こんにちは。

今回は「真の秩序と神に拠る幸福」と題して、神の創造の秩序が真の秩序であり、死後の永遠を神の王国で生きられることが真の希望であることについて述べていきます。

 

  悪い世の偽りの秩序

 

コロナ犯罪が起きて約三年、明らかに世の中がおかしいと気付く人は以前よりも増えてきたように見受けます。それはコロナ犯罪だけに端を発するのではなく、(日本国民の生活が脅かされる)政府の愚行が余りにも目に余るようになったからだと思います。例えば、個人番号券制度について、任意であったはずがいつの間にか医療保険証と関連付けられ、紙の保険証は廃止されることが勝手に決められました。個人情報が漏洩し、日本国憲法十三条の私事権が侵害されているにも拘らずです。更に、個人番号券と一体化した医療保険証を所持せず、資格確認書を利用して受診した場合には窓口負担が割高となります。これは、正当な理由が無く、属性や信条を理由に不利に扱うことであり、憲法十四条で禁止されている差別に該当するため、到底このような行為が許されるべきではありません。他にも預金口座は既に関連付けられ、更に、運転免許証等の生活に不可欠な基盤との一体化も予定されており、政府が管理する個人番号券が土台にあることを考えれば、政府に生殺与奪権を握られる懸念があることに気付くべきです。一旦出来上がったら元に戻すことは困難です。

こちら(東京新聞)では、経団連が少子化対策の財源について『消費税などの増税から逃げてはいけない」』と国民生活を無視して勝手なことを言い、政府に増税を提言する始末です。彼らは政党に献金を行い、影響力を行使し、政党はまるで彼らが株主やテレビ番組の広告主であるかのようにへつらいます。とかく大企業や会社経営者らによる経団連等は国政を私物化し、国民主権を蔑ろにしております。選挙を経た訳でも無く、国会議員のように公務員として法的義務を負う訳では無く、ただ経済力と社会的地位があるだけで国政を意のままに操ろうとする傲慢が目に余ります。現在に至る国民生活の悪化を見れば明らかなように、彼らの提言を採用した所でろくな結果を生みません。

こちら(読売新聞)では、長野県安曇野市において、滞納していた水道料金を支払ったにも拘らず、水道料金の検針・徴収等を委託されたヴェオリア・ジェネッツ社が七十日間も給水を再開しなかったとの不祥事がありました。『委託業者の担当者が、今後の水道料金の支払いに不安を感じた』という主観的理由で命に直結する水道を開栓せずにいたとは命の軽視が甚だしく信じられない出来事です。実際、七十日も水道が停められてどうやって生活していたのか、当事者の生活実態も気になりますが、だからこそ本当は滞納の背景を行政がきちんと把握するべきなのだと思います。ネット上にあるヴェオリア社の水道事業業務求人サイトを見ると、「口コミ」では同社の弛んだ社内の雰囲気を指摘する声が有り、まともな人ほど短期離職する傾向にあるとの見解があり、こんな会社に委託しているかと思うとぞっとします。民営化の弊害であり、起こるべくして起きた事件なのだと思わされます。市は男性に謝罪したとありますが、それで済む話ではありません。本来であれば市と委託業者を相手取って不法行為に基づく損害賠償請求をするなど責任を追及するべきです。そうしなければ弛んだ市と委託業者はまた同じことを繰り返す可能性があります。同様に、民営化の害として、物価高騰に経営が悪化して、給食事業が停止した(Business Journal)との報道もありました。二千十年代には民営化を進める動きが既にありました(参照:日経新聞)。給食は、かつては市町村直営の機関で作っていたと認識しております。しかし、民営化されたことで、破綻して提供出来ない事態が生じております。本来、速やかに元に戻すべきです。民営化の問題を起きてから嘆いても遅く、この構図は憲法改悪や個人番号券などあらゆることに通じます。想像力と思考力を働かせて、如何に最悪を防ぐかが大事であると分かります。

また、こちら(Yahoo!ニュース)では、令和四年の国民生活基礎調査から、日本の相対的貧困率が米国や南朝鮮よりも悪化して、先進国で最悪となったことが明らかとなりました。「真の聖書福音と預言 日本人の問題点 二」の記事でも触れておりますが、南朝鮮にも平均給与所得額を追い越されたわけですから、このようになるのも当然の帰結です。他の記事でも言われておりますが、これでは未婚率も上昇し、少子高齢化が進み、国が滅ぶ条件がますます揃いつつあります。こちら(TBS NEWS DIG)では、空腹に耐えかねて百四十円のパンを盗んだ男性の話があります。六十二歳とのことで、年金を早めに受給すれば金額は減り、扶養してくれる家族がいなければあっという間に困窮してしまいます。中年世代の手前としては、ある程度に豊かであったはずの社会がどんどんと崩れていく様相をまざまざと感じております。ほんの十年前、二十年前の生活と比べても悪い方に一変しており、明らかに政府によって悪い方向へ促進させられていると分かります。

他にも、内閣感染症危機管理統括庁が太陽暦九月一日に発足しており、以前から次の感染予告として『BA.2.86』が示唆されており、早速に国内で確認されたとの報道がありました(参照:note)。出来過ぎているのは全て自作自演だからでしょう。米国ではマスク着用義務が再燃しており(参照:Forbes japan)、こちら(BrainDead World)によると『全米7州に50以上の病院を持つ医療組織が「すべての医療従事者に新たなワクチンの接種義務」を通達』したとのことです。うんざりする光景がまたもや繰り広げられようとしております。こちら(X)では『今回のワクチン打った人が政府の発表の通りに約8,000万人いるとして、2021年からの超過死亡者数が既に36万人。接種者の0.4% 250人に1人が既にワクチンで死んだことになる。自分の知り合いも21年から9人亡くなってる。』とあり、甚大なワクチン死が生じていることが分かります。こういった情報は本来であれば新聞やテレビで報道されるべきですが、支配層に掌握された報道機関は全く報じません。そればかりか、こちら(JIJI.COM)のように、『違法投稿削除、指針策定要請へ ネット中傷対策で運営者に』『国内外を問わず、SNSなどの運営事業者に対し、違法な投稿を迅速かつ適切に削除する「責務を課すべきだ」と明記。事業者に投稿削除の判断基準などに関する指針を策定・公表させることを目指す。』とあることから、ユーチューブと同様に政府等の見解と異なる情報、特にコロナ犯罪関連の情報が規制されることが濃厚と考えられます。事実、世界経済討論会(WEF)は新型コロナウイルスについて、政府の公式見解に疑問を呈したり、従うことを拒否した者には『COVID強制収容所』に投獄するように要求しております(参照:メモ・独り言のblog)。

 

画像引用 https://x.com/nobu_conscience/status/1706595117451333734?s=20

 

上記は検閲によって言論が規制されている実態を露わにしております。新型コロナワクチン接種後、障害が生じて車椅子が必要となった女性の声として『Yahooで調べてもグーグルで調べても全く何も出てきません』『Twitterを開けてみて愕然としました』と言っております。Xの情報は玉石混交ではありますが、それでも報道機関の情報よりも真実を伝えております。SNSのような自由な言論空間が世の権威たる報道よりも有益とは皮肉です。そうしたこともあって、こちら(X)によると連合国(UN)は、Xの『誤情報拡散に苛立ち、誤情報対策の中央機関を設立』する予定のようです。まずは、新型コロナウイルス(コロナ犯罪)と気候変動(詐欺)が対象のようですが、人口削減には欠かせない事柄なのだと思われます。事実、「気象変動」(詐欺)については、こちら(Total News World)によると元米国大統領のクリントン氏とローマ教皇が『気候変動の「大惨事」に対処する緊急性を強調し、「手遅れになる前に」地球規模の沸騰と戦うことを誓った』と発言しており、中でもローマ教皇は『「大惨事」は「利己的な心に煽られた消費者の貪欲さ」の産物』『「気候変動」に対処するための共産主義的な政策を提案した』と主張しております。このローマ教皇こそ新世界秩序に君臨する、ヨハネの黙示録に記されている獣です。気候変動についてはキリスト道(本拠)の当該箇所、参考動画をご覧いただくとその嘘の実態がよく分かります。『「気候変動は巨大産業」、「温暖化に関わる仕事は宗教。賛同せえへんと異端者、異常者扱いされる。」とまで言われてる。構図がコロナ犯罪とまったく一緒』とある通りです。なぜこのような嘘をでっち上げるかと言えば、この嘘を利用して大きな再設定(グレート・リセット)を行うためです。そのことがクリントン氏とローマ教皇の発言からも分かると思います。何より、これらは連合国(UN)の『持続可能な開発のための2030アジェンダ/SDGs(参照:環境省)』としても謳われていることであり、如何に世の権威が主導してこれらの悪を為しているかが分かります。当然、国内においても岸田総理が以下の画像にもあるように『グレートリセット』と言及していることから、全て足並みを揃えていることが分かります。

それぞれの政策等が、表向きは良い意図がある「正しい」こととして進められております。しかし、その末路はかつて無いほどの暗黒社会です。

 

 

支配層の言う「問題(気候変動や感染爆発など)」は最初からありません。善意を装って、人々を、社会を正しく導く装いをしながら、その内実は獰猛な狼であり、滅ぼすこと(人口削減)が狙いです。「お前たちは偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の皮を身にまとってお前たちの所に来るが、心の奥は貪欲な狼である。(マタイによる福音書七章十五節参照)」の言葉は彼らにも当てはまります。マタイによる福音書十章十六節でも主イエスは十二使徒たちに「我はお前たちを狼の群れに羊を送り込むように遣わす。だから、蛇のように賢く、鳩のように純粋であれ。(参照)」とも言われましたが、狼は「残忍な者」「貪欲な者」を意味し、翌節では「狼の群れを警戒せよ(参照)」と御命令されている程です。同じように、これまで挙げて通りにこの世全体が、世の権威たる悪しき者に支配されている(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)のですから、警戒して当然です。何かにつけて、世の悪に言及すれば『陰謀論』と決めつけて一笑に付す動きは今でも変わりありません。彼らの言う理屈(世の権威の公式見解)に合わないから、あるいは、明確な根拠が無い等と彼らは言います。確かに、各論の細かい点、例えば気象変動詐欺におけるコンピュータの予測、コロナ犯罪における遺伝子配列云々となると門外漢には分かりかねる点が多々あります。しかし、『そもそも、コンピュータで予測等をしたって、それは「机上の空論」でしかあらへん。この事実にええ加減気付くべきやな。物理っていう学問自体嘘が多いし、数字を捏ねくり回すだけで実体が伴わへん。ただ小難しい計算や理論等で煙に巻き、騙す。これこそ支配層の狙いや。(引用:キリスト道)』とあるようにこれこそ彼らの常套手段です。こちら(字幕大王)では、コロナ信者の理系大学院卒の研究者が小難しい理屈を並べ立ててコロナ犯罪を擁護していることについて触れておりますが、拠って立つ「新型コロナウイルスの存在証明」が無いが故に、論破されております。そもそもが嘘の上に成り立っているので、各論の詳細を知らなくても話の骨格や大筋の矛盾に気付くことが出来るのだと分かります。支配層及びその子飼いたる世の権威(連合国、政府等)の誘導が足並みを揃えていることや、あまりに出来過ぎている出来事が起きていること、聞こえは良くても人々のためにはならない悪い結果が予測出来る政府等の政策があれば大いに警戒するべきです。最近は、確かに「新世界秩序」や「mRNAワクチン(酸化グラフェン)によるloB(internet of Body)」の話を出しても、一時期よりは耳を傾ける人が増えたように思います。しかし、ただ気付いただけで満足したり、気付いた者同士で群れるだけでは意味がありません。実際、支配層に世が牛耳られている構造は強固で揺るがないからです。世の悪を糾弾し、人々にも知らせ、大勢で悪に抵抗するべきです。残念ながら、日本では諸外国のように大勢で抗議をすることも叶わない程に人々は眠り続けております。また、的中率十割の聖書預言からも世の悪化が止められないのも事実です。神がご計画したことは必ず成るからです。それではどこに希望があるのか。希望は主イエスを信じる信仰に在ります。主イエスは近い将来に来臨され、神に従わない罪人を滅ぼし、神に従う正しい者をお救いになります。その裁きは正しく確実です。神に認められた者は、この世とは異なり人間の汚れが一切存在しない永遠に存続する神の王国で、復活して神と共に生きることが出来ます。これが希望です。この世には一切の希望はなく、全ては新しい天と地で生きることが唯一の希望です。あらゆる悪は裁かれ、そこには存在しません。個人的な話ですが、初めて「永遠の命」の言葉を聞いた時に、この世の延長の世界としての御国があるのだと勘違いして捉えたことがあります。完全なる誤解なのですが、手前は(誤解したその内容に)何の希望も持てませんでした。またこの世と同じ苦痛があるのかと思うと、それが永遠に続くのかと思うと筆舌に尽くしがたい拷問のように思えました。それならばずっと眠りについていた方がましだとさえ思いました。しかし、実際には死も悲しみも涙も労苦も無い(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)とある通りです。そして、時は既に終末であり、この天地が存続する期間もあと僅かです。世の真実を知ろうとする人は少なからずおります。しかし、聖書を手に取り主イエスを信じようとする者は非常に少ないです。確かに主イエスに招かれなければ、心から信仰を持つことは不可能です。それでも、世の真実を知るだけでは、将来の見通しが暗く、何の希望も持てずに悲観的にしか生きられないのではないでしょうか。束の間の息抜き程度に食べることや眠ることや娯楽や知識欲を満たした所で、全ては無に帰します。世の真実を知るだけの理解力があるならば、却ってこの虚無感に押しつぶされそうにならないでしょうか。手前は信仰を持つ前に「この世に終わりが来たら」と考えただけで虚無感に押し潰され発狂しそうな気分を味わったことがあります。目を背けることでしかその虚無感を凌げませんでしたが、聖書を知れば神の創造の秩序、御計画、救いがあることが分かります。ここに辿り着かずして、世の真実を知ることが出来たとしても、その理解力は真の知性とは言えません。神を畏れることで、神を知り、神の秩序を知ることが出来ます。それこそが真の知性です。

 

 

  真の秩序

 

支配層は新世界秩序を構築しようとしております。それは今の既存の社会の枠組みとは全く異なる超監視管理・超共産主義社会です。支配層が管理がしやすい人口が削減された社会、ごく少数の支配層と大勢の支配される層から成る、反キリスト色が極まったサタンの秩序です。支配層の一員であるビル・ゲイツは、過去に堂々と人が増えすぎたので人口削減する必要があると述べました(参照:ユーチューブ)。気候変動(実際は嘘)を防ぐために二酸化炭素を削減する、生態系を維持するといった一応の建前を言いつつも言っていることは大量殺人です。世のあらゆる法においても殺人は重大な不法行為(犯罪)であり、法に拠らずしても良心に照らしてやってはならないことです。もちろん律法においても重罪です。そもそも辻褄の合わない支配層の理屈で地の人口を減らすとは勝手極まりない傲慢な考えです。主なる神は「産めよ増えよ(創世記一章二十八節、九章七節、三十五章十一節参照)」とは仰いましたが、その逆のことを言ったことはありません。如何に支配層の言う「(新世界)秩序」が神の言葉に反しているかが分かります。そもそも秩序とは『① 物事の正しい順序。② 社会の諸要素が相互に一定の関係・規則によって結びつき、調和を保っている状態(引用:スーパー大辞林)』です。そして、「新世界秩序」に至らなくても、聖書の真理が世の人々の基軸に据えられず、地球球体説や進化論などの偽りが常識として教えられている状態からして、既にこの世は偽りの秩序の下にあります。創世記にあるように悪しき者もまた世の始まりには既に存在していたためです。この世はまさに神とサタン、神に従う人間と世に従う人間との戦いの舞台です。但し、神に従う者は圧倒的に少数(マタイによる福音書二十二章十四節参照)で、キリストの名を口にしたとしても神の律法、掟、戒めを守る真のキリスト者は殆どいないため、惑わされないように注意が必要です。

 

ところで日本語聖書で「秩序」と検索すると、新共同・新改約・口語訳でも、さほど多くの箇所で用いられてはおりません。その中で共通して「秩序」と訳されていた箇所はヨブ記十章二十二節「闇の国、闇のようである。 秩序の無い死の影、光が暗闇のようである。(参照)」です。「光が暗闇のよう」とは矛盾した、倒錯した言い回しだと思います。ここではヨブが陰府について言及しており、その様はまさしく闇が覆い、今の天と地のように光があって闇がある(創世記一章五節参照)秩序とは、根本的に異なる空間なのでしょう。『秩序(סֶדֶר)』の原語を確認すると、このヘブライ語は当該箇所でしか用いられていない単語でした。そして、「秩序」以外にも「計画」「(きちんとした)配置」「命令」「順序」といった意味があります。これらの言葉から主なる神の御性質が十分に窺えます。

 

『計画』について、「最初から終わりを告げ、古代からまだ行われていないことを宣言する。我が計画と我が目的は全て成就する。(イザヤ書四十六章十節参照)」「我は最初から過ぎたことを告げてきた。我が口から出た事を伝えた。 突如、我は事を為し、実現した。(イザヤ書四十八章三節参照)」「お前たちは我が近くに来て、これを聞け。 我は最初から密かには語っていない。 事が起こる時から我は居る。(イザヤ書四十八章十六節参照)」などと神は言っておられます。全知全能の神は全てを見越しており、始まりと終わりも全てをご存じであり、救いに関わることも全ては神のご計画の内にあります。

 

また、『配置』についても、例えば「我は、貴方の各天を、貴方の指の業を、貴方が配置された月や星を思います。(詩編八章四節参照)」と天体も神が規則正しく配置されたことを言っておられます。また、「天の下では、全てに季節があり、あらゆる目的には時がある。(コヘレトの言葉三章一節参照)」の言葉に始まり、三章一節以下にて、生まれるにも死ぬにも、愛するにも時があると語られ『神がその時になさる全ては素晴らしい。また、人々の心に永遠を置かれた。(結果的に)人は神のなされる御業の初まりから終わりまでを分からない。(コヘレトの言葉三章十一節:私訳)』と言われました。これらは御計画と関連しますが、時を適切に配置していることが分かります。この人知を超えた神の配置(秩序)は深淵と言っても良いほどの神の奥深さであり、神を崇めずにはいられない思いに手前は駆られます。教わった事柄ですが、我らは、心に永遠という途方もなさを思うが故に、いつ何があるかが分からなくなり、今の状態もずっと続くのではないかと錯覚してしまいます。時には限りがあると頭では分かっても、なかなかそれを踏まえた行動が簡単には出来ないことは誰もが経験しているのではないかと思います。『あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。(ヤコブの手紙四章十四節:引用 真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」)と言われているのですから、その言葉を弁えて、終わり間際のこの時の意味を理解して、現実逃避せずに備えるべきです。神は万物を適切に配置し、また、御計画されております。

 

「命令」については、例えば『アブラハムが我が声に従い、我が命令、掟、戒め、律法を守ったからである。(創世記二十六章五節:私訳)』と神の御命令についての言及があります。『מִשְׁמֶרֶת(命令)』は「責任を課す」という意味があり、原義は「注意して見る」ことや「見張る」といった意味もあります。更には、「法令」や「布告」の意味もあり、それ自体に法的な意味合いがあり、神の律法・掟・戒めに通じるものと考えられます。主なる神の仰せなのですから、そのような意味を持つのも当然であると思います。御命令されるからには意味があり、神は善で義なる御方であるが故、悪や不義とは何ら無縁であり、そのようなことをお赦しになりません。聖別される主は、罪(悪・違犯)を犯して人が死ぬことがないようにとご配慮の故に神の御命令を守るようにと言われました(レビ記二十二章九節参照)。また、『イスラエルの人々に言い、彼らに命じなさい。彼らの後世まで着物の端に房を作り、端の房を青い糸で結びなさい。それはお前たちの房とし、それを見て、すべての主の掟を思い出し、それらを守りなさい。お前たちは後に偶像崇拝を犯し、お前たちの心と目が従ってそれらを見出だそうとしてはならない。(民数記十五章三十八節から四十節:私訳)』と、着物の房は主の掟を思い出すためのものであるとも書かれております。ちなみに『מִצְוָה(掟)』の原義は「命令」であり、神の命令が如何に秩序を形作っているかが分かります。他にも、神からの『御命令』であることを考えると、命令に関する事項を厳粛に受け止める必要があります。例えば、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」にて、『主イエスは、「いちじくの木の例えから学びなはれ。」と御命令しはってるにも拘らず、パウロ教徒はその主イエスの御命令に逆らい、この世の情勢について学ぼうとせず、律法を守らんでええとか艱難期前に携挙される等といった虚偽の作り話を言う牧師等といった偽教師の言うことを鵜呑みにし、真実の情報を拒絶する。せやから、この点においてもパウロ教徒は主イエスに逆らう反キリストと言える。こないな愚民は、不信仰者と共に支配層の家畜となる故、支配層と同様に神から忌み嫌われる悪人や。』とミカエル氏が言っております。聖書で数多ある『御命令』を果たして、どのくらいの人が御命令として確と受け止めているでしょうか。パウロ教徒がパウロ教徒である所以は、神の言葉よりもパウロ書簡に端を発する「神学」を優先することにあります。主イエスは掟を守れ(マタイによる福音書十九章十七節参照)と言われたにも拘らず、神の掟を守らず、人間の言い伝え(パウロ教神学等)を固く守っている(マルコの福音書七章八節参照)のが実態です。手前も教わりながら聖書研究をする中で、命令形で書かれていることの意味を意識するようになりました。最初の頃は命令形か否かの違い、話し手の意図をきちんと考慮出来ずにおりました。しかし、仮に、自分が話す側となれば、命令するからには相応の意味があり、決して軽く受け取ってはならないと分かります。神の言葉に対する注意深さを持てるか否かが命運を分けます。

 

最後に「順序」について触れます。『最初に、神は各天と地を創造された。(創世記一章一節:私訳)』『我はアルファでありオメガであり、初まりであり終わりであり、最初であり最後である。(ヨハネの黙示録二十二章十三節参照)』と単純にして明快に順序について触れております。万物を創造されたのは神であり、この天地を終わらせるのもまた神です。何が先で、何が後に来るかは、全て神に拠り、神が御計画され、神が掌握されております。『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」』『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)創造主たる神が創造された世界に存在しながら、神を認めず、その中で自分勝手に生きることはただの愚か(無分別)でしかありません。不信仰者は、自分の信じたいものを信じ、自己中心を否定されることを嫌い、大概は神を否定することを口にします。また、世に生きる上での不平不満を神にぶつけることもしばしばです。本来の順序、人間の上位にある神が人々に認識されず、不遜且つ不敬な行為が横行しているのがこの世の実態です。

 

申命記二十七章十八節(私訳)

盲人を道に迷わせる者は呪われる。民は皆「然り」と言った。

 

盲人(עִוֵּר)』は、文脈上は文字通りの肉体的な意味での盲人(目の見えない人)であり、盲人を道に迷わせてはならないと言っております。常識的に考えてもその通りであり、そのようなことは普通であれば考えもしないことです。もしそれを行い得るのであれば、その悪意たるやおぞましさを覚えます。数ヶ月前に、路上生活者にコンビニで商品をおごると装い、商品が入った買い物かごを女性に持たせたまま、会計所前に置き去りにする様子を動画に撮影してSNSで拡散していたという事案がありました(参照:産経新聞)。善意を装って悪意を為す構図は盲人を迷わす行為に似ております。本来、盲人を案内しようとすることは善意ですが、過失によって結果的に迷わせてしまったのとは異なり、意図的に「迷わせている」のですから、それは悪意に他なりません。さながら、悪魔崇拝者の支配層のようです。騙す、嘘をつくは悪魔の性質です(創世記三章六節、ヨハネによる福音書八章四十四節参照)。そして、『盲人(עִוֵּר)』の原語自体には、比喩的な意味も有り、「気付いていない」「見境がない」「盲目的」などの不知、精神的な状態を表す意味があります。そのような観点で捉えると「盲人」とは、誰にとっても決して遠くない事柄であると分かります。むしろ、我々は誰しもが盲人であった所から始まっていると言えます。聖書真理を最初からきちんと教わり、知っていたという人は殆ど居ないと思われます。真の神の民としての国家は途絶えており、今やこの日本に末裔を残すのみです。それでも正しく聖書真理を受け継ぐ仕組みは無いに等しいです。神の秩序(真理)を教わることはなく、学校教育や社会全般を通して、偽りの秩序(地球球体説、進化論、政府・行政等の世の権威信仰、太陽暦、西洋かぶれ、科学信仰、学歴信仰、拝金主義、多数派志向、地位・名誉志向、この世を謳歌する等)を植え付けられるのが実態です。主イエスはファリサイ派の人々に対して、「彼らは盲人の案内をする盲人であり、盲人が案内をすれば二人とも穴に落ちてしまう(マタイによる福音書十五章十四節参照)」と言われました。現実社会を見ると、偽福音の問題もありますがそれ以前にも、偽りを植え付けられた世の大人が、自らを教養を身につけた正しい人と信じて疑わず、せっせと偽りを教え続けている様は同じ構図であると思います。マタイによる福音書十五章十四節の『τυφλός(盲人)』は文脈の通り、精神的に、知的に「盲目」であることを指しております。また、原語としても申命記と同様に身体的な意味と両方の意味があります。更には原義に「不透明な」「曇った」の意味があることが個人的には印象深く感じました。案内する方の「盲人」も完全に見えないのであれば、自分は見えるとは認識しません。しかし、不透明だったり、曇った状態であれば、幾分かは「見える」と思って過信してしまう危険があるのではないかと思いました。また、『βόθυνος(穴)』には、「溝」「落とし穴(罠)」「地獄」との意味があるのも非常に印象深く、単に失敗しただけでは済まない酷い結果が伺えます。偽福音信者にしろ、世の権威信者にしろ、真の聖書福音に辿り着かなければその末路は酷いものとなるのは変わらないと思います。

 

そして、「秩序」の反対は「無秩序」です。新共同訳で『秩序を乱す』と書いてある箇所がレビ記十八章二十三節と二十章十二節にあり、それぞれ獣姦と姦淫をしてはならないと書いてる律法の箇所です。『תֶּבֶל(秩序を乱す)』の原語は上記二箇所のみで使われており、主に性的倒錯に対して、神の創造の秩序への侵害としての「混乱」の意味があります。原義は「入り混じったもの」ですが、それによって神の秩序への相反を引き起こすため、秩序を乱すとの言い方はその通りと考えられます。また、新共同訳で「無秩序の神ではない(コリントの信徒への手紙一 十四章三十三節参照)」とある箇所について、原語を確認すると、こちらも先と同様に『ἀκαταστασία(混乱)』とありました。他にも「不安定」「異常」の意味があり、やはり本来在るべきものから外れていることを表しております。

以上、ここまで原語にある「秩序」の言葉に着目して見えてくるのは、神の創造の秩序であることは明白です。

 

 

詩編十九章九節(私訳)

主の命令は真っ直ぐで心を喜ばせる。主の掟は純潔で目を明るくする。

 

詩編六十四章十一節(私訳)

正しい者は主によって喜び、主を信頼する。心が真っ直ぐな者は皆、神に栄光を帰す。

 

「真っ直ぐ」という性質については過去記事で何度も触れましたが、改めて触れさせていただきます。詩編十九章九節について、「פִּקּוּדִים(命令)」の原義は「決められた」であり、それは「」でもあり「(神の)御命令」でもあります。言うなれば神の秩序を構成するものであり、それは『יָשָׁר(真っ直ぐ)』であると言われております。人は本来、それに従うように造られました。また、『יָשָׁר(真っ直ぐ)』の原語に「満足する」「喜ぶ」の意味が含まれていることも象徴的です。まさにこの聖句の通りです。その反対については、「彼らの道は曲がっていて、それらの道の故に手に負えない(箴言二章十五節参照)」とある通りです。『עִקֵּשׁ(曲がった)』には、まさしく「間違った」「事実に反する」「不正な」の意味があります。神を認めない道はどこまでいっても真理に反して間違い続けます。万物の根幹は、神だからです。

 

ところで、「曲がった」について、下記の画像のように、司法においても医療業界においても、上層部等周囲の顔色を窺い、正義が蔑ろにされる現実があります。正義を愛する神(詩篇三十七編二十八節参照)の御性質からして、また、『為すべき善を知りながら行わへんのは、その人には罪や。(ヤコブの手紙四章十七節 引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』の言葉からしても、神が忌み嫌う行為でしょう。何より、神を思わず、保身のために権威ある者を優先するのは偶像崇拝とも言えるでしょう。まさに曲がった道です。

 

 

また、以下のようにmRNAワクチンに欠かせない技術を開発した者が「ノーベル賞」を受賞したようで、ワクチン信者が「世の権威が認めているのだぞ、どうだ」と言わんばかりの投稿が散見されました。

 

画像引用:https://x.com/watch_sss/status/1709006985084170362?s=20

 

実に愚かな発言です。『ノーベル賞というのは偽りの名誉賞で、偽ユダヤ人(特にロスチャイルド家)の利益や目的達成の功労者に贈られるもので、受賞者の大半は世界に貢献した偉人ではありません。(引用:真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」)』の通りであって、世の権威を形作っている支配層に認められたに過ぎず、むしろ神の目には不名誉以外の何者でもありません。支配層の嘘を肯定したいがための見え見えの芝居です。むしろ、嘘であることを公表しているようなものです。ただ、偽りの秩序しか知らない世の権威信者にとっては非常に有効なのでしょう。確かに、世に従えば賞賛を浴びます。逆に、偽りの世の秩序を弾劾すれば、世の権威によって弾圧を受けます。世の権威にとって都合が悪いと看做されることは、真実であり、真実であるが故に迫害を受けます。それが極まると獣と獣の像を拝まない者は殺される(ヨハネの黙示録十三章参照)ようになるのが目前に迫った大艱難期です。

 

 

しかし、聖書は「お前は不正義な者を羨むな、その道を決して選ぶな。(箴言三章三十一節参照)」と言っております。同様の聖句は詩篇三十七章一節でも言われており、「お前の心は罪人の故に妬むな、それどころか、いつも主を畏れよ(箴言二十三章十七節参照)」との戒めを肝に銘じるべきです。

 

また、ここ数年来、世の悪を暴露する動画等もたくさん作られるようになりSNSや動画投稿サイトでも視聴出来ます。個人的に最近見かけた中で、以下の画像にある動画が気になりました。

 

 

元動画はユーチューブ(真実の扉)で見ることが出来ます。過去記事で紹介したことがある社会風刺の動画(Steve Cutts)にも似ていて、教育や政治や医療、報道、等の歪んだ世の常識や実態を分かりやすく伝えているとは思います。大勢が目覚めて、支配層に従うのを止めればその虚像が脆くも崩れ去るとの内容もその通りで、悪を悪と指摘し、周知し、真実を伝えること自体は良いことだと思います。しかし、聖書預言では悪がこの世を支配し、特に大艱難と言われる終末はかつて無いほどに世は悪化するとあります。最後、その悪もろともに天地を滅ぼし、全てを裁くのは来臨された主イエスです。一般的にこの社会で認識される善悪は、構成される社会文化等によって変動する危うさがあります。しかし、聖書は明確に、全人類に関係し適用される善と悪が何であるかを伝えております。しかし、上記動画では真理に拠らず、むしろ『自分自身が希望の光である』とニューエイジ・スピリチュアルに誘導しております。真実に虚実を混ぜる内容で非常に巧妙であり、同時に非常に有害です。世を支配する悪がなぜ存在するか、人間の起源がどこにあるかの根本に答えられなければ小手先でしかありません。詰まる所、真理である聖書に一致しない話は全て嘘です。もっともらしく見えても、真理や神の律法・掟・戒めの遵守、神に認められる品性に到達すること等に言及しない話は全て偽りです。何より、動画の冒頭で『人類の覚醒を呼びかける』とありますが、真の秩序(神の創造の秩序)は聖書の神に在り、主イエスは人に悔い改めを求めております(ルカによる福音書十三章三節等)。それ故、この動画は明確に誤誘導工作であると分かります。


 

  真の幸福

 

本来、秩序は一つしかなく、神の創造の秩序だけです。しかし、主イエスの再臨まで、悪がこの世を支配することは聖書に書いており、それまでの間は、今も神の秩序(真理)が隠され、偽りの秩序(地球球体説、進化論、政府・行政等の世の権威信仰、太陽暦、西洋かぶれ、科学信仰、学歴信仰、拝金主義、多数派志向、地位・名誉志向、この世を謳歌する等)が圧倒的多数に当然のこととして受け入れられております。普通に考えれば、途轍もない逆風です。不信仰者は多く、聖書が長い期間この世に存続出来ているにしても、誤訳や偽福音に覆われて、真理が全くと言って良いほど認識されておりません。しかし、『ヤシャルの書によれば、真の信仰者の多くは大洪水前に亡くなり、七十万人も人々が居る中でたった八名だけが救われ、百二十年もの時間がありながら人々は全然信仰を持とうとか律法を守って善を行う気が無く、好き勝手に世俗的に生活しとったということや。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」)』とノアの時の記述にあるように、終末の今もノアの時のようであることからも、そもそも救われる者は非常に少ないことは神の御計画の内です。果たして誰が救われるだろうかと思う状況がありますが、神の民の定員(ヨハネの黙示録六章十一節参照)は確かにあり、神に選ばれた者ははっきりと神の道を見出だすようになるのだと思います。『神がお選びになった神の民は、ローマ教皇を通じてサタンからの攻撃と試練を受けることで、信仰が鍛えられ、清められます。試練と苦難は、神がお選びになった民をより聖なる者とする方法の一つです。真の聖書福音と預言「聖書預言の正しい解釈方法」)』や『神は愛ですが、愛故に実の子を地上で生きる間は永遠の命を与えるに相応しい者にするために厳しく訓練したり試練に遭わせて鍛えます。父なる神は愛だから、人間を苦しめないのでしょうか。決してそうではありません。父なる神は御子イエスをあらゆる試練や苦難を経験させ、最期は十字架刑という死刑にすることも許可されたのです。主イエスは神の律法違反をせず、罪がまったく無いのに拘らずです。それなのに、罪深い人間たちが何故安易に艱難と死を経験しない携挙にあずからせるのか普通に考えて有り得ないです。主イエスも「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と仰っており、苦難を避けることができるとは一言も仰っていません。苦難があるからこそ臆病にならず勇気を出せと鼓舞されています。(引用:真の聖書福音と預言「正月と日本人の現実」)』とあるように、困難があればあるほどその分、鍛えられることを忘れてはなりません。確かに、この世では悩みがあります。コロナ犯罪に気付かず、ワクチンを接種した者は日本人の八割にも達します。コロナ犯罪は世の悪の一角、一面に過ぎず、支配層は古代イスラエルの民の末裔のいる日本を滅ぼそうと、憲法改悪を目論んだり、食の安全や健康が脅かされております。これらの悪の根源が反キリスト(悪魔崇拝の支配層等)にあることを知っている者は更に少なく、その中で神の律法・掟・戒めを守ろうとしている者となると殆どいないと感じます。無知、不信仰の中で生活することは、はっきり言って苦痛に感じることが多いです。だからこそ真のキリスト者を目指す兄弟との交わりが不可欠で、どれほど支えられていることか計り知れません。神の秩序を知れば、元のような悪い世の秩序に従った生き方に戻ることなど考えられません。自分自身について言えば、かつて自分が頼りにしていたもの(社会的地位、稼ぎ、財産、世の多数派に属して安心する等)を結果的に全て捨て去ることになりました。過去の価値観からみれば、丸腰になったような心許なさを覚えることも確かにあります。自分は社会的には弱者となり、この悪い世においては居場所が無いのだと明確に感じます。しかしながら、これこそこの世を仮住まいして生きることなのだと実感します。人は裸で生まれ、裸で死にます。何も物を持って行くことは出来ませんが、生きている時の信仰と忠実は神に覚えられて認められることでしょう。ましてや、世の終わりは非常に近く、今の生き方がそのまま神の審判に直結します。今、自分を自分たらしめていることは、神の律法、掟、戒めを守ることだけ、それが全てであることを感じます。主イエスもこのような思いで歩まれたのだろうと想像することがあります。だからこそ主イエスの生き方に倣う必要があります。そして、大変であっても真っ直ぐ歩むことの安心感は確かにあり、この感覚は原語にある通りの「喜び」「満足」なのだと思います。

 

以下、とても大事な事柄を紹介します。

彼らは火の池に入れられて滅びたくないという理由から無理をしてでも神に従おうとして神の律法を守ろうと試みるのですが、必ずどこかでつまずきます。そうこうするうちに、神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり、従うのをやめます。そして、これではいけないとまた無理に従おうとしてもまた同じことの繰り返しで失敗します。彼らが神の律法に従うのが完全に無理だと悟った時、神の律法を変更したカトリック、神の律法を廃止されたことにするプロテスタントという二大背教勢力のいずれかに大多数が加わり、似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚するのです。

(略)

神を愛し、神の律法、掟、戒めを守って生活し、神の御心を行い、兄弟で愛し合い、キリストに近い品性を形成することがこの世でなすべきことです。その過程での行いが天に富を積むことになるのです。自然にそうなるのです。これは永遠の命欲しさに主イエスを信仰するという利益信仰ではありません。利益信仰をしている人は真のクリスチャンではありません。神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。そして、神の御心を行うことで神の栄光を現すことになります。人々はこの真のクリスチャンの信仰から来る行いを通して、主イエス・キリストの真の姿を知るようになるのです。世に出回る偶像(絵画、彫刻等)のことではなく、品性です。キリストに近い品性は、誰の手によっても変えたり、奪ったりすることはできませんし、他人に分け与えることもできません。完全に不可侵で不可分であり、個人に属する性質のものです。

 

引用:真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」

上段の箇所について、率直に怖さを覚える内容です。特に『これではいけないとまた無理に従おうとして』の箇所は同じ失敗を繰り返した時の自分の姿が重なります。ただ『無理に』であったかとなるとそうではありません。失敗したにも拘らず言うのは矛盾するかもしれませんが「心から従いたい」「そうなりたい」「それ以外はあり得ない」の思いが強かったです。脱落する時とは、良心に焼き印が押されてそのように思えなくなるのだろうと想像します。だから、「失敗は繰り返さない」ことを肝に銘じなければなりません。『似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚する』とは、かつて安息日を守るのを大変に感じて別の解釈があるのではないかと勝手な願望を抱いた自分の姿が重なり、また、世の多数派に属して安心を得ていた過去の習慣が思い出されてなりません。偽りの世の秩序に従う多数派に惑わされて、神の秩序を曲げるようでは神の民に相応しくありません。だから、世の慣いや自分を優先する思いは断ち切らないとどこまでも誘惑に遭います。誘惑される要素があるほどに誘惑され続け、頻度が多いほどに屈する危険が増すと思います。故に、パン種(悪い教えや習慣等)を取り除くようにして、性質(品性)を向上させて、悪い元を断たねばなりません。引用後段の『神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。』について、以前よりは頭で理解するも、より実感出来るようになったと感じます。思えば自分から為したことなど少なく、人生において、所々に「ここだ」と導きを出していただいたことが多かったと感じます。招かれて、それに応じられるかどうか、それがひたすら問われていたと思います。そして、『キリストに近い品性』とは、手前がにわかキリスト者であった時代から、朧げながら欲していた状態であったと最近気が付きました。決して、優れた者になりたいなどの願望によるのではなく、高潔さに対する敬意があって、これに至れば自分の人生で果たすべきことは全て果たしたと思えます。

 

この世の偽りの秩序は、人から称賛されたり、地位や名誉を得て繁栄すること、多くの富を持つことが幸福であると教えます。結局は、世における自分の欲望の充足が全てだと教えます。主イエスもサタンからそのように誘惑されました。

 

世俗の欲望が満たされないと不幸だという誤った考えを人々は植え付けられております。この異常な価値観に馴染めなかったり、「挫折した」と感じた者たちが大勢、希望を無くして自殺しているのが現状だと思います。しかし、偽りの秩序の下で成功するのが希望と思うのは完全に誤りです。もはや妄想と言っても良い位の誤りです。また、朧げながら死後の世界や天国を信じて、この世で「善を為した」「正しく生きた」と思っても真に正しい基準(律法等)を適用すればその実態は違反だらけでしかなく、善には程遠く無意味です。主イエスを信じる信仰を持っていても、律法廃止論を信じたり、部分的に律法を守れば良いとの偽福音を信じているだけでも同様に不完全で有罪となります。また、形だけ善の基準を満たしても片手落ちです。心の中の思い、品性などが清いことを神は求めております。これらは偽りの秩序の幸福感とは決して交わりません。一方、真の幸福は、この世の偽りの秩序の下での成功ではなく、死後の永遠を、第二の死ではなく、神の王国で神と共に生きることにあります。

 

ヨハネの黙示録十四章十三節(兄弟共同検討訳を一部修正)

また、我は天から我に告げる声を聞いた。「書き記せ。『今後、主にあって死ぬ人は幸いである』と。」「然り。」と“霊”が言う。彼らがその労苦を解かれて安らぎを得るだろうし、更に、彼らの業が彼らについて行く。

上記は、真のクリスチャンである神の民としてキリストの再臨前に死んでキリストの再臨時に復活して新しい天と新しい地で永遠の安息にあずかることができる約束について述べています。しかし、不信仰の者、異教徒、神に不従順なにわかクリスチャンは主の安息にあずかる道に行くことはできません。それは私が過去に既に述べてきたことです。真のクリスチャンにとっては、その後に安らぎが待っていると知っているのですから、死んでこの世を去ることは恐怖ではありません。しかし、世に属する人間は、この世を去ることになる死を異常に怖がります。なぜなら、次の世に希望を見出せないからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の裁きは福音であり、迫害は喜びである」

「この世が全て」という考え方は、死後の永遠を放棄させる誤った考えです。真の幸福は、天に宝を積み、死後の永遠に良き報いを受けることにあります。また、『更に、わたしに言う。「書き記せ。幸いだ。小羊の婚礼の晩餐に招かれた者たちは。」また、我に言う。「これらは、神の真実の言葉である。」(ヨハネの黙示録十九章九節:兄弟共同検討訳を一部修正)』などの聖句にある『μακάριος(幸い)』は、単に幸運なのではなく、欽定版聖書にもあるようにbless(祝福)であり、「最高位の祝福」を指します。即ち、永遠の命です。

 

 

  結び

 

悪しき者が支配するこの世は、近い将来に終わりを迎えます。世の終わり(主イエスの来臨)が近いからです。世を支配する者たちもそれを知っているため、偽りの秩序を更に強化した新世界秩序を構築しようとしております。それは自由の無い、この世全体が監獄のような暗黒社会です。そこではヨハネの黙示録十三章にあるように新世界秩序に君臨する獣(ローマ教皇)に従わなければ殺される恐ろしき社会です。この激しい試しの中で、真のキリスト者は自分の命を取るか、神への忠実(神の律法・掟・戒めを守る)を取るか、究極の二択を迫られます。また、大艱難期は人々が真に悔い改めることが出来ない(恩恵期間の終了)時でもあるため、それまでにキリストに近い品性を持つように成長出来ていなければなりません。そのため、早く準備を整えるようにと何度も繰り返し警告している次第です。

 

聖書は、人間には想像もつかないような高い視座を教えてくれます。聖書にある神の言葉は永遠です。永遠の言葉を数千年前の人々と我らは同じように共有しており、過去の出来事が今起きたかのように、人が今居るかのように捉えることが出来ます。聖書の言葉は古くもあるが新しくもあるという不思議な存在です。聖書には、神の言葉であるが故に、万物を俯瞰する神の視座があります。素直に読めば、そこに神の秩序があることが分かるはずです。記事中に挙げた世の動きを俯瞰すれば、存在しないものが在るかのように看做されたり、正しいことをしている素振りを見せながら最悪の社会を作ろうとするなど、無秩序が過ぎることが多々あります。果たして、この無秩序が起こる意味とは何なのでしょうか。それは『永遠の命を受けるにはそれなりにきつい試練をくぐって洗練する必要があると神はお考えである。それがこの世の存在意義であり、この世で揉まれて洗練され、試用期間を経て適格者になって次の世で永遠に生きることが認められる。そういう計画なんや。真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)』であると考えます。

 

こちら(ユーチューブ:「rの住人ピエロ【哲学】」)の動画にて、「抽象度が高い」ということについて説明しております。「抽象度が高い」ことの定義付けは明確にされておりませんが、手前は「物事を俯瞰的に捉えて、そこで起きていることの本質を見抜く」ということだと捉えており、それは聖書という万物の上位概念(神の創造の秩序)を知ることで真に抽象度が高くなるのだと思います。ちなみにこちらの動画制作者は不信仰であり、動画の内容全てに賛同するものではなく、あくまで、「抽象度が高い」ことを説明するためだけに引用致します。動画において、現実のさまざまな場面から共通点を探し、法則性を見出だし、自ずと視点が高くなることについて言及しております。『部分から全体を想像できる』、また、『全体から部分を想像できる』といった言い回しから、先に示した画像にある、全ての道は新世界秩序に繋がる構図の理解もその応用だとおもいます。また、聖書預言を現実に適用して考えることも抽象度を高くして理解することに繋がると思います。以下、動画の説明内容を一部抜粋します。

抽象度が高くなれば感情に支配されることが無くなっていき(略)、目の前の悲劇も実は人生という長い道のりにおいては一種のイベントでしかない。人生を見た上では目の前の出来事は構成要素でしかない。だから何もしなくてもいずれ過ぎ去っていくし、だからそれは必然的にやってくる。(略)抽象度が低いとは視点が低いということ。視点が低い人にとっては見えているものが全て、故に悲劇が来ればその悲劇にどっぷり頭までつかり、考える間もなく呑まれる。

詰まる所、『視点が低い』とは、聖書真理を知らない状態であり、世の偽りの秩序にどっぷりと浸かって、呑まれて、疑わずに生きている状態と言えます。ミカエル氏が真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」の記事でお示しくださった以下の画像は、そのことをとても分かりやすく示していると思います。

 

 

真の秩序とは神の御計画に基づいた神の配置であり、神の御命令に従うこと、ご計画の順序通りに運ぶ(流れ)ことであると言えます。その秩序に矛盾はなく、真っ直ぐです。その真っ直ぐさに喜びがあり、たとえこの世では苦難があっても、報われることに希望があります。それが真の幸福です。残り少ない時ですが、失われた羊が回心し悔い改めに導かれることを切に願っております。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。