、口先だけで信仰を言い表しても嘘つきの反キリストでしかないのです。主イエスはモーセの律法を廃止するためではなく完成するために地上に来られ、天地が消えるまで律法から一点一画も消えることはないと断言されたにも拘らず、自称キリスト者らは勝手にモーセの律法がすべて廃止されたものとして信じ、地上の諸教会の教理を信じ、キリストや直弟子たちが行うように命じてもいない異教由来の行事(クリスマスやイースター等)を嬉しそうに行い、日曜日が安息日と勘違いして本物の安息日を破って蔑ろにして太陽神崇拝に繋がる日曜礼拝をして背教しています。このように、世間に多くいる自称キリスト者らは主イエスの教えに留まらないどころか真逆のサタンの教理を信じて虚偽を吹聴する反キリストなのです。キリスト者であるからには主イエスに従う者で、主イエスの御言葉や御命令を守って行いで示している者でなければならないからです。しかし、世の多くの自称キリスト者らは肩書きばかり主張し、地上の諸教会の教会籍や役職等を自慢したり、中身がまったく伴わない虚飾ばかりの人間です。多くの人間は信仰と声高に言いながらも、行いが伴わず、信仰と行いは表裏一体なのに、それを違うものとして切り離していますが、これは大きな間違いです。信仰と行いは別物と性懲りも無く言い続ける人間は悪霊に支配されています。しかし、主イエスの羊である兄弟たちは、私が言っていることに同意するでしょう。なぜなら、これが真理だからです。

あなたはどういう動機で聖霊を求めているでしょうか。ほとんどの人間は、自分の救いのためでしょう。こういう人間は聖霊を受けたとしても維持できませんし働きませんので、いずれ取り上げられて悪霊が代わりに入って支配するようになります。実際こういう自称キリスト者が非常に多いからです。私は過去に何と言ったでしょうか。過去記事「自我との戦い」でも述べたとおり、自己犠牲が必要です。自分の救いという自分のことばかり考えているのは利己主義であり、神が厭われる品性です。主イエスは自己犠牲の精神でこの地上で生活され、人間の模範となられました。仮に主イエスが「世界を見たいので世界一周旅行をしたい」と言って宣教をせずに弟子を取らないし育てもせずに自由気ままに一人旅を満喫していたらどう思うでしょうか。自分勝手だなと思いませんか。あるいは「金持ちになって豪邸を建てたい」と言ってそのために世俗の仕事に没頭して他のことは蔑ろにし、お金にならないことは一切興味を示さないようだったり、お金のためには何でもするようなことがあれば、もはや救い主という以前に正しい人間ではないですよね。世にはそういう人間は多いでしょうが、主イエスがそんなことをなさるはずもなく、主イエスは御自分の時間や労力を宣教等に費やし、失われた羊を探したり、選んだ弟子を教えたり叱責したりしながら育てました。主イエスは御自分だけのため、人間が持つ肉の欲や思いのために生きたことはありませんでした。しかし、世の人間の多くは自分のことや自分の家族や知人等の身内のことばかり考え、隣人愛が無いので他人を蔑ろにし、罪を愛して離れようともせず、自分のしたいことをし、自分の楽しみや幸せを追求しています。こんな生き方は動物の生き方であり、本来の人間の生き方ではないのです。人間は創造主の神が神を礼拝及び賛美するために創造されたのであり、それが趣旨です。神を信仰しなければ神を礼拝することも賛美することもありません。それ故、創造主である神を礼拝しない人間は滅びるのです。普通、人間は自分たちの食物や鑑賞用となる植物を守るために、それを食い荒らす害虫や野生動物を駆除しますよね。そして害虫や野生動物は人間に駆除について苦情や文句を言える立場ではないですよね。それと一緒です。主なる神が万物の創造主であり、主権者であり主役なのです。そのお方に従わず逆らう存在はいずれ滅ぼされるのが当然なのであり、文句を言っても無意味で何も変えることができないのです。この世界や万物はすべて神によって造られ、その秩序と制御下にあるからです。実際、異教徒、不信仰の者、にわかクリスチャンらがそのような仕組みについていくら文句や不平不満を神に言ったところで神はお聞き入れにならないからです。もし害虫が人間に駆除するな等と物申したとしても、あなたがたはそれを聞き入れるでしょうか。否ですよね。そういうことです。神に反抗的な人間には希望はありません。神を信じると口先だけで行いが伴わない人間にも希望はありません。神は心を読まれるお方であり、人間の口先だけの偽りには惑わされないからです。自分を捨て、自己犠牲を払うことが本当にできる人間かどうか神は心を吟味されます。聖霊を求める動機としても、自分のためというよりはむしろ神のため、主イエス・キリストのため、他人のために働く人に聖霊をお与えになります。もらうよりも与える方が幸いです。他人に何かしてもらって嬉しいと思うこともあるかもしれませんが、私は人のために何かしてあげる方が幸せに感じます。もし私が自分のことしか考えていないのならば、このような伝道も教会監督もその他の業もしなかったでしょう。神のため、主イエスのために私は生きているのであり、また隣人を助けるため、私を必要とする人のために生きています。聖霊は神なのであり、神は利己主義の人の内には留まることはできません。神は愛だからです。利己主義、自己愛が強い人には神への愛はありません。神は人間の心を読むことでそれをご存知なので、そのような者に聖霊をお与えになることはありません。また、聖書の隣人愛の掟だけを振りかざして他の掟を否定したり、律法で罪と規定されていることを擁護するという神の義に反するような主張や行いをすれば、その者は偽り者の反キリストです。私たちがこの仮の世にて果たすべき任務は、聖霊の神と共に失われた羊を探して滅びとこの悪い世からの救いであるキリストの福音を伝え、共に立派なキリスト信仰者として神を礼拝し、神に栄光を帰すことです。頑なに言うことを聞かない者と戦うためでもないし、自分の肉の欲や思いに固執したり罪を犯すためではありません。どうか自分ばかり見ていないで、自分のことばかり考えていないで、神のこと、主イエス・キリストのこと、隣人のことを考えてください。もらうより与えることを喜びとする人になってください。そういう人が神からも人からも喜ばれるのです。他者に対して無関心にならず、関心と愛情を持って接してください。無礼な態度を取ったり、不遜な言葉を吐かないようにしてください。愛と信仰によって主イエスが完成された神の律法を守り、見聞きするだけで終わらずに実行する人になってください。それを当たり前のように続けていれば罪に陥ることはありません。そうしていくうちに聖霊の内在は自覚できるでしょうし、周りからも確証されるでしょう。もしあなたがあなたの内に聖霊がいない、または願い求めても聖霊が来ないと思うなら、それはあなたの心が悪いからです。そして、肉の欲望に基づく間違った動機で求めているからです。上述した私の言葉、及び以下の聖句も忘れないようにしてください。

新約聖書 ヤコブの手紙 4章2〜3節(私訳)
まだ得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の欲望に使うために不適切に願い求めるからです。

上記聖句の直後に続く聖句は複数の過去記事で引用しており、もはや繰り返し引用するまでもないですが、世の権力者、富裕層、著名人、一般大衆等と同じ衣服(現代では洋服)を着て、同じような価値観を持つ等、そのような行いは世に倣っているのであり、そうすることで世の友になる者は神の敵なのです。だから、世間で常識とされている価値観や考え方に従わずに神に従うが故に世捨て人になることが主イエスがなさった生き方であり、真のキリスト者は主イエスを模範として後に続くべきなのです。また、この世の富や社会的地位を得ようと多くの時間や労力を世俗の仕事や投資等につぎ込むのはキリスト者としては間違っているし、この世の娯楽や快楽にうつつを抜かすのも間違いです。そして、有名になりたい、多くの支持者を増やしてちやほやされたい、周囲の人から認められたい、称賛されたい等と思っている者も自称キリスト者には多く、そういう者が癒しや奇跡を売りにしてテレビ出演やYouTube等でもこれ見よがしに宣伝していますが、そのような者は聖書福音を伝えず、間違った世の神学を伝えており、これらも間違った行いです。また、この世の情勢が悪化すると必ず現れるのは携挙信奉者であり、「携挙が近い。携挙に備えろ。」等という寝言を言い続けるにわかクリスチャンです。目的が携挙になってしまっており、死にたくない欲が強過ぎ、死を異常に恐れる臆病者であるという客観的事実が自分たちでは分からない惨めな者たちです。このような言論に同調したりせず、また動揺もせず、落ち着いて日々の生活を送り、真のキリスト者として男性は強く雄々しくありなさい。女性は出過ぎず慎ましく貞淑でいなさい。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上