こんにちは。

今回は『真の勝利と問われる勇気』と題して、勝利の意味、世に屈せず神に従い通す勇気についてお話していきます。

 

  誤った希望

 

かつて無いほどの世の悪化の只中にいて、一体、人々は今、何に期待を寄せ、何に希望を抱いているのだろうかと思うことがあります。知れば知るほどに、支配層が世の権威を動員して、大勢の人々を惑わしているのが明らかです。しかし、真実を知る者は少数です。政府の言うことが正しい(おかしい所が有るとの認識はあっても、政府が不法に満ちる程に腐敗して、売国や人口削減を進めているとまでは思っていない)と思う者が多数で、この構造が変わるのは厳しい情勢です。ごく少数の支配層に、奴隷として従わねば抹殺される超監視管理、超共産主義社会(新世界秩序)が構築されようとしているとSNS(X)で言及した所、そんな社会に対して「何の楽しみも無い」との返答が寄せられたことがありました。この言葉をよく考えると、かつてのように生活に汲々とせず、豊かで、自由であることを願っているようにも聞こえ、「昔は良かった」と懐古しているだけのように感じました。かつて、バブル景気と呼ばれる時期がありました。今から三十年ほど前です。異常な好景気となり、若者が高級車を乗り回したり、就職活動で企業に出向けば交通費がもらえ、庶民がこぞって投資に精を出したと、今では信じられないようなことがあったようです。まさに拝金主義、物質主義が極まったかのような様相は、常軌を逸していると感じざるを得ません。もし「その頃が良かった」と思うのなら、そんな生き方に疑問を持てずに熱狂している様は、コロナ犯罪を認識せず、世の喧伝に酔いしれているという意味では、大して変わらない構造だと思います。故に、懐古したとて、そこには欲に塗れた偽りの平和があるだけで、そこには希望はありません。

こちら(X )で、『気付いた人』という口座名の方が『この世のカラクリ〜世界の仕組み編〜』と題した動画を作成しておりました。内容は悪魔崇拝者の支配層による世の支配構造と実態について説明しており、ざっと見たところ、個人的には複雑な話を分かり易くまとめていると思いました。ただ、決定的な誤りもいくつか散見されました。隠されている(一部分はあからさまにされているが)真実が明らかにされているのは良いのですが、やはり世の事柄だけしか伝えていないことが問題です。支配層について、悪魔崇拝者であると言及しているのは良いことですが、それが何を指すのか、何故、支配層は悪魔を崇拝するのかを伝えなければ、戦い方を間違えることになります。Xで「悪魔崇拝」に関する投稿をすると比較的閲覧数が多いと個人的には感じます。しかし、ただ神秘的、超自然的と感じて、興味本位で見る方が多いだけのように見受けます。悪魔崇拝について、ミカエル氏の真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」に詳しく書いてあるのでぜひご覧いただきたいのですが、『悪魔崇拝とは、その名のとおり、聖書や主イエスの教えにことごとく反し、神に反抗する者である悪魔と悪魔的なもの(堕天使、獣、太陽神、悪霊、あらゆる偶像、その他)を崇拝すること(引用)』です。この悪魔とは、聖書に記された、かつての天使、高慢故に神に逆らい堕落した堕天使、この世を支配する権威を持つ者、偽りを用いて人を罪に誘惑し自らの滅びに道連れにする者、第二の死が確定した者です。悪魔が悪魔たる所以は、上記引用にあるように主イエスの教えに留まらないこと、反キリストであることにあります。善と悪の基準は神の聖なる律法によって示されており、悪魔と悪魔崇拝者がしないこと(出来ないこと)は律法遵守です。彼らにとっては律法違犯が標準です。

 

律法に適う生活様式、真の世界観である聖書真理は、総じてヘブライ文化と言え、その反対、それ以外は「異邦人の道(マタイによる福音書十章五節参照)」です。古代イスラエルの末裔がいる日本においても、殆どの人々が著しく異邦人の道に陥っております。悪魔崇拝者の支配層が、自分たち以外の大勢を奴隷にする暗黒社会を築こうとしている(それは彼らにとっての楽園、そして、人々にとっては地獄)ことは確かに大問題なのですが、それだけを知っても無意味です。なぜならば、律法違犯は唯一の真の神によって裁かれ、有罪判決を受ければ滅ぼされることになるからです。先の動画の大きな間違いの最たるものとして、聖書のことを「予言書」と言ったり「(支配層の)計画書」と書いておりますが完全に間違いです。

聖書は宗教ではないし、支配層の計画書でもない。既に申したとおり、支配層も最終的には悪魔(堕天使)と共に地獄行きになることを聖書は予告してるんやから、支配層に都合のええ計画書である訳がないやろ。こないなことを言うド無知の愚か者をたまに見かけるが、彼らの思慮の浅さもかなり酷い。その者どもは、嘘で他人を惑わした罪を負う上、迷惑極まりない。前にも言うたとおり、聖書(パウロの偽福音や偽教義を除く)は人が正しく生きて行くための指導書、歴史書、預言書、言葉であるイエス・キリストそのものである。この世を支配する悪人どもが聖書の教えを宗教扱いして、人々を聖書とキリストから遠ざけてることに気付け。聖書拒絶者こそが異常であることに気付け。

 

引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」

 

 

「目覚めよ」と人に言いながら、たとえ無自覚であっても、真理から目を背けさせるのであれば、それは非常に悪い行為です。意図せずに、結果としてそうであったとしても、真実に虚実を混ぜるのは悪質です。繰り返しますが、世の動き、真相だけ伝えても不十分です。巨悪の存在に気付いても、真の善悪の基準(律法、真理)を知らなければ、無知故に罪を犯し、知らなかったことで免罪とはなりません。そして、聖書の預言は必ず実現します。獣が支配する世界が起こるのは不可避です。事実、大勢がその事実を認めておらず、流れを変えるには至りません。悪を弾劾し、不服従を貫くことは確かに必要なことです。しかしながら、『彼らの計画を阻止しましょう(動画三十七分二十七秒)』が目的となっては不十分です。真の希望は、この悪諸共に腐敗したこの天地を滅ぼし、復活し、神の裁きに適い、無罪判決を受けて、永遠の命をいただき神と共に生きることです。そこでは、死も悲しみも労苦も無く(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)、この世とは根本的に異なる平安があります。そのために求められることは、神の律法、掟、戒めを守ることです。また、律法遵守を阻む肉の弱さ、誘惑等に打ち勝つことです。ただ神にのみ従うということです。それ故に、この世(悪)に従うか、神に従うか、どちらに服従するかの戦いの過程が人生であり、人生という競技の意味です。つまりは、唯一の真の神だけを礼拝するということです。正しい世への抵抗の仕方や勝利条件を知らずして、「目覚めた」ということは有り得ません。

散々真のキリスト者が伝道してきた内容を信じず、拒否したり莫迦にしたりしたのに、キリストがほんまに再臨しはったのを見て、「不信仰で好き放題してきた自分らは終わった…地獄行きだ…」と直感で理解し、悲しむものと思われる。不信仰であるとか、異教徒(パウロ教徒を含む)であって、聖書の真理に聞き従うんを拒否した報いが否応無しに与えられるだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

上記をご覧になって、どう思われるでしょうか。手前は上記の言葉がとても現実的に感じられました。まさにこのような状態が起こるのでしょう。この世の終わりの時には、ヨハネの黙示録十三章にある獣が支配する新世界秩序が構築されている時で、殆どの者が獣に屈していると思われ、その時には絶望しかないでしょう。ミカエル氏が、『獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。(引用:キリスト道』と言われている通り、世の真相に聡い人々がしているように、終末に急速に普及する悪しき制度や体制、物理的なマイクロチップや電子刺青を避けても、一方では、西洋かぶれや聖書真理を信じない異邦人の道に従うなら(現時点で世の殆どの人がそうである)獣の刻印を押されます。「目覚める」というのなら悪しき世の真実を知るだけではなく、聖書真理に関する知識(これこそが本物の知識)を持ち、神の律法、掟、戒めを守り主の裁きを待つという霊的備えをしてこそ、本当に目覚めたと言えます。

 

 

  勝利と勇気について

 

過去記事(正しく在れば、負い目は無い)でも勝利という概念に幾らか触れましたが、今回は少し異なった切り口で考察して参ります。

 

ヨハネによる福音書十六章三十三節(私訳)

我によってお前たちが安らぎを得るためにこれらをお前たちに話した。お前たちは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。我は世に勝利した。

 

ヨハネの手紙一 四章四節(私訳)

子たちよ、お前たちは神に属している。そして、お前たちは彼ら(偽預言者ら)に打ち勝った。なぜならお前達の内に居られる方は世に居る者よりも偉大だからである。

 

ヨハネの手紙一 五章四節から五節(私訳)

神から生まれた者は世に打ち勝つからである。これは世に打ち勝つ勝利、我らの信仰である。誰が世に打つ勝つか。主イエスが神の子であると信じる者を除いては無い。

 

上記は、主イエスと使徒ヨハネの言葉です。上記で共通して用いられている『νικάω(勝利)』の原語を見ていきます。言葉通り、また、比喩的な意味も含めて原義は「征服する」「服従させる(従順にする)」「抑える」の意味です。そもそも、勝利という言葉(概念)の前提として、複数間でどれが優位に立つのかということがあり、それを意味しているのだと思います。更に、「(困難を)克服する」「(習慣を)打ち破る」「勝つ(打ち負かす)」「(努力して)獲得する」といった具体的な意味が続きます。これらを踏まえて、罪を犯す肉の欲や世からの誘惑を克服し、異邦人の習慣(外来語や洋服等の西洋かぶれ、創造の秩序に基づかない世の「常識」等)を打ち破り、聖書真理、神の律法に基づいた信念や生活様式を獲得することが必要です。

『答えは、すべての意志を神に委ねるのか、サタンに委ねるのかの違いです。即ち、神とサタンのどちらにひれ伏すかという問題です。どちらにも委ねへん、「自分の心は自分のもんや」という人はサタンや悪霊に操られます。自分で気付かへんだけ、認めたくないと勝手に思い込んどるだけで、実際はそうなんです。そういう自我の強さは傲慢さに繋がり、神に敵対しとるからです。そう仕向けることでサタンはそういう人を滅ぼせるさかい。

真の聖書福音と預言「主イエスの受肉」)』

 

律法を守ることについての論争は長年され続けており、これこそ神とサタンとの戦いでもあり、神に属する人間と世に属する人間との戦いでもあります。主なる神は、御自身がお選びになった人間とそれ以外の人間を区別するために、神と神の民の間のしるしとして安息日をはじめとする律法をお与えになり、誰がまことの神か、創造主かを人間に示してくださいました。サタンは、神の律法を守ろうとする人間を憎み、サタンに仕えたり惑わされた人間を使って神の民を迫害したり、耳触りの良い虚偽の教えで騙して仲間に取り込もうとしたりします。これは一種の神による鍛錬でもあります。それらにも屈せずに神の律法を守り通す者が神の民となるのです。

真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」

 

結局、神とサタンの間で何が争われているかというのは、神の律法と人間の心なのです。天の父なる神は、主イエス・キリストを心から信じる神の民に聖霊をお与えになります。そして、神の民は神の力によってまず心から変えられて言動も良い方向に変えられ、神の律法を心に書き付けられて守り、最終的にキリストに近い品性へと造り変えられていきます。反対に、サタンも同じように、世に属する人間たちの心を支配するようになります。サタンに心を支配された人間は、神の律法を無視して罪を犯し続けて罪の奴隷になります。悪いことをしてもやめられず、その内に罪悪感を一切感じることが無くなり、悔い改めや回心ができなくなります。

真の聖書福音と預言「音楽の功罪」

律法違犯者、且つ、人々に律法違犯を唆して永遠の滅びに道連れにしようとする悪魔に対して、また、自分自身(自我)に対して打ち勝ち、罪を犯さないようになる(罪に打ち勝つようになる)ことが勝利であると分かるはずです。そして、勝利のためには、勝利を希求するだけではなく、一番は全身全霊で神を愛すること、その思いと行いに応じて神は力をお与えになるはずです。

 

ペトロの手紙二 二章十九節(参照)

彼らに自由を約束しているが、この者たち自身は堕落の奴隷である。人は、打ち負かされたものに同様に奴隷とされるからである。

 

上記の聖句箇所は、不義な者が、信仰に入って間もない者を惑わすことに言及している箇所です。人は打ち負かされたものに奴隷とされるとは、個人的に、最初は分かりにくい箇所だと思いました。しかし、実践していく中で徐々に分かってきました。例えば、安息日より仕事を優先すれば、自身は律法違犯を選び取った、神以外に従ったと言えます。同時に、改めなければ違犯の故に有罪となり、滅びが待ち受けます。奴隷とは、ある物事に心を奪われ、そのことのためにしか行動出来なくなる状態です。これほど不自由なことはありません。肉の欲に負ければ、そのためにしか行動出来なくなります。一方、世俗の用事を優先せず、自分の欲求を自制して、安息日を守れば、神の下に在ると言えます。神に従う者は、神への奉仕者(謹んで仕える者)です。神に従うことは、流されずに明確な意思や自発性を持たなければ決して出来得ません。神に従うことも悪魔に従うことも個人の選択の結果ですが、誘惑され、罪によって滅びの縄目に陥るなら罪の奴隷です。それに対して、神に従う人には罪からの解放(自由)があります。繰り返しますが、肉の欲に負けて罪の奴隷となるか、自分を捨て神の僕となるかで明暗を分けます。『δουλόω(奴隷とされる)』には、「僕とされる」の意味もあるからです。ちなみに、ここでの『ἡττάομαι(堕落)』は「最悪の状態となる」ことであり、まさに世俗に打ち負かされては何も良いことがありません。やがて永遠の滅びが待ち受けます。

 

ヤコブの手紙四章七節(私訳)

従って、お前たちは神に服従し、悪魔に抵抗しなさい。すると、お前たちから逃げるだろう。

 

ὑποτάσσω(服従する)』とは、「従属する」「従う(守る)」「影響を受ける」「支配下にある」などの意味があります。そもそも服従と聞いてどんな思いを抱くでしょうか。「自分の好きなようにしていたい」と自我優位に思う人も少なからずいるでしょう。しかし、世には神に従うか、それ以外かの二択しかありません。知らないということは恐ろしく、何も知らなければ好きなように生きて、神の目には堕落するだけです。

 

サタンは、創世記のアダムとエバを唆した場面において、また、主イエスを荒野で誘惑した時も選択を迫っております。律法に適うか、違犯するかは常に選択の問題です。神と富の両方に仕えることは出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)や完全であれ(マタイによる福音書五章二十四節参照)といった言葉からも、完全に律法に適わなければ、半端は違犯と看做されます。我らは、誰しもが、今この時も常に、この選択をしているのだと思います。この日常生活の只中においてです。それは日常の只中が常に戦いの場であり、戦いの連続であることを意味すると思います。

 

日常生活の只中で選択について、以下の話が参考になると思います。

ルカでは、「暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ」と書かれ、より具体的に戒めがなされてるのに大きな差異があると言える。暴飲暴食も酩酊もまったく体にも良くないし、人間が冷静で過ちを犯さへん状態であるためにも必要なことや。また、生活の煩いというのは、生活費という金銭の悩みであったり、家族や職場や友人等といった人間関係での悩みであったり、そういったこの世での生活に関する思い煩いを指す。あまりにもそういったことに悩まされたり、多大な労力や時間や費用を掛けさせられてると、心や時間の余裕が無くなり、落ち着いて聖書を読んだり、研究したり、伝道したりでけへんであろう。「そんな余裕が無い」っていう状態がまさしく生活の煩いを抱えてる状態と言え、それでは救われるのは難しいだろう。信仰が無い人程、そうなり易い。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

個人的にはこの話にとても共感を覚えます。まず、「暴飲暴食や酩酊」についてです。会社勤めをしていた時(仕事人間であった時)、心身にかかる負荷があまりにも大きかった故、手前は暴飲暴食を繰り返しておりました。結果、疲労のためだけではなく、過食や飲酒による体調不要も少なからずあったと思います。食べすぎ、飲み過ぎで不調を起こし、それで薬を服用するというどうしようもない状態でした。そもそも、そんな状態に薬など無意味で、最初から飲食を節制すれば良いだけです。栄養剤の類も巷には溢れておりますが、添加物満載で糖分等がやたらと多いものを「栄養剤」と称して摂取する方が異常です。体調不良、過労時に、宣伝広告に洗脳されるがまま飲用しておりましたが、これも同様に最初から就労も含めた生活環境を本気で整えて、余計なものに頼らないようにするべきです。却って体調が悪くなる懸念もありますが、対症療法的で、問題が起こる構造がある限り、何度でも問題が起き続けます。自分から不健康になるようにしておきながら、その不健康を紛らわし緩和させる行動を取るのは矛盾でしかありません。そして、心身の負荷は単に長時間労働によるものでもなく、良くない人間関係、過剰な業務割り当て、過密労働なども背景にあります。そのような負荷にさらされ続けると抑うつ状態に陥ったり、「やっていられない」との憂さからそれを代償するために暴飲暴食、買い物、賭博等にのめり込む場合があります。それは刹那的な代償行動です。厄介なのは自覚しながらもなかなか抜け出せないことです。『μέθη(酩酊)』には、必ずしも酒で酔うこと以外にも「(狂気に近い)興奮や陶酔」「中毒」の意味もあり、まさに依存症の類も当てはまると思われます。『κραιπάλη(暴飲暴食)』にも「(酒類等で)堕落させる」の意味があるので同様だと思います。これらは、単に自制しようと立ち向かうだけでは対処しきれないと思います。なぜなら大元の過剰な負荷の発生源が無くならない限り、苦しいことに変わりはないからです。悪い代償行動に向かわないように自制することは不可欠で大事です。それでも、『自制心の強さは、筋肉と同じように変化します。個人差があるだけでなく、同じ人でも状況によって強い場合と弱い場合があるのです。鍛え上げた二頭筋でも激しく使えば疲労するように、自制心も疲労します。(引用:「やってのける」ハイディ・グラント・ハルバーソン著)』とあるように自制心も使うほどに強められるようですが「疲労する」ともあります。『最近の研究では、買いものなどのちょっとした判断や、人にいい印象を与えようとするなど、日常的な些細な行動でも、多くのエネルギーが消費されていることがわかっています。(同引用)』からも、日常の様々なことでも精神力は消費されているようなので、張り詰め過ぎずにいられる、余計な負荷がかからない環境に移行するのが最善であると思います。『生活の煩い』についても同じことが言えます。

 

関連して、こちら(ヤフーニュース)にて、大学を卒業してから働き始めたばかりの新社会人である『TikTokerブリエルさんが、「原則9時~17時の労働で頭がおかしくなりそう」と涙ながらに訴える動画が世界的に話題になり、賛否を呼んでいます。』との記事があり、個人的には興味深く拝見しました。少し昔ならば「これくらいで何を言っているんだ。甘えるな。昔は…」という説教が飛んできそうです。今でも「まだましな方だ」と思う方が多いのではないかと思います。職業、労働時間、給与や生活水準、私事や余暇の確保など、どれを優先するかはそれぞれの考え方次第です。それを踏まえた上で、キリスト者は、キリスト者としての生活の目線で考える必要があります。前回記事(主イエスを模範とした終末時代の生き方)でも触れたように、主イエスは福音を宣べ伝えよ(マルコによる福音書十六章十五節等参照)と御命令されました。世俗の仕事に最大限励めとは言っておりません。主イエスは大工の仕事をされた後、福音伝道に全てを注がれました。但し、世俗の仕事をしてはならないということではありません。福音伝道のために、あくまで自分の才能と能力を磨き、活かし、福音伝道の働きをすることを求めておられるのです。記事の話について言えば、九時から十七時までの労働は普通の会社勤めとしては短い部類に入りますが、それでも十分に心身は疲労します。それから家に入って夕食を摂り、家事をすればあっという間に寝る時間となり、ましてや疲れていれば何もする気になれず、それに対して空しさを覚えるのは何もおかしなことではないと手前は今では思います。むしろ、それに空しさを感じるだけまともで、多くはそれが当たり前と思い、それに異議を唱える者に対して「なっていない」と叱責してしまうのだと思います。実際には、生活のこともあるので、世俗の仕事を全くしないでいられるのは稀だとは思います。それでも、世俗の仕事に拘束され過ぎないように、不必要に仕事を負わないようにするに越したことはありません。その上で、最低限、食べていかれるために必要な分だけ稼ぐというやり方を考えて、余裕を作るのが最善だと思います。ヤフーコメントに『やりたいこと、労働時間・日数、勤務地、給与水準など、残念ながら世の中の大半の仕事はトレードオフの関係にあると思うから、何かを取るなら何かを捨てなければならない。昔よりは労働環境の自由度は増してると思うし、自分のスタイルに合った仕事を探せば良いと思う。もし給与もそれなりに高くて自分の好きなスタイルで働きたいなら、自分の能力・価値とアウトプットを高める努力をするしかないと思う。』という意見があり、妥当な考えだと思いました。望む環境を手に入れるには、何かを手放し、最小の労働で稼ぐには、相応の就労技能が不可欠で、それを磨く努力も不可欠です。そして、福音伝道をやってみると分かるのですが、隙間時間でやるような「間に合わせ」では決してやれません。学び、聖書研究をして、記事等を作成するには、相応の労力が必要です。時間だけでなく気持ちの余裕も、向上心も自分の課題に向き合う精神力も必要です。仕事に心身の体力全てを奪われると何も出来なくなります。詰まる所、律法遵守のことも含めて、キリスト者としての生活環境(地域、住居、就労、家計、家族関係、その他の人間関係、適切な生活水準等)の整備が、今後のキリスト者としての在り様を大きく左右すると思います。人は環境に影響されます。だから、ここでも現実的にどうやっていけるかを理性を尽くして考えることが不可欠です。言わば、キリスト者として生活していくための生活設計、戦略です。繰り返しますが、世での暮らし向きの向上を追求せず、食べていかれるための就労環境を整え、出来る限りに余裕を作り、福音伝道に全力で当たることが不可欠です。『暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ』と書かれた箇所には、とても深い教訓が込められていると思います。

 

もう一点、『心が負荷を掛けられ過ぎひんように』について、エサウのことも教訓にするべく見ていきます。エサウは空腹のあまり、たった一度の食事のために長子の権利を明け渡してしまいました。

 

創世記二十五章二十九節から三十三節(参照)

ヤコブは汁物を煮ていた。そして、エサウが野からやって来て、彼はひどく疲れていた。エサウはヤコブに言った。「どうかその赤い汁物を食べさせてくれ。我はとても疲れ切っているから。」そのため彼の名はエドム(赤)と呼ばれた。そして、ヤコブは言った。「貴方の長子の権利を今日、我に売ってください。」エサウは言った。「見よ、我は死にそうだ。この長子の権利が私に何の益があるだろうか。」そして、ヤコブは言った。「今日、我に誓約してください。」すると、エサウはヤコブに誓約し、ヤコブへ長子の権利を売り渡した。

 

エサウが浅はかにも長子の権利を売り渡した時、エサウは酷く疲れておりました。『עָיֵף(ひどく疲れる)』は、「元気の無い」「活気の無い」「弱った」「喉が渇く」などの意味があります。誰だって疲れれば、余裕が無く、自制心も低下して、普段の落ち着いている時であればしない失敗をしてしまうことは、経験があるのではないかと思います。そして、『עֵשָׂו(エサウ)』の名前の原語には、創世記二十五章二十五節にあるように「毛むくじゃら」の意味もありますが、「大雑把」「無作法」といった意味もあります。もしかすると、エサウはただ単に疲れてしまったが故の一度きりの過ちというだけで無いのかもしれません。元々がそのような性質であったのならば、もしこのことが起きていなかったとしても、違う場面で同じような別の過ちが起きていた可能性があるのではないかと個人的には思いました。ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節では『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(私訳)』と書かれております。エサウのことを婚外性交(即ち、偶像崇拝)する者、冒涜する者(不信仰)とまで形容されていることから、エサウの無分別が最悪のものであることがわかります。「エサウは長子の権利を軽視した。(創世記二十五章三十四節参照)」の『בָּזָה(軽視する)』の原語には、「侮る」「軽蔑する」「拒絶する」「するに値しないと思う」の意味があります。現代の我らにとっては、福音を聞いて、存命中に神への忠実を神に示す機会があるにも拘らず、神の律法よりも世俗を優先することに例えられるかもしれないと思いました。確かに、葛藤を覚える場面があるのは事実です。それでも、熟慮して、現実場面に神の律法を適用して判断する分別が不可欠です。自戒を込めて、「大雑把」であっては、抜けが生じるのだと思います。同じく、自戒を込めて「一時が万事」ということもあります。『わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる。一つの小さな事柄の調子が他のすべての場合に現れる。(出典:デジタル大辞泉 小学館)』の意味ですが、エサウの話にも表れていると思います。

 

ダニエル書十一章三十一節から三十二節

そして、集団が立ち上がり、彼らは力の聖域を汚す。また、彼らは永続するものを排除し、ぞっとする忌まわしいものを置く。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」

契約に違反する者を甘言によって堕落させる。自分の神を知っている民は確固として行動する。(私訳)

 

真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」にて説明されている通り、かつて起き、またこれからも起こるであろう預言です。大艱難期には、世界統一宗教と世界統一政府が構築され、そこに獣であるローマ教皇が君臨します。律法を守ろうともしない違犯者は、まさしく神との契約に違反する者であり、「信じれば救われる」などの偽福音もまさしく甘言(相手の気持ちをさそうようにうまくいう言葉。「引用:スーパー大辞林」)です。神との契約は申命記に書かれている通りに従順を条件とし、従順には祝福を、不従順には罰が下ります。そして、『甘言(חֲלַקָּה)』の原語には、「滑らか」「調子のいい」「人に取り入るような」「ごますり」という意味もあります。まさしく甘言の意味である「相手の気持ちをさそうようにうまくいう言葉(引用:スーパー大辞林)」そのものです。誘うのは堕落させるためです。故に、福音の正しい知識を持つと共に、行いへの適用は厳格でなければ、容易に惑わされて世に屈してしまうと思います。

 

ところで、現在、戦争と憲法改悪の動きがひたひたと迫っております。言うまでもなく、日本が戦争に巻き込まれれば大勢の命が奪われます。万が一にも戦地に赴くようなことがあれば、「国を守るために」と政府等の煽動者や政府に惑わされた人々は、かつての戦中のように調子の良いことを言うと思われます。しかし、その時、人を殺める行為が合法化されたとしても、間違い無く律法違犯です。これらに加担しないことも大事ですが、一番はそのような悪い動きを未然に止めたり、そのために抗うことこそ大事です。いざ事が起きれば止めるのは至難だからです。憲法が改悪されれば、国に従わないことが悪と看做され、律法違犯を強いられるようになります。仕方がないでは済まされず、今この時こそ、この世全体の悪い動きに抗い、不服従を貫かねばなりません。こちら(NHK)の報道で『「台湾有事」などの際 先島諸島の住民の避難で県に協力要請』とありました。記事によると『沖縄県の先島諸島の住民の避難先として九州・山口での受け入れを計画」「万が一の場合に備え、沖縄県の離島から12万人を避難させる手順を検討しているが、次のステップとして避難先での受け入れについて検討を進める時期に来た』とかなり具体的に、九州の各県に打診している段階となっているのが不気味です。先島諸島は確かに台湾に近い位置ですが、本来であれば、日本は当事者として関係する訳でもなく、被害を受けるなど許されざることです。但し、自らが参戦すれば話は別で、やはり日本が戦争をする前提となっているのだと思われます。このことはかなり危険な戦争の兆候と思います。それにも拘らず、(個人的な印象ですが)報道があっさりしていて、このことを懸念する声があまり聞こえないと感じました。以下、兄弟から教えていただいた情報を基に記します。こちら(NHK)によると、日本は米国の要望に従って離島や艦艇から作戦を行う長射程ミサイル部隊を創設し、支那と戦うために米軍の新たな海兵隊である部隊海兵沿岸連隊(MLR)を沖縄本島、先島諸島などの離島等に配備する計画を立てております。これらは、ここ数年で台湾に近い石垣島や与那国島などに自衛隊施設が相次いで開設された動きとも符合すると思います。そして、沖縄の島々に部隊が配備されている以上、支那の攻撃の的になるのは間違い無く、そのため並行して避難の計画が進められていると考えられます。また、こちらの記事 (現代新書) で千九百五十八年の台湾海峡危機に関する極秘報告書には『米軍が策定していた台湾有事の作戦計画「OPLAN25‐58」では、中国沿岸部の航空基地や砲台を小型核兵器で破壊しても中国が台湾への攻撃を止めない場合、中国の戦争遂行能力そのものを無力化するために、戦略核兵器で上海などの大都市を攻撃する計画でした。(引用)』とあるとおり、過去には核兵器使用を想定していたことから、今もその選択肢が残されていると考えるのが自然です。ミカエル氏が『こちら(YouTube)のとおり、日本に対する敵意をむき出しにしており、台湾問題について介入したり何か支那の軍隊に対し、たとえ兵士一人、飛行機一機、船一隻を日本が投入するだけで、支那は応戦するだけでなく、日本に対して全面的な戦争を開始し、核爆弾を使用すると堂々と言うてる。これを許可してるユーチューブ運営も反日であることは明白やろ。(引用:「キリスト道 改憲問題」)』と言及しているように、日本が米軍の計画のための道連れどころか、真っ先に標的にされる危険が大いにあります。『日本の自民党政権は、アメリカと「一蓮托生」と言わんばかりに、自ら進んで「防壁」としての役割を果たそうとしています。しかし、万が一にもアメリカと中国が戦争する事態となれば、「戦場」となるのは日本なのです。「一蓮托生」は「死ぬも生きるも一緒」という意味ですが、戦争になったときに圧倒的に死ぬのは日本人なのです。(引用:現代新書』と、恐ろしくも、しかし、現実的に起こり得る事態です。

 

 

それだけでなく、こちら (nippon.com)によると日本は電機電子製品を支那と台湾に大きく依存しており、いざ戦争が始まればこれらの供給は途絶え、経済的な損失は大きく、更には、食料等についても自給率の低い日本は大打撃を受けるのは必至です。こちら(毎日新聞)の通り、『農林水産省の有識者検討会は6日、凶作や有事、輸入の途絶などの不測の事態が起きた際の対応策をまとめた。食料供給の減少が見込まれた段階で政府が対策本部を設置し、農家や商社などに食料の確保を要請、指示する。食料安全保障の強化が狙いで、2024年の通常国会に関連法案の提出を目指す。』との情報がありました。『有事、輸入の途絶』とは、戦争しか考えられず、台湾有事のことが前提にあると思われます。海上輸送の停止が起これば、食料の供給がままならず、これこそがその事態に当てはまります。さつまいもの転作に言及していることからも戦争が想起され、実際、X投稿でも戦争を懸念する投稿が多数見受けられました。参考までにこちら(X)やこちら(X)です。政府自ら、国内農業、畜産業を破壊しておきながら、また、自ら戦争の準備を進めながら、『不測の事態』とは白々しい限りです。『それぞれの段階で計画作成の指示に従わない場合は、罰則(罰金)を設ける』の言葉からも何が何でも国民を支配しようとする悪意をひしひしと感じます。更には、支那においては、十八歳以上なら男女問わず強制的に徴兵するとの戦争動員法が既に施行されており、国内にいる大勢の支那人が日本人に対して牙を剥くことも考えられます。前後して、日本国憲法が自民改憲案通りに改悪され、徴兵から戦争へと進むことを悪徳政府や官僚らは目論んでいると考えられます。

 

 

自民党の歴代首相が憲法改悪に言及しておりますが、こちら(読売新聞)に『11月3日「文化の日」に「明治の日」併記を、超党派議連が祝日法改正案を提出へ』との報道がありました。わざわざ「明治の日」と言うからには理由が有りそうです。明治は国家転覆(明治維新)によって出来上がった時代です。偽天皇が据えられ、偽日本人が政府中枢に居座るようになり、急速に日本らしさが失われた悪しき時の始まりであり、そのような明治という時代を記念する意義は無いと思います。また、大日本帝国憲法(明治憲法)では国民は臣民(君主に支配される民)とされ、憲法改悪を目論む者たちの悪意が「明治の日」にも表れていると思います。また、杉田水脈議員がこちら(X)のように、『人権の定義に法的根拠が無い』と滅茶苦茶なことを言っており、こちら(X)では大日本帝国憲法の『「法律の留保に基づく臣民の権利」と同様』との指摘がありました。この発言と「明治の日」の報道と、衆議院憲法審査会(参照:NHK)が同時期であることから、それぞれが意図してなされているのではないかと感じた次第です。彼らは一様に周到であり、それに対して国民は何と無知で無防備なことかと思わざるを得ません。いざ事が起きて、その時に振り返って、どこからおかしくなったか、どこからだったら止められたのかを考えたら、政府の暴走が起きて違憲行為が頻発した時期、特にここ数年が岐路であったと分かるはずです。mRNAワクチンを勧める政府や報道に惑わされているように、憲法改悪や徴兵にも従えば、その先は確実な戦死であり、また、生き延びたとしても戦争に加担して殺人を犯した事実は消えません。その時の尋常ならざる肉体的かつ精神的な消耗は、真っ当な思考力を奪うことでしょう。その時、ローマ教皇を頂点とする世界統一宗教が甘言を用いて、偶像崇拝へと誘うことでしょう。故に、今出来る憲法改悪阻止や戦争の準備の阻止に全力を傾けるべきです。

 

ダニエル書十一章三十三節(私訳)

民の知識を持っている者たちは大勢を指導するがその時、剣、炎、監禁、略奪によって倒される。

 

上記の『שָׂכַל(知識を持っている)』は、新共同訳では「目覚めた」となっております。同じ原語が使われている他の聖句箇所に「我は、我に教えるあらゆる人たちよりも知識がある。なぜなら、あなたの証言が我が祈りだからだ。(詩編百十九編九十九節:参照)」「賢い者たちは天空の輝きのように照らす。 そして、永遠に星のように多くの人を義に立ち返らせる。(ダニエル書十二章三節:参照)」「大勢が清められ、白くされ、精錬される。 しかし、悪人は悪事を行い、悪人は誰も悟らない。だが、よく考える者は悟る。(ダニエル書十二章十節:参照)」などがあります。共通しているのは賢さ(知識、知恵)や熟考などの意味があることです。ここでの賢さは、『「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節拙訳)と「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)と複数に渡って記述があるとおり、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従せん人が賢い訳がない。(引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』とある通りです。真理によって、真の善悪の基準を知ることが出来、たとえ世の権力者が甘言を用いても、その嘘を見破ることが出来ます。支配層が国家を操り、為そうとしていることがどれほど危険なのかを見据え、反対して、不服従を貫かねばなりません。

 

また、戦争のことだけでなく、こちら(メモ・独り言のblog)にあるように、豪州が現金を廃止し『社会参加に必要な「デジタル・パスポート」の携帯をすべての国民に義務付ける方向で動いています。』といった国民奴隷化の動きにも警戒が必要です。SNSの利用に際して、「デジタル・パスポート」の提出が強制されるとあり、支配層の公式発表(つまり、偽り)を暴くSNSに対しては、連合国(UN)や世界経済討論会(WEF)が苦々しく思っているのは、言論弾圧まがいの施策を言い出していることからも明らかで、いよいよ言論弾圧に向けて動き出したと考えられます。そして、『2024年に現金、小切手、電話による支払いを段階的に廃止し、デジタルのみの取引に移行する』とあることから、来年から再来年にかけて激変を迎えそうです。これはオーストラリアのみならず他国も追随すると思われます。

 

他にも、過去記事でも触れましたが、感染爆発に関する条約等に関する動きがあります。動きとは、例えばこちら(さてはてメモ帳)とこちら(さてはてメモ帳)です。記事のとおり、ニュージーランドとフィリピンは国際保健規則の改正に同意しないことを世界保健機関に伝えたとあり、このように毅然とした対応が出来ていることは非常に良いことで日本とは大違いです。ニュージーランドは、前首相が支配層の手先のような人物でワクチンを義務化した人物でしたが、首相が交代したことで方針が変わったようです。こちらの情報(X)では、ある医療機関でのワクチン接種者の死亡率が三割近くもあり、凄まじい状況が起きております。日本とは違い、さすがに国民も気付いたと思われます。新しいニュージーランド政府も『国内法がいかなる国際協定よりも優先されることを再確認する』と真っ当なことを言っております(但し、妄信は出来ないので要注意)。そして、前首相が急に退陣したのが昨年末ですが、深刻な事態が表面化する前に逃亡したのではないかと思えました。

 

 

こちら(BrainDead World)では、『イタリアで、ワクチン有害情報を隠蔽したとして、元保健大臣を「殺人容疑」でローマ検察庁が捜査を開始』との情報がありました。真っ当なことで、日本でもこうあるべきですが、今の司法の状況から厳しいと思います。また、イタリアの動きも、まだ捜査段階で逮捕、起訴した訳ではないので慎重に見ていく必要があります。ガス抜きで終わる可能性が無いとは言えないからです。それでも、出来る限り、感染爆発に関する条約の締結阻止のためにも、もっと多くの国々でこのような動きが起きるべきです。イタリアでは日本とは異なり、政府の悪に気付いている人々が多いそうですが、正しいことを言わずに黙っていては、悪に屈したも同然です。

 

先の憲法改悪に関する画像の中で、戦中の特高警察によって、政府に従わない者に対する拷問の絵があります。漫画「はだしのゲン」などにも同様の場面が記されており、これは過去に現実に起きたことです。政府が戦前回帰を目指している以上、起こり得ると危機感を持つべきです。『歴史は繰り返す。まさに、「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいことは何もあらへん。」(コヘレトの言葉一章九節拙訳)のとおりや。せやから、歴史や過去の教訓から学べと言うんや。(引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)』の通りです。この状況下で世に屈せずに居るには、非常に勇気が要ることだと思います。自分を捨て、神の義を信じ、神を愛さねば、聖霊の導きがなければ、到底為し得ないことです。勇気について、以下のような説明があります。

普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに(自分の信念を貫き)向かっていく積極的で強い心意気のこと。勇ましい強い心をいう。

(略)

さまざまな勇気

一概に「勇気」と言っても様々な種類がある。例えば、正義のための勇気なら「義勇」になる。ここでは様々な勇気を紹介する。

 

義勇(正義のための勇気)

知(智)勇(知恵と勇気)

沈勇(勇気があり、落ち着いている)

蛮勇(乱暴で、向こう見ずな勇気)

武勇(武術に優れており、勇ましい)

 

引用:ウィキペディア

今の日本の社会は、偽りを信じる多数派が殆どであり、その中で悪徳政府らの言うことを批判することや従わないでいることには、勇気が要るのかもしれません。しかし、間違ったことに従うのは恥です。まさに、今、問われており、これからも大艱難において、正しさを貫けるかが問われ続けます。引用にある蛮勇、武勇はその時には不要です。義勇、知勇、沈勇が必要です。特に、「正義」に対する定義を、聖書の言葉から確信を得て、体現することが大前提です。

 

歴代誌下 十五章七節から八節(私訳)

お前たちは勇敢であれ、手を緩めるな。それはお前たちの働きに報いがあるからである。

アサはこれらの言葉と預言者オデドの預言を聞いてから、勇気を出して、ユダヤとベニヤミンの全地から、エフライムの山から奪った町々から忌まわしいものを捨て、主の(神殿の)入口の前にある主の祭壇を修繕した。

 

上記は「勇気(חָזַק)」の言葉を用いた一箇所ですが、原語には「耐える」「立ち直る」「(苦痛に耐える)精神力」などの忍耐を含む意味から「雄々しく」「強固」「強い」などの勇ましさの意味、そして、「確立」「確固」といった確かさを表す意味もあります。これらは義勇、知勇、沈勇にも通じると思います。

 

 

  結び

 

昨今、「自己肯定感」という言葉が多用されていると思います。自信を喪失し、何が正しいか、自分はどうするべきかを見失っている人々が多いためではないかと想像します。そういった需要がある故、自己肯定感を強める手段に触れたネット上の記事やSNS投稿を頻繁に見かけるようになったと感じます。一例として、こちら(プレジデントオンライン)です。自分を見失わずに、神の視点を持って、事に臨むと置き換えるならば、信仰と似ていると思いました。記事にある枠組みを活かして、真のキリスト者の心構えを記してみました。

 

一、他人からの評価ではなく神からの評価

人からどう見られるか、人からどう評価されるかを意識して振る舞うと、善悪の基準(神の律法)から逸脱して道を踏み外しかねません。神は、自分に何を望んでおられるのかを一番に考え、神の目に適えば良いのだと弁え知るべきです。

 

二、自分に与えられた能力(才能)を最大限に活かす

前回記事でも触れたタラントンの教えの通り、神は、僕の能力に応じてタラントンをお預けになりました。他人と同じような働きが出来るかどうかではなく、自分のこれまでの経験や持っている技量を活かし、磨き、それを用いて、福音伝道をすることが全てです。

 

三、成功と失敗

神と富の両方に仕えることが出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)、悪い者が支配するこの世(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)であることを踏まえると、社会的地位や名誉や富は成功を意味しません。真の成功は、世に、罪に打ち勝ち、神から無罪判決を受ける(永遠の命を受ける)ことです。世に、罪に屈することが失敗であり、その過程は決して簡単なものではありません。何度失敗してもやり直して、最後には勝利出来るようになりましょう。「涙と共に種を蒔く者は、喜びの内に刈り取る事になる(詩編百二十六編五節参照)」の過程を経ることを忘れてはなりません。

 

四、不測の事態

今は、艱難期です。世の終わりに何が起こるかは主イエスが福音書にて教えておられ、ヨハネの黙示録でもこれから必ず起こることとして、既に我らに伝えております。故に、基本的に不測の事態は無いのだと思います。むしろ、聖書の言葉と展開する現実場面の一致をたくさん目撃することになるのだと思います。「知らなかった」「聞いてない」とならないように真の聖書福音の理解、聖書研究は弛まず続ける必要があります。そして、神に付く者はごく少数ではあるが、多数派を恐れず、勇気を持って真のキリスト者の真っ直ぐな道を貫きましょう。

 

これらから、自己肯定を高めようと自我に固執するのではなく、真理という文脈に則り、自分を捨て、神の御命令に適うように振る舞えば自ずと自分を見失うことがなく、世に屈することもなく、勝利者へと近付けるのだと思います。そこに自ずと勇気を帯びていることでしょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今の世相は、現在進行でこれまでの社会構造が壊され、支配層による新世界秩序構築に向けた再編の只中にあると言えます。この比類無き悪意の中、大きな再設定に向かう動乱に翻弄されず、世の悪への抵抗を当然するべきです。世の悪に抗う最善の方法は、一言で言えば、神の律法、掟、戒めを守ることです。それは同時に、真理を知ることも、信じることも、行動することも阻もうとするサタンとの熾烈な戦いの過程でもあります。今回は「終末時代の生き方」と題して、主イエスを模範とした世の悪に打ち勝つ生き方について述べて参ります。

 

  壊されゆく従来の社会

 

こちら(X)に百年前の日本を映した動画があります。投稿者も和服の良さに言及しており、動画では皆が笑顔で溢れております。返信投稿も肯定的内容が多く、むしろ当時の活気に対する羨望すら感じさせます。『貴重な映像を投稿していただき、ありがとうございます。子供からおじさん、おばあちゃんまで着物やマント、帽子の着こなしが素敵すぎて、何度も繰り返し拝見してます。(引用:X )』と言っている方もおり、同様に感じる方はきっと多いのではないかと思います。一方、『今の日本国は若者がマスクして顔を隠し暗く自ら命を絶つ国 それが今の日本国(引用:X )』と百年前の活気と現代の落差を嘆く投稿もありました。日本人に元気が無いということはコロナ犯罪以前からも聞かれていたことではありますが、追い打ちをかけるような現在の状況を見れば上記のように言いたくなるのも分かります(但し、百年前が安泰であったという訳ではなく、今よりはましという程度です)。ミカエル氏の記事でも昔の日本の画像等を紹介しており、その中の真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」の記事において『米国の指令により戦後急速にヘブライ文化を受け継ぐ日本文化が衰退させられ、異教の西洋から持ち込まれた悪魔崇拝の一種と言える。せやから、拙者は西洋かぶれするなと言うてる。不信仰で異教徒だらけで神に逆らう者が多い西洋人の真似なんかしても何一つええことはないんやから。』と指摘されていることが、事の本質です。ヘブライ文化を受け継ぐ日本文化(日本語、和服、和食、武士道に代表される生き様、その他の生活様式)が在って、それが日本人に共有されていることこそ日本であることの証しです。それが消失寸前で、異邦人の文化(外来語、洋服、その他の慣習)が主たる位置を占めるようでは、日本人全体が、「異邦人の道に行ってはならない(マタイによる福音書十章五節参照)」の主イエスの言葉に反している状況です。神に逆らって栄えるはずがありません。ましてや聖書真理に立ち返ることもない状況では申命記にあるような呪い、旧約の歴史書にある古代イスラエルの衰退が今も同じように臨むだけです。日本の衰退はここ数年の事柄だけではなく、百年前よりもっと以前から始まっております。真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」等でも言及されている通り、江戸末期の明治維新という国家転覆(約百五十年前)から急速に日本らしさが失われました。百五十年という時をどう捉えるかですが、一人の人間の人生時間に置き換えればとても長く感じられるため、ぴんと来ないかもしれません。しかし、歴史という時間軸で捉えれば近い時期に相当します。この世には六千年という時が設けられ、和服は古代イスラエルの民の服装(に近い)であることからも同等の歴史を持つはずです。それが六千年の終盤のたった百五十年の中であっという間に廃れたことを考えれば、如何に日本文化(ヘブライ文化)が急速に消え失せているかが分かります。千年を一日のように(ペトロの手紙二 三章八節参照)捉えれば六千年は六日間であり、百五十年は(一日二十四時間で計算すれば)四時間足らずです。この僅かな時で急速に廃れるのは異常です。『洋服を着てる時点で「自分は異教徒です」と主なる神への反逆を全身で表現、かつ、主張してるに等しく、売国奴でもある。知らなかった時に犯した過去の罪は、主イエスを信じて悔い改め、神の律法を守るようになれば赦される。過去がどうだったとかやのうて、現在及びこれからのことを言うてるんや。悔い改める(律法違犯をやめて遵守する)なら赦されるが、自分らの罪を認めずに悔い改めへん(律法を破り続ける)のなら赦されず地獄行き。これが単純明快な主イエス・キリストの教えや。もしこれを読んでるのが、日本人でないとしても、皆同じく改める必要がある。(真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』のご指摘の通り、高い視座で俯瞰して、今の状況を見据える必要があります。

 

日本文化の衰退のみならず、経済面では産業の破壊も深刻です。コロナ犯罪で飲食店等が特に大きな損害を受けたのは記憶に新しいと思います。当時、政府は無利子、無担保(通称、ゼロゼロ融資)を実施しました。融資の総額は二年間で総額四十二兆円にも達するそうです(参照:NHK)。中小企業の半分近くが融資を受け、そして、返済が始まりましたが実際には返済出来ず倒産する中小企業が相次いでおります。こちら(読売新聞)によると、二千二十三年上半期の企業倒産が前年比三十七パーセント増、「ゼロゼロ融資」を利用した企業の倒産件数は四十四パーセント増と底が抜けた状態になりつつあります。

また、こちら(アメブロ)では、ある自動車販売店にて『コロナ禍に入り生産ラインが止まり、新車を受注しても納期未定みたいな時期が長らく続きましたが、あれは景気の良いニュースのようで、結局お客様側に車を届けて初めてお金が動くので、実際は絵に描いた餅状態。そのせいで中古車販売は過去最高益だったらしいですが、2023年に入りピタリと売れなくなったそう。そりゃそうです、新車が流れないと状態の良い中古車も出てこなくなります。それで今は、たくさん新車の発表はしていますが、すぐに生産ラインを停止しているのが現状のようです。目標台数みたいなものを事前に決めておいて、その台数が売れた時点で生産終了』という作れない、売れない、利益も上げられない、業界全体の流通も停滞する事態が起きているようです。これでは現場の従業員のやる気も低下し、効率が下がり、生産性も下がり、ますます悪い連鎖が起きるのも当然です。一見して、何とか事業活動がされているように見えても、いつ目に見えた本格的な崩壊(それも連鎖的に)が訪れてもおかしくない状況にあると思います。

 

そして、経済や産業の動向のみならず、人口減少も深刻です。こちら(X)より、「接種前比の超過死亡数」が太陽暦二千二十三年八月時点の情報で三十八万人を超えるとの情報がありました。また、こちら(X)では、『イスラエルと豪州における年齢層別ワクチン致死率(vDFR)の分析から、ワクチン投与数をちょうど1000で割ると死亡人数の推定値が得られると示唆。』との規則性が見られるようで『2023年7月10日:日本は4億回接種達成、ワクチン接種による死亡人数の推定値が40万人となる』となるようです。先の「接種前比の超過死亡数」と概ね近い数値だと思いました。かねてよりワクチンのロットによっては有害事象が多いことは知られており、そのように割り当てられている可能性は考えられます。戦時の東京大空襲、広島、長崎の原爆の死者数よりも多く、また、何かしら日常生活に支障をきたした人々の数を加えると、恐ろしい状況になっていると思います。そして、最近、芸能人などの著名人の死亡が相次いで報道されており、ワクチンとの関連が濃厚と思われますが、超過死亡の多さも含めて全く触れない報道機関の姿勢(知らないふりを続ける不作為)はおぞましい限りです。また、それは医療機関とて同様で、これだけ死者数が増えればどんなに鈍くても気付くはずですが、それについて声を挙げたという話はほとんど見受けられません。更に、日本の十二歳から十九歳までの新型コロナワクチン接種率は、二回接種済みが約七割、三回接種済みが約四割に達しており(太陽暦二千二十三年十月時点)ます。そのため、ひどい頭痛や倦怠感のために不登校が続き、休学や退学を余儀なくされている児童がおります。こちら(アゴラ)によると、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)の臨床像を示しているそうで、当の厚労省がワクチン後遺症を認めていないことも相まって、医療機関を受診しても怪訝な顔をされるなどまともに対応されていない実態があるようです。子供たちが人生を壊され、また、未来を担う子供たちのほとんどがワクチンを接種しており、社会全体の先行きとして非常に厳しい状況です。

 

そんな中、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が『全世界に向けてパンデミック条約の制定と国際保健規則(IHR)の改正、締約国会議の創設を提言(引用:CoRoNano)』と提言しました。こちらのnoteの記事では、いわゆるパンデミック条約の危険性がまとめられておりますが、記事内の最上段の動画では、ウイルス詐欺に乗っかり畜産業を制限することや、支配層が偽と看做す情報(真実)の拡散(いわゆるインフォデミック)への対策をとること、「ソーシャルリスニング」という名の思想調査など、ろくでもない内容が並んでおりました。条約が締結されれば、検閲が強化されたり、ワクチンが強制接種されるのは目に見えております。検閲や強制等があれば、憲法に反する内容のため、締結されたとしても憲法九十八条一項により無効となる対象です。おそらく政府や与党は、合法であることを主張するためにも憲法改悪を強行すると考えられます。しかしながら、国政は国民に福利を享受させるのが役割なのであって(憲法前文が根拠)、ましてやでっち上げられた偽ウイルス対策のために人権を制限するような自民改憲案自体は、憲法前文により排除されるべき対象です。そのため、強行して改憲しても無効で、従う必要はありません。ただ、懸念されるのは、法を蔑ろにする人治主義の政府はお構いなしに改憲をごり押しして、それが合法だと振る舞う危険があるため改憲は何としても阻止するべきです(参照:真の聖書福音と預言「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」)。

 

 

また、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエルの軍事衝突が起きました。イスラムと偽ユダヤの衝突について盛んに報道されており、下図のように世界各地に飛び火しかけております。これについては、真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」の記事にあるように最終的に大規模な戦争(第三次世界大戦)となり、『その戦いの果てにイスラム教も最終的にローマ教皇に従うことで吸収されて世界統一宗教という形に収まって終わるのだろう』との流れになっていくことが考えられます。ウクライナ戦争と同様に仕組まれた戦争であるため、どちらかに肩入れしたりせず、この争いがどこに向かいつつあるのか(実際には、支配層の世界再編、新世界秩序構築に向かう)を、報道に惑わされずに見ていく必要があります。

 

 

関連して、『次は台湾です ホワイトハウスがイスラエル、ウクライナ、台湾への追加軍事支援を議会に要求(引用:X)』との情報があり、日本が台湾有事に巻き込まれるのも目前に迫っております。支那で「外国国家免除法」が成立し(参照:superred2020kiroku’s blog)、これまで成立した戦争関連の法と共に着々と支那は戦争の準備をしていると思われます。日本はこのような時期に汚染水等のことで支那と対立の火種をわざわざ作ったり、その前には麻生副総裁が台湾有事を煽るような発言をする始末です。それでいて支那から多数の移民を受け入れており、政府の対応は完全に矛盾しており、むしろ混乱を作るのが目的なのだと分かります。普通に考えれば、戦争など違憲であることから許されざることです。しかし、人治主義の政府によって改憲が強行され、無効であることも省みず人々に「軍役」を強要しようものなら、一気に台湾有事に進んで行き、戦争の最前線に日本人が立たされる懸念があります。僅かでも懸念されるなら、絶対にそのような余地を残さないように反対しなければなりません。主イエスの終末預言にある、戦争と戦争の風評が聞かれる状況が実現しつつあります。

 

 

  この世の悪に対してどう向き合うか

 

これらの世の悪に対してどう対峙するか、良からぬことが起きているとは誰の目にも明らかですが、無関心でいたり、ただ眺めているだけでも駄目です。支配層は人外な悪い計画を実行しており、それに無知であることも、ただ生き延びることを考えるのも、現実逃避するのも、いたずらに不安に駆られて揺り動かされていても宜しくありません。世の権威(連合国、世界経済討論会、各国政府、報道機関等)が扇動する政策が、明らかに人のためではなく、彼らが目論む新世界秩序の構築のためにあることをまず認識するべきです。コロナ犯罪と同様に、誘導先があって、そこに至らせるために全てがやらせとして「在りもしない問題」として起こされていること(支配層の手口)をこれまでの出来事からも十分に学べるはずです。

 

 

彼らの人外な思想や行為が悪魔崇拝に基づいており、その悪魔は聖書に記された神への反逆者です。彼らは、人々に聖書真理を知られないように進化論などの嘘や偶像たる宗教や偽福音を教え、神の律法を守らせないように仕向けます。その結果として、大勢が滅びに至ります。律法を遵守しない者たちの誘導に乗ってはいけません。彼らの誘導は聖書真理に照らして何ら実を結ぶに値することは無く、偽りに満ちていることから、彼らは聖書の黙示録に預言された悪しき存在であることが分かります。聖書預言は確実に起こるため、ヨハネの黙示録十三章にある獣の秩序が構築されるのは避けられません。新世界秩序が暗黒社会である所以は、構築の過程で大勢の命を奪うこと、その後も肉体の命と引き換えに律法違犯を強要し、第二の死に至らせることです。これらに対して、悪の実態を人々に伝え、世の権威に従わず抵抗し、聖書真理を伝え、神の律法を最期まで守ることによって抗うのみです。それが唯一の勝利条件です、逆に、世に屈服する(神を否む、神に従い通せない)ことが彼らの狙いです。たとえこの悪い世で命を失ったとしても、全ての不義を裁かれる神の正義に委ね、良き報いを得られることに希望を抱いて、最期まで神に従い通すことが終末時代の唯一の正しい生き方です。


 

主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節)」「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節)」(引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』の聖句は、何度も引用させていただいておりますが、とても重要なことであり、何度でも伝えます。主への畏れを持ち、真理を自分の基軸とし、心と行いを律しない限り、全ては無益に終わります。この世を支配する悪は最後に神に滅ぼされますが、人々を自らの奴隷にして地獄に道連れにしようとします。この世の終わり際は悪の支配が極まり、大勢が命を失いますが、その激しい精錬過程によって鍛えられるとも聖書には記されております(ゼカリヤ書十三章九節、ペトロの手紙一 一章七節等参照)。悪魔が滅ぼされるのは神の律法(善悪の基準)に違犯しているからです。悪魔のみならず、神の律法に違犯した者は皆、有罪判決を受けます。神の律法は守ろうと思って守るのではなく、神への愛の故に、また、その過程で聖霊をいただくことによって成し得ます。聖書真理を知らずに道を間違っても、偽福音を信じたり、真理を知っても何かしらの理由(怠惰、高慢、生活の煩い等)で道から逸れても駄目です。命に至る道での戦い(神を選ぶか、サタンとこの世を選ぶか)は非常に熾烈であることが終末に関わる預言から分かります。

 

狭く苦しい道である(マタイによる福音書七章十四節参照)とは決して誇張ではありません。これでは誰が救われるのかと思わなくもないです。しかし、予め主イエスがそのように予告された通りなのであって、それ以上でもそれ以下でもありません。確かに言えることは、主イエスは「自分を捨てて、我に従いなさい(マタイによる福音書十六章二十四節等参照)」と言われたのですから、それに従うことが命に至る唯一の道です。主イエスは我らの模範であり(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)、どうするべきかは主イエスの言動に倣うべきであり、また、教えてくださります。主イエスに倣うことの意義は「お前たちの師はキリスト一人である(マタイによる福音書二十三章十節参照)」とある通りです。『師(καθηγητής)』は「教師」「指導者」であり「判断基準」や「道しるべ」でもあります。まさしく主イエスは模範となられました(ヨハネによる福音書十三章十五節・ペトロの手紙一 二章二十一節参照)。主を畏れ神の知識を得ていくことや神の律法を守ることを前提に、主イエスに倣って終末時代を生きるために以下の五点に留意するべきと考えて挙げさせていただきます。

 

一、悔い改める

洗礼者ヨハネは「お前たちは悔い改めよ。各天の国は近付いた(マタイによる福音書三章二節参照)」と言いました。悔い改めの定義については過去記事でも触れてきましたが、これをきちんと理解できているかどうかが明暗を分けます。また、一度で全てを改めることは不可能と言っても過言ではなく、失敗は教訓にして、諦めずに、完全へと近付いていく必要があります。悔い改められる時(罪が赦される恩恵期間)は有限であり、限られたこの時を何にも優って大事にするべきです。主イエスも悔い改めよ(マタイによる福音書四章十七節参照)と言われ、罪人を招いて悔い改めさせるために我は来た(ルカによる福音書五章三十二節参照)、悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)とそれが超重要で不可欠であることを繰り返し言及されております。『悔い改め(μετανοέω)』には、「以後、考えを変える」「倫理的に良心の呵責を感じて考え直す」「後悔する」といった意味があります。「良心の呵責を感じる」のは、正しい善悪の基準(倫理)を知ったからであり、考えを変えれば行いも変わるのは必定です。行いの重要性は他の聖句箇所でも言われております(マタイによる福音書二十三章三節、ヨハネによる福音書十四章十五節等参照)。ところがパウロ教信者は、主イエスを信じて受け入れて、罪が赦されたから大丈夫なのだと平気で言いますが、こういった全く悔い改めない彼らの嘘(偽福音)には騙されないようにしてください。

 

マタイによる福音書十三章十四節から十五節(私訳)

イザヤの預言は彼らによって成就される。曰く、お前たちは聞くには聞くだろう。しかし、決して理解しなかった。お前たちは見ることは見るだろう。しかし、決して理解しなかった。この民の心が鈍くされ、耳にはぼんやりと聞こえ、彼らの目を閉じたからである。彼らは少しも目に見ようともせず、耳に聞こうとせず、心に理解しようとせず、改めようとせず、我も彼らを癒そうとしなかった。

 

改心する(ἐπιστρέφω)」は、新共同訳では「悔い改め」となっておりますが、意味としては「改める」と心の動きと共に行いも含まれております。また、「癒す(ἰάομαι)」には、「治す」「解決する」の他に、「完全とする(欠けが無い)」といった意味がありました。ここでは、比喩的に罪から解放される、救いをもたらすとの意味があると考えられます。ちなみに、マタイによる福音書九章三十五節から三十六節(私訳)『イエスはあらゆる街や村を行き回り、それらの会堂で教え、(神の)王国の福音を伝え、人々のあらゆる病気や病弱を癒し、更に、群衆を見た時、羊飼いが居ない羊のように力無く、散らされた彼らを憐れんだ。』の箇所にある『θεραπεύω(癒す)』の原語には「神を崇拝する」の意味があり、十三章十五節の「癒す(ἰάομαι)」にある「完全とする(欠けが無い)」、救いをもたらす等の意味から、悔い改める(改心する)ことの重要性が複合的に理解できる箇所だと思います。また、癒すからには、治された状態(解決像)があるはずで、マタイによる福音書九章三十五節『νόσος(病気)』の原語にある「肉体的な病だけでなく、善悪の判断に関する能力欠如による社会的な問題や弊害」の意味からも、聖書の真理によって、世の事柄を判断し、内容によっては忌避し、考えも、行いも改めていく必要があります。真の神を知らずにさまよった結果として、世の悪に絡め取られて、命を失ったり、心身の面でも経済の面でも弱らせられていることに通じると思います。

 

聖書の真理を知り、今の実生活全てに応用して、自らの考えのみならず、行いをも正す必要があります。かつては知らずに世に従ったとしても、悔い改めて生きる以上は、正しい行いをして、高潔な品性を持つように自らを磨き、真理の知識を深く学ぶことは不可欠です。過去記事「神に裁かれる者として」の中でも引用したのですが、『現代法学では、裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。(略)事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。(引用:ウィキペディア)』とあります。悔い改め(改心)とは、神が定めた善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に適うように自分を律することです。それは非常に高い精神の働きが求められます。この反対が、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 四」で言われている『自分で主体的に考えることがでけへんような人間、自分の良心や理性で自分自身を制御出来ずに外部から制御される人間がゾンビということや。』だと思います。勿論、知識の習得や思考の度合いにもそれぞれ差異があるので、最初から完全に自己を制御するのは難しいです。だからこそ、出来ている人に学び、兄弟で励まし合うことが不可欠です。残りの時が少なくなっておりますが、まだ恩恵期間が終わっている訳でもありません。志の有る方は急ぎ兄弟の集いから、神のイスラエル教会に入会し、学びと実践に努めましょう。

 

 

 

 

 

二、悪しき世の権威に従わない

繰り返しますが、この世全体は悪い者の支配下にあります(ヨハネによる福音書一  五章十九節参照)。だから聖書真理に基づいて社会が構成されておらず、あらゆる偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)に基づいております。世に従って生きればそれだけで神に反する生き方(世に属する)となります。マタイによる福音書四章八節から十一節にあるように、主イエスは悪魔から試みを受けました。『サタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、イエスに世界の国々の全てとそれらの壮大さを見せ、イエスに言う。「もし、我にひれ伏して崇めるならばこれら全てをお前に与えよう。」(マタイによる福音書四章八節から九節:私訳)』とのくだりです。主イエスはただ神にのみ仕えよとの聖書の言葉に従い、サタンの誘惑を拒否しました。

また、主イエスは逮捕されて、総督であるピラトから、『「あんたを十字架刑に処す権限も、釈放する権限もある」(ヨハネ十九章十節参照)と言うた言葉に対して、「天から与えられたのでないなら、あんたは我に対して何の権限も無い。それ故、我をあんたに引き渡した者は、より大きな罪や。」(ヨハネ十九章十一節拙訳)と言わはった。このように、主イエスは毅然としており、地上の権力者なんかに媚びることもなければ、その権限をも認めへんかった。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)』と、平伏することもなく実に堂々としておられました。更には、捕縛された場面でも相手が武装しているにも拘らず、自らは反撃して暴力を振るうこともありませんでした(マタイによる福音書二十六章五十節から五十四節参照)。ただ神を畏れ、神の御心を思い、非暴力不服従の姿勢を示されました。

今を生きる我らにとっての日常的なことで言えば、聖書を読み、創造の秩序からこの世と人間の始まりを知り、生きている間に真に為すべきことを知り、古代イスラエル文化に回帰して和服や和食を大切にし、日本語を重んじて西洋かぶれせず、政府や報道機関等の言う嘘を見抜き、学歴や地位や財産等を志向せずに神を一番にし、安息日等の律法を守ることです。また、巨視的には、ワクチンや戦争などの人口削減、経済や生活の破壊を通して新世界秩序の構築に向かわせる再編の動き(大きな再設定)を見抜き、それらに反対の意思を示し、置かれたところで出来る限りの行動をすること(隣人愛の実践、福音伝道等)が大事です。総じて、『獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。ワクチンを避けるのも当然必要なことであり、支配層の所有物になりたくなければ、接種は断固拒否で、ローマ教皇を頂点とするカトリック、その他世の「キリスト教」と自称する教会に所属することも従うことも忌避すべきです。(引用:キリスト道)』とあるように、身体的、精神的、社会的、霊的(真理)あらゆる面で世の悪を拒絶することです。これは世を捨て、世俗と距離を取って生きなければ為し得ません。世の友となっては決して出来得ません。そうした覚悟が求められます。

 

太陽暦二千二十三年十月十一日、人間の体内にマイクロチップを埋め込む話が報道されておりました。こちら(日経ビジネス)の通り『マイクロチップ埋め込んだ21歳 生体認証に新風』との題名で、マイクロチップを埋め込んだ手をかざしてドアを開錠するなど映画さながらな使われ方が紹介されております。そして、やはり個人番号券とマイクロチップの情報を関連付けるとの一文がありました。支那では信用得点制度によって、例えば、自動車走行時に速度違反をすると即時に違反が検知され、口座から罰金が引き落とされる仕組みが既に稼働しております。これらを日本で実用化するには個人番号券で国民を一括管理する必要があり、ましてやそれらが体内にチップで埋められれば、もはや逃げようがなく、現金も廃止されて電子通貨のみとなれば、まさにヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印であり、それがなければ買うことも売ることもできない世界が実現します。要は、そのような技術が既に確立されているので、支配層の駒である政府が、いつ理由をこじ付けて導入し強制してくるか分かったものではありません。だからそのようなものは最初から忌避するべきで、親しむべきではありません。動物へのマイクロチップ装着は既に行われており(参照:動物検疫所)、人間が家畜や飼われた動物のような扱いをされることは目に見えており、やがては支配層に恭順しないと生きられない社会になるのが目に見えております。先の記事は『新たな生体認証』という言い方から、現在使われている指紋認証や顔認証の延長として、より心理的抵抗を少なくさせて、これを世の標準とさせていく意図があると思われます。若き経営者が最新技術を駆使して、夢のような快適な生き方を提供するという心象戦略を仕掛けているように思えてなりません。また、真の聖書福音と預言「動画三回目投稿 新しい契約」「早よ行動せんのなら日本は滅びる」の記事でも紹介されているように、マイクロソフト関連会社が電子刺青の特許を既に取得しており、マイクロチップよりも侵襲性が低い(と思われる)電子刺青へと促されるようになるのではないかと、その布石としての一手なのではないかと思いました。ミカエル氏がかねてよりずっと警鐘を鳴らしてきた事柄ではありますが、いよいよ露わになってきたと感じております。マイクロチップまたは電子刺青が個人番号券や信用得点制度と一体化した時、政府が国民の生殺与奪権を持つでしょう。その時、権力者が神の律法に反する事柄を強制するようになり、従わねば黙示録にあるように殺されるようになるでしょう。mRNAワクチンでも神が創造された人間が持つ自然な遺伝子が改変されて、自覚も無いまま大罪を犯してしまうといった事象が既に起きております。無知は「善悪の判断に関する能力」の欠如に他ならず、神よりも自分の命を愛することは「善悪の判断に関する能力」の不行使です。

 

 

 

三、真実と福音を伝える

世の悪や世の真実について、自分の内にだけ留めていたのでは不十分です。ただ知識欲を満たすだけでは自己愛を強めるばかりです。大事な情報、貴重な情報は周知して共有するのが望ましいと考えます。前回記事でも触れましたが、新型コロナワクチン接種後、障害が生じて車椅子が必要となった方が、ヤフーやグーグルの検索で調べても詳細な情報が出て来ず、Xでようやく真実情報を知ることが出来たというものでした(Xの情報は玉石混交で見分けが重要ではあるが、報道よりも真実を伝えている)。以前、Xの大型口座の方が多数の真実情報の発信をしていることについて「正直、お金にもならないが、真実や世のおかしさを伝えることのほうが大事だという気持ちの方が優る」といった趣旨のことを言っておりました。その方は不信仰者でしたが、儲けを考えずに行っているその心意気は素晴らしいと思いました。間違った情報は論外ですが、真実を伝えようとする行動には「他者のため」という慈愛が根底にあると思います。また、義憤ということもあるでしょう。それも回り回って他者に還元されていく慈愛だと思います。何も知らずに、無知なまま滅ぼされて良いはずがなく、悪をのさばらせた要因として我ら一人ひとりの怠慢(無知、無関心、無慈悲等)にも要因があり、それらをも改めなければなりません。

医療従事者が悪魔の使いとなって、危険薬物を手に「ルール」と「思いやり」を免罪符に、殺戮を繰り返します。

今の多くの医療従事者の白痴ぶりはもはや病的で単なる異常信仰者ですから必ずやります。

 

改憲阻止と同時にパンデミック条約、国際保健規則の阻止ということですから非常に過酷ですが、やらなければ死ぬ可能性が高まるだけです。

 

これこそ、やるかやらないかであって、日本人を、また人間を問われているのだろうと思います。

もはや死ぬ覚悟がなければ生き残れないという状況です。

最後は運でしょうが、運を引き寄せるのも、「自分」です。

 

闘いの中に活路が見えることはよくあります。

それを「光」と呼ぶのかもしれません。

 

引用:note(知識と実践と真実と〜知行合一〜)

上記の通り、『日本人を、また人間を問われている』と手前も思います。この異常な世の実態を伝え、暗黒社会へまっしぐらとなる憲法改悪や感染爆発に関する条約等は、自分のためだけではなく、大勢の日本国民のためでもあり、止めなければなりません。この危険を認識しながら、全く何もしないということはあり得ず、その姿勢に古代イスラエルの末裔としての日本人の生き様やキリスト者としての人間性が問われていると思います。ただ、残念ながら大勢の国民が悪の実態を認識せず、「今だけ、金だけ、自分だけ」で生きてきており、更には大勢がワクチン接種をして自分で物事を考えられずゾンビ化しており、大勢が改まるのは厳しいのが現実です。何より、聖書では獣を拝まねば殺される、かつてない大艱難が預言されており、それは必ず起こります。だからこそ、希望を持つ対象は、世直しではなく、全ての不義を裁かれる主イエスの正義と死後の報い(永遠の命)でなければなりません。主イエスが世の終わりに関する預言をお与えくださった意味を考えるべきです。

上記の引用に『闘いの中に活路が見えることはよくあります。それを「光」と呼ぶのかもしれません。』と書いておりますが、「世直し」という意味での闘いでは光は見えないと思われます。暗黒社会が現実のものとなるのは間違いなく、そうなった時には絶望しかありません。絶望した時に投げ遣りになったり、悪に屈したりするかもしれません。そうなると、これまでの闘いが何であったのかの意味を失う可能性もあります。しかし、聖書真理に立てば、世における権勢や生存が勝利条件ではなく、たとえ命を失っても聖書の神に従い通すことが勝利条件であり、真のキリスト者としての証拠でもあります。命を失っても屈服を拒み、精神の自由(悪を拝まず、主イエスのみを崇拝する)を手放さない生き様は旧約の預言者や主イエスやお示しくださいました。それに倣う時と機会が間もなく訪れようとしております。

 

そして、主イエスは、御自身も福音を宣べ伝えられ、キリスト者にも福音を宣べ伝えよ(マルコによる福音書十六章十五節等参照)とも言われました。福音(罪の赦しと永遠の命を得る機会)は、現実生活と切り離された事柄ではありません。この世の、各位が生きているあらゆる場面において、残りの生涯を通じて、全身全霊で神を愛し通して、神に忠実であることを神にお示しすることになるからです。その妨げになるのが、世の悪による偽り、妨害、世への恭順や屈服です。この世の支配者(悪魔)は、支配層(悪魔崇拝者)を配下に、悪の極みの新世界秩序を構築しようとしております。彼らにとっては、反キリストが標準であり、社会の仕組みも聖書に反する仕組みであり、世の動きと福音が大いに関係することです。誰もが聞き入れ、誰もが救われる訳ではありませんが、神がお選びになった失われた羊に向けて真実と福音を伝えることがキリスト者の正しい(神の御命令に適う)務めです。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から三十節のタラントンの例えについて、福音伝道の働きと絡めて触れていきます。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から十六節(参照)

(各天の王国は)ある人が遠い国へ行くようである。彼は自分の僕を呼び、自分の財産を彼らに委ねた。ある僕には五タラントン、別の僕には二タラントン、更に別の僕には一タラントンを彼らの能力に応じて託した。そして、直ちに彼は旅立った。それから、五タラントンを受け取った者は行って、それで精を出して働いた。そして、他の五タラントンを稼いだ。

 

ここが天の王国の例えであることから、「財産」自体は天に宝を積む(マタイによる福音書六章二十節参照)の例えの通り、神の目に善しと評価されること全般を指すと思います。それは各位の行いであったり、また、それを「委ねて」いることからも真の聖書福音などの正しい聖書の知識をも指すと思います。「能力(δύναμις)」には言葉通りに、その人固有の力、内在する力、その人が発揮する力です。各タラントンを主人(「ある人」)は僕に預けました。ここでは、具体的に何をするのかの指示は見受けられません。ただ、「委ねた」「託した」とあるだけです。推測となりますが、タラントンを預けられた段階で、僕は「主人(ある人)の意図を既に理解している」ことが求められていたと思います。このことは現代の我らのキリスト信仰そのものです。我らは聖書を与えられ、聖書を正しく読むことで何をするべきかを知るでしょう。『人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。(ミカ書六章八節:私訳)』の言葉が思い起こされます。だから、その指示を誤解釈してはいけません。誤解釈の最たる例は、パウロ教徒らの「行いは不要」とする律法廃止論が挙げられます。そして、新共同訳では僕は「商売」をしたとありますが「ἐργάζομαι(精を出して働く)」には、骨を折って働くことが主たる意味です。確かに「商売」の意味もあるのですが、原語から判断するに、ただ儲ければ良いと言う訳ではなく、また、楽して稼げば良いという訳でもありません。骨を折って働くことには、真剣さも、自己研鑽も、時間をかけることも求められると思います。自分に委ねられた分だけしっかりと働くことが求められております。ここではやはり、福音伝道という働きの意味があると思います。二十四章二十四節と二十六節では「σπείρω(種を蒔く)」の言葉が用いられておりますが、種を蒔くとは『悪を蒔く者は災難を刈り取る。(箴言二十二章八節:私訳)』『義を蒔く者には真の報いがある。(箴言十一章十八節:私訳)』などの言葉からも分かるように何かしらの報いを前提とした行いの意味が窺えます。現代の我らにとって、マタイの本聖句は主イエスの宣教命令(マルコによる福音書十六章十五節等参照)が前提にあります。救われるべき失われた羊に福音が届けられ、救われることは神の御心だからです(マタイによる福音書十五章二十四節、ヨハネによる福音書十章二十八節等参照)。ただ、誰が失われた羊であるかは人間には分かりません。最期まで忠実であることが求められるため、全ては招き、選ばれた神だけがご存じです。ここでは、自分の能力に応じて、一生懸命に福音伝道をする、能力を行使しきることが求められているのだと思います。人には能力に差異があって当然です。決して出来ないことが求められている訳ではないことにも注目するべきです。誰かと比べる訳でもありません。自分の経験を踏まえてですが、人は自分の能力は過大評価しがちだと思います(正確には、正しく客観的評価が出来ないことが多い)。その割には自分に出来る事を過小評価しがちだと思います。それゆえ、怠惰に陥りやすいと思います。先には自己研鑽とも言いましたが、自らの怠惰さに負けず、自分に打ち勝つ心が最も重要です。そして、興味深いのは多くを預けられた者はきちんと稼いでいるにも拘らず、一タラントンを預かった者は「我は恐れて、行って、貴方のタラントンを地に隠しました。(マタイによる福音書二十五章二十五節参照)」と全く稼ぐことが出来ておりません。単純な物言いは危険だとは思いますが、能力が高くない者は能力の活かし方をも不得手なのかもしれません。勉強に置き換えると、偏差値の高い人ほど基本的にはよく勉強し、低い人はそうではありません。そのような傾向は確かにあると思います。手前も能力は高くない故、我が事のように感じます。また、「κρύπτω(隠した)」とは、言葉通りに「秘密にする」ことです。福音を宣べ伝えなかったどころか、敢えて知っていて隠したのは非常に宜しくない行為です。知らないよりは、知っていたにも拘らず伝えなかった不作為の方が質が悪いのは言うまでもありません。現実社会において、ただ怠惰なだけではなく、人の目を恐れることで福音を恥とする(ローマの信徒への手紙一章十六節参照)ことすら残念ながら起き得ることです。「持っている者は皆、与えられ、豊かになるであろう。しかし、持っていない者は、持っているものさえも取り上げられるだろう。(マタイによる福音書二十五章二十九節参照)」とあるため要注意です。ちなみに、知られていることですが「τάλαντον(タラントン)」は、当時の「通貨」でもあり、「才能」をも意味します。能力に応じて託されたタラントンの多寡は、そのまま才能でもあり、持ち腐れでは役に立たない僕と言われて仕方がありません。手前自身にこそ突き刺さりますが、この箇所は厳しくも、そうならないようにと注意されているのだと思います。まさしく戒めです。

 

今は世の終わりの時で、福音伝道が可能な時は少ないと思われます。マタイによる福音書二十章一節から十六節にぶどう園の労働者の例えがあります。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けから出かけました。九時、十二時、十五時、十七時とそれぞれの時刻に労働者を募り、一日一デナリオンの約束で雇いました。報酬は最後に来た者から、一デナリオンずつ払いました。朝から働いていた人は、最後に来た人より多くもらえると思いましたが同じ一デナリオンでした。「この人たちは最後の一時間を働いて、彼らを日中の暑さと負担に耐えた我らと同じに扱った。(ヨハネによる福音書二十章十二節参照)」と不平を言いました。「我が自分のものをしたいようにするのは正しくないのか。我は気前が良いから、お前の目(妬み)は悪くなっているのか。このように、最後の者が最初となり、最初の者が最後となるだろう。多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は殆どいないからである。(マタイにより福音書二十章十五節から十六節参照)」との言葉から、どんなに遅く働き手となったとしても最後まで働いていることが報酬を得られる条件となっております。早いか遅いかよりも、最後まで勤め上げることが大事だと分かります。早くに神に招かれたからと言って、遅く招かれた人よりも多くを得るのではなく、神は基準を満たす者に対して平等なのだと思います。また、罪に関して言えば「悪人が自身の犯した全ての罪から立ち返り、我が掟をすべて守り、法に適って正しいことを行うなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。(エゼキエル書十八章二十一節参照)」「しかし、正しい(法に適う)人が正しさから離れ、不法を犯し、悪人が行う全ての忌まわしい行為に従なら、彼は生きられるだろうか。 彼が行ったすべての正しさは自身の罪と不法行為の故に覚えられず、自分が犯した罪によって彼は死ぬであろう。(エゼキエル書十八章二十四節参照)」の言葉からも、信仰に入ればそれで良いという訳ではないことが分かります。先にキリスト者として、神に拠る正しさを知り、法に適う行いをしたとしても途中から堕落したら元も子もありません。また、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は殆どいないからである。(マタイにより福音書二十章十六節参照)」という一文が新共同訳では欠落しておりますが、原典には記されております。この言葉の通りに、招かれるのが早くても遅くても、最後まで忠実であることが如何に難しいかを物語っております。今は世の終わり間際で、今この時は今聖句箇所にある十七時の状態、残り一時間足らずの労働の機会が残されている状況に等しいと思います。主イエスの御命令通り、自らも律法を守り、真の聖書福音を(偽福音伝道では駄目)恐れずに伝えるべきです。

 

四、敵対者に善いことをする

マタイによる福音書五章三十三節(私訳)

しかし、我は言う。お前たちは、お前たちの敵を愛し、お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり迫害する者のために祈れ。

 

マタイによる福音書五章三十三節について、新共同訳では「お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり」の部分が欠落しております。しかし、原典では上記の一文があります。中でも「善いことをせよ」との行動部分に言及していることは重要だと思います。同じ内容に言及しているルカによる福音書六章二十七節でも欠落しておりますが、同じく「善いことをせよ」の一文があります(参照:真の聖書福音と預言「本物の愛」)。そして、「愛せよ」「祝福せよ」「善いことをせよ」「祈れ」の四つの動詞がそれぞれ「命令形」となっていることにも留意が必要です。自分を愛してくれる人を愛するのは当然であり、それは誰でも行っていることである(マタイによる福音書六章四十六節から四十七節及びルカによる福音書六章三十二節から三十四節参照)と言われている通りです。ましてや、これから過酷を極める大艱難期では、主の名のためにあらゆる民族に嫌われる(マタイによる福音書二十四章参照)のですから、真のキリスト者に肯定的な人だけを対象とするのであれば、もはや他者に対して「愛する」「祝福する」「善いことをする」「祈る」ことも出来なくなります。大艱難期は悔い改めができなくなっている時期ですが、今はまだそこに至ってはおりません。どこかで誰かが見ている可能性もあり、また、一時的に敵対しているようでも改心する可能性もあります。『お前たちは地の塩である。しかし、もし塩が塩気を無くしたら、何によって塩味を付けられるだろうか。これからは何の役にも立たず、また、外へ投げ捨てられ、人々によって踏みつけられる。お前たちは世の光である。山の上にある都は隠れられない。灯火を灯して、それを升の下に置きはしない。しかし、燭台を上に置けば家の中を全て照らす。このように、お前たちの光を人々の前に輝かせよ。お前たちの価値ある行いを見て、各天にいるお前たちの御父を崇めるようになるためである。(マタイによる福音書五章十三節から十六節:私訳))』の聖句にある通り、光で照らすべきです。

 

人々がお前たちにすることはお前たちが望むことであるように、お前たちもまた彼らに同じようにしなさい。(ルカによる福音書六章三十一節:私訳)の聖句がありますが、これは表面的に受け取れば人間的道徳にも適う事柄です。しかし、マタイによる福音書五章三十三節の原典にあるように「親切にする」のではなく「善いことをする」ことの意味を考えるべきです。「καλῶς(善い)」の原語は、「倫理的に申し分なく完全」であるとの意味です。それは神の律法、掟、戒めに適うということです。「親切」の言葉だけに着目するならば、場合によっては情を優先して、相手の心に波風立てないように、伝えるべきことを伝えない事態が起こり得ます。しかし、そんな顔色を窺うような表面的なことよりも、目を向けるべきことがあります。それは、死後の永遠を決める神の裁きであり、第二の死という有罪判決です。聖書にある火の池などの地獄の描写は実に恐ろしく、相手が誰であってもそのように滅ぶことを望まないのが普通ではないでしょうか。出来るなら有罪判決を回避して欲しいと思うと思います。また、「καταρωμένους(呪う)」の原語には、「凶運」「破滅」「(有罪の)判決」「(厳刑の)の宣告」の意味があります。「呪う者」は神が為される裁きに勝手に言及しているばかりか「訴え出るサタン(ゼカリヤ書三章一節参照)」をも想起させます。さながら人を呪う行為はサタンに倣っているようにも感じます。主イエスは、敵を愛する姿勢を説かれ、ファリサイ派の人々や律法学者を弾劾しつつも、為すべき善を伝えました。安易に相手を肯定することは敵を愛することを意味せず、改めてもらうために厳しく指摘したり、叱責することで最悪を回避出来て良い方向に向かうならば、それは善きことだと考えます(同時に、相手が応えるかどうかは相手次第であることにも留意が必要です)。

 

 

五、孤独を恐れない

過去記事でも触れましたが、ワクチン関連で親族や友人との関係に亀裂が走った方々がおります。国民の八割以上がワクチンを接種していることから、もはや世の多数とは相容れないのはやむを得ないと思います。そうかと言って、真実を知りながら何も知らなかった時のように能天気には生きられません。ワクチンの危険を認識せずに進んで受け入れる様子は、はっきりいって異常でしかなく、ワクチンに限らず政府が人口削減を促進していること(憲法を改悪して戦争を始めようとしている、日本人を抑圧しながら移民を優遇する、経済を悪化させながら増税して日本人の生活環境を悪化させる等)などを認識せずにいるのも同様です。今の日本社会において、明確に真実の立場を取る者は少数であるのは事実だと思います。身近に誰も理解者がいなければ「孤独」を感じるかもしれません。しかし、間違った大勢で群れても無意味です。また、「孤独」と聞くと、少数派でいることが悪いかのような前提が今の社会にあると思います。こちら(X)で『学校は "権威 "への反応を習慣化するために「12年間の義務教育」を設けた』とあるように、皆が同じように従順であるように「躾け」られております。「躾(しつけ)」の漢字は「身」と「美」で構成されているにも拘らず、その実態は権威に従順な機械かのようであるのは何とも皮肉です。間違いだらけの多数に従うことは無意味で、むしろ堕落です。もし、そこで「安心」を感じているのなら誤った安心感です。大勢と同じでないと寂しい、孤独を感じるというのも植え付けられた価値観である可能性もあります。間違った多数を拒絶することは正しいことであり、本来は「分別(物事の道理を判断する)出来ている」と言うべきなのだと思います。なぜなら、聖書に記された正しい生き方だからです。たとえ世が認めなくても、神の真理が絶対です。旧約の預言者は(人には都合が悪いと感じる)神からの言葉を告げた故に多数に嫌われ迫害されました。主イエスも同様です。弟子たちの多くが離れ去って、主イエスと行動を共にしなくなり、主イエスがお選びになった十二人の弟子だけが残りました(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)。このことは主イエスの終末預言にある、多くの人が信仰から脱落した(マタイによる福音書二十四章十節参照)ことにも重なります。真理よりも世の常識や自分の生活を優先すればそのようになってしまうのだと思います。また、十二人の弟子は主イエスが直接にお選びになったことから、世の終わりにも主に招かれただけで選ばれていない者は同様に脱落するのだと思います。また、『我が平和をもたらすために地上に来たのであろうと考えてはならない。我は平和ではなく剣をもたらすために来た。我は人をその父に対して、娘をその母に対して、義理の娘をその義理の母に対して不和をもたらすために来たからである。それゆえに、その家族はその者の敵となる。我よりも父もしくは母を愛する者は我がものに値しない。我よりも息子もしくは娘を愛する者は我がものに値しない。自分の十字架を受け入れない者や我が後に従わない者は我がものに値しない。(マタイによる福音書十章三十四節から三十九節:私訳)』とあることからも、皆が一緒にということは起こり得ません。主イエスがわざわざこのように警告してくださっているのですから、そのような心づもりでいるべきです。ちなみに、「μάχαιρα(剣)」には、比喩的に「争い、戦争」「司法の罰」の意味があります。そして、「διχάσαι(不和)」には「分離」「相違」の意味があります。家族間において、真に神に従うか否かが問われる時に違いが出て、神を一番としない不信仰を神は裁かれるのだと思います。神の言葉は剣であり、主イエスの口から剣が出ていることはヨハネの黙示録一章十六節、二章十六節、十九章十五節、十九章二十一節等に記されている通りです。罰を受けるような選択をする者たちと同じになっては道を逸らすだけです。大事なのは、真の聖書福音に対する信仰を分つ相手です。主イエスは信仰の兄弟で愛し合いなさい(ヨハネの手紙十三章三十四節参照)と言われました。共に神を信仰し、世に抗い、互いに励まし合える兄弟の存在は、この世において仲間や同士以上の存在です。兄弟で愛し合うことは主イエスの新しい戒めであり、これによっても決して孤独にはならないと思います。 また、「使徒たちは、自分たちが神の名のために虐待されるに値されたことを喜びながら、最高法院の前から立ち去った。(使徒言行録五章四十一節参照)」とあるように、困難を経ても尚、喜びがあります。万物の主権者である神の御心に沿うことは何よりの光栄であり、人に認められるよりも優ります。神と兄弟と信仰によって共に居ることが出来れば、尚のこと、孤独ではないと思います。

 

 

  結び

 

世の悪の実態を伝える者たちはよく「目を覚ませ」という言い回しをします。それは世の悪に無自覚で、世の権威を盲信している人たちへの警告としてです。しかしながら、世の悪や悪い仕組みにだけ言及していたのでは不十分です。その悪が、何を拠り所に活動しているのかを知れば、悪魔であることが分かります。悪魔は一時的にこの世を支配する力が与えられており、悪魔崇拝者は自らの魂を売り、刹那の繁栄を手にします。彼らは悪魔と同様に神を憎み、古代イスラエルの民の末裔のいる日本を憎み、神に選ばれた者をも惑わそうと徹底的に攻撃をしてきます。だからこそ、却って世の権威がひたすら聖書真理を隠そうとしていることや実現してきた聖書預言の数々、人となって来られた主イエス、その素晴らしき教え、首尾一貫する聖書の筋道(パウロ書簡を除く)を知れば、聖書が真理であると分かります。真の聖書福音にしか救いはありません。世の真相を知るだけでは「目を覚ます」ことを意味しません。もう一段階の高い視座(聖書真理)が不可欠です。

 

マタイによる福音書二十四章四十二節(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」

せやから、目を覚ましていなはれ。何刻、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。

 

「γρηγορέω(目を覚ませ)」には、用心深く、油断なく、起こることを待ち受けることが含まれます。何故用心するのか、油断してはならないのか、何を待ち受けるのか、総じて神が人に何を求めておられるかを知らないようでは話になりません。人には、一度死ぬことと、死後に裁きに遭うことが定められているからです。

 

戦争や戦争の噂、死亡超過、腐敗と無秩序が極まる政治を日々、目にするのは確かに気が滅入り、苦痛です。この困難の中にあって、自分が真に何を為すことについて、やり切れるかを何度も何度も試され、問われることと思います。しかし、最期まで世の悪や自己愛に打ち負かされず、自分を捨てて、神に聞き従い、信仰の兄弟と愛し合い、隣人に善い事をし、最期には罪に打ち勝てるように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「真の秩序と神に拠る幸福」と題して、神の創造の秩序が真の秩序であり、死後の永遠を神の王国で生きられることが真の希望であることについて述べていきます。

 

  悪い世の偽りの秩序

 

コロナ犯罪が起きて約三年、明らかに世の中がおかしいと気付く人は以前よりも増えてきたように見受けます。それはコロナ犯罪だけに端を発するのではなく、(日本国民の生活が脅かされる)政府の愚行が余りにも目に余るようになったからだと思います。例えば、個人番号券制度について、任意であったはずがいつの間にか医療保険証と関連付けられ、紙の保険証は廃止されることが勝手に決められました。個人情報が漏洩し、日本国憲法十三条の私事権が侵害されているにも拘らずです。更に、個人番号券と一体化した医療保険証を所持せず、資格確認書を利用して受診した場合には窓口負担が割高となります。これは、正当な理由が無く、属性や信条を理由に不利に扱うことであり、憲法十四条で禁止されている差別に該当するため、到底このような行為が許されるべきではありません。他にも預金口座は既に関連付けられ、更に、運転免許証等の生活に不可欠な基盤との一体化も予定されており、政府が管理する個人番号券が土台にあることを考えれば、政府に生殺与奪権を握られる懸念があることに気付くべきです。一旦出来上がったら元に戻すことは困難です。

こちら(東京新聞)では、経団連が少子化対策の財源について『消費税などの増税から逃げてはいけない」』と国民生活を無視して勝手なことを言い、政府に増税を提言する始末です。彼らは政党に献金を行い、影響力を行使し、政党はまるで彼らが株主やテレビ番組の広告主であるかのようにへつらいます。とかく大企業や会社経営者らによる経団連等は国政を私物化し、国民主権を蔑ろにしております。選挙を経た訳でも無く、国会議員のように公務員として法的義務を負う訳では無く、ただ経済力と社会的地位があるだけで国政を意のままに操ろうとする傲慢が目に余ります。現在に至る国民生活の悪化を見れば明らかなように、彼らの提言を採用した所でろくな結果を生みません。

こちら(読売新聞)では、長野県安曇野市において、滞納していた水道料金を支払ったにも拘らず、水道料金の検針・徴収等を委託されたヴェオリア・ジェネッツ社が七十日間も給水を再開しなかったとの不祥事がありました。『委託業者の担当者が、今後の水道料金の支払いに不安を感じた』という主観的理由で命に直結する水道を開栓せずにいたとは命の軽視が甚だしく信じられない出来事です。実際、七十日も水道が停められてどうやって生活していたのか、当事者の生活実態も気になりますが、だからこそ本当は滞納の背景を行政がきちんと把握するべきなのだと思います。ネット上にあるヴェオリア社の水道事業業務求人サイトを見ると、「口コミ」では同社の弛んだ社内の雰囲気を指摘する声が有り、まともな人ほど短期離職する傾向にあるとの見解があり、こんな会社に委託しているかと思うとぞっとします。民営化の弊害であり、起こるべくして起きた事件なのだと思わされます。市は男性に謝罪したとありますが、それで済む話ではありません。本来であれば市と委託業者を相手取って不法行為に基づく損害賠償請求をするなど責任を追及するべきです。そうしなければ弛んだ市と委託業者はまた同じことを繰り返す可能性があります。同様に、民営化の害として、物価高騰に経営が悪化して、給食事業が停止した(Business Journal)との報道もありました。二千十年代には民営化を進める動きが既にありました(参照:日経新聞)。給食は、かつては市町村直営の機関で作っていたと認識しております。しかし、民営化されたことで、破綻して提供出来ない事態が生じております。本来、速やかに元に戻すべきです。民営化の問題を起きてから嘆いても遅く、この構図は憲法改悪や個人番号券などあらゆることに通じます。想像力と思考力を働かせて、如何に最悪を防ぐかが大事であると分かります。

また、こちら(Yahoo!ニュース)では、令和四年の国民生活基礎調査から、日本の相対的貧困率が米国や南朝鮮よりも悪化して、先進国で最悪となったことが明らかとなりました。「真の聖書福音と預言 日本人の問題点 二」の記事でも触れておりますが、南朝鮮にも平均給与所得額を追い越されたわけですから、このようになるのも当然の帰結です。他の記事でも言われておりますが、これでは未婚率も上昇し、少子高齢化が進み、国が滅ぶ条件がますます揃いつつあります。こちら(TBS NEWS DIG)では、空腹に耐えかねて百四十円のパンを盗んだ男性の話があります。六十二歳とのことで、年金を早めに受給すれば金額は減り、扶養してくれる家族がいなければあっという間に困窮してしまいます。中年世代の手前としては、ある程度に豊かであったはずの社会がどんどんと崩れていく様相をまざまざと感じております。ほんの十年前、二十年前の生活と比べても悪い方に一変しており、明らかに政府によって悪い方向へ促進させられていると分かります。

他にも、内閣感染症危機管理統括庁が太陽暦九月一日に発足しており、以前から次の感染予告として『BA.2.86』が示唆されており、早速に国内で確認されたとの報道がありました(参照:note)。出来過ぎているのは全て自作自演だからでしょう。米国ではマスク着用義務が再燃しており(参照:Forbes japan)、こちら(BrainDead World)によると『全米7州に50以上の病院を持つ医療組織が「すべての医療従事者に新たなワクチンの接種義務」を通達』したとのことです。うんざりする光景がまたもや繰り広げられようとしております。こちら(X)では『今回のワクチン打った人が政府の発表の通りに約8,000万人いるとして、2021年からの超過死亡者数が既に36万人。接種者の0.4% 250人に1人が既にワクチンで死んだことになる。自分の知り合いも21年から9人亡くなってる。』とあり、甚大なワクチン死が生じていることが分かります。こういった情報は本来であれば新聞やテレビで報道されるべきですが、支配層に掌握された報道機関は全く報じません。そればかりか、こちら(JIJI.COM)のように、『違法投稿削除、指針策定要請へ ネット中傷対策で運営者に』『国内外を問わず、SNSなどの運営事業者に対し、違法な投稿を迅速かつ適切に削除する「責務を課すべきだ」と明記。事業者に投稿削除の判断基準などに関する指針を策定・公表させることを目指す。』とあることから、ユーチューブと同様に政府等の見解と異なる情報、特にコロナ犯罪関連の情報が規制されることが濃厚と考えられます。事実、世界経済討論会(WEF)は新型コロナウイルスについて、政府の公式見解に疑問を呈したり、従うことを拒否した者には『COVID強制収容所』に投獄するように要求しております(参照:メモ・独り言のblog)。

 

画像引用 https://x.com/nobu_conscience/status/1706595117451333734?s=20

 

上記は検閲によって言論が規制されている実態を露わにしております。新型コロナワクチン接種後、障害が生じて車椅子が必要となった女性の声として『Yahooで調べてもグーグルで調べても全く何も出てきません』『Twitterを開けてみて愕然としました』と言っております。Xの情報は玉石混交ではありますが、それでも報道機関の情報よりも真実を伝えております。SNSのような自由な言論空間が世の権威たる報道よりも有益とは皮肉です。そうしたこともあって、こちら(X)によると連合国(UN)は、Xの『誤情報拡散に苛立ち、誤情報対策の中央機関を設立』する予定のようです。まずは、新型コロナウイルス(コロナ犯罪)と気候変動(詐欺)が対象のようですが、人口削減には欠かせない事柄なのだと思われます。事実、「気象変動」(詐欺)については、こちら(Total News World)によると元米国大統領のクリントン氏とローマ教皇が『気候変動の「大惨事」に対処する緊急性を強調し、「手遅れになる前に」地球規模の沸騰と戦うことを誓った』と発言しており、中でもローマ教皇は『「大惨事」は「利己的な心に煽られた消費者の貪欲さ」の産物』『「気候変動」に対処するための共産主義的な政策を提案した』と主張しております。このローマ教皇こそ新世界秩序に君臨する、ヨハネの黙示録に記されている獣です。気候変動についてはキリスト道(本拠)の当該箇所、参考動画をご覧いただくとその嘘の実態がよく分かります。『「気候変動は巨大産業」、「温暖化に関わる仕事は宗教。賛同せえへんと異端者、異常者扱いされる。」とまで言われてる。構図がコロナ犯罪とまったく一緒』とある通りです。なぜこのような嘘をでっち上げるかと言えば、この嘘を利用して大きな再設定(グレート・リセット)を行うためです。そのことがクリントン氏とローマ教皇の発言からも分かると思います。何より、これらは連合国(UN)の『持続可能な開発のための2030アジェンダ/SDGs(参照:環境省)』としても謳われていることであり、如何に世の権威が主導してこれらの悪を為しているかが分かります。当然、国内においても岸田総理が以下の画像にもあるように『グレートリセット』と言及していることから、全て足並みを揃えていることが分かります。

それぞれの政策等が、表向きは良い意図がある「正しい」こととして進められております。しかし、その末路はかつて無いほどの暗黒社会です。

 

 

支配層の言う「問題(気候変動や感染爆発など)」は最初からありません。善意を装って、人々を、社会を正しく導く装いをしながら、その内実は獰猛な狼であり、滅ぼすこと(人口削減)が狙いです。「お前たちは偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の皮を身にまとってお前たちの所に来るが、心の奥は貪欲な狼である。(マタイによる福音書七章十五節参照)」の言葉は彼らにも当てはまります。マタイによる福音書十章十六節でも主イエスは十二使徒たちに「我はお前たちを狼の群れに羊を送り込むように遣わす。だから、蛇のように賢く、鳩のように純粋であれ。(参照)」とも言われましたが、狼は「残忍な者」「貪欲な者」を意味し、翌節では「狼の群れを警戒せよ(参照)」と御命令されている程です。同じように、これまで挙げて通りにこの世全体が、世の権威たる悪しき者に支配されている(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)のですから、警戒して当然です。何かにつけて、世の悪に言及すれば『陰謀論』と決めつけて一笑に付す動きは今でも変わりありません。彼らの言う理屈(世の権威の公式見解)に合わないから、あるいは、明確な根拠が無い等と彼らは言います。確かに、各論の細かい点、例えば気象変動詐欺におけるコンピュータの予測、コロナ犯罪における遺伝子配列云々となると門外漢には分かりかねる点が多々あります。しかし、『そもそも、コンピュータで予測等をしたって、それは「机上の空論」でしかあらへん。この事実にええ加減気付くべきやな。物理っていう学問自体嘘が多いし、数字を捏ねくり回すだけで実体が伴わへん。ただ小難しい計算や理論等で煙に巻き、騙す。これこそ支配層の狙いや。(引用:キリスト道)』とあるようにこれこそ彼らの常套手段です。こちら(字幕大王)では、コロナ信者の理系大学院卒の研究者が小難しい理屈を並べ立ててコロナ犯罪を擁護していることについて触れておりますが、拠って立つ「新型コロナウイルスの存在証明」が無いが故に、論破されております。そもそもが嘘の上に成り立っているので、各論の詳細を知らなくても話の骨格や大筋の矛盾に気付くことが出来るのだと分かります。支配層及びその子飼いたる世の権威(連合国、政府等)の誘導が足並みを揃えていることや、あまりに出来過ぎている出来事が起きていること、聞こえは良くても人々のためにはならない悪い結果が予測出来る政府等の政策があれば大いに警戒するべきです。最近は、確かに「新世界秩序」や「mRNAワクチン(酸化グラフェン)によるloB(internet of Body)」の話を出しても、一時期よりは耳を傾ける人が増えたように思います。しかし、ただ気付いただけで満足したり、気付いた者同士で群れるだけでは意味がありません。実際、支配層に世が牛耳られている構造は強固で揺るがないからです。世の悪を糾弾し、人々にも知らせ、大勢で悪に抵抗するべきです。残念ながら、日本では諸外国のように大勢で抗議をすることも叶わない程に人々は眠り続けております。また、的中率十割の聖書預言からも世の悪化が止められないのも事実です。神がご計画したことは必ず成るからです。それではどこに希望があるのか。希望は主イエスを信じる信仰に在ります。主イエスは近い将来に来臨され、神に従わない罪人を滅ぼし、神に従う正しい者をお救いになります。その裁きは正しく確実です。神に認められた者は、この世とは異なり人間の汚れが一切存在しない永遠に存続する神の王国で、復活して神と共に生きることが出来ます。これが希望です。この世には一切の希望はなく、全ては新しい天と地で生きることが唯一の希望です。あらゆる悪は裁かれ、そこには存在しません。個人的な話ですが、初めて「永遠の命」の言葉を聞いた時に、この世の延長の世界としての御国があるのだと勘違いして捉えたことがあります。完全なる誤解なのですが、手前は(誤解したその内容に)何の希望も持てませんでした。またこの世と同じ苦痛があるのかと思うと、それが永遠に続くのかと思うと筆舌に尽くしがたい拷問のように思えました。それならばずっと眠りについていた方がましだとさえ思いました。しかし、実際には死も悲しみも涙も労苦も無い(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)とある通りです。そして、時は既に終末であり、この天地が存続する期間もあと僅かです。世の真実を知ろうとする人は少なからずおります。しかし、聖書を手に取り主イエスを信じようとする者は非常に少ないです。確かに主イエスに招かれなければ、心から信仰を持つことは不可能です。それでも、世の真実を知るだけでは、将来の見通しが暗く、何の希望も持てずに悲観的にしか生きられないのではないでしょうか。束の間の息抜き程度に食べることや眠ることや娯楽や知識欲を満たした所で、全ては無に帰します。世の真実を知るだけの理解力があるならば、却ってこの虚無感に押しつぶされそうにならないでしょうか。手前は信仰を持つ前に「この世に終わりが来たら」と考えただけで虚無感に押し潰され発狂しそうな気分を味わったことがあります。目を背けることでしかその虚無感を凌げませんでしたが、聖書を知れば神の創造の秩序、御計画、救いがあることが分かります。ここに辿り着かずして、世の真実を知ることが出来たとしても、その理解力は真の知性とは言えません。神を畏れることで、神を知り、神の秩序を知ることが出来ます。それこそが真の知性です。

 

 

  真の秩序

 

支配層は新世界秩序を構築しようとしております。それは今の既存の社会の枠組みとは全く異なる超監視管理・超共産主義社会です。支配層が管理がしやすい人口が削減された社会、ごく少数の支配層と大勢の支配される層から成る、反キリスト色が極まったサタンの秩序です。支配層の一員であるビル・ゲイツは、過去に堂々と人が増えすぎたので人口削減する必要があると述べました(参照:ユーチューブ)。気候変動(実際は嘘)を防ぐために二酸化炭素を削減する、生態系を維持するといった一応の建前を言いつつも言っていることは大量殺人です。世のあらゆる法においても殺人は重大な不法行為(犯罪)であり、法に拠らずしても良心に照らしてやってはならないことです。もちろん律法においても重罪です。そもそも辻褄の合わない支配層の理屈で地の人口を減らすとは勝手極まりない傲慢な考えです。主なる神は「産めよ増えよ(創世記一章二十八節、九章七節、三十五章十一節参照)」とは仰いましたが、その逆のことを言ったことはありません。如何に支配層の言う「(新世界)秩序」が神の言葉に反しているかが分かります。そもそも秩序とは『① 物事の正しい順序。② 社会の諸要素が相互に一定の関係・規則によって結びつき、調和を保っている状態(引用:スーパー大辞林)』です。そして、「新世界秩序」に至らなくても、聖書の真理が世の人々の基軸に据えられず、地球球体説や進化論などの偽りが常識として教えられている状態からして、既にこの世は偽りの秩序の下にあります。創世記にあるように悪しき者もまた世の始まりには既に存在していたためです。この世はまさに神とサタン、神に従う人間と世に従う人間との戦いの舞台です。但し、神に従う者は圧倒的に少数(マタイによる福音書二十二章十四節参照)で、キリストの名を口にしたとしても神の律法、掟、戒めを守る真のキリスト者は殆どいないため、惑わされないように注意が必要です。

 

ところで日本語聖書で「秩序」と検索すると、新共同・新改約・口語訳でも、さほど多くの箇所で用いられてはおりません。その中で共通して「秩序」と訳されていた箇所はヨブ記十章二十二節「闇の国、闇のようである。 秩序の無い死の影、光が暗闇のようである。(参照)」です。「光が暗闇のよう」とは矛盾した、倒錯した言い回しだと思います。ここではヨブが陰府について言及しており、その様はまさしく闇が覆い、今の天と地のように光があって闇がある(創世記一章五節参照)秩序とは、根本的に異なる空間なのでしょう。『秩序(סֶדֶר)』の原語を確認すると、このヘブライ語は当該箇所でしか用いられていない単語でした。そして、「秩序」以外にも「計画」「(きちんとした)配置」「命令」「順序」といった意味があります。これらの言葉から主なる神の御性質が十分に窺えます。

 

『計画』について、「最初から終わりを告げ、古代からまだ行われていないことを宣言する。我が計画と我が目的は全て成就する。(イザヤ書四十六章十節参照)」「我は最初から過ぎたことを告げてきた。我が口から出た事を伝えた。 突如、我は事を為し、実現した。(イザヤ書四十八章三節参照)」「お前たちは我が近くに来て、これを聞け。 我は最初から密かには語っていない。 事が起こる時から我は居る。(イザヤ書四十八章十六節参照)」などと神は言っておられます。全知全能の神は全てを見越しており、始まりと終わりも全てをご存じであり、救いに関わることも全ては神のご計画の内にあります。

 

また、『配置』についても、例えば「我は、貴方の各天を、貴方の指の業を、貴方が配置された月や星を思います。(詩編八章四節参照)」と天体も神が規則正しく配置されたことを言っておられます。また、「天の下では、全てに季節があり、あらゆる目的には時がある。(コヘレトの言葉三章一節参照)」の言葉に始まり、三章一節以下にて、生まれるにも死ぬにも、愛するにも時があると語られ『神がその時になさる全ては素晴らしい。また、人々の心に永遠を置かれた。(結果的に)人は神のなされる御業の初まりから終わりまでを分からない。(コヘレトの言葉三章十一節:私訳)』と言われました。これらは御計画と関連しますが、時を適切に配置していることが分かります。この人知を超えた神の配置(秩序)は深淵と言っても良いほどの神の奥深さであり、神を崇めずにはいられない思いに手前は駆られます。教わった事柄ですが、我らは、心に永遠という途方もなさを思うが故に、いつ何があるかが分からなくなり、今の状態もずっと続くのではないかと錯覚してしまいます。時には限りがあると頭では分かっても、なかなかそれを踏まえた行動が簡単には出来ないことは誰もが経験しているのではないかと思います。『あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。(ヤコブの手紙四章十四節:引用 真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」)と言われているのですから、その言葉を弁えて、終わり間際のこの時の意味を理解して、現実逃避せずに備えるべきです。神は万物を適切に配置し、また、御計画されております。

 

「命令」については、例えば『アブラハムが我が声に従い、我が命令、掟、戒め、律法を守ったからである。(創世記二十六章五節:私訳)』と神の御命令についての言及があります。『מִשְׁמֶרֶת(命令)』は「責任を課す」という意味があり、原義は「注意して見る」ことや「見張る」といった意味もあります。更には、「法令」や「布告」の意味もあり、それ自体に法的な意味合いがあり、神の律法・掟・戒めに通じるものと考えられます。主なる神の仰せなのですから、そのような意味を持つのも当然であると思います。御命令されるからには意味があり、神は善で義なる御方であるが故、悪や不義とは何ら無縁であり、そのようなことをお赦しになりません。聖別される主は、罪(悪・違犯)を犯して人が死ぬことがないようにとご配慮の故に神の御命令を守るようにと言われました(レビ記二十二章九節参照)。また、『イスラエルの人々に言い、彼らに命じなさい。彼らの後世まで着物の端に房を作り、端の房を青い糸で結びなさい。それはお前たちの房とし、それを見て、すべての主の掟を思い出し、それらを守りなさい。お前たちは後に偶像崇拝を犯し、お前たちの心と目が従ってそれらを見出だそうとしてはならない。(民数記十五章三十八節から四十節:私訳)』と、着物の房は主の掟を思い出すためのものであるとも書かれております。ちなみに『מִצְוָה(掟)』の原義は「命令」であり、神の命令が如何に秩序を形作っているかが分かります。他にも、神からの『御命令』であることを考えると、命令に関する事項を厳粛に受け止める必要があります。例えば、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」にて、『主イエスは、「いちじくの木の例えから学びなはれ。」と御命令しはってるにも拘らず、パウロ教徒はその主イエスの御命令に逆らい、この世の情勢について学ぼうとせず、律法を守らんでええとか艱難期前に携挙される等といった虚偽の作り話を言う牧師等といった偽教師の言うことを鵜呑みにし、真実の情報を拒絶する。せやから、この点においてもパウロ教徒は主イエスに逆らう反キリストと言える。こないな愚民は、不信仰者と共に支配層の家畜となる故、支配層と同様に神から忌み嫌われる悪人や。』とミカエル氏が言っております。聖書で数多ある『御命令』を果たして、どのくらいの人が御命令として確と受け止めているでしょうか。パウロ教徒がパウロ教徒である所以は、神の言葉よりもパウロ書簡に端を発する「神学」を優先することにあります。主イエスは掟を守れ(マタイによる福音書十九章十七節参照)と言われたにも拘らず、神の掟を守らず、人間の言い伝え(パウロ教神学等)を固く守っている(マルコの福音書七章八節参照)のが実態です。手前も教わりながら聖書研究をする中で、命令形で書かれていることの意味を意識するようになりました。最初の頃は命令形か否かの違い、話し手の意図をきちんと考慮出来ずにおりました。しかし、仮に、自分が話す側となれば、命令するからには相応の意味があり、決して軽く受け取ってはならないと分かります。神の言葉に対する注意深さを持てるか否かが命運を分けます。

 

最後に「順序」について触れます。『最初に、神は各天と地を創造された。(創世記一章一節:私訳)』『我はアルファでありオメガであり、初まりであり終わりであり、最初であり最後である。(ヨハネの黙示録二十二章十三節参照)』と単純にして明快に順序について触れております。万物を創造されたのは神であり、この天地を終わらせるのもまた神です。何が先で、何が後に来るかは、全て神に拠り、神が御計画され、神が掌握されております。『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」』『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)創造主たる神が創造された世界に存在しながら、神を認めず、その中で自分勝手に生きることはただの愚か(無分別)でしかありません。不信仰者は、自分の信じたいものを信じ、自己中心を否定されることを嫌い、大概は神を否定することを口にします。また、世に生きる上での不平不満を神にぶつけることもしばしばです。本来の順序、人間の上位にある神が人々に認識されず、不遜且つ不敬な行為が横行しているのがこの世の実態です。

 

申命記二十七章十八節(私訳)

盲人を道に迷わせる者は呪われる。民は皆「然り」と言った。

 

盲人(עִוֵּר)』は、文脈上は文字通りの肉体的な意味での盲人(目の見えない人)であり、盲人を道に迷わせてはならないと言っております。常識的に考えてもその通りであり、そのようなことは普通であれば考えもしないことです。もしそれを行い得るのであれば、その悪意たるやおぞましさを覚えます。数ヶ月前に、路上生活者にコンビニで商品をおごると装い、商品が入った買い物かごを女性に持たせたまま、会計所前に置き去りにする様子を動画に撮影してSNSで拡散していたという事案がありました(参照:産経新聞)。善意を装って悪意を為す構図は盲人を迷わす行為に似ております。本来、盲人を案内しようとすることは善意ですが、過失によって結果的に迷わせてしまったのとは異なり、意図的に「迷わせている」のですから、それは悪意に他なりません。さながら、悪魔崇拝者の支配層のようです。騙す、嘘をつくは悪魔の性質です(創世記三章六節、ヨハネによる福音書八章四十四節参照)。そして、『盲人(עִוֵּר)』の原語自体には、比喩的な意味も有り、「気付いていない」「見境がない」「盲目的」などの不知、精神的な状態を表す意味があります。そのような観点で捉えると「盲人」とは、誰にとっても決して遠くない事柄であると分かります。むしろ、我々は誰しもが盲人であった所から始まっていると言えます。聖書真理を最初からきちんと教わり、知っていたという人は殆ど居ないと思われます。真の神の民としての国家は途絶えており、今やこの日本に末裔を残すのみです。それでも正しく聖書真理を受け継ぐ仕組みは無いに等しいです。神の秩序(真理)を教わることはなく、学校教育や社会全般を通して、偽りの秩序(地球球体説、進化論、政府・行政等の世の権威信仰、太陽暦、西洋かぶれ、科学信仰、学歴信仰、拝金主義、多数派志向、地位・名誉志向、この世を謳歌する等)を植え付けられるのが実態です。主イエスはファリサイ派の人々に対して、「彼らは盲人の案内をする盲人であり、盲人が案内をすれば二人とも穴に落ちてしまう(マタイによる福音書十五章十四節参照)」と言われました。現実社会を見ると、偽福音の問題もありますがそれ以前にも、偽りを植え付けられた世の大人が、自らを教養を身につけた正しい人と信じて疑わず、せっせと偽りを教え続けている様は同じ構図であると思います。マタイによる福音書十五章十四節の『τυφλός(盲人)』は文脈の通り、精神的に、知的に「盲目」であることを指しております。また、原語としても申命記と同様に身体的な意味と両方の意味があります。更には原義に「不透明な」「曇った」の意味があることが個人的には印象深く感じました。案内する方の「盲人」も完全に見えないのであれば、自分は見えるとは認識しません。しかし、不透明だったり、曇った状態であれば、幾分かは「見える」と思って過信してしまう危険があるのではないかと思いました。また、『βόθυνος(穴)』には、「溝」「落とし穴(罠)」「地獄」との意味があるのも非常に印象深く、単に失敗しただけでは済まない酷い結果が伺えます。偽福音信者にしろ、世の権威信者にしろ、真の聖書福音に辿り着かなければその末路は酷いものとなるのは変わらないと思います。

 

そして、「秩序」の反対は「無秩序」です。新共同訳で『秩序を乱す』と書いてある箇所がレビ記十八章二十三節と二十章十二節にあり、それぞれ獣姦と姦淫をしてはならないと書いてる律法の箇所です。『תֶּבֶל(秩序を乱す)』の原語は上記二箇所のみで使われており、主に性的倒錯に対して、神の創造の秩序への侵害としての「混乱」の意味があります。原義は「入り混じったもの」ですが、それによって神の秩序への相反を引き起こすため、秩序を乱すとの言い方はその通りと考えられます。また、新共同訳で「無秩序の神ではない(コリントの信徒への手紙一 十四章三十三節参照)」とある箇所について、原語を確認すると、こちらも先と同様に『ἀκαταστασία(混乱)』とありました。他にも「不安定」「異常」の意味があり、やはり本来在るべきものから外れていることを表しております。

以上、ここまで原語にある「秩序」の言葉に着目して見えてくるのは、神の創造の秩序であることは明白です。

 

 

詩編十九章九節(私訳)

主の命令は真っ直ぐで心を喜ばせる。主の掟は純潔で目を明るくする。

 

詩編六十四章十一節(私訳)

正しい者は主によって喜び、主を信頼する。心が真っ直ぐな者は皆、神に栄光を帰す。

 

「真っ直ぐ」という性質については過去記事で何度も触れましたが、改めて触れさせていただきます。詩編十九章九節について、「פִּקּוּדִים(命令)」の原義は「決められた」であり、それは「」でもあり「(神の)御命令」でもあります。言うなれば神の秩序を構成するものであり、それは『יָשָׁר(真っ直ぐ)』であると言われております。人は本来、それに従うように造られました。また、『יָשָׁר(真っ直ぐ)』の原語に「満足する」「喜ぶ」の意味が含まれていることも象徴的です。まさにこの聖句の通りです。その反対については、「彼らの道は曲がっていて、それらの道の故に手に負えない(箴言二章十五節参照)」とある通りです。『עִקֵּשׁ(曲がった)』には、まさしく「間違った」「事実に反する」「不正な」の意味があります。神を認めない道はどこまでいっても真理に反して間違い続けます。万物の根幹は、神だからです。

 

ところで、「曲がった」について、下記の画像のように、司法においても医療業界においても、上層部等周囲の顔色を窺い、正義が蔑ろにされる現実があります。正義を愛する神(詩篇三十七編二十八節参照)の御性質からして、また、『為すべき善を知りながら行わへんのは、その人には罪や。(ヤコブの手紙四章十七節 引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』の言葉からしても、神が忌み嫌う行為でしょう。何より、神を思わず、保身のために権威ある者を優先するのは偶像崇拝とも言えるでしょう。まさに曲がった道です。

 

 

また、以下のようにmRNAワクチンに欠かせない技術を開発した者が「ノーベル賞」を受賞したようで、ワクチン信者が「世の権威が認めているのだぞ、どうだ」と言わんばかりの投稿が散見されました。

 

画像引用:https://x.com/watch_sss/status/1709006985084170362?s=20

 

実に愚かな発言です。『ノーベル賞というのは偽りの名誉賞で、偽ユダヤ人(特にロスチャイルド家)の利益や目的達成の功労者に贈られるもので、受賞者の大半は世界に貢献した偉人ではありません。(引用:真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」)』の通りであって、世の権威を形作っている支配層に認められたに過ぎず、むしろ神の目には不名誉以外の何者でもありません。支配層の嘘を肯定したいがための見え見えの芝居です。むしろ、嘘であることを公表しているようなものです。ただ、偽りの秩序しか知らない世の権威信者にとっては非常に有効なのでしょう。確かに、世に従えば賞賛を浴びます。逆に、偽りの世の秩序を弾劾すれば、世の権威によって弾圧を受けます。世の権威にとって都合が悪いと看做されることは、真実であり、真実であるが故に迫害を受けます。それが極まると獣と獣の像を拝まない者は殺される(ヨハネの黙示録十三章参照)ようになるのが目前に迫った大艱難期です。

 

 

しかし、聖書は「お前は不正義な者を羨むな、その道を決して選ぶな。(箴言三章三十一節参照)」と言っております。同様の聖句は詩篇三十七章一節でも言われており、「お前の心は罪人の故に妬むな、それどころか、いつも主を畏れよ(箴言二十三章十七節参照)」との戒めを肝に銘じるべきです。

 

また、ここ数年来、世の悪を暴露する動画等もたくさん作られるようになりSNSや動画投稿サイトでも視聴出来ます。個人的に最近見かけた中で、以下の画像にある動画が気になりました。

 

 

元動画はユーチューブ(真実の扉)で見ることが出来ます。過去記事で紹介したことがある社会風刺の動画(Steve Cutts)にも似ていて、教育や政治や医療、報道、等の歪んだ世の常識や実態を分かりやすく伝えているとは思います。大勢が目覚めて、支配層に従うのを止めればその虚像が脆くも崩れ去るとの内容もその通りで、悪を悪と指摘し、周知し、真実を伝えること自体は良いことだと思います。しかし、聖書預言では悪がこの世を支配し、特に大艱難と言われる終末はかつて無いほどに世は悪化するとあります。最後、その悪もろともに天地を滅ぼし、全てを裁くのは来臨された主イエスです。一般的にこの社会で認識される善悪は、構成される社会文化等によって変動する危うさがあります。しかし、聖書は明確に、全人類に関係し適用される善と悪が何であるかを伝えております。しかし、上記動画では真理に拠らず、むしろ『自分自身が希望の光である』とニューエイジ・スピリチュアルに誘導しております。真実に虚実を混ぜる内容で非常に巧妙であり、同時に非常に有害です。世を支配する悪がなぜ存在するか、人間の起源がどこにあるかの根本に答えられなければ小手先でしかありません。詰まる所、真理である聖書に一致しない話は全て嘘です。もっともらしく見えても、真理や神の律法・掟・戒めの遵守、神に認められる品性に到達すること等に言及しない話は全て偽りです。何より、動画の冒頭で『人類の覚醒を呼びかける』とありますが、真の秩序(神の創造の秩序)は聖書の神に在り、主イエスは人に悔い改めを求めております(ルカによる福音書十三章三節等)。それ故、この動画は明確に誤誘導工作であると分かります。


 

  真の幸福

 

本来、秩序は一つしかなく、神の創造の秩序だけです。しかし、主イエスの再臨まで、悪がこの世を支配することは聖書に書いており、それまでの間は、今も神の秩序(真理)が隠され、偽りの秩序(地球球体説、進化論、政府・行政等の世の権威信仰、太陽暦、西洋かぶれ、科学信仰、学歴信仰、拝金主義、多数派志向、地位・名誉志向、この世を謳歌する等)が圧倒的多数に当然のこととして受け入れられております。普通に考えれば、途轍もない逆風です。不信仰者は多く、聖書が長い期間この世に存続出来ているにしても、誤訳や偽福音に覆われて、真理が全くと言って良いほど認識されておりません。しかし、『ヤシャルの書によれば、真の信仰者の多くは大洪水前に亡くなり、七十万人も人々が居る中でたった八名だけが救われ、百二十年もの時間がありながら人々は全然信仰を持とうとか律法を守って善を行う気が無く、好き勝手に世俗的に生活しとったということや。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」)』とノアの時の記述にあるように、終末の今もノアの時のようであることからも、そもそも救われる者は非常に少ないことは神の御計画の内です。果たして誰が救われるだろうかと思う状況がありますが、神の民の定員(ヨハネの黙示録六章十一節参照)は確かにあり、神に選ばれた者ははっきりと神の道を見出だすようになるのだと思います。『神がお選びになった神の民は、ローマ教皇を通じてサタンからの攻撃と試練を受けることで、信仰が鍛えられ、清められます。試練と苦難は、神がお選びになった民をより聖なる者とする方法の一つです。真の聖書福音と預言「聖書預言の正しい解釈方法」)』や『神は愛ですが、愛故に実の子を地上で生きる間は永遠の命を与えるに相応しい者にするために厳しく訓練したり試練に遭わせて鍛えます。父なる神は愛だから、人間を苦しめないのでしょうか。決してそうではありません。父なる神は御子イエスをあらゆる試練や苦難を経験させ、最期は十字架刑という死刑にすることも許可されたのです。主イエスは神の律法違反をせず、罪がまったく無いのに拘らずです。それなのに、罪深い人間たちが何故安易に艱難と死を経験しない携挙にあずからせるのか普通に考えて有り得ないです。主イエスも「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と仰っており、苦難を避けることができるとは一言も仰っていません。苦難があるからこそ臆病にならず勇気を出せと鼓舞されています。(引用:真の聖書福音と預言「正月と日本人の現実」)』とあるように、困難があればあるほどその分、鍛えられることを忘れてはなりません。確かに、この世では悩みがあります。コロナ犯罪に気付かず、ワクチンを接種した者は日本人の八割にも達します。コロナ犯罪は世の悪の一角、一面に過ぎず、支配層は古代イスラエルの民の末裔のいる日本を滅ぼそうと、憲法改悪を目論んだり、食の安全や健康が脅かされております。これらの悪の根源が反キリスト(悪魔崇拝の支配層等)にあることを知っている者は更に少なく、その中で神の律法・掟・戒めを守ろうとしている者となると殆どいないと感じます。無知、不信仰の中で生活することは、はっきり言って苦痛に感じることが多いです。だからこそ真のキリスト者を目指す兄弟との交わりが不可欠で、どれほど支えられていることか計り知れません。神の秩序を知れば、元のような悪い世の秩序に従った生き方に戻ることなど考えられません。自分自身について言えば、かつて自分が頼りにしていたもの(社会的地位、稼ぎ、財産、世の多数派に属して安心する等)を結果的に全て捨て去ることになりました。過去の価値観からみれば、丸腰になったような心許なさを覚えることも確かにあります。自分は社会的には弱者となり、この悪い世においては居場所が無いのだと明確に感じます。しかしながら、これこそこの世を仮住まいして生きることなのだと実感します。人は裸で生まれ、裸で死にます。何も物を持って行くことは出来ませんが、生きている時の信仰と忠実は神に覚えられて認められることでしょう。ましてや、世の終わりは非常に近く、今の生き方がそのまま神の審判に直結します。今、自分を自分たらしめていることは、神の律法、掟、戒めを守ることだけ、それが全てであることを感じます。主イエスもこのような思いで歩まれたのだろうと想像することがあります。だからこそ主イエスの生き方に倣う必要があります。そして、大変であっても真っ直ぐ歩むことの安心感は確かにあり、この感覚は原語にある通りの「喜び」「満足」なのだと思います。

 

以下、とても大事な事柄を紹介します。

彼らは火の池に入れられて滅びたくないという理由から無理をしてでも神に従おうとして神の律法を守ろうと試みるのですが、必ずどこかでつまずきます。そうこうするうちに、神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり、従うのをやめます。そして、これではいけないとまた無理に従おうとしてもまた同じことの繰り返しで失敗します。彼らが神の律法に従うのが完全に無理だと悟った時、神の律法を変更したカトリック、神の律法を廃止されたことにするプロテスタントという二大背教勢力のいずれかに大多数が加わり、似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚するのです。

(略)

神を愛し、神の律法、掟、戒めを守って生活し、神の御心を行い、兄弟で愛し合い、キリストに近い品性を形成することがこの世でなすべきことです。その過程での行いが天に富を積むことになるのです。自然にそうなるのです。これは永遠の命欲しさに主イエスを信仰するという利益信仰ではありません。利益信仰をしている人は真のクリスチャンではありません。神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。そして、神の御心を行うことで神の栄光を現すことになります。人々はこの真のクリスチャンの信仰から来る行いを通して、主イエス・キリストの真の姿を知るようになるのです。世に出回る偶像(絵画、彫刻等)のことではなく、品性です。キリストに近い品性は、誰の手によっても変えたり、奪ったりすることはできませんし、他人に分け与えることもできません。完全に不可侵で不可分であり、個人に属する性質のものです。

 

引用:真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」

上段の箇所について、率直に怖さを覚える内容です。特に『これではいけないとまた無理に従おうとして』の箇所は同じ失敗を繰り返した時の自分の姿が重なります。ただ『無理に』であったかとなるとそうではありません。失敗したにも拘らず言うのは矛盾するかもしれませんが「心から従いたい」「そうなりたい」「それ以外はあり得ない」の思いが強かったです。脱落する時とは、良心に焼き印が押されてそのように思えなくなるのだろうと想像します。だから、「失敗は繰り返さない」ことを肝に銘じなければなりません。『似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚する』とは、かつて安息日を守るのを大変に感じて別の解釈があるのではないかと勝手な願望を抱いた自分の姿が重なり、また、世の多数派に属して安心を得ていた過去の習慣が思い出されてなりません。偽りの世の秩序に従う多数派に惑わされて、神の秩序を曲げるようでは神の民に相応しくありません。だから、世の慣いや自分を優先する思いは断ち切らないとどこまでも誘惑に遭います。誘惑される要素があるほどに誘惑され続け、頻度が多いほどに屈する危険が増すと思います。故に、パン種(悪い教えや習慣等)を取り除くようにして、性質(品性)を向上させて、悪い元を断たねばなりません。引用後段の『神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。』について、以前よりは頭で理解するも、より実感出来るようになったと感じます。思えば自分から為したことなど少なく、人生において、所々に「ここだ」と導きを出していただいたことが多かったと感じます。招かれて、それに応じられるかどうか、それがひたすら問われていたと思います。そして、『キリストに近い品性』とは、手前がにわかキリスト者であった時代から、朧げながら欲していた状態であったと最近気が付きました。決して、優れた者になりたいなどの願望によるのではなく、高潔さに対する敬意があって、これに至れば自分の人生で果たすべきことは全て果たしたと思えます。

 

この世の偽りの秩序は、人から称賛されたり、地位や名誉を得て繁栄すること、多くの富を持つことが幸福であると教えます。結局は、世における自分の欲望の充足が全てだと教えます。主イエスもサタンからそのように誘惑されました。

 

世俗の欲望が満たされないと不幸だという誤った考えを人々は植え付けられております。この異常な価値観に馴染めなかったり、「挫折した」と感じた者たちが大勢、希望を無くして自殺しているのが現状だと思います。しかし、偽りの秩序の下で成功するのが希望と思うのは完全に誤りです。もはや妄想と言っても良い位の誤りです。また、朧げながら死後の世界や天国を信じて、この世で「善を為した」「正しく生きた」と思っても真に正しい基準(律法等)を適用すればその実態は違反だらけでしかなく、善には程遠く無意味です。主イエスを信じる信仰を持っていても、律法廃止論を信じたり、部分的に律法を守れば良いとの偽福音を信じているだけでも同様に不完全で有罪となります。また、形だけ善の基準を満たしても片手落ちです。心の中の思い、品性などが清いことを神は求めております。これらは偽りの秩序の幸福感とは決して交わりません。一方、真の幸福は、この世の偽りの秩序の下での成功ではなく、死後の永遠を、第二の死ではなく、神の王国で神と共に生きることにあります。

 

ヨハネの黙示録十四章十三節(兄弟共同検討訳を一部修正)

また、我は天から我に告げる声を聞いた。「書き記せ。『今後、主にあって死ぬ人は幸いである』と。」「然り。」と“霊”が言う。彼らがその労苦を解かれて安らぎを得るだろうし、更に、彼らの業が彼らについて行く。

上記は、真のクリスチャンである神の民としてキリストの再臨前に死んでキリストの再臨時に復活して新しい天と新しい地で永遠の安息にあずかることができる約束について述べています。しかし、不信仰の者、異教徒、神に不従順なにわかクリスチャンは主の安息にあずかる道に行くことはできません。それは私が過去に既に述べてきたことです。真のクリスチャンにとっては、その後に安らぎが待っていると知っているのですから、死んでこの世を去ることは恐怖ではありません。しかし、世に属する人間は、この世を去ることになる死を異常に怖がります。なぜなら、次の世に希望を見出せないからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の裁きは福音であり、迫害は喜びである」

「この世が全て」という考え方は、死後の永遠を放棄させる誤った考えです。真の幸福は、天に宝を積み、死後の永遠に良き報いを受けることにあります。また、『更に、わたしに言う。「書き記せ。幸いだ。小羊の婚礼の晩餐に招かれた者たちは。」また、我に言う。「これらは、神の真実の言葉である。」(ヨハネの黙示録十九章九節:兄弟共同検討訳を一部修正)』などの聖句にある『μακάριος(幸い)』は、単に幸運なのではなく、欽定版聖書にもあるようにbless(祝福)であり、「最高位の祝福」を指します。即ち、永遠の命です。

 

 

  結び

 

悪しき者が支配するこの世は、近い将来に終わりを迎えます。世の終わり(主イエスの来臨)が近いからです。世を支配する者たちもそれを知っているため、偽りの秩序を更に強化した新世界秩序を構築しようとしております。それは自由の無い、この世全体が監獄のような暗黒社会です。そこではヨハネの黙示録十三章にあるように新世界秩序に君臨する獣(ローマ教皇)に従わなければ殺される恐ろしき社会です。この激しい試しの中で、真のキリスト者は自分の命を取るか、神への忠実(神の律法・掟・戒めを守る)を取るか、究極の二択を迫られます。また、大艱難期は人々が真に悔い改めることが出来ない(恩恵期間の終了)時でもあるため、それまでにキリストに近い品性を持つように成長出来ていなければなりません。そのため、早く準備を整えるようにと何度も繰り返し警告している次第です。

 

聖書は、人間には想像もつかないような高い視座を教えてくれます。聖書にある神の言葉は永遠です。永遠の言葉を数千年前の人々と我らは同じように共有しており、過去の出来事が今起きたかのように、人が今居るかのように捉えることが出来ます。聖書の言葉は古くもあるが新しくもあるという不思議な存在です。聖書には、神の言葉であるが故に、万物を俯瞰する神の視座があります。素直に読めば、そこに神の秩序があることが分かるはずです。記事中に挙げた世の動きを俯瞰すれば、存在しないものが在るかのように看做されたり、正しいことをしている素振りを見せながら最悪の社会を作ろうとするなど、無秩序が過ぎることが多々あります。果たして、この無秩序が起こる意味とは何なのでしょうか。それは『永遠の命を受けるにはそれなりにきつい試練をくぐって洗練する必要があると神はお考えである。それがこの世の存在意義であり、この世で揉まれて洗練され、試用期間を経て適格者になって次の世で永遠に生きることが認められる。そういう計画なんや。真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)』であると考えます。

 

こちら(ユーチューブ:「rの住人ピエロ【哲学】」)の動画にて、「抽象度が高い」ということについて説明しております。「抽象度が高い」ことの定義付けは明確にされておりませんが、手前は「物事を俯瞰的に捉えて、そこで起きていることの本質を見抜く」ということだと捉えており、それは聖書という万物の上位概念(神の創造の秩序)を知ることで真に抽象度が高くなるのだと思います。ちなみにこちらの動画制作者は不信仰であり、動画の内容全てに賛同するものではなく、あくまで、「抽象度が高い」ことを説明するためだけに引用致します。動画において、現実のさまざまな場面から共通点を探し、法則性を見出だし、自ずと視点が高くなることについて言及しております。『部分から全体を想像できる』、また、『全体から部分を想像できる』といった言い回しから、先に示した画像にある、全ての道は新世界秩序に繋がる構図の理解もその応用だとおもいます。また、聖書預言を現実に適用して考えることも抽象度を高くして理解することに繋がると思います。以下、動画の説明内容を一部抜粋します。

抽象度が高くなれば感情に支配されることが無くなっていき(略)、目の前の悲劇も実は人生という長い道のりにおいては一種のイベントでしかない。人生を見た上では目の前の出来事は構成要素でしかない。だから何もしなくてもいずれ過ぎ去っていくし、だからそれは必然的にやってくる。(略)抽象度が低いとは視点が低いということ。視点が低い人にとっては見えているものが全て、故に悲劇が来ればその悲劇にどっぷり頭までつかり、考える間もなく呑まれる。

詰まる所、『視点が低い』とは、聖書真理を知らない状態であり、世の偽りの秩序にどっぷりと浸かって、呑まれて、疑わずに生きている状態と言えます。ミカエル氏が真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」の記事でお示しくださった以下の画像は、そのことをとても分かりやすく示していると思います。

 

 

真の秩序とは神の御計画に基づいた神の配置であり、神の御命令に従うこと、ご計画の順序通りに運ぶ(流れ)ことであると言えます。その秩序に矛盾はなく、真っ直ぐです。その真っ直ぐさに喜びがあり、たとえこの世では苦難があっても、報われることに希望があります。それが真の幸福です。残り少ない時ですが、失われた羊が回心し悔い改めに導かれることを切に願っております。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は『神に裁かれる者として』と題して、聖書に一貫して書かれている神の裁きがあるという前提、神に裁きの基準に適う生き方についてお伝えいたします。

 基本的事項

 

ヘブライ人への手紙九章二十七節(私訳)

人間には一度死ぬこと、更に、後にこれについて裁きを受けることが定められているために。

 

上記の聖句には、人間には肉体の死が訪れること、死んだ後に裁きを受けることが定まっていると書かれております。この真理について、契約の民である古代イスラエル人にとっては預言者を通じて知らされており、当然のこととして理解されていたものと思います。しかし、その後、国家としてのイスラエル(及びユダヤ)は滅亡し、国家として真理の知識、神の律法・掟・戒めなどが共有されることは無くなりました。その滅亡の背景には古代イスラエル(及びユダヤ)の目を覆わんばかりの腐敗があり、予告されていた通り、民の契約違反により神の罰が臨みました。民の腐敗もさることながら、羊飼いと形容される民の指導者であるべき人々が、羊飼いであることを弁えずにそれぞれ自分の好む道に向かって自分の利益を追い求めました(イザヤ書五十六章十一節参照)。『我が民はさまよう羊だ。彼らの羊飼いは彼らを山々に逸らし迷わせた。彼らは山から丘へ歩き回り彼らの休息の場を忘れた。彼らを見つける者は皆、彼らをむさぼった。彼らの敵たちは言った。「我らに罪はなく、彼らが主、義の在り処、彼らの先祖の希望の主に罪を犯したためである。」(エレミヤ書五十章六節から七節:私訳)』と神から離れて、信仰を、在るべき生き方を見失った民の様子が記されております。神の知識を得ている民ですらこのように堕落するのですから、偽福音を知る機会はあったとしても、真の聖書福音をほとんど知らないであろう現代の人々の堕落の様は、その無知と無自覚も相まって一層酷い様相なのだと思います。

 

神を畏れることでしか得られない真の知識があります。神がおられる根拠として聖書がありますが、聖書を読むことなく、こちら(X:旧ツイッター)のように聖書を嘲笑する者が少なからずおります。神は霊であり(ヨハネによる福音書四章二十四節参照)、物質や物体では無く、 目に見えない(ヨハネによる福音書一 四章二十節参照)存在であるため不可視です。しかし、神は古代イスラエルの預言者を通じて語ってくださり、与えてくださった言葉の数々と起きた出来事を照合すれば、言葉と事実が一致すると分かります。例外として、パウロ書簡では神の言葉(旧約聖書、主イエスの言葉等)との不一致がありますが(それは「ふるい」である)、それ以外は著者も書かれた時代も異なるにも拘らず一貫しており、「お前たちは主の書を探し求めて読め。これらの者はどれも一方を欠くことは無い。我が口が命じ、主の霊が集めたものだからだ。(イザヤ書三十四章十六節参照)」と預言者を介するものの全て神が語られているが故の符合です。神の霊は、一つの大本たる父なる神の言葉を伝えているのですから矛盾などするはずがありません。言葉を介して、言葉は神を表しております。神は言葉であり(ヨハネによる福音書一章一節参照)、 見ないのに信じる者は幸い。(ヨハネによる福音書二十章二十九節参照)と言われている通りです。そして、神はご自身を「我は在る(出エジプト記三章十四節参照)」と言われました。新共同訳と新改訳では「ある」と平仮名表記、口語訳は「有る」と訳されております。『הָיָה(在る)』の意味は「存在する」「実存する」「実現する」などの意味で、ここでは存在を表していると考えられます。こちら(スッキリ)でも『「有る」は所有を表す。「在る」は存在を表す。』と言われており、ここでは「有る」ではなく、「在る」とされるべきです。主イエスは、ヨハネによる福音書八章二十四節・二十八節等でも同じように『εἰμι(在る)』と言われております。人は草が枯れて花が萎むように限りある儚い存在であっても、神の言葉は永遠である(イザヤ書四十章八節参照)ことから、創造主である神は永遠に存在するため「我は在る(存在する)者」と言い得るのだと思います。

 

神を畏れる(神を認める)ことで得られる知識があります。重要なことの一つとして、裁きに遭うということです。これは、全ての人間の前提、人生の根幹として据えられるべき事柄です。裁きの日本語的意味は、『正邪・理非の判断をすること。また、その判断。審判。(引用:スーパー大辞林)』です。この言葉だけからでも、善悪の判断の基準が存在すること、その判断を下す者がいること、この世界に対する秩序が存在することが窺えます。裁きが成立するからには、我ら人間にとっての上位者があることが明らかであり、それこそ創造主なる神、創造の秩序であり、聖書にある神の真理と言えるものです。

 

仏教(偶像崇拝の宗教)にも死後に裁きに遭い、「地獄」が在ることが書かれており、聖書を知らない方にとってはこちらの方が馴染みがあるかもしれません。しかし、聖書にある裁きは仏教由来などでは無く、逆です。聖書こそ本元です。聖書のヨハネの黙示録二十一章八節等にある「第二の死」やマルコによる福音書九章四十八節(私訳)『ここ(地獄)ではそこの蛆は死なず、火は消されることはない。』と主イエスが言及している地獄の話に酷似しております。こちら(ウィキペディア)によると初期仏教は印度(インド)で紀元前四百五十年頃に始まったとあります。イザヤ書六十六章二十四節では『彼らは出て、我に逆らって罪を犯した人々の死体を見た。実に、彼らの蛆は死なず、彼らの火は消えない。彼らは全ての肉なる者にとって嫌悪となる。(私訳)』と地獄と思われるものに言及しております。預言者イザヤが生きた時代は紀元前七百年代であることから、何かしら古代イスラエルの民から伝え聞いたものが仏教の中に取り入れられていったと捉えるのが自然です。時に、聖書を疑う者の中には「古代ペルシアや古代ローマ等にあった宗教が聖書に似ている」として、「聖書がそれを真似ている」と類似点だけを挙げて主張する者が見受けられますがとんでもない勘違いです。聖書は古代イスラエル起源で、世にあるどの宗教も時期的に聖書よりもかなり後であり、聖書にある要素を勝手に取り込んでいったと言うべきです。現代でもこちら(真の聖書福音と預言 「主権は神にあり、人間にあらず」)にあるように、聖書は遊技(ゲーム)等の題材として多く使われている実態があり、同じような構図です。不信仰者にも非常に多くの影響を与えたのは聖書です。また、改ざんされた聖書(神の言葉)、偽福音ばかりが幅を利かせ、原典に基づいた正しい日本語訳聖書や真に聖書に依拠した正しい聖書福音が希少であるのが現実です。そのため、その前提で真に正しいものは何かと真偽を見抜く姿勢と知恵が求められます。

 

「裁き」の言葉から紐解くと、裁きの前提として在るものが浮き彫りとなります。聖書真理に拠れば、裁きとは、各位の人生における神からの問い(神の律法・掟・戒めの遵守)に対する審判の時です。それは極めて厳粛です。その厳かさから、決して、人生の時を本来の目的以外に用いてはならなかったと分かるはずです。福音書にある金持ちとラザロの話にあるように、死んでからこうするべきだったと後悔することの無いように、知ることの許される、生きている時の内に神の御心に適うように在らねばなりません。死んだ者は知ることが出来ず、何の働きも出来ません(コヘレト九章五節参照)。死者はダニエル書十二章二節にあるように『地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(兄弟共同検討訳)』、『善を遂行した者は命の復活へ、悪を行った者は断罪の復活へと出てくることになるからだ。(ヨハネによる福音書五章二十九節:私訳)』と裁きの時に復活します。その時にようやく意識が生じて、やがて身に起きていることを理解していくのでしょう。この絶望感たるや筆舌に尽くしがたい時であると思います。聖書を読み、主イエスを信じた者であっても、裁きの後に『主よ、主よ』と言った所で不法(律法違犯)を働いておれば主イエスからはお前たちのことは知らない、不法を働く者は離れよ(マタイによる福音書七章二十二節から二十三節参照)と言われるだけです。以下のように、福音書で主イエスが言われた予告から、現在世に広まっている偽福音が真の福音でないことが明らかです。

十二、(神の)王国の福音があらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられた時、終わりが来る

この主イエスの予告こそが世の諸教会が吹聴する偽使徒パウロ由来の偽福音と偽教義が神の王国の福音ではない、即ち、パウロと世の主流派が信じて吹聴してる偽福音は、主イエスと十二使徒が宣べ伝えた福音ではないという証拠になってる。もし世の諸教会が吹聴するパウロ教の偽福音がそれならば、世の終わりがとうの昔に来てる筈やが、そうではないんやからね。せやから、偽使徒パウロの偽福音は、主イエスが宣べ伝えはった王国の福音やないということの証明や。また、世の終わりの直前に真の福音が全世界に広まると示されてる故、四世紀から二十一世紀の現在まで主流となってる偽使徒パウロの教えとそれを支持する諸教会や諸教派はすべて偽りと分かる。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

世の終わりが目前に迫り、ミカエル氏が神の律法、掟、戒めを守ることを、真の聖書福音を宣べ伝えてくださいました。ところが、それに大勢が反発しております。偽福音を信じる自称キリスト者や福音を聞き入れない不信仰者、または信じてもほとんど行動しない者ばかりであることから、滅びに至る道と門が広いとは事実であると分かります。マタイによる福音書八章十二節、十三章四十二節等には泣き喚いて歯ぎしりする場面があります。もう取り返しがつかない絶望感に満ちた様はまさに断末魔の叫びなのだと思います。生きている間に、神の知識を知ることが如何に重要か、悔い改める機会が如何に貴重かが分かります。「知らなかった」「ここまでとは思わなかった」と言っても通じません。その時になって「あの時、聞いておれば」「自らの中の(微かであっても)良心の声を聞いておれば」と後悔しても遅いです。今は、真の福音が宣べ伝えられている途上と思われ、今この時が最後の機会です。

 

以下に伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」と題された文を紹介します。悪い者が支配するこの世では偽りが闊歩しております。しかし、「騙されたけれども自分には非が無い」とは決して言えないこと、嘘を信じた側の責任があることがここから学べます。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

(略)

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

引用:戦争責任者の問題(伊丹万作)

伊丹万作氏は上記の戦争責任についての文章を政府ではなく一般人に向けて書かれました。一人一人の盲目的で受動的な姿勢に責任の一端があることを明確に言われております。そして、このことはコロナ犯罪にも同じように言えることであり、ミカエル氏がキリスト道で『従ってるから、終わらんのや。従うことで自分らの首を絞めてることに気付けよ。』と言っていることに重なります。また、個人的には伊丹氏が信念の欠如に言及していることが印象深く感じます。何の信念も持たなければ、誰かの強力な考えや大きな声に流され、乗っ取られることを言っているのだと思います。信念とは固く信じて疑わない心や行動の基礎となる態度であり、キリスト信仰もまた信念たり得ます。本来、聖書真理こそ信念として据えられるべきで、本物の信念(信仰)が無ければ他のものが本物に取って代わる危険があります。それが世の権威という宗教です。それ故、要注意です。誰もが、何かしらを信じて生きております。「そうでは無い」と主張しても自覚が無いためにそう思うだけです。聖書真理を知らないという状況は世の偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を信じている状況に他なりません。これらがどれほど罪深いかは聖書真理によって知ることが出来ます。無知は罪深く、無知を擁護することは出来ません。無知であったから無罪ということにはなりません。そうは言っても一人で全てを知るのが難しいのも事実です。手前もミカエル氏の伝道により、世の真実と真の聖書福音を知っただけの立場です。本来は世の大勢と大して違いはありません。違いは聞いて、調べて、神に従おうと行動に移しただけです。

この世で必死に生きようとしても虚しいことばかりです。経済的に安定しようとひたすら働いても、奴隷のような生活を送る羽目になります。遵法意識が希薄で、人を人と思わないいわゆる「ブラック」な労働環境が増え、尋常ならざる心身の負荷にさらされ、それでも稼ぎは決して多くはなく、心身を病んでいくのは当然の帰結です。今や、かつてのように普通に結婚して、家庭を持ち、少しばかりの楽しみ程度の贅沢すらも出来ない状況が起きております。自殺者も非常に多く、児童でも不登校も多く、多くの人々がこの世に希望を持てないでおります。この世自体が偽りに満ちてるからです。昨今は新世界秩序の構築に向けてワクチン等による人口削減は進められ、政府は仕事をするふりをして国民生活に害を為すことばかりに積極的です。正義感を持ち、また、隣人のためにこの悪を弾劾することも大事です。同時に、神の御計画においては世が悪くなることは避けられず、世直し自体を目的とせず、来る次の世での永遠の命に希望を持ち、この世においては悪を拒絶して神に従い通す姿勢でいることが重要です。そして、罪を犯さないために、罪を犯しやすい肉の性質があっても誘惑に負けず、自分を捨てて罪に打ち勝たねばなりません。これが最も難関だと思います。「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、それが誰にでも望むことである(コヘレトの言葉九章三節参照)」と書かれております。そのため自我との戦いが不可欠です。「純白の衣をまとい、頭に香油を絶やすな(コヘレトの言葉九章八節参照)」との言葉があります。純白は高潔な行いであり、香油とは聖霊を指します。聖霊は主イエスと新しい契約を結び神の律法を守ることで与えられ(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)、聖霊が人間を使役してくださいます(エゼキエル書三十六章二十六節から二十七節参照)。それによって正しい行いが可能となります。一方、一つの違犯は多くの善を損ない(コヘレトの言葉九章十八節参照)、正しい(律法を守る)人であっても正しい行いから離れ、不法行為をするならばこれまでの正しさは覚えられず、罪の故に死ぬ(エゼキエル書十八章二十四節参照)とあるため要注意です。

 

 

 

 『裁き』の言葉を紐解く

 

「裁き」には司法律法による民の間での裁きもありますが、主には「世の終わりの神の裁き」について言及していきます。

冒頭に挙げたヘブライ人への手紙九章二十七節にある『裁き(τοῦτοκρίσις)』の言葉を見ていきます。主たる意味は「決定」「結論」「判決」の意味で、「神の法による裁き」「正義」を含み、「告発」「有罪判決」「断罪」などの意味も窺えます。まさに世においての裁判と同じような概念がここにも見受けられます。新約聖書の原典たる古代ギリシア語で「裁き」を意味する言葉は複数ありますが、例えば同じヘブライ人への手紙の「主は御自身の民を裁かれるだろう(十章三十節参照)」の「κρίνω」の言葉では「識別する」「はっきりと認める」が主たる意味としてあり、他にも「試みる」「罰する」「判決を下す」など広い意味が見受けられました。後者では特定する、見極めるといった意味合いがあり、まさに裁判の審理を思わせるような意味があるのが個人的には印象的でした。

 

まず神の裁きにも共通する世の法や裁判の基本となる考え方を見ていきます。

罪刑法定主義

 

犯罪として処罰するためには、何を犯罪とし、これをいかに処罰するかをあらかじめ法律により明確に定めておかなければならない、という近代刑法上の基本原則。これに対し、罪刑を法執行者の専断にゆだねる考え方を罪刑専断主義という。近代刑法学の父とよばれるフォイエルバハは、この原則を「法律がなければ犯罪はなく、刑罰もない」Nullum crimen, nulla poena sine legeという標語により適確に表現している。

 

引用:コトバンク

聖書においてもこの原理が働いております。主なる神は、アダムとエバに善悪の知識の木からは食べてはならないと命じられました(創世記二章十七節参照)。それも食べたら必ず死ぬとまで事前に警告されました。則るべき事柄(法)としての神のご命令に背いた結果、エデンの園を追い出され、肉体に死が訪れるようになりました。『罪刑法定主義』の「刑」の文字の意味は『法律や規則によって科せられる罰。刑罰。(引用:スーパー大辞林)』であり、まさに違犯の結果としての罰、報いです。

また、「アブラハムが我が声に従い、我が命令、戒め、法令、律法を守ったからである。(創世記二十六章五節参照)」と書かれていることから、モーセの律法以前にアブラハムの時代で既に律法が存在して守られていたことは明らかです。そして、真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」で書かれている通りに、主イエスを仲介者とする「新しい契約」を経て、祭司律法や石打ちなどの司法律法や食物規定は守らずに良くなりましたが、あくまでこの世で死刑にしないだけであって、罪を容認してるのではなく、悔い改めずに罪を犯し続けるなら地獄行きになるため要注意です。悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)ことには変わりありません。『決して食べるな、食べれば必ず死ぬとやってはいけないことを神から事前に警告されてたのに、蛇(悪魔)が言うた嘘を信じて、神に逆らう人間が悪いんですよ。せやから、神を恨むんは筋違いやし、神の御言葉や神の掟に逆ろうて違犯して罪を犯すと死を招くことが明らかであり、これは永遠に変わらぬ真理である。せやから、太古から神の掟を遵守せないかんのは不変で、主イエスが重ねて教えはったとおり、永遠の命を受けるには神の掟を守る必要があり、十戒に限定もされへん。(引用:真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」)』とあるように神から、何を罪とするかは示されていることに留意するべきで、これが大前提です。

 

規制的機能

犯罪を規定し、それを犯した場合に刑罰が加えられると宣言することで、一般国民に対して犯罪を犯さないように警告する機能

 

法益保護機能

法益に対する侵害行為を犯罪として規定することで、国民の法益を守る機能

 

保障機能

何が犯罪かを明確に示すことで、国家権力の行使しうる範囲を限界づけ、国民の基本的人権を守る機能

 

引用:ゴリハル「罪刑法定主義って何?罪刑法定主義と4つの派生原則を解説」

上記は「罪刑法定主義による効果」について述べたものの一部の引用です。この内容も常識的に考えて理に適うもので、これによって社会秩序が保たれております。ミカエル氏は『律法は軛やないし、法は秩序維持のためにも必要であり必須なもの。人間の法律かて同じやん。法律も何も存在せえへんとか、全部廃止されて無効となれば、無秩序で無法地帯になり、誰も取り締まれず、罰を与えへられへんようになり、多くの人が悪事をやりたい放題で、悲惨な社会になる(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)』と言われていることに通じます。他にも以下も神の法にも通じる重要な事柄であると思われるため引用いたします。

慣習法の禁止

刑罰を科すには、必ず一般に公布された成文法規に根拠があることを要しており、存在が不明確な慣習法によって処罰することは許されません。

(略)

 

類推解釈の禁止

類推解釈とは、刑罰法規を、その法規に用いられている語句の可能な意味の限界を超えて解釈し、法規に規定のない事実に対して適用することをいいます。

 

引用:ゴリハル「罪刑法定主義って何?罪刑法定主義と4つの派生原則を解説」

これらも常識的に考えて当然だと思います。モーセの律法、福音書にある主イエスの言葉等は全て文字(聖書)として我らに与えられており、聖書(言葉)に依拠するものであって決して曖昧なものではありません。そして、『類推解釈の禁止』にある『その法規に用いられている語句の可能な意味の限界を超えて解釈』について、安息日は第七日目の日没から日没(すなわち金曜日の日没から土曜日の日没:レビ記二十三章三十二節参照)であるにも拘らず「日曜日」と看做すパウロ教徒の悪しき業が思い起こされました。また、安息日が「古代イスラエル人に命じられたのだから自分達には適用されない」と愚かなことを言う者がかつておりました。今や福音は異邦人にまで及んでおり、神の民に安息日が残されている(ヘブライ人への手紙四章九節参照)と書いてあるので出鱈目な解釈は大敵です。法規自体の曲解も問題ですが、「律法廃止論」「キリストの律法」といった曲解創作などの「法規の存在」自体に関わる誤解釈も大いに問題であり、それらに惑わされてはなりません。

 

次に、裁判(裁き)について見ていきます。

現代法学では、裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。

ここでいう「事実」、すなわち判決の基本となる「事実」には、不要証事実と要証事実がある。不要証事実は、裁判所の認定権が排除されているのに対し、要証事実の認定(つまり、主張されていることが本当に起きたのか起きていないのかの真偽を判断すること)は、証拠に基づいて裁判所の自由な心証判断によってなされる。

事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。

 

引用:ウィキペディア

手前は裁判や司法については特段詳しくありません。それでも順序立てて考えた場合に、「まず法が在る→(判決の基となる)事実の存在→法律の適用→判決(審判)」の順番を辿るのは当然のことであり、とても分かり易い説明だと思いました。ちなみに聖書の律法において、事実認定の際には「いかなる罪でもその人が犯した罪については一人の証人では立証されず、二人の証人の口によって、あるいは三人の証人の口によって立証される。(申命記十九章十五節参照)」とされ、新約聖書でも同様の前提に在ることが分かります。更には、偽証してはならない(申命記五章二十節参照)と厳しく戒められております。これは民の間のことですが公正といった精神が窺えます。

 

改めて、『法律の適用』について、人間の裁判とは異なり、神の裁きは正しく完全です(詩編九十八編九節等参照)。「我は真理の道を選び取った。貴方の裁きに適うように(詩編百十九編三十節参照)」と真のキリスト者として歩むのならば、人生は一度きりでやり直しが効かないのですから、人間の側から自らの行いが正しいかどうか、律法等を基に自己検証出来るようでなければなりません。この点において偽福音のパウロ教徒の律法廃止論は話になりません。『律法が廃止された』との主張は善悪の基準が廃止されたと言っているに等しく、何でもありの無秩序に陥り、普通に考えて神がそのようなことをされるはずがありません。また、実際にどの程度守られているかの結果が重要です。中には「十戒だけ守ればいい」という主張がありますが、根拠が無く無意味です。他にも、こちら(X:旧ツイッター)のように『中には事情があって全ての戒めを守る事が不可能な方もおられます愛の神がその様な方を裁かれるでしょうか?』と言う者もおります。一見、もっともらしい言葉に聞こえますが、『事情』とは何を指すのでしょうか。この人の言う『事情』が何を指すのか、具体的には言及されておりません。しかし、『愛の神がその様な方を裁かれるでしょうか』の言葉から、福音の三要素(偽福音)を信じる者たちに通じる生温さを手前は感じます。事情を言い出したらきりがありません。例えば安息日について、もし「どうしても外せない仕事があって」ということが赦されるなら、正直これほど助かることはありません。『事情』などという曖昧な言い方が通るならば、「蟻の穴から堤も崩れる」ことになりかねません。もっとも、主イエスは安息日に善い事をするのは適法であり、許されている(マタイによる福音書十二章十二節参照)と仰いました。この箇所に対して「主イエスも安息日を破ったのだから…」と主張する者を見たことがありますが、とんでもない勘違いです。主イエスは神であり律法を制定した側であり、更新する権限をもお持ちであると捉えるべきです。これらから、法をどう解釈するか、どう適用するかを考える上で聖書研究が不可欠であると思います。一箇所の字面だけではなく、関連する箇所でどのように言われているか、また、原典の意味する内容も含めて詳らかにしていくと、聖書は人間に何を為すべきかを十分に教えてくれていると思います。もちろん、容易に分かる事ばかりではありませんが、求めれば与えられ、探せば見出だす(マタイによる福音書七章七節参照)とは、その通りなのだと実感します。真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」の記事コメント「2」で『肩の力を入れる必要はありません。聖書を読み、神の律法、掟、戒めを学んで守り、主イエス・キリストを心から信じて神の御心を行う生活をすれば良いのです。また、常に主イエスのことを思い、祈り、清く正しく生きることです。そのためには、聖書を注意深く研究する必要があります。世の教会やいい加減な信仰をするにわかクリスチャンと戯れないことです。世の友になることは神の敵となることも忘れないように(ヤコブ4:4参照)。』と言われているように注意深く、神の言葉を研究する必要があると手前も深く同意いたします。そして、いい加減な信仰をするキリスト者と戯れないことも大事だと思います。「神か、世か」で深く葛藤している時に、例えば『普段から神を信じていて、その上で、事情があるのだから仕方がないよ』と言われたら、かなり強力な罪への誘惑となるでしょう。悪魔からの誘惑そのものと言えます。『使徒ペトロでさえ、聖霊を受ける前、主イエスがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されて三日目に復活することを予告した時にそれを諌めたら、「我が背後に下がれ、サタン。我が罪へと引き付ける者よ。なぜなら、あんたは神のことを考えず、それらの人間のことを考えてるからや。」マタイ十六章二十三節拙訳)と主イエスからサタンと呼ばれ、叱責を受けた。真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)』とあるように、良かれと思った言葉でも、神を思わず人間のことを考えて、律法違犯に導くことにもなりかねません。

 

エゼキエル書十八章三十節から三十二節(私訳)

それ故に、我はお前たちを裁くだろう。イスラエルの家は誰でもその道に従って。神である我が主の仰せである。お前たちの全ての罪から向きを変えて、(神に)立ち返れ。罪がお前たちの躓きとならないように。お前たちの犯した全ての罪をお前たちの許から投げ捨てよ。お前の新しい心と霊を作れ。どうしてイスラエルの家が滅んで良いだろうか。我は滅ぶ者の死を喜ばない。神である我が主の神意。お前たちは立ち返って、生きよ。

 

預言者エゼキエルの言葉は、かつて起こったことでもあり、これから起こることでもあり、来る神の裁きのことでもあります。

ここで個別に原典を見ていきます。上記三十節にある『ִּדְרָכָיו(この道に従って)』の「道」は言葉通りに道路でもありますが、比喩的には「人生の軌跡」「行動様式」の意味があります。当然ですが、行いが問われます。具体的には、善悪の判断を基に「行い」と「品性」が問われます。これは真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」でも言われているように、行いがあればそれで良いということではなく、主イエスの教えを守りつつ、品性も整っている必要があります。そもそも品性が整っていなければ神の掟を守りようがありません。אֶשְׁפֹּט(裁く)』については、「判決を下す」が主たる意味ですが「潔白を証明する、又は罰する」の意味もあります。実際には罰せられる者が殆どであるとは思いますが、無罪(潔白)が有罪(罰)のどちらかしかありません。この世にある事柄全てにおいても、神に従うか、悪に従うかの二択しかありません。中間は無く、神に従い通せないのであれば全て有罪となること(ヤコブの手紙二章十節参照)を知っておかなければなりません。余談ですが『潔白』の意味も興味深いです。『①心やおこないが正しいこと。うしろぐらいところがないこと。また、そのさま。② 清くて白いさま。(引用:スーパー大辞林)』とは、まさにヨハネの黙示録三章五節にあるように神に認められたものに着せられる白い衣を想起します。普段目にする何気ない言葉にもこのような共通点があるのは個人的に非常に興味深く感じます。また、『新しい心と霊を作れ』の『חָדָשׁ(新しい)』には「新生した」「今までとは違う」の意味があります。主イエスは悔い改めを説かれました(ルカによる福音書五章三十二節等参照)。それは主の御心に適うことであり、今までの生き方を改めて神に向かうならば、それは一新した心であり霊と言えるのではないでしょうか。神の求める犠牲は打ち砕かれた霊で打ち砕かれ悔いる心を神は侮られない(詩編五十一章十九節参照)とあることや。真の聖書福音と預言「世の悪に抵抗しなさい」のコメント欄「7」にある『神はアダムに何をして生きる者としたんか。霊を注いだんですよ。そうして初めて人は生きる者となった。肉体だけでは死んだものです。つまり、聖霊とは別に人間には霊があるということです。それが肉体に宿り、この世界で生きる者になってる。死んだら肉体を捨てて神の許に戻り、裁きを受ける。こういうことです。神は、一時的にこの世界に人間を送り込み、その霊を一時的に手放すんですよ。しかし、人間の死後にその霊が戻ってくる。せやから、神は神の民の霊を渇望してるんですよ。神の民だけは後の世で永遠に神と共に暮らすんです。最初から神に選ばれへん頑なに不信仰の者や異教徒、選ばれてると愚かにも高慢に思ってる自称キリスト者たちも永遠の破滅に至るんです。彼らは神から渇望されてるとは言えへんからね。その行いの悪さ、品性の悪さからも明らかや。』の言葉からも、新生した心と霊は神に喜ばれるのだと思います。逆に自らの行いを改めなければ神に立ち返ることは出来ません。「彼らは悪行のゆえに、神に立ち帰ることが出来ない。婚外性交の霊が彼らの中にあり主を知り得ないからだ。(ホセア書五章四節参照)」 とある通りです。まさに、神の掟を守らない、即ち、不法行為(悪行)が改められないのは、婚外性交の霊(悪霊)が影響しているのだと思います。婚外性交とは、言葉通りには姦淫の罪であり、唯一の真の神ではなく他の神(偶像)を拝むことです。まさに、神の掟を守ることで聖霊が与えられる(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)ことの逆を行く行為です。

 

ミカ書六章八節(私訳)

人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。

 

アモス書三章七節

確かに、我が主なる神はその忠告を僕である預言者らに明らかにしないでは言われた事を為されない。

 

主が為されることは預言者たちを通じて必ず伝えられており、条件が示されずに突然に罰せられる訳ではありません。かつて、ヨハネの黙示録に書かれている大艱難について、艱難前携挙を信じている者が、「これは携挙されなかった人たちの状況を書いているのだから、死に至るまでの忠実等を自分たちが問われているのでは無い」と言っているのを目にしたことがあります。『お前たちの信仰の試練は、朽ちる金の火による試しよりはるかに価値があり、イエス・キリストの来臨の時に称賛、名誉、栄光に至る。(ペトロの手紙一 一章七節:私訳)』の言葉から、試しによって信仰は本物に至るとあります。もし、大艱難を経ないのであれば、その品性も完成されず、もし、そのまま携挙されるのであれば、不完全な者と完全な者が混在する不釣り合いな状況が生じます。この者の言うことに矛盾があり嘘であることが分かりますが、ここでお伝えしたいのは、神の言葉に立ち止まって、これはどういう意味なのかとじっくりと調べることが大切です。繰り返しますが、神の言葉に拠ることがキリスト者の全てと言えるからです。

 

次に、いくらか重複しますが神の裁きを多角的を見ていきます。

いつ、神の裁きはあるか

ヨハネの黙示録十四章七節(兄弟共同検討訳)

「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。なぜなら神の裁きの時が来ているからである。そして、天と地、海と水の源を造られた方を礼拝しなさい。」

ヨハネの黙示録のこの箇所は大艱難末期と思われます。有罪か、無罪かの判決が下される時です。

罪の記録を消す、消さないの判断を審判といいます。つまり、神による審判です。私たちが真に悔い改め、生まれ変わってキリストに近い品性を持っているかの審判が行われます。これは、複数の過去記事で既に申したとおり、審判はキリストの再臨前に行われます。(略)今、審判は天において行われているのです。まだ先ですが、すべての麦が十分に育った時、即ち、真のクリスチャンが予定定員に達した時、刈り入れ時である世に終わりが来て、刈り取られます。また、毒麦のたとえから、この世の悪人たち全員がすぐに裁かれないのが分かります。麦の成長のために、毒麦も必要悪ということです。

引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)」

その上で、判決自体は、主イエスが来臨する世の終わりの時と思われますが、判決のための審議(審判過程)は上記のように現在進行していることに深く留意するべきです。まだ、その時が来ていないからと侮るようではいけません。実際、判決が下ってからは『そして、地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(ダニエル書十二章二節:兄弟共同検討訳)』と有罪か、無罪かによって、各々の報いを受けるだけの状態です。

神の律法・掟・戒めを守られるようになるには時間がかかり、完全な者たりえる品性となるにも時間がかかります。今この時の歩みが死後の永遠を決める非常に重要な時です。

 

何処で、神の裁きが行われるのか

上記の引用にあるように天において審判が行われます。また、当然ながら、裁きから逃れることは出来ません。主の裁きは全地に臨む(詩編百五編七節参照)、また、神はあらゆる行い、隠された事柄、それが善であるか悪であるかに拘らず裁かれる(コヘレトの言葉十二章四節参照)とあるからです。

 

◉誰が、裁きを行うのか

主よ、貴方は正しく、貴方の裁きは真っ直ぐです(詩編百十九編百三十七節参照)」の言葉からも言うまでも無く、裁くのは神です。また、お前たちは裁くな(マタイによる福音書七章一節参照)と主イエスは言われており、死後の永遠に関わる裁きは人が関与出来ることではありません。天使たちも主の御前に訴え出たりしない(ペトロの手紙二 二章十一節参照)とあります。一方、『大祭司ヨシュアが主の御使いの前に立ち、その右に立つサタンが彼を訴えるのを我に見せた。(ゼカリヤ書三章一節:私訳)』との言葉がありますが、『サタンはお前たちを小麦のようにふるいにかける事を神に求めた。(ルカによる福音書 二十二章三十一節:参照)』とあることから、神はサタンに人間をふるいにかけることを許した側面があります。そのため、より人を不利に陥らせるようにサタンが動いていることに留意して抵抗しなければなりません。誘惑を退け、罪に打ち勝つことで完全な信仰に至ります。

 

誰に対して(神の)裁きを行うのか

既に述べたように、全ての人が裁かれます。「神は正しい人も悪人も裁かれるだろう。あらゆる出来事と行為には時がある。(コヘレトの言葉三章十七節参照)」とある通りです。また、ここでも正しい人と悪人の二つの区分しかないことに留意するべきです。また、『正しい(צַדִּיק)』の言葉の意味には「適法」「ぴったり」の意味もあり、全ては神の法が基準です。

 

何に対する裁きを行うのか

ユダの手紙 十五節(私訳)

全ての人に裁きを執行するために、神を敬わなかった全ての不信心な者たちの不敬な行い全て、罪深く不信心な者たちが神に敵対して口にした恐れを知らない(言葉)の全てを罰するために。

 

ここまで上げてきたように、生きている間の振る舞い、品性が神の律法・掟・戒めに適うか、総じて、悔い改めたか否か(悔い改めに相応しい実を結んだか)が問われます。

 

なぜ、神の裁きを行うのか

ヘブライ人への手紙の三章から四章にかけて神の安息への言及があります。荒れ野の四十年を引き合いに、不従順に対しては安息にあずからせないと言われております。神は、今の天と地を滅ぼされ、それは同時に全ての罪を滅ぼすことでもあり。残されたのは新生して罪とは無関係になった真のキリスト者しか居ないことになります。

神は、なすべきことを六日間、即ち、六千年で今の世界の歴史を終えられることを創世記の冒頭で暗に宣言されていたのです。キリストの再臨後、最後の審判を終え、獣と偽預言者のような反キリストとサタン、悪魔や陰府も火の池(地獄)に投げ込まれ、第七の日以降から永遠に本当の安息につかれるということです。その時には、悪は完全に滅びているので、もはや神の民は罪とは無関係になり、神は人間を常に見張ったり、裁くことも考えなくてよくなるからです。この第七の日には終わりがありません。それは創世記からも明白です。天地創造の時、第一の日から始まり、第六の日が終わるまでずっと「夕べがあり、朝があった。」と繰り返していましたが、第七の日の後にはこれがありません。また、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2:2)とあり、六日で仕事を完成、即ち、この世の六千年という歴史を、最後に悪を滅ぼして、神が人類歴史を導く仕事を終えることで完成ということです。つまり、第七の日が終わることのない時、即ち、永遠の安息である、黙示録21章以降に書かれる新しい天と新しい地のことを示しているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」

全ては七日目の永遠の安息に向かうための過程として、神の裁きは不可欠なのだと思います。

 

どうやって、神の裁きが行われるのか

ヨハネの黙示録二十章十二節(兄弟検討訳、一部訂正)

また、我は死者たちや、小さな者たちや大きな者たちも、神の御前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれ、更にもう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれたこと、彼らの業に応じて裁かれた。

 

これまでの内容と重複しますが、天において、「人の心を造られた神は、あらゆる人の業を見分ける(詩編三十三編十五節参照) 」とあるように人間各位の全てが知られております。それを基に天で審判が行われ、大艱難末期の主イエスの来臨の時に判決が下ります。有罪であれば第二の死(火の地獄)、無罪であれば永遠の命を得て神の王国で神と永遠に住まわせていただけます。

 

マタイによる福音書十三章三十節(私訳)

両方とも一緒に収穫するまでそのままにしなさい。収穫の時に我は刈り入れをする者たちに言うだろう。「先ず毒麦を集めてこれらを焼き尽くすために束にして縛りなさい。しかし、小麦は我が穀倉へ集めなさい。」

 

収穫(裁き)の時まで毒麦(有罪とされる者)と麦(無罪とされる者、真のキリスト者)はそのまま一緒に置かれますが、麦は「我が穀倉(神の王国)」に集められます。

 

マタイによる福音書二十五章三十一節から三十三節(私訳)

その時、人の子がその栄光を携えて、その聖なる御使いを皆伴って来る時、その栄光の王座に着く。全ての民はその御前に集められ、山羊から羊を分けるように彼らを相互から分けるようになる。確かに、羊を右側に置くが山羊を左側に置くだろう。

 

ここでは山羊の中から羊が分けております。山羊は神に不従順で有罪とされた者であり、その中から分けているのは従わないのが大勢(ほとんど)であり、羊(真のキリスト者)は彼らに比べて少数であるのが窺えます。

 

毒麦か麦か、山羊か羊か、有罪か無罪かが、生きている時の行い(品性を含む)に応じて判決が下されます。

 

どうなるとよいか

人には罪を犯しやすい性質があり、そのままの状態で罪を犯さない人は誰一人おりません(コヘレトの言葉七章二十節参照)。神の真理(創造の秩序、律法等)を知ることで自分が死刑に値する罪人で、そのままでは滅ぼされる定めであることを弁え知り、救い主であるイエスを受け入れ、これまでこの世の支配者である悪魔によって偽りによって騙されて無知でいたことを知り、これまでの生き方、生活様式、心の中、信念まで改めて、神の律法・掟・戒めを死に至るまで守り通すことです。先に挙げたゼカリヤ書三章一節でサタンが告発する場面の話がありましたが、サタンから告発される罪を隠し持たないことが大事です。世俗の仕事において、特に会社勤めをしていると組織内部の監査、または、外部からの監査、特に法的に管轄する監督官庁からの監査といったものがあります。個人的に何度か経験しましたが毎回とても緊張します。「問われる」という立場がそうさせるのもありますが、何事も当人が最大限に努力しても、他者の目には何かしら漏れがあることが多いと個人的には感じます。また、重大なのは、平素から基準違反が無い状態であるか、基準未達があれば都度に検証を行い、それに対する対処を速やかに行なっていたかといった日々の姿勢です。律法もそうであると思います。そこで後ろめたさがあると緊張度が増します。突かれては困ることがあれば尚更です。何の後ろめたさもなくて堂々としていられるのが最善で、サタンも告発のしようがありません。また、日々、失敗があったとしても(正直、罪悪感に苛まれたり落ち込みますが)切り替えて、同じ失敗を繰り返さないように前向きになることが大事だと思います。もう駄目だと自棄になったり挫折するようであれば、サタンにとっては「してやったり」だと思います。

 

ヤコブの手紙二章十二節(私訳)

お前たちは、自由(解放)の律法によって判決を言い渡される者としてこのように語り、振る舞いなさい。

 

ποιεῖτε(振る舞いなさい)』の言葉の意味は「作る」「行う」です。その他にも「忍耐する」「守る」などの努力に関わる意味合いが見受けられるのが個人的には印象的でした。『サタンから告発される罪を隠し持たない』ことを踏まえると如何に普段の振る舞いが重要であるか、神の律法を守り、忍耐することが重要かが窺えます。律法を「束縛」と捉える偽福音論者(パウロ教徒)が多いですが律法は神によって与えられた道徳的教え、愛に関する教えです。この世においては、肉の弱さも相まって誘惑への陥りやすさがあり、そのままでは滅ぼざるを得ない束縛と悲惨さがありますが、律法を守ることによってそれらから解放(自由)される機会を得ます。また、(引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)」の記事のコメント「8」にて『誰でも苦難を乗り越えると、より強くなり、また品性も磨かれるもんや。苦難を知らず、挫折を知らんのは必ずいつか壁にぶち当たり、その崩れ方も酷くなるもんやろ。(略)子供の頃から上手く行かへんことだらけ、思うように行かへんことだらけで、忍耐を強いられた人なら、たとえ困難があろうとも人生はそういうもんやと思い、乗り越えられる。このように、主なる神は、神の民として迎え入れる人には苦難の道を与えはる。甘やかされて育つ人なんか求めはらへんし、努力や忍耐をせえへん人も要らんと思し召しやろ。主イエスも「最期まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ十章二十二節、二十四章十三節)と教えはったとおりや。』の言葉が相応しいと思います。忍耐が求められる苦しさの背景には様々な要素がありますが、大勢が堕落している中、信仰の兄弟との交わりがありつつも、基本は一人で行動しなければならず、多数の中で群れて生きてきた時間が長いほどに最初は辛く感じることがあるかもしれません。以下のようなX(旧ツイッター)の投稿を見かけました。

 

画像引用:https://twitter.com/trxprince/status/1698324312091226356?s=20

 

確かに、コロナ犯罪によって国民が分断されたと思います。分断といっても真っ二つに割れるといった比率ではなく、高接種率を考慮すると、コロナ犯罪を認識している者は非常に少数なのだと思います。家族内でもコロナ犯罪を認識しないが故に分断されるのはもはや珍しい光景ではなく、世の洗脳が酷いためにそうならざるを得ないのが実際だと思います。今やキリスト者を自称するものであってもコロナ犯罪を認識しない者がいる中で『自分の信念を曲げない』と言えるのは稀有な姿勢だと思います。自分の人生は自分で決めるとの言葉もありますが、行い(決断を含め)は全て自分の意思なのだと改めて認識させられます。悪を認識せず、盲信したり、mRNAワクチンを接種して不可逆的に神が作られた遺伝子を改変するのはこの世の悪を受け入れて従ったも同然です。どの報道機関もまともにコロナ犯罪を取り扱わず、政府や医師会等の犯罪が野放しにされて傷ましく嘆かわしい程の無秩序です。

更には、こちら(NHK)にあるように太陽暦九月一日に『内閣感染症危機管理統括庁』が発足し、感染症対策を一元的に担う司令塔として設けられました。こちら(note:知識と実践と真実と〜知行合一〜)にあるように次なる偽感染騒動が予告されております。そして、合わせるかのように、こちら(さてはてメモ帳)では連合国(UN)が『サイバー軍を立ち上げ、アジェンダ2030を積極的に推進する一方で、「偽情報」とレッテルを貼ったものはすべて弾圧する』との動きを見せております。X(旧ツイッター)の『学歴・職歴と生体情報の収集開始を予告(引用:Gigazine)』との利用規約改悪も言論弾圧を想定していると思われます。こちら(メモ・独り言のblog)では、世界経済討論会(WEF)が『我々は神です、あなた方が我々の邪魔をすれば、あなたは死ぬことになる』とヨハネの黙示録十三章の様相を想起させる主張をしております。『新たな世界統一宗教が到来し、気候科学、テクノ共産主義、優生学の祭壇に礼拝を捧げることで全人類を統一させる』と書いてある世界統一宗教の頂点に獣であるローマ教皇が予定通りに君臨することでしょう。そして、律法違犯を強要させられ、従わなければ殺されるでしょう。しかし、真に重要なのはこの世での命ではありません。先の投稿者は投稿内容からは信仰が無い方とお見受けしました。不信仰者ですらこのような矜持を見せている以上、ましてや予告済みの大艱難に対してめげている場合ではありません。やがて兄弟間の交流が不可能で一人になる状況に置かれたとしても、ただ神の言葉に拠り、主イエスへの信仰を糧に歩むべきです。

 

 

 結び

 

世の悪の実態についてすら知らない人々は、虚しい仕事に勤しみ、日々の生活に追われ、それ以外は娯楽等と戯れているのではないでしょうか。それでは無意味で世の悪に従い、世に属していることに他なりません。罪に塗れたその生き方を続けては、そう遠くない内にこの天地と共に神によって滅ぼされます。世の悪の実態を知っている者でも、真相情報ばかりに留まっていては不十分です。悪しきこの世には希望が全く無く、やがて神によって滅ぼされるだけだからです。世を支配する悪しき者が何故それを起こしているのか、彼らは何者なのか、この後どうなるのかを紐解いていけば聖書の預言通りに事が進んでいることが分かり、聖書が真理であることが認識出来ると思います。今の生き方で良いのだとは決して思わないでください。本物を知ればそれ以外が偽物であると分かるはずです。確かに、世に洗脳された期間が長い程、にわかには受け入れがたいかもしれません。それでも真の聖書福音を聴くことができる内に一刻も早くこれまでの生き方を改めるべきです。主イエスに真に従い通すことで救われること、つまりは新しい天と地で永遠の命を得て、罪とは無縁の世界にあずかることが希望です。

 

イザヤ書二十六章九節から十節(私訳)

我が心は夜に貴方を慕う。然り、我が霊は我が内で貴方を探し求める。貴方の地への裁きの時、地に住む人々は正しさを学ぶからである。悪人は慈悲を受けても正しさを学ばない。真っ直ぐな地で不正が行われ、主の荘厳さを見ようとしない。

 

ここでの『צֶדֶק(正しさ)』とは、倫理的な正しさです。倫理とは、人として守るべき道であり、善と悪の基準、つまりは神の律法・掟・戒めです。その時が来れば、伝えられた真の聖書福音を思い起こすことでしょう。その時にどの立場になっているかは貴方次第です。真のキリスト者が世に抗う唯一の方法は、悪に従わず神の律法・掟・戒めを守ることです。『子たちよ、今やお前たちは御子の内に留まりなさい。御子が現れるその時、我らが確信を持つために。御子の到来の時、御子の御前で恥じないために。(ヨハネの手紙一 二章二十八節:私訳)』と確信を持って準備出来ているように。裁かれる者として、ただただ神の目に適うように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

手前は悪いこの世に価値を見出だせず、そして、悪いこの世の矛盾がどこから始まっているか、この後にどうなるかを聖書から学んだキリスト者です。悔い改めが出来なくなる大艱難まで時が近いと思われ、まだ見ぬ失われた羊へ、また、世の人々に何が真実であったかが少しでも伝わることを願っております。今回は「キリスト者の準備」と題して、不信仰者の生き方から脱却して真のキリスト者として生きるための準備についてお伝えします。

 

 

 神を畏れることは知識の始まり

 

 

ヨハネの手紙一 三章十節(私訳)

これにより神の子たちと悪魔の子たちは明白である。正しい行いをしない者やその兄弟を愛さない者は神に属する者ではない。

 

この聖句箇所は、短い言葉ながらもとても重要な事柄に言及しております。一つは「神の子たちと悪魔の子たち」という区分があることです。神の言葉に従って、行いで示す者が神の子であり、そうではない者が悪魔の子です。これを聞いて聖書真理を知らない者たちは少なからず反発するのではないでしょうか。「聖書の神だけを正しいとするのは一方的だ、聖書の神だけを基準とした二者択一なものの見方は極端だ」という趣旨のことを手前は不信仰者より言われたことがあります。手前も聖書真理を知る前は同じように思ったことがあるので、そのようなことを言う気持ちは正直分からないでもありません。これは聖書に対する反発の定番であろうと思います。しかし、それは彼ら(不信仰者)目線の身勝手な言い分でしかありません。世の常識という偽りの上に生きている認識が無く、真の神を知らない結果が反逆という悪行となって現れているだけです。そして、「無知であることまでも咎めるのか」との思いがあるかもしれません。聖句にある「神の子」は、神の律法・掟・戒めを遵守します。信仰の根幹を成す要素です。まさに神の法であって、世の法等と同様に知らなかったからと言って罪を犯しても無罪になることはありません(参照:真の聖書福音と預言「法への無関心や無知が身を滅ぼす」)。我らの生活に直結する世の法もそうですが、全人類の「死後という永遠」を決める神の法に無知であってはなりません。人には一度死ぬことと死後に裁きに遭うことが定められているからです(ヘブライ人への手紙九章二十七節参照)。だからこそ無知がどれほど恐ろしく、身を滅ぼすかを出来る限り早い内に悟るべきです。『無知は罪やさかいな。箴言十章八節、十四節、二十一節等からも無知は悪いことやと分かる。彼にはもっと箴言を読むように勧めたい。如何に自分が無知か、愚かなことをしてるか思い知るためにも。(引用:真の聖書福音と預言「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」』の言葉はその通りです。このような指摘は痛みを伴うかもしれません。しかし、誰からも間違いを指摘をされず、取り返しがつかない段階になってから知ったのでは特大の損失です。そのため、痛みが伴った方がより指摘の内容に目を向ける契機となると思います。強く指摘するのは、真に相手を大切にする心から生じる行動です。そこを汲み取りつつ、自分の愚かさは早い内に知った方が良いです。傲慢から脱却して、悔い改めるためにもです。分別の無い愚か者は自分の道を正しいと看做す(箴言十二章十五節参照)とありますが、これは客観的に相当に痛々しいことではないでしょうか。そして、幼い頃から真の聖書福音を教わって育った訳でないのであれば、誰もが最初は無知であったはずです。手前もそうだったからこそ唯一の真理に反発したことがありました。しかし、「無知だったから」では済まされず、無知の結果が罪であることに変わりはなく、罪を犯さない人間は一人としていない(コヘレトの言葉七章二十節参照)と言われている通りです。誰もが最初は聖書真理に無知で、世の常識の虜になっていることに早く気付くべきです。『・無知は大罪や。もっと勉強して正しい知識を身につけましょう。拙者がこれらの世の真相に関する情報や聖書に関する知識等も自分で能動的に調べたり、勉強したりして身につけたものです。主イエス・キリストのお導きのお陰です。勿論、拙者もかつてはあんた方のような無知の時もありました。それはしゃあないよ。この世が悪やし、政府も報道機関も教育機関も悪で、何も正しいことを言わんと嘘ばっか言うし、それらの影響を受けた先祖もぼーっとしてきて何も正しいことを勉強せんからほんまに大事なことは何も知らんし、大衆は悪い世の流れに乗ってばかりの人が多いし、その影響を受けざるを得ないからね。それで我等が子供の時から完璧人間で居るなんてことは無理なんや。せやから、過去のことを責めてる訳ではなしに、今の話、これから先の話をしてるんです。このまま無知のままで居ってええんかってこと。ええ訳ないやろ。(引用:キリスト道「本拠」』とはとても大事な指摘をしております。聞く耳のあるものは聞いてください。

聖句の中の重要な事柄の二つ目は「正しい行い」をしなければ神に属さない(悪魔に属する)と明言されていることです。新共同訳では「正しい生活」とされておりますが、原語からは「(正しい)行い」です。ただ、考えようによっては「生活」としても決して的外れとは言えないと手前は考えます。理由は、単発の「行い」では意味が無いからです。時々、正しいことをするのは容易いです。誰にでも出来ることです。しかし、神が求めているのは完全な者となること(マタイによる福音書五章四十八節参照)ことであり、一点でも落ち度があれば有罪となる(ヤコブの手紙二章十節参照)ことからも、一度限りの行いではなく、継続することが必要です。行動の集合体は習慣であり、習慣となるには、全ての行動の基としての信仰が心の内に信念として機能する必要があります。それらが体現されるのは日々の「生活(人生)」の中です。

ヨハネの手紙一 三章十節を通してお伝えしたいことは、まず『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』と『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』という前提に拠って立つことです。過去記事「光で闇を照らせ」でも記したように、神に拠らない知識は偽りであって、この天地の真実(神、悪魔、人間存在の意味、始まりと終わり等)は聖書にしかありません。真の神を知らず、進化論などの偽りの起源を信じ、偶像崇拝に耽り、生きること自体が目的化したり、楽しく、自己実現して、豊かに、あるいは社会的に成功すれば良い等という生き方は、神の目に適わない生き方です。このような生き方の末路は地獄行きです。前提を間違えると進む方向も間違います。

 

こちら(youtube)の動画で「なぜ人は生きるか」との問いがありますが、見事に誰も答えられません。また、それを問うこと自体が忌避される傾向があり、「生きる意味を自分で見つけるしかない」と思った所で、神無き世界観の人間の文脈では決して見出だせず、むしろ偶像崇拝に陥る危険があります。人はそうやって自己存在の根拠や本質を考えずに、世の事柄に没頭して充実を図る生き方が当たり前になっているのだと思います。これが世の大多数の姿なのだと思われます。だからこそ『主への畏れは知恵の始まり(詩編百十一編十節参照)』なのです。存在の目的は、人間の上位概念たる造り主に拠らなければ本当のことが分かり得ません。

 

詩編百二編十九節(私訳)で来たる後世にこれが記されるだろう。「創造された民は主に栄光を帰すようになる。」』と言われているように人は神によって造られ、神を讃美するために存在します。真に畏れる対象を知らなければ、他の偶像(あらゆる偽り)を欲してしまうでしょう。また、『全ての人に裁きを執行するために、神を敬わなかった全ての不信心な者たちの不敬な行い全て、罪深く不信心な者たちが神へ敵対して口にした恐れを知らない(言葉の)全てを罰するために。(ユダの手紙十五節:私訳)』とも言われていることから、決して信じるだけではなく、行いも重視されており、神の律法・掟・戒めを守ることが求められております。先に挙げたヨハネの手紙一 三章十節にあるように神の子たちと悪魔の子たち(の区別)は明白です。そこに曖昧さ、中立はありません。聖書で言う「義」には神の法に対する適法の意味があり、適法(義)か違法(罪)の二種類しかありません。即ち、二種類の人間しか居らず、適法(義)は神を確かに見出だして、偽教義にも惑わされずに、神に忠実であることでしか果たし得ません。これは偶然で辿り着ける結果ではなく、神を愛し通す強い意志の下でしか起こり得ません。だから、世の諸教会に足を運んでも、知識も信念も曖昧なまま、覚悟もなく主イエスを信じたからと言って適法(義)に到達するわけではありません。分け目は主イエスを信じつつ、神の律法・掟・戒めを守ることです。「それでは誰が救われるか」「神はそのような方ではない」と反論する偽福音論者をたくさん見てきましたが、そのような問いは無意味です。救われる者が少ないことについて、神は最初から言及済みです。招かれる者は多くても選ばれる者は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)であり、世の終わりはノアの時のようである(マタイによる福音書二十四章三十七節参照)と言われております。ノアの箱舟に乗ったのはたった八人で、その他の大勢は滅ぼされました(ペトロの手紙一 三章二十節参照)。「リバイバルが起こる」だの「大勢が救われる」とは、根拠無き思い込みで間違いです。それも単に、世に蔓延る福音の三要素(偽福音)のためでしょう。律法廃止論などの偽福音は全て偽使徒パウロから始まっております(参照:パウロは偽使徒)。こちら(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)に列挙されているように、主イエスの言葉に対して偽使徒パウロの言葉がどれほど乖離しているかが分かるはずです。彼らは一様に世の諸教会・神学で教わった内容に縋り続け、必死にパウロを擁護、肯定しようとします。しかし、どんなに好意的に見ようとも根本的な部分での矛盾が明らかです(部分的に良い言葉もあるが)。神はまっすぐな御方であり、示された道もまっすぐです。矛盾とは、問題がある姿勢です。その道を勝手に曲げたパウロの言葉には何の正当性もありません。『これだけは理解せよ。神は人間を真っ直ぐに造られた。しかし彼らが多くの作り話(嘘)を欲したのを我は見出だした。(コヘレトの言葉七章二十九節:私訳)』とコヘレトは言われました。神が真実・真理を伝えたにも拘らず、偽りを欲するとは一体どうしたことでしょうか。悪魔は「嘘つきの父」(ヨハネ八章四十四節参照)であると主イエスは言われました。悪魔は嘘つきの父であり、世の常識という偽りを喧伝する支配層も同じく嘘つき、それに加担するように偽りを欲するのは悪魔の子たちです。パウロ教信者もそれに含まれます。まさにパウロ書簡とはふるいなのだと思います。彼らの末路について、主イエスは明確に嘘つきは地獄行き(黙示録二十一章八節参照)であると予告されております。聖書真理を知らない者には、「世の常識全てが偽りであり、本物を知らないが故に偽りに加担している」と認識できません。知らないまま嘘を信じ続けて、神に属する要件を知らなければ、滅びの縄目から抜け出せない囚われ人のように滅びに一直線です。聖書は宗教(虚構)ではなく、唯一の真理です。誰でも、関係が無いなどということはあり得ません。この世の支配者(悪魔、悪魔崇拝者の支配層)が聖書が真理であることを隠し、世の常識(嘘)を真実と教えているだけです。その上で、世の常識という嘘に従わない者を世は激しく迫害します。それによって信じない者が多いだけです。大勢が信じていないという理由で聖書は真実ではないということにはなりません。むしろ、大多数が信じていることにこそ嘘があります。大勢が正しいという洗脳を自らに施されていることを自覚しましょう。そして、自分で聖書を読み、よろしければ真の聖書福音と預言の記事を参考にして、聖書が言っている文脈を理解しましょう。悪戦苦闘しながら、頭がとても疲れる経験もしながら、真理を見出だしていくと決して忘れ得ません。心に深く刻まれます。深く刻まれた言葉は世の事象に対して「これはおかしいぞ」と警鐘を鳴らしてくれます。強く確かな、正しい信念(真の聖書福音)に拠って生きることが求められております。

 

 

 準備と霊的武装

 

真理を知り、従い始めると、素晴らしい神の御栄光、創造の秩序、救いの御計画、命の栄冠に対する理解が深まり、この世にある何もかもがそれらの前には価値を失います。この天と地も、悪も偽りも、全てが滅ぶため、世に対しては虚しさが募ってきます。しかしながら、そうは言っても目の前の現実があるにも確かです。我らはまずこの肉体を帯びたこの一生を、主を仰ぎ見ながら最期まで歩まねばなりません。神が言われた完全に到達するために、白い衣に値する高潔な品性や確固たる信仰を育むために、また、この世と自らの肉の弱さに打ち勝つためにです。

 

信仰の始まりは誰だって心が燃えているものです。ただ、それを実際に行いに現すことも、それを継続していくことも、向上し続けることも本当に大変なことです。「継続は力なり」という言葉は知っていてもその実践が如何に難しいかを徐々に思い知ることになります。言行一致とは簡単に成し得ないからこそ、偽りのないその姿勢によって高い価値が示されます。

八、多くの人が(信仰から)脱落し、互いに陥れ、憎み合う

既存の聖書の翻訳が下手で気付かぬ人が多いであろうが、信仰から脱落する者が終末時代に多くなるという主イエスの予告や。これは、拙者も実際に脱落者たちを見てきて、その通りであると実感する。多くの者が怠惰の故に脱落したり、世俗の思い煩いによって脱落したり、または、自分が正しいと思い込み偉そうに反発して脱落したり、理由は色々あれど、脱落者が多いのは事実で、今だけやのうて将来も発生し、今聖書を読んで信じてる人であっても、多くのにわか信者は後で信仰を失うて脱落するだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

手前もまた脱落した方を見てきました。理由は様々でしたが、誰でも、脱落し得るのだとよく分かりました。故に自分が絶対に脱落しないとは言えないと思いました。マタイによる福音書二十六章二十一節で主イエスは直弟子の中に裏切ろうとする者がいることを予告し、二十二節では弟子たちが「主よ、我ではないでしょうか」と言い始めました。この時の弟子たちの気持ちが以前よりは理解できるようになりました。それは裏切ろうと思っているからではなく、悪い部分が自分でも気付いていない所で巣喰い、進行してしまうからです。それは気の緩みだったり、良心の訴えに鈍感になるなどいろいろな背景があると思います。良し悪しを問わず、行いの積み重ねが習慣を作ります。行動を改善するには自らの肉の思いに抗う必要があります。習慣を改善するには非常に苦労し、時間もかかります。一方、悪習慣を身に付けてしまうのは楽に身を任せれば容易に出来てしまいます。個人の見解ですが、毎日、自己点検をする習慣を持たないと小さな自分の変化(良いことも悪いことも)に気付けないと思います。「この位まだ大丈夫でしょ」と思っていると自分の中で悪習慣が大きくなることがあります。経験的に「ふと気がつくと、在るべき真っ直ぐから、ずれている」と気付くことが偶にあります。やはり、最大限の警戒で自分の心を守らなければならない(箴言四章二十三節参照)のだと思います。このように書かれているからには相応の理由があるからで、決して軽く読み飛ばしてはなりません。

 

ペトロの手紙一 四章一節から二節(引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 二」

それ故、我等のために肉体にあってキリストは苦しみはり、あんた方もまた同じ考えを準備しなはれ。なぜなら、罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむからや。もはや人間の欲望やのうて神の御意志のために、肉体における残りの時間を生きるためや。

 

「罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむ」の言葉は信仰の道を歩むほどにじわじわと、あるいは、まざまざと分かってくると思います。

神は霊であるが、主イエスは受肉して、肉体という形を取ることで苦しみはった。それは我等人間も同じである故、主イエスと同じ苦しみを我等も受ける覚悟をせねばならず、信仰に入って以後は残りの人生を神の御意志のために生きるべきであって、人間各自の持つ欲望を満たしたり、やりたいことをやるためではないと使徒ペトロは言うてる。また、ペトロは「罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむ」と言うており、拙者もこれに強く同意する。本格的に信仰に入る前は律法を知らず違犯していたが、聖書を自分で通読して「主イエスが真理である」と悟ってから本格的に信仰に入った。それ以後、律法を強く意識するようになり、律法違犯をやめて行き、伝道活動をして生活する上で苦しい思いをしてる。サタンによる妨害、この世の悪人どもからの迫害等と正しい道を歩くからこその苦痛である。罪の奴隷で脳内お花畑のパウロ教信者どもには到底理解不能であろう。せやから、キリストと十二使徒の教えを守らへんパウロ教信者どもは、律法違犯の常習犯であって神の御意志を無視して好き勝手に生きてる。これでは不信仰の者が勝手な思いで生きてるんと何ら変わらへん。彼らは皆、神の御意志を知ろうともせず、聖霊を受けてへんさかいそれを知ることもでけへん故、かように悪い行いばかりするし、罪を犯すんをやめへん。それでは当然地獄行きとなる。嫌なら、悔い改める(律法違犯をやめる)しかない。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 二」

正しいことを行うほどに悪いこの世の者たちからの迫害を受けます。苦しみの中身は人によって様々だと思いますが、真の聖書福音に従わない世の仕組みや世の大多数にあって、真の聖書福音に従うことで生じる摩擦や葛藤は間違いなくあります。ペトロの手紙一 四章一節にある『肉体(σάρξ)』には「苦しみの対象となる人間の肉体的性質」の意味があります。迫害は本物のあることの証拠であり喜び(マタイによる福音書五章十二節参照)でもありますが肉においての苦しさがあるのも事実です。迫害とまではいかなくても、真の聖書福音と預言「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」のコメントの「5」の話が良い例だと思いました。ここに書かれているのは、派遣労働による低収入を解消するために正職員として働き始めたが、それによって安息日遵守が困難になったというものです。生活が苦しくて仕事を辞める訳にもいかないが、律法を守るためには今の仕事を辞めなくてはならない葛藤を吐露しております。社会全体が聖書に依拠しておれば、聖書暦に則り、自ずと安息日(七日目:金曜日の日没から土曜日の日没まで)は休みとなっていたでしょう。しかし、実際はそうではありません。「生活を取るか、信仰を取るか」「(悪の世の)多数派に属するか、(真の聖書福音の)少数派に属するか」「世の偽りを信じる、真理だけを信じる」のような形で二者択一を迫られるのが実際であり、そこで行いで示せるかが問われます。肉の性質(自己愛)としては自分が困るような場面を避けたいと考えるでしょう。これも「罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむ」の一つの表れだと思います。だからこそ悪い世にあって神に従い続ける行為の尊さが際立ちます。不信仰の者(律法廃止論者を含む)はそもそも正しい行いの重要性を認識しないため、苦しむことが無いでしょう。

 

ところで先のペトロの手紙一 四章一節に『あんた方もまた同じ考えを準備しなはれ』という言葉があります。この中の「準備(ὁπλίζω)」を確認すると「準備する」の他に「装備する」「(知識を)授ける、身につけさせる」「武装する」の意味もありました。文脈から肉体にあってキリストは苦しまれたことを踏まえて「準備する」との通りですが、無防備(災害や危難に対する準備のないこと「引用:スーパー大辞林」)ではないことの意味もをよくよく認識するべきです。また、細かいですがこちら(ひとりLABO)によると『『備え』とは「起きるかもしれないことを想定して行っておくこと」』『『準備』とは、「必ず起こること(必要なこと)に対して用意をする」こと』とありました。それぞれの国語的意味からそのように捉えられると思いました。主イエスは必ず起こると予告されたのですから、それによって「準備」と訳されたのは相応しいのだと理解できました。

そして、「武装」の意味から手前はエフェソの信徒への手紙の箇所が想起されました。

 

エフェソの信徒への手紙 六章十節から十二節(引用:真の聖書福音と預言「コロナ茶番は新世界秩序(NWO)の道具」及び六章十三節から十七節(私訳)

兄弟たちよ、今後は、主にあって、その力と権勢にあって強くなりなさい。悪魔の策略に対して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。我等が格闘するのは、肉や血に対してではなく、支配権と権力、この世の暗闇の支配者、天にいる霊的な悪に対してやからや。

それ故、お前たちは災難をもたらす日に抵抗し、全てを成し遂げ、耐え抜くことができるように神の武具をまとえ。そのために、お前たちは立って、真理をお前たちの腰に締め、正義の胸当てを身に付け、足に平和の福音の支度として靴を履いて、すべての上に信仰の盾を持ち、これにより悪人のあらゆる燃える矢を消すことが出来るようになる。そして、救いの兜を被り、御霊の剣である神の言葉を手に取れ。

 

 

十節にある『武具(πανοπλία)』とは、全身を覆う鎧を指します。全身の武具の部分が後節に載っている通りです。『真理(ἀληθείᾳ)』とは、偽りがないこと、神に関係する事柄や人間の義務において何が真実であるかを示すものです。その真理を腰に(帯のように)締めます。『正義(δικαιοσύνη)』とは、人格と行いが正しいことであり、あるべき人間の状態や神に受け入れられる状態です。具体的には「高潔さ」「徳」「真っ直ぐさ」「思考、感情、行動の正しさ」などを指します。この正義を胸当てとして身に付けます。『平和(εἰρήνης)』とは、ヨハネの手紙一 四章十七節にある『これによって愛が我らの内に全うされている。裁きの日に我らは自信を持つために。(私訳)』のように、救いに自信を持ち、キリストの再臨とその出来事に伴う万物の変化を静かに待っている人々について使われるようです。先の『正義(δικαιοσύνη)』の言葉には「正当な理由」「義認(神が人間の罪を赦すこと)」の意味もあり、まさしく裁きにおいて自信があって静かに裁きを迎えられる心境としての平和なのだと思います。「大丈夫かどうか」と心配になるのでもない心境であるのが印象的です。そして、(平和の)『福音(εὐαγγελίου)』とは神の王国の到来と主イエスについての知らせ、滅びの縄目からの救いです。『信仰(πίστις)』とは、神への忠誠、信念、確信を指します。この信仰の盾により、悪人どもの火の矢を消すとあります。ただの矢ではなく、「火」の矢とあるので、戦場を想像すればただ刺さるのではなく、より延焼させる力を持つ殺傷力(攻撃力)の高い攻撃を指しうると思いました。実際、『火(πυρόω)』には、比喩的に怒り、悲しみ、欲望で興奮して悪化すること、試みるといった意味があります。故に、肉の欲・自我に乗っ取られるのではなく、自分を捨てて神に忠実であり続けることをここでは指しているのだと思います。『救い(σωτήριος)』を『兜(περικεφαλαία)』として被るとは、将来の救いの希望を身にまとい、魂の保護する意味があるようです。霊の剣について、ヘブライ人への手紙四章十二節でも「神の言葉は瞬時に、力強く、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を引き裂くまで突き刺し、心の意図や考えを識別する(参照)」と言われている通りです。剣(μάχαιρα)には比喩的に、戦争、裁き(その中に、賢明な判断力のある行為、公平・公正の意味もある)、罰の意味があります。更には、聖霊が罪への衝動を抑え、聖霊の力と有効性を発揮するという意味もあるようです。調べる程に個々の意味の深さに驚かされます。

 

上記はパウロ書簡からではありますが、言わんとしている内容は聖書の他の箇所と矛盾しない内容であると思います。そして、悪い者が支配するこの世においてはこれほどの霊的な武装(準備)をする必要があると分かります。決して無防備であってはなりません。そうでなければ世に打ち負かされます。しかも『お前たちは未だ罪に逆らって戦い、血を流すほど抵抗しておりません。(ヘブライ人への手紙十二章四節:私訳)』と言われている程であることにも留意するべきです。『血を流す(αἵματος)』には、ちょっとやそっとの傷を負う程度ではなく、血みどろの死を迎えるとの意味があります。この意味も踏まえ、これ程までに罪と戦っているかを自らに問わねばなりません。

 

 

 聖書と世の動向の両方を見る必要がある

 

真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」の記事の中で『神に属する人間と世に属する人間との戦い』と言われております。この世を支配するサタンは、この世の権威(政府、国際機関、世が認めた学問や知識、常識とされるもの)を用いて人々から聖書真理を遠ざけます。聖書に繋がる者があっても誤訳・改ざんだらけの聖書や主なる神や主イエスの教えから逸脱する偽福音を普及させ、真の聖書福音から遠ざけております。サタンが神に逆らう存在であること、神が愛した被造物である人間を憎んでいること、火の池に投げ込まれて滅ぼされることが定められていること(ヨハネの黙示録二十章十節参照)、自分の時が短いことを知り、怒り狂い、選ばれた者たちを惑わそう(ヨハネの黙示録十二章十二節から十七節参照・マタイによる福音書二十四章二十四節参照)としていることが分かります。人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっており(ヘブライ人への手紙九章二十七節参照)、サタンも当然そのことを知っております。裁きの国語的意味は『正邪・理非の判断をすること。また、その判断。審判。裁断。(引用:スーパー大辞林)』で、神の裁きにおいても同様です。レビ記十章十節にあるように聖と汚れの区別があり、その基準は律法にあります。このことから、サタンにとっては、如何に人間に真の聖書福音を知られないで生きるようにさせ、知っていてもそれを守るのを困難な状況にさせることが全てです。先の『正義(δικαιοσύνη)』の言葉にあるように「神が罪を赦す」状態にさせないこと(不正義)です。見ようによっては、よくぞここまで真理を知られないように偽りを世に据え、堕落した世を作ったことかと逆に感心させられます。ある意味においてサタンも必死です。それに対して人々はどうでしょうか。あまりにも無防備ではないでしょうか。

 

引用:https://twitter.com/aqua3687/status/1687269651007582208?s=20

 

 

上記は戦時の同調圧力について手前が投稿した内容です。本文に『「歴史は繰り返す」の言葉は知っていても、長期的かつ巨視的に物事を考えられなければ、知らないも同然です。そのようであっては権力者に出し抜かれ、されるがままです。今からでも、政府や世を牛耳る権力者の悪に抵抗するべきです。』と書きました。やはり過去の出来事が今の自分の身にも起こるのだと現実的に我が事として想像する力はとても重要だと思います。それは聖書を見る上でも同様です。「昔、そんなことがあったんだね。古代イスラエルの民は何で同じ失敗ばかりを繰り返すのか。何をやっているのだろう。」と他人事に見ていたのでは自分もまた同じ過ちを繰り返すことになります。

 

旧約の時代に人々に都合の悪いことを言わない偽預言者がおりました(エレミヤ書十四章十三節から十四節参照)。その一方で真実を告げる預言者エレミヤは世に嫌われ迫害を受けました(エレミヤ書三十七章十八節等参照)。主イエスが受肉された時代、ユダヤで地位が高かったのは律法学者ですが、彼らは律法遵守を説きながら自らは守らず、心の中は汚れに満ちており、それを弾劾した主イエスを何度も殺害しようとしました(マタイによる福音書二十三章等参照)。律法を知っているはずの民の国にあってさえ世の権威は腐敗しており、ましてや神の律法などの聖書真理が基軸に据えられていない今の世にあってはどれほど腐敗していることでしょう。

 

キリスト者(キリストの教えに留まる者)は、何を以って「キリストの教えに留まっている」と判断できるでしょうか。単純なことですが主イエスが言われた「神の掟を守る」ことです(マタイによる福音書五章十九節・ヨハネによる福音書十五章十節等参照)。我々は今、こうしてこの世で生を受けて生きているのですから、各位のこの世の生活(生き方・過ごし方等)を通して、神の律法・掟・戒め(主イエスとの新しい契約の範囲で守るべき律法、新しい掟や旧約の様々な戒め等)を守ることによって、キリストの教えに留まっていると判断できます。この定義付けを間違えてはなりません。「主イエスを信じたから救われる」と勘違いして、「主よ、主よ」と虚しく言った所で、行いが伴わなければ主イエスから知らないと言われて、神の王国に決して入ることができません(マタイによる福音書七章二十三節参照)。自らに問うて下さい。今、この時、神に従えている(適法)かどうか。安息日より仕事を優先していないでしょうか。悪い思いを抱いていないでしょうか。世に属して世の悪に従っていないでしょうか。一時的に頑張った所で意味をなしません。常時、長期的な姿勢が問われます。それは、行いの根幹たる内面が悔い改められて、変革できていることが求められます。この世の試験であれば一夜漬けが通じて誤魔化せるかもしれません。しかし、神の試験はそうではありません。神は心を見通し、自分の話したつまらない言葉についても全て裁きの日には責任を問われる(マタイによる福音書十二章三十六節参照)御方です。自分の在り方(性質)、悔い改めの実、その過程がそのまま大事です。改善にも時間がかかるため早く改めて、より良く改めて、良き状態が継続して(性質が改まる)いなければ意味がありません。ミカエル氏は真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」にて『機会をみすみす逃したり、主イエスから求められてる「完全な者」という高い基準に成長しようと努力することを怠ったり、真の聖書福音を拒絶することはすべてその者どもの落ち度であり、「自分は納得していない」等と言い訳をしても無駄で、永遠の破滅という刑罰を免れへん。自主的に聞き従わぬ者は、その拒絶行為、不作為故に滅びる。これを聞いたからとて、無理して来なくても結構。そないな後ろ向きな理由や邪な動機でキリスト者を自称してても、どうせ長く続かへんやろから。にわか信者は、所詮利益信仰であり、にわか(一時的)で終わる。』と言われております。だから、本気で悔い改めようと思い、神に向かうその気持ちは宝のようであり、良心の声に従うことも同様です。

 

繰り返しになりますが、各位のこの世の生活(生き方・過ごし方等)を通して、神の律法・掟・戒め(主イエスとの新しい契約の範囲で守るべき律法、新しい掟や旧約の様々な戒め等)を守ることが重要です。そのためには世の動向に疎くても駄目です。我等は悪い者が支配するこの世に生きているため(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)、社会生活上の生命や人権等を護るためにも、また、神の律法・掟・戒めを守るための環境を保持するためにも、人々が生き辛いように、信仰においても頓挫するように世に対して画策するサタンの動きを警戒しなければなりません。これらを悪化させようとする動きに最大限に抵抗しなければなりません。公民として、神の民としての両面にとって重要です。聖書真理を隠し、世の常識(地球球体説、進化論、科学信仰、政府信仰、太陽暦、西洋化等)という偽りを人々の思考の中心に据えていることからも、この世の権威が正しいという根拠などなく、それらを盲信することは宗教です。世に伏することになり、偶像崇拝等の罪を犯す危険があります。ミカエル氏が『今、これまでの経験はすべて忘れ去って、拙者が書いたことを聖書や世の動向と照らして考えてみなはれ。拙者は、聖書の真理を宣べ伝えるだけやのうて、この世の誤った情報や教えを正すことをしてる。学校の教科書、新聞、テレビ、雑誌、映画等は、すべて世の教えであって、神の教えではやなく、偽りだらけや。(引用:真の聖書福音と預言「自己紹介(Introduction)」)』と言われている通りです。

 

 

主イエスは世の終わりについて、いちじくの木から学ぶように(マタイによる福音書二十四章三十二節参照)と世の動きを見極めることに言及しております。今は既に艱難時代に突入して世の終わりが近い時期に位置しております(参照:真の聖書福音と預言「支配層に取り込まれるな」)。ヨハネの黙示録には世の終わりに獣から押される「獣の刻印」についての言及があります。神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣キリスト道の箇所をよくよくご参照いただきたいのですが、ここでも言われているように『マイクロチップだけを避ければ安全ではない』ことに留意するべきです。今、目に見えている情勢からすれば個人番号券と電子刺青が物理的な獣の刻印となることが考えられます。その上で、『獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印』であることにも留意するべきです。物理的に押されるだけが刻印であれば、世の真相に気付いた不信仰者であっても忌避することでしょう。しかし、神に従うのか、サタンに惑わされた人間に従うのかが明確に分かれるのが大艱難期であり、物理的刻印を忌避した不信仰者が神に認められるかとなれば絶対に否です。不信仰の末路は第二の死です(ヨハネの黙示録二十一章八節参照 )。律法違犯がある状態と、罪を犯す品性で神と永遠に過ごすようになることは考えられません。また、獣はローマ教皇であり、『カトリックはローマ教皇を頂点とする組織であり、イエズス会はローマ教皇至上権を世界中に行き渡らせる実行部隊や。米国もカトリックやイエズス会に籠絡され、世界中を侵略及び内部から征服し、いずれ世界を統一してローマ教皇に世界を統治する権威を与えるであろう。(引用:キリスト道)』という存在で、その動向を警戒するべきです。

 

 

今はまだ大丈夫と高を括るのは間違いです。『ローマ教皇の秩序や各国の定める法律等に従う人間は、獣の刻印を押されます』の通り、世の制度が関係するからです。その一つとして、現在、世に当然のように普及している太陽暦は過去のローマ教皇の名がついたグレゴリオ暦(太陽暦)で、既に世は獣の影響下にあります。週の第一日の日曜日を週末とし、休日とするのは太陽神崇拝をしていた古代ローマ帝国とローマカトリック由来の考えです。カトリックやプロテスタントも「日曜礼拝」を特別視しており、彼らは反キリスト行為を行なっております。獣(ローマ教皇)はやがて新世界秩序の上に君臨します。それを踏まえて、今、既に行われ、築かれつつある世の仕組み・体制も含めて警戒するべきです。それらは既に獣の支配下にあります。

分かりやすい所で言えば新型コロナウイルスのmRNAワクチンです。『こちら(BitChute)のとおり、拙者が黙示録の獣とブログで論証したローマ教皇は、この極悪ワクチンを「愛の行為」として正当化し、促進してる…。おぞましい。せやから、mRNAは安全と言う人、問題無いと言う人は全員嘘つきであり、神に反逆する反キリストである。』とキリスト道でも言われている通り、ローマ教皇が推奨するからには理由があります。当然、悪しき意図です。神が作られた遺伝子を変えることは神への反逆です。また、医療機関も世の権威を盲信してコロナ犯罪に加担しており、挙句にはワクチン接種やコロナ病床等の補助金で利益を上げた所も多いようです。

 

引用:https://twitter.com/yukinanntekirai/status/1655229831850893313?s=20

 

他にも超監視管理社会の道具として用いられるであろう個人番号券には反対あるのみです。(獣の刻印がなければ)買うことも売ることもできなくなる(ヨハネの黙示録十三章十七節参照)仕組みの基盤として個人番号券制度が使われる可能性があります。医療保険証との一体化、預金口座との関連付けなど、徐々にその実態を露わにしております。個人情報が漏洩し、取得を強制される違憲な制度は無効とされるべきです。

 

 

上の図のように返納の動きに対して、政府を盲信する者は見当違いなことを言います。ここで『偽計業務妨害』と言っておりますが、こちら(弁護士法人 デイライト法律事務所)によると『偽計とは、人の勘違いや知らないことを利用したり、人を騙したりすること』とありますが、返納を勧めることのどこか偽計に当たるのか事実無根です。個人情報が漏洩したり、預金資産を行政に把握される事実があり、憲法十三条の私事権を侵害して有害であり、有害な制度故に有害さを周知して被害を最小限に抑えるために返納を勧めるのは当然です。個人番号券が無いとまともに働けないことを問題視もせずにいることも甚だ不可思議です。まるで政府の太鼓持ち( 人にへつらい、機嫌を取るのに懸命な者の意味「引用:スーパー大辞林」)かのようです。ヨハネの黙示録十四章九節に「その獣とその像を崇拝し、額または手にその刻印を受けるなら(参照)」という一文があります。この中の『崇拝(προσκυνέω)』には「媚びたり、しゃがんだりする」、比喩的に「敬意を表してひれ伏す」「崇拝する」の意味があるようです。「へつらう」となるのか「敬意を表してひれ伏す」のかは、その人の心の内とその対象によると思います。真の神を畏れ心から愛するなら本当の意味で「崇拝」と言えますが、世の権威であるならば「へつらう」であり「敬意を表してひれ伏す」に値せず、ただの「偶像崇拝」です。

 

引用:https://twitter.com/k74ntmig/status/1685180910650683392?s=20

 

また、上記の者は自称キリスト者のようですが『ワクチン、シェディング、ケムトレイル、5G、アドレノクロム、聖書のどこに書いてあるか知らんけど』と愚かなことを言っております。過去記事でも似たような発言をする者について触れたことがありますが、聖書に細々としたことがなぜ書かれていると考えるのでしょうか。少なくとも支配層は聖書に具体的に書かれたら、知られないために別な手段を取るでしょう。真の聖書福音と預言『黙示録十八章から分かる薬の危険性 前編』にて、『灯火の明かりもお前の中にはもはや決して輝かされへん。花婿や花嫁の声もお前の中には決して聞かれへん。なぜなら、お前の商人たちが地の権力者であったからであり、また、お前の魔術によってあらゆる国民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、そこで見出だされたからや。(ヨハネの黙示録 十八章二十三節から二十四節:記事より引用)』の聖句より、この中の地の権力者である『商人』が『大規模な海外取引商業を営む会社または商人(現代で言えば大企業、その経営者や会社の所有者たる大株主のこと)』を指し、更には『狂人』の意味もあることから大製薬会社のみならず世界を牛耳る大企業がそれに該当すると分かります。記事中にあるようにまさに『気違いの商人たち』です。そして、真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」にあるように薬は魔術であり、魔術師は地獄行きです(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)。ワクチンもさることながら、特に安易に「医者にかかる」ことが常識とされる中にあっては無自覚にこの罪に陥っている方が多いと思われます。

 

その他の事柄についても以下を参考にするべきです。

主イエスの終末預言は、「ノアの時代に起こったのと同じように、人の子の時もまたそのようであろう。」(ルカ十七章二十六節拙訳)とあるとおり、ノアの時代と同程度の堕落具合で、この地に住む人間たちが神の律法を無視して不法がはびこり、暴虐に満ちてることになる。今はその兆しがあるであろう。おもに、ならず者の欧州の白人たちが造った米国を中心として世界中の人々が調子に乗って神に逆らい、嘘をついて悪行を繰り返し、コロナワクチンによって人間の遺伝子組み換えまでも手を出すようになり、創世記六章にある時代と似たような過ちを繰り返してる。英米だけでなく、世界中で多くの人々が聖書を無視し、主イエス・キリストを無視し、神の律法、掟、戒めを無視し、罪を犯し続けて何とも思わへん状態にある。そして、支配層をはじめ各国政府、報道機関、大企業、警察等が嘘をつき、犯罪や暴虐の限りを尽くしてるが、益々悪化するであろう。奴らの傀儡の国連等の国際機関、各国政府、報道機関、大企業、医療機関、学校機関等をすべてを手中に収め、世界統一へと邁進し、報道機関や学校機関での大衆洗脳を実行し、ケムトレイルで空から重金属を撒いて大衆に呼吸によって吸わせたり、神経毒のフッ素を水道水に混ぜて大衆の体を弱らせて思考停止や抵抗するのに無気力にさせ、挙句はコロナワクチンで人々の遺伝子組み換えし、ナノボットやハイドロジェルを入れ、5Gや6Gといった強力な電磁波通信網に繋げて完全なる監視管理下に置こうとしてる。こないな悪行をする時代やさかい、獣の刻印を受けな売買等が出来へんようになる大艱難がこのコロナ茶番からのワクチン接種とその後に来る電子刺青を身分証明書として使たり、電子暗号通貨決済の媒体とする日が来るであろう。加えて、天変地異等の災害も戦争も起こるであろう。このように、この世の滅亡はノアの時代のように着々と近付いてる。

 

引用:真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 後編」

これらから十分に地が暴虐に満ちている(創世記六章十一節参照)ことが分かるはずです。

真相を無視することは肉体的・社会的に被害を受けることに繋がります。聖書から世の動向を読み解かなければ安易に世の悪に伏することになりかねず、獣の刻印の押印の条件を満たしてしまいます。聖書の言葉と世の動きを見極め、この状況下で神に従い通すために、どんな必要条件を満たさないといけないかをキリスト者はよく考えるべきです。

 

また、個人的にはここで聖書研究の重要性をひしひしと感じます。聖書研究をすることで神の言葉の一つ一つから字面以上の気付きが得られます。自ら実感して、見出だす過程を経験することで神の言葉に確信が持てます。もちろん、全てを自分で調べることは非常に厳しいです。しかし、ミカエル氏の優れた知見によって、聖書研究の成果をネットで無料で公開してもらっており、誰でもその恩恵にあずかることが出来ます。この貴重さをよくよく理解するべきです。聖書には死後の永遠を決める重要な事柄がたくさん書かれており、ただ漫然と受け取っただけでは体現出来ません。もし裁きの日にその重要性を初めて知ったのならば、全てを投げ打ってでも聖書研究に、神への従順に全てを費やすべきだったときっと後悔することでしょう。

 

キリスト者を自認する者も、信仰に導かれようとしている者も、不信仰者も、今、自分の振る舞いは、誰に、何を献げているかを自覚するべきです。神に従うか、悪(世)に従うかの二種類しかありません。中途半端は不信仰と同じです。

・この3年間で日本の大人たちがやってきたこととは、「公の精神で子どもの命(時間)を奪う」ということでした。

・当然、彼らは自らの行動に責任など生じないと考えており、社会に多大な影響力を以て広報していても、「仕事だから」「上の指示に従っただけだから」の免罪符で責任を回避していると思い込んでいます。

・責務とは「責任と義務。また、果たさなければならない務め」とあります。

彼らの無責任から、コロナワクチンで接種者が得られたものとは、

 

・不健康な体

・人生

・不安

・やりばのない怒り

・体調不良

 

接種することにメリットなどあったのでしょうか?

 

引用:知識と実践と真実と〜知行合一〜

上記の著者は信仰は無いようですが、コロナ犯罪下においての世の人々の振る舞いをよく理解されていてると見受けます。そして、上記の構図は真理においても同様です。自称キリスト者の行っていることは、半端に世の悪について言及しても大枠では不信仰者と同じように世の偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋化、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を信じ、挙句にはこちら(ツイッター)のように旧約聖書の御父・預言者等の言葉、新約聖書の主イエス・直使徒等の言葉に反する、偽使徒パウロの律法廃止論を主張する者が大勢を占めております。彼らはおそらく、裁きの日に「そのように世の諸教会で教わったから」と責任を回避するかもしれません。しかし、御父・主イエスの言葉と彼らの主張を見比べれば矛盾だらけであることに直ぐに気付くはずで、検証もせず、矛盾を認識せず、矛盾を放置した結果として得られるのは、主イエスからの「不法を働く者どものことは知らない、出て行け(マタイによる福音書七章二十三節参照)」の言葉だけです。自分だけが滅ぶだけならまだしも、偽福音を吹聴したことで、それを信じて同じように滅ぶ大勢がいることも忘れてはなりません。真のキリスト者であるならば、この世の偽りを弾劾しつつ、真の聖書福音を宣べ伝えるべきです。

自分が一番言いたいことは「ウイルスは存在しないことを何故共有しないのか?」ここにつきます。

今回の「実験的mRNAワクチン」擬が、危険だという医療関係者は目につくようになりましたが、ウイルスそのものが存在証明も無く、純粋分離し、ゲノム解析した人も存在しない。

そこが一番の原点なので、そこを正確な事実確認もせずに物事が雰囲気と症状だけで誤認定して進んで来たのが現状です。

 

だからこんな馬鹿げた圧力によって大事な命が奪われていくんです。

 

引用:あかいひぐま(note)

 

引用:https://twitter.com/nobu_conscience/status/1679317100048048128?s=20

 

mRNAワクチンの危険性については一部週刊誌や一部テレビでも取り扱われるようになりましたがまだまだ少数です。mRNAワクチンの危険性を訴える医師もおりますがまだまだ少数です。何より、mRNAワクチンの危険を訴えても、引用にあるように、ウイルスは存在しないことを共有する医師等がほとんどおりません。これによって医療の大きな欺瞞の一つが解消されるにも拘らずです。キリスト道の本拠にて『「気候変動は巨大産業」、「温暖化に関わる仕事は宗教。賛同せえへんと異端者、異常者扱いされる。」』と気候変動詐欺について言及しておりますが、医療においても同様の構造(ウイルス詐欺)があると思われます。ウイルスが在るとの前提は巨大な利権であり、医師等もそれを真っ向から否定すると自らの食い扶持を失うことを意味するのだと思われます。しかし、上記引用にあるように『こんな馬鹿げた圧力によって大事な命が奪われて』いっております。このように世には偽りがはびこり、これを信じた者は黙示録にある「地の商人」に食い物にされます。また、彼らに従わない者は激しく迫害されております。世における彼らの権威など根拠の無い偽りであり、彼らに従うのではなく真の神に従うべきです。そのためにも、世の権威が偽りであることを人々に伝えて共有しなければなりません。これはコロナ犯罪に限った話ではなく、世の偽り全般に対してであり、聖書にある真の神を知らなければ、全てが欺瞞であると認識し得ないことです。

 

引用:https://www.bitchute.com/video/tcGwCAejybha/

 

 

 

 

また、『真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである』の動画で語られているように、日本は古代イスラエルを受け継ぐ国です。

しかし、英国が裏で糸を引いて、日本国内の朝鮮人脈による国家転覆(明治維新)があり、その時から今に至るまで政府中枢のみならず地方行政に至るまで彼らに乗っ取られ、彼らを介して日本は長らく英米の間接統治下にあります。 悪魔崇拝の英米支配層の目的は古代イスラエルを受け継ぐ日本の破壊であり、不可解と思われるほどの政府の失策(実際には意図的な悪策)は今でも続いております。政策のみならず、服装も、食事も、言葉遣いも、何もかもが西洋かぶれが進められ、古代イスラエルらしさ(真のキリスト者らしさ)を失っております。洋服は異邦人の服装なので、モーセの律法にある房を付けることができません。異国の服を着るすべての者を罰する(ゼファニヤ書一章八節参照)とあるように古代イスラエルの服装に近い和服を着ることが求められ、また、服をは行いに例えられ、悪い行い(律法違犯)をしないことの意味もあります(参照:真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編)。正しい行いができる性質には品性が伴い、また、異邦人の文化である西洋にかぶれず正しい日本語を使い、日本の文化を大切にすることが求められます。これら全てが神の目に適うことです。

 

「世の様々な事柄に対して弾劾しているがどのように整合性が取るのか」といった意見を目にしたことがあります。手前も以前、真理と世の動向がどう繋がるのか、たくさんの世の悪がそれぞれどう関連するのか、理解が追いつかない時がありました。結論的に、より悪い世を作ることに、より神の律法に違犯させることに、第二の死に向かわせることに、全てが繋がっております。この世を支配する悪しき者(悪魔と悪魔崇拝者の支配層)は、彼らが理想とする超監視管理社会(新世界秩序)を構築しようとしており、管理しやすいように人口削減をしております。それは暗黒社会であり、従わなければ(獣の刻印を押される)殺される社会です。また、中でも古代イスラエルを受け継ぐ日本を英米支配層は敵視しており、明治維新から今に至るまで徹底的に日本らしさを破壊している実態があります。この悪の世も主イエスの来臨と共に全ての悪が滅ぼされますが、重要なのは死後の永遠であり、世の悪に屈したことで第二の死が臨みます。より多くを滅ぼすことが悪魔の狙いです。何によって世の悪に屈したことになるか、聖書を通読してその定義を各々がしっかりと見出だすべきです。

 

我等の試しの舞台がこの地上の生涯であることを考えると、悪魔が支配者となっているこの世の動きを、聖書に依拠して見分けるのは当然のことです。真理を知れば、世の権威が、神から人間を引き離す画策しかしていないことがわかると思います。

 

 結び

 

キリスト者の備えの第一段階は、キリスト者の始まりでもあり基本中の基本ですが、神を畏れて真の知識を持つことです。根本的な真理(三位一体の神、天地創造と終わりの裁き、神の律法・掟・戒め、悪魔等)を知り、それによって偽りの世の欺瞞を認識することです。この地上の生涯は神に従うか、悪魔に従うかの二者択一の結果しかない戦いです。この前提に立ち、武装して悪魔を退け、神に従い通すことです。特に、今は世の終わりに差し掛かり、ヨハネの黙示録にあるように悪魔及び悪魔崇拝者らの攻撃は熾烈を極めます。

 

アモス書四章十二節(私訳)

それ故に、イスラエルよ、結果、我はお前にこのようにする。我はお前にこのようにするからである。お前の神に会うために準備せよ、イスラエル。

 

『このようにする』とは、神への不従順のために民に神からの災いが臨むことです(アモス書四章六節から十一節参照)。だから、神を求めて生きるように(アモス書五章四節、六節参照)と後節に書かれております。また、『הִכּוֹן(準備せよ)』の原語には「完全に真っ直ぐ」「誠実」「忠実」「信心深さ」の意味もあり、言葉自体が言わんとすることを雄弁に語っております。

 

アモス書五章十四節から十五節(私訳)  

お前たちは、悪ではなく善を求めよ。お前たちが生きるために。そのために、お前たちが言ったように、軍勢の神である主がお前たちと共に居てくださるように。悪を憎め、善を愛せよ。門で正義を確立せよ。おそらく軍勢の神である主がヨセフの残りの者を憐んでくださるだろう。

 

また、上記のように「悪ではなく善を求めよ」「悪を憎め、善を愛せよ」もまた、『準備せよ』に含まれ得る事柄だと思います。

 

先に挙げたペトロの手紙一 四章一節にある『あんた方もまた同じ考えを準備しなはれ』の中の『準備(ὁπλίζω)』には「備え」「準備」「武装」の意味がありました。それは最終的に主イエスに倣い、罪に打ち勝ち、命の栄冠に至るためです。そして、アモス書四章十二節でも「お前の神と会うために準備せよ」と言われて、完全に真っ直ぐであることを求めておられます。聖書はこのように一準備することについて教えております。

 

全ての人が招かれ、救われるわけではありません。だから聞く耳のある者に届くことを切に願います。聖書に書かれている預言は必ず実現します。だから、キリスト者として準備(必ず起こることや必要なことに対して用意する)をしていきましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

前回記事で世の権威が宗教と化していることや真のキリスト者は地の塩として、光(真理)で闇を照らすべきであることをお伝えしました。今回はその流れを踏まえて「目は澄んでいるか」と題して、在るべきキリスト者の姿について更に考察していきます。

 

 

 目は澄んでいるか

 

「目が澄んでいる」ことについて、以下の福音書の箇所で主イエスが言及されております。

 

マタイによる福音書六章二十二節から二十三節(私訳)

体の灯火は目である。それ故、もしお前の目が澄んでいるならお前の体全体は輝いているだろう。しかし、もしお前の目が悪ければ、お前の体全体は暗いだろう。それ故、もしお前の中の火が暗ければ、どれほど暗いだろうか。

 

ルカによる福音書十一章三十四節から三十六節(私訳)

体の灯火は目である。それ故、お前の目が澄んでいるならお前の体全体もまた輝いている。しかし、目が悪いならばお前の体もまた暗い。それ故、お前の中の火が暗くならないように注意せよ。もし、それゆえお前の体全体が明るく、これに少しも暗い所が無ければ、灯火の輝きがお前を照らす時のように体全体が輝くようになる。 

 

ことわざでも「目は口ほどに物を言う」と言います。その意味は『情のこもった目つきは、言葉にするのと同じくらい、相手に気持ちが伝わるものだということ。』であり『人間が喜怒哀楽の感情を最も顕著に表すのが目だということから、何もしゃべらなくとも目つきから相手の感情がわかるものだということ。また、言葉で偽りごまかしていても、目を見ればその真偽がわかるということ。(引用:故事ことわざ辞典』を指します。ちなみに、こちら(えいごーず)によると、「目は口ほどに物を言う」に相当する英語のことわざが四種類あるそうで、おおよそ似たような意味合いです。関連して、こちら(FUNDO)によると、日本人は目で表情を伝え、欧米人は口で伝える傾向があるとする研究があるそうです。そのためスマホの顔文字でも日本人と欧米人とでは違いがあるそうです。また、こちら(AERA dot.)では、『欧米人は口元から、東アジア人では目元から、より強く表情を表出することがわかった』とあります。『平安時代の日本女性は、扇子で顔を隠していたこともありました。』とあり、現代でも口を大きく開けて笑うよりも口元を隠しながら控えめに笑うのが品が良いとされます。また、対面上、サングラスが忌避されることにも触れており、確かに目を重視する文化なのだと手前も思いました。更に、目を用いたことわざも非常に多く(参照:ことわざ辞典)「目から鱗」「目を覚ます」などは頻繁に使われると思いますが単に視覚では無く、心の動きを表していることも印象深いです。

そして、『澄んでいる(ἁπλοῦς)』の原語を確認すると「単純」「単一」の意味が見受けられます。欽定版聖書では「single」の言葉が用いられております。「澄んでいる」が何故「単純」の意味なのか、最初は些か面食らいました。しかし、よく確認すると「何も複雑さや混乱が無い」「折り目無し」と言った意味があり、「真っ直ぐ」であることや「矛盾が無い」といった意味合いとして捉えられるのではないかと考えました。実際、比喩的な意味で「澄み切った」「明白な」との意味もあり、やはり日本語訳聖書の通りに「澄んでいる」として間違いでは無いのだと分かりました。故に、目が澄んでいるとは「真っ直ぐ」な神の真理の内にあることだと思います。真っ直ぐな神の真理は、偽りと異なり矛盾もなく、複雑さも混乱もありません。目が澄んでおれば全身は明るく、それは内側に光があると言われている通りだと思います。

 

内側にある光(灯火)について、手前が教わった内容を踏まえて説明致します。聖霊が火と同じように看做される箇所が聖書内にあります。例えば炎のような舌が各位の上に留まった(使徒言行録二章三節参照)は聖霊を想起させます。また、洗礼者ヨハネは主イエスに対して「聖霊と火」で洗礼をお授けになる(マタイによる福音書三章十一節及びルカによる福音書三章十六節参照)、マルコによる福音書一章八節及びヨハネによる福音書一章三十三節では「聖霊」で洗礼をお授けになると書かれており、幾らかのばらつきがあったとしても聖霊が火に例えられており、同一と看做せると思います。他にも、「霊の火を消してはならない(テサロニケの信徒への手紙一 五章十九節参照)」ともあります。この箇所は、新共同訳では「霊の火」ですが口語訳や新改訳では「霊を消してはならない」と書いてあります。ここでの「消す」に相当する原語(σβέννυμι)には「(火・光を)消す」の意味があるので、新共同訳通りに「火を消す」と捉えられると思います。そして、先に挙げたマタイによる福音書六章二十二節から二十三節やルカによる福音書十一章三十四節から三十六節の文意においても齟齬は無いと思います。聖霊は、神を愛して、神の掟を守る者に与えられるのであり(ヨハネによる福音書十四章十五節参照)、信仰心とそれに伴う言行が求められます。火が消えているのであれば由々しき事態であり、神への愛が弱まっている状態であると思います。そんな状態とは、おそらく神以外のものを優先している状態であり、肉の欲、世俗の事柄に心を奪われている時(場合)が考えられます。そのような心持ちは目に現れるとも受け取られると思います。

 

ここまで日本人は目で表情を伝え、欧米人は口で伝える傾向があるとする研究があること、目にまつわることわざや聖句を紹介してきました。個人的には目にまつわる聖句を自然なこととして違和感なく受け止めてきましたが、文化背景が異なれば必ずしもそのようには受け取らない可能性があります。そのように考えると聖書と日本の文化は決して遠くは無いのだと感じます。そして、実際に我々の日常の中には聖書に関係するものが沢山あります。例えば、こちら(ツイッター)やこちら(ツイッター)のようにです。他にもたくさんの情報があるのでご自身で調べて確認することを勧めます。また、日ユ同祖論という偽りもありますが、日本こそ古代イスラエルの流れを受け継ぐ真正イスラエルであって、中東のイスラエルは偽ユダヤでしかありません。だから日本人は自らの起源を知り、聖書に立ち返るべきです。こちらについてはミカエル氏が『動画八回目投稿 日本はイスラエルである』の記事を更新され、『【第八回】日本はイスラエルである』の動画も新たに公開してくださいました。既に過去記事で日本と古代イスラエルの繋がりについて説明済みの内容を改めて動画で分かり易く学ぶことが出来ます。この中でされている神社の作りは律法の幕屋と瓜二つであり、日本以外にこのような伝統を持つ国が無いとの指摘は非常に説得力があります。

 

 

引用:【第八回】日本はイスラエルである

 

ところで、最新版の動画においても『多数派は世の権威の言うことが正しいと信じるが、それこそ根拠や証拠が無いし、嘘でもほんまやと信じる人が多くその現実社会こそカルト宗教や』と世の権威の宗教であることについて言われております。この自覚を持って世の中を眺めると世の権威は矛盾だらけで混乱をきたすものが多いことがよく分かります。

 

 

上記のツイッターの言葉にある『あるものとして対応いたしている状況でございます』の言葉を聞くと、この社会はこんな不確かなもの(偽物)によって回されていたのかと思うと腹が立つやら情けないやらの思います。真実・真理は一つ(ἁπλοῦς・single)のはずですが、偽りによって、どこまでも交わらない平行した世界が展開しております。

「裸の王様」という童話があります。「批判や反対を受け付けないため、本当の自分がわかっていない権力者」を描いている話です。世の現実は、支配層が強固な偽りの物語を打ち立て、真実の指摘や批判等を抹殺し、疑うこと自体を許さない状況を作り、この世の全体が本当のことを見失っております。現実には、「裸の王様」とは逆に、民衆(世の大多数)の方が真実を知らされず「裸」の状態にさせられており、実に異常な状態です。そして、「裸の王様」の話の中の「本当は存在しない布を、存在するように見せかけている」とは支配層が用いる嘘が重なって見えてなりません。また、王様の家来は「大変すばらしい布でした」と嘘をつき、町の人々も嘘を信じないと莫迦と思われるのを嫌って見えない服を褒め、ようやく一人の子供が「王様は裸だ」と本当のことを言いました。主イエスが『天と地の主なる父よ、我は貴方に感謝します。学識のある者や賢い者からこれらを隠し、これらを幼子に現したからです。(マタイによる福音書十一章二十五節:私訳)』と言われたように、「裸の王様」の話においても、余計な世の知識に染まっていない子供だけが事実をありのまま見ることが出来ました。大人は差し障りを覚えて、本当のことを言いませんでした。地の塩、世の光としてのキリスト者は真理で偽りを見分け、且つ、闇を露わにする必要があります。それには勇気が必要です。ミカエル氏の動画の『今回の動画の要点。』の項目にもあるように『世の権威がおかしいなら、それに盲従する庶民もおかしい。』『嫌われることを恐れるな。心にも無い嘘をつくな。取り繕って逃げるな。』と言われており、主イエスは『臆病者は地獄行き(黙示録二十一章八節参照)』と警告されております。

 

ヨハネによる福音書十二章四十二節から四十三節(私訳)

しかし、それにも拘らず議員の中の多くがイエスについて信じた。ところが、ファリサイ派の人々の故に除名されないようにと公言しなかった。彼らは神の誉れよりもむしろ人々の誉れを愛したからである。

 

神の正しさの表明を臆病になって控えるようでは宜しくありません。そのようであっては、やがて自らの命や保身のために神を売るようになるでしょう。神を知りながら背くのは殊更に罪深く、真理を知りながら、なぜ知らないかのように振る舞えましょうか。上記の聖句にある議員の姿について、当の彼らは遠い後世に自らの臆病さがこのように知られるとは夢にも思わなかったでしょう。彼らの言い分(言い訳)を聞けば幾らでも出てくるかもしれません。しかしながら、上記聖句の文末にあるように人間の誉れを選んだことは取り消しようが有りません。手前も含め、全ての人々の振る舞いが記録の書(マラキ書三章十六節参照)にこのように記されているかもしれないと想像してみると、他者の状況から自らの言行を正さなければならないと教訓として受け取られるのではないでしょうか。

 

ヨハネによる福音書十六章三十三節(私訳)

我によってお前たちが安らぎを得るためにこれらをお前たちに話した。お前たちは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。我は世に勝利した。

 

ここでの『世(κόσμον)』には「不敬虔な群衆」の意味もあります。真理を知らない大多数は神から遠ざかっており、真理(神の義)を知らず、尊重しない故に、自覚・無自覚を問わず真理を踏みにじり、敵対します。もし、彼らが真理を知っていたら従っていたでしょうか。真理に従うとは悪の世で悪に染まった生き方を捨てることに他ならず、簡単なことではありません。信仰の始まりである、神のお招きにあずかるかどうかということを差し置いたとしても、世を捨てること、自分を捨てることが容易ではないことは自分自身を振り返っても、周囲の人々を見てもそう思います。過去記事で手前自身の信仰の入り口の証しを何度かして来ましたが、少し切り口を変えて再度語ります。手前が信仰を持ったことのきっかけを一言で言うと『心の貧しさ』の故と言えます。貧しさとは、『1 財産や金銭がとぼしく、生活が苦しい。貧乏である。2 量・質ともに劣っている。粗末である。貧弱である。乏しい。3 満たされていない。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』です。主には「3」の意味にある「満たされていない」心の状態にあったことが真理を見出だすに至ったきっかけです。身体的健康に恵まれなかったことを契機に自分の存在に疑問を持ち、生の意味を問うことが手前の人生の主題でした。若かりし日は不健康を恨めしく思ったことがありましたが、今となっては神を見出だすに至った大きなきっかけになったことから感謝すらしております。また、このこと自体は今の自分の生き方には全く影響を及ぼしていないと言って良いくらいに、取るに足らないこととなりました。それよりはむしろ「あらゆる社会的成功のためには身体的不健康は不利でしか無く、自分の将来は暗く絶望的である」という誤った考えに囚われ、不必要に絶望していたことの方が大問題でした。真理を知らず、世の偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、洋服、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を信じて生きて来たことがそもそもの躓き(害)の始まりでした。「欠けがある自分」を挽回するために、世の偽りを全てと信じて(偶像崇拝)、仕事に生きて、自分の存在に価値をもたらすことが全てと思い定めて邁進しました。それが正しいことだと本気で思っておりました。社会的に少しばかり成果を出せるようになって、短期的に喜ぶことはあっても、長期的には虚しさが却って募り苦しくなりました。「ある程度に胸を張っていられる社会的地位に就き、欠けのあった自分に価値をもたらすべく挽回して充実したはずなのに、あまり嬉しくない。何かが違う。」という状況が起きておりました。どこで何を間違えたのかはその時には気付いておりませんでしたが、この心の渇きは真理に立ち返るためには必要なことでした。『誰でもこの水を飲む者は渇く(ヨハネによる福音書四章十三節参照)』と主イエスは言われましたが、真理に拠らない世の事柄で満たそうとしても、どうやっても満たされません。人々の中には、世に染まって全く平気で疑問を感じない世に属する人々がいるのは確かです。しかし、手前はそのようにはどうしても思えませんでした。手前は神に招かれたのだと思っております。神に招かれた人は世に属した生き方には違和感しか無いはずです。神に招かれる状況は人によって千差万別だと思います。手前のように行き詰まりを経験した者もおれば、そうではない者もいるはずです。いろんな入り方があっても、大事なのは、聖書を自分で読んで真理であると信じられるかどうかです。真理を信じて受け入れることが出来れば、それによって魂は安らぎを得ることができます。但し、招かれたからとて「選ばれたかどうか」「真に救われたか」は別問題です。最期まで神に従い通せるか否かに懸かっております。このこともまた忘れてはなりません。

 

先に『心の貧しさ』について言及しましたが福音書に『心の貧しさ』と言及された箇所があります。マタイによる福音書五章三節(私訳)『心の貧しい者たちは幸いである。各天の王国は彼らのものだからである。』の箇所です。個人的に、不思議な表現をしている箇所だとずっと思っておりました。「心が貧しい」とは何を指すのだろうか、それがなぜ幸いなのかと疑問でなりませんでした。上記の『心(πνεῦμα)』を意味する原語を確認すると、主たる意味が「聖霊」でもあり「心」の意味があります。また、先にも挙げた『誰でもこの水を飲む者は渇く(ヨハネによる福音書四章十三節参照)』の『水(ὕδωρ)』の原語は実際の「水」と比喩的な意味での「水」の意味があります。翌節で主イエスは「主が与える水を飲む者は決して乾くことなく、自らの内に永遠の命に至る水が湧き出る井戸となる(ヨハネによる福音書四章十三節参照))」と言われております。ここでの「水」は魂を元気づけ、生かし続けるものであり、即ち、聖霊だと思います。そして、『貧しい(πτωχός)』は言葉通りに「貧しい」(他には「無力にする」)の意味があります。自らの証し(経験)も踏まえて、これらの言葉の意味を考えてみると、「心が貧しい」とは聖霊がまだ与えられておらず「真理を知らない状態」です。また、「(世において)心が満たされず渇望している」状態でもあると思います。世に属して、富貴(金持ちで、かつ地位や身分が高いこと「出典:デジタル大辞泉(小学館)」)であることに満足して、真理を知らないままで生きて、果てには地獄行きになるくらいならば、心が貧しい方が幸いなのはその通りだと思います。そして、実際に金持ちは天の国に入るのは難しい(マタイによる福音書十九章二十三節参照)と書いてある通りです。よって、心が貧しいとは、まだ聖霊が与えられていない状態であり、素晴らしき神の知識によってもまだ心が満たされない、世の事柄でも満たすことが出来得ない状態ではないかと考えました。

ちなみに、ルカによる福音書六章二十節(私訳)『イエスは弟子たちにその目を上げて言われた。「貧しい者たちは幸いである。神の王国はお前たちのものだからである。」』では、肝心の『心』の箇所が欠落しておりました。『心(πνεῦμα)』の意味する内容を考えると欠落してはならない言葉だと思います。

 

「(心が)貧しい」の言葉に着目して、旧約聖書の原語(古代ヘブライ語)を眺めると、貧しいの原語はおよそ十種類弱の単語が使われております。その中の一つの『עָנָו(貧しい・謙虚)』の原語では「貧しい」以外にも「謙遜」「忠実」「(身分が)低い」といった意味を含んでおりました。貧しいとは必ずしも生活環境的な窮乏だけでなく、心の状態が(高慢では無くて)低い、言うなれば「自我」で満ちていない意味合いではないかと見受けました。幾つか上記原語が用いられた聖句を紹介します。

 

詩編九編十八節(私訳) 確かに、貧しい者は常に忘れられるのでは無い。苦しむ(柔和な)者の望みは永遠に滅ぶのでは無い。

詩編十編十七節(私訳) 主よ、貴方は苦しむ(へりくだる)者たちの望みを聞かれた。彼らの心を真っ直ぐにし、貴方の耳を傾けられる。

詩編二十二編二十六節(私訳) 従順な者たちは食べて満ち足り、主を尋ね求める者たちは主を崇める。お前たちの心が永遠に生きるだろう。

イザヤ書六十一章一節(私訳) 我が主なる神の霊が我が上に在る。(福音を)貧しい(へりくだる)人々に宣べ伝えるために、傷ついた心を覆うために、捕らわれて拘束された者たちに釈放と解放を宣言するために、主が我に油を注いで遣わした。

 

上記の聖句箇所等の『עָנָו(貧しい・謙虚)』は「心が低い」「謙遜」などの内面的に「自我が昂っていない」といった意味合いが強いのが特徴的です。「我はお前の業と苦難と貧困を知ってる。しかし、お前は富んでいる(ヨハネの黙示録二章九節参照)」という箇所もありますが、たとえ物質的には多くは無くても霊的には充足していることを表していると思われ、通じるものがあると思います。実際、この原語には貧しく、弱く、苦しんでいるイスラエル人を表していると共に、柔和な状態となる意味合いが窺えます。

 

ちなみに、いたずらに物質的・環境的に困窮することを推奨するものでは無いことは念のため申し上げておきます。確かに、金持ちは天の国に入るのは難しい(マタイによる福音書十九章二十三節参照)と書いてある通りです。また、金銭を愛することは諸悪の根源であり(テモテへの手紙一 六章十節参照)、欲望を肥大させること無く、持っているもので満足するように(ヘブライ人への手紙十三章五節参照)とも言われており、そもそも神と富を愛することは両立せずどちらかを選ばなければなりません(マタイによる福音書六章二十四節参照)。同時に、生きていくためには衣食住等、不可欠なものがあるのは事実です。それらの必要を満たすことは相反することでは無く、必要な分を充足させることは当然のことです。物質的に困窮して、落ち着いて生活が出来なければ福音伝道もままならなくなります。考え方としては二つのことを押さえるべきです。一つは『だから、お前たちは真っ先に神の国とその義を探し求めなさい。そうすると全てこれらはお前たちに付け加えられるようになる。(マタイによる福音書六章三十三節:私訳)』の言葉の通り、神に従えば食べていかれる環境が与えられるということです。その上で、どのように生計を立てるかを熟慮することです。真の聖書福音と預言「田舎への移動と憲法改悪」にある『何でも神がやってくれるから自分は何もしなくて良いというのは、神に頼っているのではなく、怠け者に過ぎません。行動するのは人間自身であり、故意に行動しないのは怠惰な者です。』との注意にも留意する必要があります。怠惰な者を主は嫌います(箴言六章六節・ヘブライ人への手紙六章十二節等参照)。神の律法を守りながらどのような就労形態が最善か、糧を稼ぎながら如何に神の働きを為すのが最善なのかを考えて行動する必要があります。真の聖書福音と預言「憲法の人権意識を強く持ち、神の秩序を守れ」の記事に中でも言及されておりますが、会社員等で無意味な人間の縛りに遭うよりは自営業(個人事業主)が個人的には好ましいと思います。同時に、そのための技能が求められ、如何にそれらを培い、事業の形として成していくか考え抜くことが求められます。また、富を築く力を与えたのは主である(申命記八章十七節から十八節参照)ことを踏まえて、神が力を与えてくれることにも留意しつつ、不必要に稼ぐでも無く、食っていかれる分だけを稼ぎ、残りは神の働きを為すために自らを用いるという調和が大事です。

 

また、先にも挙げた、富んでいる者が天の国に入るのは難しい(マタイによる福音書十九章二十三節参照)という主イエスの言葉についても言及します。マタイによる福音書十九章十六節から二十二節にある金持ちの青年が、持ち物を売り払って貧しい人に施して、主イエスに従うことを惜しんだことに対する言葉です。多くを所有している者が物を手放すのは容易ではないのでしょう。手前自身、かつての生活(勤め先・社会的地位等)を捨てる時にためらいが完全に無かったわけではありません。例えるなら、武装した状態から完全に無防備になるような心許なさがあったのは事実です。半端に世に属すと余計な葛藤を味わいます。だからこそ思うのですが、最初から世においては持たざる者であった方が幸いかもしれません。余計な葛藤を経験しないのことも大事だと思います。不義のこの世に執着せず、邪で空しい拝金主義に陥らず、神の義と神の国に希望を持ちやすいのではないかと個人的には感じます。 「神は世の貧しい人たちを敢えて選んで下さり、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者としてくださった(ヤコブの手紙二章五節参照)」と書いているのは上記の意味からも相応に理に適っていると思います。ちなみにこちら(セゾンと暮らし大研究)によると『富裕層の定義は明確に定まっていませんが、野村総合研究所の調査では「純金融資産保有額1億円以上5億円未満」の世帯を富裕層としています。』とありました。自分の生活実態と金額の桁が違いすぎて想像もつかないのですが、これだけ所有していたら間違いなく我が世の春を謳歌してしまうでしょう。また、資産管理に相当に気を取られ、飽くことを知らずに増やしていくことに強く関心が向いて、神の律法・掟・戒めを守った生活は出来得ないだろうと思います。また、マタイによる福音書十九章十六節から二十二節にある「財産を売って施す」について真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」のコメント「22」が参考になるのでご覧になって下さい。

 

生計、世の生活に関連して、世の動きについて触れさせていただきます。世界経済討論会(WEF)は二千三十年までに私有財産を廃止すると計画しております。誠に残念ながら、これに至る道筋が見えてきてしまっております。個人番号券が預金口座と関連付けられれば個人資産が国に全て筒抜けで把握されてしまいます。そこに何かしらの資産税を課税されれば更に搾取されます。太陽暦二千二十二年二月にカナダでトラック運転手らによる集団抗議に対して、金融機関がデモに関わった個人や法人の銀行口座を凍結出来るようにされた(参照:日経新聞)ことからも、これが日本でも起きない保証はありません。また、英国では政府に対して正しい意見を持っていないという理由で銀行口座が凍結された(参照:メモ・独り言のblog)という事案があったようです。更には、世界経済討論会(WEF)は欧米諸国政府に対し現金廃止と社会信用得点制度の導入を急ぐよう要求してきました(参照:メモ・独り言のblog)。今、大問題の個人番号券によって、政府に反抗する者は個人資産凍結されるだけでなく、まるで「反社会的勢力」かのような扱いを受けて社会生活それ自体が困難になるでしょう。こちら(メモ・独り言のblog)では世界経済討論会(WEF)が現金を廃止して中央銀行デジタル通貨(CBDC)に一本化させ、しかもそれを「皮膚の下に埋め込む」という恐ろしい計画があるようです。予想通りに政府の政策や中央銀行を批判するような人は利用が難しくなることが示唆されており、従わねば売買も出来ず生活がままならない事態が懸念されます。これらの悪制度の運用の基盤として個人番号券が機能するのだと思います。また、「皮膚の下に埋め込む」についてはマイクロソフトの関連会社が電子刺青の特許を取得しておりそれが実用化されるのだと思います。『獣や獣の像を拝み、そのことで霊的な獣の刻印を受けたらその電子刺青も受け、経済活動が出来るように制限するつもりというのが予想される。それによって、世界の現金を廃止し、あれを電子暗号通貨、世界統一通貨とするつもりでしょう。そのためには世界統一政府というように、各国の主権は無くなってることが前提になるはず。そこまでになるには国という概念も支配層は破壊するであろうし、そのために戦争も起こされるに決まってる。(引用:真の聖書福音と預言「早よ行動せんのなら日本は滅びる」)』という事態が現実のものとなりつつあります。目眩を起こしそうになるくらいの絶望的な暗黒社会です。だからこそ、個人番号券など取得するべきでは無く、この制度に全力で反対するべきで、持っている方は返納するべきです。

 

また、以下の画像にあるように、生きているだけで、生活しているだけでこれだけの税金が取られている実態があります。今でも防衛増税やら子育て支援の財源云々など国はもっともらしいこと言いながら、ひたすら搾取することばかりを考えております。過去最高の税収であるにも拘らず(参照:Yahoo!ニュース)、国民が貧困化していく中で更に増税するのは狂気の沙汰です。この状態を国民が認識し、少数ではなく大勢で国に抗議しなければ彼らにとっては痛くもかゆくもありません。それぞれの置かれた所で出来る限りの抗議をするべきです。不必要に、不当に国に搾取される仕組みは違憲であり廃止するべきです。また、長時間労働をしても僅かしか稼げない悪い労働環境は絶対に改善されなければなりません。この故に、生計を立てるために奴隷のように働かざるを得ず、心身ともに病んでいくだけです。必ずしも富める状態になる必要はありませんが(富むことすら困難だが)、不当な搾取の構造は絶対に容認してはなりません。

 

画像引用:https://twitter.com/shadow11d22a33n/status/1649317715432325120?s=20

 

 

画像引用:https://twitter.com/yun_kujira/status/1605335209859502080?s=20

 

二千年代に行われた労働派遣法の改悪、税制改悪、コロナ犯罪や物価高騰も相まってこちら(note)のように日本は貧困国と化しております。生活環境によっては食べる物や着る物にすら事欠くような、生活の維持それ自体が困難にさせられている状況が起きていると思われます。もはや政府の失策により生存権が侵害されている状態であり、この違憲行為についても政府に立ち向かわねばなりません。繰り返しますがその立ち向かう根拠が日本国憲法(最高法規)であり、これが改悪されたならば一巻の終わりです。

 

 

再度、話を「勇気を持て」に戻します。

真のキリスト者に対する迫害は、神の言葉を伝えた預言者たちや主イエスも受けました。真のキリスト者は世の悪に従わず、染まらず、親しみません。むしろ世の悪を弾劾するが故に世は真のキリスト者を憎みます。旧約の預言者の様を見ているとそれが明らかです。ヨハネによる福音書十五章十九節(私訳)『もしお前たちが世に属していたなら、世は自らのものを愛した。しかし、お前たちは世に属していないのである。確かに、我はお前たちを世から選んだ。それ故、世はお前たちを憎む。』とあるように、世に属す者は世が語る偽りを信じて耽り、滅びに向かう危険や真理を告げられることが不都合で不快に感じるため、激しく嫌って憎むのだと思います。

サタンは、最後は滅びの運命にあることを知っています。サタンは、一緒に永遠に消えることのない火と硫黄の池に投げ込まれて苦しむ人間の仲間を集めているのです。サタンは嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節拙訳)であり、神の真理に似せた教え(聖書の曲解)を流布し、可能なあらゆる手段を用いて人々を騙して仲間に引き入れようとしてます。あんたが、それに巻き込まれへんようにするために、拙者は記事を書いてます。おそらく、拙者は、人々にとって耳の痛い話をしていることでしょう。騙されてとると執拗に言われ、せやけど、あんた自身は絶対に騙されてへんと心を頑なにしとるんやないか。

 

引用:真の聖書福音と預言「巧みな欺瞞と真理」

ミカエル氏は非常にわかりやすい言葉でブログ記事や動画で真の聖書福音を説いております。確かに、悪い世にどっぷりと浸かっている者には耳の痛い話をしていると思いますが、それはサタンの滅びに巻き込まれないようにするためです。手前自身、世俗社会においては、ただ他者と揉めるのを嫌い、融和や優しさという言葉に逃げて、対立を避けて真実を告げずに、「長い物には巻かれよ」と生きてきました。しかし、そのような生き方で何か得たものがあっただろうかと思うと何もありません。あったとしても仮初の平和です。仮初はいつか必ず終わりを迎えます。そして、道理を曲げて生きてきたことに対する後悔の方が大きいです。かつて、仕事において物怖じせずに手前に直言してくれる人が身近におりました。正直、耳の痛い話が多かったです。「何故自分がこんなにも責められないといけないのか」という自己愛の部分と、理性的に考えればその人の言う「耳の痛い話」がとても大事な指摘をしており、それにしっかりと向き合わねばならないという思いとの間で葛藤がありました。その直言はあくまで仕事に関するものでしたが、自分のものの見方や考え方を改める方向へと導いてくれました。ここから学んだことは表面的に「優しい」と感じるような遠慮した生温い言い方では人は変わらないということです。手前は集いを経て教会で学んでおりますが、ミカエル氏の聖書に依拠した指導によって、これまで生きてきた中で一番大きな変化(改め)を起こすことが出来ております(まだまだ途上ですが)。真理という光に照らせば、今の世の中や世の人々の状況があまりに悪すぎ、改めてもらうためにも厳しく言わざるを得ません。中途半端に優しく言ったり、遠回しに言えば、何も伝わらない危険があります。

まず自分が間違っていない、正しいと思い込むことをやめなさい。それは高慢だからです。このように戒められたくない、耳の痛いことを言う人から逃げようとしないでください。そのような人から嫌われることも厭わず、真理を言う人を大事にすべきです。逃げるのは簡単です。しかし、逃げた先で何があるでしょうか。ぬるま湯に浸かって安心するだけでしょうが、そのぬるま湯は後で燃え盛る炉になるでしょう。今はぬるま湯で気持ち良いでしょう。しかし、そんな生活を続けていたら、確実にそうなります。日々緊張感を持った中で信仰生活を送るべきです。自分より優れた人と一緒にいると自分の愚かさが滲み出るから居心地が良くないと思う人は多いです。人が自分より美人と一緒にいたくない心理と一緒です。その心理とは、自分が引き立てられたい、目立ちたいと思い、自分が他人の引き立て役になりたくないというものです。このように、多くの人は、自分より劣っているか同等と思う人とつるむ傾向にあります。その方が優越感や安心感に浸れるし、精神的にも楽だからです。しかし、そういう考えの人は成長せず、必ず堕落します。ファリサイ派の人々も自分たちが神に仕える義人と思い込んでいたので、彼らの信仰と行いが真理を宣教された主イエスの御言葉に相反するので、彼らは主イエスと一緒にいることを避けました。ファリサイ派だけでなく、神の掟を守っていた金持ちの青年も財産を手放すことができずに主イエスを離れ去りましたし、ヨハネによる福音書6章後半にあるように主イエスが選ばなかった弟子たちも途中までは従って来ていましたが結局は離れ去って行きました。

 

引用:真の聖書福音と預言「今は邪な時代」

上記の言葉には大いに共感します。特に「逃げるのは簡単です。しかし、逃げた先で何があるでしょうか。」の箇所にです。先に心の貧しさ(渇望感)を契機に真の聖書福音に至ったことをお伝えしました。そして、過去記事でも触れておりますが手前はかつては地上の教会に通っていた元プロテスタント信者でした。表面的には優しい生温い偽福音で、表面的感情をごく一時的に満たすことはあっても中長期的には心の貧しさ(渇望感)を解消することはありませんでした。ミカエル氏のブログ記事によって真の聖書福音を知り、聖書がこの世に存在する全ての事柄について、人の存在の意味について、罪と悪とその基準(律法)について、世の動きとの関連について、世の終わりと裁きについて芋づる式に全体像を理解することが出来ました。世の諸教会では決して教えないことをミカエル氏が無償で、ネット上でいつでも誰でも見ることが出来る仕様にして教えてくれているということの意味を認識するべきだと思います。それほど珠玉の内容を伝えております。その上で、行いに表すことが真のキリスト者の歩みの本番です。世俗に塗れた生き方と訣別したい気持ちと反するように、これまで染み付いた世に属した生き方との葛藤が始まります。過去記事でも触れましたが房付き和服を着始めた時も、安息日遵守のために世俗の用事の全てを断る時も、葬儀等への対応も、会社勤めを辞める時も、他の事柄全てにおいて世の大多数に倣わず狭き道を歩む時も、最初は非常に勇気を要し、足がすくんだり妥協したい思いに駆られることは何度もありました。このような思いは最初の段階に特に多かったです。そこを突き抜けると「そんなに難しいことでは無かった。行動するかどうかの違いである。」と思うようなことばかりです。ちなみに、その葛藤の中で、手前は真の聖書福音を知った身として、今更、辛くて半端に妥協して後退して「逃げた先に何があるか」という思いが幸いにも常に優りました。「勇気を出した」という側面も確かにあるのですが、「今更、知らなかった時のようには生きられない」の一言に尽きます。むしろその後ろめたさを引きずって生きる方が何倍も苦痛に満ちるでしょう。ペトロの手紙二 二章二十節から二十一節(私訳)『主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れを逃れても、再びこれらに巻き込まれ打ち負かされるならば最後は最初より悪くなるからである。義の道を理解し、彼らに伝えられた聖なる掟より元の状況に戻るくらいなら、彼らが義の道を理解しない方が良いからである。』 の言葉も知り、尚のこと後退などありえません。ましてや手前はかつては偽福音信者として歩んだ経緯があり、二度も躓く訳にはいかないという思いもあります。他にも、世俗の事柄を見るほどに汚れ、腐敗、堕落を感じて言葉に言い尽くせない不快感を覚え、逆に、神の真理の確かさと神の義の正しさを希求する気持ちが沸々と湧いてきます。それでも日々、自己愛との戦いがありますが、今更、進むべき道に迷うことはなくなったので、そのような意味においてはすっきりしております。振り返れば、肉なる思いとして自分が向き合いたくないと思った事柄は全て向き合う機会が与えられたと思います。余計なものを捨てた分だけ心が楽になり、心の渇きは無くなってきました。「勇気を出せ」とは御言葉の通りなのですが、手前の感覚としては、神を愛する思いと真理を希求して止まない気持ちがあれば、他の事柄は自ずと気にならなくなると思い、それ自体が自ずと勇気となって行使されると感じております。

 

 

 想像してみて欲しい、主の日を

 

ミカエル氏の記事の所々で行動に移す者が少ないことに対しても警鐘を鳴らしております。

二千二十年から今もその悪影響を引き摺ってるコロナ犯罪以降、こんだけこの世は狂人どもに支配されてることが誰の目にも明らかになってるのに、相変わらず不信仰で居ったり、何の役にも立たへん偶像崇拝(仏像等の偶像は勿論で、自分が正しいと思い込む自分崇拝を含む)をしたり、異教徒で居ったり、偽使徒パウロを信じてキリスト者を自称するという嘘をついたり、聖書の教えに外れた世の諸教会や主流派に属したり、一人きりで信仰を保った気になったり、うだつが上がらへん人たちと一緒に集まったところで何の意味も無いことに早よ気付き、行動を変えなはれ。あんたらが行動せえへんのは、なんでなん。まったく理解でけへん。何もせえへん、何もでけへんのやから無能なんやと認識し、無能で居たくないなら従来の考えと行動を変えな、いつまでも改善せえへんで。この事は世俗の生活でも思い知ってる筈のことやろ。勉強せな、偏差値が上がることもないやろ。時間さえ経てば自動的に能力が向上したり、急に賢くなったりするなんてことは有り得へんやろ。

 

引用:真の聖書福音と預言「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」

 

ミカエル氏のブログに辿り着き、聖書を読み、聖書が真理だと信じられたならば、それだけで大きな利点を得たと思います。そもそもミカエル氏のブログに辿り着くことが出来たのは世の中のおかしさに気付き、真実は何なのかを求めて調べた結果だと思うからです。狭い門から入って狭い道を通る(マタイによる福音書七章十三節から十四節参照)とあるように、道に入るための門自体が狭い故に入らない者が多いです。この日本は古代イスラエルが受け継がれた真正イスラエルであるにも拘らず、「聖書が西洋の宗教」と看做されて人々から遠ざけられているのはとても残念です。個人的には、以下のような段階を辿ると思います。

 

(一)偽り(世の権威、宗教、世の有り様)に疑問があり、何かがおかしいと思う段階。

(二)聖書を手に取り、読む。かつ、聖書が真理であり、主イエスが救い主であると信じる段階。

(三)世にはびこる偽福音に騙されず、世の諸教会に関わらない。

(四)世の悪、世の権威、世の多数派に与せず、非暴力不服従で抗う

(五)自分を捨て、神の律法・掟・戒めを守り、高潔な品性を身につけ、完全な者となる

 

実際には(一)に至るだけでも確率的に少数だと思います。こちら(ツイッター)ではmRNAワクチンを打たない・個人番号券を作らない・マスクをしない人は全人口の一割以下程度しかいないのではないかとの投稿があり、手前もそのように感じます。また、世の事柄に聡い人が比較的多く見られる(と感じる)ツイッター利用者の動向を見ても、そこから(二)の聖書真理に至る方となると更に少数(ほとんどいないと思う程)です。また、(三)にあるように偽福音に惑わされず、(四)の世の悪を正しく認識して、(五)の神の律法等を遵守して良き品性を身に付けることを目指すとなるともっと少なくなります。これでは一体誰が救われるかと思わなくもありませんが、招かれる者は多くても選ばれる者が少ないと書いてある通りです(マタイによる福音書二十二章十四節参照)。何度でも言いますが、本当に狭い門、狭い道なのです。しかも『θλίβω(狭い)』の原語には、厳密にはただ「狭い」だけではなく「苦しい」という「苦難」の道の意味があります。これも言葉通りです。それにも拘らず、この言葉を現実のこととして認識しない、雑に捉えて安易に考える向きがあります。手前もかつては、ぼんやりとしか捉えていなかった不届きな者ですが、歩んで初めてその通り(狭く苦しい道)だと分かりました。他にも、御言葉を自分ごととして、現実的に捉えていない箇所があるかもしれないと警戒しなければなりません。また、恩恵期間が終わる時(大艱難)が迫っている中で、落ち着かない社会環境の中で速やかに最短に成長できる保証はありません。良いことではありませんが不出来な手前は紆余曲折を経て遠回りしながらここまできたと思います。歩む道や成長曲線は人それぞれだとは思いますが、余程に有能でない限りは最短での高度成長は難しく、少なくとも手前のような凡人では厳しいと言わざるを得ません。『時間さえ経てば自動的に能力が向上したり、急に賢くなったりするなんてことは有り得へんやろ。』の通りです。

 

手前は旧約聖書の「主の日」に関わる箇所を読むほどに『見よ、無慈悲な復讐、激しい怒りである主の日が来た。地に荒廃をもたらし、地の罪人らをそこから滅ぼす。(イザヤ書十三章九節:私訳)』が決して比喩では無く、その通りなのだと思い、その場面の恐ろしさを感じずにはいられません。律法廃止論のパウロ教徒ら偽福音信者は、ヨハネの黙示録の激しい大艱難の様についても「キリスト者が携挙された後の出来事」と捉えている者が少なからずおります。黙示録の中をよく見れば、また、世の終わりがノアの時のようだと言われた主イエスの言葉に拠れば決してそうではないことが分かるはずです。彼らは旧約聖書に記されている主の日についても、自分たちが携挙された後の無関係なことと考えているのでしょうか。そうだとしたらとても愚かなことであり、全く聖書の中身を理解していないことになります。主イエスは悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)と言われ、罪の清算は後でまとめて為されるため(参照:真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」)、艱難末期に地を滅ぼす前に行われる携挙(マタイによる福音書二十四章二十九節から三十一節参照)にもあずかることは無いでしょう。パウロ教信者(偽福音論者)は、主イエスの言葉に反したパウロの言葉の数々を、ただ聖書に編纂されているというだけで真実であると妄信します。挙げ句には主イエスが廃止を宣言していない律法を、パウロ書簡の言葉に拠って廃止されたと言います。この矛盾をどう説明するというのでしょうか。主イエスとの新しい契約によって律法が心に刻まれて、忘れようにも忘れられなくなるというのに(ヘブライ人への手紙十章十六節参照)。彼らは、例えば憲法第二十条によって政教分離とされているにも拘らず無視する公明党、その母体である創価学会等の支援を充てにする与党らの厚顔無恥にも似ています。『矛盾がある』とはそれほど問題がある姿勢なのだと思います。冒頭に挙げた、目が『澄んでいる(ἁπλοῦς)』の原語「単純」「単一」とありますが、これらの実態は真逆です。

 

エレミヤ書二十三章二十節(私訳)

主の憤怒はその御心の御計画を行い、成し遂げるまで収まらないだろう。終わりの時、お前たちはその真意を悟るだろう。

 

終わりの日に主の怒りが注がれる時、完全にそのことを理解するとあります。事前に福音が全世界に宣べ伝えられ(マタイによる福音書二十四章十四節参照)、二人の証人が証しをしているため(ヨハネの黙示録十一章十節参照)、知らないということはあり得ず、警告を無視した結末がこれです。

 

イザヤ書二章十二節(私訳)

確かに、軍勢の主の日が傲慢で高圧的な者や高ぶる者すべての上に臨み、(彼らを)低くするだろう。 

 

誇る者と傲慢な者とは、地上での安定した生活や権勢を誇っている者と思われます。そして、傲慢とは神を畏れず、真理を認めず、世の悪に与している状態であると思います。まさに先に挙げた『עָנָו(貧しい・謙虚)』とは真逆です。

 

ゼファニヤ書一章三節(私訳)

我は人も動物も滅ぼすだろう。我は空の鳥も海の魚も滅ぼすだろう。躓かせる者たちと一緒に悪人(罪人)を我は地の表面から絶つだろう。主の御発言である。 

 

先に挙げたイザヤ書十三章九節を絡めて見れば、罪人らを地から絶つという表現が同じです。ここでの『רָשָׁע(罪人)』は「悪しき者」「死刑宣告を受けた者」「罪の意識を感じる(やましい)」「罪深い」といった意味があります。客観的に律法違犯という罪があるだけで無く、主観的に罪の意識を感じてやましい(良心に恥じる所がある)、罪悪感があるという意味があるのが印象深いです。主イエスに対して確信を持つことの重要さ(ヨハネの手紙一 三章二十一節参照)が窺えます。今でも罪の意識があるならば速やかに改めるべきです。また、正しい罪の意識を持つためにもきちんと聖書を読んで律法について理解するべきです。聖書を読んでも律法は廃止されたと高を括るパウロ教信者の末路は以下の通りです。主イエスの言葉は必ず実現します。そうならないようにと警告されている言葉を決して軽んじてはなりません。

 

 

聖書真理を知らず、神を畏れず、この世を謳歌する者たちの生き様や言動を見るたびに非常に愚かだと思わざるを得ません。特に欲望のままに生きている様は、もはや人というよりも獣に近いとさえ思います。

 

詩編七十三編二十二節(私訳)

我は理性(知性)を欠き、貴方に対して獣のようであった。

 

ここでの知識は真理についての知識であり、神を知らず、ただ自らの社会的・肉体的充足のために好き勝手に生きる様は、腹が減れば貪る「獣」のようです。『בְּהֵמוֹת(獣)』はいわゆる野生動物であり原語には「莫迦な」「愚かな」獣という意味もあります。また、「獣」には「人間らしい心のない人をののしっていう語。人でなし。(引用:スーパー大辞林)」の意味もありますが、まさにそのような状態であると思います。また、「人間らしい」とは何であるかについてもよくよく考える必要があります。

 

詩編百二編十九節(私訳)

来たる後世にこれが記されるだろう。「創造された民は主に栄光を帰すようになる。」

 

この帰結は非常に重要です。人は神によって造られ、神を讃美するために存在します。真に畏れる対象を知らなければ、他の偶像(あらゆる偽り)を欲してしまうでしょう。また、『הָלַל(栄光を帰す)』の原語の主たる意味に「澄んでいる」があることも見逃せません。記事題名の「目は澄んでいるか」に重なりますが、「主に栄光を帰しているか」としても底流にある意味は同じであろうと思います。他にもこの原語には「婚姻(婚姻の歌、婚姻に値する)」の意味もあります。神と人間の関係は夫婦に例えられており、最後に栄冠(ペトロの手紙一 五章四節参照)を受ける者は、花婿である主イエスが花嫁である真のキリスト者を迎える(ヨハネの黙示録十九章七節から八節等参照)とされる光景にも重なります。

 

ペトロの手紙二 二章十二節(私訳)

彼らは、捕えられて滅ぼされるために生まれた、理性を欠いた本能的な動物と同じように、無知によって冒涜的なことを言い、自らの堕落によって滅ぼされるだろう。 

 

先に「獣」について「人間らしい心のない人をののしっていう語。(引用:スーパー大辞林)」と言及しました。上記聖句では「理性を欠いた本能的な動物」は在るべき人間の対極にとして記されていると思います。理性とは「感情におぼれずに,筋道を立てて物事を考え判断する能力(引用:スーパー大辞林)」であり、本能とは「生まれつきもっている性質や能力。特に,性質や能力のうち,非理性的で感覚的なものをいう。(引用:スーパー大辞林)」との意味があるからです。マタイによる福音書二十二章三十七節『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』にも理性を尽くすことが言及されており、神の民には当然有るべき性質です。聖書真理について理性を尽くし、神を心から愛して従う忠実こそが、本来神が願われた人間らしさではないかと思います。

自分の使命っていうもんを真剣に考えなはれ。自分にしかでけへんことは何かを考えなはれ。

 

重要なんは、心の在り方と行いやからや。外見だけしか考えず中身が伴わへん者は信仰においては失格者である。外見も律法に適うように最低限整えることも蔑ろにしたらあかんけどね。自分の使命は何かと考え、実行しなはれ。世俗社会に没入して多数派に迎合することは、真のキリスト者なら厭う筈である。神への愛から律法を守って神に従順で在りなはれ。聖書を読まず、拙者の言うことも聞かず、しょうもない世俗的な生き方ばかりしてるようでは、自分の使命を悟ることもなく、神の御意志を行うこともなく、虚しく死んで行き、滅ぶであろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」  

神の言葉に従わない者(罪人)の末路が滅びであることを聖書は明確に記しております。そして、ただ滅ぶための人生であって良いのかを自答するべきです。「世の中の皆がそのようには生きていない」と言うようであれば、多数派に倣わなければ行動出来無いようでは、神に従う姿勢には程遠いです。また、「世の諸教会ではそのように教えていない」と真理に反発するようでは、神の民に相応しくありません。上記の引用にあるように自らの使命(与えられた重大な任務)を考えて過ごすべきです。「そんなものは知らない」と好き勝手に生きるようでは話になりません。

 

申命記三十章十四節から十五節(私訳)

確かに、御言葉はお前のごく近くにある。御言葉を行うためにお前の口と心にある。我は今日、命と徳を死と災厄をお前の前に置く。

 

上記は主なる神との契約の場面の言葉です。契約を履行するれば祝福があり、契約に違反すれば呪いがあると言われた場面です。律法の言葉は全人類に適用され、我らは律法を、契約を履行するか否かを選択する立場にあります。

新共同訳では『הַטּוֹב(徳)』の箇所を「幸い」と訳されておりますがこの原語には倫理的、善悪の判断としての「良い」の意味があったので私訳では「徳」と訳させていただきました。実際、「徳」には「倫理的な要求にかなった人格。人間としてわきまえるべき倫理的な規範。(引用:スーパー大辞林)」の意味があるからです。このことからも律法には人を清い生き方に至らせる力があり、先にも言及した花嫁『花嫁に清く輝く亜麻布を着ることを許された。亜麻布は聖なる者たちの義(正しい行い)だからである。(ヨハネの黙示録十九章八節:私訳)』が着る衣の性質にも繋がります。

我らは、いつでも、どこでも、聖書を手にすることが出来て、真理を知る機会が与えられております。知っていても、知らなくても神との契約の上に我らは居ります。神を畏れるならば、その契約内容を知ることに、契約を履行することに必死になるはずです。

 

目は澄んでいるか。真理の知識に則り、真っ直ぐであるか。主イエスとの新しい契約により聖霊に使役されているか。神の民として相応しくなれているか、主に栄光を帰せているか。これらに対する答えを主イエスにご提示する必要があります。偽りを信じず、自分を捨てて、澄んだ目で残りの時を生きましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「光で闇を照らせ」と題して、世の宗教による反キリスト行為が顕著であること、悔い改めが出来る幸いを認識するべきこと、真のキリスト者は地の塩と世の光で在るべきことについてお話ししていきます。

 

 吟味の重要さ

 

よくインターネット(以後、ネット)の世界は玉石混交と言われます。真実情報もあれば偽物情報があります。その僅かな真実情報を素早く探し当てることが出来る故に、また、情報交換などの交流が出来る故にネットは情報収集に非常に有効な手段です。それはテレビや新聞などの報道が偽りに満ちて真実を伝えないため役に立たず、書籍等では情報を得るまでに時間も費用もかかり、ネットの利便性には敵いません。一方、ネットには膨大な数のサイトが存在し、検索だけで探り当てることは容易ではありません。そういった中、ツイッターは、文字数が少ないなどの制約や情報が右から左に流れて埋もれやすい短所はありながらも、開放性があり素早く情報を得ることが出来、また、個々の主張やサイトや動画などの速やかな情報拡散も可能です。ツイッターを眺めていると、世のおかしさに気づく方がたくさんいることがわかります。一方で、偽情報を流す者(意図的、無自覚を問わず)が絶えず、そのため見分ける力が重要となります。全ての情報が正しく、優れているわけでもなく、中には著しく品性を欠く言葉を発する者が少なからずおり、また、世俗的情報も非常に多く、やはり玉石混交と言えます。それでも真実情報は他の媒体よりは比較的見つけられやすいと個人的には感じます。優れた発信者は、行政等の資料を自ら読み解き、数的情報を分析し、恣意的な報道機関らの偽りの「解釈情報」の嘘を見破り、その真実情報はとても貴重です。(そして、その正しさを理解する者たちの存在もまた重要です。)情報を収集するにも、それを理解して解釈するにも相当な能力が必要です。手前はそういった能力が不十分故、そういった人々の発信の恩恵を受けている身です。その上で、心掛けていることは「鵜呑みにしないで、自分でも検証しながら読む」ということです。発信した彼らとて、真実を伝えている以上、きちんと理解して欲しいと思っていることでしょう。聖書にも『これらのユダヤ人たちはテサロニケにいるユダヤ人たちよりも高潔であり、最大限の熱心さをもって御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を吟味している。(使徒言行録十七章十一節:私訳)』とあるように、これが正しい姿勢です。しかし、実際にはこのような習慣を持つ者は決して多くありません。それは盲信姿勢を学校教育で刷り込まれてきたが故に、識別する力が培われていないことが背景にあると思います。下図の指摘が当たっていると思います。

 

画像引用:https-//ameblo.jp/don1110/entry-12806866410.html

 

批判的思考をすることなく、与えられた情報を盲目的に覚えることが正しいと思っていたのはかつての自分も同じで、その習性を排除して、本当かどうかを識別することこそ知恵(分別)と言えます。真に正しいかどうかではなく、教員等の言う答えが正解であると、それ以上の思考することは歓迎されません。しかし、今に至って、真の頭の良さとは自分で吟味して、思慮分別することなのだと思い至ります。それは批判的思考や論理的思考でもあります。集めた情報を筋道立てて読み解き、検証し、解答することです。そうすることで盲信を避け、言われるがままを避けることが出来ます。しかし、鵜呑みの思考停止が今やあちらこちらに見られ、今や国民全体が思考停止の状態です。このことは今から六十年以上も前の千九百五十七年に既に、テレビの浸透と共に「一億総白痴化」が起きていると危惧されておりました。それは以下のような趣旨です。

「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。

(略)

書物を読む行為はみずから能動的に活字をひろいあげてその内容を理解する行為であり、それには文字が読めなければならないし、内容を理解するために自分の頭のなかでさまざまな想像や思考を凝らさねばならない。これに対してテレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れてくる音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといったことを指摘している。

 

引用:ウィキペディア

盲信せずに、世の常識とされるものや政府等の見解を見れば、容易に矛盾を見出だせるはずです。例えば、ワクチン接種後に大勢が死んでいて、仮に因果関係の証明に時間がかかったとしても、接種後に死亡が多発すれば事実を周知して、安全が確認されるまで接種を止めるのが本来です。しかし、実際はそうはなっておりません。薬害を繰り返さないとの戒めを刻んだこの「誓いの碑」とは何であったのか、わずか二十数年前に刻まれた教訓であったはずなのに、もはや忘れたと言わんばかりです。新型コロナウイルスワクチンを止めることの無い彼らの行いが彼らの本性を表しております。殺人行為を政府が堂々としているにもかかわらず、政府等の言うことを盲信して繰り返し接種する愚かな者もおり、命を救うための手段と勘違いして逆に命を失い、思考停止がここに極まっております。政府は国民の利益どころか、命を奪っており、憲法にある基本的精神を踏みにじっております。他にも、個人番号券は相変わらず情報漏洩が止まらず、もはや私事権(憲法十三条)を侵害しており、憲法九十八条一項により無効とされるべきです。無くても全く問題の無い個人番号券が健康保険証と一体化されたことで、無いと困る道具と化しつつあります。これが運転免許証にまで拡大されると、無いと本格的に生活出来ない道具へと化します。これらによって国民は政府の管理管理社会の下で奴隷となり、歯止めをかけなければならない最大の岐路に今は直面しております。導入の必然性がなく、悪い結果ばかりが想定される制度が推進されるのは全く合理性を欠き、意味がなく、訳がわかりません。憲法や政府の本来の位置付けには矛盾しても、支配層の新世界秩序構築という目的にだけは沿っております。だから政府等に憲法を遵守させることは重要であり、国民が自らの権利を守るために不断の努力をしなければならず、それを怠った付けが今、回ってきております。憲法改悪も含めて、これらの改悪がなされると国民生活は死んだも同然となるため最大限の抗議をしなければなりません。

 

 世の宗教による反キリスト行為

 

これらは今あからさまになっているわかりやすい事例に過ぎませんが他の事柄も同様です。世の常識(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、コロナ・マスク信仰、太陽暦、洋服、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)はどれも根拠が薄弱で刷り込まれた誤った教えに過ぎません。それらが嘘であり、嘘をつくのは騙す意図があるためであり、騙すのは真実を知られたくないからです。この世では、この世の支配者である悪魔(マタイによる福音書四章九節等参照)が嘘を駆使(ヨハネによる福音書八章四十四節参照)して、真実を知られないようにし、嘘を盲信させて、在りもしないものを在るかのように信じさせる巨大な「宗教」を形成しております。支配層はそれ故に、恐れ多くも逆に、「真理を宗教と看做す」工作をします。『真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか 』は聖書が信じるに値する真理であることはもとより、聖書が「宗教」と見られてしまう背景についても触れております。それは世の支配層がそのように区分したと言われております。嘘つきの悪魔崇拝者である世の支配層が、嘘を広めるに当たって、彼らが偽りを言っていることを露わにしてしまう真理こそ聖書です。真実を知られたくが無いがために悪魔崇拝者らはひたすら聖書を貶めます。

 

 

 

画像引用:真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか

 

嘘で洗脳する権力者(政府や官僚ら)の言うことこそ「宗教(存在しないもの)」であり、それを信じている世の大多数のは「宗教信者」です。

画像引用:https://twitter.com/Bjorn11089560/status/1659748991201071105

 

政府等の見解を正しいと看做せば、それに従わない真実を知った者たちを逆に「宗教」と看做すようであり、まるで落語話を聞いているような滑稽さがあります。両方正しいということはあり得ず、どちらかが正しく、どちらかが間違っております。言うまでもなく、在りもしないもの、矛盾のある方こそ宗教(偽物)です。この世は、残念ながら世に属して嘘を信じる大多数の宗教信者が占めております。このような視点は聖書真理に拠らなければ悟ることの出来ないものだと思います。人間を含めた天地万物を創造されたのは神であって、神の真理が絶対です。支配層は、世の常識(地球球体説、進化論、科学信仰、政府・行政信仰等)によって神を隠し、最初から偽っているが故に論理が破綻しております。偽る者には必ず綻びがあります。コロナ犯罪もそうです。偽りが露わになるのを嫌い、悪魔崇拝者らは聖書を「宗教」と区分けしてきたのだと思います。ネット上の世の真相に聡い者たちであっても、部分的に世の偽りや真実を指摘しても、根本的な真理(三位一体の神、天地創造と終わりの裁き、神の律法・掟・戒め、悪魔等)を知らねば、偽りから脱却出来ているとは言えません。世の真実を知って、信仰を持たずにこれからどうするのでしょうか。ただ知って知識を蓄えて満足するのか、真実を発信するだけで満足なのか、そうは言っても聖書の預言(来る大艱難)は必ず実現します。ただ真相情報を知っているだけで留まっていては不信仰者として支配層らと同じように神に滅ぼされ、無意味です。新世界秩序を構築しようとする悪魔崇拝者の意図を知り、真の聖書福音を知り、神の裁きや救いを踏まえて、主イエスにのみ希望を抱いて行動することに意味があります。信仰は神からのお招きによって始まるとは言え、多数の情報を持ちながら聖書真理に行きつかないのは個人的には非常に残念に思います。ここは神のお選びの領域であり、主イエスが言われるように失われた羊に真の聖書福音(羊飼いの声・主イエスの御言葉)を届けることをまず考えるべきなのでしょう。いずれにせよ、神は人間が神を畏れ敬うように造られた(コヘレトの言葉三章十四節参照)のであって、本物の神と神の秩序を畏れ敬わずに、偽物に親しむのは偶像崇拝であり、婚外性交に等しいことを世の人々は知るべきです。決して上から目線で言っているわけではなく、その認識をすることが始まりだからです。その認識が無くては何も変わりようがありません。以下を踏まえるべきです。

 

聖書に「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節拙訳)と「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)と複数に渡って記述があるとおり、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従せん人が賢い訳がないんです。

 

引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」

 

先の「何故聖書を信じるか」の動画にて、世の支配層は都合の悪いものを排除し、特に二十一世紀に入ってからは反キリスト行為が顕著であり、同性愛やLGBT等の問題もその一つであると言われております。

実際こちら(ツイッター)のようにLGBT法が成立した海外では女性領域の場所での性犯罪が多発しているようです。『身体男性から強引に迫られ、拒否したら差別だと脅迫されて』と訳の分からない理屈を言っており、まさに無秩序です。

 

画像引用:https://twitter.com/fujiwara_po/status/1660874326764302336?s=20

 

上記のように、何やらもっともらしいことを言っておりますが、目の前に同性愛等の人がいたとしても、神は人を男と女に造られたのであってそれ以外は無いこと、同性愛等は罪であり神の目には大罪であり、悔い改めるべきと指摘するまでです。神の秩序を捻じ曲げてまで同性愛者らを容認したとて、却って無秩序と神の怒りを招く方だけでそちらの方が大問題です。不自然に男が女で在ろうとしたり、不自然に同性を性対象とするから却って苦しむのです。物事の考え方の筋道がおかしく、神を認めないものは自覚・無自覚を問わず平気で忌まわしい言動をします。同性愛を公表して牧師となった人物(参考:沖縄タイムス)がいるそうです。神の律法よりも自分本位にする所がいかにもカルトたるプロテスタントらしい振る舞いです。つまりはキリストの名を借りた偽り者、反キリストでしかありません。『「母は質問を訂正して『異性愛に変わる可能性はないの?』と聞いてきたので、『無いと思うよ。もう25年近く同性愛者で生きてきたから。いまさら変えられるとしても、これは僕の大事な部分だから、変えたくない』』とは悔い改めの拒否です。ウガンダではこちら(ツイッター)のように反同性愛法が作られました。獣の国である米国大統領は『「悲劇的な人権侵害」「恥ずべき法律」』と激しく批判しております。しかしながら、このような不道徳な反キリスト行為の流れによって不自然な性愛をのさばらせることがなければ、ウガンダとてそのような法を作る必要は無かったのではないかと思います。同性愛者らの人権を擁護して見せた所で、行き着く先は社会秩序の崩壊、律法違犯でしかありません。

 

また、こちら(ツイッター)にあるように連合国(UN)の推すLGBT法の真の狙いは小児性愛の合法化であると言われております。こちら(メモ・独り言のblog)では極左活動家たちが小児性愛を合法化するように求めているとあります。同様にこちら(メモ・独り言のblog)では国連と世界経済討論会(WEF)は政府に「同意がある子供」との性行為を非犯罪化するよう求めているとあります。反キリストたるカトリックによる児童性的虐待が名ですが(参照:BBCニュース)、その犯罪を肯定するおぞましい内容で正気の沙汰ではありません。これら悪魔崇拝者たちが行う行為を世の人々に合法化を促す行為は、神の秩序を破壊する行為であり、無秩序を引き起こす忌まわしい行為(ヨハネの黙示録二十一章二十七節参照)に他なりません。先のメモ・独り言のblogには世界経済討論会のクラウス・シュワブが「世界経済討論会はカナダ政府に完全に浸透している」と自慢し、カナダ国民に次々と世界経済討論会の政策を押し付けてきたと書いております。それによって『カナダは世界の安楽死の首都となり、国家は子供を含め、役に立たないと考える人物を安楽死させることを決定しました(上記引用)』とあります。

 

画像引用:https://twitter.com/jhmdrei/status/1662284882872242178?s=20

 

上記のツイッター投稿文のリンク先記事に「慢性的な身体の苦痛を抱える患者や精神疾患を持つ人の「死ぬ権利」の容認に道を開く」といった内容があるのですが、手前の返信投稿にあるように多くの病気を作ったのは医療・製薬産業、その他の悪い構造を作ったのは支配層自身です。もっともらしいことを言った所で内実は優生思想と人口削減です。しかも、自殺は殺人であって神の目に罪であり、苦痛から逃れる手段として「安楽死」を謳って唆し、大罪を犯させて人生の幕を閉じさせるとはあまりに酷いことです。

 

これらに共通するのは反キリスト行為(律法違犯)です。世の法において合法化させることで、それに律法違犯を容認し、それを弾劾する者や従わない者を弾圧することが可能になってしまいます。まさしく、世に従うか、神に従うかがが問われる場面です。

 

また、こちら(アメブロ)によると、世界経済討論会(WEF)と国際通貨基金の推進する中央銀行デジタル通貨の提供が開始されたとあります。これが個人番号券と関連付けられてしまえば、政府によって預金口座の凍結や結預金引き出し制限をかけることが可能になり、人々の生活は政府に一方的に管理されることが強く懸念されます。むしろ、生殺与奪の権を政府に持たせるに等しいでしょう。繰り返しになりますがこの制度は、多くの情報漏洩が起きているにも拘らず口先だけの謝罪で済ませる酷い状況があります。既に日本国憲法十三条の私事権を侵害しており、憲法九十八条一項により、憲法に反するため無効となるべきです。この制度の問題については、真の聖書福音と預言「日本人の問題点 四」をご覧いただき、理解を深めつつ、最大限に政府の違憲行為に抵抗することを呼びかけます。太陽暦二千二十三年六月一日に河野大臣はテレビに出演し、いわゆる『マイナンバー保険証』について一本化を図り、紙の保険証を廃止する方針を譲りませんでした。挙げ句、太陽暦二千二十三年六月二日に個人番号券と健康保険証の一本化が立法化されてしまいました(参照:読売新聞)。この先に見えてくるのは以下の画像のとおりです。支那の信用得点制度(参照:ウィキペディア)と電子通貨、その他の社会制度(医療、年金、その他の公共制度)が連結することで、超共産主義的監視社会が完成します。こちら(ユーチューブ)をご覧いただくとその社会が如何なるものであるかご想像いただけると思います(字幕を日本語に設定すると概ね内容は理解出来ます)。

 

 

反キリスト行為を容認・強要する法案、政府への批判を許さない仕組みによって真のキリスト者にはますます生きづらい社会が到来します。しかし、真のキリスト者は反キリスト行為を弾劾するべきです。

 

マタイによる福音書十章二十二節(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」

また、我が名の故に、あんた方はすべての人に嫌われるだろうが、最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。 

 

マタイによる福音書二十四章九節(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」

その時、あんた方を苦難に遭わせ、あんた方を殺すであろう。また、我が名のために、あらゆる民に憎まれるだろう。

 

ヨハネ十五章二十節から二十一節(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」

我があんた方に言うたことを覚えておきなはれ。『僕は主人よりも偉大やない。』人々が我を迫害したなら、あんた方をも迫害するだろう。人々が我が言葉を守ったなら、彼らはあんた方の言葉をも守るだろう。しかし、人々は我が名の故にあんた方にこれらすべてを行うだろう。人々が我を遣わしはった方を知らんからや。

 

主イエスのこの言葉が実現することでしょう。それでも真のキリスト者ならば世の悪を指摘して、非暴力不服従を貫き、真の聖書福音を伝えるべきです。

 

ところで、完全菜食主義者(ヴィーガン)が中心となって、AIを使って聖書を書き直す(参照:メモ・独り言のblog)という動きがあるようです。神の言葉を勝手に改ざんする神を冒涜する行為で、これもまた忌まわしい行為の一つに数えられると思います。急に世の中で流行り出した動き、特に拡大するものは支配層の息がかかった反キリスト行為が潜んでいるので要注意です。しかし、それでもこのような分かりやすいあからさまな行為はまだ警戒しやすいと思われます。真に警戒するべきは、ミカエル氏が指摘した、改訂版という底本すり替えや改ざんの方です。真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」等で詳しく解説してあるためぜひご覧ください。

 

繰り返しますが、何故、支配層は聖書を「宗教」と区分するのかを考える必要があります。もし、これが創作の類なのであれば放っておくはずです。それを放っておかず、徹底して改ざんしたり、真理と気付かれないように偽りの常識を徹底して世に普及させるのは何故でしょうか。裏を返せば、聖書が本物で支配層(悪魔崇拝者)と彼らを操る悪魔こそが神(真理)に反した存在であり、それが暴かれることを嫌っていることが分かるはずです。

サタンの一番の目的は、神が愛する人間を主イエス・キリストから引き離して滅びに導くことです。これ以外に何もありません。主なる神は、裏切った天使たちを赦さず、天から追放して地に落とされました。落とされた堕天使たちは、サタン、悪霊となって神が寵愛する人間を神から引き離すために、あらゆる手の誘惑や奇跡を含む惑わしをして主イエスを信じさせなかったり、神の掟を守らせないようにしたり、罪を犯させて神の怒りを買わせて喜んでいるのです。サタンの神に対する復讐をあなたがたが知らずに加担させられているということを知るべきです。

 

引用:真の聖書福音と預言「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」

画像引用:真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか

 

上記の事柄は、全員に関わることです。聖書真理を知らずに生きると、世に教わった常識のままに生きることになります。動画のサムネイルにあるように世の常識に染まって『世俗的に生きてる方が宗教的で、間違い』です。ちなみにツイッター等で「悪魔崇拝」に関わる内容を投稿すると他の話題よりも閲覧数が多い傾向が見受けられます。こちらの記事『悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗(真の聖書福音と預言)』はよく紹介させていただきますが、実際には何やら『オカルト的』な事柄として物珍しさで見ている方が多いように思います。先に挙げた小児性愛、あからさまな人口削減の様相はまさに悪魔的であり、悪い行いをする者の行動原理として悪魔崇拝としか言いようがない実態があります。それは各々の生活場面からは想像し難いことかもしれませんが、そのような世の権力を持った者たちがこの世を動かしているのは事実であり、神に反する行為を世に推進していることを理解せず、世の事柄に従っていては上記の図にあるように、神の厳しい裁きが待ち受けます。より巨視的な視点で、より俯瞰して、この天地の真実を見ていく必要があります。それを教えてくれるのは聖書だけです。

 

詩編九十二編八節(私訳)

悪しき者が草のように茂り、不義を行う全ての者が繁栄しても彼らは永遠に滅ぼされる。

 

ヨハネの黙示録十八章にも大バビロンの滅亡が書かれております。この世に神に逆らう者の一大勢力も、終わりの時には神によって滅ぼされ『彼女の苦痛の恐れ故に、遠くに離れ立って、言う。 「不幸だ、不幸だ、あの大いなる都市、 バビロン、あの強大な都市、お前の裁きがひとときで来たからだ。」(ヨハネの黙示録十八章十節:兄弟共同検討訳)』という末路を辿ります。今、支配層が力を振るっているように見えても最後には必ずや滅ぼされます。

 

 

 悔い改めが出来る幸い

 

聖書は信頼するに値する神の言葉、真理の書です。先ずは聖書を通読して、この書が本物だと認識することです。滅びゆくこの世の中で唯一の確かさがあることを認識出来れば幸いです。今のこの世の状況に対して何とも思わずにいるようであれば残念ながら、世の動きと聖書の内容を整合して理解することは難しいと思われます。だからこそ、この世があからさまに新世界秩序に向かっていると理解出来る知性をお持ちの方であれば、世の真相を知っただけで満足せずに聖書を読むべきです。神は人が正しく生きるために全人類に適用される神の律法をお与えになりました。その正しい基準を知れば、誰もが律法に違犯して生きてきたと分かります。罪を犯さない正しい人間は主イエス以外にこの地上にはおりません(コヘレトの言葉七章二十節参照)。だから悔い改めが不可欠で、悔い改めなければ自らの罪の故に神によって滅ぼされます。

 

ヨハネによる福音書の始まりに、言は神であると書かれております。そして、一章四節から五節に『この御方に命がある。命は人々の光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇はこれを理解しなかった。』と書いております。『暗闇(σκοτία)』を意味する原語を確認すると言葉通りの「暗い」の他に「曖昧な」「莫迦」といった意味もあります。また、聖書の文脈における暗闇の意味する所は、神聖な事柄に対する無知とそれに伴う邪悪さ、その結果として生じる悲惨さです。先に触れたように正しい基準を知らない状態、それによる(律法)違犯であり、そのような状態は莫迦(道理から外れている)とも言えます。『光(φῶς)』は言葉通りに照らすものです。たとえ人が神を知らずに、世の常識等に従って正しく生きたとしても、真理という光によって照らされれば自らの不十分さに気がつくことが出来ます。照らされなければ自らの状態に気が付くことが出来ません。真の知識(真理)が無いために考えが鈍く、自分の状態を判断出来ないからです。光(真理・正しい基準)に照らされて、自らの状態を認識し、改めることが肝心です。実際に真っ暗闇では自分の状態を認識出来ません。陽の光や電灯で明るく照らされて自分の姿を認識で出来るのと同様だと思います。

 

 

 

ヨハネによる福音書一章十二節には確かに、主イエスの名を信じる者に神の子となる資格を与えたとあります。しかし、ここだけを切り取って解釈するわけにはいきません。なぜなら、悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節及び五節参照)と主イエスは二度言われ、悔い改めないことを叱られ(マタイによる福音書十一章二十節参照)、洗礼者ヨハネも悔い改めに相応しい実を結ぶように(マタイによる福音書三章八節参照)と言われました。悔い改めることが罪の赦しを得るためには不可欠です。くれぐれも世に蔓延る偽福音(福音の三要素)に惑わされないようにしてください。

 

 

 

箴言二十八章九節(私訳)

律法を聞くことから自分の耳を背ける者は、その祈りの言葉でさえ嫌悪される。

 

上記の『律法(תּוֹרָה)』についても、口語訳では辛うじて「律法」となっておりますが新共同訳や新改訳では「教え」と曖昧な書き方をされております。「教え」とだけ書かれたのでは何を指すのかはっきりわかりません。これでは『暗闇(σκοτία)』の意味にある曖昧さが解消されておらず、御言葉本来の光として機能出来ておりません。言葉は剣でもあり(ヘブライ人への手紙四章十二節参照)、剣(言葉)が鈍ったら意味を成しません。そして、律法に耳を傾けることが重要で、勿論聞くだけでは無く、行いが自ずと伴います。律法を行わずして、神に認められるはずがなく、祈りも忌むべきものとされるのは聖書全体の文脈に一致することです。また、箴言や詩編等でこのように『律法』とされるべき箇所が「教え」と曖昧にされてる箇所が散見されるため要注意です。先にも触れたように、あからさまな聖書改ざんに対する警戒は容易いですが、受け入れられた原典を用いていない底本違いの日本語訳聖書はいわゆる「ステルス」のように早期発見が困難な惑わしであるため要注意です。

 

前回記事で手前が過去の罪を思い出した話を挙げましたが、言葉通りに「罪悪感」とはとても苦しいものです。そして、それに囚われる(引きずる)のでも無く、繰り返さないように教訓としていくのが改めです。

 

箴言二十八章十三節から十四節(私訳)

自分の罪を隠す者は繁栄しない。しかし、自分の罪を捨てて懺悔する者は憐れみを受ける。常に畏れる者は幸いである。自分の心が頑なな者は災いに陥る。

 

「自分の罪を隠す」という言葉の前提には律法を知り、違犯することへの認識が前提としてあると見受けます。「隠す」のは露わにされたくないからであり、そこには自己中心といった神を一番としない悪い思いが働いているためだと思います。『וּמוֹדֶה』の言葉を「懺悔」と訳しましたが、犯した罪を告白して赦しを請うことを指します。同時に、その行為を止める(捨てる)という順序を上記の聖句は端的にわかりやすく記していると個人的には印象深く感じます。続いて「常に畏れる」とあり、基本的な事柄ですが「畏れる」とは圧倒的な存在に対して慎んだ態度であることを指します。神を畏れれば、人の心を見通す神であることを思えば、罪を隠すなどなど無意味です。また、「頑な」についてもその場で、その時に罪を認めない強情さだけでなく、結果として悔い改めきれずに変化を起こせない硬直さにも当てはまるのではないかと思い、注意が必要と思います。悔い改めに相応しい実に至っているか、行動で示されているか、同じ罪は繰り返さないでいるかを考えた時に、そうなっていなければ、客観的には一つの「硬直」した状態であって「頑な」に該当しているのではないかと思います。自分自身を振り返って、こういった部分においてまだ改善途上な点があります。いつまでも改善出来なければ、その結果を刈り取ることになり、それは確かに災いであると思います。聖句の意味する言葉を探り、じっくりと味わうことでいろいろなことを教えられ、また、言葉に問われます。自分の至らなさに打ちのめされることもありますが、神の言葉の深さに崇高さや荘厳さを感じ、それを求めて止まない気持ちが沸々と湧いてきます。そのような思いが与えられていることがありがたく、この時とこの思いを無下にするわけにはいきません。もしこの思いが湧かなくなったら、取り去られたらと思うとぞっとします。

 

テモテへの手紙一 四章一節から二節(引用:真の聖書福音と預言「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」

さて、霊は終わりの時には、惑わす霊どもと悪魔どもの教えに熱中し、信仰から脱落する者が居るだろうと明確に言わはります。偽りを語る偽善によるもので、自分の良心に焼き印を押されており、

 

上記はパウロ書簡からではありますが適切な指摘であると思います。ここで強調して注意したいのは『良心に焼き印を押されている』という状態です。ここでの『良心(συνείδησις)』とは「善悪の判断力」です。神の律法に照らして、良いことと悪いことを区別して、良いことを行うよう促して賞賛し、悪いことを避けるように促して非難する心の働きです。また『焼き印(καυστηριάζω)』とは言葉通りの「焼き印」の他に「鈍感にすること」「無感覚にする」「関心がない」「興味を示さない」という比喩的な意味があります。良心が機能しない状態とも言え、この状態を想像しただけでも恐ろしくなります。このことからサウルが思い出されます。サウルは神からの命令に背いて、自分自身の判断で焼き尽くす献げ物を勝手に献げ(サムエル記上十二章参照)、アマレク人との戦いに際して神はアマレクに属するもの一切を滅ぼし尽くせと命令したにも拘らず、サウルは上等なものを惜しんで滅ぼし尽くさず、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くしました。そして、神への献げ物にするために取って置いたと言い訳をしました(サムエル記上十五章参照)。真の聖書福音と預言「サウルとダビデの違いとダビデと主イエスの関係」にて『サウルは神の言うことを聞かず、自分勝手な判断で行動したことで神の怒りを買い、王位から退けられました。主の霊がサウルから離れた後、サウルは悪霊に悩まされ続け、耐えきれずに神が罪と定めている口寄せに頼ったりもしました(サムエル記上28章)。サウルはどこまでも自分のことばかり考えており、神の命令、戒め、掟を守らないとどうなるのかということがはっきり分かる例でした。』『要するに、いかなる人間の動機、人間の目からすれば善行に見えることでも、神の目にとっては悪とされるのです。神が絶対的に正しいのであり、その命令に従わないことはいかなる理由があろうとも、言い訳をしようとも神の前では罪でしかありません。』とサウルの堕落の顛末が解説されております。箴言十六章二十五節『人が正しいと看做す道がある。しかし、その終わりは死への道である。(私訳)』をよく表した例であると思います。最終的に口寄せに頼るくだりについては、まさに善悪の判断が、鈍感を通り越して麻痺しているとしか思えません。また、『その苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒瀆し、彼らの行いを悔い改めなかった。(ヨハネの黙示録 十六章十一節:兄弟共同検討訳)』のことも思い起こされます。『人々が悔い改めようとしなかったのは、聖書に書かれた神の御言葉を信じない、または軽んじて悔い改める機会があっても悔い改めない報いとして獣の刻印を受け、滅びの運命が決定しているからです。主イエスも大艱難が始まれば、もはや罪を赦す働きもされないからです。ですから、獣の刻印を受けた者は手遅れで、悔い改めることは不可能になり、神を冒涜して罪を増し加えるのです。(引用:真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」)』とあり、まさに恩恵期間の終わりと同義です。

悪いと知っていながら懲りずに何度も繰り返すのでは、悔い改めたことにはなりません。神は、心から真に悔い改めて神に立ち返る人をお救いになるのであって、口先だけで行いで悔い改めるつもりがない者、聖書の真理を愛そうとせず、偽りの教えや耳触りの良い話に耳を傾けて盲信するような神に逆らい続ける者たち(にわかクリスチャン)は裁かれ、ふるい落とされていきます。 

 

主イエスが「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、聖霊に対する冒瀆は赦されない。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31〜32私訳)と仰ったとおり、決して赦されない罪があります。それは、聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪です。これは、聖霊の力で働いている人を悪霊の力だとか、偽り者呼ばわりすることは当然のことですが、また、「父と子と聖霊の名によって洗礼」(マタイ28:19)を受けた後、即ち、クリスチャンになった後でも、自身の良心に訴えかける聖霊に従わず、肉の思いや肉の欲に従うことも聖霊という弁護者に逆らうことと同じで、悔い改めを拒んでおり、赦されない罪です。そうやって聖書の真理も愛そうとせず、自分の信じることが正しいと思い続けるのは、心が頑なになっているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「罪への正しい認識と愛の重要性」

上記は手前にとっても、全ての人にとっても重要な警鐘です。聖書を通読して、真のキリスト者として生きようと思って取り組めば、当然に失敗も必ず経験します。しかしながら、決してあきらめずに取り組むべきです。『自身の良心に訴えかける聖霊』がおられるのです。この声を感じ取られている時が全てであり、宝に等しいと手前は思います。

 

これに関連して、兄弟である真氏の記事『主イエスこそ真の道である。「機を失すれば二度と取り戻せない」』から、今のうちに確固たる信仰を育んで、良心を働かせて取り返しのつかない状況に陥る事態を避けるべきことをお伝えするために、以下の箇所をご紹介します。真氏は記事の中で、申命記にある神との契約への違反の罰から『「日本は戦争に巻き込まれて遂に滅ぶかもしれない」』と警鐘を鳴らします。これは近い将来に起こり得ることであって、絶対に他人事では無く、我ら一人一人の身に置き換えて考えるべきです。更に、その中で戦争に加担した罪悪感から、獣の刻印を受け入れてしまう危険があることに警鐘を鳴らしております。

こちら(YouTube)の、大東亜戦争で支那人の女性や子供を殺害した際に「自分はとうてい天国へは行けない」と思ったという勝田文十朗氏のように、戦争やその他において大きな罪を犯してしまった人は、罪の意識に苛まれて神との別離を強く感じるのかもしれません。こちら(NHK)とこちら(NHK)にも、勝田氏とその他の元兵士の大きな苦しみ、戦場の狂気、戦時中は称賛していたくせに終戦を境に元兵士たちに冷淡な視線を向け、心を病んだ彼等を差別した世の人間の裏切りや薄情さ等が書かれています。先の『戦争における「人殺し」の心理学』には、「残虐行為を命じた者は、命令を実行した者に、そしてその大義に、罪悪感によって強力に結びつけられる。」、「全体主義国家の指導者は部下を残虐行為に参加させることによって、寝返る恐れのまったくない手先を手に入れることができる。」(「第五部 殺人と残虐行為」より)と考えさせられることが書かれています。今は、悪魔のようなことばかりする支配層に対して「支配層は何てひどい奴等なんだ。人間とは思えないし許せない」と非難しよる人も、勝田氏のような大きな罪を犯してしまった後、果たして同じように支配層を心から非難できるだろうか、罪悪感から共犯者か仲間意識のようなものを持ったり、勝田氏が酒に溺れてしまったように自身の罪を直視できずに目を覆ってしまうのではないかと思いよります。そうなった後、ローマ教皇が世界の救世主として現れ、下記画像にあるような耳触りの良い甘言(ローマ・カトリックの創始者パウロの偽福音を基にしたもの)を語ったなら、救いに飢えているそうした人は「飽き足りている魂は、蜜蜂の巣(の滴り)を嫌がるが、飢えている者にはどんな苦いものも甘い。」(箴言二十七章七節拙訳)とあるように、その死に至る蛇の毒を甘いものとして喜んで受け入れ、獣の刻印を押されるようになるかもしれません。

 

引用:主イエスこそ真の道である。「機を失すれば二度と取り戻せない」

真の聖書福音と預言「カルト宗教と偽預言者RAPTの矛盾と迷走」にて、日本人の多くは聖書真理に裏付けられていないが故に、占いやスピリチュアル、寺社仏閣等に興味を示す者が多く、霊的な弱さからカルト宗教に傾倒し易い傾向があると指摘しております。困った時の神頼みという言葉がある通り、困った時に占いに頼るはサウルと同様です。手前の身近にもそのような者がおりましたが、他の偶像崇拝と同様に悪霊に頼る行為なので絶対にやってはなりません。また、カルト宗教等は、何か人生の中で(悪い)事が起きた時に、聞こえの良い慰めをし、不遇が起きたことに嘘の意味を教え、心の渇きを解消しようとする者にあらゆる甘言を用いて付け入り、やがて陥落して虜にされます。これが人々の実態だと思います。人の心は弱いのです。特に不信仰の者は特にそうでしょう。

政府に言われるがままにワクチンを打った大勢の国民は、今度は憲法改悪と偽りの有事(ツイッター)と国防意識高揚に惑わされて(ツイッター)、戦前のように戦争に前のめりになる可能性が大いにあります。しかし、戦争の実態など殺戮と破壊でしかありません。こちら(ユーチューブ)は「プライベート・ライアン」という映画の一場面ですが、あっけなく命が終わり、凄惨にも砲弾で肉体が飛び散り、異常な精神状態に置かれ、自分の身を守るために敵と看做した同じ人間を平気で殺害する場面が描写されております。たとえ生還しても真氏の引用文にある勝田氏とその他の元兵士のように大きな苦しみを抱えるでしょう。そのような状況に陥って正気ではいられず、何としても魂の救いや安らぎを得たいと思うはずです。生還者のその心を、悪魔は完全に滅ぼすべく、甘言によって偽福音へと誘うことは大いに起こりうると思います。

そのような状況になったら手遅れです。そもそも憲法改悪と有事が重なる事態が起きるよりもっと前に、(本当は今からでも遅いくらいですが)聖書真理を学び、信念を確固とし、信仰を行いで示されるように鍛錬しなければなりません。そして、何があっても人殺しの戦争に加わってはなりません。言うまでも無く殺人は律法違犯です。真氏が記事の中で『その選択の責任はすべて自分が負うこと、聖書を学んで実践する自由がある今を逃せば次の機会はほぼ無いことは確かです。大きな災害が頻発したり、飢饉等になれば当然聖書を学ぶどころではなくなりますし、世界規模の戦争が始まれば後は巨大な世の流れに翻弄されるだけであり、その過程で修復できない程に心が歪み切ってしまうだけだと思います。』と述べているように、本格的な戦争が起こるより前にキリスト者として知識を学び、行いに反映出来るようにならなければ、戦争の狂気に翻弄されて命を奪われるか、殺人の罪(それに準ずる罪への加担)を犯すかのどちらかになるのではないでしょうか。そうなってからでは手遅れです。今でさえ、主イエスを信じれば救われるという甘言(偽福音)に絡め取られたパウロ教信者が多数おります。その上、尚、魂に渇き飢えている状態で、誰が耐えられようかと思います。だから、最初からそのような状態に陥らぬように世の動きを読んで、真理に則って生きることが全てです。ダニエル書十一章に終末と思われる時期の預言があります。その中に『契約に違反する者を甘言によって堕落させる。自分の神を知っている民は確固として行動する。(ダニエル書十一章三十二節:私訳)』とあります。この中に上記に挙げたような出来事がもしかすると上記の事柄が含まれているかもしれません。契約に違反する者とは不信仰な者、不十分な者です。彼らは神への忠実が無いが故に戦争に加担した者とも捉えられなくはないです。日々、刻々と世相は悪化しておりますが、まだ聖書を学ぶ余裕はあるはずです。この時間は宝であり、命に等しい価値があります。今の過ごし方がこれからの全てを決定づけると思って心して、時間を無駄にせずに学びと鍛錬に費やすべきです。

 

ヤコブの手紙四章十四節(引用 真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」

あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。

 

時はあっという間に過ぎ、また、貴方の命が明日にも在るとは言い切れません。繰り返しますが、今この時の過ごし方を真剣に考えて下さい。信仰は神からのお招きの故に始まるため、強いることは出来ませんが、神に招かれた失われた羊にならばこのことは伝わると思います。

 

 真のキリスト者は地の塩、世の光となるべき


主イエスは『天と地の主なる父よ、我は貴方に感謝します。学識のある者や賢い者からこれらを隠し、これらを幼子に現したからです。(マタイによる福音書十一章二十五節:私訳)』と言われました。ここでの学識ある者とは律法学者らを指します。その後の『幼子(νήπιος)』には年齢的な幼子だけでなく「未熟」「教えられていない」「熱心である」といった意味が窺えました。これは現代でも同じです。却って、パウロ教の神学・偽福音に学んで染まった者よりは、彼らに教えられておらず、素直に聖書に熱心である方が余計な躓きに遭わず、真の聖書福音を理解しやすいのだと思います。

 

ヨハネによる福音書三章十九節から二十一節(私訳)

光は世に来たが、人々の行いが悪かったために光よりもむしろ暗闇を愛したからである。これが裁きとなる。悪を行う者が皆、光を憎むのは、自らの行いが咎められないために光へ来ないからである。しかし、真理を行う者は光へ来る。自らの行いが神によって為されたことが明らかになるために。

 

『真理(ἀλήθεια)』とは、真実であって、偽りや架空とは反対のものであって(ヤコブの手紙三章十四節・ヨハネによる福音書十六章七節等参照)、神の目的(ヨハネによる福音書八章三十二節・十七章十九節等参照)等について、また、人間の義務が何であるかを示します。それはこの世が教える嘘とは根本的に異なります。悪を行う世の支配層(悪魔崇拝者ら)は神(真理)を憎み、世を支配する彼らの偽りの秩序が明るみに出ることを嫌い、聖書の真理(真の聖書福音)が知られることを嫌い、聖書の改ざんを図ったり、聖書を宗教と分類したりします。世の権威たる連合国らは、先に挙げたように同性愛等を容認するように各国に働きかけます。権威ある機関が言えば、あたかもそれが正しいものであるかのように人々は勘違いします。同性愛等についても少数者の人権擁護を大義名分にして、時代の流れだからやむを得ないなどと言って惑わされている者が大勢います。そのように相対的に考えるべきではありません。永遠に変わらない神の言葉によって、善悪の基準は全人類に適用される律法によって教えられており、『人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。(ミカ書六章八節:私訳)』の言葉の通りです。それにもかかわらず、聖書が宗教と分類されて真の知識が知られないのは大損失です。天地万物を創造された神、始まりと終わりをご計画された他に比べ得るものが無い偉大なる神を知れば、通常であれば神を畏れ、神を愛して従うのが普通です。光(真理)を知らなければ、光(真理)に照らされなければ自分がどんな状態であるかを知ることが出来ません。手前が以前従事していた業界では、いわゆるLGBT等の個人や団体が、LGBT等への配慮を求める研修と周知を業界内で行えとの働きかけをしておりました。同性愛を嫌悪していても表立って口外することは憚られる雰囲気が既に有り、性的少数者の人権を守ることは正しいことという風潮がその時からすでに有りました。同性愛等は罪であるのは間違いなく、曲がったことを容認しなければならいのは異常であり、これを罪であると示せるのは聖書真理の故です。また、生物的にも男女(雌雄)が在るのであって、同姓同士がつがいになることはあり得ません。こちら(ツイッター)やこちら(ツイッター)では同性愛者らに真理を宣べ伝えただけで逮捕される異常事態が起きております。また、こちら(BBCニュース)では米国ユタ州の学区で聖書が禁止される事案があり、「下品」「暴力的」というのが理由だそうです。真理を知らず偽りに甘んじることの方がよほど下品であり、愛が冷えて暴力的になるのではないでしょうか。根拠もなく自分を正しい看做す者は、自らの行いが咎められることを嫌い、真理(光)に来ることはないでしょう。このような頑なな者は良心に焼き印を押されて鈍感になり、罪を犯すことに無感覚となり、真理に関心が無く、興味も示さないからです。まだそのようになっていない者たちへ真理(真の聖書福音)が届くことを切に願います。主イエスは、誰も働くことの出来ない夜が来る(ヨハネによる福音書九章四節参照) と言われました。『夜(νύξ)』とは比喩的に死の時を指すようです。生きている間に真理を伝えることはもちろんのこと、新世界秩序が構築される前に、言論の自由がある内に、悔い改めが出来なくなる大艱難期が来る前に伝えなければなりません。そして、主イエスはもし彼らが黙るならば石が叫び出す(ルカによる福音書十九章四十節参照)と言われました。命のある昼の内に真のキリスト者は真実・真理を伝えなければなりません。

 

マルコによる福音書九章四十九節から五十節(私訳)

皆、火で塩味を付けられるようになる。皆、献げ物は塩で塩味を付けられるようになる。

塩は良きものである。しかし、塩が塩気を失ったら何によってそれに味を付けるだろうか。お前たちは自分自身の内に塩を持ち、互いに平穏であれ。

 

塩(ἅλας)』には「賢明さ」「思慮分別」と言った意味があります。『火で塩味を付けられるようになる(πυρὶ ἁλισθήσεται)』の「火」はここでは「苦しみや試練の痛み」を指すようです。『お前たちの信仰の試練は、朽ちる金の火による試しよりはるかに価値があり、イエス・キリストの来臨の時に称賛、名誉、栄光に至る。(ペトロの手紙一 一章七節:私訳)』にある「火の試し」と言わんとしていることは同じであると思います。火によって塩味をつけられるとは、信仰の試練によって真のキリスト者として完成すること、真理に基づく言行一致の状態(神への忠実)となることを指していると思われます。

また、献げ物に塩をかけるとは、レビ記二章十三節、民数記十八章十九節にある律法の内容でです。そこで使われている『塩(מֶלַח)』の原語は、列王記下二章二十一節にて塩によって悪い水を修復した(同節参照)とある内容と同じ原語が用いられております。『修復した(רָפָא)』には「償う」「補償する」の意味があり、地の塩の意味を加味して考慮すれば、贖われた者、悔い改めた者と捉えられるのではないかと考えました。ここからも在るべき真のキリスト者の姿が窺えます。

 

マタイによる福音書五章十三節から十六節(私訳)

お前たちは地の塩である。しかし、もし塩が塩気を無くしたら、何によって塩味を付けられるだろうか。これからは何の役にも立たず、また、外へ投げ捨てられ、人々によって踏みつけられる。お前たちは世の光である。山の上にある都は隠れられない。灯火を灯して、それを升の下に置きはしない。しかし、燭台を上に置けば家の中を全て照らす。このように、お前たちの光を人々の前に輝かせよ。お前たちの価値ある行いを見て、各天にいるお前たちの御父を崇めるようになるためである。

 

こちらの聖句からも、真のキリスト者は真理の知識に基づいて「賢明さ」「思慮分別」を持つことが求められていると捉えられると思います。そして、世の光として、闇を照らす、つまりは偽り(誤り)を指摘・弾劾することが勤めなのだと思います。それは『(喉から)大声で叫べ。惜しまずに。角笛のように声を上げよ。そして我が民にその背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ。(イザヤ書五十八章一節:兄弟共同検討訳)』にも通じます。そのことの故に『その時、あんた方を苦難に遭わせ、あんた方を殺すであろう。また、我が名のために、あらゆる民に憎まれるだろう。マタイによる福音書二十四章九節(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』の状態が実現すると考えられます。また終末に現れる二人の証人が神の証をして、地上の人々を苦しめたが故に、死んだ時には彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りする(ヨハネの黙示録十一章十節参照)状況も同じ構図だと思います。神の言葉はどんな両刃の剣よりも鋭いが故に(ヘブライ人への手紙四章十二節)、この世のあらゆる偽りを露わにするのでしょう。たとえその弾劾の時に世の人々が言葉の剣を逃れても、主イエスの来臨時には神の言葉によって裁かれます(イザヤ書二十六章九節・ヨハネに黙示録十九章十五節参照)。

 

ヨハネの黙示録二十章十一節(兄弟共同検討訳)

罪を犯す者はなお罪を犯させよ、汚れている者は、なお汚れさせよ。正しい者には、自分が正しいことを示させよ、聖なる者は、なお清めさせよ。

 

「正しい者には、自分が正しいことを示させよ」はここまで挙げてきた「地の塩」と「世の光」の意味する所が含まれていると思います。塩気のある者(真のキリスト者)は自ずと真理を宣べ伝え、自らの行いが聖霊のお働きの故になされたことが明らかになるのだと思います

 

世の事柄にすら無知であるのは論外ですが、どれだけ世の知識を持ち、世の真相を知って支配層の目論む新世界秩序を知った所で(最大限に周知をして、抵抗することは必要なことではあるが)聖書真理を知らなければ、闇にいる状態に等しいです。また、世の権威に基づく聖書知識(神学)ではなく、主イエスや十二使徒達の言葉、信仰(言行)に倣って、地の塩・世の光としての勤めを果たすべきです。時がある内に必死に自らを整えて、賢く備え、真のキリスト者としての働きを為していきましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

こんにちは。

世の中を見ていると、数多くの偽りによって成り立っているとつくづく感じます。聖書真理によって自分たちの存在の起源を知らず、唯物的な生き方をしたり、政府や学校の教科書など世の権威が言うことは正しいと信じたり、社会は「偉い人達」が上手く回してくれていると勘違いして他力本願であったり、聖書を知っていてもパウロの偽福音を疑わずにいるといったことです。「多少の間違いや偽りがあるのかもしれない」と少しは疑ったとしても、大筋は間違っていないだろうといった甘い考えが根強く在ります。少数の騙す側と大多数の騙される側が噛み合っているが故に、一見してまとまって、もっともらしい形を成しているかのように見えます。しかし、実際はそうでは無く、まさしく偽りの仮想世界のようです。何度考えても、この世はこのようにしか形容できないと感じます。

今、コロナ犯罪や憲法改悪の動き、悪徳政府の増税政策などによって国民への抑圧が続き、おかしいと気付き始めた者達が一定数おります。感染対策のために政府の権限強化が必要、他国の危機に対して改憲が必要、少子化対策のために増税が必要などと、世の支配者たちが作り出したものに過ぎない危機が、あたかも突然襲来したかのように演出しております。それに対して、政府が提示する「解決策」を実施すれば、国民にとっては最悪の社会体制が構築されます。ごく近い将来に大自然災害や戦争が引き起こされて、その大混乱の中で人々は激しく動揺して安定を求め、それらを解決、対処する方法として、新世界秩序が構築される可能性があります。演出された危機、それに伴う不安感は支配層によって都合良く活用されます。これは、企業に利益をもたらすような社会的・経済的変革を、災害を利用して一気に行ってしまう「惨事便乗型資本主義」とも呼ばれる「ショックドクトリン」そのものです(参照:あいのーと)。『真の変革は、危機状況によってのみ可能となる(引用:あいのーと)』とまで言われております。世の権威者の言うことが最初から嘘であると気付かなければ、「今より良い社会が出来る」と間違った願望を持って期待してしまうことでしょう。目先のことばかりに囚われている場合ではありません。政府等の言うことに従った所で何の平和も築かれません。超監視管理社会によって、ただ息を吸っているだけの自由のない世界が待ち構えるだけです。この不自由な世界によって本質的に何が失われるかを考えなければなりません。今でも十分に閉ざされている聖書真理を知り、学ぶ機会、信仰を行いで示す機会、真のキリスト者として成長するための時間等です。やがて福音伝道が禁止されたり、反キリスト行為を強要されるようになるでしょう。既にそのような兆候が見られます。偽りの常識により、聖書は現実と切り離された物語かのように扱われ、果てには都市伝説の類のように思っている者も少なからずいるかもしれません。しかし、聖書は真実且つ真理です。間も無く到来する大艱難期を記したヨハネの黙示録には、この後に必ず起こることを示す(四章一節参照)と書かれ、大災難が予告されております。今、支配層が演出する危機と支配層が示す解決策の先には何の希望もありません。ルカによる福音書二十一章二十五節から二十七節(前二節:兄弟共同検討訳、後一節:私訳)にはこのように記されております。『そして、太陽と月と星に徴があるだろう。また、地上では当惑で諸国の民の苦悩と、海と波のとどろきがあるだろう。人々は、世界に差し迫っている事の予想と恐怖のために卒倒する。各天の天軍が揺り動かされるだろうからだ。その時、人の子が権威と大いなる栄光を伴い、雲に乗って来るのを見るだろう。』と、世の終わりである主イエスの来臨の様相が示されております。支配層は今でも気象操作や人工地震によって自然をある程度には操作しますが、天体を揺り動かすほどの大きな現象に人類は為す術もなく、恐ろしさのあまり気を失う程であると書いております。支配層が演出できるのは社会情勢や操作できる範囲の自然までであって、この天と地の根本を揺るがす権威があるのは神だけです。この時になって神に帰ろうとしても時すでに遅しです。世に従って生き延びた所で全ては無意味であったことを悟るでしょう。全ては支配層に対してではなく、神に対して応えられたかどうかです。今、この時に神に対して正しく在ろうとしなければ、その時になっては負い目しか残りません。前置きが長くなりましたが、今回は『正しく在れば、負い目は無い』と題して、正しく在るために心を清めること、負い目を無くすべく自分の十字架を担って主イエスに従うことについてお話ししていきます。

 

 

先ず、心を清めることについて述べます。皆さんはミカエル氏の『律法の食物規定について』の記事はご覧になられたでしょうか。今回も非常に重要な内容であるため、ぜひお読みください。こちらの記事では律法の食物規定が更新されていることを伝えた内容ですが、冒頭の言葉からして、全キリスト者が踏まえるべき事項を述べております。

拙者は過去からずっと律法を守るようにと言い続けてきたが、それは主イエスを仲介者とする「新しい契約」の範囲内においてであり、古い契約に拘泥するのではない。過越祭の守り方の変更や(復活祭は、異教(カトリック等)の祭り)、石打ちの司法律法をやらずとも良い(この世で死刑にしないだけで罪を容認してるのではなく、悔い改めずに罪を犯し続けるなら地獄行きになる)等と主イエスがこの地に来はって以来、モーセの律法を全廃にすることはせえへんが、律法の守り方には一部変更があるんは揺るがぬ事実や。拙者は大分前からその事について言及してきた。それにも拘らず、世間には、この区別が全然出来ておらず、誤った解釈をしたり、聖書を曲解し、誤った事を頑なに信じたり、嘘を言い広めてる者が多い。もしモーセの律法をそのまま旧契約のとおりに守るべきと言う自称キリスト者が居るならイエス・キリストの教えに逆らっており、新しい契約を結んでへんと言え、その者はキリスト者ではない。偽使徒パウロの律法廃止論を信じて、モーセの律法を全部無視して守らへん者もキリスト者ではないし、十戒だけ守ればええと言うてる者どももキリスト者ではない。

 

引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」

新約聖書を読めば、律法に更新された箇所があるのは明らかです。また、律法自体が廃止されていないことも主イエスの言葉から明らかです。それにも拘らず、律法廃止論者が多く、挙げ句には「それでは、お前は割礼をしているのか」「罪を犯したから石打ちにしないのか」などと、見当違いな攻撃をしてくる者もおります。先ず、主イエスとの新しい契約により律法が心に記されるため、忘れようにも忘れられなくなり、全廃はあり得ません。しかし、モーセの律法と全く同じではなく、主イエスが一部を更新して変更があるのも事実です。この前提に立てない者が多いのが問題です。例えば、こちらの『サザエのお裾分け』という者は「律法を終わらせてくださいました」という偽りをこの投稿以外にも何度も吹聴しております。『千年王国』という偽りについても同様です。毎回、もっともらしく語りますが、惑わされてはなりません。主イエスの言葉に反したことを言っております。

 

画像引用:https://twitter.com/wancupmaster/status/1650322227827703808?s=20

 

そして、食物規定の更新について以下を引用させていただきます。

創世記九章三節に「動く物すべて食べ物になる」と書かれ、四節で血を除くと但書があるのみで、モーセの律法にある汚れた動物のことは一切触れられてへん。なぜなら、ノアの時代は未だイスラエル人という選民の概念が存在せず、異邦人と分け隔てる必要性も無かったからや。モーセの律法内のレビ記二十章二十四節〜二十五節にイスラエルの民とそれ以外の諸国民(異邦人)とを区別するから清い動物と汚れた動物とを区別せないかんと食物規定の理由及び趣旨が書かれてる。よって、食物規定はノアとの契約で存在せんかったことから、永遠不変の掟ではないし、神の民とそうでない世から出た人間との区別の象徴的な意味であることは明白である。使徒言行録十章の使徒ペトロが見た幻も汚れた動物が異邦人を意味してたこととも繋がる。

(略)

食物規定については、新契約ではイスラエル人と異邦人とを分け隔てる役目を終え、異邦人にも福音を伝える機会を与えるため、ノアの契約時に戻ったと言え、血を摂取するんを避ければ良いのである。その点は不変やからや。

 

引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」

自分でも改めて聖書の当該箇所を確認して、この内容は聖書において矛盾のない完全な解釈であると思います。そして、食べ物が人を汚すのではなく、内側から出るものが人を汚すこと、だから、内側を清める必要があると主イエスが言われたことも非常に重要です。

 

マルコによる福音書七章二十節から二十三節(引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」

更に、彼は言わはった。「人の中から出て来るもの、これが人を汚す。内側から、人間の心の中から悪い考えが出る。姦通、婚外性交、殺人、盗み、貪欲、悪意、欺き、淫らさ、嫉妬、中傷、高慢、愚かさ。これらすべて悪い事が内側から出て、人を汚す。」

 

題名にも記した『正しく』はハバクク書二章四節を参照に、「義」とも言え、「義」の原語には「適法(律法を守る)」の意味もあります。しかし、律法を形式的に守っても心が伴っていなかったならば無意味です。イザヤ書五十八章三節から七節にも心が伴っていない行いが神に顧みられないことが書かれております。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々に対して内側を綺麗にするように(マタイによる福音書二十三章二十六節参照)、外側は正しく見えても内側は偽善と不法で満ちている(マタイによる福音書二十三章二十八節参照)と言われたことにも繋がります。また、ヨハネによる福音書四章三十四節にも『イエスは彼らに言う。「我が食べ物とは我を遣わされた御方の御心を為し、その業を成し遂げることである。」(私訳)』とあり、信仰や神への忠実を食べ物とも言っていることから、やはり内面が重要なのだと分かります。イザヤ書二十九章十三節(私訳)この民はその口によって(我に)近付き、その唇によって我を賛美したがその心は我から離れていた。即ち、彼らの我への畏れは人の戒めを教えられたからだ。』と形式的で心が離れていることを主は嫌っております。そして、ミカエル氏のブログ記事でも常々、死後に持っていけるのは品性であり、これを磨いていかなくてはならない、『品性が霊である(引用:真の聖書福音と預言「復活とキリストの再臨への希望」)』と言われている通りです。また、マタイによる福音書十章二十八節「お前たちは肉体を殺しても魂を殺すことができない者たちを恐れるな。むしろ肉体と魂を地獄で滅ぼすことができる御方を恐れなさい。(私訳)」とあります。世の支配者は肉体の命を脅迫材料に恭順を求めますが、真に気にするべきは魂をも滅ぼすことができる神です。世の支配者に屈したところで、魂が保障されるわけではありません。むしろ、悪に屈し、品性が整わずに罪に塗れている者は、肉体も魂も滅ぼされることを理解しなければなりません。

 

これに関連してですが、ヨハネの黙示録二十二章十五章神の国に入られない者の該当条件の一つとして、『犬』が挙げられております。何かの比喩であるのは間違いありません。「犬」が何故、忌避されているのでしょうか。『κύων(犬)』の原語を見ると、基本的な意味では動物の「犬」ですが、比喩的に「心が汚い者」「厚かましい者」の意味もあります。「厚かましい」の言葉は、「行動や態度に慎みがない出典:デジタル大辞泉(小学館))」ことであり、被造物の分を弁えず神に従わない者とも言えます。このことは先に挙げたマルコによる福音書七章二十節から二十三節にも繋がります。また、同じ『κύων(犬)』の原語はペトロの手紙二 二章二十二節でも用いられており『犬は自分自身の嘔吐物の所に戻って来るものだ。また、身を綺麗にした豚は泥の中を転げ回るものだ。(私訳)』とあります。その前節にはペトロの手紙二 二章二十節(私訳)から二十一節(引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」)『主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れを逃れても、再びこれらに巻き込まれ打ち負かされるならば最後は最初より悪くなるからである。義の道を知った後で、彼らに伝えられた聖なる掟から後戻りするよりは義の道を知らんかった方が彼らにとって良かったやろに。』とあることから、「吐いた物」とは世の汚れを指すと思われます。そして、犬が「戻って来る」のは、また食べるためでしょう。こちら(dogoo.com)にあるように、吐いた物を食べるのは犬の性質のようです。ここでは汚れた行為(律法違犯)を再び行うようになり、その状態は以前よりも酷い状態となることを指していると思われます。律法違犯を行うのは、律法よりも肉なる思いを優先するからであり、マルコによる福音書七章二十節から二十三節にあるようなものが代表格だと思います。総じて、心が汚い者は救われないということだと思います。

 

次に、『律法主義』についても触れていきます。相変わらず、律法を守ろうとすることを「律法主義」と誤った理解をする者たちが多く、また、これほどまでに律法を束縛と捉えているのは、律法を嫌悪しているに等しく、もはや忌まわしい程です。レビ記二十章八節にあるように人を清くさせることが律法の目的であって、その法を与えたのは主なる神です(イザヤ書三十三章二十二節参照)。法の意味をもっと知るべきです。古代支那の統一を果たした「秦」を描いた漫画「キングダム」においては、『法とは願い。国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ(引用:「キングダム 第四十六巻」作者:原泰久、出版社 集英社)』と、このように法を表現しております。神が人に清くなって欲しいと願った経緯に対して、よくも「義」である「適法行為」を「律法主義」と呼んで貶したものだと非難せざるを得ません。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々を叱責した場面(マタイによる福音書二十三章等)をよく読めば、律法を守ることと人々に律法を守るように言うことについては認めておられ、内側が汚れている彼らの義よりも優れていなければ決して天国には行けないと言われたことが分かるはずです。それにも拘らず、世の諸教会が律法廃止論を教え広めたが為に、この内容が目に入らぬようです。前回記事「真っ直ぐな道を最期まで」で触れた「騙し絵」さながらに、一つの見え方が意識に上がると、もう一方の見え方(の意識)が消えてしまうようです。繰り返し強調したいのは、内側が清いこと、神の目に適う品性は重要だということです。真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」の中でも触れていた『房付き和服を着ただけで内面が清くなる訳やない』との話も個人的には身に染みます。世に抗い必死になる余りに、他の律法についても「〜しなければならない」と肩に力が入っていた場面があります。その時、心が伴っていたかを問うと、遵守自体が目的になっていた側面は否定できません。この度のミカエル氏の記事によって、自分の中の「律法主義」を見直す良い機会になりました。世においても、「形から入る」「形だけでもいいから」と言うことがあります。自分のこれまでの人生の中でも何度も聞いた言葉です。形だけでは内面が伴わず、嘘に繋がります。それが無意味であるにも拘らず、ただ体裁を取り繕うのは目的を見失っているとしか思えません。「形だけ」という世俗の習慣は無自覚に人の心の中に植え付けられているかもしれず、そう言った悪いパン種を自分の中から取り除いていかねばなりません。

もし、我が子が悪事を働いて、それについて謝罪したとして、口だけ、形だけだったならば、貴方はどう思うでしょうか。当然、心から改めて欲しいと思うのではないでしょうか。悪事を働こうとした心を改め、心が清くあって欲しいとは思わないでしょうか。また、もし、自分に害をなした相手が、形式的な謝罪をして、心の中で「謝れば自分はもう大丈夫だ」と思っていたら、赦し難いと怒りを覚えるのではないでしょうか。罪(律法違犯)を悔い改められないとは、このようなことを指すと思います。神の目にはこのように映っていると認識するべきではないでしょうか。かつて、ある事柄で手前が被害者側だった時、相手と話し合いの場が設けられました。手前は、怒りを感じつつも、相手の心からの謝罪で事を収めたいとも思っておりました。自分のためにも、相手のためにも形式的な謝罪では決して終わらすまいと思っておりました。それは単に怒りに駆られただけでなく、相手が何故そのような行動をしたのか、実際にその時に何が起きたかの真実を知りたかったからです。話し合いの場では「なぜそうしたのか」「その時どう思ったのか」とその時の場面を思い返してもらいながら、相手と状況を共有しました。相手は「後悔している」と言って、「これからは◯◯のようにしていきたい」とこれからの行動にまで言及してもらって、手前は初めて心から相手を赦すことができました。もしかすると、これは神に対する悔い改めと同じではないかと思いました。形だけで心が伴っていないのは相手を侮辱する行為です。神を本気で愛するならば、心を清めて、神に喜んでいただけるようにしようと、自ずと律法を遵守する姿勢へと至るのではないでしょうか。

 

 

ここからは「清める」について、反対概念の「堕落」の側から考察します。堕落とは日本語の意味としては『1 生活がくずれ、品行がいやしくなること。節操を失うこと。身をもちくずすこと。2 物事がその本来あるべき正しい姿や価値を失うこと。3 おちぶれること。零落。4 落ちること。墜落。出典:デジタル大辞泉(小学館))』等とあります。本来、神が造られたものは極めて良かった(創世記一章三十一節参照)のですが、アダムとエバが神の言いつけに背いたことで罪を犯し、『罪への弱さを持った人間の堕落した本性と肉体的な死(第一の死)(引用:真の聖書福音と預言「罪について」)が我等に受け継がれるようになりました。ただ、我等は生まれながらに罪人なのではなく、誘惑に負けて罪を犯した時に罪人になるということであり、罪を犯さないように悔い改める必要があるということです(参照:上記引用に同じ)。

罪を犯さない状態が堕落する前の状態であることを考えると、上記の堕落の意味の真逆は、神の民に相応しい性質であることを表していると思います。「堕落」の意味を逆にすれば、品性が整っていること、神の民として正しい姿をすること、天に宝を積むこと、神に属するといった言い方ができると思います。上記の同引用記事においてミカエル氏が『罪は行為の作為、不作為という選択の結果』と言っておりますが非常に的確な表現です。

 

ところで、ツイッター上でコロナワクチンについて「未必の故意」があると指摘する投稿がありました。未必の故意とは『犯罪事実の発生を積極的には意図しないが、自分の行為からそのような事実が発生するかもしれないと思いながら、あえて実行する場合の心理状態。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』を指すそうです。以下がそれらの投稿です。

 

 

ワクチンを勧めるワクチン信者たる医師は「副作用があったとしても、政府や医師会や学会が推奨しているのだから大丈夫なのだろう」と思い込んでいると思われます。死に至らしめる意図はありませんが、何かしら副作用が(程度の差はあれ)起きるかもしれないが、「感染拡大」や「重症化を防ぐ」のだから、やむを得ないとの思いが優るが故に、敢えて推奨していると思われます。犯罪による結果の発生は確実ではないものの、結果が発生しても構わないと容認している状態と捉えられます。このような未必の故意は意図的な犯罪であることと同等に評価されるようです。害を予期し得たのか、の観点は重要であると理解できました。

そして、これを神の律法・掟・戒めに当てはめた場合、「未必の故意」と同じような違犯を犯す心理が起こり得るので注意が必要と思いました。「薄々、これは神の律法に違犯しているのではないか、しかし、世俗事情からやむを得ない」と思いたくなるような誘惑は様々あり得ます。悪い結果を明確に意識せず、「仕方がない」との考えに傾斜すれば、違犯するのはあっという間です。特に、違犯を意図しなくても、誘惑に駆られたり、自分の不注意や無知に起因するような違犯は、未熟な内は特に起こりうると思います。聖書知識の未熟さ、分別の未熟さ、浅はかさなどは、「蟻の穴から堤も崩れる(ほんの僅かな不注意や油断から大事が起こることの意味)」の通りです。これらは自分自身の失敗を踏まえての教訓でもあります。

 

話を堕落に戻します。堕落の言葉は(類似する言葉も含めて)、聖書の至る所で遣われております。参考までに以下を挙げます。

 

創世記六章十一節(引用:真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 後編」

地もまた神の御前で堕落し、暴虐で満ちていたからや。

 

詩編百六編四十三節(私訳)

主は何度も彼らを救い出したが、彼らに対する忠告に彼らは従わず、彼らの違犯行為によって堕落した。 

 

ヘブライ人への手紙四章十一節(私訳)

それゆえ、同じ不服従の例に倣ってその者が落ちないように、我らは安息へ入るために努力しましょう。 

 

ヨハネの黙示録十九章二節(私訳)

その裁きは真実で正しいからである。彼女の婚外性交によって地を堕落させた大淫婦を裁き、彼女の手によるご自分の僕たちの血に復讐されたからである。 

 

堕落(שָׁחַת)』の原語には「腐敗」「逸脱」、他にも「崩壊させる」「台無しにさせる」の意味があります。堕落のもたらすものは腐敗であって、神にあって本来は良しとされたもの(創世記一章三十一節参照)が、やがて罪によって台無しになるとはその通りです。逸脱の言葉も象徴的で、本筋や決められた範囲から逸れるとは、律法違犯そのものです。イザヤ書四十七章十五節にも自分勝手に逸れていったと、悪しき様を表しておりますが、神に拠らず自分の考えに従った結果です。詩編百六編四十三節にも、主が何度も助け出そうとしたが反抗して、自分勝手に振る舞って罪の故に堕落したと書かれております。ヘブライ人への手紙四章十一節にあるように不従順によって堕落してもなりません。また、ヨハネの黙示録十九章二節にある大淫婦はローマ・カトリックです。太陽崇拝、太陽暦、クリスマスやイースターなど異教の教えを世の常識と言えるまでに浸透させ(偶像崇拝させ)、この世において神の秩序を著しく乱したという意味では地を堕落させたと言うに相応しいです。今や偽りが世のほとんどを占め、正しいものが認識されず、まさに細い道を見出だそうとしなければ認識できないほどです。

 

堕落に相当する悪い状態について、間近に起こる大艱難を記したヨハネの黙示録から挙げてみます。

 

ヨハネの黙示録二十一章八節、二十七節(私訳)

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、殺人者、婚外性交する者、魔術師、偶像崇拝者、全ての嘘つき、彼らの運命は火と硫黄の燃える池の中、それは第二の死である。

子羊の命の書に(名を)書かれた者を除いて、汚れた者、偶像崇拝を犯す者、嘘をつく者は誰でもそこへ(神の都)決して入れない。

 

上記にある臆病な者は、大艱難の中で迫害を恐れて、神の律法・掟・戒めを守るよりも身の保全を優先して、神への忠実を曲げることが考えられます。それは現段階において、迫害と言える状況が無くても、人目を恐れてキリスト者としての行動が出来ない事柄があれば真っ先に改めるべきです。平時でそうなのであれば、ましてやあからさまに迫害が始まる中で、神に忠実でいられましょうか。

不信仰な者は、聖書真理やキリストの教えを信じない者であり、残念ながら世の大多数を占めます。聖書真理に立てないようでは論外です。

忌まわしい者は、嫌悪感を抱かせる者であり、汚さや腐敗をも含む意味合いがあることから律法違犯をする者、特に平気でそれを行う者や唆す者等を指すのではないかと思います。

殺人者は、説明するまでもありませんが世の法においても、律法においても禁忌です。問題は先にも挙げたワクチンの未必の故意のように、明確に殺人であると当事者が意識していないようなことがあるのではないかと思います。例えば、親が子どもへワクチン接種させることはモレクに生け贄を献げるに等しく(レビ記十八章二十一節参照)、当の親はそれを認識できていないのではないでしょうか。このような無自覚な違犯は痛ましくもあり、恐ろしくもあります。

婚外性交者は、そのまま姦淫の罪ですが、主イエスが言われたように情欲を抱いて女を見る者は姦淫を犯す(マタイによる福音書五章二十八節参照)とあるため、相当に内側を整えなければ適法な品性となるのは困難です。また、花婿たる主イエスと花嫁たるキリスト者の関係から偶像崇拝の意味もあります。

魔術師とは、神の忌み嫌われる行為であることは言うまでもありませんが、ミカエル氏の『黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編』等の記事にあるように薬は魔術でもあるため新型コロナウイルスのワクチンもさることながら、薬による治療が、神に頼らない行為であり要注意です。特に安易に「医者にかかる」ことが常識とされる中にあっては無自覚にこの罪に陥っている方が多いと思われます。

 

偶像崇拝者について、神ならぬ者を拝む行為は御法度であり、説明の必要は無いほどです。日本においては、仏像等が寺院や家庭の仏壇など至る所に我が物顔で鎮座しており、悪霊を拝んでいることも知らず、敬虔とは裏腹の罪深い行為です。

嘘つきは、偽りであり、原語には「欺く」「人を惑わす」の意味があり人を滅びに導く不義の業であるのは言うまでもありません。「間違った」「不正」「誤った情報に基づく」といった意味もあることも重要だと思います。意図した嘘でなくても、不正確な情報によっても人を惑わしうるため慎重さが必要であることが窺えます。自分の話したつまらない言葉もすべて、裁きの日には責任を問われる(マタイによる福音書十二章三十六節参照)とあることにも符合すると思います。

汚れた者について、原語に「神聖さを汚す」「冒涜する」「邪悪」の意味があり、ここまでに挙げてきたような律法違犯は神の秩序を乱して、損ねる行為であり、「汚れた」に相応すると思います。

(ヨハネの黙示録二十一章二十七節にある忌まわしい者と嘘を言う者は重複するため省略します。)

 

ヨハネの黙示録二十二章十五節(私訳)

犬(のような者)、魔術師、婚外性交する者、偶像崇拝者、嘘を愛して嘘をつく者全ては外にいる。

 

こちらもここまで説明してきた内容に重複しております(詳細は省略します)。これらの者に対する報いが第二の死です。また、このような者たちは都に入られない、即ち、神の王国に入ることができないと言われております。ここで改めて強調しておきたいのが、偽福音である福音の三要素の主イエスを信じれば救われるは嘘だということです。主イエスを信じるだけで、悔い改めなければその中身は何も変わっておらず、上記にあるような第二の死に至る性質を帯びていることになり、そのような者が神と共に永遠に居させていただくには値しないと思います。

主イエスは姦通の女をモーセの律法の司法律法によってこの世で裁くことをせずに赦す代わりに罪を犯さないように諭されました。要するに、悔い改めの勧告です。(略)主イエスの御言葉は、神の律法に反する不法行為が有罪ではなくなったことを意味するのではなく、実際は主イエスの温情により地上で生きている間に悔い改める機会を与え、死刑執行を猶予されただけです。したがって、もし主イエスの御言葉に逆らって悔い改めず、懲りずに何度も神の律法に反する不法行為を繰り返して改めないならば、主イエスはその者の第一の死後に裁きの場で弁護されず、第二の死に引き渡されることで死刑執行をなされるでしょう。この地上で神による制裁を受けない、罰の報いをすぐに受けないことをいいことに調子に乗って罪を犯し続けて悔い改めを拒んでいれば、必ず死後に地上で生きていた時に溜め込んだ罪の報いをまとめて受けます。クレジットカードのように後払いであり、罪を犯した直後に罪の報酬を払うとは限りませんが、後で必ず罪の代償は支払うことになります。このように、司法律法の実際の効果は実質的には消えることはなく残り、主イエスの御言葉どおりに律法は一点一画も廃ることはないのです。このことは姦淫に限ったことではありません。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」

この説明は非常にわかりやすく、全ての聖書を読む者たちはこれを心得なければならないほどに重要な事項です。悔い改めなければ滅ぶとの主イエスの言葉の真意はここにあります。

 

 

今度は、「堕落に相当する悪い状態」として挙げた、「神の国に入られない者」の対極に位置する「勝利を得る者」について触れていきます。ヨハネに黙示録には「勝利を得る者は」から始まる文が以下のように幾つも出てきます。

 

勝利の結果の約束

勝利を得る者には、神の楽園の中にある命の木の実を食べさせる(ヨハネの黙示録二章七節参照)

勝利を得る者は、第二の死から決して害を受けない(ヨハネの黙示録二章十一節参照)

勝利を得る者には、隠されていたマナ、白い小石を与える(ヨハネの黙示録二章十七節参照)

勝利を得る者には、諸国民の上に立つ権威を授ける(ヨハネの黙示録二章二十六節参照)

勝利を得る者には、明けの明星を与える(ヨハネの黙示録二章二十八節参照)

勝利を得る者は、白い衣を着せられる(ヨハネの黙示録三章五節参照)

勝利を得る者を、我が神の神殿の柱にする(ヨハネの黙示録三章十二節参照)

勝利を得る者を、我は自分の座に共に座らせる(ヨハネの黙示録三章二十一節参照)

勝利を得る者は、我がその者の神になり、その者は我が子となる(ヨハネの黙示録二十一章七節参照)

 

命の栄冠に値する白い衣や永遠の命が与えられること、神の王国で神と共に過ごすことが記されております。まさに眩いばかりの栄冠です。

 

では、勝利とは何でしょうか。キリスト者が、反キリストの圧制、誘惑と迫害に対して、死に至るまで信仰をしっかりと保持すること(ヨハネの黙示録二章十節・二十五節から二十六節、三章十節から十一節、十四章十二節等参照)です。罪を犯す誘惑に駆られながらも、罪を犯さないこと、即ち、罪に打ち勝つことです。

 

ヨハネの手紙一 五章四節から五節(私訳)

神から生まれた者は世に打ち勝つからである。これは世に打ち勝つ勝利、我らの信仰である。 

誰が世に打つ勝つか。主イエスが神の子であると信じる者を除いては無い。 

 

ヨハネの黙示録十七章十四節(私訳)

彼らは子羊と戦い、子羊は彼らに打ち勝つだろう。子羊は主の主、王の王であり、子羊と共にいるのは招かれた者たち、選ばれた者たち、忠実な者たちだからである。

 

最期まで守り通すことが全てです。ところで、エゼキエル書二十八章にはサタンの堕落について言及があります。その中のエゼキエル書二十八章十六節『お前の多くの取引の故に、お前の中に不義が満ちた。(私訳)と書いてあります。何故「取り引き」なのでしょうか。何と取引したのでしょうか。『רְכֻלָּה(取り引き)』には「不正に取り引きする」の意味もあります。また、『取り引き』の日本語には「売買」の他に「 互いの利益のために双方の主張を取り入れ合って妥協すること。(引用:スーパー大辞林)」の意味もあります。更に「妥協」とは「対立していた者の一方が他方に,あるいは双方が譲ることで意見をまとめること。(引用:スーパー大辞林)」です。何に対して妥協したか、それは自分自身(ここではサタンの)の自我ではないか思います。最高位の者になろう(イザヤ書十四章十四節参照)、高慢になった(エゼキエル書二十八章十七節参照)の言葉がそれに当たると思います。自我を優先すれば神の掟は守り得ません。主イエスが、御自分に付いて来たい者は自分を捨てて、自分の十字架を背負って従いなさい(マタイによる福音書十六章二十四節参照)と言われたことの意味がここからもよくわかります。

 

勝利のために何をすれば良いか、当然のことですが内側を整えて、且つ神の律法・掟・戒めを守ることです。その上で、耳ある者は霊が諸教会に告げることを聞くが良い(ヨハネの黙示録二章七節・十一節、十七節・二十九節、三章六節・十三節・二十二節参照)と七つの教会に対して言われた言葉の一つ一つにも留意するべきです。特にラオディキヤの教会の状態が、現代のキリスト者の姿であるため、こちら(真の聖書福音と預言「生温い信仰への警告」)を参考にして悔い改めることを勧めます。

 

備えなければなりません。神の掟を守り、主イエスの信仰を死まで持ち続ける忍耐(ヨハネの黙示録十四章十二節参照)が求められるからです。ヨハネの黙示録六章九節にも神の言葉とその者たちが保った証しの故に殺された魂について言及されており、かつての預言者のように殺される者もおります。命を惜しまずに、その時に正しい選択が必要です。

大艱難が始まった時、主イエスは罪を赦す働きを一切やめられます。その時、全人類はキリストの再臨まで、主イエス・キリストという仲介者なしに生きる必要があります。だから、クリスチャンは主イエスが罪を赦す働きをなさっている今のうちに神の律法、掟、戒めと主イエスの御言葉から学んで品性を磨いて、キリストに限りなく近い品性を持った完全な者となれなければ、ふるい落とされて不信仰の者や異教徒らと同じように獣の刻印を受けます。

 

引用:真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」

前回記事でも触れたことですが取り返しがつかない時期に突入するのが大艱難です。また、これまでに述べたように目先の小さな妥協が堕落に繋がります。故に、(日々の過ごし方の)細部には拘るべきだと思います。「このくらいは大丈夫かな」と高を括ることが命取りになります。個人的な話ですが、「粗くても良いから、まず仕上げる」という大雑把さが習慣になっていた思います。特定の高い水準や緻密さを要求される場面があれば相応に対応してきたつもりですが、基本姿勢がそのようだと他にも伝播していきます。よく「練習ですら出来ないのであれば、本番ではましてや出来ない」と言ったりします。そういう意味では、今は残り少ない練習できる期間にも例えられると思います。そうなのであれば、今は必死に失敗を分析して、確実に改善(悔い改める)ことです。

手前の恥ずかしい話ですが、手前は真のキリスト者として生きる前、狭い世界でまずまず評価されて、自己満足してきたに過ぎませんでした。真のキリスト者としての始まりは、過大評価していた自己認識を砕き、等身大の自分を見つめ直し、且つ、真のキリスト者が非常に高い水準が求められていることを認識することからでした。「井の中の蛙」の言葉は知っており、何度か実際に経験する機会もありましたが、キリスト者としても改めて経験することとなりました。不出来な自分が神の民に相応しく在るためにはどうすれば良いかを考えて、積み上げなければなりません。

これは「勉強」という分野だけに限った話ではありません。努力して何かを成し遂げる人は、往々にして「目が良い人」だと感じます。

 

僕が偏差値35だったときは、問題を間違えても、普通に「間違えちゃったなー」「気をつけなきゃ!」としか思いませんでした。しかし東大生は、そんな風に自分のミスをふわっとさせたままで終わらせることは絶対にありません。

 

「なんでここで間違えたんだろう?」と深く考えて、「これはきっと、この知識がなかったから解けなかったのだろう」「この問題形式に慣れてなかったからこういうミスをしてしまったんだろうな」などと、自分のミスを次に活かせるように分析しています。「間違いを分析する目」を普段から養う訓練をしていて、そのスキルが身についているということです。

 

引用:東洋経済オンライン

手前も引用文の通りで、『間違えちゃった、気をつけなければ』の気持ち、意気込みで終わっておりました。断言できますが、この緩い対応では絶対に改善はできません。「何故、ここで間違えたのか」を分析して「知らなかった」からなのか、「間違えた時の作業環境に問題があった」からなのか、「間違えた時の精神状態は落ち着いていたか」、「間違える要素がどこにあったのか」など、行動を分析するように細かく見ていかないと、改善という行動に反映のしようがありません。確かに、大雑把、細やかなど元々の性質の違いはあります。しかし、「自分は大雑把な性質だから」で終わらせたら、細部に拘る能力を磨かないままで終わってしまいます。上記の引用にも書いてありますが、勉強に限った話ではなく、仕事にも信仰にも応用が効くことだと思います。「間違いを分析する目」を持つことがキリスト者としても緻密に生きることに繋がると思います。

 

ところで、罪への誘惑がある時というのはどんな時でしょうか。人によって様々だと思います。手前個人の振り返りですが、欲求が昂った時、他人からの要求(社会的都合)があった時、これらに不注意さが相まった時が特に危険だと思っております。

例えば、食欲や性欲などは人間である以上は避けられないものがあります。個人的には大食の習慣がありました。これも自制しないときりがなく、大食の状態に慣れてきて、更に食を欲すという、まさに貪欲に陥ります。食欲を自制できていないと自分の心の規律を司る働きが著しく弱まるのを感じるため、食欲の自制は手前にはとても大きな事項です。今や食糧危機が演出されており、実際に食糧が手に入らない事態がそう遠くない内にやってくる可能性があります。究極的に、獣の刻印がなければ売買ができなくなった時に、食糧のために屈するのかということが問われます。エサウは空腹のあまり、たった一度の食事のために長子の権利を明け渡してしまいました。声を上げて泣いても覆りませんでした(創世記二十七章三十八節)。『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節:私訳)』と書かれており、決して取り返せない深刻さがあります。このようであってはならず、教訓にしなければなりません。また、性欲も当然に自制が必要です。数十年も前から、世の中には恋愛重視の風潮や付き合った恋人や性交渉の数を誇るような風潮が満ちておりました。コンビニに行けば、子どもも利用するにもかかわらず成人向け雑誌が平然と陳列され、まさに「3S作戦」そのままに性的放縦を推進して堕落しているのが世の実態です。ツイッター上でも性欲の自制についての苦悩を口にするキリスト信仰を持つ者の投稿を時々見かけます。かつて、上杉鷹山という人物は公娼を廃止しました。廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったそうですが鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」と主張し、実際に廃止しても何の不都合も生じなかったという逸話が残っております(参照:ウィキペディア)。自制が出来ないなどということは無く、誘惑の多い媒体の存在など、普段の生活環境(特に目にするもの)の影響が多いのだと思います。罪を犯さないためにも生活上の配慮を真剣になって図れば、多くの誘惑を排除できるはずです。

他人からの要求(社会的都合)について、最たるは人の目です。わかりやすいのは仕事などの理由で安息日を完全に守られないなどです。昨今は第一日目(日曜日)は休みであっても第七日目(土曜日)が休みではない勤務形態が多いです。交代勤務だったりすると、要求にも限りがあることでしょう。手前もかつては不定期に割り当てられる第七日目(土曜日)の業務への対処(休みの確保)には難儀しました。上司に話しても「信仰のことはわかったが、仕事なのだからやってくれ」と言われ、安息日の重要性がわからない不信仰者の理解ではらちがあきませんでした。人付き合いも不信仰の時のようにはできません。いわゆる週末は何かしら出かけたり、飲食を共にする催しが多いのも事実です。また、葬儀の場は信仰が試される場面です。信仰を理由に言うべきは言い、やってはならない行為(拝む等)は断るべきです。身近な親族だから言いにくいということもあるかもしれません。個人的にも勇気が要りましたが、引いてはならない場面です。

不注意について、言葉の通りに「うっかり」がもたらす失敗です。いろんな内容があり得ますが、例として「嘘」を挙げます。相手のためという名目で「優しい嘘」(参照:ハッピーライフ)をつくことが手前はありました。相手のためと言いながら、要は自分が本当のことを伝えるのを怖がったり、面倒なことになるのを避けたいだけだったりします。これも習慣化すると、嘘を言っている自覚が曖昧になるので危険です。言った後で、嘘に気づき、「何でこんなことをしたのか...」と思うことは何度かありました。律法の規定の字面を覚えるのも大事ですが、実際の場面と整合させる感覚をきちんと身に付けないと、違犯を犯したり、不足が生じたりします。うっかりの類の不注意が出てしまうのは、心の緩さだけでなく、根本的な性質が改まっていないために、図らずも表出するのが「不注意」なのだと思います。だから、性質が改まらないとその場の努力や対処だけではどうにもならないのだと感じております。

 

ある時、記憶に埋もれていた過去の罪を思い出しました。具体的内容の言及は避けますが、過去の出来事を急に思い出し、胸が苦しくなりました。この苦しさを取り除いていただきたいと思いました。しかし、本当にそれで良いのだろうかと思い至りました。自分が楽になりたいから罪の赦しを乞うのは、本来ではありません。卑怯にも思えました。苦しいですが、罪を犯したその状況に真っ直ぐに向き合うのが本来なのだと思いました。その時、紛れもなく、自分も違犯行為の故に死刑囚に相当する立場なのだと心から認識できました。頭の中の理解だけではなく、心の底からです。死刑囚たる自分が神に罪の赦しを乞うことすら、おこがましいのではないかとすら思いました。仮にも、ただ赦されて、それで良いのだろうかと思いました。ここに悔い改めの真髄があります。自らの生き方を改めて、自分の残りの生涯を神に献げるべく、神の御心を為すことで応えたいと心からそう思えました。そして、『過去を忘れるのではなく、囚われる(引きずる)のでもなく、教訓として持って学んだなら、最終的な勝利に近づくことができます。(引用:真の聖書福音と預言「人生の過去と主イエスに従う覚悟」)』という姿勢が大事です。こちらの記事は過去や罪にどう向き合うかについて非常に大事なことを教えてくださり、こちらもまた必読の内容ですのでぜひご覧になってください。

 

マタイによる福音書十章三十八節(引用:真の聖書福音と預言 【第四回】正しい聖書の底本とは

自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。

 

これまでに無く、強烈にこの言葉が迫ってきたように感じました。(この箇所に限らず、個別に深く認識できる機会がしばしば与えられ、とても不思議に思います。)自分が罪人であることを弁えると、とてもではないが自我を主張する気にはなれず、ただただ主に対して「然り」の気持ちが湧き、自分を消す(捨てる)ことが今までよりも、より深く理解できました。ところで、『十字架(σταυρὸν)』の原語の定義には、「死刑としての十字架」、その道具としての「棒や杭」、「キリストの贖い」の意味があります。また、改めて調べて「自己否定」「克己」「自己犠牲」の意味も確認できました。まさしく、真の聖書福音と預言「自我との戦い」で言われていることそのものです。その記事の中で言われている『自我というものを十字架につけ、自分というものを無くし、ひたすら主イエス・キリストの御心のために生きる』『自分を無にし、神の力が十分に働くことのできる環境を自分の中で整えなければなりません。自分を0にし、神を100にし、神の力が100%働くような状態を目指し』の言葉の意味がとてもよく理解できました。「せめて残りの生涯を主がお命じになられたように歩かせてください」と一言祈りました。何故急に思い出したのか、おそらくはその事柄を十分に教訓にできておらず、自分の中でくすぶっていたのかもしれません。過去のことは取り返すことはできません。しかし、『兄弟たち、過去に何があったとしても、それを負い目に感じたり、罪悪感に苛まれることのないように。繰り返し申しておきますが、これは綺麗さっぱり過去を忘れることを意味しません。「失敗は成功の元」とも言うように、過去は、勝利への過程だった、主イエスを知るきっかけだったと考え、過去の罪は教訓として忘れずに持っておきなさい。そして、それを繰り返さないと常に念頭に置き、日々生活してください。口先だけでなく、行いで示すのです。(引用:真の聖書福音と預言「人生の過去と主イエスに従う覚悟」』と受け止めて、行動するべきでしょう。主イエスは悔い改めなさいと言われました。だから、自分としてはこれまで生きてきた時間よりも、もっと短い残りの(人生)時間の中で悔い改めを体現するまでだと思います。

世に属する人間もまた神に従い得ないのです。彼らは火の池に入れられて滅びたくないという理由から無理をしてでも神に従おうとして神の律法を守ろうと試みるのですが、必ずどこかでつまずきます。そうこうするうちに、神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり、従うのをやめます。そして、これではいけないとまた無理に従おうとしてもまた同じことの繰り返しで失敗します。彼らが神の律法に従うのが完全に無理だと悟った時、神の律法を変更したカトリック、神の律法を廃止されたことにするプロテスタントという二大背教勢力のいずれかに大多数が加わり、似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚するのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」

上記をとても重要な戒めとして受け止めております。自分を捨てられなければ手前もこのようになります。過去の罪を思い出した話を挙げましたが、『このために我はお前に言う。この女の罪が多く赦されたので多くを愛したが、赦されるのが僅かな者については愛するのが僅かである。(ルカによる福音書七章四十七節:私訳)』の言葉が思い起こされます。主イエスが成して下さったことを思うと、主イエスに従わず、倣わずにはいられようかとの思いが湧いてきます。また、上記の『似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚する』は恐ろしさを感じる結末です。こうやって生温い者が集まって安心しようとする、安心できてしまうとは何たる堕落でしょうか。ヨハネの黙示録十一章十節に、終末に現れる二人の証人が神の証をして、地上の人々を苦しめたが故に、死んだ時には彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りする(参照)とあります。世に属して、獣の刻印を押されても尚、世を謳歌する汚れた人々にとって、神の義は実に居心地が悪く、神の義からかけ離れているが故に苦痛に感じるのだと思います。カトリックもプロテスタントも偽福音でしかありませんが、両信者は大元に疑問を呈することなく、律法遵守するようにとの指摘には激しく反発します。以下の図はそのことを上手く言い表していると思います。

 

画像引用:https://twitter.com/yosshiy_aki6/status/1653740074822176769?s=20

 

思えばコロナ犯罪においてもそうであったと思います。自分たちが信じている嘘・偽りに浸って、その中で「正しく」歩んでいるつもりのコロナ教信者たちに、「それが事実では無い」と言った時の反発した者たちの反応に似ております。不信仰者であっても、にわかキリスト者として歩んだ者も、神の義を突きつけられるのは疎ましさを超えて、まさに剣で貫かれるように、事実、御言葉の剣で貫かれて、非常に苦痛を感じるのだと思います。だからこそ、悔い改めて、正しく在るべきで、これ以上の負い目を生じさせるべきではありません。ヨハネの黙示録三章一節に、生きているとは名ばかりで、死んでいる(参照)と書かれた箇所があります。後の四節に衣を汚さなかったとあるので、おそらく正しい行い、整った品性を纏ったとは言えない、第二の死に相当する状態にあるキリスト者を指すのだと思います。しばしば『○○が出来なければ(なれなければ)、自分は死んだも同然だ』という言い方をすることがあります。全てに優って実現しておきたい事柄がありも、もしそれが叶わなければ、もはや生きたとは言えないとは、信仰もその通りだと思います。実際、神の要求水準に達しなければ、まさしく死んだ状態と同じです。手前も、もしこの生涯において、機会が与えられながら、神の要求に応えられなかったら死んだも同然と思います。比喩でもあり、実際のことでもあります。それは決して、救われたい、第二の死を恐れるということばかりではなく、汚れた状態に留まることが不快で堪らず、嫌悪すら感じ、心から欲する生き方や状態は神の求める高潔さに合致するという感覚があります。(口先だけだったら意味はありませんが)その到達像を思い描いた時に、『神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり』という状態は起こり得ないと思います。

 

ペトロの手紙一 一章十五節から十六節(私訳)

お前たちを召して下さった聖なる御方のように、お前たちも全ての行いにおいて高潔であれ。「お前たちは高潔であれ。我が聖なる者だからである。」と書かれているからである。

 

この使徒ペトロの言葉に尽きると思います。また、神に認めて頂けるように励みなさい(ペトロの手紙二 三章十四節参照)、御子の内にいつも留まれば御子が来られる時に御前で恥じ入るようなことが無い(ヨハネの手紙一 二章二十八節参照)、御子に望みをかけている者は皆、御子が清いように、自分自身を清める(ヨハネの手紙一 三章二節から三節参照)の言葉の一つ一つが、全て一致して同じことを言っていると思います。

 

正しく在れば、正しく悔い改めることができ、負い目は無くなると思います。負い目があるから、義に対して歪んだ恐れや不快感や怒りが生じるのだと思います。正しく在らねばならないのはその通りなのですが、その背景にある神のお招きへの感謝、死んだも同然の自分に救いの機会を与えてくれた神への感謝を前提にするべきです。肉なる自分を放棄して、新しく生まれ変わり、神のお招きに応えて参りましょう。このことが人の生涯の全てです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「真っ直ぐな道を最期まで」と題して、聖書真理によって全ての物事の捉え方が一変することや聖書真理によって首尾一貫した感覚を持って神の真っ直ぐな道を歩き、神に栄光を帰すことについてお伝えしていきます。

 

このブログは、どこかにいる失われた羊が聖書真理に出会い、聖書真理に確信を持ち、羊飼いである主イエスの声(言葉)に聞き従えるようになることを目的としております。この記事をお読みになった方は、そもそもどんな方がキリスト信仰を持つに至っているとお感じになるでしょうか。もし、何か特別な肩書きがあるとか、特別な知識があるとか、信仰のある身内がいるから等と思っているとしたらそれは大きな勘違いです。信仰を持つのに何ら社会的な条件は必要ありません。貴方が聖書をご自分で読んで、これが真理だと信じられることが全てです。読みもせず、誰かが言っているから大丈夫と考えるようでは真に信仰を持つことは出来ません。仏教の檀家のように家単位ということは決してあり得ず、また、趣味のように誰かに合わせて信仰を持つといった性質のものでもありません。こちら(真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)にあるように信仰は神からのお招きによって始まります。昨今、こちら(ウィキペディア)やこちら(NHK WEB)のように統一教会やエホバの証人などの宗教二世の問題が注目されております。そもそも親子や兄弟と言えども人格が異なるのですから、思想や信条が異なるのは当然で、強いた所で何も良いことがありません。ちなみに手前は自分の系譜を数代遡ってもキリスト信仰は手前だけです。統一教会やエホバの証人は真理に属さず、社会常識からも逸脱する考えと行いを強要するのですから、いわゆる宗教二世の方々が何かしら精神的に支障を来たしたとしてもおかしくありません。いずれにせよ、信仰は強要出来る筋合いのことではありません。その人の自発性が全てです。神の言葉に立ち、世の流れに抗ってでもキリストの教えに留まりたいと思えるのが信仰です。神への愛を説くのがキリスト信仰であり、愛は強いるものではなく自発です。実際、信仰に入った所で躓く者が多く、招かれても選ばれる者が少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)ことや主イエスも十二使徒以外が主イエスについて行くことが出来ずに離れ去った出来事(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)が聖書に記されております。それ故、従い通せるのが真の信仰と言えます。この信仰に至るには神を愛し通し、それを阻害する自己愛(神以上に大事にしようとするもの全て)を捨てることが避けられません(マタイによる福音書十六章二十四節参照)。この信仰心は人の手で作り出すことは出来ません。誰かに分けることも出来ません。信じるという意思を個人が持つ以前に、神が招いてくださったが故に、信じようとする下地が出来て神の愛に報いようとすること、聖霊の導きなどの要素によって成るからです。

 

冒頭に挙げた「失われた羊」について、羊とは神に招かれて選ばれたキリスト者です。ヨハネによる福音書八章三十一節・十章二十七節にあるように主イエスの言葉に留まり、聞き従うキリスト者です。神を愛して神の律法・掟・戒めを守るキリスト者が真の羊です。失われたとは、本来は羊飼い(主イエス)に所有(属す)されているにもかかわらず、現段階においては主イエスを知らず、繋がらず、俗世を彷徨っている未信仰の状態の者と言えます。現実としては、今は主イエスを知らなくても、救いにあずかるように神によって選ばれている状態です。主イエスは失われた羊の所に行くようにと言われ(マタイによる福音書十章六節参照)、主イエス御自身も失われた羊の所に遣わされた(マタイによる福音書同十五章二十四節参照)と明言されております。これまで挙げてきた聖句からも救われるのは少数と分かります。また、救いの対象が血統イスラエル人だけでなく異邦人にも及びましたが、狭き門であることには変わりありません(参照:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)。誰が失われた羊であるかは人には分かりません。『朝にお前の種を蒔け、晩にもお前の手を止めるな。お前は成長するのがこれか、あれか、あるいはこれら両方が同じように良いのか(結実するか)を知らないからである。(コヘレトの言葉十一章六節:私訳)』の言葉は作物のことだけでなく、福音伝道にも応用出来ると思います。だからキリスト者は主イエスが命じたように手を止めずに福音を伝えるまでです。大勢の人々に真理を伝えて行く中で、その中に紛れている失われた羊に届き、『その時にはお前たちは羊のように彷徨う者たちであった。しかし、お前たちの羊飼いと魂の監督者の所へ戻ってきた。(ペトロの手紙一 二章二十五節:私訳)』の言葉に行き着くことを期待するばかりです。

 

なぜ福音を届ける必要があるかと言えば、永遠の滅びから救うためです。神は不信心な者を罰します。何が正しいかは聖書真理が教えてくれます。しかし、我々は通常に生育、生活する過程において世の常識(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、コロナ・マスク信仰、太陽暦、洋服、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を植え付けられます。人によっては疑ったことすら無いかもしれません。しかし、これらが真実で正しいと言い切れるでしょうか。実際、これらは全て聖書に基づかない偽りでしかありません(聖書で書かれている大事な事柄に反する)。しかも、これらの考え(世の常識)に従わなければ変人かのような目で見られ、これらの考えに服している大多数の集団(社会全体と言っても良い)から締め出されて、生きていけなくなると脅しをかけられているも同然の同調圧力があるのは、コロナ犯罪を見ていれば分かることです。我らはこれらの常識に従って適応していくための存在ではありません。これらに従っていては不信心に陥り、神の罰によって滅びは免れません。昨今の異常なまでの世の悪化から、真実は何かを見出だそうとする人々が増えていると思います。このような現実の綻びに気が付いた時が聖書真理を信じる良い機会であると思います。聖書真理によってこの世を捉えると、この世の全てに対する解釈が変わります。「四十六億年前に宇宙の中に地球が誕生した」とは仮説どころか創作であり、進化論も同様に創作です(参照:真の聖書福音と預言「無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度」)。実際にはこの天と地は神が創造され、その期間は六千年と定められております(参照:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」)。聖書には、始まりを記した創世記にて人を惑わした蛇が、終わりを記したヨハネの黙示録にも悪魔やサタン且つ蛇や竜とも言われる、神に反逆する存在が書かれております。この悪魔はこの天地が存在する間、この世の支配者として君臨します。それ故、世は悪くなる一方であり、神が今の天地を滅ぼされ新しい天地を創造されるが如く、悪魔は悪魔崇拝者にとって都合の良い世界(新世界秩序)を構築しようとしております。今はその終わり際、ぎりぎりの時に位置しております。にわかには受け入れ難いと感じることもあるかもしれません。例えば、戦後の学校では、戦前から用いていた教科書のあちこちが黒塗りにされ、当時の教員達はその価値観の変わり様に非常に大きな戸惑いを覚えたそうです。今まで信じていたものが間違いだったという衝撃、信念の大転換は精神を揺るがすかつてない出来事であったと思います。聖書真理を知る時も同様かもしれません。しかしながら、聖書は創造主である神が万物の始まりと終わりを告げ、且つ神の言葉は永遠に変わらず固く立つ(イザヤ書四十章六節から八節参照)と確固としている点が世に溢れる全ての「常識」に優り比類なき点です。世俗の例えで恐縮ですが、漫画や小説やテレビ演劇において、初期段階で作品の結末が決まっていないと人の評判に左右されて物語の展開が行き当たりばったりとなり、矛盾が生じ、駄作になることがしばしばあるそうです。それに対して、良い作品は結末が最初から明確に定まっていることが多いそうです。そのような作品は素人目にも結末に至る展開に無駄や矛盾がなく、ぶれないのが分かります。これは虚構の例ではあります。しかし、この事柄を踏まえると、この世界の全てを創造して、展開の全てを結末に至るまで定めておられる神のご計画(聖書真理)は完全で論理的であると言えます。もし聖書を読んでいて矛盾を感じたら、それは解釈が間違っている可能性があります。このように『聖書の預言を読んでいてどこかで躓いたら、別の箇所に答えを求めてください。決して、思い込みで判断したり、私的解釈を施してはなりません(ペトロ二1:20参照)「引用:真の聖書福音と預言(聖書預言の正しい解釈方法)」』との注意を踏まえて、聖書内を参照して確認すると良いでしょう。また、主の書に欠けは無いと書いてあります(イザヤ書三十四章十六節参照)。ただ、偽使徒パウロの書簡のようにあからさまに主イエスの言葉に矛盾している例もあります。こちら(真の聖書福音と預言「「パウロは偽使徒」の動画」)の記事等を読んで、各位がご自分で確認することを勧めます。自分で認識することが大事だからです。世のパウロ教信者からは感情論の反発しかありませんが、ミカエル氏は『私は独自の教義を述べているのではなく、聖書の真理やキリスト道を説いているのであり、それが聖書上まったく矛盾のない信仰であると宣べ伝えているのです。真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」)』とかねてより説明しております。何より、パウロ書簡は後世に聖書に編纂されたものに過ぎません(参照:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)。手前も世の教会に行っていた時、「聖書は六十六巻で誤りなき云々…」と礼拝参加者全員で定期的に唱和した記憶があります。ある種の洗脳のように思えます。おそらく牧師も参列者もその意味を理解しておらず、ただ慣例に倣っているだけではないかと思います。自分たちの認識の無い所で、誤った考えが正しいと刷り込まれるようにサタンの業が働いていたとしか思えません。それほどまでにパウロの偽福音は致命的に主イエスの言葉に反します。聖書に依拠する振りをしながら、偽福音伝道を延々と繰り返して「地獄の子」を再生産している惨状があります。世の諸教会の中でも、外の社会全体でも、世の権威に服した大多数の教えには滅びしかありません。真の道は狭苦しい(マタイによる福音書七章十三節参照)とある通りですが、なぜか聖書を読んだ者でもそれを見落とします。大多数に埋没すると、大多数の考えが正しいと信じ切るようです。結果、キリストの教えに留まることが出来ずに逸れることになります。まさにミカエル氏が言われているように篩(ふるい)です。

 

「聖書は論理的」であることについてもう少し触れます。聖書は、全体をきちんと読んで文脈を押さえると、各書の底流にある神の秩序やご計画などの筋道が真っ直ぐに伸びているのが分かります。また、こちらの図書(「そもそも「論理的に考える」ってどうすればできるの」著者:深沢 真太郎 )によると、論理(筋道)には必ず始まりと終わりがあると説明されております。そして、聖書も終わりと始まりを明確に書いております。天地創造、今の天地の終わる時、その終わり際にかつて無い大艱難があること、また全ての人間が問われるのは神への忠実であり、それによって死後の永遠の時の過ごし方を決めるということです。但し、「救われるために信じる」のでは利益信仰です。徹頭徹尾、神を愛し通せるかが全てです。聖書と反対の、世の常識に位置付けられた進化論は虚構でしかなく、始まりも終わりも分からず、神を認めないためどこまでも偶発的です。神に似せて作られた人間がそのような偶然の産物に貶められて、自らの存在の無意味さに耐えられるでしょうか。その意味を求めたとしても、世の宗教(背後にはサタンがいる)が真理以外の教えをさらに吹き込むという悪循環です。これもある種のマッチポンプのような構図に思えます。存在の無意味さに耐えかねるように仕向け、耐えかねる者に対しては更なる嘘(宗教)が受け皿になって取り込むようにも見えるからです。天地の始まりと終わりは創造主である神でなければ定められないことです。これを考えればこの世界の捉え方と人間の一生の意味は一変するはずです。後は、個々がそれを受け入れられるがどうかです。先には「信念の大転換」と言及しましたが、生まれ変わるに等しい大変な作業なのかもしれません。鳥の例ですが、『刻印づけ(引用:コトバンク)』という、雛が初めて出会った動く物体を親と看做す特殊な学習があります。こちらのサイト(Psycho Psycho)によると『鳥のヒナが自分がどの種族に属しているかを知る、きわめて短期間の、しかもやりなおしのきかない学習』と書いてあります。しかも『一度刷り込みが成立したら、その後も残り続けること』とも書いてあります。この性質を安易に人間に置き換えることは出来ませんが、人間においても人生の初期段階で学習した内容は強く残り、影響を受けることは容易に想像がつくと思います。実際、こちら(ツイッター)の動画にあるように、『人間の認知は最初に聞いたものを正しいと思うという習性』があることからも余計に、最初に身に着けて信じてきたものを更新ないし入れ替えるのは容易ではないのかもしれません。

拙者は、世の大多数の人間にとっては、かなり耳触りの悪い話をしている。なぜなら、それは真理やさかいな。多くの人々は、真理を知らへんし、認めようともせず、ついには真理を愛そうとせずに誤った教えの虜になり、真理を説く者や信じる者を攻撃さえし、最後は地獄行きで滅びる。それも彼ら自身は無自覚にそのようにするのが大半や。ほんまにそのように真理を嫌い嘘を信じる者どもは愚かで高慢なんや。自分がこれまで世間で聞いてきたこと、教えられてきたこと、勉強してきたことが全てで、それらが絶対的に正しいと思い込んどるが、その聞いた内容、教えられた内容、勉強した内容が嘘やったら、その結果もたらされるものは何か考えたこともないやろ。とてもあんたが欲していたものやなかったと、死んだ後に気付くやろが、その時には既に遅いし、取り返しがつかへん。今、これまでの経験は全て忘れ去って、拙者が書いたことを聖書や世の動向と照らして考えてみなはれ。拙者は、聖書の真理を宣べ伝えるだけやのうて、この世の誤った情報や教えを正すことをしてる。(略) 聖書は、鳩のように無邪気で蛇のように賢くなければ(マタイ十章十六節参照)、その真理を悟ることは出来ません。最初から何処かで聞いた話や教義を前提にしてると、それらが正しい信仰の前に立ちはだかる障壁になるさかい。コンピュータで例えれば、様々な情報処理集合体(ソフトウエア)を設置(インストール)したものを使い始めるのではなく、新品で何も設置されてへん状態にし、そこから正しい知識や信仰や経験等を積み上げて行くべきや。要するに、間違うた世の偏見や学校や報道機関等による偽りの情報を全部捨てて、初めから何も無い状態から正しいものを積み上げて行くということです。聖書を通読しながら、拙者の記事過去から順番に読んでいくことを推奨する。

 

引用:真の聖書福音と預言「自己紹介(Introduction)」

非常に分かりやすい説明です。手前からもコンピュータの例えを一つさせていただきます。コンピュータにはウインドウズやマッキントッシュ、リナックスなどのOS(基本ソフト)と言われるソフトがあります。原則、一台に一ソフトです。土台が全く異なるからです。デュアルブートと言われる二つのOSを同時に入れる設定も可能なようですが、それでも実際にパソコンを稼働させる時は同時には出来ません。また、実際にそのような設定をしても片方のOSソフトが更新(それも頻繁に行われる)された途端に不整合を起こしてパソコンが起動しなくなるなどの支障が起きます(参考:かえるのほんだな)。一度やったことがありますが、やはり不具合が起きて、復旧するのに本体(ハードディスク)ごと全消去する羽目になりました。当たり前かもしれませんが、全く異なる性質のものを両立させるのは本来では無いのだと思います。真理と世の常識も同様だと思います。軸に据えられるのは一つだけ、余計な干渉を防ぐにも片方を捨てるしかありません。

 

 

上の図は騙し絵と言われる作品の一つですが、一つの絵に二つの絵が混在しております。この絵には『片方の見え方が意識に上がっているときは、もう一方の見え方が消える。2つの見え方を同時に見ることはできません。脳がスイッチを切り替えることで、同じ絵なのに、違うものに見える(引用:日経Gooday )』という性質があります。真理と偽り(常識)に適用すれば、偽り(常識)が本物だと認識されれば、もう一つ(真理)は見えなくなると例えられるかもしれません。有るにもかかわらず、無いように(認識されない)するのは、真理を隠すサタンの業に他なりません。隠すのは知られたくないからです。騙すからには悪い意図があります。それはサタンと同じように、大勢を第二の死に至らしめるためです。

 

画像引用:真の聖書福音と預言「ほんまもんの愛と暦とは」

https://www.bitchute.com/video/QGxzCKPbK8rk/

 

上記の『今まで信じてきた世のことや信念が壊れる。それに長い物には巻かれた方が楽だし、余計な事を言って嫌われたくないし、迫害されたくない。』とは、多くの人に共通する思いなのかもしれません。ましてや楽をしたい、この世を謳歌したい者には実に不都合な実態が露わになるだけです。ミカエル氏の伝える福音は題名通りに真の聖書福音で「聖書上まったく矛盾のない信仰」です。言っておられる内容を手前も聖書から確認して矛盾が無いと確認出来ました。かつて地上の教会生活で感じた消化不良な思いを全て解消してくださり、聖書を真に理解することが出来て、その時に感じた清々しさは今でもはっきりと覚えております。当時、手前も兄弟の集いに行って真のキリスト者として生きるべく学びたいと思いました。真の聖書福音を教えてくださる方から学ばずに、一人で宙ぶらりんでいて何も良いことが無いのは明らかです。しかし、真のキリスト者の高潔な生き方に対して、自分があまりにも不十分な状態であることを気にして、もう少し整ってからと先送りしたことがありました。結果として、一人では大して改善出来ませんでした。その実体験から、課題の先送りは時間を浪費するだけなので勧められません。別の経験からもそう言えます。かつて仕事で有識者からの助言(コンサルト)を受けたことがあります。その時も同様に、今が不十分すぎるため、もう少し整ってからと先送りしたいと伝えました。すると、先方から「自分たちだけでどうにもならないから今の状態に至っているのであって、だからこそ助言が必要なのだ」と指摘されました。その時と同じだと後から気付きました。自分一人で「もう少し整った状態」には成れませんでした。そして、このような思いの背景には自己愛があります。「みっともない自分を見せたくない」などの自己愛は自分の課題の中でも最も大きいものであり、今でもその戦いの最中です。必要なのは自分を気にして縮こまることではなく、見栄や虚栄心を捨てて改善のためにひたすら行動することです。それらを捨てずして、まして信仰を行いで示すことが出来ましょうか。この事をも通して、なぜ「臆病な者は第二の死(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)」と言われているかがとてもよく分かります。自己愛を克服せずして信仰を行いで表すことは不可能です。臆病なままでは、世の大多数である世の常識に抗うことなど出来ません。臆病なままでは、行動しないことを正当化するために、あらゆる理由を並べ立ててしまうでしょう。例えば、キリスト信仰の故に投獄されるような世になった時、保身を図って信仰を隠して「隠れキリシタン」となることは正しいキリスト者の有り様でしょうか。主はそのような者をお認めになりません(マタイによる福音書十章三十三節参照)。

 

聖書の真理は、現実の全ての事柄に関連します。ただの知識で終わらせたり、心の中で思っているでは意味がありません。実生活で活かすこと、そのためにも世の動きなど時を見分けることが大事です(ルカによる福音書十二章五十四節から五十六節参照)。時を見分けずして賢く備えることも、適切に現実に対応することも出来ません。それに関連して、以下の投稿を紹介します。

 

画像引用:https://twitter.com/asheldarkhards1/status/1645443584886476800?s=20

 

上記のアシュエル・ダークハルトという投稿者はこのような愚かなことを言っております。この世を悪い者が支配している以上、多種多様な悪が行われるのは当然のことです。世に属するか、神に属するかと聖書に書かれており、それを世の事柄や日常生活に適用して考えるまでです。ワクチン云々など細々としたことがもし聖書に書かれていれば支配層はそれを避けて、形を変えて別な手段で人口削減を行なうのではないでしょうか。ワクチンについて言えば、『黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編』にて薬とは魔術であり、薬を含めて医療に頼ることは偶像崇拝に当たると書かれております。聖書は悪の存在について明示しており、世の終わりの強力な反キリストの動きを言い当てております。だから、聖書と世の動きも一致しており矛盾はありません。むしろ矛盾を隠さず、新世界秩序に一直線なのは支配層(悪魔崇拝者)です。矛盾があるのは嘘があるからで、嘘があるのは本当の意図に気付かれずに事を運びたいからです。

 

 

ここで少し世の動きに触れます。WHOはワクチン接種の指針を見直し、健康な成人のワクチン追加接種を二回以降は勧めないと急に表明しました(参照:AFPBB News)。一体どういう意図があるのでしょうか。日本など一部を除いてワクチンの危険の認知はある程度になされており、こちら(メモ・独り言のblog)にあるように欧州議会の例ですが、ワクチンが失敗であったことや接種しないことで多くの命を救えたはずだと真っ当なことが言われております。こちら(ビットシュート)でも、欧州で市民がワクチンや偽りの感染対策に対して抗議しております。おそらくそれらを踏まえて、流石に新型コロナウイルスの脅威を煽り続けるのは難しいと判断したか可能性はあります。しかし、形を変えてmRNAワクチンを継続するのは間違い無いと思います。例えば、ワクチン食品(参照:メモ・独り言のblog)まで登場しており、決して支配層は手を緩めていないことが明らかです。また、アンソニー・ファウチは『すぐに別の致命的なパンデミックがあるだろう』と発言(引用:メモ・独り言のblog)していることから、(存在が証明されていないウイルス自体が虚偽ですが)別の感染爆発が起こると考えられます。正確には「予告」でしかありません。モデルナの最高経営責任者は次のmRNAワクチンを二千三十年までに順次投入すると(参照:ツイッター)言っており、歩調を合わせた発言にも聞こえます。そして、日本ではこちら(ツイッター)のように太陽暦二千二十三年四月版の小児向け予防接種予定表に「新型コロナワクチン(mRNAワクチン)」が組み込まれる有様です。まさにモレクに子どもを生贄に献げる行為(レビ記十八章二十一節等参照)でしかありません。また、こちら(ツイッター)のように注射後、数週から数ヶ月で薬剤が自動放出される技術が作られたようで、悪い意図しか感じられません。最初から個人の判断であったマスク着用ですが、個人判断が強調されるようになった太陽暦二千二十三年三月十三日から一ヶ月近く経っているにも拘らず東京駅前では着用率が八割もあり(参照:ツイッター)、何ら状況が変わりありません。また、コロナ犯罪に限らず、この間のその他の世の動きも酷いものばかりです。先日行われた統一地方選挙は相変わらずの不正選挙(参照:ツイッター)が横行しました。「投票に行こう」では何も変わりません。この悪い構造に集団で抗議しなければなりません。また、選挙が一段落するや否や消費税十四パーセント(参照:Yahoo!ニュース)と愚かなことを岸田総理は言い出しました。国民生活が悪化している中、政府がやろうとしている(やっている)ことは普通に考えて人道にももとり、憲法にも違反し、全てが本来進むべき方向性に矛盾します。彼らの道は全て新世界秩序に向かっているという点においてのみ一貫しております。

 

画像引用:https://twitter.com/nbe222/status/1645343491839635456?s=20

 

これらの悪しき存在を認識せずして、悪に抗うことなど出来ません。彼らの存在は聖書に記されており、聖書によってこの世の権力者、大多数に対する見方も一変するはずです。彼らは神に反逆し、神の律法に違犯し、真理に立ち返る余地を残さず大勢を殺し、出来れば選ばれた神の民をも惑わす存在です。この世に希望はなく、支配層が閉ざそうとする道(聖書真理・真のキリスト者の道)にこそ真の希望があります

 

聖書を読んで、ただ字面を表面的に知っただけでは無意味です。行動に反映出来なければ無意味です。手前は昔、仕事術に関する図書が好きで多数購入して読みました。書籍の帯の売り言葉に惑わされて、その時は必要な投資だと自分に言い聞かせますが、大概が無駄な出費で終わりました。眺めて満足、仕舞いにはその中身すら満足に覚えておりませんでした。本気で活かそうと思うならば、最低限に趣旨を覚え、実際に試すのだと思います。しかも、最初から上手くは行動出来ませんから、上手くいくために更に読み返して試行錯誤するはずです。普通に考えればこの時間と労力たるや相当なもので、何にでも手を出していたら、いくら時間があっても足りません。自分の性質に合っているのか、本当に習得する必要があるのかの吟味も必要です。多くの図書を読むよりも良書一冊を深く読み込んで思索することの勧めをネット上でしばしば目にしますが、個人的にはその通りだと思います。深く読み込んで思索して、試行錯誤を経て、使いこなせてようやく「体現」の段階に達したと言えます。聖書も同様だと思います。

 

ヤコブの手紙 一章二十二節から二十五節(引用:真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」

更に、御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。もし誰かが御言葉の傍聴者で、実行者でないなら、その人は鏡の中の生まれつきの顔を注意深く眺めて考える人のようやさかい。自分自身を眺めて注意深く考えて、離れると、自分がどのようであったか、直に忘れるからや。しかし、自由の完全な律法を慎重に調べ、これを行い続ける人は忘っぽい傍聴者やなく、行いの実行者や。この人は、その行いによって聖になるでしょう。

 

引用元の記事の中に、生まれつきの顔とは悔い改める前の状態、自由の完全な律法が鏡、その鏡を見て自分の間違っている点を直さないといけないとあります。聖書が求めているのはこのような反映、活かすこと(実践)です。内側にある信仰が行いとして表出されることが大事です。「御言葉の実行者」の言葉から言行一致が求められているのが分かります。また、似たような意味合いとして『訛りは国の手形』の慣用句にもその意が含まれていると思いましたのでご紹介します。この意味は出身地を言わなくても、その言葉の訛りを聞けば、どこで育ったのかすぐに分かってしまうという意味です(参照:デジタル大辞泉 小学館)。こちら(ことばのぎもん)によると、国の手形とは江戸時代の通行手形で、通行手形が発行された土地と訛りが相違しているのは、怪しい人物だと看做されるので当時の訛りは重要なものだった可能性があると書かれております。信仰と行い、手形と訛り、それぞれ表裏一体であるのが構図として似ていると思いました。訛りは再現が難しいです。映画等でも役者が自分の知っている地域の方言を話しているのを聞くと頑張って覚えたのだけれども違和感があると感じます。明らかに話している方言とその人の出身は違うのだと分かります。信仰もまた、キリスト者だからこそ実行出来る側面があり、実行がキリスト者であることを証明しうるのだと思います。キリストの教えに留まる者がキリスト者、留まらない者が反キリスト(ヨハネの手紙二 九節参照)であることから自ずとそうなるのだと思います。

 


ここからキリスト者の苦難について触れていきます。キリスト者は苦難にどう対峙するべきでしょうか。先に、救われるために信じようとするのは利益信仰であると言及しました。保身を考えるのも人の性質(自己愛)であるのも確かで、これに抗わねばなりません。キリスト者だからと言って苦難に遭わないわけでは無いからです。もし、大艱難の中で保身を求めたとして、それが叶いそうにも無いとなったら、その人は信仰を持ち続けていられるでしょうか。

人生は、良いことばかりではありません。悪いこともあるでしょう。何で自分はこんな目に遭わなければいけないのかと思うことも多くあるでしょう。そのような苦難に直面したら、あなたはすぐに肉の思いで、怒りや恨みを抱いたり、暴言を吐いたり、運命や神を呪うことさえしていないでしょうか。神の栄光は、人の目から見て良いことばかりではありません。

 

引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」

「神がいるならば何故こんなことが自分の身に起きるのか」「神がいるならばなぜこの世はこれほど理不尽なのか」と思ったことはないでしょうか。信仰前ですが手前はあります。さながら、主イエスに対して自分自身を救ってみろ(マタイによる福音書二十七章四十節参照)の暴言に等しいです。苦難と一口に言っても、この世の悪に翻弄されているのか、自らの悪い行いの結果が訪れているのか、正しいことの故に悪の世からの迫害を受けているのか、苦難の背景はさまざまです。全てを知ることは人には出来ませんが、ある程度の見分けも必要と思います。特に、聖書真理に立つが故に悪の世から迫害を受けることは避けられません。キリスト者に苦難があること、忍耐が必要とは聖書で繰り返し言われていることです。もちろん、全ての労苦をいたずらに受ければ良いというわけではありません。しかし、前もって苦難があると分かっていれば、多くのことに耐え得るはずです。逆にそれを見出ださねば、不意を突かれて不用意な行動をしたり、自己愛のままに行動してしまうでしょう。仮に、世に恭順して一時的に苦難を減らそうとしても、最終的に世に属した報いは永遠の滅びしかなく、主イエスを信じる信仰以外に真の希望はありません。

 

ところでコヘレトの言葉には世の労苦について多数書かれており、今から三千年前に書かれたとは思えないくらいに今の我らにも通じる内容ばかりです。人の本質はずっと変わらないのだと分かります。コヘレトの言葉四章四節、人間が労苦するのは仲間に対して競争心を燃やしているからだ(参照)と書いてあります。個人的に感じるのは学生時代にしろ社会人時代にしろ、常に同列の周囲を気にすることの連続だったと思います。時に競争意識を生み、嫉妬を生み、足の引っ張り合いという醜いことも起きたりします。学校や会社という閉ざされた世界では、多かれ少なかれ自分が誰かより秀でていなければ、自分に存在意義を見出だせないという歪んだ意識を作り出してしまう事があると感じます。不毛な競争に明け暮れ、一体自分は何と戦っていたのかと我に気づくのが遅くならないことを願うばかりです。出エジプト記二十章十七節に隣人のものを欲してはならない(参照)と書いております。他者に対する劣等感は嫉妬に繋がり、優越感は見下したり愛が欠如し、共に罪を犯す原因になるため要注意です。我らは、ただ神を見上げて、罪深く非力な自分を認め、自分に出来る努力を積み上げて実践すれば良いだけです。マタイによる福音書二十五章にタラントンに応じた働きについて主イエスは話されております。能力に違いがあることは事実であり、悪いことではありません。ただ能力に応じて全力を尽くすことが求められております。

コヘレトの言葉四章八節、全てを犠牲にして際限なく労苦しても虚しく不幸である(参照)と書いてあります。これも過去記事で仕事人間であったと書きましたが何も良いことがありませんでした。むしろ何も良いことがなくて幸いでした。だから引き返すことが出来ました。万が一にもそれで満ち足りてしまったならば魂の救いに目を向けることもなかったはずです。

コヘレトの言葉五章七節、不正が横行するのは社会的に立場のある者同士が庇い合うからだ(参照)とあります。今で言うところの『上級国民』が罪を犯しても対して罪に問われなかったり、司法の人事権を握った政府が違憲行為を重ねてもその影響下にある司法は何ら彼らへの正当な裁きを下さない不義がまかり通っております。こちら(真の聖書福音と預言「日本人の問題点 四」)にあるように住基ネットに正義の違憲判決を出した判事は不審死を遂げました。行政に不利な判決を出さない不当な判事が出世し、正しいことをした者が不利益を被る理不尽極まりないことを言い当てるように、善人の故に滅ぶことがある(コヘレトの言葉七章十六節から十七節参照)と書いておりますが何と曲がったことがこの世では起きるのかと思わざるを得ません。

世に属する生活をしていて「これで本当に良いのか」「何かが違うのではないか」と思うことが神に招かれた者であれば必ずやご経験がおありではないかと思います。「世に従おうにも従えない」との相反する思いもまた苦痛であろうと思います。手前にもありました。それは真のキリスト者としての出発点に立つためには不可欠なことだったと思います。この苦痛が次の展開の活力となりました。『お前たちは順境の日には喜べ、逆境の日には熟慮せよ。神はまたこの両者を造られた。人は自分の後の結末を何も見出ださないために。(コヘレトの言葉七章十四節:私訳)』 の通り、人には先のことは分かりません。上手くいっている時は状況が楽しく、自らを振り返ることは無いと思います。むしろ、上手くいかない時だから考えようとする気になり、考えざるを得なくなります。結果として熟慮の機会が訪れます。そして、後になって気が付くと思います。世に自分の居場所は見出だせず、さまよっていたのだと。無理に世に属する山羊になろうとしてもなれません。こちら(ユーチューブ)やこちら(ユーチューブ)の社会風刺の動画を見れば、世に染まった生き方がどれほどおかしいかが客観視出来て理解出来ると思います。真理に拠っていないこの世の中は曲がったことばかりです。だからこそ、聖書が教える真に真っ直ぐな生き方に意味があり、魂の平安があります。これは苦しさが無くなるという意味ではありません。世に染まった期間が長いほどに、蓄積してきた肉の欲や自己愛を優先する古い信念との熾烈な戦いがあると個人的には感じます。決して楽でもなく、油断などもってのほかです。それでも為すべき事が明確で、真っ直ぐな道なのだということがはっきり分かります。先に、世の動きと聖書を切り離して考える者を紹介しましたが、手前も最初の頃は無知故に聖書と現実を切り離して捉えておりました。しかし、今では古代イスラエルの民の歴史とその末裔たる日本の真の歴史、イエズス会の魔手、英米支配層の攻撃や間接統治の実態など、全ての文脈が繋がって理解出来ます。この文脈の中に自分という存在も位置付けられます。真理を知れば、この世の知識などがらくたに過ぎないことは実感として分かります。

 

キリスト者と苦難、真理を見出だしておれば耐え得ることについて話を戻します。苦難への忍耐について、前提として自力だけではどうにも出来ず、主イエスに繋がらなければ何も出来ないことや聖霊の助けが必要なのは言うまでも無いことです。そのためにも、神の言葉を自分の内側に取り込んで、骨や血や肉にして、神の言葉に支えられることが最低限必要です。神の言葉を取り込んで消化吸収することで『首尾一貫感覚』を持つことが出来ると手前は考えます。『首尾一貫感覚』とは、健康社会学者アントノフスキー氏が提唱した概念です。第二次世界大戦のナチスドイツの強制収容所に入れられた人たちのその後の心身の健康状態を研究した所、極限のストレスを経験しても、その後の人生で心身の健康を守れているばかりか、その経験を人間としての成長の糧にさえしている人たちがいることに気づき、その理由は首尾一貫感覚の高さにあると考えました(参照:All About)。自分の感覚を言葉で言い表すと、神の言葉に拠るとは首尾一貫感覚に近いものがあると感じます。この首尾一貫感覚は三つの要素で構成されております。以下、簡単に説明していきます。(以下、「EARTHSHIP CONSULTING」を参照)

一つ目は『把握可能感』です。把握可能感とは、自分の置かれている状況を一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であると見なす感覚のことです。聖書には預言として世の終わりの大艱難が多数記されております。死に至るまで忠実であるように、忍耐を働かせて信仰を貫くことで最期に命の栄冠を得ると前もって知らされております。同時に堕落、脱落する者がいることもです。聖書を読んで賢く備えよとはミカエル氏が繰り返し伝えてきたことでもあります。聖書によって把握可能感を得ることは出来ます。ましてや今は世の終わり際に臨んでいることから尚のことに時の状況が分かるはずです。

二つ目は『処理可能感』です。処理可能感とは、困難な状況に陥っても、それを解決し、先に進める能力が自分には備わっている、という感覚のことです。主イエスが自分を捨てて自分の十字架を背負って従うように(マタイによる福音書十六章四十四節参照)言われたこと、苦しみを受忍した足跡に続くように模範を残されたこと(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)、預言者たちを辛抱と忍耐の模範とするようにと(ヤコブの手紙五章十節参照)言われたことは、実践出来ることを前提にしております。そして、忍耐とは自らの意思、自らの権能下にあり、諦めたり打ち負かされない限り、いつでも行使出来る性質のものです。また、『あんたは我が忍耐の言葉を守ったさかい、地に住む人々を試すために全人類に来ようとする誘惑の時から、我もあんたを守るであろう。ヨハネの黙示録三章十節:引用 真の聖書福音と預言「携挙の真実」』の言葉も重要で、神が誘惑から守ってくださり、以下にあるように聖霊の助けが働くのだと思います。

新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章十五節~十七節(私訳)

「もし、あなた方がわたしを愛しているならば、あなた方はわたしの掟を守る。そうすれば、わたしは父にお願いしよう。それから、父は永遠にあなた方と一緒にいられるように別の補助者を与えてくださるだろう。この方は真理の霊であり、大多数の人は受けることができないものである。なぜなら、この霊を見ることができず、知ろうともしないからである。」

(略) 

 

主イエスへの愛 = 神の律法、掟、戒めの遵守(神への完全服従)

神から聖霊が与えられる

成長して完全な者となる

 

引用:真の聖書福音と預言「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」

三つ目は『有意味感』です。有意味感とは、今行っていることが、自分の人生にとって意味のあることであり、時間や労力など、一定の犠牲を払うに値するという感覚のことです。

ヨハネの黙示録二章十節(兄弟共同検討訳)

あなたが苦しむいかなることを恐れてはいけない。見よ、悪魔はあなたがたの何人かを牢に投げ込む。そのことであなたがたは試されるだろう。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

ヤコブの手紙一章十二節(私訳)

試み(誘惑)を忍耐する者は幸いである。主を愛する者たちに主が約束された命の栄冠が承認されて迎え入れられるようになるからである。

ペトロの手紙一 一章七節(私訳)

お前たちの信仰の試練は、朽ちる金の火による試しよりはるかに価値があり、イエス・キリストの来臨の時に称賛、名誉、栄光に至る。

これらの聖句によって、犠牲を払うに値する命の栄冠に至ることが分かります。生きているこの時は死後の永遠を決める試しの時です。いたずらな無駄死には避けるべきですが、ただ命があればそれで良いということでもありません。生きる意味を聖書真理から捉えて、艱難を乗り越える力に変えることが出来るはずです。ペトロの手紙一 一章七節では主語が「信仰の試練は」となっており、信仰の強さが試される試練自体が価値あるものとされていることにも注目するべきです。艱難によって信仰が本物になるのであって、さながら陶器となる前の土の器が窯で焼かれて完成するが如くです。ヤコブの手紙一章十二節の試み(誘惑)「πειρασμόν」は「罪への内なる誘惑」を意味し、それらを振り払うことが求められます。これらのように、前もって信仰の完成の過程が予告されていることも、首尾一貫感覚の構築に繋がると思います。そして、繰り返しますがこの真っ直ぐな歩みを邪魔するのはひとえに自己愛です。

通常の精神と健康状態では、肉体的な死(第一の死)というのは、誰もが回避したがるものです。しかし、神の御意志がそれを避けられないとした場合に、あんたは自己愛によって神に逆うて苦難や死を回避するか、それとも神の御意志に従ってあらゆる苦痛と死をも受けられるか。選択次第で運命が大きく変わる。主イエスの御言葉「自分の命を得ようとする者はそれを失うだろうが、我のために命を失う者は、それを得るであろう。」(マタイ十章三十九節拙訳)、「最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節拙訳)等を覚え、正しい選択をすることを願うてる。

 

引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」

真の聖書福音と預言 【第四回】正しい聖書の底本とは

 

 

キリスト者は、神の律法・掟・戒めを守り、神を愛し、隣人と兄弟を愛し、慈愛のある行いをし、福音を伝道し、そして、信仰が成熟して、神に栄光を帰すことが大事です。上記の動画にある炉に投げ入れられた三人はネブカドネツァルに屈せず神の律法を守り、信仰による義を行いで表しております。自分の命を投げ打ってでも神に従ったからこそ、その信仰は尊く価値があります。心の内にある信仰は行いとして反映されております。心の中は人の目には見えませんが、目に見えるように行いで表すこの両輪が全てです。過去記事でも触れましたが『正しい人はその忠誠によって生きる(ハバクク二章四節:私訳)』の『正しい人(צַדִּיק)』には「適法」の意味があり、神の律法を守る人です。そして、『忠誠(אֱמוּנָה)』には「忠実」「信仰」の意味があり律法への忠実ということです。更に、世の終わりの日である主の日、『悪人を地から滅ぼす(ゼファニヤ二章三節:私訳)』とあり、『悪人(הָרְשָׁעִים)』とは「神に対して罪を犯した」「邪悪な」の意味があります。神への忠実を捨てて自分の命を惜しむか、自分の命を差し出してでも神への忠実を選ぶか、究極の二択です。神の目に評価される信仰による義(行いを伴う)が残るか、否かです。この心意気について、こちら(ツイッター)にコロナ犯罪への抵抗を示す意図で引用された漫画「はだしのゲン」の言葉を紹介します。漫画の場面は戦争に反対し警官に迫害されるゲンの父親の言葉が記されております。『体は傷つけられても心の中まで傷つけられはせんわい』『わしらなにもない貧乏人が心の中のほこりまでとられたらなにをささえに生きるんじゃ』は真のキリスト者の生き様にも通じます。前者の言葉は、『お前たちは肉体を殺しても魂を殺すことが出来ない者たちを恐れるな。むしろ肉体と魂を地獄で滅ぼすことが出来る御方を恐れなさい。(私訳:マタイによる福音書十章二十八節)』の言葉を想起させます。後者の言葉は、世を愛さず、世に属さす、世に一時的な滞在をしているに過ぎない者が唯一拠り所に出来る信仰にも重なります。『自分が正しいとおもったことは安っぽくまげちゃいけんぞっ』の言葉も非常に重要です。実際には「曲げてしまう」事象が多いからです。招かれる者は多くても選ばれる者は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)、芽が出なかったり、枯れたり、実を結ぶほど成長出来なかった種の例え(マタイによる福音書十三章三節から七節参照)から脱落したキリスト者が示されております。始めは熱く信仰に燃えていても、時間の経過とともに徐々に熱が冷めて、妥協して世俗生活を優先してしまう者も多いです。勿論、他人事ではなく自分事です。妥協の誘惑について以下を引用します。内容はmRNAワクチンの接種者と未接種者の関係性について触れた記事です。

「息子はこないだ彼女と別れたようです。例の3回接種済みの彼女と。正直、私としてはホッとしました。息子には『あなたの選んだ人なら尊重する』と言っていましたが、同時に『あのワクチンについてしっかり調べてね』とも伝えていました。それで、あの子なりに自分で調べたんでしょうね。次世代に影響するワクチンだということが分かった。それで、別れた。

でも別の問題が出てきました。娘がいるのですが、最近彼氏ができたようです。県外で暮らしていて、すでに成人しているのだから好きなだけ恋愛すればいい。ただ、ひとつだけ聞きました。『打ってる人?』すると娘が話をそらす。そこははぐらかさないで欲しいから、しつこく聞いた。すると観念して『今どき打ってない人なんていないよ』

(略)

私が妥協する必要があるのかもしれません。未接種という、いわば家族の純血を守ることは、8割が打った今、もはやできないのかもしれません。

しかし、本当にショックでした。少し前まで娘は『接種者、気持ち悪い』って言ってたんですよ。それなのに、接種者と付き合ってる。よほどのことがあったんだなと思います。ずいぶん悩んだはずだし、強い決断があったはず。強情な子だから、私が何か言えば言うほど反発すると思う。もともと親子仲は良好だけど、あまりにも反発されて、隠し事をするようになってもつらい。だから、私はもう何も言いません。私が変わるしかないと思っています」

 

引用:ナカムラクリニック「アフターコロナに向けて」

とても悲しい現実の話です。そして、これは信仰においても似ていると思います。まさに上記の種を蒔く人の例えにあるように、世の思い煩いでキリスト者としての歩みが阻害されるからです。主イエスは『お前は、我は地上に平和をもたらすために来たであろうと考える。そうではない。我はお前たちに伝える。それどころか分裂をもたらす。(ルカによる福音書 十二章五十一節:私訳)』と言われました。上記の引用文と同様に、信仰の故に家族内に亀裂が入ることもあります。実際、心身の健康を害するだけでなく、神の設計である遺伝子を改変するmRNAワクチンであることからも忌避の一択しかあり得ません。家族や近しい人との関係がどうでもいいというわけではありません。ただ、信仰と世俗との二者択一を迫られたら信仰を選び取らねばなりません。決して取り返しがつかないことがあるという意味において、エサウを教訓にするべきだと思います。エサウは創世記に出てくるイサクの長男です。次男でイサクの弟のヤコブとは長子の権利を巡って争いがありました。エサウは空腹と疲労のあまりに長子の権利をたった一度の食事のためにヤコブに譲り渡してしまいました。『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節:私訳)』と記されております。肉の欲のために大事なものをいとも簡単に手放す様を「婚外性交する者」「冒涜する者」と言われているのが印象深いです。通常、婚外性交は偶像崇拝の意味で用いられます。肉の欲のために大事なものを安易に捨てて、浅はかにもどうでも良いものを大切にし、神を冒涜するという構図においては聖句の通りだと思います。決して取り戻せないことがあります。その時々に正しく分別出来ておれば幸いです。自分もこのようにならぬように、特に無自覚にそのようなことをしていないか厳に慎まねばなりません。また、『義の道を知った後で、彼らに伝えられた聖なる掟から後戻りするよりは義の道を知らんかった方が彼らにとって良かったやろに。義の道を理解し、彼らに伝えられた聖なる掟より元の状況に戻るくらいなら、彼らが義の道を理解しない方が良いからである。ペトロの手紙二 二章二十節:引用 真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」二十一節:私訳)』の言葉にも留意するべきです。イスカリオテのユダがそうでした。主イエスを信じて従ったかのようであっても、実際は肉の思いや肉の欲が強く、自我を捨てきれず、不正な報酬を得たり、主イエスを売り渡したりしました。最後は後悔するに至りましたが「覆水盆に返らず」です。サウルもまた同様です。『サウルは当初は油注ぎを受けて主に従ったが、主の御言葉に従順やなくなって自分勝手なことをしたため、主は見限って悪霊をサウルに送った。(引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)』ことも教訓にするべきです。『知恵は戦いの武器よりも優れている。(コヘレトの言葉九章十八節:私訳)』の言葉は真実です。知恵とは正しく判断する心の働きです。我らはその時々、大なり小なり決断を迫られます。その時に正しく判断出来れば幸いです。主イエスは確かに罪を赦してくださいます。しかし、恩恵の期間には限りがあり、悔い改めを拒否するならば悪霊を送られ罪の赦しも受けられなくなります。特に、大艱難期は恩恵期間が終了しており、一切のやり直しが出来ません。救いにあずかれなかった者たちが泣き喚いて歯ぎしりするとは福音書の至る所に書かれております。歯ぎしりには「怒りや悔しさから歯をかみしめて音を立てること。また、非常に残念がること(出典:デジタル大辞泉 小学館)」とあります。果たして、この怒りや悔しさは誰に向かってのものだろうかと思います。自分に向かってなのであれば、どんなに後悔してもしきれません。死後の永遠を決める試しの時はもう終わっているからです。この絶望感は想像するのが嫌になるほどです。もし、怒りや悔しさの向かう先が神なのであれば的外れも甚だしく論外です。そのような品性であったから追い出されるのだと思います。信仰を行いで示す場面は信仰生活において機会はたくさんあります。中でも、命が懸かった最期の場面もまた取り返しのつかない機会です。真に神に栄光を帰す場面とは、自分の最も大事なもの(生命など)を差し出す場面であり、唯一無二の場面(生涯の最期)だと思います。等価交換の視点に立てば、自分の命を差し出してでも、神の律法・掟・戒めを守ることによって、自分の命よりも大事であると示すことが出来るこれ以上にない場面です。この場面で正しく神に栄光を帰すことが出来るようになるには、常日頃の歩みがしっかりして高潔な品性にまで鍛え上げられていないと出来ないと思います。こちらに関連して以下のツイッター投稿を紹介します。

 

信仰だけで行いは不要と思っている偽福音論者は、神の律法・掟・戒めを守ることについて「律法主義」と見当違いな反論をすることがほとんどです。以下のピーターという者のツイッター投稿にもそれが感じられます。

 

画像引用:https://twitter.com/q6OtGmgiiUtSMyg/status/1639484519261814785?s=20

 

主イエスが律法学者らを批判したのは律法を守れと他者に言いながら自らは守らず、余計な言い伝えは固守し、他人を見下すなど品性が伴わず、神への愛もないために主イエスから批判されました。そして、彼らの義に優らなければ天に入れないと主イエスは言われました(マタイによる福音書五章二十節参照)。「自分は正しいって主張している」のではなく聖書にそう書いてあることをまず認識するべきです。更には、主イエスの来臨時に信仰が見られるかどうかと表面的な捉え方をしているのが実に愚かな言い方です。神は心を見るのであり、心の中までも悔い改めて罪を犯さない完全な者となれと主イエスは命じておられます。また、現在進行で審判が行われている(参照:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)のであって、その時にやり過ごせばそれで良いかのような考えは全て神に見透かされております。今この時の日々の積み重ね、悔い改めが大事です。

殉教者たちが耐え難いような拷問や刑罰を受けることができたのは、それに耐え得る聖霊の力を神がお与えになったからです。それは突然得られるものではなく、日々の信仰生活で学んで成長する過程で得られるのです。

(略)日常の些細な試練に耐えられないのに、大艱難に耐えられるはずがないのです。

(略)利益信仰というのは、この世での利益のみならず、死後の利益をも考えて信仰することも指しているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」

この言葉から学んで悔い改めるべきです。神を愛すれば神の掟を守ろうとします。主イエスとの新しい契約を結んで心に律法が刻まれ、聖霊がその遵守を助けてくださり、実行出来るようになります。ちなみにこのピーターというツイッター投稿者は口座紹介文に『(今後)昆虫食に目覚める予定。』とあり昆虫食を擁護しており、投稿内容からワクチンも擁護しております。『自然と環境を守りたいキリスト者(プロ)』とよく分からない文を書いており、世の悪を認識せずに世の悪を疑う行為すらも批判する有様です。やはり神の言葉に立たない者は必ず道を逸れるのだと分かります。世の常識、世の価値観に従えば「命あっての物種」が至上とされます。しかし、それでも先のはだしのゲンのように、あるいは武士道のように、自分の命よりも大事なものを見立てて、それを守った事例はたくさんあります。

 

結論として、聖書真理によって各位の人生と死後の永遠の関係を知れば、全ての見方や捉え方は一変します。聖書真理に拠って立つことで首尾一貫感覚を持ち、神に栄光を帰す場面の意味を認識して、正しく行動することが出来るはずです。今この時も『あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。』(マタイによる福音書六章二十一節:引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」)が問われております。神に招かれた羊であるならば、やがて滅ぶ、悪い者が闊歩するこの世に従うのではなく、神に属して死後に栄冠をいただく生き方を全うしましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

こんにちは。

世の中が明らかにおかしくなっております。国民の命や生活を悪化させる政策の数々、それに加担するテレビ等報道機関の醜さは正視に耐えません。また、以前の社会であったならば激しく糾弾されたはずの国会議員の妄言や不祥事が見過ごされ、なぜ弾劾が中途半端で尻すぼみに終わるのか、おかしいことばかりです。世の人々は日々仕事に勤しみ、休日は娯楽と息抜きに時間を費やして政治の動きを認識できていないのか、あるいはテレビ等に洗脳されているか、無関心や諦めがあるのか、どれにしてもこれでは政府等がやりたい放題です。今のこの状況から、どう考えてもこの先にある社会は良い社会であるはずがないと普通に考えればわかるはずです。この先、少数の支配層によって大勢が支配される社会が到来することは十分に想像ができる段階に来たと思います。今、何を為すべきかを本気で考えなければなりません。

 

今、貴方は何を考えて、何を大事にして生きているでしょうか。それを俯瞰すれば、その延長上にその人が望んでいる事が微かに見えてきます。例えば世の多くの人々は不平不満を言いながらも会社での労働にほとんどの時間を費やしていると思います。文句を言いながらも社畜となることで自分を保ち、会社での労働を一番に考えて行動していると考えられます。自覚しにくいかもしれませんが、そこに価値があると考えているからこそ多くを費やしているのだと思います。渋々だったとしても、やらない方が不利益と考えていることでしょう。そして、多くの時間が奪われて時間を拘束されていると認識している者はそう多くはないように見受けます。苦しいけれどもそれが社会で働く上で当然なのだと思わされているからでしょう。その延長上にあるのは「生活の維持」「安定した生活」という虚像です。愚直に働いていれば生活は安定するはずでした。しかし、実態はそうではなく、脆くも崩れ去ろうとしております。給与は上がらず、仕事は年々きつくなり、多額の負債(ローン等)の支払いはまだまだ続き、せずにはいられない憂さ晴らしのための無駄な出費や物価上昇のために生活が苦しくなり、安定に程遠い実態があるのではないでしょうか。食うために生きなければならない側面もありますが、それだけを考えていては「その日暮らし」のようです。人生に対する方針が無くて、その場を耐えているだけなのだとしたら、一体何のために生きていると言えるのでしょうか。そんな人生に意味を見出だせるでしょうか。しかも、その裏でもっと生き辛い社会が作られていることに気付かないのは何たる悲劇でしょうか。追い求めがちな安定した生活とやらも無惨にも破壊されようとしております。そうなった時、人は何に希望を見出だして生きていけるでしょうか。労働に多くの労力を費やす事は、ただ目先の生活に没頭しているだけでしかありません。没頭には良し悪しがあります。事に集中して精緻な作業を行い、成果を出すには没頭が必要な時もあります。しかし、微視的視点に陥り、木を見て森を見ずのように目的を忘れてまでのめり込むのは賢明ではありません。もっとも思考停止して何も考えていない場合もあります。大勢が近視眼に陥り、しかも知性までも低下して非常に危険な状態です。そんな状態にあっては新世界秩序(大多数の人々にとっては地獄でしかない)の危険性が認識されず、その構築が進捗してしまっております。大多数の庶民が真面目に働けば人並みな幸せを得られると思った所で現実は時間と労力が搾取され、更に生活の自由が制限される生き辛い社会が今作られようとしております。

 

長時間労働や過酷な実績割り当て、高圧的対応で社員を支配する「ブラック企業」が存在します。これらの会社が存続して背景として、会社の経営者や管理する立場の問題も当然ありますが、それに従属して働く一般社員がいることも見過ごせません。ミカエル氏がキリスト道で言われているように、コロナ犯罪に従っているからこの犯罪は終わりません。皆が一斉に従うのをやめればコロナ犯罪は終わります。同じように社員が一斉に従うのをやめれば劣悪な企業も終わるはずです。しかし、実際そうならないのは、従属をやめずに(結果として)組織を維持する側に回っている社員がいるからです。視点を大きくすれば、この社会全体においても悪魔崇拝の支配層の存在が問題なのは言うまでもありませんが、支配体制に進んで従おうとする庶民が問題です。程度の差はあっても、今だけ(先の事を全く考えず、目先のことだけしか見ない刹那的な思考)、金だけ(世の中の全てを金銭面・経済面だけで判断して、利益にならないものを蔑ろにする)、自分だけ(自分だけが大事で思いやりが欠如)であるのは世の人々に共通していると思います。世に従わせようとする側、無自覚に従っている側、どちらとも世の事柄だけを考えており、まさしく世に属する側です。今、この支配体制(新世界秩序)が現実のものとなっております。その新世界秩序では人口が削減され、自由が制限されます。超共産主義的管理社会が出来上がった時には、辛うじて肉体は生きていても精神的には死んだような状況になっていると思われます。その時に本当に大事なことは何だったかを考えても取り返しがつきません。何を求めれば良かったか、何が真実だったのかは今この時に必死に考えなければいけません。あっという間に過ぎゆく人生、しかも、近い将来に確実にこの世は終わりを迎えます。なぜそうなるのかについては、この天地を造られた神が人に与えた言葉の数々、つまり聖書真理に拠らなければ認識することはできません。聖書真理という確固たる視点が無くしては、人間存在の上位概念を捉えねば、人間存在の目的を見出だすことはできません。今、貴方は何を考えて、何を大事にして生きているか、どこに向かおうとしているでしょうか。真の神を見出だして、この世ではなく死後の永遠を見据えるか、不自由が極まりながらもやがて終わるこの世にしがみ付くかの二択です。今の自分の行いは、どちらに向かおうとしているのか、何を得ようとしているのか、誰から認められようとしているのかを考えなければなりません。今回は「貴方は誰からの誉れを欲するのか」と題して、今の自分の生き方がどちらに属しているか、どこに向かっているのかについて述べていきます。

 

世の事柄について触れます。太陽暦三月十三日よりマスク着用は個人の判断に委ねられるようになりました。最初から任意であって強制される筋合いではありませんが「義務」と混同した人々によって社会は分断されました(実際は従った者がほとんど)。莫迦莫迦しい気がしますが報道機関がマスクを外すかどうかの調査を行なっております。例えばこちら(FNNプライムオンライン)の調査では「外す」と「状況に応じて外す」を合わせると五十六パーセント、「外さない」は四十二パーセントという回答でした。なぜ外さないのでしょうか。未だに騙されているからでしょうか。こちら(FNNプライムオンライン)ではマスクを外して臨む卒業生をわざわざ取り上げて「報道」しております。不当な制限を受けて、それから抜け出して自由でいることを何故ためらう必要があるのでしょうか。個人でも組織単位でも、拘束から抜け出した(本当は最初からなかった)にもかかわらず、どう行動して良いかわからないでいる様子が見えます。実際、この二年の間にマスクを着用しないとさまざまな店や公共機関への出入りを制限されたり、マスクをしない者を不当に咎める大人の姿を子どもたちは見ており、「つけないといけない」と刷り込まれております。ある意味、心に刻まれた規範です。この二年間のコロナ犯罪を通じて、国民は存在が証明されていない「新型コロナウイルス」の名を聞くだけで、それを匂わせただけで、国(それと協働した報道機関、医療機関、盲従した大人等)の言う「感染対策」に、考えなしに従属する習性が植え付けられました。周囲の目という監視も機能し、自他を厳しく監視している状態です。巧妙に規律という手段を用いた権力(国家が国民に対して強制力を働かせ支配して従わせる力)として機能しております。ただでさえ学校や会社において刑務所のように一日の予定が規則正しく運営され、生徒や社員は規則にきちんと従っているのか教員や上司によって常に監視されております(下図参照)。既に飼い慣らされている状態であるにもかかわらず、より支配の度合いが強化されております。その支配下で人は自由の無い奴隷と化しております。奴隷とは主人の所有物であす。また、あるものに心を奪われて自主性を失って行動を束縛されている人(引用:スーパー大辞林です。支配層が進めたい新世界秩序構築の道具としてコロナ犯罪は使われ、それに服従していることから所有と束縛の状態が出来上がっております。

 

画像引用:https://twitter.com/qat8EJFlDVwxKGG/status/1627486575339925505?s=20

 

ありもしない新型コロナウイルスを信じるとは、すなわち宗教(コロナ教)です。それを恐れて、甚大なる害をもたらすmRNAワクチンに頼ることは偶像崇拝です。また、具合が悪くなれば医師(医療機関)にかかるということが常識(世の大多数にとっての普通・当たり前)として定着しております。それも偶像崇拝と言えます。しかも、西洋医学は人を食い物にして利益を上げる存在で、全てが無用とは言いませんが治療(投薬や手術等)を受けるほどに状態が悪くなるだけです。しかしながら、世の常識としては「正しいこと」とされ、それを批判しようものなら激しい非難、言論封殺を受けます。今も健康を手に入れようと自らの生活を改めることなく、不健康な生活環境に向き合わず、せっせと「早期発見・早期治療」に従って健康診断に勤しむのが「良いこと」とされます。しかし、その内実は以下の通りです。

これは完全に僕の直感で裏付けも何もないけれど、まめに定期検診を受けている人というのは、占い師にすがる人でもあります。自分で自分のことに確信が持てない。健康状態であれ今後の運勢であれ、自分には理解の及ばない根拠で以ってバシッと断言する人の言葉を、自分の指針にしようとする。当然、いいことを言ってもらいたい。

(略)

繰り返しますけど、癌は見つたらいけない病気です。よく言うでしょ。「人間1日癌細胞が5千個くらいできてる」って。でも免疫がちゃんとしてるから、全部問題なく処理されてる。でも、あえて検査すると見つかってしまう。

 

引用:ナカムラクリニック「ターボ癌の対処法」

ミカエル氏のブログ記事「黙示録十八章から分かる薬の危険性 前編」「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」にあるように「薬」の語源は魔術であり、支配層傘下の製薬会社はこのコロナ犯罪によって国家相手に大量のワクチンを売って莫大な利益を上げ、まさに「商人たち」「地の権力者」であることをヨハネの黙示録十八章二十三節から二十四節は言い当てております。また、先にも言及したように神に頼らず薬(魔術)に頼ることは偶像崇拝です。上記の引用にある自分の健康についても自分で確信が持てず西洋医学に身を委ねて、占いに縋るように「大丈夫」と言って安心を得ようとしている構図そのままです。手前もかつては具合が悪かったら、まずは医師に診てもらうが第一選択肢でした。しかし、世の真実を知り、一歩引いて上記の記事を基に客観視すると、偶像に自分を捨てて従っていたとよく理解できました。自分を捨てて主イエスに従うことの真逆の行為が無自覚に行われていることは罪深いの一言に尽きます。また、そもそも長時間労働や長時間通勤、異常に精神的負荷の多い環境にいて一体どうやって健康でいられるでしょうか。加速と減速を両方同時に行おうとするようなもので矛盾しております。実際、悪環境での生活を維持したまま薬を服用させられては益々不健康になるように追い込まれるだけです。そのことにも気づかず、どう猛な獣のような医療に頼っては食い物にされるだけです。支配層とその傘下の医療産業は人を治すと称して様々な治療(検査、投薬、手術等)を行い、薬という名の毒によって病という状態を作り、結果的に人を死なせている状態です。こちら(医者が人をだます時)やこちら(祝総建株式会社)のサイトが参考となりますのでご覧ください。新型コロナウイルスワクチンは国民の八割が打ってしまい、神が設計した遺伝子を改変するという大罪を犯しました。当然、肉体の命にも致命傷を与えており。こちら(泣いて生まれてきたけれど)には膨大な量の実態が紹介されております。ワクチンを接種した医療機関は作り出されたワクチン特需で利益を上げ、「新型コロナウイルス」の患者を受け入れると届けた医療機関も莫大な利益を上げ(参考:朝日新聞)、普通に考えれば供給が間に合うはずのないワクチンを都合よく製造済みの製薬会社も莫大な利益を上げております(参考:D NetIB-NEWS)。その一方で被接種者は速やかに命を失うか、健康被害を受けるか、すぐには症状として表れなくても時限爆弾を抱えているかのように残りの人生を過ごすことになります。ジョージア・ガイドストーンに刻まれた支配層の計画通りに世界人口を五億人まで減らすような動きが進行中です。それは支配層が管理しやすい社会を作るためです。治療や予防と称してワクチン接種を受け入れさせ、それによって人を苦しめて利益を上げて、人々が命を失う結果となるとはなんたる惨劇でしょうか。

 

二千二十二年時点での世界人口は八十億人とされます。それが支配層の計画する五億から割合を考えると世界人口の六パーセントにまで減らされる計算になります。日本人口を約一億二千万人とした場合に当てはめても七百二十万人という恐ろしい数字です。こちら(ウィキペディア)によると第二次世界大戦の日本の死者数はおよそ三百十万人とされます。それ以上の人命が支配層によって削減される可能性があります。

 

以下は日本の人口の図表です。

画像引用:https://www.stat.go.jp/data/jinsui/pdf/202302.pdf

 

この図表の始まりである二千十一年から下落が続いております。少子高齢化、出生数の低下と言ってしまえばそれまでですが、少子高齢化は何十年も前から指摘されていたことであって、全く改善されていないのは無策の故です。こちら(ツイッター)にもあるように非正規労働者の割合が増えれば収入が減り生活も不安定となり、貧困に陥ることは誰にでも予測できることです。更に、二千二十二年以降ワクチン接種が始まってからの人口減少の下落の度合いが悪化していることも明らかです。この数は今後もっと加速していくのは間違い無いでしょう。そして、考えるのも恐ろしくなるのですがこれ以上のことが起こりうると思われます。考えられることはいくつもありますが一つは大規模災害です。東日本大震災から十年以上が経過しましたが、特にそれからずっと南海トラフ地震や関東大震災、日本海溝地震、富士山噴火などが懸念されると報道等で頻繁に喧伝さるようになったと見受けます。特にここ数年は南海トラフ地震に備えよとの報道をよく見かけるようになったと思います。いわゆる「予測プログラミング」であると考えられます(参考:note)。また、太陽暦三月三日にNHKで『南海トラフ巨大地震』という番組が放映されたそうですが、今から起こすと予告しているかのように思えます。先日も土耳古(トルコ)で巨大地震が起きましたがこちら(アメブロ)では地震が発生する二十四時間前に土耳古(トルコ)から主要な大使を引き揚げた国が列挙されております。引用元のSNS投稿の末文に、「これらの国が地震を引き起こした」と書いているのは見過ごせません。人工地震は確立された兵器ですが相変わらず表立っては否定されております。このように(ツイッター)HAARPによる照射が動画でも残されております。起きたのではなく、起こされるのであって、それは東日本大震災の時も同様に地震が起きることが事前に知っていた者たちがおりました(参考:日本を守るのに右も左もない)。巨大災害により大勢の人命が失われることもさることながら、生活が破壊される影響も甚大です。個人的には東日本大震災において、直接的な被災はしませんでしたが僅かな期間の停電を経験しただけでも十分に動揺して、自分だけではなく周囲の人々も平静であるように努めながら普通では無い心理状態だったと思います。当時勤めていた職場でも、皆が停電下で結束し、その連帯感を心の支えにしていた瞬間があったように思います。不思議と「協力しなければならない」との思いが普段にも増して強くなり、「○○しよう」と号令がかかると皆が我先に作業に取り掛かる場面もありました。通常ではありえない光景でした。これは手前が経験した一場面に過ぎません。ただ、ひっかかるのがその「平常心を失った時に何が起こるか」です。例えば、新型コロナウイルス騒動が起きて間もない時、手前も事態がわからなかったので強い不安感がありました。東日本大震災の時のように、人の往来が少なくなり、公共の場の活気がなくなり異常なことが起きているのがわかりました。そんな中で「マスクをつければ予防できるようだ」との認識が広まり、あっという間にマスクが品切れになったことは誰もが覚えていると思います。やがてワクチンが始まり、大勢が「これしかない」と盲従したことも同様です。大災害を扱った映画において、為政者は英雄かのように描かれ、言葉を巧みに用いて鼓舞する演説を行うのは定番です。多くの人々が聞き入り、団結しようとする一場面を何度か目にしたことがあります。もし、巨大地震が引き起こされた時、政府が人命救助や復興の掛け声を笠に着ることは大いにあり得るのではないでしょうか。以下のツイッターはその危険を指摘しております。

 

画像引用:https://twitter.com/BABYLONBU5TER/status/1629621561237069824

 

画像引用:https://twitter.com/BABYLONBU5TER/status/1629624967783669761?s=20

画像引用:https://twitter.com/BABYLONBU5TER/status/1629625807298793472?s=20

 

例えば上記にあるように「緊急事態条項」を火事場泥棒的に創設することです。個人的には、コロナ騒動を最大限に利用して(全く無益だが)都市封鎖が必要なため「封鎖する権限を政府に持たせなければ感染症を防げない」という筋書きで憲法を改悪して、一気に緊急事態条項を創設するのではないかと不審に思っておりました。しかしながら、殺人ワクチンの大量接種が本懐であったか、憲法改悪に踏み切るには至りませんでした。それでも台湾有事やら、戦争を煽る動きと相まって緊急事態条項は燻り続けております。そしてついに、こちら(Yahoo!ニュース)にあるように『3月中に「緊急事態条項」条文案 憲法改正で維新・国民民主などが合意』と急転してきております。当たって欲しくはありませんが、巨大災害の人命救助を名目に緊急事態条項の必要性を謳い、憲法を改悪して、更には被災地救助の名目で徴兵ということもあり得なくはないと思います。今でも予備自衛官という制度がありますが、被災地支援を強調すれば心理的抵抗が弱まることも予想されます。しかし、そこから一気に戦争が始まり、大勢の若者が命を落とす懸念があります。以下の動画にあるように戦争は支配層の再編の道具に過ぎず、命令した国会議員が戦地に赴くことはなく、若者が無益に命を落とすだけです。現行憲法は平和主義、基本的人権の尊重、国民主権の原則があり、戦争はこれら全てを踏み躙ります。だから改憲を阻止するために、法の知識を持ち、個人だけではなく集団で憲法改悪に反対して抵抗するべきです。

 

画像引用:https://www.bitchute.com/video/tcGwCAejybha/(真の聖書福音と預言 【第四回】正しい聖書の底本とは

 

画像引用:https://www.bitchute.com/video/tcGwCAejybha/(真の聖書福音と預言 【第四回】正しい聖書の底本とは

 

また、こちら(yahooニュース)によると二千二十三年の太陽暦五月頃より、ワクチン接種の六回目が六十五歳以上の高齢者を中心に二回行われる予定です。こちら(ツイッター)にあるように動物実験では七回目で半数が死んだ(実際にはほぼ全滅)領域に突入します。「老体故に何が起きても不思議ではない」では片付けられない現象が起きることが考えられます。こちら(ツイッター)にあるようにコロナワクチン訴訟が起きているにも拘らず、表立ってはワクチンの危険性が全く周知されておりません。既に死亡者数が異常に増えているとは先に示したとおりですがこれでは益々増えていくことは避けられません。高齢者に関連して年金についても触れます。現在、年金の支給開始年齢は繰り上げれば六十歳から受給できますが満額受給の標準は六十五歳、七十歳まで繰り下げれば受給額が増える仕組みとなっております。国民年金に強制加入した際の契約を勝手に改悪して給付を渋る状況が見られます。こちら(ツイッター)の厚生年金保険制度回顧録によって「年金を払うのは先のことだから、今のうちどんどん使ってしまっても構わない。」の言葉が明らかとなっております。国はそもそも憲法にある生存権を保障する気がなく、私利私欲のことしか考えていないようです。年金財政の問題も相まって、国は年金受給者をそもそも減らそうとしていると疑わざるを得ません。こちら(ユーチューブ)によると二千二十四年の年金改悪案として国民年金の加入期間が四十年から四十五歳まで引き上げが検討されているそうです。実際これでは払い損でしかなく、受給できるはずの高齢者はワクチンによって受給もせずに生涯を終えることが予想されます。仮にワクチンと高齢者と年金を切り離して考えたとしても、政府は国民の敵と化しているのは間違いありません。

 

巨大自然災害、国民の八割が接種したワクチン、高齢者への(更に死に突き進む)ワクチン接種、徴兵の懸念(比較的若い年代)と張り巡らされた人口削減の縄目の大きさに驚かされます。勿論これだけではありません。昨今、異常に昆虫食がテレビ等で勧められるようになりました。こちら(SDGsゼミレポート)には食糧問題や環境問題を解決する新たな手段として昆虫食を提唱しております。「環境にやさしい」「栄養価が高い」「経済成長に貢献する」などを利点として挙げております。しかしながら、支配層傘下の報道機関が推奨するからには理由があり、真の害悪は伏せられたままです。キリスト道の本拠「虫の「こおろぎ」を食べるな。」にその詳細が記されているのでぜひご覧ください。こおろぎ自体に発がん性物質が含まれておりそれを知らずに食すことは時限爆弾を体内に蓄えるようなものです。しかも、食品の原材料を見ても、わかりやすく「こおろぎ」と書かれているとは限らず学名で書かれるなど一見して虫であることが分かりづらい可能性があります。先のサイト(SDGsゼミレポート)に大手製造業者が販売している「コオロギせんべい」「コオロギチョコ」の画像がありましたが、一見して綺麗な包装に仕上がっており、それに騙される者が少なからずいるのではないかと懸念します。決して、大手だから、テレビで勧めていたからと言って信じてはいけません。また、こおろぎを体内に取り込むことで酸化グラフェンが生成されるとあります。記事内の動画でも説明されておりますが、NTTが食用こおろぎに飼育に乗り出しております。その先にはインターネットに人体を接続する(loB)計画があり、酸化グラフェンはそのための電源として機能します。がんになって死ぬ恐れがあり、そうでなくても支配層によって意のままに操られる懸念があり、もはや生きているのではなく飼育されている(家畜)に等しい状態です。こちら(Yahoo!ニュース)でNTTとKDDIが6G開発で提携するとあり、ますます強力なインターネット人体接続(loB)網が作られると警戒するべきです。先のSDGsゼミレポートのサイトでは食糧問題を解決するためという建前がありました。現在、あらゆる食料が高騰し続けており、かつてない異常な事態です。何度も繰り返し、さまざまな品目が値上がりしつつあります。茹でガエル現象そのままに、最初は小さな困難くらいに思えても、積もり積もって気づけば生活が成り立たなくなる状況に至る懸念があります。例えば卵はこれまでの価格の二倍前後まで高騰(参考:NHK)しております。この間、全国各地で「鳥インフルエンザ」と称して養鶏場で何十万羽も殺処分されているようです(参考:FNNプライムオンライン)。また畜産農業においても飼料が高騰する一方で出荷価格は低迷し産業全体の存続が危ぶまれるほどです(参考:長崎新聞)。また、酪農においても牛乳を廃棄せざるを得ない状況が作られており、こちらもひいては個々の農家のみならず産業全体への影響が懸念されます(参考:INSIGHT NOW!)。これらは一例に過ぎませんが、意図的に作られた産業破壊が横行しております。一旦、廃業したらその技術の継承もままならず、業界の損失のみならず、消費する国民にとっても、農家の生計にとっても被害は甚大です。これだけ意図的に食糧不足を演出しておきながら食糧問題の解決としてこおろぎ(昆虫食)を打ち出すのは本末転倒も甚だしく、力を入れるべきはそこではありません。他にも電気代の異常な高騰もあります(参考:毎日新聞)。特に「オール電化」住宅は影響が甚大なようです。かつて過剰と思えるほどに「オール電化」がもてはやされた背景には、こうして追い込んで代替手段が取れないようにして人々の生活を破壊するためであったと思われてなりません。表向きは烏克蘭(ウクライナ)と露西亜(ロシア)の戦争の影響とされております。しかし、これも偽旗事件で新世界秩序の導入のための手段として用いられるだけです。その「やらせ」の煽りを受けて「早く戦争が終わってくれるように」と言っているのはあまりにも愚かです。この生活苦が押し寄せる中で愚かな政権は自らの税金の無駄遣いを改めることなく泣き面に蜂の如く増税を口にします。また、高齢者の集団自決を促す異常な者もおり、それをテレビ局が重宝する(週刊女性PRIME)始末で、この無秩序さは個人的にはこれまで生きてきて経験したことが無いほどです。ただ、これまでが平穏であったと言うつもりはありません。表立っていなかっただけで、悪い計画はずっと気づかれずに進んでいたからです。

 

今このような状況の故に、尚更に世の人々は生きることに必死でしょうか。このような中で食い逸れるのが心配だから、劣悪な環境下でも会社にかじり付こうと思っているでしょうか。仕方がないからと増税を受け入れ、日々節約して耐え忍ぶつもりでしょうか。この世界で必死に生きるのは当然と考えている方、そんな生き方を疑ったこともない方が多いかもしれません。また、この悪い世の実態を知って、世の大多数から距離を取り始めた方もいるかもしれません。世の大多数から距離を取ることは正しいことです。この世は悪い者の支配下にあり(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)、悪い者とは唯一の神に逆らった悪魔です。マタイによる福音書四章八節から九節等にあるように『改めて、サタンは彼(イエス)を非常に高い山に連れて行き、彼(イエス)に世界の国々の全てとそれらの壮大さを見せ、彼(イエス)に言う。「もし、我にひれ伏して崇めるならばこれら全てをお前に与えよう。」(私訳)』とあることから悪魔はこの世の繁栄を司る権力があります。それは神に並び立つのではなく、この天地が存在する間の事だけ敢えて神が許可されているだけで、悪魔には永遠の滅びが定まっております。だからこそ、悪魔は人々にこの世が全てと思わせて、聖書が真理であることを人々に気づかせないように、あるいは聖書を知ったとしても真の福音を知ることがないように異教カトリックを始めとしたキリストの名を語る偽りによって、真の聖書福音に辿りつかないように徹底して惑わします。ルカによる福音書八章十四節に『茨の中に落ちたこれらは、(御言葉を)聞いた時、人生の思い煩いや富や快楽によって追い込まれて塞がれて成熟しない(ことを表す)。(私訳)』とあります。この中に「人生の思い煩い」とあることに着目するべきです。μέριμνα(思い煩い)とは、誤りや損害などを避けるための心遣い、心配、気苦労の意味です。これは信仰を持った者にとっても、そうでない者にとっても大敵と手前は思います。これだけ世の状況が悪くなって、食べていくにも困る状況になれば、生きていくことに必死になり、何が本当に大事かを考える余裕など全くなくなると思います。

 

個人的な話ですが、手前は以前はよく世の事柄で無駄に思い煩う事があったと思います。真理を知らない(従えない)からこそ世の事で無駄に思い煩わされます。世の価値観を捨てられなければそれに振り回されてしまうとも言えます。思い煩っている最中は「辛い」の一言に尽きます。自分の考えに自信がなく不安で堪らない、勤め先での仕事(業務・人間関係・将来性)のことで悩む、個人でどうすることもできない自分の命や将来を心配するなど、頭の中はそれらが堂々巡りしておりました。精も根も尽き果てるという言葉がありますがその通りの状態となります。思い煩うだけでも体力的にもとても消耗します。それによって気力がすっかりなくなります。全てにおいてと言っても良いくらいに否定的にしか物事を捉えられなくなり、打開するだけの思考も困難となります。気がつくと時間も膨大に消費してしまうこともあり、その無益さに尚更に自己嫌悪に陥ります。この自己嫌悪の感情もなかなか厄介です。大なり小なり、生きていればこのような経験をするかもしれません。もし、聖書真理と真の福音を知っていれば、本当に大事なことはこの世で繁栄することではなく、優れた者になることでもなく、人生を楽しむことでもなく、ましてや生き延びるでもない、それらは本質ではないとわかります。真に信仰に入った後でも一年後や二年後の生活がきちんと営めているかと、ふと魔が刺すように心配に囚われることはありました。それに囚われると祈りにも聖書研究にも身が入らなくなります。自分でもその散漫な状態が相当にまずいと思いました。だからこそ、心を静めて祈り、そして理性を尽くして考えました。そうすると、この不安は自己愛に基づいていると気付きました。生きようとすることは人としてある意味において当然なのですが、生きようとするがあまりにこの世になびき、信仰が疎かになる危険があるのも事実です。主イエスは「自分の命を愛する者は命を失い、この世で自分の命を憎む人は永遠の命を守る。(ヨハネによる福音書十二章二十五節参照)」 と言われました。自分の命を愛するのではなく、憎むとまで言われたことには意味があります。何度も目にしていながら、「ああ、そういうことか」とやっとこの言葉が理解できました。ヤコブの手紙四章十四節から十五節あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。(引用:真の聖書福音と預言「支配層に取り込まれるな」その代わり、お前たちは「主が望まれるならば、我らは生きてあの事やこの事をしよう」と言うべきである。(私訳)』の言葉を今一度思い巡らしました。そして、『だから、お前たちは明日について案ずるな。明日は明日自身がこの事を案ずるだろう。その一日は一日の苦労で充分である。だから、お前たちは真っ先に神の国とその義を探し求めなさい。そうすると全てこれらはお前たちに付け加えられるようになる。(マタイによる福音書 六章三十三節から三十四節:私訳)』の言葉を今一度噛み締めました。更に、自分の力の及ぶ範囲において適切に努力をするための具体的な事柄を考えました。それから更に祈りました。「先のことはわからないが御心に適えば何とか生活できているだろうし、どうにもなっていないならそれまで。ただ御心に従おう。それよりもまず今為すべきことをしよう。」と思えてようやく心が落ちつきました。同時に、これは自分が最も陥りやすい弱い部分としての罠だったと思いました。このことでもう一つ申し添えたいことがあります。上記のマタイによる福音書六章三十三節から三十四節は有名な箇所故、地上の教会に通っていた時もよく聞いておりました。手前もよくそれを祈り求めたものです。しかし、それで平安になれたことはまずありませんでした。平安になれなかった事実を認めたくもありませんでした。何が良くなかったのか。上記の話の時と何が違ったのか。ひとつに自己愛が軸にある祈りは主に申し上げるべきではないと思います。ダニエル書三章の三人は自分の命を顧みず、偶像崇拝を拒絶しました。自分の命を以って神に栄光を帰しました。預言者イザヤは壮絶な殉教を遂げたと言われておりますがそれは神への従順の故です。それらを考慮すれば自己愛に基づいて祈るなどあまりにも卑しく思えます。むしろ、自己愛を捨てられるように、神の求める生き方を全うできるように祈るべきです。そして、もう一つは理性的に考えることです。目の前の課題に対して何も考えず、無策で、他力本願でいるのは怠惰です。自分は何もせず、ただ求めればそれで良いとの考えは地上の教会(プロテスタント)で身につけてしまったことです。手前の不信仰の家族はかつてこのように言っておりました。「自分でできる限りの努力をし尽くして、その上で神に拝むものだ」と。不信仰を差し置けば、まともなことを言っていたと今になって思います。ツイッター上で「主イエスを信じて聖霊をいただくことで律法を守られるようになります」と安易に言っている投稿を目にしたことがあります。明らかに日曜礼拝をしている方のようでよくそんなことを言えるものだと思いました。地に足がついておらず、理性的に判断できておりません。できる限りのことをしてもおらず、口だけで「できるようになります」とはなんと空しい絵空事かと思いました。口先だけの信仰に自分も気をつけなければなりませんが、真に恐ろしいことはその自覚が無いことです。いずれにせよ、ぎりぎりまで理性を働かせて考え抜くことは、行いに表すことと直結していると手前は感じます。自分にできる範囲のことがわかれば、他に何の助けが必要かも明確になります。大事なのは、信仰があって、信仰を前提に行動をもする、ということです。行動ありきでもなく、ただ祈り求めるだけでもないということです。

 

話を元に戻しますが、真に見るべきは世の事柄ではなく、天地万物を創造された神を信じて受け入れて、この神に認められる僕となることに全力を注ぐことだとわかれば、今何をするべきかが明確になるはずです。使徒ペトロは「邪悪なこの時代から救われよ(使徒言行録二章四十節参照)」「自分の罪が消し去られるように悔い改めよ(使徒言行録三章十九節)」「お前たち一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるために神は預言者を遣わした(使徒言行録三章二十六節参照)」と言われました。世の事柄に引きずられては神から離れるだけです。あらゆる物価が高騰しているとは先に述べた通りですがおり、稼ぐのに必死になればそれだけ信仰に費やす時間が減ります。まだ、商店から食糧が消える事態は起きておりませんが食糧危機を気にしてばかりでは自己愛を強めることになります。実生活でさまざまな不足や不便を感じた時、さまざまな誘惑や甘言が貴方を襲うかもしれません。そんな時、実生活の不足を補いたい衝動を抑えて神を一番にできるかが問われます。今この時に聖書の言葉に固く立って、神の律法・掟・戒めを守る習慣があれば幸いです。そもそも守る習慣がなければ安易に「仕方がない」と世になびくでしょう。それが悪いことだとも知らずにです。神の律法・掟・戒めを知りながら「ほどほど」にしか守られていない状態があるならば大いに警戒するべきです。妥協することに既に抵抗がなくなっている恐れがあり、実生活の不足のためにさらなる妥協をしてしまう可能性があります。こちら(CHRISTIAN PRESS)によると二千十九年時点での日本のキリスト者人口(世の諸教会集計による)は約九十五万人とされます。異教カトリックや律法廃止論のプロテスタントらキリストの教えに留まらない者ばかりなのですが、九十五万人も存在しうるのは神の律法・掟・戒めを守らず、口先だけの信仰という緩すぎる基準のためです。厳しい言い方ですが、物に例えると大量生産の粗悪品と言えます。旧約聖書に精錬によって金属を鍛える話(エレミヤ書六章二十七節から三十節、エゼキエル書二十二章十七節から二十二節等)があります。不純物ばかりの金属は本体ごと溶けて何も無くなったと言われております。九十五万人の自称キリスト者が存在しうるのはまだ何によっても試されていないからです。申命記四章二十四節やヘブライ人への手紙十二章二十九節にあるように神は焼き尽くす火であり、不信心を赦さない御方です。

 

詩編二十六編二節(私訳)

主よ、我を調べて試みてください。我が気質と心を精錬してください。 

 

詩編六十六編十節(私訳)

神よ、貴方は我らを試みられた。銀を精錬するように我らを精錬した。 

 

イザヤ書四十八章十節(私訳)

見よ、我がお前を試みたのは銀によってではない。苦悩の炉でお前を試した。 

 

ペトロの手紙一 四章十二節(私訳)

愛する者たちよ、お前たちに向かって降りかかる誘惑を、お前たちに(近づく)火に(対して)、奇妙なことがお前たちに起きたように不思議に思ってはいけない。 

 

ペトロの手紙一 四章十二節(私訳)にある誘惑(πειρασμός)とは「災難」や「試み」とも表現でき得る、神への忠実が問われるような場面です。ダニエル書三章やヨハネの黙示録十三章にあるように命惜しさに神への忠実を損なうか、命を捨ててでも神への忠実を示すかが問われる状況です。その困難な場面でも神に栄光を帰せるのが本物の信仰です。大艱難が近いであろうこの時にあって、一つの大きな目標となると思います。真の聖書福音と預言「【第四回】正しい聖書の底本とは」の動画の中でミカエル氏も言われておりますが世の九割九分九厘は不信仰であり、真のキリスト者は一割もいません。神からのお招きとお選びを前提にしながらも、本気で神に従う者はほとんどおらず、火で試されれば信仰のかけらも残りもしないことを旧約聖書の預言は示しております。詩編百十九編六十六節『貴方は我に良き判断と知識を教えてください。我は貴方の掟を信じているからです。(私訳)』とあるように、信仰と世の事柄をそもそも天秤にかけることなく、確固として神に従う道を選び取るように神に祈り求めるべきです。それが良き判断です。

 

我々は常に何かしらの犠牲を払って生きていると手前は思います。世に属するものは、世の事柄に時間と労力を費やします。そして、キリスト者は以下のような犠牲を払います。

真のクリスチャンは真のイスラエル人でもあり、主イエス・キリストの御言葉を守り、主イエスのために自主的に喜んで犠牲を払います。その犠牲とは、主イエスと福音のためにこの世を愛さず、世間に迎合せず、地上の富を追い求めず、キリストの品性を行いで示し、神の栄光を現すことに励むことであり、それらが主への真心からの礼拝であることを知っています。信仰と勇気を持って他人の目や評価を気にすることなく、神の権威に服して神に従順で、神の御心を行い続け、常に前進して後退しません。

 

引用:真の聖書福音と預言「真のキリスト者の生き様」

世に従わず神に従うことが当然となり、それを犠牲とすら感じなくなると思います。世に属する人間からすればそのような生き方は考えられないでしょう。彼らは世の事柄に全てを注いで、神に従うことを捨てております。真逆ですが、彼らはそれを正しいと思い、犠牲とも思っていないかもしれません。目に見えるこの現実世界とその中にある常識とされるものが全てと思うか、目には見えなくても全てを創造された神がおられると信じられるかが大きな分かれ道です。神が聖書を通じて神から人への言葉を与えてくれたことに愛や恩恵を感じられるかです。万物を創造された神に対して、人は無知であったとしても、神は人の全てをご存知です。申命記二十九章十三節には神が人と契約を結ばれたことが記されております。契約とは単なる約束以上の事柄です。契約の内容を履行すれば祝福があり、違犯すれば呪いが臨むと申命記二十七章から二十八章に書かれている通りです。それは行いに報いると四福音書やヨハネの黙示録に書かれている通りで、神の言葉は首尾一貫しており、とても理に適ったことを言われていることがわかります。この認識ができれば尚更に本物の神の言葉が聖書に書かれているのだとわかると思います。ヨハネによる福音書八章四十七節『神に属する者は神の言葉を聞く。そのため、お前たちが聞かないのは神に属していないからである。(私訳)』ヨハネによる福音書八章三十一節『イエスは御自分を信じた者たちに向かって言われた。お前たちが我が言葉に留まるならばお前たちは確かに我が弟子である。(私訳)』、ヨハネの手紙二 九節『キリストの教えを超えてこれに留まらへん者は誰でも神と共に生きてません。キリストの教えに留まっとる人は御父と御子と共に生きています。(引用:真の聖書福音と預言「世の悪に抵抗しなさい」)』 これらの言葉によって自らがどちらに属しているかを判断することができます。また、自分だけでなく全ての人に対しての見分けの手段です。特にヨハネによる福音書八章三十一節の留まる(μένω)には、「忍耐する」「がんばってやり通す」「 屈しない」などの意味もあり、その本物度合いが試されて完成した高潔さが窺えます。

 

ヨハネによる福音書五章四十四節(私訳)

互いからの誉れを受け取り、唯一の神の誉れを手に入れようとしないお前たちはどうやって信じられようか。

 

ヨハネによる福音書十二章三十五節から三十六節、四十三節(私訳)

イエスは言われた。「まだ少しの間、光はお前たちと共にいる。暗闇がお前たちを捕らえないように光がある内にお前たちは歩きなさい。暗闇の内に歩く者はどこに行くか知らないからである。光の子となるために、光がある内にお前たちは光を信じなさい。」

彼らは神の誉れよりも人々の誉れを好んだからである。

 

皆が何かしらを信じて生きております。代表格がこの世の常識です。地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、コロナ・マスク信仰、太陽暦、洋服、世間体、拝金主義、地位・名誉志向などです。どれもあって当たり前のように世の人々の心の基軸に据えられております。心に刻まれているように見えます。偽りの世の教えやこの世を愛する生き方です。この世を愛しているという自覚が持ちにくいかもしれませんが、これらを捨てられずに従っているならば、それはかけがえのないものとして大切に扱っている状態です。最も大事なものに人は心血を注ぐからです。暗闇(σκοτίᾳ)は神聖な事柄についての無知、それに伴う邪悪さ、その結果としての惨めさを意味します。聖書真理への無知、それにまつわる影響と結果も含めて暗闇の内を歩いていることを知ってください。そして、上記に挙げた事柄(世の常識)が全てではありません。それでもこれらを捨てるのを恐れて、幾らかは持っていたいと思うのであれば世の誉れを受けようとしている状態です。それでは、神からの誉れとは何でしょうか。聖書にある創造の秩序、三位一体の神、世の始まりと終わり、永遠の命、第二の死、神の律法・掟・戒めを信じて従うこと等です。それは上記に挙げた世の事柄とは両立しません。しようとしてもできません。八方美人のように両方に良い顔をするのは不信仰であって世に属していることになるからです。こちら(gooランキング)にあるように、ほんの三十数年前と今とでは「常識」とされるものも「価値観」もこれだけ変わります。こんなにも儚く移り変わる価値観や常識を大事にする意味があるのでしょうか。また、以前に老後二千万円問題(老後の生活のためには退職までに二千万円を準備しなければならない)というものが突然降って湧いたように出てきたことがありました。政府や官僚が国民の税金を湯水のように使い、増税をしておきながら公助よりも自助を促し、国民への背信だと思わない彼らは異常です。これも新世界秩序の構築に向けた再編の一環としての「経済的弱者の切り捨て」の意図があったと思われます。本来は憲法にある生存権を国が保障するのが筋です。言いたいことは、常識とされるものは支配層や為政者等によって容易に変えられるということです。そこには支配層の目的達成という一貫性があるだけで、実際にはその言っている内容は矛盾だらけで無意味です。この世が存続する間に限定される廃れるもの、それどころがせいぜい数十年も持たないもっと頼りないものに過ぎません。それに対して、神の言葉は永遠に残り(イザヤ書四十章八節参照)変わりません。自分が生きている間だけでなく、この世の存続する間、それ以上に一貫して普遍の理(物事の筋道)を聖書は言っております。神は永遠を見越し、計画しており、人のように揺れ動くことはありません。始まりがあって、終わり方も既に定められております。我らは神の律法に従って死後に裁きを受けます。そうであるならば、神を認めずにこの世の常識に従って生きていて良いはずがありません。信仰は神からのお招きにより始まります。もし神からのお招きを感じて聖書真理を信じようと思えたのであれば行動に移し、神からの誉れを得ることを一番にして生きるべきです。今この時の振る舞いにおいても、世であるのか、唯一の真の神なのか、どちらかの誉を得ようとしているかを自己検証するべきです。道は二つのうち、どちらか一つしか選べません。究極の一得一失です。何かを得ると、別の何かを失う相容れない関係(トレードオフ)です。中途半端な状態は世を選んだことになります。信じる(πιστεύετε)とはイエスに向けた信仰を持つこと、信じていること、信仰を持って自分自身を捨てることです。貴方は誰からの誉れを欲するかをご決断ください。残された時はそう多くはありません。ただ時機を逸しないようにいたしましょう。

 

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