こんにちは。

昨今、政府の目に余る醜態が止むことなく繰り広げられております。政府だけではなく、それを許す国民の堕落も深刻です。それは歴史上、見られてきた国が滅ぶ時の様相そのものではないかと思います。悪徳政府は憲法を尊重擁護せず、新世界秩序構築に向けた再編を最優先しており、やがて我らが見知ったこの社会の形が根本的に改悪されて、全く異なった暗黒社会に変貌を遂げる岐路に今はあります。聖書の預言通り、不穏な状況が起き始め、社会的にも、また、個々が精神的にも揺り動かされている時だと思います。今回は、「苦難に解決はある」と題して、この不安定で切羽詰まった中にあっても、背水の陣で挑むべき真に価値あることについて、苦難に対する真の解決について述べて参ります。

 

まず、題名にある「苦難」について定義したいと思います。この記事においては二つの意味を想定しております。

一つは、この世を支配する悪しき者(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)の下にあって、不正義が横行し、その影響を受けることへの苦痛です。一例として、コロナ犯罪があります。殺人者と化した政府や報道機関等に惑わされて接種した者、中には強制された者もおり、その結果として死亡したり、心身に故障を抱える事態が多数発生しております。また、接種者を媒介して、未接種者にも体調不良を来すなど最悪の大量殺人兵器と言えます。こちら(X)の通り、日本では超過死亡が四十万人を超え、世界的にも千三百万人が亡くなったとされ、これは大量虐殺です。それにも拘らず、日本の報道機関はこれを報じず、Xの「ノート」では「後遺症を裏付ける科学的根拠はありません」などと平気で「問題が無い」と主張する有り様です。かつて河野太郎氏が「ワクチン接種で死んだ者は居ない」と発言しましたが、こちら(X)の国会答弁では、「あくまで当時の資料に基づく」とだけ吐き捨てるように言い放ち、おおよそ被害者への思いやりも労りもない、悪魔のような返答をしております。これほどの悪(不正義)が裁かれず、今も尚、この悪が闊歩する現実を見るのは、苦痛以外の何者でもないと思います。当然、これだけでなく、真の聖書福音と預言「日本人の問題」の一連の記事で貧困、就労、税等のあらゆる生活環境が悪化させられ、生き辛くなった日本社会の実態が詳かにされている通りです。これらを野放しにしている国民の問題もありますが、巨悪によってもたらされているのは、肉体的、精神的、社会的な苦難です。

二つ目は、神への忠実(神の律法、掟、戒めを守ること)が阻害されたり、反キリスト行為が横行することへの霊的苦痛です。主イエスと新しい契約を結べば、心に律法が刻まれます(ヘブライ人への手紙十章十六節参照)。それ故、律法違犯に対して、非常に大きな苦痛を感じます。実際には、世の誘惑に遭い肉の欲を刺激されたり、世の多数派にくみせずに真っ直ぐな道を歩くことで様々な妨害や抵抗を受けることがあります。現実には、これらとの戦いが常に待ち受けます。それにも拘らず、世の「キリスト者」、つまりはカトリックやプロテスタント等、キリストの名を語るパウロ教カルトは律法廃止論を唱えるため、そもそもこのような霊的苦痛を感じません。彼らが世に蔓延っているため、真に聖書に依拠した福音が知られておらず、偽福音だらけのこの嘆かわしい状況にも苦痛を感じざるを得ません。日本は古代イスラエルを受け継ぐ国です。しかし、多くの日本人は日本国内にあるヘブライ文化の名残を認識せず(参照:真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである)、むしろ偶像崇拝(宗教、拝金主義等)が極まり、西洋化し、正義心も愛も欠如し、堕落しきっております。在るべき姿を認識せず、在るべき姿から著しく乖離している状況は、嘆かわしい限りです。房付き和服が古代イスラエルの服装であることや和食、日本語などの日本らしさ、武士道に見る高潔な日本人の生き方等は、聖書にある神の律法、掟、戒めを守る等のヘブライ文化と繋がっております。これら、これまで誰も語ることの無かった内容をミカエル氏は伝道してくださいました。これはまさに世の終わり際に宣べ伝えられた救いをもたらす福音です。しかし、ノアの時と同様に、聞く耳の有る者は非常に少なく、殆どが異邦人の道(キリストの教えに留まらない道)が正しいと信じて、正しくないもの(真理以外の嘘)に従う多数派を形成しております。その中にあって、真の聖書福音という信念に固く立ち続けるためには、勇気が求められ、キリスト者としてのたゆまぬ努力も不可欠です。信仰のためには軋轢も厭わない行動が求められ、そこに摩擦が生じます。例えば、人の目を恐れたり、これまでの暮らしや生き方を捨てられないようであれば、神の律法、掟、戒めを守るのは困難です。「信じれば救われる」とは、主イエスの教えに反した嘘であり、実際には神の義(律法等に対する適法)を懸けた戦いがあり、それが損なわれることに何も感じないようであれば話になりません。近い将来、主イエスの名のために、キリスト者はあらゆる民に憎まれるようになる(マタイによる福音書二十四章九節参照)と予告されております。それでも尚、神に従い通すかが試されますが真のキリスト者ならば、神の律法、掟、戒めを守ることに喜びを感じるはずです。逆に、守れないことに苦痛を感じるはずです。世との妥協はあり得ず、最期までこの戦いは続きます。神を愛するが故に神の掟を守る、これがキリスト者をキリスト者たらしめる矜持です。

 

<腐敗、堕落を極める世>

イザヤ書五十六章九節から十二節に、新共同訳では「神を畏れぬ者」と副題が入れられております。そこでは、神が教えてくれた道に歩まず、むしろ私利私欲に塗れて堕落した国家の様相が書かれており、自らの状況を認識出来ない状況は、前後不覚の状態と言っても過言ではないと思います。

 

イザヤ書五十六章九節から十二節(参照)

野の全ての獣らよ、森の全ての獣らよ、食べに来るがよい。見張りは盲目で彼らは皆、何も悟らず、物言わぬ犬である。彼らは吠えず、伏して眠り、まどろみを愛する。この犬どもは強欲で飽くことがなく、彼らは皆、自分の持ち場からそれぞれが自分の利益のために自分の道を離れる自覚無き羊飼いである。「さあ、来なさい。我はぶどう酒を持ってこよう。そして、我らは強い酒をたらふく飲もう。明日は今日と同じように、もっと素晴らしくなるだろう。」

 

「見張り」とは、エゼキエル書三十三章に「見張りの務め」のことが書かれているように、「角笛を吹き鳴らして警告する者(エゼキエル書三十三章三節参照)」です。また、上記のイザヤ書五十六章十一節にあるように、本来は羊飼い、民を導く立場の者です。それが民に対して何の警告もせず、本来の役割を果たさず、自分たちの利益しか考えず、さながら今の政治そのものに映ります。

 

自民党の裏金問題の報道について、本来であれば、主導した議員の辞職は元より、自民党総裁である総理も責任を取るのが筋だと思いますが、当事者たちが何ら悪びれることもなく、責任もとらず、こちら(X)のような厚かましい発言をしたり、当事者である松野前官房長官に対する不信任決議が否決されるや否や、薄ら笑いを浮かべたりする始末です(参照:X)。この間の政府の低落からも「強欲で飽くことがなく、彼らは皆、自分の持ち場からそれぞれが自分の利益のために自分の道を離れる」とは、決して誇張ではなく、事実そのままです。

 

そして、太陽暦一月一日に石川県で人工地震が起こされました。地震について、建物の下敷きになっている方が太陽暦一月五日時点ですら百人以上いると報じられております(参照:毎日新聞)。しかし、政府はこちら(フォーカス台湾)の通り、台湾の救助隊の派遣申し出を断りました。こちら(中日スポーツ)では、『台湾の救助隊が日本にこれても道やら地形が崩れてて被災地に入れない可能性が高いんよ 台湾には感謝を述べつつ断るのは妥当なんよ』といった意見を紹介し、政府の決定を擁護しておりますが、こちら(BBC NEWS JAPAN)では英国放送記者が輪島市に(救助隊と規模は違えど)辿り着いております。生存率が低下する災害発生の七十二時間より前の初動こそ集中的に支援に当たるべきだったと思います。『支援のニーズがない』と外務省は返答したそうですが、そんなはずがなく、政府の返答には非常に疑問があります。むしろ、助ける気がないのだと思います。その一方で、在日米軍と協力(日経新聞)はするようであり、穿った見方かも知れませんが台湾有事を見越しての訓練の意味合いがあるのではないかと思いました。そして、SNSでは、これらの裏で憲法改悪が進められることへの懸念の声が多数あり、その通りなのだと思います。また、その他の重要案件、例えばワクチン死についても、問題から今は目を逸らされており、危険な状態だと思います。

 

 

増税問題、政府の少子化促進政策の数々からも『指導者が知性を欠いてると、多大な圧迫がある。(箴言二十八章十六節:引用 真の聖書福音と預言「日本人の問題点 二」)』の状態となっていることがよく分かります。他にも、イザヤ書五十六章十二節の『明日は今日と同じように、もっと素晴らしくなるだろう。』の言葉は、岸田総理が口にした『コロナ禍を乗り越えてだんだん元気になっていく日本を強く感じた。明日は必ず今日より良くなる、こうした日本をつくっていきたい(引用:朝日新聞)』とも似ております。現実を見ずに、自らが国を破壊しながら、根拠も無く「良くなる」と、平気でこのような白々しい発言が出てくることに激しい怒りを覚えます。このことに国民は大いに怒り、抗議するべきです。イザヤ書五十六章九節の冒頭にある『חַיְתוֹ(獣)』は、野生の獣だけではなく、生きている者、もっと言えば人間、群衆をも表すようです。『לֶאֱכֹל(食べる)』は、ただ単に食べるだけではなく、「貪る」「使い果たす」「焼き尽くす」「滅ぼす」の意味もあります。また、『חַיְתוֹ(獣)』は領地の外の「野」と「森」からやって来ることから、外国人が流入(移民受け入れ等)ではないかと思います。更に、『כֶּלֶב(犬)』には、「攻撃する」、比喩的に「男娼」の意味もあり、自国民を攻撃し、自国を売る売国奴そのものを実に的確に言い表していると思います。また、「神に従う人は家畜の求めるものすら知っていると言うのに、神に逆らう者の憐れみは残酷である(箴言十二章十節参照)」という聖句がありますが、その通りでもあると思います。この世の悪の一端である為政者は、その振る舞いの故に神に逆らう者であるのは間違いありません。そして、今回の地震においても、東日本大震災に比べて後手に回り、貧弱な支援しか出来ていない様(参照:X)は「神に逆らう者の憐れみは残酷」と言われている通りだと思います。

 

こちら(東京新聞)では、二千二十二年の日本の名目国内総生産(GDP)が先進国七カ国で最下位であったと、日本経済の低落を伝えております。こちら(年中ハッピー!くらしに役立つ便利手帳)では、『若い頃から欲しいものは頑張って買っていた私でも、もう購買意欲が無いです。今の私の生活水準に合わせないと苦しくなります』『物価や税金は上がるのに、給料が全くあがらなくて困っています。1年で1500円しか給料が上がらない国が経済成長できるとは思えない。(略)国会議員の給料だけが世界トップクラスなのはいかがなものかと。増税する前に議員定数を少しでも減らしたら?』といった声が紹介されております。日本の一人当たりのGDPが増えない要因に、二千年代初頭に人件費の安い支那に日本の大企業が投資するようになったことや、非正規雇用者が増えたことが要因のようです。『カナダの大学の経済学で取り上げられたそうだ。日本の貧困者は薬物もやらず、犯罪者の家族でもなく移民でもない。教育水準が低いわけでもなく、怠惰でもなく、勤勉で労働時間も長く、スキルが低いわけでもない。世界的にも例の無い、完全な「政策のミス」による貧困だと。』との見解が伝えられておりますが、厳密には、政策の失敗ではなく、故意です。そうでなければここまで低落しないはずです。故に、もっと政府に怒り、是正を要求するべきです。

 

 

一方、「以前の日々の方が良かったのではないかと言うな。これは賢い問いではない。(コヘレトの言葉七章十節参照)」ということも理解するべきです。例えば、拝金主義に狂った金満のバブル景気の頃が良かったかと言えば決してそうではありません。長期的には、日本が日本らしさを失ったのは江戸末期の国家転覆(明治維新)からであり、偽天皇や偽日本人による政府が据えられたことや(参照:真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」)、先の大戦では、敵国と通じていた総大将と標的にされた大勢の国民(参照:真の聖書福音と預言「聖書に対する誤解と戦争犯罪」)がおり、着々と日本破壊が進んだそれ以降の時代も果たして良かったと言えるのか甚だ疑問です。何より、日本にある古代イスラエルの痕跡を認識せず、日本人が自らの起源を知らず、異邦人の道(聖書真理ではない教え)、即ち、あらゆる偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)の道に歩んだことが問題です。聖書に回帰しなかった損失は甚だ大きいと言わざるを得ず、現在はその結果でしかありません。

 

イザヤ書は、冒頭よりユダ王国の滅び、また、それ以降も終末の預言が繰り返し書かれております。大元を辿れば、申命記二十八章にある神の祝福と呪いの通り、神と契約を結ばれた民は、神に従えば祝福があり、そうでなければ呪いが臨むとあり、この型がイザヤ書でも見られ、また、終末においても起こります。

 

イザヤ書一章二節から七節(参照)

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。我は子らを育てた。しかし、彼らは我に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、我が民は気付かない。災いだ、罪深い国民よ、悪が甚だしい民よ、悪を行う者の子孫、堕落した者たち。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。何故、お前たちは背きを重ね、尚も打たれようとするのか。頭は病み、心は弱くなる。足の裏から頭まで、健全な所は全く無い。しかし、打ち傷、あざ、生傷、それらは塞がれず、包帯を当てられず、軟膏で和らげられてもいない。お前たちの国は荒廃し、お前たちの町々は火で焼かれる。お前たちの土地は、異邦人がお前たちの目の前でそれを食い荒らし、異邦人によってひっくり返されたように荒廃している。

 

この言葉の通り、家畜ですら主(あるじ)を知り、自らを誰が養っているかを知っております。しかし、人間だけが、自らの造り主を知らず、自らの起源を知りません。自分の寿命や健康のことも分からないにも拘らず、全てを知っているかのような錯覚に陥り、自分が進みたいように好き勝手に生きております。主イエスは『「あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。」これが最も重要で大切な掟や。更に、第二は、それと同じようであり、「あんたの隣人を自分自身のように愛するようになる。」これら二つの掟にすべての律法と預言者たちが掛かってる。(マタイによる福音書二十二章三十七節から四十節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』と言われました。如何に人々がこれに反しているかが分かります。『חָטָא(罪深い)』は、「道に迷う」「非難する」「有罪判決を出す」などの意味があり、神の道(神の律法、掟、戒めを守る)から外れることを意味するのは明らかです。五節の『背きを重ね、尚も打たれようとするのか』の言葉から、呪いが臨んでおり(これから更に臨む)、本来であればそれに気付き、改心するべきです。また、『病む(חֳלִי)』の原語には、「病気」の他にも、「(社会・組織の)深刻な問題、弊害」の意味があります。更には、『רֹאשׁ(頭)』には、言葉通りの「(人体の)頭」だけではなく、社会的な意味での「長」「統治者」の意味もあり、広く社会全体が病んでいる状態の意味があるのだと思います。従来の社会の秩序がことごとく壊されて、不法がのさばる現在の無秩序状態はまさにこれに当たると思います。これだけでなく、ウイルス詐欺、気候変動詐欺など、嘘を基にしたあらゆる政策で人々の命や自由、人権を侵害して、大問題となっていることにも(それを為政者を始め、世の権威が広めている)、預言が現実となっていると思います。他にも、こちら(DISSIDENT)によるとmRNAワクチン接種を受けた人々は、ワクチンによって神経学的損傷による大きな人格変化をしていると専門家は警告しております。接種者が怒りっぽくなる、自己中心の度合いが強くなった、集中力を欠く、無気力となるなどの話が聞こえてきますが、神経学的損傷によるものと考えれば辻褄は合うと思います。こちら(NHK)では『「死にたい」と感じている子ども』がコロナ犯罪が始まる前の『1.6倍』にまで上昇しており、ただでさえワクチンで害を被っている他に、無駄な行動制限を加えた弊害は、潜在的なものも含めると甚だ大きいと言わざるを得ません。『לֵבָב(心)』の原語には、「勇気」「精神力」の意味もありますが、これが弱まる事態も既に起きていると思います。増税や憲法改悪の危険など、自身に直結することに大して声を上げるでも無く、その割にはこちら(X)のように、宝くじ売り場に六時間も並ぶ愚かな拝金主義者もおれば、一方ではこちら(News Everyday)のように『「自民党の汚職や不正を目の当たりにして、人々は非常にネガティブな気持ちになる。だが、投票してもしなくても大して変わらないと考えている」』とますます悪循環に陥っております。六節の『足の裏から頭まで、健全な所は全く無い』についても、いろいろな面が該当すると思いますが、例えばこちら(X)やこちら(ホントは?)を参照すれば、不健康に塗れて、健全な所が無い状態に陥っていると思います。「傷」に関わる原語も、それぞれ肉体的な傷の他に精神的な傷の意味もあり、『חַבּוּרָה(あざ)』には、「(恐怖のために)青ざめた」「元気がない」の意味もあり、これでもか、これでもかと攻撃されている日本の姿に重なって見えてなりません。『טָרִי(生傷)』には「化膿させる」の意味もあり、ワクチン接種者の皮膚の被害の所見(参照:X)が想起されますが、ヨハネの黙示録十六章二節では獣の刻印が打たれた者に「有害で重大な腫れ物」が生じたとあるので、これから起こることでもあるかもしれません。また、『זוּר(異邦人)』は、単に「外国人」の意味だけではなく、主たる意味は「脇に逸れる」であって、「普通ではない」「婚外性交をする(偶像崇拝)」の意味があります。これは、聖書真理を認めない道、罪の道を歩む者を指します。日本らしさ(ヘブライ文化)の対極に位置します。古代イスラエルの民が行き着いた東の島々たる日本は、今や異邦人に食い尽くされつつあります。そして、真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」の記事にあるように、異邦人(外国人)を国籍だけ日本に変えた「新しい日本人」を大量に作り、従来の日本人を滅ぼそうと目論んでおります。

 

 

イエズス会の工作員である河野太郎のこちらの発言(X)は支那国内で拡散されているそうです。これを受けて支那人が更に移住して来る可能性があります。元々、二千十五年時点で日本は既に移民受け入れ人数が世界の中で四位という状況となっております(参照:rumble)。太陽暦二千二十三年六月末時点で日本に在留する外国人は三百二十万人を超え、過去最多となりました(参照:NHK)。こちら(出入国在留管理庁)によると、支那人が七十八万人(全体の二割五分程)と、最も多いようです。前回記事でも台湾有事の危険について触れましたが、支那共産党は戦争動員法を整備して十八歳以上なら男女問わず強制的に徴兵すると定めており、これら国内にいる支那人が兵士と化し、そのまま日本が乗っ取られる危険があります。また、埼玉県川口市のクルド人による治安悪化は酷く、『騒音、改造車で暴走、たむろ、違法駐車、過積載トラック、脅迫、抗争、公園を占拠、ポイ捨て、不法滞在、違法な工事、不法就労、不法投棄、危険なナンパ、性被害。特にナンパは強引で拉致や誘拐に近いそうです。泣き寝入りする人も多い。(引用:X)』といった実態があります。こちら(東京新聞)では、群馬県大泉町が二千二十四年度から町職員の採用試験で国籍条項を撤廃し、永住権を持つ外国籍住民に門戸を開くと決定しました。外国人が更に増え、やがて外国人が日本人を凌ぐようになる懸念があります。

 

申命記二十八章十三節から十四節(参照)

今日我がお前に命じる、お前の神、主の掟を聞き、それを守り実行するなら、主は、お前を尾ではなく頭とされ、確かに、上にあり、下にはない。今日、我がお前に命じる言葉から逸れて、右に行っても左に行っても、他の神々を追ってそれらに仕えてもならない。

 

申命記二十八章四十三節から四十四節(参照)

お前の中にいる外国人(滞在者)はお前の上につく。そして、お前は低く身を落とす。

彼はお前に貸す。しかし、お前は彼に貸すことはない。彼は頭であり、お前は尾となる。

 

上段の十三節から十四節は神に従った時の祝福、下段は神に従わなかった時の呪いです。古代イスラエルも神に従わない故に、外国に滅ぼされました。今、同じようなことが繰り返されようとしております。仮に、熱心に世直しを行ったとしても、神に従わなければ、何かしらの形で呪いが臨みます。万物の主権者たる神とイスラエルの民は、「我はお前とだけこの契約を交わし、この誓いを立てるのではない。今日、我らが神、主の前にここで我らと共に立っている者と、また、今日我らと共にここにいない者も一緒である。(申命記二十九章十三節から十四節参照)」とあるように、今も尚有効だからです。だから、知らないということは損失でしかありません。「主の目はどこにでも(注がれ)悪人と善人を見つける(箴言十三章八節参照)」からです。聖書は宗教ではなく、真理であり、その預言は的中率十割、日本人こそ(但し、全員ではない)聖書に起源があるからです。

 

<神の怒りの日>

箴言十一章四節(参照)

富は怒りの日に役に立たないが、義は死から救い出す。

 

短い節ですが、この言葉に非常に重要な事柄が凝縮されております。「怒り」とは、神の激しい怒りのことです。レビ記二十六章にも、申命記と同様に神の祝福と呪いが書かれておりますが、「我は憤怒をもってお前たちに臨む。そして、確かに、我はお前たちの罪に対して、お前たちを七倍罰する。(レビ記二十六章二十八節参照)」と書かれているように、神が守るように命じられた神の律法、掟、戒めに対する違犯(罪)を神は罰すると明確に書かれております。そして、富とは、この世の富のことであり、悪魔に魂を売り、この地上に巨万の富を築いた者たち(支配層等)が想起されます。使いきれないほどの資産、社会的地位を得て、この世では天下を取っているかのように見えても、神の怒りの前には役に立ちません。なぜならば、天地を創造された神が、罪に塗れて堕落したこの天地ごと滅ぼされるからです。神が求めておられるのは正義であって、それは律法によって示された善悪の基準(倫理)に適うこと(適法、善)であって、この世の富は全く評価されません。「彼らは自分の銀を外に投げ捨て、自分の金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、彼らの銀も金も彼らを救うことが出来ない。自分の魂も満たせず、自分の腹も満たせない。それは彼らの躓き、罪となったからだ。(エゼキエル書七章十九節参照)」の箇所からも分かるように、この世の富の追求は却って罪を犯させる要因となります。まさに主イエスが神と富の両方に仕えることは出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)と言われた通りです。

 

イザヤ書十三章九節から十一節(参照)

見よ、主の日が来る。残酷な、怒りと激しい憤りの日。据えられた地を荒廃させ、そこからその罪人を滅ぼす。各天の星々とそれらの星座は光を放たず、太陽は出て来ても暗く、月はその光を輝かさない。そして、我は悪と罪を犯す罪人たちの世を罰する。また、我は高慢な者たちの傲慢を終わらせ、圧政者たちの高ぶりを挫く。

 

上記は主の日、主イエスの来臨の日、この天地の終わりの日です。太陽や月が光を放たないことはマタイによる福音書二十四章二十九節の主イエスの終末に関する預言と一致します。こちらについてはぜひ、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」をご覧ください。個人的には、「高慢な者」「暴虐な者」の言葉が印象深く感じます。「高慢」は『自分が優れていると思って、他をあなどること(引用:スーパー大辞林)』です。また、「עָרִיץ(圧政者)」は言葉通り、権力のある側の者です。真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」で「地の権力者」である「商人」について解説されておりますが、これらが想起されます。ヨハネの黙示録十八章十七節では「莫大な富は一時で荒廃させられた(参照)」と書かれている通り、かつてないほどの繁栄、富、権力を手にしていたとしても、彼ら悪人はあっという間に神によって滅ぼされることが定められております。高慢な者、圧政者に該当するものは「地の商人」意外にも複数該当すると思います。個人的には、今の政府の閣僚、世界経済討論会(WEF)、連合国(UN)等を見ていると、当てはまることばかりだと感じます。

こちら(東京新聞)もその一つです。政府は健康保険証を太陽暦二千二十四年の十二月二日に廃止して個人番号券に統合すると発表しました。国民の個人番号券と関連付けた保険証への不信感が根強く、それ故に普及率も低いままで、普通に考えたら進められるはずがありません。それにも拘らず強引に進めるのはあまりにも横暴です。特に河野大臣の対応は、相変わらず正視に耐えないほどの酷さです。参考までにこちら(X)、(X)をご覧ください。『イデオロギー的に反対される方は、いつまで経っても不安だ、不安だと仰るでしょうから』と見当違いなことを言い、もはや会話が成立せず、異常です。言葉は通じても、話が通じません。「次期首相候補」とやらでたまに名前が上がるのですが、本当に勘弁してほしい人物です。当初言われていた「廃止は国民の不安払拭が大前提」の言葉は、空しく、嘘であり、悪質な言行不一致です。そもそも個人番号券と関連付ける必然性は無く、個人番号券の取得は任意であったはずが、いつも間にか強制となっております。現行の健康保険証が廃止される以上、資格確認書も使えなくなり意味が無くなります。こういったゴリ押しは圧政(権力で国民を押さえつける)です。健康保険証の次は、運転免許証に関連付けられ、やがて現金を廃止して電子通貨にされ、それも個人番号券に関連づけられ、更には、現在、支那で運用されている信用得点制度と一体化すれば、国民は奴隷と化します。支配層や支配層の息のかかった異常な政府に抵抗する人々は、売買もままならず日常生活を営むことが出来なくなります。政府に生殺与奪権を持たせることになり、非常に危険です。前回記事でオーストラリアで現金が廃止されることをお伝えしましたが、ギリシャ政府もこちら(メモ・独り言のblog)のように『2024年初頭から、500ユーロ超の取引における現金の使用を全面的に禁止することを導入しており、近い将来、経済全体で「使用不能」にすることを主な目標(同引用)』とするとしております。電子通貨になるということは、現金と異なり、政府(財務当局)に何を購入したかも全て筒抜けであり、『デジタル通貨は「ソフトウェア」であるため、当局が望めばいつでも、「自分が所有している」と思っている市民へのアクセスを拒否することができるため、自分自身のお金をコントロールすることさえ失う(同引用)』懸念があります。つまりは自由や私事権(プライバシー)を失うことを意味します。

二千十五年、大阪市が生活保護費の一部を電子通貨(プリペイドカード)で支給する試行事業を行ったことがありました。この時、日弁連は中止を求める声明を出しました。憲法十三条の私事権を侵害するので当然のことです。今となっては、超監視管理社会への布石としての社会実験だったのではないかと思えます。そして、弁護士会は声明で留まらず、訴訟を起こし、社会正義のために働くべきです。

 

関連して、埼玉県は、運転免許証や旅券(パスポート)の更新時の現金払いを廃止し、電子通貨又は信用券(クレジットカード)の支払いのみにすると発表しました。こちら(埼玉県)やこちら(埼玉県警察)のホームページでもその説明書きが載っております。これまでは更新手数料として、埼玉県収入証紙を購入してもらっておりましたが、その埼玉県収入証紙の販売が太陽暦の十二月末で終了、埼玉県収入証紙自体も太陽暦の来年三月末(今年度末)で終了となるようです。最初、SNSでこれを見たときに何の冗談かと思ったのですが、残念ながら事実でした。現金廃止は支配層の計画であり、それに乗っかる悪しき行為です。日本では地方自治体が率先してこれを始めて来るとは思いもしませんでした。そもそも信用券(クレジットカード)や電子通貨を用いれば、こちら(個人事業主メモ)のように手数料が生じ、総額で見れば決して安くはなく、県にとっても痛手なはずです。何よりこちら(X)にあるように、『日本銀行法第四十六条二項「前項の規定により日本銀行が発行する銀行券(以下「日本銀行券」という。)は、法貨として無制限に通用する』に抵触します。また、これも教わった事柄ですが、こちらには罰則が無いため、違反者を刑事罰に処することが出来ないという問題があるようです。しかし、警察が、公的機関が率先して法を犯すのは本末転倒で、あってはならないことです。埼玉県民は、このことを踏まえて埼玉県に猛抗議するべきです。また、他県であっても油断は出来ず、現金廃止は支配層の計画であり、どんどんと波及していく可能性が高いです。こちら(日本経済新聞)によると二千二十一年時点で多くの自治体が収入証紙の廃止を検討しており、着々と計画されていたことが分かります。また、こちら(PAY Blog)にあるように『キャッシュレス事業者のPayPay・d払い・auPAY・楽天ペイが全国の自治体と連携して決済金額の10~30%程度を還元するキャンペーンを開催しています。』と、自治体が率先して電子決済を利用を促進させております。この構図は個人番号券の「マイナポイント」にも似ております。餌で釣り、電子通貨による決済の利便性を謳って、しかし、それに乗っかった先が超監視管理の奴隷社会では、あまりに酷い結末です。これらに乗っかることなく、反対、抵抗するべきです。

 

 

話を「高慢」に戻します。この世の権力者ではなくとも、高慢な者は多数存在します。それは聖書真理を信じない者です。確かに神のお招きがなければ信仰は始まりませんが、聖書を宗教と決めつけたり、神など居ないと言い放つ人々が多いです。聖書真理は言葉通りに、全ての理、真実です。自らの起源について、聖書に拠らずして知ることは出来ません。進化論という嘘を全面的に信じているのか分かりませんが、自らのこれまでの物事の認識を改めるのを嫌い、自らの上に立つ神、真理を認めたくない人々が圧倒的に多いのが現実です。罪や裁きについても、自分が何故悪いのか、裁かれなければならないのか、自分は間違っていないし、自分を悪く言う神の方が間違っているとすら言う者もおります。しかし、万物を創造され、主権者であるのは神です。

この世はすべての事柄が神の主権の下で行われ、善いことも悪いこともすべて必然です。普通の人間はすべて生まれつき罪に対して弱い傾向を持って生まれ、普通の生活をしていれば必ず罪を犯す罪人です。人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。
聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「主権は神にあり、人間にあらず」

 

 

人間に主権がないからであり、人間にはすべてを知ることが許されておらず、この地上のことも天上のこともあなたがたが知らないことが多くあり、知らない所ですべて推し進められているからで、天地や万物を創造された主なる神がすべてを掌握されているからです。だから、すべての人間は神によって造られた被造物に過ぎないという分際を弁えて低くあり、神を畏れて信じ、神の律法、掟、戒めを守ることこそが人間の本分なのです。

 

引用:神の律法と真理に逆らう人々は滅びる

かく言う自分も、信仰を持つ前には、確かに「罪」や「悔い改め」と言われても理解出来ない時はありました。また、聖書に反発する思いを抱いたことがあるのも事実です。そんな状態から、何故信じることが出来たのかと言われれば、聖書を知る機会は最初から幾らでもありましたが、少しずつ関心を持ち、そこから理解出来た時(機会)が与えられ、その時に「信じる」と応答したことが始まりです。例えば、世の悪、世の真実に気付いた人々にも、何かがおかしいと思った最初のきっかけがあり、それを理解出来た時があったはずです。何故「目覚められた」のかと尋ねれば、きっと「世の中の何かがおかしい」と思い始めた所に、その理解出来ていない空白を埋める、符合する真実がぴったりと収まったからだと思います。信仰も同様だと思います。世の教え、世の常識に従って生きてきて、何かがおかしいと感じ、人生に行き詰まり(手前の場合。しかし、必ずしもそのような経験を経るとは限らない)、苦しさが起きている原因を知り、この世の悪がそれらを為していること、彼らが為していることは反キリスト行為と括ることが出来ます。また、その反対の「正しい」ことがあり、それが聖書に一貫して書かれている善と悪の基準、主イエスの救い、的中率十割の預言、過去の歴史、世の終わりと裁き等が、実にまっすぐな道筋を形作っていると理解出来ました。手前の場合は、最初から全てを理解出来た訳ではなく、時間をかけて少しずつです。これらを教えてくれたのがミカエル氏の記事であり、全てが符合し、確信に至りました。この確信を得る過程は、人によって千差万別だと思います。コヘレトの言葉三章一節「全てに時があり、天の下、時には全て目的がある。(参照)」と書かれておりますが、人それぞれに神の御計画があって、それぞれの導かれ方があるのだと思います。全ては、この神を認め、畏れることが出来るか、これに懸かっております。この世を支配する悪しき者は反キリストなので、主イエスの教えに留まることを妨げます。主イエスを知らない状態(真の聖書福音を知らず偽福音を信じる状態を含む)、反発する状態を標準とする世を作っているため、真の信仰を嘲笑ったり、根拠無く虚構だと看做したり、莫迦にするよう人々を仕向けます。偶に「聖書真理こそ傲慢だ」と言うものがおりますが、世の実態を聖書真理という高次な視点で捉えると、真理を認めない者こそ高慢でしかありません。真理は相対的なものではなく、絶対だからです。宗教や思想と並べて考えること自体が間違いです。

同時に、律法廃止論等のパウロ教信者(プロテスタント等)、主イエスの教えから著しくかけ離れた異教カトリックもまた、自らの聖書からの乖離を認めず、自分は正しいと言っている点において高慢です。手前はかつては地上の教会(プロテスタント)に通っていたにわかキリスト者でした。恥ずかしながら福音を殆ど理解せず、世の教会に通い、献金し、教会組織から肯定されることで自分を保っておりました。このような主体性が無い状態だと教会組織に隷属し続ける要因となります。今、世の諸教会に通っている方はこれらの危険性に早く気付いてください。長く通うほどに情も湧いてきて、離れ難くなります。手前は、偽福音を教えられていたことすら、当時は理解出来ておりませんでしたが、言行不一致で口先だけ、内部の不祥事を隠す教会に幻滅して離れました。福音にしろ、平素の言行にしろ、何かしらの「矛盾」があった時こそ、考えるべきです。矛盾のある道は正しい道ではありません。ミカエル氏は先ず自分で複数回、聖書を通読することを教えております。手前もこれが最も重要だと認識します。誰かの教え(特に、偽教師)に拠るのではなく、自分で聖書の文脈を理解することで基本的理解が作られます。文脈を押さえると、ミカエル氏が如何に聖書に矛盾の無い解釈をしておられるかがよく分かり、確信に至ります。ミカエル氏が新しいことを言っているのではなく、聖書の言っていることそのままを分かり易く伝えているだけです。「新しい」と感じるのなら、それは世の諸教会の教えが間違っているので新鮮に感じるだけです。現実、世や生活の実態や自分の実感と聖書の言葉が一致すると、より揺らがなくなります。自分が偽福音の洗脳から解かれ、真の聖書福音を信じることが出来たように、同じようにプロテスタント等から目覚めることを期待するのですが、現実としてはなかなか厳しいです。パウロ教神学を学んでいる者こそ却って聖書を曲解し、神の名を語り、主イエスの教えを否定していることも認識せず、反キリストに留まろうとします。カルト信者とは、まさにこのことを言うのだと思います。世の法において、ある行為が法に適っているか否かを裁判所が判断し、有罪か無罪かを決めます。同じように、律法(善悪の基準)はマタイによる福音書五章十七節で主イエスが言われたように廃止されておらず(但し、更新はされている。要参照:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」)、律法に則って、適法か否かを自己検証します。律法が廃止されたと看做せば、善悪の基準が崩壊し無秩序となります。結果として、大勢が真に罪を悔いて、改めることが出来ず、第二の死へと至ります。これこそがサタンが意図したことであり、また、神が御許可されたふるい(ルカによる福音書二十二章三十一節参照)だと思います。だからこそ、自分で聖書を読んで、世の権威たる神学(偽福音)に惑わされず、見出だす(マタイによる福音書七章十四節参照)必要があります。見出だすとは、言葉通りに「見つけ出す」ことであって、与えられるだけではなく、主体性が伴うことです。

ゆえに、人間として生まれてきたからには、生まれたしるしのためにも、何としてでも世を捨てて仏道に入るのが、望ましいことなのである。一生涯、ただ欲望を満たすことばかりに熱中して、心の救済をはからないような者は、けものや虫けらと一向に変わらないではないか。

 

引用:「すらすら読める徒然草」、発行:講談社、著者:中野孝次

上記は徒然草五十八段の現代語訳です。「仏道」に救いはありませんが、「仏道」をキリスト道に置き換えれば、その通りの内容だと思います。また、ただ欲望を満たして生きるのは獣と変わらないとは、実に確信を突いたことを言っております。ダニエル書四章でネブカドネツァル王は罪を悔い改めず、傲慢さの故に、神によって獣のように草を喰らい、雨露に濡れていきました。しかし、ある時、理性が戻りました(ダニエル書四章三十一節参照)。理性が戻って、真っ先にしたことは神に栄光を帰したことです。ネブカドネツァル王は「我は至高の御方を祝福する。永遠に生きていおられる御方を崇め讃える。その支配は永遠。その王国は代々に。地に住む全て人々は無きに等しい。各天の軍隊も地の人々もその御意志に従って動かされる。その手を留める者はおらず、何をするのかと言える者もいない。(ダニエル書四章三十一節から三十二節参照)」と言いました。神を畏れることは知識の始まり、そして、人の本分、人間らしさでもあると思います。

光悦の母妙秀が、一人でも貧困に悩む者がいる限り己れひとり富貴であるのは許されぬと考え、みずからの生を簡素の極限まで貧しくした(略)

そのように所得の欲望から自己を解放することが、かえってわれわれの心を自由にし、ゆたかなものにする(略)

かれらは権力とかよりもはるかに高い価値として、人間の品位というものがあることを身をもって示しています。脱浴が高雅な心に至る前提である、欲望から自由になることが人をいのちへと導くことを示しています。

 

引用:「清貧の思想」、発行:草思社、著者:中野孝次

上記も、キリスト者ではないものの、慈愛と高潔さの体現について言及しております。高尚さを良しとする所は武士道にも通じ、真のキリスト者もかくあるべきです。これに神の律法、掟、戒めを守ることが加われば、より完成されたキリスト者の姿が浮き彫りになります。武士道と同様に、古来、日本人にはこのような生き方を良しとする感性がありました。それは聖書真理と非常に親和性があり、むしろ真理が核に据えられることで完成すると言えます。それは高慢、高ぶりとは対極の性質です。

 

<やり抜く力>

ゼファニヤ書二章三節(参照)

主を求めよ、地の全ての従順な者たちよ、主の御命令を行い、正義を求めよ。 従順さを求めよ。主の怒りの日にお前たちは隠されるだろう。

 

「主の御命令を行い、正義を求めよ」と書いてあるのですから、キリスト者は支配層の為す反キリスト行為の数々、新世界秩序構築の動きに抵抗し、その悪を弾劾するべきです。ただ、現実としてはヨハネの黙示録にある通り、暗黒社会は残念ながら現実となってしまいます。勿論、だからと言って、黙っていては黙認するようなものであり、それでは宜しくありません。正義を示し、体現する必要があります。そして、やがてこの悪は神によって裁かれ、滅ぼされます。人ではなく、神が全てに報いてくださいます。これが苦難の解決です。「復讐は我に(属し)、我が報復する。(ヘブライ人への手紙十章三十節参照)」と言われているように、神はこの悪を放置せず、必ず罰をお与えになります。「ἐκδίκησις(復讐)」には、「(悪業などに対する)報い」「刑罰」の意味があり。そこに公平、正義の概念があります。同時に、キリスト者を自称していても不完全であったら意味がありません。上記聖句の箇所を解説してある真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」の記事もぜひご覧ください。『人類の悔い改める最後の機会は、主イエスが執り成しの働きをやめる大艱難前(上記引用)』であり『主なる神を求め、正義を求め、謙遜を求め、共に集まってイエス・キリストを信じて従順に従う(上記引用)』必要があります。今は既に艱難期であり、大艱難が目前です。『神の民は、大艱難で背教に繋がる誘惑にも耐え抜くことで神の御国に入る前に練り清められ、永遠の命を受けるに相応しい人間に仕上げられるのです。(上記引用)』とある通り、そもそも耐えきれなかったら全てが水の泡です。

 

また、真の聖書福音と預言「成功するためには」の記事で言われているように、『神の王国に入るのが成功』であり、『人生において究極の失敗は地獄行きになること』です。苦難の真の解決は、悪が滅ぼされること共に、キリスト者は神に認められ、救いにあずかることです。そのためにもキリスト者として、為すべきを為さねばなりません。以下の内容は非常に重要で、個人的にも自分への戒めとして繰り返し見返している箇所です。

聖書に書かれてることを守り、実行し、それを死ぬまで継続すればええだけの話なんであり、何も複雑なことは無く、簡単なことです。違いは、継続してるか否かで、覚悟があるか否かです。やらへん人や途中でやめる人は、覚悟が甘いんや。

(略)

伝えたいのは、「継続することは誰にでも出来る」ということ。

(略)

これと決めたら、それを「やり抜く力」がある人が成功するというのが普遍的な真理と言えよう。逆に、やり抜かへん人、継続的に努力せえへん人は必然的に負け組になる。

(略)

神の王国に入りたいのなら、その目標は神に認められる「完全な者となる」ことであり、現時点の自分の状態と比べて足らへんことをどんどん埋めて行く。そのために、聖書を複数回通読して勉強したり、律法を守り、伝道する、兄弟と交流する等といった努力をせないかんやろ。こない簡単なことも分からん人や行わへん人は地獄行きになって当然です。やらへん理由や言い訳を考える暇があれば、「さっさとやれ」ってことです。

 

引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」

『継続することは誰にでも出来る』『やり抜く力』は特に着目すべき点だと思います。マタイによる福音書二十五章のタラントンの教えにもある通り、能力に応じて与えられたタラントンが異なり、能力に応じて、五タラントンは五タラントンを、二タラントンは二タラントンを儲けて主人に認められております。決して、出来ないことを要求された訳ではありません。世俗の人間の言葉で恐縮ですが、古代ギリシアのストア派の哲学者エピクテトスは自分の権能下にあるものに全力を注ぐようにと言っております(参照:マインドセットサロン)。普通に考えても理に適った話であり、これを世俗のことだけに用いるのではなく、信仰にこそ活かすべきだと思います。

数年前、『やり抜く力』という書籍が注目されたことがありました。数学教員である著者が『数学的概念の呑み込みがずば抜けて速い子よりも、こつこつ努力を重ねてきた生徒のほうが学期の成績が良かった(引用:ライフハッカー)』と言っており、これも信仰に活かせる話だと思います。同時に励ましを受ける話でもあると思います。まさしく継続することは誰にでも出来ることだからです。

 

個人的には、受験勉強や資格勉強を思い出すと理解しやすいと感じました。最初は、まず目標を明確にすることから始まります。そして、(基礎理解があったとしても)実際に過去問を解いたり、模擬試験に挑むと合格には程遠い現実(自分の力量不足)に直面するのが多くの方に共通するのではないかと思います。まずはこの現実を見据える所が始まりです。そこからどう準備出来るかが明暗を分けます。手前は一度、ある資格試験で失敗したことがあります。一年に一回しか実施されない試験なので相応に準備して臨んだつもりでした。しかし、結果はたった一問足りずに落ちました。呆然とし、悔しさが込み上げました。情けないことに試験を終えてから、勉強の仕方、日々の姿勢、覚悟や心構えが足りなかったことに後から気付きました。悔しがるのがおこがましい、自分の怠慢さに対してあれほど腹が立ったことはありません。それから、帳面に、何が悪かったのか、次の試験(一年後)までどう過ごすべきかを、書き殴った記憶があります。結果(合格)に相応しくない積み上げ方をすれば、結果は得られません。当たり前過ぎることですが、自分を客観視出来ないとそんなことにすら気付かなくなります。「なぜ失敗したか」「改善点はどこか」「これからどうすると良いか」等を地道に考えることでしか、成功に近付けないと思います。失敗をしっかり見据えることで、後悔から実践的な教訓へと昇華することが出来ます。これが手前の得た学びであり、おそらくは信仰においてもそうなのだと思います。実際に口で言うほど容易くはなく、同じ失敗を繰り返すことはしばしば、時には「自分はもう駄目なのか」とサタンの暗示が働くことがあります。しかしながら、「つまらないことを考える暇があるなら、どうすれば良いかを考えよう、自分がすべき、出来る改善は何か」を考える日々です。あと一歩のぎりぎりの頑張りをどれほど積み上げられるかなのだと思いますが、自分との戦いの側面がとても大きいと感じます。

 

ミカエル氏が記事で『自分の考えを外に出す、書き出す』ことが大事と言っており、手前も同感です。個人的に、学びや反省を書き出すようにしております。頭の中で考えただけでは浮かんでは消えるだけで、大して残りません。しかし、文字にすると考えが可視化され、後で振り返ることも出来ます。ブログ記事も書くことで考えが整理され、自分の覚悟が定まります。何より、書くことは自分と向き合うために不可欠だと手前は感じます。その積み重ねが自分を鍛えてくれます。以下は、図書『やり抜く力』に書かれている、ある作家の言葉です。

 

(引用開始)

私のすべての作品において、失敗はおそらくもっとも重要な要素です。書くことは、失敗することだからです──何度も何度も、嫌というほど

(略)

書くことが大変なのは、

紙の上にさらされたおのれの惨めさ、情けなさを

直視しなければならないからだ

そして寝床にもぐる

 

翌朝、目が覚めると

あの惨めな情けない原稿を

手直しする

惨めで情けない状態から少しはマシになるまで

そしてまた寝床にもぐる

 

翌日も

もう少し手直しする

悪くないと思えるまで

そしてまた寝床にもぐる

 

さらにもういちど手直しする

それでどうにか人並みになる

そこでもういちどやってみる

運がよければ

うまくなれるかもしれない

 

それをやり遂げたら

成功したってことなんだ

 

引用:「やり抜く力 GRIT」、発行:ダイヤモンド社、著者:アンジェラ・ダックワース

 

名が知られた作家であっても、これだけの努力や苦労をしているのかと驚きました。キリスト者もきっと同様で、行動すれば失敗は付き物です。行動すれば、惨めで無様な自分と嫌でも向き合うことになります。しかし、出来ない状態に留まることはもっと辛く、少しでも改善するために、出来ることを模索します。手応えを少しでも感じられることを期待して、繰り返して、その連続です。僭越ですが、手前のような者でも、上記引用の内容にはとても共感を覚えました。また、真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」で『主イエスが人間に求めてはる「完全な者」(マタイ五章四十八節参照)になることを目指す必要がある。中途半端は成立せず、ふるい落とされるのみ。悔い改めや成長を怠る者は落とされる。偏差値八十は、上位0.1%や。要するに、千人に一人ということ。』の言葉と共に、『「キリスト者」成長早見表』が記されております。記事にあるように『千人に一人』とは『コヘレトの言葉七章二十八節にあるとおり、男で救われるんは千人に一人と言う確率(上記引用)』です。これほどまでに突き抜けるには、『やり抜く力』の上記引用にあるように、現実を直視し、自分に向き合い、ひたすら努力を重ねることが不可欠なのだと思います。それでもやり抜きたいと思うのは、神への愛の故です。それは「涙と共に種を蒔く者は、喜びの内に刈り取る事になる(詩編百二十六編五節参照)」過程そのものです。そして、時は迫りながらも、まだ失敗を教訓にして、励む機会(時)があることはとてもありがたいことです。もう機会が無いことこそ絶望であると思います。このことは忘れてならないことです。

 

<結び>

箴言三章三節(参照) 

お前は憐れみと真理を捨てるな。それらをお前の首に結び、これらをお前の心の板に書き記せ。 

 

箴言七章二節から三節(参照)

我が掟を守って生きよ。そして、我が律法をお前の目の瞳のように守れ。それらをお前の指に結び、心の中の板にそれらを書き記せ。 

 

誰でも、真の信仰がある者は主イエスの教え(神の律法、掟、戒め)が心に刻まれ、不信仰者(偽福音信仰を含む)には反キリスト、異邦人の道が心に刻まれているのだと思います。正しい信念にしろ、誤った信念にしろ、何かしらが心の中に刻まれているのは間違いありません。それが行いに反映されるからです。上記聖句の『לוּחַ(板)』は、石や金属や木などの刻む板(銘板)の意味があります。そして、原義には「(光を反射して)きらきら輝く」の意味があり、何やら象徴的だと思いました。光は真理であり、永遠の命に至る福音であると思いますす。それらを受けるからこそ、きらめくのだと思います。

 

この世では悪魔崇拝、反キリストの支配層が、超監視管理・奴隷社会を構築しようと世の仕組みを著しく改悪し、人口削減の真っ最中です。これらの悪を弾劾して正義を示しつつ、実際にこの悪を滅ぼすのは神だけです。だから、一時的に隆盛を誇る彼らに屈せず、絶望せず、永遠の栄冠に向けて、これまでの人生で経験してきた以上の努力を積み重ねるべきです。苦難の解決は、正義と公正の神の裁き、正しい行いに対する報いとしての永遠の命にあります。

 

この世での社会的成功は真の成功を意味しません。それでも世において必死に成果を出すために努力があるように、信仰においても同様に、あるいは、それ以上の努力が必要です。神がそれを命じておられるからです。神の命じる完全な者とは、ただ与えられるのではなく、人が神と永遠に共にいるに値する程に成長して到達する境地です。そして、励むこと、励み続ける意思は、自分の権能下にあることです。時のある内に、出来る限りのことを行って参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。