こんにちは。

今回は「永遠を決める試験がある」と題して、神の基準と神の御意志を知り、解答して神の御前に臨むことについてお伝えしていきます。

 

一、世の終わりに関心がある方へ

手前が真の聖書福音に出会う前、あるプロテスタントの牧師が書いた世の終わりに関する図書を読みました。内容の詳細は覚えていないのですが、世の終わりが近いことやヨハネの黙示録、悪魔崇拝者、世の真相について触れていたと思います。その図書は世の動きと聖書の預言を繋ぎ合わせたような推測、仮説が多い内容で、福音よりも世の動きに終始する内容であったと思います。それを手に取ったのは当時、東日本大震災や原発事故を目の当たりにして、人の死だけではなく、世の終わりを痛切に意識させられたからだと思います。だから、世の終わりについて知りたいと思ったのだと思います。おどろおどろしい内容が書かれておりましたが、だから今どうすると良いかは書かれていなかったと思います。冷静に考えれば、世の終わりが近いことを知っただけでは意味がありません。

また、同時期、いわゆる「陰謀論」を知るネット上のにわかキリスト者の中には世の終わりが近いことを盛んに言っている者がおりました。この世に希望は無い、早く神の国に入りたいと口にしておりました。この世に希望は無いことはそのとおりなのですが、手前はそれらを読んで鬱々とした気分になりました。彼らは主イエスを信じているが、彼らの言う世の動向に関する推測(預言解釈含め)は外れまくり、何一つ彼らの言うことに確かさを感じなかったからです。手前も日々の仕事が辛くて生きるだけで精一杯で、正直、今直ぐにでもこの苦しい状態から逃れたく、そのためなら速やかに世の終わりが来て欲しいとさえ思っておりました。きっとこのような現実逃避の願望を抱いた人はきっと手前以外にもいると思います。手前が見たネット上のにわかキリスト者もそうだったからです。

当時、「世の終わりが近いのなら、今までのように世俗的に生きるだけで良いのだろうか。」と手前は薄々感じておりました。今思えば、この疑問こそ重要であったと思います。

 

世の終わりに関わる話(予言等)は偽りばかりですが、衝撃的な話ほど印象に残ります。何を信じて良いか分からなくなり、「あれも起こる、これも起こる」と情報に踊らされます。果たして、それを知っただけで一体何になるでしょうか。主イエスの終末預言も確かに衝撃的な内容ですが、衝撃的な出来事は過程でしかなく、そこだけに着目したら本質を見失います。終わりの始まりである動乱は確かに起きますが、そこで問われるのは信仰を正しく守り通すか否かです。この世を支配する悪しき者は悪の秩序を構築しようとし、反キリスト行為を人々に強制します。今、既に問われております。聖書の知識がなければ、今、既に自分が神への不忠実に足を踏み入れていることにすら気付かないでしょう。聖書だけがこの世の真実を教えてくれます。天地の始まり、神への反逆者(悪魔ら)の存在、罪の概念、人の一生と死の意味、救いがもたらされたこと、世の終わりと復活と裁き、その後の永遠について、聖書は教えてくれます。全体の文脈を踏まえて、この世の動きと自分自身が置かれた状況を当てはめなければ、今何をするべきかを本当に理解することは出来ません。世の終わりが気になって、天変地異等を調べても意味がありません。論理的に考えれば、世の終わりがあるからには始まりが存在し、この世(天地)を創造された御方がおり、創造するからには目的があり、森羅万象を見れば天地に存在する全てには秩序があると分かります。そして、聖書に目を向ければ、「裁き」があると言われている以上、基となる法(神の律法、掟、戒め)があるのは当然です。「罰」に言及する箇所もたくさんあります。罰は悪事を懲らしめるためのものであり、そうならないようにとの戒め、教訓です。これらを踏まえると、神が定める正しさがあり、神は人に正しくあるように命じられております。そういったことは親からも、学校でも、社会でも教えられません。偽預言に染まった地上の教会でも正しく教えられません。何となくでも、終末感を感じれば、大地震や第三次世界大戦、その他の自然災害について気になるかもしれません。しかし、それらは終わりへの過程でしかありません。そこでは自分が生き延びれるかどうかに関心を寄せるかもしれません。しかし、そのようなことを考えるのは神の目線からすれば的外れでしかなく、自分の命ばかりを気にするのは、神からすれば身勝手に映るでしょう。主イエスは終末預言で何が起こるかを前もって教えてくださっており、動揺させられないように注意せよ(マタイによる福音書二十四章六節参照)と言われております。聖書の知識が無くては確かに地震や戦争の話を聞けば狼狽えるかもしれません。しかし、聖書に拠って立てばそうではないはずです。動乱を背景に、惑わすものは反キリスト行為に誘うでしょう。真のキリスト者はどのような中にあっても神の掟を守り、自分の生涯を全うすればそれで良いはずです。つまりは、神の御命令に忠実であるということです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節〜二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

大切なことを言っておきますが、聖書は、あんたに世界情勢の真実を伝えるための道具ではないのです。神と神の教えを知るため、主イエス・キリストとその教えを知るためのものです。聖書以外にきちんと知ることができるものはありません。小説感覚で読むことは推奨しません。もし、世の動向を知りたいとして、聖書を単なる参考書代わりに使って知識を得て、他の人より多くのことを知るというのは高慢の元となるだけです。知識を得るだけであなたの生活の仕方がまったく変わらないのであれば、テレビのクイズ番組や雑学本を研究して雑学に詳しくなって自己陶酔している人たちと大差ありません。所詮、知識欲というあなたの欲を満たすだけの行為でしかないのです。聖書は読むだけでは不十分です。自分の力で読んで、理解して、実践して生活に反映させてください。

 

引用:真の聖書福音と預言「自分で考えることの勧め」

聖書は、あんたに世界情勢の真実を伝えるための道具ではないのです。神と神の教えを知るため、主イエス・キリストとその教えを知るためのものです。』の箇所は特に、世の終わりについて知りたがったかつての手前や、手前と同じように世の終わりが気になっている人への戒めになると思います。そして、救われるための利益信仰では神の御心に適いません。全身全霊で神を愛し、自分を捨てることが不可欠で『自分の命を得ようとする者はそれを失うだろうが、我のために命を失う者は、それを得るであろう。マタイによる福音書十章三十九節:引用 真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」)』と主イエスは予告してくださっております。『天の父の御意志を行う』ためにも、自分のことを考えてばかりいるのではなく、神の御意志を理解し、偽預言に惑わされず律法を遵守していくことが不可欠です。

 

二、理性を欠いた獣であってはならない

単刀直入に言いますが、聖書真理によって善悪の基準を知らない人間は理性を欠いております。誰もが、自分の考える「良かれ」「正しさ」に従って生きております。しかしながら、その「良かれ」と「正しさ」の定義が真理とかけ離れている故、神の目に適う真っ当さからは程遠くなるのです。

手前に「自分は人から後ろ指を指されるようなことは何一つしてこなかった」と言った人がおりました。信仰を持っていなかったその時の手前でさえも「随分と大きく言ったものだな」と感じる程でした。実際にはその人の「正しさ」とやらは自分勝手な我がままで、それに周囲は振り回され、大変な苦労をしていたのが現実でしたが、当の本人はそれを認識しておりませんでした。

また、ある立派な社会的肩書があり、その道では名が知られ、数々の世俗社会への貢献もある人がおりました。高い社会的地位があっても手前のような下っ端にも親切に接して、話を聞いてくれる優しい方でした。しかしながら、言葉の端々から、「高い立場の自分が、丁寧に接している」ことをさりげなく強調してくることがありました。個人的にはその方に感謝する側面もあるのですが、へりくだりを装いながらも、見え隠れする高慢が偽善的で残念でなりませんでした。「正しいことをしている自分」を演じて、満足しているように見えてなりませんでした。

両者とも正しくあろうとすること自体は良いと思います。問題はその「正しい」が何を指すかであり、それらに励んだ結果は「高慢」でした。突き詰めると、世の中、往々にして悪人は自分は正しいことをしていると思っていることでしょう。

人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。

(略)

主イエス・キリスト抜きで自分なりの義を立てようとしても無駄であり、独りよがりな偽善になるだけです。それは他の人々も同じことです。主イエスはぶどうの木であり、もし人間が主イエスに繋がる枝でなければ、神の目に正しいことは何もできないのです。主イエス・キリスト抜きで正しいと思う人間は悪魔の品性を持つ高慢な者でしかなく、そう思う者は誰でも第二の死へと行きます。主イエスの直弟子も過去の預言者たちも皆罪人であり、私も例外ではなく、あなたがたも同じです。罪人ではない人間はこの地上には存在しないのです。霊によって新たに生まれない肉なる人間は神の目に正しいとされることはできない性質だからです。

 

引用元:真の聖書福音と預言「聖霊の働きの確証」

真理を知らなければ、世の常識という偽りに染まり、自分の考える正しさに溺れるだけです。高慢は無知によって、身の程を弁えないことによっても生じます。『自分なりの義を立てようとしても無駄であり、独りよがりな偽善になるだけ』との言葉は実に的確です。唯一の真の神を畏れることを知らなければ、どこまでも神から離れ続け『悪魔の品性を持つ高慢な者』とならざるを得ません。人より上位の神を畏れずして真にへりくだることは出来ません。

主イエスは御自分だけのため、人間が持つ肉の欲や思いのために生きたことはありませんでした。しかし、世の人間の多くは自分のことや自分の家族や知人等の身内のことばかり考え、隣人愛が無いので他人を蔑ろにし、罪を愛して離れようともせず、自分のしたいことをし、自分の楽しみや幸せを追求しています。こんな生き方は動物の生き方であり、本来の人間の生き方ではないのです。人間は創造主の神が神を礼拝及び賛美するために創造されたのであり、それが趣旨です。神を信仰しなければ神を礼拝することも賛美することもありません。それ故、創造主である神を礼拝しない人間は滅びるのです。

 

引用元:真の聖書福音と預言「聖霊の働きの確証」

人の本分については聖書に書かれております。ここで細々申し上げませんが、各位が通読の上、文脈から見出だしていただくのが最善と考えます。自分で「これだ」と思える出会いのような感覚を体験することが大事だと手前は考えます。それでも端的に申し上げるなら上記の引用にあるように、人間は神を礼拝し、賛美するために作られたということです。そして、それを弁えず、腐敗が極まると「汚れた欲望の故に肉に従って歩み(神の)権威を侮る者(ペトロの手紙二 二章十節参照)」に行き着きます。そのような生き様はさながら動物のようだと聖書に書かれています。

 

ペトロの手紙二 二章十二節(参照)

彼らは、捕えられて滅ぼされるために生まれた、理性を欠いた本能的な動物と同じように、無知によって冒涜的なことを言い、自らの堕落によって滅ぼされるだろう。

 

「ἄλογος(理性を欠いた)」の言葉を紐解くと、「無分別」「道理を弁えない」や「あるがまま」、これ自体にも「獣のような人」の意味があります。理性とは「感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力(引用:スーパー大辞林)」です。「分別」は神の律法から真の善悪の基準を知り、それに基づいて区別することで可能となります。何も知らない「あるがまま」では道理を弁えず、獣のようになるのは必然です。「ζῷον(動物)」は、「生き物」の他、「獣」の意味もあり「人間らしい心のない人をののしっていう語。人でなし。(引用:スーパー大辞林)」のとおりです。その意味を踏まえると、上記の聖句はそのままに、無知によって神を冒涜する行為を平然とするようになるのも、ある意味において必然だと思います。無知とは実に恐ろしいことです。占いや偶像崇拝、昨今では同性愛の容認等、反キリスト行為が平然と行われ、一部のキリスト者を自称する者の中には同性愛者の人権云々を謳い、平気で神の律法を汚す者がおります。「皆がやっているから」は、何の正当性もありません。ちなみに、ヨハネの黙示録には「獣の刻印」「二匹の獣」という言葉が登場しますが、こちらの「獣(θηρίον)」はまた別の原語ですが、こちらには「問題を招く」「危険な」「悪意に満ちた」との意味があり、より悪いものとしての意味があります。神の聖なる律法を汚し、神を冒涜する悪意のあるものとしては、より害のある獣との表現が相応しいのだと思います。

「正しさ」を求めるのは大変結構なことです。しかし、「正」の字の如く、「一つ」に「止まる」と書く訳で、止まるべき「一つ(真理)」を間違えるととんでもないことになります。

 

三、神からの予告(一)

イザヤ書二十四章一節から六節(参照)

見よ、主は地を空(から)にし、荒廃させ、その面を曲げ、そこに住む者たちを散らされる。民、祭司、僕、主人、女中、女主人、売る者、買う者、貸す者、借りる者、債権者、債務者は同様となる。地は人がいなくなり空(から)にさせられる。奪われ損なわれる。主がこの言葉を語られたからである。地は嘆き、枯れ、天地は衰え、弱る。地の地位ある者も弱る。地はそこに住む人々の故に汚された。 彼らは律法に違犯し、掟を破り、永遠の契約を破ったからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者たちは有罪となった。それゆえ、地に住む者たちは焼かれ、僅かな人間だけが残された。

 

上記は世の終わり、主イエスの来臨時の様相に言及した預言です。

律法違犯の故に地は汚されました。僅かの者だけが残されたとは『更に、それらの日々の苦難の後すぐに、太陽は暗くされ、月はその光を出さず、星々は天から落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。また、その時、人の子のしるしが天に現されるだろう。そして、その時、地のすべての民族は悲しみ、人の子が力と大いなる威厳に満ち、天の雲に乗って来るのを見るだろう。人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果てまで四つの風から、彼の選ばれた人たちを集めるだろう。(マタイによる福音書二十四章二十九節から三十一節:引用 真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)の主イエスの預言にある艱難末期の携挙であると思います。また、「そして、天は巻物が巻き取られるように離れ去り、あらゆる山と島が、その場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に「我らの上に覆いかぶさって、王座に座っておられる方の御顔と小羊の怒りから、我らをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来るからである。そしてだれが立つことが出来るであろうか。(ヨハネの黙示録‬六章十四節から十七節参照)」の聖句と同じ描写であると思われます。どんなに社会的地位があっても、力や財力があっても、どのような立場であっても神の怒りから逃れることは出来ません。唯一、神の審判において神の目に適った者だけが救い出されるのみです。更に、イザヤ書二十四章六節にある「呪い(אָלָה)」の原語には、「呪い」以外にも「誓い」「宣誓」の意味があります。「誓う」には「 固く約束する。違反すれば罰が下ることを条件に約束をする。(引用:スーパー大辞林)」の意味があります。まさに申命記二十八章にある神との契約、祝福と呪いの意味がこの言葉に凝縮されています。

 

神の律法が大前提にあり、律法は廃止されたとか、十戒だけ守れば良いという主張に惑わされないでください。そのような言説に根拠はありません。廃止されたとまでは言わなくても罪の赦しによって大丈夫だと言う主張も嘘です。主イエスは「悔い改めなければ、皆同じように滅びる(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)」と言われたからです。罪赦された後、律法を守ってこそ改めたと言えます。招かれる人は多くても選ばれる人は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)との主イエスの言葉どおり、折角、聖書真理に出会っても多くは偽福音に躓くと思われます。ところで、最近、政府、特に岸田総理の発言を聞いているとパウロ教信者が思い起こされてなりません。

 

 

口先ばかりの反省の弁はあっても、問題を根本的に改めることは一切せず、それで事が済むと思っている辺りが、見ていて腹立たしくもあり、情けない限りです。悔い改めの意味を認識せず、「主よ、主よ」と繰り返し、それで自らが救われていると思い込んでいるパウロ教徒は岸田総理の姿を見て、自分たちと瓜二つだとは思わないのでしょうか。折角、聖書真理の存在自体を認識しているのであれば、律法は廃止されていない(マタイによる福音書五章十八節参照)と言われた主イエスの言葉を無視せず、きちんと聖書(パウロ書簡を除く)の言葉に忠実であるべきです。「行いは不要」「主イエスを信じるだけで救われる」との偽福音を信じることは偶像崇拝でしかなく、ミカエル氏が言われたように神のふるいです。

主イエスが地上に来られたのは、旧約時代にイスラエルの民をエジプトの奴隷支配から解放させたのと同じことであり、それ以上のことです。なぜなら、イエスの十字架による贖いは、イスラエルに限らず、全人類に及ぶからです。これ程のイエスの愛、そのイエスを世に遣わされた天の父なる神の愛は底知れぬものなのに、人間はその愛の大きさに気付かず、自分は地獄に行きたくないとか、助かりたいという利己心から来る偶像礼拝に陥っています。非常に嘆かわしいです。そのような人間を神がお救いになると思いますか。神の立場になって考えてみたら分かることです。世の大多数の人々は、もっと稼ぐために頑張っています。生きるだけの必要最低限以上の金を得ようとして、真面目に働く人もいれば、貪欲な金銭欲から犯罪、悪に手を染める者もいるでしょう。今、真剣に生きる意味について考えてみてください。何のために生きているのかを。

 

引用:真の聖書福音と預言「神を愛するということと人が生きる意味」

総じて、人は皆、何かを信じております。自分なりの義だったり、世の常識だったり、世の繁栄、快楽、偽福音だったりです。しかし、神の律法に基づく善悪の基準で自らを律しなければ、理性の無い獣と変わりありません。理性が無いとは、「ありのまま」で真理に無知であると認識するべきです。そして、神の聖なる御性質、荘厳さに平伏し、畏れを感じつつ、神と共に永遠に過ごすに値するだけの完全な者(マタイによる福音書六章四十八節参照)であるよう鍛錬しなければなりません。自分を捨て、神の御心に適うことだけを考えていられるかどうかに懸かっております。世の事柄に励むことは躓きや妨げにしかなりません。そういったことに早く気が付けたのなら、本当に幸いだと思います。

 

四、永遠を決める最難関の試験に挑む

自分がどうして真の聖書福音を信じるに至ったかを考えると全てが不思議でなりません。聖書の存在を知ってはいても、偽福音だらけのこの世において、ミカエル氏が真の聖書福音を説いてくださらなければ決して自分で見出だすことは出来ませんでした。そして、もし人生の早い段階(例えば、十代や二十代)に真の聖書福音と出会っていたのならばどうなっていたか。おそらく信じていただろうと思います。ただ、途中で孤独や人の目に耐えかねて挫折していた可能性があります。結果論でしかないと前置きをした上で言いますが、中年となった年齢で真の聖書福音に出会ったのは、手前には必要不可欠な条件であったと思います。世に染まり、世に従って生きることの違和感や限界を嫌というほど感じ、「この先の道は無い」と知ったからこそ、一度死んだつもりでやり直したのがキリスト道です。だから決して自分の意思や力で真の信仰に入れた訳ではありません。また、これまでを振り返ると「よくここまで来れたね」というのが本音です。その位に余裕など無く、ぎりぎりな感じです。少なくとも自分で大丈夫と思える段階にはまだ達しておりません。完全となれるには、まだまだ通らねばならない過程が手前にはあると感じます。

 

手前は、信仰のために「頭を使う」「行動力を発揮する」のが不可欠とは、真の信仰に入るまでには夢にも思いませんでした。神の知識を理解するためには基本的な知性が不可欠です。なぜならば、神は言葉であり、全て言葉で真理を伝えているからです。やればやるほどに自分の課題が浮き彫りとなり、それをどうやって克服出来るかを考えることは、惰性でしていた世俗の仕事などよりも余程に頭を使います。「頭を使う」意味をこの年になって改めて考えさせられております。実際には世俗の仕事でも頭を使っていなかった訳ではありません。しかし、今、それ以上に総動員しても尚、不足を感じます。ミカエル氏が記事の中で「全振り」という言葉を使っていたのが個人的にはとても印象に残りました。信仰を第一として時間を労力を振ることであり、手前にとってはこれまでの人生経験の全ても全てそこに活かすべきだろうと感じていたので、そういった意味でも、とても心に響きました。更に、「頭を使う」ことを意識するほどに、「頭の悪い自分には出来ない」と後ろ向きになる気持ちが湧いてくる時があります。簡単なことではないので失敗、試行錯誤は付き物です。しかし、それでも前向きになることが大事で、否定的な思いに駆られて足が止まってはならず、これは完全に罠です。他にも「他人と比べて落ち込む」という罠もあります。これについては『他人と比べることが不幸の始まりです。他人と比較しないようにしましょう。聖書の十戒にも「隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:17)とあるとおりです。他人と比べて自分が持っているお金が少ない、物を持っていない等と比較することで金銭欲、物欲等と罪を犯す糸口になるから神は人間を戒められているのです。(引用:真の聖書福音と預言「差別と侍の本義について」)』が参考になるでしょう。また、マタイによる福音書二十五章のタラントンのたとえにもあるように、それぞれ任されたタラントンに違いがあることも理解するべきです。個人的には、比べるなら「昨日までの自分」と比べ、「昨日の自分よりは前進する、積み上げる」ことを意識するようにしております。卑屈にならず、前を向くことが出来、自分に勝つ感覚を得やすいです。

 

ところで、「頭が良い」ことについて、以下のように解説している記事がありました。

「コツコツ努力する人」が強い

最近は大学入試の形態が変わってきました。同じ問題を一斉に解く一般入試以外に、自己推薦やAO入試という方法で選抜されるようになりました。

いわゆる入試の多様化です。

そこで感じるのは、受験日に向けて何年もコツコツと準備してきた学生というのは、やはりすばらしいということです。

個性やクリエイティブというより前に、合格するためにやらなければならないことを理解し、受け止め、それを長期にわたり持続することができる人は、当然ながら粘りもあります。

(略)

求められていることを正確にくみ取る

新たな付加価値を生み出せる人は、受験生型の努力を決して怠らなかった人という言い方もできるでしょう。

スポーツの世界でも、監督の立場からすれば「頭がいい選手」は大変にありがたい存在です。

たとえ身長が低くて体格には恵まれていなくても、頭がいい選手を監督は使いたいと考えます。

それは、監督が求めることをスピーディーに理解し、それを実行できるからです。

監督が自分に何を求めているかを正確にくみ取る。すなわち戦術理解力に長けているのです。

「この試合、相手がこう来るだろうから、今日はこういう戦術でいく。君はこういう役割だ。しかし、相手に大きな変化があれば、それに応じて変更する」と監督が伝えると、それをすぐに理解します。

 

引用:プレジデントオンライン

特別に何か一芸に秀でるよりは、求められていることを正確にくみ取り、継続して努力することが大事だと言っております。真の聖書福音と預言「成功するためには」でミカエル氏が『簡単に言えば、聖書に書かれてることを守り、実行し、それを死ぬまで継続すればええだけの話なんであり、何も複雑なことは無く、簡単なことです。違いは、継続してるか否かで、覚悟があるか否かです。やらへん人や途中でやめる人は、覚悟が甘いんや。』と言われていることに通じます。個人的には、これらの話にはとても励ましを受けました。『継続することは誰にでも出来る』のであって、手前にも可能です。そして、神の言葉を深く理解するため、聖書研究をする上で、国語力(言葉の知識、読解力、論理的思考)等が必要となり、これらも地道に培う必要があります。また、福音伝道をする上では聖書の知識、文章作成力、幅広く世の事柄に関する知識や動向等の情報収集力、問題点を説明する力、画像や動画等にして分かりやすく伝える技術、拡散を分析する力、実に多種多様な力が求められます。やるほどに時間があっという間に過ぎ、時間はいくらあっても足りません。

時間だけは神様が平等に与えて下さった。これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

 

本田宗一郎(本田技研工業創業者)

 

引用:folk

時間を如何に有効に使うかは、確かにその人の才覚であると思います。上手く利用することが「成功」に繋がるのも間違いないと思います。上記の本田宗一郎氏は『この世の中の成功者』と言っておりますが、キリスト者が目指すべきはこの世の成功ではなく、神の目に適うことです。世俗的観点からすれば、抜きん出た知恵を示している本田宗一郎氏ですが、聖書真理に拠った言動でなければ神の目には評価されません。時間の使い道は、即ち、何に対して力を注ぐかの選定が要であり、これを正しく制することは人生を制するに等しいと思います。

スティーブ・ジョブスが残した有名な時間の名言

この地上で過ごせる時間には限りがあります。本当に大事なことを本当に一生懸命できる機会は、二つか三つくらいしかないのです。

 

スティーブ・ジョブス(起業家・Appleの共同創業者)

引用:folk

世に名が知られたスティーブ・ジョブス氏ですが、彼の言動を確認した範囲では不信仰であったようです。彼はおそらくアップル社製品の開発と販売に人生を全振りをしたのだと思います。その彼をして、言わしめているのが地上で過ごせる時間には限りがあり、一生懸命励む機会は数少ないということです。個人的にはこの言葉にもとても共感します。全力を注ぐだけの対象は僅かな期間で終わるようなことではありません。大業である程にそうだと思います。簡単には到達出来ないような事柄だからこそ全力を尽くすのであり、複数年単位(中には数十年単位)の時間を捧げることになると思います。手前も仕事以外を顧みないと言っても良い程に仕事に全振りした時期がありました。その中でいささかの成果を出すだけでも十年単位で時間がかかりました。仮にそれほど時間が掛からなかったとしても、限りある人生の中で熱意を持って取り組める事柄との出会いは決して多くはないと思います。往々にして、手前のように世俗に全振りしてしまうの人がほとんどではないかと思います。故に、聖書真理と出会えたなら『先延ばしにするな、神の声を聞いた「今日」中に解決するように聖書(ヘブライ三章七節~八節、十三節、十五節、詩編九十五章七節~十一節参照)にあるさかい。決断するんは「今日」から出来るやろ。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)』と、速やかに向きを変えるべきです。「天啓」「使命」を認識出来たのなら、迷わず進むべきです。もう何年も時間をかけて励むだけの時が無いからです。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12705718578.html

 

五、神からの予告(二)

以下は、主イエスが裁きについて話されている箇所です。

 

マタイによる福音書二十五章三十一節から四十六節(参照)

人の子が御自身の栄光を携えて、全ての聖なる天使たちが彼と共に来られる時、彼はその栄光の王座に着くであろう。そして、全ての民が彼の御前に集められ、羊飼いが羊を山羊から分けるように、民を民から区別し、確かに、羊を御自分の右に、山羊を左に置くだろう。その時、王は王の右にいる彼らに言うだろう。「お前たちはこちらに来なさい、我が父に属する祝福された者たち、天地の創造からお前たちのために用意された王国を受け継ぎなさい。我が飢えていた時、お前たちは我に食べさせてくれたからである。我が渇いていた時、お前たちは我に水を飲ませてくれたからである。我がよそ者だった時、お前たちは我を泊めてくれたからである。裸の時、お前たちは我に服を着せ、我が病の時、お前たちは我を訪ね、我が牢にいた時、お前たちは我の所に来てくれたからである。その時、正しい人たちは王に答えて言う。「主よ、いつ我らが飢えたあなたを見て、食べさせ、渇いた時に水を飲ませたでしょうか。いつ我らはあなたをよそ者だと見て泊めたのでしょうか。 また、いつ裸で服を着せたでしょうか。更には、いつ我らが病や牢にいるあなたを見て、お訪ねしたでしょうか。王は答えて彼らに言うであろう。「確かに我はお前たちに言う。我が兄弟に属するこれらの小さい者の一人にしたのは、我にしたのと同じである。それから、王は左側にいる者たちにも言うだろう、「我から離れ去れ、呪われた者たち、悪魔とその使いに用意された永遠の火へ行け。我が飢えていた時、お前たちは我に何ら食べさせてくれず、我が渇いた時、我に何ら水を飲ませてくれなかったからである。我がよそ者であった時、お前たちは我を泊めてくれず、裸の時、我に服を着せず、病や牢にいた時、我を訪ねてくれなかったからである。すると、彼らも王に答えるだろう。こう言う。「主よ、いつ我らが飢え、渇き、よそ者で、裸で、病で、牢にいるあなたを見て、あなたに奉仕しなかったでしょうか。」そこで、王は彼らに答えるだろう。こう言う。「確かに、我はお前たちに言う。お前たちがこれらの小さい者の一人にしなかったのは、我にしなかったのと同じである。」それから、これらの者たちは永遠の罰に至るだろう。しかし、正しい人は永遠の命に至るだろう。

 

◉羊と山羊、右と左について(三十一節から三十四節)

冒頭の三十一節から三十三節について、過去記事「さまよう羊」でも触れましたが、ゼカリヤ書十章三節(参照)「我が怒りは羊飼いに対して燃えた。我は雄山羊を罰する。」のとおり、山羊は罰する対象となっております。また、同じマタイによる福音書十三章には麦と毒麦の例えがありますが、それと同じように羊と山羊との対比になっている所が同じです。神に属するか、世に属するかで明暗を分けます。そして、同じく過去記事「異邦人の道と悪の縄目と二つの刻印」でも触れたように、聖書において「右」には特別な意味があると考えられます。創世記四十八章十三節以降の箇所でイスラエルが右手をエフライムにかざすことでより大きな祝福を授けたこと、神の右の手(出エジプト記十五章六節・詩編百十八編十五節・イザヤ書四十一章十節等参照)、賢者の心は右側へ(コヘレトの言葉十章二節節参照)、神の右側におられる主イエス(マタイによる福音書二十六章六十四節・マルコによる福音書十六章十九節等参照)等から「右」には「左」には無い特別な意味(祝福、力、高潔さ、聖、等)があると考えられます。三十四節からも、王の右側にいる者たちが神の王国を受け継ぐ祝福を受けております。

 

◉ 「飢え」「渇き」「よそ者」について(三十五節)

三十五節について、「飢え」「渇き」「よそ者」等の言葉が並びます。個人的に興味深いと感じたのは右側にいる者たちも、左側にいる者たちも、自らがこれら窮乏した者に施した、あるいは、施していなかったという自覚が無い点です。例えば、レビ記十九章十節や三十四節等で貧しい者や寄留者への憐れみについて律法として書かれております。現代社会の道徳の観点としても適う行為であり、それらに対して施したことに、施さなかったことに無自覚でいられるだろうかと思いました。聖書には面の意味だけでなく、裏の意味として隠された象徴が多々あるので、ここでもそのような意味があるのではないかと考え、探ってみました。「飢え(πεινάω)」には、言葉通りの「飢える」「飢餓」の他に、比喩的な意味で「切望する」「懇願する」の意味があります。こちらについては真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」の『六、方々に飢饉と悪疫と地震(または騒動)がある』の箇所が参考となります。

現代ではかように悪いことを平気でする獣のような屑人間が社会に多く、のさばり、そのせいでまともな食べ物が無くなってきてまともな食品が入手困難になって、まともな飲食物がほぼ無いという状態は、ある意味で飢饉と言えよう。また、霊的な意味では、社会情勢が悪化し、信教の自由等の人権が制限されて、聖書が規制されたり、キリスト者が迫害され、神の御言葉を知らせる者が激減して求めても得られへんような事態が飢饉という意味であることに留意しなはれ(アモス書八章十一節参照)。そないな事態になる前に悔い改めて、清い生活をしていなければ救いは無いだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

 

霊的な意味での御言葉の飢饉が、もう一つの「飢え」として挙げられると考えます。偽福音だらけの状況は、あたかも食べ物が『遺伝子組み換えの作物や化学添加物等という毒が含まれる飲食物が意図的に広められてる』状況にも似ていると思います。手前自身、地上の教会に躓いて放浪していた時は、真の聖書福音を知ることが出来なかった故、「飢えて」いたのだと思います。当時は自覚がありませんでしたが、振り返るとそのようであったと思います。「渇き(διψάω)」については、言葉通りに「喉の渇き」もありますが、こちらにも「飢え」と同様に「渇望する」「切望する」の意味があります。そして、同じ原語はヨハネによる福音書四章十三節から十四節(参照)「この水を飲む者は誰でも渇くだろう。しかし、我が与える水を飲む者は決して渇くことはない。我がその者に与える水は、自身の内に永遠の命に至る水が湧き出る泉となるであろう。」でも用いられており、ヨハネによる福音書六章三十五節(参照)「我は命のパンである。我が許に来る者は決して飢えず、我を信じる者は決して渇くことはない。」から聖霊を指していると思われます。そして、聖霊をいただくためには神の掟を守る(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)前提があります。故に、水を飲ませることには福音を伝えるだけでなく、主イエスと新しい契約を結んだ者が神の掟を守るように励ます等の行為がこれに当てはまると考えました。行いは不要と考えるパウロ教信者は当然、これらを行なっておらず、水を飲ませなかったことに無自覚であったとしても不思議ではないと思います。次に、「ξένος(よそ者)」について、こちらには「異邦人(外国人)「不慣れ」「知らない人」の意味があります。異邦人については以下の通りです。

主イエスが、「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と戒めはったことに従い、異邦人たる西洋人の真似をすることを今すぐにやめるべきや。神の律法を無視して違犯する異邦人の生き方や慣習等に倣うと、反キリストになるからや。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」

古代イスラエルのヘブライ文化にこそ聖書真理、神の知識、神の律法、掟、戒めを守る思想や習慣、歴史が詰まっております。それ以外の異邦人にはそのような考えも慣習も全く無く、最初から堕落しております。更に、「泊める(συνάγω)」の原語の主たる意味は「集まる」であり、「(ある場所へと)通じている、繋がる」「導く」といった意味があります。マタイによる福音書十二章三十節(参照)「我と一緒に居ない者は我に敵対している。 そして、我と一緒に集まらない者は散らしている。」マタイによる福音書十八章二十節(参照)「二人または三人が我が名によって集まる所には、我もその中にいるからである。」の聖句から、神の律法、掟、戒めを守る真のキリスト者が集まることは神の御心です。

洋服を着るといった西洋かぶれをしながら神の王国に入れると思うな。主イエスは律法を守る人間を求めてはる故、異邦人である西洋人の文化や習慣なんて一切認めはらへんからや。律法に違反する洋服なんか着てては神に門前払いされると危機感を抱いて、変えろよ。このことに気付かへん、または、認めることを頑なに拒否し、「服装は何でも良いんだよ。洋服でいいんだよ。」とか「背広が良いんだよ」と言うなら、頭がおかしいんですよ。服装は何でも良いとか異邦人の服装を着用すべきという現代のあたおかの人たちは、聖書から洋服の正当性を答えられへんやろ。異邦人に倣う生き方を許容することなんて書かれておらず、むしろ主イエスは「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と教えはり、

 

引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」

引用文にあるように、服装は見た目で分かる判断材料です。古代イスラエルの末裔がいる日本でも、何も知らなければ洗脳されたまま洋服を着て生活している方がほとんどだと思います。手前も真の聖書福音を教わって、ようやく和服を着ることが出来ました。そこからも「よそ者だった時に泊めてくれた」とは、聖書真理も知らず異邦人の道を歩んでいた状態から、真の聖書福音を教えてくれて、真のキリスト道と兄弟の集まりへと導くことではないかと手前は考えました。「我はよそ者だった時、お前たちは我を泊めてくれたからである。」の言葉を聞くと、手前自身もそのようにしてもらったのだと、有り難さをひしひしと感じました。せめて手前に与えられた能力を最大限に行使して、これらのご恩に報いたいとの思いが自然と湧いてきます。

また、「ξένος(よそ者)」の原語が使われた他の聖句には「これらの人々は皆、約束を受け取ったのではなく、それを遠く離れて見て、確信して喜んで、自分たちが地上ではよそ者であり旅人であることを告白して、信仰を持って死にました。(ヘブライ人への手紙十一章十三節参照)」の聖句もあります。異邦人(の道)との捉え方だけでなく、世を愛さず、世の友とならず、世での繁栄を求めずに生きることでもあります。その信仰を共にする兄弟が「集まる」ために声をかけてくれたと捉えても意味は通じるものと考えます。

 

◉「裸」、「病」、「牢」について(三十六節)

三十六節には「裸」「病」「牢」の言葉が並びます。

「裸(γυμνός)」について、原語には「確信が無い」「あやふやな」、「ありのまま」といった意味があります。過去記事「裸の恥と白い衣」でも裸の意味を考察しましたが、やはり神の目に何ら評価されない状態を指すと考えます。先にも言及したとおり、何も知らず「ありのまま」とは理性が無い(善悪の判断基準を持たない)に等しいと考えます。それは真理に対して「あやふや」で、当然の如く「確信が無い」状態であると考えます。それに対する「服を着せる(περιβάλλω)」とは、神の目に適うための手助け(例えば、福音を伝えて悔い改めに導く、兄弟間であれば共に切磋琢磨することや叱咤激励する、鼓舞する等の交わり)が相応すると思います。また、興味深いのはこの原語に「投資する」「つぎ込む」の意味もあることです。真のキリスト者を目指して励む行為そのものでもあると考えます。

娯楽や快楽等に金と時間ばっか掛けず、聖書という永遠の命に繋がることに時間を投資せい。この世にある物に投資したかて、何の価値も無い。いずれ消滅するんやからね。この真実にさっさと気付き、行動や生き方を変えなはれ。

 

引用:真の聖書福音と預言「「パウロは偽使徒」の動画」

 

「病(ἀσθενέω)」については、こちらも過去記事で触れましたが、肉体的な病気の他に「(精神的な)病」「(社会が)病んで堕落した」状態の意味があります。少し世の動きについて触れますが、こちら(引用:X)で指摘されている通り、裏金(脱税)問題で政治倫理審査会が開かれている最中に、政府は地方自治法、日本電信電話株式会社法(NTT法)、放送法、プロバイダー責任制限法等の改悪を一気に閣議決定しました。何でもかんでも閣議決定で既に独裁かのようです。また、上川陽子外務大臣は衆議院予算委員会の中で、感染爆発に関する条約について『逐一国会の承認を求めることとしておらず、わが国としてこれらを締結するという行為を取らずにその拘束力を受け入れることになる』と恐るべき売国発言(引用:note)をしておりました。国会が機能するとも思えませんが、拘束力が生じる条約を進んで受け入れるのは生殺与奪権を世界保健機関(WHO)に与えるようなものです。何より憲法七十三条三項に「条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。」と明記しているにも拘らず、あまりにも酷い憲法無視です。少し前に、世界保健機関のテドロスが『WHOは誰にもどの国にも何も強制してない。ロックダウンもマスク義務も接種義務もその決定を下したのは各国政府だ(引用:X』と責任逃れ発言をしておりましたが、まるでそれに呼応するような上川氏の発言です。そして、政治倫理審査会での不法議員の話を聞いていると、こっちが具合悪くなりそうな程に正視に耐えない酷い内容です。ただただ、腐り切って、もう終っていると思わざるを得ません。元よりこの世に希望は無く、神の律法、掟、戒めを守り、神にすがることが真の希望です。

話を戻しますが「訪ねる(ἐπισκέπτομαι)」には、「(苦痛・心配・問題などを)和らげる」「安心させる」の意味があります。この世の悪については、聖書預言で予告されているとおり、彼らの悪が世で極まるのは避けられませんが、全ての悪を神が裁かれ、野放しにはされないことが救いです。先にも言ったとおり、義を全うしてくださる神だけが頼りです。また、ミカエル氏の記事において世の悪の詳細や抵抗の仕方、特に憲法に関わる知識は他ではそうそう得られない知識をご提供してくださっております。こういったことの一つ一つもこの原語と繋がっていると考えます。

 

次に「牢(φυλακή)」について、こちらは言葉のとおりに「監獄」「監視する」「逃げることが出来ない状況」の意味があります。「監視」と聞くと超監視管理社会が思い浮かびます。こちら(メモ・独り言のblog)によると、支那で中央銀行電子通貨を導入するために信用得点制度を更新したとの情報がありました。とうとう中央銀行電子通貨も導入され、改めて支那は支配層の実験国家なのだと分かります。『このスーパーマーケットで食品を購入するには、顔認証による支払いで最低650の社会信用スコアが必要になりました。』との実態や『「信頼できない人物」リストに掲載された』ことで『飛行機に乗ることを禁止され』、『「不動産を買えないし、子供も私立学校に行けない」』状態となり、『常にリストに管理されている』とは、奴隷そのものの扱いです。日本の近未来のようで暗雲が漂う報道です。関連して、国内ではどこもかしこも自動精算機が導入されております。自動精算機の中には現金が使えず、電子決済しか対応していないものもあります。こちら(サービス比較.com)を見ると、自動精算機の価格相場は、おおよそ百万から四百万円と非常に高額です。月割貸与でも月六万はかかり、耐用年数はたったの五年です(但し、厳密には「寿命」と同義ではなく、減価償却の計上のために定められている期間のようです)。自動精算機の導入の目的に人手不足への対応が挙げられておりますが、こうも高額では不利益が上回りそうです。これらは全て支配層の進める現金廃止に向けた伏線だと思いますが、利便性などに気を取られている場合ではなく、本当に危険な兆候だと思います。特に支那のことは他人事ではなく、信用得点制度と個人番号券、電子通貨やその他の社会基盤(健康保険証や運転免許証等)が一本化されると、支配層の意を受けた政府に恭順しなければ、買うことも売ることも出来ないヨハネの黙示録にある獣の刻印として機能してしまうようになるでしょう。便利に利用していたつもりが、支配されていたとならないように、これらの動きに反対し、電子決済も利用するべきではありません。安易に受け入れたなら悪の体制に従ったも同然です。自分の日々の振る舞いを客観視していきましょう。

話を戻しますが、個人的には「牢」と「逃げることが出来ない状況」の言葉から、真の聖書福音を知らずに会社勤めをしていた過去の自分を真っ先に思い浮かべます。「男は(必要以上に)稼がなくてはいけない」「人並みに家を持って生活するべき」などの考えに縛られ、しかし、社畜生活が苦しくて堪りませんでした。本音を言えば「心身共に辛く、仕事は辞め」たくてなりませんでした。そう思っている中年層(青年層でも)は多いと思います。「でも、食っていかねばならない」「借金がある」「家族を養わねば」と完全に身動きが取れない生活でした。前にも進みたくもなく、後ろにも下がれず、止まっているだけでも辛いとは、まさしく「身動きが取れない」状態であったと思います。「来てくれる(ἔρχομαι)」の原語は単に「行く」「来る」だけでなく、多様な意味があり、中には「同行する」「(ある方向に)至らせる」「成長する」などの意味もあります。これらの言葉を見ると、尚更に我が事に感じることばかりです。これらの聖句を踏まえると、世の友となって生きるのではなく、神に従って生きればもっと気楽に生きられる道があると踏み出す勇気にも繋がっていると思います。

 

 

◉「正しい」、「奉仕する」、「小さい者」について(三十七節から四十六節)

三十七節の「正しい(δίκαιος)」は、「罪の無い」「信心深い」「正確に・ちょうど」の意味があり、神の律法、掟、戒めを厳格に守る意味があります。律法廃止論など論外です。

また、四十四節の「奉仕する(διακονέω)」について、「(機能)を果たす」「(人)の役に立つ」の意味があり、真のキリスト者として兄弟で愛し合うこと(ヨハネによる福音書十三章三十四節参照)や隣人を愛すること、福音宣教の御命令に応えること、タラントンを活かすことにも繋がってくると思います。

そして、「小さい者(ἐλάχιστος」について、原語としては言葉どおり「最も小さい」です。参考までにエレミヤ書三十一章三十四節では「小さい者も大きいものも我を知るからであると主は言われる」と似たような言葉が使われており、こちらの「小さい者(קָטָן)」には「若い」の意味があり、取るに足らない、重要ではないといった使われ方をしていることから社会的身分が高くない、庶民を表していると考えます。主イエスご自身、世俗では高い身分ではなく、他人に対しても人によって態度を変えるようなことはされませんでした。そういった姿勢に倣うことを暗に示していると思います。また、正しい人たちは、身分の高い王に施しをした覚えはなくても、日頃の小さい者の一人に対する姿勢によって神の目に適ったのだと思われます。

 

総じて、マタイによる福音書二十五章三十一節から四十六節の箇所は神が真にお望みのことを示した箇所であると手前は考えます。四十五節の「確かに、我はお前たちに言う。お前たちがこれらの小さい者の一人にしなかったのは、我にしなかったのと同じである。」の言葉はとても重く、真の聖書福音をきちんと理解していること、自らも神の律法、掟、戒めを守ること、福音伝道等も出来ていること等が前提です。ましてや小さい者の一人がどこにいるかも分からないため、平素より当たり前のように出来なければ為し得ないと思います。そして、当該箇所は特別なことを言っているのではなく聖書全体に通じる教えそのままです。

 

六、結び

神の御意志を行うためには、この世の権威(常識という名の嘘、神学という嘘)を信奉せず、聖書から神が求められていることを正確にくみ取り、確信を持って、行動せずにはいられない心持ちとなっていることが必要です。そのためには広い道の教えに惑わされず、自分で聖書を通読し、文脈を理解し、そして、聖書研究も進めて確信を持つことが重要です。少なくともこの世の間違った者たちに、間違った行為を承認、賞賛されても全く意味はありません。むしろその逆を行くことになるので確固たる意思を持って、神の言葉を頼りに生きなければ到底歩き得ません。

真のキリスト者になりたいなら、この悪い世俗社会で金持ちになるとか、為政者の仲間になろうとか、大勢の人から好かれる等といった野望を捨て、多くの人々から嫌われるキリスト道を歩むと潔く覚悟を決めて進むことが重要です。何年も迷いながらのらりくらりしたり、この世を楽しむ、この世で生き長らえることを目指すようでは、臆病さを克服することも救われることも難しい。拙者が聖書の主イエスの教えを引用して言うてるとおり、自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活してなければ、何かを失う恐れが出てきてしまい、臆病さを克服することは不可能やからや。社会的地位を保持したり、財産を保持したり、人脈等といったこの俗世の人間関係や交友関係を保持しようという思いが強いと、それらを失う恐れが救いの邪魔をするんや。それ故、主イエスは財産や社会的地位も余計な人間関係(人脈)も持たず、すべてを捨てるように教えはった。かように、神のためにすべてを捨ててる人は強いのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」

『自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活』することは、決して簡単ではないと思います。やはり覚悟一つに懸かっております。思い切りが悪かったり、中途半端が一番良くありません。個人的には、中には捨てたくても捨てきれない思いがあり、葛藤もありました。しかし、それでも捨てることで開放感を得られました。持つほどに失う恐れが出てくるのが世の事柄だと思います。捨てきれなければ余計な誘惑に遭い、却って苦しい思いをするでしょう。そして、自分を捨てられなければ、神の御心を思う余裕すらなくなります。このことは日々実感します。

死後の永遠を決める試し(人生)の中に我らはおり、神は御自身に忠実であるかどうかを見ておられます。自分を捨て、神に全振り出来るように、神の御心を意識して、全身全霊で応えて参りましょう。

 

真の聖書福音を教えて、成長できる場は他に無いと言っても過言ではありません。真のキリスト者として生きたいと覚悟される方は、残された時を(「兄弟の集いの場」を経て)教会で共に学び、切磋琢磨して参りましょう。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。