こんにちは。
手前は悪いこの世に価値を見出だせず、そして、悪いこの世の矛盾がどこから始まっているか、この後にどうなるかを聖書から学んだキリスト者です。悔い改めが出来なくなる大艱難まで時が近いと思われ、まだ見ぬ失われた羊へ、また、世の人々に何が真実であったかが少しでも伝わることを願っております。今回は「キリスト者の準備」と題して、不信仰者の生き方から脱却して真のキリスト者として生きるための準備についてお伝えします。
神を畏れることは知識の始まり
ヨハネの手紙一 三章十節(私訳)
これにより神の子たちと悪魔の子たちは明白である。正しい行いをしない者やその兄弟を愛さない者は神に属する者ではない。
この聖句箇所は、短い言葉ながらもとても重要な事柄に言及しております。一つは「神の子たちと悪魔の子たち」という区分があることです。神の言葉に従って、行いで示す者が神の子であり、そうではない者が悪魔の子です。これを聞いて聖書真理を知らない者たちは少なからず反発するのではないでしょうか。「聖書の神だけを正しいとするのは一方的だ、聖書の神だけを基準とした二者択一なものの見方は極端だ」という趣旨のことを手前は不信仰者より言われたことがあります。手前も聖書真理を知る前は同じように思ったことがあるので、そのようなことを言う気持ちは正直分からないでもありません。これは聖書に対する反発の定番であろうと思います。しかし、それは彼ら(不信仰者)目線の身勝手な言い分でしかありません。世の常識という偽りの上に生きている認識が無く、真の神を知らない結果が反逆という悪行となって現れているだけです。そして、「無知であることまでも咎めるのか」との思いがあるかもしれません。聖句にある「神の子」は、神の律法・掟・戒めを遵守します。信仰の根幹を成す要素です。まさに神の法であって、世の法等と同様に知らなかったからと言って罪を犯しても無罪になることはありません(参照:真の聖書福音と預言「法への無関心や無知が身を滅ぼす」)。我らの生活に直結する世の法もそうですが、全人類の「死後という永遠」を決める神の法に無知であってはなりません。人には一度死ぬことと死後に裁きに遭うことが定められているからです(ヘブライ人への手紙九章二十七節参照)。だからこそ無知がどれほど恐ろしく、身を滅ぼすかを出来る限り早い内に悟るべきです。『無知は罪やさかいな。箴言十章八節、十四節、二十一節等からも無知は悪いことやと分かる。彼にはもっと箴言を読むように勧めたい。如何に自分が無知か、愚かなことをしてるか思い知るためにも。(引用:真の聖書福音と預言「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」)』の言葉はその通りです。このような指摘は痛みを伴うかもしれません。しかし、誰からも間違いを指摘をされず、取り返しがつかない段階になってから知ったのでは特大の損失です。そのため、痛みが伴った方がより指摘の内容に目を向ける契機となると思います。強く指摘するのは、真に相手を大切にする心から生じる行動です。そこを汲み取りつつ、自分の愚かさは早い内に知った方が良いです。傲慢から脱却して、悔い改めるためにもです。分別の無い愚か者は自分の道を正しいと看做す(箴言十二章十五節参照)とありますが、これは客観的に相当に痛々しいことではないでしょうか。そして、幼い頃から真の聖書福音を教わって育った訳でないのであれば、誰もが最初は無知であったはずです。手前もそうだったからこそ唯一の真理に反発したことがありました。しかし、「無知だったから」では済まされず、無知の結果が罪であることに変わりはなく、罪を犯さない人間は一人としていない(コヘレトの言葉七章二十節参照)と言われている通りです。誰もが最初は聖書真理に無知で、世の常識の虜になっていることに早く気付くべきです。『・無知は大罪や。もっと勉強して正しい知識を身につけましょう。拙者がこれらの世の真相に関する情報や聖書に関する知識等も自分で能動的に調べたり、勉強したりして身につけたものです。主イエス・キリストのお導きのお陰です。勿論、拙者もかつてはあんた方のような無知の時もありました。それはしゃあないよ。この世が悪やし、政府も報道機関も教育機関も悪で、何も正しいことを言わんと嘘ばっか言うし、それらの影響を受けた先祖もぼーっとしてきて何も正しいことを勉強せんからほんまに大事なことは何も知らんし、大衆は悪い世の流れに乗ってばかりの人が多いし、その影響を受けざるを得ないからね。それで我等が子供の時から完璧人間で居るなんてことは無理なんや。せやから、過去のことを責めてる訳ではなしに、今の話、これから先の話をしてるんです。このまま無知のままで居ってええんかってこと。ええ訳ないやろ。(引用:キリスト道「本拠」)』とはとても大事な指摘をしております。聞く耳のあるものは聞いてください。
聖句の中の重要な事柄の二つ目は「正しい行い」をしなければ神に属さない(悪魔に属する)と明言されていることです。新共同訳では「正しい生活」とされておりますが、原語からは「(正しい)行い」です。ただ、考えようによっては「生活」としても決して的外れとは言えないと手前は考えます。理由は、単発の「行い」では意味が無いからです。時々、正しいことをするのは容易いです。誰にでも出来ることです。しかし、神が求めているのは完全な者となること(マタイによる福音書五章四十八節参照)ことであり、一点でも落ち度があれば有罪となる(ヤコブの手紙二章十節参照)ことからも、一度限りの行いではなく、継続することが必要です。行動の集合体は習慣であり、習慣となるには、全ての行動の基としての信仰が心の内に信念として機能する必要があります。それらが体現されるのは日々の「生活(人生)」の中です。
ヨハネの手紙一 三章十節を通してお伝えしたいことは、まず『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』と『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』という前提に拠って立つことです。過去記事「光で闇を照らせ」でも記したように、神に拠らない知識は偽りであって、この天地の真実(神、悪魔、人間存在の意味、始まりと終わり等)は聖書にしかありません。真の神を知らず、進化論などの偽りの起源を信じ、偶像崇拝に耽り、生きること自体が目的化したり、楽しく、自己実現して、豊かに、あるいは社会的に成功すれば良い等という生き方は、神の目に適わない生き方です。このような生き方の末路は地獄行きです。前提を間違えると進む方向も間違います。
こちら(youtube)の動画で「なぜ人は生きるか」との問いがありますが、見事に誰も答えられません。また、それを問うこと自体が忌避される傾向があり、「生きる意味を自分で見つけるしかない」と思った所で、神無き世界観の人間の文脈では決して見出だせず、むしろ偶像崇拝に陥る危険があります。人はそうやって自己存在の根拠や本質を考えずに、世の事柄に没頭して充実を図る生き方が当たり前になっているのだと思います。これが世の大多数の姿なのだと思われます。だからこそ『主への畏れは知恵の始まり(詩編百十一編十節参照)』なのです。存在の目的は、人間の上位概念たる造り主に拠らなければ本当のことが分かり得ません。
詩編百二編十九節(私訳)で『来たる後世にこれが記されるだろう。「創造された民は主に栄光を帰すようになる。」』と言われているように人は神によって造られ、神を讃美するために存在します。真に畏れる対象を知らなければ、他の偶像(あらゆる偽り)を欲してしまうでしょう。また、『全ての人に裁きを執行するために、神を敬わなかった全ての不信心な者たちの不敬な行い全て、罪深く不信心な者たちが神へ敵対して口にした恐れを知らない(言葉の)全てを罰するために。(ユダの手紙十五節:私訳)』とも言われていることから、決して信じるだけではなく、行いも重視されており、神の律法・掟・戒めを守ることが求められております。先に挙げたヨハネの手紙一 三章十節にあるように神の子たちと悪魔の子たち(の区別)は明白です。そこに曖昧さ、中立はありません。聖書で言う「義」には神の法に対する適法の意味があり、適法(義)か違法(罪)の二種類しかありません。即ち、二種類の人間しか居らず、適法(義)は神を確かに見出だして、偽教義にも惑わされずに、神に忠実であることでしか果たし得ません。これは偶然で辿り着ける結果ではなく、神を愛し通す強い意志の下でしか起こり得ません。だから、世の諸教会に足を運んでも、知識も信念も曖昧なまま、覚悟もなく主イエスを信じたからと言って適法(義)に到達するわけではありません。分け目は主イエスを信じつつ、神の律法・掟・戒めを守ることです。「それでは誰が救われるか」「神はそのような方ではない」と反論する偽福音論者をたくさん見てきましたが、そのような問いは無意味です。救われる者が少ないことについて、神は最初から言及済みです。招かれる者は多くても選ばれる者は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)であり、世の終わりはノアの時のようである(マタイによる福音書二十四章三十七節参照)と言われております。ノアの箱舟に乗ったのはたった八人で、その他の大勢は滅ぼされました(ペトロの手紙一 三章二十節参照)。「リバイバルが起こる」だの「大勢が救われる」とは、根拠無き思い込みで間違いです。それも単に、世に蔓延る福音の三要素(偽福音)のためでしょう。律法廃止論などの偽福音は全て偽使徒パウロから始まっております(参照:パウロは偽使徒)。こちら(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)に列挙されているように、主イエスの言葉に対して偽使徒パウロの言葉がどれほど乖離しているかが分かるはずです。彼らは一様に世の諸教会・神学で教わった内容に縋り続け、必死にパウロを擁護、肯定しようとします。しかし、どんなに好意的に見ようとも根本的な部分での矛盾が明らかです(部分的に良い言葉もあるが)。神はまっすぐな御方であり、示された道もまっすぐです。矛盾とは、問題がある姿勢です。その道を勝手に曲げたパウロの言葉には何の正当性もありません。『これだけは理解せよ。神は人間を真っ直ぐに造られた。しかし彼らが多くの作り話(嘘)を欲したのを我は見出だした。(コヘレトの言葉七章二十九節:私訳)』とコヘレトは言われました。神が真実・真理を伝えたにも拘らず、偽りを欲するとは一体どうしたことでしょうか。悪魔は「嘘つきの父」(ヨハネ八章四十四節参照)であると主イエスは言われました。悪魔は嘘つきの父であり、世の常識という偽りを喧伝する支配層も同じく嘘つき、それに加担するように偽りを欲するのは悪魔の子たちです。パウロ教信者もそれに含まれます。まさにパウロ書簡とはふるいなのだと思います。彼らの末路について、主イエスは明確に嘘つきは地獄行き(黙示録二十一章八節参照)であると予告されております。聖書真理を知らない者には、「世の常識全てが偽りであり、本物を知らないが故に偽りに加担している」と認識できません。知らないまま嘘を信じ続けて、神に属する要件を知らなければ、滅びの縄目から抜け出せない囚われ人のように滅びに一直線です。聖書は宗教(虚構)ではなく、唯一の真理です。誰でも、関係が無いなどということはあり得ません。この世の支配者(悪魔、悪魔崇拝者の支配層)が聖書が真理であることを隠し、世の常識(嘘)を真実と教えているだけです。その上で、世の常識という嘘に従わない者を世は激しく迫害します。それによって信じない者が多いだけです。大勢が信じていないという理由で聖書は真実ではないということにはなりません。むしろ、大多数が信じていることにこそ嘘があります。大勢が正しいという洗脳を自らに施されていることを自覚しましょう。そして、自分で聖書を読み、よろしければ真の聖書福音と預言の記事を参考にして、聖書が言っている文脈を理解しましょう。悪戦苦闘しながら、頭がとても疲れる経験もしながら、真理を見出だしていくと決して忘れ得ません。心に深く刻まれます。深く刻まれた言葉は世の事象に対して「これはおかしいぞ」と警鐘を鳴らしてくれます。強く確かな、正しい信念(真の聖書福音)に拠って生きることが求められております。
準備と霊的武装
真理を知り、従い始めると、素晴らしい神の御栄光、創造の秩序、救いの御計画、命の栄冠に対する理解が深まり、この世にある何もかもがそれらの前には価値を失います。この天と地も、悪も偽りも、全てが滅ぶため、世に対しては虚しさが募ってきます。しかしながら、そうは言っても目の前の現実があるにも確かです。我らはまずこの肉体を帯びたこの一生を、主を仰ぎ見ながら最期まで歩まねばなりません。神が言われた完全に到達するために、白い衣に値する高潔な品性や確固たる信仰を育むために、また、この世と自らの肉の弱さに打ち勝つためにです。
信仰の始まりは誰だって心が燃えているものです。ただ、それを実際に行いに現すことも、それを継続していくことも、向上し続けることも本当に大変なことです。「継続は力なり」という言葉は知っていてもその実践が如何に難しいかを徐々に思い知ることになります。言行一致とは簡単に成し得ないからこそ、偽りのないその姿勢によって高い価値が示されます。
八、多くの人が(信仰から)脱落し、互いに陥れ、憎み合う
既存の聖書の翻訳が下手で気付かぬ人が多いであろうが、信仰から脱落する者が終末時代に多くなるという主イエスの予告や。これは、拙者も実際に脱落者たちを見てきて、その通りであると実感する。多くの者が怠惰の故に脱落したり、世俗の思い煩いによって脱落したり、または、自分が正しいと思い込み偉そうに反発して脱落したり、理由は色々あれど、脱落者が多いのは事実で、今だけやのうて将来も発生し、今聖書を読んで信じてる人であっても、多くのにわか信者は後で信仰を失うて脱落するだろう。
手前もまた脱落した方を見てきました。理由は様々でしたが、誰でも、脱落し得るのだとよく分かりました。故に自分が絶対に脱落しないとは言えないと思いました。マタイによる福音書二十六章二十一節で主イエスは直弟子の中に裏切ろうとする者がいることを予告し、二十二節では弟子たちが「主よ、我ではないでしょうか」と言い始めました。この時の弟子たちの気持ちが以前よりは理解できるようになりました。それは裏切ろうと思っているからではなく、悪い部分が自分でも気付いていない所で巣喰い、進行してしまうからです。それは気の緩みだったり、良心の訴えに鈍感になるなどいろいろな背景があると思います。良し悪しを問わず、行いの積み重ねが習慣を作ります。行動を改善するには自らの肉の思いに抗う必要があります。習慣を改善するには非常に苦労し、時間もかかります。一方、悪習慣を身に付けてしまうのは楽に身を任せれば容易に出来てしまいます。個人の見解ですが、毎日、自己点検をする習慣を持たないと小さな自分の変化(良いことも悪いことも)に気付けないと思います。「この位まだ大丈夫でしょ」と思っていると自分の中で悪習慣が大きくなることがあります。経験的に「ふと気がつくと、在るべき真っ直ぐから、ずれている」と気付くことが偶にあります。やはり、最大限の警戒で自分の心を守らなければならない(箴言四章二十三節参照)のだと思います。このように書かれているからには相応の理由があるからで、決して軽く読み飛ばしてはなりません。
ペトロの手紙一 四章一節から二節(引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 二」)
それ故、我等のために肉体にあってキリストは苦しみはり、あんた方もまた同じ考えを準備しなはれ。なぜなら、罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむからや。もはや人間の欲望やのうて神の御意志のために、肉体における残りの時間を生きるためや。
「罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむ」の言葉は信仰の道を歩むほどにじわじわと、あるいは、まざまざと分かってくると思います。
神は霊であるが、主イエスは受肉して、肉体という形を取ることで苦しみはった。それは我等人間も同じである故、主イエスと同じ苦しみを我等も受ける覚悟をせねばならず、信仰に入って以後は残りの人生を神の御意志のために生きるべきであって、人間各自の持つ欲望を満たしたり、やりたいことをやるためではないと使徒ペトロは言うてる。また、ペトロは「罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむ」と言うており、拙者もこれに強く同意する。本格的に信仰に入る前は律法を知らず違犯していたが、聖書を自分で通読して「主イエスが真理である」と悟ってから本格的に信仰に入った。それ以後、律法を強く意識するようになり、律法違犯をやめて行き、伝道活動をして生活する上で苦しい思いをしてる。サタンによる妨害、この世の悪人どもからの迫害等と正しい道を歩くからこその苦痛である。罪の奴隷で脳内お花畑のパウロ教信者どもには到底理解不能であろう。せやから、キリストと十二使徒の教えを守らへんパウロ教信者どもは、律法違犯の常習犯であって神の御意志を無視して好き勝手に生きてる。これでは不信仰の者が勝手な思いで生きてるんと何ら変わらへん。彼らは皆、神の御意志を知ろうともせず、聖霊を受けてへんさかいそれを知ることもでけへん故、かように悪い行いばかりするし、罪を犯すんをやめへん。それでは当然地獄行きとなる。嫌なら、悔い改める(律法違犯をやめる)しかない。
正しいことを行うほどに悪いこの世の者たちからの迫害を受けます。苦しみの中身は人によって様々だと思いますが、真の聖書福音に従わない世の仕組みや世の大多数にあって、真の聖書福音に従うことで生じる摩擦や葛藤は間違いなくあります。ペトロの手紙一 四章一節にある『肉体(σάρξ)』には「苦しみの対象となる人間の肉体的性質」の意味があります。迫害は本物のあることの証拠であり喜び(マタイによる福音書五章十二節参照)でもありますが肉においての苦しさがあるのも事実です。迫害とまではいかなくても、真の聖書福音と預言「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」のコメントの「5」の話が良い例だと思いました。ここに書かれているのは、派遣労働による低収入を解消するために正職員として働き始めたが、それによって安息日遵守が困難になったというものです。生活が苦しくて仕事を辞める訳にもいかないが、律法を守るためには今の仕事を辞めなくてはならない葛藤を吐露しております。社会全体が聖書に依拠しておれば、聖書暦に則り、自ずと安息日(七日目:金曜日の日没から土曜日の日没まで)は休みとなっていたでしょう。しかし、実際はそうではありません。「生活を取るか、信仰を取るか」「(悪の世の)多数派に属するか、(真の聖書福音の)少数派に属するか」「世の偽りを信じる、真理だけを信じる」のような形で二者択一を迫られるのが実際であり、そこで行いで示せるかが問われます。肉の性質(自己愛)としては自分が困るような場面を避けたいと考えるでしょう。これも「罪を(犯すのを)やめた者は、肉体にあって苦しむ」の一つの表れだと思います。だからこそ悪い世にあって神に従い続ける行為の尊さが際立ちます。不信仰の者(律法廃止論者を含む)はそもそも正しい行いの重要性を認識しないため、苦しむことが無いでしょう。
ところで先のペトロの手紙一 四章一節に『あんた方もまた同じ考えを準備しなはれ』という言葉があります。この中の「準備(ὁπλίζω)」を確認すると「準備する」の他に「装備する」「(知識を)授ける、身につけさせる」「武装する」の意味もありました。文脈から肉体にあってキリストは苦しまれたことを踏まえて「準備する」との通りですが、無防備(災害や危難に対する準備のないこと「引用:スーパー大辞林」)ではないことの意味もをよくよく認識するべきです。また、細かいですがこちら(ひとりLABO)によると『『備え』とは「起きるかもしれないことを想定して行っておくこと」』『『準備』とは、「必ず起こること(必要なこと)に対して用意をする」こと』とありました。それぞれの国語的意味からそのように捉えられると思いました。主イエスは必ず起こると予告されたのですから、それによって「準備」と訳されたのは相応しいのだと理解できました。
そして、「武装」の意味から手前はエフェソの信徒への手紙の箇所が想起されました。
エフェソの信徒への手紙 六章十節から十二節(引用:真の聖書福音と預言「コロナ茶番は新世界秩序(NWO)の道具」)及び六章十三節から十七節(私訳)
兄弟たちよ、今後は、主にあって、その力と権勢にあって強くなりなさい。悪魔の策略に対して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。我等が格闘するのは、肉や血に対してではなく、支配権と権力、この世の暗闇の支配者、天にいる霊的な悪に対してやからや。
それ故、お前たちは災難をもたらす日に抵抗し、全てを成し遂げ、耐え抜くことができるように神の武具をまとえ。そのために、お前たちは立って、真理をお前たちの腰に締め、正義の胸当てを身に付け、足に平和の福音の支度として靴を履いて、すべての上に信仰の盾を持ち、これにより悪人のあらゆる燃える矢を消すことが出来るようになる。そして、救いの兜を被り、御霊の剣である神の言葉を手に取れ。
十節にある『武具(πανοπλία)』とは、全身を覆う鎧を指します。全身の武具の部分が後節に載っている通りです。『真理(ἀληθείᾳ)』とは、偽りがないこと、神に関係する事柄や人間の義務において何が真実であるかを示すものです。その真理を腰に(帯のように)締めます。『正義(δικαιοσύνη)』とは、人格と行いが正しいことであり、あるべき人間の状態や神に受け入れられる状態です。具体的には「高潔さ」「徳」「真っ直ぐさ」「思考、感情、行動の正しさ」などを指します。この正義を胸当てとして身に付けます。『平和(εἰρήνης)』とは、ヨハネの手紙一 四章十七節にある『これによって愛が我らの内に全うされている。裁きの日に我らは自信を持つために。(私訳)』のように、救いに自信を持ち、キリストの再臨とその出来事に伴う万物の変化を静かに待っている人々について使われるようです。先の『正義(δικαιοσύνη)』の言葉には「正当な理由」「義認(神が人間の罪を赦すこと)」の意味もあり、まさしく裁きにおいて自信があって静かに裁きを迎えられる心境としての平和なのだと思います。「大丈夫かどうか」と心配になるのでもない心境であるのが印象的です。そして、(平和の)『福音(εὐαγγελίου)』とは神の王国の到来と主イエスについての知らせ、滅びの縄目からの救いです。『信仰(πίστις)』とは、神への忠誠、信念、確信を指します。この信仰の盾により、悪人どもの火の矢を消すとあります。ただの矢ではなく、「火」の矢とあるので、戦場を想像すればただ刺さるのではなく、より延焼させる力を持つ殺傷力(攻撃力)の高い攻撃を指しうると思いました。実際、『火(πυρόω)』には、比喩的に怒り、悲しみ、欲望で興奮して悪化すること、試みるといった意味があります。故に、肉の欲・自我に乗っ取られるのではなく、自分を捨てて神に忠実であり続けることをここでは指しているのだと思います。『救い(σωτήριος)』を『兜(περικεφαλαία)』として被るとは、将来の救いの希望を身にまとい、魂の保護する意味があるようです。霊の剣について、ヘブライ人への手紙四章十二節でも「神の言葉は瞬時に、力強く、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を引き裂くまで突き刺し、心の意図や考えを識別する(参照)」と言われている通りです。剣(μάχαιρα)には比喩的に、戦争、裁き(その中に、賢明な判断力のある行為、公平・公正の意味もある)、罰の意味があります。更には、聖霊が罪への衝動を抑え、聖霊の力と有効性を発揮するという意味もあるようです。調べる程に個々の意味の深さに驚かされます。
上記はパウロ書簡からではありますが、言わんとしている内容は聖書の他の箇所と矛盾しない内容であると思います。そして、悪い者が支配するこの世においてはこれほどの霊的な武装(準備)をする必要があると分かります。決して無防備であってはなりません。そうでなければ世に打ち負かされます。しかも『お前たちは未だ罪に逆らって戦い、血を流すほど抵抗しておりません。(ヘブライ人への手紙十二章四節:私訳)』と言われている程であることにも留意するべきです。『血を流す(αἵματος)』には、ちょっとやそっとの傷を負う程度ではなく、血みどろの死を迎えるとの意味があります。この意味も踏まえ、これ程までに罪と戦っているかを自らに問わねばなりません。
聖書と世の動向の両方を見る必要がある
真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」の記事の中で『神に属する人間と世に属する人間との戦い』と言われております。この世を支配するサタンは、この世の権威(政府、国際機関、世が認めた学問や知識、常識とされるもの)を用いて人々から聖書真理を遠ざけます。聖書に繋がる者があっても誤訳・改ざんだらけの聖書や主なる神や主イエスの教えから逸脱する偽福音を普及させ、真の聖書福音から遠ざけております。サタンが神に逆らう存在であること、神が愛した被造物である人間を憎んでいること、火の池に投げ込まれて滅ぼされることが定められていること(ヨハネの黙示録二十章十節参照)、自分の時が短いことを知り、怒り狂い、選ばれた者たちを惑わそう(ヨハネの黙示録十二章十二節から十七節参照・マタイによる福音書二十四章二十四節参照)としていることが分かります。人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっており(ヘブライ人への手紙九章二十七節参照)、サタンも当然そのことを知っております。裁きの国語的意味は『正邪・理非の判断をすること。また、その判断。審判。裁断。(引用:スーパー大辞林)』で、神の裁きにおいても同様です。レビ記十章十節にあるように聖と汚れの区別があり、その基準は律法にあります。このことから、サタンにとっては、如何に人間に真の聖書福音を知られないで生きるようにさせ、知っていてもそれを守るのを困難な状況にさせることが全てです。先の『正義(δικαιοσύνη)』の言葉にあるように「神が罪を赦す」状態にさせないこと(不正義)です。見ようによっては、よくぞここまで真理を知られないように偽りを世に据え、堕落した世を作ったことかと逆に感心させられます。ある意味においてサタンも必死です。それに対して人々はどうでしょうか。あまりにも無防備ではないでしょうか。
引用:https://twitter.com/aqua3687/status/1687269651007582208?s=20
上記は戦時の同調圧力について手前が投稿した内容です。本文に『「歴史は繰り返す」の言葉は知っていても、長期的かつ巨視的に物事を考えられなければ、知らないも同然です。そのようであっては権力者に出し抜かれ、されるがままです。今からでも、政府や世を牛耳る権力者の悪に抵抗するべきです。』と書きました。やはり過去の出来事が今の自分の身にも起こるのだと現実的に我が事として想像する力はとても重要だと思います。それは聖書を見る上でも同様です。「昔、そんなことがあったんだね。古代イスラエルの民は何で同じ失敗ばかりを繰り返すのか。何をやっているのだろう。」と他人事に見ていたのでは自分もまた同じ過ちを繰り返すことになります。
旧約の時代に人々に都合の悪いことを言わない偽預言者がおりました(エレミヤ書十四章十三節から十四節参照)。その一方で真実を告げる預言者エレミヤは世に嫌われ迫害を受けました(エレミヤ書三十七章十八節等参照)。主イエスが受肉された時代、ユダヤで地位が高かったのは律法学者ですが、彼らは律法遵守を説きながら自らは守らず、心の中は汚れに満ちており、それを弾劾した主イエスを何度も殺害しようとしました(マタイによる福音書二十三章等参照)。律法を知っているはずの民の国にあってさえ世の権威は腐敗しており、ましてや神の律法などの聖書真理が基軸に据えられていない今の世にあってはどれほど腐敗していることでしょう。
キリスト者(キリストの教えに留まる者)は、何を以って「キリストの教えに留まっている」と判断できるでしょうか。単純なことですが主イエスが言われた「神の掟を守る」ことです(マタイによる福音書五章十九節・ヨハネによる福音書十五章十節等参照)。我々は今、こうしてこの世で生を受けて生きているのですから、各位のこの世の生活(生き方・過ごし方等)を通して、神の律法・掟・戒め(主イエスとの新しい契約の範囲で守るべき律法、新しい掟や旧約の様々な戒め等)を守ることによって、キリストの教えに留まっていると判断できます。この定義付けを間違えてはなりません。「主イエスを信じたから救われる」と勘違いして、「主よ、主よ」と虚しく言った所で、行いが伴わなければ主イエスから知らないと言われて、神の王国に決して入ることができません(マタイによる福音書七章二十三節参照)。自らに問うて下さい。今、この時、神に従えている(適法)かどうか。安息日より仕事を優先していないでしょうか。悪い思いを抱いていないでしょうか。世に属して世の悪に従っていないでしょうか。一時的に頑張った所で意味をなしません。常時、長期的な姿勢が問われます。それは、行いの根幹たる内面が悔い改められて、変革できていることが求められます。この世の試験であれば一夜漬けが通じて誤魔化せるかもしれません。しかし、神の試験はそうではありません。神は心を見通し、自分の話したつまらない言葉についても全て裁きの日には責任を問われる(マタイによる福音書十二章三十六節参照)御方です。自分の在り方(性質)、悔い改めの実、その過程がそのまま大事です。改善にも時間がかかるため早く改めて、より良く改めて、良き状態が継続して(性質が改まる)いなければ意味がありません。ミカエル氏は真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」にて『機会をみすみす逃したり、主イエスから求められてる「完全な者」という高い基準に成長しようと努力することを怠ったり、真の聖書福音を拒絶することはすべてその者どもの落ち度であり、「自分は納得していない」等と言い訳をしても無駄で、永遠の破滅という刑罰を免れへん。自主的に聞き従わぬ者は、その拒絶行為、不作為故に滅びる。これを聞いたからとて、無理して来なくても結構。そないな後ろ向きな理由や邪な動機でキリスト者を自称してても、どうせ長く続かへんやろから。にわか信者は、所詮利益信仰であり、にわか(一時的)で終わる。』と言われております。だから、本気で悔い改めようと思い、神に向かうその気持ちは宝のようであり、良心の声に従うことも同様です。
繰り返しになりますが、各位のこの世の生活(生き方・過ごし方等)を通して、神の律法・掟・戒め(主イエスとの新しい契約の範囲で守るべき律法、新しい掟や旧約の様々な戒め等)を守ることが重要です。そのためには世の動向に疎くても駄目です。我等は悪い者が支配するこの世に生きているため(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)、社会生活上の生命や人権等を護るためにも、また、神の律法・掟・戒めを守るための環境を保持するためにも、人々が生き辛いように、信仰においても頓挫するように世に対して画策するサタンの動きを警戒しなければなりません。これらを悪化させようとする動きに最大限に抵抗しなければなりません。公民として、神の民としての両面にとって重要です。聖書真理を隠し、世の常識(地球球体説、進化論、科学信仰、政府信仰、太陽暦、西洋化等)という偽りを人々の思考の中心に据えていることからも、この世の権威が正しいという根拠などなく、それらを盲信することは宗教です。世に伏することになり、偶像崇拝等の罪を犯す危険があります。ミカエル氏が『今、これまでの経験はすべて忘れ去って、拙者が書いたことを聖書や世の動向と照らして考えてみなはれ。拙者は、聖書の真理を宣べ伝えるだけやのうて、この世の誤った情報や教えを正すことをしてる。学校の教科書、新聞、テレビ、雑誌、映画等は、すべて世の教えであって、神の教えではやなく、偽りだらけや。(引用:真の聖書福音と預言「自己紹介(Introduction)」)』と言われている通りです。
主イエスは世の終わりについて、いちじくの木から学ぶように(マタイによる福音書二十四章三十二節参照)と世の動きを見極めることに言及しております。今は既に艱難時代に突入して世の終わりが近い時期に位置しております(参照:真の聖書福音と預言「支配層に取り込まれるな」)。ヨハネの黙示録には世の終わりに獣から押される「獣の刻印」についての言及があります。神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣やキリスト道の箇所をよくよくご参照いただきたいのですが、ここでも言われているように『マイクロチップだけを避ければ安全ではない』ことに留意するべきです。今、目に見えている情勢からすれば個人番号券と電子刺青が物理的な獣の刻印となることが考えられます。その上で、『獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印』であることにも留意するべきです。物理的に押されるだけが刻印であれば、世の真相に気付いた不信仰者であっても忌避することでしょう。しかし、神に従うのか、サタンに惑わされた人間に従うのかが明確に分かれるのが大艱難期であり、物理的刻印を忌避した不信仰者が神に認められるかとなれば絶対に否です。不信仰の末路は第二の死です(ヨハネの黙示録二十一章八節参照 )。律法違犯がある状態と、罪を犯す品性で神と永遠に過ごすようになることは考えられません。また、獣はローマ教皇であり、『カトリックはローマ教皇を頂点とする組織であり、イエズス会はローマ教皇至上権を世界中に行き渡らせる実行部隊や。米国もカトリックやイエズス会に籠絡され、世界中を侵略及び内部から征服し、いずれ世界を統一してローマ教皇に世界を統治する権威を与えるであろう。(引用:キリスト道)』という存在で、その動向を警戒するべきです。
今はまだ大丈夫と高を括るのは間違いです。『ローマ教皇の秩序や各国の定める法律等に従う人間は、獣の刻印を押されます』の通り、世の制度が関係するからです。その一つとして、現在、世に当然のように普及している太陽暦は過去のローマ教皇の名がついたグレゴリオ暦(太陽暦)で、既に世は獣の影響下にあります。週の第一日の日曜日を週末とし、休日とするのは太陽神崇拝をしていた古代ローマ帝国とローマカトリック由来の考えです。カトリックやプロテスタントも「日曜礼拝」を特別視しており、彼らは反キリスト行為を行なっております。獣(ローマ教皇)はやがて新世界秩序の上に君臨します。それを踏まえて、今、既に行われ、築かれつつある世の仕組み・体制も含めて警戒するべきです。それらは既に獣の支配下にあります。
分かりやすい所で言えば新型コロナウイルスのmRNAワクチンです。『こちら(BitChute)のとおり、拙者が黙示録の獣とブログで論証したローマ教皇は、この極悪ワクチンを「愛の行為」として正当化し、促進してる…。おぞましい。せやから、mRNAは安全と言う人、問題無いと言う人は全員嘘つきであり、神に反逆する反キリストである。』とキリスト道でも言われている通り、ローマ教皇が推奨するからには理由があります。当然、悪しき意図です。神が作られた遺伝子を変えることは神への反逆です。また、医療機関も世の権威を盲信してコロナ犯罪に加担しており、挙句にはワクチン接種やコロナ病床等の補助金で利益を上げた所も多いようです。
引用:https://twitter.com/yukinanntekirai/status/1655229831850893313?s=20
他にも超監視管理社会の道具として用いられるであろう個人番号券には反対あるのみです。(獣の刻印がなければ)買うことも売ることもできなくなる(ヨハネの黙示録十三章十七節参照)仕組みの基盤として個人番号券制度が使われる可能性があります。医療保険証との一体化、預金口座との関連付けなど、徐々にその実態を露わにしております。個人情報が漏洩し、取得を強制される違憲な制度は無効とされるべきです。
上の図のように返納の動きに対して、政府を盲信する者は見当違いなことを言います。ここで『偽計業務妨害』と言っておりますが、こちら(弁護士法人 デイライト法律事務所)によると『偽計とは、人の勘違いや知らないことを利用したり、人を騙したりすること』とありますが、返納を勧めることのどこか偽計に当たるのか事実無根です。個人情報が漏洩したり、預金資産を行政に把握される事実があり、憲法十三条の私事権を侵害して有害であり、有害な制度故に有害さを周知して被害を最小限に抑えるために返納を勧めるのは当然です。個人番号券が無いとまともに働けないことを問題視もせずにいることも甚だ不可思議です。まるで政府の太鼓持ち( 人にへつらい、機嫌を取るのに懸命な者の意味「引用:スーパー大辞林」)かのようです。ヨハネの黙示録十四章九節に「その獣とその像を崇拝し、額または手にその刻印を受けるなら(参照)」という一文があります。この中の『崇拝(προσκυνέω)』には「媚びたり、しゃがんだりする」、比喩的に「敬意を表してひれ伏す」「崇拝する」の意味があるようです。「へつらう」となるのか「敬意を表してひれ伏す」のかは、その人の心の内とその対象によると思います。真の神を畏れ心から愛するなら本当の意味で「崇拝」と言えますが、世の権威であるならば「へつらう」であり「敬意を表してひれ伏す」に値せず、ただの「偶像崇拝」です。
引用:https://twitter.com/k74ntmig/status/1685180910650683392?s=20
また、上記の者は自称キリスト者のようですが『ワクチン、シェディング、ケムトレイル、5G、アドレノクロム、聖書のどこに書いてあるか知らんけど』と愚かなことを言っております。過去記事でも似たような発言をする者について触れたことがありますが、聖書に細々としたことがなぜ書かれていると考えるのでしょうか。少なくとも支配層は聖書に具体的に書かれたら、知られないために別な手段を取るでしょう。真の聖書福音と預言『黙示録十八章から分かる薬の危険性 前編』にて、『灯火の明かりもお前の中にはもはや決して輝かされへん。花婿や花嫁の声もお前の中には決して聞かれへん。なぜなら、お前の商人たちが地の権力者であったからであり、また、お前の魔術によってあらゆる国民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、そこで見出だされたからや。(ヨハネの黙示録 十八章二十三節から二十四節:記事より引用)』の聖句より、この中の地の権力者である『商人』が『大規模な海外取引商業を営む会社または商人(現代で言えば大企業、その経営者や会社の所有者たる大株主のこと)』を指し、更には『狂人』の意味もあることから大製薬会社のみならず世界を牛耳る大企業がそれに該当すると分かります。記事中にあるようにまさに『気違いの商人たち』です。そして、真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」にあるように薬は魔術であり、魔術師は地獄行きです(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)。ワクチンもさることながら、特に安易に「医者にかかる」ことが常識とされる中にあっては無自覚にこの罪に陥っている方が多いと思われます。
その他の事柄についても以下を参考にするべきです。
主イエスの終末預言は、「ノアの時代に起こったのと同じように、人の子の時もまたそのようであろう。」(ルカ十七章二十六節拙訳)とあるとおり、ノアの時代と同程度の堕落具合で、この地に住む人間たちが神の律法を無視して不法がはびこり、暴虐に満ちてることになる。今はその兆しがあるであろう。おもに、ならず者の欧州の白人たちが造った米国を中心として世界中の人々が調子に乗って神に逆らい、嘘をついて悪行を繰り返し、コロナワクチンによって人間の遺伝子組み換えまでも手を出すようになり、創世記六章にある時代と似たような過ちを繰り返してる。英米だけでなく、世界中で多くの人々が聖書を無視し、主イエス・キリストを無視し、神の律法、掟、戒めを無視し、罪を犯し続けて何とも思わへん状態にある。そして、支配層をはじめ各国政府、報道機関、大企業、警察等が嘘をつき、犯罪や暴虐の限りを尽くしてるが、益々悪化するであろう。奴らの傀儡の国連等の国際機関、各国政府、報道機関、大企業、医療機関、学校機関等をすべてを手中に収め、世界統一へと邁進し、報道機関や学校機関での大衆洗脳を実行し、ケムトレイルで空から重金属を撒いて大衆に呼吸によって吸わせたり、神経毒のフッ素を水道水に混ぜて大衆の体を弱らせて思考停止や抵抗するのに無気力にさせ、挙句はコロナワクチンで人々の遺伝子組み換えし、ナノボットやハイドロジェルを入れ、5Gや6Gといった強力な電磁波通信網に繋げて完全なる監視管理下に置こうとしてる。こないな悪行をする時代やさかい、獣の刻印を受けな売買等が出来へんようになる大艱難がこのコロナ茶番からのワクチン接種とその後に来る電子刺青を身分証明書として使たり、電子暗号通貨決済の媒体とする日が来るであろう。加えて、天変地異等の災害も戦争も起こるであろう。このように、この世の滅亡はノアの時代のように着々と近付いてる。
これらから十分に地が暴虐に満ちている(創世記六章十一節参照)ことが分かるはずです。
真相を無視することは肉体的・社会的に被害を受けることに繋がります。聖書から世の動向を読み解かなければ安易に世の悪に伏することになりかねず、獣の刻印の押印の条件を満たしてしまいます。聖書の言葉と世の動きを見極め、この状況下で神に従い通すために、どんな必要条件を満たさないといけないかをキリスト者はよく考えるべきです。
また、個人的にはここで聖書研究の重要性をひしひしと感じます。聖書研究をすることで神の言葉の一つ一つから字面以上の気付きが得られます。自ら実感して、見出だす過程を経験することで神の言葉に確信が持てます。もちろん、全てを自分で調べることは非常に厳しいです。しかし、ミカエル氏の優れた知見によって、聖書研究の成果をネットで無料で公開してもらっており、誰でもその恩恵にあずかることが出来ます。この貴重さをよくよく理解するべきです。聖書には死後の永遠を決める重要な事柄がたくさん書かれており、ただ漫然と受け取っただけでは体現出来ません。もし裁きの日にその重要性を初めて知ったのならば、全てを投げ打ってでも聖書研究に、神への従順に全てを費やすべきだったときっと後悔することでしょう。
キリスト者を自認する者も、信仰に導かれようとしている者も、不信仰者も、今、自分の振る舞いは、誰に、何を献げているかを自覚するべきです。神に従うか、悪(世)に従うかの二種類しかありません。中途半端は不信仰と同じです。
・この3年間で日本の大人たちがやってきたこととは、「公の精神で子どもの命(時間)を奪う」ということでした。
・当然、彼らは自らの行動に責任など生じないと考えており、社会に多大な影響力を以て広報していても、「仕事だから」「上の指示に従っただけだから」の免罪符で責任を回避していると思い込んでいます。
・責務とは「責任と義務。また、果たさなければならない務め」とあります。
彼らの無責任から、コロナワクチンで接種者が得られたものとは、
・不健康な体
・人生
・不安
・やりばのない怒り
・体調不良
接種することにメリットなどあったのでしょうか?
上記の著者は信仰は無いようですが、コロナ犯罪下においての世の人々の振る舞いをよく理解されていてると見受けます。そして、上記の構図は真理においても同様です。自称キリスト者の行っていることは、半端に世の悪について言及しても大枠では不信仰者と同じように世の偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋化、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を信じ、挙句にはこちら(ツイッター)のように旧約聖書の御父・預言者等の言葉、新約聖書の主イエス・直使徒等の言葉に反する、偽使徒パウロの律法廃止論を主張する者が大勢を占めております。彼らはおそらく、裁きの日に「そのように世の諸教会で教わったから」と責任を回避するかもしれません。しかし、御父・主イエスの言葉と彼らの主張を見比べれば矛盾だらけであることに直ぐに気付くはずで、検証もせず、矛盾を認識せず、矛盾を放置した結果として得られるのは、主イエスからの「不法を働く者どものことは知らない、出て行け(マタイによる福音書七章二十三節参照)」の言葉だけです。自分だけが滅ぶだけならまだしも、偽福音を吹聴したことで、それを信じて同じように滅ぶ大勢がいることも忘れてはなりません。真のキリスト者であるならば、この世の偽りを弾劾しつつ、真の聖書福音を宣べ伝えるべきです。
自分が一番言いたいことは「ウイルスは存在しないことを何故共有しないのか?」ここにつきます。
今回の「実験的mRNAワクチン」擬が、危険だという医療関係者は目につくようになりましたが、ウイルスそのものが存在証明も無く、純粋分離し、ゲノム解析した人も存在しない。
そこが一番の原点なので、そこを正確な事実確認もせずに物事が雰囲気と症状だけで誤認定して進んで来たのが現状です。
だからこんな馬鹿げた圧力によって大事な命が奪われていくんです。
引用:あかいひぐま(note)
引用:https://twitter.com/nobu_conscience/status/1679317100048048128?s=20
mRNAワクチンの危険性については一部週刊誌や一部テレビでも取り扱われるようになりましたがまだまだ少数です。mRNAワクチンの危険性を訴える医師もおりますがまだまだ少数です。何より、mRNAワクチンの危険を訴えても、引用にあるように、ウイルスは存在しないことを共有する医師等がほとんどおりません。これによって医療の大きな欺瞞の一つが解消されるにも拘らずです。キリスト道の本拠にて『「気候変動は巨大産業」、「温暖化に関わる仕事は宗教。賛同せえへんと異端者、異常者扱いされる。」』と気候変動詐欺について言及しておりますが、医療においても同様の構造(ウイルス詐欺)があると思われます。ウイルスが在るとの前提は巨大な利権であり、医師等もそれを真っ向から否定すると自らの食い扶持を失うことを意味するのだと思われます。しかし、上記引用にあるように『こんな馬鹿げた圧力によって大事な命が奪われて』いっております。このように世には偽りがはびこり、これを信じた者は黙示録にある「地の商人」に食い物にされます。また、彼らに従わない者は激しく迫害されております。世における彼らの権威など根拠の無い偽りであり、彼らに従うのではなく真の神に従うべきです。そのためにも、世の権威が偽りであることを人々に伝えて共有しなければなりません。これはコロナ犯罪に限った話ではなく、世の偽り全般に対してであり、聖書にある真の神を知らなければ、全てが欺瞞であると認識し得ないことです。
引用:https://www.bitchute.com/video/tcGwCAejybha/
また、『真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである』の動画で語られているように、日本は古代イスラエルを受け継ぐ国です。
しかし、英国が裏で糸を引いて、日本国内の朝鮮人脈による国家転覆(明治維新)があり、その時から今に至るまで政府中枢のみならず地方行政に至るまで彼らに乗っ取られ、彼らを介して日本は長らく英米の間接統治下にあります。 悪魔崇拝の英米支配層の目的は古代イスラエルを受け継ぐ日本の破壊であり、不可解と思われるほどの政府の失策(実際には意図的な悪策)は今でも続いております。政策のみならず、服装も、食事も、言葉遣いも、何もかもが西洋かぶれが進められ、古代イスラエルらしさ(真のキリスト者らしさ)を失っております。洋服は異邦人の服装なので、モーセの律法にある房を付けることができません。異国の服を着るすべての者を罰する(ゼファニヤ書一章八節参照)とあるように古代イスラエルの服装に近い和服を着ることが求められ、また、服をは行いに例えられ、悪い行い(律法違犯)をしないことの意味もあります(参照:真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編)。正しい行いができる性質には品性が伴い、また、異邦人の文化である西洋にかぶれず正しい日本語を使い、日本の文化を大切にすることが求められます。これら全てが神の目に適うことです。
「世の様々な事柄に対して弾劾しているがどのように整合性が取るのか」といった意見を目にしたことがあります。手前も以前、真理と世の動向がどう繋がるのか、たくさんの世の悪がそれぞれどう関連するのか、理解が追いつかない時がありました。結論的に、より悪い世を作ることに、より神の律法に違犯させることに、第二の死に向かわせることに、全てが繋がっております。この世を支配する悪しき者(悪魔と悪魔崇拝者の支配層)は、彼らが理想とする超監視管理社会(新世界秩序)を構築しようとしており、管理しやすいように人口削減をしております。それは暗黒社会であり、従わなければ(獣の刻印を押される)殺される社会です。また、中でも古代イスラエルを受け継ぐ日本を英米支配層は敵視しており、明治維新から今に至るまで徹底的に日本らしさを破壊している実態があります。この悪の世も主イエスの来臨と共に全ての悪が滅ぼされますが、重要なのは死後の永遠であり、世の悪に屈したことで第二の死が臨みます。より多くを滅ぼすことが悪魔の狙いです。何によって世の悪に屈したことになるか、聖書を通読してその定義を各々がしっかりと見出だすべきです。
我等の試しの舞台がこの地上の生涯であることを考えると、悪魔が支配者となっているこの世の動きを、聖書に依拠して見分けるのは当然のことです。真理を知れば、世の権威が、神から人間を引き離す画策しかしていないことがわかると思います。
結び
キリスト者の備えの第一段階は、キリスト者の始まりでもあり基本中の基本ですが、神を畏れて真の知識を持つことです。根本的な真理(三位一体の神、天地創造と終わりの裁き、神の律法・掟・戒め、悪魔等)を知り、それによって偽りの世の欺瞞を認識することです。この地上の生涯は神に従うか、悪魔に従うかの二者択一の結果しかない戦いです。この前提に立ち、武装して悪魔を退け、神に従い通すことです。特に、今は世の終わりに差し掛かり、ヨハネの黙示録にあるように悪魔及び悪魔崇拝者らの攻撃は熾烈を極めます。
アモス書四章十二節(私訳)
それ故に、イスラエルよ、結果、我はお前にこのようにする。我はお前にこのようにするからである。お前の神に会うために準備せよ、イスラエル。
『このようにする』とは、神への不従順のために民に神からの災いが臨むことです(アモス書四章六節から十一節参照)。だから、神を求めて生きるように(アモス書五章四節、六節参照)と後節に書かれております。また、『הִכּוֹן(準備せよ)』の原語には「完全に真っ直ぐ」「誠実」「忠実」「信心深さ」の意味もあり、言葉自体が言わんとすることを雄弁に語っております。
アモス書五章十四節から十五節(私訳)
お前たちは、悪ではなく善を求めよ。お前たちが生きるために。そのために、お前たちが言ったように、軍勢の神である主がお前たちと共に居てくださるように。悪を憎め、善を愛せよ。門で正義を確立せよ。おそらく軍勢の神である主がヨセフの残りの者を憐んでくださるだろう。
また、上記のように「悪ではなく善を求めよ」「悪を憎め、善を愛せよ」もまた、『準備せよ』に含まれ得る事柄だと思います。
先に挙げたペトロの手紙一 四章一節にある『あんた方もまた同じ考えを準備しなはれ』の中の『準備(ὁπλίζω)』には「備え」「準備」「武装」の意味がありました。それは最終的に主イエスに倣い、罪に打ち勝ち、命の栄冠に至るためです。そして、アモス書四章十二節でも「お前の神と会うために準備せよ」と言われて、完全に真っ直ぐであることを求めておられます。聖書はこのように一準備することについて教えております。
全ての人が招かれ、救われるわけではありません。だから聞く耳のある者に届くことを切に願います。聖書に書かれている預言は必ず実現します。だから、キリスト者として準備(必ず起こることや必要なことに対して用意する)をしていきましょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。












