こんにちは。

 

今回は過去二回の記事でお伝えした証しの続き(三回目)をさせていただきたます。初回の証し『地上の教会に救いを求めていた日々と真のクリスチャンとしての生き方』では、手前は自分に価値を見出だせずに自信がない性分であったことから地上のキリスト教会に救いを求めたことを書かせていただきました。しかし、正しい聖書真理を知るに至らずに世俗的なにわかキリスト者のままだったので心のうちにある不安を誤魔化しながら以前と同じように世俗的に生きて来ました。そして二回目は『仕事を自らの拠り所とする愚』と連動した内容にあるように、ただ一心に仕事に励むことで不安を忘れ、仕事を頑張って評価されることで自分に価値を見出だしていたことを書かせていただきました。当時は病的な状態で業務量が少なくて手持ち無沙汰な期間が僅かでも生じるとどうしようもない恐れに囚われ精神的に不安定になったこともありました。常に仕事に追われていないと自分を保てない危うい精神状態であることは当時はあまり自覚できておりませんでした。やがてたくさんの仕事を受け負い、過労死基準に至るほどの過重労働を何年も続けました。仕事を頑張れば評価されて嬉しい、しかしそれ以上の精神的重圧と体の疲労があり、内なる自分は悲鳴をあげておりました。やがて仕事依存症という言葉を知り、自分がそれに該当している事を知りました。しかし、仕事の量を減らしたいけれども、ゆとりができるのが怖い、そんなことを繰り返しておりました。最終的に、勤め先の中での人事異動が相まって多忙な役割から解放されたことと、ミカエル氏のブログに出会い真の聖書真理を知り、自分が仕事を神のように慕う偶像崇拝に陥っていたことを自覚して悔い改めた経緯がありました。やがて仕事をする自分に価値を見出だすことを止め、精神的にも安定した状態にまで回復することができました。ここまでがおおよそ前回まで書かせていただいた経緯です。

 

三回目の今回は会社勤めを辞めたことでまた新たな気付きがありましたのでお分ちさせていただきます。尚、題名は『寄らば大樹の陰(よらばたいじゅのかげ)』です。意味はこちら(引用:goo辞書)にあるように『身を寄せるならば、大木の下が安全である。同じ頼るならば、勢力のある人のほうがよいというたとえ。』です。これを踏まえてご覧いただければ幸いです。

 

🔵会社勤めを辞める

いわゆる会社員勤めをしておりますとどんなに工夫して備えても労働で心身が消耗させられてしまいます。手前の場合ですが加齢も相まって定時で退勤したとしても日中の心身の負荷は自分が想像していたよりも大きく、帰宅しても聖書を学んだり記事を書いたりすることが大変と感じることが多くなってきておりました。また、比較的に負荷が過大にならない部署に配属されておりましたが近い将来の人事異動ではこれまで以上に心身に負荷のかかる業務が課せられることや組織を担う役割を期待されていたこともあり、そうなると通常の勤務時間以外にも緊急対応が求められたりや休日出勤も避けられなくなることがほぼ確実な見通しであり、何とか守られていた安息日の遵守すらも危うくなることが明らかでした。勤め先の上司には自分はキリスト者であり安息日を遵守しなければいけないことは伝えておりましたが自分で上手く遣り繰りするようにとの返答で、周囲とその度に調整することも些か負担のかかることではありました。残念ながら信仰のない者にとってはこの重要な神の掟も認識しえないものですし、そこに過剰に期待はできないものです。自分は真のキリスト者として生きることを決断していたわけですから、このまま会社員勤めをしていては信仰を保てなくなると思い退職することを決意致しました。それ以外にも会社の業務に従事する時間が増えるほどに人間関係の煩いが増え、また、業務の役割上、組織利益の追求をますます求められ、それは真に顧客の利益にならないとわかっていても推し進めなければいけないなど良心が咎めることがたくさんありました。これらは世俗の会社組織であればどのような業種・業界であっても避けられものだと思います。その環境下では真のキリスト者として生きる価値観と神の律法・掟・戒めを守ることの相反が大きく、そこから生じる苦痛が大きくなってきておりました。これらの経緯から真のキリスト者として生きるために会社勤めを辞めるしかないと退職を決意しました。(但し、これは必ずしも一律に全ての会社勤めに当てはまるのかどうかはわかりません。あくまで手前の業種と組織の場合においての判断です。)これは手前にとっては相当に大きな選択でした。比較的に給与が良かったことやそれなりの職位、所属機関が比較的に優良に分類されていたことから得ていた社会的承認等、つまりは世の価値基準で良しとされるものを捨てることになります。そうするしかないとの気持ちが強かったのですが全く迷いがないと言ったら嘘になります。今後に対する不安はありました。それでも神の律法・掟・戒めを守ることを天秤にかけた時に以前のような神を知らなかった時の生き方(神の掟を守らないにわかキリスト者)に戻るわけにはいかないとの判断に考える度に至ります。神の理を知って尚、世俗に耽ることは考えられませんでした。

 

🔵会社勤めを辞めて

退職の日は後ろ髪を引かれる思いはありながらも、それでも前に進むのだという意思のもとに気持ちが前向きであり勇んでおりました。また、仕事を辞めてからは自分の裁量でできる生業を徐々に開始する予定でおりましたのでその時は不安がありながらも、暫しはゆっくりしようなどと呑気な気持ちもありました。

 

ところがそんな平穏さは霧散してしまいました。ものの数日で徐々に得体の知れない不安感が襲ってきました。妙な恐れが生じて胃を締め付けられるような苦痛でした。孤独、寂しさ、喪失、それらの言葉だけでは表しきれない、様々な感覚が入り混じった感覚でした。そのようになるとは自分でも想像できなかった事態でしたので、「あれ、あれ、何で、何が」とすっかり揺り動かされて冷静さを欠いて悶々としておりました。この気分を解消しようと外出したり、美味しいものを食べたりと気分転換を図ったのですが一向に気持ちは晴れませんでした。やることがないわけではないのです。むしろ、やっておきたいこと、やっておかねばならないことがたくさんあったはずなのです。そんなものに囚われている場合ではないのに、と躓いた感じでした。「まさか」の言葉はこんな状況に相応しいものでした。

 

🔵自分と向き合う

なぜそんな状態に陥るのかがわからず、ひたすら祈り、また、自分の心の中にあるものを文字に起こしたり、自分の内面を見つめました。一方では何をするにも集中できず、また、無気力感と不安感がやって来て、これが非常に不快で厄介で困ったものでした。そんな時にふと「また前のように大組織に所属して仕事をしたらばこの苦しさから解放されるだろうか」と頭を過ったりもしました。

 

ある時、知人とその話をしていたら「定年を迎えた会社員がなるような状態だね」と言われてハッとしました。言われてみるとそうかもしれないと思いました。こちら(引用『人間・創造性の心理学:燃え尽き症候群と「うつ」現代社会を生きる男女のストレスと心の病』)やこちら(引用『AERA dot.:「荷下ろしうつ」で自殺に至ることも? 自衛隊メンタル教官に聞いた』)に「荷下ろしうつ病」「空の巣症候群」とあります。何だかこの状態がぴったり当てはまると思いました。いろいろな解説がされておりますが、自分の場合には心当たりがありました。それは端的に言うと「世からの評価で得られる安心」であったと思います。先の『会社勤めを辞めて』の項目に挙げた『給与が良かったことやそれなりの職位、所属している機関が比較的に優良であったことから得ていた社会的承認等、つまりは世の価値基準で良しとされるもの』がまさにそれに当たります。それらが自分の付加価値となっており、自分があまり自覚しないままに頼みとしていた後ろ盾である世のもの(仕事と所属機関)を失ったことで自分の保ち方を見失ったのです。仕事への依存は止められたと思っても「会社勤めをしていることで大丈夫な自分」という自我同一性を持っていたようでした。言い換えますと、自分は世と世のものを心から愛していた(頼る、慕う)ことに気付かされました。そんなつもりはなかったので驚愕でした。「ええっ、まさか自分が」とも思いましたがそれは傲慢でした。世の中一般の感覚ではそれはある意味においてはありうることと考えられるかもしれません。しかし、それでは会社に所属していないと生きられない自分という奴隷状態でもあります。自分はしっかりと世俗的な人間で、世の価値観に染まっている自覚すらたいして持ち得ていないことに気付くことになりました。過去記事で偶像崇拝について散々に言及しましたが当の自分がそこから抜け出せておりませんでした。会社勤めを辞める前の自分はおそらく「会社勤めをして、仕事をしていることで安心している自分」と「主イエスにより頼むことで安心している自分」との二つが併存していたと思います。

 

 

マタイによる福音書 六章二十四節(私訳)

誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎み、他方を愛し、または一方への固守をし、他方への軽蔑をするだろうからだ。神と富に仕えることはできない。 

 

今回の手前の場合は「会社勤めの仕事で安心している自分」と「主イエスにより頼むことで安心している自分」が聖句にある「神と富」の対比に当てはまります。良いとこ取りをしているようであり、二心のようでもあります。突き詰めると世俗の事柄でしかない「会社勤めをしていることでの安心」など不確かなものでしか無く会社が無くなったり別な事情で離職してしまったらそれまでです。また、仕事を優先していれば必ずや主の掟と両立し得ない課題に直面します。それは『不釣りな合い軛(コリント二 六章十四節)』でありどうしても両立できないものです。言い方は悪いかもしれませんが「二股」のようです。聖書では主以外に頼ること(偶像崇拝)を「姦淫」に例えておりますからあながち間違いではないかもしれません。

 

ヨハネの手紙一 二章十五節から十七節 (ミカエル氏訳)

『真の聖書福音と預言:支配層に取り込まれるな​​​​』より引用

世を愛してはならず、世にあるものも愛してはあきません。もし誰かが世を愛するならば、御父の愛はその人の内にありません。なぜなら、世にあるすべてのもの、肉の欲、目の欲、生活様式の誇示は、御父からではなく世からだからです。そして、世と世にある欲は消滅します。しかし、神の御意志を行う人は永遠に生きます。

 

テモテへの手紙一 六章七節から八節(私訳)

我らは何もなく地へやって来て、明らかに我らは少しも持っていくこともできないからです。食物と衣類があれば、我らはこれらに満たされるでしょう。

 

マタイによる福音書二十二章三十七節(ミカエル氏訳)

『真の聖書福音と預言(第五回 ほんまもんの愛と暦とは:動画 ほんまもんの愛と暦とは)』より引用

あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。

 

マタイによる福音書六章三十三節から三十四節(私訳)

お前たちは先ず神の国と神の義を追い求めなさい。これら全てはお前たちに付け加えられるだろう。だから、お前たちは明日について案ずるな。明日は明日自身がこの事を案ずるだろう。その一日は一日の苦労で充分である。

 

この世の中で生きるためには必要なものは確かにあります。それも罪を犯さない範囲においてです。しかし、自分を満たして安心させるために世のもの(ここでは社会的安定や地位等)を慕い求めるのは世を愛することであり偶像崇拝です。主に従うものを養われる主イエスを知っていたのであれば世からでは無く必要の一切を与えてくれる主だけに頼るはずです。上記のヨハネの手紙一 二章十五節から十七節の聖句とは真逆に自分は世のものを愛して頼っていたのだと思います。「世を愛する」とはこういう状況を指すのかととてもよく理解できました。今回は世にあるものからの安心を得られなくなって不安に陥りました。しかし、本当の安心を与えて生かしてくださるのは神であり、世と世にあるものに頼る心を捨て、全身全霊で神を愛すれば良いのです。その結果として神が必要なものを与えてくださるのだと思います。勿論、そのようにできるようになるためには相応の鍛錬の過程を経なければ、そう簡単には変わり得ないとも思います。

 

ちなみに、退職した後の心が落ち着かない時期であっても、必死になって祈ったり、聖句にふれたり、神を想う時、聖書を調べたりしている時は不思議と気持ちが和んで安心することに直ぐに気付きました。繰り返しになりますが、これは自分が相入れない二つの土台に依って立っていたことが問題で主イエスひとつにだけ依って立てば大丈夫なのだいうことです。勿論、気付いて即座にこれまで染み付いたものを完全に振り切れたわけではありませんが比較的早期に精神は安定に向かっていきました。ふと、神の導きで約束の地への向かったアブラハムや全てを捨てて主イエスに従った使徒たちの凄さに思い至りました。行いが伴う信仰は偉大です。簡単なことではないから余計にそう思います。

 

マタイによる福音書 五章四十八節(私訳)

だから、各天の御父が完全であるのと同じように、お前たちは完全になるであろう。 

 

正直、「完全」というのは厳しく大変であると思います。しかし、完全ではない「程々」の状況のもたらしたものが今回の出来事です。「程々」とはとても便利な言葉で、見ようによっては良い状態もあると肯定的に捉えることもできますが、反面に悪い状態や不完全さも同様にあって中途半端です。まさに「熱くも冷たくもなく生温い(黙示録三章十六節)」の状態です。また、聖書で「パン種」は悪い意味で使われておりますが『パン種が練り粉全体を膨らませる(ガラテヤ五章九節)』ように、不出来・半端さが本来の良いものを駆逐したり、安易な妥協をもたらして却って以前より悪い状態になるのだとしたらそれは本末転倒です。ちなみにこの箇所の聖句はミカエル氏の動画(引用『真の聖書福音と預言:第五回 ほんまもんの愛と暦とは:動画     BitChute』)の三十三分台の内容にあるように『古代ギリシャ語では未来形であり一般の日本語聖書にあるような命令形ではない』に同じでして、命令形ではなく未来形でした。これも強制してすることではなく自然と神を愛する中で為されるものだと手前も思いました。

 

ペトロの手紙二 二章二十節から二十一節(ミカエル氏訳)

『真の聖書福音と預言(動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編:動画 正しい聖書の底本とは)』より引用

もし主の知識と救い主イエス・キリストによって世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされたなら、そないな者たちの後の状態は、初めより悪くなるからや。義の道を知った後で彼らに伝えられた聖なる掟から後戻りするよりは義の道を知らんかった方が彼らにとって良かったやろに。

 

上記にあるように信仰から脱落したら前より悪くなるとあります。信仰者と言えども安泰が保障されているわけもなく、『賞を得るように走り通す(コリント一 九章二十四節)』ことが求められております。裏を返せば、常に打ち負かされたり脱落する危険と隣り合わせでありしっかりと『自分の心を守らなければ(箴言 四章二節)』なりません。だから主イエスは「程々に」とは言わずに「完全」と言われたのだろうなと思いました。下手に妥協したりするとその癖がついたり、これまで励んできた分「箍(たが)が緩む」ように一気に崩れることを自分についても懸念します。

 

 

🔵結び

今回の経験を通じて自分が如何に主イエスにではなく世と世にあるもので自分を支えていたかを思い知りました。やはり頭で知るだけでは不十分で、自分の場合はこのように突きつけられて心で受け止めて初めて理解できました。世と世のものとは決別したつもりでいたと思っていただけに愕然としました。今回は、初心に立ち返って自分は何者であるのか、どんな状況であるのか、何をなすべきかをもう一度考えました。自分は神に造られた存在でこの地上の生涯で主に聞き従うことを問われております。何より主イエスの天地創造と救いと諸々の真理の素晴らしさに勝りうる世のものはありません。だから主に聞き従うことを邪魔する世のもの、あるいは違法になりうる世のものは単純に捨てることで良いのだと思います。ただ何分に、世の価値観とは相反するのでこれまで生きて来た時間が長いほどに葛藤は存在します。だからこそ打ち負かされてはいけないのだと思います。だからこそ神への愛がないとやれないのだと思います。だからこそ聖霊をいただいて(神の助けをいただいて)でなければ為し得ないのだと思います。できる限りの自分の選択と自分の行動をするまでです。

 

世を捨てる(世の価値観や金銭欲、名誉欲、その他律法や主イエスの教えに反することを潔く捨てる)とは言葉でも観念でもなく行いであることが確認できました。自分は主イエスを一番にする生活をするのだと、そのために無益に消耗する世俗の生き方から離れたことを今一度に確認する機会となりました。これは自分には必要な時間であったと思います。ただ、神にだけ従うとは何と奥が深く、難しいことだろうかと思いました。真の信仰とは『狭い門(マタイ 七章十三節)』であるといわれていることは真実であるとここからも感じました。また、今回はまだ些細な出来事ではありましたが以下の聖句にもその通りであると実感しました。

 

ヘブライ人への手紙 十二章十一節(私訳)

それぞれ鍛錬(懲らしめ)は実にその時は喜ばしいことではなく悲しいことのように思われる。しかし、後にそれによってお前たちに鍛えられた平和な義の成果を出す。

 

 非常に僭越ではありますが出エジプト記の話に自分を重ねました。エジプトで重労働を強いられながらもまずまず安定して生活をできていた古代イスラエルの民は自分に似ていると思いました。神のキリスト者であることを目指して会社勤めを辞めてる様はエジプトを出ることにも似ていて、また、荒野での生活に不平不満をこぼしたりエジプトでの生活を回顧したりする様は前のように仕事をしたらばと思ってしまった自分と同じです。そして牛の鋳像を造って偶像礼拝をすることは世の価値観に縋った自分にも似ています。どうしても自分が慣れ親しんだ世の価値観がわかりやすくて目についてしまうのです。そう考えると聖書の登場人物の人間模様がとても身近に感じますし、さまざまな失敗や肉の弱さの性質は昔も今も同じですし、歴史書としての聖書から各々がどう生きるかを学ぶことができます。

 

レビ記 二十六章十三節(私訳)

我はお前たちの神、主である。我はお前たちを奴隷にされていたエジプトの地から連れ出した。我はお前たちの軛の縛りを砕き、お前たちを真っ直ぐに歩かせた。

 

神以外のもの、つまり世と世のものに頼ることはその不確かさ故に大なり小なり必ずや喪失を伴うものであると思います。その喪失の度合いによって自分の首を絞めることになりますし、常に首に軛(くびき)を負うた状態であろうと思います。そして抜け出すことが段々と困難になって来ます。先に挙げたマタイによる福音書二十二章三十七節から四十節にあるように全身全霊で神に従う時、喪失のない真の充足が神から与えられるはずです。つまりは『寄らば大樹の陰』ではなく『寄らば主イエス』です。そして『奴隷の軛に二度とつながれてはならない(ガラテヤ五章一節)』のです。

 

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。ご覧いただいた方に何かしらの参考となれば幸いです。