みなさんこんにちは。

本日もこのブログに目を通していただきありがとうございます。

ブログに目を通すと言う行為は、時間を割いて、文字を読んで理解して、実はかなりの労力を要するものと思います。ですから、ご覧いただ皆様にとって何かしらの有益なものになるようにと思わずにはいられません。

今回は「仕事を自らの拠り所とする愚」と題して投稿いたします。

 

🔵有限な時間と世の時の終わり

本題に入る前に、以下のミカエル氏のブログや教会での学びを踏まえて記させていただきます。

 

ヨハネの黙示録 二章十節(教会共同検討訳)

あなたが苦しむいかなることを恐れてはいけない。見よ、悪魔はあなたがたの何人かを牢に投げ込む。そのことであなたがたは試されるだろう。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

 

『民数記十四章三十四節とエゼキエル書四章六節で書かれているとおり、一日を一年と解釈する方法があります。この解釈方法は、象徴が多用される黙示的預言に対してのみ適用されることを覚えておいてください。』

出典:真の聖書福音と預言「聖書預言の正しい解釈方法」

 

上記にあるように世の終わりのことを書かれたヨハネの黙示録には、終わりの艱難の時が十年(十日×一年)とあります。更には下記より人間の歴史時間は六千年という事も聖書から導き出すことができます。

 

『私が考えるのは、人類歴史とこの世界は、天地創造から六千年でキリストの再臨をもって幕を閉じ、その後の第七の日は安息の期間、即ち、神が厳選して新生した人間だけが集められ、新しい天と新しい地の世界で、神とともに安息にあずかるということです。新しい天と新しい地では、「(神は)彼らの目の涙を残らず拭い去るだろう。もはや死も悲しみも泣く事もなく、もはや苦痛もないだろう。最初のものは消えて無くなったからである。」(黙示録二十一章四節※この聖句のみ拙訳)とあり、安息の様相が明らかです。したがって、黙示録二十章の「千年」は一日であり、それを六回言及することで、この世の歴史が六千年であることを表しているのです。』

出典:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」

 

また、以下は同じブログの箇所より二千三十一年頃にはキリストの再臨(世の終わり)があるかもしれないと言及があります。手前は聖書とその学びからこれを初めて知りました。ここでは結論部分のみ載せさせていただくこととして内容についてはリンクをごらんになってください。

 

旧約聖書 ホセア書 六章二節(新共同訳)

二日の後、主は我々を生かし

三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。 

 

私は、この聖句を読んで、以下のように解釈します。

上述のとおり、神にとって千年は一日なので、二日は二千年を指します。主イエスの十字架によって、我々の罪を贖ってくださり、罪の奴隷から解放されて”生きる”ことができます。即ち、主イエスの十字架から二千年が過ぎる頃にキリストの再臨があり、この世はすべて滅び去って、三日目以降、立ち上がるとは復活を指し、キリストの再臨前に眠りについた真のクリスチャンが復活し、新しい天と新しい地での生活が始まり、主の御前で生きていくということです。この聖句で四日目以降がないことから、三日目以降は永遠だということであり、即ち、新しい天と新しい地の世界を暗示しています。主イエスの十字架から二千年後ということは、過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」で説明したように、十字架があったのは三十一年頃ですから、その二千年後にあたる二千三十一年頃にはキリストの再臨があるかもしれないということです。

 

二千十五年に改定された国連のアジェンダ21に則って、二千三十年までにNWO支配層は現世界人口約七十億人から九十五%を削減して五億人以下にしようと現在も人口削減を実行中です。これも時期としては奇妙な一致を見ることができます。二千三十一年より前の二千三十年までに世界規模で悪の体制を確立することがNWO支配層の目標なのです。

出典:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」

 

そして、以下の聖句から死んだ後に行いに応じて裁かれるとありますから、生きている間にどう過ごすかということが大事になります。目的を知らずに、無為に怠惰に過ごしてはいけませんし、何より神に申し開きができるようでなければいけません。

 

ヘブライ人への手紙 九章二十七節(拙訳)

また、人には一度だけ死ぬことと、この後に裁き(最後の審判)が待ち受ける故に、

 

ペトロの手紙一 一章十七節(拙訳)

また、お前たちは各々の業(行い)に応じて公平に裁かれる方を父と呼ぶのであるから、お前の寄留の時を畏敬の念を持って歩まれるようにしなさい。 

 

ペトロの手紙一 四章五節 (拙訳)

彼らは、生きている者と死んだ者を直ちに裁こうとしておられる方に申し開きをするだろう。 

 

長い冒頭の言葉になりましたがここでお伝えしたかったことは、この世の存在する時は限られており、人の生きている時も限られており、今は世の終わりの時にあり、死んだ後には裁生きている時の行いに応じて裁かれるのですから、各々が悔いのないように為すべきことをなさいますように、と言うことです。

手前は、ミカエルさんのブログや教会での学びを通して上記を知りました。先般の手前のブログ記事の証しで示したように、手前はそういった真の理を知らずに生きてきました。しかし、いち個人が知っていようと知っていまいとそのようになっているし、世の法律が同様に知っているか否かに拘らず法の管轄下にある者に適用されるように、皆が等しくその神の創造の秩序の下にあるのです。

聖書真理を知らないということは恐ろしいことです。世の価値観のほとんどは聖書真理に基づきませんから神の定める基準から逸脱して図らずもそのように生きてしまいますし、目先のことばかりに囚われて大事なことは見ないで生きてしまいます。本来の枠組みを知らないわけですからどこまでも的を外すことを繰り返し、それは彷徨うが如しです。皆、それぞれが自分の目には良いと思うことや自分が欲することを追求することが正しいと思って生きています。あるいは、そうせざるを得なく日々の成り行きに邁進しているかもしれません。手前もかつてはそうでした。

 

🔵仕事人間であった自分(証し)

前回のブログで自分のことを証しさせていただきました。基本的に、自分に価値を見出せずに、自分に自信がない性分であったことから地上のキリスト教会に救いを求めたものの、正しい聖書真理に知るに至らず、結局は地上の教会にも躓いたという経過です。

手前は自分に自信がないからこそ、仕事を頑張ると言うことで自分に価値を見出そうとしました。

 

十八歳の進路

手前は高校生の時に今自分が就いている仕事をしたいという思いを抱き、進学し、その職に就きました。(職の詳細は割愛させていただきます)

自分に自信がなく、主体性とか自分らしさを表せない自分が高校生の時に唯一、この道に進みたいと表明できました。通常、進路というものは悩むものだと思います。人生経験の浅い十八歳の身空でこれから何をするかと言われてもわからないのではないかと思います。また、必要以上に自己実現を求められたり、あなたは何をしたいのかとひたすら問われますし、職業とか進路の選択がそのまま自分の評価になったりするかもしれません。手前の場合は偶然にひとつの「これだ」と思うものに出会うことができました。たまたまでしかありませんが、自分の進路を決められたので不必要に誇らしさを感じていたことを覚えております。「自分にはやりたいことがあるんだぞ」とです。今となっては「だから何なんだ?何も成し遂げていないのではないか」と突っ込みを入れたくなりますし、傲慢でもあります。若かりし日、そうすることでしか自分に価値を見出せなかったのです。やがて大学に進学し、その道に進むための資格勉強をして、念願叶ってその仕事に就きました。

    

仕事の実際

確かにその仕事に就きたかったのではありますが、「自己実現の手段を見出している自分」を拠り所にしていた側面もあり、心構えとして不充分でした。相変わらず心の根っこが不安定であることにも変わりはありません。ただでさえそうなのに、仕事の精神的負担は相当なもので、仕事の場面の一つ一つのことに心配させられて当初の志など風前の灯火でした。自分に自信が持てなく、仕事をしている時も不安が常にある。この不安に対処するには徹底的に仕事に向き合うしかなく、極力に手を抜かずに向き合いました。また所謂、資格職でもありましたので業務以外にも自己学習し、研修にも参加しておりました。それらは週末に行われるので当然ながら安息日を遵守できてはおりませんでした。

手前は自分の能力を疑われることを過剰に恐れておりました。自分の能力を疑われることは”お前には価値が無い”と言われるに等しく、そう思われないように必死でした。あまり積極的な性分では無いのですが頼まれた仕事は必ず遂行する、依頼された分よりも少し高めの水準で応えることを信条にしておりました。そのようにして応えていくと、次の仕事、また次の仕事と舞い込んできて「あなたに任せていると安心だ」「あなたに頼めば間違いない」とそのように評価されて、期待されることが嬉しくてたまりませんでした。自分はこんなにも誰かに評価されて、必要とされているではないか、そうやって自分を支えておりましたがそのことは自覚できておりませんでした。また、そういったことを続けていくと”自分は優秀な人間なんだ” ”俺はやれるんだ”と勘違いして高慢になっていきました。単なる経験則と内省からなのですが、自信がない者ほどに高慢と卑下を行ったり来たりするような気がします。まさに不安定(安定していない)とはこのことです。

やがて、年齢も重ねるうちに勤め先でも職位が上がり、より責任の重い役割を任せられるようになりました。また資格職としての職能団体の仕事にも励み、こちらも重責を担うことになっていきました。今でこそ働き方改革が謳われておりますが以前は長時間労働は頑張っていることとの証明、自分の時間を削って励んでこそ本物であるとの認識が広くあったように思います。手前も連日に夜遅くまで仕事をして、休日も職場に行って一人仕事をしてという状態を五年以上続けておりました。自分でも薄々、こんな生活を長く続けていたらば体を壊すが心を病むか、どちらかしかないと思っておりました。上手く事が運ばれているうちは良いのですが当然にそうでないことの方が多いわけで辛さを感じて耐える時間が多かったです。そして、こんな生活を止めたいし、重い役割からも逃れたいと思いながらもそこから抜け出せずにおりました。

 

仕事依存症なのではないか

仕事の重圧に対処するためにさまざまな仕事術に関するサイトや自己啓発のビジネス書、その他社会生活上の様々な課題に対応するための対応術などの類は何でも読みあさりました。率直に無駄にお金や時間を勉強と称して費やしたと思います。そして、それらが自分に本格的な安心を与えることはありませんでした。どれもこれもが一時的な高揚感や慰めにしかならず、それらの鎮痛剤も使い続けるとやがて効かなくなります。

朝起きて、既に体がだるく、何より精神状態がよろしくない。憂鬱、不安、焦燥、苛立ち。暗い顔をして職場に行き、やることはたくさんあるから考えるより先に体を動かし仕事を”こなす”しかない。毎日に夜の二十一時前後まで仕事をして、仕事に中途半端に追われると精神がもたないからその日にやるべきことだけはきっちりと完了して帰るとなぜか帰る時だけはやり切った感が満載、その疲れの解消と自分へのご褒美と称してお酒やつまみを買って誤魔化すことを繰り返しました。それもある種の痛み止めのようであり、朝起きると効き目が切れてまた憂鬱になる・・・その繰り返しでした。こんな働き方をして年単位では持たない、体が先にやられるか精神を病むかどちらかでしかないと思いながらズルズルと時は経ってしまいました。仕事柄、精神を病んだ者たちを多数見てきたにも拘らずその連鎖から逃れられない、この螺旋から逃れられるのであれば逃れたいけど逃れると自分の存在意義が無くなる、それも怖い、そのように身動きが取れなくなっておりました。自分の意思で自分のことを決められないことは奴隷と同じです。社畜という言葉がありますが、認めたくないけど自分の思考や感情を放棄してただただ仕事をし続けると言う状態であったと思います。

ある時、「仕事依存症」という言葉があることを知りました。こちらのサイトをご参照ください。

この中の症状に自分も当てはまっております。手前が場合に顕著であったのは、手帳の予定に”空白が生じること”や”暇に感じる時間”が生じることを過度に恐れました。また、自分より忙しそうな人を見ると不安になりました。忙しく仕事をして誰かに評価してもらうことが自分の価値を確認できる唯一の手段で、自分が打ち込む対象が少なくなればなるほど自分の存在意義がないと感じて心が曇り、また騒ついておりました。今振り返ると”病んでいる”と感じます。恐ろしいのは薄々おかしいと思っても抜け出せないでいることです。

また、家族と関わる時間が減り、たまに週末を自宅で過ごすと「どうして今日は家にいるの?」と家族に言われる有り様でした。一般的な世の中の動向を新聞等で拾っても全く頭に入らず、仕事と職場のことしか考えられておりませんでした。

唐突ですが、手前は農家の倅で自然に恵まれたところで生まれ育ちました。春の陽気と匂い、初夏には田の蛙の賑やかな声、盛夏の日差しと蝉の声、秋の麗しき稲の香り、冬の雪化粧、こういった四季を五感で感じながら生きてきました。いつからか、そういった季節を認識することも無くなっていたことに気づきました。

 

メメント・モリ

メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味の警句

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

聖書に関連する内容のものではないのですが、ある時にこの言葉が目に止まりました。

今日は良くても明日に自分がどうなっているのかわからない(死ぬかもしれない)のであれば、今のこの生き方や過ごし方はこれで良いのだろうかと思わずにはいられませんでした。ある時、勤め先の自分と同年代の方が突然死しました。仕事の志を共有し、職業人としてどうあるべきかを語り合った間柄でした。地域社会にも貢献できていた素晴らしい方でしたが突然に亡くなって終わりを迎えた事に呆然とした思いでした。「自分の使命に出会って走り続けてきたからいつ死んでも悔いはない」と生前に彼は言っておりました。しかし、何だか腑に落ちない感覚がありました。自分が全身全霊に打ち込める対象を見つけられること自体に幸いという要素は確かにあるかもしれません。しかし、それで早死にして良いはずがないですし、”本当にそれでよかったの?”と思わずにおれませんでした。死者に鞭打つつもりはありませんが、”自分がこんな風に死んだらば、自分の生きた事の意味を感じることはできない”と思いました。

 

The Top Five Regrets of the Dying(死ぬ瞬間の5つの後悔)

これはメメント・モリに通じるものがあると思います。終末期ケアに携わり、患者が亡くなる前の数週間をともに過ごすオーストラリア人看護師のBronnie Ware(ブロニー・ウェア)氏。彼女によれば、ほとんどの人は死の間際に人生を振り返り「後悔や反省」の言葉を残すといいます。彼女はその時に聞いた患者たちの言葉を、ブログで記録し、一冊の本『The Top Five Regrets of the Dying(死ぬ瞬間の5つの後悔)』にまとめました。

1. 人の期待に添うのではなく、もっと自分が望むように生きるべきだった

2. あんなに一所懸命働かなければよかった

3. もっと自分の感情を表に出すべきだった

4. もっと友達を大切にすればよかった

5. 自分をもっと幸せにしてあげるべきだった

引用:TravelPress『人生の最期に患者たちが語った、死ぬ間際にもっとも後悔する5つのこと』

 

これもまさに自分に当てはまる内容です。結局のところ、仕事というものにたくさんの経験をさせてもらったとは思いますが、それが自分を真に幸福にはしなかったし、真に生かすこともなかったと思います。かつて読んだ某小説の一文に「仕事は人生の質に直結する」とあったことを記憶しておりますし、当時は影響を受け、その通りと思いましたがそれは仕事を人生の軸に据えた生き方でしかありません。仕事とは人生であるとすることに疑問を覚えていきました。何より苦しくて”もうこれ以上は頑張れないよ!”と心は悲鳴を上げておりました。

 

🔵聖書真理に出会って

前回記事に同じになるのですが、ミカエルさんのブログに出会い、真の聖書真理を知るに至りました。聖書真理が”根本的な信念”と”霊的な強さ”を与えてくださり、仕事に対してさも神であるかのように助けを慕い求めるのは偶像に他ならず、それに気付き手前は悔い改めました。

 

レビ記十九章四節 (拙訳)

お前たちは偶像を仰ぎ見てはいけないし、神々の鋳物をお前たちの為に造ってはいけない。我はお前たちの神、主である。

 

偶像:あこがれや崇拝の対象となるもの(出典 コトバンク 小学館 デジタル大辞泉)

 

その最中には分かってはいても辞められなかった仕事中心でしたが、やっとこのように思えるようになりました。

”もう、仕事を頑張ることで自分の存在意義を出す必要はない”

”もう、そんなに頑張る必要はない”

”そもそも、お前の力の向ける所はそこではない”

仕事依存症になってしまった精神構造にも問題がありますが、単純に「忙しい」という状態はよろしくありません。聞いた話ですが「忙」の文字は”心”が”亡ぶ”という意味で構成されているそうです。その通りで、余裕がなければ自分の置かれている世の動向におかしいと気づくことはできませんし、余裕がなければ聖書を手にして読んで理解することもままなりません。更には主イエスがお命じになられた神を愛することと隣人を愛することは、それをするだけの意思と体力と時間があってこそだと思います。

 

最終的に、冒頭の「有限な時間と世の時の終わり」に繋がるのですが、全てが有限であるからこそ、間違った対象にのめり込んで無闇矢鱈に時間と労力を費やしてはいけません。世の価値観から解放されて真の聖書理解に至れば、それが間違っていることに気づきますからもっと気楽に生きられるはずです。仕事を頑張っていなければ自分に価値はないと苦しめているのは間違った思い込み、虚像でしかなく、もっと違う生き方ができるのです。

 

🔵結び

手前は以下の聖句箇所が教訓に満ちて大好きです。

言葉通りに”お前の創造主を心に留めよです。自分の考えとしては早い内が好ましいのではないかと思うのですが、何事にも時があると聖書の別の箇所に書いてありますから、主がお招き下さったその機会を逸せずに、頑なにならずに受け入れてほしいと思います。

”恐れる”ではなく、敬い身を慎むの意味である”畏れ”であることが言い得て妙であり、そして肝心なのが”その戒めを守れ”です。主イエスを信じ受け入れるだけではなく、”行いに応じて裁かれる”とあるのですからその戒め(神の律法・掟・戒め)を守ったかどうかが死後に問われます。

 

コヘレトの言葉十二章一節(拙訳)

お前の青年時代の日々に、お前の創り主を心に留めておきなさい。苦悩の日々が来ない間に。「我にそれら(年を重ねること)の喜びはない」とお前が言う年齢に達しない間に。

 

コヘレトの言葉十二章十二節(拙訳)

彼が聞かれた万物の事柄の結末。「お前は神を畏れ敬い、その掟を守れ。」これが人の(本分の)全てだからである。

 

あなたの大切なその生きている時間を、あなたの神以外のために費やして良いでしょうか。そうではないはずです。自己実現も仕事の楽しさもあっても良いですがそれが人生の目的にはならないようにしなければいけません。それに惑わされる位ならば、いっそのこと距離を取った方が良いと思います。

手前は仕事を目的にして生きることは辞めました。重責も手放しました。もはや、これまでのように仕事をする理由が消失しましたし、ただ主がお命じになられたように生きるのに支障のない範囲の仕事であるようにと位置付け直しました。

 

またミカエルさんのブログにも多数、仕事に関わる言及があり、以下は戒めて導いてくださった手前の好きな箇所の引用です。

 

この世の富や社会的地位を得ようと多くの時間や労力を世俗の仕事や投資等につぎ込むのはキリスト者としては間違っているし、この世の娯楽や快楽にうつつを抜かすのも間違いです。(出典:真の聖書福音と預言「聖霊の働きの確証」)

 

仕事はこの世の糧を得るのに必要最小限にし、社畜のように会社等に飼われて依存し、仕事第一人間になってはいけません。「仕事だから」を理由に何でもかんでも許容してはいけません。仕事を最優先にすれば、父なる神と御子イエスを蔑ろにし、安息日をはじめとする神の律法を蔑ろにし、家族や隣人を蔑ろにし、自己中心的に生きて、最後には滅びるのです。(出典:真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」)

 

世間で人から尊敬される仕事をしたり、大学や大学院等で学問を修めて学歴や肩書きを得ても自慢にもなりませんし、学歴や職業で人を判断したり差別する人は恥ずべき人間です。(出典:真の聖書福音と預言「主イエスを模範として従う生活」)

 

神に反する存在であるサタンやその勢力であり悪魔崇拝者の支配層は、人々が聖書真理に気づかないように世の中を欺瞞に塗り固め、娯楽や仕事にとたくさんの目眩しを施しております。今や、手前のように遠回りしている時間は無くなってきているとお見受けします。ですからたくさんの”まやかし”に気付いて、それから逃れて、できる限りに最短に聖書真理にたどり着いてください。我らの肉体の命はこの”(地上に)寄留する時”のものですし、”(神に)畏敬の念を持って歩まれるように”と書いてありますからそのようにしようではありませんか。

 

最後までお読みいただきまして誠にありがとうございました。